185系

特集・コラム

第2回「185系誕生の背景となった153系」

2020.12.30

■185系開発始動時の国鉄
 1973年当時、私は東京南鉄道管理局という地方鉄道管理局、いわば要請側にいた。つまり、具体的な置き換えや運用計画を策定し、本社に新車の投入をお願いする立場にあったことになるが、本社と東京三(北・南・西)鉄道管理局は渡り廊下で結ばれており、毎日のように細部の打ち合せに通っていた。しかも、そこにいるのは昨日までの同僚であったこともあり、さまざまな状況を知り得たので、車両計画の進捗状況も細部にわたり把握していた。このため185系については、要請側からみた経過を中心に、本社での流れなども織り交ぜて記述していく。

▲急行「伊豆」や東海道本線の普通列車としても活躍していた153系。

 ’81.4.3 東海道本線 根府川~真鶴 P:松尾よしたか


 また、この種の文にはあまり記されていないが、ここで重要となってくるのは、国鉄内での労使関係の極度の緊張状態である。このころから職場の荒廃が社会から指弾されるようになっており、その対応に追われていた地方の鉄道管理局では「新しいことは、あまりやりたくない」という不幸な雰囲気さえただよっていた。
 しかし、このような状況下でも1980年10月改正は、当時輸送力が逼迫していた東海道・横須賀線の抜本的な輸送改善を行わなければならず、総武・横須賀線の開通は、首都圏の諸施策のなかでも極めて大きなプロジェクトであり、優先順位も極めて高かった。
 これと並行して、もうひとつの大きな課題である田町電車区配置の153系電車の老朽取替計画の検討が始められた。なお、東京局では過去にも153系電車の取替計画は俎上に上っていたが、その都度支障になっていた理由が大きく分けて二つほどあった。

・東海道・伊東線での153系の運用が複雑であり、簡単には置き替えが難しい。
・置き換えを実施した時の捻出車の留置箇所が不足している問題。

 特に、二つ目の捻出車の留置は当時の153系の配置状況にも大きく関わっていた。

■かつては幹線を担った153系
 153系電車は1950年代の動力近代化初期に準急・急行用として誕生し、新幹線開業前の在来線で幾多の優等電車列車に使用されてきた。東海道・山陽新幹線の開業前には、東京・名古屋・大阪・岡山・広島といった日本を代表するような大都市を結ぶ幹線の急行列車に重用され、ピーク時には600両以上が長大編成で運用されてきた。しかし、新幹線の延伸にともない、一部を除いて多くが急行運用から外れ、ローカル輸送に充当されるようになっていた。
 1970年代中盤までの153系電車は、電動車や制御車はほとんどが現役で残されており、関西圏では「新快速」に活用され、中京圏のものも快速体系で重用されていた。しかし、経年による老朽化で関西は117系により取替計画を進めており、中京圏のものについても取替計画が進行していた。
 このような状況下でなお、田町電車区配置の153系だけが依然として需要の高い伊豆への急行群を基本とした運用についており、先述の通り取替計画も進捗していなかったのである。

 この理由は、後に実際に計画を立ててみてわかったのであるが、先述したもの以外にも様々な問題が存在していた。(以下次回につづく)

 

▲153系急行型電車の配置状況推移

本文:大熊孝夫 要約・再構成:RM レイル・マガジン334号より

🔶第1回 側面のストライプに込められた思いへ
🔶第3回 153系大量置換え計画、始動へ

 

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