鳩原付近を敦賀方面に向かって歩いていると上り貨物列車が見えた。もしかしてと思い振り向くと下り「雷鳥」が見えたので、慌てて撮影したことを思い出す。 '72.6 北陸本線 新疋田ー敦賀 P:田中敏一
北陸各線の最近の記事
この時期はまだまだ旧型客車が各地で活躍してました。お客さんもまばらな時間帯ですが、しっかり5輌連ねています。 '84.8.23 直江津 P:米山浩司
北陸本線の米原ー田村は、交直流の接続区間のため客車、貨物列車は当時D50、D51などが活躍していました。雪が積もる稲藁を前景にD50が真っ白い煙を吐きながら北陸路を行きます。最近になって、D51 200が大規模修繕を終えて湖北路で試運転を行っています。 '68.3 北陸本線 米原−坂田 P:中川 弘一
丙線区用に長野工場で新製されたDD16 1号機。長野県下のC56使用線区の置換えトップバッターは大糸線で、翌日からの訓練運転のため糸魚川機関区に回送されていました。 '72.3.13 糸魚川機関区 P:牧 光一
穴水駅七尾方面にある陸橋より撮影しました。厳しい冬の能登を走る機関車らしくキャブの上に幌を掛けての運転です。 '73.3.29 七尾線 穴水-能登鹿島 P:石地康司
休憩中の「ふるさと列車 おくのと」号牽引機C58 140。七尾機関区は松の植木が美しい木造事務所があり好ましいレイアウトでした。 '73.3.29 七尾機関区 P:石地康司
休憩中の「ふるさと列車 おくのと」号牽引機C58 140。七尾機関区は松の植木が美しい木造事務所があり好ましいレイアウトでした。 '73.3.29 七尾機関区 P:石地康司
北陸本線のエースとして常に客・貨列車の先頭にたったEF70。しかしその後、湖西線が開業するとEF81にその座を追われ、線区に特化した性能ゆえ転用先にも恵まれず不遇な機関車となってしまった。 '76.8.11 北陸本線 敦賀-新疋田 P:森田 宏
交直接続区間の駅、田村駅で撮影していたら、当時、481系特急雷鳥の増発用として、「東急車両 試運転」のヘッドマークを付けた新車の試運転走行をよく見かけた。 '68.8.5 北陸本線 田村 P:村木勝義
交直接続区間、到着した客車列車の機関車が今、交換のため外されたところです。初めて見る赤い交流電機ED70のトップナンバーに出会えて、ラッキーでした。 '68.8.5 北陸本線 田村 P:村木勝義
学生時代最後を記念して首都圏からは行きにくい中国地方や北近畿などを巡った。土地勘はなかったが海の見える若狭本郷駅で下車、やって来たC58は小浜湾をバックに何とか撮影。 '64.3.13 小浜線 若狭本郷-加斗 P:中島正樹
475系急行「立山」が、EF70牽引の普通旅客列車を追い抜く。この「立山」は、大阪と富山間に2往復設定されていた。大学鉄研の夏季合宿の合間に撮影した一枚。 1967.8.22 北陸本線 余呉 P:高橋孝一
"高原のポニー"は"奥能登のポニー"となり、小気味のいいブラスト音を響かせ小さな峠を登ってきた。 '74.3.10 能登鹿島ー穴水 P:吉村忠修
北陸本線の交直接続区間に活躍したE10。米原駅からバック運転で発車するシーンを撮ったが、当時カメラの取り扱いに不慣れで失敗、トリミングでやっとまとめた。 '60.3.18 米原 P:中島正樹
冷房が今ほど一般的でなかったあの頃、普通列車の冷房は夢のまた夢だった。そんな中、冷房された急行編成の普通列車運用は、今で言う"乗り得列車"の最たるものだった。 '81.8.19 大鳥羽-十村 P:田中一弘
北陸本線の交直接続区間、米原-田村間のD50撮影に出かけました。しかし、このとき動いていたのは300号機のみで、他はもうすでに引退しあとはすべてD51でした。写真は、待機するD50 300、D51 383の横を通過する長工デフのD51 501。バックに、ED70やEF70が見えます。 '68.8.5 田村 P:村木勝義
昭和32年に敦賀・田村間の交流電化完成。米原・田村間は非電化のままで当初はE10形の運用だったが、昭和37年春で運用終了。代わってD50がこれに付いた。米原を出発する普通列車。 D50 246 〔米〕 '65.7 P:小西 明
青空が綺麗だったので南川の河原からC58を待つことにしまし た。幸運なことに夏空を背景に鉄橋を渡って来たのは元お召機のC58 171でした。 '71.8.27 小浜-東小浜 P:髙橋 明
木造の機関庫で出庫を待つハチロク。静かな庫内はコンプレッサーの音が響いていました。 '72.9.23 福井機関区 P:石地康司
北陸本線米原ー田村の交直接続がすべてディーゼル機関車に置き換えられる前は、D50が活躍していた。長野工場式り取りデフののD50 131が雪景色の湖東路で奮闘する。 '68.2.25 北陸本線 米原-坂田 P: 中川弘一
余呉湖の周辺で撮影を終え余呉駅へ。ED70に代わるF型機として新型のEF70が貨物を牽引してやってきた。まだ交流電化もめずらしく、当時は前パンタを降ろして走行するカマが奇異に見えた。 '67.8.22 余呉 P: 高橋孝一
地上駅時代の雪の富山駅に進入する富山港線のクモハ73。寒風に晒され、老体に鞭打って走る姿に思わずカメラを向けていました。 '85.2.28 富山 P:平井ヨシフミ
ワムを連ねて新疋田の山中を行くEF81。現在はレッドサンダーがコキを牽引して疾走していますが、貨物列車にはやっぱりワムが似合うと思います。 '75.10.10 敦賀-新疋田 P:石地康司
激しい吹雪により遅れて到着した貨物列車の機関士と打ち合わせを行う駅係員。鉄道をとりまく風景には、過酷な環境で頑張る鉄道員の姿があった。 '74.2.11 穴水 P:田中一弘
蒸機最後の追分で整備された後、北陸本線を経由して遠く四国の八幡浜に保存回送される79642。EF70も後を追うとは...。 '51.4 敦賀 P:溝川眞司
奥能登へドラフトも勇ましく急坂を駆ける、このカマと翌年木曽福島で再会するとは夢にも思わなかった。 '73.7.22 能登三井 P:服部基寛
師友との一泊旅行で三方五湖に行きました。敦賀からの938レが粟野駅で921レと交換。当時、「SLブーム」でしたが、小浜線はC58ばかりであまり人気がなかったようです。乗務員同士の挨拶が当時の雰囲気を伝えてくれます。 '70.3.29 小浜線 粟野 P:森瀬壽三
急行と交換待ちのC56、このカマとは翌年木曽福島で再会することになった。 '73.7.22 能登鹿島 P:服部基寛
小浜線の蒸気機関車さよなら列車。C58の重連運転でした。 '72.9.25 青郷-松尾寺
P:水野秀昭
細いボイラーに朱に塗られた大きめの型式入りプレート。なかなか粋なC56だった。 '74.2.10 七尾機関区 P:田中一弘
88623は撮影した3年前に飯山線で旅客列車を牽いていた。こんなところで出会うとは思いもよらなかった。 '73.5 計石 P:平林寛信
夕方、金沢駅に到着した特急「雷鳥」です。車内清掃やヘッドマーク交換をして、次の目的地へと出発します。ボンネット特急は、毎日のように大阪-上野を走っていました。 '77.10 金沢 P:采女 誠
発車間際になって突然の吹雪。のどかでかわいい(?)イメージだったC56の違った表情を見ることができました。 '73.2 和倉 P:正垣 修
1982〜85年に運転されていた福井発着の485系「白鳥」。四半世紀以上経過した現在でも485系特急がこの海岸沿いを走り続けています。 '84.8 青海川-鯨波 P:橋本安史
北陸本線の交直流のデッドセクションが米原-田村(正確には坂田-田村)間にあって、その間のみの客車列車、貨車列車の牽引にD50それにこのED30が使われていました。ED30浜松工場でEF55の部品を流用した1台のみの試作機でした。 '63.6.9 坂田-田村 P:青山春樹
職場旅行で北陸地方へ行った機会を利用して、越美北線へ8620形の貨物列車を撮影した。田園風景と背後の山並みは雪化粧して美しく、88623号機の煙が凄く迫力ある姿を見せてくれた。 '73.3.11 計石-牛ケ原 P:中川弘一
「行ってらっしゃい」 思い出に残る写真が撮れました。 '77.10 金沢 P:采女 誠
多客時に運転されていた臨時急行「加賀」。重連のパーイチに牽引される長大な客レは移動手段の主役が鉄道であった証です。 '75.10.10 新疋田-近江塩津 P:石地康司
ドライブ途中に寄っただけなので、撮影の記憶が全然ありません。北濃駅で2本の並びは珍しいかも、と改めて写真を見ると、奥の団体列車はキユニ2816でした。 '86.8 北濃 P:赤座安彦
撮影当時、頻繁に通る「雷鳥」は食傷気味で、カメラを向けないことのほうが多かった。引退と聞いて信じられませんが、永年本当にお疲れ様でした。 '80.10 新疋田─敦賀 P:南 浩之
正月明け、親戚帰りに初めて立ち寄った七尾線。雪もなく、ただ寒い中を七尾湾が見えるところまで歩きました。やって来たのは、形式入り赤ナンバーのC56124号機でした。このあと、能登中島駅へ立ち寄って停車中を撮影したのですが、この日は誰一人としてファンに出会いませんでした。 '74.1.5 西岸-能登中島 P:大西東太郎