【名古屋鉄道6000系(白帯)】名鉄蒲郡線の活性化の一環として6011Fに往年の白帯をラッピングしたこの車両が好きです。期間限定で見せた「三河湾」の系統板が、往年の特急を彷彿させます。 P:堀江雄大 【キハ82系】1972年から75年位まで、北海道から東京の親戚宅まで毎年一人旅をしていました。上野口での485系や583系という華やかな「電車」を見たり乗ったりして、青函連絡船が函館につき、桟橋からホームに降りると待っていたのはキハ82や58で、劣等感を感じたのは否めませんでしたが、50年前の特急は全車指定席、憧れの列車でした。当時函館駅で撮影したプリントをスキャンしてみました。 P:原澤昭浩 【EF64 0番代】150年の間に登場した名車は数あると思いますが、自分的にはEF64 0番台を推したいです。晩年のイベント列車を牽いて脚光を浴びた時期もよかったですが、得意の山岳路線で地味な貨物列車を重連で黙々と牽いていた姿に惹かれました。カットは1998年撮影、正面のエンド表記もなくきれいだった愛知機関区所属の4号機先頭で、中央東線のセメント貨物列車を牽く姿です。 P:藤井理行 【近鉄12200系】縦横無尽に駆け抜けた近鉄伝統カラーの12200系″新スナックカー″。 P:和田温司 【ED75】長崎貨物の在りし日の姿。本線上に1時間近く停車して貨物入れ替えするなんて今では考えられない事を行なってました。軸重の関係で九州でも数少なかったED75-300番台が充てられる事も多かった覚えがあります。 P:百崎博文 【EF58】 戦後の旅客用機関車として現在でも人気があるEF58。流線形の姿は美しく高速走行にも優れ、東海道、山陽、東北、上越などの幹線で長きに渡り走り続け、日本の高度成長を支えました。昭和50年台の初め人気のあった宮原機関区の原形大窓の53号機が20系を牽引する姿を残すため、運用を追いかけて富士山をバックに竹倉で撮影した1枚です。通過後、美しい姿に余韻が残ったことが思い出されます。 P:平野直樹 【E351系】 急勾配、急曲線が連続する中央東線 新宿―松本 間225.1㎞を、初めて2時間台で走り抜けた「スーパーあずさ」の「E351系」。これが私のベスト車両です。その走りっぷりはまさに韋駄天。急勾配もものともせず登り下りし、急カーブにも「コロ式制御付き自然振り子」に物を言わせて躊躇せず高速で攻める。それまでの183系の苦しそうな走りとは大違いでした。後継形式も出て全車廃車になりましたが、ダイナミックな走りは引き継がれており、「E351系」は中央東線 特急の高速化に十分貢献したと思います。 P:君島弘道 【EF66 27】 旧国鉄最大の3,900KWの出力を誇るEF66の一員として昭和48年に製造されて以来、約半世紀に亘って東海道・山陽本線などの貨物列車牽引に従事し、他のEF66形0番台引退後も唯一の0番台として残存活躍し、多くのファンに勇気と感動を与えました。 P:藤倉顕治 【201系】 立川市に住んでいた頃、通学・通勤で利用していた201系が私のベスト車両です。立川-国立駅間の春の桜並木が美しく、自宅から自転車で撮影に出掛けました。 P:采女 誠 【207系】 總持寺にて。 P:松村たいが 【京阪電車5000系】 私の人生が50年程ですので、150年から選ぶには難しさがありますが、最も想い出に残る列車は京阪電車5000系です。幼い頃の日曜日、父に連れられて出かけた際に出会った電車が5000系でした。ホームに入ってきた電車の扉に駆け寄り、開くのを待つが一向に開かない。そう「ラッシュドア」の前に駆け寄っていたのです。車内に入って衝撃を受けたのは、扉部分の椅子ではなく、その上部にあった跳ね上げられた吊り革でした。当時の私はジャンプすれば吊り革に手が届くくらいの背丈でしたので、飛び上がって吊り革に触れるのが楽しかったのですが、それを拒むように跳ね上げてあるのが衝撃でした。そして私の背も高くなり、吊り革の跳ね上げてある理由も分かるようになった頃、車体がアルミ製であることなど、違った視点から5000系には興味を持つようになりました。1970年12月26日に日本最初の多扉車として登場して、2021年9月4日に日本最後の多扉車として引退した京阪電車5000系が、私のベスト車両です。 P:石田圭一 【711系】 私のベスト車両は赤い電車711系です! 10代の頃から急行かむいや、快速いしかりライナー、20-30代の頃には通勤で50系客車と共に利用していました。 2014年の札幌圏運用終了までちょこちょこと利用させて頂いた。まさに人生と共に歩んだ電車です。 2014/07/13 函館本線 銭函ー朝里間 P:原澤昭浩 【DD54】 深夜の福知山駅に「急行だいせん」で回送されるDD54を撮りに行く事を計画したのは高校2年の初夏でした。撮影時、職員の方が立ち会ってくれたことを憶えています。夜の静寂にDD54のエンジン音が響いていました。 P:野々村康久 【115系】 新潟で電車と言えば必ず目にする電車でした。長岡駅に”二次新潟色”がホームを埋め尽くす様に停車している事も日常茶飯事でした。新潟を走る115系は様々な所から集まり、クセのある車両も沢山居ました。今では新型のE129系に置き換えが完了し、長年走ってきた115系は姿を消してしまいました。しかし、115系があってこそE129系が今後も新潟の看板列車として走り続けてくれる事に期待したいと思います。 P:鷲澤 拓弥 【103系スカイブルー】 阪和線沿線が実家の私にとって103系スカイブルーは一番身近な存在でした。電車移動の時は必ずといって良いほど103系スカイブルー。というのも最寄り駅は普通電車停車駅なので103系が常でした。お出かけするとき、通学のとき、就活に向かうとき、そして初めてカメラを向けたとき、必ずそこに彼はいました。そんな惜別の思いを胸に撮った一枚。秋らしい青空に103系スカイブルー。今までで一番美しい103系に、ありがとう、さようならをした瞬間でした。 P:森本裕之 【クロ481】 43-10で東北特急の上野寄り先頭車に登場したクロ481。登場の経緯は奥羽本線や磐越西線の運転上の都合でしたが、東海道本線のクロ151程の華やかさはないものの、東京に向かう東北特急の先頭車として、乗客や沿線の鉄道少年たちの夢と希望を乗せて疾駆していました。 写真は、1978年(S53)8月5日、北浦和-浦和間で撮った上り「ひばり8号」です。 53-10でクロ481は「ひばり」からも撤退してしまったため、純粋な東北本線の特急としては最後の活躍を見せていた頃です。 P:渡辺俊博 【C55型】 鉄道開通150年、私のベスト車両はC55型蒸機です! 細めのボイラーに「水かき」付のスポーク動輪がスマートで速そうに見えます。客車列車の先頭に立つ姿は今でも忘れられません。 P:佐藤直幸 【EF62】 国鉄EF62型電気機関車は、信越本線横川-軽井沢間66.7‰の国鉄最急勾配、碓氷峠越えに直通する列車牽引用に登場、急勾配に対応し補助用EF63と協調運転等の特殊設計を施した。1962年にEF62 1が試作、計54両が製造され、高崎-長野-直江津-長岡等の信越本線系統で使用された。 軽量化用3軸配置の“♪タタタン タタタン”というワルツは、同線独特と思っていたが、碓氷峠の客車・貨物列車減少で、東海道・山陽本線の檜舞台に転属、1984年3月からEF58に代わり荷物列車・臨客も牽引した。しかし、それも束の間1986年11月に荷物列車の殆どが廃止となり、本来の碓氷峠越えの客車に、1997年新幹線開業、横川-軽井沢間廃止まで従事した。EF62は柔和な表情の中にも、碓氷峠急勾配、妙高山麓豪雪、青海川潮風、そしてEF65,66に伍して東海道・山陽本線高速走行と、過酷な運命に耐える実力と、晩年は無線強化アンテナを前面に取付け、派手な塗装変更もなく、実用重視のカマであったと思う。 私は、坂や階段で苦しい時、EF62重連の“♪タタタン タタタン(繰り返し)”と唱えると、今も不思議と力が湧いてくる。忘れ得ぬ鉄道車両である。 P:大久保広樹 【キ1567】 魅力は無動力車ながら、昭和時代の厳つく質実剛健で威風堂々したフォルムと黒光りのボディに黄色のラインの入ったシンプルなカラーリング。僕は幼少期、本車輛がこの黒い巨体で豪雪と戦っていた姿に魅了されたものです。履歴は元々は単線用除雪車のキ100系であり、1950年に飯野重工業舞鶴造船所にてキ243として産声を上げて、砂川駅などに配備され、1969年に旭川工場にて複線用のキ1567(キ550系)に改造されました。改造後は苫小牧客貨区や追分駅などを拠点に活躍し、1983年11月に勇退。余談ながら、国鉄時代に函館市の有川埠頭(現在のJR貨物の函館貨物駅)に1両、車番は不明だがこのキ550系が留置されていたのを今なお覚えています。 P:熊谷孝志 【東武鉄道8000系】 外観や性能面での秀でた特徴があるわけではありませんが、いまも強く記憶に残っているのが東武東上線8000系です。幼少期は地元の電車を好きになることが多いのかもしれませんが、遠足程度でしか乗ることがなかった車両の何が思い出されるかというと、駅に停車してドアが開いた際に漂ってくる“あの匂い”。踏面ブレーキのレジンが焼けこげる匂いに眉をひそめる乗客もいましたが、普段かぐことのない「機械が発する匂い」は、幼心に強烈な印象を残したものです。いまは亀戸線で活躍する8000系を見に出かけてみました。車体の艶も薄くなり、多少くたびれた印象でしたが、“あの匂い”が幼少期の様々な思い出をよみがえらせてくれました。 P:高橋順平 【DF50-1】 幼い頃から見慣れたオレンジ色の機関車DF50。特にトップナンバーの1号機が大好きでした。 P:植松 繁