text:上石知足(鉄道ホビダス編集部)
▲長期営業運転離脱後、復帰に向けて試運転をしているE331系。
‘09.6.16 京葉線 葛西臨海公園 P:岩片浩一
(鉄道投稿情報局より)
「14両(3ドア)」… 本来10両編成4ドアが基本の京葉線において、こんな標示の電光掲示板に見覚えがある方はいますでしょうか?今回は新機軸を多数盛り込んだ通勤電車の数奇な生涯について振り返ります。
【写真】「14両3ドア」乗車口は今どこへ?E331系の姿を捉えた貴重な写真はこちら!
■試験車からさらに発展した営業用車両
901系(のちの209系)から進化を続けてきたJR東日本の一般型電車でしたが、2002年に更なる進化を目論んで、試験車E993系「ACトレイン」が登場します。この車両で試験されたものの一部は、その後登場するE233系やE531系に反映されることとなりますが、連節構造や、ギア等を介さず静音化を実現できる直接駆動主電動機(DDM)など、E993系で採用された従来とは大幅にモデルチェンジした技術を営業用車両に盛り込み、その有用性をより本格的に確認するために、2006年3月に量産先行車両として落成したのがこのE331系です。
構造として最も特徴的なのはその連節構造でしょう。14両の貫通編成で前後7両の連節編成を2つ組み合わせており、分割される中央部分のみボギー台車という構成でした。14両編成とは言いますが、1両当たりの車体長は従来車両よりも短く、長さとしては20m級10両編成と同等の長さになります。台車中心間距離も13.4mと短くし、曲線通過時の車体のはみ出し量を少なくした結果、全幅の拡大も実現し、E231系や最新のE235系などで採用される一般的な拡幅車体と比較しても39mm広い2989mmとなっているのも特徴です。
また、E993系で試験された連節構造やDDMに加え、イーサネットをベースとした伝送技術を採用する車両制御情報装置「AIMS」、旅客への情報サービス提供装置である「ATISS」を搭載していたほか、ロングとクロス状態を乗務員室のスイッチを操作することで変更できる可変座席の採用など、新規軸を多数盛り込んだ車両でした。
■度重なる運用離脱
2006年3月末に京葉車両センターに配置され、1年ほど性能確認や訓練を目的とした試運転を繰り返し、2007年3月より営業運転を開始しました。試験車で得たノウハウを多く盛り込んだ車両ながら、実際に乗ることができる珍しい存在でしたが、運行開始直後に営業運転から離脱。それぞれの製造メーカーである川崎重工と東急車輛(当時)に入場し改良工事が行なわれたりしましたが、その後も度々不具合が発生し、都度長期の運用離脱と運用復帰を何度か繰り返すことになります。
元々1編成しかいない上に、土休日ダイヤのみ設定されていた「95運用」限定で運行されていたこと、そして度重なる長期運用離脱が目立ったことから、なかなか遭遇できない・乗車できない車両でもありました。
そしてE331系が導入された後の2006年9月に、中央快速線向け新型車両のE233系0番代が落成。E233系は勢力を拡大し続け、2010年7月には京葉線用の5000番代が営業運転を開始します。このE233系5000番代の置き換え予定には当初E331系は入っていなかったものの、従来からの201系・205系・209系の置き換えという目的はE233系5000番代が担うことに。結局量産化される目処が立たないまま、2011年1月に運用離脱して以降、全く動きを見せず長い眠りにつくことになります。
■突然の廃車回送から10年
2011年夏までに201系と205系の置き換えが完了した京葉線。以降はE233系5000番代と1本のみ残った209系500番代で京葉線の車両は運用されていきます。そんな中でも京葉車両センターの片隅で長年留置され続けたE331系。海浜幕張〜新習志野間の車窓から同車両基地を眺めるとその姿を確認することができたものの、本線復帰することはありませんでした。
そして最後の営業運転から約3年後となる2014年3月25日、EF64 1031の牽引で長野総合車両センターへ回送され、そのまま廃車されました。廃車後は全車が長野で解体され、現存する車両はいません。長年留置されていた車両でしたが、あっけない終焉が大きな話題となりました。
E993系から続く技術を受け継いだE331系。その特殊な構造や数奇な運命から、今もなおレイル・ファンの間では語り草な車両です。今日でちょうどあの廃車回送から10年が経ち、土休日95運用自体も10年以上前に廃止され、今の京葉線でE331系の面影を感じることはなかなかできません。そんな中、E331系のみの乗車口であった「14両3ドア」を示すステッカーは今も葛西臨海公園駅に残されており、数少ない同車の残り香と言えるでしょう。
新機軸を大量に盛り込んだJR東日本のそんな「意欲作」の功績は、決して小さいものではなかったように思います。