近所の東北線・東大宮駅付近でいつも眺めていたキハ181系「つばさ」。当時は自分専用のカメラがないので、鉄道の写真はほとんどありません。「つばさ」最終日は父親の一眼レフを拝み倒して貸してもらい、大宮駅で撮影しました。気が小さい中学生は大勢の人の隙間からこんな写真しか撮れませんでした。 '75.11.24 東北本線 大宮 P:簗木和彦
東北本線の最近の記事
通常の重連の前にさらに1輌回送がついて三重連となった下り普通列車。三つのブラストが谷間に響く。'68.4.28 東北本線 御堂ー奥中山 P:中川弘一
大宮操車場のハンプで貨車を押し上げるD51を見ていると、目前をEF15牽引の貨物が通りかかった。入換え作業のなくなった今日では貴重な一コマである。 '66.2.13 大宮操車場 P:中島正樹
当時、山形と東京を結ぶ優等列車として活躍した485系特急「やまばと」。先頭車輌のグリーン車「クロ481」が誇らしげに輝いて見えた。手前のホームは荷物専用ホームである。 '72.11 東北本線 上野 P:後藤 篤
盛岡発一番の青森行き、C61 16牽引普通列車。単機のため奥中山駅手前の勾配区間で遅延して約20分遅れ、交換予定の上り「はつかり」が姿を見せるのを心配そうに待つ関係者の姿があった。'65.1.15 東北本線 奥中山 P:中島正樹
お年玉で買ったオリンパスペンを携えて厳冬の上野駅20番線から高崎に向かう一番列車はEF58 131牽引の客車列車でした。隣には雪を纏った夜行列車が到着していました。 '70.2.11 東北本線 上野 P:牧 光一
この写真は、撮影した記憶がなくおそらく青函連絡船を撮影したときに一緒に撮ったものであろう。現在はその廃線跡を見つけることが難しくなっている。通称「青森臨港鉄道」と言われていたという。作家・寺山修司の写真撮影のロケが行われていたとされる場所である。 '81 青森県公用臨港線 P:須賀義孝
仙台からのエル特急「ひばり」が大宮駅を出発。東大宮操から上野へ向かう「はつかり」マークの回送列車が続けて出発。485系は東北特急の代名詞だった。 '82.3 大宮 P:采女 誠
青森の青函連絡船第1桟橋に行く跨線橋から、第2桟橋の積み込み作業の様子が見えた。控え車の後ろでDE10が慎重に貨車を押しす。 '81年 青森 P:須賀義孝
ボンネット型485系の特急電車は、大都市と地方を高速で結ぶ主役として、当時の花形だった。この列車は、当時の時刻表を見ると、上野を13時20分に出発し、山形に17時53分に到着する「やまばと1号」であった。4時間半の長旅。ホームの人たちは、山形へ転勤する仲間の見送りだろうか。 '72.11.12 東北本線 上野 P:後藤 篤
大宮駅、5時28分。6番線に秋田からの20系寝台急行「天の川」が到着した。上野へと向かうわずかな停車時間、EF58の次位スユ16では手際よく郵袋の積み降ろしがおこなわれていた。 '79.2.17 東北本線 大宮 P:森田 宏
EF65PFの牽引する「つばさ51」号が、西日を浴びて箒川橋梁を渡る。多客時運転とはいえ、14系座席車による昼行客車特急が運転されていた。高校生の頃、この橋梁を俯瞰する高台によく登っ
'77.5 EF65 1009〔宇〕 東北本線 矢板−野崎 P:塚原邦夫
上野発着のブルートレインにヘッドマークがなかった時期、自作のヘッドマークを機関士の許可をとって機関車に掲出して写真を撮っていた人を時々見ました。「北星」とありますが、「あけぼの2号」です。 '78.4.16 東北本線 上野 P:梅澤 浩
イベントで走行するとどこへ行っても大注目の583系と、置換えがリリースされた115系が当たり前のように並んでいた時代がありました。'79.6.1 上野 P:梅澤 浩
EF56の一次型が牽引する東北本線上り荷物列車。EF56の特に一次型は、EF57のようにツララ切りが装着されていなかったので、外観的には原型を留めていたせいか、戦前型の渋い印象が好みでした。 EF56 4 〔宇〕 東北本線 宇都宮−岡本 '73.5.19 P:塚原邦夫
やっと誕生したキハ81系気動車特急「はつかり」。その出発式を見るため上野駅に駆け付け、報道関係者らの人集りを分け入って国鉄副総裁によるテープカットを目前にした。 '60.12.10 常磐線 上野 P:中島正樹
上野駅15番線、故郷へのお土産を両手いっぱいに抱え、足早に青森行き夜行列車へと乗り込んでいく。 '78.2.17 東北本線 上野 P:森田 宏
曇り空の中、二本の煙と後部補機の煙が見えた。全編成がファインダーに入るまで粘った。秋葉原から東札幌行の特急貨物便だ。 55列車 D51 307〔盛〕+D51 1033〔尻〕+......+D51 263〔戸〕 '68.3.28 東北本線 奥中山-小繋 P:小西 明
営業線での活躍は終わっていたが、大宮工場にはまだ2120が活躍、時折ホームの近くまで顔を出していた。川越線のホームからは大きな9600との顔合わせも見られた。 '58.7.18 川越線 大宮 P:中島正樹
早朝の上野駅。到着する夜行列車でホームは埋め尽くされ、そして次々と車輌基地へ回送されていく。 '87.2 東北本線 上野駅 P:采女 誠
与野駅北側の陸橋から9600が入換えに活躍する大宮方面を眺めた大宮操車場。現在この辺りはさいたま新都心として再開発され、すっかり変わってしまった。 '65.12.5 東北本線 大宮操車場 P:中島正樹
2年前に訪れた時、C60の補機にC61の本務機と言う組み合わせだったが無煙化は進み、DD51の重連に変わっていた。雪の青森駅、23時40分の出発までの静寂は変わらなかった。 '68.2 東北本線 青森 P:小西 明
上下線がやや離れたこの界隈は緩やかな丘陵が続く。開放的な雰囲気で峠越えの厳しさは感じられないが,貨物列車の後部ではED71がモーターの唸りを上げていた。 '82.3.18 東北本線 南福島-金谷川 P:松本 誠
ED75が牽引する50系客車10輌編成のレッドトレインは、旧型客車とは一味違った編成美を誇っていました。 '84.5.3 東北本線 大河原-船岡 P:宮城浩志
お召列車牽引のため黒磯駅へ向かうEF58 61。すでに旗竿が固定されており、数時間後には手前の上り線をやって来る。 '84.9.27 東北本線 岡本-宝積寺 P:采女 誠
東北本線の車中から見かけた入換用の8620形。何か変だと思ったら標準タイプと比べて煙室が長く改造されていた。これでどんな効果が期待されたのだろう。 '65.1.15 東北本線 好摩 P:中島正樹
大宮操車場には9600の活躍する与野側とD51が活躍する大宮側がある。大宮側には貨車を仕分けするハンプがあり、スタート地点には十字型の信号機が設置されていた。 '65.5.2 東北本線 大宮操車場 P:中島正樹
上野から東京駅方面つながる回送線をEF53牽引の荷物列車が走る。この回送線は現在上野東京ラインとして大発展した。 '65.11.3 回送線(東北本線) 御徒町 P:中島正樹
晩秋の日差しが西に傾く頃、車体をぎらつかせながらEF57牽引の不定期急行「ばんだい」が上ってきた。終着上野まではあと1時間程だ。 '75.11.24 東北本線 野木-間々田 P:中島正樹
奥中山の大カーブ、俯瞰場所を求めて高台に登ると期待通りの高原地形が見渡せた。絶気状態だったがタイミングよく、2等車を連ねたD51三重連の列車が下ってきた。 '63.8.25 東北本線 奥中山-御堂 P:中島正樹
大宮機関区の矩形庫内。壁はレンガ造りで時代を感じさせるものだった。暗い庫内を、外光が煙と蒸気を幻想的な雰囲気に変えていた。 '68.6.13 大宮機関区 P:高橋孝一
編成写真は車輌がこちらに向かってくる写真がのぞましい。でも、これは「後追い」。当然、このときは向かってくる写真も撮れたはずなのに、ネガにはこの「後追い」一コマだけしか写ってなかった。 '68.5.5 東北本線 厨川-滝沢 P:高橋孝一
岩手の名山「岩手山」を背景に滝沢の築堤を行くD51 901牽引の普通列車。盛岡から沼宮内までの短距離を走っていた朝の通勤通学列車で、荷が軽いせいか補機なしであった。 '67.7.16 東北本線 厨川-滝沢 P: 高橋孝一
奥中山での撮影を終え盛岡方面へ移動。この駅に停車する列車は少なく、まだ陽が高いのに貴重なD51+C60の列車に乗らねばならない。次の列車ではもう夕暮れ間近。 '64.2.16 東北本線 奥中山 P:中島正樹
DD51の重連にD51の後部補機。ここでは、重連は当たり前で、このような三重連も珍しくなかった。特に前部三重連が白眉であったが、このような編成にも大いに心躍らせた。 '68.4.1 東北本線 御堂ー奥中山 P:高橋孝一
尾久車輌基地から上野へ回送されるDC特急「はつかり」のキハ80系。日暮里界隈の環境は今も変わらないが、気楽に撮れた跨線橋からの撮影は全く出来なくなっている。 '62.4.15 日暮里-鶯谷 P:中島正樹
十三本木峠を越えるための南の基地がここ沼宮内。多くの列車が重連で、三重連も珍しくなかった。この年の秋の電化のため、駅構内には電柱が立ち始めていた。 '68.4.1 東北本線 沼宮内 P:高橋孝一
早春の奥中山を訪れた。電化に向けて架線柱が建ち始めていたが架線はまだ張られていなかった。 3209レ
機:D51 164〔戸〕+C61 6〔青〕 '67.3.28 奥中山-西岳(信) P:小西 明
列車に愛称表示板類はないものの、ダイヤには書き込まれていた。北海道向けの急送品貨物とのこと。三重連撮影には見逃せられない列車であった。この日は運よくキリ番の100が先頭でやって来た。 61列車。機:D51 100+D51+C61 P:青木一郎
「はつかり5号」など今も耳に残る多くの楽曲で歌われた名列車ではあるけれど、583系での上野-青森間、最短でも8時間は辛かった。 '82.2.27 本宮-杉田 P:田中一弘
仙台電車区時代のクハ481-216は、車体裾(すそ)の赤帯が貫通扉まで延びていた。撮影時は気付かず、プリントを見て驚いた。1982年9月に南福岡電車区へ転属。 '82.5.10 氏家 P:采女 誠
三十数年前の上野駅。列車名は失念しましたが、今改めて見ると「てっぱく」のヒストリーゾーンを連想します。 '79.3 上野 P:寶柳仁志
40年前の"ヒガハス"です。当時年末年始は、帰省列車の機関車の回送でたまに重連がありました。 '74.12.30 蓮田ー東大宮 P:中村 肇
20系客車の丸い屋根から、落ちそうで落ちない雪が印象的で写した一枚。ありがとう寝台特急「あけぼの」。 '77.2.5 上野 P: 采女 誠
有名撮影地ヒガハスを行く東北本線経由の頃の「あけぼの」。どんなに年月が経っても、ファンはその功績と輝きを忘れない。 '85.1.10 蓮田-東大宮 P:采女 誠
仙台駅周辺で雪をまとった機関車の撮影を試みた。仙台運転所まで回送客車を牽引するED71も下回りが雪を覆っていた。東北新幹線の高架支柱の建設が始まった時代だった。 '77.1.2 仙台 P:武者秀男
転車台に載っているC58249は松山機関区所属時代の1966(昭和41)年、C58 243〔多〕とともに愛媛植樹祭のさいのお召機を務めた機関車である。多度津工場式集煙装置と重油タンクをボイラーに載せた四国装備のままはるばる盛岡にに転属してきた。集煙装置の装飾がお召牽引機となった名残である。今度復活するC58 329や復活が決まった転車台と重ねた姿を想像してみた。 '68.9.21 盛岡機関区 P:髙橋孝一
小学生の頃友人と大宮に撮影に行きました、バックの駅舎が建築中のため昭和41年頃と思われます。この頃は特急列車は大宮を通過して行きました。 '66年頃 大宮 P: 御菩薩池和良
東北本線の補機基地である沼宮内駅は広い構内であり、ちょうど下り貨物列車は前補機、後補機を従えて3台の蒸機で1000トンの貨物を引き出して急勾配に挑む。
'68.4 沼宮内 P:中川弘一
赤羽駅を発車したEF57牽引の上野行き普通列車を撮る。次位に郵便車を連結、背後の高架を京浜東北線の103系が走り、当時はこんな手近な場所でも撮影可能だった。 '69.9.20 赤羽 P:中島正樹
滝沢駅は「ヨン・サン・トオ」の複線電化のため新駅に移設していた。移設された真新しい線路をC60の重連旅客列車が駆け抜けていった。 '68.5.5 厨川-滝沢 P:高橋孝一
唯一残ったEF56の定期列車を毎週追いかけていました。 '74.5 東十条 P:本荘裕二
数多くの夜行列車を牽いて来た機関車たちが夕方まで田端機関区で昼寝してました。 '74.3 田端機関区 P:本荘裕二
この年の8月、仙台から陸羽東線中山平までSL臨時列車が3回運転されました。あれから41年後、C61 20による「SL仙台宮城DC号」が仙台-小牛田間を試運転開始されてます。 '72.8.13 仙台 P:武者秀男
王子へカメラを持って出かけると王子貨物駅でなにやら物々しい車輌を積み込んでいました。 '72.3 王子貨物駅 P:本荘裕二
十三本木峠を越えれば今度は下り勾配の連続。転がる姿は楽そうに見えるがブレーキ扱いにピリピリしているはず。鉄橋の轟音と共に目の前を通過する三重連。 61列車 機:D51+D51+C61 '65.7.23 P:青木一郎
小雨に煙る5月の盛岡駅、奥中山を越えて一ノ関行普通列車が到着。電気機関車に交換する前に撮影。 '67.5 盛岡 P:佐藤 智
列車に愛称表示板類はないものの、ダイヤには書き込まれていた。北海道向けの急送品貨物とのこと。三重連撮影には見逃せられない列車であった。この日は運よくキリ番の100が先頭でやって来た。 61列車 機:D51 100+D51+C61 1965.7.24 P:青木一郎
幹線の東北本線では、貨物定数確保のためにD51重連、三重連が運行されていました。当日は、雨中の中をD51重連が白い蒸気を車体を纏って迫力満点の力行でした。 '68.4.28 御堂ー奥中山 P:中川一弘
旧盆期間中は東北方面への帰省列車が活発に動き、水田や屋敷林の点在する栗橋方面にはよく出かけた。15日を過ぎて早くもEF58牽引の急行「ざおう51号」が戻って来た。 '75.8.16 久喜-栗橋 P:中島正樹
補機の基地沼宮内。補機D51が下りC60旅客列車の先頭に連結される。折しも上り重連列車が駅に進入してきた。 '68.4 沼宮内 P: 中川弘一
小鳥谷を出て1kmほどの地点。この先、勾配が一段ときつくなり、十三本木峠への戦いが始まる。3機ともどもの噴煙は拡がり、ドラフトは山あいにこだまする。青森発仙台行536列車 機:D51+D51+C61 '65.7.23 小鳥谷-滝見信号場 P:青木一郎
東北新幹線開業間近の東北特急を撮影に、船岡にやってきた。様々な列車が行き交う中、485系ボンネット車が一番のお気に入りだった。 '81.4.21 大河原-船岡 P:藤村巌雄
昭和47年3月改正で誕生した宮古行き「陸中」と青森行き「きたかみ」の併結急行。釜石線で「はやちね」と併結、北上線で「たざわ」と併結、奥羽本線で「しらゆき」に併結と複雑な組み合わせで運行されていた。 '77.9.11 松島 P:武者秀男
滝沢の築堤下にリンゴの花が咲いていた。今であれば、カラー撮影があたりまえだろうが、当時は高価でなかなか手が出なかった。DD51の重連が牽く、13連もの長大編成の「ゆうづる」の迫力に圧倒された早朝のひとときだった。 '67.5.14 厨川-滝沢 P:高橋孝一
「はくたか3号」がボンネット編成の日は、上野駅で181系「とき21号」との美しい並びが見られました。自連カバーの形状や、客室床面の高さの違いが分かりました。(右:クハ181-108) '82.10.2 上野 P:采女 誠
上り貨物を退避させ、私の乗った下り各停を待たせて上野行き2D特急「はつかり」がエンジン音も軽く通過して行く。ホームの先には電化準備のポールが積まれていた。 '65.7.24 岩手川口 P:青木一郎
開かずの踏切辺りから地平ホーム時代の赤羽駅を望む。ひっきりなしに列車がやって来て飽きることがありませんでした。 '77.10.30 赤羽 P:木村一博
上野駅13番線に一番似合ってた機関車と言えばEF57。青森から到着した「津軽」ですが、推進回送発車の合間に子供らが一生懸命ナンバープレートの拓本を取ってました。 '75 上野 P:: 田中 豊
1番線より7:00発「くりこま1号」455系は北に、3番線より7:00発「あがの・いわき1号」キハ58は西へ、南へ。4番線より7:20発「ひばり2号」483系は南へと出発していきます。 '77.3.18 仙台 P:武者秀男
秋の茨城国体で事前に得た時刻を基に古河から帰京するEF58 61牽引のお召列車を撮った。川口駅で下車し線路沿いの道を進むと、予定通り日章旗をはためかせた列車がやって来た。道行く人は普段通りで付近には一人の同好者も見かけなかった。 '74.10.23 川口 P:中島正樹
常磐線電化の3日前に撮影したもの。仙台生え抜きのC61 4と懐かしき「はつかり」のマーク。 '67.9.28 仙台機関区 P:佐藤 智
下十条電車区で試運転中の583系当時、真新しい車輌が印象に残った。 下十条電車区 P:新井晃司
前部三重連の編成は撮られる側からすると勇壮な姿を披露できるチャンスである。だが後部補機の編成となると、撮影する側は前部に集中し後部補機は付け足しみたいなものだった。この日、車掌車に列車番号が大きく書かれた編成に出会った。 2193レ 機:D51 886〔戸〕 '68.3.28 奥中山付近 P:小西 明
新幹線リレー号の案内幕と、引退が迫るL特急「やまびこ」。当時、上野駅33分発といえば「はつかり」「やまびこ」「やまばと」だった。 '82.6.21 上野駅14番線 P:采女 誠
当初は夜中に福島から移動して日中線と磐越西線に行く予定だったが、福島駅のベンチで寝過ごしてしまい午後から中山宿のスイッチバックを見ることに変更。郡山駅では臨時客車急行8404レ「ざおう」54号・9212レ「ばんだい56号」の併結シーンに遭遇した。解結を終えた作業員さん達とカレチさんの一瞬の邂逅。 '81.8.11 郡山 (水郡線330Dから) P:平蔵伸洋
この当時、仙台-上野間ビジネス特急ひばりに1往復のみ583系の運用があった。雪降りが激しさを増す中、踏み切り番の国鉄マンが雪かきをして保線にあたっていた。東北新幹線の高架橋の建設も進んでいた。 '76.12.25 東仙台-仙台 P:武者秀男
東北本線全通80周年記念D51三重連の通過を待つ間、多くの電車、電気機関車が通過しました。回送付きと思われるED75三重連貨物、客車の通過もあって飽きることなく撮影しましたが、あいにくの雨降りで身体が冷えたことを覚えています。 '71.9.26 御堂-奥中山 P:武者秀男
東北本線全通80周年を記念して、明日の祝賀列車を牽引するD51 762号機。盛岡機関区で記念撮影会が開かれた。D51 1号機、山田線で活躍したC58、盛岡所属の8620も同時に展示された。 盛岡機関区 '71.9.25 P:武者秀男
宇都宮運転所での一枚です。EF56の引退後ですがまでEF57がたくさんいたころです。EF58が霞んで見えたものです。 '76.2.15 宇都宮運転所 P:吉清 淳
当時、秋田行き特急「つばさ1号」は東京駅15番線を7時20分の発車でした。車輌は尾久客車区のキハ181-32が先頭でした。福島-米沢間では電機の補機が付きました。 '72.7 東京 P:月生田雅道
上野駅の電留線。非冷房の115系や旧客が当然のようにいた時代です。 '67年 P:大沢 彰
宇都宮運転所のEF57はEF58と共通仕業だったので、電話で運用を聞いて撮影に出掛けたものでした。写真は最後の特急運用と思いますが、「はくつる51号」で14系座席車を牽引した時のものです。 '76.8 鶯谷 P:吉清 淳
小山機関区で撮影中、ここでは珍しいD51を見つけ撮影していた。ちょうどカメラを構えていたその脇を東北本線の上り貨物が通過、願ってもないEF65との並びが撮れた。 '68.9.29 東北本線 小山 P:中島正樹
大宮操車場や大宮機関区の「煙」を毎日ながめて通学。そのため、途中下車して何回となく訪問。そこでは、キュウロクやD51にいつでも行き会えたが、なかでも好ましかったのが、4桁の車番のキュウロクだった。 '68.6.13 大宮機関区 P:高橋孝一
元日の午前110時過ぎ、いつもより数の多い、9600、D51たち。そのほとんどが火を落し、静かに休んでいた...。 '69.1.1 大宮機関区 P:中浦秀和
沼宮内駅は補機の連結駅だ。 発車ブザー合図とともに本務機以下の汽笛が3声、三重連の61レは力強いブラストとクランク音を残して加速していった。機:D51 19〔盛〕盛+D51 40〔盛〕+C61 15〔仙〕 '65.5.4 沼宮内 P:小西 明
大学への通学途中、車窓から毎日眺めたのが大宮機関区。時間を見ては、訪問を重ね、目玉はキュウロクであった。大正生まれのこのカマ、大宮機関区の雰囲気に良くなじんでいた。給水、給炭設備と絡めて撮った一枚。 '68.9.9 大宮機関区 P:高橋孝一
北海道での撮影を終えての帰り道、早朝の盛岡で乗り換え奥中山へ向かった。午前中だけの撮影のため三重連は撮れなかったが、運よくC60、C61重連の普通列車を捉えた。 539レ '68.2.24 御堂〜奥中山 P:小西 明
ヨン・サン・トオのダイヤ改正前の沼宮内は、いつも煙でいっぱいだった。ナメクジドームのD51の牽く下り貨物の発車に、ポイント掛が監視をしている。 '67.3 沼宮内 P:高橋孝一
岩手山をバックにD51・C60・C61などの重連や三重連をたっぷり撮影したその合間、上りDC特急「はつかり」を撮影。当時は、蒸機の撮影しか頭になく、これらDCやDD51などは、ついでの撮影だった。でも、今考えると「なんということをしてたんだ」と悔やまれます。 '67.8.6 厨川-滝沢 P:高橋孝一
深夜盛岡に到着し、その足で盛岡機関区を訪問。こんな時間にもかかわらず詰め所で休ませてもらったり、撮影させてもらった。機関区は夜でも休みなく業務を遂行しており、今、ハチロクの給水が終わったところだ。ラッセル車の姿も写っている。 '69.1.17 盛岡機関区 P:高橋孝一
首都圏に大雪が降った翌朝、夜行列車は次々と定刻にやって来た。国鉄の"鉄道魂"を感じた。 '84.1 鶯谷 P:采女 誠
中学2年になって初めての遠出。上野駅で定番の特急を撮影後、大宮機関区を訪問。今は見る影もないが巨大なガントリークレーンが動いていた。 '68.11.23 大宮機関区 P:宮山幸雄
末期は、福島-白石の区間列車や福島-金谷川上り列車の補機として活躍していたED71。ミニ周遊券を持ち福島駅で二晩徹夜を敢行。深夜、僚機29号とともに福島駅4、5番線を塞いで束の間の休息をとる一次型12号。運転士氏もベテランの相貌。 '81.8.10 福島 P:平蔵伸洋
東北本線盛岡以北の電化を秋に控えたこの年5月、三重連の組成基地沼宮内を訪問。三重連の圧倒的な発車シーンを堪能する中、D51のトップナンバーの入換えを撮影。駅構内も電化工事が進んでいたが、まだ架線が張られてないのが撮影にとっては幸いであった。 '68.5.5 沼宮内 P:高橋孝一
東北・高崎各線の列車がひっきりなしに行き交う赤羽。かつては貨物用側線のある広々とした駅だった。構内を横切る踏切は、線路を8本も9本も越えなければならないから大変だ。 '75.5.22 赤羽 P:井芝七路
奥の細道行脚をした松尾芭蕉が松島の光景を見て詠った俳句、「松島や、ああ松島や松島や」。風光明媚な松島湾に並行して走る東北本線。ED75も昨今はめっきり見かけなくなりました。 '76.9.5 東北本線 松島─塩竃 P:武者秀男
標準と望遠の2本しか交換レンズを所有していなかったため、サブに準広角のコダックインスタマチックを中古で購入して持って行ったが、固定焦点・固定シャッターでまともな写真は撮れなかった。フィルムはカセット式のベリクロームパン(ASA125)。 '81.8.11 128レ車内 P:平蔵伸洋
上野に到着する高崎線の電車から、推進運転中のEF56を撮影。機関士は後方を確認している。毎回上野駅や東京駅での撮影が楽しみであった。 '63.8.2 上野 P:高橋孝一
薄っすら雪をつけて、14番線に到着した急行「津軽」。隣にはEF64-1000牽引の急行「天の川」の姿も...。 '84年 上野 P:新井良紀
昨年9月に行われた記念運転が最後かと思われた、D51三重連運転が鉄道100年記念で東北本線の盛岡-八戸間で運転されることになった。秋田機関区から借り出された3輌のD51。静まりかえる夜の機関区で記念日の夜明けを待っていた。 '72.10.29 P:武者秀男
鶯谷駅ホームは上野を出入りする列車を手軽に撮影する場所として昔も今も変わらない。ただ列車と背景は大きく変わり、約40年前にはまだ成田からのC58牽引列車が見られた。 '66.9.23 鶯谷 P:中島正樹
山陽本線の東灘から別れて神戸港までの間を貨物営業をしていた神戸港貨物線。ハチロクが貨物の牽引と入換をしていました。ここで働くハチロクは前照灯と煙突の間に鐘(教会にあるような)を取り付け汽笛を使わずこの鐘を鳴らしていました。 '64.2.23 P:青山春樹
天竜浜名湖鉄道と伊勢鉄道へのレールバス(合計10輌)を牽引するEF58 89です。美しい夕日の中を新鶴見まで担当しました。(臨貨9586レ) '87.2.20 宇都宮-雀宮 P:采女 誠
初めて北海道に渡った時、夜行列車から降りて青函連絡船への乗換中に跨線橋から撮ったスナップ。貨物積み込み中の9600、黒く煤けた桟橋への跨線橋共々懐かしい一場面である。 '67.4.29 青森 P:中島正樹
1971年3月20日に新設され、当初は臨時特急扱いだった秋田行き「あおば」はその後乗客率が好調ということで定期化されました。仙台駅を発車し右に大きくカーブし直線に入った所でエンジン全開。排出される煙はすさまじいものでした。 '75.12.5 仙台 P:武者秀男
好摩の東方に端正なピラミット型の姿を見せる姫神山。ここで夜明けを迎えた列車の乗客がまず目にする印象的な山のシルエットである。その麓をED75牽引の列車が淡々と下って行く。 '71.1.12 好摩-岩手川口 P:中島正樹
長距離普通列車には荷物車・郵便車が連結され、見慣れた115系にもどこか長距離列車の貫禄が漂っていた。 '78.11.19 尾久 P:梅澤 浩
お盆の帰省客を満員にして秋田へ旅立つキハ181系。 '76.8.12 鶯谷付近 P:川瀬 剛
今も昔も変わらないヒガハスのお立ち台を行くのは前夜20時35分に青森を発った急行「津軽4号」、黒磯からは宇都宮のゴハチが最終ランナーを務めます。 '82.3.28 蓮田-東大宮 P:幾代 裕
中学2年の夏休み、キャノンAE-1購入の直前にリコーオートハーフで撮った一枚。早朝から賑わいを見せる当時の上野駅がなつかしい。 '76.8.11 上野 P:菅沼理也
東北本線全線開通80周年記念で運転されたD51 1号機を先頭にした三重連運転。あいにくの雨降りの中、待つこと5時間あまり。勢いよく煙を出して現れた三重連はカーブにさしかかった直後、先頭機はドレーンを勢いよく吐き出し、三重連の姿が見えなくなり、がっかりしたファンが多かったのではないかと思います。ドレーンを吐く直前に何とか撮影できたシーンです。 '71.9.26 御堂-奥中山 P:武者秀男
川越線が非電化の頃の大宮機関区は96のねぐらでした。彼らに交じって、入換え等にせっせと働くディーゼル機関車も異色の存在でした。 '69.6 大宮機関区 '69.6頃 P:大沢 彰
日の長い夏場でないと撮影できない、小牛田発4時20分の石巻線C11重連の発車を撮影後、寝台急行「北星」の発車を待ちました。小牛田発は4時28分。ED75重連に牽かれた寝台11輌+荷物車1輌の12輌編成の寝台列車は北へ向けて徐々に速度を上げて行きました。 '73.7.8 小牛田 P:武者秀男
中学2年の夏休み、一人で東京の親戚を訪ねました。その主な目的は、①「金星」で電車寝台体験 ②名古屋から新幹線乗車 ③山手線一周 ④交通博物館に行く ⑤181系「とき」を見る、といった鉄道三昧な旅でした。 '77.8.8 上野 P:小林慎治
北海道に蒸機撮影に行く前に立ち寄りました。快晴の朝「南部富士」岩手山が、くっきりと見えるポジションで待っていると上野行き「はつかり1号」が通過して行くと同時に、青森行き「ゆうづる4号」が通過する偶然のタイミングを撮影することができました。午前6時55分頃でした。 '75.5.16 滝沢 P:武者秀男
C60の重連旅客列車が補機の基地、沼宮内を発車、十三本木峠の難所に挑みます。東北本線の全線電化を秋に控え、画面の左下には砕石の山が見えます。 '68.4.3 沼宮内 P:高橋孝一
仙台までの朝の通勤列車を仙台運転所まで回送するED71。仙台駅を出ると右に大きくカーブし本線通過の場合は通常、写真の一番右の線路を走行していきます。 '77.1.1 仙台 P:武者秀男
出区の時刻が来た。旗が振られて短笛一声、制動緩解。電動機が唸り、線路が軋む。鉄道現場に漂う緊張感が胸に迫る。 '74.10.11 田端機関区 P:井芝七路
夜間撮影に挑んだ。まずは、盛岡機関区を訪問したが、夜間なのに詰め所で応対してくれありがたかった。その後は、このカマの盛岡駅の発車シーンを撮影。増感現像の技術もろくにないまま夢中で撮影した夜だった。今になって、このカマが復活する20号機だとは...。 '68.5.4 盛岡機関区 P:高橋孝一
上野→青森→大宮で運転された583系臨時特急「ふるさと」です。サロ・サシを含む13輌編成で、昭和60年のダイヤ改正(東北新幹線上野駅乗り入れ)で廃止されました。 '84.12 東大宮-蓮田 P:采女 誠
朝の寝台列車を撮りに行ったが、その中で客車と気動車が連結されている列車があった。「539列車!」花輪線に行く気動車を連結していると知った。ネガの劣化が悔やまれます。 '79.8 盛岡-厨川 P:藤村巌雄
昭和53年10月ダイヤ改正で多くの特急列車から食堂車が廃止された。上野駅で撮影していた時、特急「とき」サシ181‐11の車内であわただしく準備をしている従業員の姿にシャッターを押しました。 '78年 上野 P:藤村巌雄
ED75 701+50系客車4輌+ED78 1という驚きの編成で、24年前のお正月(卯年)に初詣臨時列車が運転されました。二本松─藤田間で、元旦の午前中に3往復というフリークエントサービスでした。雪の藤田駅に進入する初詣臨です。 '87.1.1 藤田 P:阿部 淳
無残な光景であるが、長らく東北・常磐筋の旅客列車用蒸気機関車のねぐらであった尾久機関区扇形庫は、1965年11月末このように姿を消した。 '65.11.23 尾久機関区 P:長谷川武利
ED75 701+50系客車4輌+ED78 1と言う驚きの編成で、24年前のお正月(卯年)に初詣臨時列車が運転されました。東北本線にED78が走ることはほとんどなくて、地元ファンは大喜びでした。お正月なので、前面には日の丸が掲げられました。 '87.1.1 藤田 P:阿部 淳