鉄道ホビダス

2008年9月27日アーカイブ

oosanbashiph01.jpg
▲第一次築港工事によって完成した大桟橋を記録した明治末期の絵はがき。桟橋先端から陸側を見る。桟橋上には5線の軌道、画面右手奥に明治18年完成の横浜税関が見える。左に停泊している船のデリック(クレーン)下の台車の列に注目。提供:村田 進
クリックするとポップアップします。

先日ご紹介した横浜大桟橋手前の通称「象の鼻地区」で発見された転車台群(アーカイブ「横浜港で“出土”した転車台群」参照)に関しては、その後多くの方から貴重な情報を頂戴いたしました。今日はその中から地元・横浜にお住まいの村田 進さんからいただいたお便りをご紹介してみることにいたしましょう。

zounohana080906n2.jpg「関東大震災以前の地図に残る転車台が21世紀のこの時代に白日の下に現れるとは、まるで夢を見ているようでたいへん驚きました」と記された村田さんのお手紙は、この転車台群の歴年変化を『横浜港修築史』(運輸省港湾建設局刊)を主に分析されたもので、これによってほぼその来歴が解明されたと言っても過言ではありません。
▲北側(海側)から出土した転車台を見る。下に掲げた設備図と見比べると、「東西上屋」中央部の4基であることがわかる。'08.9.5
クリックするとポップアップします。

村田さんによれば、“出土”した転車台の現地は1859年7月1日(安政6年6月2日)の開港に際して築造されたふたつの突堤(長さ60間・幅10間)の根元に設けられた運上所(税関+入管)の跡地で、転車台は税関移転後に設けられた税関倉庫に、第一次築港工事によって完成(1894=明治27年3月竣工)した鉄桟橋(大桟橋=長さ450m・幅19m)上に敷設された4線(のち5線)の軌道上の貨車(運搬車)150輌で荷物を運ぶために利用されたものであろうとのことです。

oosanbashifig01.jpg
▲「横浜税関新設備図」に見る新港埠頭建設(明治32年?大正6年)による臨港鉄道の連絡。今回出土した転車台群がはっきりと描かれている。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
クリックするとポップアップします。

そもそも「水陸連絡網」についてはブライトンの築港計画(1874=明治7年)の頃からさまざまな案があり、パーマー案(1889=明治22年)の第一次築港計画では鉄桟橋より税関構内を経て、海岸通り先、北仲通り先沿いに進み、大岡川河口を渡って横浜停車場へ達する線が予定されていたそうですが、この案は反対も多く実現に至らず、結局、軌道は鉄桟橋(大桟橋)~税関構内の区間のみ敷設されることになったのだそうです。

00sanbashifig02.jpg
▲「横浜税関陸上設備震災復旧工事概要:昭和6年/営繕管財局横浜出張所」に見る関東大震災直前の横浜税関設備。「東西上屋」周辺の軌道網は一気に拡大し、それにともなってこの一帯の転車台数も増加しているのがわかる。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
クリックするとポップアップします。

この辺の事情を前出『横浜港修築史』の脚注は「内国貿易は船卸・船積が多く鉄道連絡貨物は現在あまり多くないため連絡鉄道布設は他日必要を持って施工する事で、軌道は桟橋-税関構内のみ布設して明治26年2月28日計画変更されている」と触れています。

keihaku-banner3a.jpg

レイル・マガジン

2008年9月   

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
「編集長敬白」が携帯電話でもご覧になれます。下記アドレスもしくはQRコードを読み取ってアクセスしてください。
http://rail.hobidas.com/blog/
natori/m/

ネコ・パブリッシングCopyright © 2005-2016 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.