関西本線で運用されていたD51の中でもひときわ目を引いた499号機。後藤デフに長野式集煙装置を身にまとったその姿に圧倒された。 '72.12.10 関西本線 加茂ー木津 P:吉村忠修
関西本線の最近の記事
ホームの端にある乗務員区に掲げられた日章旗。1月15日、「成人の日」を祝してのことだった。 '72.1.15 関西本線 亀山 P:田中一弘
関西本線弥冨駅は日本で一番低い所(−0.93m)にある地上駅で、今は近鉄とは完全に切り離されているが当時は貨車の引き渡しのためレールは接続されていた。この日は運良く元お召機のC57 139号機が撮影できた。 撮影日不詳 関西本線 弥富 P:田中敏一
亀山駅西方の操車場で参宮線客レの編成を組成中のシゴマル。小さな汽笛を発しながら軽快に動き回る様子を飽きることなく見学していました。 '72.4.23 亀山機関区 P:石地康司
1986年夏、桜井線に蒸気機関車が運転され、保守は竜華機関区で行われた。メンテを受ける非日常のC56 160の横を日常の101系が走り抜けていった。 '86.7.27 竜華機関区 P:田中一弘
コメント 梅雨時期でしたが天気に恵まれた加太築堤。近辺に店がなく大きな水筒を持参して撮影に向かった思い出があります。 関西本線 加太-中在家(信) '72.6.25 石地康司
天王寺駅のC58荷物列車のんびりと発車を待つ湊町行荷物列車。当時、親に買ってもらったばかりの一眼レフを手に毎日のようにこの列車を写しに出かけました。今、このホームには特急「くろしお」「はるか」等が頻発しています。 '68.7 関西本線 天王寺 P:末近義治
この付近は、四日市などの工業地帯を抱え、名古屋方面からの貨物列車が結構多かったのを覚えています。旅客輸送の方は、隣に見えているトラス橋の、並走する複線電化の近鉄名古屋本線に常に押され気味でした。今、D51 772の牽く貨物列車が、木曽川橋梁を渡ったところです。 '69.7.20 関西本線 弥冨-長島 P:村木勝義
加太の大築堤は冬になると北西の風が強く、煙はカーブの内側に流れ、後ろの貨車や後補機が煙に隠れ見えなくなる事が多いが、この日は運よく煙が立ってくれた。 781レ '71.2.28 関西本線 加太―中在家(信) P:田中敏一
国鉄関西本線柏原駅1番線、この駅の主のごとく停車中の武骨な近鉄モ6411形とク6521形。明けても暮れても、たった2駅先を行ったり来たり。そんな彼らも1983年、しずかに姿を消した。 '76.2.17 柏原 P:森田 宏
木津川に流れに沿って行く、笠置ー大河原。名古屋を出た急行「平安」と「かすが」は柘植で分割されてそれぞれの目的地に向かう2階建て急行だった。 関西本線 笠置ー大河原 撮影日不詳 P:服部基寛
バックビューから後補機の活躍を狙いましたが気温が高く、期待した煙はスカスカでした。 '72.6.25 関西本線 加太-中在家信号場 P:石地康司
スイッチバックにて交換列車を過ごし、今、発車の時を待つ。機関車より吐き出された煙が木々に巻き付く厳かと思える風景と、安全弁から噴出す白い蒸気の圧倒的な迫力に、私はいたく気圧された。 '72.3.19 関西本線 中在家信号場 P:田中一弘
最後の活躍をする名古屋区赤ナンバーのC57撮影に行きました。この日、C57 67の牽く名古屋発225レに乗って永和駅に着きました。モノクロ写真では赤ナンバーだと数字がよく見えませんでしたが、カラー写真でははっきり見えました。 '69.8.31 関西本線 永和 P:村木勝義
亀山で夜行列車を降りると、向かいのホームにC55 39牽引名古屋行きが発車を待っていた。C55との出会いはこの時が初めて、丸味のあるキャブ屋根が流線形改造と知ったのは後からだった。 '63.2.20 関西本線 亀山 P:中島正樹
連続上り勾配に備えテンダー上で石炭を均す乗務員。加太越えは大築堤が有名ですが加太トンネルをサミットとする柘植側も勾配が続く難所でした。 '72.1.7 柘植 P:石地康司
高校最初の夏休み、学割を利用して、関西を「旅」しました。初めて見る快速のヘッドマークに、大満足! '80.8.3 奈良 P:小林慎治
中在家信号場へ向かう途中に加太駅へ下っていく784レを撮影。川向こうの名阪国道は走る車が少ない時代でした。 '72.1.7 関西本線 中在家(信)-加太 P:石地康司
11月の気持ちのいい快晴の日、軽快に1291レが発車して行った。後方に入換用の8620から置き換わったDE10が見えている。 '72.11.19 木津-奈良 P:吉村忠修
桑名で宿泊、雨上がりの今朝は早朝から行動を開始した。しかし、冷え込みで濃霧に見舞われ、やっと霧が晴れ上がった10時過ぎ、駅の外れでC57牽引亀山行きを見送った。 '69.1.26 桑名 P:中島正樹
この貨物列車には補機がついていなかったが、電柱などがない場所ですっきりと撮影できた。九州の蒸機を撮影に行く途中ここを訪問したのだが、加太駅では貨物列車や荷物列車を含めた時刻表を配布していてありがたかった。 '72.1.6 加太-中在家信号場 P:高橋洋二
どんな経緯で情報を得たか、忘れてしまいましたが、「JC赤トンボ号」という団臨です。少し厚化粧の鷹取式集煙・重油タンク付の三重連でした。 '71.9.26 郡山 P:須田 剛
急勾配の加太越えに備え猛然とダッシュして加太駅を通過する後補機付きのD51貨物列車。駅員がホーム通過を見守っていた。 '71.11.27 加太 P:中島正樹
C50 115は小山からやってきた形式入りプレートの美しいカマだったが亀山での活躍はわずか半年あまりであった。伊勢市発亀山行824列車を推進で亀山客車区へ入れるところ。 '70.8.10 亀山 P:眞岡孝至
名古屋〜亀山間の客車列車はすべて名古屋機関区の赤ナンバーのC57が担当していました。この日、永和駅で上り224列車はシールドビーム補助灯付のC57 171でした。 '69.7.20 永和 P:村木勝義
山陰本線に向かう経由として関西本線を選択。夜行で着いたところ雨模様。駅近くで狙った荷物列車の牽引機はデフに「月に鹿」のD51 882だった。 '73.8.17 柘植 P:宮山幸雄
貨2268レ。遅くまで後部補機付き蒸機2台運転で残った貨物列車であったが、写真に残すことは少なかった。峠の加太側で撮ることが多く、勾配を下り込んでくる列車は見送るのが常だった。今思うと贅沢な選択だった。氷雨降る加太駅の出発、長い編成の最後尾で煙が上がる。 '73.1.15 加太 P:田中一弘
亀山機関区には2輌のC50が配属されていましたが構内やヤードで見かけるのはいつも154号機で、109号機は幻のカマと鉄友の間で言われていました。この日ようやく発見し記録できました。 '72.5.25 亀山 P:石地康司
無煙化直前ともなると、あふれるファンで場所取りもひと苦労。柘植を出て峠へと驀進するD51をとらえた。 '73.9.23 柘植ー中在家(信) P:大森光祥
D51 940は赤ナンバーのD51として人気があった。この日は加太の大築堤を貨物の後補機として押し上げていった。 '72.2.15 加太-中在家(信) P:武者秀男
5月ともなると列車を待つのも苦にならない。強い日差しも木陰に入れば涼しくて、爽やかな風が気持ち良い。カメラを構えて待つ間、私の背後の山中で、鶯が綺麗な声で啼いていた。 '72.5.5 加太-関 P:田中一弘
夕暮れ迫る栃原駅を通過する天王寺発名古屋行き「くろしお」。キロ2輌とキシを組み込んだ堂々の10輌編成、亜幹線のエースに相応しい貫禄だった。 '77.11 栃原 P: 楢井勝行
天王寺を発ち名古屋に向かう「くろしお」。紀伊半島を一周し栃原駅を通過する頃には日が傾き影が伸びていた。 '78.3 栃原-川添 P:楢井勝行
奈良機関区へ蒸気機関車を写しに行きました。助役室へ行って話をすると「住所と名前を書いといて」だけであとは自由に見学できました。 '61.12.3 奈良機関区 P:青山春樹
「SL伊賀路の旅」と銘打って運転されたイベント列車。ナメクジドームのD51 1が盛大な煙を上げファンサービスに努めていた。 '73.11.3 加茂 P:鈴木博之
加太の築堤で貨物列車を撮影後、中在家信号場の発車シーンを撮るために約1000mのトンネルを小走りに駆け抜けました。交換列車通過後、荷物列車はスイッチバックの信号所を猛烈にダッシュして峠のトンネルに吸い込まれて行きました。 '73.4.2 中在家信号場 P:武者秀男
峠を越えるC58牽引の客レがあった、太陽が大きく傾く夕刻、満を持していざ出発。 '71.7.4 亀山 P:服部基寛
木津川に沿ったこの区間にはよく撮影に出かけたが光線状態が悪いのが玉にきず、川面を渡る風に秋の気配を感じた。 '73.9.15 笠置-大河原 P:服部基寛
雨が降りそうな朝、島ヶ原を後にする上り貨物。上り勾配へ向かうダッシュの白煙とドレンの中に腕木信号機が浮かぶ。 264列車 機:D51 452
'72.1.15 島ヶ原 P:青木一郎
奈良機関区へ蒸気機関車を写しに行きました。助役室へ行って話をすると「住所と名前を書いといて」だけだあとは自由に見学できました。 '61.12.3 奈良機関区 P:青山春樹
蒸機終焉の頃、ここ奈良運転所にはまだ15輌のD51とC12が1輌、在籍していました。蒸し暑い日の昼下がり...次の貨物列車を牽引待ちしているD51を駅構内から眺めることができたよき時代でした。 '72.6.16 奈良 P:山手 修
夕方になると参宮線用の客車入換えのため、C50が活躍していた。ヤードや駅構内を動き回るマスコット的な存在だった。 '72.1.7 P:石地康司
当時D51-906号機は奈良機関区に所属していた。デフに描かれたマークは多種あったが"ピースマーク"と呼称されて関西本線の名物機関車であった。デフの柄にも特徴があるD51を追いかけていた思い出がよみがえる一枚。 '73.5 柘植 P:原田敬司
鉄道と日常生活の間でほどよい距離が保てた時代でした。懐かしい思い出です。 '73.6 加太-中在家(信) P:原田敬司