鉄道ホビダス

2008年9月アーカイブ

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昨日ご紹介したカリフォルニアの“C.P.HUNTINGTON”をお送り下さった村松 功さんからは、実はもう一枚たいへん珍しい写真もお送りいただいています。あの「ランケンハイマー」断末魔の姿です。お便りとともにこの貴重な写真もお目に掛けたいと思います。
▲すでにキャブ屋根も失われて哀れな姿となった磯分内工場 1号機(現車は無番号)。キャブ側面に「ランケンハイマー」とカタカナ表記された奇妙な銘板が見える。ちなみに既に汽笛は失われていたようだ。'62.8.20 日本甜菜製糖磯分内 P:村松 功
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豊島園の“C.P.HUNTINGTON”で貴兄が発見された“LUNKENHEIMER”の文字についてもいささか気になるところです。小生も大昔(1962年)に日本甜菜糖磯分内工場を訪れたことがありますが、この時は既に「ランケンハイマー」は廃車後でキャブも取り払われ、工場の一隅に放置されていました。しかしこの時見たその奇怪な姿の印象は今でも忘れられません。ついでながらその時に撮影した写真もご覧に入れます。

ご存じかとは思いますが、この機関車についてはかつて小熊米雄氏が『科学朝日』1962年10月号でその出自の謎解きを試みておられますが、19世紀末にアメリカで製造された機関車で、スクラップとして輸入されたものを日本で再生したものではないか?と推測されるに留まっています。この機関車の不思議な点は現車に取り付けられた製造銘板の表記が日本語で、片カナと漢字で「ランケンハイマー製 米国」と記されていることです。小熊氏は1914年発行のアメリカの機械製造会社のリストに「Lunkenheimer & Co.」という名前があり、バルブとその付属品のメーカーであることまでは調査されていますが、この会社と磯分内の機関車を結びつける手がかりは無く、関係は不明とされていました。

今回、貴兄が発見された「模型列車」の汽笛が、Lunkenheimer社製のものだとすれば、このメーカーは汽笛のメーカーで、その製品はアメリカから輸入された他の機関車にも取付けられていたことも考えられます。磯分内の1号にも当初はLunkenheimer製の汽笛が付いていたことも考えられ、日本で整備改造する段階で、機関車の製造銘板が失われている中、唯一判読できた汽笛に記された文字を機関車のメーカー名と誤認し「ランケンハイマー製」と決めつけたのではないか…という推理も成り立ちます。小熊氏がご存命であれば、謎解きに大きな前進があったと喜ばれたのではないでしょうか。

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▲ランケンハイマーのライセンスによるオハイオ州シンシナチ・バルブ・カンパニーの現行カタログ。ランケンハイマーブランドの汽笛はもとより、水面計なども取り揃えられている。
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近年、模型化もされ(アーカイブ「“ランケンハイマー”のお砂糖」参照)、いまさらながら“メジャー”になった感のある「ランケンハイマー」ですが、同機を実際にご覧になった方は少なく、なおかつ廃車後のこんな姿には初めてお目に掛かりました。村松さんには重ねてお礼申し上げたいと思います。ところで、その“Lunkenheimer”ですが、ネットで検索してみると、各種バルブのライセンスホルダーとして健在のようです。やはり村松さんの推理のように、汽笛やバルブ類にあった刻印を機関車本体のメーカー名と誤認、もしくは届出書類の方便として使った可能性が高いようです。
としまえんの園内鉄道で見かけた汽笛の刻印を発端として、意外な展開となりましたが、これまた鉄道趣味の醍醐味に違いありません。

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▲「カリフォルニア州立鉄道博物館」に展示されている“C.P.HUNTINGTON”号。初期のイギリスではシングルドライバーが活躍したが、アメリカでは珍しい。美しく磨き上げられているのでレプリカに思えるが、実機を復元したものとのこと。'08.6.29 P:村松 功
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としまえんの「模型列車」で活躍する“C.P.HUNTINGTON”について、その後もいくつかのお便りを頂戴していますので、この機会にご紹介してみたいと思います。まずはカリフォルニアで“実物”と対面して来られた村松 功さんのメールから…。

080929n12.jpgとしまえんの「模型列車」の機関車“C.P.HUNTINGTON”号が話題になっていますが、小生、先頃アメリカの博物館に保存されている実物を見てきましたので、ご参考までに報告します。場所はカリフォルニア州の州都サクラメント市にある「カリフォルニア州立鉄道博物館」です。同博物館は、サザン・パシフィック鉄道の4-8-8-2キャブ・フォワード機が保存されていることで知られていますが、“C.P.HUNTINGTON”は巨大なキャブ・フォワード機のすぐ前に対比するかのように展示されていました。
▲カリフォルニア州立鉄道博物館の建物のサインにも“C.P.HUNTINGTON”があしらわれている。西海岸鉄道の始祖として、同館のマスコット的存在となっているらしい。'08.6.29 P:村松 功
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同機の由来については知識がなかったのですが、近藤喜代太郎著『アメリカの鉄道史』(成山堂刊)によりますと、名称は“コリス(Collis) P.ハンチントン”号。クック(Cooke)機関車会社 1863年製で、セントラル・パシフィック鉄道の3号機とされています。大陸横断鉄道の工事用として1864年就役。のちにカリフォルニア北部の支線で使用され、1901年に焼却炉となっていたものが、後年、カリフォルニア州立鉄道博物館に静態保存されたものだそうです。

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なお、9月16日付ブログで、園内軌道のゲージが609mmでなく何故600mmなのかは不明、鉄聯の軌匡との関連云々の記述がありましたが、9月24日付ブログに添付されたCHANCE社のスペックシートを良く読んでみると、Track Gauge…24in.(60cm)と記されています。「模型列車」が米国製の既製品だったとすると、600mmゲージの特注品であるとは考えにくく、「模型列車」のゲージは本来24in.すなわち610mmではないかと推察します。
▲後側を見る。近藤氏著書では3号機とされているが、展示車のNo.は「1」になっている。大陸横断鉄道開通以前は、西海岸で建設する鉄道資材や車輌を、東部から海路はるばる南米先端のホーン岬周りで西海岸へ輸送したらしい。展示機のゲージは実測しなかったが、近藤氏著書によるとカリフォルニアの鉄道は当初は5フィートゲージ(1524mm)だったとされているので、本機も当初5フィートだったものと思われる。'08.6.29 P:村松 功
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村松さんありがとうございました。
また、別の方からは、「模型列車」の製造会社の名称は、この列車の製造当時は“CHANCE MANUFACTURING COMPANY,INC.”でしたが、2001年にローラーコースターで有名な“D. H. Morgan Manufacturing ”と合併し、“Chance Morgan Inc.”と改名、総合遊園地遊戯施設会社となったようです。9月24日付ブログに掲載されたカタログページもChance Morganのものです。また、“C.P.HUNTINGTON TRAIN”は、遊戯機具として販売されているのではなく、園内人員輸送機器として販売されています。遊戯施設の製造、保守部門は、“CHANCE RIDES MANUFACTURING, INC.”という別会社なっています…とのご指摘もいただきました。

ちなみに豊島園さんからは「テンダーに付番されている数字はチャンス社の製造番号。すなわち193は製番193ということです。エンジンについて。既に廃車となっている183はFORD192CI、4シリンダ 3100ccのガソリンエンジン。193は当初FORD200CI-D、6シリンダ3300ccのガソリンエンジンでしたが、現在は日産H20、4シリンダ 2000ccを搭載しています。新しい265はWISCON TOTALPOWER TM-D27という4シリンダ2700ccのディーゼルエンジンです。なお、9月から193列車はフラワープリンセス。265列車はウェスタンシルバーの愛称が付けられ、テンダー両サイドに製番とともに表示されています」との追加情報も頂戴いたしました。あわせてご紹介するとともに、改めてお礼申し上げます。

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この横浜港の転車台に関しては、宮崎繁幹さんからも貴重な絵はがきの画像をお送りいただきました。画面右下に転車台が写っており、起重機と倉庫、そして軌道の分岐状態などから、新港第四号上屋付近ではないかと思われます。転車台自体は今回出土したものより直径が大きそうで、締結装置も別のタイプのように見えます。
▲宮崎繁幹さんからお送りいただいた絵はがき。“Pier of Custom at Yokohama”(横浜税関桟橋)との注記がある。宮崎さんによると、背景の“Empress of Russia”号はカナディアン・パシフィックの船で1913(大正2)年に初航海を行い、大正年間の太平洋航路の花形船だったとのこと。「鉄道と無縁でないのも嬉しい一枚です」と宮崎さん。所蔵提供:宮崎繁幹
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さて、第二次築港工事(1899~1914年)の完成で、新港埠頭構内の臨港鉄道と大桟橋からの鉄道が税関構内でつながり、ここにようやく「水陸連絡網」が形作られることになります。この鉄道について村田 進さんからお送りいただいた『横浜港修築史』のコピーから抜粋してみましょう。

zounohana080906n3.jpg鉄道は幹線として、横浜停車場(現桜木町駅)から鉄道院建設の海陸連絡路線を経て、埋立地中央部に入り右突堤に複線で入り、別に1線分岐して、鉄道橋(新港橋)を経て税関構内の鉄道と連絡。支線として、上屋と岸壁の中間(エプロン)には単線、上屋の背面及倉庫の前面には2?3線を敷設し、また構内貨物車配線用に埋立地中央部に側線を4線設けている(貨車の仕分け、列車組立等は停車場で行う)。
またこれ等の支線は、2号上屋背部、3、4、5、15号上屋エプロン部を除いてすべて転轍機によって列車のまま入替が出来るように配置されている。
列車用鉄道は軌間3呎6吋(1067㎜)60lbの軌条を用い鉄道建設規定に準拠して施工、一部連絡上1/80?1/240勾配を用いた他は水平とし、曲線半径は最小4.5鎖(90m)1ヶ所を除き5?8鎖(100?160m)としている。又、付属設備として転車台、及び遷車台、計重台、車止等を配置している。
(中略)
工期は明治41年6月?大正3年3月で、延長は列車用鉄道740.91鎖(14,907m)、鉄道橋附属1.94m(40m)、起重機用鉄道77.67鎖(15,627m)外に貨物用転車台13台、遷車台12台、車止42ヶ所であった。
▲ついに横浜市の手によって保存されることになった転車台。大桟橋・象の鼻エリアの歴史を語り継ぐ遺産として公開される日を待ちたい。'08.9.5
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▲「横浜港震害復旧工事報告:昭和4年/内務省横浜土木出張所」に見る関東大震災後の大桟橋・新港埠頭周辺。大桟橋上の軌道表記はすでになく、東西上屋付近の軌道も西門を入ったあたりで途切れているのがわかる。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
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ようやく完成した鉄道による「水陸連絡網」ですが、1923(大正12)年9月1日、関東大震災によって壊滅的な被害を受けてしまいます。復興に際しては大桟橋~東西上屋間の軌道は放棄され、新たに海側に建て直された東西上屋の南側に新港橋からの線路が延伸されることになります。先日の「横浜港で“出土”した転車台群(上)」のトップの写真解説で「こちらは戦後になって臨港貨物線の側線として敷設されたもの」と誤って記してしまった線路がこれに該当します。

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▲「横浜税関陸上設備震災復旧工事概要:昭和6年/営繕管財局横浜出張所」所収の設備復旧図。新港橋から税関庁舎横を抜けて東西上屋南側に至る線路が上図と比べて多少変化しているのが読み取れる。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
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村田さんをはじめとする皆さんのご教示で出土した転車台群の全容が見えてきました。改めてお礼申し上げます。なお、横浜市ではこの転車台群を近代化遺産として保存し、後世に残すことを決めたそうです。実物を見ながら、この転車台群が歩んできた数奇な運命に思いを馳せられる日もそう遠くないはずです。

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▲第一次築港工事によって完成した大桟橋を記録した明治末期の絵はがき。桟橋先端から陸側を見る。桟橋上には5線の軌道、画面右手奥に明治18年完成の横浜税関が見える。左に停泊している船のデリック(クレーン)下の台車の列に注目。提供:村田 進
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先日ご紹介した横浜大桟橋手前の通称「象の鼻地区」で発見された転車台群(アーカイブ「横浜港で“出土”した転車台群」参照)に関しては、その後多くの方から貴重な情報を頂戴いたしました。今日はその中から地元・横浜にお住まいの村田 進さんからいただいたお便りをご紹介してみることにいたしましょう。

zounohana080906n2.jpg「関東大震災以前の地図に残る転車台が21世紀のこの時代に白日の下に現れるとは、まるで夢を見ているようでたいへん驚きました」と記された村田さんのお手紙は、この転車台群の歴年変化を『横浜港修築史』(運輸省港湾建設局刊)を主に分析されたもので、これによってほぼその来歴が解明されたと言っても過言ではありません。
▲北側(海側)から出土した転車台を見る。下に掲げた設備図と見比べると、「東西上屋」中央部の4基であることがわかる。'08.9.5
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村田さんによれば、“出土”した転車台の現地は1859年7月1日(安政6年6月2日)の開港に際して築造されたふたつの突堤(長さ60間・幅10間)の根元に設けられた運上所(税関+入管)の跡地で、転車台は税関移転後に設けられた税関倉庫に、第一次築港工事によって完成(1894=明治27年3月竣工)した鉄桟橋(大桟橋=長さ450m・幅19m)上に敷設された4線(のち5線)の軌道上の貨車(運搬車)150輌で荷物を運ぶために利用されたものであろうとのことです。

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▲「横浜税関新設備図」に見る新港埠頭建設(明治32年?大正6年)による臨港鉄道の連絡。今回出土した転車台群がはっきりと描かれている。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
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そもそも「水陸連絡網」についてはブライトンの築港計画(1874=明治7年)の頃からさまざまな案があり、パーマー案(1889=明治22年)の第一次築港計画では鉄桟橋より税関構内を経て、海岸通り先、北仲通り先沿いに進み、大岡川河口を渡って横浜停車場へ達する線が予定されていたそうですが、この案は反対も多く実現に至らず、結局、軌道は鉄桟橋(大桟橋)~税関構内の区間のみ敷設されることになったのだそうです。

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▲「横浜税関陸上設備震災復旧工事概要:昭和6年/営繕管財局横浜出張所」に見る関東大震災直前の横浜税関設備。「東西上屋」周辺の軌道網は一気に拡大し、それにともなってこの一帯の転車台数も増加しているのがわかる。(『横浜港修築史』運輸省港湾建設局/1983)
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この辺の事情を前出『横浜港修築史』の脚注は「内国貿易は船卸・船積が多く鉄道連絡貨物は現在あまり多くないため連絡鉄道布設は他日必要を持って施工する事で、軌道は桟橋-税関構内のみ布設して明治26年2月28日計画変更されている」と触れています。

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▲2輌目に元貴賓車1500(更新前)を組み込んで快走する135ほか4連の急行。P-6最盛期のひとコマ。'57.4.26 P:山口益生(RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』より)
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ついに110巻目を迎えたRM LIBRARY、今月のテーマは東西を問わず今なお電車ファンに絶大な人気を誇る阪急電鉄100系電車を取り上げた『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』です。

080926p6n1.jpg改めて阪急100系、というより「P-6」という方がお馴染みの電車についてご紹介しますと、阪急京都線の前身である新京阪鉄道が大阪・天神橋~京都・西院間の開業に先立ち、1937(昭和2)年から建造した電車です。この新京阪鉄道とは京阪電気鉄道が第2の京阪間の鉄道を敷設すべく設立した会社で、併用区間もある「軌道」であった京阪線に対し、淀川右岸に建設された新京阪線は架線電圧1500V、最小曲線半径600m、最急勾配10パーミル、50kg/mレール使用と、当初から本格的な高速運転を前提とした「鉄道」として建設され、途中分岐して名古屋方面への延伸も目論まれていました。このためP-6も18.3メートルという大型鋼製車体に200馬力の主電動機、12輌まで連結可能なブレーキ装置など、本格的な高速電車として開発され、また当時としては異例の72輌という数が揃えられたことも特筆されます。

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▲“P-6A”と通称された第1次車は全鋼製両運転台の電動車101~120と制御車501~510の30輌だった。ちなみに制御車はT-1とも称された。(RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』より)
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▲P-6華やかなりし頃の正雀車庫全景。僚友P-5や200形の姿も見える。P:吉岡照雄(RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』より)
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本書は阪急電鉄車両部OBであり、実務でもP-6と向き合ってこられた吉岡照雄さんが、ご自身のメモや業務資料に加え、先輩社員の方々から伝えられた話を備忘録の形でまとめられたものです。すなわち、これまで幾度も語られてきたP-6の概要を前提に、現場の立場から改造による変化や固体差などをさらに掘り下げた内容となっている点が大きな特徴です。

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▲制御車の電動車化改造によって誕生したP6-Cをはじめ、後年の改造についても詳述されている。(RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』より)
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▲関西私鉄電車の雄・P-6は1973(昭和48)年3月23日付けで最後の18輌が廃車となり、本線上からその姿を消した。奇しくも社名が京阪神急行電鉄から阪急電鉄に変わるわずか一週間前のことであった。(RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』より)
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ちなみに、最近はP-6というと「パノラマカーの6連」を思い浮かべる方も多いと思いますが、阪急100系に対する「P-6」とは新京阪鉄道による部内呼称で、Passenger Car(客車)の6番目(ただし欠番がある)を意味するものです。ファンには有名な「デイ」「フイ」「フキ」といった記号は、第3次車の竣功届に対して鉄道省から「形式称号をつけよ」との照会があった際に対応したもので、実は公式書類以外に使われることは少なかったとのことで、これまた興味深い逸話です。
P-6の雄姿が淀川右岸から消えて今年で35年、実物ファン、模型ファンともにお勧めの一冊です。

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▲総会会場となる磯部温泉・高台旅館は信越本線磯部駅下車。1885(明治18)年開業のこの駅も、今や高崎~横川間の区間列車のための閑散とした駅になってしまった。'08.7.17

来週10月2日(木)~10月3日(金)に日本鉄道保存協会の年次総会が開催されます。すでに現地視察の様子は一度ならずご紹介(アーカイブ「碓氷峠鉄道文化むら再訪」「碓氷第三橋梁の“かまど”」参照)しておりますが、今年は磯部温泉の旅館を貸し切りということもあり、わずかながら一般の方の参加枠を設けさせていただきました。

080925n103.jpg今年の総会は国土交通省鉄道局地域鉄道対策室長による講演のほか、この機会にわざわざ来日される英国保存鉄道協会会長・欧州保存鉄道連合議長のデビッド・モーガンさんによる講演もあり、たいへん充実した内容となっております。もちろん総会翌日には開催地団体=碓氷峠鉄道文化むらの視察や、国の重要文化財となっている碓氷峠鉄道施設(碓氷第三橋梁、丸山変電所など)の見学もプログラムしております。
▲碓氷峠鉄道文化むらの庫内で大切に保管されている準鉄道記念物のED42 1。'08.7.16
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■日本鉄道保存協会2008年度総会
1 日時:2008年10月2日(木)13時から10月3日(金)昼食時まで。
2 場所:磯部温泉高台旅館(379-0135 群馬県安中市郷原551-6)
     信越本線磯部駅下車。当日は旅館の送迎バスが出ます。
3 日程
●10月2日(木)
  13時15分 出席者紹介および総会
  14時  講演・事例報告・討論
       講演1「地域鉄道の現状と活性化に向けた取り組み」
       国土交通省鉄道局地域鉄道対策室長・上住まり 氏
       講演2「英国及び欧州の鉄道保存運動について」
       英国保存鉄道協会会長・欧州保存鉄道連合議長 D・モーガン 氏
       開催地報告「碓氷峠鉄道文化むらの活動と地域社会への貢献」
       財団法人碓氷峠交流記念財団理事長 白石敏行 氏
       討論1 鉄道遺産の保存活用と地域活性化
       事例報告:加悦鐵道保存会理事 篠崎 隆 氏
       NPO 鳥取市民文化財ネットワーク
       陸別町商工会
       討論2 技術伝承をめぐる諸問題
       事例報告:大井川鐵道
            日本工業大学工業技術研究所 丹治 明 氏
  19時 懇親会
  
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▲碓氷峠鉄道文化むらに並ぶ保存車輌の数々。野外という車輌保存にとっては厳しい状況ながら、多くのボランティア・スタッフの手によって良好な状態に保たれている。'08.7.16

●10月3日(金)見学会
       碓氷峠鉄道文化むらの保存車輌と国の重要文化財となっている碓氷峠鉄道施設(碓氷第三橋梁、丸山変電所など)を見学し、昼食後解散します。詳細は総会の席上ご案内いたします。
4 会費:一般の方:一人 18,000円(資料代、宿泊費、懇親会費、昼食代込み)

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▲碓氷第三橋梁を見上げる。総会の現地視察ではこの第三橋梁のほかに丸山変電所も見学できる予定。'08.7.16

通常は一般の方のご参加は出来ませんが、今回は会場のキャパシティーも若干余裕があることから、ご希望の方先着5名様に限り、オブザーバーとして(参加費18,000円)ご参加いただけます。
ご希望の方は、日本鉄道保存協会事務局(財団法人交通文化振興財団)
担当者:五十嵐健一(学芸員)までご連絡下さい。
電話:03-3251-8481 ファクシミリ:03-3251-8489
メール:rpsj@kouhaku.or.jp

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▲「模型列車」で活躍するチャンス社の “C.P.HUNTINGTON”。レディーメードどころか、世界各地に同形機が送り込まれている大ベストセラーであった。'08.9.17
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先週2回にわたってお目にかけた「としまえん」の園内鉄道「模型列車」ですが(アーカイブ「ランケンハイマーの汽笛」「続・ランケンハイマーの汽笛」参照)、豊島園から製造元であるアメリカ・カンサス州のチャンス社(CHANCE MANUFACTURING COMPANY,INC.)の資料を頂戴いたしましたので、改めてご紹介してみたいと思います。

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▲その正面と木目調で丹念に作り込まれたランボード部。煙室扉の周囲にはチャンス社の社名が入れられているのがわかる。'08.9.17
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それによると、この“C.P.HUNTINGTON TRAIN”はやはり機関車+客車の編成でレディーメード品として販売されていたものでした。スペックシートによれば、1863年製のサザン・パシフィック鉄道の1号機“C.P.HUNTINGTON”を“Scaled replica”としたもので、機関車の動力は水冷4気筒ガソリンもしくはディーゼルエンジン、オートマチック・トランスミッションを持ち、空気制動も標準装備されています。運整重量は2.7t、最高速度は19㎞/h、通過可能最小半径15.3m、対応最急勾配30‰。

080924n104.jpgこの“C.P.HUNTINGTON”とお揃いの客車も用意されており、機関車1輌に対して客車2~6輌が“セット”として販売されていたようです。機関車・客車ともに真鍮色のトリムとクローム仕上げのトリムを選べるようになっており、特別塗装や車椅子対応のバージョンも用意できると記載されています。
▲同形3輌中2輌で銘板を確認することができた。これは現在稼動中の個体に付けられたもの。'08.9.17
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▲“C.P.HUNTINGTON TRAIN”のチャンス社の仕様書。上は実物のサザン・パシフィック鉄道の1号機“C.P.HUNTINGTON”で、ほぼ忠実にダウンサイジングされていることがわかる。(豊島園提供)
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この“C.P.HUNTINGTON TRAIN”シリーズは1961(昭和36)年に最初のユニットが地元カンサス州のジョイランド・パーク(2007年に閉園)に納入されたのを皮切りに、今年までに実に354セットが世界中に販売されたそうです。わが国にも12セットが入っているとのことで、としまえんの3輌目は栃木県のりんどう湖ファミリー牧場(アーカイブ「知られざるアプト式鉄道」参照)から移籍してきたものだそうです。さすれば、まだまだ未見の仲間がどこかにいるはずです。

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田尻弘行さんの訃報に…。

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▲田尻弘行さんの遺作となったRMライブラリー『鹿児島交通南薩線 ―南薩鉄道顛末記-』上下巻。病と闘いながらの上梓であった。

先月発売のRMライブラリー『鹿児島交通南薩線 ―南薩鉄道顛末記-』の著者のお一人である田尻弘行さんがお亡くなりになりました。享年73歳。この本の上梓にまつわる背景を一番良く知る者として、改めて残念でなりません。

tajirisan2.jpg同書あとがきでも多少触れられておられますが、田尻さんは3年ほど前に前立腺癌が末期の状態で発見され、手術もできぬまま病と闘い続けておられました。それでも昨年までは撮影行にもおいでになり、比較的静穏な日々を送っておられましたが、今年に入ってから病状が悪化、RMライブラリー『鹿児島交通南薩線 ―南薩鉄道顛末記-』も執筆半ばで筆をとることさえままならなくなってしまいました。
▲お元気だった頃の田尻さん。東北本線田尻駅での“ツーショット”。P:井門義博

同書は共著者である髙井薫平さんがまえがきでお書きになっているように、お二人にとって半世紀の間燻っていた数々の思いへのリベンジでもありました。お二人の“デビュー作”だった南薩鉄道をもう一度しっかりとまとめて後世に残しておきたいという思い、出会って間もない髙井さんが田尻さんのお名前を間違えて出版社に伝え、それが掲載されてしまった慙愧の思い、そしてなによりも、田尻さんの体調の時間的な制約のなかで、刎頚の友である髙井さんがなんとかご存命中に完成本を見せたいとの強い思い…そんな数々の思いが交錯しての上梓だったのです。実際、昼夜兼行の厳しいスケジュールではありましたが、今となっては、あと一ヶ月遅ければ「下巻」の完成をお見せすることが叶わなかったことになり、その面では田尻さんとの約束を何とか果たすことができたことになります。

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▲これまでにRMライブラリーでまとめられた作品の数々。最期までご出身の九州の地方鉄道に拘り続けておられた。

田尻弘行さんは1935(昭和10)年生まれ。九州で高校までを過ごされ、慶應義塾大学工学部に進まれました。同大学の鉄道研究会で髙井さんらと出会い、本格的な鉄道趣味を開花させたとうかがっています。卒業後はわが国を代表する通信機器会社に入社され、要職をお務めになったのち、関連会社の社長に就任。会社経営という重責の中で、ご専門の工学分野ではなく経営史に強く興味を持たれ、RMライブラリーで纏められた地方鉄道史の数々も、出資者や資本比率といった従来の趣味的鉄道研究ではあまり顧みられることのなかった部分を丹念に調べ上げておられました。

zuritra.jpgとりわけ地方鉄道と路面電車がお好きだった田尻さんは、リタイアされたのちは積極的に海外にもお出かけになりました。なかでも7年ほど前にタスマニアを訪問された際、同地の市電博物館が復元用に3’6”軌間用の低床台車を探しているのを聞き、篤志で東奔西走、名古屋鉄道からモ575号の台車を譲り受け、個人的努力で輸出・贈呈されたのは極めて強く印象に残っています(本誌282号=2007年3月号参照)。この台車はロンセストン市電博物館29号に履かされ、今後、同車は動態走行する計画と聞き及びます。田尻さんにはその功労を称えて表彰盾が贈られていますが、ご本人亡きあとも、タスマニアの市電はその遺志を継いで走り続けてくれるに違いありません。
▲リタイアされてからは世界各地の鉄道探訪も楽しまれた。これはチューリッヒのトラムミュージアムを訪問された際にお土産としていただいたチョコレート。

「南薩」の執筆に取り掛かりながらも、「次は島原」とあくなき探究心で意欲に燃えておられた田尻弘行さん。まだまだライブラリーの巻も重ねていっていただきたかっただけに、なんとも残念でなりません。謹んでご冥福をお祈りいたします。

なお、田尻弘行さんの葬儀は下記のとおり執り行われます。
日時 通 夜:9月24日(水曜日)19時から
   告別式:9月25日(木曜日)11時から
場所 「セレモニア溝の口会堂」(川崎市高津区下作延156)

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▲メイン・エントランスの装飾も終わり、いよいよオープンを待つ早朝のとしまえん正門。'08.9.21

一昨日・昨日と「としまえん鉄道フェスタ2008」が開催され、多くの皆さんにご来場いただきました。まずはお礼申し上げます。かねてよりご案内申し上げておりましたように、このイベントは東京23区内に奇跡的に残る緑豊かな遊園地・としまえんを会場に、親子で鉄道の楽しさに触れていただこうというイベントで、私どもネコ・パブリッシングが運営事務局を務めさせていただきました。

080922n101.jpgこの「としまえん鉄道フェスタ2008」は、広大なとしまえんのほぼ中央部に位置する“それいゆ広場”と、メインアトラクションの巨大なフライングパイレーツ下にある“それいゆホール”、それに今年で生誕101年目を迎えるドイツ製回転木馬カルーセルエルドラド前の“エルドラドステージ”を使って開催されました。“それいゆ広場”では鉄道事業者、メーカー、販売店等の出店を中心に、普段はなかなか目にする機会のない地方鉄道グッズや“ご当地品”に出会えるほか、西武鉄道、西武バスによる部品販売、さらにフリーマーケットが行なわれ、“それいゆホール”では「鉄道模型」の楽しさに触れていただこうとメーカー各社の協賛によるレイアウト展示や、トレインシミュレータの体験コーナー、さらには「家族」をテーマとした都築雅人さんの写真展「蒸気機関車と世界の家族」も開催されました。
▲巨大な“フライングパイレーツ”を見上げる“それいゆ広場”がメイン会場。西武鉄道のブースには部品販売を待つ長い列が…。'08.9.20
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▲両日ともに大好評を博したSUPER BELL"Zのライブ+エアトレイン大会。雨模様となってしまった2日目は急遽101年目を迎える国内最古の回転木馬“カルーセルエルドラド”前にステージを移しての開催となった(右)。'08.9.21/'08.9.21
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“エルドラドステージ”ではSUPER BELL”Zの皆さんによるライブとエアトレイン大会、さらには部品オークションも行なわれ、こちらもたいへんな盛り上がりでした。MCをお願いした小倉沙耶さんとのトークも絶妙で、小さなお子さんと飛び入りでステージに上がるママさんの姿は、このイベントの趣旨を象徴するかのような微笑ましい光景でした。

080922n102.jpgそれにしても改めて“鉄道だいすきファミリー”がどんどん増えてきているのを実感する二日間でした。大人気だったスタンプラリーにしても、「ほら30000系よ」と当たり前のようにお子さんに説明するお母さんの姿に、これまでにない新しい時代の予感を感じたのは私だけではないと思います。
▲メイン会場のそれいゆ広場を見下ろす。会場には実物のバス3台も展示された。'08.9.20
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▲二階のそれいゆホール壁面を使って開催された都築雅人さんの写真展「蒸気機関車と世界の家族」も大好評。ファミリーでの来場者が多いとあって親子で見入る姿も…。'08.9.21

最終日午後にはサプライズもありました。なんと西武グループの総帥、西武ホールディングスの後藤高志社長がご夫妻でおみえになったのです。各会場を巡られましたが、なかでも写真展「蒸気機関車と世界の家族」では、たまたま会場におられた都築雅人さんの解説に熱心に耳を傾けておられました。また、自らトレインシミュレータも体験され、カトーさんのブースではレイアウト上を走る“自社”101系の姿に興味深く見入っておられる姿が印象的でした。

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▲なんと西武ホールディングスの後藤高志社長もお出でになった。トレインシミュレータで東急東横線を“運転”される後藤社長。'08.9.21

ご来場いただいた皆様、台風13号にともなう不安定な天候にも関わらずご出展いただいた皆様、そして、としまえん関係者の皆様に改めてお礼申し上げます。

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豊島園駅の古レール。

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▲豊島園駅の現在。画面左奥には都営大江戸線の豊島園駅がある。右側には「としまえん鉄道フェスタ」の告知看板も見える。'08.9.17
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いよいよ今週末に迫った「としまえん鉄道フェスタ」に関連する話題をもうひとつ。先日の「豊島線 あの頃」でも触れましたが、豊島園駅に降り立った際にはぜひ目を止めていただきたいのがホーム上屋に使われている数々の古レールです。

080918n102.jpgもともと西武池袋線の駅は古レールの“宝庫”で、池袋-所沢間の各駅を調査した記録は、岡 雅行さんの研究として『トワイライトゾ~ン・マニュアル6』に発表(「風前の灯火・開業時のレール」)されていますが、その後高架化が進み、急速に数を減じてしまいました。その中で、現在でもおそらく最も多種多様な古レールが見られるのが豊島園駅です。
▲BARROW 1894(明治27年)の文字が鮮明に読み取れる柱。バーロゥはイギリスの老舗メーカー。'08.9.17
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▲こちらはアメリカUSスチールの前身カーネギー(CARNEGIE)社製。1914(大正3)年の製品。'08.9.17
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わずかな時間で確認しただけでも、古い順に英国バーロゥ(BARROW)社 1894(明治27)年製、米国カーネギー(CARNEGIE)社1914(大正3)年製、ドイツ・グーテホフヌングスヒュッテ(G.H.H.)社1926(大正15)年製、ポーランド・クロレフスカ・フータ(KROLHUTA)社1927(昭和2)年製など、いずれ劣らぬ“逸品”揃いです。

080918n104.jpgところで、「としまえん鉄道フェスタ」のステージイベントではSUPER BELL"Zさんのライブステージとオークションが行なわれますが、このステージのMCを務めてくれるのが各地の鉄道イベントで活躍されている小倉沙耶さんです。実は彼女、かなりの古レールフリークで、先日はNHKラジオで古レール・ウォッチングのノウハウを解説されたほどです。豊島園駅のこの古レール群をご覧になったことがあるかどうかはまだ伺っていませんが、ぜひ感想を聞いてみたいと思います。
▲“G.H.H.”はドイツのグーテホフヌングスヒュッテ社製を示す。読みづらいが1926(大正15)年と思われる。'08.9.17
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▲こちらはポーランド製のレール。“KROLHUTA”(クロレフスカ・フータ社)1927(昭和2年)の文字が浮かび上がっている。'08.9.17
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さて、折悪しく台風13号が関東地方に接近中で、「としまえん鉄道フェスタ」に関してすでに数多くのお問い合わせをいただいておりますが、流動的な部分もあるものの、基本的には20日(土曜日)・21日(日曜日)ともに開催する予定です。ただし、20日(土曜日)午前中は風雨の関係で設営準備が完了できないことも考えられますので、各プログラムが変更になる場合もあります。なにとぞその点はあらかじめご容赦ください。

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※「としまえん鉄道フェスタ」開催にともない、小ブログは22日(月曜日)までお休みさせていただきます。鉄道フェスタ会場で皆様とお会いできるのを楽しみにしております。

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▲とても東京23区内とは思えない「模型列車」の軌道。初秋の木漏れ日の中、絶妙のカーブを描く。'08.9.17
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昨日ご紹介した豊島園の園内軌道「模型列車」ですが、今日、「としまえん鉄道フェスタ」の準備で休園日の現地を訪れた際、再びじっくりと拝見させていただくことができました。“水と緑の遊園地”をキャッチフレーズにするだけあって、軌道の周囲も鬱蒼とした木々に囲まれ、気持ちよいカーブを描くナローの軌道を見ている限りは、ここが東京23区内であることを忘れてしまいかねません。

mokeiressya202.jpgさて、その中で昨日の記述の誤りを発見してしまいました。「合計4輌の機関車」とご紹介しましたが、実はもう1輌存在し、5輌の機関車が“在籍”していたのです。漏らしてしまったのはランケンハイマーの汽笛を持つチャンス製の“C.P.HUNTINGTON”(No.183)と同形機で、製造時期に差はあるのかもしれませんが、都合3輌の“C.P.HUNTINGTON”が存在することになります。未見だった1輌は銀色に塗られた極めて状態のよさそうな個体ですが、残念ながら製造銘板は見当たらず、汽笛にもランケンハイマーの打刻はありませんでした。
▲再び“LUNKENHEIMER”の刻印をしげしげと見る。'08.9.17
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▲昨日漏れていた1輌がこの銀色の“C.P.HUNTINGTON”。他の同形2輌と同じくアメリカのチャンス製。'08.9.17
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▲森のなかの側線で休車状態となっていた4-4-0もすっかり綺麗になっていた。こちらはバッテリー式で、現在は使用されることはない。'08.9.17
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改めて客車に取り付けられた“チャンス”の銘板を見ると、同社はアメリカ・カンサス州にある遊具メーカーであることがわかります。“C.P.HUNTINGTON”とタイトルが付けられ、その下にモデル名、製造年(この銘板では1994年3月)、さらに客車定員から機関車出力まで記載されていることから推察するに、この「模型列車」は機関車+客車の編成でレディーメードとして販売されているもののようです。と考えると、“C.P.HUNTINGTON”はサザン・パシフィック鉄道の1号機を模しているとともに、同社の製品シリーズ名も兼ねているのかもしれません。

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▲機関車と同じくチャンス製の客車。コロ軸受の立派な台車には小さなブレーキシリンダーも見える。'08.9.17
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▲メリーゴーランドをモチーフにした“CHANCE RIDES,INC”の銘板。カンサス州の遊具メーカー。右は“本線軌道”に使われている特注品のPC枕木。'08.9.17
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ところで、昨日の記事をご覧になった本多邦康さんから、「戦前の豊島園の豆汽車“753号機”については『鉄道コレクションがいっぱい』伊藤東作著(雄鶏社1981年発行)21ページに写真があります」とのメールをいただきました。「終戦後の物とは違うかもしれませんが…」と書き添えられておられますが、たいへん貴重な手掛かりで、改めてお礼申し上げます。

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▲現在活躍中の“C.P.HUNTINGTON”。2軸先台車を持つ動輪一軸の「A型機」である。'08.1.18
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「としまえん鉄道フェスタ」がいよいよ近づいてまいりましたが、園内に「模型列車」と名づけられた600㎜ゲージのエンドレス軌道があるのをご存知でしょうか。かつて『トワイライトゾ~ン・マニュアル』1・2巻で「遊園地をあなどってはイケナイ!?」と題して全国各地の遊園地鉄道を紹介したことがありますが、豊島園のこの軌道は、その中でもとりわけ謎に満ちているトワイライトな鉄道です。

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▲こちらは休車となっている先代の“C.P.HUNTINGTON”。この汽笛に謎の打刻が…。'07.12.14
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まず気になるのはその軌間です。いま600㎜ゲージと記しましたが、なぜ2フィート(609㎜)ではなくメトリックの600㎜なのでしょうか。今もってその経緯は詳らかではありませんが、同系の西武園の園内鉄道に旧鉄道聯隊の軌匡が使用されていたことを思い起こせば、戦後はやい時期に西武鉄道が大量に入手した鉄道聯隊資材が用いられた可能性は否定できません。かつて、機関車研究の泰斗、かの臼井茂信さんから、終戦後この豊島園の園内軌道に小型蒸気機関車が走っていたという情報がある…とうかがったことがあります。果たしてどんな蒸機が煙を上げていたのか気になります。

mokeiressya103.jpgところでこの鉄道、「模型列車」とは奇妙なネーミングだと思われないでしょうか。実はこれにも隠された背景があります。園内鉄道をリニューアルする際に、米国の遊具メーカーであるチャンスから車輌を購入、この際に輸入されたのがアメリカの大陸横断鉄道Southern Pacific(サザン・パシフィック)鉄道の1号機“C.P.HUNTINGTON”のミニチュア、つまり模型だったのです。「模型列車」という名前にはそんな理由が秘められているのです。
▲そしてこれがその汽笛のアップ。うっすらとではあるが、“LUNKENHEIMER”と読み取れる。'07.12.14
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▲予備機に付けられた製造銘板(?)。“CPH LOCO 06693L2HR 81~50-183-24”の刻印が見られる(右)。左はエンドレス中央部の側線でなかば廃車状態の4-4-0機。'07.12.14
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この模型列車の“C.P.HUNTINGTON”を見ていて驚きの発見がありました。なんと、汽笛に“LUNKENHEIMER”なる打刻があるではないですか。えっ、ランケンハイマー! ランケンハイマーといえば古典蒸機ファンにはつとに知られた日本甜菜製糖磯分内工場の謎のB型機(アーカイブ「“ランケンハイマー”のお砂糖」参照)が思い浮かびます。今もって素性の知れないこの機関車は、研究家の間でも諸説紛々ですが、前出の臼井茂信さんは『機関車の系譜図』の中で、アメリカに「バルブとか暖房関係の器具を製造する会社」が同名で存在したことを指摘されています。果たしてこの“C.P.HUNTINGTON”とその会社との関連は…そして遥か日甜に果てたランケンハイマーとの関係は…。

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▲こちらも現在予備となっている4-4-0。“C.P.HUNTINGTON”とは異なり、国産機とのこと。いずれにせよ合計4輌の機関車が“在籍”しているわけだ。'07.12.14
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なお、「としまえん鉄道フェスタ」については、本日の鉄道ホビダスで詳細をご紹介(→こちら)しております。ぜひご覧のうえお運びください。

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4番グースも復活へ。

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▲4番グースの搬出を伝える“GALLOPING GOOSE HISTRICAL SOCIETY”のニュースレター。後部キャビンも分離されることなく、そのままトレーラーに載せられて運搬された。

個人的な贔屓もあってたびたびこのブログで紹介してきているギャロッピング・グースですが、懸念された5番グースの不調(アーカイブ「ギャロッピング・グースが不調」参照)も克服されたようで、なにはともあれまずはひと安心。そんな中、ギャロッピング・グース・ヒストリカル・ソサエティから嬉しいニュースレターが届きました

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▲テラライドのサン・ミーゲル・カウンティ裁判所脇にひっそりと保存されていた頃の4番グース。露天保存ゆえそれなりの疲れは見えるが欠品などはない。'94.8.31 Telluride

残されたグースの中で一番の不遇をかこっていた4番グースが、レストアのため搬出されたというのです。5番(3番)グースとともにウェイン製バスボディのいわゆるエクスカーション仕様の4番は、かつてのRGS(リオ・グランデ・サザン鉄道)グースルートのひとつ、サンファン山脈に抱かれたテラライド(Telluride)の町にひっそりと保存されていました。有名なバンス・ジャンクションから分岐した支線のほぼ終点に位置するこのテラライドは、景勝で知られるサンファン・スカイウェーの通る町でもありますが、4000m級の山々に囲まれた極めて交通の便の悪い田舎町です。

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▲デュランゴ&シルバートン鉄道で初めて勢ぞろいした3輌のグースたち。手前から5番、1番、2番。4番グースとほぼ同スタイルの5番グースはドロゥレスのヒストリカル・ソサエティーが募金をつのって動態復活を成し遂げたもの。'00.8.28 Cascade Canyon
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私がこのテラライドの4番を訪ねたのはかれこれ14年も前のことです。地方裁判所の裏庭のような場所に置かれた4番グースは、聞くところによれば1953(昭和28)年からこの地で保存されているとのことでしたが、露天で40年以上が経過しているにも関わらず、それほど状態は悪くはなさそうでした。

gooseno4n3.jpg今回のニュースレターを見てその背景を初めて知りました。どういう経緯かはわかりませんが現在この4番グースはテラライドの消防署の所有で、この消防署を核としたボランティア組織が長年にわたって手入れをしてきたのだそうです。今年になってこのボランティア組織が4番グースのレストアをリッジウェー・レイルロード・ミュージアムに打診、1番グースの奇跡的“再生”を成し遂げた実績のある同ミュージアムはこれを快諾し、4番グース復活プロジェクトが開始されることとなりました。
▲コロラド・レールロード・ミュージアムで動態保存されている2番グース。同ミュージアムにはほかに6番と7番が保存されている。'00.8.28 Rockwood
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▲リッジウェー・レールロード・ミュージアムの手によって“再生”された1番グース。誕生後わずか2年で1933年に廃車され、たった7枚の写真しか残されていないという幻のグースの完璧なレプリカだ。'00.8.28 Rockwood
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5月29日、4番グースは半世紀以上にわたって鎮座していたテラライドをあとに、ダラス分水嶺を越えてリッジウェーへと運ばれました。リッジウェー・レイルロード・ミュージアムではこれから2~3年をかけてこの4番グースのレストアを行う計画とのことで、完成後は再びテラライドへと戻されるそうです。恐らくドロゥレスの5番と同様に、テラライドに居を構えながら機会あるごとに各地で展示・運転されることになると思われ、いずれはデュランゴの地で4番・5番のランデブー走行が見られるのも夢ではないかもしれません。

■これまでにご紹介した主なギャロッピンググース関連のエントリー
●愛しの“ギャロッピンググース”。(1)?(10)
●ナローゲージ・コンベンションの旅。(第1回)(第6回)(第7回/動画付き)(第8回/動画付き)(第9回)(第12回)

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▲レインボーブリッジを渡り、奥大井湖上駅に到着する「奥大井接岨湖フェスティバル」の際のシャトル便。イベントでのモーターボートクルーズ船が湖上を行く。'06.7.30 ひらんだ-奥大井湖上 P:奥 清博

先日ご紹介した大井川鐵道井川線の「かわかぜ号特別便奥泉へ」は、多くの皆さんにご覧いただけたようですが、とりわけDBの走行シーン(動画→こちら)は、はじめて目にする方も少なくなかったようで、“今なお現役”の機械式ディーゼル機関車の奮闘ぶりに心を打たれたという声もいただきました。さて、今日はそんな反響の中から、兵庫県にお住まいの奥 清博さんから頂戴したお手紙を紹介させていただこうと思います。

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▲沢間駅に停車中の特別便。機関車は8月24日の特別便とは逆向きで運転された 08.3.29 沢間 P:奥 清博

kawakaze102n.jpgいつも「編集長敬白」楽しみにさせていただいております。先月31日の「かわかぜ号特別便奥泉へ」拝見させていただきました。
私、3月29日の「今日の一枚」に、井川線で運転された一部バス代行からの復旧一番列車の写真を投稿させていただいた奥と申します。当日はかわかぜ号の運転日。その一番列車が記念列車として奥泉発となりました。ある意味もう一つの特別便と言えるのではないでしょうか。DBの向きも上り(千頭側) が前向きで「祝 全線運行」のヘッドマークが掲げられるサービスぶり。アプトいちしろから単機回送で奥泉へ。留置してあった客車をつなぎ、奥泉を出た列車は一路千頭へ。早朝だったため撮影に来たファンもちらほらでしたが、ちょうど川根小山駅の桜も見ごろで、久々の川根両国以北の走行シーンを満喫しました。
▲「奥大井接岨湖フェスティバル」イベントのシャトル便運行を知らせる立て看板。井川線内は運賃も無料だった。'06.7.29 長島ダム P:奥 清博

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▲DBが定期列車を牽いて活躍していた頃の川根長島(現・接阻峡温泉)駅構内。現在とはホームや構内線路位置が違っている。'82.2.11 川根長島 P:奥 清博

kawakaze106.jpg川根両国より北というと、2年前の2006年、国土交通省と林野庁の水資源開発啓発イベント「全国森と湖に親しむつどい」が沿線の長島ダム周辺で「奥大井接岨湖フェスティバル」として開催された際の交通アクセスとして、DB8、9とスハフ2輌がシャトル便として運転された事が思い出されます。7月29、30の2日間、接祖峡温泉~長島ダム間をオープンデッキのスハフ2輌の両端にDBをつけたプッシュプル運転でピストン運行するという夢のような話。しかも国交省主催のためか運賃は無料。イベント会場間にはシャトルバスも運行される至れり尽くせりの2日間でした。アプト区間以北でDBが走ることは最近ではチャーターなどを除きめったに無いので久々に興奮しました。
▲久保山トンネル入るシャトル便最終列車。接阻峡温泉終点はもうすぐ。’06.7.30 奥大井湖上-接阻峡温泉 P:奥 清博
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辛うじてDBの現役時代を知っている私も、牽引客車に近代的なスロフがついていない純粋な古典軽便風の「かわかぜ号」編成が、自然の中を駆け抜ける姿は懐かしさ以上の手ごたえを感じ、夢中で撮影をしました。しかし、写真を撮っていて何か違和感がぬぐえません。シャトル列車運転区間はダム湖に沈んだ旧線に代わった新線がほとんど。アプト区間に続き、ダム湖上を行く線路はレールも路盤も立派で、軽便特有の“へろへろ感”といった雰囲気が感じられないのです。接阻峡温泉(旧川根長島)駅手前付近のみが旧線を流用しているので現役当時の再現はそこだけとなってしまいました。
▲深山幽谷を行くDBとスロフ300の軽編成。当時はDBが井川線の主力だった。'82.2.11 尾盛-閑蔵 P:奥 清博

名取編集長も書かれている深山幽谷といえばやはり接阻峡温泉以北、撮影名所も千頭~奥泉間に比べ格段にあります。車籍を有するわが国唯一の機械式ディーゼル機関車は産業遺産級の貴重品なのであまり老体にムチ打つのも気の毒なのですが、一昔前まで私鉄日本一だった「関の沢鉄橋」などをめぐるかわかぜ号を紅葉の時期に接阻峡温泉~井川間に運転してもらえると嬉しいのですが…。

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▲新線を走るシャトル便。左のトンネルは付け替えられた旧線のもの。'06.7.30 ひらんだ-奥大井湖上 P:奥 清博

奥さんは合わせてDB現役時代のモノクロ写真もお送りくださいました。中線に貨車の姿も見える川根長島駅(現・接阻峡温泉駅)など、同時代体験している私にとっても、実に懐かしいとともに、なぜもっと真剣に撮り込んでおかなかったのかと後悔の念しきりです。いずれにせよ、奥さんのおっしゃるように今や産業遺産級のこのDBとスハフの、末永い活躍を祈りたいと思います。改めて奥 清博さんありがとうございました。

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▲「雨垂拍子」。一定のリズムを刻むがごとく垂れる雨滴に映えるナンバー。上野駅 P:小池健之(出展作品より)

本誌今月号でプレビューをご紹介した、小池健之さん、竹野友介さん、佐藤竜也さんの写真展「EF58 61 追い続けた素顔のロイヤルエンジン」が、今日から東京・新宿のギャルリー トラン・デュ・モンドで始まりました。

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▲会場はいまやすっかりお馴染みとなった新宿のギャルリー トラン・デュ・モンド。広々とした会場では旧交を暖めるファン同士の姿も多い。

最後のロイヤルエンジンだったEF58 61が、まるでフェードアウトするがごとく第一線を離れてしまったのは、多くのファンの心にぽっかりと隙間を空けてしまいました。この写真展を開催されたお三方も長年にわたって“ロクイチ”を追い続けてこられた皆さんですが、この写真展を拝見するに、EF58 61に対するその思いの深さ、そして打ち消そうにも消し去れない深い喪失感が、痛いほど伝わってきます。

080913n103.jpg小池さんは銀塩プリントのカラー作品、竹野さんはブローニー判で撮影されたモノクローム作品、そして佐藤さんはデジタル出力のカラー作品と三者三様の取り組みながら、秀逸な写真キャプションの数々とあいまって、会場全体は見事に統一感を保った展開となっています。メイン会場の展示作品数はもちろん61枚。本誌編集時点でその一部は原版を拝見しているのですが、いざこうやって全貌を見渡すと、その作品としてのレベルの高さにも圧倒される思いです。
▲「Million Films」。百万枚撮りのフィルムでも撮りきれないほどの思い出を♪ P:佐藤竜也(出展作品より)
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▲「ラストスパート」。終点、上野まであと僅か。柔らかな光がもれる乗務員室が外のネオンに浮かび上がる。MT42Fの唸りも高らかに颯爽と駆け抜ける。東北本線赤羽?尾久 P:小池健之(出展作品より)

出区前の整備、誘導の振るフライ旗、ディスコン棒を押し上げる乗務員、そしてマスコンに添えられた白手袋…単に斜め七三の列車写真に留まらず、展示作品からは“ロクイチ”とそれを取り巻く人々への限りなく温かい眼差しが感じ取れます。佐藤竜也さんは展示挨拶文の末尾に「“ロクイチ”が好き過ぎるあまり、思いが空回りして伝わりにくいカットばかりかもしれません」と記されていますが、むしろ逆に、その好きの思いが溢れんばかりに伝わってくる写真展と言っても過言ではありません。

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▲「スパーク」。六年前の失敗を思い出し再び挑戦。機関士が顔を出し汽笛が鳴る。眩いばかりのスパーク、夢がかなった瞬間。大宮駅 P:竹野友介(出展作品より)

小池健之さんは「今まで撮り続けた写真を整理しながら静かに振り返ると、これだけ多くのシーン、仲間そしてEF58 61に出会えたことは本当に幸せだったと思う」(展示挨拶文)と記し、竹野友介さんは「さまざまな表情を見せてくれたロクイチ、いま思えば、私の生活の中心でした。おそらく、この先これほどまでに情熱を注げる被写体に、もう出会う事はないでしょう」(同)と結んでおられます。これほど多くの人たちから熱く愛された“ロクイチ”は、けだし幸せだったに違いありません。

なお、この写真展「EF58 61 追い続けた素顔のロイヤルエンジン」は15日(月/休日)までの3日間のみの開催です。お見逃しなきように…。

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▲一階のエントランスにはトラン・デュ・モンドのシンボル、0系新幹線の車輪(Yk8)のモニュメントとサインボードが…。
※画像をクリックすると会場案内をご覧になれます。

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▲関東支社の入換動車として使用されているDE10 1529。ちなみに本機は1971(昭和46)年製なので車齢37年。'05.9.16 大宮車両所 P:RM(青柳 明)
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昨日、日本貨物鉄道(JR貨物)が高性能電池技術を応用したディーゼルハイブリッド方式の新型入換専用機関車を開発すると発表いたしました。ご承知のように現在貨物駅等の入換えは主にDE10形が行なっておりますが、同社に在籍しているDE10形117輌は経年平均34年と“高齢化”が進んでおり、この世代交代を図るに際して、環境負荷の少ないハイブリッド方式を採用することにしたものです。

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▲現行システムと開発するハイブリッドシステムの比較。(JR貨物提供)
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ハイブリッド方式のディーゼル機関車はもちろん国内初。現行の入換機関車との単体比較で排出ガスは30~40%以上、騒音は10デシベル以上の低減を目標とすると発表されています。この新型入換専用機関車は運転整備重量が60t、軸重が15t。軸配置はBo-Boの4軸駆動で、運転台配置はDE10と同様のセミセンターキャブ方式が採用されます。

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▲ハイブリッドシステムの応用イメージ。(JR貨物提供)
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まだ完成予想図は発表されていないものの、主要寸法(計画)は、車体長(連結面)15000mm、車体幅2800mm。性能(計画)は最大牽引力が約20tf、最大踏面出力は500kWとアナウンスされています。試作機の完成は2009(平成21)年度末の予定。ハイブリッド化の波はいよいよ入換機にまで及んでくるわけです。

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豊島線、あの頃…。(下)

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▲練馬駅ホームのすぐ下り方にあった“構内踏切”のような練馬1号踏切。通過しているのは豊島園発池袋行きの701系767F。'79.1.19
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高架複々線となってすっかり昔の面影がなくなってしまった練馬駅周辺ですが、地上時代はそこかしこに武蔵野鉄道の匂いを感じ取ることができました。アングル鋼材で組まれた架線柱もそのひとつで、巨大な架線柱がさながら鳥居の列のように並ぶ様は、その下を盛大な吊り掛音を響かせてくぐってゆく“赤電”の姿とともに、見ることかなわなかった武蔵野鉄道時代を彷彿させてくれました。

080909n110.jpg豊島線が分岐する練馬駅は、島式ホーム2面ながら、南側には貨物側線と貨物ホームがあり、バラエティー豊かな電気機関車が定期貨物を牽いてやってきては入換えに励んでいました。駅本屋の隣にはこれまたストラクチャーのプロトタイプとして模型にしたくなるような日通の事務所があり、隣接する製材会社からはほのかに木の香が漂ってきたのを思い出します。いまさらながら残念なのは、この貨物ホームや日通事務所を撮影していなかったことで、“模「景」を歩く”的視点が染み付いたのはこれら一連の写真を撮影した数年後、1970年代中盤以降になってからのことでした。
▲豊島園に向かう下り列車より0.5 キロポスト付近のR200の曲線を見る。'72.9
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▲わずか1キロながら豊島園手前では生活感溢れる街並みをくぐり抜ける(練馬三丁目付近)。池袋行きの前サボを掲げて踏切を通過するのは551系。'72.9
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ところで豊島線は練馬駅高架複々線化工事の際、一時、完全に本線との連絡を遮断され、いわば陸の孤島と化したことがありました。今から十年ほど前のことですが、101系2編成がこの孤立した豊島線に封じ込められ、実に不思議な光景を現出していました。

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▲カネボウが撤収してから練馬駅北側はながらく広大な空地のままだった。豊島線ホームの4番線沿いには仮設の覆いが続く(左)。写真右は多客時対応として駅本屋対面に設けられていた豊島園駅臨時出札所。'72.9
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そして本線との接続が復活したのちも絶えることのなかった練馬-豊島園間の区間運転が、今年6月のダイヤ改正を期に消滅し、現在、豊島線列車は全てが池袋へ直通(ただし豊島園発の終電は練馬行き)する運転形態となっています。その意味では面白味は多少減ってしまったような気もしますが、東京の、しかも23区内の単線盲腸線としての存在感はまだまだ充分です。

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▲最後に手元にあった昭和38年11月1日改正の池袋線・豊島線・狭山線列車ダイヤの一部をご覧にいれよう。500番代の列車番号が豊島線列車であることがわかる。ちなみにこの当時はまだ貨物列車も数多く設定されており、練馬や東長崎にも長い停車時間が設定されているのが見てとれる。
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さて、そんな豊島園を舞台にした「としまえん鉄道フェスタ2008」はいよいよ来週末、9月20日(土)・21日(日)開催です。豊島線に乗ってぜひお出でください。

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豊島線、あの頃…。(中)

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▲池袋線と豊島線の分岐付近の踏切道から練馬駅方面をのぞむ。画面右が本線、左が豊島線で、まだ非冷房の101系が上ってゆく。この当時はまだ武蔵野鉄道時代の架線柱が林立していたのがわかる。'72.9
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練馬駅2番線を出た豊島園行き電車は上り本線(3番)を跨いで豊島線(4番)へと進み、しばらく上り本線と並行したのち、R200の急曲線でほぼ90度向きを変えて豊島園へと進みます。

080909n114.jpg高架複々線となった現在では、2番線を出た豊島園行き電車は、上下本線の間を32‰の急勾配で地上に降りつつ右へカーブして豊島園を目指します。カーブを終えた辺りからは30年前とほとんど変わらない光景が続き、いくばくもなく両開き分岐となってホームに至ります。所要2分。電車は実にあっけなく頭端式ホームに停まり終点となります。

▲とても東京23区内とは思えない単線の急曲線を豊島園へと向かう551系。右に0.5kmポストが見える。'72.9
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▲分岐するとすぐに小さな踏切を越える。1970年代はまだこういった人道踏切をそこかしこで見ることができた。'72.9
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▲練馬駅連絡橋から1・2番線ホームを見る(左)。当時としては最新式だった行先表示器が「豊島園」を示している。画面左端には内田木材の貨物側線が見える。右はまさに豊島園駅ホームに進入しようとする下り列車(Tc1153)車内。'72.9
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昨日お目にかけた状況とほとんど変わらず、豊島園駅ホームは今もって武蔵野鉄道が開業した当時の面影を残しています。とりわけホーム上屋の柱に使われている古レールは注目に値し、1894(明治27)年“BARROW”の陽刻が鮮明に残る19世紀のレールも手近な位置で目にすることができます。お出での際はぜひこの古レールの探索もお忘れなく…。

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豊島線、あの頃…。(上)

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▲今から35年前、夏の昼下がりの豊島線豊島園駅ホーム。アルマイト製のカップがぶら下がった蛇口や、手押しの散水ポンプが遠い日の記憶を思い起こさせる。'73.8.26
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当サイトのバナーや本誌の誌面告知ですでにご存知のことと思いますが、「としまえん鉄道フェスタ2008」(9月20・21日)の開催がいよいよ近づいてまいりました。この鉄道フェスタは親子で楽しめる新しい参加型イベントとして豊島園と弊社がコラボレーションして開催するもので、現在その準備作業がまさに佳境を迎えております。

080909n102.jpgイベントの詳細については近日中に改めてお伝えする予定ですが、今日は会場となる豊島園への足、西武鉄道豊島線の1970年代を写真で振り返ってみることにしたいと思います。豊島園が開業したのは今から82年も前の1926(大正15)年。西武鉄道の前身の武蔵野鉄道が練馬-豊島間(1km)を開業したのが翌1927(昭和2)年10月のことでした。その後、豊島駅は豊島園駅と改名(昭和8年)されましたが、線名は「豊島線」のままで、今日まで81年間にわたって走り続けてきています。
▲島式の頭端式ホームは昔から変わっていない。住宅をかすめるように池袋行きの501系がホームを離れてゆく。'73.8
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▲豊島園駅のホームは思いのほか広い。夏休み中とあって、階段を下りた改札口には臨時ラッチも並んでいる。'73.8.26
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▲大江戸線ができる前は通勤客でもごったがえしていた。行楽地への足としての休日の顔と、通勤路線としての平日の顔…豊島線はふたつの顔を持っていた。'72.9
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練馬駅からわずか1キロとはいえ、一大遊園地・豊島園への、かつては唯一の交通手段だった豊島線ですが、現在では都営大江戸線が並走しており、今もって「単線」の豊島線は都会の盲腸線といったイメージがいよいよ強まりつつあります。

080909n106.jpgそんな豊島線も1970年代の平日は通勤・通学客、休日は行楽客で信じられないほどの賑わいを見せていました。練馬-豊島園間の区間運転はもとより、一時は池袋~豊島園間の準急(途中停車駅は練馬のみ)も設定されていたのですから驚きです。池袋からの下りは練馬を出ると上り本線をクロスするかたちで豊島線へと乗り入れてゆくため、分岐付近に二階建ての立派な信号扱い所があったのも印象に残っています。
▲トタン張りとなったものの、駅本屋は風格のある屋根を持つ木造モルタル造りの立派なものだった。'72.9
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▲高架となった現在では想像もつかない練馬駅の全景。北側の旧カネボウ跡地からの撮影で、右側に豊島線と本線の転轍をつかさどっていた二階建ての信号扱い所が見える。'79.1
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▲伝説の神居古潭を訪れたのはつかの間の紅葉が最後の輝きを放っていた10月末だった。3輌保存されているうちのC57 201は現存唯一の4次型C57である。'06.10.24 P:屋鋪 要

本誌300号から始まった異色の新連載「めざせ打率10割! 屋鋪 要の保存蒸機撮りつぶし」が好評です。先週は日本テレビ「行列の出来る法律相談所」に屋鋪さんが出演された際にも紹介されるなど、思わぬ“波及効果”も生みつつあります。

yashikisanc5744.jpg私のようにスポーツとはとんと縁のない生活を送ってきた方のために改めてご紹介すると、屋鋪 要さんは1959(昭和34)年大阪生まれ。1978(昭和53)年に三田学園よりドラフト6位でプロ野球大洋ホエールズに入団、その俊足で高木豊さん、加藤博一さんとともに“スーパーカートリオ”として球場を沸かせました。ゴールデングラブ賞5回、盗塁王3回。1994(平成6)年に巨人に移籍し、1995(平成7)年に現役を引退、以後は巨人軍守備走塁コーチを経てスポーツキャスターや少年野球の指導で活躍をされています。
▲C57 44と対面した際の屋鋪 要さん。'08.2.18 P:山本勝豊

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▲滝川機関区で現役だった当時のD51 297。お父様が撮られた写真で、現在は滝川市新町郷土館に保存されている。父親と見た機関車を再び訪ねるのもこの旅の目的のひとつ。'71.8 P:屋鋪 貢

そんな一見“鉄道”とはまったく縁がない、いや対極におられるような屋鋪さんですが、実は子どもの頃からの熱心な蒸機ファンで、お父さんに連れられてC62重連の「ニセコ」を撮りに行くなど、生粋の鉄道少年だったと言います。

yashikisanc582.jpg中学生になると寮生活の野球漬けの毎日となってしまい、鉄道撮影とは縁遠くなってしまいますが、その代わり(?)に蒸機撮影に熱をあげたのがお父様の屋鋪 貢さんです。最初は蒸気機関車好きの要少年を連れていってあげるだけの役だったものが、生来の写真好きの魂に火がつき、次第にご自身で撮影行を重ねるようになります。残されたネガを拝見するに、6×7判と6×6判のブローニーカメラ2台を使いわけ、実にかっちりと撮影されていたことがわかります。
▲訪ねてみると予想外のシチュエーションに保存されていることも少なくない。この三井芦別鉄道C58-2は旭川の「高砂ニュー温泉」の大広間に横付けされていた。画面左が宴会場。

残念ながらお父様は他界されましたが、プロ野球生活を終えてようやく時間的余裕ができた屋鋪さんが思い描いたのは、お父様と一緒に撮影した機関車、はたまた要少年に見せようとお父様が撮影した機関車への再会の旅でした。そしてその背中を押したのが、ご愛読いただいていた本誌117号(’93年6月号)の特集「蒸機こそすべて」だったといいます。同号で関 高生さんが発表された静態保存蒸機22形式481輌の“撮りつぶし”が強く印象に残っており、いつの日か自分も全国の保存機関車をくまなく訪ねてみたいと決意したのだといいます。

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▲D61唯一の生き残りD61 3は留萌市見晴公園にいた。大きな期待とともに訪れた屋鋪さんだったが、肝心の従台車が柱の陰となってしまっていたこともあり、少々期待はずれの出会いだったという。'06.10.24 P:屋鋪 要

到達すべき撮影対象は約620輌。講演や野球教室の指導の傍ら全国各地の保存機を訪ねる旅は今日も続いています。いつも持ち歩いておられるスケジュール帳には細かな文字で撮影記録がびっしり。しかも今後の撮影予定も仔細に書き記されており、屋鋪さんの心意気が伝わってきます。今月発売号の第3回は北海道の旅から…どうかご期待とご声援のほどを。

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▲改めてメジャーで軌間を測る。枕木が朽ちてしまい、しかも地盤の変動もあってか、かなり幅があるものの、概ね3’6”と考えて間違いはなさそうだ。なお、レールもかなりの錆び様で詳細は鑑定できないが、30kg/m程度の斤量と思われる。'08.9.5

今回“出土”した転車台群はいったいいつ頃、何の目的で使用されていたものだったのでしょうか。その謎を解く鍵が横浜開港資料館に残されている1910(明治43)年頃に撮影されたと思われる大桟橋の写真に残されていました。

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▲転車台中央部のハッチを外してその内部を見る。左はセンターの軸、右は回転後に位置を固定するためのフック。'08.9.5
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▲ピットの深さは950㎜ほどで、内壁は煉瓦で巻かれている。右は内部に取り付けられている回転用ローラー。'08.9.5
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この写真を見ると、画面右隅、つまり大桟橋の付け根の辺りにまったく同形の転車台が写り込んでいます。しかもよくよく見ると大桟橋突端に向かって複線の軌道がのびているのも見てとれます。つまり、この転車台とそれに紐づく軌道は大桟橋からの荷役用であったと類推されるわけです。

080906n10n107.jpg今回発見された現場は横浜税関本関庁舎の目の前であること、さらにはこれほど完全ではないものの、さらに庁舎側にも複数の転車台ピット跡が発掘されていることから、どうやらこの付近に保税倉庫のような大規模な施設があったものと思われます。つまり大桟橋で卸された貨物は軌道で桟橋を渡り、付け根の部分の転車台で向きを変えて西進し、今回発見された転車台群の位置に至るという寸法です。発掘された転車台は海岸線に対して直角方向に4基並んでおり、少なくとも海岸線と並行に4線の軌道が敷設されていたことになります。
▲発掘現場全景。背後には横浜開港資料館やホテルが並び立っている。'08.9.5
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▲旧高架橋を利用した「開港の道・山下臨港線プロムナード」下に掲げられた1910(明治43)年頃の横浜港を撮影した写真。なんとこの写真の右隅に件の転車台が写り込んでいる。'08.9.5

大桟橋は1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受け、昭和初期に大規模な復旧工事が行われていますが、転車台の遺構の上に大量の“震災ガラ”が積まれていることから考えると、震災によって軌道は放棄されてしまったものと思われます。とすれば、大桟橋の創建が1894(明治27)年ですから、この転車台が稼動していた可能性があるのは、1894年から1923年にかけての30年ほどということになります。

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▲左端では今や観光名所ともなっている新港埠頭の「赤煉瓦倉庫」(1911~1913年竣工)が建築中。中央の大桟橋は1894(明治27)年に造られたもので、右端を見ると桟橋上に複線軌道が敷設されているのがわかる。'08.9.5
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▲そのアップ。大桟橋上をのびてきた軌道は桟橋付け根の辺りで転車台に突き当たって90度向きを変える。今回“出土”した転車台はさらに画面下方向に進んだ位置にあり、保税倉庫のような場所への荷役用であったのかもしれない。'08.9.5
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ちなみに、戦後になってこの転車台遺構の上に東西上屋の倉庫が設けられたのは昨日ご紹介したとおりですが、この倉庫、なんと旧海軍霞ヶ浦航空隊で使われていたものを海上運搬してきたものだったのだそうです。すでに跡形もなく撤去されていますが、この地には様々な歴史がひしめくように存在していたわけです。

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▲今回現地を視察した日本鉄道保存協会の顧問の皆さん。右から青木栄一先生、小池 滋先生、交通博物館菅 建彦館長、米山淳一さん、そして座っているのが私。ちなみに顧問はあとお二方おられ、竹島紀元鉄道ジャーナル社社長と産業考古学会の堤 一郎先生はご都合がつかずお出でになれなかった。'08.9.5
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さて、この転車台遺構が今後どのような形で残されていくのか、はたまた一般公開されるのかはまだ決まっていません。ただ、開港150周年に向けた「象の鼻地区」の再整備のなかでは、この転車台遺構のほかにも旧横浜税関倉庫の基礎や象の鼻防波堤の石積みなども“出土”しており、歴史的建造物や近代化遺産などをまちづくりの重要な資源として高く評価し「歴史をいかしたまちづくり」を進めている横浜市だけに、遠からず保全活用の途を拓いてくれるに違いありません。

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▲横浜市認定歴史的建造物にも指定されている横浜税関本関庁舎(画面左)前の工事現場に残る軌道。こちらは戦後になって臨港貨物線の側線として敷設されたもので、今回“出土”した転車台と直接関係はない。画面右後方に山下臨港線の高架橋が見えるが、こちらは現在プロムナードとして活用されている。'08.9.5
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来年、1859(安政6)年の開港以来150周年を迎える横浜港では、その記念すべきアニバーサリーに向けてすでに様々な取り組みが始まっています。なかでも横浜市都市整備局では、横浜港発祥の地でもある大桟橋手前の通称「象の鼻地区」の再整備を開港150周年記念の象徴的な事業と位置づけ、整備・調整を進めています。

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▲これが発見された転車台群。すでに発掘調査を終えて埋め戻されたものもあるという。山下臨港線高架橋の前方に見えるのが大桟橋。'08.9.5
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その再整備事業を進めるなかで、これまでまったく認知されていなかった軌道と転車台が、それも複数“出土”し、日本鉄道保存協会にもいち早くご連絡を頂戴しました。

zounohana080906n3.jpg場所は大桟橋の付け根、横浜税関本関庁舎の東側で、つい先ごろまで「東西上屋」の倉庫が建てられていた所です。横浜市はこの一帯を開港を記念する広場として再整備する予定で、東西上屋倉庫の移転・撤去が完了した夏前から本格的な工事を開始しています。そして工事が進むなかで、土中から何基もの転車台と線路が発掘されたというわけです。
▲円盤状の転車台は直径2500㎜ほど。軌道は四方に敷設されている。'08.9.5
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表層を覆っていたのは土砂というよりは“ガラ”とでも表現した方がよさそうな煉瓦屑などの廃材です。厚さ900㎜近く堆積した、いや積み上げられたこの表層土は、関東大震災時の廃材と推定され、これは汐留停車場跡の遺構と同様のパターンです。いずれにせよ、幸運だったのは、軌道や転車台がそっくりそのままの状態で廃材が積み上げられ、さらにその上に名前のとおりの上屋と言うに相応しい倉庫が建てられていたことでしょう。これがもし基礎工事を必要とする一般的な柱構造の建造物であったとすれば、建築工事の時点で地中の遺構はすっかり撤去されてしまっていたに違いありません。

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▲横浜市都市整備局のご案内で現地を視察する日本鉄道保存協会の顧問の先生方。左手奥に横浜開港資料館が位置している。'08.9.5
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夏前にご紹介をいただきながら、日本鉄道保存協会の顧問の皆さんもご多忙ゆえなかなか日程の調整がつかず、ようやく昨日、横浜市のご案内で現地を訪ねることができました。今日はまずその全体像をお目にかけることにいたしましょう。

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▲“Google Earth”に見る大桟橋周辺。この空撮時点ではまだ「東西上屋」の倉庫が撤去されていないのがわかる。大桟橋から西へ細く張り出しているのが「象の鼻」と称される防波堤。
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▲昔ながらのランプが駅名額に柔らかな光を投げかける。まるで昭和30年代にタイムスリップしたかのような光景。'08.8.23
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映画やテレビで鉄道施設、とりわけ駅設備がロケ地となることの多い昨今、鉄道事業者側も放映後の旅客需要につながることから、積極的に誘致を図る例が少なくありません。なかには“ロケーションサービス”を正面にうたった部門を独立させる例さえ見受けられます。

080905n02.jpgそんななか、古くよりロケ地として知られる大井川鐵道が、昭和初期の駅舎が残る田野口駅を復元・整備したと聞き、先日その内部を拝見する機会を得ました。田野口駅は1931(昭和6)年の開駅。かつては貨物側線を持つ交換駅でしたが、1970(昭和45)年に無人化され、出札室なども封鎖されたままとなってしまっていました。ただその後、手つかずでいわば“封印”されていただけに、駅事務室内には現役時代の調度品がそのまま残されており、一昨年、日本民営鉄道協会の「駅舎等を対象とするロケーション・サービス推進事業」のモデル駅として修復事業が行なわれ、昭和30年代当時の状況に見事に復元されました。
▲ホーム上の駅名標も木製+手書きのものに代えられている。'08.8.23
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▲待合室から改札口を見る。木製の出札窓口と小荷物扱い窓口がまるで“現役”であるかのような錯覚をおこす。'08.8.23
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080905n04.jpgご案内いただいた大井川鐵道の浅原 悟企画・営業部長のお話では、単に鉄道事業者の手によって修復するにとどまらず、この駅を核としてきた地元の皆さんの手によって、清掃はもとより花壇や植栽の手入れなどが積極的に行なわれているそうです。事務所に隣接するかつての倉庫スペースは地域の皆さんの集会所としても活用されており、荒廃しつつあった無人駅がまさに多角的に利活用されはじめているわけです。
▲美しく磨かれた出札口。ガラスは表面が完全な平滑ではなく微妙に波打っているアンチークガラスだ。'08.8.23
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▲駅事務室内も可能な限り復元されている。写真には写っていないが、地元の醤油=キッコーエンの広告入りゴミ箱も復元されている。'08.8.23

“地域住民と守る郷愁の風景”として静岡県知事賞最優秀賞にも輝いたそうで、今後は映画・テレビドラマのロケ地としても広く知られてゆくに違いありません。かつてご紹介した肥薩線一勝地駅も同様ですが、無人化され荒廃した歴史的木造駅舎を安易に解体・撤去するのではなく、地域に根ざした利活用を模索してゆくことこそ重要なのではないでしょうか。

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静岡鉄道駿遠線のB15。

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▲すっかり綺麗になって郷土博物館前庭に保存されている静岡鉄道駿遠線B15。柵に囲まれて写真は撮りにくいが、四方からディテールを観察できるのは嬉しい。'08.8.23
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先日、大井川鐵道を訪ねる道すがら、藤枝市に残る静岡鉄道駿遠線の蒸気機関車B15を見てきました。しばらく前にほかならぬ大井川鐵道で化粧直しを施されたと聞き、ぜひ修復なった姿をこの目で見てみたいと思っていたところでした。

080826n2.jpg御前崎を巡る静岡鉄道駿遠線は、総延長64.6㎞(大手~袋井間)と戦後に残された軽便鉄道としては破格の規模で、歴代活躍した蒸気機関車ものべ25輌を数えます。しかし、戦後在籍した蒸気機関車の多くは自社の大手工場・袋井工場で「蒙古の戦車」と異名をとる自家製ディーゼル機関車に改造され、最終的に蒸気機関車のまま残されたのはこのB15だけでした。髙井薫平さんの『軽便追想』によると、1954(昭和29)年時点でこのB15もディーゼル機関車に改造する予定であったとされていますが、幸い(?)改造に着手されることはなく、静岡市の駿府城公園に静態保存されることとなりました。
▲戦時下における車輌統制会の「系列設計」に基づくだけに、随所に国鉄B20との共通点が見出せる。煙突に付けられた金網状の火の粉止めは現役時代からのスタイル。'08.8.23
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▲後部炭庫を持たないバックビュー。全体のディメンションは雨宮製の8トン機を踏襲しているとされる。'08.8.23

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▲キャブ内も木部を含めてすっかりレストアされている。右側運転台である点に注意。'08.8.23
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駿遠線といえば前身の藤相鉄道から引き継がれたコッペルのBタンクを思い浮かべますが、残念ながら最後に残されたのは産業用ロコに近いこのB15でした。そのスタイルを見ればどことなく国鉄B20に似ていると思われるでしょうが、本機は戦時下の車輌統制会が定めた戦時規格型機の流れを汲むもので、角型のドームなどにもその影響を見ることができます。なお、B15の“15”は駿遠線蒸気機関車の通し番号で、自重は8t、僚機B16も同形機でした。

080826n6.jpgメーカーはB20と同じ立山重工業(製番8008)。少ない物資のなかで工程数を極力減らして実用本位に作られた機関車だけに、趣味的に見れば少々無味乾燥なスタイルにも思えます。駿河湾沿いをのんびりと走る軽便よりは、工場専用線の方がしっくりくる機関車と言えるかもしれません。
▲ワルシャート式の変哲のない足回り。軸距は1220㎜。'08.8.23
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当初は駿府城公園に保存されていたというこの機関車が、どのような経緯で藤枝市に移管されることになったのかはわかりませんが、現在は蓮華寺池公園内にある藤枝市郷土博物館のエントランスで実に手厚く保存・展示されており、このたびの整備で、さらに末永く駿遠線の歴史を語り継いでいってくれるに違いありません。

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「鐵樂者三人展」を見る。

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▲ギャラリーそのものは決して広くはないが、タイトル通り三者三様の極めて濃密な空間が展開している。'08.9.3
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8月22日から開催されている金澤 忠さん、杉 行夫さん、野口信夫さんの写真展「’08 鐵樂者三人展」に遅ればせながらお邪魔してきました。都電荒川線の鬼子母神前電停にほど近いギャラリーは、規模こそ大きくはないものの、アットホームな落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと作品を拝見することができました。

080903.001n.jpgうかがったところでは、お三方のそもそもの出会いは杉さんがメンバーだった「けむりプロ」が1971(昭和46)年にリリースした『鉄道讃歌』(交友社刊)にまで遡るそうです。もちろん当時金澤さんは中学生、野口さんは小学生で杉さんと直接面識があろうはずもありませんが、『鉄道讃歌』が提起した鉄道情景の再現方法に強く影響を受け、これによってその後のお二人の趣味が方向付けられたようです。
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▲金澤 忠さんは三人の出会いの場でもある「ゆめ牧場・まきば線」を縦横無尽に展開。ギャラリー表正面に掲げられた巨大なプリントも必見。'08.9.3
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▲野口信夫さんは中国の綏?森林鉄道をモノクロームで展示。“情景”に拘るメンバーならではのカメラアイに注目。'08.9.3
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実際に顔を合わせたのは今から8年ほど前の2000年頃のこと。金澤さんと野口さんは成田「ゆめ牧場」で羅須地人鉄道協会が運転している蒸気機関車運転日に欠かさず足を運んでいた常連で、ここで同協会の杉さんと出会うことになります。そして次第に交流を深めるなかで、三人それぞれが思いを寄せたひとつの鉄道を独自の視点から表現しようと今回の写真展が決まったといいます。

080903n11.jpg金澤さんは三人の出会いの場でもあり、撮り続けてきた「ゆめ牧場・まきば線」を、野口さんは長年追い続けている軽便蒸機の中から「中国・綏?(すいりん)森林鉄道」を、そして杉さんは1960年代に4回にわたって通った「貝島炭鉱鉄道」をテーマに取り上げ、三者三様の展示でそれぞれの世界をアピールしています。

金澤さんや野口さんと同様に『鉄道讃歌』に強くインスパイアを受けた私にとって、杉さんの「貝島」はとりわけ強く印象に残りました。筑前宮田~長井鶴(六坑)間しか知らない私たちの世代からしてみれば、二坑、五坑、そして庄司と路線を張り巡らしていた時代の貝島は、北の大地のオールド・アメリカンとともに手の届かなかった憧れの象徴でした。その鉄道情景を空気感ごと封じ込めたような杉さんの作品の数々には、まさに圧倒される思いです。
▲「ゆめ牧場」での三人。奥から金澤さん、杉さん、野口さん。(展示プロフィールより)

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▲『鉄道讃歌』で一部は発表されているものの、杉 行夫さんの貝島炭鉱鉄道は未発表作が大半でまさに圧巻。'08.9.3
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本来は8月一杯の会期も、好評につき今度の日曜日=9月7日まで延長されているそうです。会場は木曜日が定休ですから、ご覧になれるチャンスは今週末の金曜・土曜(ともに12:00~18:30)、日曜(12:00~17:00)の3日間のみ。都電の散策を兼ねてお出でになってみては如何でしょうか。

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080902ntitle.jpg2005年5月号(260号)から2006年1月号(268号)にかけて本誌“連載”付録として大好評をいただいた片野正巳さんのリフィール(バインダーで綴じる形式)『1号機関車からC63まで 細密イラストで綴る日本の蒸気機関車史』が、このたび内容を更にリファインして単行本となりました。本書はその名のとおり、鉄道創業期に走った蒸気機関車から、設計図のみの“幻”の蒸気機関車となったC63までの日本の国鉄歴代蒸気機関車たちを、美しいイラストで通観し、的確かつ軽妙な解説とともに鑑賞することができる一冊です。

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▲各形式をバリエーションごとに1/100または1/80で収録し、モノクロ写真では表現が難しい色調も、片野さんならではの拘りで再現されている。
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▲目次より。時系列順に蒸気機関車の歴史を辿ることができる。
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080902n124.jpg官設鉄道開業から無煙化達成にいたる103年間に国鉄線上を走り抜けた蒸気機関車はいったい何形式、何輌いたのでしょうか。その正確な数を確定するのは至難の業ですが、おおまかな指標として列記すると以下のようになります。
官設鉄道時代:60形式/1117輌
鉄道院時代:18形式/2089輌
鉄道省以降:25形式/4068輌
幌内鉄道:16形式/79輌
日本鉄道:33形式/387輌
関西鉄道:10形式/72輌
山陽鉄道:27形式/156輌
九州鉄道:12形式/205輌  ※高木宏之「国鉄蒸機発達史」(『日本の蒸気機関車』弊社刊より)
この合計は201形式/8173輌となりますが、もとよりこれが総数ではありません。買収・編入、改造に伴う形式変更…等々を加えれば、その形式数はゆうに300形式/10000輌を超えるはずです。さらに狭軌軽便線用形式や施設局等の事業用機も視野に入れるならば、本誌300号・301号で付録した沖田祐作さんの「機関車表」に象徴されるように、その実数は気の遠くなるものになるはずです。
▲機関車のイラストのみならず、牽引していた客車も加えて往年の列車を再現。
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▲C57 4次型の、3次型との違いも一目瞭然。近代機はとりわけ細かく描き分けられている。
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ただその一方で、枝葉末節はともかくとして、1号機関車から実現半ばに終わった幻のC63までのさながら大河のような歴史をビジュアルに通観できる出版物もこれまで存在しませんでした。もちろん臼井茂信さんの名著『国鉄蒸気機関車小史』をはじめ、写真と解説で展開するものは少なからず存在しましたが、撮影時の角度など一律の条件は望むべくもなく、予備知識の乏しい者が並列に通観するにはいささか無理があったのも事実です。それだけに車輌イラストのパイオニアとして知られる片野正巳さんに、CGを駆使した見て楽しい蒸気機関車歴代記をまとめていただくことができたのは、今後わが国の蒸気機関車の生い立ちに興味を持たれるであろう方々にとっても少なからずお役ににたてるのではないかと思います。

080902n170.jpg本書では各形式・バリエーションごとに、1/100スケールの美しいイラストと寸法図を掲載していますが、明治期の小型機など、模型サイズでも楽しめるように1/80スケールのイラストおよび寸法図も併せて収録している形式もあります。さらに、単行本化に当たっては、1951(昭和26)年11月に国鉄輸送局動力調査課が作成した「動力車主要数値表」を復刻掲載しています。折りしも本誌300号収録の「改稿 国鉄蒸機発達史」や付録のデータCD「機関車表 国鉄編I 蒸気機関車の部」と併せてご覧になると、より一層お楽しみいただけるのではないでしょうか。
▲巻末には1951(昭和26)年11月現在の「動力車主要数値表」を新たに収録。
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『1号機関車からC63まで 細密イラストで綴る日本の蒸気機関車史』
・A4判/180ページ
定価:3800円

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0系21形が大宮へ。

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▲台車はもとよりスカートも外された車体がクレーンでトレーラーから慎重に持ち上げられる。当面の仮置場がかなり狭隘なため、気の抜けない作業が続く。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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大阪府吹田市にあるJR西日本の社員研修センターで保管されていた東海道新幹線開業時の0系先頭車21形が、将来の鉄道博物館展示用としてJR東日本に譲渡され、昨日、保管場所である大宮総合車両センターに搬入されました。

080901n2.jpgこの21‐2は東海道新幹線開業前の1964(昭和39)年7月24日に日車支店で落成したもので、開業時は「N2」編成の1号車=新大阪方先頭車を務めた歴史的車輌です。鉄道博物館での展示を希望していたJR東日本の要請に応えるかたちでJR西日本が無償譲渡を決めたもので、現車は8月28日午前0時にトレーラーに載せられて吹田を出発、昨日8月31日午前4時に大宮総合車両センターに到着しました。
▲いよいよトレーラーから吊り上げられる車体。緊張が高まる瞬間だ。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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▲数えきれないほど東海道の風を切ったであろう運転台の窓には第2編成であることを示す「H2」の編成番号標記が…(左)。右は新大阪方先頭車21形の切り抜き形式番号標記。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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▲移動に伴ってスカートが外されたため見えるようになったDT200形台車とその銘板。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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▲側面の号車表示下には列車名の表示枠もしっかりと残る。また車体妻面には日本国有鉄道の車籍銘板とともに「幹トウ」の所属標記も残されている。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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大宮総合車両センターでは午前10時から取り卸し作業を開始、荷役の関係でスカートを取り除かれた車輌は、大型クレーン2基によって慎重にトレーラーから取り下ろされました。鉄道博物館での展示がいつになるのかはまだアナウンスされていませんが、世界の“SHINKANSEN”の2番編成先頭車が、鉄道博物館に隣接する大宮総合車両センターでスタンバイしているのは心ときめくものがあります。

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▲所定位置に仮置きされたH2編成の21形。しばらくこの場所で博物館入りの日を待つことになる。'08.8.31 大宮総合車両センター P:RM(新井 正)
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