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レイル・マガジン編集長自らが作る編集日記。

2008年2月12日

日本セメント上磯工場2号機との再会。(下)

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▲峩朗鉱山から6輌のヲキ車を牽引して上磯工場に戻ってくる9号機。峩朗線の上り盈車牽引定数は250t。30t積のヲキ車にして8輌分だ。'79.2.15
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4輌のB凸電でスタートした上磯工場専用鉄道ですが、電源開発や道路港湾整備に伴う道内のセメント需要の急増に呼応して、機関車も次々と増備されてゆきました。戦中に恐らく統制会経由で割り当てられた7号機(1948年/日立)以外は一貫して東洋電機製電機品を装備した機関車ばかりを揃え、最終的には1961(昭和36)年までに9輌のラインナップが揃うこととなります。

garousenfukusya1.jpgしかし1970年代に入るとメインであった峩朗線(6.6㎞)ルートに原石輸送用のベルトコンベヤが設置され、1973(昭和48)年以降は峩朗鉱山からの輸送量は大幅に減少してしまいます。晩年はもう一方の万太郎沢線(3.4㎞)の方が列車密度が高くなり、私が訪ねた1979(昭和54)年当時は峩朗線が一日5往復、万太郎沢線が一日8往復程度の運転となっていました。
▲6t木製2軸鉱車時代の峩朗鉱山。主力であったこの鉱車はピンリンク・カプラーで、これを牽引する必要から6号機以降の機関車にも2種類の連結器が備えられていた。(上磯工場原図)'79.2.15

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▲本線から見た上磯工場構内。築堤のガードで本線を越えているのが国鉄江差線である。'79.2.15
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sangyoualbum1a.jpg一方、国鉄上磯駅と工場を結ぶ専用線(0.5㎞)は1985(昭和60)年に江差線の貨物営業が廃止されるにともなって休止され、この時点で予備機として残されていた1?3・5号の4輌のB凸はすべて廃車、2号機は東洋電機に引き取られて生まれ故郷の横浜に、最後まで解体を免れた5号機は地元の上磯町運動公園に保存されることとなります。
▲上磯工場全景。9号機が導入された1959年頃の撮影で、工場規模はすでに年産70万トンに迫っていた。(『北海道産業アルバム』1960年)'79.2.15
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▲工場案内に見る構内見取り図(左)。右下が国鉄上磯駅からの専用線(0.5㎞)。右は雪の原野に立つ踏切標識で、かなりリアルな9・10号機のイラストがあしらわれている。'79.2.15
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今さら思えば、私が訪れた1970年代の上磯工場の構内には、B凸から発電制動装備の近代機まで、営業私鉄でもお目に掛かれないほどバラエティー豊かな電機たちが集っていたことになります。ことに東洋電機・東洋工機のコンビで製造された最終増備機9・10号機はとても専用線の機関車とは思えないスタイリッシュな箱型機で、人知れず生涯を終えるには実に惜しい存在でした。

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▲7号機は戦時設計の日立製25tBB電機(1948年製/製番4441)。同形機に京福電鉄福井支社のテキ521、日産化学(須賀貨物駅)の1号機などがある。主に上磯工場内の入換えに使用されていた。'79.2.15
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▲上磯初のBB電機であった6号機(左)は1935(昭和10)年東洋電機・日車製の25t機。戦前製ながら回生制動も備える。右は機関庫内で休む8号機(1952年製)。6号機と同様、東洋電機・日車製25t機ながら、ブレーキ性能等が向上している。'79.2.15
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▲1959(昭和34)年と1961(昭和36)年に導入された9・10号機は初の箱型車体を持つ35tBB。発電制動も備え、9号機が主に峩朗線、10号機が万太郎沢線で使用されていた。前後の前面手すりに挿し込まれた竹箒に注意。79.2.15
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東洋電機製造㈱横浜製作所に保存されている2号機との再会に端を発して、話がどんどん他の機関車へと広がってしまいましたが、どうせならば機関車のみならず客車(人車)や貨車もご紹介すべく、明日はさらに「補遺編」をお送りいたしましょう。