■急行「伊豆」、特急格上げの背景
国鉄は明治以来、陸上輸送機関の中枢として国の社会・経済を支えてきたが、1964年度に赤字に転落した。これに伴い、第三次長期計画を策定し、経営改善に向けての諸施策を実施することになった。このような状況を背景に抜本的な経営的改善と、収益力の向上を図ることを目的に1968年10月白紙ダイヤ改正、「ヨン・サン・トオ」が実施された。しかし、モータリゼーションなどの流れを止めることは出来なかった。
▲川崎重工業兵庫工場で落成した185系が本線試運転に備えて鷹取駅の側線に入線。前面には使われることのなかった「あまぎ」のヘッドマークが表示された。
’81.2.12 山陽本線 鷹取 写真所蔵:岡田誠一
1980年代になると、もはや公共企業体としての維持は不可能であり、改善が達成できなければ、経営形態の議論も避けられないとの暗黙の空気があった。185系の登場はまさにこの時期と一致しており、185系という新形式電車を使用して東海道・伊東線の急行「伊豆」を特急に格上げし、L特急化するという考えを本社が持ったことは、当時の国鉄のおかれた状況からすれば当然のことであった。
一方、受け取り側の鉄道管理局としても、特急格上げは旺盛な伊豆への輸送需要を考えれば収益性を高めることからも異論はなく、急行「伊豆」の置き換えから一転して特急運転へ体制をチェンジすることとなった。
しかしながら、153系電車にあっても、通勤輸送に使用することがやはりダイヤ上問題となっており、急行としての単純置き換えであっても、少しは乗降時間短縮にむけた改善ができないかという問題意識も持っていた。このため、当初本社に対する要請では2扉については急行列車の居住性から避けられないものの、扉を1,300mm幅の両引き戸にしてほしいという概念を要望していた。しかし、特急となれば一般的には乗降扉は客室部分をより広くとりたいために出入り口は700mm幅の狭いものであるのが過去の定番であり、これでは首都圏通勤に使用するのは無理であることは自明であった。また当初はデッキなしも俎上にあがっていたが、結局デッキ付き2扉で、扉幅1,000mmで新造されることになった。つまりこの点では客室構造見つけは153系電車とほとんど同じ仕様となったことになる。
■ストライプ塗装、誕生
特急格上げの方針を受け鉄道管理局側では営業部門を含め、特急らしい車両とするように、いくつかの要望をしたことを記憶しているが、すでに設計は終盤に入っており、ほとんど変更は不可能な段階になっていた。最後に特急格上げするのであれば是非見栄えのする車両にしてほしいと、まことに情緒的な希望を述べたことを覚えている。
当時の考え方からすれば特急列車は基本的に「本社列車」とされており、その本社が落成する185系でL特急化するという方針を打ち出したのであり、その決定は絶対的なものであった。
こうして、185系は1979年度第3次債務車両計画により45両が、1980年度第1次債務により70両の合計115両が川崎重工、日本車輌、近畿車輌の車両メーカー3社に発注された。車両計画に携わった本社のメンバーも特急として新たにドル箱の温泉特急として飛躍させるために、車体の塗色については、国鉄にかつてなかったものにしたいという熱意をもって考えてくれていた。いわゆる国鉄色を脱し、ホワイトを基調にし、3本の斜めストライプを配した車体はいくつかの案のなかでも、もっとも新鮮に映り、新たに飛翔する特急電車としては申し分ないものと決定した。
▲DD13 632に牽引され川崎重工業兵庫工場を後にする185系0番代
’81.3.26 川崎重工業兵庫工場 P:細矢和彦
本文:大熊孝夫 要約・再構成:RM レイル・マガジン334号より
🔶第4回 激動! 185系開発会議
🔶第5回 185系、感動の落成