鉄道ホビダス

2007年3月アーカイブ

桜満開、名残りの201系。

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東京は今まさに桜が満開。都心での会合の道すがら、外濠の桜の中をゆく中央線の201系を見かけました。気がつけば驚くほどのスピードでE233系投入が進み、四半世紀にわたって中央線の顔だった201系も、間もなくその姿を消そうとしています。
▲今を盛りと咲き誇る外濠の桜の中を名残りの201系がゆく。こんなシーンにはやはりオレンジバーミリオン(朱色1号)の「塗装車体」がよく似合う。'07.3.30 市ヶ谷?飯田橋

sotobori201n3.jpg昨年末から中央快速線と青梅線で営業運転を開始したE233系は急ピッチで増備が進み、3月31日現在で実に240輌が配置されています。発表されている投入計画によれば、来春までに688輌が新製投入される予定ですから、すでに総数の3割以上が落成していることになります。ちなみに同じ3月31日現在の201系(豊田区)の状況はというと、月初より40輌が減じて総数488輌。本誌今月号でご紹介した201・E233系分布図はさらに塗り変えられて、勢力分布で言うと201系が67%、E233系が33%となり、形勢が逆転するのも時間の問題となってきました。
▲E233系が勢力を拡大し、体感的にはこの区間をゆく201系はすでに半分ほど。来年の桜の季節にはもう201系の姿は見られない。'07.3.30 市ヶ谷?飯田橋

oume201n1.jpg先の3月18日改正後は、それまでE233系が未投入だった拝島駅や大月駅で分割併合を伴う奥多摩・武蔵五日市・高麗川・富士急行河口湖行きにも分割併合可能なH編成が充当されるようになり、いよいよ1979(昭和54)年の試作車以来ずっと中央線系統の「顔」であり続けた国鉄初の電機子チョッパ制御電車・201系も、その時代を終えようとしています。
201系最後の牙城である青梅線も間もなくE233系に席巻されてゆくはず。'06.10.8 青梅?東青梅

間もなく夜の帳が訪れようという薄暮の外濠。満開の桜並木の彼方をゆく201系は、そのオレンジバーミリオンの車体色がひときわ鮮やかに映えていました。四半世紀にわたって“日常”の風景として親しんできた桜と201系…来年のこの季節、もうその取り合わせを見ることはできません。

“あの日”から20年…。

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いまから20年前の1987(昭和62)年3月31日、それは決して忘れることのできない一日でした。日本国有鉄道最後の日。この日をもってこの国から「国鉄」が消えたのです。
▲奇跡の復活を遂げたマイテ49 2が四半世紀ぶりに東京駅10番線に姿を現した。22時13分、「いい日旅立ち」のメロディーにのって牽引機EF65 1134のホイッスルが高々と鳴り響き、ついに「さようなら国鉄」のテールサインが国鉄最後の夜に消えてゆく…。'87.3.31 東京駅

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▲クライマックス「旅立ちJR西日本号」を一目見ようと10番線ホームは黒山のひとだかり。右は超プレミアムものとなった「旅立ちJR号」乗車証明書。'87.3.31 東京駅

すでに数日前から首都圏の「国電」などには「さようならJNR」のヘッドマークが取り付けられ、最終日の31日は朝からテレビ局各局が特番を組んで生中継を繰り返すなど、全国民がこの歴史的一日に釘付けになっていたといってもよいかもしれません。

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▲夜が更けるにつれて東京駅構内はただならぬ喧騒に包まれた。ホームも階段もコンコースもとにかくどこもかしこも人、人、人…。'87.3.31 東京駅

IMGP0488nn.jpgそんななか、私はRMの編集部ではなく、文藝春秋社の編集部に詰めていました。実は、いまだから詳細が明かせますが、当時まだ新進気鋭だった文藝春秋社のスポーツ誌『Number』とコラボレーションを組んでいたのです。この国鉄最終日に全国各地で一斉にイベントやセレモニーが行われ、しかも注目すべき記念列車が何本も走るとあって、果たしてどうやって取材態勢を組むべきか考えあぐねていた時に、『Number』誌から協力依頼が舞い込んだのです。同誌は増刊として「さよなら国鉄・ニューJRスタート記念号」を企画、類似企画の他誌より一日でも早く発売すべく計画を練っていたものの、いかんせん専門外の分野ゆえ、企画を取りまとめ、「徹夜」で解説を仕上げられる援軍を探していたのです。

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何回かの打ち合わせの結果決まったのは、私と当時副編集長だった長谷川章さんがヘッドクウォーター役として文藝春秋に出向き、取材の段取りから写真の選定、解説原稿まで仕上げる代わりに、未使用写真の使用権を頂戴するというバーター案でした。
▲国鉄最後の夜に小雪が舞う小樽ではとんでもないサプライズが用意されていた。C62 3の復活である。さよならイベント会場と転車台の間200mほどの区間を、午前0時をはさんで7回ほど往復した。'87.3.31 小樽築港

IMGP0512nn.jpg当時同社はいわゆる写真スクープ誌を休刊にしたばかり。いわば修羅場をくぐってきた気鋭のカメラマンが遊軍として多数おり、まず彼らを全国各地に送り込むことからスタートしました。といってもカメラマンとしては優秀であっても皆さん鉄道に関しては“素人”です。ここのイベントではこんな写真を、こちらの場所ではこんなシーンを…とすべてカンプを作って指示するたいへんな作業でした。もちろん当時のことゆえ写真はすべてフィルムです。現在のデジタルであれば即座に転送してもらえますが、フィルムとなると現像まで考えねばなりません。とにかく一刻を争う“生フィルム”をどうやって全国各地から回収してラボに入れるか、さらには現像が上がってきたフィルムを“瞬間芸”のごとく選別し、切り出し、解説を書き込んでゆかねば間に合いません。当時の『Number』誌編集長とともに、足掛け3日にわたって同誌編集部に缶詰になっていたのを思い出します。
▲“本丸”国鉄本社ビルの「日本国有鉄道」の文字が一文字一文字取り払われてゆく。'87.3.31 東京・丸の内

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▲最後の国鉄本社達示に従い、全車輌に一斉に「JRマーク」が貼られた。同時にJR北海道に引き継がれる青函連絡船では船籍を示す「東京」の文字が「函館」に書き換えられてゆく。'87.3.31 幕張電車区/函館

かくして『Number』増刊号は校了、今度は大車輪で『Rail Magazine』本誌の編集に取り掛からねばなりません。気が付けば周りにはJRマークを添付した電車が行き交っています。3月31日をはさんでの数日間、静かに感慨に浸るどころか、まさに寝食を忘れての日々でした。

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▲午前0時、鉄道発祥の地である東京・汐留貨物駅では、わざわざ持ち込まれたC56 160の汽笛が橋本運輸大臣と杉浦国鉄総裁の手によって吹鳴された。まさに「日本国有鉄道」の終焉を告げるとともに、新生JR誕生の瞬間だった。'87.4.1 汐留

それでも合間を縫って見にいった東京駅と汐留の様子はいまもって鮮明に目に焼き付いており、とりわけ汐留貨物駅の構内に響き渡ったC56の汽笛は感無量でした。
あれから20年。変わったこと、変わらないこと…ただひとつ言えるのは、この鉄道趣味の世界から、国鉄という「共通言語」が消えてしまったことです。

kaidukst1n.jpgいまから15年前、本誌連載「トワイライトゾ?ン」に名古屋市の小出さんから寄せられたのは信じられないサプライズ情報でした。長良川と揖斐川に囲まれた水郷地帯に、1輌のみならず3輌もの未発見の小型機関車が残されているというのです。これはなんとしても現物を拝まねばなるまいと、B滝ともども新幹線に飛び乗ったのはお盆のさなかの蒸し暑い日でした。
▲さながらお城のような海津市歴史民俗資料館をバックにした「加藤くん」(1959=昭和34年製4t/1'8"=508㎜ゲージ)。かつて僚機とともに“野ざらし”になっていた状況を思うと、この厚遇ぶりに感慨無量。'07.3.20

kaidukst2n.jpgお送りいただいた情報によれば、商売の神様として有名な千代保稲荷神社のある岐阜県平田町(現・海津市)の役場近くの資材置場に2輌の加藤が、さらに東海道本線穂積駅近くの建設会社敷地内に「松岡産業」製のガソリン機関車が放置されているとのこと。この日はレンタカーで効率よくそのすべてを取材することができましたが、その後彼らがどうなってしまったのか、気になりつつもいたずらに歳月が流れてしまいました。
▲恐らくは新造されたと思われる木製トロ2輌を従えて展示されている。写真の逆サイドには詳細なスペックまで記入された説明看板も設けられている。'07.3.20

kaidukst3n.jpg数年前、平田町の加藤の1輌は新しく出来た郷土資料館のような場所に保存展示されたと聞きました。たしかに15年前に管理者である近藤建設さんから「いつか資料館のようなものを作るからと、岐阜県から保管を頼まれている」と伺ったのを思い出し、その話が現実になったのだと少々嬉しくもなりました。ただいつ消え去ってしまうとも知れぬ“放置”ではなく、正規の保存となるとついつい「機会があれば…」と鷹揚に構えてしまいがちで、なかなか訪問するチャンスがありませんでした。
▲歴史民俗資料館エントランスから見下ろした前庭と屋外展示場。周囲はかつて堀田と呼ばれた低湿地で、ひたすら平地が続く。'07.3.20

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▲堀田の特徴的な短冊形の池沼を再現した前庭(左)には巨大な排水機ポンプも保存展示されている(右)。ちなみにこのポンプは1927(昭和2)年荏原製作所製。'07.3.20

今回15年ぶりに再会した「加藤くん」は見違えるように綺麗になっていました。保存されているのは「海津市歴史民俗資料館」の前庭。海津市は旧海津町と平田町、そして南濃町が合併して一昨年に誕生した市で、長良川と揖斐川に挟まれた中洲の中心に位置します。この歴史民俗資料館は、水との共存を目指した“輪中”の歴史や生活文化を紹介しようと設けられたかなり大規模な施設で、高須松平氏の館の一部を復元し、館内には能舞台なども再現されています。

mikawakst1nn.jpg前庭にはこの地方特有の「堀田」と呼ばれる低湿地の耕地利用方法が実際に再現されており、戦前製の排水機も保存展示されています。海津市の水田はかつてそのほとんどがこの「堀田」で、“4水6土”と称されるごとく全面積のおよそ4割は池沼であったといいます。戦後、1954(昭和29)年から堀田の埋立て事業が開始され、説明看板によれば、この加藤は1959(昭和34)年に岐阜県庁開拓課が埋立て事業用に導入したものとのこと。堀田の埋立ては1970(昭和45)年にはすべて完了したそうですから、実際に活躍した期間は十年ほどだったのかもしれません。
▲15年前に真夏の一日、トワイライトゾ?ンの取材で訪れた時の状況。同形機2輌が寄り添うように放置されていた。'92.8.14

15年前の夏の日、炎暑の下で荒れるがままになっていた機関車が、今こうやってきちんと保存展示されている様を目の当たりにすると、なんとも感慨深いものがあります。

soutennen.jpg今から9年前、1998(平成10)年に出版し、多くの皆様からご高評をいただいた『総天然色のタイムマシーン』がこのたび新版となって帰ってきました。旧版では北は雄別鉄道から南は鹿児島交通まで、1950年代末から1960年代初頭の私鉄のカラー写真を収録しましたが、今回の新版ではその後本誌誌上に12回にわたり連載した諸河さんの「KⅡの時代」を新たに増結。稀代の名フィルム、コダクロームⅡによって記録された1970年代の国鉄車輌たちの記録を盛り込みました。

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原本の『総天然色のタイムマシーン』は、本誌誌上に連載した諸河 久さんの「TIME machine」と吉川文夫さんの「総天然色の彼方」をベースに、連載で取り上げられなかった私鉄や専用線を追補して一冊にしたものです。まだまだカラーフィルムが貴重だった時代だけに、改めて“総天然色”の画像を目にすると実に新鮮な驚きがあります。ことに色彩の記録が乏しかった地方ローカル私鉄の塗色はなんとも鮮烈で、秋田中央交通や日ノ丸自動車法勝寺鉄道など、とても今日では考えられない個性といえましょう。

IMGP0484nn.jpg実はこのお二方の連載を開始するには二つの伏線がありました。ひとつは1990年代に入って撮影後30?40年を経たポジフィルムが急速に劣化しつつあったことです。ものによってはかなり“色抜け”(退色)が進み、いま印刷物として記録を残しておかねばという切迫した思いがありました。そしてそんな状況とは逆に、もうひとつの伏線は、1990年代になって急速に進んだデジタル製版技術でした。もちろん現在から見ればまだまだよちよち歩きのデジタル製版ではありましたが、それでも従来のアナログでは不可能な退色補正が一気に可能になったわけで、これを千載一遇のチャンスと捉えて連載がスタートしたのです。

IMGP0485nn.jpg■総天然色のタイムマシーン 主な内容
運炭鉄道北と南(貝島炭礦ほか)/三菱大夕張鉄道/旭川電気軌道/雪のみちのく私鉄めぐり(松尾鉱業ほか)/花巻電鉄鉛線/羽後交通雄勝線・秋田中央交通/山形交通/仙北鉄道/東北・越後路の私鉄たち(福島交通軌道線ほか)/東武鉄道日光軌道線/常磐路の私鉄を訪ねて(常総筑波鉄道ほか)/東京都電/東京急行電鉄/川崎市電・横浜市電/上田交通/富山・金沢界隈(尾小屋鉄道ほか)/越前と能登の旅から(北陸鉄道能登線ほか)/静岡鉄道駿遠線/中部地方のローカル線寸描(静岡鉄道清水市内線ほか)/三重・伊勢界隈(三重交通神都線ほか)/阪神国道線・南海和歌山軌道線/神戸市電/山陽・山陰路の私鉄たち(日ノ丸自動車法勝寺鉄道線ほか)/井笠鉄道・下津井電鉄/土佐電気鉄道/九州の路面電車たち(北九州市交通局ほか)/鹿児島交通・大分交通耶馬渓線/木造車アラカルト/諸河 久・吉川文夫対談「あの頃の私鉄、そして撮影行

IMGP0487nn.jpgところで、ポジの劣化という面では今もって伝説として語られるのが、外式のカラーポジフィルム・コダクロームⅡ、いわゆるKⅡです。感度こそ低いものの、とにかくその粒状性、発色、そして何よりも保存性は信じられないほどで、いま見てもまったく劣化が見られない素晴らしさです。“タイムマシーン”と“総天然色”の連載が終わってからの諸河さんとの雑談のなかでこのKⅡが話題にのぼり、そこから連載が実現したのが今回増結編とした「KⅡの時代」でした。

IMGP0486nn.jpg■KⅡの時代 主な内容
首都圏を闊歩する旧型電機たち/マンモス電機EH10/キハ181「つばさ」と交流電機/東海道・山陽のEF58/上越線の「とき」と旧型電機、旧型国電/EF59/米原界隈撮影記/157系の落日/東北本線EF56・57/80・70系と旧型国電/走り去った1970年代の国鉄の名優と稀代の名フィルムを語る

コダクローム・フィルムもついに日本市場から消え去ってしまう昨今(さようなら「コダクローム」参照)、本書を開いてフィルム時代の佳き日々にゆっくりと思いを馳せていただければと思います。本書は来週中には書店の店頭でお手にとってご覧いただけるはずですので、ぜひご注目ください。

『新版 総天然色のタイムマシーン』付:KⅡの時代
諸河 久・吉川文夫 著
定価:5,000円(税込)
A4変形国際判(本誌同寸)/224頁オールカラー/カラーカバー付上製本

姿を現した都電9000形。

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“レトロ車輌”として発表されていた都電荒川線の新型車、9000形9001号が3月24日未明、荒川車庫に到着しました。都電の新造車は1993年登場の8500形8504・8505号以来、実に14年ぶりのことです。
▲エンジの車体色が美しい9001号の車体。前灯は古風な「おへそライト」一灯のほか、前窓内部の左右にも仕込まれているようだ。'07.3.24 荒川営業所 P:RM(高橋一嘉)

toden1n.jpg24日は線路上への搬入状況が報道公開されました。搬送中は台車と屋上機器が外されており、まず8時過ぎから台車が線路上に下ろされ、一旦トラバーサー上に移動されます。次に冷房やパンタグラフといった屋上機器が取り付けられ、こうして組み上がった車体がトレーラーごとトラバーサー前へ移動、2基のクレーンで吊るされます。ここで車体下からトレーラーが逃げ、代わりにトラバーサー上で待機していた台車が車体下に移動、日通の皆さんの職人的なテクニックによって見事台車と車体が合体しました。こうして電車らしい姿になった9000形はトラバーサーで移動、11時30分ごろ、無事検修庫内に取り込まれました。
▲2月25日付け「生まれ変わる都電荒川線」でもご紹介した新型“レトロ調”車輌9001の完成予想図。(東京都交通局提供)

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▲いよいよ線路上へ。トレーラーから吊り上げられ、線路に合わせて向きを調整中の姿。'07.3.24 荒川営業所 P:RM(高橋一嘉)

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▲まずは台車が線路上へ。一旦トラバーサー上に載せられる(左)。台車と車体を結合。微調整を繰り返しながらゆっくりと車体が降ろされる(右)。'07.3.24 荒川営業所 P:RM(高橋一嘉)

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▲搬入を前に屋上機器を取り付け。車体側面のマークは現在のイチョウではなく、旧局紋があしらわれている(左)。手押しで検修庫内へ取り込まれる9001号(右)。'07.3.24 荒川営業所 P:RM(高橋一嘉)

この後9000形は調整・試運転などを経て、5月中にはデビューの予定とのこと。なお、この9000形電車については追って『レイル・マガジン』誌上で詳しくご紹介できる予定です。
※姉妹ブログ「台車近影」でもこの9000形を別の角度から紹介しています。

IMGP8504.jpg昨年夏に完成した三宅俊彦さんのライフワークとも言える大作『列車名変遷大事典』がこのたび第32回交通図書賞の特別賞を受賞、今日は東京・飯田橋のホテルメトロポリタン・エドモントで表彰式が行われました。この「交通図書賞」は、“交通に関する優秀図書を選定し、広くこれを推奨することにより交通知識の普及と交通従事者の教養の向上に資する”ことを目的に1975(昭和50)年度に制定された権威ある賞(財団法人交通協力会・交通新聞社が共催、運輸調査局後援)で、今回で32回目を迎えます。

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IMGP0475nn.jpg選定対象は2005(平成17)年12月1日から2006(平成18)年11月30日までの一年間に刊行・市販された運輸・交通関係の初版本で、事務局選定分と出版社・著者による自薦分あわせて118冊がノミネートされました。これを国交省、JR、運輸調査局、鉄道総研といった専門分野からの審査委員の皆さんが選考、第1部「経済・経営」、第2部「技術」、第3部「一般」の3分野から授賞図書が選定されます。
▲財団法人交通協力会三坂会長より第32回交通図書賞特別賞を受ける三宅俊彦さん。'07.3.26

IMGP0468nn.jpg慎重な討議の結果、今年度の交通図書賞は第1部が塩見英治さんの『米国航空政策の研究』(文眞堂刊)、第2部は該当なし、第3部が佐藤建吉さんの『ブルネルの偉大なる挑戦』(日刊工業新聞社刊)、そして「特別賞」として三宅さんの『列車名変遷大事典』が選出されました。ちなみに『米国航空政策の研究』は米国の航空規制緩和法がもたらした世界の航空輸送産業への影響を豊富な資料を基に検証した労作で、「広く公共交通政策を考える上でも指標となる優れた著作」(選評より)として授賞対象となったものです。一方の『ブルネルの偉大なる挑戦』は、スチブンソンとともに英国鉄道の技術的基盤を確立した技術者イザムバード・キングダム・ブルネルの半生を描いたもので、「豊かな想像力に基づいた技術開発本来の在り方、土木や建築を超えた広範な分野における“ものづくり”の原点とは何かを問いかけてくれる興味深い内容であり、広く交通従事者にも推薦すべき良書」(選評より)として顕彰されました。ちなみにわが国ではあまりその名が知られてはいませんが、ブルネルは英国ではかのチャーチルとも並び称される偉人のひとりで、世界の鉄道の優れた車輌や建築物などに贈られる「ブルネル賞」は国際的に有名です。
▲会場には受賞図書の著者の皆さんのほか、出版社の代表も招かれた。'07.3.26

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IMGP0481nn.jpgさて、『列車名変遷大事典』は、「列車の運転や編成などについて50年以上にわたって調査研究を進めてきた著者が、自身のライフワークとしてきた列車名研究を一冊にまとめた労作であり、資料的価値も極めて高い作品」(選評から)として「特別賞」に選ばれたものです。
今日の表彰式には三宅さんご本人はもちろんのこと、版元代表として私も参加させていただき、その栄誉の片鱗を味あわせていただく光栄に浴することができました。編集者として、次回、次々回の交通図書賞も頂戴できるような本創りに励んでゆきたいと、改めて思った一日でした。
▲受賞図書の出版社にはクリスタル製のトロフィーが授与された。写真は弊社がいただいたトロフィー。'07.3.26

『列車名変遷大事典』 A4判変形(本誌同寸)、528頁オールカラー、ケース入り上製本/定価12000円(税込)

鹿島鉄道、最後の日曜日。

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先般も訪問記をお伝えした鹿島鉄道ですが、今日は趣味の大先輩である宮澤孝一さんとお仲間に誘われて、再び鉾田の地を目指しました。廃止まであと一週間。あいにくの雨模様ながら、朝から石岡駅ホームはただならぬ熱気に包まれていました。
▲桃浦駅構内に進入するキハ432+431重連の18列車。最後の日曜日とあって日中の鉾田往復のスジはほとんどが2輌編成となった。'07.3.25 桃浦

kashima325n8.jpgまず何をおいても向かったのは常陸小川駅です。ながらくここ常陸小川駅側線に保存展示されていた「鹿島のカバさん」ことDD901が、前回の訪問翌日に解体されてしまったショックはこのブログでも記しましたが、“あの場所”がどうなっているのかもう一度この目で確かめたくての再訪です。果たして「カバさん」が留置されていた場所は、何の残滓も見出せず、まるで何事もなかったかのごとく静まりかえっていました。つい先日のことにも関わらず、忽然とDD901の姿だけが消えている…その事実が改めて胸に突き刺さります。
▲DD901が展示されていた常陸小川の側線にはすでに車輌の姿はない。そればかりか、車止めに利用されていたシャロン製の自動連結器さえもその姿を消してしまっていた。'07.3.25 常陸小川

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さて、荒天にも関わらず、廃止間際の、しかも春休みの日曜日とあって、惜別乗車目当ての方がひきもきらず、在籍車輌を全車稼動させてもどの列車も満員状態と、終日たいへんな賑わいぶりでした。
▲お馴染みの跨線橋から鹿島鉄道石岡駅を見下ろす。ホームで発車を待つのは71列車のキハ601。KRはすべて出払っており、構内には431、432、そしてキハ714と旧型車ばかりが顔を揃える。'07.3.25 石岡

kashima325n3.jpg石岡駅ホームや終点の鉾田駅構内では、記念乗車券や各種の記念グッズ、さらには名産お土産を販売するブースが設けられ、こちらも大賑わい。なかでも鉾田駅改札口で地元市民の皆さんが、訪れた人たちに野菜を無料でプレゼントされている姿が強く印象に残りました。鉄道がなくなっても鉾田を忘れないでほしい、また鉾田の地に足を運んでほしいという願いが込められたこのプレゼントは、逆に鹿島鉄道がどれほど地域の人たちに愛されていたかを物語ってもくれています。
▲石岡駅ホームの待合室には記念グッズ売り場が設けられ、終日たいへんな賑わいぶりであった。'07.3.25 石岡

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▲鹿島参宮時代から変わらぬ石岡駅ホームの表情。年季の入った時刻表ももう書き換えられることはない。'07.3.25 石岡

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▲JRから鹿島鉄道への「社線連絡跨線橋」とその片隅に掲げられたJR側の承認標。承認年月日「昭和28年11月27日」、「93平方メートル」とあり、期間はJR発足の昭和62年4月1日から「平成29年3月31日まで」とある。30年間の期間設定にも関わらず、ちょうど10年を残してこの跨線橋も役目を終える。'07.3.25 石岡

参考までに今日の日中の主な運用状況を記すと、石岡8:07発の11列車とその折り返し鉾田9:05分発の14列車がキハ601の単行、石岡9:52発の15列車とその折り返しの鉾田10:53発18列車、石岡12:31発の21列車とその折り返しの鉾田13:26発24列車、石岡14:30発25列車とその折り返しの鉾田15:26発28列車の3往復がキハ431+432の2連、石岡11:31発の19列車とその折り返しの鉾田12:42発22列車がキハ601+キハ714の2連、石岡16:29発31列車とその折り返しの鉾田発17:41発34列車がキハ602の単行、その他の石岡~鉾田間列車はKRの2連といった状況でした。

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ただ石岡~常陸小川間の区間運転にキハ601が充当されるケースもあり、常陸小川16:28発70列車のキハ601と石岡16:29発の31列車のキハ602が、途中の玉里駅で交換するという貴重なシーンも見られました。
▲巴川駅に到着するキハ431+432重連の鉾田行き25列車。今日はこの2輌編成が大活躍の一日であった。'07.3.25 巴川

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▲惜別のヘッドマークミニチュア(金属製)は700円也。右は鉾田駅で市民の皆さんが無料で配ってくれていた心づくしの野菜。線路はなくなっても鉾田を忘れずにまた来てほしいという願いが込められている。'07.3.25

思えば今日は鹿島鉄道にとって最後の日曜日でした。最終日は3月31日土曜日…あと6日で鹿島鉄道はその83年におよぶ歴史を閉じます。今日も感じたことですが、最終日を前にしながらも実に懇切丁寧に接してくださっている職員や地元の皆さんの姿を見るにつけ、悔いのない美しいラストシーンで幕を閉じてほしいと改めて願わずにはいられません。

西濃鉄道再訪。

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▲乙女坂駅にほど近い石引神社の境内を横切る市橋線の線路。かつては「B6の宮参り」として知られたポイントだが、現在でも現役で列車が行き来しているのがうれしい。もうしばらくたてばあたりは満開の桜に彩られるはず。'07.3.20

先日、西濃鉄道をのぞいてきました。“のぞいてきた”というのも、大阪へ往復する道すがら、ほんのわずかの時間立ち寄っただけですから、腰を据えて観察してきたわけではありません。ただ、幾度となく訪れているこの小さな貨物専業鉄道は、なぜかいつの時代にも心の片隅で気になる存在でした。

seinou3nn.jpg今から12年前、『RM MODELS』の月刊化とともにスタートを切った連載『模「景」を歩く』の第一回取材地に選んだのも、ここ西濃鉄道でした。旅客設備こそないものの、JR線との接続、昔ながらの機関区、各種の貨物施設、そして昼飯(ひるい)線のスイッチバックと、狭い範囲に模型的要素が凝縮されており、新しくスタートを切る連載の意図するところを実感として知っていただくうえにも最適と考えたからです。
▲JRの美濃赤坂駅はかつての栄華を物語るように広い構内を持つ。木造の駅舎も魅力的。'07.3.20

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今では全国的を見回しても指折り数えるほどになってしまった貨物輸送を行っている「私鉄」である西濃鉄道ですが、現在の運転区間は美濃赤坂?乙女坂間1.3kmのみ。しかも運転は平日の3往復(矢橋工業乙女坂工場出荷、JR・名古屋臨海鉄道経由で新日鐵名古屋製鉄所へ)しかないとあって、当然ながら時間のない今回は“列車”の姿を拝むことはできませんでした。
▲一面のみの旅客ホームの突き当たりに駅本屋がある。待合室にはいつの時代のものだろうか、磨きこまれた年代物の木製ベンチが置かれている。'07.3.20

seinou4nn.jpg西濃鉄道は今から80年前(1927年=昭和2年)に設立された由緒ある私鉄です。大垣市の背後に聳える金生山の石灰石を輸送することを主目的とし、起点の美濃赤坂から市橋へいたる「市橋線」(2.6km)と、難読の「昼飯(ひるい)線」1.9kmを擁していましたが、先述のように、現在では市橋線の一部区間、乙女坂までしか使用されていません。『模「景」を歩く』で取材した時点では、列車の運行こそないものの、まだ両線とも全線に渡って線路や周辺設備、建物が残っており、ことに特徴的な昼飯線美濃大久保駅のスイッチバックもしっかりと観察することができました。
▲美濃赤坂駅構内を終端部から見渡す。西濃鉄道市橋線は画面左端へとのびてゆく。'07.3.20

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▲給水塔の土台も残り蒸機時代と変わらない機関庫の表情。左側の側線には廃車となったDE10が留置されている。この側線の手前から画面左へと分岐してゆくのが昼飯線。画面右はJRの本線で、画面奥が美濃赤坂駅旅客ホームとなる。'07.3.20

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▲列車運行の終点である乙女坂駅構内。戦前は旅客営業を行っていたこともあるというが、現在では駅といっても側線があるのみ。'07.3.20

seinou22n.jpg市橋線の方は乙女坂の少し先の猿岩駅に簡易な車止めが設けられ、その先の終点市橋まではほとんど線路が確認できないような状態となってしまっています。市橋駅も構内に線路は残るものの、周辺建物も撤去が進んでしまっており、かつての貨物駅の面影はすっかり薄れてしまいました。一方の昼飯線はすでに廃止扱いとなっており、美濃大久保から先はまったく線路が確認できないほどに変貌してしまっています。
▲市橋駅構内の柵に用いられている軽レールを発見。断面から6kg/mレールと思われる。かつてホッパー上で使用されていた軌道のものだろうか…。'07.3.20

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▲かつて旅客駅があったという赤坂本町付近の線路を家並みの間から垣間見る。『模「景」を歩く』の出発点がこの西濃鉄道であったことを改めて思い起こさせるシーン。'07.3.20

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▲おなじく赤坂本町付近の表情。板塀の続く伝統的な家並みも一見の価値がある。'07.3.20

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▲『模「景」を歩く』の表紙にもなっている昼飯線の踏切警手小屋はかろうじて残っていたものの、すでにワイヤー巻き上げの踏切設備はすっかり姿を消してしまいっていた。線路敷そのものが更地となってしまうのも時間の問題かもしれない。'07.3.20

このようにほとんどトワイライトゾ?ンと化しつつある沿線ですが、それでもわずかな区間ながら“現役”として線路が使われているのは嬉しいかぎりです。ことにB6の時代から西濃鉄道の代表的シーンとして知られ、『模「景」を歩く』のオープニング扉にも使った石引神社の境内を横切る光景が今もって健在なのは感慨深いものがあります。もうすぐ参道の桜も満開。きっと素晴らしく魅力的なシーンが展開するに違いありません。

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▲工場正門前に保存されている0系の向こうをゆっくりと移動してゆく完成したばかりのN700系先頭車。東海道新幹線の歴史を凝縮したようなひとこま。'07.3.22 日本車輌豊川工場 P:RM(高橋一嘉)

今夏から営業運転を開始する東海道・山陽新幹線N700系の量産車がいよいよ完成、メーカーである日本車輌および日立製作所からの搬出が開始され、3月22日、日本車輌製造豊川工場でその模様が報道公開されました。

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▲トレーラーに牽引されて日本車輌工場構内を移動する。3ヶ月あまり後にはこの先頭車が乗客を乗せて東海道区間は時速270km/h、山陽区間は時速300km/hで疾走しているはず。'07.3.22 日本車輌豊川工場 P:RM(高橋一嘉)

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▲N700系のシンボルともいえる車体側面のロゴ(左)と、783形1を示す車体標記(右)。'07.3.22 日本車輌豊川工場 P:RM(高橋一嘉)

今回公開されたのはZ1編成の先頭車、783-1号。昨年12月8日のブログでも同車の製作途中の姿を紹介していますが、外観上は昨年試乗記でご紹介した試作車と大きな差異は見受けられないようです。この日は仮台車から門型クレーンで吊り上げ、トレーラーの車輪を履かせ、日本車輌の正門前まで移動する様子が公開されましたが、日本車輌の正門前では保存されている0系の先頭車22-2029号とも顔を合わるシーンも見られました。

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▲完成した車体は慎重にトレーラーに載せられて工場構内を移動してゆく。当日はテレビ・新聞など多数のマスコミも取材に訪れていた。'07.3.22 日本車輌豊川工場 P:RM(高橋一嘉)

N700系量産車は7月1日から上下合わせて8本の「のぞみ」から営業運転を開始する予定で、同時に東京6:00発の「のぞみ1号」に先行する、品川発6:00→新大阪8:19の「のぞみ99号」も新設される予定です。

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今年の12月18日で創立90周年を迎える相模鉄道では、その記念事業の一環として、来る4月22日より同社の全営業車輌にグループカラーである相鉄ブルーと相鉄オレンジを順次導入し、各形式のデザインを統一すると発表しました。昨年7月1日に制定したグループマークおよびグループカラーを反映させて、イメージの統一化、ブランド力の強化を図るための施策の一環で、7000系以降の各形式とも最新の10000系のデザインを基本とした、車体前面および側面上部にブルーのライン、側面下部にオレンジのラインを配したものとなります。
▲7000系、8000系、9000系、10000系の営業車4形式各車に反映されるグループカラーの導入イメージ。(相模鉄道提供)

soutetu10000n1.jpg発表された概要によれば、このグループカラー導入車輌は7000系、8000系、9000系、10000系の営業車4形式。4月22日(日)に9000系10輌1編成に新デザインを導入し、2010(平成22)年年度末までに4形式全車が統一された車輌塗色となる予定だそうです。
▲2002年から相鉄線の新しい顔として活躍している10000系。この塗り分けが他系列にも反映されることとなる。P:RM

なお、これを記念して初日の4月22日にはいずみの駅ホームで新塗装車輌の撮影会が行われるそうです。時間は11時30分から15時まで。JRPS(日本鉄道写真作家協会)のプロカメラマンによる撮影教室もあわせて開催されます。詳細は相模鉄道ニュースリリースのPDFファイルをご参照ください。

阪堺電軌モ163に出会う。

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今日は私用で大阪へ。帰りしなひさしぶりに阪堺電気軌道阪堺線をのぞいてきました。ラッキーなことにちょうど旧南海時代の塗色に復元されたモ163号が運用に入っており、現役最古参電車の元気な姿に接することができました。
▲来年で生誕80年を迎えるモ163の面構え。左右に掲げた尾灯にLP42形前照灯…伝統の旧南海塗色がよく似合う。'07.3.21 恵美須町

hankai163nn2.jpgこのモ161形163号は実に1928(昭和3)年生まれの半鋼製車です。合計16輌の仲間がいましたが、現在残っているのは10輌。ほとんどは阪堺電軌旧型車標準色ともいえるグリーンに白帯の塗色ですが、この163号と162号の2輌のみ旧南海時代の塗色に塗り変えられて注目を浴びています。
▲南霞町電停に到着した恵美須町行き。高架上はJRの新今宮駅ホーム。'07.3.21

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おまけに1928(昭和3)年川崎車輌製のこの2輌、気がついてみると営業用の私鉄電車としては今や最古の存在となっています。来年で実に車齢80歳。現在走っているどの動態保存蒸機よりも古いわけですから、その年季の入り方は半端ではありません。
▲阪堺線の起点・恵美須町を発車してゆくモ163。右に見える木造の信号扱所もなかなかの雰囲気。ちなみにデータイムの運転本数は平日・土日ともに5往復ほど。'07.3.21

hankai163n2.jpgこのモ162・163を拝もうと実は昨年も立ち寄ったことがあるのですが、その時は見事に空振り。どうやら冷房が搭載されていない関係から夏場は運用から外されているようで、元気に走り回る姿を見られるのは10~5月くらいの間のようです。
▲発車を待つモ163。モ601やモ701といった新型車に混じってこんな古豪が営業運転に入っているのがなんともうれしい。恵美須町'07.3.21

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▲ガラガラと盛大な吊り掛け音を響かせて踏切をわたる。南海時代の復元塗色車はこの163号と僚車162号の2輌のみ。'07.3.21 南霞町

1980(昭和55)年に南海から分離独立した阪堺電気軌道は、恵美須町~浜寺駅前間14.1kmの「阪堺線」と、天王寺駅前~住吉公園間4.6kmの「上町線」を擁し、大阪の路面電車として親しまれています。ただ路面区間は驚くほど少なくほとんどが専用軌道で、東京の都電荒川線や東急世田谷線と同じく、それが命脈を保つキーポイントになっているのでしょう。

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▲モ163の車内。開口部の広い中央扉を入ると、座席のえんじ色のモケットに木製の袖仕切り等々、そこには懐かしい路面電車の客室空間が広がっている。なお、平野線(今池~平野間5.9km/1980年廃止)で使用されていた後輩のモ217は先日お伝えしたように和歌山の交通公園に保存されている。'07.3.21 恵美須町

最後に通天閣を仰ぎ見る起点の恵美須町駅で見かけたちょっと気になる木造の信号扱所もご覧に入れましょう。この恵美須町駅、行灯式の車止めやらなにやら、ほかにも模型心をくすぐるシーンがそこかしこに見受けられ、まさに「模“景”を歩く」にうってつけの駅です。

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▲恵美須町駅の信号扱所をもう一度…。モデラーにとっては実に気になるストラクチャーで、わずかな時間ながらいろいろな角度から「模“景”を歩く」を試みた。'07.3.21

kokutetsujidai9n.jpg22日発売の『国鉄時代』vol.9の特集はずばり「東京・あの頃…」です。昭和30年代から50年代まで、東京とその周辺にまつわる、人それぞれに思い出深い写真とエピソードが綴られています。時代は高度成長期からオイルショックへ。鉄道で言えば東海道本線全線電化直前から蒸気機関車全廃までの20年…今に至る合理化・画一化は徐々に進んではいましたが、まだまだ鉄道が輸送の要として光り輝いていた時代の、東京の汽車と電車の物語をお届けします。

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まず、巻頭は田部井康修さんの「高崎線 EF50との日々」。大正生まれのイギリス電機EF50は、その後の国産機に比べれば性能的には遜色があり、名機とは言いがたい機関車ですが、甲冑に身を包んだような独特の風格で一際異彩を放っていました。著者の田部井さんは自宅のある高崎から東京まで6年間大学に通い、その行き帰りに学生鞄にいれたセミ・ミノルタで撮影に励んでおられたとのこと。その中からEF50の印象深いカットで構成していただきました。御徒町や神田の高架や高崎線を行く英国紳士の在りし日の姿を、興味深いエピソードとともにご覧ください。
▲御徒町で待機中のEF50 5。その横を駆け抜けるのはEF58 6牽引の高崎線上り快速624レ「あかぎ」。'56.11.16 P:田部井康修(『国鉄時代』Vol.9より)

本号でもっともボリュームある企画は「1960年代の首都圏の蒸気機関車」です。1960年から1970年まで、関東一円に配置された蒸機全機の10年間にわたる動向を、機関区・機関支区別の配置表を軸に西尾恵介さんが解説。一見、無味乾燥に思える表の中からさまざまな興味深い事実が浮かび上がり、意外な発見やドラマすらも見出せます。故・臼井茂信さんはじめ、村樫四郎さん、村松 功さんなどオールド・ファンの方々の作品が16頁の大型企画を盛り上げます。

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▲「配置から見た1960年代首都圏の蒸気機関車」は14形式10輌の動向を区所別の配置変遷から再検証した必見の内容。画面右は尾久時代のC62 22。(『国鉄時代』Vol.9より)

また、「首都圏の旧型電機を追う」では、首都圏に配置されたEF10・EF11・EF12・EF13の1970年代前半の運用と配置について成田冬紀さんが、写真撮影とからめて語ります。横須賀線のEF12、南武線のEF11、東海道本線のEF10など、撮影するために旧型電機の運用を調べ上げた同氏の膨大な記録の中から、興味深いものをピックアップ、これまた貴重な写真とともに展開いたします。旧型電機では1974年から75年にかけて、山手貨物線で運転されていた定期三重連662レも見逃せません。わずか2ヶ月あまりしか運転されなかったこの三重連を、通勤の途次毎日のように観察し続けていた高木宏之さん。三重連を構成する機関車の日付別機関車連結順序表も付いて、胸躍る記事となりました。EF10+EF13+EF13、EF13+EF15+EF12などなど、新鶴見機関区所属機で構成された三重連は日々異なった組み合わせを見せてくれました。EF10+EF10+EF10や、ヒサシ付きのEF10が先頭に立ったカットなどは地道に狙っていなければ決して撮影できなかったもので、ビルの谷間を走る鉄道がまだステンレス色に染め上げられる前の時代の貴重な記録です。

ほかにも、蒸気機関車では川越線・八高線の9600、東京最後の煙となった高島貨物線のD51など、高度成長期をささえた縁の下の力持ちを取り上げました。また、東海道本線全線電化当時の鶴見・蒲田界隈の優等列車銀座の様子、毎日のようにEF58で運転されていた団体列車をHゴムなし原型大窓、ヒサシ付き、縦型フィルター、鋳鋼先台車装備機など牽引機の「美観」を重視して追った若き日の記録、生まれ育った東北本線沿線の少年時代の風景など、それぞれに味わいのある記事を凝縮いたしました。

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さらに、都電が国鉄などの列車・駅とクロスする写真を中心に、ある大雪の日の都電の奮闘振りを描いた椎橋俊之さんの「電車の道は十文字」など、失われてしまった街の風景も誌面の中で生き生きと甦ります。元運転士・中村信雄さんによる横須賀線のモハ43系の話は、さすが関係者だけに、記事にはわれわれファンの立場では知り得ない貴重な記録が詰っています。
▲1956(昭和31)年、東海道全線電化を機に19輌のD62が吹田に集中配置された。全機20輌のなかで姫路に配置された8号機を除くすべてが吹田に結集した。(『国鉄時代』Vol.9より)

特集以外にも興味深い記事を満載いたしました。「山陽本線東部のマンモス機D62」では著者・酒井賢三さんの生まれ故郷である須磨の海岸を行く黄金時代のD62が威風堂々その巨体を現します。昭和30年代前半、D62は吹田機関区に集中配置され、定期14運用と、長大貨物列車の先頭に立ち獅子奮迅の活躍ぶり。海峡をわたる潮風の中で無心にシャッターを切った同氏の作品の中には、重連も多く写っています。また、米坂線で遭遇した9600によるキマロキの排雪作業を収めた水木義明さんの記事も、雪深い山奥で巡り合った僥倖のショット。その興奮が40年の時を越えて伝わってきます。さらに、筑豊本線冷水峠のD60三重連撮影記では臨時列車の運転から三重連運転日を割り出した松崎昌一さんの会心の写真です。

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▲西日を浴びて加古川橋梁を行くD62重連。超ヘビー級バークシャーにとって最後の花道であった。'58.6 P:酒井賢三(『国鉄時代』Vol.9より)

kokutetujidaisara1n.jpg特別付録DVDは、「ゆうづる」「みちのく」「十和田」など優等列車を中心に構成した上野征夫さんの『常磐線 C62快走!』、宮内明朗さんの『昭和30年代関東周辺 私鉄専用線の蒸気機関車』では東武鉄道のベヤー・ピーコックやネルソン、鹿島参宮鉄道のクラウスなど、明治の香り漂う古典機が同時録音で甦ります。さらに三品勝暉さんの『EF58「あかつき」「彗星」』では1972年特急運用に返り咲いたEF58が、朝日を浴びて須磨の海岸から新大阪まで疾風のごとく駆け抜けます。同機の花道を今に伝える貴重な動画です。『川越線822レ』は大宮機関区元指導機関士の小糸健彦さんが、キャブに添乗、朝の武蔵野を駆ける通勤列車を沿線での通過シーンも交え、ドキュメンタリータッチで構成。煙の香漂う出色の作品です。今回は下記リンクに付録DVDのサンプル動画をご用意いたしました。ぜひお買い求めいただき、これらの動画もじっくりと堪能いただければと思います。

動画
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国鉄時代9サンプル動画

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横浜市が2008(平成20)年3月末の開業を目指し建設を進めている地下鉄4号線グリーンラインの電車が去る2月26日に報道公開されました。すでに明日発売の本誌最新号には詳細が掲載されていますが、まずは速報としてお目にかけましょう。
▲第7のリニアメトロ、10000形。この先行車輌では側窓横のカラーバンドがブルーだが、路線名がグリーンラインに決定したため、営業時にはグリーンに貼り替えられる予定。'07.2.26 センター南 P:RM(高橋一嘉)

yokohamashi2n.jpgこのグリーンラインは横浜市が構想する横浜環状鉄道(鶴見?日吉?中山?二俣川?東戸塚?上大岡?根岸?元町間)の一部として計画されたもので、このうち建設中の区間はJR横浜線中山駅から港北ニュータウンを経て東急東横線日吉駅まで、13.1kmを21分で結ぶ予定です。途中、センター南、センター北の両駅で営業中の地下鉄3号線ブルーラインと接続します。軌間はブルーラインと同じ1435mmですが、グリーンラインはリニア駆動方式を採用する小断面地下鉄として建設されています。リニア駆動方式の地下鉄としては大阪(長堀鶴見緑地線・今里筋線)、東京(大江戸線)、神戸(海岸線)、福岡(七隈線)に次いで7路線目の開業となる予定です。大きな特徴はリニアメトロでは初めて明かり区間を有することで、最高速度80km/hというのもリニアメトロでは初です。
▲窓下に凹凸を付けた独特のデザインの前面。'07.2.26 センター南 P:RM(高橋一嘉)

yokohamashifig.jpgさて、今回公開された10000形電車は15m級のアルミ製車体を持つもので、車体は川崎重工、台車は住友金属製です。外観は前面に段差を持たせた独特のデザインが特徴と言えるでしょう。客室内は貫通路に全面ガラス張りの貫通扉を採用しており、小断面ながら大変開放感のある雰囲気です。この10000形は開業までに4輌組成×15編成=60輌が投入される予定とのことです。
▲グリーンライン開業後の横浜市営地下鉄路線図。(横浜市交通局パンフレットより)
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▲小断面ながら狭さを感じさせない車内。リニアメトロでは初めて明かり区間を走るだけに快適な車窓展望も楽しめそう。'07.2.26 センター南 P:RM(高橋一嘉)

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▲貫通路は扉とその両側をガラス張りとしている(左)。運転台はリニアメトロではおなじみの右側配置。ATOによるワンマン運転が実施される予定(右)。'07.2.26 センター南 P:RM(高橋一嘉)

ちなみに、グリーンラインが開業する2008(平成20)年3月には東横線武蔵小杉?日吉間の複々線化(目黒線延伸)工事も完成する予定。これまで東横線の一中間駅だった日吉は、横浜市街、港北ニュータウン方面と、渋谷、目黒方面の4方向の乗り換え駅に変貌することになります。

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ヘレンタールバーンを訪ねたのにはもうひとつ理由がありました。パャバッハからヘレンタール(地獄谷)をさらに遡ること30キロあまり、峡谷沿いの道の行き止まりにナスバルト(Nasswald=湿った森)と呼ばれる小さな村があり、そこにナスバルトバーン(Nasswaldbahn)と名付けられた600mmゲージの保存森林鉄道があると聞いたからです。今でこそホームページ(ナスバルトバーンHP)も開設されていますが、4年前の訪問時にはほとんど情報がなく、日本出発前に集められた情報は場所と運転日程度という状況でした。
▲蓄電池機関車No.32に牽かれて“湿った森”へと入ってゆく列車。600mm軌間の軌道はかなりワイルドで、動画でもわかるように上下左右に激しく揺れながら走る。'03.9.27

holrental3n080n.jpgほとんど対向車もないような渓谷沿いの田舎道を走っている時に、風景こそ違えど「王滝村」を思い出していました。マイナーとはいえ、一応オーストリアの保存鉄道リストにも出ているヘレンタールバーンが木曽赤沢とするならば、めざすナスバルトバーンは「りんてつ倶楽部」の皆さんがボランティアを務めている王滝村の保存森林鉄道といった感じでしょうか。二者の距離感からしてもちょうど同じようで、何か不思議な親近感を抱きながらステアリングを握っていました。
▲主力機のNo.32は"Wismut Type B360”というバッテリーロコ。DLではないため走行音は極めて静か。'03.9.27

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▲昼なお暗い“湿った森”を目指す600mmの軌道。オーストリアの森林鉄道には一般的な760mmゲージのほかにこの600mm、700mm、720mm、800mmなど多様なゲージが混在したが、いずれもメトリック(メーター法)なのが特徴。'03.9.27

果たして辿り着いたナスバルト村はペンションやバンガローが点在する自然休養村のようなところでしたが、村の中心部の案内板を見ても、いったいどこに軌道があるのかさっぱりわかりません。尋ね歩いてようやくわかったのは、さらに林道を奥に入っていった森の中に起点があるらしいこと。それにしても村の人でも知らない人がいるのには驚かされます。

holrental4n084n.jpg運転日は基本的に4~10月の土曜日のみと“営業”を考慮した保存鉄道では考えられない鷹揚さです。恐らくボランティアの皆さんが日曜日は教会へ行かねばならないから…とかそんな理由から無理のないスケジュールになっているのでしょうが、そうなると怖いのはその日に限ってお休みという状況です。動いていないどころか誰もいなかったらとびくびくしながら起点らしき所に辿り着くと、ありがたいことに何人かが機関車を取り囲んで談笑しているではないですか。
▲軌道延長は2キロほど。起点にはクラブハウスと木造4線の庫があるほかはほとんど施設らしきものはなく、動力車以外は周囲の側線に留置されている。'03.9.27

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▲不釣り合いに大きなスノープラウを持つDL27号機はデータによれば"Babelsberger Type Ns2f"(左)。ナベトロのなかにはわが国ではあまり見られない枕木方向にダンプするタイプのものも…(右)。'03.9.27

さっそく日本から来たナローゲージャーであることを自己紹介しますが、どうも英語は通じないようです。責任者らしき年配者が構内外れで作業をしていた高校生くらいの男の子を連れてきて、彼に話せと言います。こちらでも高校では英語の授業があるのでしょう。とにかく彼を通して来意を告げたのですが、皆さん驚いたの何の…。それはそうでしょう、逆に考えれば「王滝村」にオーストリア人がひとりで車を飛ばして林鉄を見に来たのと同じ状況なわけですから、びっくりするのもわけありません。とにかく居合わせた人たち全員が集まってきてしまいました。ここぞとばかりこちらもお土産に持参したRMライブラリー『魚梁瀬森林鉄道』を献上。日本のWaldbahn(森林鉄道)だと説明すると、矢継ぎ早に質問が飛び交いますが、例の高校生(?)の彼しか“通訳”がいないもので、申し訳ないながら何を言っているのかさっぱりです。

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とにかく一往復列車を出すからまぁ乗りなさいというわけで乗車した際の動画が下記リンクです。どうやらこの日集まっていた皆さんは全員ボランティアとその家族らしく、純粋なお客は結局私一人だったようです。
▲ナスバルトバーンの皆さんに盛大に見送られて“湿った森”を抜け出すと、そこには別世界のように明るい風景が広がっていた。'03.9.27 ナスバルト村にて

動画
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ナスバルトバーンのサンプル動画

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この週末はちょっと趣向を変えて、オーストリアの知られざる保存ナローゲージ鉄道訪問記を動画付きでお届けしましょう。まずご紹介するのはヘレンタールバーン(Hollentalbahn)という延長5キロほどのミニ電気鉄道で、オーストリアの保存協会(OGLB=Osterreichische Gesellschaft fur Lokalbahnen)加盟路線ながら、そのマイナーさからか、今までほとんど紹介されていません。
▲旧鉄聯の古典DL「V2」(1943年製、16.5t/130PS )に牽かれる客車も1930年製と年代もの。'03.9.27 (このシーンは下記リンクより動画がご覧になれます)

holrental1n068n.jpg首都ウィーンから高速A2線を南下し、さらに国道S6号線を西に向かうこと約100キロ、19世紀中盤に初めてのアルプス縦貫鉄道として建設され、十年ほど前にはユネスコの世界遺産にも登録されたセメリング(Semmering)のわずかに手前、オーストリア国鉄(OBB)のパャバッハ(Payerbach)駅を起点にしているのがヘレンタールバーンです。詳しくはHP内のPDFファイルをご覧いただくとして、20世紀初頭にセメリング鉄道が専用線としてハーシュヴァン(Hirschwang)までの5キロあまりを建設しようと着工したものの、途中の隧道工事でてこずり、そのうちに第一次世界大戦で中断、戦後になってこの隧道工事用に用いられていた760mm軌間の資材軌道をそのまま使ってスタートしたのが、ヘレンタールバーンの発端だとされています。
▲起点のパャバッハ駅。右側が国鉄線で、国鉄駅からは地下道を抜けてかなり歩くことになる。国鉄線の画面右手前方向がかのセメリング方。'03.9.27

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1963(昭和38)年までLBPH(Lokalbahn Payerbach-Hirschwang)と呼ばれて運転されてきたこの鉄道ですが、ご多分に漏れず道路の整備とともに廃止となり、1977(昭和52)年になってその廃線跡をOGLBが引き継いで保存鉄道として再スタートをきりました。
▲もともとが760mm軌間の工事用軌道だっただけに最小曲線は60R、最急勾配は25‰とかなり厳しい。架線電圧は直流550V。'03.9.27

holrental1n069n.jpg現在はボランティアの手によって維持・運転されているこのヘレンタールバーンですが、路線延長も5キロほどと短く、沿線にも終点にもとりたてて見所もないとあって、決して賑わっているとはいえないようです。趣味的にも動態蒸気機関車がいるわけでもなく、彼の地の鉄道誌の誌面を飾ることもほとんどないこの鉄道に足を向けてみようと思い立ったのは、ひとえに奇妙なスタイルのシーメンス製電気機関車に魅かれたからにほかなりません。
▲駅本屋。簡単なレストランも兼ねており、オープンエアでの食事も楽しめる。'03.9.27

holrental1n070n.jpg果たしてたどり着いた起点のパャバッハ駅は拍子抜けするほど小さな駅でした。国鉄駅の逆側に駅とレストランとスーベニアショップを兼ねたささやかなヘレンタールバーンの「本屋」があり、ボランティアと思しきおばさんがいつ来るともわからないお客さんを待っています。列車はと見ると、残念無念、先頭に立っているのはタイプHF130Cと呼ばれる旧鉄道聯隊のDLではないですか。通じない英語で問いただしてみると、どうやらシーズン外れの今日はお目当てのシーメンス製電機は運用に入らないらしく、しきりに同情のポーズをしてくれます。やむなく架線下をゆくDL牽引列車を追うことにしました。
▲1930年製という客車C21の車内。6月中旬から10月中旬の日曜・祭日のみで冬場の運転はないが、それでも天気の悪い日にはかなり寒そうだ。'03.9.27

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列車を牽引している姿を目にすることはかないませんでしたが、お目当ての電気機関車“E1”はお誂えの場所に独特のパンタグラフを高々と掲げて停まっていました。1903年製と言いますから、訪問時にちょうど100歳! もとを正せばL型オープンキャブの工事用電気機関車だったものが、木製エンドキャブになり、さらにこの珍妙なスタイルにと変遷を遂げてきたのは、ある面「草軽」を連想させるものがあります。
▲これがお目当てだった1903年シーメンス製電機。17.8kW×2の出力を持つ9t機。全長4200mmと小さい割には巨大なパンタグラフを振りかざす。'03.9.27
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また来る機会があれば、その時はぜひともこの電機の牽く列車の姿を見てみたいものと、後ろ髪をひかれる思いでヘレンタール、つまりは「地獄谷」を遡り、その奥にあるというナスバルトバーン(Nasswaldbahn)を目指します。次の目的地もナスバルト=じめじめした森という名前からして怪しげではあります。

動画
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ヘレンタールバーンのサンプル動画

「くりでん」あの頃。

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くりはら田園鉄道もあと2週間あまりで廃止となります。最後にもう一度足を運んでみたいと思いつつ、残念ながらそのチャンスはなさそうです。恐らく昨年11月の訪問が私にとっての最後の「くりでん」訪問となります。
▲晩秋というにはやけに冷え込むと思っていたら、ついに雪が舞ってきた。ED201の牽く貨物がやってくる頃には辺り一面はすっかり雪景色。'83.11.26

ed201n2.jpg1995(平成7)年4月1日をもって動力を電気から内燃に変更し、社名も「栗原電鉄」から「くりはら田園鉄道」に変更した同社ですが、うまい具合に平仮名愛称の「くりでん」はそのまま平行移動し、違和感のないまま今日に至っています。ただ、私たちの世代にとって、「くりでん」はあくまで「くり田」ではなく「くり電」です。内燃化後も何回となく訪れているにも関わらず、今もってイメージの中の「くりでん」には、気動車ではなく、あの湘南顔のM15形が田園風景の中をのんびりと走っているのです。
▲若柳で休むC171+M171の2連。元西武鉄道のクモハ375・376で、電装解除・降圧のうえ栗原入りしたが、ほとんど使用されることはなかった。'83.11.26

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▲細倉駅で発車を待つED201牽引の上り貨物列車。この4年ほど後に細倉鉱山そのものが閉山してしまったため、貨物輸送自体に終止符が打たれてしまった。'83.11.26

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▲刈り入れも終わり長い冬を待つばかりとなった田園を単行のM15が行く。とりたてて見所があるわけではないものの、改軌後の1960年代から1995年の内燃化まで多くのファンにもっとも親しまれた光景。'79.11.14

1980年代に入ると細倉鉱山の衰退とともに貨物輸送量も減り、この規模の電化私鉄には珍しく4輌も在籍していた電気機関車たちもすっかり体を持て余してしまっていました。それでもナロー時代からの生き残りのED20形が不釣合いに大きい国鉄貨車を牽いて駒場の勾配をよじ登る姿は実に魅力的で、私もその光景見たさに、ペンタックス67を抱えて沿線を歩いたことを昨日のことのように思い出します。

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▲3輌在籍していたED20は2ft6in時代からの生え抜き電機。改軌にあたって台車幅を広げる程度の最低限の改造で3ft6in化したため、上回りと下回りがちぐはぐな実に“魅力的な”スタイルとなっている。なお、ED202が現在でも細倉マインパーク前駅の駅前に保存展示されている。'79.11.14

1921(大正10)年の開業から86年、蒸気軽便から電化、さらに改軌、そして今度は内燃化と数奇な運命をたどってきた「くりでん」も、ついにあと2週間でその歩みを止めます。再び訪れることはかないませんでしたが、せめて遥か東京の地から、撮りためた写真を見ながらその終焉に思いを馳せたいと思います。

slkoukumi1n.jpgご好評をいただいている椎橋俊之さんの連載“「SL甲組」の肖像”がいよいよ単行本になります。2003(平成15)年2月号(N0.233)よりスタートしたこの連載は、「甲組」と呼ばれた腕利きの機関車乗務員へのインタビューをもとに、戦後から高度経済成長期にかけて日本の鉄道がどう守られ、運転されてきたのかを再発掘しようという試みです。思えば第一回の取材は今から5年前の2002(平成14)年5月14日、盛岡機関区からのスタートでした。あの奥中山で三重連を操った「甲組」の皆さんはすでに70代以上。真冬も信号確認のため窓から身を乗り出さざるをえない乗務環境から、今日でも左肩に故障を抱えている方が少なくなくありません。それでも蒸気機関車に乗務していた時代の話ともなると、まるで堰を切ったように貴重な証言が飛び出し、なおかつ皆さん口を揃えて、苦労は多かったものの、やり甲斐と誇りに満ちていた「甲組」時代を懐かしんでおられたのが印象的でした。

koukumi2ntobira.jpg表題こそ「SL甲組」を名乗ってはいますが、連載では蒸気機関車区のみならず、電気機関車を受け持つ機関区もたびたび取り上げています。今回の単行本化に際して収録した「東京機関区」もそのひとつ、いや最右翼と呼べるもので、きりりとネクタイをしめて「はと」や「つばめ」のマスコンを握る姿は、全国の機関車乗務員にとっても憧れの的だったに違いありません。東京区に限っては、「甲組」の上にさらに選りすぐりの乗務員のみがノミネートされる「特急組」があり、機関士、機関助士それぞれ6人の合計12人で4交番を回していたといいます。「はと」の回送時、有楽町手前の東京駅場内信号で停められると、幕間の日劇の踊子たちが機関車に向かって一斉に手を振ってくれる…純白の手袋をはめた“特急機関士”が憧れの象徴だった時代のそんな逸話も心ときめくものがあります。
▲単行本『「SL甲組」の肖像』より盛岡機関区(宮古機関区)。

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すでに連載は39回を数えておりますが、今回の単行本第一弾では6機関区1私鉄を収録いたしました。ラインナップは奥中山三重連の盛岡機関区、C53からD52まで山陽本線西部の守り神だった小郡機関区、日本一の重装備D51で大畑ループに挑んだ人吉機関区、花の東海道の看板・東京機関区、本州最北端を護る青森機関区、石炭産業とともにあった夕張鉄道、そして国鉄蒸機終焉の地・追分機関区と、どれも読み応えたっぷりです。
▲単行本『「SL甲組」の肖像』より「はつかり奥中山に挑む」(上)と「山陽本線のダイヤを護る誇り」(下)。

今回の単行本化にあたっては連載の再録にとどまらず、各区それぞれに資料等を追加収録するとともに、取材秘話も付け加えております。映画「大いなる旅路」のモチーフにもなった山田線雪崩遭難事故の際に実際に乗務されていた副機関士・前田悌二さんの手記は読後涙がとまりませんし、東京機関区・石田丑之助さんの「特急列車運転の“こつ”」は、アナログな時代だからこその技量と研鑽が垣間見られて、これまた心を打ちます。

koukumiatotobira3n.jpgこの『「SL甲組」の肖像』第一巻、来週中には書店店頭に並ぶはずですので、どうかぜひお買い求めいただき、「甲組」の“矜持”に触れていただければと思います。そう、どの機関区でお話を伺っていても、まるで申し合わせたようにOBの皆さんが口にする言葉は「恥」でした。機関車乗務員としての「恥」、甲組としての「恥」、そして国鉄マンとしての「恥」…指示されたからとか、叱責されるからとかではなく、自分の仕事に対する“矜持”こそがレギュレータを引かせ、ブレーキ弁を扱わせ、ひいては事故を未然に防ぎ、定時運行を確保してきたに違いありません。前述の「特急列車運転の“こつ”」のなかで石田さんが、同じ定時でも自分の納得できる運転が出来た時は「定時」の喚呼も思わず声を大とし、逆に納得のゆかない時はどことなく声も張りがなく「うら恥ずかしい」と書かれていますが、まさにこういった思いこそが日本の鉄道を、いや日本そのものを支えてきた牽引力だったに違いありません。

『「SL甲組」の肖像』 第一巻
(A4版変形=本誌同寸・244ページ)
定価2800円(税込)
※3月22日発売

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肥薩線の視察で訪れた人吉の機関庫でとんでもないものを発見しました。石積みの庫内を見学させていただいている際にふと目に止まったのが、3線あるうちの一番北側の線の奥に“うずくまっている”小さな台車です。なにやら古枕木が無造作に積まれたそれは、まさに“うずくまっている”という表現がぴったりの状況で暗闇に潜んでいます。ただ、そこはこの道○十年、遠めに一目見ただけでただならぬオーラを感じ、吸い付けられるように駆け寄りました。やっぱり! そうです、「97式」に間違いないではないですか…。
▲石積みの3線矩形庫の一番奥に潜んでいたのは旧陸軍の「97式軽貨車」の片割れだった。発見時の興奮が今もって鮮明に甦る。'07.3.8

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▲復旧用や検修時に“馬”代わりに使われた枕木だろうか、無造作に重ねれらた様子からは一見してただのトロッコにしか見えない。'07.3.8

小誌トワイライトゾ?ンをご覧いただいている皆さんには改めてご紹介するまでもないかと思いますが、「97式」とは正式には「97式軽貨車」と呼ばれる旧日本陸軍の鉄道聯隊が採用した“正式貨車”のひとつです。神武紀元2597年、つまり1937(昭和12)年に正式採用されたことから「97式」と命名されました。基本的には1931(昭和6)年(=2591年)に正式採用された「91式軽貨車」を設計変更して荷重を5tから8tに引き上げたもので、2台車をペアとしてその上に各種の荷台を搭載して物資や兵員輸送に使用されたものです。時には何輌も組み合わせてさながら大物車のように橋桁などの重量物の運搬にも使われる、まさにマルチパーパスな軍用貨車です。

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この「97式」の最大の特徴はゲージの可変機能を持っている点で、「戦場に架ける橋」で知られる泰緬鉄道などインドシナへの南進の際にはメーターゲージ(1000㎜軌間)に、朝鮮半島と中国大陸では標準軌(1435㎜軌間)にと数種類のゲージに対応する臨機応変な構造となっています。車輪を押さえている車軸のスペーサー(カラー)を組み変えるだけで瞬時(?)にゲージを変更できるシステムは、アナログながら70年前の「フリーゲージトレイン」と称せましょうか。
▲97式の最大の特徴はゲージの可変機能。メーターゲージから広軌までスペーサー(写真左)を組み変えることによって対応できる。さらに国鉄車輌でもメタル軸受が当たり前の時代にベアリング軸受(写真右)を採用していた点も特筆される。'07.3.8

戦時体制の中で軍部から主要車輌メーカーに生産が振り分けられ、今もって正確な輌数は判明していないものの、膨大な数の「97式」が誕生し、そしてその大半は戦地に送り込まれたまま帰国することはありませんでした。

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▲2台車がペアで使用されるため、朝顔型カプラーは片側にのみ付く。下に見える逆V字型のパーツはブレーキハンドルとブレーキロッドのリンク。端梁にはアルミ製の「梅鉢」の銘板がしっかりと残されている。'07.3.8

15年ほど前から小誌トワイライトゾ?ンではこの「97式」の発見を読者の皆さんに広く呼びかけ(『トワイライトゾ?ン・マニュアル 2』所収「さまよえる軍用貨車の亡霊」)、作業用の台車などとして各地で残存情報が寄せられてきました。九州内でも、今はなき大分交通耶馬渓線中津駅構内や熊本電鉄北熊本電車庫などで発見報告がありますが、この人吉庫の個体はもちろん未発見。しかも端梁には「昭和15年6月 梅鉢車輌株式会社 大No.B2635」と刻印された銘板もしっかりと残っています。梅鉢製の97式も貴重ながら、刻印の「大」の文字も初めてです。これまでは片仮名の「チ」が刻印されているものは少なからず発見されており、こちらは鉄道第一聯隊の本拠地の千葉を示すのではないかと類推されていましたが、それではこの「大」はいったい何を意味するものなのでしょうか?

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▲竣功時の91式軽貨車公式写真。このように2台車がペアで1輌となって使用される。車端に見えるローラーは戦地でのレール繰り出し用で、搭載したレールをこれによって敷設すべき進行方向に繰り出してゆく。ちなみにかの泰緬鉄道は、延長415kmがわずか16ヶ月、つまり一日約890mという驚異的スピードで敷設されたことになる。(川崎車輌原図)
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肥薩線の産業遺産・近代化遺産を巡る視察から、瓢箪からコマのごとく発見された歴史の生き証人「97式」。可変ゲージ機構や製造銘板など、残された97式の中でも実に状態の良い個体だけに、なぜ人吉にあるのかの謎解きを含めて、ぜひこの発見を機に末長い保存・展示を望みたいものです。

肥薩線視察記。(下)

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さて、肥薩線にまつわる遺構として最大規模のものは、旧人吉機関区の石積み機関庫です。全通から2年後の1911(明治44)年に完成したというこの機関庫は、全長約51m×幅約16mの実に堂々とした3線矩形庫で、もちろん加久藤溶結凝灰石を丹念に積み上げたこの地方ならではの建築物です。
▲1911(明治44)年築造と伝えられる旧人吉機関区の石積み庫。間もなく100年を迎えようというのに、まったく劣化が見られないという。石積みでない画面後方は増築部、手前の屋根がめくれているのは台風による損傷。'07.3.8

DH000067nn.jpg現在では使用されていませんが、肥後石工の手による径間4mの3連アーチが両端に美しく残されており、まさに第一級の産業遺産ということができましょう。八代方には後年増築された庫が続いていますが、現在管理しているJR九州熊本運輸センターのお話によれば、増築部分の方が補修率が高く、石積みの旧庫の方はまったく手が掛からなかったとのこと。改めて明治期の「匠」による技術完成度の高さに思いを馳せずにはいられません。
▲庫内から人吉駅(右側)とくまがわ鉄道車輌庫(左側)方面を見渡す。この石積みの庫には大学の建築学科の学生の視察も多いという。'07.3.8

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▲かつては大畑越えの重装備D51や川線のC57、それに湯前線の8620がひしめき合っていたであろう庫内は静まりかえって車輌の姿はない。屋根中央部に設けられた煙出しと明り取りが蒸機全盛時代を物語る。'07.3.8

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▲実に堂々とした石積み。手持ちのメジャーで計ってみると1個の大きさは600×300㎜ほど(左)。右はポータル部のアップで、矢岳第一隧道にはなかった“要石”の装飾が見られる。'07.3.8

この機関庫脇には上路式の転車台が残されており、2年後に58654号機が熊本?人吉間を結んで走り始めた際には大きな役割を担うこととなります。残念ながら本線とは機関庫を挟んで逆側となるため、列車から展望することはできません。石積みの機関庫や転車台を含めた観光資源としての利活用を考えるなら、今後見学動線の確保が必要となってくるものと思われます。

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▲機関庫を挟んで本線と逆側に上路式の転車台が残されている。通常は気動車の給油線と洗浄線を結ぶただの通路としてしか用いられていないが、58654復活の折りには不可欠な設備だ。'07.3.8


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このほかにもあの余部橋梁と同じアメリカン・ブリッジ製の球磨川第一橋梁・第二橋梁(1906=明治39年製ピントラス、ちなみに余部橋梁より旧い)など、沿線の産業遺産・近代化遺産は数知れません。この「肥薩線開通100周年記念事業」への取り組みはまさにいま始まったばかりです。なんとか実りある方向での発展を期待したいものです。
▲この転車台は電気式のモーター駆動。センターのビーム上に設けられた回転式の接点から集電して360度自在に回転できる(左)。万が一の停電の場合はキャブ内に備えられた非常用クランク(写真右下)によって手回しも可能。'07.3.8

ところで、今回の視察で“トワイライトゾ?ン”的にとんでもない“発見”がありました。地元の皆さんもまったく気が付かなかったというその“発見”の正体について、明日は番外編としてご紹介いたしましょう。

肥薩線視察記。(中)

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今回の肥薩線開通100周年記念事業の大きな柱のひとつは、肥薩線にまつわる産業遺産・近代化遺産の掘り起こしと、それを利活用した観光資源化です。それだけに意見交換会を前にした現地視察では、JR九州熊本支社の協力のもと、矢岳第一隧道や人吉の機関庫など、通常は立ち入ることのできない施設や遺構を見学することができました。
▲2096mと肥薩線最長の矢岳第一隧道ポータルには人吉方・吉松方それぞれに立派な扁額が掲げられている。これは人吉方のもので、着工当時の逓信大臣・山県伊三郎の揮毫による「天険若夷」(てんけんじゃくい)の文字が刻まれている。険しい肥薩の山地も平地(夷)のように越えられるようになったという意味。'07.3.7

DH000194nn.jpgまずは矢岳第一隧道。人吉?吉松間のサミットに聳える第一隧道は延長2096m。肥薩線最長トンネルであることはもとより、隧道内が25‰の片勾配となっている点も特筆されます。隧道内にサミットを設定するのが定法ながら、高低差の激しいこの区間では矢岳方からひたすら掘り下ってゆくしか方法がなく、地下水の出水に悩まされるたいへんな難工事だったと伝えられています。
▲今まさに矢岳第一隧道に進入しようという1255D「いさぶろう3号」。人吉方の山県伊三郎の扁額に向かって走る下り列車が「いさぶろう号」、吉松方の後藤新平の扁額に向かって走る上り列車が「しんぺい号」を名乗る。'07.3.7

IMGP9950nn.jpgそんな難工事が完成したのは1909(明治42)年。この矢岳第一隧道の貫通をもって、青森から鹿児島までを貫く日本縦貫鉄道が実現するわけです。それだけにこのトンネルの意義は大きく、人吉方のポータルには着工当時の逓信大臣・山県伊三郎の揮毫による「天険若夷」(てんけんじゃくい)の扁額が、吉松方には開通当時の鉄道院総裁・後藤新平の揮毫による「引重致遠」(いんじゅうちえん=この隧道によって重い貨物も遠くへ運べるようになった…との意)の扁額が掲げられています。人吉?吉松間を結ぶ観光列車「いさぶろう・しんぺい号」の名称はこの扁額に由来し、人吉方の山県伊三郎の扁額を目指して走る下り列車が「いさぶろう号」、吉松方の後藤新平の扁額を目指して走る上り列車が「しんぺい号」と名づけられています。
▲JR九州熊本支社のご案内で矢岳第一隧道の人吉方ポータルを調査する青木栄一教授をはじめとする一行。石積みとレンガ積み(オランダ積み)を併用した造りとなっている。'07.3.7

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▲球磨川右岸から採取されるという加久藤溶結凝灰石を積み上げて作られた大畑駅の給水塔。球磨地域だけで百数十棟の石倉が残るという肥後石工の伝統は、この地域の鉄道施設にも活きており、人吉の機関庫も珍しい石積みである。'07.3.7

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▲これまた珍しい石作りのあさがお型噴水は蒸機時代からの大畑駅ホームのシンボル(左)。右は吉松駅構内の危険品庫で、こちらも石積み。財産標によれば「明治36年」とあり、建設工事着工時からの遺構と思われる。もちろん現役で使用されている。'07.3.7

今回の視察には鉄道史研究の泰斗で東京学芸大学の青木栄一名誉教授にもお声を掛けさせていただきましたが、この地方特有の石積みの遺構類には改めてたいへん興味を持たれたようでした。実際、同行した郷土史の専門家も気づかれなかった吉松駅の危険品庫など、100年以上を経た建造物も再確認され、実に意義深い視察となりました。

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ところで矢岳駅前の「人吉市SL展示館」には人吉機関区で活躍していたD51 170号機が、吉松駅前には1975(昭和50)年に鹿児島区で廃車となったC55 52号機が保存されています。
▲吉松駅前に保存されているC55 52号機。末期に57号機とともに若松区から流れてきたカマで、九州最後のC55の1輌であった。個人的にはアフリカ象の耳のようなデフ形状がどうも好きになれず、この52号機が現れると舌打ちをしていた記憶がある。ともあれ実に三十数年ぶりの再会。'07.3.7

DH000007n.jpgゆかりのD51 170は九州鉄道OB会人吉支部の皆さんの手によって手厚く護られており、すこぶる状態は良好です。さながら座布団のような敦賀式集煙装置、ボイラ上の650?とランボード上の600?重油タンク、他区には見られない砂撒き管カバー等々、まさに日本一の“重装備”ぶりを目の当たりにすることができます。今回の視察ではかつてこのD51に乗務され、現在は人吉市議会議員をお務めの立山勝徳さんから“補給制動”や“圧縮引き出し”といった「山線」機関士ならではの体験談を伺うこともできました。
▲矢岳駅前の展示館で大切に保存展示されているD51 170号機。かつてはこの横に現在修復中の58654も展示されていた。OBの皆さんの手によって整備されているだけあって状態はすこぶる良い。鹿児島工場施工のボックスタイプの煙室扉ハンドルにも注目。'07.3.7

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▲矢岳駅を発車してゆく「しんぺい号」。木製のベンチに改札ラッチと、今やイメージの中だけでしか出会えないと思われがちな「原風景」がここにある。'07.3.7

トンネルポータルや保存機といったものももちろん重要ではありますが、本誌連載「SL甲組の肖像」のように、その遺構に直接関わってこられた方のオーラルヒストリーも極めて大きな意味を持ちます。意見交換会ではそういったいわば「語り部」の皆さんにどうご協力いただき、今後のプロジェクトを進めてゆくべきかも議論されました。

肥薩線視察記。(上)

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先週は熊本県球磨地域振興局のお招きで、肥薩線の視察および肥薩線開通100周年記念事業意見交換会に行ってまいりましたので、その様子をお伝えしてみることにしましょう。
▲あの大畑駅でエンド切り替え中の1255D「いさぶろう3号」。右側には人吉球磨地域特有の加久藤溶結凝灰石を積み上げた給水塔の遺構が見える。'07.3.7 大畑

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▲熊本駅で発車を待つ1071D「九州横断特急1号」(左)。別府から日豊・豊肥・鹿児島・肥薩線経由で人吉を目指す。右はすでに一部区間では完成間近となっている熊本付近の九州新幹線高架橋。'07.3.7

現在ではいちローカル線のイメージが強い肥薩線ですが、建設当時はこちらが鹿児島本線で、1909(明治42)年11月21日に未開通だった人吉~吉松間が完成し全通を果たしました。ただ、これは肥薩線(旧鹿児島本線)という地方線区の全通を意味するだけでなく、青森~鹿児島間(関門間は航路)の、いわば日本縦貫鉄道の全通をも意味していました。その肥薩線が再来年開通100周年を迎え、さらにそのほぼ一年後の2011(平成23)年春には九州新幹線博多~新八代間が開業し、これまた八戸~鹿児島間の日本縦貫新幹線鉄道が全通するとあって、地元・熊本県は今からさまざまなプロジェクトを立ち上げようとしています。

IMGP9805nn.jpgすでに発表となっているJR九州による58654号機の修復もこの肥薩線開通100周年記念事業を見据えてのことで、「川線」と通称される八代~人吉間はこのハチロクの運転によって一躍脚光を浴びるに違いありません。その一方で「山線」と称される人吉~吉松間は、かつて「日本三大車窓」に数えられたにも関わらず、九州新幹線部分(新八代~鹿児島中央間)開通後はいよいよ利用客が減少し、何らかの活性化対策が不可欠な状況に追い込まれてしまっています。
▲沿線に菜の花が咲き乱れる八代~人吉間の通称「川線」をゆく1071D。日本三大急流とされる球磨川に寄り添うように走る。'07.3.7

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そこで熊本県球磨地域振興局ではこの「山線」を含めた人吉球磨地域の鉄道の魅力をもう一度見直してもらおうと、今回の視察と意見交換会を催すこととなったわけです。興味深いのは従来のイベント性の強いプロジェクトと異なり、肥薩線にまつわる産業遺産・近代化遺産の見直しを大きな柱に据えている点で、スイッチバックやループ線から機関庫、転車台にいたるまでを、大きな意味での鉄道博物館と捉えてプロジェクトがスタートします。
▲蒸機時代は重装備D51の咆哮が絶えずこだましていた大畑スイッチバックも、今ではすっかり静まり返ってしまっている。'07.3.7 大畑

IMGP9842nn.jpg私が肥薩線山線を訪れるのは1972(昭和47)年以来ですから実に35年ぶり。あれだけ煙の絶えなかった吉松機関区がすっかり更地になってしまっているのに衝撃を受けましたが、それ以上に驚いたのは大畑ループの変貌ぶりです。もちろん線形も変わっていなければ沿線に建物ができたわけでもないのですが、とにかく“展望”がきかなくなってしまっています。ひとえに樹木が大きくなったことと、線路脇のブッシュなどが整備されていないことによるのでしょうが、これには少々がっかりでした。一緒に参加した大手旅行会社のマネージャーも同様の感想で、視察翌日に行われた意見交換会でも懸案事項として取り上げられることになります。
▲古き佳き面影を残す木造の大畑駅本屋。大畑・矢岳・真幸と3駅に残る木造駅舎も今後の利活用が期待される。'07.3.7 大畑

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▲標高1700mの韓国岳を中心にえびの高原から京町温泉街を見渡すシーニックポイント。「いさぶろう・しんぺい号」はこういった見所では減速のうえ車内放送で解説をしてくれる。ちなみにこの日は珍しく桜島まで遠望することができた。'07.3.7 真幸-吉松

エスコート役を務めてくださったJR九州によれば、昨年度の「山線」の平均乗降客数は一日あたり大畑7名(普通7・定期0)、矢岳16名(普通9・通学定期7)、真幸10名(普通10・定期0)とかなり深刻です。観光列車「いさぶろう・しんぺい号」の運転などJRもてこ入れ策を講じてはいるものの、九州新幹線全通後はさらに状況が悪化することも懸念され、開通100年を迎えようとする肥薩線は今まさに正念場に立たされています。

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北京オリンピックを控えて中国国内の金属価格が高騰してきている影響か、このところ金属製品の盗難が頻発して新聞・テレビを賑わせています。工事用の鉄板から火の見やぐらの半鐘、果ては公園のすべり台まで盗まれるにいたっては呆れ果てるしかありませんが、実はこの騒動、決して私たち鉄道趣味の世界にとっても他人事ではないのです。
▲ボランティアの手によって修復塗り替えが行なわれた際の「加藤くん」。見違えるように綺麗になった。ささやかなスノープラウがチャームポイント。'03.10.21 P:岸 由一郎

というのも、ここにきて保存車輌や保留車の“SOS”が相次いでいるからです。驚いたことに昨日一日だけでも「今月中に救済できないと解体されてしまう」という“SOS”が2件も飛び込んできました。確かに、放置車輌は言うまでもなく、保存のビジョンもないまま車庫裏に留置してある車籍除外車などは、所有者がこの機会に解体して「換金」しようと考えるのも無理からぬことでしょう。

kst8t12n.jpgそんな状況とは背景が異なりますが、今日は1954(昭和29)年加藤製作所製の8tディーゼル機関車をどなたかもらっていただけないか…という異例のお願いをお伝えしたいと思います。貨物鉄道博物館副館長で、ふるさと鉄道保存協会の中心的メンバーでもある笹田昌宏さんからのご依頼で、まずはその経緯を簡単にご説明いたしましょう。
▲修復直前の状況。かなり荒廃しているように見えるが欠品はほとんどなく、今後のレストレーション次第では動態復活も夢ではなさそう。'03.10.20 P:笹田昌宏
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この機関車は新潟県新発田市のデンカセメント専用線で使われていたもので、用途廃止後、2003(平成15)年に笹田さんらが個人的に譲り受けられたものです。当初は貨物鉄道博物館での保存を念頭におかれていたそうですが、諸般の事情で実現できず、ここにきて留置先から解体の打診が来てしまったとのこと。タイムリミットは今月末! もちろん安住先を見つけようと公園や施設等を含めて打診を重ねられたもののすべて不調に終わり、結局考えあぐねた末、皆さんへの周知の機会がきわめて高い小ブログで紹介してもらえないものだろうか…と私に相談をいただいたというわけです。                                                
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この「加藤くん」についてもう少し詳しくご紹介すると、新製当初は長野県・北松本駅の松本製紙専用線で活躍し、1975(昭和50)年から新潟県・新発田駅のデンカセメント専用線に移って、さらに10年間活躍を続けた機関車です。タイプとしては日本通運をはじめとした通運会社の駅荷役入換え作業用として量産されたものですが、この8tという自重のタイプはその中では比較的珍しいといえましょう。いずれにせよ、今となっては現存する個体はほとんどありません。なお、2003(平成15)年10月20?21日に、ボランティア作業で錆落としと再塗装の応急修復が行われています。
▲同系の10t機。通運業者向けの規格型で、鋳鋼台枠の同系機としては6.5t、8t、10tが一般的だったが、一番数が多かったのはこの10tタイプで、8t機は珍しい。側台枠とエンドビーム締結ボルト数が8t機の2/1/2に対して10t機は2/2/2。軸箱脇にはステップの窪みもある。'81.3.23 漆山(日本通運山形支店) P:名取紀之
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さて無償譲渡の条件は基本的に2つ。
1:車輌の価値を理解し長期的に保存する意思があること。
2:車輌の現状渡し(現地からの輸送費は譲受者負担)で受け取れる方。
だそうです。もちろん個人、団体などの資格は問いません。全長は5mほど。ショップ入口のディスプレーなどにも良いかもしれません。ただし、タイムリミットが迫っているため、今月末までには「里親」を決めねばならず、最悪3月31日までに安住先が決まらなかった場合は、この「加藤くん」、53歳の生涯を閉じることとなってしまいます。
お問い合わせは、Eメールで kato8t2007@yahoo.co.jp(笹田さん)まで。

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春の訪れとともに、あの余部橋梁の架け替え工事がいよいよ始まります。昨年秋の「全国鉄橋サミット」で現地入りした時には、まだまだ先の話と思っていたのに、あれよあれよという間に運命の時は迫ってきていたのです。
▲高さ41.5m、まさに天空に聳える大トレッスル橋を国鉄色のキハ58系が行く。この西側(餘部駅側)3本の橋脚が保存候補となっている。'06.10.22

amarubefinal2n.jpg架け替え工事はまず工事用資材の搬入ルートの確保から始まります。現在、国道横にトイレを伴って設置されているパーキング・スペースと展望台を閉鎖して資材置場とし、さらに横を流れる長谷川を重機が渡れるように仮設橋を設置する作業が今月末から4月にかけて行われる模様で、この時点であの余部橋梁の全景を支障なく見渡すことはできなくなってしまうはずです。工事用車輌が往来するなど本格的な工事現場のような状況になるのは恐らくゴールデンウィーク明け頃と思われ、95年にわたって親しまれた大トレッスル橋はついにファイナルステージを迎えます。
▲香住駅で普通列車と交換するキハ181系の特急「はまかぜ」。キハ181系と余部橋梁の組み合わせが見られるのもいつまでだろうか…。'06.10.22

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ところでこの余部橋梁の架け替え後の取り扱いを検討していた「余部鉄橋利活用検討会」の第5回会合が今週月曜日に行われ、具体的な方法は明記していないものの、「一部保存」で提言がまとめられました。この提言をもとに兵庫県が来年度中に方針を決定、最終的には県がJRから現橋梁を譲り受けるかたちで保存されるようです。昨年の「全国鉄橋サミット」をはじめ積極的に余部橋梁顕彰事業を繰り広げてきた地元の香美町では、11本ある橋脚のうちの西側(餘部駅側)3本を残し、あわせて展望台機能を備えた「鉄橋記念館」の新設や、道の駅の誘致など観光資源としての活用を期待しているとのこと。もちろん近代化遺産としての登録有形文化財への登録も視野に入れているとのことでした。
▲国道沿いの駐車スペース・展望台(画面右端)が仮囲いされて資材置場となり、画面中央の長谷川に重機を通すための仮橋が設けられるという。なお、新橋梁は現橋の南側(山側)約7mの位置に架けられ、4年間ほどかかって完成後、約2週間の運休期間で新橋にレールを付け替えてから現橋が解体される予定。'06.6.17

この24日(土曜日)からは一週間あまりにわたってDD51牽引の「想い出のあまるべ」号が運転されます。おそらくこの列車が今までどおりの美しい姿の「余部橋梁」を渡る最後のイベント列車になるはずです。

常磐緩行線にもE233系。

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年末から営業運転入りした中央快走線のE233系もあっという間にその勢力を伸ばし、今日現在では実に12編成120輌が運用に就いていますが、今日は常磐緩行線にもこのE233系が投入されることが発表となりました。
▲東京メトロ千代田線直通の常磐線緩行線用として来年デビューするE233系。まだ番代区分等は明らかにされていない。(JR東日本提供)

2332000n2.jpgすでに本年秋から京浜東北線にE233系が投入されることが発表されていますが、今回発表となった常磐緩行線用車は東京メトロ千代田線直通対応のため車体断面が異なり、レンダリングを見る限りではかなり印象の異なるものとなるようです。JR東日本から発表されている車輌の特徴は、電気機器や保安装置の二重系化、ユニバーサルデザインの採用、バリアフリー化の推進、運行情報表示機能の充実など現行のE233系を踏襲したものとなっており、中央快速線用・京浜東北線用との相違点は「千代田線の限界に合わせたストレート車体」、「非常用前面貫通口の設置」とのみ発表されています。おそらく番代区分も変わるものと思われますが、今日現在の第一報ではまだその辺のディテールは不明です。
▲優先席エリアの明確化等のユニバーサルデザインが採用される客室内。(JR東日本提供)

新造輌数は180輌。来年2008年夏頃から営業運転に充当されるそうで、運用区間は取手?綾瀬?(東京メトロ千代田線)?代々木上原です。このE233系投入によって現在運用中の203系・207系が押し出しで廃車となる模様です。

●明日より出張のため小ブログは2日間ほどお休みをいただきます。9日より再開予定ですのでご了承ください。敬白

C57 135、いよいよ大宮へ!

c57135nn1.jpg注目の「鉄道博物館」に関しては、本誌連載「大宮に鉄道博物館ができるまで!」と連動して小ブログでもその進捗状況を逐一お知らせしていますが、先日、ついに東京・神田の交通博物館のC57 135号機がさいたま市に向けて搬出されました。まず館内で車輪、ボイラー、炭水車に分解されたC57は、狭いホール内でまさに職人芸によって方向転換、パノラマ運転場と1号機関車展示スペースの間のシャッター部から館外へと出されました。トレーラーに載せられたC57 135はそのまま大宮総合車両センターに送られ、今後は同車両センターで補修がなされたのち、本線とつながっている線路を介して鉄道博物館へと搬入されることになります。
それにしても、昨年5月の閉館フィーバーから10ヶ月、あの「機関車ホール」から搬出されてゆくC57の姿には感慨深いものがあります。
▲32年間、交通博物館の顔として展示されてきたC57135号機の搬出が始まった。写真は、先に車輪が抜かれた状態で、ボイラーまわりの移動を開始したところ。搬出口は写真奥左側で、まず先頭部側を写真奥右側に突っ込み、次にスイッチバックするように運転室部側から外へ搬出するという作業が行われている。'07.2.20 P:東日本鉄道文化財団提供

c57135nn2.jpgさて、肝心の「鉄道博物館」ですが、各建物外壁はほぼ完成し、線路の敷設や展示設備の設置など、いよいよ開館に向けての作業が本核化してきました。ことに「歴史ゾーン」の中心に位置するターンテーブルは、これまで覆われていたピットが姿を現し、周囲を取り巻く展示線も敷設されるなど、その全貌が一望できるようになってきました。数ヶ月後にはここにお化粧直しがなったC57 135の雄姿が戻ってくるはずです。
▲1号機関車と平行に並んだC57135号機ボイラーまわり。後ずさりするように館外に出ていく。'07.2.21 P:東日本鉄道文化財団提供

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▲搬出後は直ちにトレーラーに載せられブルーシートがかけられた(左)。右は大宮総合車両センターに到着したC57135号機ボイラーまわり。この後すぐに車輪が入れられ、元の姿に復元された。'07.2.21/22 P:東日本鉄道文化財団提供

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▲ついにターンテーブルのピットが姿を現した「歴史ゾーン」の全貌。この放射状の線路に間もなくED17、ナデ6110、キハ41000、クハ181、クモハ455といった歴史的車輌が並べられることになる。'07.2.27 P:RM(新井 正)

開館まで200日あまりとなったこの「鉄道博物館」。春の訪れとともにいよいよ各地に散っている展示車輌も集結し始めるはずです。今月発売の本誌連載第9回でも最新情報をレポート予定ですのでご期待ください。

函館市交の新しい風。

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現在発売中の『Rail Magazine』4月号(No.283)誌上でも詳しくお伝えしていますが、函館市交通局に実に可愛らしい超低床電車がお目見えします。各地に超低床電車“リトルダンサー”シリーズを納入しているアルナ車両製のこの電車、純国産の超低床電車としては初めての2車体連接構造を採用しており、しかもその全長は13250mmと、大先輩の500形(13050mm)と比べてもわずか200mmしか違わないミニ連接車です。
▲横から見るとその“ショーティー”ぶりは微笑ましくさえある。右がA
車、左がB車でそれぞれの車体長はわずか6150mmしかない。台車は見えないが、各車ホイールベース1600mm、車輪径610mmの住友金属製。(函館市交通局提供)

hakodate96002n.jpgすでに函館市交では2002(平成14)年に部分低床車8100形を導入していますが、今回新製された連接車は台車上の通路部分まで含めた完全超低床車です。それではいったいどうやってこの超低床化を実現したかというと、主電動機を運転席下付近の床下に装架する車体装架式直角カルダン方式によって台車上のスペースを捻出しているのです。この方式は長崎電気軌道の3000形でも採用されたもので、国内2例目となります。本誌誌上に掲載した竣功図を仔細に見てみると、随所に設計陣のご苦労が滲み出ており、一時は劣勢だった日本のトラム技術もここまで来たかと感慨も一入です。
▲本誌今月号では竣功図・諸元表を含めてご紹介している。春の訪れとともにこのミニ超低床連接車が函館の街を走り始める。

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▲箱館山をバックに走る函館市交511号。戦後大量増備されたこの500形が長らく函館を代表する車輌であったが、現在ではわずか数輌を残すのみとなっている。これからは9600形が函館の新しい風となってゆくに違いない。'84.12.31

形式は9600形。なにゆえ9600形なのかと伺ってみると、これまでの8000番代の次の9000番代に2006年度の「6」を組み合わせたものとのこと。函館市民から寄せられた愛称も近日中に決定し、今月下旬から営業運転にお目見えするそうです。

悲運の「人民」「前進」。

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相生市中央公園に保存されている中国蒸機「人民形」と「前進形」を訪ねたのはかれこれ7年近く前のことです。再塗装が施されて間もないようで、状態は決して悪くないように見えましたが、何とこの2輌、昨年解体されてしまい、現在では煙室扉とフロントビーム、それに動輪一軸のみを残した“モニュメント”と化してしまっているそうです。
▲人民形(RM)は旧満鉄パシロをコピーした勝利形(SL)をさらに改良した中国産パシフィックで、1957年から総計258輌が製造された。勝利以降、パシロ時代の美しいスポーク動輪はボックス化されてしまっている。1750mmの動輪は固定軸距3660mmとかなり接近しているが、これはパシロ譲り。'00.7.1 相生市中央公園

okayamaqj003n.jpgこの2輌は今から25年前、1982(昭和57)年7月25日から8月31日にかけて横浜(東横浜貨物駅跡)で開催された、日中国交正常化10周年・北京駅東京駅友好交流記念「中国鉄道展」で展示運転されるために輸入されたもので、翌春には天津市神戸市友好都市提携10周年記念として神戸(湊川貨物駅)で開催された同展でも公開されています。博覧会終了後、日本国内での保存先を探していましたが、中国発祥の“ペーロン”競争が盛大に開催されている縁で、相生市に譲渡され、海岸に近い中央公園に安住先が決まったものです。
▲スローガンのデコレーションも来日当時のまま残されていた。
'00.7.1 相生市中央公園

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▲全長29291mm(前進)と23252mm(人民)と巨大な2輌はゆったりとした公園敷地に安住の地を得たかに思えたが…。'00.7.1

ところが海岸に近いことが災いして再塗装などの保守に費用がかさむこと、さらには近年になってボイラーに使用されているアスベストが日本の基準値の6倍に達することなどから保存の再考が求められ、結果として“生首”どころか“能面”状態でのモニュメントとなってしまいました。国交正常化という大義名分のもと盛大なイベントが開催され、「大陸から夢のSLがやってくる!」とのキャッチコピーで海を渡ってきた2輌だけに、果たしてこれで良かったのか考えさせられるものがあります。

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▲「中国鉄道博」での人民形(Ran-Min=RM)1163の姿。短い距離ながら前進形の線路と並行して敷設された線路上をデモ走行していた。'82.8.29 東横浜

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▲前進形(Qian-Jin=QJ)6200はこのイベントのために“新製”された個体。後年、集通鉄道経棚峠などで人気となる前進形だが、この時点では多くのファンにとって初めて見る巨躯であった。'82.8.29 東横浜

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▲人民形・前進形とともにひっそりと展示されていたBタンク。中国の1号機関車というような解説が添えられていたが“?”。手元の北京鉄路局『机車博覧』(1881?1991)によれば「零号」と名付けられ「1882年英国製」とのこと。幸いこのBタンクのみ中国に返送されて、現在は北京鉄道博物館に保存展示されている。'82.8.29

ちなみに2輌のうち前進形(QJ)6200号機はこの博覧会のために新製されたものだと聞きます。1982年当時の中国はまだ「前進」「建設」「上游」といった基幹形式を新造中で、6200号機は大同工場で竣功後ただちに日本に送られたようです。つまりは中国大陸の本線を一度も走ることなく、横浜と神戸の短いデモ用線路を往復しただけで相生の地に果てたことになり、それもまた不憫でなりません。

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皆さんからメール送信いただいた最新の写真を可能な限り速くアップしてお目にかけようという新ブログ「今日の一枚」がスタートして十日あまりが経ちましたが、おかげさまでたいへんな好評をいただいており、ページビューもぐんぐん伸びています。
▲お寄せいただいた“今”を伝える写真で人気急上昇中の新ブログ「今日の一枚」。まずは左のリンクをクリックしてご覧あれ。

改めてご紹介するとこの「今日の一枚」、『Rail Magazine』本誌誌上の「新世紀カレンダー」をホビダス・ブログ上で「日めくり式」に展開しようというもので、特に珍しいものでなくとも、日常の鉄道を皆さんの手によって記録してゆこうという企画です。振り返れば本誌の「新世紀カレンダー」は去り行く“20世紀”の鉄道をみんなの力で記録に留めようとスタートした「世紀末カレンダー」が発端でした。自省の意味も込めて、とかく誌面に露出する写真は時事性のあるもの、珍しいもの、写真的に優れているものに偏りがちですが、十年、二十年…という長いスパンで見ると、日々身の回りにある当たり前の日常風景こそが大きな意味を持ってきます。通勤・通学に使っている駅のホーム、そこに入ってくるいつもの電車、そんな記録が積もり積もって後世につなぐ膨大なアーカイブとなれば…大言壮語に過ぎるかもしれませんが、そんな思いも込めての新ブログのスタートです。

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日々お送りいただく画像はそれこそ百花繚乱。イベント列車の晴れ姿があれば、旅先のひとコマあり、地元のさりげない情景ありと日々クリックするのが実に楽しみです。どうか今後ともこの新ブログ「今日の一枚」をよろしくお願いいたします。

■ホビダス RM新ブログ「今日の一枚」オープン!
『Rail Magazine』の「新世紀カレンダー」をホビダス・ブログで「日めくり式」に展開いたします。ネットで投稿していただいた写真は、原則として即日または翌日アップ!(土・日・祝日は除く) 各撮影日の写真1点を「新世紀カレンダー」に掲載させていただきます。特典は「新世紀カレンダー」と同じ。まずはアクセス! リニューアルしたRail Magazineトップページからお入りください。

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復活するC56 44。

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昨日は“鹿島のカバさん”ことDD901の解体という悲しいニュースをお伝えせねばなりませんでしたが、今日はうって変わって明るい話題をお送りしましょう。ボイラーの不具合により3年以上前から休車状態となって先行きが懸念されていた大井川鐵道のC56 44号機が復活することになったのです。
▲復元されるタイ国鉄時代の姿の模型と大修繕を待つ実物のC56 44。キャブ屋根が曲面ではなく平面構成なのはタイ時代の名残り。'07.2.27 P:金盛正樹

_I3F4003n.jpgおととい新金谷で行われたこの記者発表にカメラマンの金盛正樹さんがお出でになり、さっそくその様子をレポートしてくださいました。発表によれば、1980(昭和55)年1月から営業運転に充当されてきたC56 44号機ですが、運転開始から二十年以上を経て殊にボイラーの劣化が激しくなり、2003(平成15)年12月より運用を離脱してしまっていました。今回、大井川鐵道では沿線自治体の支援を受けつつ、約2600万円の予算を計上して、ボイラーの交換、ATSの設置、および車体細部の変更と全塗装を行うこととしたものです。
▲C56 44を前に新金谷構内で行われた記者発表には地元メディアをはじめ多くの報道陣が集まったという。'07.2.27 P:金盛正樹

DPP_0162n.jpg今回の大修繕で注目されるのが、タイ国鉄で活躍していた当時の姿に復元される点でしょう。ご承知のようにこのC56 44号機は現在靖国神社で保存されているC56 31号機とともに1979(昭和54)年6月に“帰還”を果たした機関車で、それまではタイ国鉄735号機としてメーターゲージのタイ国鉄線を走っていたものです。折りしも今年は日タイ間の修好120周年にあたり、大井川鐵道ではこの復元を機に、静岡県および関係団体と連携してタイ国との国際交流を深めるとともに、再来年開港予定の富士山静岡空港と沿線地域の活性化に寄与してゆきたいとしています。
▲遥かタイから帰還して大井川鉄道で運転を開始したのが1980(昭和55)年。写真はその当時の記念乗車券で、タイ国鉄時代の様子と船から卸されるシーンが収められている。'07.2.27 (大井川鐵道提供)

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▲大修繕完成後はこのようなタイ国鉄スタイルとなる。折りしも今年は日タイ修好120周年の記念すべき年とのこと。'07.2.27 (大井川鐵道)

注目の復活予定ですが、この日の発表では今年10月上旬。「鉄道の日」のイベントや、静岡浅間通り「山田長政祭り」との同時開催を予定しているとのことです。秋景色の川根路をゆくタイ国鉄仕様のC56 44、果たしてどんな風情となるのかぜひ見てみたいものです。

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