鉄道ホビダス

2007年9月アーカイブ

夕張を語り継ぐ本。

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▲鹿ノ谷をゆくC11牽引の「SL夕張応援号」。運転当日は夕張市民あげての歓迎が行われたという。P:川合宏幸

ooyuubarinokioku101n.jpg9月には石勝線新夕張?夕張間に「SL夕張応援号」が運転され、31年ぶりに蒸気機関車の汽笛が鳴り響いた夕張市は、かつて国内有数の炭礦都市として栄え、市内には石炭運搬用の鉄道が各所に延びていました。そしてそこには数々の豊かな鉄道情景が展開されていました。財政破綻により、夕張市に関する各種の出版物の刊行があいついでいますが、そんななかで、その古き良き時代の夕張の光景を伝える出版物も数点刊行されています。

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▲大夕張鉄道の1962(昭和37)年頃の賑わい。右に写りこんでいるのは“大コン”9200形。P:三菱大夕張鉄道保存会提供

地形図や空中写真を扱う、日本地図センターが刊行する月刊誌『地図中心』(480円)では5月号 (通巻416号)で夕張を特集し、「炭鉱と鉄道の街・夕張」と題して新旧の地形図や写真を利用して夕張の鉄道の変遷が記されています。
河出書房新社からは『夕張 あの頃の炭都』(2.400円)として市内在住のアマチュアカメラマン・安藤文雄氏の写真を取り纏めた写真集が刊行され、炭礦町の生活感あふれる写真に加え、夕張鉄道や国鉄・夕張線の写真が収録されています。また、「ヤマと鉄道」としてかつての鉄道員によるオーラルヒストリーも綴られています。

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▲かつては夕張きっての保養地で桜の名所でもあった錦沢。夕張鉄道はここでスイッチバックする。折りしも上下のセキ列車とDCが錦沢駅に到着。P:三菱大夕張鉄道保存会提供
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一方、読売新聞北海道支社からは『写真集・大夕張の記憶?夕張岳の麓、湖底に沈むもう一つの夕張』(2.000円)が刊行されています。読売新聞の専売店主兼通信員としてながらく大夕張の姿を捉えてきた高橋勇治氏の写真を中心にしたもので、炭住街を行く三菱大夕張鉄道の石炭列車や、旧東京都営色の三菱バスなどの写真が収録されています。

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▲大夕張炭山駅構内は常に活気に満ちていた。セキの組成を終えて発車を待つ大夕張鉄道7号機。1969(昭和44)年頃の光景である。P:三菱大夕張鉄道保存会提供

『地図中心』『夕張 あの頃の炭都』は書店や出版社のサイトで入手可能ですが、『写真集・大夕張の記憶』については読売新聞北海道支社 夕張応援募金事務局(ダイヤルイン 011?242?5560)に直接お問い合わせ下さい。なお、『夕張 あの頃の炭都』、『写真集・大夕張の記憶』の売り上げの一部は夕張市や市民団体へ寄付されます。

高松琴平のデカ1。

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▲荷台に搭載した鶴首のようなジブクレーンがチャームポイントとなっているデカ1。稼動率は低いが今なお現役である。'07.7.22 仏生山
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この夏に高松琴平電鉄仏生山車両所を訪れた際、かねてよりじっくり観察してみたいと思っていた“現役”の電動貨車=デカ1を拝見することができました。

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▲ジブクレーンと逆側を見る。全長13,500㎜。エンド標記はおろか、何の標記もなくいったいどちらが前なのか後ろなのか? '07.7.22 仏生山
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takamatudeka4n.jpgもう20年近く前のRM本誌で「デト・モト探検隊」という企画があり、全国に残る電動無蓋貨車デトやモト、さらにはデワやモワといった電動有蓋貨車をご紹介しましたが、いまや電動貨車などという存在そのものが風前の灯火。しかも車籍のない動態保存や機械扱いならともかく、まがりなりにも車籍を有する“現役”となるとまさに稀有な存在です。
▲ひょっとしてアライアンスあたりでは…と期待した由緒ありそうな連結器。ナックルの顎がやたら長いのは、相手方の自連にあらゆる状況で合わせられるため。'07.7.22 仏生山車庫
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takamatudeka3n.jpg「蒲鉾板の上に電話ボックスを乗せたような」(『私鉄車輌めぐり』1966年)と評されたこの奇妙な形態のデカ1、その誕生は意外と新しく1957(昭和32)年2月とされています。メーカーものではなく、今橋車庫で“自作”したものだそうです。もちろん当初から貨物営業用ではなく、資材運搬や工場内入れ換え、救援、除雪などに用いる事業用車で、なんでも専用のスノープラウもあるようです。ほとんど降雪量のない四国・高松だけに、スノープラウを装着して出動する機会はまずないのでしょうが、その勇姿(?)はぜひ見てみたいものです。
▲きわめてプリミティブな主電動機釣掛け部。台車は加藤車輌製のボールドウィンタイプを改造したもの。ペックハムとされる初代から二転三転しているようだ。'07.7.22 仏生山
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▲こちらはもともと貨物営業を行っていなかった高松琴平電鉄に残る唯一の貨車。台枠には「昭和5年 川崎車輌」の銘板が残る。'07.7.22 仏生山
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ところでこの仏生山の構内外れでこれまた曰くありそうな無蓋貨車(13000形1310号)を見つけました。全長8mほどの一見変哲のない“トラ”ですが、考えてみると高松琴平電鉄が貨物営業をしていたことはなく、しかもゲージは標準軌です。なんとも存在そのものが不思議ですが、じっと見ていると、まるで幼き日に手にした16番の貨車のようながに股ぶりに、思わず笑みが漏れてしまいます。国鉄払い下げのトラを改軌したものだそうですが、見落としがちなこの貨車もささやかな収穫のひとつでした。

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▲東大宮操車場でプレス公開された京浜東北・根岸線用E233系1000番代1002F(浦和区102編成)。現在ハンドル訓練中で、この年末には営業運転入りする予定。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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8月末に東急車輛を出場した京浜東北・根岸線用のE233系1000番代については、速報としてその試運転の様子をご紹介しましたが、ようやく性能試験も一段落して昨日、東大宮操車場で正式な報道公開が行われました。

233om3n.jpg改めてご紹介すると、中央快速線用のE233系0番代との主な変更点は以下のようなものです。
〔機能〕
・保安装置はデジタルATC。
・ホーム検知装置の搭載(在来の京浜209系と同様)。
・6号車の床下に非常ハシゴを搭載。
〔外観〕
・側帯色および正面デザインの変更。
・運行番号表示器を前面ガラスの左下に設置。
〔車内〕
・VIS(情報提供装置)ディスプレイの大型化(15インチ→17インチワイド)。
・腰掛モケットは路線カラーである青色をベースとした明るい色調。
・1号車、10号車の荷棚、吊手の高さを50㎜下げた(優先席を含む車輌両端の3人掛部分も同様)。
▲運行番号表示器の位置変更(前面方向幕横から運転台助士側窓下)が目立つ1000番代正面。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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▲ダブルパンタグラフ搭載となって注目を浴びる5号車M3‐1000。片側のパンタグラフは畳まれている。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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▲ラインカラーである青色をベースにした明るい色調のモケットが特徴の客室内(左)と、運転台(右)。運転台は基本的に0番代と共通。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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233om6n.jpg現在、この1000番代は2編成が落成、乗務員習熟訓練が続いておりますが、この年末には京浜東北・根岸線の営業列車に充当される予定です。もちろん続々と量産車が投入され、最終的には10連83本、830輌が大宮?横浜?大船間を走ることとなり、その暁には既存の209系は0番代は全車廃車、500番代は他線区へ転配される運命となります。
▲6号車T3-1000の床下に備えられた非常ハシゴ。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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▲先頭裾部にはホーム検知用センサーが取り付けられている(左)。写真右は6号車の非常用ハシゴをセットした状態。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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233om9n.jpgところで、0番代の増備が続く中央快速線では、いまやE233系と201系の勢力分布がすっかり入れ代わって、201系を目にする機会の方が少なくなりましたが、E233系に乗車してみると、加減速性能の良さはもちろんのことながら、車内の静粛性も201系と比較するまでもなく、その完成度の高さに改めて時代の流れを痛感します。かくして首都圏のJR通勤電車は、ここ一年ほどで大きく様変わりしてゆくことになります。
▲車内ドア上のVISディスプレイは従来の15インチから17インチ(ワイド)に大型化されている。'07.9.27 東大宮 P:RM(新井 正)
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▲E233系1000番代形式図・主要諸元。(JR東日本提供)
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▲E233系1000番代車体断面。(JR東日本提供)
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▲北京郊外の二七工場の片隅に忘れさられたように放置されている「97式軽貨車」。写真を見る限り温かそうな陽だまりだが、実際は零下10℃を下回る外気温で、とてもじっくりと観察できるような状況ではなかったとのこと…。'05.1.15 P:服部朗宏

春には人吉機関庫で発見された「97式軽貨車」をご紹介しましたが、今度は少々旧聞ではありますが、中国・北京近郊の車輌工場内で97式を見かけたという情報がはいってきました。撮影されたのは、中国大陸で戦前に日本が持ち込んだ客車や気動車の調査を積極的に続けておられる服部朗宏さんらの一行です。

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▲97式最大の特徴でもある軌間可変車軸がよくわかる(左)。車輪のリゲージを行うカラーが内側にセットされている(人吉機関庫の例と比べるとわかりやすい)。右は当時の“貨車”としては画期的なベアリングを用いた軸受け。'05.1.15 P:服部朗宏
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場所は北京から西へクルマで一時間ほどに位置する通称「二七工場」。北京市内からほど近い車輌工場で、上游形蒸気機関車や自走式スチームクレーンなどが健在(現在はオリンピックを控えた大気汚染問題等で稼動はしていないらしい)で、一時はファンの間でもつとに知られた存在でした。

27kouzyou4n.jpg服部さんらもこの時ばかりは上游形の入換え作業を見学していたそうです。ところがその撮影の合間に工場建屋の方を見るとどこかで目にしたような物体が…。目をこらすと、もと鉄道聯隊の「97式軽貨車」に違いありません。幸いにも荷台がないため、リゲージ用カラーの様子も手にとるようにわかります。
▲梁に取り付けられていた謎の銘板。残念ながらほとんど読み取れない。'05.1.15 P:服部朗宏
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残念ながら期待された製造銘板は発見することができなかったものの、代わりに中文を含んだ銘板が見つかりました。服部さんに改めて判読を試みていただいたところ、1行目は「第0026號」、2行目は「鐵道部 長辛店鐵路工廠」、3行目は不明ながら日付らしきものだそうです。いかに中国とはいえ、まさか97式軽貨車までコピー生産することはないでしょうが、この小さな銘板、いまさらながらに気になります。

C57 180が「門デフ」に!

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▲小倉(鹿児島)工場改造のいわゆる「門デフ」を装備したC57は合計22輌(関 崇博さんの研究)とされる。写真は標準的なタイプを装備した早岐区の154号機。P:笹本健次
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1999(平成11)年に奇跡の復活を遂げてから8年目を迎えたJR東日本のC57 180号機が、来月なんと「門デフ」仕様に衣替えすることになりました。1947(昭和22)年の新製配置以来ずっと新潟地区で過ごしてきた同機が「門デフ」を装備したことはありませんでしたが、蒸機ファンにとっては今秋の大きなサプライズとなるに違いありません。

mondefu.jpg「門デフ」、別名「小工式デフ」と呼ばれる切り取りデフレクタは門司鉄道管理局の小倉工場で考案されたもので、管理局名から「門デフ」や「門鉄デフ」と通称されてきました。鉄道友の会専務理事でもある関 崇博さんの渾身の研究「門鉄デフ調査レポート」(『鉄道ファン』誌所収)によると、切り取りデフを装備したC57は総数24輌。そのうち22輌が小倉工場と鹿児島工場施工による「門デフ」だったそうです(ちなみに残り2輌は長野工場施工による「長工式デフ」を装備、そのうちの4号機は一時新津区に在籍)。ただし、180号機と同じ3次型で「門デフ」を装備していたのは鹿児島の175号機だけでした。
▲C57 180「門デフ」仕様のイメージ画像。(JR東日本新潟支社プレスリリースより)

nihonkai.jpg今回の「門デフ」は保存機などに付いていたものではなく、小倉工場作図の図面(ただしD51)をもとに新たに図面を起こして新製したものだそうで、装着後の麗姿が今から楽しみです。この「門デフ」仕様への変更、下記のリリース(PDF)をご覧いただければおわかりのように10月限定のイベントで、しかも20・21日には「SLえちご日本海号」として長岡?直江津・新井?長岡間での運転も予定されているとあってこれまた注目です。
▲10月20・21日の2日間は「SLえちご日本海号」として運転。写真は昨年の同区間運転の際のもの。'05.10.10 鯨波?青海川 P:後藤中也

C57 180「門デフ」仕様運転予定
■運転日:10月13日(土)、14(日)、20(土)、21(日)、27(土)、28(日)
※20、21は〈SLえちご日本海〉として運転 詳しくはこちら
■運転区間:新潟ー会津若松(除く20・21)
■運転時刻(SLばんえつ物語)
新潟9:43→新津10:03?14→津川11:13?29→野沢12:16?18→喜多方13:05?07→会津若松13:31
会津若松15:25→喜多方15:48?51→野沢16:25?35→津川17:19?34→新津18:35?38→新潟19:00

新潟支社プレスリリースはこちら(PDFファイル)
・関連リンク
JR東日本新潟支社ホームページ
JR東日本ホームページ

迫真のD51シミュレータ。

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▲鉄道博物館に設置されたD51シミュレータの機関士席に座って満足げな表情を浮かべるのは、拘りのプログラムを開発した音楽館の向谷 実さん。
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昨日の朝日新聞朝刊でも「実物車両の展示と並んで、同館の目玉となりそう」と大きく取り上げられた鉄道博物館の「D51シミュレータ」ですが、本誌今月号の鉄道博物館特集でもご紹介しているように、現在、館内のシミュレータホールで一般公開に向けての最終調整が続いています。

d51simulator1n.jpg音楽館のスタジオで「SL甲組の肖像」の椎橋俊之さんに体験していただいた様子は8月21日付けのこのブログでもご紹介しましたが、この時は機能的には9割方完成していたものの、いかんせんキャブの構体そのものがなく、いわば内臓だけといった状況で臨場感はいまひとつでした。それにひきくらべ、博物館館内でコンプリートされた状態はまさに「本物」。しかも噂に聞いていた動揺装置の精巧さには圧倒されるばかりです。線路状況にあわせて右カーブでは左に、左カーブでは右に強くかかるGや、分岐器通過時の1軸従輪独特の上下振動なども実物さながらに再現されており、リアルなサウンドとあいまって信じられないほどの迫力です。これで熱と匂いが加われば、実物さながらどころか実物そのものと言っても過言ではないでしょう。
▲助士席からの展望。ボイラーケーシングや煙突、デフレクタこそ見えないものの、その臨場感は恐ろしいくらい。
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▲“運転”する向谷さん。スチルではわからないが、かなりの動揺で撮影する側も掴まっていなければならないほど。ちなみに左に見えるモニターはプログラム操作用。
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▲機関士側、助士側のスクリーンはこのようになっている。狭いキャブ窓からの前方確認はこのシミュレータの難関のひとつで、難易度の高いプログラム設定では、右カーブでは実物さながらに助士役が信号確認をしなければならない。
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▲素晴らしく精巧な動揺装置が床下に仕込まれたキャブ(右)。動揺装置があるため左右に設けられた出入り台とキャブ本体は固定されてはおらず、いわば渡り板で結ばれた状態。
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▲そしてこれが樹脂製模擬石炭の回収システム。“助士”の投炭で火床にたまった模擬石炭は写真のワゴンでキャブ背面側へと運ばれ、そのまま小さなコールタワー(?)でコールバンカへと戻される。
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d51simulator5n.jpgところでこのD51シミュレータ、基本プログラムは釜石線花巻?遠野間を単機で43系旧型客車5輌を牽引する設定となっていますが、この設定での運転は“素人”にはほぼ不可能です。実際、最難関の宮守の発車(発車してすぐに25‰の上り勾配とR200の曲線)にいたっては、開発者の向谷 実さんでさえクリアできるまでにかなりの日数を要したほど手強いものです。もちろん自動ブレーキの扱いも教えられてすぐに出来るようなものではなく、10月14日からの公開では難易度別にプログラムが分かれるかたちとなります。
▲専用のリフトに持ち上げられ、ワゴンから戻される模擬石炭。一見アナログなこのシステムも必見。
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▲実物さながらの音と振動に包まれて、このシミュレータを体験できる日ももうすぐだ。ご期待あれ!

さて、このD51シミュレータの気になる体験方法ですが、一日の定員は最大32名。館内に設置された専用予約機で入館料とは別途に500円を支払って事前予約(入館の際に使用したSuicaもしくは入館ICカードに予約情報を登録して予約完了)することとなります。インストラクターがついて一人の“乗務時間”は15分。おそらく開館直後から鉄道博物館きっての“狭き門”になるに違いありません。

■これまでに「編集長敬白」でご紹介した鉄道博物館建設の歩み 
※それぞれクリックするとリンクします。
いよいよ「鉄道博物館」が起工。(2005年11月16日)
「オハ31」大宮に到着!(2006年7月31日)
松本電鉄ハニフ1が鉄道博物館へ。(2006年10月14日)
一年後の「鉄道の日」には…。(2006年10月24日)
再び脚光を浴びるC51 5。(2006年11月29日)
いよいよ全貌を現した「鉄道博物館」。(2006年12月18日)
「鉄道博物館」本線とつながる。(2007年2月17日)
C57 135、いよいよ大宮へ!(2007年3月10)
オープンまであと半年…「鉄道博物館」は今。(2007年4月16日)
「鉄道博物館に続々と車輌が集結。(2007年5月28日)
大宮で博物館展示車輌がそろい踏み。(2007年6月1日)
必見!「鉄道博物館」完成間近。(2007年6月25日)
注目!「鉄道博物館」速報。(2007年7月10日)
「鉄道博物館」ヒストリーゾーンの全貌。(上)(2007年8月13日)
「鉄道博物館」ヒストリーゾーンの全貌。(下)(2007年8月14日)
驚異のD51運転シミュレータ。(2007年8月21日)
速報 「鉄道博物館」地元小学生に公開。動画付き(2007年8月27日)

薄命の層雲峡森林鉄道。

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▲層雲峡発電所の下流2キロほどの地点に残る謎の石狩川橋梁。層雲峡森林鉄道の遺構とされるが、残念ながら確証は得られなかった。'07.9.17

昨日ご紹介した丸瀬布森林公園いこいの森に続いて、かねてより気になっていた層雲峡森林鉄道の跡をのぞいてきました。層雲峡森林鉄道は石北本線の上川駅を起点に、奇岩が続く景勝の温泉地として知られる層雲峡へと路線をのばしていた旭川営林局上川営林署の森林鉄道で、着工は戦中の1944(昭和19)年、延長は19,025kmに及びました。

souunkyou2n.jpgこの森林鉄道が不思議なのは戦後の1949(昭和24)年に全線が開通しながらも、なんとその翌々年1951(昭和26)年には撤去・自動車道化されてしまった点です。林政統一後の層雲峡国有林開発計画の一環としていちはやくトラック輸送に転換を図ったため…とされていますが、なんとももったいない話ではあります。ちなみに『旭川営林局史』(1960年)によれば、層雲峡森林鉄道の生産材輸送実績は昭和23年度72,000石、24年度62,000石、25年度38,000石、最終の26年度に47,000石と記録されています。
▲層雲峡キャンプ場横に続く軌道跡。写真右手が石狩川。'07.9.17

さらに興味深いのは、層雲峡森林鉄道廃止3年後の1954(昭和29)年、春の旋風と秋の台風15号によって層雲峡地区に空前の風倒木が発生し、この処理のために隣の北見営林局に応援を求め、留辺蘂からの温根湯森林鉄道が石北峠を超えてここ層雲峡まで延長された点でしょう。「大幅の計画の変更を余儀なくされた」(前掲『旭川営林局史』)とはいうものの、一旦は軌道を撤去した層雲峡地区に、今度は他局の軌道が敷設されるとはなんとも皮肉な展開です。

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さて、層雲峡森林鉄道そのものはこのように実質4年ほどの薄命に終わったため、残された資料はことのほか少なく、各縮尺の地形図にもついに記載されることがありませんでした。それだけに果たして遺構らしきものが発見できるものか案じられましたが、石狩川沿いの軌道跡は何箇所かそれらしき痕跡を残していました。
軌道の隧道ではないものの、層雲峡温泉街の地獄谷を潜る層雲峡隧道はトラック転換時に2年近くの工期をかけて掘削された延長417mのトンネルです。この層雲峡隧道、温泉中心街を避けるために開削されたもので、それまでの軌道時代は、観光地・地獄谷の絶壁に設けられた木橋上を散策する湯治客があとを絶たず、おまけにあたりには温泉の湯気が立ち込めており、運材列車の運行に支障をきたすこと甚だしかったと伝えられます。
▲キャンプ場に隣接した「自然観察舎」の奥へと続く軌道跡(左)を辿ってゆくと層雲峡隧道の下り方ポータルを発見。残念ながら崩落して半分埋まってしまっている。'07.9.17

さすがに半世紀以上も前に廃止された軌道とあって、何か手がかりはと伺ったビジターセンターでもこれといった収穫はありませんでした。ただ発電所の下流側に橋梁が残っているとのことで、さっそく確認に行きました。層雲峡森林鉄道本線には25箇所の橋梁があったとされ、そのひとつかも知れません。ただ、潅木に阻まれて近寄ることができないため詳細はわかりませんが、どうも軌道橋ではなくトラック道に転換した際の橋のようでもあります。

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▲そしてこちらが層雲峡消防署の構内裏手に残る上り方ポータル。署員の方に藪漕ぎをして案内していただいた。工費8604万円、セメント927tが使用されたというたいへん立派なもの。'07.9.17

昨年は北見方の温根湯森林鉄道跡を垣間見ましたが、今回は石北峠の逆側、層雲峡森林鉄道をのぞくことができました。わずかな期間ながら、「雨宮21号」の僚機18号も活躍していた薄命の層雲峡森林鉄道に思いを馳せた一日でした。

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▲いこいの森で走り始めてはや25年、雨宮21号は2004(平成16)年10月22日に北海道遺産にも指定され、今シーズンも快調にブラスト音を響かせている。'07.9.16
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かつては丸瀬布町民から「カンコー(官行)の汽車」と呼ばれて親しまれていたという丸瀬布森林鉄道(ムリイ森林鉄道)が廃止されたのが1962(昭和37)年。かろうじて解体を免れていた雨宮21号は、1976(昭和51)年に北見営林局から丸瀬布町に払い下げられ、札幌交通機械で動態に復されたのち、1982(昭和57)年からここ「森林公園いこいの森」で運転を開始しました。

maruseppu12n.jpgもともと石北本線丸瀬布駅を起点とする丸瀬布森林鉄道(ムリイ森林鉄道と上丸瀬布森林鉄道)には延べ10輌の蒸気機関車が在籍してきました。『日本における森林鉄道用蒸気機関車について』によれば、この21号機と同形の雨宮製11tCサイド(ウェル)タンク機が3輌、中山鉄工所製と本江機械製のCサイドタンク機がそれぞれ2輌、鉄道省釧路工機部製B1リアタンク機が3輌で、最後まで残ったのは21号を含めて6輌。いずれも帳簿上は1958(昭和33)年には廃車されています。
▲多客時は西武鉄道山口線から譲渡されたもと井笠鉄道の客車が使用されるが、それ以外は木曽からやってきた岩崎レール製のB型客車が使用される。ちなみにこの客車、上松運輸営林署に転じる前は温根湯森林鉄道で使用されていたものとのこと。'07.9.16
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maruseppu2n.jpgどのような経緯でこの21号機だけが解体を免れたのかは知れませんが、町に委譲されるまで18年間も良好な状態を保ってきたのは奇跡的としか言いようがありません。管理している丸瀬布総合支所(もとの丸瀬布町)のお話では、現在、ボイラーの状態もすこぶる良好で、「北海道遺産」の指定もあって、近年はメディアへの露出も増えてきているとのこと。産業遺産の保存・活用としてもまさにお手本のような例と言うことができるでしょう。なお、この雨宮21号に使用している石炭は、あの太平洋炭だそうです。わが国に残された最後の大規模炭礦=釧路コールマインが出炭し、太平洋石炭販売輸送が運んだ道内の石炭が、こうやって北海道遺産に使用されている循環も特筆されます。
▲昨日ご紹介した運輸工業製DLの横を行く雨宮21号。奥に見えるのが機関庫で、当初は本線列車がこの庫内を通過する運転経路となっていた。'07.9.16
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▲磨き抜かれて工芸品を思わせる雨宮21号の美しい姿。1928(昭和3)年製なので、来年で80歳を迎えることになる。'07.9.16
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ところで丸瀬布といえばもうひとつ思い出すのが、遥かドイツに里帰りしていった鉄道聯隊の“E”のことです。旧山口線の車輌たちとともに西武鉄道から譲渡されたもと鉄道聯隊のE103(コッペル)は、5年ほど前に生まれ故郷ドイツのフェルトバーン・ミュージアムに引き取られてゆきましたが、今ではボイラーはもとより、果たして再生できるのかと案じていたルッターメラー遊動輪装置も修復されてきています。詳しくはフランクフルト・フェルトバーン・ミュージアムのこちらのPDFをご覧いただくとして、かの地のサイトでも“Maruseppu”の名に接することができるのはなんとも嬉しい限りです。

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上の画像をクリックすると動画(約6分)の再生が始まります。
※音声付きですので、クリックする前に周囲の環境にご配慮ください。なお、Macでは再生できない場合があります。

さて、最後にこの雨宮21号の動画をお目にかけましょう。園内に敷設された路線は大まかに表現するなら8の字型で、運転距離は1.2キロほど。清流を渡る橋梁あり、原生林を思わせる森ありと素晴らしい車窓風景が展開します。今回は丸瀬布総合支所のご厚意でキャブからの添乗映像も撮影してまいりましたので、その素晴らしさがより一層おわかりいただけるのではないかと思います。今年の運転は10月21日まで。年内は無理でも、ぜひ一度「森林公園いこいの森」を訪ねられてはいかがでしょうか。

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▲温暖化とはいえ、9月中旬ともなると北の大地はさすがに秋の気配に包まれる。もと上松運輸営林署のB型14号客車を牽いて園内をゆっくりと走る「雨宮21号」。'07.9.16
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先週はひさしぶりに丸瀬布の「森林公園いこいの森」を訪ねてきました。丸瀬布町の…とつい書いてしまいそうですが、丸瀬布町は一昨年10月に遠軽町、生田原町、白滝村と合併し、現在では遠軽町となっており、日本鉄道保存協会の加盟団体名も丸瀬布町から遠軽町へと替わっています。

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▲予備機とはいえ常に稼動状態で待機しているもと鶴居村営軌道の運輸工業製6tディーゼル機関車。「雨宮21号」は常に脚光を浴びるが、こちらはとかく忘れられがち。'07.9.16
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maruseppu5n.jpg 東京の残暑が嘘のように、いこいの森には秋の気配が色濃く漂っていました。夏休み後の初の連休とあって園内も賑わっており、いこいの森の象徴とも言える「雨宮21号」も30分ヘッドの運転です。この雨宮21号、2004(平成16)年に「北海道遺産」に指定され、今や地域の宝から北海道の宝へとステップアップした感があります。ただ今回の主目的はその雨宮21号ではなく、運輸工業製のディーゼル機関車をつぶさに見せていただくことでした。鶴居村営軌道の生き残りであるこの6tDLは1959(昭和34)年の製造。現地で静態保存されている泰和製DLの兄貴分にあたる存在です。
▲そのキャブ内。C62 3も手がけた札幌交通機械の手によってフル・レストレーションされただけあって、調子はすこぶる良いという。'07.9.16
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▲釧路市内の新宮商工防腐工場で1989(平成元)年まで使用されていた本機は、道内のファンの熱意が丸瀬布町を動かして奇跡の復活を遂げた。'07.9.16
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鶴居村営軌道廃止後、釧路市の新宮商工防腐工場のストックヤードで入換えに使用されていたものを、丸瀬布町が徹底的に修復・整備して導入したのが1996(平成8)年春。現在では雨宮21号の検査時をはじめ、急な団体客到来時の「団臨」牽引用などに大活躍しているとのことです。

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▲西武鉄道から譲渡された同社山口線で活躍していた532号(左)は展示棟でその姿を目にすることができる。右は丸瀬布森林鉄道で使用されていた緩急車。'07.9.16
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maruseppu6n.jpg園内にはこれら動態保存車輌のほかにも数多くの静態保存車輌があり、つぶさに見ていると時間の経つのを忘れかねません。ことに西武鉄道山口線で活躍していた532号機は、その最後の夜、ユネスコ村駅で火を落とすまで見届けた機関車だけに、再会は感慨もひとしおでした。ちなみにこれらの静態保存車輌が展示されている構内外れの4線の車庫は、冬季間はシートですっぽりと覆われて雪解けの季節を待つのだそうです。
▲532号とともに西武鉄道からやってきたもと井笠鉄道の客車たちは多客時の主力として活躍している。'07.9.16
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▲展示棟にはこんな車輌も…。住友鴻之舞鉱山で使用されていた協三工業製坑内用3tディーゼル機関車(1954年7月製/製番号3098)。'07.9.16
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先週に続いての連休となったこの週末は、開園時間が19時まで延長されて雨宮21号牽引による「お月見列車」が走っているはずです。さて、明日は動画を交えて北海道遺産となった雨宮21号の元気な姿をお目にかけることにしましょう。

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▲2輌の客車を牽き、歯切れの良いブラスト音を響かせてクワイ河ならぬ大井川を渡る試運転列車。'07.9.20 青部?崎平 P:RM(新井 正)
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2003(平成15)年12月から休車となっていた大井川鐵道のC56 44号機が、日タイ修好120周年を記念してタイ国鉄仕様に復元されて復活するニュースは、去る3月1日付けの本ブログでもご紹介いたしましたが、ついに修復が完成、10月7日の営業運転開始を前に試運転が行われました。

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▲グリーンのボイラージャケットと赤く塗られたカウキャッチャーが異国情緒を醸し出す。C56 44の車体標記がどこにもない点に注目。なお、本来は限界の関係から200㎜切り詰められるべき煙突は、排気効率の関係もあってかオリジナルのままとなっている、'07.9.20 新金谷 P:RM(新井 正)
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C56 44は1936(昭和11)年3月に三菱重工業(神戸)で誕生、苗穂に配置されたものの、1941(昭和16)年秋戦時供出。メーターゲージに改軌のうえ、タイへと送られ、戦後はタイ国鉄735号として活躍してきました。1979(昭和54)年6月に“帰還”を果たして大井川鐵道入り、翌年から実に23年間にわたって動態保存機としての第二の仕事に取り組んできました。

c5644n103.jpgしかしボイラーの劣化が著しく、今回の復活にあたっては同社が保管中のC12 208号機のボイラーと載せかえるという大手術が施されました。復活にかかる費用は2600万円とアナウンスされており、沿線自治体の支援を受けつつ、去る3月27日にボイラー交換を完了、7月24日には塗装開始、そして9月4日にボイラー火入れを無事済ませて今回の本線試運転となったものです。ちなみにタイ国鉄仕様に拘ったのは、修好120周年とともに、再来年開港予定の富士山静岡空港への海外旅客誘致といった背景もあるようです。
▲C56ならではのスローピングバックテンダーも、まったく別モノのように目に映るから不思議。キャブ屋根が直線構成なのは車輌限界を回避するための供出時の改造。なお、テンダーの文字はタイ国鉄と書いてあるそうな…。'07.9.20 新金谷 P:RM(新井 正)
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さて、試運転に臨んだC56 44改め「735号機」はボイラーケーシングとスチームドーム、サンドドーム、それに元空気溜めがグリーンに塗られ、フロントビームにはカウキャッチャーと独特の手すりが設けられて、すっかり異国の機関車の風情となっています。

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▲大きな手すりとカウキャッチャーが印象的なフロントビーム(左)と、キャブ側窓下に描かれた「735」の車体標記。'07.9.20 新金谷 P:RM(新井 正)
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ちょうど手元に1941(昭和16)年に鉄道省が戦時供出用に作成した「C56及5‐10炭水車狭軌改造組立」図がありましたので、ご参照いただければと思います。実際の「狭軌改造」では車輌限界の関係から最大高が3700㎜に制限され、これに伴ってキャブ屋根、ドーム、煙突が大きく改造されているのが見てとれます。

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▲「昭和16年7月28日」の日付のある「C56及5-10炭水車狭軌改造組立」図。鉄道省工作局車輌課作成のもので、軌間変更による改造部分や車輌限界による改造部分などが参照総括図面、詳細図面索引を交えて細かく解説されている。
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この復活なったC56 44号機“タイ国鉄仕様”、来る10月7日(日曜日)10時から新金谷駅ホームでタイの人気女優を招いた出発式を挙行、1001列車「かわね路」号で営業運転入りする予定です。先日、19年間にわたって活躍してきたC11 312号機が火を落としてしまい、一時的ではあれ稼動状態にある蒸機が3輌となってしまった大井川鐵道にとって、今回のC56 44復活は大きな明るい話題にちがいありません。

碓氷峠は今…。

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▲あと十日であの日からちょうど十年。“ロクサン”のホイッスルノートが消えた「信越本線」は、ススキに覆われながらも驚くほどしっかりと昔日の面影を残している。'07.9.20
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真夏を思わせる暑い一日となった今日は、ひさしぶりにあの「碓氷峠」を訪ねました。ひさしぶりと言っても、この2月に日本鉄道保存協会の仕事で碓氷峠鉄道文化むらを訪れていますから、わずか半年しか経っていませんが、今回は旧線の碓氷第3橋梁や新線の廃線後の様子など、前回目にすることのできなかった箇所も見てまわることができました。

usui9202n.jpgあらためて申しあげるまでもなく、今月末で信越本線横川-軽井沢間11.2kmが廃止されてちょうど十年を迎えます。丸山や横川駅を埋め尽くした惜別の人並みがつい昨日のことのように思い起こされますが、今や大学生世代のファンの間では、碓氷峠を実体験できたかどうかがひとつのステータスシンボルになっているとさえ聞きます。考えてみれば十年という歳月は、それほどまでに大きく揺るぎないものとなってしまったわけです。
▲「めがね橋」こと旧線碓氷第3橋梁上から撮影名所だった新線橋梁をのぞむ。'07.9.20
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▲旧線碓氷第3橋梁から横川方の第5号隧道を見る。今日は真夏を思わせる気温だったが、トンネルの中はひんやりとした冷気に包まれていた。この隧道も遊歩道として通行可能。'07.9.20
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▲碓氷峠の象徴とも言える煉瓦造りの4連アーチ橋=碓氷第3橋梁は1892(明治25)年の築造。橋上は遊歩道「アプトの道」として整備されており、歩いて渡ることが可能。'07.9.20
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usui9205n.jpgこのブログでもご紹介したように、一時は横川-軽井沢間を「特定目的鉄道」として復活されようという動きもありましたが、諸々の事情から現在ではその計画も頓挫してしまっています。ただ、線路設備は架空線を含めてほぼ全線にわたって存置されており、可能性がまったく失われてしまったわけではありません。碓氷峠交流記念財団のお話ですと、先の集中豪雨で18号隧道(下り線軽井沢方の最後のトンネル)上り方出口付近の道床が一部流されてしまったものの、下り線側の除草や枝切りなどのメンテナンスは現在でもしっかりと続けられているとのことです。
▲丸山変電所の先に出来た峠の湯付近の上り本線。この付近の並行する下り本線はトロッコ列車「シェルパくん」の運転線として使用されている。'07.9.20
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▲横軽の主・ロクサンはまだ4輌が健在。今日は24号機が元気な姿を見せてくれ、短い区間だが、体験運転機として十年前と変わらぬホイッスルを碓氷の山々に響かせていた。'07.9.20
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碓氷峠鉄道文化むら自体はさすがに平日とあって閑散としていましたが、それでもこの夏休みは昨年以上の入場者数を記録して好成績を残したとのこと。そして何よりも驚いたのは、今や鉄道文化むら名物(?)ともなったEF63体験運転の賑わいぶりです。30分ひとコマの枠が平日にも関わらず終日満杯…お話によると、このところさらに人気が高まり、平日でも予約がとり難い状況になっているそうです。時折響くあの“ロクサン”のホイッスルと走行音は、十年の歳月を想う私たちのみならず、屋外に展示されている静態保存車輌たちにさえ活力を与えてくれているような気がします。

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▲1954(昭和29)年9月、まだ残暑に包まれた東急車輛構内で、まさに最初の“青ガエル”が生まれようとしている。写真左が5001、右が5002。'54.9.7 P:荻原二郎(RMライブラリー『東京急行電鉄5000形』より)
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今週発売のRMライブラリー第98巻は、戦後の東急を、いやわが国の新性能電車を語る上で欠くことのできない名車「5000形」をフィーチャーしたその名も『東京急行電鉄5000形』をお送りします。

RML98n.jpgその独特の姿から“青ガエル”の愛称で親しまれた東京急行電鉄5000形が東横線から姿を消して早いもので27年が経過しました。本書ではこの稀代の超軽量電車5000形について、生みの親ともいうべき東急横浜製作所、後の東急車輛の成り立ちまで遡り、5000形誕生までの経緯とそこに投入された数々の新技術、そして東横線での活躍までを、計画段階の資料を交えつつ、5000形を育て見守り続けた東急電鉄OBの宮田道一さん、東急車輛OBの守谷之男さんのお二人によって解説していただきました。
▲RMライブラリー『東京急行電鉄5000形』表紙。落成時のグリーンは“雨ガエル”色とでも評せる萌黄色であった。

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▲のちにDD12 5となる進駐軍の8593によって、京浜急行逗子線3線区間経由で国鉄逗子駅へと搬出される5000形。P:宮田道一 /右は宮田さん手書きのわかり易い車体構造図。(ともにRMライブラリー『東京急行電鉄5000形』より)
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ことに第四章として設けた資料編では、1953(昭和28)年秋に当時の東京急行電鉄車両部長が私鉄経営協会の標準電車に準拠しつつ、どこよりも軽い電車をとプロジェクトを立ち上げた際の部内資料をはじめとする数々の資料を収録しています。「軽量電車」と題されたこの最初の構想案は社用便箋に万年筆で手書きされたもの。日付は1953(昭和28)年11月11日。のちに伝説を作る5000形の、まさに胎動の記録です。
第一章:東急車輛製造株式会社 その生い立ち 守谷之男
1945(昭和20)年終戦の頃/横浜製作所の発足/東急横浜製作所の独立/東急車輛製造株式会社へ
第二章:超軽量電車5000形の開発と改良 守谷之男
概要/張殻構造の車体/内装・設備/連結装置/暖房装置/艤装の軽量化/台車/電気装置/空気ブレーキ装置/その他
第三章:5000系の活躍 宮田道一
誕生のいきさつ/5000形109輌までの道のり/東横の看板列車/電車技術の発達に役立った5000形の試み
第四章 資料編 解説:宮田道一
資料1・軽量電車/資料2・軽量電車新造仕様書/資料3・新製電車の計画について/戦後における電車の発達とその推移/5000形電車完成日一覧/昭和36年12月1日現在東横線車輌編成表

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▲1953(昭和28)年12月3日の日付のある東急車輛技術課による「新車体計画案」。車体断面やドア位置などがことごとく異なるのに注目。(RMライブラリー『東京急行電鉄5000形』より)
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もちろん1950?60年代、東横線での5000形全盛期の姿も数多くの写真で紹介。私鉄電車ファンのみならず、車輌史に興味を持つ多くの皆さんにぜひともご覧いただきたい一冊です。

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▲農村の風情を感じる第4種踏切はなんと日吉?綱島間。もっともスピードが出せるこの直線を5000形が疾走してゆく。'61 P:宮田道一
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■『国鉄時代』独立創刊記念フェア開催中
『国鉄時代』独立創刊記念フェアを下記書店で開催中です。期間中はバックナンバーも取り揃えておりますので、ぜひお立ち寄りください。
ジュンク堂書店 仙台店
八重洲ブックセンター 郡山うすい店
リブロ 池袋本店
書泉グランデ
ジュンク堂書店 新宿店
蔦屋 東大和店
栄松堂書店 相鉄ジョイナス店
星野書店 近鉄パッセ店
カルコス 各務原店
旭屋書店 本店
NET21 セルバ岡山店
喜久屋書店 倉敷店
ジュンク堂書店 大分店

kokutetujidai11.jpg従来、月刊『レイル・マガジン』の増刊号として発行してまいりました『国鉄時代』は、来週発売のvol.11より独立創刊の運びとなりました。今後は独立雑誌・季刊『国鉄時代』として、3月・6月・9月・12月のそれぞれ21日(休日の際はその前日)の発売となります。出版不況が言われて久しい昨今、増刊号から独立するには出版取次が認める相応以上の成績を収めることが不可欠で、これもひとえにご愛読いただいてきた皆様のご支援の賜物と改めてお礼申し上げます。

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▲牧 和也さんの「北の王者C62 ?重連急行「ニセコ」が挑む白き険しき道?」と成田冬紀さんの「「利尻」「大雪」蒸機牽引夜行急行、朝のドラマ」より。
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さて、その独立創刊初号となるvol.11(2007-11月号)の特集は「急行列車」。いまや「銀河」「きたぐに」「能登」「はまなす」「つやま」を残すのみとなってしまった急行列車ですが、『国鉄時代』ではもちろん全国の鉄路を縦横無尽に走っていた時代に遡ります。北はC62重連「ニセコ」、C55重連「利尻」、D51+9600の「大雪」から、EF57、ED71の「津軽」、中央本線D51重連「彩雲」、EF62「白山」、そして山陽本線広島の蒸機急行「宮島」「筑紫」、呉線C62「安芸」、九州のC60「玄海」、C57「日南3号」まで、懐かしい列車名とともに数々の名シーンが鮮やかに甦ります。

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▲松永 務さんには東北本線上野口の主・EF57と急行「津軽」への尽きぬ思いを綴っていただいた。
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また、「北の王者C62の16年」では、北海道に渡った7輌のC62の、「大雪」「まりも」「アカシヤ」重連急行3往復の最盛期を頂点にした改正ごとの動向を、星 良助さんに語っていただきました。さらに「黄金時代の急行列車」では、新幹線開業前の最後の大時刻改正となった昭和38年10月時点の全客車急行(電車も含む)の編成順序表を元に、百花繚乱と咲き乱れた急行列車を三宅俊彦さんの解説で振り返ります。

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▲岡田誠一さんの解説による「国鉄鋼製3軸食堂車の系譜 ?マシ・スシ・スロシが活躍した時代」は、食堂車を語る際に今後なくてはならない資料となるはず。
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さらに今号の白眉は「国鉄鋼製3軸食堂車の系譜」。急行列車を中心に活躍したマシ・スシ・スハシなど、97輌の改造・改番で複雑怪奇に絡み合った系譜の糸を解きほぐし、数々の謎を明るみにいたします。食堂車の外観写真他、インテリアや昭和27年頃の急行「あおば」のメニューなど、興味深い資料とともに読み応えのある内容となりました。

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▲鈴木 靖さんの「「日南3号」日向路の奇跡」より。蒸機終末期に出現した蒸機急行「日南3号」は、まさに南国の奇跡だった。
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特集外の記事も、元・横浜ベイスターズの屋鋪 要さんの「汽車と憧れ」はお父さんと野球少年の心温まるストーリー。盗塁王として知られた屋鋪さんが、親子で急行「ニセコ」を撮りに渡道した“あの日”を振り返ります。ちなみに屋鋪さんは日本テレビのスポーツキャスターを務め少年野球教室で全国を回るかたわら、保存蒸機の撮りつぶしを精力的に続けておられます。いずれその辺のお話も誌上でご紹介できると思います。

DVD001topn.jpg毎号ご好評を頂戴している特別付録DVDは、筑豊本線・長崎本線・豊肥本線・田川線などを巡る瀧藤岩雄さんの「北九州の蒸気機関車」、三品勝暉さん撮影の晩年のマンモス機の記録「東海道本線 EH10」、そして寿都鉄道・釧路臨港鉄道・雄別炭礦鉄道・天塩炭礦鉄道・明治鉱業昭和鉱業所の蒸機がオールカラー・同時録音で甦る宮内明朗さんの「北海道 私鉄・専用線の蒸気機関車」の3本立てです。

なお、今回もこのブログをご覧いただいている皆さんにサンプル動画をご用意いたしました。上のレーベル画像をクリックすると再生が始まります。深まりゆく秋、虫の音を肴に一献傾けながら、『国鉄時代』であの時代への旅にお出掛けください。
※音声付きですので、クリックする前に周囲の環境にご配慮ください。なお、Macでは再生できない場合があります。

毎日お楽しみいただいている「編集長敬白」は不在のため19日まで休載させていただきます。あしからずご了承ください。

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▲誌上のプレビューでは“平面”だった下田功一さんの作品は実は“立体”だった。20ピースに分割されたひとコマひとコマは時差をつけ、動きに応じてシャッタースピードも変えて撮影されている。

本誌誌上でもプレビューをご紹介した下田功一さんら6人のメンバーによる写真展「レールバラエティー」が、新宿のコニカミノルタプラザで開催中です。今日は午前中に時間をつくってこの会場をのぞいてきました。

07913ph2n.jpg「下田コーイチと懲りない面々」とやや自嘲ぎみに集ったのは下田さんはじめ、岩松喜一さん、小野ともひでさん、多田 誠さん、馬場典明さん、本村忠之さんの6名。1952(昭和27)年から1975(昭和50)年生まれと年齢幅も恐ろしく広ければ、その作風もまさに6者6様で、従来のグループ展の概念からすると、よくこれだけの“個性”が写真展という協同作業を達成したものだと、まずその面で驚かされます。
▲入口付近に展示されたこのキュービック状の不思議な作品は常に注目を集めている。

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▲「ギャラリーC」と呼ばれるコニカミノルタプラザの会場は面積こそそれほど広くはないものの、シックに落ち着いた空間でじっくりと作品を鑑賞できる。

07913ph3n.jpg特筆すべきはデジタル化の潮流のなかでの新たな挑戦がいくつか見られる点です。下田さんは20分割した画像をキュービック状の立体に貼り付けて、二次元の写真に三次元的要素を加味して展示。しかも同じ被写体を狙いながらもそれぞれの写真に時差をつけ、動きに応じてシャッタースピードを変化させ、隣接する写真同士を連動させながら、あえてお互いのズレでさらに四次元的な時間的広がりをもたせようとした意欲作です。
▲小野ともひでさんはボルガ(ロシア製6×6版カメラ)で撮影した作品を布地に熱転写した作品も公開。

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▲1000㎜×3000㎜と巨大なプリンター出力での作品展示は本村忠之さん。6×17サイズのロールフィルムでの流し撮りは印象的だ。

一方、本村さんは6×17㎝サイズのロールフィルムカメラを使って、1000㎜×3000㎜という巨大なプリントアウトでパノラマ写真を展示しています。本誌誌上では紙媒体ゆえの面積的制約でただのパノラマ写真にしか見えなかった(失礼…)作品群も、壁面一杯に広がった展示を見るにつけ、大きさによってこれほどまでに印象が変わってくるのか…と改めて気づかされます。

07913ph5n.jpgブルートレインをモチーフにした小野さんのフォトジェニックな一連の作品、「オシャレな鉄道写真」をテーマに実験的撮影に取り組まれた多田さん、ダージリン・ヒマラヤン鉄道に魅せられて丹念に撮り込んでおられる岩松さん、そして鹿島鉄道の最後をオーセンティックな組写真で表現された馬場さんと、会場はまさに鉄道写真の万華鏡、文字通り“レールバラエティー”の様相を呈しています。
▲タイムリーに鹿島鉄道の最後を追った作品は馬場典明さん。

会期は来週19日まで。今週末の連休にはメンバーの皆さんも会場におられるやにうかがっておりますので、鉄道写真を志す方、さらにはいつかは写真展をと夢見ておられる方は、この機会にぜひとも新宿に足を運んでみられることをおすすめします。

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“ロクイチ”台検出場。

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▲主電動機や大歯車などの分解整備が完了し、いよいよ車体との合体作業「車入れ」が行われる。アントに牽引された足回りがジャッキアップした車体下へと移動する。'07.9.4 田端運転所 P:RM(新井 正)
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新しいお召電車E655系の誕生でその去就が注目されている“ロクイチ”ことロイヤルエンジン=EF58 61号機ですが、先日、田端運転所で「台検」を完了し、とりあえず向こう一年半(検査周期の最短)は車籍が保障されることとなりました。

58610794n2.jpg台車検査=台検とは、全検=全般検査から一年半ごとに行う要部検査で、担当工場ではなく所属区所で行われます。今回も61号機の所属区所である田端運転所で8月23日から施工され、まず車体をリフティングジャッキで持ち上げて足回りを分解する作業から開始されました。続いて台枠から主電動機、動輪、大歯車などを抜き取り、入念な点検・整備が行われます。EF58のような旧型電機のこういったメンテナンスは、数値化できない技術の伝承によって護られている部分が多く、今回の台検もベテラン8人の手によって行われたそうです。
▲組み上がった足回りは旧型電機ならではの造形美に満ちている。'07.9.4 田端運転所 P:RM(新井 正)
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▲合体前の足回りと上回りを俯瞰する。この位置からでもロイヤルエンジンならではの磨き出し部や装飾が、この機関車がただモノでないことを如実に物語っている。'07.9.4 田端運転所 P:RM(新井 正)
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9月4日午後から行われた「車入れ」は台検のクライマックスで、今回はJR東日本のご協力を得て新井副編集長が取材に伺ってきました。工場での全検時のような天井クレーンに吊られて車体が移動するダイナミックなシーンはないものの、全長19.9mのメカニカルな足回りと独特の“深紅色”(国鉄時代は“溜色”)の車体が組み合わされる様はまさに圧巻です。

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▲足回りが所定位置に据え付けられ、いよいよ車体が下ろされる。1953(昭和28)年7月9日に日立製作所水戸工場製番191160‐2として生を受けた我らが“ロクイチ”は、この台検終了で55年目の年越しが確実となった。'07.9.4 田端運転所 P:RM(新井 正)
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無事に台検を終了した61号機は9月6日に田端(操)?久喜間で単機による試運転を実施、その後、磨き出された足回りにグリースの塗布、続いてワックスがけがなされて“復帰”を果たしました。ただ、台検が完了したとはいえ不安材料がすべて払拭されたわけではありません。まずは首都圏で急速に進行するデジタル無線への対応がまだなのが気になります。営業運転への充当も3ヶ月も前、6月17日に運転された法政大学のミステリー列車を最後に途絶えています。まさに戦後を、昭和を駆け抜けてきた名機中の名機だけに、これからもその動向からは目が離せません。

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▲大山積神社境内にある別子銅山記念館には別子鉱山鉄道や坑内で使用されていたさまざまな車輌が保存展示されている。記念館自体は画面左奥にある。'07.7.21
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海岸から国領川沿いに広がる新居浜市の平野が別子の山に突き当たるあたりに、かつての補助機関車基地でもある山根停車場跡があります。この山根駅から国領川を挟んだ対岸の山腹に大山積神社があり、その境内の別子銅山記念館に別子鉱山鉄道ゆかりの車輌たちが保存されています。

besshiph24n.jpgなかでも最大の見所は1892(明治25)年クラウス製の11tBタンク機です。1963(昭和38)年に準鉄道記念物(国鉄四国総局/愛媛指定第1号)にも指定されているこの機関車、創業時の上部軌道で使用され、のちに下部軌道(端出場本線)に転じて1956(昭和31)年の非電化部のDL化まで残っていたものです。一部は別子仕様にモディファイされてしまっているものの、各所にクラウスならではの造作を色濃く残しており、モデラーにとっても食指の動くアイテムではないでしょうか。
▲準鉄道記念物に指定されている別子銅山1号機関車。1975(昭和50)年までは新居浜工業高校に保存されていた。現在でも保存状態は良いが、かなり狭隘なフェンスに囲われてしまっており、写真の撮影はなかなか難しい。'07.7.21
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▲クラウス独特のシリンダー・弁室形状(左)や足回りもつぶさに見ることができる。右はキャブ側面に残る1892(明治25)年クラウス製(製番2682)の銘板。'07.7.21
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besshiph22n.jpgもうひとつ、1971(昭和46)年まで下部軌道の主力として活躍してきた電気機関車ED104も注目です。1950(昭和25)年の電化時に用意された日立製20tBB電機3輌をデッドコピーして1954(昭和29)年に自社で製作したものだそうで、側梁には別子事業所製を示す珍しい製造銘板を見ることができます。手元の車輌竣功図表によれば最大寸法は9150×2002×3450㎜、直流600V電動機48kW×4、電磁空気単位スイッチ式非自動総括制御(日立製のもの)と記録されています。
▲下部軌道(端出場本線)で最後まで活躍していた電気機関車ED104。手前の鉱車はゲージが異なる坑内用のもの。'07.7.21
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▲20tBB凸型機は4輌が在籍していたが、このED104はそれまでの日立製を模して自社工場で新製したホームメード機。側梁には自社製を示す銘板が誇らしげに貼られている。'07.7.21

1953(昭和28)年に惣開支線(1964年以降は星越構外側線に変更)も電化され、本線系統の列車はすべて電気機関車の牽引によることとなります。この前年、1952(昭和27)年には旅客営業が廃止されますが、以降も職員輸送用の客車列車は残されており、こちらの牽引もこれら4輌の電機によって行われていました。

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▲坑内用の6t電気機関車26号(左)とまるで籠のような外観から「かご電車」と通称された坑内用人車。ともに本線とは異なる軌間1フィート8インチ(508㎜)の車輌たちである。'07.7.21
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この別子銅山記念館にはこのほかにも坑内軌道で使用されていたトロリー式電気機関車や鉱車、1972(昭和47)年の閉山まで東平口坑ー日浦坑口間4km区間の人員輸送に用いられた人車なども保存されています。
限られた時間のなかで、ほんとうに“垣間見た”に過ぎない訪問でしたが、軌道跡、マイントピア、そしてこの銅山記念館と、現役時代を見ることかなわなかった別子鉱山鉄道を多少なりとも体感できた気がします。

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▲本線の終点・端出場のひとつ手前の黒石停車場跡にはコンクリートのホームが残る。最盛期、この黒石駅には2本の索道も引き込まれていたという。'07.7.21

現在、本線終点の端出場は数多くの遺構とともに「マイントピア別子」という体験型鉱山観光施設となっており、新居浜地区の観光の大きな目玉でもあります。延床面積5000㎡もの本館は明治調を再現したという赤煉瓦作り・銅板屋根葺きの立派な建物で、4階には「ヘルシーランド別子」という大規模温泉施設も設けられています。

niihamamap.jpgこの別子鉱山鉄道跡の訪問に際して実にありがたかったのが、地元の新居浜市商工観光課が無料で頒布している「産業遺産を歩こうマップ」です。「産業遺産の町・新居浜」を標榜するだけあって、別子鉱山関連に限らず地元の産業遺産の保存・顕彰に行政が積極的に取り組んでいるのを実感するこのマップ、国土地理院の2万5千分の1地形図をベースに、実にこまやかに別子鉱山鉄道沿線の産業遺産が写真入りで紹介されています。しかも裏面には明治期に別子鉱業所が森林計画作成のために測量した6千分の1地図(広瀬歴史記念館所蔵)が印刷(縮小)されており、国鉄線さえなかった時代の別子鉱山鉄道の様子を伺い知ることもできます。

→これが新居浜市商工観光課が無料頒布している「産業遺産を歩こうマップ」。横257㎜×縦728㎜(経折)の立派なもので、上部軌道の遺構までがこまかく写真入りで紹介されている。
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▲端出場水力発電所(左)は明治45年の煉瓦建築。右は同じく端出場の第四通洞坑手前に架かるかつての軌道橋=四通橋梁。'07.7.21
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このマップには、明治末年にはその使命を終えた上部軌道の軌道跡の橋脚なども掲載されており、そのほかにもインクライン跡やら索道盤台など、一見では発見しにくい地元ならではの遺構も数多く紹介されています。

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▲「マイントピア別子」にはクラウス製1号機を模した遊覧列車が走っている。「列車」は中尾隧道を抜け芦谷川橋梁を渡って観光坑道入口までの400mほどを結んでいる。'07.7.21
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ところで「マイントピア別子」では準鉄道記念物に指定されているクラウス製1号機関車を82%に縮小した観光列車が運転されています。本館2階の専用ホームから出た列車は、もとの端出場構外側線上を、サードレールから給電を受けつつ時速10km/hほどでゆっくりと観光坑道入口を目指します。途中の芦谷川橋梁も開業時のドイツ製ピントラス橋で必見です。

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▲昭和41年当時の別子鉱業所専用鉄道列車運行図表。標準勾配33.3‰と記載されている山根?端出場間はほぼ全列車に補機が付いていたことがわかる。
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今回の訪問のように限られた時間のなかで不案内な土地を歩くには、このマップのような地元作成の案内図が絶大な力となります。しかも現行地形図をベースとした実に見易いものだけに、ありがたい限りでした。産業遺産・近代化遺産を次世代の観光の目玉にしようという動きが全国に広がるなかで、少なからず注目に値する新居浜市の取り組みです。

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▲山根?黒石間に残る物言嶽隧道(24.99m)は煉瓦積みの立派なもので、日本3大銅山の栄華が偲ばれる。'07.7.21
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世代的には充分に間に合ったのについに行かず仕舞になってしまったのが愛媛県・新居浜の別子鉱山鉄道です。専用鉄道としての正式な廃止は1977(昭和52)年ですから、いまさら振り返ってもなんで訪ねておかなかったのか悔やまれてなりません。

besshiph06n.jpg先日四国を訪れた際、慌ただしい日程のなかでほんのわずかな時間ですが、この別子鉱山鉄道の跡を訪ねてきました。別子銅山は日本3大鉱山のひとつで、その歴史は1691(元禄4)年にまで遡ると伝えられています。海抜1300mの高所にある鉱床から掘り出された粗鉱を製錬施設へと輸送するために最初に2フィート6インチの軌道が敷設されたのは1893(明治26)年。四国島内では伊予鉄道開業の5年後(1888年)で、住友がこの鉱山開発に賭けた意気込みが感じられます。
▲同じく物言嶽隧道の山根方のポータル。現在この区間は鉱水処理パイプ(画面右端)のルートとして使われている。'07.7.21
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▲物言嶽隧道付近の軌道跡から終点・端出場方面をのぞむ。左下に見えるのが国領川と県道で、軌道はかなりの高さの斜面をへばりつくように走っていたことがわかる。'07.7.21
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この鉄道のロケーションはなかなか複雑で、まず第一通洞坑のあった標高1200m地点の角石原から石ヶ山丈間5.5kmを結ぶ「上部軌道」と、第四通洞坑や大斜坑があった端出場(はでば)と製錬所のあった新居浜港を結ぶ、端出場本線10.3kmに大別されます。一般的に別子鉱山鉄道と言えば後者をさし、1929(昭和4)年から1954(昭和29)年までは「地方鉄道」として正規に営業も行っていました。

besshiph08n.jpgこの端出場本線は星越と惣開(そうびらき)を結ぶ星越構外側線、端出場?打除間の端出場構外側線などの支線を擁し、国鉄新居浜駅との連絡線と合わせてネットワークを形成していました。ちなみに地方鉄道時代の正式名称も住友別子鉱山→住友鉱業→井華鉱業→別子鉱業とめまぐるしく移り変わっており、その後専用鉄道となってからは住友金属鉱山㈱別子鉱業所専用鉄道を名乗っています。つまり「別子鉱山鉄道」はあくまで便宜的な通称というわけです。
▲黒石駅跡付近で見かけた貯鉱槽か何かの遺構。軌道横にコンクリート製の構造物が並ぶ。'07.7.21
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▲「昭和38年4月20日」の記入がある住友金属鉱山㈱別子鉱業所専用鉄道の線路一覧略図。すでに地方鉄道としての役割を終えてからの図だが、専用鉄道となってからも従業員輸送を行っていたため旅客ホームの位置関係が記されている。
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さて、現在でも上部軌道には数々の遺構が残されていると聞きますが、さすがに丸一日がかりの登山を覚悟せねばならず、今回は端出場本線のしかも山側数キロを垣間見るに留まりました。それでも実に効率的に隧道やホーム跡など数多くの遺構を見ることができましたが、これには地元・新居浜市の産業遺産への取り組みが大きなバックアップとなりました。

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▲小杉谷付近の“本線”に相当する線路も各所でダメージを受けてしまっている。この付近の軌道は縄文杉への登山ルートでもある。'07.8.8 P:高塚慎司
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今週は台風9号が東日本・北日本を縦断し各地で被害をもたらしましたが、二ヶ月ほど前、7月に九州地方を襲った台風4号によって屋久島の森林鉄道が大打撃を受けてしまっているそうです。

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▲かつて屋久島には島内各所からいくつもの森林鉄道が存在し、屋久杉の原始林を目指していた。もちろん現在残されているのは安房森林鉄道だけ。本図でY字状となっている分岐点が小杉谷、南側の分岐線が石塚線。

ishidukasen3n.jpgこれまでにもこのブログでもご紹介し、また『模「景」を歩く』『鉄道写真2001』でも詳しく解説しておりますが、屋久島の安房(あんぼう)森林鉄道は、最後に残った“現役”の森林鉄道として知られ、近年ではその姿見たさに遥か屋久島を目指すファンも少なくありません。現在、港のある安房(苗畑)から10.7km上流の荒川までが屋久島電工の管理区間、荒川から7kmほどが屋久島森林管理署の管轄で、前者(全区間が立ち入り禁止)は発電設備の巡視等、後者(登山道として供用)は「土埋木」と呼ばれるかつての伐採跡の切り株の運搬や、登山道途中のトイレの屎尿タンク輸送に使用されています。
▲大きく傾いてしまった電柱。ただ、この付近の線路はそれほど罹災していないようにも見える。'07.8.8 P:高塚慎司
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▲そしてこちらが石塚線の崩落現場。軌道敷の路盤もろとも崩れ去ってしまっている。'07.8.8 P:高塚慎司
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ishidukasen5n.jpgこの安房森林鉄道最大の見所は、土埋木を載せた運材車を「乗り下げ」という伝統の方法で荒川まで下ろすシーンにあります。巨木を載せた運材車の上に跨り、ロープでブレーキを扱いながら重力で勾配を下るこの曲芸のような運転方法は、戦前は全国各地の森林鉄道で目にすることのできた手法ですが、現在でもまだ伝承されているのは奇跡的とさえ言えましょう。ただ、最近では石塚線と呼ばれる作業線沿線の土埋木そのものが枯渇してきてしまっており、一部では軌道を使った運搬自体が遠からず終わるのではないか…との観測も飛び交っていました。そんな状況の中での今回の台風被害です。
▲荒川登山口までの林道も一部が崩落してしまい通行止めとなっている。'07.8.8 P:高塚慎司
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▲一方、車体の傷みが進んでいた機関車(酒井工作所製C17形4.8t機)は本年4月から修理が開始され、車輪の肉盛修正、キャブまわりの鉄板張替え、再塗装が行われて見違えるように綺麗になって本線復帰した。その直後に今度は線路そのものが罹災してしまうとは…。写真は保線作業から荒川に戻ってきた姿。'07.8.9 P:高塚慎司
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情報をお寄せいただいた鹿児島の高塚慎司さんによれば、台風4号によって石塚線が分岐する小杉谷から300mほど石塚方に行ったところの軌道が路盤ごと流されてしまったのだそうです。写真を見てもとても軌道があったとは思えない状況で、土埋木搬出を請け負っている(有)愛林の高田社長によれば、復旧には崩壊地の治山工事から始めねばならず、かなりの時間を要するとのこと。しかも世界遺産の指定地域だけに、手続き面での障壁も予想されます。当面、石塚線沿線の土埋木はヘリコプターによって屋久杉ランド側に搬出することになるそうですが、果たして石塚線は復旧されるのか、そして最後の現役森林鉄道が再び動くシーンが見られるのか、心配でなりません。

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以前から気になっていたのが西日本鉄道のポケット時刻表、いや、より正確に表現するなら「ポケットダイヤグラム」です。かれこれ30年ほど前に福岡を訪れた際、駅で時刻表をもらおうとすると、なんと小型のダイヤグラムを渡されて面食らったことがあり、それ以来この西鉄ならではの不思議な「時刻表」が気になって仕方ありませんでした。
▲これが西鉄天神大牟田線「電車時刻表」。時刻表とはいうものの、開いてみれば丸ごとのダイヤグラム。(武田忠雄さん提供)
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果たして今でもこのポケットダイヤ(?)は頒布されているのかと調べてみると、ありました。縦144㎜×巾77㎜に折畳まれた「列車運行図表」は表面が平日、裏面が土・休日用で、もちろん閉塞方式やら分割・解放やらもきちんと表記された「実物」の縮小版です。表紙を開いたところには「ダイヤグラムの見方」なる解説もついており、一般のお客さんが“使う”ことを前提としているのは明らかです。

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▲上が表面の平日用、下が裏面の土・休日用。ご覧のように最初に「ダイヤグラムの見方」が懇切丁寧に解説されている。それにしてもかなりの“縮小率”で、ご老人はもとより、私の世代でも見ていると目がチカチカしてきてしまう。
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改めて西日本鉄道広報室にうかがったところ、いつからこのような「時刻表」を頒布するようになったのかは定かではないものの、現在でも改正毎に新規に制作して主要駅に常備しているそうです。もちろん数表式の普通のポケット時刻表が主で、こちらは窓口で「ダイヤ式のやつ」と言わないと出てこないようですが、それにしても摩訶不思議な“慣習”ではあります。ひょっとすると西鉄沿線では女子高生やおばあさんまで列車ダイヤが読みこなせるのかもしれません。

IMGP3030.9.7.jpg日本の時刻表研究の第一人者で『列車名変遷大事典』の著者でもある三宅俊彦さんにお聞きしたところ、このようなダイヤグラムを一般に頒布する例は歴史的にもほとんどないそうですが、例外的に広島・岡山地区では戦前からダイヤ式時刻表なるものが市販されていたそうです。なんでも商標登録は1936(昭和11)年だそうですから今から70年以上も前。発行所は広島市の「鉄道ダイヤ社」で、新幹線岡山開業の1972(昭和47)年頃まで販売されていたとのこと。「単に原図の縮小ではなく新たに描き直したもので、主要駅の発着時刻は数字で挿入されているたいへん手間のかかったものでした。しかも大きさは新書版の半分くらい。ポケットサイズということで決まった大きさなのでしょうが、小さ過ぎて市販流通はたいへんだったと思います」と三宅さん。
▲余談ながらこれは私が二十年来愛用しているポケットダイヤ。自宅から都心への私鉄ダイヤの必要部分だけを縮小コピーした手製で、優等列車の退避やら接続やらが一目瞭然で今や手放せない必需品。改正毎に作り直し、いつも通勤バッグの中に入っている。

西鉄のこのポケットダイヤ、かつては宮地岳線など支線用もあったそうで、他地域のファンにとってはなんとも羨ましい限りです。それにしても、中国・九州地方には一般人もダイヤグラムを読める歴史(?)があったのかも知れません。

火を落すC11 312。

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ちょっと残念なニュースが舞い込んできました。大井川鐵道で19年間にわたって活躍を続けてきたC11 312号機が老朽化のため、今週末で火を落すことになったのです。
▲会津宮下の構内外れから線路は一気に22‰の上り勾配となる。1491レを牽いて只見を目指す国鉄時代のC11 312〔会〕。'74.8.10 会津宮下?早戸 P:名取紀之
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C11 312は1946(昭和21)年1月14日に日本車輌で誕生(製番1394)、ただちに仙台鉄道管理局に配置されました。終戦5ヶ月後の誕生だけに、その製造過程での労苦は察するに余りあるものだったに違いありません。仙台機関区で活躍後、昭和30年代初頭に会津若松に転じ、以後1975(昭和50)年1月24日付で廃車決裁されるまで20年近くにわたって会津(只見)線、日中線、磐越西線等で働いてきました。国鉄時代をご存知の方のなかには、私のように只見線でこの312号機を写された経験をお持ちの方も少なくないはずです。

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▲修復なったB6=2109をエスコートして千頭へと向かうC11 312。車籍復活後5年目の夏のひとコマ。'93.8.28 P:RM
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廃車後は三重県松坂市八太町のドライブイン「あら竹」で保存展示されていましたが、1988(昭和63)年2月19日に大井川鐵道入り、7月23日から営業運転を開始しました。大井川鐵道によれば19年間の走行距離は228,000キロ、実に地球5.7周分も走ったことになります。

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さよなら運転は今週末9月8日(土曜日)。10時から新金谷駅ホームで出発式を行い、金谷10:02発の1001レ、折り返し千頭14:16発の1002レ(ともに記念ヘッドマーク付き)の1往復が最後の運転となります(詳細はこちら)。火を落した後は、静態保存となり(場所未定)、使用できる部品は227号機のものと交換される予定だそうです。
▲190号機の復活で3輌のC11が揃った大井川鐵道だが、今回の312号機の離脱で再びC11は2輌となってしまう。'93.8.28  家山  P:RM
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なお、先般このブログでもご紹介したC56 44号機の復活ですが、こちらは順調に進んでおり、10月7日(日曜日)には営業運転を開始します。去るものもあれば来るものも…悲喜こもごもの川根路の秋です。

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▲「汽車フェスタ」の前夜祭ともいえる南大夕張駅跡での夜景披露。今年は『思い出色のバス』=三菱鉱業バス保存会の1967年式ふそうMAR470型(美唄鉄道バス)も参加。'07.8.25 P:三菱大夕張鉄道保存会提供
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すでにRMインフォメーションでもご存知のことと思いますが、この週末にはいよいよ石勝線新夕張?夕張間で「SL夕張応援号」が運転されます。私たちの世代にとって“夕張”が石勝線とはいまだにピンときませんが、夕張から蒸気機関車の煙が消えてもう32年も経つのですから、むしろ“今浦島”なのはやむをえないのかもしれません。

shikanotani101n.jpgさて、これに先立つ8月26日の日曜日、南大夕張駅跡ですっかり恒例の三菱大夕張鉄道保存会が中心となった「汽車フェスタ2007」が開催されました。8月とはいえ夕張はもうすっかり秋の気配。トンボが飛び交う会場では、客車前のテントでグッズ頒布のほか、ナハフ1補修サボ募金の受付、豚汁・焼き鳥のサービス、さらには昨年に引き続き三菱鉱業バス保存会の思い出色のバスも登場し、ラッセルの汽笛の吹鳴やウィングの開閉に多くの人々がカメラを構えていたそうです。
▲石勝線鹿ノ谷駅に到着する夕張行き。かつて夕張鉄道の拠点でもあった構内は夏草に覆われている。 P:三菱大夕張鉄道保存会提供
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補修サボ募金用に誂えられたサボもさっそくスハニ6に取り付けられた(左)。右は見学者で賑わう客車内。'07.8.26  P:三菱大夕張鉄道保存会提供

また、前日の夕刻からは、客車の車内灯やラッセルの前照灯の点灯が行われ、そこに三菱鉱業バスも登場、普段は無人の廃線の駅も一気に華やいだ表情を見せていました(昨年の様子はこちら)。

c1101photo.jpgところで、夕張といえばD51や9600を思い浮かべますが、C11も入換え・小運転用に三菱大夕張鉄道に在籍し、夕張市民にも馴染みのある機関車だったのをご存知でしょうか(詳しくはRMライブラリー『三菱鉱業大夕張鉄道』参照)。そんなC11が夕張線、もとい、石勝線に戻ってくるとあって、かつてこのブログでもご紹介した「CGのSLで甦る炭轍と故郷夕張」の作家・熊谷邦行さんがさっそく鹿ノ谷を力走するC11 207の姿を描かれました。夕張ゆかりの皆さんがこの「SL夕張応援号」に託す思いがひしひしと伝わってくる気がします。
▲大夕張炭山の構内入換えに活躍したC1101。戦時型のドームに複式コンプレッサー、さらには米国式の大型前照灯と個性豊かな機関車だった。1965年頃  P:三菱大夕張鉄道保存会提供
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なお、三菱大夕張鉄道保存会でも歓迎行事での映像上映やグッズ頒布で全面協力されるそうです。この週末夕張を訪れた際には、夕張鉄道や三菱大夕張鉄道の車輌を保存している石炭の歴史村や南大夕張駅跡にも是非、足を運んでみて下さい。

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▲夕張への愛情溢れるCGを描き続けている熊谷さんがひと足早く鹿ノ谷を行く「SL夕張応援号」を完成。今週末にはこの光景が現実のものとなって見られるはず。

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▲影森で1000系一般色車(奥)と顔を合わせるオレンジバーミリオンの1011F。塗りたての鮮やかな塗色がひときわ目に眩しい。'07.9.1 影森 P:武田忠雄

国鉄新性能電車の始祖である101系が主力として活躍している秩父鉄道ですが、先週末からなんと1編成が懐かしのオレンジバーミリオンに塗り替えられて運転を開始しました。

chichibu1000n101.4.jpg10月14日に同じ埼玉県内にオープンする「鉄道博物館」開館にあわせて、昭和の国電をイメージした懐かしいカラーを再現しようという試みで、塗り替えられたのは1011F(Mc1011+M1111+Tc1211→もと津田沼区Mc100-175、M101-237、Tc101-81)の3輌編成。運転初日となった9月1日(土曜日)は熊谷?影森間を“臨時急行”として1往復し、写真をお送りいただいた武田忠雄さんによると、乗車に撮影にと、沿線はたいそうな賑わいだったそうです。
▲下り方のMc1000形はパンタグラフを2基搭載。いわゆる“前パン”の凛々しい姿だ。'07.9.1 影森 P:武田忠雄
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▲影森駅の電留線で休む1011F。こうしてみるとかつての青梅線のひとコマのようにも思えてくる。'07.9.1 影森 P:武田忠雄

さらに注目なのは今後の展開です。10月11日以降には第二弾として“スカイブルー”(京浜東北・根岸)、11月21日以降には第三弾“カナリヤイエロー”(中央総武緩行)が相次いで登場、11月末には懐かしの国電カラー3色が秩父路に顔を揃えることになります。

chichibu1000n101.3.jpg折りしも姉妹誌『RM MODELS』最新号は、今年生誕50年を迎えた「モハ90」(1959年の形式称号改正で101)の大特集、まさにオレンジバーミリオンの101系が、実写の未公開写真をふんだんに交えて満載です。今や私鉄界随一の本数を誇る貨物列車、そしてC58 363の“パレオエクスプレス”と、この秋の秩父鉄道はまさに注目の的です。
▲青いデキとの邂逅。これまた青梅線内でのED16の牽く鉱石列車との交換を思い起こさせる。'07.9.1 長瀞 P:武田忠雄
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なお、このオレンジバーミリオンの1011F、平日は普通列車として運用されていますが、9月8日(土曜日)から10月8日(月曜日・祝日)までの土曜・休日は充当列車が公開(運転時刻はこちら)されているのも嬉しい限りです。秩父鉄道線の現行列車ダイヤはRM本誌9月号(No.288)に掲載しておりますので、あわせてご活用ください。

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▲酒井工作所製のメーカー形式C‐16形3.5t機は今もってガソリンエンジンを搭載する「ガソリン機関車」だ。1998(平成10)年に馬路村に引き取られて以来、最近まで安田川沿いの軌道跡に保存展示されていたが、風雨で傷んできたため現在は魚梁瀬の庫内で保存されている。'07.7.20
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魚梁瀬には野村組工作所製DLのほかにも酒井工作所製3.5tガソリン機関車、それにこれまた珍しい岩手富士産業製“特殊軽量機関車”が動態保存されています。野村に引き続いて今日は残りの2輌をご紹介してみましょう。

c16n3.jpgまずは酒井工作所製の3.5t機です。こちらは東京営林局の水窪営林署(静岡県)で使用されていたもので、水窪森林鉄道廃止後は天竜林業高校の校庭で保存されていました。「けいてつ協会」の仲介でこの馬路村入りしたのが1998(平成10)年。最近まで安田川沿いの軌道跡に、さながら現役の列車のようにも木材を載せた運材台車を牽いた姿で展示されていましたが、露天のため傷んできてしまい、現在は魚梁瀬に戻されています。この機関車、酒井工作所の納入台帳によると1959(昭和34)年7月に東京営林局に納入されたC‐16形製番6099で、新製時の搭載エンジンはTH4、もちろんガソリンエンジンです。今回は清岡さん自らがエンジンを掛けて庫外に引き出してくれましたが、久しぶりに耳にする“ガソリン機関車”のエンジン音はちょっと感動ものでした。
▲酒井のキャブ内。A型と呼ばれる鋳鉄台枠タイプと比べて板台枠のC型の運転室は意外なほどルーミーだ。'07.7.20
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▲一見モーターカーのような「特殊軽量機関車」。自重1.9tと恐ろしく軽量で、なおかつ本線と接続していない上部軌道にも人力で担ぎ上げられるように容易く分解できるのも特徴。'07.7.20
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iwafuji103n.jpgそしてもう1輌、これまた極めて珍しい保存機が岩手富士産業製の「特殊軽量機関車」です。特殊軽量機関車とは、本線と接続していない山の上の伐採地に敷設された作業軌道での使用を前提とした機関車で、何が“特殊”かというと、人力で背負って担ぎ上げられるように、エンジン以外すべてのパーツが50kg以内に分解できる構造になっている点です。しかも最低限の工具と多少の技術さえあれば再び組み立てて“機関車”として運行できるように設計されています(『木曽谷の森林鉄道』参照)。この岩手富士産業と協三工業の2社がこのような特殊軽量機関車を製造し、各地の森林鉄道に納入してきました。ちなみにこの個体は鳥取営林署で使用されていたもので、荒廃しきった廃車体を引き取ってここまでレスレーションした熱意と技術には改めて頭が下がる思いです。
▲特殊軽量機関車はこう見えても「両運」構造。クラッチはスクーターのような自動遠心クラッチが用いられていた。'07.7.20
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▲魚梁瀬の木造庫横で待機する特殊軽量機関車。こうやって見ると何とも和める表情をしている。レストアは高知の機械メーカー㈱垣内が心血を注いで行ったという。'07.7.20
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これら3輌の動態保存機と、新製された「谷村式」レプリカの合計4輌によって運営される魚梁瀬地区の保存運転ですが、「魚梁瀬森林鉄道跡をゆく」の最終回でもご紹介したように、今後、かつての沿線町村が一丸となって取り組んでゆこうとしている産業遺産としての顕彰の取り組みのなかで、より一層その存在が光り輝いてくるに違いありません。いつの日か、あの“赤鉄橋”を野村の機関車が再び渡る日を夢見つつ、お世話になった馬路村をあとにしたのでした。

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▲魚梁瀬の車庫に勢ぞろいした動態保存機の面々。右手前から酒井工作所製3.5tガソリン機関車、野村組工作所製4.5tディーゼル機関車、そして左奥が岩手富士産業製特殊軽量機関車。'07.7.20
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先週3回にわたってお伝えした「魚梁瀬森林鉄道跡をゆく」に続いて、馬路村で動態保存されている車輌たちをご紹介してみましょう。ご案内いただいたのは、保存活動の中心的存在で現在は村議会議長を務められている清岡博基さんです。

tanimura101n.jpg1963(昭和38)年の廃止以来、絶えて久しかった森林鉄道の話題が再び語られるようになったのは1988(昭和63)年にコミュニティーセンター馬路で行われた「森林鉄道を語る会」だったといいます。営林署をはじめとした森林鉄道に関わった皆さんが、さながら同窓会のように集ったこの会をきっかけに、全国に誇り得る大森林鉄道=魚梁瀬森林鉄道を後世に語り継ぎ、あわよくば村おこしの一助にしようと動態保存の気運が盛り上がったのだそうです。
▲現在の遊覧運転の主力はこの谷村型ディーゼル機関車。谷村鉄工所製DLを模して新製されたもので、変速もオートマチック。'07.7.20
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▲まさに威風堂々といった貫禄の野村組工作所製ディーゼル機関車L-69。大栃営林署から1959(昭和34)年に魚梁瀬営林署に移ってきた機関車で、最後まで車籍を残していた機関車の1輌。'07.7.20
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この「森林鉄道を語る会」にはもと野村組工作所のOBも多数参加しており、そこで白羽の矢が立てられたのが村内に唯一残されていた同社製のディーゼル機関車L-69です。野村組工作所は高知県の小メーカーながら、こと森林鉄道用内燃機関車に関しては、戦前は酒井、加藤と伍して第三勢力として北海道から九州まで全国の森林鉄道に独特の形態の機関車を送り込んでいます。もし残されていた機関車が地元の野村製ではなく、東京のメーカー製であったならば、この動態保存化計画自体がスタートしえなかったかもしれません。

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▲L-69のキャブ内。1991(平成3)年の修復時にシートなど実用本位にモディファイされた部分はあるものの、良く原形を留めている。ステアリングホイールのような丸ハンドルは野村の特徴でもあるブレーキハンドル。'07.7.20
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かくして1991(平成3)年5月にL-69は動態復元され、丸山公園内に新設された延長400mのエンドレスで運転が開始されました。数ヶ月後には追いかけるように谷村鉄工所型3tディーゼル機関車が新製され、遊覧運転は主に谷村型が担うこととなります。ちなみに谷村鉄工所も高知の地元機関車メーカーで、ロッド駆動のこれまた個性的な内燃機関車を多数製作しています(詳細はRMライブラリー『魚梁瀬森林鉄道』参照)。

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▲魚梁瀬の2線の木造矩形庫も実に良い雰囲気を醸し出している。普段、遊覧運転に使用されている「谷村型」以外はこの庫内に保管されている。'07.7.20
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高知営林局の内燃機関車最大ナンバーはL-121。解明されていない番号はあるものの、そのほとんどが野村組工作所と谷村鉄工所製機関車によって占められており、他局と比べてもきわめて独自の技術的発展を遂げてきたことがわかります。余談ながらあの木曽森林鉄道を擁する長野営林局の内燃機関車最大ナンバーは、現在“よみがえれボールドウィン実行委員会”の皆さんがレストアに取り組んでおられるNo.141。長野局の141と比べても、高知局の121という数字はいかに森林鉄道王国であったかを物語っているとも言えましょう。

nomurafig1n.jpgところで現存する野村組工作所製の内燃機関車はこのL-69を含めて4輌。かつてこのブログでもご紹介した熊本城公園内のもの(社名はのちの「土佐造船」製)と、同じく熊本県内の球泉洞森林館のもの(ともにもと内大臣森林鉄道)、そして遥か北海道開拓の村に保存されている大夕張森林鉄道5t機です。ただ、球泉洞の方は国道バイパス建設工事にともなって展示場所から撤去され、先般肥薩線を視察した際に球磨村産業振興課に調べてもらったところでは、八代方面に搬出されたとのこと。消息が案じられます。
▲代用燃料装置を搭載した戦前の野村組工作所製機関車。写真は熊本営林局納入のもの。(『高知県機械工業史』より)
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「説明書」と「明細図」。

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▲国鉄工作局や車両設計事務所作製の「説明書」や「明細図」の数々。中央に見えるのは国鉄車両設計事務所(旅客車)編集の「24系特急形客車説明書(25形式)」で、奥付によると1974(昭和49)年2月の編纂。

近年ますます“手ごわく”なってきているのが「取扱説明書」の類です。パソコンはもとより、カメラから携帯電話にいたるまで、とにかく見ただけでうんざりするような「取扱説明書」が付いてきます。しかも、えてして中身は“宇宙語”の百花繚乱。結局ほとんど開くことなくトライ&エラーで使い始めてしまうことになります。

setumeisyo2n.jpg一方、公共交通機関たる鉄道車輌の場合はそうはゆきません。新形式が営業運転に入るまでにその取り扱いを周知徹底し、さらにその後のトラブルシューティングのために、膨大なページ数の「説明書」が作成され、さらに該当形式のありとあらゆるパーツの生産図面を網羅した「明細図」がペアとして関係の向きに配布されます。一般的に目にする機会はないこの「説明書」と「明細図」ですが、古くから国鉄車輌研究には欠かせない資料として最重要視されてきました。
▲こちらはあのDMH17形(17H・17H-G)ディーゼルエンジンの「明細図」(1962年6月)。すべての部品図を収録しているためえらい厚さとなっている。革製の綴じ紐にご注目。
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▲臨時車両設計事務所(動力車)編集の「DD53形式液体式ディーゼル機関車説明書」(左/1965年1月)と工作局編集の「DD11形液圧式ディーゼル機関車説明書」(右/1954年9月)。昭和20年代のDD11の説明書は無味乾燥な装丁だが、DD53の方は車体塗色をあしらったなかなかおしゃれな表紙。

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▲「DD11形液圧式ディーゼル機関車説明書」の一部。左は「機関車の始動」から始まる運転方法説明ページ、右はDD11最大の特徴であったプラネタリーギア(遊星歯車)変速機の組立図。
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ただ、いったいどの形式の「説明書」「明細図」が作製され、どの形式が作製されていないのかは、今もって全容が解明されていない点もあります。たとえば趣味的には当然独立した説明書や明細図集がありそうな形式でも、基幹形式の派生、もしくは設計変更と捉えられて「追補」されるのみに終わってしまっているものも存在するようです。これはD52の改造機であるC62の本格的総組立図(LA図面)がついにおこされることなく終わったのと、一脈通じるところがあるかもしれません。

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▲「明細図」だけあって、とにかくありとあらゆるものが図面化されている。というか、どんなささいな部品であろうと図面がなければ生産することができない。これはその一例で、オールドファンには懐かしい陶器製の「便所標記板」図面。1938(昭和13)年の作図。
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それにしても「明細図」を見ていると、かつての工作局(車両設計事務所)の奮闘ぶりがいまさらながらに偲ばれます。“便洗”だけでも複数の専門設計者が在籍していたと伝えられる国鉄車輌設計部門は、アウトソーシングが極端に進んだ昨今では想像さえできないほど、多くの技術者が日々図面と格闘していました。「明細図」からは、今日のCAD図面からは見えてこない、そんな設計者の情熱も垣間見ることができます。

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