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特集・コラム

祝・国宝!琵琶湖疎水を辿ってみた

2025.05.25

text & photo:諸富光法

 2025年5月16日、琵琶湖疎水の一部とその関連施設を国宝とする方針が決定されました。琵琶湖疎水は滋賀県の大津から京都府の伏見へ至る水路で、1885年に着工し、5年後の1890年に完成。明治維新以降首都が東京へ移り、衰退の危機にあった京都の街を再度発展させるべく、水運や発電を主な目的として建設されたものです。その後、電力需要の増大に耐えきれなくなったことから、南禅寺船溜まで第二疎水の建設が決定。こちらは第一疎水に並行する形で計画され、1908年に着工、1912に完成しました。琵琶湖疎水は京都の発展に大きく貢献しただけでなく、国内初の日本人技師(当時若干21歳の田邉朔郎)主導による国産土木工事として歴史に刻まれており、日本初採用の工法も試されるなど土木史の観点からも重要な構造物と言えます。「鉄道と関係ないじゃないか!」と言うなかれ。琵琶湖疎水を構成する一部には鉄道施設である「蹴上インクライン」も含まれています(もちろんこれも国宝に指定!)。

 今回、琵琶湖疎水の見どころが凝縮されている琵琶湖から鴨川合流点(冷泉放水口)まで辿ってみることにしました。まずは「びわ湖疎水船」に乗り込み、琵琶湖(三井寺)から蹴上を目指します。第一トンネルまでの様子をご覧いただきましょう。

 

▲琵琶湖側の疎水船乗場は、京阪石山坂本線の三井寺駅が最寄り(左写真)。右写真は疎水の琵琶湖側入口。ここから琵琶湖疎水が始まる。

 

▲三井寺駅付近に意味深な遊歩道があり、思わずオタクのアンテナが反応。あとで調べてみると江若鉄道の線路跡であることが判明。同鉄道は疎水を斜めに横切っていたようだ。

 

■まず向かうは三井寺駅

 琵琶湖疎水には、春と秋のシーズンに「びわ湖疎水船」が運行されています。2系統あるうち、今回は三井寺~蹴上の便に乗船します。乗船には事前予約が必要なうえ、1隻の定員が12名程度の小さな船なので、早めに予約しておくといいでしょう。今後正式に国宝になると、さらなる混雑が予想されます。

 さて、びわ湖疎水船の三井寺乗下船場は、京阪石山坂本線の三井寺駅が最寄りのため、まずはそこを目指します。駅からは徒歩3分程度で、疎水沿いを山へ向かって進むと橋があり、渡ったところが入口です。疎水の閘門が目印で、入口の前には係員が立っているので迷うことはないでしょう(係員は時間とタイミングによって不在な場合もあります)。

 

▲駅から疎水に沿って歩くと閘門があるのでこれが目印(左写真)。橋の対岸が入口で、係員が待ってくれている。疎水船は定員が最大12名程度の小さな船で屋根が付いている(右写真)。

 

■さぁ出発!

 船に乗り込むと、いよいよ出発。目の前には第一トンネルが口を開けています。この第一トンネルは、なんと2,436mもあり、建設当時は日本最長を誇りました。入口の扁額には伊藤博文による「気象萬千」の揮毫が記されています。トンネルに入ると長い暗闇の中を進みます。トンネルは直線なため、遠くに出口の明かりが小さく見えます。トンネルの内壁は補修工事によってトンクリートで覆われており、古さはそんなに感じません。また、100メートルごとに銘板が設置されており、鉄道のキロポストを思い起こさせてくれます。

 

▲2,436mの第一トンネル。扁額には伊藤博文による「気象萬千」の揮毫が記されている。

▲第一トンネルの内部は闇に包まれる。壁沿い右側のケーブルは、水運の現役時代にこれを伝って船を進めていたもの(左写真)。途中には、琵琶湖疎水を推進した第3代京都府知事 北垣国道による「寶祚無窮」の揮毫が記されている(右写真)。

 

 この長大トンネルの掘削にあたっては、竪坑による工期短縮が図られました。これは日本初の試みで、トンネルルート上の地上から竪坑を堀り、そこからも堀り進めていく工法。トンネルの両側だけでなく内部からも掘削することで工期を短縮しています。ただし、竪坑を掘る際は地下水に悩まされ、これまた難工事だったようです。竪坑は換気用にもう1カ所設けられ、船がこれらの部分に差し掛かると徐行してくれるので、船内から見上げれば地上の光を感じることができます。そうしている間に出口の光が眩しくなり、そして出た先は・・・(次回へ続く)。

 

▲第一トンネルの出口が近づく。その先はどのような景色が広がっているのだろうか。

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