平成になってから長大道路橋で本州・四国と事実上の陸続きとなった兵庫県の淡路島ですが、昭和時代には船を使わないと到達できない「離島」のひとつでした。そんな淡路島に昭和の時代、鉄道が走っていたのをご存じでしょうか。
▲晩年はクリーム色+水色の爽やかなカラーに塗られていた淡路交通の電車。右下に見えるクリーム色+茶色は旧塗色。
出典:『RM LIBRARY 267 淡路交通(上)』(以下同)
鉄道を経営していたのは淡路交通。現在、淡路島全土で路線バスおよび関西・徳島方面への高速バスを運営している会社です。同社の設立は1914(大正3)年とされていますが、これは洲本~福良間を結ぶ鉄道を着工すべく、「淡路鉄道」を創設した時にあたります。
▲淡路島東西の港町、洲本と福良の間23.4kmを結んでいた淡路交通鉄道線。交換駅が多かったことから、毎時30分ヘッドで運転されていた時期もあった。
たび重なる計画変更や資金不足を乗り越えて、最初に開業した区間は洲本口(のちの宇山)~市村間。今から100年前の1922(大正11)年11月のことで、その3年後になる1925年6月に洲本~福良間が全線開通しました。軌間1,067mmの蒸気鉄道で、これは後にガソリンカーを経て戦後間もない1948(昭和23)年には電化が完成、離島初の電車が走りだしました。
▲電車は主に南海電鉄から譲り受けたが、一部はガソリンカーを電装した改造車や阪神電鉄からの譲渡車でまかなわれた。
輸送密度は戦前の段階ですでに1,000人/km日を超え、貨物は名産の玉ネギを中心に年間20,000tを輸送するなど、「島の鉄道」は大いに賑わいを見せました。戦後は貨物輸送こそ衰退したものの乗客は増え続け、1964(昭和39)年度には5,038人/km日とピークの時を迎えたのでした。
しかしすでに逆風は吹き始めていました。国道の整備が進むにつれバス事業が急伸し、所要時間も鉄道に遜色がなくなってきました。さらなる国道整備のためには鉄道の踏切が障害となり、切り札としての高架化も地元から町を二分するものだと反対の声が上がります。さらに追い打ちを掛けたのが1965(昭和40)年の台風や集中豪雨による水害で、長期運休を余儀なくされている間も代行バスでの輸送が滞りなく行われ、苦労して復旧した鉄道にももはや乗客が戻らなかったと言われています。急転直下で迎えた1966(昭和41)年9月30日の鉄道最終日。この日を最後に日本唯一の「島の電車」は姿を消しました。
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- 著者:寺田 裕一(てらだ ひろかず)
- B5判/56ページ(うちカラー8頁)
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