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レイル・マガジン編集長自らが作る編集日記。

2008年2月11日

日本セメント上磯工場2号機との再会。(中)

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▲日本セメント上磯工場2号機の29年。車体塗色が現役時代のベージュから黒に変えられたためかなり第一印象が異なる。なお、ボンネット上の鐘は片側にのみ取り付けられている。'79.2.15 日本セメント上磯工場/'08.2.2 東洋電機製造横浜製作所
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日本セメント上磯工場専用鉄道は江差線の上磯駅にほど近い工場から2方向にのびており、9輌もの電気機関車を擁していました。3’6”ゲージの電化専用鉄道としては八幡、三井三池に次する規模と言えましょう。ただ、今でこそ津軽海峡線として“幹線”となっている江差線ですが、当時はとりたてて面白みのないローカル線で、上磯も何かの道中に下車するような駅ではないだけに、決して行きやすい場所ではありませんでした。

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▲上磯工場構内に並んだ電機たち。左から2号機、東洋電機製10号機(35tBB)、東洋電機・日車製6号機(28tBB)。'79.2.15
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上磯駅の西側に聳えるごとく並ぶ工場群が日本セメント上磯工場で、専用鉄道はこの工場裏手から江差線を潜って北側へとのびていました。宗山川沿いに北西へ向かうのが峩朗線、分岐してほぼ180度方向を変えて南西へと向かうのが万太郎沢線で、峩朗線は峩朗鉱山からの石灰石原石を、万太郎沢線は万太郎沢鉱業所からの粘土を運搬するのが主目的でした。

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▲地形図に見る日本セメント上磯工場専用鉄道。宗山川沿いに北上するのが峩朗線、大きく針路を変えて万太郎沢川沿いに南下するのが万太郎沢線。(国土地理院1:50000地形図「函館」「大沼公園」1976年/1974年発行より加筆転載)
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▲現役時代の2号機。櫓に乗ったパンタグラフが目をひく。キャブ側面裾部の東洋電機の銘板は塗装で塗りつぶされてしまっていた。'79.2.15
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kishaasanoel.jpg上磯工場の歴史は古く、1890(明治23)年に北海道セメントの工場として創業、1915(大正4)年に浅野セメント(1947年に日本セメントに改称)に合併され、この頃に原料運搬用の馬車鉄道が敷設されたと伝えられています。1922(大正11)年に3’6”軌間に改軌するとともに電化、この際に導入されたのが東洋電機・汽車会社製の凸電1?3号だったのです。
▲新製当初の1号機。製造当初から鐘が装備されていたことがわかる。巨大な砂箱にも注意。(汽車会社原図)
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kamiisono2syoumen.jpg翌1923(大正12)年には同形の5号機(4は忌番のため欠番)が導入され、1935(昭和8)年に28tBBの6号機(東洋電機・日車)が増備されるまで、本線仕業もすべてこの小さなB凸たちがこなしていました。ただ後年、鉱車の大型化とともに、貫通ブレーキと自動連結器を持たない1?3・5号機は本線とも呼べる峩朗線の運用からはずれ、ピンリンク・カプラ?の2軸鉱車が残っていた万太郎沢線の仕業と従業員輸送列車、そして構内入換えに余生を送ることとなります。
▲2号機正面のアップ。LP42形前照灯はひさし部からステーで突き出す形で装備されている。'79.2.15
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▲僚機3号機と2号機(後方)。1?3号機はほどんど個体差が認められなかった。なお、1年遅れで増備された5号機はついに見ることが出来なかった。'79.2.15
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▲パンタグラフを撤去して休車中の1号機(左)。右は2号機のピンリンク・カプラーと自連とのスペーサー役を担う控え車。'79.2.15
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2号機も自動連結器を持たないため、片側にピンリンク、片側に自連を備えた控車を常に従えていました。いまさら思えばこの控車も古典貨車改造の曰くありげなものでした。