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資料館

RMライブラリー『可部線 波乱の軌跡』完成

2017.02.18
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三滝-安芸長束間の旧線を行く可部線電車。横川~安芸長束間は太田川放水路建設のため、この年に新線に切り替えられた。 1962.9.30 P:長船友則
 今月のRMライブラリーは長船友則さんによる『可部線 波乱の軌跡』です。可部線と言えば、間もなく可部~あき亀山間がJRの廃止路線として初めて復活、電化延伸開業しますが、その開業からの100年以上にわたるあゆみは、実に波乱にとんだものでした。
RML211H1s.jpg 可部線の起源は、1906(明治39)年11月、広島軌道という軽便軌道の特許に始まります。この軌道特許申請は、かの雨宮敬次郎らによるもので、開業前の1908(明治41)年には雨宮が経営に関与していた他の7社と合同して大日本軌道株式会社が設立され、1909(明治42)年12月19日、大日本軌道広島支社として横川~祇園間が開業しました。開業時は762mm軌間、非電化で、雨宮鉄工所製の小型蒸気機関車(いわゆる”へっつい”)が客車1輌のみを牽引するものでした。1911(明治44)年には可部まで開業しますが、その全通を見ることなく、同年のはじめには雨宮敬次郎が死去、さらに後を継いだ雨宮亘も1918(大正7)年に死去したこともあり、大日本軌道広島支社は1919(大正8)年、可部軌道として独立しました。
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可部線の原点は”へっつい”が牽く軽便軌道。左下写真は軽便時代の梅林駅で、電車が行きかうようになった今も道路沿いの位置関係やはるかに見える中国山地の山並みは変わりない。
 この頃になると小型の蒸気機関車が牽く軽便軌道は、地元新聞でも時代遅れと酷評されるようになり、1924(大正13)年には電力会社の広島電気が可部軌道に出資、その後1926(大正15)年1月には広島電気が可部軌道を吸収する形で合併。これにより改軌・電化が本格的に進められ、1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて軌間1067mm、600V電化の路線に改められ、横川付近など一部区間は経路も変更されました。そして1931(昭和6)年には広島電気の全額出資により広浜鉄道株式会社が設立されました。このように特許申請からの26年の間に、実に4回も事業者名が変わりました。しかし、これも長くは続かず、1936(昭和11)年9月、広浜鉄道は国有化され、鉄道省可部線となりました。これが現在も運転されている可部線横川~可部間です。
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1954年には加計までが開業。当初は旅客列車も蒸機牽引であったが、間もなく旅客列車にはキハ41000形も投入された。
 一方、鉄道省では明治期からすでに広島と浜田を結ぶ鉄道の計画を持っており、広島側からの工事線は本郷線の呼称で広浜鉄道買収前から準備が進められ、買収直後の1936(昭和11)年には可部~安芸飯室間が開業。1946(昭和21)年に布、1954(昭和29)年に加計と延伸し、1969(昭和44)年には三段峡までが開業しました。さらに残る浜田までの工事も着工し、隧道や橋梁など一部は実際に姿を現しはじめていましたが、1980(昭和55)年、国鉄再建法により工事は凍結され、陰陽連絡の夢は中国山地の半ばで途絶えてしまいました。そして、残された非電化区間の可部~三段峡間も2003(平成15)年に廃止されたのはご存知の通りです。
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1969年には三段峡までが開業。可部~三段峡間は本郷線として建設されたが、開業時には可部線に編入された。また、浜田~三段峡間の工事線名は今福線であった。
 本書は、広島軌道の特許から、改軌・電化、国有化、非電化区間の延伸から廃止、そして間もなく予定される延伸開業まで、110年余にわたる可部線のあゆみをまとめたものです。長船さんは本シリーズでもこれまで『呉市電の足跡』『宇品線 92年の軌跡』と地元広島の鉄道に関する研究を発表されていますが、今回は可部線が一部とはいえJRの廃止路線で初めて復活するのを機会に、これまでの実に波乱に富んだあゆみを振り返ってみたいとまとめられたものです。ぜひ、お手に取ってご覧ください。
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