鉄道ホビダス

2008年1月アーカイブ

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▲吊掛時代の東急の掉尾を飾る名優たち。電気機関車や荷物電車も顔をのぞかせている。(『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』より)
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ちょうど一年前に第1集を刊行した片野正巳さんの『吊掛讃歌』第2集が完成いたしました。2002(平成14)年2月号から『RM MODELS』で連載を続けている片野さんの「吊掛讃歌」はすでに70回を超す人気連載となっており、現在発売中の3月号では「70系登場」と題して、横須賀線と関西緩行線に投入当初の70系電車を、独特の味わい深いCGで再現しておられます。

TURI2H1n.jpgさて、第1集は京王帝都、京成、京浜急行と関東大手私鉄3社で構成いたしましたが、この第2集は東京急行、帝都高速度交通営団、大阪市交、阪神電鉄と東西あい見えるラインナップとなっています。また、タイトルも片野さんがかねてより提唱されている“大人のための電車絵本”といったコンセプトをより鮮明に浮かび上がらせるべく、『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』とし、貴重な実車写真もふんだんに盛り込んでおります。

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▲のちに統合されて営団となる東京地下鉄道と東京高速鉄道の俊英たち。塗色の再現への拘りも片野さんならでは。(『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』より)
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今回の誌面を飾る顔ぶれは、東京急行電鉄(東京横浜電鉄・目蒲電鉄)がデハ1からデハ3800、帝都高速度交通営団(東京地下鉄道、東京高速鉄道)が1000形から900形、大阪市営地下鉄(大阪市営高速度線)が100形から400形、阪神電気鉄道が1形から881形で、東急編には玉電、阪神編には国道線といった路面電車の仲間も加えられています。また、巻末にはNゲージャーの皆さんの参考にと、掲載全車種の150分の1縮小図も採録しております。

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▲大阪市営高速度線の面々。コバルトブルーとクリームの明るい塗り分けに、屋根と側扉が白銀色という明快な塗色は、市電に色見本電車を走らせて決めた(RMライブラリー56『万博前夜の大阪市営地下鉄』参照)という。(『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』より)
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▲軌道線としてスタートをきった阪神の木造車は個性派揃い。「細部にいたるまで凝った造りは関東の木造車の及ぶところではないと舌を巻きます」と片野さん。(『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』より)
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昨年の第1集完成時にもこのブログでご紹介申し上げましたが(→こちら)、ちょうど10年前、御年66歳でコンピュータ・ドロゥイングによる車輌イラストを独学で始め、今日まで信じられないほどのピッチで描き続けている片野さんのパワーには改めて圧倒させる思いです。ちなみに、表題に反する営団300形以降の高性能電車もラインナップに加えたのは、「いまや思い出の彼方へ走り去った吊掛電車たちに郷愁を覚えながら高性能車も否定できないのがファンの心情」、「掟を破って高性能電車のさきがけとなった地下鉄丸ノ内線の車輌たちも取り上げたのは、気がつけば目の前から消え去り、今はアルゼンチンで活躍する彼らのけなげな姿を残しておきたかったに他なりません」(あとがきより)とのこと。いかにも電車をこよなく愛し続ける片野さんらしい心配りです。

『昭和電車絵巻 吊掛讃歌2』
A4変形・100ページ
定価:2000円

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▲大画面ディスプレーでのスライドショー式写真展という新たな手法を用いた「思い出の神戸市電展」。巨大な画面で再現される全盛期の神戸市電はまた格別。'08.1.28 P:高間恒雄
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RMライブラリー『全盛期の神戸市電』(No.75/76)で数多くの素晴らしい写真をご発表くださった小西滋男さんの写真展「思い出の神戸市電展」が、神戸・三宮で明日(31日)まで開催されています。残念ながら私は機会を逸してしまいましたが、この本の編集を担当したレイルロードの高間恒雄さんが見に行ってくれました。

koubesiden2n.jpg会場はJR三宮駅前浜側のバスターミナルの上、ミント神戸6Fの「フレッツ@メディアスタジオ」。神戸新聞グループ、カノープス社、NTT西日本兵庫支店が共同で出店する兵庫県内初の参加型地域情報発信基地だそうです。興味深いのは、写真展といっても従来のパネル展示スタイルではなく、デジタル画像を103インチや65インチといった大画面ディスプレーを使ったスライドショー方式で放映展示するようになっている点です。約30分かけて80点の作品が順送りされるそうですが、デジタル時代の写真展の新たな手法としても特筆されましょう。
▲花電車などRMライブラリーで収録できなかった写真も見ることができる。'08.1.28 P:高間恒雄
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ご覧のように、103インチの大画面で見る市電は、B5サイズのRMライブラリーでは得られない圧倒的な迫力と臨場感があり、高間さんも強いインパクトを受けたそうです。いずれにせよ、大画面でみても鮮明で素晴らしい画像は、小西滋男さんの記録の質が高い証でもあります。

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去る13日に地元の神戸新聞で紹介されて以降、多くの方が来場されているようですが、残念ながら会期は明日31日(11:00?20:00)まで。神戸市電ファンのみならず、お近くの方はぜひお急ぎ足を向けてみてください。

※詳細はフレッツ@メディアスタジオHP(→こちら)。

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▲旧陸軍流山糧秣廠へと続く専用線。広大な敷地は民間に払い下げられたのちも高い塀に囲まれ、容易に中を伺うことはできなかった。簡易舗装の外周道路を懐かしい230グロリアが通り過ぎる。'79.3.9 流山糧秣廠専用線跡
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昨日まで3回にわたって29年前の総武流山電鉄の情景をご覧に入れましたが、トワイライトゾ?ン本家家元(?)としてはこれだけで終わるわけにはいきません。当時、流山の地には何とも謎めいた専用線跡が残されていたのです。

080124-029n72.jpg平和台駅上り方から本線に平行するように南西に分岐するこの線は、戦前の日本陸軍糧秣本廠流山出張所(流山糧秣廠)への専用線で、「専用線一覧表」によれば延長0.8km。「糧秣」とは現代では聞き慣れない言葉ですが、一言で言ってしまえば軍馬の餌で、これを生産・管理するのが糧秣廠です。千葉県、茨城県と牧草地が多く、かつ江戸川の水運も利用できることから、大正末期に東京から流山へと移転してきたと伝えられていますが、興味深いことにこの糧秣廠移転と流山鉄道の改軌(2’6”→3’6”)はほぼ同時期です。そうです、流山鉄道の改軌は糧秣廠の陸軍物資の省線への直通輸送を踏まえたものでもあったのです。
▲線路は格好の通学路でもあった。背後の市営住宅には軌道敷から直接出入りができるようになっている。'79.3.9 流山糧秣廠専用線跡
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▲荒廃した線路とは対照的に架線柱は凛として立ち並んでいた。木製の架線柱と鋼製の架線柱が混在している点に注意。電気機関車を持たないだけに、この専用線にも電車が入線したのであろう。'79.3.9 流山糧秣廠専用線跡
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敗戦とともに糧秣廠はその役目を終えましたが、広大な敷地は運輸省へと引き継がれ、戦後の一時期、国鉄の用品庫として使われていたといいます。1952(昭和27)年に大蔵省に所管変更されたのち民間に払い下げられたとされていますが、1951(昭和26)年版「専用線一覧表」(『トワイライトゾ?ン・マニュアル8』所収)では「東邦酒類株式会社、専用線種別=側線、赤城停留所分岐」と記載されており、すでにこの時点で民間会社が使用していたことになります。

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▲地形図に見る流山糧秣廠の位置。赤城(現平和台)駅の表記がないが、ちょうど糧秣廠の北東端あたりとなる。ちなみに、かつては江戸川の河岸までナローの軌道がのびていたという。(地理調査所発行1:25000地形図「流山」昭和33年発行より加筆転載)
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080124-028n72.jpg1979(昭和54)年時点でも廃線跡にはずらりと架線柱が立ち並んでおり、“電化専用線”という不思議な光景が展開していました。恐らく1949(昭和24)年の電化時にこの専用線も電化されたものと思われますが、そうなると貨車の出し入れは本線同様に電車(モハ100)が担当していたのでしょうか…。ちなみに流山電気鉄道は当初自前の変電所を持たず、国鉄から“買電”して電気運転を行っていましたが、うがった見方をすれば、この特異な給電方式の背景には旧糧秣廠国鉄用品庫の存在があったのかもしれません。
▲本線との分岐部分を見る。写真前方が平和台駅だが、列車はどういった運転取り扱いでこの専用線に入線したのだろうか。'79.3.9 流山糧秣廠専用線跡
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▲専用線跡は道草の誘惑がいっぱい。思えばこんな学校帰りの子供たちもとんと見なくなってしまった。画面奥に専用線門が見える。'79.3.9 流山糧秣廠専用線跡
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旧糧秣廠線がいったいいつ頃まで使われていたのかは定かではありませんが、貨物輸送量の推移を見ると1964(昭和39)年を境にほぼ半減しており、この頃に休止となったのかもしれません。1975(昭和50)年版の「専用線一覧表」の記事欄には「平和台停留所分岐、使用休止」と記されており、これが手もとの資料で確認できる最後の記録となっています。

nagareyamabook.jpg現在、流山糧秣廠跡はイトーヨーカドーや学校用地となって当時を偲ぶことはほとんどできません。ただ、流山市はこういった地域遺産の発掘にたいへん積極的で、流山市立博物館から調査研究報告として『流山糧秣廠』(1996年)が発行されております。余談ながら、同じ流山市立博物館調査研究報告『懐かしの流山 ?写真でみる日々の暮らし?』(1998年)では、市内の派川利根川改修工事の軌道なども極めて専門的な解説を付して紹介しており、その取り組みには頭が下がる思いです。同市には『総武流山電鉄の話 「町民鉄道」の60年』など数々の千葉県郷土史出版でも知られる崙書房もあり、その面では実に恵まれた土地柄といえるのかもしれません。
▲『懐かしの流山 ?写真でみる日々の暮らし?』流山市立博物館調査研究報告15(1998年3月20日/流山市教育委員会)

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▲詰所に掲げられた「電車區」の看板が時代を感じさせる庫内から駅構内をのぞむ。停止標代わりに柱に差し込まれたフライ旗の赤が早春の日差しに眩しい。'79.3.9 流山
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先日ご紹介した上毛電気鉄道大胡電車庫も同様ですが、1970年代はまだまだ各地に木造の電車庫を見ることができました。流山の庫もそのひとつで、木造の1線庫をふたつ並列に置いたような形態が特徴です。工作室と詰所が併設された本屋側の線にはドロップピットが設けられ、日々の検修作業はすべてここで行われていました。

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▲2年前まで細々と貨物営業を行っており、流山駅構内には何輌かの貨車が残されていた。写真は手前からワ202、ワム301。'79.3.9 流山
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この頃の私鉄の車庫には思わぬ発見があり、宝探しのようなそのわくわく感が大きな魅力でした。いまさら思えば、「すみません、写真撮らせてください」のひと言で自由に構内を歩き回れた良き時代だったこともあるでしょうが、カメラとノートを片手に車庫裏やら貨物ホームやらを見て回る昂揚感は何ものにも変えがたいものでした。

nagareyama26.jpg2年ほど前に貨物営業を廃止したものの、流山の貨物ホームにはまだ何輌かの“社車”が残されていました。確認できたのはワ202とワム301、それに恐らくト1と思われる車体標記が消えてしまった小型無蓋車1輌で、いずれもシュー式の軸受を持ついわゆる封じ込め車です。自社製とされているようですが、ワム301の台枠には写真でご覧に入れるように「雨宮製作所製造」の銘板が付けられており、この小さな鋳鉄製銘板を発見した時はまさに昂揚感に包まれたのを鮮明に覚えています。
▲ワム301の台枠に残されていた「雨宮製作所」の製造銘板。貴重な銘板だが、果たしてそのまま廃棄されてしまったのだろうか…。'79.3.9 流山
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▲貨物ホームの奥には修復中のキハ31の姿が。電車が牽引するトレーラーとして使用されていたが、1963(昭和38)年に廃車、以後は倉庫代用となっていた。'79.3.9 流山
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さらに貨物ホーム横では、2軸客車がなにやら大掛かりな改修工事中でした。この客車、もとをただせば1933(昭和8)年汽車会社製の気動車キハ31で、僚車キハ32はわが国地方鉄道初の代燃動車として歴史に名を残しています(『内燃動車発達史』参照)。この改修工事、記念物として保存するためのもので、同車はのちに流山市総合運動公園に静態保存されています。

nagareyama23.jpgそれにしても、今さら思えばわずか5.7kmほどのミニ私鉄によくぞこれだけバラエティー豊かな車輌が残されていたものです。そして忘れてならないのがもう1輌、流山唯一のディーゼル機関車DB1です。森製作所製のこの機関車に関しては拙著『森製作所の機関車たち』で詳述しておりますが、蒸気機関車の足回りを流用してディーゼル機関車化する手法を得意とした森としては珍しく全くの新製機でした。せっかく電化したのになにゆえディーゼル機関車を…と訝しく思われるかもしれませんが、この機関車の主任務は本線の貨物列車牽引ではなく、当時請け負っていた国鉄馬橋駅構内の入換作業だったのです。
▲こちらは馬橋駅の跨線橋からのぞんだ流山線ホーム。小さな庫には森製作所製のDB1が休んでいた。本機は1981(昭和56)年6月に惜しくも解体されてしまった。'79.3.9 馬橋
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▲流山駅で顔を合わせた新旧の主役たち。左からモハ1001、モハ1101、そして「流星」(初代)。モハ1101はもと京浜急行デハ400形の車体を利用して西武所沢工場で製造されたもので、さらに出自をひもとくと玉野市にあった三井造船所で製造された車体。'79.3.9 流山
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1977(昭和52)年に廃止された本線貨物はすべて電車牽引で、残念ながら私は目にしたことがありませんが、モハ100が数輌の社車を牽いて走る姿はとても首都圏とは思えないものだったに違いありません。

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▲流山に到着したモハ1001+クハ52の2連。ともにもと西武鉄道のクハ1211形で1927(昭和2)年日本車輌製。モハの方は西武所沢工場で電装されて流山へとやってきた。'79.3.9 流山
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nagareyama22.jpg馬橋駅から1927(昭和2)年日車製と聞くモハ1001に揺られること十数分、列車はほんとうにあっけなく終点・流山に到着します。最急勾配がほんの短い11‰と、全線にわたってほとんど勾配らしき勾配もないだけに、すでに老体と思しきモハ1001も電動機が唸りを上げることもなく、そんな路線環境も長寿を助けていたのかも知れません。
▲本線はホームの先でそのまま1線の木造検修庫へと入ってゆく。奥の留置線で顔をのぞかせているのはモハ102。'79.3.9 流山
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▲1949(昭和24)年の電化時に国鉄から譲り受けたのがモハ100形。もとは南武鉄道のいわゆる買収国電で、最終的には4輌がここ流山の地に集った。15mに満たない車体に木製の2扉と模型にしたくなるような小型車だった。'79.3.9 流山
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nagareyama25.jpg終点の流山駅は平屋の駅本屋を中心に、貨物ホームと電留線、それに検修庫が狭い敷地にぎっしりと配置されており、まさに模型のレイアウトを見るかのようでした。ことに本線の延長線上に建てられた木造の検修庫は実に趣があり、モデラーにとっても、また写真派にとっても強く興味をひかれるものでした。ちなみに70年代初頭までこの検修庫前には背の低い給水塔が残されており、1955(昭和30)年頃まで残されていたという蒸気機関車(1255)の姿を偲ぶこともできました。
▲モハ102の台車は汽車会社製のボールドウィンAタイプ。控えめながら汽車会社の製造銘板が取り付けられていた。'79.3.9 流山
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▲流山駅全景。当時旅客ホームは本屋に隣接した1面のみで、画面左側には貨物ホームがあった。右端に前年秋に導入されたばかりの「流星」(初代)の姿が見える。'79.3.9 流山
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ところで、電化時から30年にわたって走り続け、流山の顔でもあったモハ100形はこの頃から運用を外れ、検修庫の奥にはモハ102が、馬橋よりの留置線にはモハ103ともう1輌が休んでいました。沿線のみならず、車輌の陣容も大きく変わろうとする時期だったのです。

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▲雑木林、木製の架線柱、そして2輌編成の電車…、いったいどこのローカル私鉄かと思われる情景が1970年代まで展開していた。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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常磐線の馬橋から流山までわずか5.7kmを結ぶ総武流山電鉄は、軽便鉄道時代から90年以上の歴史を持ち、なおかつ大手私鉄と資本関係を持たない独立系の電鉄として異色の存在です。近年では沿線の急速な宅地化ですっかり“街中の鉄道”と化してしまっていますが、かつては首都圏とは思えない長閑な風景が広がり“ローカル私鉄”の趣さえありました。そんな総武流山電鉄が近代化によって大きな変貌を遂げる前夜とも言える1970年代の画像を中心に、遠い日の流山線を振り返ってみることにしましょう。

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▲農村風景を色濃く残す中をゆくモハ1001の2連。前年にもと西武501系の「流星」号(初代)が就役したものの、昼間閑散時は旧型車2連の天下だった。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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nagareyama4a.jpg流山には何回か足を運んでいますが、今回ご紹介する1979(昭和54)年3月は、数箇月前に西武から501系3連(初代「流星」)が導入され、旧型車の余命が懸念される時期でした。さらに数年前に赤城台駅が平和台に改名されるなど、沿線の宅地化が本格的に動き始めた時期でもあり、車輌のみならず沿線の情景を記録しておこうと足を向けたのでした。現在では競合する筑波エクスプレスも開業し、都心からわずか20分ほどとなった流山市ですが、この当時はそこかしこに農村風景が残されていたのです。
▲欅の巨木の向こうを吊掛け音を響かせて通り過ぎる。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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▲ひたすら拡がる畑、その彼方を2連の旧型車がゆく。現在この付近にはつくばエクスプレス(地下線)が通っている。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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nagareyama5a.jpgすでに途中交換駅の小金城址駅あたりまでは宅地開発が進み都会的な風景となってしまっていましたが、鰭ヶ崎駅周辺にはまさに関東平野の原風景が残されており、トライXを詰めたカメラ1台を下げてフォトハイクするにはもってこいでした。就役したばかりの「流星」号もラッシュ時を過ぎると運用から外れ、昼間はもっぱらくすんだオレンジに白帯を巻いた旧型車たちが吊掛け音を響かせていました。
▲当時は警報機もない第4種踏切が少なくなかった。屋敷森を迂回した未舗装路は緩いカーブを描いて線路を渡ってゆく。まさに模型的な情景。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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▲この頃はまだ線路は地域住民の“通路”がわりだった。幼稚園の帰りだろうか、自転車で迎えにきたお母さんと女の子が線路を辿って家路を急ぐ。'79.3.9 鰭ケ崎?平和台
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見渡す限りの畑、屋敷森、第4種踏切、木製の架線柱、そして昭和一桁生まれの半鋼製電車…29年前とはいえ、今さら思い返せばよくぞ首都圏にこんな光景が残されていたものです。

C57 180再び「門デフ」に。

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「今日の一枚」から。C57 180号機が「門デフ」姿で磐越西線を走ったのは昨年10月の4日間のみ。再来を望む声が多かっただけに待望のリバイバルとなる。'07.10.13 磐越西線喜多方?山都 P:藪中秀行さん

昨年10月に期間限定で「門デフ」装備となって大きな話題となったC57 180号機が、再び「門デフ」姿となって帰ってきます。JR東日本新潟支社が一昨日発表したもので、今回は「SLばんえつ物語号」の運転初日の4月5日からゴールデンウィークをはさんだ5月11日までの合計15日間で、しかも撮影派にはまたとない“ヘッドマークなし”での本運転とアナウンスされています。

c57180side.jpg運行10年目を迎える「SLばんえつ物語号」の今年の運転日は、4月?11月の土・日・祝日を中心に計81日(新潟支社プレスリリースPDFは→こちら)。このうち7月?10月の第4土曜日は会津若松→新潟の片道運転、同じく7月?10月の第4日曜日は新潟→会津若松の片道運転で、例年のごとく12月は冬の臨時列車として別途運転される予定となっています。注目の「門デフ」装備は運転初日の4月5日(土)?5月11日(日)の期間で、運転区間はいずれも新潟?会津若松間(新潟9:43→会津若松13:31・15:25→新潟19:00)。この期間に限ってヘッドマークを外すという心憎い演出がなされる予定だそうです。
▲そのサイドビュー。もともとの長野工場施工機の特徴でもある五角形のドーム前手すりは門デフ=小倉工場式とはちぐはぐとなってしまうとしてわざわざ撤去されている(後日、標準デフ復帰時に復旧)。驚くべき心配りだ。'07.10.20 直江津運輸区 P:名取紀之
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なお、これに先立つ3月22日(土)・23日(日)には羽越本線で恒例となった快速「SL村上ひな街道号」がC57 180号機牽引によって運転されます。昨年はD51 498号機の牽引でしたが、今年は一昨年同様C57 180が復帰。春まだ浅い日本海に5室の汽笛が響きます。
・運転日:2008年3月22日(土)・23日(日)
・編成:C57 180+ばんえつ物語号用12系7輌
・運転時刻
 下り 新潟9:15→新発田10:10→坂町10:43→村上11:03
 上り 村上15:18→坂町15:37→新発田16:36→新津17:30

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▲塚山峠を快走する「SLえちご日本海号」。昨秋の門デフ改装では2日間のみ信越本線でも営業運転が行われた。'07.10.20 塚山ー長鳥 P:名取紀之

今年はD51 498号機も復活20周年。振り返ってみれば20年前の1988(昭和63)年は、蒸機復活元年とも呼べる年で、あのC62 3の「C62ニセコ」、C58 363の「パレオエクスプレス」、58654の「あそBOY」もこの年に運転を開始しています。「門デフ」に限らず、このアニバーサリーイヤーにどんなサプライズが待っているか、今から楽しみです。

生まれ変わる「湊線」。

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「今日の一枚」から雪の日の湊線。とても常陸の国とは思えない光景が展開する。'08.1.17 中根?金上 P:船越知弘さん

先日お伝えした高千穂鉄道の事業継続断念をはじめ、この3月に予定されている三木鉄道や島原鉄道南目線廃止に象徴されるように、ローカル私鉄はあいかわらず厳しい経営環境下に置かれています。そんななか、この4月から第三セクターとして再スタートを切ることになっている茨城交通湊線(勝田?阿字ヶ浦間14.3㎞)の「社長公募」が先週締め切られ、全国から55名の方の応募があったと湊鉄道対策協議会(会長:ひたちなか市長)が発表しました。

nakaminatostn1n.jpg一昨年夏、本ブログでも同鉄道の存廃問題を取り上げましたが、茨城交通は昨年3月30日付けで国土交通省への廃止届提出を当面見送り、これを受けてひたちなか市長を会長とする湊鉄道対策協議会が中心となって存続方法を模索、昨年9月に鉄道部門を分社化して、本年4月より第三セクター方式で再スタートを切ることとなりました。新会社は現在の茨城交通から鉄道事業と“光ファイバーケーブル事業”を引き継いで、後者の賃貸料で鉄道事業収入の不足分を補填するほか、国、県、市の3者は今後5年間で設備投資補助金等約6億6千万円を支援する予定だそうです。
▲12年前の那珂湊駅。合併してひたちなか市となる前は那珂湊市だった。'96.3.16
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▲那珂湊の車庫に憩う新旧国鉄気動車色のキハ11。わが国最後の現役キハ10系であった3輌のうち2輌は佐久間レールパークと鉄道博物館へと引き取られ、その姿を後世にまで残すこととなった。'96.3.16

ibakou1syanai1a.jpgとりわけ注目されるのは一般公募によって新「社長」と「社名」を決めようという点です。両公募はすでに15日付けで締め切られ、前述のように社長には55名の、社名には149件の応募があったそうで、「湊鉄道」時代から親しまれた「湊線」がはたしてどんな新社名になるのか…発表は来月だそうです。
▲キハ11の車内。座面の低いボックスシートが懐かしい。'96.3.16
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※新会社名募集について(→こちら
※社長公募について(→こちら

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1月20日付けの「群馬八幡、あの頃」に思いがけぬ反響をいただきましたのでご紹介いたしましょう。まず、媒体アドレス宛に“続報”をお寄せいただいたのは内田良治さんです。
▲シートを巻かれて休車中の6.5t機。私が1979(昭和54)年に撮影後に姿を消してしまったと思っていた本機は、側線奥に休車となって残されていた。'83.5.29 P:内田良治
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今日アップされていました「編集長敬白」ブログの群馬八幡のKATO 6.5トンを大変懐かしく拝見しました。私が訪ねたのは昭和59年2月のダイヤ改正を間近に控えた昭和58年5月の末で、駅高崎寄りの南側、フェンスで囲われた工場敷地の中にシートを被ったKATOが留め置かれていました。この機体の銘板を読み取った記録を紐解くと、編集長が撮影されたものと同一であることが判りました。昭和55年に一旦消えたKATOが何故残っていたのか、理由はわかりませんが、59年の改正直前に予備機として残っていたのは事実のようです。

gunma-yawata0011-1n.jpg当日はアポなしで訪ねたため、無理をお願いしての撮影でした。そんなこともあり、シートを固縛していたロープを取る事までは許していただけず、写真のような姿で我慢せざるを得ませんでした。編集長が撮影した現役時代の姿と比べるべくもありませんが、今となってはこんな状況でも撮影できたことが幸せに思えてきます。ちなみに側線のさらに高崎よりには、富士重工製と思しきLD-1と表記された僚機がおりましたが、なぜか遠景で撮影したのみで群馬八幡を後にしています。参考までに画像を添付しておきます。ちなみに日立20トン機は見当たりませんでした。
▲日立に代わってやってきた富士重工製と思しきLD-1。内田さんによれば前任の日立はその後東三条へと移動したらしい。「一応東三条時代の姿を撮影はしていますが、写真の出来が悪いのと、この機関車だとする確証がないので画像の添付は見合わせました。なぜあのとき製番をメモしておかなかったか、今になって悔やむことになるとは思いませんでした」と内田さん。'83.5.29 P:内田良治
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内田さんありがとうございます。撮影年月日は1983(昭和58)年5月29日。同じネガには廃止間近の東武熊谷線が写っているそうで、そういえばあの頃は“行きがけの駄賃”とばかり熊谷線や上武鉄道を覗いてから遠征していたことを懐かしく思い出しました。

tankuyawata.jpgそしてもうひとつ、吉岡心平さんの人気ブログ「タンク屋しんちゃんのブログ」でもこの「群馬八幡、あの頃」を受けて、吉岡さんご本人が群馬八幡を訪れた時の状況を紹介されています。もちろん「タンク屋」さんだけあって、撮影される車輌もタンク車。群栄化学工業に出入りする石炭酸、ホルマリンなどの化成品タンク車の撮影に訪れたのだそうで、ブログにはタキ9700のトップナンバーの写真がアップされております。同じ場所を訪れてもさまざまな見方があるのがこの趣味の面白いところ。まさにそんな醍醐味をも再認識させてもらった気がします。
▲画像をクリックすると実画面に飛びます。

DD51 750に密着。

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RM本誌今月号では「今を生きるDD51たち」と題して、根強い人気を誇るDD51を現場取材を交えて特集しております。総数649輌を数えたDD51も、2007年度初には113輌にまで減少、この3月改正では定期重連として親しまれた紀勢本線1853レ・1850レも単機牽引に変更となってしまう予定で、その命運はいよいよ予断を許さない状況となってきてしまっています。

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▲“最若番”750号機のプロフィール。SG搭載機ながら旋回窓もスノープラウも装備していないもっともプレーンなスタイル。台枠下の各種コック類が空気管は白色、水回路は水色、燃料関係は赤色に塗り分けられている点にも注意。'07.12.20 愛知機関区 P:RM(新井 正/取材協力:JR貨物愛知機関区)
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そんななか、今月号ではJR貨物愛知機関区の全面的なご協力を得て、JR承継機の最若番グループで唯一生き延びているSG(蒸気発生装置)付きの750号機をつぶさに取材、検修庫外では見ることのできない各点検扉を全開にした姿などを含め、その構造やディテールを余すところなくお伝えしています。よほどの研究家でなければ気づかないような微細な差異などにも言及しており、モデラーにとっても必見の内容です。

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▲側点検扉を開け放った状態の750号機。左右のボンネット内には巨大なディーゼル機関DML61Zが収まる。'07.12.20 愛知機関区 P:RM(新井 正/取材協力:JR貨物愛知機関区)
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このDD51 750号機、1972(昭和47)年1月12日の生まれ(三菱重工業・製番1828)と言いますから、まさに国鉄蒸機末期に“無煙化”の錦の御旗を背負って誕生したグループの1輌です。僚機3輌とともに投入された初任地は稲沢第一機関区。同区はすでに前年春に無煙化を達成していたものの、同じ発注区分の僚機2輌はA寒地仕様となり、遙かD52の牙城・五稜郭機関区へと赴任していっています。

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▲1エンド側のキャブ内。センターキャブ構造だけに本来キャブ内は比較的広々としているが、本機はSGを搭載しているためキャブ中央には蒸気発生装置(SG4A-S)が鎮座し、かなり狭くなっている。'07.12.20 愛知機関区 P:RM(新井 正/取材協力:JR貨物愛知機関区)
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dd51750cab1.jpg誕生以来35年が経過し、実に累計走行距離193万キロ、地球48周超を走破した750号機ですが、昨年5月には大宮車両所を奇跡的に未更新原色のまま全検出場、再び本線復帰を果たしています。稲沢第一機関区から愛知機関区とその名称こそ変わったものの、新製配置以来一度も稲沢の地を離れていないのも奇跡的で、何か因縁めいたものさえ感じられる気さえします。残念ながらなぜか紀勢重連への充当は見送られているようですが、3月改正までに一度は重連前補機を務める姿を目にしてみたいものです。
▲運転席から前方の展望。視認性確保のため機関室の高さを抑える設計配慮がなされたという。'07.12.20 愛知機関区 P:RM(新井 正/取材協力:JR貨物愛知機関区)
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「今日の一枚」にご注目!

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▲「今シーズンの運行を開始した「SL冬の湿原号」です。」
 '08.1.19 釧網本線南弟子屈?摩周 横田輝男さん(北海道)(「今日の一枚」より)

kyounoichimai11.jpgスタートからまもなく一周年を迎える姉妹ブログ「今日の一枚」が絶好調です。撮影地での渾身のショットから、身の回りの鉄道の何気ないひとコマまで、ジャンルの分け隔てなくカレンダー方式でお目に掛ける「今日の一枚」は、まさに鉄道の“今”を凝縮した玉手箱。毎日クリックするのを楽しみにしておられるという声も少なからず耳にします。実際、編集部の担当者も毎日お送りいただいた画像を開くのが密かな(?)楽しみとなっており、衝撃的なショットに時ならぬ嬌声が編集部内に響き渡ることも…。アーカイブとしてもすでに約3900のエントリー数を数えており、今月中には4000を超える見込みです。
▲全国の皆さんから刻々と送られてくる画像の数々。なかには撮影直後に送信されてくるものも!
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▲「月曜日の朝はキハ205です。」'08.1.21 茨城交通中根?金上 船越知弘さん(茨城県)(「今日の一枚」より)

kyounoichimaisoutetu.jpg最近では海外からの投稿も見受けられます。たとえば2007年12月9日の投稿では、両毛線ではEF65 1118牽引の「ゆとり」が走り、EF65 535は高崎線で石炭列車を牽引していますが、その同じ日のドイツ・フランクフルトでは曇り空の下、01形蒸気機関車がマイン川のほとりを客車を牽いて走っています。同じ日の「世界の鉄道」を見ることができるようにもなってきました。
▲「検測運転実施中!」'08.1.18 相模鉄道大和?相模大塚 渡邉健彦さん(神奈川県)(「今日の一枚」より)
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kyounoichimaiakatuki.jpgまた、この「今日の一枚」はRM本誌とも連動しており、ひと月分各日1枚を誌上でもご紹介してまいりましたが、投稿数が加速度的に増加しており、また作品のレベルも目を見張るほどとなってきていますので、このたび一ヶ月間にご投稿いただいた「今日の一枚」の中から「今の一枚」を選出、次号よりRM本誌誌上で見開き写真としてお目に掛ける予定です。詳しくは下記をご覧ください。
▲「発車を待つあかつき。」'08.1.19 東海道本線京都 佐野 徹さん(京都府)(「今日の一枚」より)
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▲「定番撮影地ですが、残念ながらアルプスは見えず、次回また春に行きたい。」'08.1.17 大糸線南小谷?中土 林 秀明さん(愛知県)(「今日の一枚」より)

ただ「今日の一枚」は写真としての優劣を競うのが本旨ではありません。○月○日の日常の鉄道を記録し、蓄積してゆくことこそがこのコンテンツの大きな意義と考えております。現在、検索機能を付加すべくシステムをバージョンアップ中で、近日中に過去アーカイブをキーワードで検索することも可能となります。いずれにせよ、「今日の一枚」は皆さんの力で作りあげるこれまでになかったコンテンツです。通勤途上のスナップでも結構ですので、ぜひこの“夢カレンダー創り”に参加してみてはいかがでしょうか。


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ホビダスブログ「今日の一枚」の中から毎月本誌に掲載させていただいておりますが、次号(RM295 2月21日発売)よりホビダスブログ「今日の一枚」にご投稿いただいた中より、編集部内で選考の上「今月の一枚」として大きく見開きで掲載させていただくことになりました。採用された方には編集部よりご連絡いたします。

採用者には掲載誌とRM OFFICIALプレート(金属製・サイズは8.5cm×5cm)をプレゼントさせていただきます。今年は赤色のプレートになります。

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皆様からのご投稿をお待ちしております!
※「今日の一枚」にご投稿いただいた全ての写真が選考の対象となります。撮影年月日、撮影場所、お名前、メールアドレスはお間違いないようご記入をお願いいたします。


群馬八幡、あの頃。

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▲巨体をくねらすように入換えに励むEF62 3を横目に下り「あさま」が通過してゆく。この貨物側線はまだしも、18年後には碓氷峠そのものが消えてしまおうとは、想像さえしていなかった。'79.10.31
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1984(昭和59)年2月の国鉄ダイヤ改正は、貨物輸送の拠点化と、それにともなういわゆる“黒貨車”の淘汰により、全国の専用線が一気に消え去った歴史的改正でもありました。この改正までは、まだまだ全国各地に細々とした専用線が残されており(『トワイライトゾ?ン・マニュアル6』所収「昭和58年版全国専用線一覧表」参照)、旅の道すがらこれらの専用線を訪ねるのも大きな楽しみでした。

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▲積車をくわえEF62 3〔高二〕が本線へと復帰してゆく。独特の3軸台車DT124が狭苦しい分岐器を渡る様は圧巻。'79.10.31
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高崎近辺にも新町、倉賀野、新前橋、八木原とほぼ各駅に専用線があり、それぞれ自前の入換機が配置されていました。信越本線群馬八幡駅もそのひとつで、駅構内南側に隣接する短い専用線に入換用の動車を見かけ、最初に訪ねたのは今から29年前、1979(昭和54)年の秋のことでした。

yawata17n.jpgこの専用線は1975(昭和50)年版「専用線一覧表」によればプロクターアンドギャンブルサンホーム工業㈱を専用者とする総延長0.9㎞で、さらにこの線から丸善石油㈱専用線(延長0.1㎞)がのびていることになっています。ただ外から見る限りはその区別はまったくつかず、駅構内の側線がフェンスで閉ざされた化学プラントの中に引き込まれているだけといった感じでした。同一覧表によると真荷主は群栄化学工業㈱、入換作業担当は碓氷通運機で、この時点では加藤製作所製の規格型6.5t機が働いていました。
▲EF62の入換えが終わるのを待ちかねたように姿を現したのは碓氷通運所属の無番。加藤製作所製のレディーメード6.5t機である。'79.10.31
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▲EF62が置いていった空車のタキ4000に連結、群栄化学専用線へと向かう碓氷通運無番(左)。右はそのバックビューで、自連位置からもその小型ぶりが知れる。'79.10.31
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この「加藤くん」、日本通運が大量に発注した規格型のひとつで、当時は各地で同形機を目にすることができましたが、この碓氷通運所属機は1962(昭和37)年11月製(現車銘板によると車体番号L1-62188、変速機形式SR)と、加藤製内燃機関車としては最後期の製品でした。きわめて良く原形を保っており、手入れも行き届いて快調そうでしたが、翌1980(昭和55)年に忽然と姿を消してしまい、代わりに日立製の20t機がやってきました。

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▲長年にわたって量産された規格型ながら、本機は加藤製作所の内燃機関車としては最末期の製品で、Hゴム化されたキャブ窓などは多少なりとも近代的な印象を与える。'79.10.31
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再び群馬八幡を訪れたのは1981(昭和56)年正月、上武鉄道を訪ねた帰路でした。すでに日も傾き、当日の入換作業は終了してしまっており、新たに赴任した日立製の20t機の動く姿は見ることはできませんでした。
ところで、この時セオリー通りにフィールドノートに控えた製造銘板のスペックは「日立笠戸・1964年製造 製造番号12746」。ところが後日サプライリストを調べてみると日立笠戸の「製造番号12746」は1963年九州電力向けの50tBBタイプではないですか。この年代の笠戸工場の製造番号は空番が頻発していることでも知られていますが、ノートに書き写し間違えたのか、はたまた何らかの理由で製番が振り変わったのか、今となっては確かめる術もありません。

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▲2年後、「加藤くん」は姿を消し、代わりにやってきたのは日立笠戸製の20t機。ジャック軸駆動のB型機で、これまた無番のまま終始した。'81.1.6
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ちなみに、この年、1981(昭和56)年5月現在の日本通運の動車在籍輌数は実に265輌。3年後の1984(昭和59)年の国鉄ダイヤ改正によってその大多数が消えてゆくこととなります。加藤6.5t機や日立20t機が人知れず働いていた群馬八幡の専用線も、今や跡形もなく消え去ってしまっています。

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▲“電気鉄道”を名乗りながら、末期は経営改善策としてやむなく気動車を導入した玉野市営。写真は熊延鉄道から到着、試運転中のキハ103。画面右が玉駅である。'64 P:橋本正夫(『玉野市電気鉄道』より)

tamanohyousshi.jpgお楽しみいただいているRMライブラリー、今月発売の第102巻は、橋本正夫さんによる『玉野市電気鉄道』です。路面電車ではない「市電」として知られるこの路線は、1953(昭和28)年の開業当初は備南電気鉄道という民営の電気鉄道でした。最初の路線は終戦により放棄された宇野駅から三井造船への専用線予定地を活用した宇野?玉間3.5kmでしたが、この会社は宇野?水島間31.4kmという遠大な延長計画を立てていたそうで、途中、備前赤崎で今はなき下津井電鉄と交差する計画でした。しかし、備南電鉄の経営は厳しく、玉?三井造船所前(旧玉駅を改称)間わずか0.2kmを延伸したのみで会社は解散、鉄道事業は地元玉野市に引き継がれました。こうして、路面電車ではない市営の電気鉄道が誕生することになったのです。

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▲宇野駅の引き上げ線で休む特急第二富士と玉野市電との出会い。'61.10 P:橋本正夫(『玉野市電気鉄道』より)

鉄道事業を引き継いだ玉野市は経営改善のため、信号所や駅の新設を進め、岡山県随一の海水浴場である渋川までの路線延長を計画、その第一期として玉遊園地まで1.0kmの延伸が実現しました。この延伸区間はなんと川の上に敷かれ、世にも珍しい「川の上の鉄道」が誕生したのです。これは「市営」ならではのことでしょう。

tamanohaisya.jpgこうして「市電」と呼ばれ親しまれたこの鉄道ですが、道路網の改良とともに岡山市内へ直通するバスに乗客を奪われ、赤字に悩む状態が続きます。市では経営改善のため、1964(昭和39)年に三岐鉄道熊延鉄道から気動車を購入、非電化路線という道を選ぶことにしました。この時、まだ若かった3輌の電車たちは海を渡って高松琴平電鉄に嫁ぐことになります。しかし、経営状態が好転することはなく、全線廃止を迎えたのは1972(昭和47)年のこと。「玉野市電気鉄道」は、こうしてわずか19年の波乱に富んだ歴史の幕を閉じたのでした。
▲玉野市田井の国道30号線を岡山方面へと運ばれてゆくクハ201。公園の遊具にする案もあったが、最終的には焼却処分されてしまったという。'72.2 P:橋本正夫(『玉野市電気鉄道』より)
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さて、本書の筆者である橋本正夫さんは長年にわたり岡山・玉野を中心に鉄道の記録を続けておられ、これまでにもお名前をご覧になられた方も多いかと思いますが、お仕事として長年にわたり玉野市の行政に携わられた方でもあり、正にこの鉄道の誕生から終焉までを見つめ続けてこられた方です。本書では水島や岡山市内への延長計画はもちろん、備南電鉄以前に計画された市営路面電車の構想などについても触れられています。

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また、ご存知の方も多いと思いますが、地元ではこの「市電」を顕彰するため、高松琴平電鉄で引退した760号(もと玉野モハ103号)の里帰りを実現させました。岡山方面へお出かけの際には、本書を片手に廃線跡を辿って「玉野市電103号」に会いに行かれてはいかがでしょうか。
▲市営化後に開通した奥玉線(玉?玉遊園地間)の開通祝賀電車モハ101。'60.8 P:橋本正夫(『玉野市電気鉄道』より)

RMライブラリー特設ホームページ開設!
※ホビダスブックスではRMライブラリー100巻達成を記念して特設ホームページを開設しております。ぜひご覧ください。(→こちら

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▲大胡駅ホームから電車庫と反対の桐生方構内をのぞむ。32年前(写真下)の好ましい貨物ホームは姿を消し、直営バスも現在ではタクシー会社が運行するミニバスとなっている。ただし背後の建物はまったく変わっていない。出発信号機に掲げられた「これよりタブレット閉そく区間」の表示に注目。'07.12.1/'76.5.16
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木造平屋の駅本屋に島式1面のホーム、それをはさむように上り方には電車庫、下り方には小さな貨物ホームと、大胡駅は模型にお誂え向きの構内レイアウトです。かつて『模「景」を歩く』を連載していた際にも、何度かこの大胡駅を取材対象にノミネートしたのですが、廃止が迫った地方私鉄の取材が優先され、ついつい後回しになってしまいました。

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▲電車庫内の機械室。小型電動機からプーリーとベルトで天井に這わせたシャフトを回転させ、そこから再びベルトで各工作機械を駆動させる極めてプリミティブな構造。もちろんこの設備が残っていたことも有形文化財指定の要因だったようだ。'07.12.1

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▲木造トラス構造の電車庫天井を見上げる。梁の碍子を辿って電線が伸びているのがわかる。右は庫内のレールで、ドイツはグーテ・ホフヌングス(G.H.H.)社製。1927年の陽刻から開業時のレールと推察される。'07.12.1
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有形文化財に登録された電車庫は、2線の木造矩形庫の北側に事務室、機械室、倉庫、鍛冶場、そして浴室が、南側には食堂、宿直室、電気作業所が併設された構造で、昭和期には各地で目にすることができた地方私鉄の典型的スタイルです。なかでも各種工作機械が並んだ機械室は圧巻で、現在は使われてはいないものの、電動機からベルトとプーリーによってそれぞれの工作機械に動力を伝える方式は、まさに工業技術博物館(日本工業大学)の展示そのもの。かつては隣接する鍛冶場とともに、ほとんどの修理はこなしていたとのお話で、言うなれば上毛電気鉄道の80年を影で支えてきたわけです。

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▲再び32年前の構内をご覧いただこう。このデハ220形224号は省電モハ50の成れの果てで、国鉄時代はクモハ11444。良く原形を留めていたが、西武鉄道から351系(→上毛デハ230)が転入してきたことによって廃車された。'76.5.16
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oogo2n.jpg昨年惜しくも廃止となったくりはら田園鉄道の若柳電車庫、さらには非電化ながら鹿島鉄道の石岡機関区も一脈通じる“古典的”な佇まいでした。とりわけ石岡機関区の庫内にあった工作室(機械室)は、大胡庫と同様のベルトとプーリーによる伝動方式が最後まで実用されており、今でも強く印象に残っています。ちなみに関東圏でこういった雰囲気の工作室が健在なのは、思い当たる限りではあとは小湊鐵道五井車庫くらいでしょうか…。
▲TR10を履き13mとショーティーな2扉車はクハ10形11号。もとは川崎車輌製の木造電動貨車で、馬来工業(日本鉄道自動車)が大胡庫で出張工事を行って半鋼製車体となったと伝えられている。すでにこの時点で使われてはいなかった。'76.5.16
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▲デハニ52を先頭にした西桐生行きが到着、続々とお客さんが降りてくる。この時代、ここ大胡に限らず地方私鉄の中間主要駅はまだまだそれなりの賑わいを見せていた。'76.5.16
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昨秋の日本鉄道保存協会年次総会の基調講演にもあったように、現在、登録有形文化財指定の建造物は総数6263件。しかしながら鉄道関連はそのうち90件にしか過ぎません。そんな状況の中で、上毛電気鉄道では大胡駅関連の7件の建造物のほかにも、荒砥川橋梁(大胡?樋越間)と西桐生駅が登録文化財となっています。本年11月に迎える開業80周年とあわせ、これらの文化財の活用がおおいに期待されるところです。

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▲大胡駅ホームから電車庫をのぞむ。下は32年前の情景でポイントや信号保安設備が近代化されたものの、基本的な線路配置や建屋の佇まいは変わっていないのがわかろう。ホーム横の留置線で休んでいるのは開業時からの生え抜きデハニ51。'07.12.1/'76.5.16
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先日、ひさしぶりに上毛電気鉄道の大胡車庫を訪れる機会を得ました。これまでにも何度となく訪れてはいますが、昨年3月にこの車庫を含む一帯が国の有形文化財(建造物)に登録され、改めて拝見させていただこうと足を向けてみたのです。

oogo4n.jpg文化審議会の答申を受けて有形文化財となったのは大胡駅駅舎、電車庫、変電所、変電鉄塔、避雷鉄塔、中継鉄塔、引留鉄塔の7つの構内建造物です。大胡はもともと計画されていた大胡?(伊勢崎)?本庄を結ぶ路線のジャンクションとして位置づけられていた主要駅で、それだけに車庫や工場、それに変電設備といったいわば電鉄の心臓部が集中しています。上毛電気鉄道の開業は1928(昭和3)年。今年でちょうど開業80周年となりますが、開業時から一貫して社名が変わらない鉄道としても特筆されます。
▲有形文化財建造物に指定されている「電車庫」の32年前の姿。もちろん現在でもこの特徴的な姿を留めている。顔を出しているのはデハ102。'76.5.16
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▲庫内の新旧対比。リフティングジャッキや点検台が設けらたものの、天井の明り取りなども健在だ。旧写真にはクハ61の姿が見えるが、この車は成田鉄道が改軌時に用意した木造客車の流転後の姿である。'07.12.1/'76.5.16
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今回有形文化財に指定された7つの建造物のなかでも趣味的に興味深いのは何と言っても電車庫でしょう。幾度となく訪れてはいるものの、庫内を拝見するのは実に32年ぶりとなります。リフティングジャッキなどその後備えられた設備もあるものの、昭和期の木造電車庫の構造をしっかりと残すその姿は、まさに有形文化財に相応しいものと言えましょう。

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▲今年で車齢80歳を迎える上毛電気鉄道の看板的存在デハ101。1928(昭和3)年の開業時に川崎車輌で新製された16m車。'07.12.1

そして庫内には今や上毛の“顔”とも言えるデハ101の姿を見ることができました。最近では貸切運転等に用いられるだけですっかり出番の減ってしまった同車ですが、開業時からずっと現役を通してきたのはまさに驚異的です。もちろん開業80年の今年がデハ101にとっても車齢80歳の記念すべき年となります。

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▲デハ101の客室内と運転台。客室内にはイベントや貸切運転時に好評のアンチークな広告類が下げられている。'07.12.1
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▲BLWタイプながら板バネを用いていない特異なスタイルの川崎製KO形台車を履く。新製時はコロ軸受だったが、戦後の物資難で平軸受に変更されて今日に至っている。右はその軸箱点検蓋を開けた状態。'07.12.1
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ただ、メンテナンスには並々ならぬご苦労があるようで、直流モーターそのものが消えつつある今日、その保守をはじめ、平軸受のメタル交換等々、現場の皆さんの熱意なくしては走り続けることは困難だったに違いありません。社名の変わらぬ電鉄の、新車時から変わらぬ庫で傘寿の祝いを迎えられるデハ101は、けだし幸せだったに違いありません。

東急新6000系に遭遇!

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▲梶が谷駅に到着しようとする6000系第1編成試運転列車。インパクトのある前面形状と従来の東急車のイメージを一新するカラーリングが鮮烈な印象。'08.1.16 梶が谷
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昨年2月に東急電鉄からアナウンスされていた大井町線急行運転用の新型車輌が落成、今朝方、試運転中のその姿を見かけましたので、さっそくご覧にいれることにいたしましょう。形式は6000系。奇しくも大井町線を最後の活躍の場とした先代6000系が東急線を去って18年の歳月が経とうとしています。
ちなみに通勤途上にコンパクト・デジカメで撮影したものゆえ、お見苦しい点は何卒ご容赦のほどを…。

tkk6000n7.jpg長津田から上ってきた試運転列車は梶が谷駅で折り返しますが、宮崎台方のトンネルから飛び出してきたその姿には正直言って度肝を抜かれました。エッジのたった前頭部形状に矩形のライトケーシング、さながらSFから飛び出してきたような斬新なスカート、そしてなによりも従来の東急のイメージをまったく塗り替える赤を基調としたエクステリア色は、おそらく何の予備知識もなく見せられたら、どこの電鉄の車輌か言い当てることさえ困難なのではないでしょうか。
▲くさび形の前面形状と斬新なデザインのスカートが目をひく。'08.1.16 梶が谷
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▲下り方先頭車6601。先にデビューした多摩川・池上線用7000系が曲線を主体としたデザインだったのに対し、こちらは直線を基調としたデザインとなっている。'08.1.16 梶が谷
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tkk6000n4.jpg今日試運転に臨んだのは第1編成。上り渋谷方から6101(1号車)・6201(2号車)・6301(3号車)・6401(4号車)・6501(5号車)・6601(6号車)の組成で、デハ6201には1基、デハ6501には2基のシングルアーム・パンタグラフが搭載されていました。基本的な構体は5000系を踏襲しているものと思われますが、先にデビューした多摩川・池上線用7000系(18m車・3連)が全体に丸みを帯びた前頭部形状と塗色デザインなのに対し、この6000系は全体に直線を基調としており、ベースは同一でもこれほど印象が変わるものかと改めて驚かされます。
▲シングルアーム・パンタグラフを2基搭載するデハ6500。上り方2輌目のデハ6200には1基のパンタグラフが搭載されている。'08.1.16 梶が谷
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▲7000系の緑系に対して赤系のモケットとなった6000系客室内(左)。袖仕切やスタンションポールは7000系と同形状のように見受けられる。右は7000系の丸みのある文字フォントに対して角ばったフォントとなった車体標記文字。'08.1.16 梶が谷
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▲6600を先頭に折り返しを待つ試運転列車。遠からず大井町線のイメージを一新するに違いなかろう。'08.1.16 梶が谷
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田園都市線の混雑緩和も睨んだ大井町線での急行運転開始はこの3月から予定されており、この6000系もそれにともなって新しい大井町線の顔としてデビューを飾ります。ちなみに6000系投入以後の大井町線は各停5輌編成、急行6輌編成での運転となり、急行の途中停車駅は旗の台、大岡山、自由が丘の3駅、朝ラッシュ最混雑1時間あたりの急行設定本数は5本(全線所要18分)と発表されています。

“Le Train”最新号から。

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年末年始にヨーロッパに家族旅行に出かけた友人から“Le Train”誌最新号をいただきました。曰く、ブリュッセル南駅のKIOSKで同誌を見かけて手に取ってみると、なんとトップページの冒頭に私の写真が…これには腰を抜かさんばかりに驚いたそうで、さっそくお土産にと買い求めてきてくれたのです。
▲あろうことか“Le Train”最新号トップページのタイトルバックにガブリエル編集長とのツーショットが!
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昨年の連載「RAIL EXPOの旅」でご紹介したように、“Le Train”(ル・トラン)誌は今回の第1回RAIL EXPOの中核をなしており、最新号はもちろんこのエキジビションの大特集です。その50ページ近くを割いた特集のトップタイトルにGabriel Acker編集長と私のツーショットが使われているのですから、これには私もびっくりです。「日本のRail Magazineの編集長ムッシュ・ナトリが表敬訪問…」と紹介されていますが、こうなると先日も記したように、いかにプライベートの旅とはいえ、着たきり雀のラフなトレーナー(蛇足ながら米国パイクスピーク・コグ鉄道のオフィシャル・トレーナー)姿は大失敗だったと反省しきりではあります。

letrain01.jpgところで特集の構成に目を転じると、前半が各メーカー別の新製品紹介、後半が新作レイアウト・ジオラマのグラフとなっており、定番の、言うなれば洋の東西を問わずの展開です。そういえば会場内の奥まった一角に急ごしらえの撮影台が設えてあり、編集スタッフがメーカーブースから借り出した新製品を運ぶ姿を頻繁に目にしましたが、これもご同慶の至り(?)1万キロ離れた日本と寸分違わぬ情景でした。
▲“Le Train”1月号(No.237)表紙。RAIL EXPO特集号で総ページ数132ページ、オールカラーで定価は9.5ユーロ(日本円で約1600円)。
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▲お互いに自分の出版物を持って写真を撮りましょうと、わざわざ取材中の自社カメラマンを呼び戻して記念撮影に臨んでくれた“Le Train”誌ガブリエル編集長。もちろんこれは私が撮ったショット。'07.11.24

ただ、あえて失礼を顧みずに感想を述べさせていただくと、あれほど楽しかったエキジビションの雰囲気はなぜか誌面からあまり伝わってはきません。彼の地でも新製品の商品写真と情報こそが読者の皆さんにとってもっとも興味ある部分なのでしょうが、速報性といった面では今後それは急速にウェッブの領域となってゆくはずです。さすれば、紙媒体こそがあの場の高揚した雰囲気、楽しさを伝えるべきではないだろうか…言うは易し行なうは難しと重々わかったうえで、自戒の意味も込めてそんな思いを抱いたのでした。

生まれ変わる高知駅。

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▲高知駅正面で発車を待つ土佐電気鉄道枡形行き610号と桟橋通五丁目行き803号。従来JR駅舎に平行するかたちで路面にあった高知駅前電停は、6年ほど前にJR高知に突き当たるかたちに変更されたが、この光景もあと一ヶ月あまりで見納めとなる。'07.7.21 P:名取紀之
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南国土佐の表玄関JR高知駅が来月2月26日(火曜日)から高架の新駅舎に生まれ変わります。高知県を事業主体としてかねてより進めていた高知・入明・円行寺口の3駅を含む約4.1Km区間の高架化工事(事業名:JR土讃線高知駅付近連続立体交差事業)の完成にともなうもので、駅本屋は現在地より北側に移動することとなります。

kouchistn12a.jpg高知駅の開業は『停車場一覧』によれば1924(大正13)年11月15日。いかにも南国らしい開放的なコンクリート二階建ての現本屋は1970(昭和45)年に建築されたものだそうです。十年以上前から高架化にともなう建て替えが予定されていたためにあえて手付かずだったのでしょうが、駅正面玄関を入ると左側に出札とみどりの窓口、右側に物産店と飲食店街、そして路上から面一の正面にずらりと並んだ改札ラッチと、ひと時代前の地方主要駅の雰囲気を色濃く残しており、それはそれで味わい深いものではありました。
▲土佐電高知駅前駅とJR高知駅正面玄関。電停を取り囲むようにロータリーが設けられている。 P:名取紀之'07.7.21
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▲JR高知駅本屋から土佐電高知駅前電停までは短い屋根で結ばれている(左)。本屋内には“昭和”を色濃く残した「高知駅デパート」もある(右)。'07.7.21 P:名取紀之
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▲高知駅の改札には昔ながらの有人ラッチが並ぶ。木製の集札箱がなかせる。'07.7.21 P:名取紀之
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▲改札口の横にはこれまた昔懐かしい「鉄道案内所」の表示が…。'07.7.20/21 P:名取紀之
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kouchistn17a.jpg高架切り替え工事は、2月25日(月曜日)深夜から、翌26日(火曜日)の早朝にかけて行なわれ、26日6:00発の32D岡山行き「南風2号」から新しい高架駅での営業が開始されます。ちなみに新駅舎にはJR四国初となる自動改札機が導入され、ベーカリーショップやカフェなどの商業施設も営業を開始する予定だそうです。
▲駅構内に掲示された高架化の告知ポスター。'07.7.21 P:名取紀之
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▲高知駅前の夜。本屋正面に停まる路面電車、路上から面一で改札、そしてホームへと続くどこか懐かしい雰囲気の現駅もあと少しでお別れ…。'07.7.20 P:名取紀之
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■高知駅高架化新駅概略図。(JR四国提供)
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■新駅舎の主な設備(JR四国プレスリリースより)
(1)駅設備
① みどりの窓口・改札窓口
② 旅行センター(ワープ高知支店)
③ 新型自動券売機  3台
④ 自動改札機     5通路  (1有人通路を除く)
⑤ 指定席券売機    2台  (3月15日使用開始)
⑥ エレベーター     2基
⑦ エスカレーター   上り・下り 各2基
⑧ 手荷物一時預かり所
(2)商業施設など
① コンビニエンスストア・土産物店(四国キヨスク㈱)
② ベーカリーショップ((株)ウィリーウィンキー)
③ レンタカー((株)駅レンタカー四国)
④ コインロッカー・自動販売機
⑤ カフェ((株)ステーションクリエイト高知)
⑥ 観光案内所((社)高知市観光協会)
⑦ ATM
⑧ 飲食店
⑨ ホーム売店【参考】
■新駅舎の主なバリアフリー設備
(1) エレベータ設置      2基
(2) エスカレーター設置   上り・下り 各2基
(3) 多目的トイレ       2箇所
(4) 授乳室           1箇所
(5) ホーム待合室      5箇所
(6) その他(誘導チャイム・点字案内板・点字運賃表等)

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▲高架化工事も大詰めを迎えたJR高知駅。左端が現在の本屋で、今後は右の高架駅が本屋となる。'07.11.20 P:高橋一嘉
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なお、このJR高知駅新駅開業にともない、2001(平成13)年より駅本屋正面に移動した土佐電気鉄道高知駅前駅も駅前広場の整備とともに新駅舎側に移動し、JR高架駅と接続する計画となっています。これによって現在は有効長の関係から高知駅前に入線できないLRV「ハートラム」も高知駅前にまで姿を現すことになるでしょう。

無念の高千穂鉄道廃止へ。

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「鉄ホビ」最新ニュースでも既報のとおり、2005(平成17)年から休止となっている高千穂鉄道高千穂線槙峰?高千穂間20.9kmの廃止がほぼ確実となってしまいました。宮崎県を中心とした第三セクター高千穂鉄道が昨年末12月26日の休止期限を受けて翌27日に九州運輸局に廃止届を提出したもので、公示(九州運輸局公示PDFはこちら)から一年後、つまり本年12月28日をもって正式に廃止されることとなります。
▲西延岡駅を出る高千穂鉄道TR?100形。1989(平成元)年に第三セクターとして発足する際に新潟鉄工所で製造された車輌。'97.5.18 西延岡 P:岡田誠一
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高千穂鉄道はJR高千穂線を引き継いで1989(平成元)年4月28日に開業した第三セクター鉄道ですが、2005(平成17)年9月6日の台風14号による水害で五ケ瀬川に架かる2ヶ所の橋梁が流失し、あまりに甚大な被害に同年年末に復旧を諦め、鉄道事業の継続自体も断念していました。翌年9月5日付けで正式に延岡?槙峰間の廃止届を提出、一年後の昨年9月6日付けで同区間29.1kmの廃止は実行されています。

080109-003n.jpg残された槙峰?高千穂間については、水面からレール面まで100m以上の高度で知られる高千穂橋梁(深角?天岩戸間352.51m)をはじめ風光明媚な観光資源が豊富なことから、高千穂町観光協会などが中心となって「神話高千穂トロッコ鉄道」を設立、同区間の事業を引き継いで運行を再開する計画でした。しかし資金が思うように集まらず、結果として鉄道事業を承継することはかないませんでした。
▲日之影線時代の終点日之影で折り返しを待つC12 55〔延〕。1933(昭和8)年汽車会社製の本機は生涯転配されることなく南延岡区で過ごし、高千穂線無煙化とともに廃車となった。九州ならではのコールバンカーの換気窓に注意。'70年 日之影 P:笹本健次
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080109-002n.jpgこの延岡?高千穂間の鉄道路線はもともと1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法によって規定された九州横断鉄道の一部として計画されたものです。同法別表では延岡から高千穂を経て高森に抜け、熊本へと至るルートを想定しており、高千穂線の前身である日之影線はこれにそって建設されたものでした。高千穂まで延伸してからもさらに高森への建設工事は進められていましたが、1975(昭和50)年に掘進中の高森トンネル内で異常出水に見舞われ、結果として高森への延伸工事は凍結されることとなってしまいます。これによって、かつては熊延(ゆうえん)鉄道も夢見た熊本?延岡間の鉄道連絡は、ついに日の目を見ることなく潰えてしまったことになります。
▲国鉄時代の無煙化は1974(昭和49)3月。それまでは南延岡機関区のC12が一日一往復の貨物列車を牽いて延岡?日之影間を往復していた。なお、無煙化と同時に貨物営業自体が廃止されている。'70年 槙峰?亀ケ崎 P:笹本健次
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五ヶ瀬川に寄り添うように走る線形もあって、国鉄時代にも度重なる自然災害に見舞われてきた高千穂線ですが、出水による延伸断念、そして今回の廃止決定と、まさに天災に翻弄され続けた歴史だったと称せましょう。地元紙によれば、廃止届を提出した高千穂町長は「台風被害さえなければ…残念でならない」と談話を発表したそうですが、まさに無念の廃止決定だったに違いありません。

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▲返還直後のグラントハイツ内もと啓志駅付近の状況。画面左端に成増飛行場時代からの掩体壕(えんたいごう)の一部が見える。'74.6
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1948(昭和23)年6月のグラントハイツ完成後、建設資材輸送が主たる使命だった啓志線の貨物輸送量は激減し、以後は暖房工場用の石炭・石油をはじめとした燃料輸送と、日常品の運搬が行われる程度となってしまいました。とはいえ、もちろん定期貨物列車は設定されていたはずで、担当していた川越機関区の当時の機関車運用等が詳らかになれば、その輸送実態も多少は解明されるに違いありません。

keishi12a.jpg余談ながら、完成したグラントハイツの管理運営は戦後の混乱が続く周辺地域とは天と地の差ほど違う、それは素晴らしいものだったと伝えられています。夏季にはハイツ近隣にまで航空機による薬剤散布が行われ、蚊や蝿さえほとんどいなくなったそうですが、逆にキュウリ、ナス、トマトといった受粉が必要な野菜類は虫がいないために栽培不能に陥ってしまったといいます(承前『練馬区史』)。近隣農家には鶏20羽、豚3頭、牛1頭以内の飼育しか認められず、もちろん糞尿肥料の使用も厳禁されていました。
▲昭和40年代まで“Railroad Crossing”の英文踏切標識が残っていた田柄高校入口交差点。もとの啓志駅構内入口である。ちなみに「トワイライトゾ?ン」での取材時の撮影で、この写真を撮影してからもすでに18年の歳月が流れている。'90.9.21
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▲こちらは34年前、田柄町付近に残っていた啓志線道床。思えばこの時点ではまだ本州内に国鉄現役蒸気機関車も走っていたわけで、歳月の遠さを思い知る。'74.6
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啓志線が再び脚光を浴びるのは1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮戦争時です。従軍士官の交代の便を図るため旅客輸送を再開、国鉄から直接C58やD51が客車5輌ほどを牽いて入線したとも伝えられていますが、詳細はいまだ不明です。いずれにせよ、朝鮮戦争が1953(昭和28)年7月に休戦を迎える頃まで啓志線は再び旅客線としての賑わいをみせることになります。ただ、朝鮮戦争休戦後も米軍の要請によって客車が入線するケースはままあったようで、昨日ご紹介した37号機の牽くスハ43系列車のような特別誂えの列車が「田柄たんぼ」に汽笛を響かせることもあったはずです。

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▲軌道跡を丹念にたどってゆくとコンクリート製の構造物(左)や朽ちた枕木(右)も発見することができた。ともに田柄町にて。'74.6
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1959(昭和34)年頃からハイツ居住者は逐次立川・横田基地へと移住を開始、この頃には啓志線は休止線となってしまいます。最終的にいつまで列車が運転されていたのかは不明ですが、「トワイライトゾ?ン」(本誌’91年4月号「甦る“啓志”」)でご紹介したピーコックの牽く貨物列車の写真が1954(昭和29)年7月、同じくすでに草生して休止されていると思われる線路の写真が1958(昭和33)年夏の撮影ですから、この間に実質的な列車の運転が終了したことは間違いないでしょう。『RAILWAY100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡』(1998年/東武鉄道社史編纂室)によれば啓志線は1957(昭和32)年8月1日付けで“閉鎖”、『東武鉄道百年史』(1998年)は1959(昭和34)年7月22日付けで正式に“廃止”と記しています。

keishiph5.jpg東武鉄道ではこの啓志線を正式に自社線に組み込んで旅客線化する計画を持っていたようですが、グラントハイツ(旧成増飛行場)に土地を接収された地主が返還運動を行うなど、この時点では米軍撤収後の跡地利用方法がきわめて流動的で、結局利活用を断念、昭和40年頃には軌道は順次撤去されていってしまいました。
▲軌道跡横の住宅塀に積み上げてあった廃枕木。ただし、こちらは啓志線のものととは無関係かもしれない。'74.6
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私が最初にこの啓志線跡を訪ねたのは1974(昭和49)年。グラントハイツは前年9月に東京都に全面返還されたものの、跡地利用計画の見通しはいまだ不透明で、ハイツ内の諸施設は荒れるにまかせてそのまま放置されているような状態でした。軌道跡も宅地化が急速に進んでいるとはいえ、まだ随所にその痕跡を認めることができた時代です。

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▲18年前の田柄町の軌道跡から光が丘団地方向を見る。彼方に清掃工場の煙突が見え、かつてのグラントハイツの象徴2本煙突を彷彿させるかのようだ。'90.9.21

紆余曲折を経て「光が丘」として生まれ変わった大規模団地に入居が始まったのは1983(昭和58)年。1991(平成3)年には都営地下鉄12号線(大江戸線)が開業し、周囲は劇的な変貌を遂げます。歴史に“もし”は禁句と知ったうえで、もし、グラントハイツ跡地利用計画が頓挫することなくスムースに策定され、啓志線の撤去がもう少し遅ければ、ひょっとすると光が丘?上板橋間6.3㎞を結ぶ単線非電化線は、今ごろ複線電化の通勤通学路線として東京西部の交通体系に大きなインパクトを与えていたかもしれません。

※11日朝から夜にかけて「ホビダス」上にアクセス障害が起こり、ほぼ一日小ブログが閲覧できない状況となってしまいました。お詫び申し上げますとともに、記事を再アップさせていただきます。

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1947(昭和22)年には16,090車(21,792トン)、翌1948(昭和23)年には13,475車(51,514トン=『東武鉄道六十五年史』)と信じられない物量の建設資材がこの路線を使って米軍住宅建設予定地へと送り込まれました。その突貫工事の甲斐あって上級士官用住宅は1948(昭和23)年6月に完成し、アメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・グラントの名前を冠して「グラントハイツ」と命名されました。
▲啓志線は田柄川(現在は暗渠)に沿って農地の中を通っていた。この写真を撮影した34年前にはまだところどころに道床跡が残っており、そのルートを同定することも可能だった。彼方にグラントハイツの象徴である暖房工場の2本煙突が見える。'74.6
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また、上板橋駅北部信号所とグラントハイツを結ぶこの路線は、進駐軍側の建設工事責任者ヒュウ・ケーシー中尉の名前を取り、それに縁起の良さそうな漢字を当てはめて「啓志線」と称されることとなります。ただ、現在のところ鉄道側の一次資料でこの「啓志線」の記載があるものは発見されておらず、あくまで通称であったのかもしれません。

keishiph6.jpgグラントハイツは総面積1.8k㎡、建物数730、世帯数約1200の巨大住宅地で、同じ東上線沿線の朝霞キャンプが独身兵士向けの住居であったのに対してこちらは上級士官向けの家族住宅でした。一戸に必ずメイドが一人つき、関連する日本人従業員も5000人に達したと伝えられています(承前『練馬区史』)。なおかつ、学校、教会はもとより、劇場、プール、ドライブイン、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場まで備え、それこそアメリカの小都市をそのまま日本に移したような様相を呈していたのです。私が今回ご紹介する写真を撮影した1974(昭和49)年の時点では、すでに住民は立川・横田基地へと移ったあとでしたが、広い街路と塀のない芝生の庭の大きな“ハウス”、それに、そこここに残された英文の標識類に、立ちすくむ思いがしたのを鮮明に覚えています。
▲同じく上の写真の地点の上板橋方。宅地化が進んでいたとはいえ、まだまだ“空地”のまま放置されたような線路跡が散見された。'74.6
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syuusensyorishi.jpgところでこの「啓志線」では建設工事中から“旅客列車”が運行されてきました。関係者の通勤の便を図る目的もあったのかもしれませんが、1947(昭和22)年12月(『東武鉄道六十五年史』によるが、同書の別頁および『東武鉄道百年史』では6月)から翌1948(昭和23)年2月まで、東武鉄道では国鉄からガソリンカー10輌を借り受け、池袋?啓志間をなんと30分間隔でシャトル輸送を行っています。残念ながらこの事実は敗戦後の鉄道輸送を克明に記録した『鉄道終戦処理史』にもいっさい記載がなく、使用された車輌も含め、今後の一次資料発掘による解明が待たれます。
▲国鉄の戦後処理を生々しく伝える随一の文献『鉄道終戦処理史』(日本国有鉄道外務部/1957=昭和32年)に見る進駐軍専用列車運転本数。東上線関連では品川?朝霞、横浜港?朝霞、池袋?朝霞にかなりの本数の列車設定が見てとれる。関東地方の一部のみを抜粋。
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▲真新しい国鉄スハ43系客車を牽いて東上線を行く東武鉄道37号機。朝霞便とも考えられるが、この時点ではまだ啓志線は実用されていたはずで、当時としてはハイクラスな43系を借り入れていることからも、この列車がひょっとすると「啓志」発着の士官専用列車なのかも知れない。'54.10.17 下板橋 P:石川一造

さらに連合軍側はこのガソリンカーを池袋から山手線経由で東京駅まで直行させる計画を持っていたものの「諸般の事情により実現しなかった」(『東武鉄道六十五年史』)とされています。もしこの直通運転が実現していれば、わが国の鉄道史に残る記録となったに違いありません。

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1947(昭和22)年には16,090車(21,792トン)、翌1948(昭和23)年には13,475車(51,514トン=『東武鉄道六十五年史』)と信じられない物量の建設資材がこの路線を使って米軍住宅建設予定地へと送り込まれました。その突貫工事の甲斐あって上級士官用住宅は1948(昭和23)年6月に完成し、アメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・グラントの名前を冠して「グラントハイツ」と命名されました。
▲啓志線は田柄川(現在は暗渠)に沿って農地の中を通っていた。この写真を撮影した34年前にはまだところどころに道床跡が残っており、そのルートを同定することも可能だった。彼方にグラントハイツの象徴である暖房工場の2本煙突が見える。'74.6
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keishiph6.jpgグラントハイツは総面積1.8k㎡、建物数730、世帯数約1200の巨大住宅地で、同じ東上線沿線の朝霞キャンプが独身兵士向けの住居であったのに対してこちらは上級士官向けの家族住宅でした。一戸に必ずメイドが一人つき、関連する日本人従業員も5000人に達したと伝えられています(承前『練馬区史』)。なおかつ、学校、教会はもとより、劇場、プール、ドライブイン、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場まで備え、それこそアメリカの小都市をそのまま日本に移したような様相を呈していたのです。私が今回ご紹介する写真を撮影した1974(昭和49)年の時点では、すでに住民は立川・横田基地へと移ったあとでしたが、広い街路と塀のない芝生の庭の大きな“ハウス”、それに、そこここに残された英文の標識類に、立ちすくむ思いがしたのを鮮明に覚えています。
▲同じく上の写真の地点の上板橋方。宅地化が進んでいたとはいえ、まだまだ“空地”のまま放置されたような線路跡が散見された。'74.6
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syuusensyorishi.jpgところでこの「啓志線」では建設工事中から“旅客列車”が運行されてきました。関係者の通勤の便を図る目的もあったのかもしれませんが、1947(昭和22)年12月(『東武鉄道六十五年史』によるが、同書の別頁および『東武鉄道百年史』では6月)から翌1948(昭和23)年2月まで、東武鉄道では国鉄からガソリンカー10輌を借り受け、池袋?啓志間をなんと30分間隔でシャトル輸送を行っています。残念ながらこの事実は敗戦後の鉄道輸送を克明に記録した『鉄道終戦処理史』にもいっさい記載がなく、使用された車輌も含め、今後の一次資料発掘による解明が待たれます。
▲国鉄の戦後処理を生々しく伝える随一の文献『鉄道終戦処理史』(日本国有鉄道外務部/1957=昭和32年)に見る進駐軍専用列車運転本数。東上線関連では品川?朝霞、横浜港?朝霞、池袋?朝霞にかなりの本数の列車設定が見てとれる。関東地方の一部のみを抜粋。
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▲真新しい国鉄スハ43系客車を牽いて東上線を行く東武鉄道37号機。朝霞便とも考えられるが、この時点ではまだ啓志線は実用されていたはずで、当時としてはハイクラスな43系を借り入れていることからも、この列車がひょっとすると「啓志」発着の士官専用列車なのかも知れない。'54.10.17 下板橋 P:石川一造

さらに連合軍側はこのガソリンカーを池袋から山手線経由で東京駅まで直行させる計画を持っていたものの「諸般の事情により実現しなかった」(『東武鉄道六十五年史』)とされています。もしこの直通運転が実現していれば、わが国の鉄道史に残る記録となったに違いありません。

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東京23区内といえども、歴史的にはいまだにその実像がはっきりしない、いわば“謎の鉄道”がいくつか存在します。そのなかでも路線延長6.3㎞と長く、しかも旅客輸送まで行っていながら、写真はもとよりその輸送実態さえほとんど解明されていないのが東武鉄道「啓志線」です。
▲34年前、返還直後のグラントハイツ全景。現在の光が丘公園から都立田柄高校方面をのぞんだ状況で、左の広大な空き地が「啓志駅」跡にあたる。'74.6
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東上線上板橋駅から現在の光が丘地区を結んでいた「啓志線」は、敗戦後の米軍駐留、朝鮮戦争、そして返還というめまぐるしい歴史の狭間に沈み、その存在さえほとんど忘れ去られていました。そんな啓志線にはじめてスポットライトをあてたのが、ほかならぬ“トワイライトゾ?ン”でした。連載4回目、1990年12月号でとり上げた「消えた“啓志”」は大きな反響を呼び、これを端緒として、従来まったく発見されていなかった列車写真が発掘されるに至りました。後年発行された『東武鉄道百年史』(1998年)や『RAILWAY 100 ?東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡?』(1998年/東武鉄道社史編纂室)にもその成果は反映されており、“トワイライトゾ?ン”の功績のひとつとして今も誇らしく思っております。この正月、現地を再訪いたしましたので、ここで改めてもう一度この「啓志線」を振り返ってみることにいたしましょう。

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▲1万分の1地形図に見る啓志線。東武東上線上板橋駅下り方で分岐した啓志線は川越街道を突っ切って西進、自衛隊練馬駐屯地の南をかすめて「田柄たんぼ」と通称された広大な農地の中を走り、グラントハイツ手前で熊手状に分岐している。地形図上の表記は「東上貨物線」だが、昭和30年代の市販住宅地図のなかには「啓志」の文字が記載されているものもある。地理調査所発行1:10000地形図「練馬」「石神井」(1959=昭和34年発行)より加筆転載。
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都営地下鉄大江戸線の終点・光が丘は、現在では大規模な団地と多くの商業施設が立ち並ぶ一大都市と化していますが、もとを正せば戦時中に「本土空襲」に備えて急造された日本陸軍の飛行場でした。1943(昭和18)年10月に開設されたこの陸軍成増飛行場には飛行第四七戦隊(3中隊編成、のちに体当たり専門の震天制空隊も編成)が居を構え、二式単座戦闘機「鐘馗(しょうき)」70?90機をもって飛行3分以内に皇居上空まで到達するのを使命とする防空体制をとっていたと伝えられます(『練馬区史』1981年)。

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▲戦後の練馬の象徴でもあったグラントハイツ暖房工場の巨大な2本煙突。上級仕官住宅であったグラントハイツは開設当初からセントラルヒーティングで、この暖房工場がその中枢を担っていた。なお、2本煙突と暖房工場建物はこの写真を撮影した翌年に跡形もなく取り壊されてしまった。'74.6
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1945(昭和20)年3月9日と4月5日にB29の空爆を受けながらも、成増飛行場はそれほど大きな被害を受けぬまま敗戦を迎え、8月24日には早くも米軍が視察、ただちに占領軍第2230部隊が進駐し、上級士官向けの家族住宅を建設することとなりました。うがった見方をすると、米軍ははなから都心に近いこの成増飛行場を接収して活用することを目論んでいたのかもしれません。

hikarigaoka1n.jpgさて、この米軍仕官住宅建設に伴う輸送ルートとして浮上したのが、東武東上線上板橋駅下り方の北部信号所から分岐して旧陸軍第一造兵厰練馬倉庫(のちの陸上自衛隊練馬駐屯地)まで伸びていた専用線の延伸です。なにせ進駐軍の命とあって建設工事は国鉄(運輸省)新橋工事区が担当、昼夜をわかたぬ文字通りの突貫工事の末、1946(昭和21)年3月に上板橋駅から旧成増飛行場跡地の米軍住宅建設予定地まで延長6.3㎞の鉄道が完成しました。わずか半年ほどで用地の接収から線路敷設までを完了させたわけで、単純に考えても一箇月に1キロ近い勢いで延伸させていった計算となります。
▲光が丘現況。商業施設群を南北に貫く道(画面中央の橋)がもと成増飛行場の主滑走路(延長1200m)である。右下のバスが停まっている所が都営大江戸線の光が丘駅出口。後方の煙突は清掃工場のもの。'08.1.6
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▲解体を前に荒廃したグラントハイツ内の倉庫群。いったい何の建屋だったのかは知る術もないが、建築様式からしてひょっとすると日本陸軍成増飛行場時代からの建造物だったのかもしれない。'74.6
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完成した路線を使って同年3月25日から建設資材輸送が開始されました。「横浜の米軍物資輸送本部から、山手線外廻り経由で、直通の二輌連結車が三○分おきに運転された」(承前『練馬区史』)とされるこの住宅建設工事は、米軍から要請を受けた東京都が「成増建設事務所」を設け、全国の大小建設会社80社と、のべ280万人の労働者、70万袋のセメントを投入する未曾有の大建設工事となったのです。

名古屋市交N1000形誕生。

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▲この春から東山線にデビューするN1000形。5000形の置き換え用として増備が予定されている。'08.1.4 藤が丘工場 P:RM(高橋一嘉)
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E655系や小田急MSE60000形など、JR・私鉄を問わず話題の新車が次々とデビューした昨年でしたが、今年も期待の新型車輌が続々と登場する予定です。その初陣をきって正月4日に報道公開されたのが、昨年開業50周年を迎えた名古屋市営地下鉄東山線にこの春デビューする新型電車N1000形です。

meisikou12a.jpg名古屋市営地下鉄東山線は、東京、大阪に次いで全国3番目の公営地下鉄として1957(昭和32)年11月に開業(名古屋?栄間)した歴史ある路線で、第三軌条式の小断面車輌が特徴です。現在の東山線(1号線・高畑?藤が丘間20.6㎞)の車輌は、すでに一部が引退した5000形(製造初年1980年)と5050形(同1992年)の2系列ですが、N1000形は2010年度まで毎年1編成が導入され、順次5000形の置き換えが図られる予定です。
▲ブロック状に配されたラインカラーが印象的な前面。小断面ゆえかかなり面長な印象。'08.1.4 藤が丘工場 P:RM(高橋一嘉)
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▲片持ち式の腰掛が採用された車内。吊り手は三角形に、また車椅子スペースは各車1箇所設置されている。'08.1.4 藤が丘工場 P:RM(高橋一嘉)
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meisikou14a.jpg前面は5000形、5050形に比べ一新された直線基調のデザインで、黒をベースにラインカラーの黄色を大胆に配したこれまでにない強い印象を与えるものとなりました。また、名古屋市交通局の地下鉄車輌では初めて車体正面・側面の行先表示にLEDを採用しているのも特筆されましょう。車内は片持ち式の腰掛が採用されたほか、車椅子スペースは各車輌1ヶ所に設置。また、車内のLED式の案内表示器は5050形のような貫通路上ではなく、側扉上に1輌あたり3ヶ所の千鳥配置となっています。
▲運転台は右手ワンハンドルマスコンとなった。'08.1.4 藤が丘工場 P:RM(高橋一嘉)
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編成はこれまでと同様、両先頭車をT、中間車をMとした4M2Tの6輌編成。なお、形式のNとは名城線の旧1000形に対する「New」と「Nagoya」をかけたものとのことです。

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▲東山線の在来2系列である5000形(左)と5050形(右)。'08.1.4 本郷 P:RM(高橋一嘉)
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このN1000形については本誌次号で速報をお伝えするほか、追って詳細解説記事を掲載の予定ですのでご期待ください。

川場村のD51に再会。

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▲それなりのブラスト音とともに発車するD51 561。二階への外階段が絶好のビューポイントとして開放されている。'07.12.2
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ちょうど一年前、昨年1月14日付けの本ブログで“動態復活”第一報をご紹介した群馬県川場村のD51 561ですが、私自身なかなか現地にうかがえず、先日ようやくその走行シーンを目にすることができました。

kayabamurad51a6.jpgこのD51 561は1940(昭和15)年12月27日苗穂工場製。函館区→富良野区(1960年)→滝川区(1963年)と終生“道産子”として過ごし、1976(昭和51)年3月1日付けで廃車、翌1977(昭和52)年10月にはるばる川場村にやってきて、20系客車6輌とともに静態保存されました。以後「SLホテル」として長年親しまれてきましたが、老朽化のため客車は2003(平成15)年までに解体、それからはD51だけが残される形となっていました。
▲まさにミュージアム・コンディションに復元されたD51 561のフロントビュー。この日はクリスマスデコレーションが誂えられていた。'07.12.2
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▲終点(?)で折り返しを待つ。テンダー上に搭載されたブルーのコンプレッサーは黒く塗装されて目立たなくなっている。'07.12.2
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川場村では残されたD51 561を何とか有効活用できないものかと検討を重ね、蒸気ボイラーを復元することは不可能ながら「空気」で動かせば…と、前代未聞の“SL”(Steam Locomotive)ならぬ“AL”(Air Locomotive)D51が誕生することとなったのです。

kayabamurad51a4.jpgテンダーのコールバンカー上に搭載された大型のエンジン式コンプレッサーによって作られた圧縮空気をシリンダーに送り込んで走る…原理は聞いていても、実際に動く様子を目にして唖然! 匂いや熱こそないものの、まさに蒸気機関車そのものではないですか。線路延長が150mほどと短いためそれほど盛大ではないものの、ブラスト音もそれなりに響き、ましてや発進時のドレインたるや折からの落ち葉を舞い上げ迫力満点。これははるばる足を運んでも一見の価値は充分あると言えましょう。
▲「ホテルSL」の管理センター玄関。見学にはこのエントランスを入り、受付で見学料金を支払う。'07.12.2
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▲非公式側斜め上から見たD51 561。苗穂工場製のD51で、終生道内を出ることはなかった。滝川区時代に追加された助士側旋回窓やATS発電機が撤去されているのがわかる。前照灯は250WのLP403、ナンバープレートは標準的なAD66398図面によるもの。ドーム前手すりはなぜか苗穂施工の北海道タイプではなく、土崎工場などのタイプ。'07.12.2
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ksysbsmursd51a5.jpg川場村ではホームページで毎月運転予定を発表しています。今月1月のこれからの運転日は毎土日(ただし20日は運休)・祝日と毎月曜・金曜日で、土日祝日は10時から16時までの毎時7回/日の運転、月・金は12時と15時の2回/日運転が予定されています。見学料は小・中学生が100円、高校生以上が200円(小学生未満は無料)、それぞれの運転日の12時の回と15時の回には汽笛の吹鳴も行われ、牧歌的な村内に懐かしい音色が響きわたります。
▲単に美しくレストレーションされているだけでなく、使い込まれた雰囲気は「現役機」ならでは。'07.12.2
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思えば前回川場村を訪れたのは、まだ20系客車の一部がその姿を留めていた5年以上前のこと。その際は荒廃したD51 561の姿に、数多の公園機関車と同様に遠からず解体されてしまうのではと思ったものでした。それが現役時代を凌ぐ状態にまで復元され、しかもわずかな距離ながら“動態”の姿を見せてくれるのですから、なんとも嬉しい限りです。

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明けましておめでとうございます。本年も皆さんにとって、そして鉄道趣味にとって実り多い一年となることを祈念いたしまして、年頭のご挨拶とさせていただきます。
なお小ブログは、7日(月曜日)より再開する予定にしておりますので、どうか本年もかわらぬご愛読のほどをお願い申し上げます。
編集長:名取紀之 敬白

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