1964~’81年に掛け、都市計画第5号(東西)線、中央線中野から江東区東陽町へ至る路線及び中央緩行線との相互直通運転を行う前提の路線として計画。’64年12月に高田馬場~九段下間で開業以来、’69年3月までに中野~西船橋間30.8km全線が開業。投入車輌が5000系。当初2M1Tで登場、車体は骨組・台枠等の主要部分が鋼製で車体外板のみステンレス鋼板採用。20m・2800mm幅と国鉄車輌規格となり、性能も100kw主電動機、制御制動装置は電空単位スイッチ式バーニヤ抵抗制御、電磁直通ブレーキ(発電併用)+自動空気ブレーキ方式。台車は車体直結式ダイヤフラム式エアサス式。設計思想は経済性を重視。三面折妻ながら切妻に近いさっぱりスタイル。路線識別帯を初採用。煙草のハイライトブルーとして設定。路線延伸と輸送力増強で最終的に8M2Tまで増強。当初は非冷房であったが、’89年以降一部編成に冷改、制御を界磁添加励磁化。’88年以降新形式車投入で順次撤退となり、最終的に’07年3月まで活躍。引退。 ’88.5.3 中央線 中野 P:梶村昭仁