鉱石運搬とともに地域の交通手段でもあった紀州鉱山専用軌道。国鉄線との接続はなく、紀勢本線の阿田和駅からバスで1時間余という紀伊半島の山中に位置した。 今月のRMライブラリーは名取紀之・元RMライブラリー編集長による『紀州鉱山専用軌道-その最後の日々-』です。鉱山専用軌道というと、採掘現場までの坑道の中を走るトロッコをイメージされる方がおられると思いますが、この軌道は地域の交通手段としての側面も持つものでした。 紀州鉱山は紀伊半島の山中、奈良・和歌山との県境に近い三重県牟婁郡紀和町(現・熊野市紀和町)にあり、銅を産出していました。この鉱山は、町内にいくつかの拠点と鉱区があり、本部・選鉱場があった板屋を起点に、拠点や鉱区を結ぶ軌道網が整備されており、1968(昭和43)年時点での坑内外軌道総延長は73.8kmにもおよんでいたといわれます。この軌道の主目的は言うまでもなく鉱区から選鉱場まで鉱石を運ぶことでしたが、その合間を縫うように客車(人車)列車も運転されていました。機関庫や機関車の整備工場などがある軌道の拠点であった湯ノ口。閉山後、この付近は湯ノ口温泉の入浴施設となり様変わりしたが、ここから小口谷までの軌道は観光トロッコ列車として活用され、駅ホーム付近は面影を残している。この軌道のなかでも本線的な存在であったのが、板屋~小口谷~湯ノ口~惣房間の約5.5kmでした。惣房とは戦前の紀州鉱山の中核をなした三和鉱山の本拠地でしたが、山中のため現在の県道780号が整備されるまで効率的な輸送手段は軌道のみという地区でした。このため、この「本線」で運転される客車列車には惣房に住む関係者やその家族のみならず、来訪者も便乗が認められていました。1978(昭和53)年の閉山とともに軌道の運行も終了しましたが、その後、湯ノ口地区で温泉が湧出したことで、湯ノ口と小口谷が観光地として整備され、この区間の軌道が復活し、現在も現役当時からのバッテリー機関車によるトロッコ列車が運行されているのはご存知の方も多いのではないでしょうか。1978年当時の紀州鉱山専用軌道の概念図。太線の区間が便乗可能な客車列車が運行されていた「本線」。破線区間はすでに閉鎖されていた。客車群は皆、ガラスをいっさい使用しない「無双窓」をもつ独特のもので、小口谷の工場で製造されたものであった。 名取さんが現地を訪ねたのは閉山間際の1978(昭和53)年3月のこと。この時、3日間にわたって現地で調査・記録され、この記録をベースに、その沿革などを含めてまとめられたのが本書です。ちなみに、タイトルに「ついに」と書きましたが、実は本書はRMライブラリーのスタート当初に製作着手しながら、実現することなく今日まだ温められていたもので、企画自体はRMライブラリーのスタート以前からあったそうです。正に満を持しての刊行、ぜひご覧ください。