鉄道ホビダス

2007年6月アーカイブ

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▲小さく突き出たボンネット(?)がチャームポイントの「白金」号。明延鉱山工作課の製造で、出力3.75kW、牽引力228kg、速度6km/hと記録されている。'06.6.18
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先日、石見銀山が世界遺産登録を果たし大きな話題となりましたが、このニュースを耳にしてひさしぶりに思い出したのが「一円電車」として知られた明延鉱山の軌道のことです。

akenobe11n.jpg江戸時代、石見銀山、佐渡金山とともに重視されていたのが生野銀山でした。そしてその生野鉱山の関連鉱山が明延です。官営だったものが1896(明治29)年に三菱に払い下げられ、その後1909(明治42)年に錫(すず)の産出が発見されて以来、銀や銅ばかりでなく国内最大規模の錫鉱山としても栄えてきました。ただ明延は険しい中国山地に阻まれて鉱石の搬出が困難で、その搬出路として建設されたのが、延長4kmにもおよぶトンネルを穿って明延鉱山と神子畑選鉱場を結ぶ「明神電車」こと明延鉱山軌道です。かつてはさらに播但線の新井(にい)まで軌道がのびており、明延で採鉱された鉱石は神子畑で選鉱され、さらに生野へと運ばれて製錬されるという一貫した経路が構築されていました。
▲乗車心得。「一円電車」の通称のとおり、従業員とその家族は1円、一般は10円が“運賃”であった。'06.6.18
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▲こちらは前輪と後輪の直径が違うユニークな形態の「赤金」号。やはり自家製で、自重3t、出力8.95kW、牽引力340kg、速度9.5km/hと記録されている。'06.6.18
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数年前までは神子畑の選鉱場跡も残り、地元でも産業遺産として活用しようという気運があったやに聞いていますが、現在では採鉱・選鉱施設のほとんどは解体されてしまって、大自然へと還りつつあります。そんななか、「明神電車」で使われていた車輌のいくつかは地元明延や生野方面に残されており、今でもその特異な姿に接することができます。なかでも明延振興館(鉱山学習館・探検坑道)前に保存されている自家製“電車”「白金」号と「赤金」号は、その漫画チックな形態からして一見の価値があります。

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▲「赤金」の前後輪の“台車近影”。よく見ると軸受には「KST」の陽刻が見られる。'06.6.18
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akagane6n.jpg明延-神子畑間は約5.3km。明延地区で暮らす人々は、買い物や生野方面へ出かける際など唯一の“足”としてこの軌道を利用しており、鉱山側も一日6往復ほどの旅客列車(?)を設定、従業員とその家族を「一円」で乗車させていました。この様子がマスコミで紹介されると乗車希望の観光客がこの山奥の鉱山に殺到、一躍「一円電車」として全国に知られることとなりました。ちなみにこの「白金」号と「赤金」号は定期列車用ではなく、会社役員などのVIP用として使用されていたと聞きます。
▲「赤金」の後部側車内。客室(?)扉を入ると左右に向かい合わせに2人がけシートがあり、なおかつ真正面に1人用席がある。'06.6.18
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akagane3n.jpgかつて私が現役時代の明延鉱山軌道を訪ねた際は、残念ながら「白金」号も「赤金」号も動いておらず、保存車に接して初めてその奇妙な造作を体感することができました。確かに狭いシートには白いシートカバーが掛けられて“VIP用”を連想させますが、「赤金」号などは前後の車輪径の違いもあってえらい乗り心地だったのではないかと思われ、これに乗せられる“VIP”の気持ちはいかばかりだったでしょう。
▲こちらは前位側車内。不似合いに大きいコントローラーが見える。それにしても息が詰まるほどの狭い空間だ。'06.6.18
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ところで、この両車が保存展示されている明延振興館は数年前に閉鎖されてしまい、鉱山学習館や体験坑道とともに現在では放置されているような状況です。幸い車輌展示場には屋根が設けられていて、保存されている「白金」号と「赤金」号、それに電気機関車や鉱車などは今のところそれほど状態が悪いようには見えませんが、ご多分にもれず“平成の大合併”で行政区分が変更されてしまったこともあって、行く末は予断を許されない状況にあると言わざるをえません。「世界遺産」でわく石見銀山をテレビで見ながら、ふと「白金」号と「赤金」号に思いを馳せてしまった次第です。

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下関・長門の両市の協力のもと、JR西日本広島支社が運行する観光列車「みすゞ潮彩」用のキハ47形が、昨日報道公開されました。東京は空梅雨が続いていますが、山口県地方は時折強い雨が吹き付けるあいにくの天気だったようですが、編集部からは高橋君が取材に飛んでくれましたので、さっそくその様子をご覧いただきましょう。
▲7月1日から山陰本線西部にデビューする「みすゞ潮彩」。凝ったエクステリアデザインは金子みすゞが生きた時代のアールデコ調のものだそうだ。なお、動力装置等は種車をそのまま踏襲している。'07.6.28 下関車両管理室 P:RM(高橋一嘉)
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misuzu_siden.jpgこの「みすゞ潮彩」は山陰本線を中心に新下関~下関~長門市~仙崎間で運行されるもので、途中日本海のビュースポットとして小串~湯玉間、宇賀本郷~長門二見間、黄波戸~長門市間の3ヶ所の駅間で土休日は3分、平日は1分停車します。
車輌は下関車両管理室所属のキハ47形2輌編成で、車号は瀬戸内マリンビューの続番であるキハ47-7003+キハ47-7004が与えられています。7003は仙崎・新下関方の指定席車、7004は下関方が自由席車です。改造費用は8000万円。下関市がそのうち6497万円、長門市が1503万円を負担しています。
▲指定席車は日本海側となる2-4位側の窓が大型化されている。'07.6.28 下関車両管理室 P:RM(高橋一嘉)
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misuzu_baitenn.jpg指定席車のキハ47-7003はキハ47-1107(旧配置:後藤総合車両所)からの改造で、車内は広々としたソファー状の腰掛が日本海側(2-4位側)を向いて配され、側窓も2-4位側のみ大型化されるなど、日本海を眺めることに特化した改造が施されています。また、連結側の3位側車端部にはボックスシートと軽食やグッズ類を販売する売店が設けられたほか、運転室背後にはイベントスペースが設けられており、紙芝居などの実演が行われるとの事です。なお、海側の腰掛はボックスシートに転換も可能で、用途に応じた運用に対応しています。
▲3位側に設けられた売店。4位側にはボックスシート2組が配される。'07.6.28 下関車両管理室 P:RM(高橋一嘉)
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一方、自由席車のキハ47-7004はキハ47-46(旧配置:山口車両管理室)からの改造。内装は通常のキハ47形リニューアル車とほぼ同様の改造に留められており、便所の洋式化が唯一の相違点です。

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ちなみに列車名の「みすゞ」とは大正末期から昭和初期にかけて活躍しながら若くして亡くなった仙崎出身の詩人、金子みすゞに因んだもので、長門市には金子みすゞ記念館などもあります。
▲指定席車キハ47-7003の車内(左)。腰掛は車端部を除き日本海側を向いて配置され、拡大された窓を通じて日本海の景観を楽しめる。乗客が背にすることになる1-3位側は両車端部を除きキハ47リニューアル車と同様の窓が並ぶ(右)。'07.6.28 下関車両管理室 P:RM(高橋一嘉)
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この「みすゞ潮彩」は山口デスティネーションキャンペーンが開幕する7月1日から運行を開始する予定です。特急「いそかぜ」が廃止されてから少々寂しくなった山口県内の山陰本線ですが、この夏からは久しぶりに賑やかになりそうです。

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小田急電鉄では1957(昭和32)年の3000形SE車運転開始から今年で50周年を迎えることを記念して、このたび7000形LSE車をデビュー当時のオレンジバーミリオンとグレーの塗装に復元、昨日、唐木田車庫で報道公開が行われました。
▲ひさしぶりに懐かしいバーミリオンオレンジとグレーの塗り分けに復元された7004F。小田急ファンにとってこの夏は注目の的となること間違いない。'07.6.27 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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se11n.jpg現在でも小田急ロマンスカーを象徴する塗色として多くのファンに愛されているオレンジバーミリオンとグレーの配色は、言うまでもなく3000形SE車から採用されたものです。これは当時、小田急沿線の秦野にアトリエを構えていた洋画家の宮永岳彦画伯によるもので、1963(昭和38)年に登場した3100形NSE車では窓下のオレンジ部分にもグレーと3本の白帯を配して、スピード感を強調したものにアレンジされました。そして、この塗り分けは、1980(昭和55)年登場の7000形LSE車にもほぼそのまま受け継がれました。NSE車との相違点は窓下のグレー部分の白帯が2本になったことくらいでしょうか。
▲保存を前にオリジナルに復元された3000形SE車。オレンジバーミリオンを基調とした塗り分けはこのSE車で始まった。 P:RM
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しかし、1987(昭和62)年に登場した10000形Hi-SE車は白とワインレッドを基調とした新塗色が採用され、7000形も1995(平成7)年から開始された更新工事により10000形と同様の塗色に変更されました。そして3100形も1999(平成11)年に引退、伝統のオレンジバーミリオンとグレーの塗色は保存車に見られるのみとなってしまいました。

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▲唐木田車庫へ回送する旧塗装車。細かく見ればシングルアームパンタグラフに前面窓の黒色の金属押さえと、わずかながら旧塗装時とは異なるものの、久々に戻ってきた伝統色はファンのみならず沿線住民にも注目の的。'07.6.27 栗平?黒川 P:RM(高橋一嘉)

lse22n.jpg今回の復元車は50年前にSE車が運転開始した記念日である7月6日に新宿?小田原間で運転される「旧塗装特別記念号」(過去のロマンスカーアテンダントの制服を着用した係員が乗車)を皮切りに、2008年3月31日までの約8ヶ月間、この塗色で運転されるとのことです。また、小田急電鉄では「ロマンスカー50thアニバーサリー」として各種のキャンペーンを実施しています。懐かしのロマンスカーCMソングCD「ロマンスをもう一度」をはじめ、ロマンスカーデザインカップやサッポロビール「ロマンスカー50周年記念缶」の発売など盛りだくさんです。詳しくは同社のホームページをご覧ください。
▲来週7月6日の「旧塗装特別記念号」の運転では、新宿駅の到着・出発に合わせてバースデーケーキカットも行われるという。'07.6.27 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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▲今から50年前のあさって、生まれたてのSE車3000形の試乗会が行われた。まだ国道1号線も交通量が少なく閑散としている。'57.7.1 箱根湯本 P:三谷烈弌(この時の様子は三谷烈弌さんのRMライブラリー『昭和の記憶』でもご覧になれます)

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いよいよ開幕が迫ってきた江戸東京博物館の「大鉄道博覧会」ですが、昨晩は展示の大きな目玉ともなる「下工弁慶号」の搬入が行われました。“言い出しっぺ”の一人である私としては、展示会場に無事安置されるまでを見届けたく、夜遅くまで搬入作業に立ち会ってきましたので、今日はその様子をギャラリー風に順を追ってご覧いただくことにいたしましょう。
▲約10時間を掛けてはるばる山口県から「下工弁慶号」を載せたトラックが江戸東京博物館に到着。'07.6.26

IMGP1975n.jpg 「下工弁慶号」についてはすでにご紹介しておりますが、石川島播磨重工業(IHI)の前身である石川島造船所が1907(明治40)年(別説もあり)に製造した自重5.5tのBサドルタンク機です。つまりちょうど100歳ということになり、100年目にしての生まれ故郷・東京への“凱旋”となるわけです。前日の25日には同機を所有する下松市役所で井川下松市長と江戸東京博物館木村副館長との間で貸借契約調印式が執り行われ、トラックに載せられた「下工弁慶号」は約10時間を掛けて江戸東京博物館へと向かいました。
▲両国駅に隣接する江戸東京博物館ではすでにエントランスロードに「大鉄道博覧会」の大看板が設けられている。'07.6.26

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▲博物館裏手の搬入口からいよいよ“搬入大作戦”が始まろうとしている。さながら線路のように廊下に敷かれているのは「エアーキャスター」用のシート。'07.6.26

実のところこの位の小型機の場合、屋外での搬出・移動はさほどたいへんではありません。先日このブログでもご紹介した「古典ガソリン機関車救出大作戦」のように、クレーンさえあれば比較的楽に移動することが可能ですが、今回は博物館の屋内展示場に5t以上もある機関車を搬入しなければならないのですから、当初からかなりの困難が予想されていました。あらかじめ綿密な寸法出しが行われ、結果として採用されることとなったのが「エアーキャスター」と呼ばれるホバークラフトのような移動機械。やはり絶対に疵を付けられない重量物、たとえば石像のようなものをそろりそろりと移動させるのに使われる特殊な方法です。江戸東京博物館でもこのエアーキャスターを使用しての搬入は初めてとのことで、深夜まで掛かった搬入作業は終始緊張感が漲ったものとなりました。

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▲「下工弁慶号」はエアーキャスター用の特注鋼製パレットに載せられフォークリフトで定位置に。パレットはあらかじめ木製のダミーを作って搬入経路の“あたり”を確認しており、2箇所の角が“隅切り”されているのに注意。'07.6.26

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▲江戸東京博物館ではこれほどの重量の展示物を屋内展示場に入れたことはないそうで、搬入路に機関車を置くまででもひと苦労。'07.6.26

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▲プラットホーム上に載るといよいよ秘密兵器「エアーキャスター」の出番。左の白い物体が風船状に膨らんでエアーを噴出するエアーキャスター。右の分配装置で巨大なコンプレッサーからの圧縮空気を6基のエアーキャスターに分配する。'07.6.26

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▲エアーキャスター本体を持ち上げてもらったところ。円盤状の風船(?)には細かい穴が空いており、その穴から圧縮空気が噴出する。さぞや高圧かと思いきや、担当者に伺ったところでは2kg/c㎡以下とのこと。'07.6.26

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▲6色に色分けされた各エアーキャスターの空気管を分配装置に接続。屋外の巨大なコンプレッサーからバキュームホースのような太い管で送気を開始。'07.6.26

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▲6基のエアーキャスターの圧力を微妙に調整しつつ、全体が水平に浮くように神経を遣う。素人目にはわからないが、掛け声とともに何度も何度も微調整が繰り返されていた。'07.6.26

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▲ようやく設定完了。作業責任者のOKとともにパレット自体がゆっくりと回転する。エアーキャスターから漏れる空気音とともに「下工弁慶号」はプルプルと微妙に上下に震えている。'07.6.26

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▲いよいよ館内の廊下に。先導者(右)がロープをゆっくり牽き、各パートの係員が進路の微調整をしてゆく。ほんとうに這うようなゆっくりした速度で展示場へ。'07.6.26

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▲最大の難関は廊下から展示室ドアへの“直角コーナー”。まさに職人技、ぎりぎりの回転をアニメーションでご覧あれ。'07.6.26

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▲メイン展示場に姿を現した「下工弁慶号」。床に敷くコンパネとシートは移動にあわせて後方から前へと敷き直すため、しばらく進むと小休止となる。まるで野戦軌道の「軌匡」の敷設のようだ。'07.6.26

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▲ようやく最終的な展示位置までの「軌匡」が完成。ぽつんと移動を待つ「下工弁慶号」からはシューシューと生きているかの如きエアーキャスターの排気音が聞こえてくる。'07.6.26

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▲移動再開。途中で進行方向が微妙に変化するため気の抜けない作業が続く。'07.6.26

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▲展示位置に到着。エアーキャスター用のシートと延々とのびた送気ホースが苦難の道を物語る。ちなみにシートには噴出するエアーを100%受け止める役目と、エアーキャスターの風船部の破裂を防止する役割があるという。'07.6.26

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▲展示位置で90度回転。2ヶ月あまりに渡って展示される定位置にはあらかじめ鉄板が敷かれている。'07.6.26

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▲ジャッキを掛けて慎重に降ろされる。ただこの時点ではサイドロッドが下りていない。'07.6.26

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▲ジャッキで再度持ち上げ、人力で車輪を半回転。「公式側」のロッドが下がって俄然見栄えのよくなった「下工弁慶号」の晴れ姿。この後、窓枠やサンドドームの蓋など外されていた部品が取り付けられ、いよいよ公開の姿となる。'07.6.26
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途中数々の困難はあったものの、無事に展示位置に移動完了。さて最終的にジャッキを抜いて…というところで僭越ながら“待った”を掛けさせていただきました。そう、サイドロッドが下りていないのです。せっかくの晴れ姿なのにこれでは画竜点睛を欠き、さながら正座ではなく片膝を立てて座ったようなもの。期待してご来場いただく皆さんにも申し訳ありません。無理を言って再度ジャッキアップ。背圧を考慮して私がドレインコックを開け、作業員の方が車輪を90度ほど回転させて、めでたくロッド位置の下りた素晴らしい姿となりました。今後は窓枠などの取り付け、さらにボランティアによる磨き上げが行われ、いよいよ7月10日のグランドオープンのその日を迎えることになります。

嗚呼! 鹿島鉄道。

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▲言葉を失うこの光景…町も山並みも何もかもまったくそのままなのに、キハたちで賑わっていたあの鹿島鉄道構内だけがすっかり更地になってしまっている。'07.6.23 P:武田忠雄

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▲わずか4ヶ月前の同地点。木造の機関区事務所や風情あふれる旅客ホームなどは、鹿島参宮鉄道時代から何ら変わることなく“運命の日”を迎えた。'07.2.25 P:名取紀之

本誌6月号(No.285)で鹿島鉄道最後の一日をレポートしてくださった武田忠雄さんから実にショッキングな画像が届きました。武田さんが先週土曜日に石岡や鉾田を訪れた際の“現況”です。私にとっても最後に鹿島鉄道を訪れた3ヶ月目にあたるだけに衝撃もなおさらです。

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▲こちらは常陸小川駅構内。跡形もなく鉄道の痕跡は消え去ってしまっている。右側に見える線路沿いの桜並木だけはかろうじて残された。'07.6.23 P:武田忠雄

hitatiogawa1n.jpg何と言っても言葉を失ったのは跨線橋から見下ろした石岡駅構内の写真です。鹿島鉄道を訪れるたびに、あの跨線橋から今日は714は運用に入るかな、602はお休みかな…などと機関区を見回していた方も多いのではないでしょうか。それがまるで何かのマジックでもかけられたように、きれいさっぱり消えてなくなってしまっているではないですか。いくら何でも早すぎる…まだ廃止から3ヶ月も経っていないというのに、起点・石岡は鹿島鉄道の痕跡さえなくなってしまったのです。
▲“カバさん”ことDD901が解体される前日の常陸小川駅。非電化ローカル私鉄の交換駅として実に好ましい佇まいだった。'07.2.25 P:名取紀之
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途中の交換駅・常陸小川も同様です。4ヶ月前には構内に保存してあった“鹿島のカバさん”ことDD901がこの地で解体されてしまい、大きな話題になりましたが、今度は車輌どころか駅そのものが更地と化してしまいました。「トワイライトゾ?ン」と呼ぶにはあまりに生生しく、悲しい光景です。

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▲そして終点の鉾田駅。たい焼きが名物だった凝った造りの駅本屋もすっかりなくなってしまった。いつしか駅舎の位置さえ同定できなくなってしまうのだろうか。'07.6.23 P:武田忠雄

終点・鉾田もすっかり整理されてしまい、玉造町なども今や駅の存在を示す痕跡はほとんどなくなってしまっているようです。用地の再利用などを踏まえてのことなのでしょうが、いちファンの心情としては、心の整理がつかぬ間にあの鹿島鉄道が夢幻の如く消え去ってしまったように思えてなりません。
(このほかの画像が武田さんのホームページでご覧になれます。)

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▲歴史ゾーン中央のターンテーブルにはついにあのC57 135が載った! 二階回廊から見下ろす様はまさに息をのむ圧巻。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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RM本誌今月号の連載「大宮に鉄道博物館ができるまで!」(第12回)や6月1日付けの本ブログでもクハ181やナハネフ22がずらっと並ぶ衝撃的なシーンをご紹介していますが、本日の取材では、ついに歴史ゾーン中央のターンテーブルにC57 135号機が載った状態を見ることができました。さっそくその感動的なシーンをたっぷりとご覧いただきましょう。

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▲C57 135をED75 775、DD13 1、クハ181-45たちが取り囲む。とても“実物”とは思えない豪華絢爛な光景だ。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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▲青梅鉄道公園からのエントリーC51 5(左)も素晴らしい状態で歴史ゾーンに収まった。右は最終的なお化粧直しが進むED75 775。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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C57 135をはじめ、先月31日の取材ではまだ館内に入っていなかったEF66 11やC51 5、ED75 775、DD13 1なども所定位置に収まり、あれほど広かった歴史ゾーンも、今や手狭に感じられるほどとなってきました。取材した新井副編集長によれば、二階回廊から見下ろす様はそれこそ信じられないほど壮観で、まさに“夢の空間”だそうです。

om625n6.jpgその二階では80分の1スケールとしてはわが国最大となる約200㎡・軌道延長1200mの大「模型鉄道ジオラマ」がその姿を現しています。周囲には雛壇状の腰掛も設置され、開館した暁には、あの交通博物館のパノラマ模型運転場のように、観覧席は目を輝かせた子どもたちに埋め尽くされるに違いありません。
▲屋外には茨城交通から里帰りしたキハ11 25の姿も。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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▲歴史ゾーンには鉄道貨物輸送の歴史を再現したコーナーも設けられる。EF66 11に続くのは各種コンテナを搭載したコキ50000(左)。右は交通博物館から受け継がれてきたTR73形3軸ボギー台車。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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om625n9.jpg現在すでに建物自体はほぼ完成し、内装や各種展示設備の工事などが行われている状況です。遠からずそれらの工事も完了して、「鉄道博物館」は10月14日の開館に向けていよいよ最終的なカウントダウンに入ります。RM本誌では次号、次々号とさらにパワーアップして鉄道博物館開館までをご紹介する予定ですので、どうかご期待ください。
▲模型運転場も着々と完成に近づいている。いったいどんなレイアウトになるのかはこれからのお楽しみ。'07.6.25 P:RM(新井 正)
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かねてより日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)が編纂を続けてきた『貨物鉄道百三十年史』が完成、全3巻2200ページにおよぶ圧倒的なボリュームの大冊が送られてまいりました。
▲完成した『貨物鉄道百三十年史』。B5版、上・中・下巻の3分冊で合計2200ページを超える大冊である。P:JR貨物提供

130nennsi3n.jpgこの『貨物鉄道百三十年史』はJR貨物創業20周年にちなんで企画されたもので、1873(明治6)年にわが国の鉄道貨物輸送が始まって以来の歴史をあらゆる方面からまとめた画期的なものです。ご承知のように1973(昭和48)年には『日本国有鉄道百年史』(全19巻)が発行されており、当然ながら鉄道貨物輸送に関してもそれなりのページが割かれてはいますが、今回の『貨物鉄道百三十年史』はそれを遥かに凌駕する、まさにわが国の鉄道貨物輸送史のバイブルと呼べるものです。
▲戦前の広軌新幹線計画をはじめ、東海道新幹線コンテナ電車計画についても詳述されている。ことに同計画の頓挫に関わる「運輸調査局調査資料の謎」など、これまでの「社史」には見られないコラムも盛り込まれている点が特筆される。(中巻第7章814-815ページ「実現しなかった貨物輸送計画」より)
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▲3巻ともに貴重な写真がふんだんに盛り込まれている。写真は上巻の口絵「高度経済成長時代(昭和32年~昭和43年)」の一部で、新幹線東京運転所と隣接した品川駅貨物ホームや、世界動物博覧会の象輸送シーンなども見られる。

実はこの出版計画については数年前から編纂委員長をお務めの岩沙克次JR貨物特別顧問からお話は伺っており、私も写真・資料の提供で微力ながら協力をさせていただいております。校正に校正を重ねてたいへんなご苦労をなさっている様子はたびたび伺っておりましたが、こうやって実際に完成した本を拝見するに、まがりなりにも編集のプロの一人としても、そのたいへんさは察するに余りあります。

130nennsi1n.jpgちなみに一般的に「社史」というと、営業・財務・労務といった面が中心となり、車輌や施設、運転といった側面はプライオリティーが低く設定されがちですが、この『貨物鉄道百三十年史』はその点でも秀逸で、民営鉄道の貨物輸送にまで言及してくれているのはありがたい限りです。以下に各巻の主な内容をご紹介してみましょう。
▲全冊揃うと持ち上げるのもたいへんなほどのボリューム。まさに日本の鉄道貨物輸送の大百科である。
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各巻別の掲載目次
■上巻(約660ページ)
第1章:創業時代/第2章:鉄道院時代/第3章:鉄道省興隆時代/第4章:戦時・占領時代/第5章:国鉄復興時代/第6章:輸送近代化時代/第7章:貨物輸送再建・改革時代/第8章:日本貨物鉄道(株)時代/付 編:貨物鉄道を育てた人々、組織の変遷、主な貨物駅の開設・廃止一覧、主な運輸・建設関連の規則類、国鉄改革時の関連資料及び関係法律・省令、日本貨物鉄道(株)の経営計画等、鉄道線路図、貨物取扱 駅配置図、統計資料、年表
■中巻(約890ページ)
第1章:営 業/第2章:輸送と運転/第3章:安 全/第4章:民営鉄道の貨物輸送/第5章:貨車航送と連絡船/第6章:荷物輸送・郵便輸送・軍事輸送/第7章:実現しなかった貨物輸送計画/第8章:関連・開発事業
■下巻(約690ページ)
第1章:建設と施設/第2章 :車両とコンテナ/第3章:電気設備/第4章:情報システム

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▲随所に平面図やダイヤが折込となって挿入されている。これは中巻巻末の昭和12年11月11日改正東海道本線列車ダイヤ。戦時体制下でのダイヤで、「省外秘」の印が見える。

この『貨物鉄道百三十年史』、各巻3000部が発刊され、貨物鉄道の歴史を広く知ってもらうために全国の公立図書館などに寄贈されるそうですが、来月完成が予定されている索引編とともに一部は一般販売も検討されているそうです。その際は頒価等を含めてRM本誌誌上で改めてご紹介する予定です。

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仕事ではすっかりデジタル一辺倒となってしまいましたが、プライベートでは今もって銀塩フィルムへの思い断ちがたく、各種アナログカメラを愛用しています。そのなかでもとりわけお気に入りで、内外を問わず“携行”しているのが今回ご紹介するBessa(ベッサ)Ⅰ形です。
▲フォールディング・カメラのメリットを活かしてポケットに入る“1億画素”としてここ数年愛用しているBessa Ⅰ(改)。人はまさかジャケットのポケットから6×9判カメラが出てくるとは思いもしないだろう。手前の畳んだ方は“2コ1”にしたバスカーF4.5付きの残骸。

bessa13n.jpgBessa Ⅰ形はドイツのフォクトレンダー社が1950(昭和25)年から製造した6×9判フォールディング(折畳み)カメラで、製造からすでに半世紀以上を経ていますから、今や立派なクラシックカメラの範疇でしょう。なぜこんな時代錯誤的カメラを愛用しはじめたかというと、何よりも携行可能なブローニー判が欲しかったからです。高校生の時分から中判カメラへの信奉は根強く、マミヤフレックス、ブロニカS2、マミヤプレス、ミノルタオートコード、ペンタックス67、ローライフレックス、そしてハッセルブラッドと渡り歩いてきたものの、どれも帯に短しなんとやらで、決定打とはなりませんでした。一番付き合いの長かったペンタックス67にしても、年齢とともにその大きさと重さは如何ともしがたく、何とか軽くて背広姿でも携行可能で、それでいて納得のゆく写りの中判カメラはないものかと思い続けていました。
▲フォクトレンダーはありとあらゆる製品を番号管理していた。Bessa Ⅰ形カメラ本体が「182」、専用革ケースが「90/107」、フードが「310/37」、6×9用コンツールファインダーが「335/88」、果ては取り扱い説明書が「182/09」といった具合。どうも鉄道に一脈通じるこういった面も心引かれるきっかけだったのかも知れない。

そんな時に思いついたのがフォールディング・カメラの改造です。聞くところでは、あの蛇腹を用いた折畳み構造自体が量産製品に馴染まず市場から消えていってしまったとのことですが、考えてみれば原始的ながらあれほど簡単にコンパクト化できる構造はなく、スーパーイコンタやベッサなら6×9判でもそれこそポケットにさえ入ってしまいます。

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ちょうど都心の中古カメラ店で未使用・元箱付のBessa Ⅰ形が3万円代で出ており、さっそくこれを購入してチューンナップに取り掛かりました。フォールディング・カメラはその特徴でもある蛇腹がウィークポイントで、これが劣化していると厄介です。その点購入した個体はまるで新品。ただ、レンズはトリプレット(3枚玉)のVaskar(バスカー)105㎜F4.5で最廉価版仕様です。そこで上位のColor Skopar(カラースコパー)F3.5が付いた、レンズは良品ながらボディーが劣化している個体を銀座のカメラ屋で購入、この2台を合体させることにしました。改造をお願いしたのはこの手のクラカメの修理では知られた職人さん。ついでに絞りも1段深く絞り込めるように改造してもらいました。つまり目盛りがf11の時に実際はf16といった具合で、これでf32まで絞り込めるようになったわけです。
▲これがカメラ本体より高価になってしまった特製のアパーチャーガラスを組み込んだ状態。透過度99%の光学ガラスで、フィルム走行部の断面は面取りを施してある。もちろん簡単に取り外せる構造になっている。

ところで最大の難関はフィルムの平面性確保です。ブローニー判カメラの場合、現代でも最大のネックはフィルムの平面性で、ご投稿いただく作品のなかにも、かなりの比率でピントではなく平面性に問題があると思われるポジがあります。かつてのカメラ誌の実験ではフィルム・アパーチャー面で±0.2㎜もの変位が生じた機種もあったというから驚きです。そんななか、このベッサのようなフォールディング・カメラの場合はさらに条件が悪く、蛇腹を操作した際の“吸い出し”でフィルム面が踊ってしまう現象は古くから知られています。しかも半世紀前のフィルムベースと今日のそれとは材質が異なるらしく、こういったクラカメには一層厳しい状況となっています。

bessa11n.jpg←納得のゆく仕上がりとなったものは1枚ずつマウントに入れてスペックを打ち込んで整理している。ご覧になっているPCが13インチのディスプレーだとちょうどこれが原寸程度の大きさで、やはりブローニー、しかも6×9判はその存在感が格段に違う。

そこでその解決策として考えたのがフィルム・アパーチャー面に平行平面ガラスを仕込む方法です。かつてローライフレックスが3.5F(typeⅡ)でこの方式を実用化したことがあり、私もそれをまねてベビーローライで試したことがあります。光線状態によってニュートンリングが発生したり、ゴミが付着したりの難はあるものの、その効果は絶大で、ベッサの改造に際してもまず脳裏に浮かんだのはこの平行平面ガラスです。大学の実験室などに特注の光学ガラス製品を納めている会社に自作の「設計図」を託し、透過度99%の特注アパーチャー・ガラス2枚を製作してもらいました。2枚というのはもしもの時を考えてのことで、幸いいまだにもう一枚は、うやうやしい布に包まれて机の中に眠っています。

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▲連動距離計も内蔵されておらず、セルフコッキング機能もないとあって、まっとうに写せるようになるにはそれなりの修練を必要とする。最近でこそかなり“打率”が良くなってきたものの、こうやってマウントに収まって整理されるのは2本(16枚)撮っても1枚あるかなしか…。それでも気がついてみると内外の機関車を中心に200枚以上がすでにマウント入り(?)を果たしている。

それにしてもこのガラス、結果としてはカメラ本体より高くついてしまいましたが、それなりの価値は充分あって、平面性に神経を尖らせることなく撮影できるのはありがたい限りです。
ちなみにRMS粒状度10?12のカラーポジフィルムをデジタルのRGBデータとしての画素数に換算すると2400万画素程度になると聞きます。ということは6×9判となると優に1億画素を超えることになります。半世紀前のカメラながら、ポケットの中に1億画素のポテンシャルが入っていると思うと、なんとも楽しい限りです。

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昨日に続いてさらに『国鉄時代』第10号のコンテンツをご紹介いたしましょう。
昭和43年頃から長野式集煙装置装備機が集結した中央西線については、加藤弘行さんに木曽路に生きたD51たちの興味深いエピソードを綴っていただきました。馴染みの機関士に頼んで集煙装置の天窓を閉めて走行してもらい、その煙の出方が機関車によって大きく異なることを発見。隧道外での集煙装置使用中の写真自体がきわめて少ないだけに、改めてこういう煙の流れ方をするのか…と膝を叩く思いです。
▲満身の力を込めて落合川を後にする832レ。旅客列車とはいえ、25‰に挑むために構内から一気にダッシュしてゆくさまは見事だった。'69.2.2 P:加藤弘行

また、集煙装置開発の元となった北陸本線の難所・柳ヶ瀬越えについては、ベテラン高橋 弘さんと石塚寿彦さんに、スイッチバックの刀根を中心とした写真と撮影記で構成していただきました。山岳仕様の重装備機の奮闘ぶりが、古い写真帖の中から甦ります。川本紘義さんの連載「私のアルバム散歩」は、今回、中央東線信濃境を散策。高原を吹きぬける風の中、重装備機行き交う往年の中央本線の光景が爽やかに描き出されています。

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特集以外の記事も見所いっぱいです。「C56が輝いた日々」はC56研究の第一人者・塚本和也さんが小海線の高原列車と野菜臨貨について、その経緯と秘話の数々を思い出ともに語ってくれます。C56をこよなく愛する塚本さんならではの視点で捉えた美しい写真が、八ヶ岳山麓に生きた小さな働き者の記憶を鮮明に描き出します。高井薫平さんの「私鉄めぐりの旅すがら」もC56を中心に構成。この2つの記事で第二特集ともいえるワイドな構成になりました。さらに昭和34年冬、まだC56牽引客車列車全盛だった小海線で撮影した上野 巖さんの貴重な映像も付録DVDでご覧になれます。
▲秋の深まる大築堤を歯切れのよいブラスト音を響かせて、2輌のC56が援けあってよじ登ってゆく。'71.9.19 小淵沢?甲斐小泉 P:塚本和也

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▲推進運転で美濃大久保へと空車を押し上げる西濃鉄道2109号。西濃には2輌のB6(2100形)が在籍、市橋線と昼飯(ひるい)線で貨物輸送に活躍していた。'62.11.24 P:宮内明朗(※サンプル動画あり)

朝の門司で展開する胸踊る光景に魅せられて、幾度も通った河杉忠昭さんの「門司界隈1960?62」では、朝日の中、次々と関門トンネルから姿を現す特急・急行が、EF10からバトンを受け継いで続々と出発するシーンを中心に、本線蒸機の華を描きます。まさにC59の競演。いっぽう宮内明朗さんの「昭和30年代後期 中部以西 私鉄・専用線の蒸気機関車」は、DVDとの連携で石原産業・西濃鉄道のB6や信越化学、東レ滋賀工場、別府鉄道、片上鉄道、さらに九州の貝島炭礦のアルコ、コッペルなどもカラーで甦ります。DVDは同時録音(一部BGM)で、撮影・録音から編集まで手がけた宮内さんの苦労が偲ばれる傑作です。

toure1n.jpgなかでも東洋レーヨン(東レ)滋賀(大津)工場の103号機の動画は初めて目にするものです。同工場には日立製の101号機、キットソン製の102号機、そしてこのH.K.ポーター製103号機が在籍していましたが、この103号機が動くチャンスはめったになかったようで、その貴重なシーンが動画、しかも同時録音で残されているのは驚き以外のなにものでもありません。ちなみにこの103号機は東レで廃車後宝塚ファミリーランドで保存されていましたが、近年になって加悦SL広場に引き取られ、現在でも加悦の地でその姿を目することができます。
▲東海道本線石山に隣接する東レ滋賀工場で働いていたポーター製Cタンク機。この当時としてもめったに火が入ることはなかったという。'63.6.23 P:宮内明朗(※サンプル動画あり)
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それでは今日は特別付録DVDから、三品勝暉さん撮影の「矢岳越え」、宮内明朗さん撮影・編集の「西濃鉄道のB6」そして「東レのポーターCタンク」のサンプル動画をご覧ください。

動画
下記リンクよりホビダスTV内の動画がご覧になれます。音声付き(「矢岳越え」はこのサンプル版では音声なし)ですので、クリックする前に周囲の環境にご配慮ください。なお、Macでは再生できない場合がございます。
■『国鉄時代』10サンプル動画

kokutetujidai10hyou1n.jpg3ヶ月に1度のお楽しみとして心待ちにしておられる方も多い『国鉄時代』最新号が完成いたしました。おかげさまで創刊以来10号となる今号の特集は「D51と装備」。1115輌というわが国蒸気機関車史上最大勢力を誇ったD51だけに、北は宗谷本線から南は鹿児島本線まで、その活躍の場は広範囲にわたりましたが、本号では集煙装置・重油タンク装備の山岳線仕様のものに焦点を当て、まずは同機が足跡を残した峠を巡ります。

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巻頭「峠への招待」ではベテランの村樫四郎さんの古いアルバムから、東北本線・十三本木峠、信越本線・信濃追分、北陸本線・杉津越え、中央本線・善知鳥峠、篠ノ井線・姨捨越えと、若き日の峠巡礼の思い出とともに、懐かしい写真で構成しました。単線時代の小繋~小鳥谷を駆け抜ける急行「みちのく」、雪の奥中山の急行「おいらせ」は前補機D51が高速運転でハドソンをエスコート。もっとも華々しい活躍の記録です。そしてそのテンダーに搭載した重油タンクについては、RMライブラリー『国鉄蒸機の装備とその表情』でお馴染みの西尾恵介さんが「重油併燃小史」としてその起源から解説下さっています。
▲下り急行「おいらせ」は、御堂-奥中山間を撮影時間帯に登ってくる唯一の蒸機牽引急行列車だ。本務C61を助けて猛然と先頭に立つD51 719〔盛〕。'62.3 P:村樫四郎

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「信越国境の煙」は電化直前の信越本線、妙高山麓に活躍する長野機関区所属の重装備機の記録。「白ヒゲ」を前端梁に描いた精悍な山男たちが早春の山道に名残のブラストを轟かせます。そして重装備機といえば、肥薩線人吉のD51がその真骨頂。敦賀式集煙装置に重油タンク・補助重油タンクに身を固め、天嶮・矢岳越に挑む姿はまさに鎧武者といった趣。地元・人吉市在住の福井弘さんに、思い出とともに知られざるエピソードを語っていただきました。また、特別付録DVDでは三品勝暉さん撮影で矢岳越えの名シーンの数々が鮮やかに甦ります。
※明日の小ブログでサンプル動画をお目にかける予定です。
▲無煙化が早かっただけに残された記録は多くないものの、信越本線田口~関山は長工式重装備D51が活躍する一大難所であった。'65.3.28 柏原-田口 P:中島正樹

「加太越えの印象」では関西在住の福田静二さんの力作で構成。奈良・亀山のD51の力闘ぶりを、洗練されたカメラアイで展開いたします。また、ベテラン齋藤 晃さんの「鈴鹿の嶮の山懐で」は、名所・300Rの大築堤と中在家信号場を中心にした撮影記で、こちらも胸踊る光景が甦ります。

nunohara_hama_mituhiko.jpg「SLブーム」のまさに頂点とも言えた伯備線「布原三重連」は、最高の舞台装置の中で展開する勇壮なドラマ。鈴木博之さんの「中国山地に挑む鋼鉄の兵(つわもの)たち」では、その布原信号場を中心に伯備線のD51が作り出した名シーンの数々を、また浜忠彦さんの「布原三重連と父の思い出」では、三重連が大好きだったお父さんである光彦さん撮影の遺作を通して、中国山地に生きたD51たちの輝きを今に伝えてくれます。浜光彦さん撮影の「布原三重連」の映像もDVDに収録しています。
▲“ブーム”真っ只中の布原信号場。西川橋梁を絶妙の画角で捉えられるこのポジションを確保するには前日からの忍耐が必要だった。三重連はこの橋梁を渡るとすぐに苦ヶ坂隧道へと突っ込んでゆく。P:浜 光彦
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▲敦賀式集煙装置組立図。「昭和27年7月11日製図」の記載がある。(「国鉄蒸気機関車 集煙装置の系譜」より)

そして本号の白眉はなんと言っても成田冬紀さんによる「国鉄蒸気機関車 集煙装置の系譜」です。D51を中心に各種の集煙装置を詳細に解説。敦賀式、多度津式、長野式、後藤式、鷹取式、松任式、郡山式など各種の集煙装置の製作年、詳細寸法、図面番号、使用線区、装備形式など多岐にわたる要素を網羅した一覧表は、集煙装置研究のまさにバイブルとも言えるものです。また、幅1400㎜(一般的には1150㎜)の大型の初期長野式装備機、ほとんど写真の残っていない多度津式集煙装置装備の四国のD51、角形の敦賀式集煙装置装備機、後藤式集煙装置装備のC51、鷹取式プロトタイプを搭載した紀勢東線のC11など貴重な写真の数々は、掲載した集煙装置の図面とともに第一級の資料といえます。

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箱根登山鉄道に残っていた無蓋電動貨車「ム1」を訪ねて入生田検車区を訪れたのは27年ほど前、1980年5月のことでした。それまでにも何度か“目撃”はしていたのですが、それほど動く機会はないのか、薄暗い庫の中に留置されていることが多く、一度は庫外でがっちりと撮影したいものと思っていました。詳しい経緯は忘れましたが、千載一遇のチャンス到来とあって、この日はペンタックス67を携え、喜び勇んで入生田駅を降り立ったのでした。
▲車庫にひそむ様はとても「電車」とは思えない奇怪な面構え。ム1は入生田検車区の構内入換え作業車として1990年代まで“今なお現役”として活躍していた。'80.5.17 入生田検車区

mu1n2n.jpgそれにしてもひと目見たら忘れられない強烈な個性を持つ車輌です。荷台中央に突っ立っている柱に取り付けられたポール、椅子さえない運転台(?)にはGE製のダイレクトコントローラーと、さながら鶴首のような微妙な曲線を描くハンドブレーキハンドルがあるのみ。いかに直接制御とはいえ、「電車」というものは本当に最低限の機能だけならこれほどシンプルになる…そんな原点を見るようです。
▲ポールは荷台中央の柱に取り付けられ、異様な雰囲気が漂う。側面の煽り戸を開けると、荷台には検修・復旧用の資材が雑然と積まれていた。'80.5.17 入生田検車区
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このム1、箱根登山鉄道の前身の小田原電気鉄道が山線(湯本?強羅間)を建設する際に新製導入した車輌で、1916(大正5)年5月日本車輌製。改造の果てにあられもない無蓋の姿に成り果ててしまったかと思いきや、なんと新製時からこんな無蓋スタイルだったといいます。もちろん形式名は無蓋の「ム」。当初はム1と2の2輌がいましたが、ム2の方は1952(昭和27)年に廃車となってしまい、それ以降はずっとム1が1輌で孤塁を守ってきました。
▲ブリル21-E台車にポール集電と、箱根登山創業期の姿を伝えていたム1。ただ登山電車らしく電磁ブレーキを装備している点に注目。'80.5.17 入生田検車区
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1980(昭和55)年当時、ム1は入生田検車区の入場車入換用として使用されるだけで、もちろん本線に出ることはありませんでしたが、翌1981年春にはNHKの「新日本紀行」の収録で久しぶりに本線を走って健脚ぶりをアピールしました。廃車は1992(平成4)年9月。強羅駅に保存展示されていた115号と入れ替えで保存されましたが、わずか7年後の1999(平成11)年8月に解体処分されてしまいました。

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▲こちらはすでに用途廃止となって検車区裏手の資材置場に放置されていたユ1。その後強羅駅構内に保存展示されたが、こちらも結局解体されてしまった。'80.5.17 入生田検車区

入生田にはム1のほかに、これまた小田原電気鉄道生え抜きの有蓋電動貨車「ユ1」の姿もありました。やはりポール集電に電磁ブレーキ付きブリル製台車と創業期の登山電車の面影を色濃く残す1輌でした。こちらも一時は強羅駅構内に保存されたものの、結局は解体されてしまって現在では見ることができません。ム1とユ1、登山電車の歴史を語り継ぐ2輌であっただけに、今となってはなんとも残念でなりません。

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▲手もとにあった箱根登山鉄道ユ1竣功図。電動機はGE製50HP、積載重量4t、牽引力1,587瓩、速度16.9粁/時と記載されている。
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6月7日付けの本欄「思い出の「筑波」号」をご覧になった読者の方から、80年代になってヘッドマークが取り付けられてからの「筑波」号の写真をお寄せいただきましたので、今日は再びその姿をご覧に入れましょう。
▲特製のヘッドマークを掲げて12系6輌の「筑波」号を牽引するDD501。'83.5.3 P:幾代 裕

tukuba13n.jpg写真を送ってくださったのは東京都の幾代 裕(いくよ ゆたか)さん。前回私が後年のヘッドマーク付きの写真としてリンクをはった姉妹ブログ「わが国鉄時代」にご投稿いただいたご本人です。「実はこの写真、12系客車の編成が切れているので気になりつつも投稿したのですが、この土日にネガの整理をしていたところ、この2日前に同じ場所で撮ったきれいに編成が最後まで入っている写真を見つけました。また朝の真鍋機関区でヘッドマークを付けて待機しているDD501の写真もありました」とお送りいただいたのは1983(昭和58)年5月3日撮影の「筑波」号。いかにも手作り風の大きなヘッドマークには、筑波山と平仮名で「つくば」の文字が描かれています。
▲朝の真鍋機関区で晴れ舞台を待つDD501。エンドビーム下に枕木方向に抱え込んだマフラーがものものしい。'83.5.3 P:幾代 裕
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▲ロッド式の足回りを持ちコンパクトにまとまった外観のDD501のプロフィール。同形機が西濃鉄道(もと日軽金蒲原)にもいた。'83.5.5 P:幾代 裕

もう四半世紀も前のことなので記憶が定かではありませんが、と断り書きのうえメールには「筑波」号との出会いも綴られていました。
「大阪生まれ大阪育ちの私が初めての転勤で東京に出てきて(結局そのまま東京に居ついてしまいましたが)、前から行きたかった筑波&鹿島鉄道へ出かけたのだと思います。非電化ローカル私鉄も好きですが、北丹はもちろんのこと、江若も間に合わず、かろうじて尾小屋、片上、岡山臨港、水島臨海、別府あたりを見た世代としては、茨城県の茨交を含むこれらの非電化ローカル私鉄を一度ゆっくりとみたいと思っていました。で、GWには「筑波」号も走ることだしと、まず5月3日に出かけたところ、期待通りの素晴らしさに、続けて5日も再訪したのだと思います。ネガを見ていますと、両日ともに午前中は筑波、午後からは鹿島に転戦したようです。鹿島ではこれまた見たかったDD901にも会え、好天に恵まれたこともありとても充実した撮影行だったはずです。」

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▲「ぜひ見たいと思っていた北陸鉄道から来たバケットカー、キハ541もいました」と真鍋機関区で撮影したキハ541の写真もお送りいただいた。'83.5.5 P:幾代 裕

「筑波」号を、そして常磐沿線の非電化ローカル私鉄をゆっくりと楽しんだゴールデンウィークの一日が行間から伝わってくるようです。幾代さんは最後に「なお、構内での写真は許可を得て撮影しています。まぁ、許可といっても“すいませんー、写真撮らせて下さーい。”、“いいよー、でも気をつけてなー。”程度のことですが。昔はだいたいのところがそんなものでしたよね。」と記されていますが、そんな現代では考えられない“余裕”も含めて、「筑波」号の時代がなおさら懐かしく輝いて思えるのかも知れません。

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RM本誌今月発売号では日本貨物鉄道㈱の全面的なご協力のもと、この3月改正から新設された九州からの1300トン牽引コンテナ列車の添乗ルポをお送りします。ルポと撮影をお願いしたのは椎橋俊之さん+広田尚敬さんの“ゴールデンコンビ”。添乗していただいた第5050列車は、鹿児島貨物ターミナルを22時39分に発車、北九州貨物ターミナルからコキ車26輌=1300トンとなって遥か東京貨物ターミナルを目指す屈指のロングラン列車です。東京貨物(タ)着は25時間38分後の0時17分。走行距離は実に1,509.8kmに達します。
▲幡生から徳山へ、山陽路を快走する5050列車のEF200-15。幡生でEH500からバトンを受け継いだEF200は遥か東京貨物ターミナルまでのロングランだ。'07.4.11 P:広田尚敬

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▲九州の夜明けは遅い。門司機関区出区線でようやく顔を見せた朝日を逃すまいとカメラを構える広田さん。'07.4.11 P:名取紀之

この1300トン長編成(26輌)コンテナ列車、山陽線輸送力増強事業の完成にともなって、これまで西岡山貨物駅までしか運転できなかったものが北九州貨物ターミナルまで延伸可能となったもので、この1,300トン列車の九州乗り入れによって、年間25万トン、トラックに換算して25,000台に相当する輸送力が増強され、その結果、二酸化炭素排出量を年間36,000トン、窒素酸化物を同じく50トン削減できると言われています。まさにモーダルシフトの最先端を担う環境にやさしい輸送力列車です。

5050re3n.jpgまたこの1300トン列車九州延伸にともなって、平成18年度に新製されたEH500形6輌が門司機関区に集中配置され、北九州貨物(タ)~幡生(操)間で運用されるようになりました。今回の添乗ルポはこのEH500の本拠地・門司機関区から西岡山貨物駅までの区間で、牽引機は幡生からはEF200に受け継がれます。もちろん途中にはあの「瀬野八」越えが控えており、EF67を後部補機とした運転も大きな見所です。
▲鹿児島貨物ターミナルをED76に牽かれて前夜22時39分に出た5050列車は北九州貨物ターミナルに早朝6時26分に着く。ここでコキ車2輌を増結し列車はいよいよ1300トン編成となり、EH500がその先頭に立つ。'07.4.11 北九州貨物ターミナル P:広田尚敬

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今回私は新幹線で“伴走”することとなり、すでにこのブログでもご紹介したように、道中では新日鐵くろがね線広島電鉄など余禄にあずかってきましたが、実際に添乗取材されたお二方のご苦労は察するにあまりあるものです。一昨年11月号(266号)の「スーパーレールカーゴ」の際も同様ですが、途中停車時分がほとんどない長時間の添乗の場合、実はなによりも心配なのがトイレです。スーパーレールカーゴで所要6時間11分、今回の5050レ北九州貨物(タ)~西岡山(貨)間で6時間31分。乗務員さんは幡生、徳山、広島と次々と交代してゆきますが、取材陣は機関車から降りるわけにはゆきません。結局お二人とも前日から水分を控えて、ほとんど飲まず食わずで取材に臨むこととなりました。
▲難所「瀬野八」を越えて山陽本線を一路東へ。東上するに従ってすれ違う列車本数もどんどん増えてくる。'07.4.11 広島~岡山 P:広田尚敬

今週(21日)発売のRM287号特別企画「関門、そして瀬野八…1300tコンテナ列車東へ!」は、そんな取材秘話も踏まえながらご覧いただくと、より一層迫真のものとなるに違いありません。広田さんならではのカメラアイ、そしていつもながらの切れ味の良い椎橋さんのルポで、旅客列車と違って間近で目にすることができない貨物列車の運転の実際を、ぜひ誌上で擬似体験なさってみてください。

特別職用車、薄命の歴史。

RML95h1n1.jpgまもなく発売となるRM LIBRARY第95巻は藤井 曄さん藤田吾郎さんによる『特別職用車 ?占領の落とし子 薄命の歴史?』です。“特別職用車” (Inspection car)とは聞きなれない言葉ですが、1949(昭和24)年に日本に駐留する連合国軍の交通行政を担当していたCTS(Civil Transportation Section)の勧告により、連合国軍総司令部(GHQ)および外国貴賓客の日本国内旅行用、さらには国鉄総裁・運輸支配人・鉄道管理局長などの視察用として誂えられた特別な客車を指します。種車は三等座席車から接収解除された一等展望車、寝台車まで様々でしたが、その多くには会議室、寝台、キッチンなどの設備が設けられ、特に会議室の多くは密閉式展望室となるなど、日本の客車史上、特筆すべき存在でした。

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▲もと本庁用特別職用車マヤ3だったマヤ38 51。試験車となってからも外観・車内設備ともに特別職用車時代と大きな変化はなかったようで、「かもめ」の速度試験等にも用いられた。'56.5.3 尾久 P:江本廣一(RM LIBRARY95『特別職用車』より)

maya38_51.jpg厳密にはその誕生は1947(昭和22)年鷹取工場改造のマイテ47 1(もとスイテ47 1)に遡るようですが、1950(昭和25)年春から本格的配備が開始され、最終的には本庁用6輌(特別職用車番号No.1?6)、各地方鉄道管理局用10輌(特別職用車番号No.21?30)の合計16輌が誕生することとなります。車体標記も「スヤ1」などとこの特別職用車番号のみで記されるなど、明らかに一般車輌とは区別されており、その運用もCTSからの直接の指示による「渉輸送」(渉外事務局扱いの輸送)と呼ばれるまったくの特別ダイヤだったといいます。本書巻末では3ページにわたってこの「渉輸送」実績一覧も掲載しておりますが、冬場はGHQのスキークラブがこの特別職用車を用いて上野?直江津間の特別列車を仕立てるなど、実に贅沢な運転が行われていたことが伺いしれます。
▲特別職用車の特徴でもあった密閉式展望室が目をひくマヤ38 51。P:鈴木靖人(RM LIBRARY95『特別職用車』より)
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▲本庁用特別職用車スヤ1の展望室・会議室部。寝台室、調理室も備え、空気調和装置も設備されていたという。写真所蔵:星 晃(RM LIBRARY95『特別職用車』より)

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▲新潟鉄道管理局用特別職用車スヤ51 17形式図。側面図からは特殊な用途は伺い知れないが、平面図に目を転じるとその設備に改めて驚かされる。(RM LIBRARY95『特別職用車』より)
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suine34_1sina.jpgただ、これらの特別職用車が本来の任務を果たしたのはわずか2年ほどで、1952(昭和27)年の日米講和条約発効を境としてその任を解かれ、国鉄幹部の視察用としてもその豪華さが槍玉に挙げられたこともあって、使用される機会はなくなってしまいました。それでも約半数はその後も事業用車や特殊車に名を変えて特別職用車時代の姿を留めたまま後年まで残ることとなります。一昨年惜しくも解体されてしまった密閉式展望室付きのJR九州の限界測定車オヤ31 21のように、特別職用車時代の面影を残す車輌はこの21世紀にまで生き延びていたのです。
▲旭川鉄道管理局用スイネ34 1の落成直後、石炭庁への貸し渡し時の記念写真で、車体に国鉄が公共企業体として発足する以前の略称「JGR」の標記が見える。'48.8.9 品川 写真所蔵:星 晃(RM LIBRARY95『特別職用車』より)
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本書は藤井 曄(ふじい あきら)さんが1979(昭和54)年に鉄道友の会客車・気動車部会報に発表されたものをベースに、その後判明した資料や写真を盛り込んで藤田吾郎さんがとりまとめたものです。残念ながら藤井さんはお亡くなりになりましたが、若き研究者がこういった形で先人の研究を引き継いで発表してゆく、そういった面でも注目すべき一冊ではないかと思います。
■『特別職用車 ?占領の落とし子 薄命の歴史?』
定価:1,050円 ●B5判正寸・56ページ+カラー表紙

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▲射水線の庫は富山湾にほど近い四方にあった。3線の木造矩形庫の奥には富山港線の前身・富岩鉄道生え抜きのボ2が除雪用に残されていた。'78.8.29 四方車庫

おかげさまで「編集長敬白」もこの6月で2周年を迎えましたが、ここにきて一般マスコミからの問い合わせや取材が目立って増えてきています。現代のメディアが企画立案の段階でインターネットの検索エンジンを手がかりとしていることが一番の要因で、すでに700エントリーを超えているこのブログのアーカイブがいろいろな局面で検索されているようです。そんなわけで先日も富山テレビさんの取材を受けることとなりました。

toyamatv.jpg富山テレビ(BBT)では廃止された射水線の特集を企画しているそうで、やはりネット検索をかけたところ、かつてこのブログで3回にわたってご紹介した「射水線追想」が浮かび上がり、ご連絡をいただいたというわけです。ちょうどこの4月には一周年を迎えた富山ライトレールを訪ねたこともあって、それでは是非とも取材をと、わざわざ富山から取材陣が来社されることになりました。
▲富山テレビのインタビューで、射水線を歩いた日々を語る。'07.6.14

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▲四方から新港東口へと富山湾沿いを走る射水線は貨物列車こそなかったものの、海産物を市内へと運ぶ役割も担っており、一時は行商専用車も存在したという。'78.8.27 新港東口

toyamatv3.jpg実は先日富山を訪れた際には射水線の廃線跡も垣間見てきました。四方(よかた)から終点の新港東口までの一部区間だけを駆け足で覗いたに過ぎませんが、線路跡は自転車道となって残っているものの、周辺のあまりの変わりようには言葉がありませんでした。考えてみると私が最後に射水線を訪れてからもう30年もの歳月が流れようとしています。変わって当たり前ではありますが、いかにも漁村を思わせる木造平屋が立ち並んでいた辺りには、現代風の二階建て住宅ばかりが目につき、それにも関わらず人の気配が希薄になってしまっているのが気になりました。
▲海老江駅の本屋内。かつては交換設備を擁するそれなりの規模の駅であった。'78.8.29 海老江
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▲射水線線路跡の現在。四方から新港東口までの海沿いの区間は自転車道として整備されている。'07.4.30 海老江付近

若いカメラクルーはお見せした新富山駅などの写真もピンとこないようで、こちらが神通川で、こちらが大学前方面…などと東京生まれ東京育ちの私が説明するという奇妙な場面もありました。
この射水線を特集した番組、7月9日19時から「BBTスペシャル」として放映されるそうです。視聴可能地域の皆さんはぜひご覧になってみてください。

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昨日に引き続いて完成したばかりの小田急電鉄4000形をさらに詳しくご紹介してみましょう。

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▲各部の色を一般席部分と変更することで区分を明確にした優先席部分。なお、客室内の号車表示や非常ドアレバーなどの案内シール類は地下鉄内での停電などに備え蓄光式が採用されている。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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▲4000形のオフィシャルパンフレットより。新型車の要点が一目瞭然手にとるようにわかる。(小田急電鉄提供/※主制御装置と補助電源装置の写真が入れ違っています。)
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▲唐木田車庫に停車中の4000形。背後には乗り入れ相手の東京メトロ6000系が見える。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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9号車に位置するM1車デハ4001。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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▲左/パンタグラフなしの中間車の屋根上を見る(T1/サハ4351)。右/パンタグラフ付き中間車の屋根上を見る。E233系のような2コパンタ車はない(M5/デハ4401)。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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ちなみに小田急ファンならご存知の通り、小田急電鉄で4000形という形式は2代目にあたります。初代は1966年に登場し2004年末まで活躍していましたから、引退からわずか2年余りで形式がリサイクルされたことになります。

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▲吊り掛け駆動時代の初代4000形。1985(昭和60)年から冷房化・高性能化され、2004(平成16)年まで活躍した。'84.2.25 鶴川?玉川学園前 P:RM(青柳 明)
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この二代目4000形は10輌編成70輌が投入される計画で、本年9月からの就役が予定されています。小田急電鉄ではこれに続いて初の千代田線直通用ロマンスカー60000形MSEも9月竣功、春頃就役の予定で、今秋以降の千代田線はしばらく注目の路線となりそうです。

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▲4000形主要諸元表。(小田急電鉄提供/※連結器欄2行目「開放止付」は削除)
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2月6日付けの小ブログで完成予想図をご紹介した小田急電鉄の新型通勤電車4000形が報道公開されました。この4000形は現在1000形が使用されている東京メトロ千代田線直通列車用として新造された車輌で、初代乗り入れ車の9000形から数えて3代目の地下鉄千代田線乗り入れ車ということになります。また、小田急電鉄の通勤車としては、2001(平成13)年の3000形以来の新系列誕生です。

oer4000hyou1.jpg既報の通り、この4000形は電気機器や保安機器を二重系化することで「故障に強い車輌」とするなど、JR東日本E233系をベースに設計されたものです。その一方、低騒音化を図る全密閉式の主電動機がロマンスカー50000形VSEに続いて通勤車では今回初めて採用されており、このため主回路装置はE233系の設計をベースに一部変更したものを搭載しているとのこと。ちなみに計画当初はE231系ベースで検討が進められていたものの、その後JR側がE233系に移行したことに合わせ、4000形もE233系ベースで進められることになったとのことです。
▲4000形のパンフレット表紙。(小田急電鉄提供)
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▲下り(小田原)方から見た4000形。帯色はこれまでと同じ青系だがイソマツ科の「ルリマツリ」の花の色をイメージした色調に変更され、これまでの「ロイヤルブルー」に対し「インペリアルブルー」となった。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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車体は中央線用のE233系と比べると裾絞りのない台形のストレート車体ですが、JR東日本でも2008年夏頃に常磐緩行線?千代田線直通用にストレート車体のE233系を投入することを発表しており、今回の小田急4000形はこれと兄弟関係ということができるでしょう。また車体の継ぎ目や側扉窓の形状、あるいは側面の行先表示器など細部に目をやると、明らかにこれまでの3000形よりもE233系に近いことが判ります。

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▲パンフレット中面ではまず「人と環境にやさしく故障に強い車両」を強調。(小田急電鉄提供)
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▲客室内。腰掛の左右幅は1人当たり460mmとなり、3000形に比べ10mm拡大されている。腰掛の形状や7人掛けの腰掛を2-3-2で区切る曲線形状の握り棒はE233系と同様だが、吊り手や荷棚の形状は3000形と同様。LCDによる案内表示器も3000形増備車と同じく各扉上1画面である。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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▲運転席。マスコンの形状はE233系と同様になったが、中央線用のE233系とは異なり速度表示などにLCDは用いていない。'07.6.14 唐木田車庫 P:RM(高橋一嘉)
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▲東海道新幹線の貨物輸送構想を受けて試作された初のコンテナ貨物電車クモヤ22001。コンテナ電車は40年以上のちの“スーパーレールカーゴ”M250系の登場まで実用化されることはなかった。'60.10.13 鉄道技術研究所 P:三谷烈弌(RMライブラリーNo.50『昭和の記憶』より)

第2回「アジア鉄道首脳者会議」(ARC)は1960(昭和35)年10月13日から20日まで8日間の会期で行われましたが、なんと鉄道記念日でもある14日から最終日までは一般にも公開されました。パンフレットから実物鉄道車輌に限って、下にそのラインナップをご紹介してみますが、近鉄特急など私鉄車輌までもが含まれているのが驚きです。昨今の大宮の公開などというレベルではないその豪華な顔ぶれに、見ることかなわなかった世代としては軽い羨望さえ禁じえません。

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▲「アジア鉄道首脳者会議」(ARC)の英文パンフレットに見る屋外展示車輌のラインナップ。和文の展示目録(岡田誠一氏所蔵)と見比べると分かりやすい。
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展示品は車輌のみならず、ありとあらゆる鉄道関連用品にまで及んでいました。パンフレットを解読してみると、信号、通信、電力、荷役、工作、施設用品から建設機械、バスまでが出展されており、主催の国鉄のみならず、鉄道車輌工業会を中心としたメーカー各社がなみなみならぬ力を注いだエキジビションであったことが伺い知れます。
果たしてこの「アジア鉄道首脳者会議」がどれほどの成果、つまりは日本の鉄道技術・製品の輸出促進に結びついたのかは知れませんが、少なくとも国内の関係者・愛好者にはまたとない絶大なアピールになったことは確かでしょう。時まさに東海道新幹線開業前夜。151系「こだま」が、20系客車「あさかぜ」が新車だったこの時代は、いまさら振り返っても国鉄の、いや日本の鉄道車輌が“夢”を持って一番輝いていた時代だったのではないでしょうか。
ちなみにこの「アジア鉄道首脳者会議」、第3回は車輌展示等のエキジビションはなく、会議のみが行われたと伝え聞いています。

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▲「はつかり」での営業開始を前にARC招待客専用列車として東京駅?国立?鉄道技研専用線と運転されたキハ81系。'60.10.13 鉄道技術研究所 P:三谷烈弌

今日は手元にあるA4判のパンフレットをご紹介してみましょう。「RAILWAY EXHIBITION 1960」と題された40ページのこのパンフレットは、1960(昭和35)年10月14日から20日にかけて東京国立の鉄道技術研究所を舞台に行われた第2回アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference) の海外来賓向けに作られた英文のものです。

arc3nn.jpgARCと略称されるアジア鉄道首脳者会議は、当時まさに破竹の勢いで技術力・生産力を伸ばしつつあった日本の鉄道産業をアジア各国の鉄道首脳を集めて知ってもらい、ひいては鉄道車輌・部品の輸出促進を図ろうと計画されたものです。十河信二国鉄総裁の肝いりで第1回が開催されたのが1958(昭和33)年。この時は国鉄大井工場を会場にさまざまな実物車輌展示が行われ、わが国の鉄道技術を広くアピールするものとなりました。もちろん趣味的にも101系量産車やクモヤ93000、DF41などが初お目見えし、大きな話題となったと聞きます。この時の展示車輌の様子は三谷烈弌さんのRMライブラリーNo.50『昭和の記憶』でも伺い知ることができますが、よくぞこれだけの試作車・試験車を集めたものと今さらながら驚きを禁じえません。
▲巻頭には島 秀雄国鉄技師長による「In Opening the Railway Exhibition 1960」(鉄道博1960開催にあたって)が掲げられている。
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▲『Railway Exhibition 1960』の表紙(左)と裏表紙(右)。表紙は川越線でのキハ81系試運転の状況がカラーで収録されている。それにしても全編を通してのデザインセンスの良さは特筆される。
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arc5nn.jpg第1回の成功を受けて第2回目の「アジア鉄道首脳者会議」が開催されたのは1960(昭和35)年10月のことです。第2回は会場を東京・国立の鉄道技術研究所に移し、屋外の実物展示車輌も70輌あまり(第1回は35輌)と飛躍的に規模の大きなものとなりました。そしてその展示車輌のなかでもひときわ注目されたのがデビュー前のキハ81系でした。一説にはこの第2回ARCに間に合わせるために開発を急いだとも伝えられる国鉄初のディーゼル特急車は、会場展示のみならず、招待客輸送特別列車として東京駅から鉄道技研専用線まで実際に運転され、電化率が決して高くはないアジア諸国の鉄道首脳者に大きなアピールをしたと伝えられます。
▲館内展示案内の1ページ。まだ東海道新幹線は開発途上で、新東海道本線の“multiple-unit electric train”として完成予想図が紹介されている。項目2に掲げられた4M6T30輌編成の新幹線貨物電車にもご注目。
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ところでこのA4判パンフレットですが、英文ということを差し引いてもそのエディトリアル・デザインの秀逸さに驚かされます。かつてこのブログでも、かの日本工房が一時期国鉄パンフレットの制作に関わっていたことはご紹介しましたが、時期的に日本工房の仕事ではないものの、このARCパンフレットもその辺の流れをくむと思われます。中綴じの中央部に浜名湖をゆく「こだま」を大胆な見開きで挿入したり、巻頭に別紙の画用紙で日本画調の水彩画を配したり、まさに贅を尽くした体裁は、一方ではまだまだ勢いのあった国鉄を象徴していたとも言えましょう。

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▲色上質紙に刷られた別紙の会場案内図。1号館には東海道新幹線の模型・図面展示とある。
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亀山、あのころ。

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休日に古い写真箱を整理していたら、忘れていたブローニーのネガカラー・フィルムがごっそりと出てきました。1972(昭和47)年頃からカラーはリバーサルに転じていますので、ネガカラーとなるとそれ以前の撮影ということになります。しかも仕事柄ネガカラーには比較的冷淡なこともあって、ポジフィルムやモノクロフィルムほど保管に気を配っておらず、ともすると今回のようにその存在そのものを忘れてしまっていることさえあります。
▲広大な亀山操車場をバックに加太へと向かうD51 691〔奈〕牽引の荷41列車。亀山(操)ではC50たちが小まめに入換えに励んでいた。'71.3 亀山(操)?関

kametama2n145.jpgしばし懐かしさに浸りつつ、いくつか目にとまった中に1971(昭和46)年春に関西本線加太越えを訪れた時のカラーネガがありました。モノクロの方は撮った覚えもあり、絵柄もだいたい記憶しているものの、ブローニーのネガカラーとなると引き伸ばしたこともなく、絵柄そのものが初めて見るような新鮮ささえ覚えます。
当時のフィルムは従兄弟のカメラマンから貰った期限ぎりぎりのエクタカラー・プロタイプS(CPS)。流石に36年の歳月を経て退色とカビの繁殖がひどく、ひと昔前であればとてもプリントできる状態ではない代物ですが、そこは今日のデジタル処理の恩恵、スキャニング+素人画像処理で、ものの10分ほどでとりあえずは見られる状態にまで復元することができました。
▲亀山を発車、猛然とダッシュするD51 145〔亀〕。この145号機はのちに紀伊田辺→浜田→長門と転じ、1975(昭和50)年まで生き延びている。鷹取式集煙装置取付は1957(昭和32)年2月。それにしても、モノクロ35ミリと二刀流での撮影の結果はこの有り様…。'71.3 亀山(操)?関
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関西本線亀山を最初に訪れたのはこの写真の前年、1970(昭和45)年夏のことでした。急行「紀伊」、関西本線、草津線経由大阪行きの切符を買った時、手書きの券面に「経由/八田」と書かれ、八田が名古屋の隣の関西本線の駅名だとわからずに、窓口まで引き返して尋ねたことを今もって鮮明に思い出します。
▲名古屋口が無煙化された後も、亀山区のC57は参宮線の旅客仕業に細々と残されていた。鈴鹿川橋梁を渡り亀山駅構内に到着しようとする上り普通列車。'71.3 下庄?亀山

この当時の亀山界隈はまだまだ蒸機王国で、重油併燃装置+集煙装置で武装した重装備D51たちに混じって、色差しナンバーが鮮やかなC57、それに甲斐甲斐しく入換えに励むC50など、ホームにいるだけでも見飽きることのない光景が展開されていました。亀山が無煙化されたのは1973(昭和48)年秋。思えばあれから今日まで亀山駅に降り立つ機会はありませんでしたが、私にとって今でも忘れられない駅であることは確かです。

茂内駅の腕木式信号機。

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▲茂内駅上り方に聳える腕木信号機群。赤い矢羽根は場内信号機で、黄色の矢羽根が今やきわめて貴重な通過信号機。'06.11.23

かつてはローカル線の象徴でもあった腕木式信号機も急速にその数を減らし、気が付けばJR線内ではすでに絶滅、私鉄でも今春のくりはら田園鉄道廃止でさらに減少し、今やその姿を見られる駅は、指折り数えても全国で十指に満たない貴重さとなってしまいました。

shigenai8n.jpgそんな状況のなかでひときわ注目されるのが小坂製錬小坂鉄道の途中駅・茂内駅の腕木式信号機群です。小坂鉄道では現在でも非自動閉塞のタブレット式が使われており、昔ながらの閉塞機箱や連動テコを目にすることができますが、ことにこの茂内駅には全国で唯一となってしまった通過信号機が残されています。赤い場内信号機の矢羽に混じってその存在を主張する黄色い矢羽の通過信号機はもちろん“今なお現役”で、一日に2回、ガタンと音をたてて通過を現示しています。
▲小坂製錬線唯一の途中駅である茂内は補機解放の拠点。小坂からのヘルパーはここ茂内で解放される。駅名標に今はなき両隣駅の駅名が標記されているのが微笑ましい。'06.11.23

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▲上り方場内/通過信号機(左)と上り出発信号機(右)。上り列車はすべて補機解放で停車するため、下り小坂方には通過信号機はない。'06.11.23

現在小坂製錬小坂鉄道には平日2往復の貨物列車が設定されていますが、大館起点19キロ付近の第二号隧道をサミットに25‰の急勾配が続くため、小坂からの上り列車は補機を連結してDD130形の3重連として運転されています。この補機を解放する拠点となっているのがここ茂内駅です。小坂から3重連でサミットを越えて下りこんできた上り列車は、茂内で補機を解放、単機(52レ)もしくは重連(54レ)となって大館へと向かって行きます(補機は解放後そのまま小坂へ回送)。いっぽう補機を連結する必要のない下り列車(51レ・53レ)はこの茂内を通過、この際に件の通過信号機が使われるというわけです。

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▲積雪時の対策なのか腕木信号機のワイヤー(連動索)は地上からかなり高い位置に這わされている。'06.11.23
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▲途中、出発信号機へのワイヤーをプーリーで分岐させ場内/通過信号機へと続く。プーリー部には簡単ながら覆いが付けられている。'06.11.23

もちろん閉塞がタブレット式だけに通過信号機のみならずいわゆる通票授受器も現役で、下り貨物通過の際にはタブレットキャリアーを受け渡す昔ながらの光景を目にすることができます。

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▲かつては長木沢線や大館営林署長木沢森林軌道が分岐していた茂内駅構内は今でもたっぷりとした有効長を持つ。昔も今もここから小坂までが最大の難所だ。写真は大館方を見たところ。'06.11.23

人間の手によって閉塞操作を行う非自動閉塞は、ここ十年ほどで激減しました。そしてその象徴でもある腕木式信号機も今や指折り数えるほど…。原始的と言ってしまえばそれまでですが、人の手によって列車が運行されていた鉄道システムは、間もなく博物館でしか見ることができなくなってゆくのでしょう。

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標津線なき今となっては、奥行臼を訪ねるには一日数本のバスかクルマしかありません。それでも別海町内の道路はどこも広く快適に整備されており、かつてこの周辺が轍をよせつけない大湿原であったとはとても思えません。
▲奥行臼駅前に保存されている別海村営軌道の車輌たち。ちょうどかつての車庫脇の本線に相当する線路に並べられており、フェンス等もないためまるで現役時代のワンシーンのよう。'04.6.20

kanikidou23n.jpg道東に発達した簡易軌道(殖民軌道)は、そんな入植地の唯一の交通手段として極めて特殊な歴史を歩んできました。国(農林省)が所管し、地元自治体が管理運営を行い、敷設・改良を北海道開発局が行うこれらの軌道は、“運賃”を収受して旅客輸送を行っているにも関わらず運輸省は監督しておらず、統計上も鉄軌道には含まれていません。それなのに例えば歌登町営軌道のように時刻表にまで掲載されていたり、まさに縦割り行政の縮図のような存在だったのです。
▲別海村営軌道には2輌の気動車(自走客車)が導入されたが、残されているのは1963(昭和38)年釧路製作所製。定員60人のなかなか近代的な外観である。別海町の文化財に指定されている。'04.6.20
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▲こちらは1962(昭和37)年加藤製作所製の6tディーゼル機関車(製番62176)。風蓮線の経路変更・動力化に伴って新製導入された機関車で、加藤製の機関車としては最後期の製品。'04.6.20

奥行臼から出ていた別海村営軌道はそんな簡易軌道のなかでも最後まで残った路線のひとつでした。残された数々の写真を見るに、終点の上風蓮までの13キロあまりは、見渡す限りの牧草地と湿地帯を行く北海道ならではの光景が展開していたようです。自走客車と呼ばれる気動車2輌を擁していたものの、村営軌道の主な任務は沿線の農家からの牛乳の集荷でした。ことにこの別海村営軌道ではミルクタンク車まで用意していたのですから驚きです。

kanikidou22.jpgこの別海村営軌道(簡易軌道風蓮線)、かつては根室本線の厚床を起点にした馬車軌道でした。しかも他の簡易軌道が次々と動力化されてゆくなかで1960年代まで馬力のまま残された珍しい存在でした。これは経路にあたる姉別川・風蓮川流域の大湿地帯が動力化を阻んでいたためとされ、結局、厚床起点の路線を廃止し、奥行臼起点に経路変更されることとなります。新路線が動力化されて開通したのが1963(昭和38)年。ただこの頃になると同時に根釧原野の道路整備も急速に進みはじめ、せっかく開通した別海村営軌道はわずか7年後の1970(昭和45)年冬に休止、翌年春に正式に廃止となってしまうのです。
▲道東の簡易軌道を象徴する存在がこの“ミルクゴンドラ”。軌道沿線の酪農家から出荷されるミルク缶をこのゴンドラで集荷するのが簡易軌道に課せられた重要な役割だった。'04.6.20
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▲保存車輌の横にはかつての転車台ピット(直径9m)も残されている(左)。この転車台の先に3線の矩形庫があったはずだが、今やブッシュに覆われて原野に還ろうとしている(右)。'04.6.20
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この軌道に格別惹かれたのにはもうひとつわけがありました。広田尚敬さんの最初の写真集『魅惑の鉄道』で見た馬鉄時代の風蓮線の写真です。見渡す限りの根釧原野をパカパカと走るミルク缶を積んだ馬車鉄道の姿が強烈な印象となってずっと脳裏に残っていたのです。同書に出ているのはわずか3カットですが、きっとほかにも色々なシーンを撮られているはず…その願いがかなったのが『トワイライトゾ~ン・マニュアル5』で発表いただいた「一馬力の殖民軌道 ~簡易軌道風蓮線の一日~」でした。上風蓮の郵便局に泊めてもらって馬鉄を追ったフォト・ドキュメントは、広田さんならではの優しい眼差しの写真の数々とともに、またしても私の風蓮線への思いを増幅させることとなったのです。

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▲5万分の1地形図に見る路線変更以前の馬車軌道時代の簡易軌道風蓮線。1963(昭和38)年に姉別川・風蓮川流域の大湿地帯を避けて、風蓮までの区間は奥行臼起点に変更のうえ動力化された(国土地理院発行1:5000地形図「姉別」昭和21年発行に加筆)。右は「一馬力の殖民軌道 ~簡易軌道風蓮線の一日~」でご紹介した馬鉄時代最後の年の風蓮線。広田さんはこの馬鉄に会いたいがためにわざわざ道東を目指したという。'68.10 P:広田尚敬(『トワイライトゾ~ン・マニュアル5』より)
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思えば別海村営軌道が廃止された1971(昭和46)年は、私たちの世代にとって微妙な年でもありました。あのC62重連の「ニセコ」が消えたのもこの年です。幸いにも「ニセコ」を目にすることはできたものの、奥行臼に足をのばすことはかないませんでした。あと○年早ければ…奥行臼に限らず、この趣味にはつねに付きまとう見果てぬ夢なのでしょう。

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根釧原野のローカル線・標津線を最初に訪れたのは1973(昭和48)年のことでした。ひたすら続く原野と牧草地の中をゆく標津線はいかにも北海道らしい直線区間が多いものの、その一方で丘陵地帯の地形のままのアップダウンが激しく、貨物輸送を担っていたC11たちは意外と苦戦を強いられていました。
▲ルピナスの花に囲まれてつかの間の夏を迎えようとしている奥行臼駅。1963(昭和38)年から1971(昭和46)年までわずか8年ほどの短い間だったが、この駅前に別海村営軌道が敷き込まれていた。'04.6.20

okuyukiusu9n.jpgこの標津線奥行臼(おくゆきうす)駅前から根釧原野の開拓地・上風蓮を目指してのびていたのが別海村営軌道(簡易軌道風蓮線)です。『鉄道ファン』誌112号(1970年9月号)で“けむりプロ”が「ミルクを飲みにきませんか」と題してこの軌道をとりあげ、なおかつ左右に激しく揺れながら早春の軌道をゆく気動車の様子が折り込みにまでなっており、そのインパクトたるや強烈なものがありました。通常の都会生活をしていれば知るはずもない「別海村」の名が脳裏に焼き付いたのも、これがきっかけでした。
▲1933(昭和8)年12月1日の開業時からの駅本屋は1989(平成元)年4月の廃線時にも良く原型を留めており、1991(平成3)年には別海町の指定文化財に登録されている。'04.6.20
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▲構内の側線は実は一旦は撤去されていたが、駅舎が指定文化財となったのを機に再び敷設されたもの。いかにも現役時代そのままの雰囲気を醸し出している。'04.6.20

okuyukiusu4n.jpgところがやんぬるかな、タッチの差で別海村営軌道は廃止されてしまい、結局この目であの簡易軌道風蓮線を見ることはかないませんでした。あれほどインパクトを受けた鉄道、しかも東京からは遥か離れているとはいえコンテンポラリーに存在していたはずの鉄道を見ることができなかった悔恨は、私の中でさながらトラウマのごとく尾を引きました。
▲構内外れにある共同風呂。いかにも北海道らしい建築方式でこれも目をひくが、実は春別駅で使用されていたものを移設したとのこと。'04.6.20
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▲広々とした構内はそれだけで1960年代の道東のローカル線を彷彿させてくれる。しかしよくよく見ると背後に携帯中継用アンテナが…(左)。右はまるで森の中へまで続いているかに見える軌道。'04.6.20
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3年ほど前、その奥行臼駅跡を訪ねてみました。標津線そのものが1989(平成元)年4月29日限りで廃止されてしまっていますが、開業時の駅本屋は町の指定文化財として保存されており、一時は撤去されていた構内の線路も往時を偲ばせるように復元されています。しかも駅前と国道を挟んだ逆側には、車庫や転車台をはじめとした別海村営軌道の施設がいまだに残されており、機関車と気動車、それに貨車も比較的状態良く保存されています。

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▲駅前と国道を挟んだ反対側に元の別海村営軌道の車庫があった。現在でも車輌や転車台が保存されており、このように駅前から見渡すと簡易軌道ありし日の情景に思いを馳せることができる。'04.6.20

『簡易軌道写真帖』(モデルワーゲン発行・弊社発売/絶版)にこの奥行臼駅周辺の見取図が掲載されていますが、それによると、駅本屋に横付けするかたちで出発した軌道はすぐに90度向きを変えて国道の踏切(軌道側に遮断機があったそうな…)を渡り、現在車輌が保存されている場所を通って根釧原野へと乗り出してゆきます。今、保存されている奥行臼駅頭に立って辺りを見渡すと、そのリアルさに、ふたたびわが目で現役時代を見られなかった悔しさを思い知ることになるのでした。

思い出の「筑波」号。

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常磐線土浦と水戸線岩瀬の間40.1kmを結んでいた筑波鉄道が廃止となってこの春で20年が過ぎました。最終運転日は1987(昭和62)年3月31日。奇しくも20年目の今年3月31日には、同じ関東鉄道として一時は筑波線・鉾田線の間柄だった鹿島鉄道が廃止され、今や常磐線接続の地方私鉄はめっきり少なくなってしまいました。
▲DD501の牽引で筑波駅に到着した上野発の「筑波」号。6輌の12系客車から一斉に降り立った乗客が怒涛の如く構内踏切をわたる。ローカル私鉄の観光地にもこれだけの集客があった時代である。なお、右のキハ811はもと雄別鉄道の道産子気動車。'79.5.5 筑波

tukubagou14n.jpg筑波鉄道は1965(昭和40)年に関東鉄道に統合されるまでは常総線とともに常総筑波鉄道を名乗っていました。両線ともにまさに関東平野のど真ん中、言うなればとりとめのないのが最大の特徴のような風景の中をゆく非電化路線で、払い下げのキハ04系や北陸鉄道からの転属気動車など車輌的面白さを除けば、私にとってそれほど惹かれる存在ではありませんでした。それでもそんな筑波鉄道に毎年のように通ったのが5月の大型連休です。連休期間中、上野から筑波行きの直通快速「筑波」号が運転され、しかも客車列車とあって、筑波鉄道内ではふだんめったに動く機会のないDD501がその牽引機を務めたからです。
▲「機関士」の腕章も誇らしく、普段は休車状態のDD501もこの日ばかりは晴れ舞台を踏む。'79.5.5 筑波

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▲筑波鉄道はひたすら関東平野を走り、写真的にはまとめにくいロケーションではあった。12系6輌を牽いて茫洋とした風景の中をゆく下り9431レ「筑波」号。'79.5.5 常陸北条?筑波

1970年代中盤には鉾田線(鹿島鉄道)を除いて貨物輸送が廃止されてしまったため、常総線に残されたDD502と筑波線に残されたDD501は工臨などに使用される程度で、日中走る姿を捉えことはなかなかできませんでした。それだけに「筑波」号は千載一遇のチャンス。うららかな気候も後押しして、毎年のように筑波通いをすることとなったのです。

tukubagou15n.jpg筑波線所属のDD501は1954(昭和29)年新三菱重工製の35tBB型ディーゼル機関車。三菱製DE21形機関(225ps/1400rpm)を2基備える当時としては画期的な高出力機でした。ディーゼル機関車とはいえ蒸気機関車を連想させるロッド式の足回りはなんとも魅力的で、6輌の12系を牽いて懸命にロッドを回転させる様はなんとも微笑ましいものでした。
■「筑波」号 (4月29日、5月3?4日運転/1979年)
下り9431レ:上野 8:05→土浦 9:10/9:24→筑波10:05
上り9436レ:筑波15:12→土浦15:52/16:25→上野17:33

▲この当時はまだヘッドマークが誂えられていなかったが、のちに筑波山が描かれた巨大なヘッドマークが掲げられるようになる(姉妹ブログ「わが国鉄時代」参照)。'79.5.5
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それにしても当時の筑波山は観光スポットとしてかなりの吸引力があったようで、この「筑波」号のほかにも、かつては日立から水戸線経由で筑波まで乗り入れる「筑波山」号が運転されていた時期もあります。改めてネガを見直してみると、連休とはいえ「筑波」号の乗車率はかなりのものです。もちろんまだ常磐自動車道もなく、観光地へのアクセスは鉄道が優位を占めていた時代ではありましたが、連休の一日、上野から「筑波」号で筑波山に遊びにゆく家族連れの姿を想像すると、なんとも隔世の感があります。

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「光陰矢の如し」とは言い古された言葉ですが、この秋であの碓氷峠が消えてから10年が経ちます。急行「能登」の489系化、EF62の運用離脱、そして最後のサプライズ=茶塗りの“ロクサン”の登場と、激動の日々がもう10年も前の出来事だとは、にわかに信じがたくもあります。
▲全盛期の碓氷峠には昼夜の別なく“ロクサン”のホイッスルが響いていた。181系「あさま」に連結を完了、峠に向けてまさに発車しようとするEF63 21〔横〕。'71.11.17 横川 P:笹本健次
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usuihon12n.jpgさて、そのファイナルステージに増刊号として発行し、多くの方からたいへんなご好評を頂戴したRMポケットシリーズ『碓氷峠』をこのたびムック版としてリプリントいたしました。
あの当時、毎週のように“峠通い”をしていた方も少なくないと思いますが、一方で最近の20代のファンの皆さんにとっては、碓氷峠を自分の目で見られたかどうかがひとつの趣味の指標となっているとも聞きます。たしかに現在22歳(大学4年生位)であれば、碓氷峠廃止は小学校6年生頃の出来事です。幸運にも“ロクサン”のブロワー音を体験できた方にとって、碓氷峠は生涯消えることのない趣味の原点となったでしょうし、残念ながら間に合わなかった方には、永遠の憧れの対象としてあり続けるに違いありません。それはひと世代前が、1975(昭和50)年以前の「現役蒸機」を体験できたかどうかにも似ていると言えます。

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▲井田定男さんの18ページにおよぶカラーグラフ「ロクサンよ永遠に…」は峠に賭けたファンならではの情熱が凝縮されており時代を超えて圧巻。井田さんにはこのほかにも貴重な空撮画像など数々の作品を紹介していただいている。(『碓氷峠』より)

さて、改めてご紹介しますと、この『碓氷峠』はあらゆる面から碓氷峠を語り継ぐバイブルを目指して編集したもので、数々のカラー名場面集とともに、資料面でも比肩するもののない濃密な内容となっております。コンテンツからその一部をご紹介すると…。
・EF63と協調運転システム
・EF62、EF63のすべて
・横軽協調用電車169、189、489系
・横軽協調を運転する
・EF63形態分類/25輌のプロフィール
・アプトの盛衰
・EF63全般検査徹底追跡
・碓氷峠の一世紀/年表、碓氷峠の変遷

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▲66.7‰粘着走行+協調運転という極めて特殊な運転を、添乗取材と横川運転区乗務員による極めて専門的な解説で紹介。二度と見ることのできない横軽協調運転の実際を語り継ぐ貴重な資料でもある。(『碓氷峠』より)

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▲そして「アプトの盛衰」はED42時代に実際に乗務されていた中屋さんによる回想録。アプト時代の運転の実態が見事に語られている。(『碓氷峠』より)

10年ぶりに出来上がってきた本を手にすると、個人的にも碓氷峠の思い出が走馬灯のように次々と浮かんできます。寒さを堪えた厳冬の熊ノ平、EF63の添乗取材、ED42の復元セレモニー、息を切らせて上った「ザンゲ岩」、そして碓氷峠の生き字引だった今は亡き中屋 栄さんとの思い出…。10年の時空を経て、改めて碓氷峠の存在の大きさに気づかされた思いがします。
『碓氷峠』
A5判300ページ/定価2000円(税込)

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JR東日本は、ジェイアール東日本コンサルタンツ㈱が提供する三次元衛星画像配信サービス「グーグルアース レールウェイ」(Google Earth & Railway)を導入し、今後は三次元デジタル化した鉄道空間情報をさまざまな場面で活用してゆくと発表しました。
▲都市計画での利用イメージ例。新宿上空から新宿副都心方面を3D画像で展望する。今後一層過密化する都市部での建設計画策定などにうってつけのバーチャルシミュレーションとなる。(JR東日本提供)

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▲線路平面図と重ね合わせた防災計画での利用イメージ。さらに気象情報等との重ね合わせも可能で、防災面でも大きな力となってゆくものと思われる。(JR東日本提供)

グーグルアース(日本版)はこのブログでもいち早くご紹介し、そのポテンシャルの高さに注目してきましたが、早くも鉄道事業者自らがコラボレーションした事業展開を図る段階となったわけです。JR東日本ではすでに線路平面図や停車場平面図などを電子地図化した鉄道用GIS(地理情報システム)=「鉄道GIS」を構築しており、これと三次元衛星画像配信サービスを合体することによって、鉄道事業の枠を超えた幅広い分野での活用を目指しています。

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▲そして観光での利用イメージ。まさにグーグルアースならではのパースペクティブと臨場感で見る者に迫ってくる。(JR東日本提供)

改めてご紹介するとグーグルアースは高解像度衛星写真をベースに地球上すべてを三次元データ化し、自在に拡大、縮小、回転、鳥瞰表示、さらには3D画像化することが可能なソフトで、個人利用には無料開放されているのも大きな特徴といえましょう。

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プレスリリースによれば、「グーグルアース レールウェイ」でまず計画されているのが防災計画、都市計画、マーケティング分析、さらには観光事業での活用です。三次元衛星画像に設備情報や気象情報を複合的に重ね合わせることによっての防災計画策定業務への利用、過密化する都市部のビル建築など都市計画への利用、さらには観光情報と重ね合わせることによる観光事業への利用など、その可能性は無限といってよいほどです。
▲首都圏の主要駅で無料配布された横浜支社制作の旅行用小冊子「レールウェイ ジオラマップ(小田原?東伊豆の旅)」。戦前隆盛を極めた吉田初三郎の鳥瞰図のIT版といったところだろうか。(JR東日本提供)

「グーグルアース レールウェイ」はすでにJR東日本エリアを中心に全国主要都市、鉄道路線などをカバーしており、今後全国を面的に整備してゆく予定だそうです。

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昨日は友人に誘われるままに足を向けた秩父鉄道で珍しい光景に出くわしました。なんとあの「パレオエクスプレス」が電気機関車牽引、しかも重連牽引だったのです。
▲“パレオ色”のデキ201+デキ104の重連を先頭に白久のカーブを行く5002レ「パレオエクスプレス」。影森以遠に電気機関車牽引列車が走ることはきわめて珍しい。'07.6.3 三峰口?白久

titibudeki12n.jpg聞くところでは前日の2日土曜日、「パレオエクスプレス」の復路5002レを牽いていたC58 363が寄居付近で不調となってリタイヤ。突然の不具合とあって、翌日曜日、つまり昨日の「パレオエクスプレス」はやむなく電気機関車の“代走”となったのだそうです。ただ、現車4輌とはいえEDにとって影森?三峰口間の20‰勾配は苦しく、結局デキ201とデキ104の重連牽引という珍しい光景が繰り広げられることとなったわけです。
▲影森を後に三峰口を目指す下り5001レ。上下列車ともに“パレオ色”のデキ201が重連の先頭に立った。'07.6.3 影森?浦山口
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▲三峰口ホームで発車を待つ上り「パレオエクスプレス」。蒸気機関車牽引でないとあって、日曜日にも関わらず4輌編成の車内はがらがらだった。'07.6.3 三峰口

mitumine12n.jpgさすがに蒸気機関車体験を期待して乗車した親子連れはちょっとがっかりだったようですが、重連の先頭には“パレオ色”のデキ201が立ち、しかも三峰口では構内外れで展示のうえ、わざわざ入れ換えて復路もデキ201を先頭にするなど、秩父鉄道さんも細かい心配りをされていたのが印象に残りました。
▲3輌いた仲間のうち唯一秩父に残るデキ201はL形軸梁式の独特な台車が特徴。このようにじっくり観察できる機会は意外と少ない。'07.6.3 三峰口
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それにつけても気にかかるのはC58 363の不具合です。1988(昭和63)年に運行を開始した「パレオエクスプレス」も来年で20年目を迎えます。一日も早く元気になって戻ってきてほしいと願わずにはいられません。

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RM本誌でも全国鉄橋サミット、そして連載「余部通信」とこの一年あまり注目を続けてきた山陰本線余部橋梁ですが、去る5月27日、架け替えへの安全祈願祭と起工式が執り行われ、本格的な新橋建設工事が始まりました。
▲いよいよ本格的工事が始まる余部橋梁。安全祈願祭と起工式には全国各地から多数のメディアが取材に訪れた。'07.5.27 P:香美町提供

amarubekikoushiki2n.jpgJR関係者や周辺自治体の首長、それに地元の皆さんら百人あまりが参加して行われたこの日の式典は、安全祈願の神事の後、参列者一同が1986(昭和61)年の列車転落事故慰霊碑に献花・黙祷を捧げ、ついで橋梁下に設けられた特設会場で起工式が催されました。この特設会場は従来橋梁下の駐車場兼展望台として使われていたスペースで、今後はここが重機や資材の搬入拠点となってゆきます。
▲起工式式典で“念願・悲願”の新橋梁への期待と、地元・余部小学校の校歌にもうたわれている現鉄橋への思いを語る香美町藤原久嗣町長。'07.5.27 P:香美町提供

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▲JR西日本の丸尾副社長、井戸兵庫県知事をはじめJR・自治体関係者50名余りが列席して行なわれた安全祈願祭。'07.5.27 P:香美町提供

余部橋梁は6名が犠牲となった列車転落事故以来、強風による運転規制が強化され、現在では風速20m以上で抑止されることとなっています。このため冬場を中心に年間80本程度が運休を余儀なくされており、地元にとっても防風壁を備えたコンクリート橋への架け替えは悲願といっていいものでもありました。地元・兵庫県や地元関係市町などが中心となって余部鉄橋対策協議会を立ち上げたのが今から16年も前の1991(平成3)年。以後検討を重ねた結果が、このたび着工した5径間連続PC箱型桁の新橋です。総事業費は約30億円。もちろん防風壁も整備され、運転規制も陸上部と変わらない風速30m程度の規制値となる予定です。

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▲橋梁下のパーキングエリアに立ち並んだテント。いよいよこのスペースを拠点に新橋梁建設工事が本格的に開始される。'07.5.27 P:香美町提供

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▲起工式に先だち1986(昭和61)年12月の列車転落事故慰霊碑に関係者が献花・黙祷をささげた。橋梁下の慰霊碑には今もって献花が絶えず、橋梁撮影に訪れるファンが手を合わせる姿も見られる。'07.5.27 P:香美町提供

新橋の完成は2010(平成22)年秋。すでに高さ3mほどの鉄板が現橋梁の一部の橋脚を覆いはじめており、7月からは大型重機が続々と投入され、夏休み頃にはあたりは工事現場の様相を呈しはじめると思われます。

憧れのハッセルブラッド。

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▲ひさしぶりに持ち出した我がハッセルブラッド500C/M。初代500Cの改良版(MはモディファイのM)で、1970(昭和45)年から20年近くにわたって製造されたハッセルの代表機種。

今日はひさしぶりにカメラの話題をひとつ。高校生の時分から中判カメラへの憧れが強かった私にとって、一度は使ってみたいカメラがハッセルブラッドでした。ご承知のようにスウェーデンの誇るハッセルブラッドは、1960年代にはNASAが有人宇宙飛行用に採用するなど、TLR(二眼レフ)のローライと双璧をなす中判カメラのトップブランドです。

hassel2n.jpg学生時代からペンタックス67を愛用してきましたが、並行して一時期ゼンザブロニカS2を使っていたことがあります。友人から譲ってもらったものでしたが、このブロニカ、どうにも調子が良くなく、何よりもフィルムの平面性に信頼が置けませんでした。それだけにコマーシャル・コピーではありませんが「いつかはハッセル」との思いは募るばかりで、ショーウインドウを見ては溜息をつく日々が続いていました。実際、1980年代のプロカメラマンは申し合わせたようにハッセルを携えており、“プロカメラマンの名刺”とさえ形容されるほどの状況でした。
▲500C/M最大の改良点はフォーカシングスクリーンが交換できるようになったこと。とはいえオリジナルのスクリーンは結構暗く、大枚をはたいて米国フレンネル・オプティック社製の明るいものと交換している。

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▲ハッセルの巻き上げノブはきわめてスムーズで、このように人差し指と中指で挟んでくるっと回すのが当時のトレンド(?)だった。最後にかなり力を入れねばならないブロニカS2ではこうはゆかない。

ようやく願いかなってあのハッセルブラッドが我が物となったのは1980年代後半。独自のスウェーデン鋼によるボディは堅牢にも関わらず軽量、あらゆる操作性が卓越しているとあって、一時はすべての撮影はこれ一台で…とばかり入れ込んでいたものです。標準レンズであるプラナー80mmF2.8Tスターの描写力も秀逸で、仕上がりをピントルーペで見ては悦にいっていました。

hassel3n.jpgそんなハッセルでしたが、なぜか1990年代に入ると、急に熱が冷めたように出番が少なくなってしまいました。今さら振り返ってもどうしてなのかその理由は定かではありませんが、あまりの優良児ぶり(?)に飽きがきてしまったのかも知れません。それ以降は携行性に勝る中判フォールディングカメラにさまざまなカスタマイズを加えてゆくこととなります。
▲マガジンA-12。その平面性の安心感は絶大で、もちろんフィルムが“たけのこ”状となることもまったくない。

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▲ハッセルブラッド500CM+ディスタゴン50mmF4で捉えたトランキル製糖工場(インドネシア)4号機。特徴的なハックワース式弁装置を持つこのハンスレー製(製番3902)B1サドルタンクは、なんと1971(昭和46)年製で、ヨーロッパ(西側)で最後に新製された実用蒸気機関車とされている。'91.7.18 PG Trangkil
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ところでこの“プロカメラマンの名刺”をあの広田尚敬さんが使っていないのをずっと不思議に思っていました。写真集『蒸気機関車たち』でもお分かりのように、1960年代から1970年代前半にかけて広田さんの中判カメラの主力はローライフレックスSL66。ローライとしては珍しいSLR(一眼レフ)機で、レンズのラインナップは標準のプラナー80mmF2.8をはじめほぼハッセルと同様です。ならばなぜハッセルでなくローライなのか? たしかにローライフレックスSL66はアオリが利くというメリットはありますが、当時の市場価格はハッセルを遥かに超える、それこそ卒倒しそうなほどの高価です。ある日、ずっと不思議だったこの疑問を直接ご本人に伺ってみました。するとその理由は実に単純明快、「ハッセルはスタジオカメラだから…」とのことでした。広田さんによれば、ハッセルは構造上どうしても内面反射が多く、屋外、それも鉄道写真のような太陽の下で使うのであれば、同じレンズラインナップを使えるローライフレックスSL66の方が優位なのだそうです。ちなみに広田さん、使いはしないものの“プロカメラマンの名刺”ハッセルブラッドは、やはり持ってはおられるそうです。

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▲ついにここまできた! 歴史ゾーン中央の転車台を取り囲んで“名車”たちがずらりと並んだ様は思わず息をのむ圧巻! 車輌は手前のアントによって続々と搬入されており、間もなくC57 135が定位置の転車台に載せられる予定。'07.5.31 P:RM(新井 正)
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本誌連載“大宮に「鉄道博物館」ができるまで!”でリアルタイムにその進捗状況をお知らせしている「鉄道博物館」ですが、ついに注目の歴史ゾーンへの展示車輌の搬入が開始されました。昨日は財団法人東日本鉄道文化財団のご協力を得て、新井副編集長が最新の状況を見てまいりましたので、さっそくその様子をご覧にいれましょう。

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▲レストレーションも完了して所定位置に設置された展示車輌たち。手前からクハ481、クモハ455、クハ181、ナハネフ22。クモハ455は仙台、クハ181ははるばる新潟からのエントリー。'07.5.31 P:RM(新井 正)
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▲郡山総合車両センターで復元されたキハ41000(手前)も公開の日を待つ。塗色は1959(昭和34)年以前の塗り分けである青3号と黄褐色2号のツートンに戻されている。'07.5.31 P:RM(新井 正)
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om531n5.jpg先日行われた「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」でC57 135号機をはじめとした鉄道博物館展示車輌の一部が一般公開されましたが、あれから一週間、展示されていたED17、クモハ40、オハ31などはすでに博物館建屋・歴史ゾーンの所定展示位置に移動されています。同ゾーンに展示予定の車輌の中では、EF66、ED75、DD13、コキ50000、レムフ10000、それに中心に展示されるC57 135がまだ搬入されていない程度で、ご覧になっておわかりのように、すでに大半の車輌が所定位置におさまり、いよいよその全容が実感できるようになってきました。
▲教育ゾーン1階の展示スペースには実物の103系(部分)も設置される。'07.5.31 P:RM(新井 正)
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▲急ピッチで敷設が進められるミニ運転列車の線路。実物さながらの信号設備などがこれから整えられる。'07.5.31 P:RM(新井 正)

om531n3.jpgそれにしても完成予想図では見知っていたものの、実際にずらりと車輌が並ぶとなんという迫力でしょうか! このブログでもお伝えした搬入前の状況と比べると、無味乾燥だったコンクリートの空間が、まさに命を吹き込まれたかのごとく輝きはじめた思いがします。間もなくC57 135号機など最後の展示車輌も搬入され、夢の「鉄道博物館」は文字通り完成目前となります。
なお、詳細は本誌6月発売号の連載“大宮に「鉄道博物館」ができるまで!”でお伝えする予定ですのでご期待ください。
▲展示差車輌の搬入口となっている大宮総合車両センター側にはブルーシートにくるまれたC51のテンダーが搬入の時を待っていた。'07.5.31 P:RM(新井 正)

レイル・マガジン

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