鉄道ホビダス

興浜北線と斜内山道。

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今日では脊梁を残すのみとなってしまった北海道の鉄道網ですが、1970年代までは路線図だけでしっかりと北海道の形を描き出すことが可能でした。さながら櫛の歯が抜けるように消えていった路線の中でも、とりわけオホーツク海に面した宗谷・網走地方の路線網は壊滅状態で、今や宗谷本線以東、石北本線以北には線路がまったくない状態となってしまっています。

1980年代はじめまで、この地方には名寄?遠軽間を結ぶ名寄本線を軸として、湧網線、渚滑線、興浜南線、天北線、興浜北線が一大鉄道網を築いていました。興浜南線の雄武と興浜北線の北見枝幸の間が未成ではあったものの、網走から湧網線、名寄本線、興浜南・北線、天北線をたどれば、鉄道で稚内までオホーツク海岸を走破することが可能だったのです。
▲流氷に覆われたオホーツク海から起立するように神威山が聳え立つ。興浜北線はこの急峻な崖下、波打ち際をぐるりと巡る。圧倒的なスケールの中で単行のキハ22はあまりに小さい。'74.3 斜内?目梨泊

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このオホーツクを巡る路線の中で、なぜか格別気に入って足しげく通ったのが興浜北線でした。興浜北線は天北線の浜頓別から北見枝幸を結ぶ30.4kmの路線で、もともとは改正鉄道敷設法別表に「北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル(後略)」予定線=興浜線として計画されたものでした。1935(昭和10)年に興部?雄武間の南線が、翌1936(昭和11)年に浜頓別?北見枝幸間の北線が開通したものの、戦時休止などを経て、結局、南線と北線を結ぶ雄武?北見枝幸間は開通をみることなく、1985(昭和60)年に廃止となってしまいました。

宗谷岬からサロマ湖に至るオホーツク海岸は、ほとんど起伏がなく、地形図で見ても実に単純な弓なりを描いた海岸線です。そんな単調な海岸にあって、興浜北線斜内?目梨泊間の北見神威岬は唯一のシーニック・ポイントともいえ、少なからずファンを引きつけてきました。興浜南線の沢木?栄丘間にも日ノ出岬とよばれる岬がありましたが、急峻な神威岬とは比べものにならない平板なもので、こちらは結局一度きりの訪問に留まりました。それと比べると、神威岬は襟裳岬から続く日高山脈の延長がオホーツク海に沈む最北端で、神威山が切り立った崖となってオホーツクに没する絶景です。北神威岬灯台をランドマークに掲げたこの岬の桟道は「斜内山道」と通称され、興浜北線はこの岬を巻き込むように灯台直下を走っていました。
▲まさに斜内に到着しようとする926D。稚内機関区所属のキハ22 23単行である。'74.3 斜内?目梨泊

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1970年代前半、両興浜線には名寄区の9600の牽く貨物列車が1往復設定されていましたが、南線の方はほぼ隔日運転の不定期、北線の方も定期ながら運休も少なくない不安定な運転でした。しかも北線の旅客列車は一日たった6往復のキハ22単行のみ。1往復の貨物を斜内山道で狙うにはほぼ丸一日を費やす覚悟が必要でした。それでも渡道のたびに必ず足を向けたのは、それだけ神威岬に引き付けられてしまう何かがあったのでしょう。

第一次特定地方交通線に指定されて廃止が協議される中で、準備工事完了のまま放置されていた北見枝幸?雄武間の未成区間を完成させて、オホーツク縦貫鉄道網を完成させようという機運が地元自治体を中心に巻き起こったと聞きます。うたかたの夢と消えたこの計画がもし実現していたら、今ごろあの斜内山道にはどんな車輌が走っていたのでしょうか。
▲1/25000地形図に見る現在の斜内山道。1999(平成11)に神威山を貫くトンネルが完成し、岬を巡るルートは過去のものになろうとしている。(国土地理院発行地形図より)

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