鉄道ホビダス

2007年1月アーカイブ

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決してメジャーとは言えないながらも、エッチングとホワイトメタルを駆使した7㎜スケール(1:43)の気骨あるキットを出し続けている“Wright lines”(ライトラインズ)の存在を知ったのは、かれこれ15年以上前になりましょうか。当時はまだインターネットなどというものは普及していませんでしたから、情報はもっぱら英国の模型専門誌、しかもかなり偏った(?)“Narrow Gauge & Industrial Railway Modelling Review”誌などに頼らざるをえませんでした。
▲十年ほど前に初めて組んだライトラインズのハドソンボギー。車輪と軸受以外はホワイトメタルだが、細部のエッジも出ていてなかなかの仕上がり。ちなみに作例は塗装ではなく黒染めでのフィニッシュ。

IMGP9306n.jpg一度製品の現物を見てみたいものと思いながらもだいぶ時間が経ってしまいましたが、1995年秋、ロンドン近郊で開催されるエキスポ・ナローゲージに参加する機会を得、その会場で初めて同社の製品に直に触れることができました。もちろん地元イギリスの晴れ舞台とあって同社もブースを構えており、並べられた完成見本にのめり込むように見入ってしまったのを良く覚えています。“直販”だけにご主人にかなりディスカウントしてもらって幾つかのキットを購入して帰りましたが、帰国して最初に組んでみたのが今回ご紹介するイギリス鉄聯の汎用台車です。
▲ライトラインズの製品箱は結構チープな雰囲気。ただしインストラクションシートは英国ものにしては結構親切に書かれている。
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IMGP9304n.jpg第一次世界大戦時、ことにヨーロッパ西部戦線では鉄道による兵站輸送が重要な役割を担っていましたが、開戦後2年ほどを経た1916(大正5)年、英国軍は前線で使用している600㎜ゲージの軌道システムをさらに拡充するため10トン汎用台車の改良を行います。この際に誕生したのが“War Department Hudson Bogie”と通称されるこの台車で、翌年までのほんの短期間に数千輌が量産されたと伝えられています。
▲ハドソンボギーのキット・パーツの全貌。スポーク車輪は鉄製で、これまたなかなか良くできている。
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この台車を利用した車輌は実に多種多様です。一般的なのはクラス“D”と呼ばれる煽り戸付きの無蓋車、クラス“E”のウェルワゴン、クラス“F”のスタンションポール式無蓋車、それにクラス“H”のタンク車ですが、このほかにも視察車から傷病兵輸送車にいたるまで、考えられるあらゆる用途の車種が誕生しています。1918(大正7)年に第一次世界大戦が終結して以後、これら膨大な車輌たちは民需用として払い下げられ、ヨーロッパ各地の軽便鉄道や産業用ナローに散ってゆきました。それだけに現在でも随所に同形車の生き残りを見かけることができ、わが国の例にたとえるならば「97式軽貨車」のような存在だということができましょう。
▲サイドからみた台車。この台車上にありとあらゆる用途の上回りが載せられるわけだ。なお、ゲージは600㎜ゲージの7㎜スケール=14㎜ゲージしか用意されておらず、当世流行りのOn30(16.5㎜)には対応しない。
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ライトラインズではこの汎用台車をベースとして各種のバリエーションをリリースしていますが、さすがにすべてのタイプの基礎となるだけに実に良くできています。ホワイトメタルのダレも見受けられず、軸受けには真鍮挽物の軸受が組み込まれ、“転がり”も充分に及第点です。試しに作ったこのボギーが気に入り、それからというもの、ライトラインズは今もって気になるメーカーのひとつとなっています。

tama1n.jpg今日は始発の「のぞみ」でわかやま電鉄の“猫駅長”に会いに来ています。“猫駅長”と聞いても何のことかおわかりにならないと思いますが、同電鉄の終点・貴志駅で正式(?)に駅長を拝命した猫、その名もたまちゃんです。
さらに何で私が“猫駅長”に会いに来なければならないのか…その辺の事情をご説明しなければなりません。実は社内事情から昨年より弊社の刊行するペット誌、その名も『NEKO』の名目上の編集責任者を仰せつかってしまっておりまして、今日はRMではなく『NEKO』誌の取材というわけです。
▲小山さんに抱かれて駅頭に立つ(?)たま駅長。特製の制帽も支給されている。'07.1.30

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両備グループが経営を引き継いで再出発したもと南海貴志川線、現在のわかやま電鉄は、起点の和歌山駅以外は全駅が無人となっていますが、終点の貴志駅駅舎内には「小山商店」という日用品店が併設されており、ここに3匹の猫が飼われています。母猫の「みーこ」(茶トラ)とその子供「たま」(三毛)、そして血縁関係はないもののタマちゃんが育ての親の「ちび」(茶白)の3匹です。もともと駅利用者から親しまれてきた3匹ですが、わかやま電鉄では三毛のたまちゃんを今年1月5日付けで正式に「駅長」に任命、特製の制帽も用意して“プレスリリース”まで発行しています。
▲貴志駅待合室には「駅長のたまです」と書かれた大きなポスターまで掲示されている。ちなみにほかの2匹、みーことちびは“助役”を拝命しているそうな…。'07.1.30

tama5n.jpgこのニュースに飛びついたのがテレビ・新聞といった一般マスコミです。地元紙はもちろんのこと、全国ネットのテレビでまで紹介されるにいたってその人気は爆発! いまやたまちゃん目当てのお客さんが続々と貴志駅を訪れるまでになっています。飼い主の小山商店さんのお話では、見にきてくれるお客さんへの対応で肝心の店舗の方に手が回らないほどだそうで、たま駅長もこのところちょっと取材疲れぎみだとか…。実際、今日も午前中はほかに一社、関西の地元誌の取材がバッティングしていました。
▲貴志駅本屋と棟続きの「小山商店」が猫駅長の“本宅”。正面に誂えられた大きなケージの中で3匹が仲良く暮らしている。'07.1.30

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「いちご電車」に続いて今度は猫駅長と次々と新機軸を打ち出してくるわかやま電鉄ですが、実際に現地を見聞してみると、一時は廃線が決まったローカル路線を地域と一体になって立て直そうという姿勢がひしひしと感じられます。フリークェンシーの向上はもとより、例えば各駅に山のように置いてある時刻表(しかもポケット時刻表を含めて各種ある)など、もう一度鉄道に振り向かせるための地道な努力の表れに違いありません。猫駅長にしても、際物視するのは容易いことですが、メディアを通してわかやま電鉄の名をひろく知らしめるには絶大な効果があり、ひいては再生への一里塚となるに違いありません。
▲「いちご電車」の入線を出迎える“猫駅長”たまちゃん。日曜日はお休みとのことなのでご注意のほどを。'07.1.30

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2002(平成14)年の太平洋炭礦の閉山により、一時はこの太平洋石炭販売輸送線の存亡も取りざたされましたが、地域経済への影響を懸念する地元経済界などの懸命の努力が実って、幸いにも太平洋炭礦は新会社「釧路コールマイン」として再出発、それにともなって太平洋石炭販売輸送線も運転本数を減じつつも命脈を保つこととなりました。
▲D401と並ぶDE601。D401は1964(昭和39)年日本車輌製のBB型機で、近年すっかり見かけなくなってしまったロッド式DL。ボンネット上の巨大な板は選炭機から落下する石炭でクーリングファンが破損するのを防ぐためのもの。'07.1.20

taiheiyousekitanhannbai12n.jpg今回の訪問では、釧路商工会議所の情野裕良さんと釧路市博物館の石川孝織さんのご案内でその釧路コールマイン㈱も表敬訪問、ビデオ等で採掘状況のレクチャーを受けることもできました。現在、釧路コールマインは国の「炭鉱技術移転五カ年計画」に基づいて、坑内堀技術を海外産炭国に移転するための海外研修生の受け入れをひとつの使命としており、研修用施設や宿泊用施設がそこここに見受けられます。この国際的研修事業に関しては訪問前にも耳学問として知ってはいたのですが、お話を聞いていてちょっと驚いたのは現在の出炭量です。なんと年間70万トンにおよぶ出炭量があるそうで、太平洋炭礦時代の最大出炭量(210万トン)には遠く及ばないものの、かつての準大手炭礦の出炭量レベルは維持していることになります。
▲DE601のスノープラウには茶目っ気たっぷりな“顔”が描かれている。職員の方のユーモアだそうだが、この鉄道を愛する心がひしひしと伝わってきて何とも嬉しい。'07.1.20

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▲選炭工場全景を見る。手前の巨大なシックナーの先に太平洋石炭販売輸送の線路が見える。丘の最上部にわずかに見える架線柱の列がかつての2フィートナローの線路跡。'07.1.20

研修用に“試掘”程度(失礼!)に掘っているととんだ勘違いをしていたこの釧路コールマインですが、出炭した石炭は大部分が太平洋石炭販売輸送線で知人へと運ばれ、全国各地の主に火力発電所へと航送されているそうです。一部はまだまだ道内では需要のある家庭用暖房炭として袋詰めされ、トラック輸送されているものもあるとのことですが、出炭量70万トンの大半は“シャトルトレイン”によって運搬されているわけです。

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この釧路コールマインにお邪魔した道すがら、実に懐かしいものを見かけました。太平洋炭礦時代からの2フィートゲージの電気鉄道で、お話によれば坑木や資材輸送用にほんの一部区間が残されているのだとか…。実はこの2フーターはかれこれ30年以上前に足しげく通ったもので、思わず懐かしさがこみ上げてきました。
▲釧路コールマインとなった今も、わずかな区間ながら坑木の輸送等に2フィートナローが残されている。構内はもちろん厳重に立入禁止だが、この写真のように公道からもその活躍を垣間見ることができる。'07.1.20

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▲最盛期の太平洋炭礦坑外軌道。2フィートゲージのさながらスライスチーズのような東芝製凸電がところ狭しと走りまわっていた。画面前方が選炭場の上部となる。'75.3.29

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▲釧路臨港鉄道春採駅から太平洋炭礦の坑外ナローを見上げる。当時はこのナローも24時間体制で運転されていた。'75.4.2

釧路臨港鉄道の春採駅脇のインクラインをよじ登って選炭機上のこの2フーターに辿り着いた時の感激は今もって忘れられません。ひょろ長いスライスチーズのような電気機関車がまさにうようよと走り回っているではないですか。構内に敷かれた線路もエンドレスあり、リバースあり、インクラインありとまさに縦横無尽。事務所での暖かいもてなしもあって、その後いくたびか再訪した思い出の場所です。太平洋石炭販売輸送線もさることながら、今回の釧路訪問で個人的にもっとも印象深かったのは、三十数年ぶりに目にしたこの2フーターの姿でした。

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釧路臨港鉄道時代の地形図。釧路川河岸の城山駅から国鉄線との接続駅東釧路を経て春採、知人、そして入舟町へ至るほぼ円周状の11.4kmの路線が見てとれる。(参考:東釧路~臨港間の線路平面図)春採駅南の興津方面に伸びているのが運炭用坑外ナロー線である。国土地理院発行1:50000地形図「釧路」(昭和46年発行)より転載。
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▲最後に手持ちの竣功図の中から釧路臨港鉄道を走った魅力的な車輌を1輌ご紹介してみよう。もと渡島海岸鉄道の気動車キハ101(1936年日車製)で、戦後になって釧路入りし、のちにこの竣功図に見られるように客車化されて活躍した。こんな車輌に乗って春採湖畔や知人の海岸を走れたらどんなに素晴らしいことだろう。
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先週の「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」で釧路を訪問した際は、釧路臨港鉄道の会の皆さんのお世話で、国内最後の大規模炭礦となってしまった釧路コールマインや、その輸送を受け持つ太平洋石炭販売輸送線を訪ねることができました。
▲知人の貯炭場桟橋上の「A車」DE601から「B車」のD801をのぞむ。24輌編成の列車は貯炭場桟橋手前で12輌ずつに自動解放・分割されてA車は牽引で、B車は推進でそれぞれの桟橋へと入ってゆく。'07.1.20

特に太平洋石炭販売輸送線については、同社の格別のおはからいで“シャトルトレイン”と呼ばれる独特の運転方式の運炭列車に添乗取材することができましたので、まずはその様子をお目にかけることにしましょう。

DH000099n.jpgもと釧路臨港鉄道の太平洋石炭販売輸送(1979年に名称変更)線は、釧路コールマインの選炭場のある春採から貯炭場のある釧路港の知人まで4.0kmを結んでおり、一日6往復ほどの列車が運行されています。この運炭列車は“シャトルトレイン”と呼ばれ、連接構造の石炭車24輌の両端にディーゼル機関車が連結されたプッシュプル方式で運転されていますが、実はこの編成、2編成を1列車に仕立てたと言った方が実態に則しているかも知れません。では春採から知人へと向う第11列車の先頭DE601のキャブに乗り込んでみることにしましょう。
▲釧路臨港鉄道時代からのフラッグシップ機DE601。かつてこのブログでもご紹介したように、米国GE社の「U10B」と呼ばれる量産型スイッチャーを日本車輌がライセンス生産した電気式ディーセル機関車。最近エンドビームに警戒塗装が追加された。'07.1.20
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▲11列車の積み込み作業開始。まずはA車とB車の2編成に分割されてそれぞれが選炭機のポケットへと入ってゆく。右に見える廃車体は7年ほど前に廃車されたD101(1958年日本車輌製)。'07.1.20

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▲選炭機の積み込み線は3線ある。左横ではB車が積み込み線に入ってゆくのが見える。'07.1.20

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▲積み込み線内。天井のシュートから凄まじい勢いで石炭が積み込まれてゆく。'07.1.20

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▲積み込み線はわずかな下り勾配となっており、DE601は極めて微妙なブレーキ操作で歩くようなスピードで進み続ける。シュートからの積み込み状況は目視できないため、まさに熟練の技が必要。'07.1.20

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▲積み込みが終わったA車にB車が連結されて、いよいよ11列車は知人の貯炭場を目指す。すっかり住宅街と化した春採だが、構内を抜けると途端に北海道らしい広々とした風景となる。'07.1.20

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▲春採湖を横に快調に走るDE601。電気式のBB型機とあって乗り心地は極めて良好。暖房も微調整はきかないもののえらく強力。'07.1.20

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▲春採湖を過ぎるとほどなく列車は海岸線に踊り出る。わずか4キロの路線ながらそのロケーションは実にドラマチックだ。'07.1.20

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▲知人の貯炭場が見えてきた。この付近で編成は自動解放され、前方の分岐をA車は左の桟橋へ、B車は右の桟橋へと進んでゆく。'07.1.20

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▲貯炭場の巨大な桟橋上を進むDE601。キャブ内にいると実感がわかないが、窓から身を乗り出してみると結構な高さだ。'07.1.20

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▲地上係員との無線交信でとり卸しが始まる。1ペア2車ずつが運転台からの操作によって石炭を落としてゆく。背後に見えるのは釧路港。'07.1.20

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▲隣りの桟橋ではB車がとり卸しの真っ最中。眼下では巨大なブルドーザーが待ち構えている。一見わからないが、この下には巨大なベルトコンベアが仕込まれているそうだ。'07.1.20

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▲この角度から見るとセキ6000形の特異な連接構造がよくわかる。自動解放や扉開閉装置などのため全車に密着連結器と電気連結器が装備されている。貯炭場のすぐ背後にまで住宅街が迫ってきている。'07.1.20

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▲とり卸しが終了し、今度は第12列車先頭となるB車が先に発車、続いてDE601のA車が桟橋を後にする。振り返ってみると実に雄大な貯炭場であることが改めてわかる。'07.1.20

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▲B車と自動連結し、再び24輌編成となったシャトルトレインは春採へと引き返す。空車のうえにほとんど下り勾配とあって、最後部のDE601は重連コックを扱って回送状態である。'07.1.20

都電最後の花電車。

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路面電車好きかどうかに関わらず、東京在住のファンにとって「都電」はいつの時代も身近な被写体です。ご多分に漏れず、私も折りをみてはカメラを向けてきましたが、1974(昭和49)年10月1日に32系統(早稲田?荒川車庫)と27系統(赤羽?三ノ輪橋)の一部が統合されて「荒川線」を名乗るようになってからの一時期、しばし足が遠のいてしまいました。あの伝統の系統板が番号から漢字3文字のただの“看板”と化してしまったのが興ざめに思えたのも一因でした。そんな都電荒川線が車輌・地上設備のリニューアルを行い、全面ワンマン化を達成したのに合わせて「花電車」を運行すると知ったのは1978(昭和53)年春のことです。
▲荒川線新装記念のペイントも鮮やかな4号車(乙6210)は太田道灌の時代人形を乗せた「山吹の里」(西早稲田付近での故事)号。後ろに続くのは1号車(乙6211)で、なぜ順番が乱れていたのかは定かではない。'78.4 東池袋四丁目

arakawa2n.jpg実はそれまで“本物”の花電車を目にしたことはありませんでした。路面電車廃止時に各地で見られた惜別電車の類は、外装に飾りを施しただけの言うなれば装飾電車がほとんどで、既存の車輌をチョップトップにしての花電車はめったにお目に掛かれるものではありません。この時、都交通局はワンマン化によって余剰となり廃車予定の6000形5輌をこの記念運行のために荒川車庫で改造、酸素で車体上回りを切断し、本格的な花電車を作り上げたのです。形式番号も戦前からの伝統に則り“乙6000”。都電としては1959(昭和34)年以来のひさしぶりの“本物”復活です。
▲先導車を務める新7000形装飾車。隊列の最後部にも控え車として同様の新7000系が追尾していた。'78.4 東池袋四丁目

東池袋4丁目の電停で待っていると、やってきたのは新車体となったリニューアル7000形を先導車とした“乙6000”花電車の隊列。乙6211(1号車)+乙6209(2号車)+乙6213(3号車)+乙6210(4号車)+乙6212(5号車)の5輌はテレビ局などの広告電車を含めてそれぞれ展示テーマが異なっており、さながら花火でも見るかのように沿道から歓声が上がっていました。ちなみに、各車の装飾は電飾となっており、夜間運行はそれは見事だったそうです。それにしても、1週間ほどの運転期間中、天候はどうだったのか覚えていませんが、雨天となればチョップトップとなった乙6000形の運転はさぞや大変だったに違いありません。

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今回の釧路訪問では三菱大夕張鉄道保存会の奥山道紀さんのアテンドで、釧路市周辺の保存車輌の数々を見て回ることができました。今日はそのなかから鶴居村に保存されている泰和車輌製の簡易軌道用車輌をご紹介してみましょう。
▲素晴らしい状態で保存されている鶴居村営軌道のディーゼル機関車と“自走客車”。屋根はないが、最近再塗装まで施されている。'07.1.21

turuimura073n.jpgかつて道路が未整備だった頃の北海道内には、国鉄駅と“開拓地”を結ぶ「簡易軌道」(戦前は「殖民軌道」)が数多く敷設されていました。釧路市周辺の根釧原野はまさにそのメッカで、根室本線や釧網本線、それに標津線の多くの駅から2フィート6インチ(762mm)ゲージの軌道が原野へと分け入っていたのです。最後まで運行を続けた浜中町営軌道(1972年5月廃止)も根室本線の茶内駅を起点とした軌道でした。戦後は動力も馬力から内燃動力へと近代化されてゆきましたが、なかには『トワイライトゾ?ン・マニュアル 5』で広田尚敬さんが「一馬力の殖民軌道」として18ページにわたるグラフでご紹介してくださっている風蓮線(厚床?上風蓮)のように、1960年代まで馬力で残された希有な例もありました。
▲泰和製8tディーゼル機関車のバックビュー。今にも動き出しそうな錯覚さえ抱かせる。'07.1.21

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そんな数ある簡易軌道の中にあって、新富士駅を起点に中雪裡(簡易軌道雪裡線)、新幌呂(簡易軌道幌呂線)を結ぶ「鶴居村営軌道」はその線路延長も長く(雪裡線29.0km/幌呂線19.3km)、車輌のバラエティーも実に魅力的な路線でした。
▲泰和製の“自走客車”。1964(昭和39)年製だから、廃線までわずか4年ほどしか使われなかったことになる。07.1.21

turuimura074n.jpg現在保存されているのは1968(昭和43)年の廃止時まで使用されていた泰和車輌製ディーゼル機関車(1960年製8t)と、「自走客車」と呼ばれる気動車(1964年製)の2輌で、鶴居村中心部にある商工館(もと郷土資料館)前にかなり良好な状態で保存されています。実は現地には3年ほど前にも一度訪れたことがあり、廃車になってから35年以上の歳月が経っているにも関わらず傷みも少ないことから、“おらが村の軌道”を顕彰しようとする人たちの静かな熱意を感じたものです。ところが、今回はなんとさらに塗装が全面的に塗り替えられており、新車(?)と見まごうばかりの状態の良さになっているではありませんか。
▲“自走客車”の逆サイド。このタイプは他線にも同形車が見られた。'07.1.21

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▲3年ほど前の状況。多少錆が出てはいるものの、保存状態は決して悪くない。'04.6.20 郷土資料館前

簡易軌道の保存車輌はこの鶴居村以外にも別海町、浜中町などでも見ることができ、いずれも訪ね歩いたことがありますが、私の見たところでは保存状態の良さではこの鶴居村が抜きんでています。ちなみに、遠軽町(旧丸瀬布町)「いこいの森」で保存されている運輸工業製ディーゼル機関車もここ鶴居村営軌道の出身です。

turuimura042n.jpg1885(明治18)年より入植が始まったという「鶴居村」ですが、1937(昭和12)年に現阿寒町から分離独立して鶴居村を名乗るようになります。名前の由来はもちろんタンチョウの生息繁殖地として知られているため。現在でも、餌付けされている観光ポイントはもとよりのことながら、村内各所でタンチョウの美しい姿を目にすることができます。簡易軌道健在なりし頃は、タンチョウと自走客車のツーショットも頻繁に見られたに違いありません。
▲同じく3年前の状況。泰和の機関車は一種独特の風貌をしている。郷土資料館前 '04.6.20

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▲その名に恥じることなく鶴居村のいたるところでタンチョウの姿を見ることができる。写真は餌付けをしている牧場で、ネイチャー系カメラマンにとっては“お立ち台”のひとつらしい。'07.1.21

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▲地理調査所発行1:200000地勢図「釧路」(昭和30年発行)に見る鶴居村営軌道。北西方向に伸びているのは雄別鉄道。
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朗報! 58654が復活!

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▲復活間もない頃、豊肥本線竜田口?三里木間をゆく58654。ただすでにこの時点で車齢70年近い老体であった。P:名取紀之

惜しまれつつ一昨年(2005年)8月28日をもって運転を終了してしまったJR九州の58654ですが、なんと“復活”が正式に決定いたしました。今週JR九州本社が公式にプレス発表したもので、リリースでは「SLは根強い人気があり、4年後の九州新幹線全線開業に向けての九州の観光活性化が図れることから、復活について技術的な検討を重ねた結果、SLの復活が実現することとなりました」としています。

5865488n1.jpgかつてこのブログでもご紹介したように、1988(昭和63)年7月に小倉工場で動態復元された同機は、同年8月28日より「SLあそBOY」として豊肥本線熊本?宮地間を実に17年間にわたって走り続けてきました。しかし、もともとが1922(大正11)年生まれと動態保存機としては異例に“高齢”で、主台枠に修復不可能な歪が生じたことが主因となって引退を余儀なくされてしまったものです。
▲小倉工場で初めての“火入れ”にのぞむ58654。'88.7.2 P:RM(青柳 明)

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▲今から19年前、まさに奇跡の復活を遂げた58654の晴れ姿。最終配置区は人吉区で、再度の復活で古巣・人吉への路を辿ることになる。'88.7.2 小倉工場 P:RM(青柳 明)

JR九州ではこの主台枠を新しく作り直すほか、ボイラーをはじめコンプレッサー等の補機類も大幅に手直しする予定。この費用だけで2億5千万円を計上、あわせて客車3輌もリニューアルを図り、総額4億円の一大プロジェクトとなるそうです。ちなみに注目の復活時期と運転区間ですが、現在発表されているのは2009(平成21)年夏、運転区間は豊肥本線ではなく肥薩線の熊本?人吉間とアナウンスされています。肥薩線熊本?人吉間、いわゆる“川線”区間は折りしも2009(平成21)年が開業100年。またとない復活劇となるはずです。

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北海道内で鉄道や連絡船の保存活動または現在運行をしている鉄道の支援活動を展開している団体が一同に集まり情報交換を行なおうと、去る1月20日(土曜日)に釧路で開催された「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」の模様を改めてお伝えいたしましょう。
▲巨大な雪ダルマが迎えてくれるJR釧路駅。晴れ渡り例年になく暖かいとはいうものの、日中でも気温は零下だ。'07.1.20

kushiroeki4n.jpg2003(平成15)年7月の設立以後、地元釧路で精力的に活動を続けている「釧路臨港鉄道の会」の呼びかけでスタートしたこのシンポジウム実施計画、最終的には「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム実行委員会」を主催団体として立ち上げ、JR北海道、太平洋石炭販売輸送が協力、北海道釧路支庁、釧路市、NHK釧路放送局、朝日新聞社釧路支局、読売新聞釧路支局、毎日新聞報道部釧路、北海道新聞社釧路支社、釧路新聞社、FMくしろが後援と、文字どおり地域をあげてのシンポジウムとなりました。
▲朝の釧路駅を発車してゆく釧網本線網走行き3238D快速「しれとこ」。'07.1.21

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参加団体はJR北海道、三菱大夕張鉄道保存会、NPO法人語りつぐ青函連絡船の会、札幌LRTの会、NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会、小樽交通記念館ボランティアおそうじ会、釧路臨港鉄道の会の7団体。オブザーバーとして日本鉄道保存協会(RPSJ)から2名の顧問(私と米山淳一顧問)が参加いたしました。
▲川湯温泉からの一番列車4723Dが釧路駅に到着する。釧路の市街地も近年では残念ながら駅ではなく国道を核として発展してしまっている。'07.1.21

kushiroeki3n.jpgシンポジウムは釧路市立博物館の石川孝織さんの司会で始まりましたが、開会の挨拶にたった釧路臨港鉄道の会代表の星 匠さんから思いもかけぬ呼びかけがありました。釧路臨港鉄道の会の皆さんがひとかたならぬお世話になり、太平洋石炭販売輸送を訪ねる多くのファンに親しまれた春採駅の黒木和海駅長(55歳)がつい先日、1月8日に職場で倒れられ亡くなられたというのです。このシンポジウムも楽しみにされていた由。まずは参加者全員が起立しての黙祷が行われました。
▲夜の釧路駅ホームで見かけたC11 171のイルミネーション。こうしたささやかなホスピタリティーがリピーターを生む。'07.1.20

私の基調講演「日本の鉄道保存活動の現状と問題点 ~2006年の話題から~」に続いて各団体からの活動報告が行われました。JR北海道は改めてご紹介するまでもないでしょうから割愛させていただきますが、「SL冬の湿原号」の体験乗車など、今回のシンポジウムを多方面からバックアップしていただきました。では発表順に各団体を簡単にご紹介してみましょう。

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▲釧路東急インのバンケットルームで行われたシンポジウムはほぼ満席の賑わい。熱のこもった参加団体の事例報告が続く。'07.1.20

NPO法人語りつぐ青函連絡船の会:函館港に係留・保存されている青函連絡船「摩周丸」を産業遺産として再評価し、青函連絡船の歴史・文化を後世に伝える活動を行うべく1999(平成11)年9月に結成され、2002(平成14)年3月にNPO(特定非営利活動法人)化。函館ほか各地で「写真展」「産業遺産セミナー」等を開催。2003(平成15)年7月より函館駅2階で「船と鉄道の図書館・いるか文庫」を運営している(下記画像参照)。
札幌LRTの会:1996(平成8)年に設立された市民団体で、札幌市電の将来的な有効活用を唱えて活動を行っている。2003(平成15)年には札幌市による都市の交通・連続フォーラムに「市電とLRT」のテーマで参加、昨年はパネル展「札幌の路面電車・想い出と未来を乗せて」も開催。
三菱大夕張鉄道保存会:1999(平成11)年に発足。旧南大夕張駅跡に残された三菱大夕張鉄道の車輌の保存を夕張市に求めるとともに修復活動を開始し、以後積極的な活動およびアピールを行っている。南大夕張の保存車輌を含む空知管内の炭鉱遺産は2001(平成13)年に「北海道遺産」に認定されている。
NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会:旧国鉄士幌線跡地及びその周辺地域に残存するコンクリートアーチ橋梁群、線路跡その他の近代化遺産の保存・利用・活用に取り組んでいるNPO法人。昨年はその地域活性化に対する貢献が認められ「北海道新聞北のみらい奨励賞」を受賞(下記画像参照)。
・小樽交通記念館ボランティアおそうじ会:現在休館中の小樽交通記念館で車輌整備などに取り組んでいるボランティア団体。小樽市は交通記念館を含む総合的な市立博物館再建を計画しているが、保存車輌や貴重な収蔵資料の行く末が案じられている。
・釧路臨港鉄道の会:2003(平成15)年7月に設立。太平洋石炭販売輸送(旧釧路臨港鉄道)を愛するメンバーにより、国内で最後に残されたコールトレインを暖かく見守り地域の活性化にもつなげようと活動を続けている。2005(平成17)年には同鉄道の80周年記念列車を企画するとともに、DVDも制作。ほかにもJR東海の須田 寛・元会長を招いての講演会なども実施している。

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▲NPO法人「ひがし大雪アーチ橋友の会」発行の「めがね橋だより」(左)と同じくNPO法人「語り継ぐ青函連絡船の会」会報(右)。
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財政再建団体に転落した夕張市で活動を続ける三菱大夕張鉄道保存会はもとより、先行きが不透明な小樽交通記念館など、今回参加した道内の団体は少なからず“苦悩”を抱えています。それでも、これだけの人々が釧路の地に集まり、苦労を語り、夢を語れたのは計り知れないほど大きな第一歩だったといえましょう。シンポジウムを終えて、NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会の那須襄太郎会長が語っておられた「昔の地域振興は素材が7で取り組み方が3だったが、今は素材が3で取り組み方が7」という言葉が強く印象に残っています。懇親会で実行委員会の星代表が第2回はぜひ釧路以外で…と呼びかけておられましたが、この「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」、必ずや大きなウェーブとなってゆくに違いありません。

turikakesannka1.jpg『RM MODELS』2002年2月号から連載を続けている片野正巳さんの『吊掛讃歌』が単行本になりました。味わい深い独特のコンピュータ・グラフィックス(CG)で縦横無尽に展開される吊掛電車絵巻は、読者の皆さんの圧倒的な支持を受けて来月で連載60回を迎えます。単行本化の第1巻目は京王帝都電鉄と京成電鉄、それに京浜急行電鉄の歴代吊掛車たちをフィーチャー。京王帝都電鉄京王線は23形(1920年)からデハ2700形二次車(1953年)まで、同井の頭線(帝都電鉄)はモハ100(1933年)からデハ1900形(1953年)まで、京成電鉄はモハ20形(1921年)から700系(1954年)まで、京浜急行電鉄は1号形(1904年)からデハ600形(1953年)までを採録しております。

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▲京王帝都電鉄デハ2700形の変遷。片野さんのCGにはどこか丸ペン時代の温もりが感じられるのが嬉しい。

改めてご紹介するまでもないかと思いますが、片野正巳さんはかつて機芸出版社で『鉄道模型趣味』(TMS)誌の編集者として大活躍され、その一方で手描きのペン画による歴代国鉄車輌イラスト集『陸蒸気からひかりまで』(1965年・機芸出版社)、続いて姉妹編とも呼べる『私鉄電車プロファイル』(1970年・同社)を出され、まさに一時代を築かれました。とりわけ『陸蒸気からひかりまで』は当時の鉄道少年のバイブルといってもよく、モノクロの線画ながら、さながら絵巻物のごとく展開する歴代国鉄車輌に、私も時の経つのを忘れて見入ったものです。

turikakesanka3.jpgそんな片野さんが再び車輌イラストを手がけようと思われたのは1998(平成10)年の春のことだったそうです。やはり『RM MODELS』に連載をいただいている漫画家の水野良太郎さんから二人でパソコンを始めないか…と誘われたのが発端とか。お二人でMac G3を購入、文字通り四苦八苦しながらのスタートだったといいます。片野さんは1932(昭和7)年のお生まれ。当時66歳でのパソコン元年というわけです。ただ、常人と異なるのはそれからのご努力でしょう。まさに昼夜を分かたぬトライ&エラーの末、信じられないほど短期間でイラストレーター・ソフトを使いこなせるようになられました。このブログを書くにあたってご本人にお電話申し上げたところ、人様に見せられるようになるまでは一年半ほど掛かりましたと謙遜気味におしゃっておられましたが、思い通りにソフトを動かせるようになると、丸ペンで描いていた時代とは雲泥の差の作業効率にいやがうえにも“描きたい心”がはやり、あっという間にここまで来てしまったとのこと。お話をうかがっていて、同じ時期にやはりデジタル転換を図った広田尚敬さんが、画像処理ソフトの習得にのめり込むばかり、手元にあったお煎餅だけで3日を過ごしてしまったという逸話を思い出しました。やはり何かを成す方は根本から常人とは違うようです。
▲京成電鉄のセンテンスよりモハ600形の3変化。「色の記録を残しておきたい」(まえがきより)というのもこの本の趣旨。

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▲京浜急行電鉄のセンテンスより、半室連合軍専用区分となったクハ350形ほか。掲載イラストは100分の1が基本だが、巻末にはモノクロ線画で全車の150分の1イラストを掲載。
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「この本は研究書や解説書のたぐいではありません。“大人のための電車絵本”としてまとめたものです。ファンだけではなく昔の電車ファンだった皆さんも、レールのジョイントを刻んで軽やかに走る吊掛電車の音を想像しながらページをめくり、子供の頃を懐かしく思い出していただけたら幸いです」(まえがきより)と片野さんが語るこの『吊掛讃歌』、今後は季刊ペースでラインナップが加わってゆく予定です。どうかご期待ください。
■片野正巳著『吊掛讃歌』1(京王帝都電鉄・京成電鉄・京浜急行電鉄)
A4変形・96ページ、定価1800円

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地方閑散線の救世主として一般マスコミにもたびたび登場するようになったJR北海道が開発中のDMV(デュアル・モード・ビークル)ですが、ついに本州にやってきて、1月14・21日の両日、静岡県の岳南鉄道でデモンストレーション走行が実施されました。
▲線路に乗って、出発を待つDMV。電車と並ぶと小ささがはっきりわかる。'07.1.21 岳南原田 P:RM(高橋一嘉)

gakunan005n.jpgこれは富士市の市制40周年事業として行われたものですが、富士市では現在在来線との接続のない東海道新幹線新富士駅や、市内を走る岳南鉄道を接続した公共交通としてDMVの導入構想を持っており、今回の走行もそれに向けたものです。公募による抽選で決まった市民モニター約50名が乗車。JR北海道の協力でDMV901号を使用し、富士市公設卸売市場駐車場と岳南鉄道岳南原田駅の間を、行きは道路、帰りは岳南鉄道の線路という経路で1日5回走行しました。
▲線路に乗り入れたDMV。ガイドのローラーを出して位置を決め車輪を下ろす。この間約15秒。'07.1.21 岳南原田 P:RM(高橋一嘉)

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なお、運転に先立ち、11月24?26日には岳南鉄道での夜間走行試験が実施され、それを踏まえたうえで国土交通省中部運輸局の了解を得て今回のデモ走行が実現したものです。運転は富士急静岡バスのベテラン運転士2名が担当。運転に先立ち、JR北海道に出張してDMVの運転技能の訓練を受けられたそうです。
▲吉原本町駅前の本町踏切を通過。待つドライバーもびっくり。DMVの通る15箇所(モードチェンジする市場踏切を含む)の踏切には職員や交通安全指導員が配され、踏切の作動や交通整理に万全の体制が敷かれた。'07.1.21 P:RM(高橋一嘉)

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▲写真左は踏切手前に設置されたお知らせ。あちらこちらの踏切でドライバーが「いつ来るのか」と質問する姿が見られた。右はDMV用の速度制限標識。'07.1.21 P:RM(高橋一嘉)

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▲今回のデモ運転の走行ルート(上)と富士市が将来的に導入を予定している構想全体図(下)。富士市都市整備部のパンフレットより転載。
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岳南原田駅構内に設置されたモードインターチェンジの様子をアニメーションとして下にアップいたしましたので、文字通りのデュアル・モードぶりを観察してみてください。なお、今回のデモンストレーション走行の様子は2月発売のRM本誌誌上で詳しくお伝えする予定です。
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「SL冬の湿原号」に乗る。

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今朝の釧路地方の気温は7時半現在零下12℃。東京暮らしの人間にとってはさすがにこたえる寒さですが、幸いにも今日も雲ひとつない快晴、写真撮影には絶好とあって、釧路駅では朝から三脚を携えたファンの姿がそこここで見受けられました。
▲小気味良いブラスト音とともに釧路湿原を駆ける。昨日はエゾシカの姿も見ることができたという。'07.1.21 釧路湿原-細岡

IMGP0455n.jpgさて、「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」から一夜明けた今日は、三菱大夕張鉄道保存会会長で現在は釧路にお住まいの奥山道紀さんのご案内で、釧路地方のいくつかの保存車輌を見せていただくことにしました。まずは昨日から運転が始まった「SL冬の湿原号」に塘路まで乗車、奥山さんには塘路駅までクルマを回していただき、そこで再びピックアップしていただこうという計画です。
▲塘路を発車してゆく9382レ「SL冬の湿原号」。車内は満席の賑わい。'07.1.21 塘路

IMGP0384n.jpg今日の牽引機C11 171には復活以後、道内各地で遭遇してきていますが、この季節の「SL冬の湿原号」に乗車するのは初めてです。4輌編成の客車内は満席。家族連れの姿が目立ちますが、ちょっと驚きだったのは台湾などからのお客さんがかなりのシェアを占めている点です。私の席の横のボックスのカップルも台湾からの観光客で、蒸気機関車はもとより、ダルマストーブにスルメ、湿原にタンチョウと彼らにとっては珍しいものばかり。それどころか何よりも“雪”が珍しいお国柄ですから、雪原そのものが大きな誘引要素になっているようです。JRはもとより、地元の観光プロモーターもその点はよくわかっているようで、各所で英語のみならず中国語の観光パンフレットを見かけます。
▲名物の“ダルマストーブ”ではスルメが焼かれ、香ばしい匂いが車内にたちこめる。'07.1.21

IMGP0377n.jpgところで、地上からの撮影ではなく、今回あえて乗車してみようと思ったのにはわけがあります。それは釧路発の9382レが逆機牽引だからで、機関車の次位に連結された緩急車から走行中のC11の表情をつぶさに捉えようという魂胆なのです。実はいろいろな条件を考えるとこれが可能なのは今日しかありません。昨日の運転開始から3月18日のシーズン終了までの間で上り列車が逆機牽引となるのは今日と3月17日・18日の3回のみ。ただ3月の2回は編成が客車5輌+緩急車1輌の「基本編成」のため、機関車の次位は緩急車ではなく客車(1号車)となってしまいます。つまり上り列車の機関車次位が緩急車となるのは今日しかないわけです。来週以降の通常運転の下り9381レ(逆機+緩急車+客車5輌)でも同じでは…と思われるかもしれませんが、釧網本線の線型からしてほとんど逆光ぎみとなってしまうはずで、煙室扉正面に日が当たった表情を捉えるには今日がベストというわけです。
▲釧路川を渡る9382レ。次位に連結された緩急車から力行する機関車の表情をつぶさに見ることができるのは逆機運転ならではの美点。'07.1.21 釧路-東釧路

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▲復活から今年で8年目を迎えるC11 171。各地に見られるC11ながら、北の大地を駆けるJR北海道の2輌には、また格別の魅力がある。'07.1.21 釧路運輸車両所

塘路まで40分あまりの短い旅でしたが、なかなか有意義な時間を過ごすことができました。それにしても、今日の「SL冬の湿原号」を“乗客”のひとりとして見ていて嬉しかったのは、この列車をとりまくJR北海道の皆さんのホスピタリティーの高さです。停車時間には気軽にキャブに子供を乗せて記念撮影に応じ、言葉はわからないながら海外からのお客さんを進んでサポートする…昨晩の「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」でも討議されましたが、これからの保存鉄道にとって一番重要なのは「来てよかった、また来よう」と思うリピーターを如何に増やしていけるかなのですから…。

今日は釧路に来ています。

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昨晩は遅くまでRM+RMM編集部の新年会、今朝は4時半に起きて朝イチの便で釧路に来ています。この時期の釧路といえば「SL冬の湿原号」、しかもシーズン唯一の重連運転日とあって、7時50分羽田発の釧路行きJAL1141便は手荷物を見ても三脚の山、さながらファンのチャーター便かと錯覚するほどの賑わいでした。顔見知りも多く、搭乗待合室はもとより、機内に入ってもあちらこちらから「編集長、湿原号の取材ですか?」と声をかけられる有り様。ただ、こちらの渡道目的は先日このブログでも紹介した「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」に出席することがメインです。
▲年に一度のチャンスとあって釧路川橋梁もたいへんな人出。橋梁に差し掛かった重連に一斉にシャターシャワーが浴びせられる。'07.1.20

IMGP0030n.jpg今日の釧路地方は見渡す限り雲ひとつない快晴。風もなく気温も0℃ほどとこの季節としては嘘のような陽気です。空港からはシンポジウム主催団体の「釧路臨港鉄道の会」の皆さんのエスコートで、まずは釧路川橋梁へ。せっかくなので「SL冬の湿原号」の釧路発車シーンを見ようというわけです。驚いたことにこの釧路川橋梁周辺でさえ一大観光地のような賑わいで、ご案内いただいた釧路商工会議所の情野裕良さんによると、「SL冬の湿原号」はいまやレールファンのみならず、地元ネイチャー・フォト系の皆さんにとっても格好の被写体なのだそうです。見渡せば女性の姿も多く、老若男女あらゆる世代のカメラマンがファインダーを食い入るようにのぞいています。
▲眼前を駆け抜けてゆく9382レ。しばらくしてあの懐かしい絶気合図汽笛が聞こえてきた。'07.1.20

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シンポジウムの打ち合わせまで時間があるとのことで、釧路臨港鉄道の会のご配慮で、太平洋石炭販売輸送線と釧路コールマインをつぶさに見学させていただけることになりました。この見学に関しては改めてご紹介したいと思います。
▲さながら釧路港の海岸線をトレースするようにDE601の牽くシャトルトレイン11列車が貯炭場を目指す。'07.1.20

IMGP9253n.jpgさて、肝心のシンポジウムですが、釧路臨港鉄道の会の皆さんの熱意が伝わったのか、道内7団体の活動報告が行われるなど、初回にも関わらず素晴らしく実りある内容となりました。実は私は「基調講演」の大役を仰せつかってしまっていたのですが、シンポジウムそのものが成功裡に終わり、今、ホテルの部屋に戻ってきてほっと一息ついているところです。このシンポジウムの内容についても、改めてじっくりとお伝えしたいと思います。
▲釧路東急インのバンケットルームを会場に行われたシンポジウム。基調講演は私が務めさせていただいた。'07.1.20

sendaih1.jpgついに90巻目を迎えた今月のRM LIBRARYは宮松丈夫さんにご執筆いただいた『仙台市電』です。東北最大の都市として大発展を遂げた仙台ですが、30年以上前までは“市電”が走るいかにも“杜の都”らしい静かな佇まいを見せていたのです。

仙台市電が開業したのは時代が大正から昭和に変わる直前の1926(大正15)年11月のこと。この時、秋田市電はまだ民営の秋田電気軌道でしたから、仙台市電は東北地方では初めての公営路面電車ということになります。当初、仙台駅前?大町一丁目間1.7kmおよび東五番丁?荒町1.1kmの路線と10輌の木造四輪単車でスタートした市電は、以後路線の延長を続け、1948(昭和23)年には16kmの路線網が形成されます。

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▲宮松金次郎氏が主宰され宮松丈夫氏が引き継がれた「鐵道趣味社」宮松コレクションから秘蔵の写真も多数掲載。木造単車時代の写真の数々は必見。

車輌も戦前は四輪単車の増備が続けられたものの、戦後はボギー車となり、局の独自設計による軸梁式台車の開発など、技術的にも意欲的な試みがなされました。また、木造四輪単車をそのまま連接車に改造した300形は、日本の路面電車の歴史上でも特異な存在といえましょう。その一方で、廃止された琴平参宮電鉄や茨城交通水浜線、そして呉市電からの譲受車も導入されていました。全廃は1976(昭和51)年3月、その歴史は約半世紀だったことになります。

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改めてご紹介するまでもないかと思いますが、宮松丈夫さんは戦前の鉄道誌の白眉『鉄道趣味』の編集長を務められ、なおかつ西の西尾克三郎さんと並び称される車輌写真の大家=宮松金次郎さんのご子息です。それゆえ、本書にはお父上が撮影された木造単車時代の貴重かつ極めて鮮明な写真の数々も惜しみなく収録されており、まさに無二の記録となっております。
▲仙台市電きっての“珍車”が単車を種車にした連接木造車体に新品の住金FS72、FS73A台車を履くモハ300形301・302。'55.8.10 P:宮松金次郎

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なお、仙台市電の車輌のうち、1号、123、415号は地下鉄富沢車庫に隣接する市電保存館に、多くの資料とともに大切に保存されています。本書を一度片手に訪れられてみてはいかがでしょうか。また姉妹ブログ「台車近影」でもこの市電博物館をご紹介しておりますので、こちらもご覧いただければと思います。
▲各形式の竣功図はもとより、廃止時の北二番丁車庫、長町車庫の平面見取り図も掲載。最後の日々が鮮やかに甦る。

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丹羽雄二さんから新作のエッチング・キット「森製作所の内燃機関車4・5トン」が送られてきたのは昨年暮れのことです。丹羽さんは社会システム工学・安全システムの専門家として大学で教鞭をとられる傍ら、古くからのナローゲージモデラーとして内外に知られていますが、数年前から“SEA Lion工房”の名でHOナローの精緻なエッチング・キットを頒布されてこられました。
▲いかにもな雰囲気を背景にした森製作所5tの完成サンプル(合成写真)。こうしてみるとその大きさは実感できないが、恐ろしく小さい。P:丹羽雄二

mori2n.jpg第4作目となる今回のエッチング板のプロトタイプは、1933(昭和8)年から戦後にかけて森製作所が生産し続けた同社のベストセラー・4t機。ほぼ同形態で台枠形状の変更・肉盛りによって5t機にもなる汎用機です。丹羽さんは拙著『森製作所の機関車たち』所収の写真と図を手がかりに原図を起こされたそうですが、現車は全長3mにも満たず、ホイールベースにいたっては800㎜とこの手の小型内燃機関車としても異例の小ささで、ソリッドモデルならともかく、HOスケールでの動力化はほとんど不可能に思われます。
▲前作「明延の赤金号」(左)とともに今回の森製作所4t(5t)エッチングキット(右)。フロッピーデスクほどのエッチング板にA4判2枚にびっしりと書かれたインストラクション・シートが添付されている。

mori3n.jpgその“不可能”にあえて挑戦され、シンプルながら意表をついた動力化を提案されるのも丹羽さんならではで、今回もインストラクション・シートのなかで“動力化のヒント”として「簡易スプリットシャシのスクラッチ方法」を懇切丁寧に説明しておられます。ただし、軌間9㎜とする場合は車体幅の関係から「モーターツールで車輪厚を0.8㎜以下にまで削り込む」など、安楽モデラーにとっては気の遠くなるような文言が並んでおり、ハイクオリティーながらこのエッチング板が“市販”に馴染まない理由がわかるような気がします。
▲エッチングの精度は極めて高い。拡大してみても主台枠側面の陽刻までくっきりと再現されているのがわかる。
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MAN3-22n.jpg丹羽さんは『RM MODELS』 分離以前のかつてのRM本誌上で「知られざるナローゲージワールド ?コテージインダストリーとガレージキットの世界?」(RM1993年2月/113号?5月/116号)と題して、連載で英国のガレージメーカー事情を初めてわが国にご紹介下さっていますが、その当時はまさかご自身が“送り手”の側に回ろうとは思ってもおられなかったのではないでしょうか。ただその後、かの地の“Narrow Gauge & Industrial Railway Modelling Review”誌などに簡易スプリットシャシを使ったスクラッチモデルを発表されてゆくなかで、むしろ英国のお仲間から“頒布”を希望される声が高まり、いつしか知る人ぞ知る“送り手”のお一人となっておられます。
▲第2作目となった大阪営林局山崎営林署「万ヶ谷」の奇怪な自家製内燃機関車(合成写真)。P:丹羽雄二

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▲SEA Lion工房の冠でリリースされたこれまでのラインナップ。奥が明延の「赤金」、加藤3t、手前が森4t、5t、そして「万ヶ谷」。いずれ劣らぬマニアックなラインナップである。P:丹羽雄二

Alan_Keef.n.jpgそれにしても丹羽さんのエッチング板を拝見すると、その精度の高さに改めて驚かされます。もちろんコンピュータ化された今日では烏口で原図を描いていた時代とは作業フローそのものが大きく異なりますが、20年ほど前までは、両面抜きのズレに象徴されるようにエッチング板には何かいかがわしい匂いが付きまとっていました。
あるお店で買ったエッチング板を「寸法が合わずに組めないんですけど…」と持っていったら、「え、本当に組もうとしたの! エッチング板は組むものじゃなくて完成時を夢見て見て楽しむものだよ」と諭されたという笑い話が伝わるような時代でした。丹羽さんの計算されつくした高精度のエッチング板を前に、隔世の感を抱くとともに、今度は自分の目の方が上がってしまって組めそうもない悲運を嘆くことしきりです。
▲丹羽さん最初のエッチング板で英国の“Railway Modeller”にも取り上げられたのがAlan-KeefのOスケールDL。これはそれを1/87にスケールダウンしたもので、小ブログの連載「アイルランドに欧州最大のナローゲージ網を訪ねる」で紹介したミッドランド・アイリッシュ・ピートがプロトタイプとのこと。P:丹羽雄二

sannpati1n.jpg地球温暖化の影響か、はたまた代替輸送機関の整備の成果か、このところ豪雪による鉄道の輸送障害が社会問題化することも少なくなりましたが、ひと時代前まで、雪国にとって雪害による鉄道の不通は、そのまま生命線の分断にも等しいものでした。その最たるものが気象庁が史上初めて正式に命名した「昭和三十八年一月豪雪」、通称「サンパチ豪雪」です。前年1962(昭和37)年暮れから激しく降りはじめた日本海側の雪は、年明けとともにますます強さを増し、1月末には北陸地方を完全に孤立させる未曾有の大豪雪となりました。

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撮影旅行中この未曾有の大豪雪に遭遇し、得がたい体験をされたお仲間がおられるのを、一昨年秋に同志社大学鉄道同好会OB会(クローバー会)の会合にお邪魔した際に伺いました。『内燃動車発達史』の湯口 徹さんもそのおひとりで、なおかつ愛用のニコンSPを駆使して克明にドキュメントを残しておられるとのこと。いつの日か是非ご発表を…とお願いしておりましたが、今週末発売の本誌次号巻頭でようやく皆さんのお目にかけることができるはこびとなりました。

sannpati3n.jpgちなみに、湯口 徹さんと聞くと内燃車輌をはじめとした車輌史の研究がご専門と思われがちですが、実は写真の“腕”も並大抵ではありません。学生時代には写真の道を志そうとされたこともあるやに伺っておりますが、レンジファインダー・ニコンを使いこなしてのドキュメンタリー調の作品群は、既成の鉄道写真の枠をはるかに越えた域に達しているとも称せましょう。これまでにも紀行を中心としたご著書のなかではその片鱗を感じさせるものが少なからずありましたが、今回の「サンパチ豪雪 雪中横断記」はまさにその真骨頂といっても過言ではありません。

sannpati4n.jpgこの1月末で「サンパチ豪雪」から44年。RM本誌としてはコンテンポラリーなテーマ以外が巻頭を飾るのは異例のことですが、時代は移れど鉄道を見つめるファンならではの視線、さらにはその並々ならぬ情熱は、必ずや若い読者の皆さんの共感も呼ぶものと確信し、あえて巻頭でご紹介することといたしました。豪雪禍はもちろん願い下げですが、鉄道趣味のひとつの原点をも物語るドキュメンタリーとして、ぜひご覧ください。

昨日付け『伝統の「開運号」が復活。』のエントリーがMac(OS9/OSX問わず)IEで表示できないトラブルが発生しています。IE以外でのブラウザでは表示できる場合もあり、HTMLタグになんらかのバグが生じていると思われますが原因が特定できておりません。Macユーザーの皆さんにはご迷惑をおかけいたします。

伝統の「開運号」が復活。

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かつて特急「開運号」で使用された3200形最後の1編成(モハ3295+モハ3296+モハ3297+モハ3293)が今春運用離脱することから、このたび京成電鉄ではこの最後の1編成を当時の車体塗色に塗り替え、往年のヘッドマークを復活させてリバイバル運転をすることとなりました。
▲34年間大切に保存してあった伝統の行灯式ヘッドマークが取り付けられ、一日限りのハレの復活を待つ3200形。'07.1.16 宗吾検車区 P:RM(新井 正)

JE6S7179nn.jpg今日はその報道公開が宗吾検車区で行われ、新井副編集長が取材に赴きましたが、旧塗装に塗り替えられた3200形は目の覚めるような鮮やかさでその存在感をアピールしていました。残念ながら前照灯の位置や車内設備など、その後の改造でスタイルが変わった点までは復元できないものの、たいせつに保存されていた伝統の行灯式ヘッドマークを取り付けた姿は、成田山参詣客輸送華やかなりし頃を髣髴させてくれます。

JE6S7164nn.jpg34年ぶり、注目のリバイバル「開運号」の運転は来る1月28日(日曜日)の一日だけ。しかも京成上野を10時19分に出て、京成成田に11時37分着、戻しは京成成田13時23分発、京成上野15時22分着の一往復のみ。まさに千載一遇とはこのことでしょう。(一般運用への充当は1月17日?3月末を予定)
▲行灯式ヘッドマークは貫通扉こと取り外す。結構大掛かりな作業だ。'07.1.16 宗吾検車区 P:RM(新井 正)

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▲宗吾検車区で後輩のAE車と並ぶ「開運号」。もちろん3200形の「開運号」とAE100車が一緒に並ぶのは歴史上初めて。'07.1.16 宗吾検車区 P:RM(新井 正)

ちなみにこのリバイバル「開運号」の専用乗車券は限定500枚、応募者多数の場合は抽選として公募されましたが、1月10日の締め切りまでに寄せられた応募は実に1300通。文字通りのプラチナチケットとなりました。運転日当日は側面に指定特急と号車番号も表示されるそうですから、これまた楽しみです。

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▲車体側面にはKeiseiのロゴマーク(左)。右は現在掲出中の車内吊り告知。'07.1.16 宗吾検車区 P:RM(新井 正)

戦後、京成上野?成田間の特急運転復活に際して与えられた愛称が「開運号」です。運転開始は1952(昭和27)年で、当初は戦前生まれのクロスシート車1500形が整備のうえ投入されましたが、1年後の1953(昭和28)年には本格的な特急専用車1600形が登場しました。

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▲素晴らしいコンディションで運用開始を待つ「開運号」編成。明日から一般運用に就く予定だという。'07.1.16 宗吾検車区 P:RM(新井 正)

さらにこの1600形の置き換え用として1967(昭和42)年に登場したのが3200形セミクロスシート車です。3200形自体は1964(昭和39)年から80輌(ロングシート車のみ)が投入された両開き3扉ロングシートの純然たる通勤車でしたが、このセミクロスシート車は通勤・特急兼用として同じ3扉ながら側扉が片開きとなり、便所と物置が設置されました。このセミクロスシート車は8輌が製造され、すでに登場していた3150形セミクロスシート車4輌とともに「開運号」にも使用されることとなります。外観は他の通勤車とほとんど同じながら、「開運号」使用時には1600形と同じ独特のデザインの行灯式ヘッドマークが取り付けられました。

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▲「KDK」の切り抜き文字も颯爽と高砂付近をゆく初代「開運号」用クハ1502+モハ1501編成。半室運転台にクロスシートの優雅な2扉車であった。'58.9.20 P:三谷烈弌

しかし、成田空港開港に備え製造されたAE形“スカイライナー”がその開港を待たずに1973(昭和48)年に就役し、入れ替わりに伝統の「開運号」の愛称は消えることとなりました。そしてこれにより3200形セミクロスシート車はロングシートに改造され、現在では片開きの側扉にその面影を残すのみとなっています。
なお、各形式の詳細については弊社刊『私鉄の車輌』シリーズ第12巻「京成電鉄」をご覧ください。

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まもなく書籍『復刻版 全国版 優等列車編成順序表』が完成します。これは昭和43年10月1日(ヨン・サン・トオ)・国鉄白紙ダイヤ改正時の日本全国の全優等列車の編成順序表・運用図表を復刻したもので、これまで断片的に“点”としては紹介されながらも、“面”として網羅的に公開されるのは初の貴重な資料です。原本は『RM MODELS』誌上で緻密な調査研究に基づく鉄道模型史「紀元前N世紀」を連載いただいていた大田治彦さんが長年にわたって大切に保管されてきたもので、孔版印刷400ページにおよぶまさに第一級の資料です。

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▲優等客車列車編成順序表(東海道・山陽・九州線)より、編成順序、機関車の形式及び速度・定数・現車換算表。
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来るべき高度経済成長時代への布石として、輸送力増強を主眼に1960(昭和35)年に策定された国鉄第3次長期計画(1965?1971年)の中間成果のひとつとして実施されたのが、1968(昭和43)年10月1日の大規模な国鉄白紙ダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ」改正でした。この改正では懸案であった東北本線の複線化と電化が完成、これによって本州を貫く東北本線・東海道本線・山陽本線の複線電化が完了し、国鉄の輸送体系は大きな変革期を迎えます。東北本線、高崎・上越線、山陽本線等では最高運転速度120km/h化が実現、上野?青森間の所要時分が約2時間短縮されたのを筆頭に、各地で速達化が図られ、あわせて特急・急行列車が全国規模で大量に新設・増発され、地方都市に至るまで高速列車網が整備されることとなります。

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▲優等電車列車編成順序表(上越線急行)より、「佐渡」ほか編成順序表。
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この高速列車網整備を睨んで、昭和43年はその後の国鉄車輌の基幹となる新形式車輌が続々と誕生したことも特筆されます。583系、485系、キハ181系、EF66、EF81などで、車輌面でもまさに国鉄にとっての円熟期を象徴するかのごとき改正だったといえるでしょう。さらに動力近代化の大号令のもとに蒸気機関車の淘汰(無煙化)が急速に進み、ついに国鉄の蒸気機関車総輌数は最盛期の半分以下の2000輌を切るまでに減少、これにともなっていわゆる“SLブーム”が本格化した点でも、私たちにとってエポックメーキングな改正だったといえます。

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▲優等気動車列車編成順序表(函館・室蘭線)より、急行「狩勝」「大雪」ほか編成順序及び併結・分離概念図。
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通例を覆して国鉄自らが「ヨン・サン・トオ」と命名して広報宣伝に努めたこの白紙ダイヤ改正は、趣味的にも国鉄時代を通して最も印象に残るダイヤ改正だったと言えるのではないでしょうか。高速化の足かせとなる旧型二軸貨車の大量廃形式など、この「ヨン・サン・トオ」を境に様相が一変したカテゴリーも少なくなく、本誌で浅原信彦さんに連載いただいている「ガイドブック 最盛期の国鉄車輌」もこの改正をひとつの区切りと捉えて時系列を組み立てていただいています。

hensei005n.jpg本書は大田治彦氏所蔵の資料によって、「ヨン・サン・トオ」国鉄白紙ダイヤ改正を編成・運用面から語り継ごうというもので、以下のような項目が盛り込まれています。
・優等客車列車編成順序表(含、機関車の形式・速度・定数・現車換算)
・優等電車列車編成順序表
・優等気動車列車編成順序表
・優等客車列車運用図表
・優等電車列車運用図表
・形式別定員表/車輌換算基準/電化区間図/列車食堂営業列車及び営業者一覧表
▲優等客車列車運用図表(鹿児島・長崎・佐世保線)より、急行客車運用ダイヤ。
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▲付表より、昭和43年10月1日現在(客車)食堂車営業区間および業者一覧表。
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復刻にあたっては可能なかぎり原典を尊重し、検索の便を考慮して柱・ツメを追加するとともに、凡例解説を設けています。きわめて専門性の高い図表ばかりですが、読み込んでゆくとあの列車この列車の生き生きとした姿が目に浮かんでくるまたとない資料集です。
今週末から来週にかけて弊社特約店を中心にお目に掛けることができるかと思いますが、いかんせんきわめて小部数の発行ですので、お買いもらしのなきようにお願いいたします。
■『復刻版 全国版 優等列車編成順序表』
・A4正寸・356ページ
・定価5000円(税込)

川場村でD51が復活!?

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「川場村」と聞いてすぐにその位置が思い浮かぶ方は少ないと思いますが、群馬県にある人口4000人弱の農林業を中心とした静かな村です。鉄道の駅としては上越線の沼田駅が最寄で、さきごろボランティアの手で修復なった「よみがえれボールドウィン」プロジェクトの利根町とはお隣り同士の位置関係です。また、かつてこのブログでご紹介した「鉱石山」の軌道跡もこの川場村北部にあたります。
▲信じられないほど綺麗になって元日を迎えた川場村のD51 561。「今にも動きそう…」と書きたいところだが、実際に動くのだからさらに驚き! '07.1.1 P:川場村提供

kawabaD5176n.jpgさて、この川場村には1977(昭和52)年10月から「ホテルSL」としてD51 561と20系客車6輌が保存されていましたが、なんとこのたびそのD51が“動く”ようになったと村から連絡をいただきました。リリースによれば、20系客車の老朽化にともない1995(平成7)年に新しい宿泊施設・体験学習館をオープン、それに伴って客車6輌のうち3輌を解体、残りの3輌(ナハネ20 74・78・86)とD51を「ホテルSL」のシンボルとして保存してきたものの、こちらも老朽化が著しく、結局2003(平成15)年に客車を解体、以後はD51だけが残される形となっていました。しかし客車部分の線路はそのまま残されており、これを何とか活用できないかと考えたのが今回の「復活」の発端だったのだそうです。
▲動力源が「蒸気」ではなく「空気」なだけで、運転機器などはまったく蒸機時代のまま。'06.12.30 P:川場村提供

幸い機関車そのものの状態は予想以上に良く、なおかつ敷設線路もPC枕木が使用されているために軌道状態も良好で、昨年より走行に向けた機関車の整備に取り組んできたといいます。走行方法は、軌道延長が150mと短いこともあり、各種法令との兼ね合いから蒸気ボイラーを復元するのではなく、テンダーに搭載した大型コンプレッサーからの圧縮空気による方式をとっています。

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▲テンダーに搭載した大型コンプレッサーからの圧縮空気駆動の概念図。(川場村提供)
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▲5年ほど前に訪ねた際の川場村のD51 561と20系客車。かなり荒廃が進んでおり、客車の方はこの翌年撤去された。'02.5.3 P:名取紀之

■D51 561略履歴(川場村提供資料による)
昭和15年12月27日:国鉄苗穂工場で落成・函館機関区に新製配置
昭和35年12月:富良野機関区に転属
昭和50年12月:滝川機関区に転属
昭和51年3月1日:廃車 (総走行距離:2580334.4km)

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▲まるで新製当時かと思いたくなるほどレストレーションされたキャブ。焚口やインゼクタといった圧縮空気走行には直接必要のない部分もしっかりとレストアされている。'06.12.30 P:川場村提供

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▲わずかな距離ながらD51 561は見事に甦った。夕日に輝く姿はあの空知平野を疾駆していた日々を思い起こさせる。'06.12.30 P:川場村提供

kawabaD51151n.jpg私もかれこれ5年ほど前、この川場村のD51 561を訪ねたことがありますが、その時の印象は正直言って各地に見られる荒廃した公園機関車と同列のものでした。それがどうでしょう、まるで現役機であるかのごとく、いや滝川の現役時代より遥かに綺麗になって、しかも“走る”ようになろうとはゆめゆめ思いもしませんでした。川場村では昨年12月1日から試験走行を開始、このD51 561を今後の村おこしのおおきなシンボルにしようと、来月2月に予定されている「ホテルSL」創業30年記念式典で一般公開を考えているそうです。詳しくは「ホテルSL」ホームページ上の専用ブログ「デコイチ日記」をご参照ください。
▲端正なエンドビュー。コールバンカにわずかにのぞいているのが搭載されたコンプレッサー。'07.1.1 P:川場村提供

「学鉄連」の時代。

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自宅書庫の一番奥に1970年代の大学・高校の鉄研機関誌が押し詰まった一角があります。何年も見向きもしなかったのですが、昨年末に別の資料を探していて期せずしてこの一角に目を止めてしまい、探し物を中断して暫しあの頃の機関誌の数々に見入ってしまいました。パソコンはもとよりワープロさえない時代ゆえ、もちろんどれもが今や“絶版モノ”の孔版印刷、いわゆるガリ版刷りで、極めて読みにくいながらも書き手の個性がダイレクトに誌面に伝わってきており、それはそれで味わい深いものです。さて、そのなかでふと手にとまったのが薄水色の50ページほどの冊子『関東学生鉄道研究会連盟・連盟誌』第7号でした。
▲大学鉄研華やかなりし頃の機関誌の数々と「連盟誌」。バックの機関誌は右上から時計回りに東京大学鉄道研究会「てつろ」40号、千葉工業大学鉄道研究会「LOCO」18号、早稲田大学鉄道研究会「SWITCHER」75号、東京学芸大学鉄道研究部「列車食堂」1978年版、立教大学鉄道研究会「TABLET」33号、明治大学鉄道研究会「連結器」38号、法政大学鉄道研究会「Carrier」26号。

「学鉄連」と聞いて懐かしさが一気にこみあげてくるのは、関東地方では恐らく1960年代から1970年代にかけて学生生活を送った皆さんではないでしょうか。各大学の鉄道研究会を横断的に連絡しようという「学生鉄道研究会連盟」いわゆる「学鉄連」は、ここにお目にかける1970年代後半に恐らく最多加盟校数となり、さまざまな行事が行われていました。ちなみにこの『連盟誌』第7号奥付から1979(昭和54)年度の関東学鉄連加盟校を列記してみましょう。
青山学院大学・亜細亜大学・幾徳工業大学・学習院大学・慶應義塾大学・大正大学・千葉大学・千葉工業大学・中央大学・電気通信大学・東京大学・東京学芸大学・東京工業大学・東京電気大学・東京都立大学・東京理科大学・独協大学・日本大学・一橋大学・法政大学・武蔵大学・武蔵工業大学・明治大学・横浜国立大学・立教大学・早稲田大学(以上26校)

gakuteturen1n.jpg同様にこの年度の活動報告も見てみましょう。
昭和53年12月16日:前学鉄連当番校横浜国大より事務引継ぎ
昭和54年3月1日:国鉄・大手私鉄・出版社へ新役員の挨拶回り
3月28?29日:リーダーズキャンプ(於:千葉・月崎荘)/各校の活動報告・学鉄連への意見の発表
5月19日:第1回委員会/今年度の行事について
6月23日:第2回委員会/新加盟校承認等(大正・千葉・一橋大学加盟)
7月24日:ソフトボール大会(於:幾徳工大グランド)
10月13日:第3回委員会/模型運転会・写真展・大学祭
11月9日:第4回委員会/模型運転会・写真展サブテーマ
11月17日:写真展打ち合わせ(於:交通博物館)
11月23?25日:模型運転会(於:東京都児童会館)
12月2日?9日:写真展・テーマ「鉄道のある風景」(於:交通博物館)
12月22日:第5回委員会/幾徳工大正式加盟
昭和55年1月19日:総会/次期当番校選出
(※当番校=東京工業大学、模型運転会担当=早稲田大学、写真展担当=千葉工業大学、ソフトボール大会担当=幾徳工業大学)
この連盟誌には各校の活動報告も簡潔に記載されていますので、以下にご覧に入れましょう。あなたの母校はありますか?
▲関東学生鉄道研究会連盟「連盟誌」第7号。(1980年発行)

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▲加盟校活動報告:左頁/青山学院大学・亜細亜大学・幾徳工業大学、右頁/学習院大学・慶應義塾大学・大正大学。
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▲加盟校活動報告:左頁/千葉大学・中央大学・東京大学、右頁/東京工業大学・東京都立大学・東京理科大学。
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▲加盟校活動報告:左頁/独協大学・日本大学・一橋大学、右頁/武蔵工業大学・武蔵大学・明治大学。
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gakuteturen50.jpgちょうど今夜、慶應義塾大学鉄道研究会OB会である鉄研三田会会長の高井薫平さんと一献傾ける機会があり伺ったところ、「学鉄連」は1958(昭和33)年に高井さんらが立ち上げたのがスタートだったのだそうです。創立時の加盟校は慶應義塾大学・東京大学・法政大学・武蔵工業大学・早稲田大学(50音順)の5校。同年9月に発足総会が行われ、記念講演がかの島 秀雄さんと『カメラと機関車』など先駆的鉄道写真で知られる吉川速男さんのお二方だったといいますから驚きです。さらに当時の十河国鉄総裁からも激励を受け、発足直後にはちょうど走りはじめたばかりの「こだま」の試運転列車にも招待されたのだそうですから、「学鉄連」は単なる鉄道好きの大学生の連絡組織という枠をはるかに越えた社会的存在だったわけです。
▲加盟校活動報告:立教大学・早稲田大学。
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当時、各校にはかならず学鉄連委員がおり、写真展、模型運転会、学祭の相互訪問、さらにはソフトボール大会などを通して、他校鉄研のメンバーとも少なからず交流があったものです。それだけにこの『連盟誌』を見ているとすっかり忘れていたはずの他校“同期”の顔が次々と浮かんできます。
現在、関東の「学鉄連」は十年近く前から活動休止中のようです(「関西学鉄連」は活動を続けているようです)。 “上下関係”を嫌って組織に入りたがらない層の増加など、連盟どころか鉄研そのものの存在さえ危うくなってきている昨今、「学鉄連」時代の“熱”が懐かしく思い出されてならないのは、ただ単にこちらが馬齢を重ねてしまったがゆえなのでしょうか…。

小坂に残る雨宮たち。

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昨秋の連載「北東北を巡る」のなかでは触れませんでしたが、道中、小坂にも足をのばしてみました。当然ながら休日とあって小坂精錬小坂鉄道の貨物列車はお休みですが、終点・小坂の町立総合博物館に保存されている2フィート6インチ時代の車輌たちを訪ねてみようというわけです。
▲木製のラッチの向こうにたたずむ雨宮の11号機。こうして当時のストラクチャーとともに保存展示されていると、往年の情景が目に浮かぶようだ。'06.11.23

kosaka2n.jpg19世紀から銀山・銅山として知られた小坂鉱山は、1908(明治41)年にははやくも2フィート6インチ軌間の専用鉄道を敷設しており、考えてみると来年でちょうど鉄道開設以来百年を迎えることになります。1962(昭和37)年に3フィート6インチ軌間に改軌され今日にいたっているわけですが、ナロー時代はボールドウィン製のサイドタンク機やロッキーナローを彷彿させるオープンデッキの客車群など、ほかのいわゆる“味噌汁軽便”とは一線を画す独特の雰囲気のナローとして多くのファンに愛されていました。さすがに大鉱山の専用鉄道的色合いの濃い線だけに設備投資も半端ではなく、はやくも1959(昭和34)年にはDLの増備によって無煙化を達成、最後に残された雨宮製の11号機を予備機として残すのみとなってしまいますが、その後の改軌時にもこの11号機は解体されることなく、残された貴賓客車とともに保存される幸運を掴みます。
▲旅客営業廃止から12年を経ても当時の姿のままで残る小坂駅駅舎。'06.11.23

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▲小坂町立総合博物館の中庭に移設保存されている旧小坂駅駅舎。室内も極めて状態良く保存されている。'06.11.23

小坂町立総合博物館「郷土館」に現在保存されているナロー時代の車輌は秋田県指定有形文化財となっているこの11号機と貴賓客車ハ1の2輌ですが、屋外展示場には旧小坂駅駅舎をはじめ、木造の発電所棟、水道共用栓など、ナロー時代を語り継ぐ大小さまざまな近代化遺産が展示保存されています。冒頭の写真のように旧駅舎の軒をかすめて眺める雨宮編成はなかなかの雰囲気で、同じ保存でも時代性を考慮した周辺の整備がいかに重要かを再認識させてくれます。

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▲1926(大正15)年製の雨宮11号機はDL化後も1962(昭和37)年の改軌時まで予備機として残った最後の蒸機であった。'06.11.23

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▲ホイールベース2464㎜のC型ながら主動輪はフランジレス(左)。運転席は右側で、レギュレータ・ハンドルは火室の直上から生えている(右)。'06.11.23

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▲11号蒸機に連結されて保存されているのは1916(大正5)年日本車輌製のハ1。1921(大正10)年に室内が改造され、以後1962(昭和37)年まで貴賓車として使用されたという。'06.11.23

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▲室内は貴賓室と一般室に仕切られている。写真左は貴賓室側。右は車体側面に付く立派な社紋。'06.11.23

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▲オープンデッキの鴨居部にも凝った装飾が施されている(左)。台車はホイールベース1270㎜の典型的アーチバートラック。'06.11.23

kosakakyoudokanfig.jpgこの「郷土館」にはナローのほかにも、旅客営業最後の1994(平成6)年まで活躍したキハ2101や保線用のモーターカー、さらには鉱山軌道用のバケットローダーなども保存されており興味はつきません。また、郷土館研究報告として定期的に発行されている冊子『郷土研究』には小坂鉄道に関する地元ならではの研究発表も見受けられ、これも他の保存施設ではあまり例をみない特筆される点です。
▲小坂町立総合博物館「郷土館」案内図。
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残り少なくなってしまった私鉄のディーゼル機関車牽引の貨物列車が現役とあって、小坂鉄道を訪問される方も少なくないかと思いますが、撮影の合間にこの「郷土館」に立ち寄ってみられることをおすすめしたいと思います。
■小坂町立総合博物館郷土館
・開館:9時~17時(入館は16時30分まで。12月27日~1月3日休館)
・観覧料:一般・大学生・高校生=270円、中学生以下は無料

CGで甦るあの日の夕張。

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全国的に報道された予算1万円からの手作りの成人式や、予想外の管理職大量退職など、財政破綻に揺れる夕張市を巡っては、この年末年始も悲喜こもごもの話題がメディアを賑わしてきましたが、このブログでもたびたびご紹介してきた夕張鉄道や三菱大夕張鉄道の蒸気機関車を保存する石炭の歴史村SL館や、「南大夕張列車公園」として整備予定だったシューパロダム周辺の先行きは依然不透明なままです。昨年末には北海道産業考古学会が北海道知事や夕張市長に存続要望書を提出、今後の運営を考えるシンポジウムも開催されるなど懸命な模索が続いています。
▲紅葉の山々に重連のブラスト音が響く。夕張鉄道最盛期のシーン。(「故郷夕張へ」より)

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▲夕張発電所(2006年5月制作)/明治34年に1鉱(丁未抗)前に建てられて炭鉱の動力や家庭の電灯などに使われていた。この発電所は大規模な清水沢火力発電所が建設されたり、その後の発電所の集約化により昭和15年にその使命を終えた。(HP解説より)

ennhoroeki.1njpg.jpgそんななか「三菱大夕張鉄道保存会」の奥山道紀さんから、夕張を語り継ぎ元気づけるコンピュータ・グラフィック(CG)を制作されている方がおられますと、熊谷邦行さんをご紹介いただきました。ご自身のホームページ(最下段のリンク参照)上にCGで再現した往年の夕張鉄道、大夕張鉄道、真谷地専用線、それに国鉄夕張線などの情景を次々とアップされておられ、写真にはない夢のあるタッチと、地元を知り尽くした方ならではの視点に思わず釘付けになってしまいました。ことに夕張鉄道は「故郷夕張へ」と題して全線各駅・各所を42シーンにも分けて紹介されており、まさに夕鉄一大絵巻の感があります。野幌をスタートに、画面上の「夕張本町」行きの切符をクリックすると駅順に画面が進み、炭都・夕張に力が漲っていた時代が次々と展開してゆきます。
▲遠幌駅(2006年10月制作)/遠幌駅は1940年遠幌加別停留所として開業した。その2年後に遠幌駅と改称し駅舎も建てられた。この駅舎はその後に建てられたものらしいが、一部切妻屋根が付いた寄せ棟造りで、随所に菱組が取り入れられていた和風建築。夕張岳山麓から森林鉄道で運ばれて来た木材や、北炭遠幌鉱の石炭などの積出し駅だった。(HP解説より)

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▲夕陽の三弦橋と森林鉄道のSL(2006年制作)/シュ?パロ湖に架かる美しい三弦橋にSLを走らせてみた。たまねぎ型の煙突に特徴がある。多くの森林鉄道のSLの場合、煙突から出る火の粉対策として作られていた。この三弦橋が出来る前にSLは廃車になっていた。(HP解説より)

熊谷さんはプロフィールを拝見すると1948(昭和23)年の夕張生まれ。現在は札幌市に居を移しながらも、故郷夕張への思い熱く、鉄道のみならず歴史的建造物や記憶に残る情景などを精力的にCG化されてきています。一部をここに転載させていただきましたが、それぞれの作品に添えられた解説も実に読み応えがあり、ぜひ一度ご覧になられることをお薦めいたします。ちなみにHPではこの一連のCGアートの制作プロセスも段階を追って解説されており、イラストレーションに興味をお持ちの方にも役立つのではないかと思います。

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▲だるまストーブと夕張岳(2006年9月制作)/下り大夕張炭山駅行きSL4号機は、だるまストーブをのせたスハニ6のほか空になったセキ十数輌を牽引していた。ブルーのレザーシート、木製の背もたれは、どれだけの多くの方々の思いを乗せて来たのだろうか。シュ?パロ湖駅を過ぎたあたりから進行方向右手には、雪で覆われた秀峰夕張岳が望めた。(HP解説より)

imayomigaeru1nn.jpgさて、そんな窮地に立たされている夕張をはじめ、北海道内で鉄道や連絡船の保存活動、または現在運行している鉄道の支援活動を展開している団体が一堂に会して情報交換を行おうという初の試み「北海道の鉄道と連絡船を保存するシンポジウム」(仮称)が来る1月20日(土曜日)に釧路で開催されます。「釧路臨港鉄道の会」を実行委員会に、JR北海道をはじめ三菱大夕張鉄道保存会など道内の保存・支援団体が集うこのシンポジウムから新たな展開が生まれることが期待されます。
・日時:1月20日(土曜日) 19時?20時30分
・場所:釧路東急イン(JR釧路駅前)
▲上の鹿ノ谷の画像がリンクボタンになっています。クリックすると熊谷さんのHPに飛びます。

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この3月末で引退するJR東日本長野支社のジョイフルトレイン14系“浪漫”に代わる新型車輌として、このたび485系「いろどり(彩)」がデビューしました。昨日、雪晴れの長野総合車両センターで報道公開が行われましたので、今日はさっそくその様子をご報告いたしましょう。
▲長野総合車両センターで並ぶ新旧のジョイフル車輌。14系“浪漫”は3月末までに引退する。'07.1.9 P:RM(新井 正)

irodori1n.jpg485系「いろどり(彩)」は元新潟車両センターの485系6輌が種車。編成は松本方1号車からクロ481-1503(T’sc)[ クハ481-1503]+モロ484-1024(M’s) [モハ484-1024]+モロ485-1024(Ms)[ モハ485-1024]+モロ484-1007(M’s)[ モハ484-1007]+モロ485-1007(Ms) [モハ485-1007]+クロ481-1502(Tsc)[ クハ481-1502] ([ ]は種車車号)となっており、このうち先頭車が北海道仕様の1500番代車である点が特筆されます。
各号車は以下のように長野県にちなんだモチーフと配色がなされ、それぞれロゴマークとイメージカラーとして各所に活かされています。
1号車:県の花/りんどう(ふじいろ)
2号車:県の動物/カモシカ(こきくちなし)
3号車:特産品/りんご(ときいろ)
4号車:信州の自然(びゃくぐん)
5号車:特産品(ふじいろ)
6号車:出荷数日本一/カーネーション(ときいろ)

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注目の車体外観は、前面はライト類を下部から上部へ移設、愛称表示機は市販のワイド液晶テレビ40Vに交換され、種車のイメージを拭い去っています。愛称表示器に市販のテレビが活用されたのはちょっとした驚きでもあります。さらに1500番代のシンボルであった運転席屋根上の2灯ライトと検電アンテナは中央線の狭小隧道対策から撤去され、後者は後位へ移設されています。同様にモハ484の屋根上に搭載されているパンタグラフはシングルアーム式のPS32に交換されていますが、これは485系では初です。
▲各車で異なる配色を施した485系“いろどり(彩)”。愛称表示機はなんと市販のワイド液晶テレビ40V!。ライトはその上部に付けられ独特な顔つきとなった。両先頭車は北海道仕様の1500番代が種車だが、シンボルの一つ運転室屋根上の2灯ライトは中央線の狭小トンネル限界対策で撤去されている。'07.1.9 P:RM(新井 正)

irodori5n.jpg車体色は白をベースに、車体上部に各号車ごとのイメージカラー、裾部にベージュを塗装。また、各側扉の隣接部には“いろどり(彩)”のロゴが添えられています。
室内はリクライニングシートを配した車輌をはじめに、小グループでもプライバシーが守られる簡易コンパートメント、カラオケや多目的室を設けたフリースペースなど車輌毎に趣を変え、内装色も変えられています。詳しくは写真と平面図をご覧いただくとして、ちょっと微笑ましいのは3号車車端に備えられた“マッサージチェア”ではないでしょうか。ついに団体専用車輌にはマッサージチェアまで備わる時代になったのです。
▲モハ484には485系初となるシングルアーム式パンタグラフPS32が搭載された。これも中央線乗り入れ対策の一環。'07.1.9 P:RM(新井 正)

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▲1・6号車の室内は1列+2列の回転リクライニングシートをレイアウト。写真左は6号車。写真右は1・6号車の運転室背後に設ける談話スペース。32Vの液晶モタニには前面展望画面も映し出される。'07.1.9 P:RM(新井 正)

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▲2・3・5号車は4人用簡易コンパートで構成され、テーブルも用意。モケット色は各号車で異なっている。写真左は3号車。簡易コンパートの腰掛はフルフラットにすることも可能(右)。'07.1.9 P:RM(新井 正)

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▲4号車の多目的ルーム(左)。フリースペースでソファとテーブルを備えている。天井には「BOSE」製のスピーカーが吊るされている。4号車の車端部に設けられた多目的室(右)は扉で仕切ることができる。'07.1.9 P:RM(新井 正)

irodori12n.jpgこの「いろどり(彩)」は長野総合車両センターで2006月5月?12月の間で改造され、「N201」という編成番号をもらっています。営業開始は新団体列車デビュー記念“山梨よくばりツアー”として1月21日、長野→甲府、塩山→長野間の予定。冒頭に記したように、この「いろどり(彩)」の完成で同センターの14系“浪漫”は本年3月末をもって引退することとなりますが、そうなるとそれ以降のJR東日本の団体用客車は、尾久の“ゆとり”、高崎の旧型と12系のみとなり、一世を風靡した団臨用ジョイフル客車の時代は終わりを告げることとなります。
▲3号車の車端にはマッサージチェアが鎮座。鉄道車輌では初の試みとなる。'07.1.9 P:RM(新井 正)

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▲「いろどり(彩)」車内レイアウト。(JR東日本提供)   クリックするとポップアップします。

※昨日付け「年のはじめはドコービル詣で」の中で、当初“このメーカー形式「B112」と呼ばれるナベトロ”と記述してアップいたしましたが、直後に今井 理さんより「B112」はナベトロそのものの品番ではなく軸箱の品番であるとのご指摘をいただきました。改めてここに訂正させていただくとともに、今井さんにお礼申し上げます。

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あらためまして、新年あけましておめでとうございます。どうか本年も、RMと小ブログ「編集長敬白」をかわらぬお引き立てのほどお願い申し上げます。
▲荒川知水資料館二階「荒川を知るフロア」の一角、青山士コーナーにひっそりと置かれた正真正銘の“ドコービル”。'07.1.6

さて、新年早々でもありメジャーな話題をと思っていたのですが、のっけからかなりマニアックな題材となってしまうことをお許しください。実は昨年ぜひ訪問しようと思いながら、あまりの近さについつい後回しになり、年を越してしまった案件がありました。東京都北区の赤羽駅にほど近い「荒川知水資料館」に保存されているドコービル製の“ナベトロ”がそれです。

IMGP9210n.jpgあえてご紹介するまでもないかとは思いますが、ドコービルとはフランスの農園主ポル・ドコービルが1875年に発案した移設式軌道システムのことをさします。のちにこの移設式軌道システム=軌匡(ききょう)はそれこそ世界各地に伝播し、鉄道聯隊のような軍用軌道をはじめ、土木用、鉱山用、林業用等々ありとあらゆるインダストリアル・ナローゲージとして大発展を遂げます。言うなれば、恒久軌道としてのナローゲージが標準軌からダウンサイジングしてきたのに対し、ドコービル・システムはパリ郊外の農場に突如として“降臨”したわけです。十数年前、私はこの聖地=ドコービル家を訪ねてパリ郊外を旅したこともあり、ドコービルにはひとかたならぬ強い思い入れがあります。
▲いわゆる「一合積み」(0.6立方メートル)と呼ばれる“ナベトロ”としては最小サイズに属する。牽引用連結器は持たず手押し用。'07.1.6

IMGP9182n.jpg「荒川知水資料館」(愛称:amoa)は国土交通省荒川下流河川事務所と北区が、荒川に関する資料の収集展示と情報発信基地として1998(平成10)年3月に開館したもので、荒川放水路の岩淵水門横に位置します。この岩淵水門(旧)は明治期の高名な土木技術者で荒川放水路の父と呼ばれる青山 士(あおやま あきら)が工事責任者として施工したもので、この工事に際して使用された機材として、青山 士を顕彰するコーナーの一角に件のドコービル製“ナベトロ”が展示されているというわけです。
▲恐らく百年近くの歳月を経ているわりには極めて状態は良い。この端面の“ナベ”の左右幅は実測で1070㎜、台枠幅は同じく710㎜であった。'07.1.6

IMGP9205n.jpgただ、説明展示パネルをよく見ると、確かに岩淵水門工事で使用されているドコービル製同形車の写真はあるものの、欄外に「信濃川大河津資料館」なる文字が…。聞けば何とこの“ナベトロ”は信濃川大河津資料館から借用して展示しているものだというではないですか。てっきり荒川由来のものとばかり思っていたので、これにはちょっとびっくりです。荒川放水路工事は1911(明治44)年?1930(昭和5)年、内務省土木局が信濃川改修工事に着手したのが1876(明治9)年ですから、この“ナベトロ”恐らくは百年ほど前に作られた物と思われます。
▲台枠側面にかろうじて残る“DECAUVILLE”の銘。小さな、たかが“ナベトロ”ながら、ナローゲージャーにとってはまさに「ご本尊」である。'07.1.6

いずれにせよ、現在確認されているものとしては、わが国に残るドコービル製車輌として唯一無二の存在で、姿形こそたかが“ナベトロ”なれど、その価値は計り知れないと思われます。ちなみにドコービル社はあらゆる部材を品番管理しており、このメーカー形式「B112」と呼ばれる軸箱を持つナベトロは、昨年中国大陸でも同形品が“出土”し、1905年から鉱山で使われていた歴史的遺産として保存されたと伝えられています。

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▲軸受け部には“DECAUVILLE AINE PETIT BOURG B112”の陽刻が読み取れる(左)。プチ・ブールはドコービル社の所在地、B112は軸箱の品番。'07.1.6
荒川知水資料館案内図(右)
■荒川知水資料館
〒115-0042 東京都北区志茂5-41-1
http://www.ara.go.jp/amoa/
・JR赤羽駅東口より徒歩20分
・9:30?16:30(原則として月曜日休館)
・入場無料

※当初“このメーカー形式「B112」と呼ばれるナベトロ”と記述してアップいたしましたが、直後に今井 理さんより「B112」はナベトロそのものの品番ではなく軸箱の品番であるとのご指摘をいただきました。ここに訂正させていただくとともに、今井さんにお礼申し上げます。

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明けましておめでとうございます。本年も皆さんにとって、そして鉄道趣味にとって実り多い一年となることを祈念いたしまして、年頭のご挨拶とさせていただきます。
なお小ブログは、年始は出先の通信事情もあって、9日(月曜日)より再開する予定にしておりますので、どうか本年もかわらぬご愛読のほどをお願い申し上げます。
RM編集長:名取紀之 敬白

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