鉄道ホビダス

2006年12月アーカイブ

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この一年、小ブログにお付き合いいただきほんとうにありがとうございました。年末年始は出先の通信事情もあって、しばし休載とさせていただきます。新年は9日(月曜日)より再開する予定にしておりますので、どうか来年もかわらぬご愛読のほどをお願い申し上げます。
皆さん、それではご家族ともどもよいお年をお迎えください。
RM編集長:名取紀之 敬白

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来年のことを語ると鬼が笑うと言われますが、さすがに今年も余すところ数日ともなれば笑われることもないでしょう。そんなわけで今日は小ブログをご愛読いただいている皆さんにお尋ねとお願いがございます。
▲井川線の人気者DB1形DB9が中部電力専用鉄道時代からのオープンデッキ客車Cスハフ1形を牽く。千頭?川根両国間のミニ・エクスカーション・トレインながら往年を彷彿させてくれる。'06.5.4 川根両国

ikawa2n.jpgご好評をいただいているRMライブラリーも来年はついに100巻を達成いたしますが、すでにご脱稿いただいたものも含めて来年のラインナップが固まりつつあります。そんななかで予定しているもののひとつに「大井川鉄道井川線」があります。著者は元大井川鐵道副社長でミスター大井川とも言える白井 昭さん。頂戴している原稿はさすがに長年にわたって井川線を見守ってこられたトップだけに、これまで知られていない秘話も多く、実にまとめ甲斐のある内容となっています。もちろん歴史面では白井さんが陣頭指揮を取られたアプト導入にまでおよぶのですが、ひとつ問題は昭和40年代以前の写真が今ひとつ弱い点です。もともと専用鉄道としてスタートをきった井川線だけに、写真が少ないのもある面無理からぬことではあります。そこで皆さんのお力をお借りできないかとこのブログでお願い申し上げることにした次第です。
▲DB1形はついに2輌を残すのみとなってしまった。川根両国の工場建屋からお尻を見せているのはDB8。'06.5.4 川根両国

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▲20年前の1986(昭和61)年に除籍されたDD100形DD107は今もってすこぶる良い状態で保管されている。DB1とともに井川線の歴史を語り継ぐ貴重な車輌だ。'06.5.4 川根両国

ikawa5n.jpgではどんな写真を探しているかと申しますと、具体的には以下のようなものです。
・旧塗装(ブルーのツートン)時代(右掲写真参照)のDB1形が牽くカラーの列車写真。ただし正面を向いているもの。
・1960年代までのモノクロ写真。ことにDB51、DD101?103の走行写真。
・井川線(中部電力専用鉄道)と関連する富士電力専用軌道、大間川専用軌道、大井川電力専用軌道、千頭森林鉄道、智者山森林軌道の写真・絵はがき・図面等。
もしお力添えをいただける場合は、下記編集部アドレス宛に1月末までにメールにてご一報賜れれば幸いです。
railmagazine@neko.co.jp
▲旧塗装時代の井川線DB1形。背後には千頭営林署の貯木場クレーンが見える。'66.9.23 千頭 P:三谷烈弌

会津線1393列車の受難。

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1973(昭和48)年12月23日。只見線の撮影を終えて西若松で325Dに乗り込む頃には、前夜来の雪はひときわ激しさを増しつつありました。会津地方にこもって今日で3日目、まだ一度も太陽を拝むことはかないません。
▲時計の針はとっくに14時を回っている。ますます強くなる吹雪をついて1393レが上三寄を目指す。先頭に立つのは会津若松区のC11 192。この時点では次の湯野上までたどり着けないとはまったく想像できなかった。'73.12.23 門田?上三寄

aizu1n6.jpg当時の会津線は会津若松?会津田島間に2往復の貨物列車が設定されていました。しかし、下り一番の1391レは会津若松5時42分発、上りの2本目1392レは会津田島発が17時41分と冬場の撮影は不可能で、いきおい残りの2本にかけることとなります。ただこの2本、1392レと1390レは14時48分に湯野上で交換する設定となっており、撮影する側にしてみると実に効率のよいものでした。それだけに午前中は只見線なり日中線なりで過ごし、昼前の325Dで会津線に入るのがいわば定食コースだったといえます。
▲ブラスト音さえかき消される吹雪の中、眼前を横切ってゆく1393レ。'73.12.23 門田?上三寄

aizu1n7.jpgそんなわけでこの日も325Dの車中の人となったわけですが、門田を出る頃には吹雪は一層激しさを増してきて、このままでは意中の舟子乗降場付近で“引き”のある絵など撮りようもない状況となってきました。だいいち山中ではそれこそ遭難しかねません。やむをえず上三寄で下車。なるべく線路沿いの、しかも多少なりとも吹雪をかわせる場所をと、防雪林脇で1393レを待つことにしたのですが、雪はいよいよひどくなり、遅れに遅れた1393レが眼前を通過する頃にはほとんど視界も利かない状態となってしまいました。
▲さながら煙幕のような視界の彼方に去ってゆく1393レ。このしばらく後に前途運行不能となってしまうとは…。'73.12.23 門田?上三寄

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▲湯野上で交換してくるはずの1390レは待てど暮らせどその姿を見せない。327Dが猛吹雪を掻き分けるように大遅延で下ってゆく。'73.12.23 門田?上三寄

aizu1n9.jpg先述のように1393レは次の湯野上で1390レと交換するはずです。いくら吹雪がひどいといってもここで引き下がってはみすみす獲物を逃すことになると、ひたすら寒さに耐えることとなりました。ところがお目当ての1393レは定刻15時16分を回ろうと一向にやってくる気配がありません。吹雪は雄叫びとなり、ほかの音はなにも聞こえないほど。そんななかで待つこと一時間近く、ようやく息をついた吹雪の合間に、逆の上り方から姿を現したのはC11 80〔会〕単機でした。
▲さらに待つこと一時間以上、上り方から汽笛が聞こえたと思うと、C11 80〔会〕が単機で姿を現した。'73.12.23 門田?上三寄

目を凝らしてみれば、上三寄の場内信号機の腕木は停止現示。懸命に汽笛を鳴らしながら、それでもC11 80は最徐行で構内へと消えてゆきました。こちらも事ここに至ってどうやら只ならぬ状況らしいと気づき、ほうほうの体で駅を目指したのでした。

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▲場内信号の停止現示を越え、ひっきりなしに汽笛を吹鳴しながら上三寄場内へと入ってゆくC11 80による救援列車。すでに辺りには夜の帳が迫っている。'73.12.23 門田?上三寄

果たして、さきほど防雪林付近で撮影した1393レは湯野上に辿り着くことなく吹き溜まりに突っ込んでスタックしてしまっており、C11 80はその救援に遣わされた機関車だったのです。上三寄駅の待合室でひたすら運転再開を待ち、ようやくやってきた上り330Dで会津若松に戻った時には、もうすっかり夜になっていました。
あれから33年、あの1393レはその後どうなったのか、気になってなりません。

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運行を引き継ぐ事業者を「公募」して最後の存続可能性を模索していた鹿島鉄道ですが、昨日、ついに存続不可能との最終判断が下されてしまいました。これは茨城県と沿線四市で構成する「鹿島鉄道対策協議会」が決定・発表したもので、これにより鹿島鉄道(石岡?鉾田間27.2km)は来年3月31日をもって運行を終了、廃止されることが確定したことになります。
▲鉾田のひとつ手前の坂戸は森の中にある小駅。キハ601の石岡行がDMH17の軽やかなエンジン音とともにやってきた。'06.5.5 坂戸

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▲かつては広い構内に貨物設備や小さな駐泊庫などもあった終点・鉾田は、今では本線が1本ホームに入るのみ。キハ601が静かに折り返しを待っている。'06.5.5 鉾田

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▲鹿島参宮鉄道時代からの伝統ある鉾田駅本屋。鹿島臨海鉄道の新鉾田駅までは歩いて20分ほどの距離で、鹿島→鹿島臨海→JRとラウンドトリップができるのもあと3ヶ月ほど。'06.5.5 鉾田

石岡市長を会長とする「鹿島鉄道対策協議会」は、先に鹿島鉄道への財政支援を今年度一杯で打ち切ることを決め、その代案として鹿島鉄道線の運行を引き継ぐ事業者を「公募」して一縷の望みを託してきました。この「公募」に応じたのは市民団体と旅行企画会社の2団体。市民団体の「鹿島鉄道存続再生ネットワーク」は、新たに市民参加の鉄道会社を設立したうえで運行を岡山電気鉄道に委託する案を提示しましたが、結局、両者ともに公募案の採用にはいたりませんでした。

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▲もとキハ07のキハ600形と並んで人気の高いキハ430形は元加越能鉄道加越線の残党。全長16.5m湘南顔の好ましいスタイルだ。現在431号が写真のグリーンとクリームのツートン、432号が赤とクリームのツートンに塗られている。'06.5.5 石岡

これまでにも何度かご紹介してきたように、キハ600形を筆頭とした魅力的な旧型気動車群、霞ヶ浦を巡るのどかなロケーション、そして82年にも及ぶ歴史と、鹿島鉄道は趣味的に見て実に魅力溢れる鉄道ではあります。しかし、裏を返せばそれらは早急な体質改善を必要とする車輌、輸送密度の極端に少ないロケーション、そして経年疲労が隠しきれない施設…と同義語でもあるわけです。
昨年春の日立電鉄に次いで、中小私鉄の宝庫であった茨城県から残念ながらまたひとつローカル私鉄が消えてゆくことになってしまいました。廃止を決した同協議会は関鉄グリーンバスに今後の代替バス運行を要請するそうで、来春、桜の花が開く頃には、あのうららかな霞ヶ浦沿いをゆく「かしてつ」の姿は、もう見ることはできないのです。

修復進む都電6191。

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先日、府中市市民健康センター交通遊園のEB10の現況をお伝えしましたが、今日は同じ遊園内に保存されている東京都電6191号についてお伝えしてみましょう。この6191号は1981(昭和56)年に東京都交通局から払い下げられてこの遊園に保存されたものですが、なぜか車番が「4154」(良い子よ…か?)と縁もゆかりもないものに書き換えられ、経年劣化が進んでいました。
▲武蔵野の地もいつになく冬の訪れが遅い。欅林に囲まれて陽だまりの中に佇む6191は、まるで現役かと錯覚させるほどに甦った。'06.12.2

IMGP0716n.jpgそんな状況を見かねたファンや市民がボランティアを買って出て、2年ほど前から手探りの修復作業が始まりました。メンバーはそれこそ会社員から小学校の先生、大学生、高校生、さらにはたまたま通りかかった近所の人まで実にさまざまで、文字通りボランティアによる修復プロジェクトです。メンバーのお一人の岸 由一郎さんから頂戴したメールによれば、外装の修復はほぼ一段落し、現在では内装と機能面での復元作業に入っているとのことです。車内の整備はまず剥離している古い塗装を除去することから始まりますが、スクレーパーを片手に天井を見上げながら浮いた塗料を削り落としてゆく作業は、想像以上に地味できつい作業だといいます。
▲横にはこれまでの修復歴をわかりやすくまとめた説明看板が立てられている。この看板によって修復整備が行政の手ではなくボランティアによるものであることを市民が知ることにもなる。'06.12.2

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▲床下機器まですっかり綺麗になった6191号。本車はRMライブラリー『東京都電6000形』によれば1950(昭和25)年の日本車輌製。同年11月16日に南千住車庫に新製配置され、のち1971(昭和46)年3月18日に荒川車庫に転じて現在の荒川線で活躍をしていた。廃車は1978(昭和53)年4月27日付け。'06.12.2

IMGP0713n.jpgすでに今年度の作業は4月18日のスタートから13回目を向かえているそうで、去る12月9日には圧縮空気で動作する機器類の試験も行われたそうです。外部コンプレッサーから現役時代の圧力(400~500キロパスカル)を込めると、これまでの努力の甲斐あってブレーキシリンダーの動作も確認でき、夕方には片側の運転台の警笛が吹鳴可能な状態にまでなったというから驚きです。
▲見違えるように美しく整備された台車。車号からするとD16形台車を履いて落成したと思われるが、振り替えられたのか古いD10形台車を履いている。'06.12.2

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▲外観は素晴らしい状態に甦ったが、ボランティアの皆さんによる修復整備は今後機能面にまで及んでゆくという。来年にはさらに充実した6191号の姿を目にすることができるにちがいない。'06.12.2

今日24日は年内最後となる修復作業が行われたはずです。先般ご紹介した沼田のボールドウィンといい、天竜二股のキハ20修復といい、このようにいつの間にか各地でボランティアによる保存車輌整備の動きが活発になってきているのは実に嬉しい限りです。
ちなみに、現在この府中市市民健康センター交通遊園は、塗装工事等園内整備のため来年1月末まで完全閉鎖となっており、園内に立ち入ることはできません。2月になったら、美しくレストアされた6191号の姿を再び目にすることができるはずです。

31年目のイブに…。

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街にジングルベルの音色が流れはじめると、あの日、1975(昭和50)年12月24日に思いを馳せるのは決して私だけではないでしょう。改めるまでもなく、D51 241〔追〕が牽く夕張線6788列車が追分に到着したその時をもって、国鉄本線上から蒸気機関車の姿が消えたその日です。
▲追分発夕張行723Dは紅葉山で登川からの832Dを待って5分ほど停まる。今日はD51 286〔追〕単機の1791レを横目に、7時38分発車。未明からの雪は一層その強さを増してきた。'75.3.25

momijiyama1n2n.jpg12月14日の蒸機牽引旅客最終列車とうってかわり、貨物最終列車の日程は直前まで決まりませんでした。国鉄としてみればC57 135が派手なヘッドマークを付け、テレビで中継まで行われた室蘭本線225列車をもって“最終”としたつもりだったのかも知れませんが、ファン心理としてはそうはゆきません。貨物の最終がいったいいつになるのか…さまざまな憶測が乱れ飛ぶなか、結局12月24日と決まったのはわずか数日前のことでした。奇しくも時はクリスマス・イブ。見たい、行きたいと思いつつも、学生の身とあればおいそれと渡道できるはずもなく、遥か北の大地に響いているであろう最後の汽笛に思いを馳せて一夜を過ごしたのでした。
▲723D車窓から。紅葉山、沼ノ沢、清水沢、鹿ノ谷…、夕張川に沿って生涯忘れ得ぬ駅名が並ぶ。'75.3.25

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▲今でこそ石勝線の単なる途中駅のイメージしかない追分だが、当時はまさに室蘭本線と夕張線を分かつ一大ジャンクション=追分だった。夕張線を下ってきた1000t運炭列車は、この大ヤードで組成され、実に2400t列車となって一気に東室蘭へと下ってゆく。'75.3.25 追分

同世代の仲間にはこの1975(昭和50)年12月24日以降を“余生”と言って憚らない者さえいます。昭和30年代から存分に蒸気機関車を撮影できた先輩の皆さんはともかく、昭和40年代からカメラを向けはじめた現在の50代半ばから、私のように40代後半の世代は、文字通り「遅れてきた青年」でした。デフが切り詰められようと、前照灯がLP405に代えられようと、とにかく1975年12月24日までの残された時間をがむしゃらに駆け抜けるしか術がなかったのです。それだけに、現役蒸機を存分に見た、撮ったという成就感にはほど遠く、31年前のクリスマス・イブを境にした一種の脱力感は、深層心理のなかに今もって尾をひいているのかも知れません。

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▲すでに出炭量は激減していたとはいえ、夕張線の主役はまだまだ運炭列車だった。返空セキを牽いて夕張川橋梁を渡ってゆくのはラストランナーの1輌となったD51 465〔追〕。'75.3.28 川端-滝ノ上

E721系に0番代車登場。

721a1.jpg第三セクターとして設立された仙台空港鉄道株式会社による仙台空港線(名取?仙台空港間7.1km)開業に向けてE721系500番代車が登場したのは記憶に新しいところですが、今日はこのE721系の0番代車の報道公開があり、その全容が詳らかとなりましたのでさっそくお伝えしてみることにしましょう。
E721系500番代車は東北線を経由して仙台?仙台空港を直通すべく開発された空港アクセス車輌ですが、今回誕生した0番代車はこの500番代車を基本として、現在455系・417系といった車齢40年近い鋼製車が運用されている東北本線等の一般列車の体質改善のために製作されたもので、外観・性能面ではほぼ共通ながら、車体の帯色は仙台地区で運用されている在来車と同一のグリーンと赤の間に細いホワイトを配したものとなっています。
▲E721系0番代車正面。帯色が仙台地区の719系や701系と同様のグリーンと赤の帯の間に細いホワイトを配したものに変更されたほかは、在来の500番代と共通のデザイン。ただし全面ガラスを黒に着色している範囲は変更されている。'06.12.22 仙台車両センター P:RM(青柳 明)

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▲クハE720(Tc')を先頭とした編成。最終的には39編成78輌が東北本線等に投入される予定となっている。'06.12.22 仙台車両センター P:RM(青柳 明)
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▲E721系0番代編成図 (JR東日本提供)
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ローカル輸送用の車輌としては701系やE127系以来の新設計車輌となるこのE721系ですが、空港アクセス用のE721系500番代車と一般用0番代との最大の相違点は、スーツケースなど大きな手荷物用に用意されていた車端部の荷物置場がロングシート2席(計4人掛のロングシート)の優先席に変更されたことでしょう。また、この0番代車から優先席エリアをより明確化するために、腰掛・壁面・床・吊手の色彩を一般部と変えているのも特筆されます。これはE233系と共通で、今後JR東日本の通勤・近郊型車の標準的な仕様となってゆくものと思われます。

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▲E233系と同様にユニバーサルデザインを考慮した客室内。ロングシート部は端部や中間、さらにクロスシート寄りにも握り棒や取手が設けられている。なお、0番代車についはワンマン化準備工事がなされている。'06.12.22 仙台車両センター P:RM(青柳 明)

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▲空港アクセス用の500番代との最大の違いは、スーツケース等の置き場として設けられていた荷物置場がロングシートとなった点。当然ながら側面窓も追加された(左)。'06.12.22 仙台車両センター P:RM(青柳 明)

仙台空港線の開業は来年3月18日。すでにE721系500番代1次車1編成2輌、2次車3編成6輌は落成し、1次車については必要な共通化改造も終えているとのことで、あとは仙台空港鉄道持ちの同一仕様車輌3編成6輌が落成するのを待つばかりとなっています。一方、誕生したばかりの0番代は今後着々と増備されて、2007(平成19)年度初までには39編成78輌の多くが出揃う予定とのことです。これによって仙台地区の一般車は719系・701系、そしてE721系に統一されることとなります。

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▲クモハE721(Mc)車外観。車体は製作メーカーによりレーザー溶接により組み立てた構造とスポット溶接により組み立てた構造の2種類があり、今回はスポット溶接により組み立てられた車体となっている。'06.12.22 仙台車両センター P:RM(青柳 明)

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▲E721系0番代主要諸元表 (JR東日本提供)
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大平を出た津軽森林鉄道幹線はいよいよ「六郎越え」と呼ばれる脊梁山脈縦断にかかります。森林鉄道は基本的に標高の高い伐採地から標高の低い集積貯木場に木材を下ろすものですから、盈車(えいしゃ=積車)が勾配を上ることは前提としていません。それに対してこの「六郎越え」は盈車が逆勾配を上る津軽森林鉄道最大の難所でした。それだけに1909(明治42)年の開設時にはアメリカからシェイギャードが輸入されて蟹田に投入されたのです。シェイは「六郎越え」でボールドウィン製B1リアタンク機の倍の盈車を牽引できたと伝えられています。
▲芦野公園?川倉間をゆく津軽鉄道下り9列車。築堤下の農道が津軽森林鉄道幹線の軌道跡である。'06.11.24

DH000065n.jpg六郎隧道を出て今泉川沿いに西進した幹線は、十三湖に突き当たって今泉で方向を真南に替え、一路中里、金木方面を目指します。ただこの今泉分岐から十三湖北岸を進む相内線がこれまた数多の支線網をのばしており、その一部は日本海海岸にまで到達、まさに蟹田から津軽半島縦断を果たしたことになります。
▲芦野公園駅に進入する上り154列車。津軽森林鉄道は駅下り方で芦野公園西側へと離れてゆく。ちなみに画面左に見えるのは旧本屋で、隣接して近代的な本屋が建てられている。'06.11.24

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▲地形図に見る津軽森林鉄道幹線の「六郎越え」西側。今泉から南進した路線は、先般ご紹介した中里・金木方面の地形図へと続く。地理調査所1:50000地形図「小泊」(1954年発行)より転載
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ところでこの雪深い津軽の地ですから、津軽森林鉄道幹線は通年運転をしていたわけではなく、基本的に4月下旬から11月下旬にいたる約7ヶ月が運転期間だったようです。そのかわり繁忙期の運転時間は、午前6時から夕方18時にいたる12時間、機関士・機関助士の一日の乗務距離は110キロ以上にも達したといいますからハイシーズンの賑わいぶりが目に浮かぶようです。

DH000086n.jpgさて、中里から金木にいたる沿線には2箇所に保存車輌を見ることができます。まずひとつは津軽中里駅近くの中泊町(旧中里町)博物館に保存されている元金木営林署の協三工業製ディーゼル機関車で、立派な博物館の館内に素晴らしい状態で保存されています。もうひとつは芦野公園内に保存されているおなじく元金木営林署の車輌たちで、こちらは機関車+運材車+客車といった編成で保存展示されています。実はこの車輌たちはかれこれ25年ほど前、別の保存場所にあった際に訪ねたことがあります。かつての小学校分校跡に残されていた車輌たちは荒れ果て、なおかつ深い雪に埋もれて酷い状態でした。それだけに綺麗になって展示されている姿に再会できたのは、今回の津軽森林鉄道跡を巡る旅のなかでもひときわ印象に残る収穫のだったといえましょう。
▲芦野公園に保存されている元金木営林署の酒井工作所製ディーゼル機関車と客車・運材車。金木小学校大東ヶ丘分校跡で荒れ果てていた時代を思うと、見違えるように綺麗になった。'06.11.24

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▲端正なスタイルの酒井工作所製のA型5t機。本機は1960(昭和35)年製の製造番号6315。'06.11.24

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▲荒廃していた客車も1999(平成11)年に復元された。運材台車には木材が載せられて雰囲気を醸し出している。'06.11.24

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▲金木町立大東ヶ丘山の家(金木小学校大東ヶ丘分校跡)に保存(放置?)されていた当時の同機。すっかり雪に埋もれていたのを近所の民家からスコップを借りてきて、同行の仲間と数時間掛けて“掘り出した”姿である。'81.3.24

rindougenkyou1n.jpgと、この連載を結ぼうと思っていたところに、小ブログをご覧になった根本幸男さんから、びっくりするような画像が添付されたメールを頂戴しました。なんと1961(昭和36)年に津軽線三厩発青森行314D(キハ21)後部座席から撮影されたという津軽森林鉄道幹線の写真です。車輌の姿こそないものの、津軽線にぴったりと寄り添うように走る2'6"の線路が手にとるように見て取れます。「国鉄車掌さんは“営林軌道”という言葉を使っていました」とのこと。地形図上では“並行”しているのを理解しているつもりでも、こうやって実際の画像を目にすると、臨場感が格段に違ってきます。根本さんほんとうにありがとうございました。
▲昭和39年度末時点の青森営林局管内林道現況。この時点での管内森林鉄道・軌道総延長は380km。青森県内のみならず、まだ岩手・宮城県内にもわずかながら森林軌道が残っていたことがわかる。 (『青森営林局八十年史』1966年 より転載)
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▲根本幸男さんが津軽線気動車内から撮影された津軽森林鉄道幹線の線路。見事なまでに津軽線と並行している。ちなみに撮影地点は瀬辺地?蟹田間の広瀬川橋梁下り方付近と思われる。'61.10.30 P:根本幸男

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『青森営林局八十年史』(1966年)は、林道事業の項の冒頭で「38年には津軽森林鉄道が土木主任技師二宮英夫の設計指導のもとに調査を終了して翌39年着工、42年完成、米国ボウルドウィンとライマー(原文ママ)蒸気機関車の運行を開始し、森林土木も画期的なれい明期を迎えた。すなわち青森貯木場を起点とし、青森、内真部、蟹田、中里、喜良市の5小林区所にまたがり、わが国三大美林のひとつであるヒバ林の大大的開発を目的に施設の延長67kmは、その利用面積72千ha、蓄積1,470万㎡を対象としたわが国森林鉄道最初のもので、明治年代天下に唯一を誇った」と、津軽森林鉄道幹線の偉大さを誇示しています。
▲津軽森林鉄道幹線の最大の難所は半島を縦断する「六郎越え」であった。六郎隧道(454.5m)は残念ながら現在では確認できないが、隧道入口近くにはいかにもな雰囲気の軌道跡を見ることができた。ただし、小さな橋はH鋼が使われており、後年架け替えられたもの。'06.11.24

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▲『青森営林局六十五年の歩み』(1951年発行)に見る管内図(青森県部分のみ抜粋)。津軽森林鉄道幹線はもとより、野辺地署、乙供署管内の軌道などもおおいに気にかかる。丸印は営林署所在地。
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DH000133n.jpg「水中貯木場だけでも、35千㎡の貯材ができ、森林鉄道製材工場の完成とともに名実第一位の貯木場であった」(前掲同書)という青森貯木場を出た津軽森林鉄道幹線は、陸奥湾に面したわずかな平地の山沿いにへばりつくようにひたすら北を目指します。森林鉄道研究の第一人者・西 裕之さんは、津軽森林鉄道はやたらとアプローチが長く、実際に山に分け入るのはかなり先となるのがひとつの特徴と表現されておられますが、実際に軌道跡を辿ってみると、青森貯木場から蟹田付近まではとにかくあきれるほどの平坦さです。
▲蟹田駅を通過するEH500牽引の上り高速貨。信号および前方の踏切名がいまだに「土場」(どば)を名乗っている。'06.11.24

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▲地形図に見る津軽森林鉄道幹線の「六郎越え」(半島縦断)へのアプローチ。地理調査所1:50000地形図「蟹田」(1960年発行)より転載。
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DH000140n.jpg津軽線の海側を走る国道280号線のバイパスが内陸部に完成しているものの、さらにその西側に位置する軌道跡は見事なくらい判然とわかる農道として残っています。例えば蟹田から青森までの津軽線営業距離は27km、運材列車の表定速度は10数km/hでしょうから、運転時分は2時間ほど。よくぞこの単調な線形を走り続けていたものだと改めて驚きを禁じえません。考えてみれば蟹田で津軽線に積み替えて青森を目指した方がずっと効率的のように思えますが、そこはわが国の誇る(?)縦割り行政のなせるわざ、鉄道省の線路と農商務省の線路がわずかな距離を隔てて見事に並行することとなります。
▲内真部川支線分岐付近の軌道跡。青森貯木場から大平付近までかなりの長距離を幹線はさした勾配もなく進む。'06.11.24

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瀬辺地付近で完全に津軽線と並行した津軽森林鉄道幹線は、大規模な中継土場のあった蟹田で進路を西に変えて、いよいよ津軽半島縦断にかかります。ちょっと微笑ましかったのは、蟹田駅手前の踏切名と津軽線の信号名称が「土場」となっていたことで、駅西側の土場跡こそ駐車場と化しているものの、まだ森林鉄道時代の呼び名がささやかに生き残っているのでした。
▲「六郎越え」付近の軌道跡。いかにもな雰囲気で森を分け入ってゆくが、残念ながら遺構を発見することはできなかった。'06.11.24

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大平付近で津軽線と分かれた津軽森林鉄道幹線は、いよいよ分水嶺越えに挑みます。計画段階では内真部付近から喜良市貯木場へ突き抜ける「石川越え」ルートと、津軽半島脊梁山脈の東方山麓を進んで蟹田署管内小国山国有林を貫通して半島を縦断する「六郎越え」ルートのふたつが俎上にのったそうですが、結局後者に決し、津軽森林鉄道幹線は大平隧道(187.3m)と六郎隧道(454.5m)を穿って峠越えすることになります。現在でも前者の隧道入口は残存しているとのことでしたが、残念ながら今回は確認することはできませんでした。なお、六郎隧道のポータルに掲げられていた銘板は、現在、青森市森林博物館に保存展示されています。
▲中泊町(旧中里町)博物館に保存されている旧金木営林署所属の協三工業製4.8t機。昨日紹介した客車「あすなろ」とともに眺望山で荒れ果てていた保存機だが、近年すっかりレストアされてこの博物館館内エントランスに保存された。'06.11.24

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11月24日付けで青森駅前のビジネスホテルから配信した「北東北を巡る」(第2回)で「後日、改めて詳しく…」と記した津軽森林鉄道跡について、順を追ってご紹介してみたいと思います。
▲青森市森林博物館の専用展示場に保存されている協三工業製4.8t機と客車「あすなろ」。機関車の方は津軽ではなく、下北半島の大畑森林鉄道で使用されていたものだが、客車の方は津軽森林鉄道で使われていた視察用車。'06.11.24

DH000144njpg.jpg「津軽森林鉄道」と通称される幹線は、青森市内の青森貯木場を起点に北上、津軽半島を縦断して金木に至る延長67.2kmの大森林鉄道です。木曽森林鉄道と通称される王滝森林鉄道本線(鬼淵~三浦)が42km、小川森林鉄道本線(上松~赤沢)を合計しても57kmですから、津軽森林鉄道幹線がいかに大規模であったかがわかります。この幹線の廃止は1967(昭和42)年。思えばあのヨン・サン・トオ改正の前年ですから、決して神代の時代ではなく、五能線などにも少なからずファンが足を向けていた時代だったはずです。その割にこの津軽森林鉄道を写したファンの方の写真にお目にかかったことはなく、いまさらながらにそれが不思議でなりません。同じ青森営林局管内でも下北半島の大畑森林鉄道などはそれなりに訪問記も残されているのに、日本最古の由緒あるこの津軽森林鉄道幹線の写真は、公的なもの以外ほとんど残されていないのが実状です。
▲青森駅からさほど遠くない青森市森林博物館は、もとの青森営林局庁舎を利用した博物館。写真はその庭に設置された森林鉄道車輌保存棟。'06.11.24

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さて、この津軽森林鉄道幹線の跡をかけ足で辿ってみることにしましょう。まずは起点であった青森貯木場ですが、青森駅北西の青森湾沿いに位置しています。貯木場横のかつての青森営林局庁舎が青森市森林博物館として利用されており、木造二階建ての館内はその重厚な雰囲気とともに一見の価値があります。私が訪ねた時はちょうど折悪しく外装塗装工事の最中で、その荘厳な建物外観を拝むことはかないませんでしたが、館内の展示(残念ながら森林鉄道関係はほとんどない)からは「林鉄」が走っていた時代をひしひしと感じ取ることができました。
▲保存にあたってフルレストアが施されたそうで、機関車は動態に近いほど整備されている(左)。右は客車と運材台車の連結部。客車のカプラーは“朝顔”どころか“ひまわり”ほどの大きさ。'06.11.24

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▲全盛期の津軽森林鉄道幹線路線図。青森貯木場から津軽線と並行して北上した幹線は、蟹田から相股隧道・六郎隧道で山越えして津軽半島を縦断し、今泉から中里へ、そして津軽鉄道沿いに金木の喜良市停車場へと至る。幹線延長は実に67kmに達した。(青森運輸営林署を記録する会『軌跡』より)
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余談ながら、ちょっと感動したのは自然林から皆伐、植林、間伐と段階を追って説明している二階の“ジオラマ”。マテリアルこそ市販のシーナリィ用品のようですが、いやこれが超リアル。何がリアルかというと、とにかく「植生」が理に適っているのです。もちろん植生を説明するのもこのジオラマの大きな役割ですから当たり前といえば当たり前、さらに森林博物館の展示ですから理に適っているのも当然ですが、沢やら獣道やら日差しによる下草の繁茂の違いやら、同じマテリアルを使っても植生を知り尽くしているとここまでリアルに見えるのか…とちょっとばかりショックではありました。その辺を考えずにレイアウト製作に取り組んできたのには反省至極です。

DH000190n.jpgさてこの青森市森林博物館には別棟に協三工業製のディーゼル機関車と客車、それに運材台車が保存されています。機関車は残念ながら当地で使用されていたものではなく、同じ青森営林局管内の大畑森林鉄道で使われていたものですが、保存にあたって極めて念入りにレストアされており、すぐにでも動態復元できそうなくらい状態は抜群です。続く客車の方は津軽森林鉄道内真部支線の奥にある眺望山キャンプ場で保存(と言っても放置同然)されていたもので、こちらもすこぶる綺麗に修復されているものの、室内に誂えられたシートなどはどうも今風でちょっと疑問符です。いずれにせよ、この保存車たちは管理状態もよく、津軽森林鉄道跡を辿る旅の起点としてはまさにうってつけといえましょう。
▲AUW=Aomori Unyu Worksの陽刻を持つ「青森運輸型」の内燃機関車。木曽の上松とともに日本で2箇所のみ「運輸」の名を冠した青森運輸営林署は、独自のイコライザーの開発など、車輌の改良にも積極的だった。P:青森運輸営林署

津軽中里いま昔。

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先日の「北東北を巡る」で簡単に触れた津軽鉄道ですが、改めて昔の写真と対比してご紹介してみましょう。時は1975(昭和50)年3月。お察しのとおり最後の国鉄蒸機の姿を求めて渡道する道中での訪問です。改めて思い返してみると、それまでの何回かの訪問もことごとく渡道の行きかえりで、1970年代に津軽鉄道を主目的に訪ねたことは一度もありませんでした。
▲荷物車代用だろうか、パワムからつぎつぎと降ろされる小荷物の山がホームを埋め尽くしてゆく。ローカル私鉄とはいえ、当時は終着駅には終着駅なりの賑わいがあった。'75.3.24

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▲ひるがえって今日の津軽中里。スーパーが併設されたものの、ホームに人影はなく、構内はひっそり閑としている。'06.11.24

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▲31年前の津軽中里駅構内。木製の庫の先にはささやかな転車台があった。線路は機回し線の先で小山にぶつかってふっつりと途絶えている。'75.3.24

当時の津軽鉄道は、先日さいたま市の「鉄道博物館」入りしたオハ31形が健在で、ラッシュ時にはDD350に牽かれて活躍していました。まだ国鉄線上にもわずかながらダルマストーブが残っていた時代ですから、当然ながら今のように「ストーブ列車」などという名称は付けられておらず、沿線の五所川原農業高校をはじめとした通学の輸送需給から客車列車が運用されていたに過ぎませんでした。

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▲木造の駅本屋は風雪に苛まれる津軽らしい構造だった。ラッチを出てもさらに防風壁があり、その扉を開けてはじめてホームへと出る。右はまさにストラクチャーガイドそのものの鰻の寝床のような木造1線庫。'75.3.24

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▲今日の津軽中里。あの木造1線庫はかろうじてその姿を留めていた。右はホーム端から見た終端部で、上の31年前の写真と比べると小山の上に近代的な家屋が並んでいるのがわかる。'06.11.24

減少の一途だったとはいえ、当時はまだ貨物輸送も健在で、DD350の牽く混合列車のほかにも、一般運用のキハ24000形が貨車を牽く姿も目にすることができました。津軽鉄道の貨物輸送が終焉を迎えたのは、1984(昭和59)年2月の五能線貨物輸送廃止時でした。

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▲雲間からようやく春を感じさせる陽光がのぞく。それでも津軽平野を渡る風は身をきるように冷たいが、キハから降りてきた地元の人たちは驚くほどの薄着で本屋へと消えてゆく。いまさら見ると、構内外れには屋根車が停まるのみで、その彼方には果てしない津軽平野が広がっているのがわかる。'75.3.24

先日定点観測をご紹介した津軽中里駅本屋の変貌ぶりよりも、駅構内の変わりようが今回強く印象に残っています。かつてはさいはての終着駅といってもそれなりの賑わいに包まれていたように記憶していますが、現在はとにかくひと気がなく閑散としています。列車の発着時にも決して賑わいはなく、ここでもまた地方鉄道が直面している厳しい現状を思い知ることとなりました。逆に国道バイパス側には広大なショッピングセンターが建ち、これまた全国共通の“風景”を目の当たりにすることとなったのです。

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「ご時勢とはいえ寂しい限りです」そんなメールを諸河 久さんからいただいたのは先週のことです。添付されたリンクにはコダック株式会社の「コダクローム64フィルム販売終了のお知らせ」というリリースが。デジタル全盛時代とはいえ、ついにあのコダクロームが消えてしまうのです。
▲1980年代をともに駆け抜けたキヤノンF-1とともに…。どれほどあの黄色いパッケージにお世話になったことだろうか。

pkrph2n.jpg同リリースによれば「コダックでは、長年にわたり多くのユーザーから支持を得てきた本製品の販売継続に最大限の努力を続けて参りましたが、ここ数年における大幅な需要の落ち込みによって、処理薬品などの安定供給ならびに処理設備のサポート維持が大変難しい状況となり、販売終了の決断に至りました」と、“コダクローム64フィルム”(KR)と“コダクローム64プロフェッショナルフィルム”(PKR)の国内での販売を現在の在庫がなくなり次第終了するとしています。現在の販売状況で推移した場合、市場在庫は来年3月末頃にはなくなり、それとともに国内での現像処理も来年12月20日をもって廃止となるそうです。
▲コダクロームにはKRとPKRの2種があるが、公私ともに使うのは決まってPKRであった。

IMGP0803n.jpg改めてご紹介するまでもないでしょうが、「コダクローム」はコダックが戦前の1935(昭和10)年に発売を開始した世界最初のカラーリバーサルフィルムで、1961(昭和36)年にその改良版として登場したコダクロームⅡ(KⅡ)はその抜群の発色と粒状性、そして比類ない保存性から今もって伝説的に語られ続けています。諸河さんが本誌誌上で連載「KⅡの時代」(2003年10月号?2004年9月号)としてその卓越したクォリティーをご披露下さったのも記憶に新しいところです。
1974(昭和49)年にはコダクローム25(KM)とコダクローム64(KR)が、1984(昭和59)年にはプロバージョンのコダクローム64プロフェッショナル(PKR)が誕生し、その印刷特性の良さもあって、1980年代のプロ、ハイアマチュアの世界はまさにコダクローム一色となってゆくのです。
▲パッケージ裏面に記載されているエマルジョンナンバー。かつてはこの番号に一喜一憂したもの。(ちなみに現在出回っているKRのエマルジョンナンバー“1531”とPKRのエマルジョンナンバー“3582”はどちらも実効感度64、フィルター補正値0の「ノン」。)

コダクロームの最大の特徴は色素を形作るカプラーを現像液に加える「外式」を採用した点にあります。現在市販されているカラーリバーサルフィルムはことごとくフィルム乳剤層にカプラーを含む「内式」で、コダクロームの現像処理にはまったく汎用性のない現像処理「プロセスK-14」が不可欠です。それだけに現像設備の維持も大きな負担となり、結果として販売終了となったのかもしれません。

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コダクロームで思い出すのがその“エマルジョンナンバー”です。エマルジョン、つまり乳剤のこと。フィルムの乳剤は酒の仕込みに例えればわかり易いかもしれませんが、どんなに均一化を図ろうとしても、乳剤の「樽」ごとにどうしてもある程度のばらつきが生じてしまいます。一般にはあまり知られていませんが、プロラボと呼ばれるプロ向けの現像所では、独自の方法で市場に出回っている全ての乳剤番号のテストデータを公開しており、例えばエマルジョンナンバー「1234」は公称感度「64」に対して実効感度「50」、さらに色調はどんなフィルター(ゼラチンフィルター)で補正する必要がある…といった情報を開示しています。1980年代のPKRはこれらの情報をもとにした「ノン」(無補正)エマルジョンの争奪戦でもありました。ことに印刷を前提とした出版社にとっては他人事ではなく、かくいう弊社も「ノン」のPKRが出たと聞きつけ数百本の単位で大量に買い付けたことさえあります。
▲路面を分け入るようにクールの街をあとにする直流時代のレーテッシェバーン・アローザ線ABDe4/4 481。コダクロームにこだわっていた最後の時代のひとコマ。'93.10.13

そんなエマルジョンに一喜一憂したそんな思い出も、今となっては隔世の感があります。明るさであろうと色調であろうと彩度であろうと、はたまた“アオリ”を利かせた変形であろうと、画像処理ソフトで素人でも容易く出来てしまう昨今、71年前にルーツを持つ外式リバーサルフィルムはついに命脈尽きてしまったわけです。独特のしっとりした自然な色調、高い粒状性、そして何よりも実証済みの保存性の良さを兼ね備えたコダクローム、最後にもう一度あのF-1に詰めて使ってみようと思っています。さようなら、そしてありがとう「コダクローム」。

キハE130系デビュー。

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キハ110系につぐ一般型気動車としてJR東日本が開発していたキハE130系の第一陣が完成、昨日、投入先の水郡線を所管する水戸運輸区で報道公開されました。この水郡線用キハE130系、車体は同社の営業用気動車としては初のステンレス車体を採用、さらにはじめて一般アンケートによりエクステリアデザインが決定したのも特筆されます。
▲赤系の鮮やかなカラーリングが目をひく両運車キハE130-1。今春実施された一般アンケートに寄せられた2113件の応募から決定された「秋の紅葉と久慈川の流れ」をイメージしたカラーリング。'06.12.15 水戸運輸区 P:RM(新井 正)

JE6S6543n.jpg車輌は両運転台構造のキハE130形、トイレ付片運転台構造のキハE131形、トイレ無し片運転台構造のキハE132形の3タイプ。このうち、キハE131とキハE132は2輌編成で組成され、3形式ともにキハ110系との協調運転が可能な機器を搭載しています。
車体長20000mm(連結面間)×車体幅は2930mmで軽量ステンレス車体。混雑緩和を図るため裾を絞った拡幅車体となり、側扉は片側3箇所に両開き構造で半自動構造のものを設置しています。これはJR東日本の新造気動車では初の試みです。側窓は京浜東北の209系と同様、固定窓と上部が下降する開閉窓を組み合わせたものを設置。ガラスは紫外線を100パーセントカットしたIRガラスを採用しているため、緑色のものが採用されています。前面デザインは左右対称の切妻スタイルで、前面強化が施され、屋根上には33000kcal/hの空調装置AU732形を1台搭載しています。
▲続いて登場する片運車はこの両運車の側面赤部がグリーンとなり「新緑の緑と久慈川の流れ」をイメージするという。'06.12.15 水戸運輸区 P:RM(新井 正)
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客室は床面高さをキハ110系に比べ45mm下げた1130mmとし、腰掛はセミクロスシート構造を採用。クロスシートは2列と1列の2種類が用意され、吊り手はE531系タイプのものと三角タイプの2通りを採用。客室後位には車椅子対応の大型洋式トイレと車椅子スペースが設けられています。なお、トイレの扉が自動扉となっているのも特筆されます。
▲座席幅がキハ110系より20mm拡大して460mmとなりゆったりした客室内。窓にはIRカットガラスを採用し、紫外線と赤外線をカットしている。'06.12.15 水戸運輸区 P:RM(新井 正)

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運転室は半室構造となり、中間車扱いとなった時は客室とを完全に仕切れる構造となっています。運転台は左手によるワンハンドル、前面には車輌の情報をはじめ、運転用と車掌用の情報を提供する10.4インチの液晶モニタ画面が用意されています。
床下にはクリーンな排出ガス性能・低騒音を実現した環境に優しいエンジンとして4サイクル水冷直列横型直接噴射式のDMF15HZ形(1基)、変速機はDW22形を搭載。台車はボルスタレス台車で前位に動力台車のDT74、後位にTR259を履いています。ブレーキ方式は電気指令式空気ブレーキで踏面片押し式。なお、降雪を考慮して耐雪ブレーキも併設されています。床下にはこの他、交流発電機も搭載されています。
▲半室運転台となった車端部にはワンマン対応の車内表示器が備わる(左)。円形の自動扉を持つ車椅子対応の大型トイレ(右)。'06.12.15 水戸運輸区 P:RM(新井 正)

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▲ワンハンドル式の運転台(右の黒いハンドル様のものは操作機器ではなく把手)と、耐雪ブレーキも備わるボルスタレス台車(右)。'06.12.15 水戸運輸区 P:RM(新井 正)

このキハE130系は両運のキハE130形が13輌、2輌編成のキハE131形とキハE132形が13本26輌、いずれも新潟トランシスで製造される予定で、まずキハE130形が2007年1月中旬より営業を開始(この時点で7輌前後)し、キハE131+キハE132は2月以降にお目見えする予定です。これにより現在水郡線で活躍中のキハ110系は東北地区のキハ58・キハ52の淘汰用に転用され、結果として「国鉄型」がまた消えてゆくこととなります。

『思い出色のバス』が完成。

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河村かずふささんから、古いバスのカラーポジがいっぱいあるがどうにか料理できないだろうか…とお話をいただいたのは、かれこれ二年ほど前のことでした。河村さんといえばTMS誌上で数多の写真・模型を発表され、また最近では『小田急電車回顧』でも貴重な歴史的写真をご披露なさっている高名なベテラン・ファンですが、まさかバスの写真までお撮りだとは思いもしませんでした。
▲ガキ大将(?)とともに住宅地を走る越後交通の長岡行き。いすゞのBX731E型キャブオーバーバスで、合併前の中越自動車が東急系だった関係から「東急色」である。(『思い出色のバス』より) 

omb01n.jpg伺えば、1950年代から1960年代にかけて各地の地方鉄道を訪ね歩いた際、駅前に停まっていた地方色豊かなバスも記録にと撮りためてこられたのだそうです。実際にポジを拝見するとまさに百花繚乱、さながら時代絵巻のように展開する鮮やかな画像に圧倒される思いでした。鉄道の世界ではまだまだ“ぶどう色2号”全盛の時代、地方のバスたちはまるで地域の広告塔であるかのごとく彩られ、土煙を上げて未舗装道を駆け抜けていたのです。
せっかくのお申し越しですので、ぜひ一冊にまとめてみたいと思いつつ、問題はどなたに解説をしていただくかでした。もちろん河村さんご本人もひとかたならぬ造詣の深さながら、細かい形式やその個体の来歴となると難しい部分もあり、思い切って日本のバス研究の第一人者でもある交通ジャーナリストの鈴木文彦さんにお願いしてみることにしました。幸いにも当方の趣旨をご理解いただき、この『思い出色のバス』では、まさに鈴木さんしかなしえない深さで解説をお書きいただくことができました。

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今回ご紹介しているのは1950?1960年代に撮影された主に“路線”を中心とした写真、しかもボンネットバス、キャブオーバーバス、センターアンダーフロアエンジンバスの3カテゴリーを取り上げています。誌面デザインと編集はRMモデルズの根本貫史君が担当、自身が編集部きってのバスファンでもあるだけに、実に素晴らしい本に仕上がりました。クリスマス頃には書店の店頭に並ぶはずですので、是非ご覧ください。
▲上野広小路で発車を待つ都営の新旧塗色。いずれも三菱ふそうのボンネットバスでB280型とB380型。うしろのクリームに赤帯が1959(昭和34)年に登場した新色である。(『思い出色のバス』より)

omb02n.jpg掲載社局
ボンネットバス
東京都交通局 神戸市交通局 京都バス 京都市交通局 諏訪自動車 山陽電気鉄道
 西武自動車 長岡鉄道 上信電気鉄道 草軽電気鉄道 岩手中央バス 羽後交通 
京阪自動車 山梨交通 南海電気鉄道 都自動車 澤タクシー 名古屋鉄道 静岡鉄
道 阪急バス 岩手県北自動車 千曲自動車 国鉄バス

キャブオーバーバス
長岡鉄道 西武自動車 福島電気鉄道 羽後交通 越後交通

センターアンダーフロアエンジンバス
埼玉交通自動車 西武自動車 小湊鉄道 山梨観光自動車 中越自動車 奈良交通 
名古屋鉄道 大阪市交通局 広島電鉄 神戸市交通局 京王帝都電鉄 五王自動車 
近畿日本鉄道 両備バス 明石市営 京都観光バス 山梨交通 伊那自動車 頸城鉄
道自動車 防石鉄道 三重急行自動車 三重交通 富士急行 一畑電気鉄道 東武鉄
道 米軍専用バス 京浜急行電鉄 立川観光産業 伊豆箱根鉄道 箱根登山鉄道 赤
城観光自動車 近鉄大東京観光バス 大阪ヤサカ観光バス 長野電鉄 栃木観光自動
車 上毛電気鉄道 星野温泉 小湊鉄道 関東観光自動車 京成電鉄 常磐交通自動

▲池袋駅前に到着する200形トロリーバス。巻末には河村さんのバスに関するさまざまな思い出話も収録している。(『思い出色のバス』より)

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▲初夏の田園をゆく頸城鉄道自動車の日野BD34型。1968(昭和43)年の撮影で、まだ「軽便」の頸城鉄道線も全線が健在だった時代である。(『思い出色のバス』より)

カラーで甦る昭和中期のバス
『思い出色のバス』 1950?1960
写真 河村かずふさ
解説 鈴木文彦
A4版 128ページ(うち100ページカラー)
定価2,400円(税込)

kokutetu_8n.jpg春夏秋冬、四季の訪れとともに首を長くしてお待ちの方も少なくない『国鉄時代』の新刊・第8号がまもなく発売となります。早いもので、この第8号で創刊以来ちょうど2年が経過したことになりますが、スチール写真ばかりでなく、埋もれつつある動画にも光を当てようというコンセプトは広く皆さんのご支持をいただいたようで、おかげさまで貴重な映像ご提供もお申し出も少なからず頂戴するようになりました。それではお楽しみの第8号について、編集担当の山下修司よりご説明することにしましょう。

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国鉄時代vol.8(12月21日発売)は、「旧線」を特集。根室本線狩勝峠、信越本線碓氷峠、北陸本線親不知・杉津(すいづ)越え…、路線変更などで廃線となった区間の往年の名シーンが躍動感溢れる写真でワイドに展開いたします。
巻頭は高崎在住の田部井康修さん撮影の「峠の記憶」。安中・松井田界隈から碓氷峠を越え、軽井沢・御代田に至る信越本線の昭和30年代。D51重連牽引急行「白山」、碓氷峠の鉄人ED42、そして秀峰・浅間山の麓を行くD50と、当時の碓氷峠をめぐる胸を打つ鉄道情景で構成されています。特別付録DVDは、三本立て。その中の三品勝暉さん撮影の「天嶮に挑む」は、編成の前後を守る碓氷の番人・ED42が、ロッドを逞しく上下させながら68‰を攀じ登るシーンを中心に約29分、迫力たっぷりの作品に仕上がりました。
kokutetsu2n.jpgベテラン・レイルファンの川本紘義さんの狩勝峠、矢立峠、常磐線末続~広野、同じくベテラン・ファン斎藤 晃さんの北陸旧線親不知・杉津越えは、記憶の彼方に消えかかった情景がD51、C62の豪快なブラスト音とともに甦ってきます。当時の撮影記重ね合わせれば、現場を訪れた方には懐かしさを、知らない方には憧れを、噛み締めていただけることと思います。

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東北旧線・千曳、同じく浪打を行く北のハドソンC60・C61、矢立峠のD51三重連、函館本線神居古潭、そしてダム開発で湖底に沈んだ鉄道…いまや伝説となってしまった鉄路の風景とそこに生きた蒸機たちの記録は、撮影者の思いとともに温もり溢れる物語となってこれからも語り継がれることでしょう。

kokutetsu7n.jpg「終章1975」では写真家・広田尚敬さんが1年ぶりに登場、忘れもしない昭和50年12月24日、蒸機本線運転最終日の作品で構成。悲しみに満ちた「最期の日」、それでも普段と少しも変わらぬ表情でひたむきに駆けた夕張線の蒸機の姿を、情感溢れる広田ワールドで味わってください。また、「呉線回想」は大阪・豊中市の鉄道模型店「イチフジモデルショップ」の山本武男さんが、現在製作中の写真集に先行して発表。昭和40年から昭和45年9月30日まで、仲間とともに追いかけたC59・C62。さざ波きらめく瀬戸の浜辺、大型急客機最後の楽園を舞台にした青春記を、ダイナミックな写真とともに綴っていただきました。さらに、山本さんと線路際で苦楽をともにした友人・柿田博司さん撮影、国重修己さん録音の呉線のC59・C62の映像も特別付録DVDに収録しています。小屋浦~天応でのC59牽引上り急行「安芸」の並走シーンは、まさにチームワークの賜物、動輪の回転、目まぐるしく動くロッド、文化祭での上映のために製作したとのことでしたが、躍動感に満ち溢れた見応えある作品となっています。

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特別付録DVDでは、もう一本、貴重な作品があります。宮内明朗さん撮影の神戸臨港線の鐘付ハチロクのカラー映像で、わずかなシーンとはいえ煙突の前に付いた鐘を圧縮空気で揺らしながら走る様子が克明に捉えられています。同時録音でその音色も映像とともにお楽しみいただけます。誌面でのカラー写真と合わせてご覧ください。また、「みなと神戸の小粋な蒸機」では、ベテラン高橋 弘さんが和田岬線のB50、異国情緒漂う臨港線の情景など、地味ながら都会の片隅で働いた蒸機たちの姿を捉えています。

kokutetujidaip1.jpg連載「私鉄めぐりの旅すがら」では髙井薫平さんが、明治鉱業昭和鉱業所、天塩鉄道、羽幌炭礦鉄道、釧路臨港鉄道、北炭真谷地専用線などをめぐります。そのほか伯備線のDE50、八高線の豆まき臨などなど貴重なシーン、思い出のカットでまとめられた小品にも、興味深い記事がそろいました。
年末年始、コタツの中で一杯やりながら追憶の風景のなかにタイムスリップしてみてはいかがでしょうか。
▲5~8号までのDVD保存用に、切り抜いて使えるジュエルケース用ジャケットも誌上にご用意。

今回は特別に付録DVDの中から、三品勝暉さんの「天嶮に挑む」のサンプル動画(音声なし)をご覧にいれましょう。
サンプル動画「天嶮に挑む」
※上をクリックすると再生がはじまります(音声なし)。実際の付録DVDではED42だけでたっぷり29分ご覧いただけます。(Macでは再生できない場合があります)

EF15最後の日々。

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「猫跨ぎ」という言葉があります。鰊御殿時代のニシンのごとくあまりに大量に採れすぎ、大好物のネコでさえ興味を示さなくなる様を言い表した言葉ですが、私たちの世代にとってEF15はまさに「猫跨ぎ」だったような気がします。一時代前であればD51であり9600だったのでしょうが、1970年代ともなると、さすがに蒸機となればそれだけで一目も二目も置かれる状況で、いきおい取捨選択の対象は身近な電気機関車に向けられることとなります。
▲運用離脱まで残すところ一ヶ月あまり、最後に残されたEF15の仕業は地味な砕石輸送の工臨だった。吾妻線工192レの先頭に立つ高崎二区のEF15 200。無粋な2灯のシールドビームがいただけない。'85.2.3 祖母島-金島

ef15n3n.jpg池袋・新宿・渋谷といったターミナルのホームで電車を待っていても、まるで“空気”のごとく目前を通過してゆくのがEF15でした。いまさら思えば決して格好良くないわけでもなく、充分に興味の対象となりえたと思いますが、なぜか当時はまさに「猫跨ぎ」で、とりたてて意識する存在ではありませんでした。それよりもEF10、EF13といった形式の方が断然“ありがたく”感じられたのです。
そんな状況でしたから、いまさら見返してみるとEF15の写真はどれもこれもおざなりなものばかりで、あえて意識して撮ったものはほとんどありません。
▲吾妻線のバラス輸送は小野上が発駅だった。この小駅から高崎操駅まで、一日一往復のささやかな事業用列車がEF15に最後に残された「仕事」であった。'85.2.3 小野上

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▲返空ホキを牽いて小野上を目指すEF15 200〔高二〕。1982(昭和57)年にEF12が形式消滅するまではEF12が受け持っていた仕業だった。'85.2.3 祖母島-小野上

そんな「猫跨ぎ」もいつしか都心ではその姿を見なくなり、ついには形式消滅するらしいという噂が耳に入ったのは1985(昭和60)年に入ってからのことでした。なんでも関東で運用が残されているのは高崎二区の165号機と200号機の2輌だけとのこと。ちょうど2月に伊香保温泉への小旅行があり、それでは行きがけの駄賃にと不遜な考えで吾妻線へと向ったのは、空っ風の吹きすさぶ寒い日でした。
当時の高崎二区のEF15の運用は、基本的には吾妻線小野上からのバラスト輸送工臨のみ。寒さに耐えながら見つめるファインダーに映ったのは、こともあろうに“ブタ鼻”の200号機ではないですか。日本車輌(富士電機)製の国鉄電機という点では極めて“レア”な存在ではありますが、どうにもこの出で立ちだけはいただけません。

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▲EF15を期待して待ったものの、現れたのはこれまたシールド2灯のEF60 17〔高二〕だった。“期待して…”とは言ったものの、EF60が現れてもさしてがっかりもしなかったのは、しょせんEF15への期待度の希薄さゆえか…。ちなみにこの17号機は1981(昭和56)年7月23日付けで浜松区より高二区へ入り、この写真の翌年1986(昭和61)年11月に一休、翌1987(昭和62)年3月31日付けで廃車されている。'85.2.3 八木原

ピーク時の1978(昭和53)年には実に50輌のEF15を擁していた高崎第二機関区ですが、次第に勢力をそがれ、1983(昭和58)年に46、114、115、130、148、152、154、156、159、162、163、164、166、167、176、183、191号機が一挙に廃車(転属)となると、ついに残されたのは165号機と200号機の2輌のみとなってしまいました。そしてこの2輌も1985(昭和60)年3月をもって運用離脱、3月31日に重連でさよなら列車を牽引してその歴史に終止符を打ちました。私が最後に目にした200号機の正式な廃車は翌年1986(昭和61)年1月18日付け(車車達第1025号)、総走行距離は229万5846キロだったそうです。

2輌のうち165号機は現在でも「碓氷峠鉄道文化村」に保存されています。先日ひさしぶりに園内でその姿に接し、あの頃もっと真剣に向き合っておけばよかったと後悔しきりでした。

残されたEB10を見る。

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先日、一度見てみたいと思っていた府中市市民健康センター交通遊園に保存されているEB10を訪ねてきました。紅葉を終えた欅の枯葉がひっきりなしに舞い散る公園の一隅で、同じく保存されているD51 296の後ろに隠れるように、小さな“凸電” EB10 1の姿がありました。
▲府中市市民健康センターの交通遊園に保存されているEB10 1。同じ敷地内には青森機関区で活躍していたD51 296や都電の6191号も保存されている。'06.12.2

IMGP0761n.jpgご承知のようにEB10形は私鉄買収電機を別とすれば国鉄(鉄道省)唯一のB型電気機関車で、終生を王子駅から分岐する須賀貨物線で過ごした異色機です。思いのほか長命だったこともあって、その愛らしい姿は多くのファンの脳裏に焼き付いていたようで、『国鉄時代』(vol.5)では寺田牧夫さんが「EB10と須賀貨物線」をご披露くださっています。かく言う私はというと、親戚が付近にいた関係で子どもの頃から近辺に幾度となく足を運んでいるにも関わらず、なぜか一度もこのEB10が走っている姿を目にしたことがなく、いまさらながらそれが残念でなりません。
▲4面に付けられていたはずのナンバープレートはこちら1エンド側正面にしか残されていない。塗色はいただけないが、パンタグラフが上がった状態で展示されているのは嬉しいかぎり。'06.12.2

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▲須賀貨物線で活躍していた頃のEB10。パンタグラフは電気機関車化当初のPS11からPS13に変わっている。須賀貨物線は現在の北王子貨物駅手前から分岐し、日産化学のある須賀貨物駅まで2.5kmを結んでいた東北本線の支線であった。なお、須賀の読みは清音の「すか」が正しい。'69.12.6 王子 P:笹本健次

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▲元空気溜がぶら下がる非公式側床下を見る(左)。このあたりの床下には“鐘”が下がっていたはずだが、残念ながら失われている。右は2位側の軸受部。砂箱はかなり大きな容量のものが付く。'06.12.2

IMGP0736n.jpgところでこのEB10は1927(昭和2)年に誕生した際は蓄電池、つまりバッテリー機関車でした。当初から大日本人造肥料(のちの日産化学)の工場への貨車の出し入れを目的に開発された機関車で、須賀貨物線周辺に陸軍造兵廠や火薬廠が密集しており、「防爆」の要請からより安全性の高い蓄電池方式が採用されることになったと伝えられています。ただ手元の昭和3年「鉄道統計資料 第三編監督」によれば、大日本人造肥料専用鉄道は1926(大正15)年7月22日付けで免許、使用開始線免許動力は「蒸気」となっており、このへんの事情は解明が待たれます。
さて、電気品は芝浦製作所(のちの東芝)、機械部分は汽車会社によって製造されたこの鉄道省初の蓄電池機関車は、誕生当初は10形(10号・11号)と称されていましたが、誕生翌年=1928(昭和3)年の改番でAB10を名乗るようになり、さらに1931(昭和6)年には須賀貨物線の電化に伴って電気機関車化改造を施されることになります。つまり10形の時代はわずかに一年ほど、AB10の時代も3年ほどと、蓄電池機関車として過ごした期間はほんとうに短かったわけです。
▲横向きに座る形となる運転席。制御は電空単位スイッチ。キャブにはシンプルなコントローラーとブレーキ弁が備わるだけで、運転室内は結構広々としている。'06.12.2

ab10.jpg当初は特徴的だった正面左右の楕円形の窓は変哲のない角窓に改造され、ボンネット先端部に抵抗器室を設置したために上面に通風機が増設され、屋根上にあった前照灯は独特の枠組みに収められて庇下に吊り下げられることとなります。この辺の形態的変遷については『新ディテール・ファイル』に詳述されていますので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。
さて、生涯を田端機関区で過ごしたこの2輌のEB10ですが、須賀貨物線の廃止によって1972(昭和47)年2月付けで、国鉄機としては異例のまったく移動暦がないまま廃車処分となりました。その後いったいどういった経緯でここ府中市に保存されることとなったのかは、現地の説明看板にも記述がありませんが、生みの親の東芝ゆかりの地という意味もあるのかもしれません。
▲蓄電池機関車10形11号時代の姿。わずか1年ほどでAB10形に形式変更されているため、10形のナンバープレートを付けた写真はきわめて珍しい。(オーム社発行『蓄電池車』1932(昭和7)年刊より)

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▲国鉄工作局発行電気機関車形式図(1963年)にみるEB10形。クリックするとポップアップします。

同じ公園内に保存されている都電6191号はボランティアの皆さんの努力で素晴らしく綺麗な姿に甦っています。こちらはまた別の機会にご紹介したいと思いますが、EB10も末永くこの公園で保存されてほしいものです。

saidaijihyou1.jpg今年のRMライブラリーの掉尾を飾る第89巻は、安保彰夫さんの労作『西大寺鉄道』です。昨年末の『頸城鉄道』(RML77)以来、実に一年ぶりに軽便鉄道をテーマとしたRMライブラリーとなります。
西大寺鉄道は山陽鉄道のルートから外れた西大寺村が起死回生をかけて生んだ軽便鉄道で、最終的には西大寺と岡山市内の後楽園の間11.5kmを結んでいました。なんと言っても特筆されるのはその軌間で、当初から3フィート(914㎜)という本州には類例をみない規格を採用していたことです。米国ではナローのスタンダード(?)ともいえる3フィート・ゲージですが、わが国では北九州の軌道に独自の発展を遂げたのみで、全国的伝播にはいたりませんでした。そんな状況下でなぜ西大寺は汎用性のないこのゲージを採用したのか…そんなところからこの『西大寺鉄道』は解き起こしてくれます。

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西大寺といえば、日本の3大奇祭に数えられる「会陽」(えよう)で全国的に知られていますが、西大寺鉄道にとって、この会陽客輸送はまさに生命線でもありました。毎年2月のたった一日のために、西大寺鉄道は最大9輌もの蒸気機関車を用意し、通常期にはまったく不要と思われるほど多くの客車を揃えてその日に備えていました。それでも会陽当日は乗客をさばききれず、客車に乗りそこなった客は屋根にまでよじ登る始末。ここにわが国軽便鉄道史上に残る光景が現出することになります。
▲西大寺鉄道といえばまっさきに思い浮かぶのは、高さ4m以上にも継ぎ足されたひょろ長い煙突を持つコッペルたちだ。「会陽」の日はそのコッペルたちもフル稼働となる。(RML『西大寺鉄道』より)

saidaiji3n.jpgコッペルやハノマーグの小型蒸機たちにも増して西大寺鉄道を印象付けたものに、7輌の「単端」の存在があります。もとを正せば梅鉢製の歴とした車輌ながら、ある者は面妖なお面に改造され、さらにはボギー車を二分割して単端2輌に“増殖”した仲間まで出現する始末。無煙化以後の西大寺鉄道はまさにこれら百鬼夜行状態の単端天国となったのです。本書ではこの単端たちが勢揃いした未公開の衝撃的写真をはじめ、組立図・竣功図を交えながら、西大寺鉄道の全在籍車輌について詳述しております。
▲コッペルもさることながら、西大寺といえば強烈な個性の単端たちを思い浮かべる人の方が多いはず。キハ8・10にいたってはボギー車を真っ二つにして単端2輌としたというのだから驚き。(RML『西大寺鉄道』より)

saidaiji1n.jpg西大寺鉄道は1962(昭和37)年9月6日、国鉄赤穂線の開業をもって廃止されました。赤穂線による代替廃止としては1951(昭和26)年の赤穂鉄道に次ぐもので、相生?東岡山間の赤穂線全通によってふたつの軽便鉄道が消えていったことになります。なお、赤穂鉄道に関しても安保彰夫さんはすでにRMライブラリー『赤穂鉄道の発掘』(RML55)をお纏めいただいておりますので、本書の完成で国鉄赤穂線にまつわる両軽便鉄道を解き明かしていただいたことになります。
RMライブラリー『西大寺鉄道』は来週末には本誌特約店の店頭に並ぶはずです。どうかこの年末は、44年前に消えていった3フィート軽便=西大寺鉄道にゆっくりと思いを馳せてお過ごしください。
▲山陽鉄道に取り残された西大寺村が起死回生の願いを込めて生んだ鉄道だけに、起点はあくまで西大寺市駅であった。本書では沿線各駅の表情も紹介している。(RML『西大寺鉄道』より)

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毎年12月の声を聞くと必ず思い出すのが蒸機時代の八高線です。東京在住のファンにとって、新小岩、新鶴見とともに最後に残された近隣の現役蒸機が八高線でしたが、前二者に比してそのロケーションは抜群で、ことに当時まだ色濃く残っていた“武蔵野”の面影は大きな魅力でした。その武蔵野の風景がひときわ際立つのが冬です。
▲冬枯れの武蔵野を快走するC58。LP405形前照灯、皿付きの回転式火の粉止め、ボイラー上の逆止弁、未撤去の蒸気排気管カバー…等々、決して格好良くはないが、どこから見ても馴染み深い関東のカマだ。'69.12 東飯能?高麗川

hachiko4n35.jpg1969(昭和44)年10月改正で川越線が無煙化され、“ニクロハッサン”の愛称で親しまれた29683をはじめとした大宮区の9600はDE10に置き換えられてしまいましたが、八王子区と高崎一区のD51とC58には変化はなく、この年の暮れの八高線はまだまだ蒸機天国の様相を呈していました。しかし、すでに翌年1970(昭和45)年秋の無煙化は覆りようのないものとして迫りつつあり、年明けになると、新製投入されるDD51の試運転が開始されると噂されていました。
▲西武線との接続駅東飯能には給水設備もあった。C58の牽く区間貨物263レは小入換えのためしばらく停まる。'69.12 東飯能

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八高線訪問は早朝の西武線の元加治駅から入間川橋梁を目指すのが常でした。紅葉から冬枯れへと変化しつつある雑木林からはムクドリの声が響き、西武の岩沢河岸貨物線跡から入間川に出る頃には、入間川橋梁の10mレールを渡るキハのせわしない遊間音が響いてくる…身の引き締まる冷気の中で、八高線撮影の一日が始まるのです。
▲東飯能を発車、軽快なブラスト音を響かせて鹿山峠への助走にかかる263レ。先頭に立つのは高崎一区のC58 263 。この機関車はのちに敦賀一区に転じ、小浜線で再会することになる。'69.12 東飯能?高麗川

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改めて当時のダイヤをひも解いてみると、一部の貨物がDE10にとって代わられたとはいえ、実に25本もの蒸機牽引列車が設定されており、いまさら思えば夢のような状況でした。もちろんその中にはD51重連5本も含まれています。
▲武蔵野の屋敷森をすり抜け、D51重連の2285レがいよいよ鹿山峠へとスパートをかける。'69.12 東飯能?高麗川

hachiko6n35.jpg機関車はといえば、新鶴見区のカラスガマと双璧(?)をなすほどお世辞にもきれいとはいえない八王子区と、かたや高崎一区の受け持ちで、いずれも大宮工場施工機。“クルクルパー”と通称された回転式火の粉止めと、どうにも間の抜けた位置に増設されたLP405補助灯が興をそぎますが、今となっては大宮工特有の煙室扉ハンドルとともに、その姿はさながら旧友のように懐かしくさえあります。
▲当時の高麗川は見渡す限りの平野だった。ただ隣接する日本セメントからの出荷で高麗川駅の貨物扱い量は常に全国十位以内に入っており、煙の絶えることがなかった。D51重連で高麗川を発車してゆく264レ。'69.12 東飯能?高麗川

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▲高麗川の駐泊所にはいつも何輌かの蒸機たちがたむろしていた。1283レで到着し構内外れの転車台に向うD51 141〔八〕とD51 207〔八〕。'69.12 高麗川

D51重連の1283レの高麗川到着が15時08分。冬の日は短く、次の上り242Dに乗り込む頃には、夕日ははるか秩父連山に吸い込まれてゆこうとしています。
数々の名場面、名撮影地を体験しながらも、この季節になると、あの変哲のない冬枯れの八高線へと意識が戻っていってしまうのはなぜなのでしょう…。

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このところ新聞・テレビで「ばんえい競馬」存続の危機がたびたび報じられています。岩見沢・旭川・北見そして帯広と、道内4競馬場で開催されてきたこの北海道ならではの競馬が、採算の悪化から岩見沢・旭川・北見と次々と廃止、ついには現在開催中の帯広競馬場を残すのみとなってしまったというのです。私はギャンブルどころか宝くじさえ買いませんので、当然ながら競馬場とも縁がないのですが、なぜかこの「ばんえい競馬」にだけは行ったことがあります。しかも通常は絶対に入ることのできない馬場にまで入れてもらいました。それというのも「鉄道」見たさで、「ばんえい競馬」の置かれた厳しい状況を慮ると少々不謹慎ではありますが、今日はこの“ばんえい競馬軌道”(?)のお話をしてみたいと思います。
コースでは凄まじい迫力でレースが繰り広げられているが、何やら手前には機関車らしき異様な物体が…。'94.8.7 岩見沢競馬場

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▲ゴールを決めた馬たちは“そり”を曳いたまま次々と“列車”の待つプラットホームへとやってくる。'94.8.7 岩見沢競馬場

banei3n.jpgそもそもなぜ競馬場に軌道が敷設されているのか…そのわけは「ばんえい競馬」の「ばんえい」という言葉に隠されています。「ばんえい」は漢字で書くと「輓曳」、つまり騎手が馬に乗ってスピードを競う競馬ではなく、馬が“そり”を曳く力と速さを競う輓馬レースです。最低500kg、最大1tの“そり”を曳いた10頭の馬たちが、小山のような2ヶ所の障害が設けられた200mのコースで勝敗を競うのですが、問題はゴールしてからのこの“そり”です。いかんせん最大1tの重量ですから次のレースに備えてスタート地点に戻そうにも大事です。そこで登場するのが、この“そり”を回送するための軌道というわけです。
▲“そり”を無蓋車(?)上に解放した馬たちはようやく身軽になって「単機回送」してゆく。'94.8.7 岩見沢競馬場

banei5n.jpgいったいいつ頃からこの“ばんえい競馬軌道”が使われているのかはわかりませんが、とにかく開催される4競馬場にはことごとく軌道が敷設されています。いずれも馬場の裏側、つまり観覧スタンドからコースを挟んで逆側にあり、しかも植栽などで観客からは見えないように配慮されているため、なかなかその正体を見極めることはできません。
▲“ビリ”の馬も“そり”を載せ終わってようやく発車準備が整った。'94.8.7 岩見沢競馬場

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そんな状況なので、つぶさに軌道を見るには馬場に入れてもらうしかなく、十年以上前、意を決して「ばんえい競馬」を統括する北海道市営競馬組合に、軌道を見せてくれるよう頼んでみることにしました。最初はこちらがいったい何を言っているのかさえ理解していただけませんでしたが、結局、組合の担当者が立ち会う、レース中は絶対にコースには近づかない、競走馬には手を触れない…等々の条件で中に入れていただけることになりました。たしかに賞金の掛った真剣なレースですから、「機関車が…」などとわけのわからない輩が多少なりとも勝敗に影響するような所作をしようものなら一大事です。
▲コースと並行する軌道を推進でスタートラインへと戻る列車。天高く…人知れず競馬場にエンジン音が響く。'94.8.7 岩見沢競馬場

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▲これが岩見沢競馬場「無番」の正体。ベニア細工のような(もちろん鋼板製だが…)車体はもちろん手作りだ。'94.8.7 岩見沢競馬場

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▲スタート地点に戻った列車。自動車からの流用なのだろうか、正面には一応ヘッドライトとテールライトが備わる(左)。横向きのシートが窮屈そうに収まるキャブ(右)。'94.8.7 岩見沢競馬場

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▲ファイナルドライブはチェーンとスプロケット。それにしてもチェーンはちょっと弛み過ぎ?(左)。エンジンは日産の4気筒ディーゼルエンジンSD22(右)。'94.8.7 岩見沢競馬場

「ばんえい競馬」は4競馬場を巡回する形で開催されており、この時の会場は岩見沢。いったいどんな「鉄道」なのか実際に目にするまではまったくわからず、係の方に職員通路から馬場に案内していただいて初めてご対面…いや、とんでもないゲテモノ(失礼!)です。『トワイライトゾ?ン・マニュアル4』の表紙にもなっていますから見覚えのある方も少なくないと思いますが、とにかくなかなか衝撃的なスタイルではありました。ちなみに、4競馬場それぞれに「機関車」のスタイルは異なり、なかには旭川競馬場のように一応“メーカーもの”(日本車輌製UDL)を使っているケースもあるようですが、いまだにすべての「機関車」は解明されていません。

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▲新刊の『へんな乗り物』では旭川競馬場の“機関車”も紹介している。

北海道とは思えないほど暑い夏の日でしたが、厩舎で勧められてレースを終えた騎手の皆さんと一緒にご馳走になった麦茶の味が忘れられません。
今日現在の報道では、唯一残された帯広競馬場での「ばんえい競馬」は、民間企業の支援で単独存続の可能性が出てきたと伝えられています。公営競馬として60年、北海道遺産にも指定されているというこの「ばんえい競馬」の行く末を、陰ながら見守ってゆきたいと思います。

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東海道・山陽新幹線の次世代車輌として各種試験が行われてきた「N700系」新幹線電車ですが、ついに量産車第一陣の構体が完成、昨日、日本車輌製造豊川製作所で報道公開が行われました。RMからは新幹線車輌にたいへん造詣の深い梅原 淳さんが現地に赴いてくれ、極めて的確な解説をお書きくださいました。その本編は今月21日発売の本誌誌上でご覧いただくとして、今日は梅原さんの解説をもとに、一足早くN700系量産車の様子をお伝えしてみたいと思います。
▲「エアロ・ダブルウィング」と呼ばれる10.7mの長さを持つ特徴的な先頭部。「口」の中には連結器が収納され、最終的にはFRPのカバーが取り付けられる。製造途上をこんな角度から見られる機会はめったにない。'06.12.7 P:梅原 淳
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▲12ブロックに分けて組み上げられる先頭部分。こうやってブロック別に分類されるとわかりやすい。(JR東海・JR西日本・日本車輌提供資料より)

まず最も気になる先頭形状ですが、これはちょっと意外なことに、量産先行試作編成(Z0編成)とほとんど変わっていません。報道公開まではその変更点が伏せられていただけに、ひょっとすると大きな変更が…と緊張が走っていたものの、これはちょっとばかり肩透かしだったと梅原さん。ただ考えようによっては、量産先行試作車がそれだけ完成度が高かったという証左でもあります。

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▲姿を現したN700量産車の先頭車構体。これほど巨大な構体にも関わらず質量は7tほどというから、いかに効率的な軽量化が図られているかがわかる。'06.12.7 P:梅原 淳

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▲大型押出形材を用いて作られた妻面(左)と、シングルスキン構造の先頭部とダブルスキン構造の客室部の接合部(右)。'06.12.7 P:梅原 淳

ほぼアルミニウム合金でできた車体構体を塗装前に目にできる機会はめったになく、その意味では今回は千載一遇のチャンスでもありました。構体は先頭部はシングルスキン構造、客室部はダブルスキン構造となっており、連結器枠のみが鋼鉄製となっています。先頭部分は最大で長さ4m、幅2mの12に分割されたブロックを組み上げる方式ですが、日本車輌ではこのブロック製造にあたり、板金ではなく部材をプレスして成形する方法を開発、この量産車に採用しています。しかもこのプレス、厚さ3?4㎜の板材を左右方向に引っ張りながら圧力を加えることにより、溶接時の“変形しろ”を計算した部材を作れる特殊プレス機だそうで、こんなところにも日々進化発展してゆく日本の新幹線技術の片鱗を見ることができます。

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▲完成した先頭部構体を内側から見通す。前面窓下部に見える仕切り板によって室内の気密状態が保たれるという。'06.12.7 P:梅原 淳

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▲同じく先頭車構体を内側から見る。骨組みが密集している部分はトンネル微気圧波などの強い力がかかる箇所。'06.12.7 P:梅原 淳

n700z1n8.jpg今回公開されたのはJR東海所属のZ1編成新大阪・博多方先頭車783‐1。来年度から2009年度にかけてJR東海が42編成672輌、JR西日本が12編成192輌、合計54編成864輌が導入されるN700量産車のトップバッターです。いよいよ東海道・山陽新幹線がN700系に席捲される日も間近となってきたようです。
なお、量産先行試作編成(Z0編成)の試乗記(動画付き)も好評配信中ですので、この機会にぜひご覧ください。
▲仮台車に載せられた構体床下を見る。これまためったに見られない光景だ。'06.12.7 P:梅原 淳

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今日は勝田車両センターで常磐線中距離電車初のグリーン車・サロE531+サロE530の報道公開が行われましたので、さっそく最新画像をお伝えすることにしましょう。
▲ついに常磐線中電にもグリーン車が登場。基本的にはE231系ロザとほぼ同仕様ながら、やはりブルーの帯は斬新に映る。'06.12.7 P:RM(新井 正)

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このグリーン車はE531系基本編成(全22編成)の4・5号車として組み込まれるもので、基本的には東海道線等で活躍中のE231系グリーン車の常磐線バージョンといった位置づけとなります。ただし、床面高さがE231系と比較して35㎜低くなる(1130㎜)など微細な相違点があります。また、意外と見逃しがちですが、在来線2階建てロザとしては初の130km/h営業運転車ということになります。
▲トップバッターはK407編成。基本10輌+付属5輌の15輌編成の4・5号車がロザとなる。'06.12.7 P:RM(新井 正)

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▲4・5号車の客室レイアウトと定員区分。(JR東日本プレスリリースより)

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▲階下室と呼ばれる1階部分は「落ち着いた」というイメージのブラウンとライトグレーの木目、そして赤を使用したデザインで統一されている。'06.12.7 P:RM(新井 正)

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▲2階・階上室は「冷静な」というカラーイメージの基、グレー系と明度が低く彩度の高い青を基調としたデザイン。'06.12.7 P:RM(新井 正)

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▲車端室は階下室と同様の色調を採用。なお、通路部分の絨毯については清掃性を考慮して黒系が用いられている。06.12.7 P:RM(新井 正)

車内ではご覧のような内装色調の設定のほか、階段・通路部の照明がLED化されてE231系車より明るくなり、各客室毎に案内表示器が設置されたほか、座席背面部に傘立てが追加された点も特筆されます。

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▲当然ながら「グリーン車Suicaシステム」対応となっており、車内改札は省略される。右は各座席背面に追加された傘立て部。'06.12.7 P:RM(新井 正)

このE531系2階立てグリーン車、すでに12月1日にK402編成、12月5日にK407 編成が勝田入りしていますが、今後も続々と組み込まれる予定です。ちなみに製造は川崎重工業が8編成分16輌、東急車輌が14編成分28輌、編成組み込みは郡山総合車両センターで行われます。なお、来年3月改正での本使用を前に、1月上旬からは“お試し期間”として数本が無料開放される予定だそうですから、この機会に試乗されてみては如何でしょうか。

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12月も第2週に入り、街はすっかり師走の装いとなってきましたが、この季節になると気になるのがカレンダーではないでしょうか。一年間付き合うものだけに、納得のゆく、それでいて使い勝手も兼ね備えたものが理想ですが、毎年ご好評をいただいているのがRM本誌の付録カレンダーです。デスクサイドに下げるのに最適なA4判(開いてA3サイズ)で、なによりも視認性を重視した区割りは、メモスペースも充分に確保しています。
▲校正中の本誌次号付録「蒸気機関車たち」カレンダー。現在はすでに印刷中で、乞うご期待!

IMGP0775n.jpgさてその付録カレンダーですが、今年は広田尚敬さんの写真集『蒸気機関車たち』の出版記念の意味も込めて、広田さんのカラー作品で四季をつづる12葉といたしました。実は『蒸気機関車たち』編集の際も涙をのんで掲載を見送った名作は数知れず、カレンダーという形ではありますが、皆さんに是非ともご覧いただきたいと広田さんに無理を申し上げた次第です。幸いにもご快諾いただき、なおかつ各月に実に味わい深いショートエッセーとも言えるコメントを頂戴することができました。
▲広田さんの歴史的名作の数々を収めた写真集『蒸気機関車たち』はただいま絶賛発売中。巻末には小池 滋先生による英文サマリーもついており、海外へのクリスマスプレゼントにも最適。

『蒸気機関車たち』は「国鉄蒸機」を対象とした写真集ですが、広田さんの作品には私鉄蒸機を捉えた味わい深いものも少なくなく、今回のカレンダーではあえて2点ほど国鉄以外の蒸気機関車も加えてあります。どちらも1960?1970年代初頭を同時代体験しておられる皆さんならきっと記憶に残っているはずの名作です。
本誌次号の発売は12月21日。どうかこの味わい深い広田さんの付録カレンダーとともに、来るべき2007年をお過ごしください。

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さて、連載冒頭で「実はいかにもフランスらしいギミック、いやエスプリが仕組まれている」と書いたレイアウトの種明かしですが、この写真をご覧になれば一目瞭然、そう、トランクを用いたモジュールなのです。
▲単なる田舎道との交差部なれど、トランクの蓋を巧みに使って、さながら“騙し絵”のように奥行き感を持たせたモジュール。う~ん、やられた…。'06.11.26 P:岡山英明

emr43.jpg固定式のホームレイアウトと異なり、モジュールレイアウトの利点はイベント会場などでほかのモジュールと自在に連結して運転を楽しめる点です。わが国でもさまざまなスケールのモジュールレイアウトが隆盛ですが、持ち運べる特性のわりには運びにくいのが最大のウィークポイントなのではないでしょうか。いきおい自作の箱に厳かに収め、周囲に気を遣いながら電車に乗ることになります。そんなモジュールレイアウトの弱点をフランス流(?)の逆転の発想で解決したのがこの“トランク・モジュール”なのでしょう。
▲トランク・モジュールにもやはり水辺のシーンが盛り込まれている。釣り人などフィギュアにひとかたならぬ拘りを見せるのもヨーロッパ流。'06.11.26 P:岡山英明

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▲小さな庫を配した構内シーンのトランク・モジュール。背景の工場建屋は「蓋」の部分にくっついているようだが、果たしてどのように畳み込まれるのかは不明。'06.11.26 P:岡山英明

emr45.jpg岡山君の見聞でも残念ながら詳しいことはわからず、いったいどういう仕掛けになっているのかは不明ですが、どうやらトランクの「底」に収納されている地面を開口部と面一に持ち上げ、ほかのトランク・モジュールとはブリッジ状のレールで連結するようです。モジュール同士が接しないために線路のin-outの位置設定も自在で、その点では狭い面積ながらかなりの自由度を確保できるようです。さらに一石二鳥なのは「蓋」の部分がそのまま背景として利用できることでしょう。ここにご紹介したいくつかの例のように、「蓋」を巧妙な騙し絵にしてパースペクティブを表現したり、はたまた工場建屋の正面部だけをスライスして貼りつけたりと、実に巧みに有効利用しています。このトランク・モジュールならば、キャスターも付いているため旅行気分で気軽に外部に持ち出せ、電車に乗っても不審がられることもなさそうです。
▲甜菜の積み込み風景だろうか、ささやかなサイディングでは小型コンベアを使っての収穫の積み込み作業が行われている。'06.11.26 P:岡山英明

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▲ブリッジ状の連結レールで接続されたトランク・モジュールの数々。今後果たしてトレンドとなってゆくのだろうか…。'06.11.26 P:岡山英明

今年のエキスポ・メトリックの様子を垣間見るに、「作る」取り組み、ことに地面系にかけては、3大ナローゲージ・モデル・エキジビションの中でヨーロッパ大陸が一歩リードした印象を持ちます。マテリアルや技法の豊富さもさることながら、トランク・モジュールのような実験的な取り組みまで、やはり来年こそはかの地を踏まねばなりますまい。
ともあれ、エキスポ・ナローゲージに続いてのレポートを送ってくれた岡山英明君になによりも感謝です。

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▲英国の“Wrightlines”(ライトラインズ)製7㎜スケール・バグナルサドルタンクのコンプリートキット完成見本。2年ほど前に発売開始されたものだが、これがなかなかの逸品。もちろんゲット! '06.11.26 P:岡山英明

emr51.jpg昨日もご紹介したエキスポ・メトリック公式ホームページによると、今年の出展数はメーカー、トレーダーが104社、出版社が10社、クラブ・協会が10団体、展示レイアウトが25件、合計149ブースとたいへんな賑わいぶりです。出展社の国籍も地元フランス、隣国イギリスからドイツ、イタリア、オーストリア、スイス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、そしてアメリカと実に幅広く、その意味ではイギリスのエキスポ・ナローゲージの比ではないといえます。
▲グマインダーが走る「港通り」と題する1/10スケールのセクション。フランスのナローゲージャーは波止場や水門といったシチュエーションがお好きのようで、これもお国柄か…。ちなみに作者はEric Veauさん。'06.11.26 P:岡山英明

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▲コロラドならともかく、パリにはちょっと不似合い(?)なアメリカン・マイニングのセクションも見受けられた。2トッラクシェイのいるこのレイアウトはフランスの米国型クラブAARPの出品。'06.11.26 P:岡山英明

emr24.jpg展示レイアウトのスケールもNn、HOm、HOe、009、On、Oe、Om、Gn、Ⅱm、Ⅱe、さらには1/32(3/8in)、1/20、1/10と実に多彩ですが、岡山君のレポートにあったように、O以上のスケールが多数派で、逆にこれだけ多岐にわたるスケールの中にSn(1/64)が含まれていないのも特筆されます。やはりSnはPBL主導によるアメリカのローカルスケールということなのでしょうか…。
▲アトリエ“Debelleyme”は渋いマイニング系の車輌を展示。ホッパービン上に製品見本が並ぶ。'06.11.26 P:岡山英明

emr52.jpg車輌面ではインダストリアル・ナローが大きなウェイトを占めているのが目をひきます。もともとドコービル発祥の地だけに、小さな農園鉄道のような世界に親和性が高いのかもしれませんが、わが国にも似た住宅事情や、箱庭的世界を好む国民性もその根底にあるような気もします。ことにセクター(いわば扇形の編成入れ替え台)などのギミックを使って、小スペースに高密度のストラクチャーと車輌を押し込む手法は“お家芸”とも言えるもので、日本のナローゲージャーにとっても少なからず参考になります。
▲クラブの作品展示から、Escadrille St.Michel(ESM)クラブのバグナルサドルとドコービル製客車“タイプ69”。ドコーの方はかつてのデュトン・プロダクション製か? '06.11.26 P:岡山英明

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▲アトリエ“Debelleyme”の製品から。残念ながらマテリアルが確認できないが、レジン製と思われる。'06.11.26 P:岡山英明

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▲例のリチャードさん率いるスモーキー・ボトム・ランバー・カンパニーの展示から。いずれもレジン製で、右の重油タンクは15ユーロ(約2300円)也。'06.11.26 P:岡山英明

emr27.jpg残念ながら今年出展されたレイアウトの詳細はまだ公式ホームページにアップされていませんが、昨年の出展作品は「エキスポ・メトリック2005」のホームページでご覧になることができます。巨大なホームレイアウト上をDCC対応の車輌が行き交うアメリカのナローゲージ・レイアウトに比べ、いかにも箱庭的なヨーロッパ・ナローの世界には、少なからずシンパシーを感じる方も少なくないのではと思います。
「エキスポ・メトリック2005」のホームページを開き、下段の右矢印のアイコンをクリックすると次ページのギャラリーへと進みます)
ちなみにこのエキスポ・メトリック、来年も同時期に同じグランド・ドームを会場に開催されるとアナウンスされており、来年こそはぜひとも実体験してみたいものです。
▲ライトラインズは奥さんが店番中。7㎜スケールを中心とした超マニアックな製品ラインナップが特徴。'06.11.26 P:岡山英明

※一昨日の冒頭でご紹介した“いかにもフランスらしいギミック”が仕込まれているレイアウトの種明かしは、「番外編」として明日ご覧に入れることにしましょう。

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送られてきた数々の画像を見ると、想像以上に工作志向、しかも地面系の工作志向が強いことがうかがわれます。アメリカのナローゲージ・コンベンションでも、かつては“Sweetwater”(エンスージァスティックなシーナリィ・メーカー)の登場に象徴されるように、かなり強烈な地面志向がうかがえましたが、今となってはヨーロッパにお株を譲った感があります。
▲会場のあちらこちらで繰り広げられている実演販売。英国のエキスポ・ナローゲージも同様で、ヨーロッパのモデラーの工作意欲を象徴した光景ともいえる。'06.11.26 P:岡山英明

emr16.jpgさて、このエキスポ・メトリック会場でのスケールの勢力分布ですが、岡山君からのレポートによれば「実際に出展されているレイアウトの数や、即売されている車輌はOスケールが6割くらいで、OO/HOや、Gなどのラージスケールはそれぞれ2割程度」との印象だったそうです。このようにOナロー(7㎜スケールを含む1/43.5?1/48)が主流だけに、いきおいシーナリィ、ことに樹木はかなり大きくならざるをえません。さらにスケールが大きめだけに植生にも気を配り、それなりのクォリティーに到達しなければならないため、各種の新技法が開発されてきています。
▲エキスポ・メトリックの実演販売では車輌工作のみならずシーナリィやストラクチャーのデモが多い。写真は樹木を中心にしたシーナリィ用品で注目される地元フランスのGPP社。'06.11.26 P:岡山英明

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▲井戸や石積み壁のゴムモールドパタンなども各種出品されている(左)。右も樹木を中心としたシーナリィ用品のシルビア。'06.11.26 P:岡山英明

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▲畑を再現する材料も販売されている(左)やはりシルビア製。右は各種工作機械のスケールモデルを販売しているデコトラン・アトリエ。'06.11.26 P:岡山英明

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▲Oe14で製作されたヨーロッパならではのピートモス・レールウェイ。かの地のモデラーはこういったヤードや工場の塀をギミックとして利用するのが好き。左の黄色い機関車はアラン・キーフだろうか? '06.11.26 P:岡山英明

emr19.jpgそのひとつがメジャー・メーカーのノッホ(NOCH)が製品化した“草を立てて生やす”システム=グラス・マスターです。昨年『ロコ・レビュー』誌で紹介され、最近ではかのMR誌でも取り上げられていますが、このシステム、レイアウトの一端に電極を付け、散布した草を一気に電気的に“立てる”というものです。残念ながら私も実際に体験していないので、何とも詳しいことは語れませんが、下記のサイトで段階写真(スライドショー)としてその工程がご覧になれます。
「グラス・マスター」テストレポート(サイトを開いたら右下の小さな“View Slideshow”をクリック)
▲「PROMO」(promotionnele=バーゲンセール)と大きく掲げられたのは話題のノッホ製の草を立てて生やすツール=グラス・マスター。185ユーロ(約28000円)が今日だけ149ユーロ(22800円)也。'06.11.26 P:岡山英明

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▲あらお懐かしや、夏のJAMの「3日間レイアウト」で熱演してくれたバンタモデルのビル・バンタさんも出店していた。岡山君はJAMの模様を紹介したこのブログのプリントアウトを手渡してくれたという。'06.11.26 P:岡山英明

ところで、昨日リンクをはったこのエキスポ・メトリック2006のホームページですが、初期画面からどうやって入ればよいのかわからないとのお問い合わせをいただきましたので、改めてご紹介してみましょう。まずはこのリンク「エキスポ・メトリック2006」をクリック、言語で“English version”を選び(もちろんフランス語ができる方はフランス語で…)、“main page”と書いてある小さなリンクボタンを押すと、さらにレイアウトや出店社のリンクが出てきます。ここの“Exhibitors”をクリックし、さらに“Professional Exhibitors”を開くと、今回出店したすべてのメーカー、トレーダー、出版社の一覧が出てきます。このうち社名にアンダーバーがあるものは社名をクリックするとそのまま各社のホームページに飛べますので、かの地の製品…しかもメジャー筋でないエンスージァスティックな製品動向がわかり興味が尽きません。もっとも膨大な数ですから、この閲覧にハマってしまうとあっという間に数時間費やしてしまいますので。くれぐれもご注意のほどを…。

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世界3大ナローゲージ・モデル・エキジビションのひとつとして昨年もご紹介したフランスの「エキスポ・メトリック」(Expometrique)が先週開催され、例によってヨーロッパ赴任中の同期生・岡山英明君が様子を見てきてくれましたので、今日から彼の写真で、ヨーロッパの最新ナローゲージ・モデル事情をお伝えすることにしましょう。
(昨年の様子は次のリンクをクリックするとご覧になれます。「エキスポ・メトリック2005」
▲典型的なフランスの片田舎のナローを再現したOe14のレイアウトセクション。とりたてて特筆すべきこともなさそうに見えるが、実はいかにもフランスらしいギミック、いやエスプリが仕組まれている。「そうか、その手があったか!」と思わず膝を叩いてしまったその種明かしは連載最後に…。'06.11.26 P:岡山英明

emr2.jpg昨年も記しましたが、世界3大ナローゲージ・モデル・エキジビション(アメリカの「ナローゲージ・コンベンション」、イギリスの「エキスポ・ナローゲージ」、そしてフランスの「エキスポ・メトリック」)のなかで、私は唯一「エキスポ・メトリック」だけは参加したことがありません。それだけに十年以上も前から憧れは募るばかりですが、毎年開催時期が11月末と、雑誌屋にとっては一年で一番多忙な「年末進行」目前とあってなかなか夢はかないません。年初には今年こそは…と思っていたのですが、結局今年も断念せざるをえず、岡山君からのレポートを羨ましく見ることとなりました。ちなみにその岡山君、一緒だったデュランゴのナローゲージ・コンベンション、先日レポートしてくれたロンドンのエキスポ・ナローゲージ、そしてこのエキスポ・メトリックと、今年は世界3大ナローゲージ・モデル・エキジビションを完全制覇(?)したことになります。日本人としてはもとより、恐らく世界的にも稀有な例ではないでしょうか。
▲会場のグランドドーム。開場前から行列ができていたという。'06.11.26 P:岡山英明

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▲たいへんな賑わいをみせるドーム内のエキスポ・メトリック会場。アメリカのナローゲージ・コンベンションと比べて子供の姿も少なくない。'06.11.26 P:岡山英明

emr6.jpgさて、例によってパリ郊外のグランドドームを会場に開催された今年の「エキスポ・メトリック2006」ですが、とにかく想像以上の賑わいだったようです。岡山君が着いた開場15分前にはすでに入口に長蛇の列が…。GEMME事務局で聞いたところでは、3日間の入場者数は7000人以上とのこと。1700(seventeen-hundred)の聞き間違えではないかと再確認すると、いや7000(seventy-hundred)だとわざわざ紙に「7000」と書いてくれたそうです。ちなみに昨年の総入場者数は7500人。アメリカのナローゲージ・コンベンションの実に3倍です。
▲グランドドーム入口にディスプレーされた実物の超小型ロコ。'06.11.26 P:岡山英明

emr5.jpgエキスポ・メトリックとはいうものの、展示内容はナローとスタンダード・ゲージ半々といったところで、メジャーどころではロコ社も立派なブースを構えて出店していたとのことです。当然来場者もメインラインものをお目当ての方も少なくありません。ひとわたり見て回ったあとでの岡山君の感想としては、先日の英国のエキスポ・ナローゲージと同様に「工作志向」が強いことが第一印象だったと言います。とにかくレイアウトのストラクチャーや素材関係の出店が豊富で、木や岩のラバーモールド、最近急速に流行りはじめた草を「立てて生やす」道具、さらにはフライス盤・旋盤、塗装用コンプレッサー・エアブラシから細かなキサゲエンドミルの類まで、ありとあらゆる道具屋さんも軒を連ねていたそうです。
▲同様に入場口には実物のナベトロの展示も。モデル・エキジビションとはいえ、こんなさりげない仕掛けが心憎い。'06.11.26 P:岡山英明

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▲エキスポ・メトリックにはここぞとばかりクラブレイアウトも多数展示される。かの地でも昨今はモジュール・レイアウトが人気のようだ。'06.11.26 P:岡山英明

今年ひさしぶりに参加したナローゲージ・コンベンションで、アメリカではOn30の台頭に象徴されるように、“ready to run”志向が強まってきているのを実感しました。以前は見かけた歯科技工士がつかうようなキサゲや手術用の止血鉗子を専門に取り扱っていた店も今年のデュランゴには出店しておらず、岡山君は「アメリカでは安楽志向が進み、商売にならなくなったのでしょうか」とメールに記しています。その一方で、ヨーロッパの“工作熱”はまだまだ旺盛のようで、さまざまなマテリアルや技法が次々と生み出されてきています。

IMGP0699n.jpgいわき市の小宅幸一(おやけ こういち)さんから、新刊『常磐地方の鉱山鉄道 ?歴史の鉱石(いし)を運んだ車輪の響き?』(12月21日刊)が送られてきました。小宅さんといえば1987(昭和62)年に『常磐地方の鉄道 ?民営鉄道の盛衰をたどって?』を上梓されて以来、地元・福島県浜通り地方の鉄道に徹底的に拘って研究を続けられている方としてつとに知られていますが、今回の新刊はこれまでのご努力の集大成のような大作です。A4判正寸228ページ(うちカラー2ページ)に凝縮された常磐地方(本書では北は双葉地区=常磐線竜田駅周辺から南は多賀地区=川尻駅周辺まで)の鉱山鉄道の記録は、352点という圧倒的な資料写真の枚数とともに、決定版と呼ぶに相応しいものとなっています。
▲このたび上梓された『常磐地方の鉱山鉄道 ?歴史の鉱石(いし)を運んだ車輪の響き?』表紙。

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本書で圧巻なのは、未発表の写真・図版の数々はもとよりのこと、巻末に添えられた22ページにわたる「主要炭鉱における炭鉱施設配置図」でしょう。「地図は見る人の想像を刺激するだけでなく、現代と比較することにより、鉄道の果たした役割や時代の変遷をみることができるから」(後書きより)と、現況地図の上に重ねられた極めて詳細な線路配線、施設配置図はまさにミクロの世界で、この巻末を見るだけでもその尋常ならざるご努力が伺い知れます。
▲勿来駅に隣接する大日本炭礦専用軌道のヤードにて。手前の機関車は旧鉄道聯隊のK2。(『常磐地方の鉱山鉄道』より)

IMGP0704n.jpg先述のように小宅さんは『常磐地方の鉄道 ?民営鉄道の盛衰をたどって?』(1987年)以後、いわき小名浜地区を中心とする鉄道を『小名浜・鉄道往来記』(1994年)に、いわき市南部の炭礦鉄道の消長を『黒ダイヤの記憶 ?常磐炭田石城南部地区の炭鉱?』(1997年)にと、3冊を自費出版としておまとめになり、まとまった著作としては今回が4作目となります。私も最初の『常磐地方の鉄道 ?民営鉄道の盛衰をたどって?』の際から資料や写真の提供など微力ながらお手伝いをしてまいりましたが、3冊目の『黒ダイヤの記憶』以後、かれこれ十年近くも“新刊”の声を聞いていなかっただけに、突然送られてきた『常磐地方の鉱山鉄道』は大きな驚きであり、また喜びでもありました。
▲圧倒的な細密さで再現された炭礦施設配置図。これをもって常磐地方の鉱山鉄道の路線網はほぼ解明されたといっても過言ではなかろう。(『常磐地方の鉱山鉄道』より)

IMGP0696n.jpg小宅さんは1951(昭和26)年のお生まれ。地元市役所勤務の傍ら地道な研究を続けられておられます。それにしても、既刊『黒ダイヤの記憶』の後書きで「筆者は炭鉱とは縁がない。石炭産業が隆盛を極めた頃、子供の筆者は炭鉱のあった時代の最後の何年かを、記憶の奥でかすかに見たような気がしているだけだ。」と書かれておりますが、それではいったい何がこれほどの情熱を傾けさせているのでしょうか。やはり同書後書きのなかで「筆者はできるだけ多くの先人に会ったつもりだった。しかし、取材の間に双方が思ったのは、“あの時代が見えなくなってしまったこと”への苛立ちと諦めであったかもしれない。」とも記されておられます。少なからず同じような経験を経てきている私にとって、この言葉は実に重みがあり、ひとり頷くことしきりでした。そう、小宅さんを突き動かしているのは、時代を記録しておかねばならないという焦燥感にほかならないのかもしれません。
▲3作目の『黒ダイヤの記憶 ?常磐炭田石城南部地区の炭鉱?』(1997年)

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▲『小名浜・鉄道往来記』(1994年)と処女作の『常磐地方の鉄道 ?民営鉄道の盛衰をたどって?』(1987年)。

さて、この小宅さんの新刊『常磐地方の鉱山鉄道 ?歴史の鉱石(いし)を運んだ車輪の響き?』(3,500円・税込み)ですが、東京では書泉グランデで取り扱いがあるものの、一般書店には並ばず、購入は下記ご自宅へ直接申し込む形となります。
〒974?8232 福島県いわき市錦町大島81 小宅幸一(おやけ こういち)
(書籍代金3,500円のほかに送料340円が必要。申し込みは送り先を明記のうえ、簡易書留または郵便小為替にて)

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