柳都・新潟のシンボル、レインボータワー。大榮車輌の受注実績では、昭和48年度に「新潟回転式展望台客室及び昇降フレーム一式製作据付」の記述が残る。 2014.11.28 P:伊藤真悟 いささか前の話になるが、『大榮車輌ものがたり』を編集しているとき、気になったことがあった。大榮車輌が創業した場所のことである。 大榮車輌は千葉県津田沼で長く操業し、後に宗吾参道に移転したことは広く知られているが、その創業は1946(昭和21)年、東京都城東区大島町3丁目245番地だという。城東区は現在の江東区の一部にあたるが、大島町3丁目245という地番は現在は存在しない。というわけで地元の図書館に出かけてみたのは、一昨年の暮れのことであった。 明治以来の歴史があるという深川図書館に出かけてみると、館内の郷土資料室に1965(昭和40)年施行の住居表示の新旧対照案内図が保存されており、大島町3丁目245は、大島3丁目15番付近であることがわかった。そこは現在の都営新宿線西大島駅近く、あの竪川専用橋から続く都電29・38番の専用軌道沿い、かつての大島三丁目電停のすぐ近くだった。 結構知られた場所じゃないか・・・と思いながら、資料を書棚に戻そうとすると、並びに昭和33年版の住宅案内図があった。大榮車輌は1952(昭和27)年には津田沼に本拠を移しているので関係ないか、と思いながら開いてみると・・・「あっ・・・」 そこには「志村」と書かれた、大きな区画が描かれていた。読まれた方ならご存知と思うが、大榮車輌の創業者は志村榮さんである。津田沼移転後も土地はそのままだったのか、あるいは地図の改訂が遅れていたのか、どちらにせよここが大榮車輌創業の地と考えてよいだろう。ちなみにあまり関係ないとは思うが、南側には国鉄千葉鉄道管理局大島寮と書かれている。新大橋通りから見た旧大島町三丁目方向。道路に挟まれた緑道が旧城東電車である都電29・38番の軌道跡。奥に見える城東郵便局が国鉄千葉鉄道管理局大島寮の場所で、大榮車輌はそのさらに奥に見えるマンションの向こう側あたりに位置していたはずだが・・・。 2014.12.6 P:高橋一嘉 その足で現地に行ってみると、千鉄局大島寮があった場所は城東郵便局になっていたが、その北側の「旧245番地」付近は、完全に住宅街と化していた。現地付近の案内図。 2014.12.6 P:高橋一嘉 最後に、大榮車輌創業から1年余り後の1947(昭和22)年9月に撮影された大島町三丁目付近の空中写真を見てみよう。まだ焼け野原が広がるこの土地で、大榮車輌はスタートしたのである。米軍が1947(昭和22)年9月8日に撮影した東京都江東区大島町三丁目付近の空中写真。画面上東西に伸びるのが現在は暗渠となった竪川。左に南北に伸びるのが越中島貨物線。中央よりやや左下に見える交差点が現在の都営地下鉄西大島駅付近。そして、ほぼ中央を南北に伸びるのが、都電の軌道敷。まだ焼け野原が広がる荒涼とした土地に、小さな工場が建てられていることが判る。 国土地理院ウェブサイト(http://www.gsi.go.jp/)より