夕張(ゆうばり)といえばその昔、石炭採掘で発展した北海道有数の産業都市でした。
そんな夕張から、「夕張支線」と呼ばれたJRの鉄道路線が廃止されたのが平成最後の年であった2019(平成31)年でした。まだ記憶に新しい出来事ですが、その夕張に、国鉄幹線駅につながる「夕張支線」以外のもうひとつの鉄道が存在していたことをご存じでしょうか。
▲在りし日の夕張鉄道の終着駅、夕張本町駅とその周辺。開業時の駅名は「新夕張」だが、現在の石勝線新夕張駅とは異なる場所であった。
出典:RM LIBRARY 285巻『夕張鉄道 路線・沿革編』より
その名は「夕張鉄道」。今から100年前の1924(大正13)年、炭鉱都市・夕張と札幌方面を結ぶために創設されました。
明治から大正にかけて炭鉱開発の進んだ夕張には、1892(明治25)年の時点ですでに北海道炭礦鉄道が追分~夕張間を開通させていました。この鉄道は1906(明治39)年に国有化され、後の国鉄夕張線となり、最終的にはJR石勝線夕張支線となって2019年に廃止されたことは前述の通りです。
▲上の線路は新しく開業した夕張鉄道、下は鉄道省(後の国鉄→JR)の夕張線。1930年頃。
P出典:『全線完成記念写真帖』(夕張鉄道発行)
しかし夕張周辺炭鉱の開発は著しく、貨物・旅客ともに大幅に増加していったところから夕張線の輸送力が逼迫し、また既存の夕張線のルート自体が札幌・小樽方面へ向かうには遠回りであったことから、もうひとつのルートである「夕張鉄道」の敷設が計画されたのです。
▲夕張鉄道開業当初の鹿ノ谷駅構内(1930年、絵葉書)。
出典:『全線完成記念写真帖』(夕張鉄道発行)
しかし最初にこのルートが建設されなかったのには訳がありました。夕張から直接札幌方面へ向かうには間に夕張山地が立ちはだかり、難工事であるばかりか、開通後もその急峻な地形のために3段スイッチバックを含む急勾配で山を越える必要が生じたのです。
▲急勾配に挑む蒸機列車。山越えの区間は蒸気機関車が前後に連結され、石炭満載の貨車を押し上げた。
出典:RM LIBRARY 285巻『夕張鉄道 路線・沿革編』より
それでも苦難を克服し、会社設立の6年後となる1930(昭和5)年には新夕張(後の夕張本町)~野幌間53.2kmが全通し、夕張から札幌・小樽間の距離は既存の夕張線経由に比べ、50kmも短縮されることになりました。
この夕張鉄道を軸としてさらに各地に炭鉱専用鉄道が広がり、貨物輸送量も人口も増加の一途で、それまで町であった夕張は、戦中の1943(昭和18)年に市制が施行されました。
戦後は増え続ける貨物量に対応して蒸気機関車を増備、1952(昭和27)年からは気動車(ディーゼルカー)を導入、途中の錦沢には風光明媚な場所であるとして遊園地が設置され、観光客で大いに賑わいました。
▲三段スイッチバックの錦沢駅が最寄りの錦沢遊園地。当時最新鋭の「0系新幹線」豆列車がお出迎え。
絵はがき(1964年頃) 所蔵:奧山道紀
順風満帆に見えた夕張鉄道ですが、実は大きな弱点がありました。函館本線に接続する野幌までは開通したものの、その先に向かうには乗り換えが必要になりました。一時は夕張鉄道の上江別から分岐し札幌大通りまでを結ぶ「札幌急行電鉄」を東急が構想したこともありましたがそれも立ち消えとなり、列車とバスを接続させての札幌乗り入れを続けていました。
一方で、バスの普及は鉄道の存続を脅かすことにもなり、札幌方面への旅客輸送は直通可能なバスが有利となっていきました。さらに頼みの綱の貨物輸送も産業構造の変化から1966(昭和41)年をピークに減少、炭鉱事故や鉱山の閉鎖も相次ぎ、そして沿線最大の平和炭鉱が1975(昭和50)年3月末に閉山されたことで、鉄道も運命をともにすることになりました。
こうして、夕張線より後にできた「夕張鉄道」は、皮肉にも夕張線よりも先に、鉄道線としておよそ半世紀の幕を閉じたのでした。現在では鉄道時代の社名を引き継いだまま、バス会社として存続しています。
◆RMライブラリー285巻『夕張鉄道 路線・沿革編 -石炭を運んで半世紀-』が好評発売中です。
路線・沿革編では夕張本町と野幌の間53.2kmを半世紀の間結んでいた夕張鉄道について、路線や各駅の成り立ちを紹介します。
■著者:奥山 道紀(おくやま みちのり)
■判型:B5判/48ページ
■定価:1,375円(本体1,250円+税)
◆書誌情報はこちら