機関区の撮影許可を経て、隣接した瀬野駅向きに撮影した、山陽本線の上り夜行急行「あそ・くにさき」の後部補機EF59 4です。当時夜行列車や機関区がなくなるとは思ってもいませんでした。本務機はEF58だったと思います。でもいまだに貨物列車は後部補機が付きますから、西の箱根健在ですね。 '79.3.25 瀬野機関区 P:綿崎真澄
山陽各線の最近の記事
異なる形式を織り交ぜた6輌編成の普通列車が眼下を行く。この時代の普通列車は長編成により空席が多く、好みの車輌や位置を選ぶことができ、いわゆる「鈍行列車」の旅も私は今より好きだった。 '83.3.21 山口線 船平山−津和野 P:田中一弘
ナハネフ23を最後尾に、季節列車の臨時「あさかぜ51号」は、まもなく終点の下関に到着します。 '78.3.21 山陽本線 幡生ー下関 P:小林慎治
キハ47を先頭にした4輌編成の新見行普通列車。キハ20、26、35と雑多な編成は国鉄型気動車の魅力でもあった。最後部のキハ35はキユニの代用。 '81.11 芸備線 備後庄原付近 P:清原正明
兄に連れられた行った加古川。ここでC59やD52を撮ったネガの中にとんでもない写真があった。本線を走行の定期列車の罐の前部に二人の乗務員が写っていた。 '58.4 山陽本線 加古川 P:小西 明
最後の仕業となった三江南線マヤ臨牽引を終え転車台に乗る48650号機。その後同機は三次市内に保存され、転車台は東武鉄道鬼怒川温泉駅に移設された。 '70.12 芸備線 三次(芸備線管理所) P:清原正明
庫内で検査を受けるのC59 162号機。キャブの窓が増設されているのがこの機の特徴。 '69.3 山陽本線 糸崎機関区 P:清原正明
生山駅を発車したC58牽引米子行き下り列車。この後路線は日本海側の伯耆大山に出るまでずっと日野川沿いを走り、下り勾配が続く。 '64.3.8 伯備線 生山 P:中島正樹
夏休み最後の日、弟と二人で和田山へ来た。事務所を訪ね許可をもらい煉瓦庫に入ると、油の匂いの中にDD54がいた。あれから40年。二人の少年たちは、共に五十歳を超えた。 '77.8.31 和田山機関支区 P:野々村康久
80系湘南電車の最晩年は、広島と下関間のローカル列車として使用され、1978年にその生涯を閉じました。 '78.4.30 山陽本線 埴生ー小月 P:小林慎治
伯備線にD51お召列車が走るとあって、遠路から多くのファンが集まっていた。米子機関区はファンに開放され、運転直前の緊迫した準備作業をつぶさに見ることが出来た。 '71.4.21 伯備線 米子機関区 P:中島正樹
車内から急行の通過待ちを撮った一枚。非冷房のキハ58前面ガラスに映るDD54など...、40年目に新たな発見があった。急行「但馬1号」と631レの交換と思われる。 播但線 溝口 '77.2.24 P:野々村康久
乗客も疎らな日曜日のホームに、列車が到着しました。 '81.2.8 宇部線 上嘉川 P:小林慎治
夏至の前後は特急「瀬戸」の走行写真が撮影できるが、始発普通列車の前なので、母に車で八浜のカーブまで連れいいってもらった。ここは、線路が東に向くポイントで編成は順光となる。梅雨の晴れ間の朝日が田園を染める中、定刻どおり「瀬戸」はEF65 512に牽引され姿を現した。背景は常山。 宇野線 常山−八浜 1976.6.20 P:山下修司
無煙化を1か月後に控えた夕方の加計行521レ(C11 329)。この区間、一旦廃止され2017年3月に電化復活で227系が走るとは、予想だにしませんでした。 '71.2.28 可部線 可部 P:田中 文
撮影から39年という時間が経過しましたが、このフイルムは当時の感動を伝えてくれます。私の渾身の一枚です。本務機はEF66 3でした。今でも同じ場所で撮影可能です。 '78.11.3 山陽本線 瀬野ー八本松 P:綿崎真澄
陰陽連絡列車として長年走り続けた急行「ちどり」。この日は3輌運転で、手前のキハ55は指定席、中間のキロ28がグリーン指定席、キハ58(非冷房)が自由席です。 '71.1 芸備線 備後庄原 P:清原正明
昼間に呉線沿線で撮影後、夜間に広島機関区を訪れました。漆黒の闇の中にC59 162が機関区の照明を受けて輝いていました。左横には新鋭のEF58が待機しています。 呉線 広島運転所 '69.9 P:中川弘一
低い春の日差しを受け「はやぶさ」は西鹿児島を目指します。 '81.3.21 山陽本線 長府―新下関 P:小林慎治
小雪の舞う日暮れ時、轟音と共にC58がやって来た。線路脇に置かれているのは、開業時から使用していたと思われる1933年製造の短尺レール。 '71.2.23 芸備線 高〜備後庄原 P:清原正明
広島〜新見間を直通運転されていた822レは三次で機関車交換、三次〜新見間は新見区のC58が牽引する。新見区のC58は集煙装置を装備して山岳路線向けの仕様であったが、中でもC58 175号機は後藤デフ装備が特徴的だった。 '70.11 備後庄原付近 P:清原正明
古風なトンネルから顔を出した153系の急行「山陽」。翌月10日の新幹線博多開業で、山陽本線の昼行特急や急行列車は姿を消しました。 '75.2 山陽本線 笠岡 P:清原正明
土地勘のないまま初めて立ち寄った山口線。ラッキーなことにやって来たのはD60のトップナンバー。ただ、この時の写真はフィルム現像の失敗で悲惨な目にあった。 '64.3.15 山口線 仁保 P:中島正樹
急行「安芸」さよなら列車で糸崎駅に集まった人の中には撮影せずに見るだけの人も多かった。手前の坊やは今でもこの時のことを覚えているだろうか。 '70.9.30 糸崎 P:鈴木博之
小郡機関区で屋外に置かれたC62 1に偶然遭遇しました。すでに廃車となっていましたが朝日に輝く巨体は現役時代の美しさを失っておらず夢中でシャッターを押しました。 '72.10.8 小郡機関区 P:末近義治
偶然に見つけた尾上駅。山陽電車の下をくぐりカーブしたホームには木の電柱。この日が最初で最後の訪問でした。 '79.6 高砂線 尾上 P:野々村康久
972年3月の新幹線岡山開業から約1年、岡山区ではD51と0系の邂逅があった。しかし当時営業区間でない広島より岡山新幹線運転所への回送は僅少。その機会は少なかった。扇庫は新幹線のため撤去済。扇線D51鼻先の車止めが寂しい。未来のなくなったSLと未来へゆっくり回送の新幹線対比が面白くモノクロでカラーで35mmに中判と撮影を楽しんだ。今や被写体もカメラも博物館入りである。 '72.8.3 岡山機関区 P:深井浩一
小6の夏休み、急行「安芸」の峠越えを撮りたい一心で安芸川尻の駅から路線バスに乗り、汗だくで辿り着いた憧れの地は電化工事の進捗で雑誌で見た風景と一変していた。逆光線の中、現れたのは幸運にもC59 161号機! 強烈なブラスト音とキラッと光るヘッドマーク、手を振ってくれた機関士さんの満面の笑顔が、45年以上経った今も忘れられない思い出となっている。 '70.7.28 呉線 安芸川尻-安登 P:古澤成博
呉線は車窓から風光明媚な瀬戸内海を見ることができます。おりしも、C62が客車を牽引して島々を背景に白煙をたなびかせて姿を見せました。 '70.3 呉線 安芸幸崎―須波 P:中川弘一
呉線撮影は夜行列車で小屋浦到着後、まだ朝の薄暗い中、C59 164牽引の8311レ急行「音戸51号」から始まりました。果たして写っているのか心配でしたが、現像してC59のシルエットが確認できてほっとしました。 '69.3.21 呉線 小屋浦-坂 P:村木勝義
呉線電化間際、EF58とC62の電蒸運転が開始されていました。当時は、電気機関車に興味がなく、後ろのC62だけを流し撮りで記録に残しました。蒸機の機関士もこちらを見ているようです。 '70.9 呉線 糸崎 P:中川弘一
一枚の写真に3種類の車輌を取り込んでみた。特急「明星」と急行「但」馬、もう一つは...? 左の影はDD54 12号機のタブレットキャッチャーです。 '77.7.24 姫路 P:野々村康久
呉線電化開業も迫った頃、構内で蒸機を撮影していると、職員さんが事務所にあったヘッドマークを取り付けてくれました。C62 37号機は岡山に新製配置されるも、1年足らずで水戸に転じて常磐線方面で長く過ごし、呉線での3年間が最後の活躍となりました。実際に「あさかぜ」を牽引したことはありませんが、全盛期を彷彿させる姿に喜んだことを憶えています。 '70.9 広島運転所(蟹屋派出) P:清原正明
広島機関区から木次線管理所への転属のため無動力回送中のC11 330ですが、本務機の次位ではなく、最後尾の緩急車手前に連結されています。備後落合から直接木次線に入れば最短ですが、C56では重荷なのか、伯備線〜山陰本線を経て運ばれました。 '70.10 芸備線 備後落合 P:清原正明
兵庫の川崎重工で製造された115系3000番代は、鷹取―大久保、大久保―高槻間で公式試運転を行い、その後自力で広島まで回送された。当時、国鉄向けの電車は試運転後自力回送する事があったと記憶している。 '82.10.8 山陽本線 須磨-塩屋 P:田中敏一
河原のコンクリートブロックに腰掛けて、行き来する列車を撮りました。 '80.3.22 宇部線 岩鼻-宇部 P:小林慎治
昼間に呉線沿線で撮影後、夜間に広島機関区を訪れました。漆黒の闇の中に、C59 162が機関区の照明を受けて輝いていました。左横にはのEF58が待機しています。 1969.9 広島運転所 P:中川弘一
田植えも終わった田んぼの脇を、後藤デフ装備のC58 175がワフ1輌を従えて走り過ぎました。 '70.6 芸備線 備後庄原付近 P:清原正明田植えも終わった田んぼの脇を、後藤デフ装備のC58 175がワフ1輌を従えて走り過ぎました。 '70.6 芸備線 備後庄原付近 P:清原正明
田植えも終わった田んぼの脇を、後藤デフ装備のC58 175がワフ1輌を従えて走り過ぎました。 '70.6 芸備線 備後庄原付近 P:清原正明
「連写一眼」というキャッチコピーで、一世を風靡したカメラを父が買ってくれた。同級生と一緒に撮影した1691レは、生野トンネルへ入っていった。 '78.2.11 播但線 生野-新井 P:野々村康久
小野田線経由、宇部新川行きを、宇部線側の跨線橋から撮りました。 '79.11.23 小野田線 小野田 P:小林慎治
車窓から見た三次行の貨物列車は8620の最終号機牽引でした。 '69.3 福塩線 上下 P:清原正明
大型連休に合わせて増結された急行列車。右の4輌が木次線に入る「ちどり」号、左の4輌は新見行の「たいしゃく」号。 '82.4 芸備線 七塚-山ノ内 P:清原正明
山間の小さな駅での対向待ち。しばし静寂のなか、鳥のさえずり交じり小さくホイッスル一声。やってきたのはDD54であった。 '76.6.13 福知山線 武田尾 P:森田 宏
無煙化の10日あまり前、昔から繰り返された作業が普段通りに行われていました。 '71.3 芸備線 三次 P:清原正明
659Dで長谷駅に到着したので636レの到着まで時間が少なくやむなく駅撮りを選択。前補機が付かない列車なのでC57を期待していたがすでにDD54に代わっていた。この時代はどこの駅も手入れの行き届いていた。 '72.5.21 播但線 長谷 P:鈴木博之
立春は過ぎても寒い日の貨物列車。無煙化も1か月あまり先に迫った。 芸備線 高-備後庄原 '71.2 P:清原正明
早春の夕暮れ、「つばめ6号」が山陽路を行く。まもなく終着・岡山、西鹿児島からの長旅は間もなく終わろうとしている。 '75.3.5 山陽本線 鴨方-金光 P:三宅昭和
幾度も通った播但線の有名な撮影地、この日は築堤の下から狙ってみました。霧の中、DD51牽引で和田山へむかう629レ。前年の秋まではDD54の牽引でした。この1年後、客車も50系に代わりました。 '78.1.16 播但線 長谷-生野 P:芝地寛之
さよなら列車を牽引するC11 80。その後会津へ転属、廃車後は故郷の津山の小学校で静態保存。「津山扇形機関車庫」に戻してやりたい、と思っているのは私だけではないはずです。 '71.3.25 津山線 法界院 P:光野 博
帰阪する優等列車ばかりに気をとられがちだった、朝の須磨海岸。"無名戦士"とも言える列車の活躍にも、なかなかのものがありました。 '80.7 山陽本線 塩屋-須磨 P:芝地寛之
有名な大カーブに続く瀬野西トンネルを抜け、上り「はと2号」が勾配をってきた。上り線トンネルににはまだうっすらと蒸機の煤が残っていた。 '75.3.2 山陽本線 瀬野―八本松 P:三宅昭和
岡山〜新見間で運転された鉄道100年記念号。お召予備機だったD51 758+元新鶴見区所属のD51 774の重連で牽引した。装飾を施したD51 758は新見区での撮影会のため、帰路は774号機の単機牽引だった。 '72.10.10 伯備線 備中川面―方谷 P:山下修司
旧上瀬野信号場付近を行く長崎・佐世保行き「かもめ」。堂々、13輌編成のキハ80系は電車の行き交う瀬野八越えでは異色だった。 '75.3.2 山陽本線 八本松ー瀬野 P:熊谷 茂
荷物列車の補機を務めたEF59 24がちょっと一服。その脇を「みどり」が通過する。 '75.3.9 山陽本線 八本松 P:冨田一正
冬に備えてラッセル車の試運転が行われた。新見から来たキ100とC58は備後落合の転車台で方向転換し、元来た道を戻る。 '70.11 芸備線 備後落合 P:清原正明
私の影響でDD54が好きになってしまった友人がいた。彼は私を誘って播但線に向かった。今でいう追っかけ。KAWASAKI KH250のタンデムシートに私を乗せて走った。今も青春は白煙の向う側にある。 '77.11.23 播但線 生野-新井 P:野々村康久
この時期、芸備線の三次-広島間にDE10が導入され、C58は三次以東で見られるだけになっていました。撮影から45年が経過し、右の民家は建て替えられましたが、踏切は依然として四種のままです。 '70.11 芸備線 高-備後庄原 P:清原正明
乗り換えのため下りた和田山で、時間があるため、機関支区を訪れたら、遅い時間にも関わらず、快く入れて頂いた。三次型ラストナンバーの美しいC57が静かに息づいていた。 '71.3.27 P:牧 光一
職場の同僚に新野に水車がある事を教えてもらい出掛けた。数はそれなりにあったが、鉄道と絡めて撮影するのは難しかった。今もこの水車はあるのだろうか? 636レ '86.7.31 播但線 新野 P:田中敏一
半年後の電化開業を控え、架線も張られた備中神代に停車する米子行の普通列車。キユニ18トップナンバーに続くのはキハ47、キハ26、キハ20と、まさに雑多な編成。 '82.1 伯備線 備中神代 P:清原正明
1977年当時の姫路駅には、知る人ぞ知るレアな時間帯があった。東3番線の631レと並ぶ1691レ。私はこのシーンが大好きだった。この頃は、父が手配してくれたハーフカメラが宝物だった。気づけばもう38年も前。ハーフカメラの残像。 '77.3.31 播但線 姫路 P:野々村康久
小倉駅で筑豊本線経由佐世保編成2004Dの到着を待つ長崎編成の4D特急「かもめ」。併結後は架線の下を快走するが終点京都到着は22時25分であった。 '69.12.21 鹿児島本線 小倉 P:鈴木博之
最後の晴れ舞台お別れ列車を牽引するD51 838号機に最後の化粧が施されていました。 '73.3.31 伯備線 新見機関区 P:清原正明
国鉄岡山気動車区の奥まった一角に古い煉瓦建て機関庫があった。津山線と吉備線の前身である旧中国鉄道岡山市機関庫。1944(昭和19)年国有化。岡山機関区とは岡山駅をはさみ反対東側に機関支区として生き残っていた。今の岡山市北区国体町JR西日本岡山支社機械区のあたりか。妻面の採光窓や優雅な破風が国鉄の代表的な3線式機関庫と異なる。19世紀の建築か。昔撮った写真も、今調べてみると面白い。 '71.11.23 山陽本線 岡山 P:深井浩一
川面に影を映した写真が撮りたくてここへ来た。長谷駅から遠い道のりだった。標準レンズだけで勝負していたあの頃が懐かしい。 '77.10.28 播但線 長谷-生野 P:野々村康久
広島区のEF58 17の牽引で岡山7番ホームに到着した熊本行き209レ急行「天草」。客車から漏れるスチームが旅情をさそう。EF58 17は前面窓下の手すりと踏板がなく、屋根昇降用手すり部分の車体欠き取りも未施工の美しいEF58の一輌。50.3の時点では13・14・15・84・85が同様の形態だった。 山陽本線 岡山 '75.2.2 P:山下修司
新見機関区構内の平坦化工事が本格化し、その昔D51が占拠していた扇形庫も取り壊されることになった。 '78.9 新見機関区 P:清原正明
EF59の補機を従えたEF58 5牽引荷34レがセノハチの急勾配を登ってきた。鉄道が物流の主力だった時代には多くの荷物列車が運転されていた。 '74.10.5 山陽本線 瀬野-八本松 P:鈴木博之
山峡の備後落合では長時間停車する列車が多く、ホームにはうどん屋も置かれていました。三次にあった老舗駅弁会社の支店で、陰陽連絡の急行「ちどり」が広島〜備後落合間に運転区間を縮小した後に営業を止めています。 '79.10 芸備線 備後落合 P:清原正明
631レ最後尾の荷物車から、DD54の撮影を車掌にお願いしたら許可してくれた。車掌室辺りからの撮影だったと思う。 '77.10.28 播但線 姫路 P:野々村康久
電化の工事が進んでいる呉線でしたが、まだこの付近は、ポールが建っていませんでした。駅を少し南に歩き、瀬戸内海が見渡せるところで、上り急行、38レ「安芸」を狙いました。 '69.3.21 呉線 小屋浦 P:村木勝義
トップナンバーは、いつでも特別な存在です。 '81.2.8 山陽本線 下関 P:小林慎治
収穫が進む田圃の脇をキハ20がのんびり走る。機械化が進み、刈り取った稲を干す光景は希少になった。 '81.10 芸備線 高〜備後庄原 P:清原正明
「阿蘇・くにさき」が、夜明け前の下関駅に到着。窓際に残された"ダルマ"の空瓶が、宴(たび)の終わりを告げていました。 '80.9.28 山陽本線 下関 P:小林慎治
呉線電化も間近に迫った頃、広島駅で見られたD51。右手、芸備線のキハ20系が停まっている向こう側(北口方面)、当時は客車の留置線があった。1975年春の新幹線延伸に伴い、北口は新幹線駅として整備され、見通せなくなった。左手の駅ビルは1960年代後半に建てられ、現在に至っている。 '70.9 広島 P:清原正明
三重連の貨2492レ最終日、布原の喧騒を避けて備中神代で狙いました。その後やって来た貨物列車はDD54+D51、思わぬ収穫だったと気付いたのは10年以上を経てからです。 '72.3.12 伯備線 備中神代 P:清原正明
ED203号機 鷹取で見た謎の台枠。誠文堂の電気機関車ガイドブック('71)と沖田祐作氏(機関車表)で判明。43年目の決着でした。楽しかった! '72.11.21 国鉄鷹取工場 P:深井浩一
新幹線の博多開業以来、大阪以西に485系が入ることはなくなったが、神戸ポートピアの開催で「雷鳥」が神戸まで延長運転された。変化を求めて明石天文科学館をバックに回送列車を撮影してみた。 '81.7.1 朝霧-明石 P:田中敏一
電化を目前に控え電蒸運転が始まった呉線。通いなれたミカン畑でカメラを構えていると626レがEF58+D51の組み合わせでやってきた。 '70.9.13 呉線 安芸幸崎-須波 P:鈴木博之
岡山機関区に配置されたばかりの真新しいDD51 781に牽引された922レが入線。煤煙から開放された乗客は大歓迎だろうが、レイルファンにとってはD51を追いやった憎いやつだった。 '72.9.23 伯備線 備中川面 P:鈴木博之
時刻表に掲載されていたので、撮影予定が組みやすかったです。 '81.3.21 山陽本線 長府-新下関 P:小林慎治
相次いで新見方面へと向かう貨物列車が並ぶ。いずれもC58だが、右側、新見区の所属機は鷹取式集煙装置を装備して、いかにも山岳線に挑むという感じであった。 '71.2 芸備線 備後庄原 P:清原正明
後部補機付の列車をSカーブで狙った。写真では補機の姿は見えないが、煙はかろうじて写っていた。布原信号場周辺にはカーブと鉄橋・トンネルあって、鄙びた山里の風景が谷間に延びていた。 '72.1.13 伯備線 布原信号場-備中神代 '72.1.13 P:高橋洋二
備中川面駅を出て二つ目の第4高梁川橋梁を渡り中国山地に分け入る2031D「やくも1号」。屋根上のラジエータと大出力エンジンの力強い排気音が魅力的なキハ181系だった。 '72.9.23 伯備線 備中川面-方谷 P:鈴木博之
C11 86牽引旅客列車の回送シーン。昭和40年代の岡山駅西口は古い木造建物も多く、駅裏の風情が残っていた。 '69.4.20 岡山 P:鈴木博之
川沿いの棚田に沿って、新見行のキハ23+キハ20が駆け抜けます。 '80.8 芸備線 内名-小奴可 '80.8 P:清原正明
伯備線から蒸気機関車牽引の貨物列車が姿を消した翌日、米子への回送準備のため入区線で待機中のD51。右手の炭台線と呼ばれた引上線には、既に2輌の先客が鎮座している。 '73.4 新見機関区 '73.4 P:清原正明
昭和40年代初頭、福知山線には気動車の編成もわずかにあったが主力は客車で、C57、C11、DF50が牽引していた。C11については、上り列車がバック運転だった。 1724レ C11316〔吹一〕 福知山線 中山寺-川西池田 '66.1.21 P:小西 明
播但線の生野越に挑んだDD54とC57の重連貨物列車。新鋭DLとベテランのコンビが競演で生野トンネルに向かいます。サミットは生野トンネルの生野方出口。 '72.2 播但線 生野 P:中川弘一
中学3年の夏休み前、地元でSL「やまぐち」号の試運転が始まりました。もう受験勉強どころではありません!! '79.7.8 山口線 鍋倉-徳佐 P:小林慎治
昭和40年代、冬季には播但線経由のスキー臨「但馬銀嶺号」が設定されており、播但線ではC57が牽引していました。真新しい12系客車を牽引、天空高く煙を上げて和田山を出発して行きましす。 '72.2 播但線 和田山 P:中川弘一
長旅の疲れを癒すEF58 128号機。前面窓がHゴム支持化される前の姿。EF15、EH10、EF60、EF65若番機などが見える。 '76.5 岡山機関区 P:清原正明
>遠い山あいから甲高いエンジン音が聞こえ、待つことしばし。小さなトンネルぎりぎりにDD54が姿を現した。この区間、今は新線に切り替わり電車が軽快に通り過ぎている。 '76.6.13 福知山線 武田尾-道場 P:森田 宏
予期せぬ時にまれに現れる「団結号」も、国鉄時代の懐かしい思い出です。 '78.4.23 山陽本線 長府-新下関 P:小林慎治
ナハネフ22を最後尾に従えた20系の編成は、とても優雅で美しい。 山陽本線 長府 '77.8.21 P:小林慎治
EF66 27復活のニュースに驚きました。で、40年前に撮った一枚。27が一人(単機)で山陽路を下る姿、頭には帽子は載せていません。 '75.8 山陽本線 土山ー東加古川 P:芝地寛之
溝口駅からしばらく行くと播州平野から山間に入る好撮影地で徐々に大きくなるブラスト音と共に森の奥から煙が現われました。 '72.3.12 播但線 溝口-福崎 P:石地康司
田植えが終わったばかりの田圃に朱色の車体を映し、4輌編成のキハ20が駆け抜けます。 '81.5 福塩線 吉舎〜三良坂 P:清原正明
中学に上がり、親父から借りたカメラを抱えて、初めて一人で鉄道写真を撮りに出かけた時の、記念すべき初ショットです。 '77.5.12 山陽本線 下関 P:小林慎治
宝塚の発車を東側の陸橋で撮影した後、振り向くとオーバークロスする阪急宝塚線の梅田行電車が走行しているのが見えたので、あわててシャッターを切った。 '68.2.18 福知山線 宝塚 P:田中敏一
DE10が牽引する50系客車の短編成。この区間を走る客車列車は、民営化後2年で気動車化されました。 '86.5 芸備線 高-備後庄原 P:清原正明
姫路駅の東にある朝日橋から、夕方の播但線ホームを見ると3種のカマ並びを見ることができた。 '78.3 姫路 P:野々村康久
通学に播但線を利用していた同級生と一緒に撮った一枚。現地集合の約束に彼は原付CB50でやってきた。 '78.6.14 播但線 溝口-福崎 P:野々村康久
伯備線の蒸気機関車が消える昭和48年、岡山操車場発のD51の貨物列車を撮影に訪れアングルチェックしていたところ、絶好の被写体485系下り「つばめ」の登場。カメラ構えていたところ、後方から上り列車接近の音! 慌ててファインダー越しに見えたのは偶然にも上り「つばめ」でした。まさに春到来の「つばめ」上下すれ違いの撮影となりました。 '73.2.15 山陽本線 岡山ー庭瀬 P:定清博幸
山口県で2番目に人口が多かった宇部市の、中心的な駅だった「宇部新川」は、旧国電車や石灰石を運ぶ貨物列車が行き来する、活気のある"楽しい"駅でした。 '79.11.23 宇部新川 P:小林慎治
"サロンカーなにわ"による団体列車が走ると知って休みを取った。露出が厳しいことを承知でここを選んだ。子供を連れた男性と、たった2人だけの撮影だった。牽引機は今も現役で、先日、重連で"なにわ"の先頭に立つ姿を東海道本線山崎で連写した。 '87.3.30 長谷―生野 P:野々村康久
異色の改造車キユニ16を先頭に、キハ23、キハ20、キハ11と、模型で再現したくなるような編成の普通列車。現在この区間は、JR移行後に導入された軽快気動車の1輌運転となっている。 '72.11 備後庄原-高 P:清原正明
20系「あさかぜ1号」博多行きの最後尾は、機関車付替中の先頭部に比べて、ひっそりとしていました。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
現在は大きく変貌しこの立ち位置は姫路貨物駅となっているが、以前は田園が広がっていた。"サロンカーなにわ"を撮りに行ったら、農作業に行くおばさんが「何が来るの?」話かけてきた。 '86.8 御着-曽根 P:野々村康久
津山線上り貨物を牽くC11 251は岡山駅で小休止。その間、隣の7番線に新大阪行き特急「しおじ2号」がすべりこんできた。貴重な出会いの一瞬だった。 '70.6.7 岡山 P:濱田俊彦
伯備線の有名な三重連を知る前、初めて降りたのは生山駅だった。折しもD51重連貨物の本務機が盛んに黒煙を上げていたが、肝心の発車シーンは煙が出過ぎて絵にならなかった。 '64.3.8 生山 P:中島正樹
電化完成が目前になった呉線に九州旅行の行きに立ち寄った。良い場所も見つからず、列車のみを中心に撮影。やって来たカマは最後まで広島で活躍したC59 161、バックの風情も悪くなかった。 '70.8.2 吉名-竹原 P:中島正樹
夏休みの一日、道場駅から武田尾方にむかって歩いた。途中の武庫川橋梁に現れたのは DD54。颯爽と駆抜ける姿は、美しかった。 '74.8.5 武田尾-道場(旧線) P:濱田俊彦
幡生工場の塀の中に、解体を待つ80系の"最後"の姿が...。 '78.4.23 幡生駅付近 P:小林慎治
正月、父に頼んで勤務先について行った。目的は大好きなカマを撮ること。機関室は温かかった。大きなエンジンとSGがあった。緊張しながら憧れの運転席に座ってみた。機関車も機関区も記憶と記録の中でしかない。 '78.1.2 姫路第一機関区 P:野々村康久
かつてどこでも見られた、刈り取りを終えた稲束を干している光景ですが、今では極めて少なくなりました。 '76.10 小奴可 P:清原正明
晩秋の穏やかな瀬戸内海を横に見て、須磨の海岸を行く旧型国電。103系が配属されたとはいえ、まだまだ元気な姿を見せていた。 '71.11.28 須磨ー塩屋 P:田中敏一
鉄道の名所、須磨で下り583系「しおじ」と上りEF58牽引の20系寝台特急との一瞬の出会い。かっての山陽本線の華やかな時期の光景です。 '74.5.2 須磨ー塩屋 P:中川弘一
どんよりとした曇り空の下、単機で生野越えに挑む上り貨物列車。この先最後の難関、生野トンネルが待ち構えている。 C57 113 692レ 新井-生野 P:田中敏一
民営化直前のSL「やまぐち」号。大勢のギャラリーに見送られ、威風堂々C57 1が行く。 '86.11.2 津和野-船平山 P:石毛英一
寺前止まりで到着した列車から離れたこのカマ、今度は折り返し列車の先頭に付くために移動中。春先とはいえ、陽ざしは山に遮られ早い日暮れ。淡い煙と発電機からの蒸気が何か寂しさを感じさせる。 機:C11 178 '69.3.15 P:青木一郎
1月の山の中しかも早朝、手足が冷えるのを我慢して待つこと20分、表れた列車は横から朝日を受けて美しかった。通過したら途端に空腹が襲って来た。しかし日曜朝で店はなし。上りを撮るために反対側に移動。昼過ぎまで我慢した。 '72.1.9 長谷-生野 P:吉岡靖夫
地元の赤字ローカル線を撮ってみた。駅を探すのに苦労した。移動の足はもっぱら父のスーパーカブだった。 '78.5 尾上 P:野々村康久
谷川に到着したC12は50分余りの間に貨物列車の組成や給水・給炭を済ませ9時16分の発車まで加古川線ホームに身を横たえます。小型ロコながら朝日に照らされ蒸気を燻らせた姿はとても頼もしく見えました。 '72.1.16 谷川 P:髙橋 明
最終列車が発車してから駅の看板を取り外す駅員さん。喫煙者にもファンにとっても古き良き時代でした。 '84.11.30 高砂 P:筒井敦巳
子供の頃、父と自転車で向島公園に行った。途中、加古川の土手には二つの踏切があり、一つは山電、もう一つは? 父が「高砂線や」と教えてくれた記憶がある。廃線から30年になる。 '84.11.30 高砂北口-尾上 P:野々村康久
乗客の記念撮影に応じる職員さん。機関車付け替え中の、4分間の"ひとコマ"です。 '78.5.3 下関 P:小林慎治
「但馬52号」は旧客を連ねたC57牽引の帰省臨でした。今ならこんな魅力的な列車の運転日は毎日でも通っているだろうに当時はこの一日だけ撮影に行って満足していました。 '72.8 新井-生野 P:髙橋 明
三重連運転の921レを備中川面で撮ってから訪れた布原は人影もまばら。この日は背後を気にすることなく12D「おき」の通過を撮影できた。 '72.2.11 布原信号場 P:鈴木博之
初夏と秋、恒例の集約臨。EF58から117系に代わっても道中の楽しみは変わらない。私の学生の頃は奈良からのD51が楽しみだったのが、DD51に置き換わりがっかり。 '79.6.19 宝殿ー加古川 P:筒井敦己
乗降客で賑わう大元駅。この当時、旧型電車が停まっているホームの隣から、岡山臨港鉄道も出ていました。 '76.7 大元 P:清原正明
山陽本線で有名なセノハチを訪れた時、電化はすでに広島まで進んでいた。しかし、D52の貨物はまだ健在でキハ82系の「かもめ」とすれ違う豪快な姿も見られた。 '64.3.10 瀬野-八本松 P:中島正樹
この日は終日小屋浦付近で撮影したが、夕方の広発はC59、C62のバック運転だった。見た目はブサイクだが希少だった。 '67.7.30 小屋浦ー坂 P:田中敏一
下関では見かけない「スカ色」の70系が、近所の細江貨物ヤード内に留置されていました。たぶん、幡生工場での解体待ちだったのでしょう...。 '79.3.3 下関 P:小林慎治
DE10に牽かれたスユニ61、オハ35、オハ35、スハフ42の4輌編成が、新緑の中国山地へと分け入って行きます。40年の時が過ぎ、この区間の列車は日に3往復のみです。 '74.5 備後八幡ー内名 P:清原正明
九州撮影旅行の途中、呉線に立ち寄り、まだ架線柱の建っていない小屋浦駅で荷物列車42レの通過を狙いました。憧れのC62を初めて見て、圧倒されたことを覚えています。 '69.3.22 小屋浦 P:村木勝義
この日は無風状態だったのでカメラを縦位置にセットして三重連発車の迫力再現を試みた。 '71.2.11 布原信号場 P:鈴木博之
操車場が見渡せるお気に入りの場所で、今日は「キユニ19 1」を発見! '79.9.23 幡生操車場 P:小林慎治
蒸し暑い夏の午後、津山行き823レが揖保川橋梁を渡る。赤い客車が大量進出した80年代の姫新線、津山区受持ちの列車は最後まで旧客だった。 '80.8 姫新線 東觜崎-播磨新宮 P: 芝地寛之
1月の山の中しかも早朝、手足が冷えるのを我慢して待つこと20分、表れた列車は横から朝日を受けて美しかった.通過したら途端に空腹、しかし日曜朝で店はなし.上りを撮るために反対側に移動.昼過ぎまで我慢した。 '72.1 播但線 長谷-生野 P:吉岡靖夫
DD51が生野峠に挑みます。DD54からバトンタッチした播但線でDD54が客車の先頭に立つことがないことを実感した日でした。 '78.3.17 新井ー生野 P:船江 晋
近所にある幡生工場は、小学校の社会科見学等で、何回か訪問しました。中学生になってからは、カメラ片手に、柵の外をウロウロしていました。 '79.9.24 国鉄幡生工場 P:小林慎治
冬季、スキー臨の送り込み回送で636レが休日前日にしばしば三重連となったが、 今回の三重連は播但線におけるC57引退を記念してのお別れ運転。生野越えの名撮影地「円山の築堤」には100人近いファンが集まった。撮影後は、ここに来ることはもうないだろうと感傷的になった。 '72.9.30 播但線 生野−新井 P:吉岡靖夫
初めてのアルバイトは年末年始の郵便配達。対価は望遠レンズに変り、大好きなDD54を撮りに行った。 '78.2.11 播但線 長谷-生野 P:野々村康久
春を感じさせる景色の中を、軽い編成を牽いたDE10が駆け抜けて行きました。 '82.4 備後西城-平子 P:清原正明
写真では向こうに向かっているようにも見えるが、実は逆向きの2輌の後部補機。逆向きの運用は短距離では他線区でもよく見られた。 '72.1.13 布原(信)-備中神代 P:高橋洋二
玉柏を発車した638レは左に大きくカーブして旭川沿いに北上する。当時は駅周辺に住宅がなく、山裾にある墓地からは玉柏駅を発車して山陰に消えるまで遮るものがなかった。 '71.3.7 玉柏-牧山 P: 鈴木博之
C57 5+C57 39重連で走ったイベント列車。到着ホームは乗客や撮影の人で超満員のため向かい側ホームから撮影。80系電車も時代を感じさせる。 '71.6.6 姫路 P:鈴木博之
「クモニ」の面構えは、東京の"国電"みたいで、ちょっと気になる存在でした。 '78.10.1 下関 P:小林慎治
京都行の各停を撮った後しばらくして貨物がやってきた。電化はしているが、貨物の牽引はD52が主力。そんな中にあって、時折D62がやってくる。懐かしい昭和の風景。D62 17〔吹一〕 須磨-塩屋 '58.8 P:小西 明
出雲市より夜通し走り続けた20系寝台急行「だいせん」が夜明け前の丹波路を走り抜けます。もう少し露出が稼げると思っていたのに、この時期この辺りではいきおい、流し撮りするしかありませんでした。 '79.8 篠山口-南矢代 P:髙橋 明
雨の上がりのホームでは、折り返し運転の宇部線経由宇部行きが、出発を待っていました。 '79.11.23 小郡 P:小林慎治
「あかつき」「彗星」「明星」? やっぱりヘッドマークが欲しかった。 '80.7 須磨-塩屋 P:芝地寛之
D51三重連を望遠レンズで狙ったが、猛烈な煙やドレーンで2、3輌目のD51は隠れてしまった。何もかも手動のカメラのため、満足するコマを得るのは結構大変だった。 '72.1.13 布原信号場-新見 P:高橋洋二
播但線では姫路から寺前止まりの区間列車が多く設定されており、C11が行き来していた。上り列車として折り返すまでのわずかな時間に助士は火床整理を、カマ上では石炭掻きと給水が行われていた。 機:C11 178 '69.3.15 寺前 P:青木一郎
古い電車を"カッコよく"撮りたくて、いろいろと試していた一枚です。そして、この頃から、自分で現像するようになりました。 居能-岩鼻 '81.2.8 P:小林慎治
大型蒸機で注目された呉線にも貨物牽引用にはD51が使用されていた。運用通りならC59となるはずの624レがD51牽引でガッカリしながら撮った一枚。 '68.11.10 須波 P:鈴木博之
旧型国電全盛期の宇部線では、茶色の電車に交じって赤いDE10に牽引された貨物も、頻繁に行き来していました。ヒトもモノも元気な"工場の街"でした。 '79.11.23 宇部新川 P:小林慎治
中学生当時、大学ノートに写真を貼って"My Album"を作っていました。この写真は、「80系460M 夕方の帰宅客で混んでいた」と、書き込んでいました。 '77.11.22 下関 P:小林慎治
紅葉を背景に、西城川沿いを走る新見行の貨物列車。芸備線の貨物列車は、国鉄時代末期に姿を消した。 '79.11 備後庄原-高 P:清原正明
EH10と共通運用だった頃は、EF66がやって来てもほとんど撮影しませんでした。昨今、0番代人気がきっかけとなり30年振りに鉄道写真撮影に復帰するとは、思いませんでした。 '79.6.30 加古川ー宝殿 P :筒井敦己
晩年の153系は、本州の西端で、普通列車で余生を送っていました。 '81.3.21 新下関ー長府 P:小林慎治
車窓から見える藁葺きの民家、キハ58系の急行列車、何れも今では見られない光景です。 '80.10 芸備線 道後山-備後落合 P:清原正明
深夜の広島駅にて。呉線経由の急行「音戸」がドレインを水銀灯に輝かせて発車して行きました。当時は、夜遅くまで駅構内で蒸機の勇姿を追いかけた青春の想い出の一ページです。 '69.9.21 広島 P:中川弘一
山陽本線の車窓から見た井笠鉄道の車輌です。この井笠鉄道は翌年の春に廃止となりました。 '70.12.26 笠岡 P:古村 誠
夏の陽ざしに黒光りする巨体。長々と貨車を連ね、貨物輸送の先頭に立つ。電化工事は完了し、本線蒸機活躍の終焉間近。機:D52 68 '64.7.28 下松-光 P:青木一郎
福山で運転士に撮影場所を教えてもらいました。詳しい地点どこだかは忘れましたが、駅前で食べた「府中焼き」の味は今でも覚えています。 '79.1.14 P:筒井敦己
下関機関区撮影に行った時、下関駅で待機している電源車サヤ420に会いました。東海道新幹線開業より1年間、新大阪-博多間は直流151系「つばめ」「はと」で運行されていて、下関駅よりED73と電源車としてサヤ420形が接続されていました。 '65.7.11 P:今澤勝美
苦ケ坂トンネル上の国道から俯瞰した布原信号場は箱庭のようだった。停車中の827レと交換する452レが接近する。まだ線路際には人影がない時代だった。 '68.12.15 布原信号場 P:鈴木博之
播州地方の冬、残雪の山並をバックに山陰線で見慣れた。C57 5の勇壮な姿に感動! '72.2 生野ー長谷 P:中川弘一
DD54を撮影するため姫路で播但線に乗り換える時7番ホームに見慣れない車輌が停車していたので1枚だけ撮影しました。初期型と分かったのは54が引退してからでした。 '77.5 姫路 P: 筒井敦己
みんなのアンコールに3回も演奏してくれました。百恵ちゃんの「いい日旅立ち」を聞くと思い出します。 '78.12.27 糸崎 P:筒井敦己
田植えの終わった田圃の脇を、集煙装置付きのC58が客車を従え、豪快に駆け抜けて行きました。 '70.5 備後庄原付近 P:清原正明
この年はリバイバル列車が多く運転された年でした。「うずしお」もその一つ。このとき初めて元町カーブを訪れました。 '83.7.31 神戸-元町 P:平井ヨシフミ
下り「みずほ」が、対岸の門司に向け、下関駅を出発します。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
学生時代初めて訪れた呉線の広駅での大型蒸機の壮観なシーンです。C62 17やD51牽引の旅客列車をさしおいて側線から発車して行くC62 34は回送客車でしょうか。 '66.4.8 広 P: 飯田 勝
無煙化を翌々日に控えた新見機関区の一コマです。無火となったカマもありますが、最後の仕業を控え、待機中です。奇しくもこの3両は現在も静態保存(D51797号機は動輪のみ)されています。 '73.3.30 P:光野 博
方谷駅で行き違い列車を待つ5593レ。伯備線のDL化はDE10で始まりその後増備されたDD51に置き換えられました。 '72.6.25 方谷 P:鈴木博之
田植えが終わった風景の中を行く、懐かしい編成の列車です。DE10に続くスユニ61は蒸気機関車時代から永く見られた車輌ですが、50系客車は新製車輌にもかかわらず、思ったより短命で終わってしまいました。 '810.5 備後庄原 P:清原正明
山陽線・宇野線・赤穂線などで運行されていた岡山区の80系電車は、撮影した翌年、113系などに置き換えられました。隣のホームに停まっている荷物・郵便列車共々、懐かしい風景です。 '77.9 岡山 P:清原正明
下関に「コンビニ」なんて言葉もなかった頃、幡生操車場は24時間年中無休で営業していました。 '80.8.1 幡生操車場 P: 小林慎治
山陰本線西の起点、幡生駅は、山陽本線上下線に挟まれた、中央部分が山陰本線用のホームです。駅を横断するトラスビームも、ここだけは、架線は吊架されていません。 '78.3.21 幡生 P:小林慎治
セメントの街、宇部市の中心・宇部新川駅を、石灰石を積んだセキ編成が通過しました。 '79.11.23 宇部新川 P:小林慎治
シティライナーの展示会。記念スタンプの行列が切れて、駅員さんも一休み。 '79.10.14 姫路駅東1番ホーム P: 筒井敦己
現在は民営化以降に投入された新型ディーゼルカーの1輌運転となった福塩線の非電化区間ですが、30年あまり前には昼間も2〜3輌で運行されていました。 '81.5 吉舎-三良坂 P:清原 正明
伯備線はD51三重連が有名だったが、新見-備中神代間は芸備線の列車も通り、旅客列車や重連や後補機付きの貨物列車が行き交う楽しい区間だった。 '70.8 布原信号場-備中神代 P:中川弘一
備中神代で交換する特急「やくも」。 背後の山裾では中国自動車道の建設工事が行なわれている。陰陽連絡のトップスターとして君臨したキハ181系気動車も、この写真を撮影してから5年後の伯備線電化で381系電車にその座を譲り渡した。 '77.1 備中神代 P:清原正明
4月下旬、広島県北地域は田植えの準備に追われます。山峡の備後落合界隈にも春が訪れ、見事な藁屋根の周囲に拡がる田圃には、田植えを待つように水が張られていました。 '82.4 比婆山-備後落合 P:清原正明
西明石ー岡山間に1往復残っていた80系の最終日、435Mを撮り始めてから一度も同業者を見る事がなかったのが不思議でした。 '78.10 加古川ー宝殿 P:筒井敦己
石灰石を降ろし、身軽になったセキ編成が、美祢のヤマに帰って行きます。 '75.3.22 宇部線 岩鼻-宇部 P:小林慎治
前年に続きセノハチは2度目の訪問だった。すでに電化されてしまい、補機は大半がEF59に置き換わっていたが、まだD52の出番もあり、昔ながらの連結風景が見られた。 '64.3.10 山陽本線 瀬野 P:中島正樹
桜が満開の方谷駅に停車する多種多様な普通列車。この年の7月、伯備線は全線が電化されました。 '82.4 方谷 P:清原正明
夏の海水浴シーズンに運転された「但馬51号」。姫路からは豊岡区のC57が担当で生野の峠を軽快に下ってきました。 '71.8.2 播但線 新井-生野 P:石地康司
関門トンネルの水先案内人EF30が、上り貨物を牽いて、地上に出てきました。 '79.5.19 門司〜下関(関門トンネル上り出口) P:小林慎治
前夜に東京を出発した下り寝台急行「安芸」は呉線を昼前に通る。C59が軽快にカーブしながら広島を目指して行った。 '68.11.23 安登-安芸川尻 P:中川弘一
秋の16時頃。陽の傾きを気にしながら登場を待つ。シゴキューに牽かれ、軽快なリズムと共に安浦駅を通過して行った。広島発東京行38列車。機:C59 162 '68.11.30 安浦 P:青木一郎
上り荷物列車が、下関駅に到着しました。拡大したら「大荷5」のサボが読み取れました。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
ポッ! 夕方の通勤列車を牽引して、C62がこの川を渉る凛々しい姿もあとひと月。老兵は死なず、ただ消え去るのみ、か...。 '70.8 仁方-安芸阿賀 P:中浦秀和
PFって、やっぱり「貨物顔」だよなぁ...と、思いながら、シャッターを切りました。 '81.3.21 長府-新下関 P:小林慎治
あのC62が走る! 当時よく読んでいた「汽車と私」に出てくる2号機が! 早起きして加古川橋梁に行くと誰もいないのと、あっという間に通り過ぎて拍子抜けたのを覚えている。 '72.11.15 加古川-宝殿 P: 筒井敦己
D51お召は6×6カラーの一発勝負と決めていたので、首から掛けた一眼レフで撮った直前の光景。ノートリミングで見ると川原で撮影するファンの姿が...。 '71.4.21 石蟹-井倉 P:鈴木博之
夕陽を受けて走る新見発、三次行きの普通列車。この当時、長距離を走る普通列車は当たり前でしたが、民営化以降、運行形態が見直された路線も多く、現在の芸備線は三分割状態の列車運行となっています。 '81.12 備後庄原 P:清原正明
播磨新宮行の普通列車を揖保乃糸の産地東嘴崎で降りた。DE10から供給される蒸気がゆっくり漂っていた。 '79.2.11 東嘴崎 P: 野々村康久
伯備線の山間の小さな信号場はD51三重連で一躍有名になった。三重連が発車して走り去った後も、終日ファンの姿が途絶えることはなかった。 '71.4 布原信号場 P: 中川弘一
中学3年、広島へ初めての一人旅。早朝目覚めた直後、眼に飛び込んできたのは、初めて見るEH10 1、感激! '68.8.1 P:中浦秀和
1975年3月10日の新幹線博多延伸まで、岡山駅では特急の折り返し運用に備え、愛称板変更の作業が行なわれていました。 '75.2 岡山 P:清原正明
播但線にCC57三重連の蒸気機関車さよなら列車が走ったのは、曼珠沙華の花が咲き誇り、その深紅の花が沿線を華やかに彩っている頃です。ヘッドマークの掲出もケバケバしい厚化粧も施されていない好ましい姿のC57が牽く「さよなら」列車でした。 '72.9.24 甘地-福崎 P:髙橋 明
かつて東海道本線で特急牽引の勇姿を見たことがあるだけに、DCに交じって通勤列車を牽く黄昏のC62を見るのは懐かしくもあり、また寂しくもあった。 929レ牽引のC62 37。'70.7.13 広 P: 森瀬壽三
帰りの時間を考えながら、撮影ポイントを探していたら、溝口から福崎まで歩いてしまった。昔はこんなことがよくあった。 '78.4.29 溝口-福崎 P:野々村康久
山陽本線全線電化は目前だったが、小郡はまだ蒸機の天下。小郡駅の先で朝の下り列車を撮っていると、発車した下りD52貨物と上り貨物が目前ですれ違った。ナンバーを見ると偶然続きのようだ。 '63.12.20 小郡 P:中島正樹
「みずほ」の先頭にたつ「EF30」と、次の仕業を待つ「EF81」。下関駅では、いつもステンレスのコルゲートを観ることができました。 '80.6.22 下関 P:小林慎治
タブレットを交換し、乗降終了の合図を送る。CTC化前の山口線では、安全確保の手順やカタチを目で見ることができた。 '83.1.3 三谷 P:田中一弘
中国山地に深く分け入って走る芸備線は変化に富んだ景観と運用が楽しめた。静かな山間駅、その静寂を破って長時間停車していた貨物列車が豪快な爆煙を上げて新見へ向けて発車した。 874レ C5892 '64.3.7 備後落合 P:中島正樹
客船カロニア号の入港に合わせて仕立てられた。昭和30年代の粋な計らい。 団体臨時京都行 C59 166〔宮〕 '55.4 神戸港駅 P:小西 明
特急色のPFが牽引する"普通の貨物"。 シャッターを押すのも躊躇する、ありふれた山陽本線の風景でした。 '78.4.23 山陽本線 新下関-長府 P:小林慎治
その昔、広島県北では田圃の灌漑用として水車が用いられていました。グリーン車を従えた陰陽連絡の急行列車ともども、今となっては昔話です。 '80.7 備後西城-平子 P:清原正明
ボッ! 彼方から短い汽笛! とりあえず跨線橋の上でカメラを構えていると、想定外の濃霧の中から現れたのは、C62 15。今は、リニューアルされた東京駅の「動輪の広場」に、在りし日の栄光を留めるのみ。 '70.8.30 安芸川尻-安登 P: 中浦秀和
「第一宮島」をEF61が押し上げる。電車側の密連と電機側の自連のために介在する湘南色のオヤ35。線路に沿った国道2号の交通量も少なそう。 広島発東京行2102M '64.7.29 瀬野-八本松 P:青木一郎
東海道、山陽本線ではC62はすでに引退していましたが、特甲線の呉線で大型蒸機のC62がヘッドマークを掲げて誇らしげに活躍していた頃を懐かしく思い出します。 '69.9.21 小屋浦 P:中川弘一
霜柱が立った冬の朝、朝日の透ける車内では、乗客それぞれの一日が始まりました。 '81.2.8 宇部線 居能-岩鼻 P:小林慎治
備線の山間の小さな布原信号場にてD51三重連が白煙をたなびかせて発車して行きました。 '71.2.11 布原信号場 P:中川弘一
EF59の後押しに助けられ、八本松への急勾配を上り始める。朝の瀬野川の涼風を窓から入れて山あいに向かう12輌の先頭はEF58。並行する道は国道2号。車も少なく遠くに1台見えるだけ。西鹿児島発大阪行2202列車。 '64.7.29 瀬野-八本松 P:青木一郎
都落ちした70系に置き換わるまで、雑多な旧型電車が活躍していました。横の橋脚は廃止された井笠鉄道の線路跡です。 '75.10 福塩線 神辺-湯田村 P:清原正明
ブルトレブームの頃の、休日朝の下関駅です。後ろを通過する35系にはカメラを向けることなく、野球帽や半ズボンの少年たち(現在はアラフォー親父?!)は、お目当てのヘッドマークを待っていました。 '80.4.20 山陽本線 下関 P:小林慎治
伯備線の無煙化を翌年3月に控えた岡山操車場の夕方の1コマ。15時52分3979レ発車の5分後に5391レが連続で発車、中学3年生の私は毎日のように自転車でその時間帯に駆けつけていました。 '72.12.20 岡山操車場 P:光野 博
特急「はと5号」を降りて足早に地下道をくぐり、山陰本線最終の848列車に乗り換える。そんなお客さんがきっといただろうな、あの頃の駅、あの頃の旅...。 '74.3.25 下関 P:井芝七路
呉線の荷物列車は1日1往復、C62やC59の大型蒸気機関車が牽引していました。上り荷物列車は急行安芸の時間帯に運用されていたので、急行を撮影時に見られました。荷物列車が16/1000の急勾配を驀進している勇姿は地味ながら迫力満点でした。 '70.9 安登-安芸川尻 P:中川弘一
苦ケ坂トンネルを抜け布原信号場に進入する芸備線827レ。太陽が傾き薄暗くなった第23西川橋梁上でC58のサイドにスポットライトが当たった。 '68.12.1 新見─布原(信) P:鈴木博之
直流区間もあと少しとなった、博多行き「金星」の車内では、寝台の解体作業も終わり、ボックスシートに、春の朝日が差し込んでいることでしょう。 '81.3.21 長府─新下関 P:小林慎治
おだやかな冬の日、三田から道場方面へ歩き列車を待った。ほどなくDE50がのんびりとやってきた。 '74.12 道場─三田 P:大森光祥
播但線撮影の帰り、乗ってきた1632列車のカマです。ご存じ、新橋駅前の「SL」の現役末期の姿。 '71.12.27 姫路 P:光野 博
小6の夏休み、家族旅行という条件付きで訪れた広島。この日は安芸の宮島に連れて行かれたが早々と駅に戻り、慌ててホームに駆け上がった。そこには夢にまで見た憧れの列車が佇んでいた。上り38レ急行「安芸」。 '70.7.29 広島 P:古澤成博
神戸へ出る折利用しているJR。須磨海岸を通過のたびに当時のことが思い出される。今は空地となっている下り線と海岸との間に、邸宅などの建物が存在し夏になると海の家の看板などがあった。窓を全開の京都行普通電車。クモハ54系 '58.8 須磨-塩屋 P:小西 明
山陽本線はすでに電化済み。往時の面影残す大型機の働き場所があって良かった。各停を牽く姿ではあってもシロクニの姿に感激。広島発糸崎行626列車 機:C62 48 安芸津 P:青木一郎
「秋」の16時頃。陽の傾きを気にしながら登場を待つ。シゴキューに牽かれ、軽快なリズムと共に安浦駅を通過して行った。広島発東京行38列車。機:C59 162。 '68.11.30 安浦 P:青木一郎
学生時代に可部線を訪れた時の一枚。太田川沿いの三滝駅で待っていたら、ロクサンの面影を色濃く残す、クモハ73を先頭とした横川行きがやってきた。 '81.8 三滝 P:関 周一
粉雪が舞う布原信号場に進入して来たD51 838牽引の469レ。後年お召列車牽引の重責を担ったカマである。三重連通過後なので西川鉄橋横のお立ち台に人影は見当たらない。 '68.12.29 布原信号場 P:鈴木博之
EF61が押す鮮魚特急貨物、釣りの世界なら外道と言われそうだが今見ると貴重な一枚になった。 '83.3 瀬野-八本松 P:服部基寛
オハ31 2の車内で、通勤電車のような長い長いロングシートと客車には珍しいスタンションポール(掴み柱)、吊革付です。レイルファンのダジャレ...、
Q「この掴み柱がないいと列車はどうなる?」
A「柱ない(走らない)」
和田岬線兵庫 '67.4.21 P:坂内定比古
播但線最大の難所生野越え。この日は小雨まじりの寒い冬の日でしたが、C57の三重連の運転日とあって、多くのファンが来ていました。 '72.2.26 新井-生野 P:水野秀昭
乗り降りが大変だったので片側(駅は2か所だけで起点も終点もプラットホームはこちら側だけでした)だけ車体の中央に扉が取り付けられていました。オハ64の後釜は片側の扉を閉鎖してしまったキハ35とキクハ35でした。そして今は電化され207系の通勤電車が走っています。最近では昔のような殺人的混雑がなくなり、座席定員程度の乗客数のようです。 '69.10.25 和田岬線 兵庫 P:坂内定比古
「SLブ-ム」過熱直前の呉線。初めて訪れ最初に撮ったのがお目当てのC59! まだヘッドマ-クもなく、沿線を一日中歩き回っても、鉄道ファンに一人も出くわさない日も多かった、のどかな頃...。 '68.8 安芸川尻-安登 P:中浦秀和
急行「安芸」を呉で下車。午後、糸崎機関区を訪ねると機関士がC59 161を点検中だった。僚機C62 15はこの後16号機とともに北海道へ転出することとなる。 '70.7.13 糸崎機関区 P: 森瀬壽三
呉線にも架線柱が立ち始め頃、何とか架線柱が目立たない場所を開拓しようと安芸幸崎から竹原まで歩いた時にトンネル出口で撮ったC59 162牽引の624レです。 '69.1.15 大乗-忠海 P:鈴木博之
上り寝台急行「安芸」は呉を出発すると安芸川尻の先からの安登越えに挑む。最急勾配16.0‰を登るC59の迫力が懐かしい。 '70.9 安登-安芸川尻 P:中川弘一
新車を満載したク5000の編成が、EF60に牽引されて、目の前を通過して行きます。 '81.3.21 長府-新下関 P:小林慎治
波穏やかな瀬戸内海をバックにC62牽引の38レ「安芸」が行く。東京までの旅路はまだ始まったばかりだ。 '70.3.8 安芸幸崎-須波 P:鈴木博之
山陽本線の電化が広島までだった頃の広島機関区。車庫には本線用C59やD52等の大型機がごろごろ顔を出していた。ただ残念ながら撮影技術が悪く、それらを表現し切れていない。 '63.2.22 広島機関区 P:中島正樹
レンガ造りのトンネルから白煙を噴出してC62 16号機が姿を現しました。恐らくトンネル内では車内に煙が充満していたことでしょう。同機は15号機とともに呉線から北海道に渡り函館本線で再会することになるとは、その当時は思いもよりませんでした。 '70.2.15 小屋浦 P:中川弘一
小雨けぶる早朝のセノハチを登るEF61牽引荷レ。前後を走るゴハチは、現車10輌で補機付でしたが、このロクイチは11輌でも補機なしでした。 '79.10.28 瀬野-八本松 P:中司純一
下関駅でD51を待っていると、九州からの列車を牽いて来たEF30がD51にバトンを渡してクラへと戻って行った。初めて見るEF30は、とてもきれいで思わずレンズを向けた。 '74.3.21 下関 P:古澤成博
下関駅を16時台に出発する、上り「あさかぜ2号」は、まだ日の高い初秋の山陽路を、子供たちに見送られながら、駆け抜けて行きました。 '79.9.15 新下関〜長府 P:小林慎治
初めてのボーナスで買ったミノルタSRT101を持って姫路へ 始めて原型三枚窓の80系をみる。 '71.8 姫路 P:清水 健
堂々12連の583系寝台特急「彗星」。一時期ハネ2輌をハザとして営業していた。いつも空いており、座席を引き出してゴロントシートもどき?として利用した記憶がある。 '78.5 塩屋-須磨 P:藤田高士
川代渓谷へ撮影の途中に、桜が満開の広野駅に下り普通列車が停まっていたので"快心の一撃!"気を良くしていたのに現像が上がって来たら「あややッ」何と!まさかのピンボケ...。デジタルの今なら撮影後にモニターで確認できたものを...。 '81.4 広野 P:髙橋 明
JR西日本のプレスリリースで、山陽本線「長府駅」の橋上駅舎が完成したことを知りました。もう30年以上訪れていない、ふるさとの駅の跨線橋や、その下を通過する単行のEF60など、遠い記憶となりました。 '78.2.5 長府 P:小林慎治
新幹線岡山開業で陰陽連絡の主役を担ったキハ181系特急「やくも」。勾配をものともせず豪快なエンジン音を渓谷に響かせて疾走していていました。 '79.8.18 伯備線 方谷-井倉 P:鈴木博之
雪が舞う生野駅でC57 11の貨物列車が待避しています。生野駅は構内外れから直ぐに始まる勾配のために駅本屋の東側に行き止りの待避線が別に設けられ、この691レはC57牽引の客レ631レが生野駅を出発するとシズシズとバックして本線へ出て行きます。 '72.2.20 生野 P:髙橋 明
渓谷に轍の音が響きわたり列車が近づいて来る気配。これが福知山線最後の蒸機になるかもしれない!と思うと、いつも以上に緊張感が高まります。そんな中、篠山川第一橋梁上にツンと澄ましたC57が姿を現わしました。 '72.8.22 丹波大山-下滝 P:高橋 明
下りブルトレを牽引するため、上り仕業後に回送されてきた、関門トンネルの水先案内人EF81+EF30×2です。この3輌は、「みずほ」「富士」「あさかぜ1号」の順で、九州に向かって、下関駅4番線を出発して行きました。 '78.11.5 下関 P:小林慎治
中学生の頃、父のオリンパスペン(ハーフ)を借りて撮影しました。連結器まわりのにぎやかさが印象に残っています。日付はわかりませんが、ノートに「あかつき7」と書かれています。 '72春 三宮 P:坂下考伸
列車が到着すると駅員さんが構内の外れまで来て転轍機を起こしポイントを切り替えると腕木の信号機がガシャリと下ります。近郊電車が行き交う今の福知山線にもノンビリとした時間が流れていたものです。上り列車の牽引機はDD51 18号機、下りはDD51 1178号機です。 '78.11 藍本 P:髙橋 明
東京発呉線経由広島行きの夜行寝台急行「安芸」が呉駅に到着。小休止の後、終着駅広島駅に向けて発車して行きました。 '70.2.15 呉 P:中川弘一
小郡駅で折り返し運転のため停車中の宇部線宇部新川行きです。右側は6年前に開通した山陽新幹線のホームです。 '81.2.8 小郡 P:小林慎治
生野付近を頂点とする勾配もこの付近ではまだ緩く、やや開けた谷間を姫路行きのC55が軽やかに走っている。山間部にはまだ雪が残るもののここでは春も間近い。 '64.3.12 竹田-青倉 P:中島正樹
ものすごい排煙を上げながらトンネルを飛び出し篠山川第一橋梁を渡るDD54牽引の上り普通列車です。この川代渓谷は架線を張られたくらいで今も変わらない風景が展開しています。みぞれ混じりの寒い一日でした。 '75.1 下滝-丹波大山 P:高橋 明
暑い夏の日、DD54の客レに乗って和田山へ来た。和田山機関支区にいたのはDD51。DD54の終焉が近いと感じた瞬間だった。 '77.7 和田山機関支区 P:野々村康久
呉線電化前日、惜別の装飾を施したC59 161に牽引された下り寝台急行「安芸」は、黒瀬川橋梁を渡り一路終着駅の広島駅に向かいました。 '70.9.30 安芸阿賀 P:中川弘一
播但線のC57は豊岡機関区の所属であったため、和田山駅までは後付回送で送り込まれていた。養父駅で待つと、DF50牽引の客車列車の最後部に連結され、11号機が現れた。 '71.9.24 養父 P:上村俊之
新幹線博多延伸を1か月後に控えた山陽路。セノハチを上る「はと」と、四重連で下る回送補機との会合シーンは定点撮影の合成です。でもこの二者は、この先の瀬野寄りで実際にすれ違っていたはずです。 '75.2.8 瀬野-八本松 P:長谷川武利
夏休みになると山陰地方、城崎方面への海水浴客用として臨時急行が大阪から播但線や福知山線経由で運行される。播但線は12系冷房装置付客車を豊岡機関区のC57が牽引。生野越えは前補機にDD54が付くので若干の上り勾配がある溝口で撮影。 '72.7.24 溝口-福崎 P:武者秀男
高校1年の春に、初めて望遠レンズ(といっても135mmですが)を買いました。標準とは違う迫力に感激しながら、シャッターを押しました。 '81.3.21 長府〜新下関 P:小林慎治
上手くタブレットキャッチが撮れたと思っていたけど、出来上がり写真を見ると、C58の頭が切れていた。後藤式デフに単式コンプレッサー装備機だっただけに、非常に残念な思いをしました。 '70.8.9 布原信号場 P:梶谷吉彦
5日後(8月1日)から新線に切り替わり、今ではこの場所もかなり変わっていることでしょう。 '86.7.27 生瀬-武田尾(旧線) P:須崎雅宏
架線は張られているもまだ電化前。大型機が活躍する場面に会うことが出来た思い出の高一の夏休み。大阪発八代行。233列車。機:C59 119。 '64.7.28 光─下松 P:青木一郎
機関車のファーストナンバーは注目を集め人気も高いが、他の車輌はいささか目立たない存在である。このキハユニ17 1もファーストナンバーで稀少形式だったが地味な生涯を送ったようだ。 '76.3 美祢線 湯ノ峠─鴨ノ庄(信) P:伊藤智庸
呉線は急行「安芸」ほか、「音戸」、「ななうら」(43・10以降は「音戸」に編入)が蒸機牽引の優等列車だった。牽引は糸崎機関区のC59、C62である。機関区を訪ねると、これから、急行「安芸」の仕業につくC59 162が整備を終えて待機していた。 '70.9 糸崎機関区 P:中川弘一
宇部線は、市街地や田園など、いろいろな風景が凝縮されていて、鉄道模型のレイアウトみたいでした。そして、撮影ポイントを探して、ひたすら歩きました。 '81.2.8 岩鼻─居能 P:小林慎治
30年前の呉線では、EF15のあとを受けてEF61が貨物列車を牽引していました。使い方を覚えたばかりのコダクロームをカメラに詰めて、自宅から自転車で1時間かけて撮影に行きました。まだ水尻駅ができる前の海岸線だった頃の水尻バス停付近での1コマです。 '78.11.22 坂─小屋浦 P:綿崎真澄
C61 2号機牽引の「白鷺号」が姫路まで山陽本線を走行し、沿線には多くのファンで賑わいました。私にとって、C61 2は奥羽本線で撮影して以来の出会いで懐かしく思いました。 '74.5.2 須磨-塩屋 P:中川弘一
芸備線の一番山深い辺り、一駅の間で線路は山地を避けて大きく迂回する。C58牽引の貨物列車がドラフト音も高らかにトンネルを抜け出してきた。トンネル出口からは暫く煙が立ち上っていた。 '64.3.9 備後落合-道後山 P:中島正樹
セメント工場の街、宇部・小野田では、旧型国電に交じって、DD51やDE10が牽引するセキ編成が、美祢のヤマから、原料の石灰石を運んでいました。 '80.3.22 岩鼻-宇部 P:小林慎治
福知山線の旧線を行く特急「まつかぜ」。トンネルの向こうから響き渡るディーゼル音、大自然の中を駆け抜けるその姿は長距離昼行特急の花形でした。 '85.8 生瀬-武田尾 P:泉谷 純
加古川機関区を訪問した時の一枚。後ろの機関車に今はほとんど見かけなくなった制服・制帽の高校生のお兄さんが写っています。 '72.3.12 P:石地康司
福知山線の旧線を行く急行「丹波」です。グリーン車も連結された長編成は迫力満点。現在ハイキングコースになっているこちらの旧線は今なお登山客が多く訪れるスポットです。 '85.8 武田尾-生瀬 P:泉谷 純
当時セノハチの補機EF59は瀬野駅で連結していたので、ホームから多くのFE59の姿を見ることができた。隣ホームではEF59 18+EF59 1のペアが発車を待っていた。 '74.10.5 瀬野 P:鈴木博之
真夜中の糸崎機関区にて、投光器を浴びてたたずむ国鉄最速の蒸気機関車C62 17。当時は署名とヘルメット着用だけで、このようなシチュエーションの写真も許可してもらえました。 '67.3.31 糸崎機関区 P:坂内定比古
東京発、下りブルートレインは、1レ 「さくら」を皮切りに、次々と駆け抜けて行きました。 '78.11.6 新下関-幡生 P:小林慎治
糸崎駅を発車する37レ急行「安芸」。この日はC62 37+C62 23の重連で運転された。 '68.11.17 糸崎 P:鈴木博之
この日は、須磨から塩屋へと移動しながら撮影していた。その中の一枚。貨物列車はD52もしくはD62が牽引に当たっていた。D62 10〔吹ー〕 '58.5 塩屋付近 P:小西 明
EF58が牽引する臨時特急「あかつき51号」です。2ユニット・12輌編成の、14系オール座席の「ブルートレイン」は、繁忙期になると、山陽路を駆け抜けました。 '78.8.13
幡生-下関 P:小林慎治
呉線はC59、C62の大型蒸機が急行「安芸」などで活躍していたが、電化により昭和45年9月末で引退する。C59 161号機に最終の急行「安芸」には、特製ヘッドマークを装着して惜別の思いで見送った。 '70.9.30 安芸幸崎-須波 P:中川弘一
関門トンネルの下関側出口で、友人O君とカメラを構えました。奮発して買った36枚撮トライ-Xには、新鋭機EF81 303とO君が、当時のまま記録されています。 '79.5.19 門司〜下関 P:小林慎治
揖保川橋梁を行くキユニ18のサイドを、バッチリ押さえたかったのですが、シャッター速度に難あり。少し被写体ブレ。せっかくPKRを使ったのに、ちょっと悔やまれる一枚。 '80.8 東觜崎-播磨新宮 P:芝地寛之
呉線の電化開業前日、糸崎機関区を訪れると、急行「安芸」牽引のC59 161号機に惜別のヘッドマークと日章旗を掲げて最後の花道に向けての準備が進んでいた。 '70.9.30 糸崎機関区 P: 中川弘一
電化はしていたが普通列車、優等列車は蒸気機関車が牽引していた。C59やC62がひっきりなしにやって来た。C62 35〔梅〕 273レ '58.2 垂水-舞子 P:小西 明
朝から引越しの荷造りも済み、一段落したところで2年間住んだ官舎を記念にと思い撮影した一枚。人通りのない簡易舗装の道端に立つ街灯、板塀。ちょうど、クハ55形(?)の普通電車が出て行くところだった。 '58.3.30 新長田駅 P:小西 明
箱庭のようなこの場所でDD54の旅客列車を俯瞰した。満足感一杯で撤収を始めたその時、スローモーションのように三脚が傾き始め借り物のAE-1はコンクリートにぶつかり、泣きたい気持ちになった。 '77.5.28 長谷-生野 P:野々村康久
EF58からEF30に付け替えられた団臨「お座席列車」は、雨脚が急に激しくなった中、見送る人もなく、静かに下関駅を発車しました。 '80.3.30 下関 P:小林慎治
海田市広島方面に出張した折り、近くを走る呉線にカメラを向けた。呉線に入る列車が海田市手前で山陽本線をまたぐ辺り、ちょうどC59牽引の上り急行「安芸」がやって来た。この頃広島には3輌のC59がまだ健在だった。 '67.10.30 海田市 P:中島正樹
大学受験も一段落して、静かな春休みを過ごしていました。お昼前のこの時間、唯一の楽しみは鮮魚列車5050レでした。ただ、来るか来ないかはその日の運次第というファジィなところが逆に撮っておこうという気持ちにさせてくれたのかもしれません。写真はEF61 201の補機つき列車を元鉄道学園前踏切で後うちしたものです。 '79.3.6 向洋-海田市 P:綿崎真澄
20系ブルートレイン「富士」はEF60 503に牽引されて朝に広島駅に到着、出発していったた。その横で呉線で活躍しているC62が見送る。 '65.5.4 広島 P:中川弘一
DD54の前補機が付くためガッカリした人が多かった播但線の貨物列車。個人的にはC57もDD54も好きなカマだったので好んで撮影したが、内心では「別々に来てくれたらなあ!」と思っていた。 '71.1.15 新井-生野 P:鈴木博之
播但線の客車はC57が牽引していましたが、特に冬期にはスキー臨時列車が多く設定されており、上り列車の中には回送目的でC57が3台で生野峠を上ってくる迫力ある姿に感動し、多くのフアンが訪れました。 '71.2.10 生野-新井 P:中川弘一
重連のEF30に牽引された、20系の下り「あさかぜ1号」が、下関駅を発車しました。その前方には、同じくEF30が牽引する上り普通列車が写っています。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
曇天の冬空の下、3輌編成の茶色の電車が、吊掛けモーターをうならせながら通り過ぎました。 '81.2.8 小郡〜上嘉川 P:小林慎治
ドラフトと共にやがて山かげに煙が見えてきた。期待を高めつつ覗くファインダーに見えたのは前補機のDF。外れた期待に大落胆。意気消沈でやぶれかぶれの正面写真。 694列車 機:DF50 566+C57 P:青木一郎
万博臨の返却回送が走るというので自転車に乗り武庫川渓谷を目指した。渓谷の入り口に自転車を置き徒歩で渓谷を遡る。待つことしばし、曇り空の下をC57 152が勾配を駆け上ってきた。 '70.5.5 生瀬-武田尾 P:石田哲彦
特別なご好意で、布原信号場の田野助役官舎に一泊。助役さん手造りの朝食に舌鼓!「いいのが撮れるといいなあ」と白い手袋を着け、清々しい表情でホームに立ち最敬礼! 私もまだ水の冷たい川に足まで浸かり、鉄橋の真下で気合を込めてシャッターを切った。 '72.3.14 伯備線 布原信号場〜新見 P:中浦秀和
感慨深げに最後の3重連に白手袋で見送った田野助役は帰宅し、奥様、我々と記念撮影した。 '72.3.14 布原信号場 P:中浦秀和
スタイリッシュな彼女のサイドボディはいつも煤で汚れていた。ポケットティッシュで少し拭いてあげたが、よけいに醜くなくなった。明り採りのガラスに最後のメッセージを残した。私の右ひとさし指は真っ黒だった。1週間後、彼女は定期運用から外れた。 '78.6 姫路 P:野々村康久
短いが、美しい編成で坂道を駆け下りてくる急行列車。最盛期には10輌以上もの編成で、ホームからはみ出て停まることもあった急行「みささ・みまさか」。この頃は、まさに最後の輝きを放っていたと思う。 '82.6 播磨徳久-三日月 P:芝地寛之
C57が来る直前に見えないくらいの大雪になり、慌てて線路際まで行って撮りました。 '71.1 生野-長谷 P:川瀬 剛
セノハチの勾配区間を行く1016M「つばめ4号」。直前まで瀬野西トンネル上から撮影していたが、線路の下の家を画面に入れないように下りて撮影した。 '74.10.5 瀬野-八本松 P:鈴木博之
「あさかぜ」の最盛期は、上り下りとも、1号から3号までありました。下関発着の"東京ブルートレイン"は、関っ子の私にとって、あこがれの夢列車でした。 '78.4.23 新下関-幡生 P:小林慎治
臨客用の回送機を併結したため思いがけずの三重連が実現した。同好の士が多く集まる中、列車が近づくにつれ周りからの高まりつつあるシャッター音に急かされてしまい、見込んだ位置より早く押してしまった思い出。636列車 機:C57 156+C57+C57。 '72.2.29 新井-生野 P:青木一郎
雨の生野峠をC57が単機で登って来た。何度も何度も空転を繰り返し、空転する度ドラフト音が消え、再びゆっくりと動き出す様は見ているこちら側まで力が入りました。 '72.6.12 新井-生野 P:高橋 明
下関駅3・4番線ホームの、関門トンネル側端には、短い引き込み線があり、そこは、湘南色「クモニ83」の指定席でした。 '78.1.15 下関 P:小林慎治
布原信号場の2492レを撮影したあとに新見機関区へよりました。火を落していたのも何輌か含めてD51・C58が顔を並べていました。 '71.1 新見機関区 P:川瀬 剛
有名な撮影地ですが、海を大きく入れて撮るのは難しい場所です。この写真は仕事の関係で一般の人が立ち入れない場所から撮ったものです。仕事関係の機械や景色の中に埋もれていた一枚です。一般の人が入れない場所なので永らく封印していましたが、その施設も撤去されてしまったので、投稿しました。 '78.9.26 塩屋-須磨 P:山口龍次
無煙化直前の播但線。この日は訓練のためか運悪く本務機はDD54だったが、後補機のC57 93は威風堂々としていた。 '72.9.23 姫路 P:西田達哉
DD54が牽引する「汽車」が当たり前のように発着していた姫路駅から生野へ行く途中の福崎駅で上り「はまかぜ」と交換。なんの感動もなかった駅撮り写真が今とても愛おしい。 '77.5.3 福崎 P:八木雅弘
高校生時代四国旅行に行った際の1コマです。いつか必ず急行連絡船に乗ってみたいと思っていましたが、夢はかなうことはありませんでした。 '79.8 宇高連絡船 P:齋藤功郎
高1の夏休み初めてこの地へやってきた。友人と二人で始発に乗り遠い道のりを歩いた。定番の場所には入ることが出来ず、大福トンネルの上から631レを狙った。凄まじい音と共にDD54は走り抜けて行った。 '77.8.15 長谷-生野 P:野々村康久
兄がカメラを買って間もない時、私を連れて須磨海岸にやってきた。電化はしていたものの、まだ蒸気機関車の牽く優等列車が走っていた。兄がセットしてくれて、私はシャッターを押しただけの一枚である。京都9時10分発、博多行 5レ「かもめ」 機:C59 190〔梅〕 '58.5 須磨─塩屋間 P:小西 明
第23西川鉄橋を渡り信号場に進入する芸備線857D。D51三重連2492レが演じた壮大なドラマの幕開けを告げる使者のような存在だった。 '71.2.11 新見-布原(信) P:鈴木博之
山陽新幹線博多開業直前、高校の春休みを利用して撮影旅行に行きました。東京から急行「桜島・高千穂」に乗って西に向かったのもいい思い出です。 埴生-厚狭 '75.3.7 P:吉川 明