伊集院からの列車が加世田駅に到着、地元の人と思われる乗客がぞろぞろ降りてきた。突然目の前を勢いよく坊やが駆け抜けて行った。まだ元気だった頃のローカル線の一コマ。 南薩鉄道 加世田 '63.12.24 P:中島正樹
私鉄・専用線 その他の最近の記事
C11 207の動態保存で話題を呼んでいる東武鉄道は、昭和30年代、多数の蒸気機関車を保有していた。杉戸−姫宮間は見渡す限り農地が広がり、写真は撮り放題。しかし昨今はすっかり宅地化してしまった。 '58.7.17 東武鉄道 伊勢崎線 杉戸−姫宮 P:中島正樹
兄と初めて草軽電鉄に乗り、新軽井沢から草津温泉まで体験乗車。小瀬温泉で途中下車し、交換した混合列車を撮った。スイス風の変電所がある他、辺りは一面の針葉樹林が広がる。 '58.9.21 草軽電鉄 小瀬温泉 P:中島正樹
路面電車と共に写る、行き交う車や街並みが、懐かしい昭和のあのころを思い出させてくれます。 '79.8.21 香春口電停付近 P:小林慎治
成田山の参詣者用として運用されていた特急「開運号」1600系。カラーは茶系で渋いがデザインは当時として垢抜けて見え、東武鉄道の5700系と通じるものを感じた。 '67.8.13 京成電鉄 千住大橋 P:中島正樹
長い路線を持つ軽便鉄道の駿遠線、すでに新藤枝側とは分断され、こちら新袋井側も廃止される直前。しかし、到着したDB607牽引の新袋井行き列車にはまだ多くの乗客が利用していた。 '67.8.20 静岡鉄道駿遠線 新横須賀 P:中島正樹
廃止が予定されていた尾小屋鉄道、訪問した時はすでに観音下駅以遠が雪で不通。朝夕に貴重なDL牽引の列車があり、予め調べておいた梯川鉄橋で撮影、前夜に降った新雪が雪国の風情を醸し出してくれた。 '77.1.22 尾小屋鉄道 大杉谷口−金野町 P:中島正樹
7000系試運転。3100系、5000系と並ぶ。両車ともすでに消え、まもなく7000系も過去のものになろうとしている。 '81 小田急電鉄 小田原線 新松田 P:藤村巌雄
馬面電車で人気のあった軌道線。大沢温泉に泊まった翌朝、偶然工事用車輌として生き残っていた木造のデハ5形と遭遇。資材の準備をした後、終点の西鉛温泉に向けて動き出した。 '64.2.17 花巻電鉄軌道線 大沢温泉 P:中島正樹
鹿児島本線伊集院駅近くでC60を狙っている時、すぐ脇を鹿児島交通枕崎線の貨物列車が駅へ進入して来ました。DD1201を先頭に、最後尾に DD1202がついたプッシュプルでした。ダブルルーフの客車がついていますが、混合列車であったかどうかはわかりません。この2年後、 1971年4月1日には貨物営業は廃止になり、1984年3月18日には全線が廃止になりました。 1969.3.26 鹿児島交通枕崎線 伊集院 P:村木勝義
今から53年前の地下鉄銀座線渋谷駅。東急文化会館屋上からの風景。渋谷駅が移動するなどと当時は想像すらできなかった。 '63.11.3 P:岸 芳夫
弥勒菩薩も素晴らしかったけど、やはり私にはコッチの方が...。 '87.10.1 京福電気鉄道 嵐山本線 太秦 P:小林慎治
中学3年の修学旅行の初日、熊本城に向かう途中で撮りました。 '79.5.23 熊本市内 P:小林慎治
一度は乗ってみたいと出かけた軽便鉄道。運転本数が少なく片道はバス利用となったが、創業時の雰囲気を残して運転される単端式ガソリンカーは期待を裏切らなかった。 '60.11.3 九十九里鉄道 上総片貝 P:中島正樹
到着した普通列車に、折り返し千頭行き快速「奥大井」のサボを手早く取り付ける。車輌は手前、クハ2829(元名鉄ク2829)奥がモハ3829(元名鉄3829)。
当時、名鉄からの車輌がこの他にも、クハ2822+モハ3822の編成もあった。この頃、国鉄時代には、金谷駅のホームはまだ分離されておらず、東海道線から直接乗り換えができた。 '76.3.20 大井川鉄道本線 金谷 P:村木勝義
花吹雪の中を行くは、金四郎ならぬ157系最後の急行「伊豆」号。あれから48年その後花見に行っていないがどうなっているのやら。'68.4.22701M「第1伊豆」伊東線伊豆多賀P:髙澤一昭
浜松駅が高架になる前、航空自衛隊浜松基地への航空燃料の輸送は遠州鉄道が担っていた。東海道本線から遠州鉄道線へ、燃料タンクのある上島駅まで、会社保有の凸型電機に牽かれてタンク車が運ばれてくる。写真は、ED212の牽く貨物列車。踏切には、今は廃止された浜松市営バスも見える。 '69.8.10 遠州鉄道 八幡付近 P:村木勝義
2月29日の編集長敬白「ネガカラー再評価」を拝見して、カラー写真を見直してみました。37年前の曇天時のネガカラーですが、片上の気動車を象徴する臙脂色がよく判ります。確かに「驚くべきポテンシャルを秘めていた」ようです。 '78.8 同和鉱業片上鉄道 清水 P:幾代 裕
暖かな春の信州上田。行きかう列車を眺めつつ、休暇を楽しみました。 '85.5 上田交通別所線 下之郷-中塩田 P:武田忠雄
東武の杉戸機関区には工場があり、その片隅で解体待ちの古い機関車を見ることがあった。22号機は国鉄5900形と類似のアメリカンタイプが好ましく、本線での走行を見たかった。 '58.7.17 東武鉄道 杉戸機関区 P:中島正樹
2月14日に熊本電鉄で最後の5000系が引退、多くのファンが詰めかけた。 1978年頃は7000系全盛時代になっており、5000系はすでに主役の座からは降りていたが まだまだその存在は日常の普通の状景であった。 '78.1 東急電鉄東横線 田園調布 P:藤田高士
ナローの下津井電鉄を宇野線茶屋町から終点下津井まで乗った。鷲羽山の下津井寄りにある大カーブを海の見える高台から俯瞰。気動車改造の荷物デッキ付き車輌魅力的だった。 '64.3.11 下津井電鉄 下津井-鷲羽山 P:中島正樹
万国博を控え交通網の整備が続く大阪市内。間もなく廃止される市電の道路下では地下鉄5号線(千日前線)、道路上では阪神高速道路の建設工事が進む。当時は想像もできなかったが、現在この界隈は外国人観光客で大変な賑いを呈している。 '69.3.2 大阪市電 戎橋(えびすばし)停留場 P:末近義治
閉山を目前に控えた貝島炭礦のコッペル最後の活躍。私にとって最後の現役蒸気機関車との感動の時間でした。 '76.3.9 宮田-六坑 P:末近義治
笠岡駅を通るたびに気になっていたマッチ箱のような井笠鉄道。大井村を出るとひなびた沿線風景が広がりホジがホハを牽いて終点井原に向かう。ご覧の乗客では経営は厳しく約1年後には廃線になってしまった。 '70.3.29 井笠鉄道 大井村-小平井 P:鈴木博之
西武線と国鉄線に挟まれたこの付近は日通などの鉄道貨物取り扱い場所だった。発車した西武線の電車は国鉄戦災復旧車の311形、背後は増築中の西武デパート。 '57.8 西武鉄道池袋線 池袋 P:中島正樹
部分廃止から1年半あまりを経た下津井駅。児島からの列車が到着すると、駅員が集札に立つ。下車した客の多くが、丸亀行のフェリー乗り場へと向かった。 '73.11 下津井電鉄 下津井 P:清原正明
東北本線の石越から細倉鉱山を結んだ「栗原電鉄」は、その後第三セクター化されレールバスが走る「くりはら田園鉄道」と名を変えたが2007年残念ながら廃線となってしまった。しかし、写真のM153は運よく今も若柳駅跡に保存、現存している。 '77.7.18 栗原電鉄 鶯沢-鶯沢工業高校前 P:森田 宏
北多摩から線路沿いを終点是政方面に歩く。多摩川の河岸段丘を下ると開けた地形になり、是政方面から元伊那電の特徴あるE2形電機が短い貨物を牽引してやって来た。 '58.9.14 西武鉄道多摩川線 北多摩-競艇場前 P:中島正樹
社名を「総武流山電鉄」と名乗っていた頃、雑木林が随所に残る沿線を、クハ55+モハ1002が走っていた。この車輌、1975年に東濃鉄道から譲り受けた時点で時代遅れのレトロ車輌。写真の先頭車輌は1981年には早くも廃車となっている。 '79.2.20 小金城址-幸谷 P:森田 宏
鉄道雑誌に掲載された写真に魅せられ、訪問した那須山麓の東野鉄道。訪れた終点黒羽構内には期待通りまだ現役のボールドウイン1号機、そして庫内には木造客車も残っていた。 '59.6.28 東野鉄道 黒羽 P:中島正樹
'86年秋、新金谷。C11、C56の蒸気機関車と3000系SSE車が並んで停車していた。この頃、何度かこの地には通ったが、残念ながらついぞこの電車が本線を走っている光景には巡り合えなかった。 '86.10.11 大井川鐵道 金谷 P:田中一弘
列車で軽井沢に向かう途中、高崎駅ホームで見かけた上信電鉄の木造電車デハ1形。ダブルルーフにトラス棒、大きなパンタなど、どこを見ても魅力が一杯で、走る姿を撮りたかった。 '58.9.21 高崎 P:中島正樹
槍ヶ岳に登った帰り、列車を待つ間に撮った松本電鉄浅間線。多くの乗降客を見ると、これだけ地元に根付いた路線が数年後に廃止されるとは思わなかった。 '58.8.7 浅間線 松本駅前 P:中島正樹
日本ステンレスのコッペル1275形が大井川鉄道に動態保存された。その贈呈式が千頭駅ホームで行われ、既存の17、2108号機と共に三重連運転が実現、多くのファンで賑わった。 '71.11.14 千頭 P:中島正樹
三菱鉱業美唄鉄道の2号機が美唄駅構内にて点検整備中。寒風吹き付ける中、作業員が煙室扉を開けてシンダーを排出したり、足回りの点検を行っています。 '71.3 美唄 P:中川弘一
良い被写体がアチコチにあった頃。構内にも容易な手続きで立入らせてもらえた頃。あれから50年、アッという間。
左から42201、42501、DC351。 '64.4.2 石岡 P:青木一郎
水戸駅前の国道を上水戸方面から路面電車127形が走って来た。道幅は広かったが駅周囲の建物はまだ低く、並走するオート三輪が懐かしい。 '58.1.26 水戸駅前 P:中島正樹
田園都市線(旧大井町線)が二子玉川園を発車すると多摩川にさしかかり、道路橋の二子橋に敷設された併用軌道で渡る。肩身の狭い思いで道路中央を走る姿は見ものであった。 '63.12.15 東急田園都市線 二子玉川園―溝の口 P:中島正樹
夕張鉄道廃線のさよなら列車で、25、26号という9600形の重連です。ネットのない時代、北海道旅行中にどういう口コミで情報を入手したか覚えてません。 '75.3.21 新二岐ー錦沢 P:中村 肇
自宅の窓から線路が見えた。長らく国鉄の引き込み線だと思っていた。いつもタイフォンとホイッスルが、時計代わりだった。写真を始めた頃、真っ先にレンズを向けたのがこの列車だった。私の原風景かも。 '77.12 別府港-中野 P:芝地寛之
京急川崎駅がまだ高架になる前、川崎大師方面への大師線は地上駅の本線と並んでいた。入って来た大師線の電車は独特の風貌をした前面5枚窓のクハ150形が連結されていた。 '64.11.3 京浜急行大師線 京浜川崎 P:中島正樹
終点湯野浜温泉まで乗車し、線路に沿って全線を歩いてきた。黒雲が覆いかぶさる生憎の雨模様であったが、好ましいタイプの元京王帝都の2輌編成が健気に走っていた。 '75.3.30 庄内交通湯野浜線 安丹-京田 P:中島正樹
友人と館林機関区を訪問した時、庫内にはまだ数量の蒸機が健在だった。折から機関区の関係者が7号機の前に集まり、煙室扉を開けて若い職員に何やら説明をしていた。 '66.3.13 東武伊勢崎線館林機関区 P:中島正樹
後補機NO.21の助けを借りたDD1001牽引の上り石炭列車が平和を発車、錦沢への勾配区間に挑む。この後、後補機は途中で自動開放され、再び平和へ戻ってくる。背後には下り列車が見えている。 '75.1.31 平和-錦沢 P:中島正樹
新交通システムになる前の西武山口線は、最も身近な蒸気機関車で、遊園地とは思えないようなロケーションも魅力でした。流し撮りで煙突と煙を狙った一枚です。 '77.4.3 西武山口線 遊園地前-ユネスコ村 P:宮城浩志
上武鉄道は八高線の丹荘から上武化学前までの6.1km、1986年まで運行されていた。訪問してみて、予想外のおもちゃのようなかわいい鉄道なので驚いた。当時1日4往復あったが、これは午後の上り列車で、DC101がハフ3を牽引している。この地域はまだ養蚕が行われていて、手前は桑畑である。 '72.5 上武化学前-丹荘 P:高橋洋二
欧州の牧場を行く鉄道かと見まがう南海11009系の雄姿です。初めて乗った時、それまでの吊掛式の2000系とは異次元の乗り心地に驚嘆しました。 '64.7 南海電鉄本線 P:飯田 勝
札幌市交通局の50周年を記念して、ササラ電車に装飾を施した花電車が走りました。創業時に名鉄からやってきた22号も本線を走りました。 '77.8.7 西四丁目 P:宮城浩志
旧東武日光軌道線3001号と旧呉市電2501号が顔を合わせた駅前電停。電停には屋根もなく広い駅前大通りの離れ小島のような感じだった。 '71.3.28 P:鈴木博之
石炭を満載した貨車を前後で挟んだ25号機と21号機が、一旦後退してから、勢いをつけて急勾配に臨み始めたシーンです。しだいに速度が遅くなり、頂上付近では止まる寸前の速度になりました。ようやく頂上を超えると補機は走行しながら開放され、逆方向にゆっくり降りてきました。 '73.3.28 平和-錦沢 P: 高橋洋二
1922年製造の1275が昭和の風景の中を走っていました。当時から蒸気機関車の動態保存に取り組んできた大井川鉄道関係者に頭が下がります。1275は現在新金谷駅前の「プラザロコ」に展示されています。 '74.8 井川線 川根両国-千頭 P: 高橋洋二
初売りの買い物客で車内は混み合っていました。 '79.1.5 西鉄北九州線 魚町電停付近 P:小林慎治
検車区構内の片隅で見かけた木造電動貨車へ砂利を積み込む光景。日中昼寝をしている姿を見かけたことはあったが、稼働している姿を見たのは初めだった。 '61.5.25 京成高砂 `61.5.25 P:中島正樹
当時大ヒットした歌謡曲、野口五郎の唄う「私鉄沿線」。20代前半に1年半ほど暮らしたここ中延が、私の私鉄沿線です。第二京浜をオーバーする高架線を、黎明期のステンレス車5200系が駆け上がってきました。 '76.4 中延 P:藤田高士
取手駅を発車した列車は左へ大きくカーブする辺り、国鉄払い下げのキハ42000形とキハ41000形の2連がやって来た。当時は機械式変速装置のため総括運転が出来ず、それぞれの車輌に運転士が乗っていた。 '57.12.27 常総線取手-寺原 P:中島正樹
初めての遠距離撮影行、九州の蒸気機関車撮影に行ったときたまたま撮った博多の路面電車、今となっては貴重な一枚。 '70.3.29 西鉄福岡市内線 博多駅前 P:石田哲彦
釧路から夜行の急行狩勝の乗って、朝に美唄に降り立ち、美唄鉄道で雪景色を行く2号機(4110)の活躍を目にすることが出来ました。 69.3.21 美唄鉄道 東明 P: 中川弘一
『鉄道ジャーナル』誌の北海道特集で三美運輸のB6の記事を見つけ訪問したものの、あいにく2輌とも庫の中で悔しい思いをした。翌年1月再度訪問し、B6の面構えを撮った。そして訪問後ほどなくして炭砿が閉山、専用線も廃止された。 '73.1.9 P: 佐々木裕治
貨物列車が長野駅まで入っていた頃、ED50002の脇を古参のモハニ130がすり抜けて行く。現在は権堂駅も地下化され昔の面影は何も残っていない。 '64.7.14 権堂 P:中島正樹
羽鶴の1080が動くとの情報に友人と駆けつけた。火を入れてから約2時間、ようやく蒸気が上がって動けるようになり、多くのファンが見つめる中、ゆっくりと足慣らしを始めた。 '77.8.18 羽鶴 P:中島正樹
日豊本線の撮影を終え夕方の鹿児島市内を散策中、桟橋通り南日本新聞社前で木造の市電415形に出会った。どこかで見た顔だと思ったら写真で見たことのある元都電だった。 '63.12.27 市役所前 P:中島正樹
小田原駅では国鉄・小田急間の荷物の授受が、小田急荷電の国鉄ホーム乗り入れにより行われていた。入換えのため短編成の電車が構内を右に左に動き模型の世界の様で面白かった。デニ1101+デニ1304 '81.7.25 小田原 P:迫尾 肇
名阪間で国鉄151系のライバルとして誕生し、その特殊な構造故、151系の後継181系より先に姿を消してしまった近鉄10100系。私鉄にあって「国鉄時代に咲いた華」と強く意識させる車輌であった。 近鉄名古屋線 新正-海山道 '78.6 新正-海山道 P:田中一弘
ある時期まで「山口線」と言えば、ここ西武山口線だった。当時、比較的近場に住んではいたが、その割に訪れた回数は数える程で、今思えば非常にもったいないことをしたと思う。 '84.4 中峯信号場 P:田中一弘
発車待ち、運転士さんはキセルで一服。 '78.11.4 早稲田停留所 P:田中一弘
筑豊から煙が消えつつあったこの日、貝島炭礦へ撮影に出かけた。コッペル32号機は走っていたが、31号機は点検中の珍しい姿を撮ることが出来た。 '74.5.6 貝島炭礦 P:木部智司
夕張鉄道旅客営業最終列車の出発を開放で撮影。当日はセレモニーもなくこれが最終列車とは知られずに何気なく発車していく姿が心に残っています。 '74.3.31 野幌 P:千葉一郎
東北周遊の最後は福島交通軌道線に乗るため福島で下車。駅前でカメラの準備をしていると、突然停車中の電車脇から名物の荷物電車ニモ1形が貨物を牽引して街中へ踊り出て来た。咄嗟のことで後追い写真を撮るのがやっとだった。 '63.8.27 福島交通軌道線福島駅前 P:中島正樹
新黒井駅からわずかに歩くと見渡す限りの雪原が広がった。送電線が邪魔だったが駅を発車したDC92牽引の混合列車はもうすぐそこまで来ていた。気温が高かったのだろうか、客車の窓は開き、貨車に乗った作業員ものんびり景色を楽しんでいるようだった。 '61.3.1 新黒井-北四ツ屋 P:中島正樹
十和田観光電鉄線は、単線区間を走るローカル色の濃い路線です。貨物の運用もあり、電気機関車が往来していました。冬休みも終わり間近となり、4月より社会人となりました。 '80.3.27 高清水 P:板倉幸弘
西鉄の路面電車の中でも、異色(?)の北方線。その運行最終日、無料開放された車内は、沿線の利用客やファンの人たちで、終日、満員の賑わいでした。 '80.11.1 西鉄北方線 香春口電停 P:小林慎治
山田線宮古駅近くのラサ工業専用線、タンクのリベットが目立つ古豪C10 8が活躍。勾配ありトンネルあり、休憩時間にはキャブに乗せてもらったり、一日楽しく撮影させていただいた。 '75.8 P:小林哲哉
北海道の炭砿地帯に蒸機を求めて夕張鉄道鹿ノ谷機関区を訪問。許可を得て構内に入ると、お馴染みの蒸機が出そろう機関庫前ではちょうど職員による朝のラジオ体操が始まっていた。この頃は夕張もまだ元気だった。 '67.5.3 鹿ノ谷機関区 P:中島正樹
オメガカーブを終点下津井に向け下る2輌編成の電車(クハ24+モハ103)。ローカル色が漂う路線で撮影ポイントも多かったが、この当時撮影に訪れる人は稀だった。 '75.12.30 東下津井─下津井 P:鈴木博之
蒸し暑い夏の一日の始まり、開け放った窓からの風はなく、発車が待ち遠しい様子。日中に撮ることが難しく、この日は早起きしてやっと撮影できた。 '78.8.28 岡南福田 P:鈴木博之
小田急からやってきたSSEは短い間でしたが、奥大井の谷間にミュージックホーンを響かせて活躍していました。 '84.9 大井川鐵道 P:幾代 裕
甲子園口駅前の商店街を通り抜けて阪神国道に出ると上甲子園の停留所があり、31形が止まっていた。土曜日のせいか国道を走る車も少なく、まだまだ活躍できそうな気がしたが、1975年5月に全線廃止された。 '74.3.2 上甲子園 P:鈴木博之
炭砿地帯の鉄道ゆえに最後まで蒸機が残っていた。夕張から国鉄線とほぼ併走していた路線は、若菜から大きく分かれ平和で後補機を付けて山越えに入る。本務がDLに変わっても蒸機NO.21は補機としてここで待機、その脇を夕張へ向けて下りNO.26が発車して行く。 '75.1.31 平和 P:中島正樹
土曜日運転の難波発白浜口行き座席指定急行「臨時しらはま」号は南海電鉄のサハ4801、1輌のみであるが、難波から和歌山市までの南海本線はモハ2001形が牽引、特急ダイヤで疾走。和歌山市から東和歌山(現・和歌山)までの3.3kmはC57が牽引、和歌山で天王寺からEDF52などが牽引してきたスハ44系による「臨時しらはま」号と併結、引き続きC57が白浜口まで牽引した。和歌山市・東和歌山間は短区間ながら客車1輌のみという、これ以上考えられない最短編成の蒸気急行列車で、しかもこの編成での運転区間も、最も短い距離であると思われる。しかも途中、和歌山市-和歌山(現・紀和)場外の国社分界点までの1.6kmは南海電鉄の国社連絡線だったので、写真の列車は南海電鉄の営業列車ということが言える。一般に大手私鉄で最後まで蒸気運転を行っていたのは東武鉄道と思われがちであるが、和歌山市駅まで国鉄紀勢線や和歌山線の蒸気列車が乗り入れていたため、東武鉄道よりかなり後まで南海電鉄は蒸気の動力認可を受けていたのである。「臨時しらはま」号の客車運転は昭和43年3月の改正で姿を消した。 '66.8 南海電鉄 和歌山市 P:永野晴樹
鉄道開通祝97周年で行われたクラウス17号公開運転の模様。車掌車2輌を連結して工場内の専用線数百メートルを何度か往復するだけのイベントだったが、これだけ古い蒸機が元気で走る姿を見ることができ感激したことを覚えている。 '69.10.26 麒麟麦酒 横浜工場 P:宮山幸雄
裏日本が大雪との情報に、すぐ夜行列車で長岡へ。目的は廃止間近の栃尾線をもっともそれに相応しい雪の中で撮りたかった。乱れたダイヤに悪戦苦闘の末、苦労した甲斐があって機関車さながらの荷台付きモハ209が混合列車を牽引してやって来た。 '73.2.11 上北谷-楡原 P:中島正樹
小田急8000系が完成、試運転が始まった。珍しくヘッドマークを付け、なぜか多摩センターの行き先表示を出してやってきた。この車輌で鋼製車両は終わり小田急ではステンレスの通勤車の製作が始まった。 '82年 座間─海老名 P:藤村巌雄
1972年からしばらくのあいだ、西武山口線を1911年製の小型機関車が走っていました。「おとぎ電車」の愛称のあった行楽用軽便鉄道でしたが、今は新交通システムになっています。 '74.9 西武鉄道山口線 P:佐藤圭樹