私鉄・機関車

三菱鉱業大夕張鉄道 9600形No.3 (私鉄・機関車)

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1937年8月日立製作所で製造された9600形式(製造番号876)で自社発注機。炭水車はC56のようにバック運転時視界を容易に確保できるよう両側を大きく切り欠いた5-10形を装備していた。僚機9600形No.4(1941年1月日立製作所:製造番号1300))も同様な形態をしていた。1973年大夕張炭山の閉山に伴い南大夕張〜大夕張炭山間が廃止され、さらにDL3輌が導入されたため、9600形No.2〜No.8の7輌全機が翌年までに廃車された。No.3号機は野幌にある個人宅に保存された。 '74.5.3 野幌 P:佐々木裕治

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北海道炭礦汽船夕張鉄道21 (私鉄・機関車)

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1941年(昭和16年)7月川崎車輛(製造番号2530)で製造された自社発注機。軸配置1D、重量55.75t、全長16,563 mm、動輪径1,260mm、炭水車15.24t、幅2,616mm、高さ3,885mm、国鉄9600形式と同形で、9600形式としては最後に製作された機関車。1975年3月夕張鉄道が廃止されまで在籍し、晩年はもっぱら平和坑での入換えや平和駅から栗山方面に向かう石炭列車の後部補機に使用されていた。補機仕業では、平和駅を発車しサミットの第三隧道手前の46.5㎞地点で走行解放しバック運転で平和駅に戻るため、連結器解除用のテコを装備している。現在、栗山町の栗山公園に保存されている。 '73.8.14 平和-錦沢 P:佐々木裕治


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三美運輸 1(B6 2649) (私鉄・機関車)

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元国鉄2649号(B6形)で、1905年にアメリカ・ボールドウィンで製造(Baldwin26541)された。国鉄時代に手宮・岩見沢・札幌・旭川などで活躍し1935年に廃車。1940年明治製糖(後の日本甜菜製糖士別工場)へ譲渡された後、1967年6月三美運輸に入線。国鉄南美唄支線(3.0km)の終点、南美唄から1.2kmの位置に三美運輸専用線があり、その終端の石炭積込場でB6形が入換に活躍していた。1973年3月三美鉱業の閉山にともない同線が廃止、1号も廃車された。 '73.1.9 三井美唄 P:佐々木裕治

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鹿島鉄道 DD90 1 (私鉄・機関車)

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昭和30年に日本車両が製造した試作機でしたが、昭和32年6月に国鉄が借入した際にDD42 1を名乗ることになりました。しかし翌年3月には除籍ののちに返却され、常総筑波鉄道に譲渡されてDD90 1になったという経歴を持つ機関車でした。その後、関東鉄道・鹿島鉄道と継承され、晩年は常陸小川駅の貨物荷捌線に留置されていました。この写真を撮影した1週間後、鹿島鉄道の廃線を待たずして現地で解体されてしまいました。 '07.2.20 鹿島鉄道 常陸小川 P:前 直也


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別府鉄道6号 (私鉄・機関車)

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1921(大正10)年に飯山鉄道2号機として誕生した日本車輌製0-6-0タンク機。1944(昭和19)年に飯山鉄道が国有化された際、西武鉄道に移って2号(2代目)を名乗っていたが、1956(昭和31)年別府鉄道にやってきた。1965(昭和40)年11月にDB201が入線するまでは5号機とともに本線貨物の主力として活躍。1966(昭和41年)6月に倉敷市交通局からDC302が入線し、本線用DLが2輌体制になったのにともない引退、その年の暮に解体された。 '65.8.16 土山 P:小西和之

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