機関区の撮影許可を経て、隣接した瀬野駅向きに撮影した、山陽本線の上り夜行急行「あそ・くにさき」の後部補機EF59 4です。当時夜行列車や機関区がなくなるとは思ってもいませんでした。本務機はEF58だったと思います。でもいまだに貨物列車は後部補機が付きますから、西の箱根健在ですね。 '79.3.25 瀬野機関区 P:綿崎真澄
山陽本線の最近の記事
ナハネフ23を最後尾に、季節列車の臨時「あさかぜ51号」は、まもなく終点の下関に到着します。 '78.3.21 山陽本線 幡生ー下関 P:小林慎治
兄に連れられた行った加古川。ここでC59やD52を撮ったネガの中にとんでもない写真があった。本線を走行の定期列車の罐の前部に二人の乗務員が写っていた。 '58.4 山陽本線 加古川 P:小西 明
庫内で検査を受けるのC59 162号機。キャブの窓が増設されているのがこの機の特徴。 '69.3 山陽本線 糸崎機関区 P:清原正明
80系湘南電車の最晩年は、広島と下関間のローカル列車として使用され、1978年にその生涯を閉じました。 '78.4.30 山陽本線 埴生ー小月 P:小林慎治
撮影から39年という時間が経過しましたが、このフイルムは当時の感動を伝えてくれます。私の渾身の一枚です。本務機はEF66 3でした。今でも同じ場所で撮影可能です。 '78.11.3 山陽本線 瀬野ー八本松 P:綿崎真澄
低い春の日差しを受け「はやぶさ」は西鹿児島を目指します。 '81.3.21 山陽本線 長府―新下関 P:小林慎治
古風なトンネルから顔を出した153系の急行「山陽」。翌月10日の新幹線博多開業で、山陽本線の昼行特急や急行列車は姿を消しました。 '75.2 山陽本線 笠岡 P:清原正明
小郡機関区で屋外に置かれたC62 1に偶然遭遇しました。すでに廃車となっていましたが朝日に輝く巨体は現役時代の美しさを失っておらず夢中でシャッターを押しました。 '72.10.8 小郡機関区 P:末近義治
一枚の写真に3種類の車輌を取り込んでみた。特急「明星」と急行「但」馬、もう一つは...? 左の影はDD54 12号機のタブレットキャッチャーです。 '77.7.24 姫路 P:野々村康久
呉線電化開業も迫った頃、構内で蒸機を撮影していると、職員さんが事務所にあったヘッドマークを取り付けてくれました。C62 37号機は岡山に新製配置されるも、1年足らずで水戸に転じて常磐線方面で長く過ごし、呉線での3年間が最後の活躍となりました。実際に「あさかぜ」を牽引したことはありませんが、全盛期を彷彿させる姿に喜んだことを憶えています。 '70.9 広島運転所(蟹屋派出) P:清原正明
兵庫の川崎重工で製造された115系3000番代は、鷹取―大久保、大久保―高槻間で公式試運転を行い、その後自力で広島まで回送された。当時、国鉄向けの電車は試運転後自力回送する事があったと記憶している。 '82.10.8 山陽本線 須磨-塩屋 P:田中敏一
早春の夕暮れ、「つばめ6号」が山陽路を行く。まもなく終着・岡山、西鹿児島からの長旅は間もなく終わろうとしている。 '75.3.5 山陽本線 鴨方-金光 P:三宅昭和
帰阪する優等列車ばかりに気をとられがちだった、朝の須磨海岸。"無名戦士"とも言える列車の活躍にも、なかなかのものがありました。 '80.7 山陽本線 塩屋-須磨 P:芝地寛之
有名な大カーブに続く瀬野西トンネルを抜け、上り「はと2号」が勾配をってきた。上り線トンネルににはまだうっすらと蒸機の煤が残っていた。 '75.3.2 山陽本線 瀬野―八本松 P:三宅昭和
旧上瀬野信号場付近を行く長崎・佐世保行き「かもめ」。堂々、13輌編成のキハ80系は電車の行き交う瀬野八越えでは異色だった。 '75.3.2 山陽本線 八本松ー瀬野 P:熊谷 茂
荷物列車の補機を務めたEF59 24がちょっと一服。その脇を「みどり」が通過する。 '75.3.9 山陽本線 八本松 P:冨田一正
小倉駅で筑豊本線経由佐世保編成2004Dの到着を待つ長崎編成の4D特急「かもめ」。併結後は架線の下を快走するが終点京都到着は22時25分であった。 '69.12.21 鹿児島本線 小倉 P:鈴木博之
国鉄岡山気動車区の奥まった一角に古い煉瓦建て機関庫があった。津山線と吉備線の前身である旧中国鉄道岡山市機関庫。1944(昭和19)年国有化。岡山機関区とは岡山駅をはさみ反対東側に機関支区として生き残っていた。今の岡山市北区国体町JR西日本岡山支社機械区のあたりか。妻面の採光窓や優雅な破風が国鉄の代表的な3線式機関庫と異なる。19世紀の建築か。昔撮った写真も、今調べてみると面白い。 '71.11.23 山陽本線 岡山 P:深井浩一
広島区のEF58 17の牽引で岡山7番ホームに到着した熊本行き209レ急行「天草」。客車から漏れるスチームが旅情をさそう。EF58 17は前面窓下の手すりと踏板がなく、屋根昇降用手すり部分の車体欠き取りも未施工の美しいEF58の一輌。50.3の時点では13・14・15・84・85が同様の形態だった。 山陽本線 岡山 '75.2.2 P:山下修司
EF59の補機を従えたEF58 5牽引荷34レがセノハチの急勾配を登ってきた。鉄道が物流の主力だった時代には多くの荷物列車が運転されていた。 '74.10.5 山陽本線 瀬野-八本松 P:鈴木博之
トップナンバーは、いつでも特別な存在です。 '81.2.8 山陽本線 下関 P:小林慎治
「阿蘇・くにさき」が、夜明け前の下関駅に到着。窓際に残された"ダルマ"の空瓶が、宴(たび)の終わりを告げていました。 '80.9.28 山陽本線 下関 P:小林慎治
呉線電化も間近に迫った頃、広島駅で見られたD51。右手、芸備線のキハ20系が停まっている向こう側(北口方面)、当時は客車の留置線があった。1975年春の新幹線延伸に伴い、北口は新幹線駅として整備され、見通せなくなった。左手の駅ビルは1960年代後半に建てられ、現在に至っている。 '70.9 広島 P:清原正明
ED203号機 鷹取で見た謎の台枠。誠文堂の電気機関車ガイドブック('71)と沖田祐作氏(機関車表)で判明。43年目の決着でした。楽しかった! '72.11.21 国鉄鷹取工場 P:深井浩一
新幹線の博多開業以来、大阪以西に485系が入ることはなくなったが、神戸ポートピアの開催で「雷鳥」が神戸まで延長運転された。変化を求めて明石天文科学館をバックに回送列車を撮影してみた。 '81.7.1 朝霧-明石 P:田中敏一
時刻表に掲載されていたので、撮影予定が組みやすかったです。 '81.3.21 山陽本線 長府-新下関 P:小林慎治
長旅の疲れを癒すEF58 128号機。前面窓がHゴム支持化される前の姿。EF15、EH10、EF60、EF65若番機などが見える。 '76.5 岡山機関区 P:清原正明
予期せぬ時にまれに現れる「団結号」も、国鉄時代の懐かしい思い出です。 '78.4.23 山陽本線 長府-新下関 P:小林慎治
ナハネフ22を最後尾に従えた20系の編成は、とても優雅で美しい。 山陽本線 長府 '77.8.21 P:小林慎治
EF66 27復活のニュースに驚きました。で、40年前に撮った一枚。27が一人(単機)で山陽路を下る姿、頭には帽子は載せていません。 '75.8 山陽本線 土山ー東加古川 P:芝地寛之
中学に上がり、親父から借りたカメラを抱えて、初めて一人で鉄道写真を撮りに出かけた時の、記念すべき初ショットです。 '77.5.12 山陽本線 下関 P:小林慎治
20系「あさかぜ1号」博多行きの最後尾は、機関車付替中の先頭部に比べて、ひっそりとしていました。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
現在は大きく変貌しこの立ち位置は姫路貨物駅となっているが、以前は田園が広がっていた。"サロンカーなにわ"を撮りに行ったら、農作業に行くおばさんが「何が来るの?」話かけてきた。 '86.8 御着-曽根 P:野々村康久
津山線上り貨物を牽くC11 251は岡山駅で小休止。その間、隣の7番線に新大阪行き特急「しおじ2号」がすべりこんできた。貴重な出会いの一瞬だった。 '70.6.7 岡山 P:濱田俊彦
夏休み、14系座席車の「雲仙・西海」で関西に行きました。ガラガラの指定席で、カレチの白い制服がとても眩しく思えました。 '80.8.2 小郡付近 P:小林慎治
夏休みの一日、道場駅から武田尾方にむかって歩いた。途中の武庫川橋梁に現れたのは DD54。颯爽と駆抜ける姿は、美しかった。 '74.8.5 武田尾-道場(旧線) P:濱田俊彦
幡生工場の塀の中に、解体を待つ80系の"最後"の姿が...。 '78.4.23 幡生駅付近 P:小林慎治
正月、父に頼んで勤務先について行った。目的は大好きなカマを撮ること。機関室は温かかった。大きなエンジンとSGがあった。緊張しながら憧れの運転席に座ってみた。機関車も機関区も記憶と記録の中でしかない。 '78.1.2 姫路第一機関区 P:野々村康久
晩秋の穏やかな瀬戸内海を横に見て、須磨の海岸を行く旧型国電。103系が配属されたとはいえ、まだまだ元気な姿を見せていた。 '71.11.28 須磨ー塩屋 P:田中敏一
鉄道の名所、須磨で下り583系「しおじ」と上りEF58牽引の20系寝台特急との一瞬の出会い。かっての山陽本線の華やかな時期の光景です。 '74.5.2 須磨ー塩屋 P:中川弘一
乗客の記念撮影に応じる職員さん。機関車付け替え中の、4分間の"ひとコマ"です。 '78.5.3 下関 P:小林慎治
初夏と秋、恒例の集約臨。EF58から117系に代わっても道中の楽しみは変わらない。私の学生の頃は奈良からのD51が楽しみだったのが、DD51に置き換わりがっかり。 '79.6.19 宝殿ー加古川 P:筒井敦己
山陽本線で有名なセノハチを訪れた時、電化はすでに広島まで進んでいた。しかし、D52の貨物はまだ健在でキハ82系の「かもめ」とすれ違う豪快な姿も見られた。 '64.3.10 瀬野-八本松 P:中島正樹
下関では見かけない「スカ色」の70系が、近所の細江貨物ヤード内に留置されていました。たぶん、幡生工場での解体待ちだったのでしょう...。 '79.3.3 下関 P:小林慎治
操車場が見渡せるお気に入りの場所で、今日は「キユニ19 1」を発見! '79.9.23 幡生操車場 P:小林慎治
近所にある幡生工場は、小学校の社会科見学等で、何回か訪問しました。中学生になってからは、カメラ片手に、柵の外をウロウロしていました。 '79.9.24 国鉄幡生工場 P:小林慎治
C57 5+C57 39重連で走ったイベント列車。到着ホームは乗客や撮影の人で超満員のため向かい側ホームから撮影。80系電車も時代を感じさせる。 '71.6.6 姫路 P:鈴木博之
「クモニ」の面構えは、東京の"国電"みたいで、ちょっと気になる存在でした。 '78.10.1 下関 P:小林慎治
京都行の各停を撮った後しばらくして貨物がやってきた。電化はしているが、貨物の牽引はD52が主力。そんな中にあって、時折D62がやってくる。懐かしい昭和の風景。D62 17〔吹一〕 須磨-塩屋 '58.8 P:小西 明
「あかつき」「彗星」「明星」? やっぱりヘッドマークが欲しかった。 '80.7 須磨-塩屋 P:芝地寛之
中学生当時、大学ノートに写真を貼って"My Album"を作っていました。この写真は、「80系460M 夕方の帰宅客で混んでいた」と、書き込んでいました。 '77.11.22 下関 P:小林慎治
EH10と共通運用だった頃は、EF66がやって来てもほとんど撮影しませんでした。昨今、0番代人気がきっかけとなり30年振りに鉄道写真撮影に復帰するとは、思いませんでした。 '79.6.30 加古川ー宝殿 P :筒井敦己
晩年の153系は、本州の西端で、普通列車で余生を送っていました。 '81.3.21 新下関ー長府 P:小林慎治
山陽本線の車窓から見た井笠鉄道の車輌です。この井笠鉄道は翌年の春に廃止となりました。 '70.12.26 笠岡 P:古村 誠
夏の陽ざしに黒光りする巨体。長々と貨車を連ね、貨物輸送の先頭に立つ。電化工事は完了し、本線蒸機活躍の終焉間近。機:D52 68 '64.7.28 下松-光 P:青木一郎
下関機関区撮影に行った時、下関駅で待機している電源車サヤ420に会いました。東海道新幹線開業より1年間、新大阪-博多間は直流151系「つばめ」「はと」で運行されていて、下関駅よりED73と電源車としてサヤ420形が接続されていました。 '65.7.11 P:今澤勝美
DD54を撮影するため姫路で播但線に乗り換える時7番ホームに見慣れない車輌が停車していたので1枚だけ撮影しました。初期型と分かったのは54が引退してからでした。 '77.5 姫路 P: 筒井敦己
みんなのアンコールに3回も演奏してくれました。百恵ちゃんの「いい日旅立ち」を聞くと思い出します。 '78.12.27 糸崎 P:筒井敦己
この年はリバイバル列車が多く運転された年でした。「うずしお」もその一つ。このとき初めて元町カーブを訪れました。 '83.7.31 神戸-元町 P:平井ヨシフミ
下り「みずほ」が、対岸の門司に向け、下関駅を出発します。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
山陽線・宇野線・赤穂線などで運行されていた岡山区の80系電車は、撮影した翌年、113系などに置き換えられました。隣のホームに停まっている荷物・郵便列車共々、懐かしい風景です。 '77.9 岡山 P:清原正明
下関に「コンビニ」なんて言葉もなかった頃、幡生操車場は24時間年中無休で営業していました。 '80.8.1 幡生操車場 P: 小林慎治
山陰本線西の起点、幡生駅は、山陽本線上下線に挟まれた、中央部分が山陰本線用のホームです。駅を横断するトラスビームも、ここだけは、架線は吊架されていません。 '78.3.21 幡生 P:小林慎治
シティライナーの展示会。記念スタンプの行列が切れて、駅員さんも一休み。 '79.10.14 姫路駅東1番ホーム P: 筒井敦己
西明石ー岡山間に1往復残っていた80系の最終日、435Mを撮り始めてから一度も同業者を見る事がなかったのが不思議でした。 '78.10 加古川ー宝殿 P:筒井敦己
前年に続きセノハチは2度目の訪問だった。すでに電化されてしまい、補機は大半がEF59に置き換わっていたが、まだD52の出番もあり、昔ながらの連結風景が見られた。 '64.3.10 山陽本線 瀬野 P:中島正樹
関門トンネルの水先案内人EF30が、上り貨物を牽いて、地上に出てきました。 '79.5.19 門司〜下関(関門トンネル上り出口) P:小林慎治
上り荷物列車が、下関駅に到着しました。拡大したら「大荷5」のサボが読み取れました。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
PFって、やっぱり「貨物顔」だよなぁ...と、思いながら、シャッターを切りました。 '81.3.21 長府-新下関 P:小林慎治
あのC62が走る! 当時よく読んでいた「汽車と私」に出てくる2号機が! 早起きして加古川橋梁に行くと誰もいないのと、あっという間に通り過ぎて拍子抜けたのを覚えている。 '72.11.15 加古川-宝殿 P: 筒井敦己
中学3年、広島へ初めての一人旅。早朝目覚めた直後、眼に飛び込んできたのは、初めて見るEH10 1、感激! '68.8.1 P:中浦秀和
1975年3月10日の新幹線博多延伸まで、岡山駅では特急の折り返し運用に備え、愛称板変更の作業が行なわれていました。 '75.2 岡山 P:清原正明
山陽本線全線電化は目前だったが、小郡はまだ蒸機の天下。小郡駅の先で朝の下り列車を撮っていると、発車した下りD52貨物と上り貨物が目前ですれ違った。ナンバーを見ると偶然続きのようだ。 '63.12.20 小郡 P:中島正樹
「みずほ」の先頭にたつ「EF30」と、次の仕業を待つ「EF81」。下関駅では、いつもステンレスのコルゲートを観ることができました。 '80.6.22 下関 P:小林慎治
特急色のPFが牽引する"普通の貨物"。 シャッターを押すのも躊躇する、ありふれた山陽本線の風景でした。 '78.4.23 山陽本線 新下関-長府 P:小林慎治
「第一宮島」をEF61が押し上げる。電車側の密連と電機側の自連のために介在する湘南色のオヤ35。線路に沿った国道2号の交通量も少なそう。 広島発東京行2102M '64.7.29 瀬野-八本松 P:青木一郎
EF59の後押しに助けられ、八本松への急勾配を上り始める。朝の瀬野川の涼風を窓から入れて山あいに向かう12輌の先頭はEF58。並行する道は国道2号。車も少なく遠くに1台見えるだけ。西鹿児島発大阪行2202列車。 '64.7.29 瀬野-八本松 P:青木一郎
ブルトレブームの頃の、休日朝の下関駅です。後ろを通過する35系にはカメラを向けることなく、野球帽や半ズボンの少年たち(現在はアラフォー親父?!)は、お目当てのヘッドマークを待っていました。 '80.4.20 山陽本線 下関 P:小林慎治
伯備線の無煙化を翌年3月に控えた岡山操車場の夕方の1コマ。15時52分3979レ発車の5分後に5391レが連続で発車、中学3年生の私は毎日のように自転車でその時間帯に駆けつけていました。 '72.12.20 岡山操車場 P:光野 博
特急「はと5号」を降りて足早に地下道をくぐり、山陰本線最終の848列車に乗り換える。そんなお客さんがきっといただろうな、あの頃の駅、あの頃の旅...。 '74.3.25 下関 P:井芝七路
直流区間もあと少しとなった、博多行き「金星」の車内では、寝台の解体作業も終わり、ボックスシートに、春の朝日が差し込んでいることでしょう。 '81.3.21 長府─新下関 P:小林慎治
神戸へ出る折利用しているJR。須磨海岸を通過のたびに当時のことが思い出される。今は空地となっている下り線と海岸との間に、邸宅などの建物が存在し夏になると海の家の看板などがあった。窓を全開の京都行普通電車。クモハ54系 '58.8 須磨-塩屋 P:小西 明
EF61が押す鮮魚特急貨物、釣りの世界なら外道と言われそうだが今見ると貴重な一枚になった。 '83.3 瀬野-八本松 P:服部基寛
オハ31 2の車内で、通勤電車のような長い長いロングシートと客車には珍しいスタンションポール(掴み柱)、吊革付です。レイルファンのダジャレ...、
Q「この掴み柱がないいと列車はどうなる?」
A「柱ない(走らない)」
和田岬線兵庫 '67.4.21 P:坂内定比古
乗り降りが大変だったので片側(駅は2か所だけで起点も終点もプラットホームはこちら側だけでした)だけ車体の中央に扉が取り付けられていました。オハ64の後釜は片側の扉を閉鎖してしまったキハ35とキクハ35でした。そして今は電化され207系の通勤電車が走っています。最近では昔のような殺人的混雑がなくなり、座席定員程度の乗客数のようです。 '69.10.25 和田岬線 兵庫 P:坂内定比古
新車を満載したク5000の編成が、EF60に牽引されて、目の前を通過して行きます。 '81.3.21 長府-新下関 P:小林慎治
山陽本線の電化が広島までだった頃の広島機関区。車庫には本線用C59やD52等の大型機がごろごろ顔を出していた。ただ残念ながら撮影技術が悪く、それらを表現し切れていない。 '63.2.22 広島機関区 P:中島正樹
小雨けぶる早朝のセノハチを登るEF61牽引荷レ。前後を走るゴハチは、現車10輌で補機付でしたが、このロクイチは11輌でも補機なしでした。 '79.10.28 瀬野-八本松 P:中司純一
下関駅でD51を待っていると、九州からの列車を牽いて来たEF30がD51にバトンを渡してクラへと戻って行った。初めて見るEF30は、とてもきれいで思わずレンズを向けた。 '74.3.21 下関 P:古澤成博
下関駅を16時台に出発する、上り「あさかぜ2号」は、まだ日の高い初秋の山陽路を、子供たちに見送られながら、駆け抜けて行きました。 '79.9.15 新下関〜長府 P:小林慎治
初めてのボーナスで買ったミノルタSRT101を持って姫路へ 始めて原型三枚窓の80系をみる。 '71.8 姫路 P:清水 健
堂々12連の583系寝台特急「彗星」。一時期ハネ2輌をハザとして営業していた。いつも空いており、座席を引き出してゴロントシートもどき?として利用した記憶がある。 '78.5 塩屋-須磨 P:藤田高士
JR西日本のプレスリリースで、山陽本線「長府駅」の橋上駅舎が完成したことを知りました。もう30年以上訪れていない、ふるさとの駅の跨線橋や、その下を通過する単行のEF60など、遠い記憶となりました。 '78.2.5 長府 P:小林慎治
下りブルトレを牽引するため、上り仕業後に回送されてきた、関門トンネルの水先案内人EF81+EF30×2です。この3輌は、「みずほ」「富士」「あさかぜ1号」の順で、九州に向かって、下関駅4番線を出発して行きました。 '78.11.5 下関 P:小林慎治
中学生の頃、父のオリンパスペン(ハーフ)を借りて撮影しました。連結器まわりのにぎやかさが印象に残っています。日付はわかりませんが、ノートに「あかつき7」と書かれています。 '72春 三宮 P:坂下考伸
新幹線博多延伸を1か月後に控えた山陽路。セノハチを上る「はと」と、四重連で下る回送補機との会合シーンは定点撮影の合成です。でもこの二者は、この先の瀬野寄りで実際にすれ違っていたはずです。 '75.2.8 瀬野-八本松 P:長谷川武利
高校1年の春に、初めて望遠レンズ(といっても135mmですが)を買いました。標準とは違う迫力に感激しながら、シャッターを押しました。 '81.3.21 長府〜新下関 P:小林慎治
架線は張られているもまだ電化前。大型機が活躍する場面に会うことが出来た思い出の高一の夏休み。大阪発八代行。233列車。機:C59 119。 '64.7.28 光─下松 P:青木一郎
C61 2号機牽引の「白鷺号」が姫路まで山陽本線を走行し、沿線には多くのファンで賑わいました。私にとって、C61 2は奥羽本線で撮影して以来の出会いで懐かしく思いました。 '74.5.2 須磨-塩屋 P:中川弘一
当時セノハチの補機EF59は瀬野駅で連結していたので、ホームから多くのFE59の姿を見ることができた。隣ホームではEF59 18+EF59 1のペアが発車を待っていた。 '74.10.5 瀬野 P:鈴木博之
東京発、下りブルートレインは、1レ 「さくら」を皮切りに、次々と駆け抜けて行きました。 '78.11.6 新下関-幡生 P:小林慎治
この日は、須磨から塩屋へと移動しながら撮影していた。その中の一枚。貨物列車はD52もしくはD62が牽引に当たっていた。D62 10〔吹ー〕 '58.5 塩屋付近 P:小西 明
EF58が牽引する臨時特急「あかつき51号」です。2ユニット・12輌編成の、14系オール座席の「ブルートレイン」は、繁忙期になると、山陽路を駆け抜けました。 '78.8.13
幡生-下関 P:小林慎治
関門トンネルの下関側出口で、友人O君とカメラを構えました。奮発して買った36枚撮トライ-Xには、新鋭機EF81 303とO君が、当時のまま記録されています。 '79.5.19 門司〜下関 P:小林慎治
電化はしていたが普通列車、優等列車は蒸気機関車が牽引していた。C59やC62がひっきりなしにやって来た。C62 35〔梅〕 273レ '58.2 垂水-舞子 P:小西 明
朝から引越しの荷造りも済み、一段落したところで2年間住んだ官舎を記念にと思い撮影した一枚。人通りのない簡易舗装の道端に立つ街灯、板塀。ちょうど、クハ55形(?)の普通電車が出て行くところだった。 '58.3.30 新長田駅 P:小西 明
EF58からEF30に付け替えられた団臨「お座席列車」は、雨脚が急に激しくなった中、見送る人もなく、静かに下関駅を発車しました。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
大学受験も一段落して、静かな春休みを過ごしていました。お昼前のこの時間、唯一の楽しみは鮮魚列車5050レでした。ただ、来るか来ないかはその日の運次第というファジィなところが逆に撮っておこうという気持ちにさせてくれたのかもしれません。写真はEF61 201の補機つき列車を元鉄道学園前踏切で後うちしたものです。 '79.3.6 向洋-海田市 P:綿崎真澄
20系ブルートレイン「富士」はEF60 503に牽引されて朝に広島駅に到着、出発していったた。その横で呉線で活躍しているC62が見送る。 '65.5.4 広島 P:中川弘一
重連のEF30に牽引された、20系の下り「あさかぜ1号」が、下関駅を発車しました。その前方には、同じくEF30が牽引する上り普通列車が写っています。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
セノハチの勾配区間を行く1016M「つばめ4号」。直前まで瀬野西トンネル上から撮影していたが、線路の下の家を画面に入れないように下りて撮影した。 '74.10.5 瀬野-八本松 P:鈴木博之
「あさかぜ」の最盛期は、上り下りとも、1号から3号までありました。下関発着の"東京ブルートレイン"は、関っ子の私にとって、あこがれの夢列車でした。 '78.4.23 新下関-幡生 P:小林慎治
下関駅3・4番線ホームの、関門トンネル側端には、短い引き込み線があり、そこは、湘南色「クモニ83」の指定席でした。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
有名な撮影地ですが、海を大きく入れて撮るのは難しい場所です。この写真は仕事の関係で一般の人が立ち入れない場所から撮ったものです。仕事関係の機械や景色の中に埋もれていた一枚です。一般の人が入れない場所なので永らく封印していましたが、その施設も撤去されてしまったので、投稿しました。 '78.9.26 塩屋-須磨 P:山口龍次
兄がカメラを買って間もない時、私を連れて須磨海岸にやってきた。電化はしていたものの、まだ蒸気機関車の牽く優等列車が走っていた。兄がセットしてくれて、私はシャッターを押しただけの一枚である。京都9時10分発、博多行 5レ「かもめ」 機:C59 190〔梅〕 '58.5 須磨─塩屋間 P:小西 明
山陽新幹線博多開業直前、高校の春休みを利用して撮影旅行に行きました。東京から急行「桜島・高千穂」に乗って西に向かったのもいい思い出です。 埴生-厚狭 '75.3.7 P:吉川 明