鉄道ホビダス

東武鉄道啓志線のこと。(下)

keishistn11a.jpg
▲返還直後のグラントハイツ内もと啓志駅付近の状況。画面左端に成増飛行場時代からの掩体壕(えんたいごう)の一部が見える。'74.6
クリックするとポップアップします。

1948(昭和23)年6月のグラントハイツ完成後、建設資材輸送が主たる使命だった啓志線の貨物輸送量は激減し、以後は暖房工場用の石炭・石油をはじめとした燃料輸送と、日常品の運搬が行われる程度となってしまいました。とはいえ、もちろん定期貨物列車は設定されていたはずで、担当していた川越機関区の当時の機関車運用等が詳らかになれば、その輸送実態も多少は解明されるに違いありません。

keishi12a.jpg余談ながら、完成したグラントハイツの管理運営は戦後の混乱が続く周辺地域とは天と地の差ほど違う、それは素晴らしいものだったと伝えられています。夏季にはハイツ近隣にまで航空機による薬剤散布が行われ、蚊や蝿さえほとんどいなくなったそうですが、逆にキュウリ、ナス、トマトといった受粉が必要な野菜類は虫がいないために栽培不能に陥ってしまったといいます(承前『練馬区史』)。近隣農家には鶏20羽、豚3頭、牛1頭以内の飼育しか認められず、もちろん糞尿肥料の使用も厳禁されていました。
▲昭和40年代まで“Railroad Crossing”の英文踏切標識が残っていた田柄高校入口交差点。もとの啓志駅構内入口である。ちなみに「トワイライトゾ?ン」での取材時の撮影で、この写真を撮影してからもすでに18年の歳月が流れている。'90.9.21
クリックするとポップアップします。

keishiph7.jpgkeishiph8.jpg
▲こちらは34年前、田柄町付近に残っていた啓志線道床。思えばこの時点ではまだ本州内に国鉄現役蒸気機関車も走っていたわけで、歳月の遠さを思い知る。'74.6
クリックするとポップアップします。

啓志線が再び脚光を浴びるのは1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮戦争時です。従軍士官の交代の便を図るため旅客輸送を再開、国鉄から直接C58やD51が客車5輌ほどを牽いて入線したとも伝えられていますが、詳細はいまだ不明です。いずれにせよ、朝鮮戦争が1953(昭和28)年7月に休戦を迎える頃まで啓志線は再び旅客線としての賑わいをみせることになります。ただ、朝鮮戦争休戦後も米軍の要請によって客車が入線するケースはままあったようで、昨日ご紹介した37号機の牽くスハ43系列車のような特別誂えの列車が「田柄たんぼ」に汽笛を響かせることもあったはずです。

keishiph10.jpgkeishiph9.jpg
▲軌道跡を丹念にたどってゆくとコンクリート製の構造物(左)や朽ちた枕木(右)も発見することができた。ともに田柄町にて。'74.6
クリックするとポップアップします。

1959(昭和34)年頃からハイツ居住者は逐次立川・横田基地へと移住を開始、この頃には啓志線は休止線となってしまいます。最終的にいつまで列車が運転されていたのかは不明ですが、「トワイライトゾ?ン」(本誌’91年4月号「甦る“啓志”」)でご紹介したピーコックの牽く貨物列車の写真が1954(昭和29)年7月、同じくすでに草生して休止されていると思われる線路の写真が1958(昭和33)年夏の撮影ですから、この間に実質的な列車の運転が終了したことは間違いないでしょう。『RAILWAY100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡』(1998年/東武鉄道社史編纂室)によれば啓志線は1957(昭和32)年8月1日付けで“閉鎖”、『東武鉄道百年史』(1998年)は1959(昭和34)年7月22日付けで正式に“廃止”と記しています。

keishiph5.jpg東武鉄道ではこの啓志線を正式に自社線に組み込んで旅客線化する計画を持っていたようですが、グラントハイツ(旧成増飛行場)に土地を接収された地主が返還運動を行うなど、この時点では米軍撤収後の跡地利用方法がきわめて流動的で、結局利活用を断念、昭和40年頃には軌道は順次撤去されていってしまいました。
▲軌道跡横の住宅塀に積み上げてあった廃枕木。ただし、こちらは啓志線のものととは無関係かもしれない。'74.6
クリックするとポップアップします。

私が最初にこの啓志線跡を訪ねたのは1974(昭和49)年。グラントハイツは前年9月に東京都に全面返還されたものの、跡地利用計画の見通しはいまだ不透明で、ハイツ内の諸施設は荒れるにまかせてそのまま放置されているような状態でした。軌道跡も宅地化が急速に進んでいるとはいえ、まだ随所にその痕跡を認めることができた時代です。

keishi13a.jpg
▲18年前の田柄町の軌道跡から光が丘団地方向を見る。彼方に清掃工場の煙突が見え、かつてのグラントハイツの象徴2本煙突を彷彿させるかのようだ。'90.9.21

紆余曲折を経て「光が丘」として生まれ変わった大規模団地に入居が始まったのは1983(昭和58)年。1991(平成3)年には都営地下鉄12号線(大江戸線)が開業し、周囲は劇的な変貌を遂げます。歴史に“もし”は禁句と知ったうえで、もし、グラントハイツ跡地利用計画が頓挫することなくスムースに策定され、啓志線の撤去がもう少し遅ければ、ひょっとすると光が丘?上板橋間6.3㎞を結ぶ単線非電化線は、今ごろ複線電化の通勤通学路線として東京西部の交通体系に大きなインパクトを与えていたかもしれません。

レイル・マガジン

2008年1月   

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
「編集長敬白」が携帯電話でもご覧になれます。下記アドレスもしくはQRコードを読み取ってアクセスしてください。
http://rail.hobidas.com/blog/
natori/m/

ネコ・パブリッシングCopyright © 2005-2016 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.