鉄道ホビダス

2007年11月アーカイブ

第3回:“Le Train”編集長に聞く。
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▲自社ブースの前に立つ“Le Train”のGabriel Acker編集長。会期中は来客やら商談やらで息つく暇もない忙しさ。'07.11.24
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今回の“RAIL EXPO”に出店している出版関連のブースは11。本誌と似た誌名の“La Vie du Rail Magazine”を発行している1938年創業の老舗La Vie du Railや、強烈な個性派として日本でもシンパの少なくない“Loco Revue”から、初めて実物を目にする自費出版的なブースまで実に多彩ですが、そのなかでもさながらネオンサインのようなタワーを掲げて会場中央にブースを構え、ひときわ目立っているのが“Le Train”です。

LeTrain2.jpgその“Le Train”のブースでは編集長のGabriel Acker氏にお会いし、彼の地の鉄道趣味についてさまざまな話をうかがうことができました。現在通巻236号を数える“Le Train”誌は、総ページ112ページほどのうち前半3分の1程度が最新ニュースを交えた実物記事、後半3分の2ほどが模型記事といった、創刊間もない頃のRM本誌と似た誌面構成となっています。最新号は中綴じ中央にHOスケールのストラクチャー型紙が綴じ込まれており、これを外すとセンター見開きがポスターになるような工夫もなされています。
▲“Le Train”のブース。最新刊からバックナンバーまで取り揃えて直販していた。'07.11.24
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LeTrain3.jpgAcker編集長のお話では、フランスの趣味界も高齢化が著しく、氏が予想している年代的ボリュームゾーンは50代とのこと。若年層、ことに子供は「あなたの国のニンテンドー」にやられてなかなか鉄道趣味に入ってこないと嘆いておられました。それでも次世代を担う読者の開拓に積極的な誌面展開もしているとのことで、子供がストラクチャーを組み立てる工程写真のページを開いて見せてくれました。ただ、会場内を見回すかぎり、ティーンエージャーもそこそこ見かけますし、「さながら退役軍人の集会」と自嘲されるアメリカのナローゲージ・コンベンションなどから比べれば、まだまだ“まし”のようにも見受けられます。
▲お互い自らの出版物を手に記念撮影。こんな展開になろうとは予想していなかっただけに、あまりにラフな格好で反省しきり…。'07.11.24

高齢化とともにもうひとつの懸念材料は、いわゆる工作離れだそうです。コレクションに徹し、車輌工作やレイアウト製作に興味を持たない層が次第に増加しつつあり、あくまで工作記事にこだわる同誌としては、啓発に腐心しているとのこと。アメリカでのOn30の台頭に象徴される“ready to run”志向と軌を一にして、コレクタブルな方向性は今や世界的なベクトルのようです。

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▲本誌に相当する“Le Train”12月号(左上/6.9ユーロ=約1200円)とその増刊“Le Train Special”(右上/13.55ユーロ=約2300円)。前者は通巻236号、後者は51冊目となり、今回のテーマはSNCF(フランス国鉄)の米国製ミカド141Rを特集。

ことさら優れたレイアウトを素晴らしい写真で紹介する“Les Super-Reseaux”(左下)と、RMライブラリーに相当する“Le Train archives”シリーズ(右下)。前者は15ユーロ(約2500円)、後者は16.5ユーロ(約2800円)と結構いいお値段。

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▲“Les Super-Reseaux”(左)はオールカラー100ページほど。あえてモノクロ4色分解したレイアウトシーンは実物と見まごうばかり。彼の地のデジタル技術は侮り難いものがある。右はその名のとおりアーカイブに特化した“Le Train archives”シリーズの誌面。やはりモノクロの4色分解だ。
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フランスの鉄道模型人口はどのくらいなのか、ずばりうかがってみると、25,000?30,000人という返事が返ってきました。恐らくはかなり“生”な数字と思われますが、ベルギーやスイスといった隣国仏語圏、さらには比較的同じような嗜好の英国まで含めると果たしてどのくらいの規模になるのでしょうか…。

LeTrain4.jpgAcker編集長とのやりとりのなかでことさら興味深かったのが、同社の近年の媒体展開です。本誌“Le Train”から、模型、ことにハイレベルな模型に特化した別冊(“Les Super-Reseaux”)を季刊ベースで分離、さらには歴史的アーカイブだけを1冊1テーマで纏める別冊(“Le Train archives”)を不定期で刊行し始めています。言うまでもなくこれは弊社のRM/RMM/RMLの展開方針とまったく同じです。3誌を手にしたAcker編集長も、1万キロ離れたその方向性の符合に感動さえ覚えたようで、しきりに握手を求めてきました。
▲各ブースを丹念に撮影して回る“Le Train”のカメラマン。ストロボ撮影ではなく、アシスタントが投光器スタンドを持ってついて回っている。言うなれば、フランスの青柳カメラマン。'07.11.24

LeTrain5.jpgただ、まだ“Le Train”本誌の実物記事と模型記事をきれいに二分する状況ではないようで、RM本誌から模型が分離してRMMが生まれた経緯を非常に興味をもって尋ねられておられました。余談ながら、同誌には非常に美しい実物写真も多く、鉄道写真人口も多いのだろうかとお聞きしたところ、しばらく窮しておられたものの、400人くらいという答が返ってきました。模型に興味を持たず鉄道写真だけを趣味とする層が400人と言っておられるのか、あいにくその辺のディテールは聞き漏らしましたが、何ともやたらと具体的で微妙な数字ではあります。
▲会場内の機材移動はこの“専用台車”が活躍。三脚やらなにやらもすべてこの台車に搭載する。'07.11.24

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▲会場中央にブースを構える“Le Train”は常に注目の的。3日の会期を通してかなりの売上があったように見受けられた。'07.11.24

「よいシャンパンがあります」とスタッフのパリジェンヌに取りにゆかせたAcker編集長。ブースの中に私を招き入れ、シュポーンと盛大に栓を抜き乾杯。お客さんが取り囲むブースの中で一杯…というのもフランス流なのでしょう。いずれにせよ、大きな収穫の出会いでした。

第2回:想像を超える大歓待。
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▲会場入口ではパリ郊外でドコービル製蒸機などの積極的な保存活動を展開しているCFC(Chemin de Fer des Chanteraines)がエンジン駆動のドイッツOMZ122を持ち込んでデモ運転。さりげなく散りばめられた枝や枯葉などは、さすがのセンス。'07.11.24

宿泊先のホテルから会場のグランドームまでは高速経由で10分ほど。撮影はおろか敷地内に入れてくれるかどうかさえわからないインダストリアル・ナロー訪問とは違い、いち見学者として公開イベントに向かうのは実に気が楽です。

raiexpo2.1.2.jpg今回の“RAIL EXPO”訪問に際しては、事前にまったくアポイントメントを取っておりませんでした。仕事の関係もあって直前まで渡仏が流動的だったことと、あくまで「夏休み」、プライベートな一人旅ゆえ、あれこれと時間を制約されたくないという思惑もあってのことです。ただ、さすがに名乗りもせずに謎の東洋人が会場内で取材まがいの行為をするのも失礼と、まずは総合受付に挨拶に伺うことにしました。
▲エンジン音を響かせて走り回る列車には幼児も乗せてくれる。とかく過敏にセキュリティーを云々しがちな日本から見るとなんともおおらかな光景。'07.11.24
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▲一般入場を目前にした受付。もちろんチケットチェックのオフィシャルはパリジェンヌ(左)。右は開場とともに賑わうエントランス。'07.11.24

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▲1500台の収容能力があるというグランドーム駐車場は開場間もなく満車状態に…。写真はパーキングロットで見かけたワークスカー(?)たち。'07.11.25
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raiexpo2.bagge1.jpgところがこれが想像もしなかった展開を生むこととなります。名刺と見本誌を差し出して「日本の鉄道誌のエディターだが、今回はプライベートな旅行で趣味として来た」と説明したにもかかわらず、応対に出た方はえらい驚きようで、しばらく待ってくれと姿を消したと思いきや、恰幅の良い髭の男性を連れて戻ってきました。この方がチェアマンのM.J.C.GRANCHER(グランシュール)さんで、今度はどうぞこちらへと奥の事務局へと案内されました。とにかく“ジャポン”の鉄道誌編集者がはるばるやってきたのが皆さんとても嬉しいらしく、「返金しますから入場券を出してください。これがプレスパスです」、「ランチはこちらのミールクーポンで、お飲み物はこのドリンク券で…」と矢継ぎ早に畳みかけられ、こちらはすっかり目が点です。
▲頂戴したプレスキットやIDカード類。全日通用のオフィシャルパス(左)とプレスパス(右)は実にありがたかった。上に小さく見えるのはプレゼントしていただいた主催する“Traverses des Secondaires ”(TDS)の七宝製会員バッジ。
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raiexpo2.night.jpgグランシュールさんにうかがったところ、運営事務局のメンバーも去年までのエキスポ・メトリックとほとんど変わっていないとのこと。なにゆえ今年から運営主体がTDSに代わり“RAIL EXPO”に看板代えしたのかは、いまひとつ要領をえませんでしたが(なにしろ双方ともにおぼつかない英語でのやりとりですので…)、とにかく今年は150あまりのブースを集め、3日間で8000人の入場者数を見込んでいるとのことでした。
▲一般客が退場したあと減光された会場では片付けが進む。テーブルにクロスを掛けるやり方はアメリカのコンベンションでも日本でも大差ない。'07.11.24
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▲「懇親会」を前に壇上で挨拶に立つグランシュール会長。テーブルにはシャンパンやカナッペが並べられ、やはりわが国とはまったく違った雰囲気。ちなみにプラ製の使い捨てシャンパングラス(?)もちょっと新鮮な驚きだった。'07.11.24

このグランシュールさんとの出会い、そしてプレスパスを頂戴したことは期間中の絶大な力となりました。その辺はおいおいご紹介しようと思いますが、私にとって最大のサプライズは会期2日目、土曜日の夜のことでした。「今夜、関係者のパーティーをやるが、ムッシュ・ナトリにもぜひ出席してほしい」とグランシュールさん。日本の模型ショーで言うところの「懇親会」でしょうか。いずれにせよ、一人旅だけにどこかで夕食の手配もせねばならず、彼の地の「懇親会」がいったいどんな雰囲気なのかも知りたくて、あつかましくも参加させていただくことにしました。

raiexpo2.party3.jpg19時閉場。一般参加者が退場後、各ブースの片付けが始まります。片付けといってもテーブルにクロスを掛ける程度。おしゃべりに興じて一向に進まない状況に業を煮やし、事務局がマイクで「シル ヴ プレ…#ж*ШЖ?」と叫んでいる風景も、言葉こそ違えどこかの国の模型ショーでも良く見かけるシーンではあります。
▲パーティーに集合してきた関係者の皆さん。どの顔にも無事に一日が終了した喜びが浮かぶ。'07.11.24
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raiexpo2.party2.jpg予定より大幅に遅れて20時近くに始まったパーティーは、まずは誂えられた雛壇でのグランシュールさんの挨拶で開会。100人ほどの列席者は氏のトークにどっと沸きますが、フランス語会話がまったくわからないこちらとしては何のことやら…。挨拶は10分ほども続いたでしょうか、司会者が「会長、皆さんお待ちですしそろそろ」(もちろん想像ですが…)のような横槍を入れ、会場は再び大爆笑。さていよいよ乾杯(といってもヨーロッパでは乾杯自体はなくそのまま始まります)と思ったその時、「ジャポン?#ж*ШЖ?リダクチュール?#ж*ШЖ?ムッシュ・ナトリ」と私を紹介するグランシュールさんの声と大きな拍手。予想だにしなかったことに、特別ゲストとして紹介を受け、なおかつ英語→仏語の通訳の女性を伴って雛壇上で挨拶をすることになってしまったのです。
▲会長はじめ運営幹部の皆さんに囲まれて記念撮影。とにかく想像を遥かに超えた歓待ぶりには感謝感謝。'07.11.24
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最後に壇上で運営事務局から巨大なシャンパン(1500ml)の贈呈を受け、再び大拍手。あまりの歓待ぶりに夢見心地のまま、パリの夜はふけていったのでした。
(※ちなみに帰国にあたってこの巨大シャンパンが大きな足かせになろうとは、この時点では思ってもみなかったのですが…。)

第1回:単身、初冬のパリへ。
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▲まずはご当地SNCF(フランス国鉄)に敬意を表して、“RAIL EXPO”の会場グランドーム付近をかっとんでゆく看板列車TGV Duplex(デュプレックス)の姿をご覧あれ。とはいうものの、今回の連載でTGVが登場するのがはこれが最初で最後。“RAIL EXPO”という大それた名称とは裏腹にその実態は…。'07.11.24
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季節はずれの「夏休み」をいただいて、4泊6日の日程で一人でフランスへ行ってまいりました。ノール(北部フランス)とノルマンディー地方に残るインダストリアル・ナローの訪問と、パリ近郊で開催されるモデル・エキジビション“RAIL EXPO”に参加するのが目的でしたが、いずれも想像以上の大収穫で、ひさしぶりのフランスを堪能した旅でした。
今日から再開するこの「編集長敬白」では、主に“RAIL EXPO”の様子を連載としてお目にかけることにいたしましょう。なお、不在中にご報告すべき国内ニュースもいくつか溜まってきているようですので、そちらも折り混ぜながらの不定期連載となる点はあらかじめお含みおきください。

granddome16n.jpgさて、今年が第1回となる“RAIL EXPO”ですが、事前アナウンスによれば、昨年まで同時期に開催されていたナローゲージを中心としたモデル・エキジビション“EXPO METRIQUE”(エキスポ・メトリック)をベースに、運営母体も変わって新たにスタートするとのことでした。ネーミング自体が“METRIQUE”(メトリックゲージ、つまりは彼の地のナロー=750㎜や600㎜ゲージを連想させる)からジェネラルな“RAIL”に変わることもあって、恐らくもっと一般受け(?)する展示内容に規模を拡大するものと想像していましたが、さにあらず。実際に会場を目にして、正直言って立ちすくんでしまいました。どこが“RAIL EXPO”なのか…巨大な会場を埋め尽くしているは、ナローゲージどころか、インダストリアル・ナローばかりではないですか!
▲アンチークな雰囲気の第1回RAIL EXPOのポスター。下欄には協賛出版社や協力レストランなどのロゴが並ぶ。
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▲天候が不順なこの季節のパリにしては珍しく会期中は晴天が続いた。10時の会場を前に今朝も早くから出展者がドームに集まってくる。'07.11.24

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▲会場のグランドームはパリ郊外の畑地の中に忽然と建っている。周囲には牛の姿も…(左)。最寄駅からはシャトルバスが頻繁に運転されており足の便はすこぶる良い(右)。'07.11.25
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会場のグランドームにはメーカークラブ出版関係レイアウトを合わせて150あまりのブースが設営され、規模としては明らかに昨年のエキスポ・メトリックを上回っています。もちろんわが国でもお馴染みのフルグレックス、ヘルヤン、それにピコといったメーカーブースも見られるものの、聞いたこともないようなバックヤードビルダーや版元のブースが所狭しと立ち並び、一言で表現するならばナローゲージ・モデルの「魔境」といったところでしょうか。

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▲2階席から会場内を見渡す。土曜日の最混雑時には通路を歩くのも困難なほどに。最前列入口に見える“ACCUEIL”(歓迎)のプラカードを掲げているのが運営事務局の総合案内ブース。'07.11.25
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granddome15n.jpgところで、去年おととしと同期の岡山英明君がレポートを送ってくれたこともあって、会場となるグランドームのおおよその周辺環境は理解していたつもりでしたが、実際に自分でレンタカーを運転して行ってみると、かなりイメージが異なりました。もっと都市部にあるものとばかり思っていたのですが、パリ市内からは20キロほど離れた郊外に位置し、瞬間的に思い浮かんだのは西武球場(グッドウィルドーム)です。しかも、周辺は恐ろしく長閑で、放牧された牛の姿さえ見られます。
▲なんと会期中を通して総合案内ブース正面のカウンター上にRM本誌やRMモデルズを展示してもらった。なぜか「この雑誌はサンフランシスコの本屋で買ったことがある」という来場者もいて、こちらがびっくり。'07.11.25

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▲今回の旅のもうひとつの目的、北フランスとノルマンディー地方に残るインダストリアル・ナローも大収穫だった。写真はノルマンディーで見かけた“その道”の方にはたまらないシーン。トップのTGVとは対極にある「鉄道」。'07.11.23
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さて、前ふりはこの辺にして、明日からはこの“RAIL EXPO”での見聞を、移動や食事、さらにはアコモデーションといった周辺情報を交えながらお伝えしてゆくことにいたしましょう。

※これまでにご紹介した主な海外紀行
老人ホームの「給食軌道」(2007年7月=3回連載)
ヘレンタールバーンとナスバルトバーン(2007年3月=2回連載)
ナローゲージ・コンベンションの旅(2006年9月=12回連載)
大連埠頭の「プレ二」(2006年6月=3回連載)
チューリッヒのトラムミュージアム(2006年5月=3回連載)
博山水泥のこと(2006年5月=2回連載)
知られざるもうひとつのレーティッシェ・バーン(2006年2月=2回連載)
アイルランドに欧州最大のナローゲージ網を訪ねる(2006年1月=13回連載)
ひとりぼっちの「RhW」(2005年10月=2回連載)
12年ぶりのライン河上流工事事務所(2005年10月=10回連載)
デイビッドに会いにインドへ行く(2005年6月=7回連載)

RML100-001n.jpg11月2日付けの本ブログでご紹介したRMライブラリーの第100巻「国鉄車輌誕生 ?車輌開発の黄金時代?」が本日完成いたしました。もと国鉄副技師長の星 晃さんが撮影されたカラー写真で構成する本書は、昭和20年代から昭和40年代前半にかけて、国鉄の車輌開発がもっとも輝いていた時代を、最当事者の星さんのカメラを通して再現するもので、来月発売の下巻と合わせて300点以上の貴重な写真を収録する予定です。

改めて目次から上巻の内容をかいつまんでご紹介してみましょう。

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ビジネス特急<こだま>誕生
 151系特急形電車の誕生
 思い出の修学旅行電車
 日光行デラックス準急157系
新性能電車の夜明け 新性能電車誕生101系
 東海形153系登場
 高速化・交流電化への道程
 高運転台の時代へ
気動車新時代
 実用化された液体式気動車たち
 DC特急誕生す キハ80系
生まれ変わる旧世代
 近代化する国電
 世代交代する客車列車
機関車と貨車 新形機関車たちの進出
 進化する貨車
このほかに小田急SE、東急5000系、相鉄5000系、近鉄10000系といった時代を代表する私鉄車輌の試運転時の状況も「その頃私鉄電車は…」と題したコラムとして2箇所に収録しております。
■RM LIBRARY『国鉄車輌誕生 ?車輌開発の黄金時代?』
・各巻96ページ、オールカラー
・定価:2000円(税別)
・上巻:11月下旬発売、下巻:12月下旬発売

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本書は今週後半から順次全国の書店店頭に並ぶ予定ですが、この100巻達成を記念して今月末から下記の特約28書店では「RMライブラリーフェア」と銘打って100巻すべてを取り揃えた特別フェアを開催する予定です。ぜひこの機会に既刊もお手にとってご覧いただければと思います。

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■RMライブラリーフェア書店
東京旭屋書店札幌店、ジュンク堂書店盛岡店、ジュンク堂書店仙台店、フタバ図書TERA守谷、ささもと書店、丸善津田沼店、書泉グランデ、ジュンク堂書店 新宿店、ジュンク堂書店池袋本店、リブロ池袋本店、オリオン書房立川北口店、蔦屋東大和店、栄松堂書店相鉄ジョイナス店、有隣堂本店、紀伊國屋書店新潟店、
本の店英進堂、精文館書店本店ホビーステーション、星野書店近鉄パッセ店、三省堂書店 名古屋テルミナ店、シェトワ白揚書籍館、旭屋書店本店、ジュンク堂書店三宮店、
TMステーションホビスタ尼崎店、ブックヤードチャプター2、喜久屋書店倉敷店、NET21セルバ岡山店、紀伊國屋書店福岡本店、ジュンク堂書店大分店。
なお、このホビダス上でも地域別・テーマ別で検索できる特設サイトを設けておりますので、こちらもどうかご利用ください。

※明日より一週間ほど遅い夏休みをいただいてフランスで開催される「RAIL EXPO」に行ってまいります。「RAIL EXPO」は昨年まで開催されていた「EXPO METRIQUE」をさらに拡大して行われるナローゲージを中心としたモデルエキジビションで、今年が第1回。果たして彼の地の趣味はどんな世界を築いているのか…帰国後の「編集長敬白」(11月28日再開予定)にどうかご期待ください。

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▲下流に向かって辺りは開けた農地が増えてくる。耕地整備事業等で軌道跡の痕跡が消えてしまっている区間も少なくないが、このように判然と残っている箇所もある(昨日の地形図中の写真②地点)。'07.11.4

地形図で見る限り、奥川森林軌道は比較的開けた山間を、時には畑地や集落を抜けて進み、左岸へと川を渡る徳沢駅3キロほど手前から杉木峠の峡谷に分け入って阿賀野川右岸に出ます。

okukawa64.jpg廃校になった小学校なども散見され、恐らくこの辺りも過疎化が進んでいるのでしょうが、逆にお年寄りの姿はそこかしこに見かけます。それだけに「聞き込み」は比較的容易で、皆さん“山からのトロ”が通っていた場所を的確に示して下さいました。刈り入れの終わった田圃を整備していた方は、付近の雑木林入口に石積みの路盤が残っていることを教えてくれましたが、藪の中に目をこらすと確かに石積みが見えてくる…そんな一見では絶対に発見できない地元ならではの情報には今さらながらに驚かされました。
▲畑地横の雑木林に残る石積みの路盤。非常にわかりづらいが、薮の中に人工的な石積みが続く。(写真②地点)'07.11.4
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▲左岸を通っていた軌道は写真③地点で奥川の右岸に移り、徳沢駅まで杉木峠の峡谷へと分け入ってゆく。渡河地点には軌道橋の土台部分が残されている。(写真③)'07.11.4
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比較的なだらかな地形を奥川に寄り添うように下ってきた軌道跡は、杉木峠手前で左岸へと渡ります。この渡河地点には橋梁の跡と思われる痕跡が残っていますが、さきほどの石積みの路盤といい、かなり本格的な建設がなされたものと見受けられます。

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▲そして最後に阿賀野川を渡って徳沢駅構内に入る。地形図上では併用橋だったと思われる阿賀野川橋梁はもちろん立派な新橋に架け替えられているが、横には旧橋のものと思われる遺構が残されている。(写真④)'07.11.4

さて、この杉木峠越えの区間は、現在では道路は新道となって別ルートで整備されており、軌道跡の側の道はほとんど通行量もなく、かなり深い谷となって痕跡を探索するのも困難です。地形図によればこの狭隘な谷を抜けた軌道は奥川と分かれて阿賀野川右岸に取り付き、磐越西線と川を挟んで並行するかたちとなります。

okukawa69.jpg阿賀野川を渡る橋梁は地形図では併用橋のように見えます。もちろん現在では立派な鉄橋に架け替えられていますが、横に旧橋のものと思われるコンクリート製の遺構が残されています。遺構の形状からして軌道は現橋より高い位置、つまり磐越西線の路盤とほぼレベルの位置を渡っていたようにも見受けられます。いずれにせよ、現橋の銘板には竣工が1973(昭和48)年10月と記録されており、軌道廃止後十年以上にわたって軌道橋は道路橋として残されていたはずです。
▲奥沢森林軌道の土場だったと思われる徳沢駅上り方構内。久良谷沢から切り出された材はいったんここに集積され、磐越西線の貨物列車によって搬出されていったはず。画面前方に今は無人となった徳沢駅が見える。'07.11.4
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▲日出谷駅からしばらく磐越西線と並行したのち、紅葉の名所でもある実川渓谷へと分け入ってゆく「実川馬車軌道」。複数の年代の地形図に軌道の表記があるが、この昭和28年応急修正版にのみ「実川馬車軌道」と名称表記が見られる。(地理調査所発行1:50000地形図「大日嶽」(昭和32年発行)より加筆転載)
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残念ながら今回は訪ねることができませんでしたが、日出谷駅を起点とする「実川馬車軌道」なる軌道にも興味をひかれます。この軌道は戦前から昭和30年代まで地形図上に表記されているもので、日出谷駅上り方から2キロほど磐越西線と並行し、実川沿いに北上してゆく路線で、いったいどのような種類の軌道なのかはわかりません。ただこの実川流域には発電所がいくつか存在することから、電源開発用の資材運搬軌道だったのかも知れません。磐越西線と並走する区間は「SLばんえつ物語号」の俯瞰撮影ポイントとしても広くしられる場所。何十年か前には本線の列車と並走する「実川馬車軌道」が俯瞰できたはずです。

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▲上野尻発電所横をゆく標準デフに戻ったC57 180 の「SLばんえつ物語号」。上野尻ー徳沢間には並行道路がなく、発電所から石坂峠を越えて北上するルートは途中から旧奥川森林軌道の軌道跡と合流する。彼方の飯豊の山々はすでに冠雪している。'07.11.4 徳沢ー上野尻(8226レ)
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容易に旧版地形図を手に入れられる現在と違い(「旧版地形図を手に入れるには…」参照)、学生時代は古書店や古書市だけが旧版地形図と出会える唯一の場でした。もちろん地域も年代も体系的・時系列的に入手することなど不可能で、たまたま売りに出ていた図幅を舐めるように見回し、見知らぬ鉄軌道表記を発見すると喜び勇んで購入する…そんな状況でした。

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▲地形図にみる奥川森林軌道。本図では飯根付近で表記が途絶えているが、軌道そのものはさらに北方の久良谷沢にまで伸びていたという。(地理調査所発行1:50000地形図「野沢」「大日嶽」(昭和33/32年発行)より加筆転載)
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そんな時代に手に入れた地形図に「大日嶽」、「野沢」、「熱塩」、「喜多方」、「若松」といった磐越西線沿線の5万分の1地形図があります。発行年代こそばらばらながら、実はどの図幅にも謎の軌道表記があり、いつかは調べてみたいものと買っておいたものです。

okukawa62n.jpgC57 180の牽く「SLばんえつ物語号」の有名撮影地でもある徳沢駅や日出谷駅からも謎の軌道表記が見られます。大日本帝国陸地測量部昭和8年発行の「大日嶽」を入手した学生時代は知る由もなかったのですが、この徳沢駅から奥川に沿って北上する軌道は、前橋営林局喜多方営林署の所管する奥川森林軌道で、さらに奥地に伸びる久良谷森林軌道と合わせて10キロ以上の延長を持つ、それなりの規模の林用軌道だったようです。
▲廃校となった中町の小学校下に残る軌道跡(写真①)。作業中の農婦は自宅脇を通っていた“山からのトロ”を朧げながら覚えていた。写真は上流側を見る。'07.11.4
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▲同じ地点の下流側。画面右下に奥川が見える。道路は画面左側の一段高い河岸段丘上を通っており、逆に軌道は河川敷に寄り添うようなルートをとっていた。'07.11.4

開設は1912(明治45)年と言いますから、前橋営林局管内(福島・新潟・群馬・栃木・茨城各県)としては浪江森林軌道に次いで歴史ある軌道だったはずですが、残念ながら今日までこの軌道については写真・資料が発見されておらず、その実態は謎に包まれたままです。ちなみに軌道自体が撤去されたのは1960(昭和35)年。本誌11月号でご紹介した伊藤威信さんの紀行「昭和37年11月 晩秋の磐西・沼尻へ」のわずか2年前のことです。

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▲軌道延長から見ればかなり下流側とはいえ、奥川は各所で渓谷のように狭隘な流れとなる。軌道は画面右の崖下を通っていたはず(写真①と②地点の中間)。'07.11.4

さて先日、旧版地形図を片手に現地を訪ねてみました。残念ながら時間の関係で起点側(徳沢駅側)の一部しか見ることはできませんでしたが、何箇所かは判然と軌道跡が残されており、半世紀近くにわたって人知れず走り続けてきた奥川森林軌道を、多少なりとも偲ぶことができます。

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6月に刊行された本編3巻+索引巻、合計2424ページに及ぶ大冊『貨物鉄道百三十年史』の別巻とも言うべき『写真でみる貨物鉄道百三十年』が完成し、昨日、編纂にあたられた岩沙克次特別顧問から見本を頂戴してまいりました。本書は日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)が発足20周年事業の一環として取り組んできた一連の社史編纂作業の締めくくりとなる一冊です。

kamotusyashashinsyuu2n.jpgAB判オールカラー242ページのこの本は、写真集と呼ぶには語弊があるほど解説や図表がふんだんに盛り込まれており、先に発行された『貨物鉄道百三十年史』のダイジェスト版の役割も担っているように見受けられます。もちろん“写真でみる”のタイトルに違わず、掲載写真は実に800枚あまり。『貨物鉄道百三十年史』所収のもの以外にも新規の画像が多数追加されており、なかには初出の写真もあって、文字通り必見の一冊となっています。
▲さりげなく挿入されているが、前見返しは1904(明治37)年頃に海軍省が気球から撮影したという新橋停車場周辺の超貴重な写真。鉄道作業局新橋工場の様子も伺え、この写真だけでも見ていて飽きない。(『写真でみる貨物鉄道百三十年』より)

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▲全242ページは本編9編と付編で構成されている(左は目次)。各章ごとに総論と年表、さらに電化の進捗もひと目でわかる全国鉄道路線図が入っているのもありがたい(右)。(『写真でみる貨物鉄道百三十年』より)
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▲各章ごとにその時代の主要な機関車・貨車が形式写真で紹介されている。主要貨物駅や操車場の空撮が豊富に掲載されているのも特筆される(左)。(『写真でみる貨物鉄道百三十年』より)
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全編の構成は、第1章「創業時代」から第9章「日本貨物鉄道時代」までの本編と、付編としての貨物鉄道小史(およびその英文)、民営鉄道の時期別分布図、主要都市圏の線路網の変遷からなっており、巻末には1978(昭和53)年現在の東京付近配線略図(国鉄運転局作成)が折込として添付されています。

kamotusyashashinsyuu7n.jpg本書のもっとも特筆すべきは、一鉄道会社の歴史写真集という枠を超えて、日本の鉄道史を通観できる編集となっている点です。各章ごとに設けられた総説と略年表は“貨物”という枠に拘泥することなく、私鉄を含めたわが国の鉄道の趨勢を的確に示しており、その中で貨物輸送を位置づけています。通常は避けて通りがちな事故の記録も交え、わが国の鉄道が歩んできた道のりをきちんと後世に伝えてゆこうという意図が感じられ、その点でも出色の内容と評せましょう。
▲きわめて珍しいヨ2500形の写真も盛り込まれている。ちなみに「ヨ」の次に標記されている「H」は、状態不良につき運用を制限し優先して廃車すべき貨車を示している。(『写真でみる貨物鉄道百三十年』より)
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▲そして本誌8月号で広田尚敬さんが特撮してくださった1300t高速コンテナ列車(5050レ)の添乗撮影が本書のラストシーンを飾っている。(『写真でみる貨物鉄道百三十年』より)

圧倒的な枚数の歴史的写真を収録したこの『写真でみる貨物鉄道百三十年』、今月20日から一般発売開始とのことですが、頒布価格が5250円(税込)と手ごろなこともあり、文句なくお薦めの一冊と言えるでしょう。

※既刊『貨物鉄道百三十年史』はホビダスダイレクトでもお求めになれます。

今なお現役!クハ103‐1。

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▲前面窓、運行表示、行先表示などがステンレス製の太い枠で押さえられ、床下には排障器が取り付けられて、オリジナルの温和な表情から比べると少々印象の変わったクハ103‐1。K603編成の天王寺方先頭車を務める。'07.10.28 日根野電車区 P:RM(新井 正)
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1031n2.jpg私の世代にとって山手線といえばまず思い浮かぶのが103系電車です。ウグイス色(黄緑6号)一色に塗られた103系の時代は、1963(昭和38)年の第一編成登場以来、冷改、ATC高運と変遷しつつも、1988(昭和63)年6月まで実に25年間の長きにわたって続きました。一昨年上野駅ステーションギャラリーで開催させていただいた写真展「山手線1973年夏」『鉄道写真2005』に採録)も、まさに非冷房103系全盛時代の山手線をテーマとしたものです。
▲103系量産車登場時に国鉄が制作した広報用パンフレット表紙。(所蔵:岡田誠一)
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1031n3.jpgそんな103系の量産第一号車であるクハ103?1・2が今なお現役で働いているのをご存知でしょうか。両車は1964(昭和39)年5月28日に蕨にあった日本車輌製造東京支店で誕生しました。つまり今年で車齢43歳、鉄道車輌としてはすでに高齢の域に達しています。しかし現在でもJR西日本日根野電車区K603編成として阪和線を中心に日々運用に就いており、その姿は今や走る“電車史”そのものと言っても過言ではありません。
▲妻裾部にはいまだに「日本国有鉄道」の車籍銘板と「昭和39年 東京 日本車輌」の製造銘板が健在。'07.10.28 日根野電車区 P:RM(新井 正)
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▲スタンションポールこそないものの、「国電」を感じさせる懐かしい客室内(左)と、丸型アナログメーターがずらりと並ぶ運転台(右)。'07.10.28 日根野電車区 P:RM(新井 正)
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今月発売のRM本誌では日根野電車区のご協力を得てこのクハ103?1・2に密着、そのディテールと歩んだ道のりを詳細にご紹介します。山手(池袋区)から京浜東北(下十条区)に転じ、1970年代中盤には関西へと活躍の場を移した両車は、以後30年以上にわたって大阪圏の通勤輸送に活躍を続けることになります。

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▲車内には「クハ103?1」のステッカーもしっかりと残っている(左)。右はJNRのロゴも懐かしい扇風機(Tc3-2)。'07.10.28 日根野電車区 P:RM(新井 正)
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気がついてみるとJR東日本管内に残る103系は仙石線の4輌編成1本のみ。JR東海にも在籍車輌はなく、JR九州所属の1500番代を含めても現存輌数は全国で645輌。そのうちの約9割587輌がJR西日本で活躍を続けており、ことに大阪圏は103系最後の牙城と呼ぶに相応しい状況です。3500輌近くが製造された103系ですが、経年とともに改造に伴う個体差も目立ち、趣味的にはたいへん興味をそそられる存在となっています。次号ではその辺も詳しくご紹介しておりますので、どうかご期待ください。

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▲立川駅3・4番線ホームで行われたE233系ローレル賞受賞式典。豊田電車区H52編成には特製のヘッドマークが取り付けられた。'07.11.14 立川 P:RM(新井 正)
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7月7日付けの本ブログでもご紹介したように、JR東日本のE233系が今年の「ローレル賞」に輝きましたが、今日、その受賞式典が中央線立川駅3・4番線ホームで行われました。

3N3H6025n.jpg「ローレル賞」は半世紀の歴史を誇る「ブルーリボン賞」とともに鉄道友の会(会長・須田 寛、会員約3400名)が選定する権威ある賞で、ともに前年中に“営業運転に就いた”新車を対象に、「ブルーリボン賞」は全会員の投票をもとに会員が優秀と認めた車輌に、「ローレル賞」は性能・デザイン・製造企画・運用などの諸点に卓越したものがあると選定委員会(10名)が認めた車輌に贈られます。今年のノミネートは11車種。選考の結果、「ブルーリボン賞」には富山ライトレールの0600形「ポートラム」、「ローレル賞」にはJR東日本のE233系と西日本鉄道の3000系が選ばれました。
▲鉄道友の会須田 寛会長からJR東日本の小縣方樹常務取締役に賞状が手渡された。'07.11.14 立川 P:RM(新井 正)
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▲特製ヘッドマークを付けたH52編成は関係者によるくす玉開花ののち、定期列車1404Tとして東京に向けて発車していった。'07.11.14 立川 P:RM(新井 正)
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受賞式典では鉄道友の会の須田 寛会長の挨拶ののち、高井薫平選考委員長が選考経過を報告、続いて表彰状と記念楯が贈呈され、JR東日本を代表して小縣方樹常務が受賞者挨拶に立ちました。続いてE233系の製造に関わった車輌メーカーの方々を交えてテープカット、くす玉開花と式典は続き、14時51分、ヘッドマークを掲げた豊田電車区H52編成は、参列者に見送られて東京行き快速1404Tとしてホームをあとにしました。

3N3H6020n.jpg201系置き換え用として、最終的には688輌が投入される予定となっている中央線系統のE233系ですが、新津車輌製作所、東急車輛、川崎重工業で順調に量産が進み、今月10日現在ですでに500輌に達しています。ちなみに同日現在の豊田電車区の201系の在籍輌数は236輌。新旧の勢力はすでに完全に逆転してしまっています。
▲1961(昭和36)年以来の伝統のデザインを踏襲したヘッドマーク。E233系にヘッドマークが掲げられるのは初めて。'07.11.14 立川 P:RM(新井 正)
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山手線の車中から新宿駅の中央線を“定点観測”してみても、このところあのオレンジバーミリオンの塗装車体を見かけることはめっきり少なくなってしまいました。今春「桜満開、名残りの201系」と題して取り上げた頃はまだまだ実感が沸きませんでしたが、中央線筋からあの伝統の塗色が消えるのは、もう秒読み段階に入っているのです。

■E233系関係のアーカイブ
E233系がデビュー!
E233系試運転に乗る。
常磐緩行線にもE233系。
京浜東北・根岸線用E233系1000番代登場。
E233系1000番代が正式にお披露目。

koukumi2n.jpg2003(平成15)年2月号でスタートして以来まもなく5年目を迎える本誌連載「SL甲組の肖像」は、全国各地の「甲組」と呼ばれた腕利きの機関士OBの皆さんからの聞き取りをもとに、蒸気機関車全盛時代の鉄道と人びとの関わりを再検証しようという企画で、『感動の所在地』で独自の境地を拓いた椎橋俊之さんならではの緻密な現地取材と読み応えある文章でたいへんな好評をいただいております。初期の連載をまとめて今春刊行した単行本『「SL甲組」の肖像1』は、このブログでもご紹介したように日本図書館協会選定図書にもなり、趣味界のみならず大きな評価を頂戴いたしました。

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▲最後の蒸機特急「ゆうづる」を担当した平機関区。「ゆうづる炭」と通称される高カロリー炭を用意して、不可能とさえ言われた運転時分を護りぬいた。(『「SL甲組」の肖像2』より)

さて、ご要望の多かったその単行本化第2弾『「SL甲組」の肖像2』が来週いよいよ発売となります。1巻目では7機関区(鉄道)をまとめましたが、今回は10機関区1工場を取り上げ、連載時にはご紹介できなかった関連資料もふんだんに盛り込んでお届けします。

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▲函館本線・室蘭本線の要は長万部機関区。他区所属機ながらC62やD52にまつわる武勇伝は数知れない。(『「SL甲組」の肖像2』より)

koukumi33.jpg今回収録したのは、長万部機関区、倶知安機関区、熊本機関区、宮地機関区、中津川機関区、郡山機関区、郡山工場、高崎第一機関区、名寄機関区、原ノ町機関区、平機関区で、あのC62重連「ニセコ」の山線区間の運転を担当した長万部機関区、九州最後のC59を蹴って特急の先頭に立った熊本機関区、そして最後の蒸機特急「ゆうづる」を受け持った平機関区…等々、第1巻にも増して重厚な顔ぶれとなっています。
▲鹿児島本線の雄は熊本機関区。ヘビーパシC59を御して田原坂に挑む。(『「SL甲組」の肖像2』より)

単行本化にあたって編集している私にとっても楽しみなのが、それぞれの機関区ごとに追加される「出会った人びと ?取材メモから?」です。1?2ページほどのコラム的記事ではありますが、椎橋さんが取材時のいわば“裏話”を軽妙な筆致で披露してくださっており、登場する機関士OBの皆さんの近影とあいまって、連載のバックグラウンドが垣間見られる貴重なページとなっています。と言うのも、取材は基本的に椎橋さんお一人で、私は後日、編集部で報告を受けるだけといったパターンが常だからです。単行本の編集時に、○○機関区の回にご登場いただいたのはこの方たちだったのか…と机上で“初対面”となるわけです。

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▲函館本線はもとより、胆振線、岩内線といった豪雪の難所を受け持つ倶知安機関区は雪との闘いが避けて通れない。(『「SL甲組」の肖像2』より)

連載「SL甲組の肖像」はこの11月発売号の飯山機関区編で46回目となります。ありがたいことに取材させていただいた方が別の機関区のお仲間を紹介してくださるケースも少なくなく、北海道から九州まで、椎橋さんの“甲組行脚”はまだまだ続きそうです。

蒲原のモハ1を見る。

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▲さすがに木部の傷みは見られるものの、しっかりとした状態で保存展示されている蒲原鉄道の「モハ1」。村松車庫の詰所代用として長年にわたっていわゆる“だるま”状態だっただけに、当時の状況を知る者にとっては感無量。'07.11.4
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かねてより機会があれば見てみたいと思っていた蒲原鉄道モハ1の復元車をようやく目にすることができました。場所はかつての蒲原鉄道冬鳥越駅跡。現在は冬鳥越スキーガーデンとなっていますが、現役時代は冬鳥越駅を俯瞰しようと雪中行軍した思い出の場所だけに、その意味でも感慨深いものがあります。

kanbaramoha1syanai.jpgもちろんこの季節はスキー場は営業していませんが、芝生が綺麗に生え揃ったゲレンデは家族連れの格好の遊び場となっており、訪れた日も草スキーに興じる子供たちで結構な賑わいでした。お目当てのモハ1はモハ61とともにゲレンデ入口に保存されていますが、これがなかなか粋なはからいで、木製の架線柱にカテナリーも張られ、両車ともにパンタグラフを上げた状態で展示されています。電気車の場合、パンタグラフが上がっているか否かで印象が大きく左右されるだけに、この凝った演出には頭が下がる思いです。
▲モニタールーフもきちんと修復された車内。管理事務所に申し出れば車内を見学することも可能。'07.11.4
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ガーデンの営業時間中は管理事務所の許可を得れば車内の見学も可能で、木製の重たい側引戸を開けると、モニタールーフから外光が差し込む独特の車内を味わうことができます。
▲二重屋根に取り付けられた特徴的なトルペードベンチレータを見る(左)。村松時代にはなくなっていた台車(ブリル76E)もしっかりと復元されているが、さすがに電動機は入っていない(右)。'07.11.4
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このモハ1、1923(大正12)年蒲田車輌製の11m級木造ボギー車で、蒲原鉄道が開業に際して準備した車輌です。形態的には同年製の目黒蒲田電鉄(のちの東京急行電鉄)デハ1形と同形で、車体両端に寄った大きな引戸の間に10個の窓がきれいに並ぶサイドビューは、二重屋根とあいまってモデラーにも人気のスタイルです。

kanbara981019.jpgところでこのモハ1、蒲原鉄道現役時代はなんと村松車庫の一隅で足回りを外されて作業所兼詰所として使われていました。いわゆるニセスチール化されていたとはいえ、地面に接している車体裾部は腐食が進んでほとんど土に同化してしまったような状態で、まさかあの“廃車体”がこれほど見事に復元されようとは思ってもみませんでした。現在は新潟県内最古の木造電車として加茂市の指定文化財にもなっているとのことです。
▲村松車庫で詰所代用となっていた当時の姿。建造物の屋根のようなものが載せられていて本来の二重屋根の状態はわからない。'98.10.19(『模「景」を歩く』より)
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▲冬鳥越スキーガーデンにはモハ1と一緒にモハ61も保存されている。模擬架線が張られてきちんとパンタグラフが上げられているのは嬉しい限り。'07.11.4

このモハ1、復元されたのはもう5年も前のことだそうで、さすがに経年劣化は隠せませんが、冬季はすっぽりとシートに包まれて“越冬”するなど実に手厚いケアがなされているそうです。今後も末長い保存を期待したいものです。

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▲1970年代の豊洲石炭埠頭線分岐点付近。背後のクレーン群は石川島播磨重工業のもの。現在はちょうどこの地点を“ゆりかもめ”の高架が走っている。'79.5.9
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春海橋や晴海埠頭ヤード跡が判然と残る中央区側に比べて、豊洲方面の江東区側は恐ろしいほどの変貌ぶりです。かつての豊洲石炭埠頭線と豊洲物揚場線のジャンクション付近は“ゆりかもめ”の豊洲駅(高架)となり、周辺には今風の店舗が立ち並んでいます。

toyosuunyu12n.jpg1970年代の豊洲地区は部外者が立ち入れないような独特の雰囲気に包まれていました。晴海運河と豊洲運河に囲まれた広大な敷地には石川島播磨重工業の工場群、その先の豊洲埠頭には東電の火力発電所や東京ガスの工場…等々、公道を歩いていてもいたる所に「立入禁止」の看板、なかには“OFF LIMITS"と英語表記された看板まであり、絶えず緊張感を抱かせるエリアでした。実際、石炭埠頭側ではカメラを持って歩いているのを誰何された経験さえあります。
▲豊洲物揚場線で入換え作業中の豊洲鉄道運輸機。石炭埠頭線には東京都機(D35-9)が配置されていたが、物揚場線はもっぱら社機が仕業に就いていた。'77.9.21
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▲豊洲物揚場線終端付近を見る。線路終端は東雲運河に突き当たるまで伸びていた。彼方に見える小さな庫は豊洲鉄道運輸のもの。'79.5.9

豊洲へ延伸した“ゆりかもめ”の豊洲埠頭内の駅名が「市場前」であることからも知れるように、2012(平成24)年には東京中央卸売市場(築地市場)が移転してくる計画となっています。現在、土壌汚染問題もあって大きな議論を呼んでいますが、この市場移転が実現した際には、この地域はさらにまた大きな変貌を遂げるに違いありません。

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▲1962(昭和37)年から人知れず豊洲の地で働き続けてきた豊洲鉄道運輸の日本輸送機製15t機「15‐1」(製番988001)と、この時点ではすでに休車となってしまっていた酒井工作所製7t機(1955年製)。1978(昭和53)年には日本鋼管(鶴見)から中古の日立製25tC型機(1957年製/製番12399)を譲り受け、酒井の方は姿を消した。'79.5.9/'77.9.21
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ところで、東京都が最初に深川・晴海線の建設に着手した当時、国鉄東京工事局はこれに相乗りするかたちで、汐留から晴海、越中島を経て小名木川へと抜ける貨物線を計画していたそうです。京浜~京葉の工業地帯を結ぶ物流の一大動脈となるはずだったこのプラン、もし実現していれば、今ごろは首都圏の旅客線ルートとして大きな役割を担っていたに違いありません。

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▲ドラム缶から手回しポンプで給油中の豊洲鉄道運輸機。この時代には東京23区内でまだこんな光景を目にすることができたのだ。'77.9.21
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さて、今回の講座の締めくくりは越中島貨物線の列車の見学です。新小岩(操)から小名木川を経て越中島に入るのは、越中島にあるJR東日本のレールセンターから各地にレールを輸送する事業便列車です。現在、不定期2往復、臨時1往復が設定されており、東京23区内ではきわめて珍しいDL牽引の“貨物列車”を見ることができます。

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永代通の日曹橋踏切付近で「工7283列車」の通過を見送った受講生の皆さん、地元の方でもめったに目にする機会のない列車を目撃できてちょっと感激の様子でした。
▲小名木川から越中島へと向う工7283レ。レール輸送専用チキの返空列車である。なおこの地点はかの汽車会社(東京)の工場跡地にあたる。'07.11.10

ちなみにこの森下文化センターの市民講座「素晴らしき鉄道の世界」、次回以降は地元模型店モアのご主人・守川 環さんの鉄道模型講座、ミステリー作家辻 真先さんの旅を舞台にしたミステリー小説の楽しみ方、岩成政和さんの食堂車・寝台車の話と続き、最後は都電荒川線の貸切運行でフィナーレとなるそうです。

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▲ピーク時の170万トン/年(1967年)には及ばないものの、まだまだかなりの輸送量があった頃の都港湾局深川・晴海線の晴海埠頭ヤード。右端には1961(昭和36)年日立製の異色機D60-4の姿も見える。'79.5.9
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▲上の写真から10年後の同地点。ついに東京都臨港線にも最後の時が訪れた。D60-8に牽かれて越中島へと発車してゆく最終列車。'89.2.9

今日は江東区の森下文化センターが主催する市民講座「素晴らしき鉄道の世界」の講師を仰せつかり、豊洲文化センターを起点に、晴海や小名木川周辺の鉄道遺構などを受講生の皆さんと見て回ってきました。

harumikoato.jpg江東区といえば、錦糸堀車庫をはじめとした都電網が思い浮かびますが、今日の主テーマは東京港臨海部に独自の発展を遂げた東京都港湾局の臨港線です。昨年もこのブログで「消えた都営鉄道」としてご紹介していますが、東京都(東京市)の臨港線の歴史は意外なほど古く、1930(昭和5)年にまで遡ります。のちに国鉄に移管されたいわゆる芝浦貨物線がその嚆矢で、戦後の1953(昭和28)年になって国鉄小名木川貨物線を延長する形で「深川線」が建設されました。
▲そして同地点の現況。近年まで残っていたという機関庫もなくなってしまっている。ただ、踏切付近のレールは土に埋もれながらもかろうじて残っていた。'07.11.10
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▲手書きの「さよなら専用線」の紙が貼られた東京港埠頭公社専用線事務所(左)と同地点の現状(右)。'89.2.9/'07.11.10
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この深川線建設にともなって、国鉄は接続拠点として越中島貨物駅を新設(1958=昭和33年)、東京都もこの深川線を基幹として晴海埠頭への「晴海線」、豊洲地区への「豊洲物揚場線」、「豊洲石炭埠頭線」を延伸してゆきました。

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▲1万分の1地形図に見る最末期の深川・晴海線と豊洲石炭埠頭線、豊洲物揚場線。豊洲地区では豊洲鉄道運輸が運転管理を行なっていた。(国土地理院発行1:10000地形図「新橋」/昭和59年発行より加筆転載)
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一方、国鉄に移管した芝浦貨物駅の西側には「芝浦線」、日之出桟橋に「日の出線」を新設、東京都港湾局臨港線は昭和30年代には、深川・豊洲・晴海地区と芝浦地区を合わせて総延長24キロに達するまでになりました。もちろんこの都営線を頼って数多くの会社専用線が敷設されましたので、そのすべてを合わせると、東京港臨海部には全国屈指の臨海鉄道網が存在したことになります。

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▲昨年「消えた都営鉄道」でもご紹介した“春海橋”は、まるでここだけ時間が停まったかのように現役時代のまま残されている。ただし、クレーンが林立していた背景は高層ビル群に姿を変えている。'07.11.10

ただご多分に漏れず国鉄貨物輸送衰退の余波を受け、芝浦貨物駅の廃止によって日の出線・芝浦線が1985(昭和60)年に廃止、豊洲地区でも同年中に豊洲物揚場線が廃止され、翌年には深川線の一部と豊洲石炭埠頭線全線が廃止されてしまいました。これで残ったのは深川・晴海線(越中島?晴海埠頭間11.7km)だけとなってしまったわけですが、この最後の区間も1989(平成元)年2月9日をもって廃止となり、ここに都営臨港線の半世紀にわたる歴史は幕をおろしたのです。

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▲晴海機関区には2線の矩形庫があった。最後まで残されたのはD60-7とD60-8の2輌だけだった。後方に月島運動場の照明灯が見える。'79.5.9
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あれから18年、豊洲地区は信じられないほどの大変貌を遂げ、「物揚場」や「石炭埠頭」などという言葉とはおよそ縁遠いニュータウンへとその姿を変えています。臨港線跡地は道路化されるなどして今や遺構を見出すことも困難ですが、晴海運河を渡る「春海橋」だけはレールを撤去されることもなく、当時の姿そのままで残されています。

harumisaisyuubihana.jpg今回の“現地踏査”の最大の目玉はこの春海橋訪問です。持参した現役時の写真と見比べていただき、歳月のなかで何が変わり、そして何が変わっていないのかを現地で探っていただこうというわけです。橋梁そのものは何ひとつ変わらずに運河に架かっていますが、背後の風景は恐ろしいほどに一変してしまっています。かつてキリンと通称されるクレーンが林立していた石川島播磨重工業側の埠頭は高層ビル群と化し、対岸の石炭埠頭側には遥かお台場パレットタウンの大観覧車のイルミネーションがきらめいています。
▲最終列車の出発を前に“ミス東京港”から花束贈呈。ラストランナーとなったD60-8のキャブに輝く東京都のマークに注目。東京市以来のこの紋章も今では遠い過去のものとなってしまった。'89.2.9
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春海橋を渡った中央区側にあったかつての晴海機関区周辺は、まだ再開発されずにかろうじてその痕跡を留めており、ここではトップでお目にかけたような“3時代定点観測”も可能でした。

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▲デュランゴ&シルバートン鉄道きっての“お立ち台”、シャロナ湖を見おろすアニマス渓谷のロックウッドをゆく5番グース。'06.8.23
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いささか旧聞になりますが、コロラド州ドロゥレス(Dolores)の“ギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティー”から緊急募金のお知らせが届いたのは8月はじめのことでした。

rgsgoose201.jpg何事か…と開けてみると、何とあの5番グースのエンジンが壊れ、走行不能になってしまったというではないですか。レポートによると、夏休みのクンブレス&トルティック鉄道でのスペシャル運転のためにトレーラーで起点のチャマ(Chama)に搬送され、いざ運転に臨もうとした時に後位側2基のシリンダーがブロー、いわゆる吹き抜けた状態となってスタックしてしまったのだそうです。ウォータージャケットのクーラントがエンジンオイルに流れ込んでかなり“serious”なダメージを被ってしまったとのこと。当然クンブレス&トルティック鉄道での運転は取り止めとなってしまいました。
▲ギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティーから届いた手紙。スペシャル・ドーネーション(特別寄付)を募っているという。

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▲GMC製のオリジナルエンジンをカバーを開けて覗く。プリミティブなエンジンながら、いざ修理するとなるとリペア・パーツを入手することはほとんど困難だという。'06.8.23
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5番グースの搭載エンジンは60年近く前のGMC361型。リペア・パーツはもちろん載せ代え用の同型エンジンも調達の目途がつかず、ブラウン会長はじめソサエティーの面々は途方に暮れてしまったそうです。

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▲走り装置も信じられないほど原始的。ユニバーサル・ジョイントでキャビン側第1台車の1軸に伝えられた動力は、車軸外側のスプロケットからチェーンで第2軸へと伝えられる。右は手荒く直角に立ち上がるエキゾースト・パイプ。Durango庫 '06.8.23
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結局、オリジナルのエンジンを諦め、やむなく別のエンジンに換装することとなったのだそうですが、これは同時に“historic vehicle”(歴史的車輌)の指定枠を外れることにもなりかねず、手紙にはまさに苦渋の選択であったと記されています。

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▲デュランゴ駅で発車を待つ5番グースのエクスカーション・トレイン。めったに姿を現さないグースの姿にギャラリーの熱い視線が注がれる。Durango '06.8.25
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エンジンの換装に合わせて走行部やブレーキも手を入れられ辛くも甦った5番グースは、デュランゴ&シルバートン鉄道の夏の“Railfest”(8月21?27日)でカムバックを果たしたそうです。とはいうものの、ソサエティーには大きな経済的負担がのしかかってきており、今後が懸念されます。

■これまでにご紹介したギャロッピンググース関連のエントリー
●愛しの“ギャロッピンググース”。(1)?(10)
●ナローゲージ・コンベンションの旅。(第1回)(第6回)(第7回)(第8回)(第9回)(第12回)

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▲4輌の“112形”のうち最後まで残ったのがこの113号と115号の2輌。高橋さんの写真では連結器が装備されていないように見えるが、この竣功図によれば「自社製簡易形」が装備され、設計牽引力も1240kgに設定されていることがわかる。
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▲こちらは藤永田造船所製の115号。主要寸法は113号とまったく同じながら、こちらのブレーキはSM‐3。
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一昨日ご紹介した「阪神の奇怪な電動貨車たち」は、やはり模型心をお持ちの皆さんからとりわけ興味を持たれました。なかでも尼崎車庫の入換えに使われていたという単車の凸型電動貨車は、そのキュートなスタイルが多くの方にかなりのインパクトを与えたようです。

hannsindeka1n%5D.jpgそこで今回は補遺編として手元にあった112形の車輌竣功図表をお目にかけることにいたしましょう。高橋さんによれば4輌いた同形の仲間は1953(昭和28)年頃から徐々に廃車され、最後に残ったのは113号と115号の2輌だそうで、残っていた竣功図もこの2輌のものです。113号は日本車輌製、115号は藤永田造船所製ですが、竣功図表上のスペックは主要寸法、台車(ブリル27‐MCB)、主電動機(GE200‐C)などほとんど同じで、わずかにブレーキに相違が認められる程度です。
▲一昨日お目にかけた高橋 弘さん撮影の115号をもう一度お目にかけよう。'59.12.6 尼崎 P:高橋 弘
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気になっていた連結器は、113号の竣功図では「自社製簡易形」が装着されていることになっていますが、115号のそれでは無碍にも「ナシ」と記載されています(ただし、その割には「ケン引力」の設定値がありますが…)。

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▲112形の後継的な存在として誕生した151形151号の竣功図もお目にかけよう。1965(昭和40)年3月に1121形1140号を改造して誕生した13m凹型車体の電動無蓋貨車である。回転半径1850㎜のホイストクレーン2基を備えていた。
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最後に残った113号と115号は昇圧にともなって1967(昭和42)年に廃車されたそうですが、その後継役となったのが151形です。1934(昭和9)年製の木造車を鋼体化して誕生した1121形1140号を1965(昭和40)年に電動無蓋貨車化改造したもので、こちらはホイストクレーンも備えたより本格的な工事車でした。

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▲さらに“奇怪”なのが101形(左)と161形(右)と称する2輌。電動貨車の仲間というよりどう見ても貨車そのもので、しかも101形にいたってはまるで森林鉄道の運材台車のごとき形態。
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151形は後位側に作業員室が設けられたため荷台の長さは8mあまりしかなく、中央運転台下を空洞にした112形より“有効長”は短くなってしまいました。レールなどの長物を運搬する場合は、101形と称するまるで“運材台車”のような車輌をお供としていたようです。

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▲初版から数えると三たびの登場となる岩波写真文庫の『汽車』と『自動車の話』。丸い黄色のシール(もちろん剥がせる)が貼ってあるのが今回の復刻版。両端の判型がひと回り大きいA5版が20年ほど前に出版された「復刻ワイド版」。中央奥が1953(昭和28)年9月に刊行された『自動車の話』初版本で、当時の定価はなんと100円。

昨年このブログの「この1冊」でもご紹介した岩波写真文庫の『汽車』が、ひさしぶりに復刻されました。これは1950年代再発見“赤瀬川原平セレクション”と銘打たれて出版されたもので、この秋、シリーズ全286巻の中から10タイトルがリバイバルしています。

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1950(昭和25)年6月20日に創刊されたこの岩波写真文庫は、B6判中綴じ64頁のフォーマットで毎月3冊ずつ、1958(昭和33)年12月20日まで8年あまりにわたってコンスタントに発行されてきました。内容はまさに千差万別で、都道府県別の新風土記シリーズ(全49巻)を別とすれば、今回復刻された10冊を見回してみても、『日本』、『石炭』、『ソヴィエト連邦』、『馬』、『一年生』、『南氷洋の捕鯨』、『戦争と日本人』、そして『蛔虫』と、恐ろしいくらいの幅の広さです。
▲『自動車の話』巻頭では東海自動車の路線バスの日常を克明に追ったドキュメンタリーが展開されている。当時の伊豆半島は鉄道網から取り残された交通困難地域で、狭隘な未舗装路を走るボンネットバスだけが生命線だった。「車掌の話」「運転手の話」など見開きごとで展開してゆくが、決して美辞麗句で終わらせず、厳しい現実を直視した写真と文章はまさに岩波写真文庫の真骨頂。

そんな10冊のランナップの中でひときわ輝いて見えるのが『汽車』と、そしてもう一冊『自動車の話』です。『自動車の話』は岩波写真文庫の第93巻として1953(昭和28)年9月30日に初版が出版されたもので、“自家用車”などというものがまだまだ夢の夢だった時代の自動車、とりわけバスやトラックと人びととの関わりが、名取洋之助率いる日本工房('05年12月10日付け「日本工房とマグナム、ふたつの“鉄道写真”」参照)直系のカメラマンによって見事に活写されています。

IMGP4282n.jpgことに東海自動車のいち営業所を克明に追った巻頭のドキュメントは秀逸で、あえてキャプションを挿入せずに写真そのものが物語るストーリー展開は見事です。テーマは「自動車」ではありますが、私たち鉄道の側の人間にも強く語りかけてくるものがあり、私にとっては古くから『汽車』とともにバイブル視していた一冊です。
▲当時の運転免許試験の様子は現代から見ればあまりに破天荒。身体検査を身代わりしてくれる“業者”や、試験場に同伴して暗号で解答を教えるカンニング屋…等々、まだまだ闇市時代の名残を感じさせるエピソードの数々も紹介されている。

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実はこの2冊が復刻されるのは今回が初めてではありません。1988(昭和63)年に「復刻ワイド版」と称し、A5判にリサイズのうえ「新風土記シリーズ」を含む89タイトルが復刻されています。つまり『汽車』も『自動車の話』も3度目のお目見えということになります。
▲今回の復刻版で嬉しいのは、巻末に「写真文庫ひとくちばなし」がついている点。ことに『汽車』のそれでは、掲載写真がどれほど大胆にトリミングされているかがノントリ原画を示して解説されている。さらに今回初めて『汽車』の撮影担当が織田 浩だったことも明らかにされている。

今回の復刻版でひときわ興味をひくのが巻末に色上質紙で添付された「写真文庫ひとくちばなし」です。写真史研究家の白山眞理さんによる解説は、掲載作品の“絵解き”から、この写真文庫編集に関わった人びとの心理的葛藤にまで言及しており、わずか2ページの解説ながら、思わず読みふけってしまうこと請け合いです。いずれにせよ、定価700円(税別)と価格設定も実にリーズナブルで、この秋、文句なくお薦めの2冊です。

阪神の奇怪な電動貨車たち。

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▲藤永田造船所製という112形114号。この車輌は大阪方の荷台に架線修理用の櫓が増設されているのがわかる。'59.12.6 尼崎 P:高橋 弘
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9月29日付けの「高松琴平のデカ1」をご覧になった京都の高橋 修さんから、阪神の“同類”の貴重な写真をお送りいただきましたので、さっそくお目にかけましょう。撮影されたのはお父上の高橋 弘さんです。

59-12-6-014-800n72.jpg『編集長敬白』で紹介されていた高松琴平電鉄の“デカ1”を拝見して、同じように特異な形態をした阪神電車の作業用電動貨車の事を思い出しました。そこで親父のネガを探したところ、3輌の電動貨車の写真が出てきましたのでお送りします。父に聞くと、写真は尼崎車庫での撮影で、既に阪神電車大型化の立役者301系が導入されたのちで、通勤電車の大型化のために登場したジェットカー試作型が登場した頃の写真だそうです。車輌面ではこの頃が一番の変化が大きかった頃かも知れません。
▲113号の正面。レールなどの長物運搬用に中央運転台下が空洞になっているのがよくわかる。それにしても連結器が見当たらないが、連結・牽引することは想定していなかったのだろうか…。'59.12.6 尼崎 P:高橋 弘
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電動貨車の資料を探してみると、写真の車輌は112形という形式で113は1925(大正11)年日本車輌製、114・115の2輌は1931(昭和6年)藤永田造船所製造だそうです。阪神電車ではその他111形111号と112形112の2輌と、戦後製造された121形121号の合計6輌の凸型の電動貨車が存在しました。特に戦前に製造された5輌の凸型電動貨車は、中央運転台下がレールなど長物が乗せられるように空洞になっていたのが特徴で、なんとも模型心をくすぐる形態です。

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▲113号(左)と115号(右)。この2輌は昇圧直前まで生き残っていたという。'59.12.6 尼崎 P:高橋 弘
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114号は写真のように大阪方の荷台に櫓が設置されていました。廃車は1953(昭和28)年から徐々に進み、113と115号が昇圧直前の1967(昭和42)年11月まで活躍していたそうです。

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最後にもう1輌、同じ阪神電車尼崎車庫の入換え用凸型電動貨車をお目にかけましょう。ほとんど移動機と違わないこの車輌、小型で単台車を履いていますが。作られたのは1950(昭和25)年です。元を正せば阪神国道線で使われていた散水電車改造だそうですが、詳しくはわかりません。廃車の時期も車輌でなく“機械”だった宿命からか、これまたいまもって判明していません。
▲尼崎車庫入換え用の奇怪な単車。小さな車体にも関わらず、112形の例に漏れず中央運転台の下は空洞になって突き抜けている。やたらと短いポールもご愛嬌。'51.7.21 尼崎 P:高橋 弘
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高橋さんありがとうございます。なかでも尼崎車庫の構内入換え用の奇怪な単車は初めて目にするもので、お送りいただいたメールの添付ファイルを開いた時には思わずのけぞってしまいました。フリーランスの模型にしても荒唐無稽過ぎて現実味がなさそうなこのスタイル、まさに「なんとも模型心をくすぐる」1輌です。

好評だった飯山線座談会。

iiyamashikawatari2n.jpg先週このブログでご案内した新潟県津南町の秋季企画展「飯山線が織り成す歴史と文化」(10月20日?12月16日)の連動企画「座談会・蒸気機関車が走った頃」が11月3日(土曜日)に開催されました。飯山線で実際に蒸気機関車を運転された機関士OBの方3名から、現場ならではの貴重なお話をうかがえる稀有な機会とあって、遠路はるばる東京や静岡からお見えになった方もおられました。
▲信濃川につるべ落としの秋の陽が沈む。夜の帳に追いかけられるようにキハ110単行の142Dが信濃川橋梁を渡ってゆく。'07.11.3 越後田沢?越後鹿渡 P:名取紀之
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▲当日はまたとない秋晴れに恵まれた。写真左は「農と縄文の体験実習館 なじょもん」エントランス、右は前庭で開催されたライブスチームの試乗会。'07.11.3 P:名取紀之

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▲展示室入口(左)と企画展「飯山線が織り成す歴史と文化」会場。幻に終わった上越西線(現在の北越急行と同じ直江津?越後湯沢間)の計画案など貴重な資料も展示されている。'07.11.3 P:名取紀之

会場は「農と縄文の体験実習館 なじょもん」で、聞きなれない「なじょもん」とは、地元津南の方言でぜひ何々をしてくださいという時に使う「なじょも」と、付近で出土される縄文式土器の“縄文”を掛けた造語だそうです。広大な敷地には縄文住居の再現などもあり、当日は地元の皆さんによる特産品などのバザーも開催され、結構な賑わいぶりでした。館内の展示室で開かれている企画展「飯山線が織り成す歴史と文化」では飯山鉄道開業時からの資料や写真、さらには鉄道部品などが展示されており、さらには教育委員会作成の立派な図録まで用意されているのには少々驚かされました。

tunanhyoushi.jpg今回お集まりいただいたのは塩崎栄一さん(80)、鈴木昭平さん(79)、樋熊貞男さん(67)のお三方。塩崎さんは1942(昭和17)年に飯山線の前身である飯山鉄道にお勤めになって以来、1982(昭和57)年に退職されるまで実に40年間にわたって飯山線の運転一筋にこられた方で、飯山鉄道の社型機にも乗務された経験がおありです。鈴木さん、樋熊さんは木曽福島機関区など他区での経験も豊富にお持ちながら、やはり長年乗務された飯山線に一方ならぬ思い入れがおありと伺っています。
▲カラー20ページの立派な図録も作成されている。外丸亜炭炭礦からの出荷の様子や、信濃川水力発電所(中津川第一、第二など)建設当時の電気機関車の写真なども収録されている。

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▲研修室で行われた座談会は補助椅子が登場するほどの賑わいぶり。地元の方はもちろん、遠来のファンの姿も少なくなかった。'07.11.3 P:金盛正樹

貴重なお話が連続するこの座談会のなかでもひときわ熱が入ったのが、ほかならぬ雪との闘いです。一里一尺…つまり豊野方から越後川口に向けて一里(約4キロ)進むごとに積雪が一尺(約30センチ)深くなると譬えられるだけに、飯山線を語る際に豪雪との闘いは欠くことができません。1945(昭和20)年2月12日に森宮野原駅で記録された積雪7m85㎝の記録は、今もってわが国の鉄道が“体験”した最大積雪量です。

IMGP4181n.jpgそんな飯山線だけに、「特雪」のレギュレータを握った皆さんの武勇伝は信じられないほど迫力に満ちたものでした。「“キマロキ”って言うけれど、キマロキなんていうのは天気が回復してから出るもので、降り続いている本当にどうしようもない時はロータリーを先に出して“ロキキマ”で突破するしかないんですよ」と塩崎さん。隧道に入って前方出口を見るとポータルが三日月型にしか見えない…斜面から滑り落ちてきた雪で大半が埋まってしまっている隧道出口に向け「いざっ!」とばかりローター全速で突っ込んでゆく様には、会場にいる誰もが身を乗り出さんばかりに聞き入っていました。
▲パネラーの皆さん。手前から塩崎栄一さん、鈴木昭平さん、樋熊貞男さん。ご高齢ながら皆さんすこぶるお元気。'07.11.3 P:金盛正樹

「ロータリーには大工さんや電気工さんも乗っていて、満員状態でした」と鈴木さん。なんで大工さんたちが…と思ってお話を伺うと、投雪角度が調整しきれずにどうしても沿線の民家の軒などを壊してしまうことがあり、そんな時はキマロキを停めて、乗っている大工さんたちが応急処置をするのだそうです。

IMGP4187n.jpg難航に難航を重ねて結局途中駅で石炭も尽きてしまい、村総出で暖房用の豆炭を運んでくれた話や、消防団の手を借りて消防用ポンプで川から給水する話…等々、まさに息つく暇もない座談会でした。そうそう、前から気になっていたC56 131に単式のコンプレッサーが2基(両側)付いているのは、フランジャーを作動させるエアーのためだったこと、十日町に複線用ラッセルのキ550形576が配置されていたのは、信濃川側に一方的に排雪する目的だったことも、今回のお話で初めて知りました。
▲この座談会のコーディネーターとして私が司会を務めさせていただいた。'07.11.3 P:金盛正樹

「あの頃は一閉塞先、ひと駅先でも線路を確保して不通区間をなくす、それが私たち鉄道マンの使命であり、誇りだったんです」そう語る樋熊さんの言葉が胸に染みた座談会でした。ちなみに本誌次号(11月21日発売)の連載「SL甲組の肖像」はこの飯山機関区の雪との闘いにスポットを当てます。どうかご期待のほどを…。

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▲高速度試験に臨むモハ20「こだま」。国鉄黄金期の、そして昭和そのものを象徴する車輌であるとともに、国鉄副技師長としての星さんのまさに“代表作”。P:星 晃(RMライブラリー『国鉄車輌誕生』上巻より)

1999(平成11)年7月に創刊以来、8年目に入った『RM LIBRARY』シリーズが今月でついに100巻目を迎えます。「10巻、20巻と巻数を伸ばし、ゆくゆくはかの『岩波写真文庫』のように一大ライブラリーを築くことができれば…」と当時の本誌編集後記に書いたことが昨日のことのように思い出されますが、今まさにその“夢”があながち夢ではなくなりつつあることを実感しています。

RML100n.jpgもちろんこの100巻までの道のりは決して平坦なものではありませんでした。わずか48ページ、しかもモノクロとあっても、ご承知のようにその濃密さは尋常ではなく、写真一枚、図面一枚のために編集がストップすることも決して稀ではありません。当然、常時複数のコンテンツが同時進行してはいますが、最後の最後になって刊行順序が前後するハプニングも一度ならずありました。
いずれにせよ、ここまでこられたのはご執筆いただいた著者の皆様、写真・資料を快くご提供下さった協力者の皆様、そしてなによりも毎月楽しみにお買い求めいただいてきた読者の皆様のおかげにほかなりません。さらに、全巻の表紙デザインをこなしてきていただいている清水幹夫デザイナー、“関西支局”的スタンスで編集をお手伝いいただいているレイルロードの高間恒雄さんにもこの場を借りてお礼したいと思います。そして、これは今まで詳らかにはしてまいりませんでしたが、巻末の英文サマリーは英文学者の小池 滋先生のお手を煩わせています。的確かつ格調高いクイーンズ・イングリッシュのサマリーは本シリーズの美点のひとつになっており、小池先生にも改めて感謝申し上げたいと思います。

hoshisan.jpgさて、その『RM LIBRARY』の記念すべき100巻目は、かの星 晃さんの秘蔵のカラーでつづる写真集「国鉄車輌誕生 ?車輌開発の黄金時代?」です。50巻目では三谷烈弌さんの情緒豊かなカラー写真で「昭和の記憶」をまとめさせていただきましたので、100巻目もぜひカラーを、しかも願わくば、ほかならぬ星さんのカラー作品集をと念願してきましたが、幸いにもそれがついに形となります。
▲御年89歳となられた現在も鉄道車輌への情熱を熱く語られる星 晃さん。'07.10.31 P:RM(名取紀之)

tectestn1n.jpgここで改めてご紹介するまでもないと思いますが、星 晃さんはもと国鉄副技師長。1942(昭和17)年に東京帝国大学工学部から鉄道省にお入りになって以来、1969(昭和44)年に国鉄を退職されるまで一貫して国鉄車輌、しかも旅客車の開発に携わってこられました。10系軽量客車、初の電車特急「こだま」、155系修学旅行用電車、キハ80系特急気動車、寝台電車581系、そして0系新幹線電車と、まさに“車輌開発の黄金時代”をトップとして支えてこられました。
▲星さんの国鉄での車輌開発の集大成とも呼べるのが、ほかならぬ東海道新幹線0系。写真は国鉄本社屋上で撮影されたカラーリングを模索していた際の貴重なひとコマ。P:星 晃(RMライブラリー『国鉄車輌誕生』下巻より)

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▲当時蕨にあった日本車輌東京で誕生した0系試作車が、EF13の牽く甲種輸送列車に載せられて白昼の渋谷を行く。P:星 晃(RMライブラリー『国鉄車輌誕生』下巻より)

1953(昭和28)年から一年にわたるヨーロッパ派遣の中で鉄道を撮影する面白さに目覚めたとおっしゃる星さんは、設計段階から試作、試運転、そして営業開始と、自ら開発された車輌をわが子を愛しむかのごとく愛用のカメラに収めてこられました。しかも塗色を記録する必要性からその大半がカラースライドによるもので、今日では比類ない貴重なアーカイブとなっています。

RML101n.jpgこの星さんの貴重なカラー写真による「国鉄車輌誕生 ?車輌開発の黄金時代?」は100巻、101巻の2巻にまたがっての出版となります。上巻は昭和20年代から昭和36年頃まで、下巻はその後の昭和40年代初頭までをまとめる形となります。当然、上巻では「こだま」を中心に新性能電車モハ90(のちの101系)の誕生、東海型153系や初の特急気動車キハ80系など、下巻では0系新幹線の開発や581系寝台電車が驚きの画像の連続で登場します。

本書ではこれまで公開される機会のなかった国鉄副技師長が写した私鉄車輌の貴重な画像もふんだんにご紹介申し上げる予定です。オールカラーの記念出版だけに、定価も通常の倍となりますが、まさに必見の内容です。上巻の発売は今月下旬、どうかご期待ください。
■RM LIBRARY『国鉄車輌誕生 ?車輌開発の黄金時代?』
・各巻96ページ、オールカラー
・定価:2000円(税別)
・上巻:11月下旬発売、下巻:12月下旬発売

※明日より津南町の企画展「飯山線が織り成す歴史と文化」出席のため、お楽しみいただいている「編集長敬白」は2日間お休みとさせていただきます。あしからずご了承ください。

紅葉の会津只見を想う。

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▲C11 248〔会〕に牽かれた川口発若松行き428レが会津宮下に到着する。白一色に塗り込められる冬の訪れを前に、一瞬の輝きを見せる紅葉。こんなさりげない山里の風景には、コンプの排気だけを上げてゆっくりと走るC11がよく似合う。'71.11.3 早戸?会津宮下
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昨日付けの姉妹ブログ「お立ち台通信」でもさっそく試運転の様子がアップされていますが、この週末はC11+旧型客車による「SL会津只見紅葉号」が運転されます。

aidu101n4.jpg一昨年のこの時期にもふれましたが(「錦繍の只見川渓谷。」参照)、私にとって、1970年代前半の11月3日の文化の日は、会津・只見線に行くのが恒例行事となっていました。東北地方の紅葉の艶やかさは目を見張るものがありますが、とりわけ米坂線、陸羽東線、そして会津・只見線の見事さは筆舌に尽くし難いほどでした。ただ、温暖化の影響もあってか、最近はかつての燃えるような色彩はなかなか見られなくなってしまったようで、なんとも残念です。
▲11月3日は晴れの特異日。ささやかな給水・給炭設備を持つ宮下の構内では、青空の下で石炭のかき寄せ作業が続く。'71.11.3 会津宮下
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▲日中晴れ渡る日の只見川はえてして朝靄に包まれる。昔も今も沿線随一の撮影名所として親しまれている只見川第一橋梁をゆく424レ。'71.11.3 会津檜原?会津西方
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ところで、定番撮影地となっている只見川第一、第二、第三橋梁を擁する福島県三島町の斉藤茂樹町長はご自身が大のカメラファン。昨年行われた香美町の全国鉄橋サミットでご一緒させていただきましたが、町の観光パンフレットをはじめ、只見線の写真はすべて自らが撮影されたものだそうです。撮影ポイントの整備にも尽力されており、頭が下がる思いです。

aidu101n3.jpgさて、「SL会津只見紅葉号」ですが、運転は11月3日(土曜日)、4日(日曜日)の2日間。両日とも会津若松?只見間の1往復(会津若松9:10→只見12:38/13:38→会津若松16:45)で、小出方ではこの「SL会津只見紅葉号」に接続する「只見紅葉SLリレー号」が国鉄色(首都圏色=いわゆるタラコ色)気動車3連によって運転されるという粋な計らいもあります(詳しくはこちら)。もちろん磐越西線新潟?会津若松間では「門デフ」から標準デフに戻されたC57 180による「SLばんえつ物語号」も運転されますので、会津・只見地方から目が離せない週末となりそうです。
▲この当時はまだ会津若松にもD51の配置があり、磐越西線新津方の貨物仕業を細々とこなしていた。お馴染みの庫内で休むのはD51 1108〔会〕。'71.11.3
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JR東日本新潟支社ホームページ

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