雪の機関区構内で待機するEF16。西日を浴びたその車体側面には砂箱やつらら除けなど峠越え対策の重装備が映えている。 '61.12.29 奥羽本線 米沢機関区 P:中島正樹
奥羽本線の最近の記事
米坂線、長井線から9600の姿が消えようとしていた。写っている29622は、この後、北海道に渡り、現役の蒸機がなくなるまで活躍した。EF71も、スイッチバックで有名な板谷峠で、山形新幹線が出来るまで現役だった。 '71.8 奥羽本線 赤湯 P:後藤 篤
急行から特急に格上げされた「むつ」、秋田〜青森を1往復していた列車です。本当に短命の列車名でした。 奥羽本線 大釈迦 P:須賀義孝
引退し解体のため廃車回送中のD51 35。D51 773次位の貨レにて回送中。夕陽を斜めに浴び金色に輝くその胴からは威風堂々と仕事を全うした潔さを感じる。英国の画家ターナーの名画「戦艦テメレール」を想い出させるものであった。名取"名"編集長の勇退を聞いてすぐに想い出した一枚。長い間ありがとうございました。 '70.8 奥羽本線 鷹ノ巣 P:深井浩一
奥羽本線の矢立峠は秋田と青森の県境の難所。陣場駅は急勾配に備えてD51やDF50の補機の基地だ。幹線だけに終日活気に満ちていた。 '70.5 奥羽本線 陣場 P:中川弘一
奥羽本線の難所、矢立峠を越えるDF50牽引の401レ急行「第1津軽」。撮影地へは陣場から羽州街道を歩いたが、この積雪の中どうやってこの場所に立てたかは、もはや記憶の彼方。 '66.1.16 奥羽本線 陣場-津軽湯の沢 P:中島正樹
DF50牽引の502レ急行「日本海」、後部補機D51の力を借りて矢立越えに挑む。勾配はまだ緩く煙はなびいているが、間もなく25‰の急勾配が始まる。 '66.1.16 奥羽本線 碇ヶ関-津軽湯の沢 P:中島正樹
奥羽本線の難所、矢立峠は25/1000の急勾配が続きます。秋田杉の美林に囲まれた峠道を、後補機を従えてD51貨物列車は喘ぐように急勾配に挑んでいました。噴煙は天を焦がしすばかりに。 '69.3 陣場ー津軽湯の沢 P:中川弘一
弘前までの客622レを牽引するD51 1号機。夏休みの最後の撮影、そして電化前の奥羽本線での最後の撮影に1号機を撮影できたのは幸いでした。 '71.8.22 鶴ヶ坂-大釈迦 P:武者秀男
矢立峠は秋田杉の美林に囲まれた秋田・青森県境の峠。C61がブラストを高らかに轟かせ勾配に挑む。 '68.9 陣場ー津軽湯の沢 P:中川弘一
夜行列車に揺られ、東へ西へと旅に明け暮れた三十数年前、上野-青森間は「ゆうづる」より遠回りの「あけぼの」にあえて好んで乗っていました。 '79.9 八郎潟-鯉川 P:寶柳仁志
今はなき七座信号場でD51と交換する「あけぼの」。北海道へ「ニセコ」C62重連を撮りに行った、帰りの一コマ。中学生だった当時、寝台特急は「高嶺の花」でした。 '71.8.8 七座信号場 P:須田 剛
奥羽南線(秋田-新庄間)に残る1往復のD51牽引貨物列車。院内駅で入換作業などを行い難所、雄勝峠に挑むD51 505〔横〕。この運用は46・10改正で終焉を迎え、奥羽本線から煙が消える。 '71.8.1 院内 P:武者秀男
電化後6年ぶりに訪問した。すでに「日本海」は24系になっていたが、「あけぼの」は20系編成だった。ED75に牽かれ杉の防雪林が続く新線区間を軽快に飛ばして行った。 '77.9.9 陣場-津軽湯の沢 P:武者秀男
奥羽本線の津軽湯の沢ー陣場に立ちはだかる矢立峠は補機の付くの難所。C61の旅客列車はD51の補機を従えてやってきたが、トンネルを出たばかりのため補機は煙に包まれていまった。 '70.3 津軽湯の沢ー陣場 P:中川弘一
奥羽本線の陣場ー津軽湯の沢間は、矢立峠の急勾配区間であり列車には後補機が連結されます。陣場駅で到着した上り普通列車の後補機と発車する下り貨物列車のD51が顔を会わせました。 '70.5 陣場 P:中川弘一
庫内は蒸機の匂いが漂い、コンプレッサーの音と職員さん大きな声が響きわたっていた。 '71.3.16 青森機関区 P: 鈴木一平
腕木シグナルが下り、碇ヶ関駅からD51牽引上り貨物列車が出発。貨物は長く、後部補機の助けを借りても、この先連続勾配の続く奥羽本線の難所、矢立峠越えは厳しい。 '66.1.16 碇ヶ関 P:中島正樹
C61はD51のボイラーを転用している。太すぎず細すぎず、均整がとれたスタイルは、ゲージに最も適しているのだろう。五能線を待つ東能代駅でとらえた823レ牽引のC61 20。'70.4.12 東能代 P: 森瀬壽三
奥羽本線の難所、秋田・青森県境の矢立峠を冬に訪れた。見所は陣馬駅から峠のトンネルまでの勾配区間にあり、駅の発車直後から見える煙を楽しみながら、やがて眼前にせまった爆煙を迎え打った。我ながら足場の悪い雪中を良くここまで歩いて来たものと思う。 '66.1.16 陣馬-津軽湯の沢 P:中島正樹
寝台特急に格上げされた「日本海」は誕生時は電源車を含め9輌編成であったため、DD51の単機牽引であった。10月からは12輌化され重連牽引となり、単機牽引はこの1年のみであった。 '69.3.25 青森-津軽新城 P:内田博行
雪中撮影のため奥羽本線板谷に立ち寄った日、偶然EF641、2の試運転列車と遭遇。板谷がスイッチバック駅だった関係から停車時間が長くタップリ撮影、おまけに次の列車で峠駅まで先行し、再び撮影することができた。 '65.1.17 板谷 P:中島正樹
奥羽本線、二ツ井-前山間の旧線、特にこの築堤のインカーブの場所は10‰の勾配になっているため蒸気撮影には絶好の場所であった。「日本海」が通過してすぐにC61牽引の客車が通過する。当時はC61通過前の腕だめし的な感じでこの寝台特急「日本海」を撮影していた。 '71.7.4 羽本線 二ツ井-七座(信) '71.7.4 P:武者秀男
国産タンク機関車のC11、C12に先立って製造されたC10、五日市線や会津若松、品川で見かけたことはあったが、米沢機関区訪問の折り偶然遭遇する機会があった。除煙板は追加されていたが希少価値のあるカマである。 '61.12.29 米沢 P:中島正樹
初の渡道直前、前日から揺られ続けた急行「きたぐに」の自由席でしたが、終着の一歩手前で途中下車。「日本海」と「津軽」を撮ってから、青森に向かったのでした。 '79.7.30 石川-大鰐 P:中司純一
前日22時10分に大阪を出発した急行「きたぐに」は、新潟で寝台列車を5輌を切り離し羽越、奥羽本線は12系とグリーン車の連結で運行されていた。青森着は17時09分。まもなく1052kmの走破する。 '77.9.8 陣場-津軽湯の沢 P:武者秀男
半日走り続けて秋田駅に到着した4001レ特急「日本海2号」。ここからはED75にバトンタッチして青森を目指す。終末期の喧騒とは無縁のごくありふれた光景が広がっていた頃です。 '78.9.26 秋田 P:鈴木博之
小雪が舞う青森駅で北海道旅行で写し残した増感用フイルムを使い、帰阪のため乗車する14系「日本海」をスナップした時の写真です。背景には「青函連絡船のりば」の案内板や20系客車列車も写っていました。いろいろと思い出が残るこの「日本海」も今年の春の改正で臨時列車となってしまいます。 '74.12 青森 P:髙橋 明
奥羽本線の陣場─津軽湯の沢ー碇ヶ関は25/1000の急勾配であり貨物,旅客ともD51の補機が必要であった。写真は、D51 1+D51+貨物+D51の編成で急勾配を登るハイライトシーン。 '70.3 陣場─津軽湯の沢 P:中川弘一
8輌の客車をグングン引っ張るは、まさに奥羽のスターだった。蘇ったC61 20号機のナンバープレートの取り付け位置が上方に修正され、現役時代の精悍なマスクを思い出す。 '71.3.18 大釈迦-鶴ヶ坂 P:鈴木一平
奥羽本線を牽引してきた荷2048レは秋田駅着5時12分。C61からC57に機関車を交換する。発車は5時29分。写真を撮った時刻は5時20分と駅構内の大時計が示している。この日の羽越本線牽引機はC57 103号機。ハドソンからパシフィックへの豪華バトンリレーが日々繰り返されてた時代でした。 '71.8.2 秋田 P:武者秀男
北海道へ向かう途中、弘前で下車し撮影することにした。 普通列車を牽いて出発するのはつい最近復活を果たしたC61 20だ。綺麗に塗装されたボディーに違和感を感じた。ここに映る姿は、煤にまみれ補修の塗装がまだらに残る現役姿。われ等の年代は、この姿にあこがれたのだ。 444レ(院内行き) C61 20〔青〕 '70.12.29 弘前 P:小西 明
矢立峠が新線に切り替わり魅力はなくなりましたが、白沢を17時45分に発車する客833レは大館からD51の補機(回送)を付け、旧線越えのスタイルで14.7‰の新線を越えてました。現在この線は上り線として使われ、下り列車は大きく西側に回りこみ、有名なお立ち台になってます。 '71.8.2 白沢-陣場 P:武者秀男
初めて北海道に渡った時、夜行列車から降りて青函連絡船への乗換中に跨線橋から撮ったスナップ。貨物積み込み中の9600、黒く煤けた桟橋への跨線橋共々懐かしい一場面である。 '67.4.29 青森 P:中島正樹