鉄道ホビダス

2006年11月アーカイブ

金華山軌道跡は今…。

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先日の「北東北を巡る」はもともと女川で開催される忘年会に出席するのが発端だったのですが、最初に女川と聞いて反射的に思い浮かんだのは「金華山軌道」のことでした。金華山軌道は石巻線女川延伸以前に石巻と女川を結んでいた軌間2'6"(762㎜)の内燃軌道で、これまでにまとまった発表もなされておらず、是非一度訪ねてみたいと思っていたところでした。そんなわけで、せっかく女川の地を踏むのだからと、集まる東西のお歴々向けに簡単な資料を作って頒布することにしました。今日はその一部をご覧にいれながら、金華山軌道跡訪問の顛末をご紹介してみましょう。
▲女川駅はホーム一面の頭端式。かつては女川港への貨車の出入りで賑わったことだろうが、今はひっそりとしている。ホーム端から下がった位置にある駅本屋への階段には、かつての三陸沖地震の際に津波が押し寄せた位置がマーキングされている。'06.11.26

IMGP0486n.jpg金華山軌道は1915(大正4)年7月に石巻と渡波間を結ぶ馬車軌道=牡鹿軌道として開業しました。のちに金華山軌道となり、1926(大正15)年7月15日付けで渡波?女川間を延伸、全線13.9kmが完成しています。石巻では省線や宮城電気鉄道(現在の仙石線)とはまったく接続せず、北上川左岸に独自の石巻港駅を設け、ここを起点に石巻北街道を東進、万石浦北岸をトレースするように抜けて女川の鷲ノ神地区に至るというルートです。
▲女川駅駅舎。女川駅の開駅は1939(昭和14)年10月7日。金華山汽船航路の連絡駅でもある。'06.11.26

IMGP0464n.jpgこの金華山軌道が5万分の1地形図上に表記されたのは「昭和8年版」のみで、いきおいこの図幅をもとに痕跡を辿ることになります。まず現行地形図と照らし合わせてみると、下図のように、現在の石巻線渡波?浦宿間はそっくりそのまま金華山軌道の線路敷を利用して建設され、200Rの急曲線が続いていることがわかります。それもそのはず、金華山軌道は石巻線女川延伸に伴う補償を受けて廃止(1940=昭和15年)されているのです。
▲女川港線の跡は遊歩道となっている。女川から女川港まで1.4キロを結ぶ女川港線は1958(昭和33)年に開通している。'06.11.26

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▲地形図に見る金華山軌道。石巻駅の1キロほど南東・石巻港駅を起点に石巻北街道沿いを渡波へと向かう軌道が見て取れる。万石浦北岸は現在のJR石巻線とまったく同ルートを辿り、浦宿付近から街道沿いに鷲ノ神地区へ至る。軌道は全線約1時間を要したという。大日本帝国陸地測量部1:50000地形図「石巻」(昭和11年発行)より補筆・転載。
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宿での朝食を済ませ、さっそく地形図片手に金華山軌道の女川停車場跡を探しにでかけました。ところが旧版の地形図しか手元になかったのが大きな間違いで、まったく関係ない空き地を軌道跡と思い込んでしまったのです。水産加工場らしき工場がすでに仕事をはじめていたので、のぞきこんで聞いてみましたが、作業をしているおばさんたちはどなたも30?50代。戦前になくなった軌道のことなど当然知る由もありません。

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今度は通りすがりのおじさんに聞いてみることにしましたが、「とにかくこの空き地は昔っからの旧家があったとこで、線路なんかなかったはず」とのこと。でもご親切に付近の古老のお宅を教えてくれました。同行の関田克孝さんらは、せっかくだから聞きに行ってみよう…とおっしゃられますが、なにしろまだ朝の8時。しかも日曜日とあってさすがに突然訪問は憚られ、再び地形図を広げながら付近を歩いてみることにしました。
▲ようやく同定できた金華山軌道女川停車場跡地。左の建物の位置が構内で、画面前方が石巻方。古老の証言がなければとても短時間に発見することはかなわなかった。ちなみに右に立つのは『鉄道ファン』誌の宮田編集長。'06.11.26

IMGP0477n.jpgどうも様子が違うと困惑していると、後ろから「名取さん、名取さん!」と高井薫平さんの呼ぶ声が…。指差す方を見るとさきほどのおじさんが追っかけてくるではないですか。なんと軌道を知っている別の古老を見つけ出してわざわざ知らせてきてくれたのです。
果たして駅前の足湯につかっていた古老は齢90歳。驚いたことに金華山軌道に勤めていたことがあるというではないですか! 慌てて持っていたコッペル製機関車の組立図のコピーを見せると「そうそう、この機関車よ」と懐かしそうです。お年とは思えないほど記憶も鮮明で、軌道の駅名は立て板に水のごとく諳んじておられ、走ってきて無賃で飛び乗ってしまう人が多くて苦労したことなどを聞かせてくださいました。
▲鷲ノ神地区の住宅街にクルマさえ入れない細い道となって続く金華山軌道跡。かつてはここをコッペルの内燃機関車がトコトコと走っていたはずだ。'06.11.26

懸案の駅の跡地は…と尋ねると、「○○さんちのはす向かいで、○○さんのじいさんが駅長をやっとった」と極めて詳細な情報が得られました。なんと私たちがいままで探し歩いていた地区から小山を一山隔てた場所ではないですか。あとからわかったことですが、「女川」とひと口に言っても、現在のJR駅がある女川地区と小山を隔てた鷲ノ神地区があり、後者の方が旧市街だったのです。当然ながら金華山軌道の女川停車場は鷲ノ神地区に位置しています。おそらく国鉄線は連絡航路や貨物扱いの便、さらには狭隘な扇状地に家屋が密集した旧市街を避けて、あえて20‰+18‰の勾配で女川トンネルを穿って女川地区に駅を設けたのでしょう。結果、今では行政の中心も女川地区に移り、鷲ノ神地区は旧市街というよりも住宅街と化しています。

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▲金華山軌道機関車組立図。“オーレンシュタイン犬の糞”と揶揄されるほど大量の蒸気機関車をわが国に送り込んだオ?レンシュタイン・コッペルだが、内燃機関車の輸入は数えるほどで、営業軌道ではここ金華山と笠間稲荷、それに先日このブログでご紹介した岩井町営くらいなものである。金華山が導入したのはメーカー形式「S10」と呼ばれるもので、笠間稲荷や岩井の「S5」よりひと回り大きい。金華山軌道ではこのコッペルとプリムスあわせて4輌の内燃機関車が用いられた。(提供:臼井茂信)
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“忘年会の余興”と言ってはあまりに不謹慎ですが、短い時間ながらさまざまな出会いもあり、金華山軌道跡訪問は実に有意義でした。未発見の資料や写真もかなりありそうで、どうやら時をおかずにまた女川へと足を向けることになりそうです。

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毎月本誌誌上でその進捗状況をお伝えしているさいたま市の「鉄道博物館」建設工事ですが、ついにすべての主要建物の構造工事が完了、その全貌が姿を現しました。今日は運営する東日本鉄道文化財団のご協力で次号連載の取材を行うことができましたので、その様子をいちはやくお伝えすることにしましょう。
▲屋上の「展望スペース」も完成。ここはオープンデッキで東北・上越新幹線と埼玉新都交通を間近に眺めることができる。'06.11.29 P:RM(新井 正)

JE6S6212n.jpg前回このブログで進捗状況をお伝えしたのが「鉄道の日」の10月14日のことですから、すでに一ヶ月あまりの時間が流れていることになります。それにしても何という速さでしょうか…まさに現代の建築技術の素晴らしさを目の当たりにするかのごとく、今日の時点ですでに主要建物の外形はすべて完成し、一部でははやくも内装工事が行われています。すでに展示用線路が敷設された区画もあり、「鉄道博物館」らしさがじわじわと感じられるようになってきています。
▲「教育ゾーン」「収蔵庫ゾーン」「エントランス棟」「歴史ゾーン」で構成される建屋。「収蔵庫ゾーン」から開始された外壁パネルは「教育ゾーン」を除き貼られた。屋根は緑化部の防水作業を残し完成。'06.11.29 P:RM(新井 正)

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▲「北エントランス棟」は鉄骨が組みあがった(左)。これで敷地内に建てられる2棟が姿を現したことになる。右は建屋で唯一曲線を描く「教育ゾーン」の窓。'06.11.29 P:RM(新井 正)

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▲歴代の御料車を展示する場所は、最優先で作業が進められている(左)。鉄道記念物であるため、車輌搬入前に空調設備を整えておく必要があるためだ。砂で覆われたターンテーブル設置スペースがごく一部だが姿を現した。線路はその直前に迫ってきている(右)。'06.11.29 P:RM(新井 正)

「教育ゾーン」屋上の展望スペースも完成間近で、この屋上からは眼下を走る東北・上越新幹線と埼玉新都市交通、そして高崎線、川越線が見渡せ、さらに遥かさいたま市中心部のビル群も手に取るように見渡すことができます。

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▲「教育ゾーン」は建屋の両端の線路と、ターンテーブルとを結ぶ線路も姿を現した(左)。200系先頭車の展示スペースは、台車・床下機器の見学を考慮してピットが用意されている(左)。'06.11.29 P:RM(新井 正)

オープンまでいよいよ一年を切り、年明けからはノミネートされた保存車輌たちが続々とここ大宮の地に集まってくるはずです。また逐一、本誌誌上、そして時にはこのブログで“夢”が形になってゆく様子をリアルタイムにお伝えしてゆきたいと思います。

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JR東海から新しいレール運搬用車輌の製作についてのプレスリリースが発表されました。保線用の「機械」ではなく、「車輌」と明記してある点に注目しながらこのリリースをご紹介してみましょう。
▲ちょっと日本離れしたフロントデッキ(?)付きのデザイン。塗色はそのミッションゆえに黄色が中心となっている。(JR東海プレスリリースより)

「在来線12線区のレール保守の一環として、年間約190kmのレール交換を夜間等に行っています。現在、レールの運搬は、レール専用貨車(チキ車)を機関車で牽引して行っておりますが、今回、機関車・貨車の取替えを機に、新方式の気動車型レール運搬車を実用化し、レール輸送のさらなる効率化と作業性向上を図ります。(JRでは初めての方式。)」
趣味的に見て、ここで注目されるのはこの「車輌」が「気動車型」と表現されている点と、「機関車・貨車の取替えを機に」と明記されている点でしょう。

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保線用等に用いられる「機械」は、どんなに鉄道車輌然とした形態をしていても、「車輌」としての設計確認を経ていないため、法的に「車輌」とは見なされません。車輌でない「機械」が線路上を走るとなると、保安装置も搭載していないため、いわゆる「線閉(せんぺい)」(線路閉鎖)をせねばなりません。当然、日中営業列車が運転中に「線閉」をかけることはできませんから、「機械」は営業列車運転終了後に走らざるをえないわけです。
▲定尺レール用編成は動力車2輌による背面結合式。レールは片側の荷台に固定される形となる。(JR東海プレスリリースより)

JR東海の在来線レールセンターは浜松と名古屋(名古屋港)の2ヶ所。夜間しか“移動”できない「機械」ではとても全営業エリアをメンテナンスすることは不可能で、それもあって今回新製されるレール運搬車は正式の「車輌」となったのでしょう。となると気になるのは「形式称号」です。かつて有蓋貨物気動車キワ90というのがありましたが、長物貨物気動車(?)だけに「キチ」なのか…今から楽しみです。

その一方、心配なのは「機関車・貨車の取替えを機に」と明記されている部分。現在JR東海にはEF58 157をはじめEF64、EF65、DD51、DE10、DE15など15輌の電気機関車、ディーゼル機関車が在籍し、少なからずレール輸送列車にも充当されているだけに、当然この新型気動車の誕生によって勢力分布が大幅に塗り替えられてゆくに違いありません。

最後にプレス発表された投入計画の概要をお伝えしておきましょう。運用開始は再来年春とアナウンスされています。
1.レール運搬車概要
(1)定尺レール(25m)運搬車
気動車 4編成 8輌  (1編成:動力車2両)
(2)ロングレール(200m)運搬車
気動車 1編成 13輌 (1編成:動力車8輌、付随車5輌)
2.投資額等
(1)設備投資額   約22億円
(2)運用開始時期  定尺レール運搬車 :平成20年4月予定
ロングレール運搬車:平成20年7月予定

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すっかり遅くなってしまいましたが、かねてより予告していた『改訂新版 木曽谷の森林鉄道』が、本日ようやく完成いたしました。初版発行から実に19年、第三版目にあたる今回は随所に大幅な追加・改訂を加え、決定版と呼ぶにふさわしいものとなっています。

IMGP0687n.jpg本誌上の予告でもご承知のことと思いますが、今回の「改訂新版」最大の見所は、なんといっても3箇所に挿入された総計32ページのカラーグラフです。1960年代に支線の奥にまで足を向けられた北市正弘さんの貴重な記録を中心に、著者の西 裕之さんをして、よくぞこれほどのカラーがあったものと驚かれるほどの画像の数々です。
▲「改訂新版」の巻頭カラーページの扉。秋の三浦湖畔をゆく「みやま号」の車中からの光景が、あの日の「木曽谷」へといざなう。

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▲カラーページはトップの「木曽谷の森林鉄道」、中面の「木曽谷の車輌たち」、そして各支線区の画像をまとめた「美しき木曽谷」と続く。

モノクロページのさらなる充実ぶりも特筆に値します。濁川、小俣、瀬戸川、水無…といった支線についてもそれぞれ初公開の写真を用いて詳細にご紹介しています。ことに濁川や小俣、瀬戸川に関しては停車場配線図も掲載していますので、モデラーの皆さんにもまたとない資料となるに違いありません。

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▲モノクロページでは各所に挿入された配線図や路線詳細図が必見。支線はもとより、作業軌道の位置まで詳細に記入されている。

そしてさらにご注目いただきたいのが、崩越(くずしご)以遠の王滝森林鉄道本線と、その全支線を詳細に記入した5万分の1図の数々です。実はこの地図の校了に予想以上に手間取ったために出版時期が遅れてしまったのが真相なのですが、西さんが等高線一本にまで拘って記入指示された渾身の作だけに、今後“木曽森”の探訪を志される方にとっては間違いなく必携の地図となるはずです。

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▲そして巻末には有名な樽ヶ沢橋梁など木橋や隧道の建設図面が折り込みで挿入されている。これまた必見。

今月号の本誌編集後記にも記したことですが、この『木曽谷の森林鉄道』は、私の編集者生活にとっても忘れられない一冊です。初版の校了時、西さんは新婚ほやほやで、毎夜毎夜キャプション書きだ校正だと編集部に遅くまで詰めていただき、私がご自宅に“事情”を説明する電話を掛けるといった日々が続きました。私の方も全ページのレイアウトを自らこなし、なおかつワープロさえない時代ゆえ、すべてのキャプションを短時間に原稿用紙にリライトしてゆく作業も並大抵ではなく、結局、当時用賀にあった編集部に丸一週間泊り込むといった今では想像さえできない状況でした。編集に着手した時点では私もまだ二十代。当時流行していたゲームソフトが4800円だったことから、「そんなもの(失礼…)に身をやつすなら、あと100円足せばこれが買えるぞ」とばかり定価4900円に決めたのも、今となっては懐かしい思い出です。それだけに西さんはもとより、私にとってもこの一冊は、若さと情熱の詰まった何ものにも代えがたい格別の一冊なのです。

北東北を巡る。(4)

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さて、昨晩はこの旅の主目的である東西のお歴々の合同忘年会が女川で行われ、今日はそのメンバーで大挙して“くりでん”ことくりはら田園鉄道へと向かいました。「東西」とはいえ、場所柄メンバーには鉄道友の会新潟支部長の瀬古龍雄さんや北越急行の大熊社長の姿もあり、実に賑やかな顔ぶれです。ちなみに大熊社長にいたっては、お仕事の関係で羽越線沿線におられ、陸羽西線・陸羽東線・石巻線を乗り継いで女川までお越しになったといいますから驚きです。
▲石越で発車を待つ細倉マインパーク前行きKD953。3輌の同形車のうちKD952は、現在ミヤギテレビの番組「OH!バンデス」とのコラボレーションで、室内外を子供たちの"くりでん”への哀惜を込めた絵で飾る「くりでんOH!バンデス号」となっている。'06.11.26

IMGP0509n.jpgご承知のようにくりはら田園鉄道は来春の廃止が決まっており、考えてみるとあと4ヶ月でその姿を見ることができなくなってしまうわけです。今回は、以前から「くりでんサポーターズクラブ」の会員でもある田尻弘行さんのコーディネートで、昼食会場に本社二階の会議室を使わせていただくなど便宜を図っていただき、短い時間ながら実に有効に“くりでん”の現状を見て回ることができました。
▲JR石越駅の向かいに位置する社線石越駅。現在は無人の起点駅となっているが、駅本屋は格別の味わいがある。'06.11.26

IMGP0680n.jpg私にとっては前回訪問したのが昨年5月のことですから、約一年半ぶりの再訪となりますが、石越の風情も若柳の車庫もほとんど変わりなく、ある意味ちょっとホッとしました。ただ、JR仙台支社の栗原への旅を誘うポスターをはじめ、随所に「来春でなくなる」「最後の…」「さようなら」等々のキャッチコピーが入ったポスターが目立ち、来春廃止が覆りようのない事実であることを改めて実感します。「くりでんサポーターズクラブ」の優待乗車券も使用期限は来年3月31日まで。「廃止になる19年3月末でサポーターズクラブも解散することになります」との文言が添えられていました。
▲「くりでんサポーターズクラブ」の会員証と優待乗車券。「長い間ありがとうございました」の文字が悲しい。

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▲若柳の庫の奥深くで眠りについているED203。ここ若柳の庫の様式は、鍛冶場をはじめ地方鉄道の検修庫の典型そのもの。'06.11.26

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▲若柳駅前にあるくりはら田園鉄道本社(左)と、その二階会議室に保管されているおびただしい数の資料。'06.11.26

IMGP0611n.jpgそれにしても驚いたのはその賑わいぶりです。先日、余部橋梁で信じられない賑わいを体験してきましたが、まさかと思ったここ“くりでん”もまったく同じ状況でした。今日は日曜とあって2輌編成に増結しているにも関わらず、車内はかなりの人が座ることさえできない混雑ぶり。例によって「さようならくりはら田園鉄道と鳴子温泉の旅」といった類のバスツアーが次から次へと押し寄せて、終点の細倉マインパーク前はちょっとしたパニック状態です。余部と同様に、大型バスで細倉マインパーク前に乗りつけ、お客さんは例えば栗駒までの数駅間を列車に乗車、バスは回送で先回りして列車の到着を待つといったいわば「余部方式」がほとんど。車内はまるでテーマパークのような歓声に包まれていました。
▲「余部」ではない、今日の細倉マインパーク前の賑わい。とにかくどの列車も降車客と乗車客でホームはごったがえしていた。'06.11.26

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▲“くりでん”の大きな魅力のひとつは今なお現役で使用されている腕木式信号機とタブレット(スタフ)閉塞方式。写真はいずれも沢辺駅にて。'06.11.26

会社のお話では「廃止」を公表してから乗客はほぼ2倍になったとか…。はなからこれだけの乗車効率であれば存廃問題が取りざたされることもなかったでしょうに、なんとも皮肉なものです。泣いても笑っても残された時間はあと4ヶ月。“くりでん”の最後の旅を温かく見守りたいと思います。

北東北を巡る。(3)

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慌ただしい北東北巡りの3日目は、早朝に青森のホテルを出て、七戸、十和田市、五戸、八戸を経て一昨日スタートした盛岡へ戻るという結構ハードな行程です。考えてみると青森県内の私鉄も、弘南鉄道黒石線(ユ98.4.1)、下北交通(ユ01.4.1)、そして南部縦貫鉄道(ユ02.8.1)と、ここ十年ほどで櫛の歯が抜けるがごとくに消えていってしまい、何とも寂しい限りです。
▲十和田観光電鉄七百の車輌区ではED30 1のスノープラウの整備が行われていた。お話によると、多少の錆や塗装ムラでも雪の飛びが悪くなるそうで、グラインダーで削って平滑度をあげたうえで仕上げ塗装をするのだそうだ。「今日はいい天気で助かるよ」と係の方は来るべき冬将軍に思いを馳せていた。'06.11.25

IMGP0385n.jpgそんななかにあって頑張っている私鉄のひとつが「とうてつ」こと十和田観光電鉄です。路線がほとんど道路と並行していて撮影ポイントが限られているせいもあってか、どうも撮影派にはいまひとつ人気の薄い路線ですが、RMライブラリーでもご紹介しているように車輌の変遷は非常に興味深いものがあり、今回のエクスカーションでも是非立ち寄ってみたい線区のひとつでした。実は十和田観光電鉄は1980年代以降足を向けたことがなく、私にとってはほとんど四半世紀ぶりの再訪となりました。それだけに“今浦島”状態で、ショックだったのは終点・十和田市駅の変貌ぶりです。巨大なショッピングセンターとバスターミナル・ビルの端っこに間借りするかのように誂えられた電車乗り場は、記憶の中にある木造建屋とはあまりに違い、まさに唖然呆然です。もっとも誌面上の写真では見知っているはずなのですが、やはり耳学問と実際に目にするのとではインパクトに雲泥の差があります。言い古されたことではありますが、やはりこの趣味にとって“現場”が一番と改めて思い知らされた次第です。
▲構内にずらりと並べられたED40 2、デハ3603、モハ3401、トラ301、トラ302の面々。こうやってみるとなかなか面白いミキストにも見える。'06.11.25

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▲南部縦貫鉄道坪川橋梁の現況。かつて撮影したカットと同じアングルで狙ってみた。この角度だと廃線には見えず、今にもレールバスが顔を出しそうな雰囲気だ。'06.11.25

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話が前後しますが、「とうてつ」を訪ねる途上、あの南部縦貫鉄道の廃線跡を垣間見てきました。廃止から4年あまり、沿線では東北新幹線青森延伸工事がまさに佳境で、1970年代からお気に入りのポイントだった盛田牧場前付近は大規模な造成工事が行われていました。もともと南部縦貫鉄道が廃止になる経緯のなかで、この新幹線ルートが少なからず影響をもたらしたのは広く知られるところですが、これまた実際に工事を目の当たりにすると時代の流転を実感します。

そんななかにあって、坪川の橋梁はまるであの日のままの姿で残されていました。さながら簡易軌道の停留場のような小さな木造待合室のついたホームは朽ち落ち、そのホームに続く築堤の踏み分け階段は早くも自然に還ろうとしていますが、それ以外は、周囲の樹木もなにも今にもあのレールバスがやってきそうな雰囲気です。
▲終点の七戸駅構内。左の庫内にはレールバスが動態で残され、ボランティアの手で時折イベントが開催されている。右端の本社社屋もまったく当時のままだが、現在は社名から「鉄道」が外れて「南部縦貫」となっている。'06.11.25

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さて、十和田をあとに次の目的地である五戸へと向かいます。五戸というと南部鉄道を思い浮かべますが、さにあらず。今回の目標は浅水地区にあるプリムス製ディーゼル機関車です。このプリムスに関しては『トワイライトゾ?ン マニュアル3』で詳しくご紹介していますが、住友セメント八戸工場の原石軌道で使われていた機関車です。前回訪れたのが1982(昭和57)年3月ですから、すでに24年の歳月が流れてしまっています。当時は2輌(2編成)保存されていたプリムス君ですが、聞くところでは1輌は八戸市の松館小学校に移設されたとか。では残されているはずの1輌はどうなっているのだろうと気にかかって訪ねてみることにしたのです。
▲旧陸奥工業桝館作業所跡(五戸市浅水・関口地区)に取り残されたプリムス編成。ススキの原に放置された状態だが、この角度から見るとまるで現役の列車のようにさえ見える。'06.11.25

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▲八戸市立松館小学校に移設保存された旧陸奥工業のもう1輌のプリムスとその編成。五戸の僚機から比べると格段に状態は良い。'06.11.25

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果たして1輌(1編成)は24年前の姿そのままに現地に残されていました。ただ、この車輌を保存していた陸奥工業はすでになく、展示されている敷地は荒れるに任せた状態です。それでは移設された方はどうなっているのかと、今度は松館小学校を訪ねてみました。旧原石軌道沿線のこの松館小学校と、新井田小学校、それに金山沢小学校の3ヶ所に加藤製DLと貨車、それにカブースの編成が保存されていたのですが、どうやら松館小学校の個体は荒廃がひどく、陸奥工業のプリムスと入れ替えられたようです。説明看板によると1995(平成11)年に移設されたようで、その際に整備されたのかかなり状態はよく見えます。この「DL形」というメーカー形式名のプリムスはアメリカ本国でも保存されている個体が少ないだけに、末長く保存されることを願いつつ、校庭をあとにしました。
▲松館小学校の編成後部。超小型の木造カブースがなんとも楽しい。'06.11.25

北東北を巡る。(2)

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さて、北東北行脚の2日目は、旧青森営林局庁舎を活用した森林博物館を起点に、日本最古の森林鉄道である津軽森林鉄道の軌道跡を辿りながら津軽半島を縦断、さらには津軽鉄道を訪ねようといういささか欲張りなプランです。
▲宮野沢橋梁をゆく津軽鉄道11列車。短い橋梁ながら2径間が均等でなく、左のガーダーが小さい点に注目。いかにもなカーブを描きながら橋梁をくぐる未舗装路は実は津軽森林鉄道宮野沢支線の軌道跡である。かつてはこのポイントで津鉄の列車と林鉄が遭遇する瞬間もあったに違いない。'06.11.24 津軽中里ー深郷田

kanagimap1.jpg森林鉄道というと「木曽」が本家のように語られがちですが、実は歴史の古さと本線延長の長さでは津軽森林鉄道が一歩先んじています。後日、改めて詳しくご紹介しようと思いますが、最盛期の津軽森林鉄道とその枝線は津軽半島を毛細血管のように覆い尽くしており、路線図を見ているだけでも夢が広がります。青森には青森営林署のほかに「青森運輸営林署」が置かれ、この圧倒的な規模の森林鉄道の運営・管理を司っていました。「運輸」と名前がつく林鉄専門営林署が設置されたのは、全国でもこの青森と木曽の上松運輸営林署の2ヶ所のみで、これも津軽森林鉄道の規模を物語っていると言えましょう。ただ、本線廃止が1967(昭和42)年と木曽に比べて早いことから、現役時代に撮影に訪れたファンはほとんどおらず、残念ながらその記録は断片的にしか残されていません。
▲津軽鉄道沿線の津軽森林鉄道路線図(黄色いマーカー部)。津軽鉄道をアンダーパスするのは深郷田付近の宮野沢支線と本線の金木付近の2カ所であることがわかる。芦野公園?大沢内間はほぼ津鉄と並走している。1:50000地形図「金木」(昭和34年発行)より転載。
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IMGP0252n.jpgtugaru75324a1016n.jpg
津軽線沿いや十三湖沿岸の軌道跡を探索しながら津軽鉄道の津軽中里駅に着いたのはお昼をすっかり回った頃でした。津軽鉄道は1970年代初頭、まだストーブ列車がもてはやされる以前(国鉄にもストーブ暖房の列車はまだ残っていたから当たり前ですが…)、何回か通った記憶がありますが、ここ十年ほどはすっかりご無沙汰してしまっています。
▲31年の時空を隔てて津軽中里駅の定点観測も試みた。かつての津軽鉄道の様子についてはまた後日詳しくご紹介したい。'06.11.24 /'75.3.24 津軽中里

IMGP0242n.jpg津軽中里駅はいかにも津軽らしい木造建築で、駅前には数軒の店があるだけで、あとは茫洋とした津軽平野が広がっていた印象がありますが、今は駅舎もスーパーを併設した複合施設に生まれ変わり、駅周辺も何やら建物が増えて“茫洋とした”という表現はあたらない風景となっています。ただ、かつて貨物扱いなどで賑わっていた記憶のある構内は見る影もなく寂れ、片面のみ残されたホームに「走れメロス号」がぽつんと発車を待っていました。
▲日本最古の森林鉄道=津軽森林鉄道は青森貯木場を起点に津軽線沿いに北上し、大平付近から津軽半島を縦断して十三湖・今泉を経て津軽鉄道沿いを南下して金木の喜良市停車場に至る本線を基幹に、おびただしい数の支線を擁していた。十三湖北岸(画面左端)のこの小径も相内支線の軌道跡。'06.11.24 十三湖北岸

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ところでこの津軽鉄道の出札窓口でちょっと面白いものを見つけました。「レールキーホルダー」と銘打たれたそれは、窓口に掲示してあるポスターでは大きさがわからないのですが、“キーホルダー”だけに、30kg/m以上のレールでは嵩張ってとても用をなさないはずです。もしかして…とひとつ購入してみることにしましたが、これが何と超軽量レールではないですか。ええっ、とばかり窓口の人に聞いてみると、金木営林署の廃レールを譲ってもらったとのこと。「森林鉄道建設規定」では2級線でも9kg/mレールですから、おそらく作業軌道もしくは製材所の構内軌道に使われていたものでしょう。使用済み感のあるヤレ具合もたまりません。お値段は800円也。津軽鉄道本線レールの輪切りも別に販売していましたが、比肩するまでもなく、この「レールキーホルダー」がピカイチのお土産です。
▲津軽鉄道発売の「レールキーホルダー」。金木営林署から譲り受けたものだそうで、出先ゆえ詳しく検証はできないものの、6kg/mにも満たない超軽量レールのようで、ひょっとすると由緒あるポンドレールかもしれない。頚部や踏面の使い込まれた風合いが絶品!

北東北を巡る。(1)

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二十年以上も続いている東西の趣味人が集う合同忘年会(?)がこの週末に東北で開催されます。せっかく遠路東北にまで足を向けながら、そそくさと帰ってくるのもちょっと残念で、意を決して今日から北東北を一周してみることにしました。
▲雪をかぶった岩手山が紺碧の空に浮かぶ。手前の廃墟は松尾鉱山の社宅アパート跡。気温は1℃。標高が高く風が強いこともあって猛烈に寒い。'06.11.23

IMGP9977n.jpg東京発朝一番の「はやて」で盛岡へ。レンタカーを借りて、まずは花輪線へと向かいました。昨日来、全国的に荒天が続いているようですが、なぜか盛岡地方は雲ひとつない抜けるような快晴。岩手山もこれ以上ないほどくっきりとその麗姿を見せてくれています。
▲午前中の松尾八幡平駅。1928Dと1929Dが交換するはずだったが、強風による抑止で、待てど暮らせど両列車ともに来なかった。'06.11.23

ところが、まずは手始めにと松尾八幡平駅付近で列車を待ち受けるも、待てど暮らせど一向にやってくる気配がありません。やむなく何か情報はと駅へ向かってみると、盛岡運輸区からの遠隔操作スピーカーで、途中強風のため遅延している旨のアナウンスが! しかもその遅れたるや180分、つまりは3時間とのこと。これは待っても無駄と踵を返すことにしましたが、ちょっと残念だったのは誰ひとりとして駅で列車を待っている人がいなかったこと。お詫びのアナウンスだけがむなしく無人の待合室に繰り返されていました。

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さて、松尾八幡平に立ち寄ったのは、実は松尾鉱山鉄道の跡地を探ってみようと考えていたからです。
▲八幡平市(旧松尾村)歴史民俗資料館の前庭に保存されているED25 1。状態はすこぶる良い。'06.11.23

松尾鉱山鉄道は屈指の硫黄鉱山であった松尾鉱業の運搬を担って1914(大正3)年に建設された馬車鉄道を嚆矢としますが、その後3'6"軌間に改軌、一時は4110形も入線するなど隆盛を極めました。1951(昭和26)年に電化、この時に新製導入されたED251が八幡平市(旧松尾村)歴史民俗資料館に保存されています。この機関車、廃止から20年以上にわたって盛岡市内の解体業者さんの手によって大事に保管され、近年になって旧松尾村に寄贈されたものだそうで、状態はきわめて良好に見えます。

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▲東日産業跡地に放置されている3輌の貨車と2輌の客車。このまま朽ち果ててしまうのだろうか…。'06.11.23

IMGP0014n.jpgもと終点の屋敷台駅構内で建材業を営んでいた東日産業跡地には客車2輌(スハフ7、オハフ9)と貨車3輌(ワフ5、ワフ7、ワ9)が放置されているとのことで足を向けてみましたが、こちらは荒れるにまかせた状態で、先行きが懸念されます。
▲ワフ7の側扉には形式番号標記とともに松尾鉱業の社紋がかろうじて残されている。'06.11.23

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▲最盛期には1万3千人が暮らしたという松尾鉱山の廃墟は、産業遺産の域を超えて圧倒的な重苦しさを伴って迫ってくる。'06.11.23

というわけで本日のこのブログは青森より配信しておりますが、明日以降は通信環境次第で続編がアップできない可能性があります。事情ご賢察のうえご了承ください。

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宮崎繁幹さんが主宰する多摩湖鉄道出版部が発行、弊社が販売元となっている書籍『小田急電車回顧』の4巻目にあたる「別巻」がいよいよ完成間近となってきました。第1巻の発行が昨年夏。小田急で活躍してきたHL(HB)車、ABF車、さらには2200系ならびに荷電、電気機関車を半年インターバル3分冊で刊行する予定でしたが、貴重な写真提供のお申し出が相次ぎ、結局、荷電、気動車、電気機関車を「別巻」として上梓することとなりました。

odakyuph1n.jpgこの「別巻」では、小田急線で活躍した荷物電車(一般車の荷物電車代用=いわゆるピンチランナーを含む)、ディーゼルカー、電気機関車のほかに、「思い出のひとこま」と題して東急7000系の試験入線など貴重な画像をまとめたセンテンスを増結、さらにこれまで公刊発表された参考文献(関連記事)の索引を設けるなど、シリーズの掉尾を飾るにふさわしい内容となっています。ことに戦後最も早く創刊され、実車記事や図面の掲載も少なくなかった『鉄道模型趣味』誌に関しては、模型製作記事を含めたすべての関連記事が索引となっています。うかがえば、宮崎さん自らが全号を紐解いて関連記事を書き出したのだそうで、そのご努力には頭が下がる思いです。
▲「別巻」の主役・電気機関車と荷電が東北沢で並ぶ。(「別巻」扉より)

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▲珍しくも荷電代用に充当された“お買物電車”4051(左)と成城学園で発車を待つED1021牽引の砂利列車(右)。(「別巻」本文より)

odakyuph4n.jpgこの『小田急電車回顧』シリーズ、想像以上のご好評を頂戴し、第1巻はすでに当社の在庫はほとんどなくなってきております。当面は重版の予定もないやにうかがっておりますので、「別巻」お求めの際には是非ともシリーズをお揃えになることをおすすめいたします。
〔既刊〕
第1巻:1100、1200、1300、1400、1800、1660、1870、1820、相鉄借入車
第2巻:1500、1600、1700、1900、カラーグラフ
第3巻:2100、2200、2220、2300、2320
▲地下ホームへ入ってゆくHB車編成を横目に新宿をあとにする「東急7000系」。パイオニア台車の試験のために借り入れた際の貴重なひとこま。(「別巻」“思い出のひとこま”より)

現在のところ、「別巻」は12月中旬には完成予定(定価:3200円)で、クリスマス頃には本誌特約店の店頭に並ぶはずです。実は編集部には続刊を望む声が少なからず寄せられているのですが、宮崎さんは何年か後、次世代の若い人の手によって別の形で上梓されれば嬉しい…とおっしゃっておられます。

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17日付け「発見! 安比奈線列車写真」で本邦初の安比奈線の列車写真としてご紹介した村樫四郎さんの写真ですが、迂闊にも私の誤認でさらにとんでもない事実が含まれていることが判明しました。まずは最初にご指摘いただいた寺田牧夫さんからのメールからご紹介してみたいと思います。
▲安比奈駅構内に停車中の“西武鉄道の”ED14 3。しっかりと社紋まで入れられているのがわかる。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

「本日付けブログで、もとED11 1のE61とされている電気機関車ですが、平たい屋根、運転席窓の大きさ、デッキから斜めに降りている手すりの形から、当時一時的に西武で使われていた近江鉄道に転属予定だったED14 3ではないでしょうか? そうなるとこれはもっと貴重な写真になりますね。ED14 3が西武線上を走っている写真を見たことがないですから。ED14 3は西武では初めてレンガ色(他の機関車は青塗装だった頃)で入線した機関車で、いつも保谷に留置されていて貨物に使われていたのを見たことがありません。1960-61年当時は保谷に住む小学生で、毎日のように保谷検車区、上石神井検車区、三鷹電車区まで見に行ってました。ED14 3の隣には国鉄色、ナンバーのままのED11 1が停車していましたので対照的で面白かったです。この辺の写真は『鉄道ファン』誌の1けたの号に載っていたのですが、捜索できませんでした。一度だけ両者が連結されて検車区の中を移動している姿を見ています。この時が所沢に回送した時なのかもしれません。しばらくすると今度はED14 3が消えて同じ場所に改装なったE61が、かつてED11 1が居た場所に真っ茶色に薄汚れたED10が現れて驚いたものです。ご参考になれば、幸いです。」

ed14a2.jpgご自身も運営するホームページ「轍楽之路」で「西武鉄道画像保管箱」を設置されているだけに、流石のご指摘です。ちなみに、本件に関しては私の編集者としてあるまじきミスでして、最初に村樫さんからお送りいただいた画像データには正確に「ED14」と記入されていたのです。西武時代のED14 3はRMライブラリー『国鉄輸入電機の系譜』(上)で上石神井に留置中の姿をご紹介していますが、寺田さんのおっしゃるように実際使用された記録は現在までに公表されておらず、ED14の筈がないのでED11(E61)に違いない…と検証もせずに勝手に決め付けてしまったのが発端でした。改めてお詫び申し上げます。お詫びがてら村樫さんにお電話したところ、構内の情景は写っていないが安比奈で撮ったED14自体なら別カットにあるとのお言葉。さっそくメール添付でお送りいただいたのが本日お見せする2枚です。いや、確かにED14 3、しかも西武の社紋まではっきり見えます。
▲上の写真と逆サイド。前照灯には仙山線時代のかなり深い庇が残されている。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

同様のご指摘は『西武の赤い電機』の著者・後藤文男さんからも頂戴しています。屋根形状の違いなどのほか、撮影年月が1961(昭和36)年11月であることからも、「ED14 3は1961年に西武に入線していますが、E61(国鉄ED11 1)は1962年ですので…」ED14 3に違いないとご指摘いただきました。沖田祐作さん作成のデータベースによれば、ED14 3は戦時中の1943(昭和18)年10月1日に八王子から作並に転属、仙山線交流電化まで使われたのち1959(昭和34)年11月に休車、翌1960(昭和35)年3月31日付けで廃車処分(総裁達173号)となっています。その後1961(昭和36)年6月9日に大宮工場に入場、譲渡のための整備を受けて出場したのが7月5日、このあと西武鉄道が一時的に借り受け、翌年(1962年)5月30日より正式譲渡された近江鉄道が使用を開始しています。つまり大宮出場から近江で実動するまでの空白期間は約10ヶ月。まさかこの空白期にしっかりと社紋まで入れられたED14 3が安比奈線を走っていようとは…安比奈線初の列車写真は二重の意味で驚異的な記録だったことになります。
ご指摘をいただいた寺田さん、後藤さん、そしてなによりもこの超貴重な写真をご提供いただいた村樫さん、ほんとうにありがとうございました。

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▲1963年版国鉄工作局形式図に見るED14。ちなみに3号機は1925(大正14)年4月GE+アルコ製(製番9663)で、国鉄(鉄道省)では当初1060形として就役した。
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E233系試運転に乗る。

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12月下旬から中央線東京─大月間と青梅・五日市・八高線、そして私鉄の富士急行で運用を開始する新型通勤電車E233系の報道関係者向けの試乗会が先週17日金曜日に開催され、新井副編集長がこの最新E233系を体験してきましたので、今日はその様子を紹介してもらうことにしましょう。
▲立川-日野間を快走するE233系T1編成試運転列車。折りしも長らく中央線の主として君臨してきた201系がすれ違う。頭上は青梅線のオーバーパス。'06.11.17 P:RM(新井 正)

233siten2.jpg三鷹駅で受付の後、上りホームの5番線へ移動すると、豊田電車区から回送されてきた編成がすでに吉祥寺方の折返し線でスタンバイしています。中央特快東京行きを退避した快速東京行きが出発するといよいよ入線です。この時が唯一走行シーンをカメラにおさめることができるとあって、高尾方のホーム先端は在京TV局、新聞社、そして鉄道誌のスタッフでごたっがえしていました。
▲三鷹駅中線に進入してくる試運転9233列車。待ちうける報道陣が熱い視線を注ぐ。'06.11.17 P:RM(新井 正)

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車輌は今月、新津車両製作所で落成したばかりの編成番号T1で、同製作所にとって初めて送り出すE233系でもあります。編成は、東京方1号車からクハE233-1、モハE233-1、モハE232-1、モハE233-201、モハE232-201、サハE233-501、サハE233-1、モハE233-401、モハE232-401、クハE232-1で、どの車輌も末尾は「1」で構成されるトップナンバー編成でした。
▲八王子駅で折り返しを待つT1編成。T車を含む10輌固定編成だ。'06.11.17 P:RM(新井 正)

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▲左右方向にスクロールする側面のLED方向幕(左)とTc車ファーストナンバーの車体標記。'06.11.17 P:RM(新井 正)
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▲運転台のモニタ装置(左)と車内側扉上部に設けられた情報表示装置。'06.11.17 P:RM(新井 正)

13時9分、E233系臨時9233列車は一路八王子へ向け出発。E231系に比べM車の比率がT車を上回っているため、どことなく頼もしさと力強さが伝わってくるような走りです。このまま加速し、中央特快の速さを体験できるかと思いきや、過密ダイヤの中に盛ったダイヤのため、2駅目の東小金井ではさっそく4分間の通過待ちです。

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▲実に明るくひろびろと感じるE233系客室内。E531と同様にドア部分の床は認識性を向上させるために黄色く塗られている。'06.11.17 P:RM(新井 正)

233siten10.jpgその間に室内を見渡してみましょう。インテリアデザインは常磐線に投入されたE531系をベースに設計されています。やはり目に付くのが側扉上部に備える2画面の運行情報表示器です。右画面には路線図、左画面には広告が表示されるものですが、中央線では初物! 路線図は、誰もが興味深く見入っていました。そして半自動化された側扉の操作ボタンはフラットなものが採用され、見た目にもすっきりとなりましたが、反面、分かりづらいのではとの思いも脳裏をよぎります。よくよく見ると各ボタンの輪郭部には透明の縁があり、LEDが埋め込まれています。折り返し駅の八王子では開くはグリーン、閉まるはレッドの光がここから放たれるという心憎い配慮がなされていました。まさに取り越し苦労でした。
握り棒は弓状のものに変更、天井に備える空調のリターン部には空気清浄機能が内蔵されていますが、本体は見ることができないのが残念です。

▲寒冷地区での保温性を考慮して側ドアには開閉スイッチも設けられている。写真はE233系独自のデザインとなった室内側の開閉スイッチ。'06.11.17 P:RM(新井 正)

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▲新津製を示す車内の製造銘ステッカー(左)。右は天井部分に設置されている空気清浄機。ブルーに光っている部分からイオンも発生してくる。'06.11.17 P:RM(新井 正)

13時17分、本線復帰です。左手によるワンハンド操作による運転はスムース。運転台に前面パネルには左からNO1メーター、TIMS、NO2メーターと並び、速度計、運転時刻、保安装置をそれぞれ表示していました。ちなみにこのコンソール形状は、東海道用E231系やE531系とは若干ですが異なっています。
1号車は女性専用車で、荷物棚と吊り手が他車より50mm下げられ、背の低い女性に優しい造りとなっています。なお、各車に設けられる優先席も同様で、こちらは袖仕切、仕切壁はクリーム色、握り棒は凹凸をつけた黄色のゴム、床はピンクの帯を配すなど明確な差別化が図られていました。

233siten13.jpg9233は13時42分、定刻に八王子駅の中線に到着。5分ほどすると隣の駅・豊田で抜いたE233系の下りの試運転列車が足早に抜き去って行き、ホーム上で新型車の並びが実現しています。さながらE233系化された1年半後の中央線を垣間見たようです。
E233系の落成スケジュールは、年内は10輌貫通編成が4本(全て新津製)、6+4輌の併結編成が4本落成(東急×3本、川重×1本)する予定で、12月下旬の営業開始に向け訓練運転も行われています。先日、11月8日~9日の深夜には五日市線、青梅線全線、八高線拝島─高麗川間で性能試験と運行情報表示器の試験走行が行われ、これで営業時に走行する全線に乗り入れたことになります。
▲武蔵小金井に休む201系たちを横目にE233が駆け抜ける。世代交代を実感させる瞬間だ。'06.11.17 P:RM(新井 正)

臼井茂信さんを偲ぶ。

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日本の車輌史研究に不滅の足跡を残された臼井茂信さんが亡くなられたのが1994(平成6)年11月4日。今日は横浜の菩提寺で十三回忌の法要が執り行われ、私もお身内に混じって参列させていただきました。臼井さんが亡くなられてから何かと親しくさせていただいてきた奥様も今年亡くなられ、奥様の一周忌と合わせての法要です。それにしても十三回忌と聞いて、歳月のあまりの速さに改めて驚きを禁じ得ません。
▲臼井さんが書斎に残された愛用のゴム印の数々。製造年、製造所、旧所属から,次葉へ繰越、頁へ転記などまであり、研究への取り組み方が垣間見える。

usuisan1na.jpg臼井さんとの最初の出会いは私がまだ学生だった頃に遡ります。大学鉄研のガリ版機関誌に掲載した「土工比爾異聞」という記事に興味を持たれてお声を掛けていただいたのが最初です。この「土工比爾異聞」は、ポル・ドコービルが生み出したドコービル・システムの将来性に着目した平野富二(石川島の創始者)が、琵琶湖疎水、横浜水道、そして足尾銅山へとドコービル・システムを伝播させてゆく状況を当時の文書をひも解いて解明しようとしたもので、すでに「ドコービール小史」や「ドコービールの発見」(『鉄道ファン』No.112)を記されて、わが国のドコービル・システムに強い関心を持っておられた臼井さんのお目にとまったものです。
▲浜松市の公園で保存されていた雨宮製のケ91を前に解説する臼井さん。聞き入っているのは湯口 徹さん。'84.12

IMGP9965n.jpg以後、臼井さんを慕う同好の士とともに毎月のようにお会いし、あらゆる面で薫陶を受けてきました。ご自身、長く東大の生産技術研究所にお勤めになりながらも、鉄道は“趣味”と強く割り切っておられ、終生そのスタンスを崩されませんでした。ある時、「10のうち9つが同じであるのを論証するのが“学問”なら、10のうちひとつの違いのを発見するのが“趣味”だよ」とおっしゃられたのが今でも強く印象に残っています。さらに臼井さんは写真に関する造詣も深く、形式写真のシャドウ部のディテールをいかに紙焼き上に再現するかに並々ならぬ熱意を傾けておられました。単薬を調合し、“二度焼き”と名づけられた類例のない特殊な方法でプリントされたモノクロ写真は、今もってどんなプロラボたりとて再現不可能な素晴らしものです。
▲一周忌に合わせて行われた「臼井茂信さんを偲ぶ会」(1995年)で頒布された『軌跡 ?臼井茂信の鉄道史研究60年?』。青木栄一さん、黒岩保美さん、西尾源太郎さん、宮田寛之さん、そして私の5名が発起人となってまとめたものだが、その後、黒岩さんも亡くなられてしまった。

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親しくお付き合いいただいていながら、残念ながらRM本誌にはご登場いただけないままとなってしまいました。ただ、ある時、臼井さんの方から「トワイライトゾ?ンに富士鉄釜石のことを書こうか…」と嬉しいお申し出を頂戴したことがあります。富士鉄=富士製鉄(のちの新日鉄)釜石製鉄所の鉄道と機関車については今もって解明されていない部分が多く、臼井さんご自身も『SL』(No.1)に概要を書かれているに過ぎません。これは願ってもないことと欣喜雀躍したものの、その後体調を崩されてしまい、私にとっても果たせぬ夢となってしまいました。
▲仙人峠を巡る鉄道は臼井さんの大きな研究テーマのひとつだった。写真はいつかまとめて発表を…とおっしゃっておられながら果たせなかった富士製鉄(新日鉄)釜石製鉄所の200形208号(1942年立山製)。'64.11 P:臼井茂信

本格的な冬の到来を感じさせる雨の中を十三回忌に臨み、改めて臼井さんの遺されたものの大きさに思いを馳せた一日でした。

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早いもので書店の店頭には来年のカレンダーが所狭しと並べられていますが、先日、このブログでも何回かご紹介したことのある英国人ファン、テッド(Ted)ことエドワード・タルボット(Edward Talbot)さんからカレンダーが送られてきました。ところがただの英国の保存鉄道のカレンダーとばかり思って中を開けてびっくり、“Steamy Ladies calendar”と銘打たれたこのカレンダー、なんとヌード・カレンダーではないですか!
▲“Steamy Ladies calendar”表紙。右下にマックミラン・キャンサー・リリーフ・ファンドへの協賛であることがうたわれている。

IMGP9956n.jpg英国人も趣味の悪いジョークをやるものだなと思いながらテッドの手紙を読み進むと、どうもとんだ勘違いで、このカレンダーには実は深い背景があったのです。ウェールズにあるフェスティニョグ(FFESTINIOG)鉄道(ウェールズ語のため発音は非常に微妙ですが…)のボランティア、エミリー・シャープさん(27)がこのカレンダーの発案者。奇抜なアイデアに思えるこのカレンダーの収益をマックミラン・キャンサー・リリーフ・ファンド(Macmillan Cancer Relief Fund)に寄託しようというのです。マックミラン・キャンサーはその名のとおり癌(Cancer)の治療とサポートに取り組む英国の巨大な福祉ファンドで、数年前から同様の手法で他業種のカレンダーも作成されているのだそうです。
▲機関士、助士、車掌、出札窓口から駅のパブまで、あらゆる職場で働く姿が各月の絵柄となっている。1月は車掌(Guard)を務める19歳のヘレンさん。すでに5年もフェスティニョグ鉄道のボランティアをしている法学部の学生さん。

IMGP9958n.jpgエミリーさんの呼びかけに集まったのは、11人の女性たち。いずれもフェスティニョグ鉄道の職員やボランティアで、発起人(?)のエミリーさんも本職は本線EWS(English,Welsh and Scottish Railway)の貨物列車の運転士さんだそうです。ノース・ウェールズ・デイリー・ポスト紙によれば、2000部製作したこのカレンダーを一部7ポンドで販売し、その売上の65%をマックミラン・キャンサー・リリーフ・ファンドに寄託する計画とのこと。保存鉄道を運営するボランティアがさらにその先のボランティアに取り組んでゆく…保存鉄道大国=イギリスの底力を思い知らされる“Steamy Ladies calendar”です。
なお、上のリンクをクリックすると“Steamy Ladies”のホームページに飛べ、各月の内容を閲覧できるとともに、ネット上で購入することも可能です。
▲10月の煙管掃除をしている姿はこのカレンダーの発起人のエミリーさん。27歳にしてすでにボランティア歴10年で、本職の本線運転士の合間を縫ってフェスティニョグ鉄道の機関助士や車掌のボランティアをしているという。

発見! 安比奈線列車写真。

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11月1日の本欄でいままで一枚たりとも発表されたことのない「西武安比奈線」の列車写真をお持ちの方は…と呼びかけたところ、さっそくレスポンスを頂戴しました。季刊『国鉄時代』に「霧島越え」や室蘭本線のC51など、迫真のモノクロ作品をご発表いただいている村樫四郎さんからで、走行写真ではなく安比奈の構内で写したものですが…と控えめなコメント付きでお送りいただいたのは、南大塚への折り返しを待っている貨物列車の姿。トラ501の列の先頭には明らかにE61の姿が見えます。まさにこれこそ、わが国で公開された初めての安比奈線上の列車写真にほかなりません。
▲本邦初! 安比奈線上の列車写真。観音開きのトム501形の列の先頭に立つのはGE製のE61(もと国鉄ED11 1)。角度から見て安比奈事務所脇の側線(中線)で、列車は夕方の4002列車、機関車は南大塚寄りに連結されていることになる。かなたにはちょこっとルールタール製機関車の後ろ姿が見える。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

ahinamurakasisann11.jpg当時、村樫さんは所属していた慶応鉄研のお仲間と一緒に安比奈を目指したのだそうで、やはりお目当てはコッペルの“E”。ただ、時すでに遅く、3輌の“E”は十年ほど前に火を落としてしまい、行き交うダンプの砂塵を浴びて路傍に放置されていました。ご他聞にもれず村樫さんも主目的が“E”だけに、安比奈線の列車そのものはほとんど記憶がないそうで、お送りいただいた写真も、いわばついで(失礼…)に撮った一枚。しかしその一枚が、長年にわたって発見されなかった貴重な記録だったのです。
▲もと鉄道聯隊の“E”。すでにこの時点で廃車体となって道路脇に放置されていた。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

ahinamurakashisan4.jpgこのE61の牽く貨物列車の写真とともに、村樫さんは同時に写した何枚かの安比奈構内の写真を送ってくださいました。哀れな姿をさらす鉄聯の“E”の横をゆくのは加藤製とおぼしきディーゼル機関車に牽かれた600㎜軌間(鉄聯の資材を流用しているため2フィート=609㎜ではなく、メトリックの600㎜)の砂利列車の姿です。貨車ももと鉄道聯隊の軽貨車を改造したト1形やト50形です。なにゆえ安比奈にこのように旧鉄道聯隊の車輌が集結したのかはいまだに不明ですが、“E”が安比奈入りしたのが1947(昭和22)年、この頃、西武鉄道は千葉の鉄道聯隊にあった資材を大量に導入しています。余談ながら西武山口線もレール等の資材はこの際の鉄聯発生品を利用して建設されたと伝えられています。
▲“E”の向こうをディーゼルにとって代わられた600㎜ゲージの砂利運搬列車がゆく。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

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▲もと鉄道聯隊の軽貨車を改造した鋼製のト100形2輌を牽いて安比奈線への積み込みホッパーへと向かうDL。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

ahinamurakashisan5.jpg1970年代までこの安比奈の河原で無残な姿を晒していた3輌の“E”(E16、E18、E103)は、その後西武鉄道の手によって回収され、ユネスコ村に保存展示されるなどされましたが、それ以外の安比奈に関わる車輌はことごとくスクラップされてしまい、今となっては実物を目にすることはできません。ちなみに3輌の“E”のうちE103は丸瀬布いこいの森に譲渡され、さらに近年、生まれ故郷であるドイツの保存団体に引き取られて帰国を果たしています。現在はフランクフルト近郊で動態復元を目指してフルレストア中だそうで、あの安比奈の河原で朽ちるかに思われた蒸機が、遥かヨーロッパの地で再び煙を上げる日もそう遠くはないかもしれません。
▲ルールタール(Ruhrtaler=ドイツ)製内燃機関車の廃車体。ルールタール製の機関車は日本国内では極めて珍しく、ほかには早岐機関区の入換機が確認されている程度。ちなみに特徴的な楕円形の正面窓からのぞいているのは若かりし頃の村樫さんご本人。'61.11 安比奈 P:村樫四郎

“富士急のワフ”後日談。

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先日、このブログで富士急行の撮影行をご紹介し、そのなかで下吉田駅構内で保線用倉庫代用として残されているワフ1・2をお目に掛けましたが、このワフに関して、ブログ「ちょっと楽しい鉄道と趣味の独り言」で毎回楽しい話題をご披露くださっている京都の高橋 修さんからたいへん面白いレスポンスを頂戴しました。
▲ED5201形に牽かれて入換え中のワブ503。四半世紀前までは毎日見ることのできた光景だった。'82.3.27 和歌山市 P:高橋 修

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まずこのワフですが、もと南海電気鉄道の車輌で、同線の昇圧が完成する前後に廃車となったものなのだそうです。富士急行に譲渡されたのは1973(昭和48)年9月付けで廃車となったワブ513・517の2輌。ちなみに弘南鉄道にも1971(昭和46)年7月付けで廃車となった2輌(ワブ505・523→弘南ワフ511・512)が譲渡されているとのことです。
▲同じく和歌山市駅構内の情景。かなたにはED5201形電機がたむろしている。'82.3.27 和歌山市 P:高橋 修

nankai3n.jpgここまで聞いて灯台下暗し…昨年の『トワイライトゾ?ン・マニュアル14』でB滝さんがその名も「南海のワブ」と銘打った記事を書いているのを思い出しました。それによれば、南海の“ワブ”は1930(昭和5)年に田中車輌と梅鉢鉄工所で38輌製造された有蓋緩急車ワブ1形1?38を前身とし、戦後の1949(昭和24)年に形式変更でワブ501形となったものだそうです。特徴的な緩急室と逆端の“デッキ”は末期の改造だそうで、入換え時の使い勝手を考慮して設けられたもののようです。
▲構内に留置中のワブ512。南海ならではのニス塗りの窓枠が誇らしい。'82.3.27 和歌山市 P:高橋 修

高橋さんは「当時はすでに天王寺側の貨物がなく、南海の貨物を見ようとすると和歌山まで行かなくてはなりませんでした」との注記付きで1982(昭和57)春に和歌山市で撮影したワブの写真を送ってくださいました。南海電気鉄道が貨物輸送を廃止したのは1984(昭和59)年2月。最後まで残ったワブは502、503、511、512、515、518、519、556の8輌だったと言います。

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ところで、高橋さんはこの現役時代のワブの写真とともに、オマケ(?)ですと、ちょっと面白い画像を送ってくださいました。なんと南海のワブのテールライトです。しかもご本人が十年以上前にフリーマーケットで3000円也で入手されたものだそうです。“とんがり帽子”が南海の証です…とご本人。しかも関西私鉄らしく標識灯と尾灯の切り替えができるようになっており、“とんがり”の部分を回すと「赤」「無灯(黒ガラス)」「無し(白色)」と切り替えられるのだそうです。
▲“とんがり帽子”を回すと色が切り替えられる…とはいうものの、電気的に切り替えるのではなく、ご覧のようにフィルターが回る実にプリミティブな構造。P:高橋 修

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▲国鉄紀勢本線直通乗り入れ「くろしお」のサハ4801を牽引する南海2000系。先頭部には例の“とんがり帽子”がしっかり見える。'52.8.31 天下茶屋 P:高橋 弘

1952-9-22-001-1n.jpgさらに面白いのはこの“とんがり帽子”の役割です。高橋さんのお父様は古くからのファンとして高名な高橋 弘さんで、お父様に伺った話としてこんな話を披露してくれました。
「モノクロ写真…当然おやじの写真です。南海南紀直通客車列車”くろしお”サハ4801を牽引する2000形。電車にも使われていた”南海とんがり帽子”テールライト。おやじの話によると戦中・戦後の混乱期にお客さんが電車の外に乗るのに出っ張り部に足をかけて乗る人が多かったそうです。しかしテールライトに足をかけてもテールライト自体は車体に引っかかっているだけですのですぐに外れてしまいます。そこで人が乗れない(足をかけられない)ようにテールライトの上に”とんがり”を付けたそうです。因みにもう一枚の名鉄揖斐線のモ451形の写真にも名残があります」。
▲こちらは名鉄揖斐線のモ451。“とんがり帽子”ではないものの、やはり足掛け防止用の“帽子”(三角錐?)が付いているのがわかる。'52.9.22 美濃北方 P:高橋 弘

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▲近鉄(元参急)の2200系(2300系)にも小さな“とんがり帽子”が取りつけられていた。'52.6.22 鶴橋 P:高橋 弘

うーん、なんとも深い話です。てっきり“とんがり帽子”はただのデザインとばかり思っていたのですが、そんな事情があったとは…。富士急撮影記からとんでもない方向に話が飛びましたが、高橋さんには感謝感謝です。

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来年度(平成19年度)の開業を目指して工事が進んでいる「新交通システム日暮里・舎人線」(仮称)の車輌が完成、10月17日から都立舎人公園(足立区)内に建設中の車輌基地への搬入が開始されました。また、公募されていた路線名ならびに駅名も11月13日に発表され、路線名は「日暮里・舎人ライナー」に決まりました。
▲最終的には頭上が舎人公園の一部になる車輌基地に搬入された日暮里・舎人ライナーの第一編成。5輌編成で、車号は301-1?301-5と付番されている。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

toneri-002n.jpgこの日暮里・舎人ライナーは、これまでに軌道系交通機関の空白地帯だった東京都足立区の舎人地区と、山手線などと接続する日暮里とを結ぶ路線で、見沼代親水公園?日暮里間9.8kmを約20分で運行する予定です。先輩格の新交通システム“ゆりかもめ”などと同じ側方案内軌条方式を採用しており、東京都が軌道の支柱、桁、駅部の主要構造物を建設し、東京都地下鉄建設(株)が車輌、電気、通信などの各種設備の整備を行なう分担となっています。
▲車内はロングシートを基本として車端部のみクロスシートの配置。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

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▲車端部のクロスシート(左)。右は運転台で、“ゆりかもめ”同様、通常の運転時には自動運転のため使用されない。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

toneri-004n.jpg今回完成した車輌は1輌長さ9mの5輌固定編成。直線的なデザインの車体はステンレス製無塗装で、自然と街の活性化をイメージした緑と桃色の帯が配されています。車内はロングシートが主体ながら、各車とも車端部にはクロスシートが配され、また編成中央の3号車の両車端には車椅子スペースが設けられています。
▲3号車の両車端部に設置される車椅子スペース。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

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▲荒川と隅田川を渡る熊野前?扇大橋間は尾久橋通の東側を並んで走る。写真は荒川で、高架橋に並んで見える橋が尾久橋通の扇大橋、画面奥で交差しているのは首都高速中央環状線。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

toneri-006n.jpgなお、車号は第一編成の場合は日暮里方先頭が301-1、見沼代親水公園方先頭が301-5で、ハイフン前の下二桁が編成番号、ハイフンの次が号車番号と設定されています。最終的には全12編成60輌が投入される予定とのことで、開業の暁には東京北部の交通体系は間違いなく新時代を迎えることになります。
▲日暮里駅付近。路線のほとんどの部分はこのように尾久橋通の中央部に高架橋が通る。'06.11.14 P:RM(高橋一嘉)

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新交通日暮里・舎人ライナーパンフレットより。  クリックするとポップアップします。

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先日、「“垣間見た”温根湯森林鉄道跡」で、“ネットで地図履歴を検索して比較的容易に旧版の地形図のコピーを手に入れられる現在…”と書いたところ、何人かの方から旧版地形図の入手方法の問い合わせをいただきました。『トワイライトゾ?ン・マニュアル』(第1巻/1992年刊)で「トワイライトゾ?ンの歩き方」として旧版地形図の閲覧・入手方法をご紹介していますが、考えてみればあれから実に14年、ご存知ない方も少なくないはずです。そこで今回は旧版地形図の入手方法を改めてご紹介してみましょう。
▲科学技術館の向かい、内堀(清水濠)に面した九段第2合同庁舎。東京法務局が入るこの建物の9階に閲覧室がある。'06.11.14

IMGP9945n.jpg地形図、ことに5万分の1地形図はかつては基本図だったこともあって(現在は2万5千分の1地形図が基本図)、戦前から改測(測量しなおし)、修正(現地再調査)、資料修正(現地調査を行なわず資料で修正)、応急修正(1948?1953年にかけて米軍資料により応急的に修正)などを繰り返されており、図幅によっては明治時代から20版を超える改版を経てきているものさえあります。まさに国土を網羅した基本図で、過去帳入りした鉄軌道もほとんどがいずれかの図幅に記載されているはずです。それだけに旧版地形図の資料性は計り知れません。ところがかつては古書市や古書店で探すしか手段がなく、今風に言えば“レアもの”以外の何者でもありませんでした。その後、国土地理院の閲覧室でマイクロフィルムを閲覧してコピーを入手できるようになりましたが、これとて膨大な量のマイクロフィルムの中からお目当ての図幅を見つけ出すのはそれこそひと苦労でした。
▲エレベータを降りるとすぐに「測量成果閲覧室」の案内が目に入る。私たちのような地形図目的の利用者ばかりでなく、各種測量成果を閲覧にくる不動産関係の方や、航空写真が目的の人も多い。'06.11.14

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ところが現在は急速にコンピュータ化が進み、実に効率的に旧版地形図を検索・閲覧できるようになりました。まずは国土地理院のホームページにアクセスし、「地図・航空写真」をクリック、次画面で「図歴」をクリックすると、全国の20万分の1地勢図、5万分の1、2万5千分の1地形図をプロットした日本地図が現れます。検索したいエリアをさらにクリックすると、これまでに発行された図歴が表となって表示されます。残念ながら個人のPC上からのアクセスはここまでで、画像として地形図そのものを閲覧することはできませんが、修正履歴を見ながら“あたり”をつけるには充分で、「リスト番号」も控えておけばコピーの入手も楽です。
▲東京近郊の地形図図歴検索画面。この画面から検索したいエリアをクリックすると下の図歴リスト画面にとぶ。
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さて、肝心の旧版地形図のコピー(正確には旧版地図の謄本)の入手方法ですが、交付窓口は国土地理院本院(茨城県つくば市)と関東地方測量部(東京都千代田区)の2箇所です。各地方測量部でも管内の旧版地図の閲覧はできますが、コピーはできず、なおかつ全国のすべての地勢図・地形図が閲覧・コピーできるのは上記の2箇所となります。ただし、東京の関東地方測量部ではカラーのコピーはできず、すべてモノクロ出力となりますので、どうしてもカラー出力を入手したい場合はつくばの本院にまで出向かねばなりません。実際に地図を閲覧せずとも交付を受けたいという場合は、所管する国土交通省オンライン申請システムから申し込み、郵送で交付を受ける方法もあります。

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▲5万分の1地形図(東京東北部)と2万5千分の1地形図(東京首部)の図歴リスト。5万図にいたっては27版にわたって改版が重ねられていることがわかる。
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▲これが測量成果謄本交付申請書。裏面(画面右)に図名・リスト番号等を記入して窓口に提出する。必ず収入印紙が必要となる点が注意。郵送もしてくれる。
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関東地方測量部調査課成果係(閲覧室)は地下鉄九段下の駅からほど近い九段第2合同庁舎9階にあります。閲覧室に入るとパソコンがずらりと並んでおり、さきほどの手順と同様に旧版地図を検索することになりますが、ここのPCでは最終画面の図歴の「リスト番号」をクリックすると実際の旧図がモニター上に表示されます。もちろん拡大も自在にできますから、事前に“あたり”をつけた図幅を画面で実際に確認することが可能です。あとは備え付けの「測量成果の謄本交付申請書」に希望するリスト番号・図幅名等を記入して受付窓口に提出するだけです。料金は新1万分の1図を除いて1枚500円。現金での支払いはできませんので、地下1階のコンビニで収入印紙を購入して提出します。枚数が十枚程度であればほとんど待ち時間もなく入手することができますし、別途郵送料を払って後日郵送してもらうことも可能です。

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▲地理調査所1:50000地形図「沼宮内」(昭和33年8月30日発行)に見る奥中山十三本木峠へのアプローチ。旧版地形図は地図記号自体も現在より種別分けが多く、生垣・竹垣まで描き分けられているので見ているだけでも楽しい。
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いや、何とも便利になったもので、閲覧室の職員の皆さんも実に親切で気持ちよく検索・閲覧ができます。かつて大手町の合同庁舎にあった頃は、なかなかとっつきにくい雰囲気で、なおかつ窓口受け取りか郵送かを記入する欄に「出頭/郵送」とあったのに面食らった覚えがあります。何も悪いことしてないのに“出頭”しなけれればならないのか…と悲しくなったのも今は昔、この旧版地図閲覧・コピー、皆さんも是非ご活用ください。
なお、現行の全国の2万5千分の1地形図は、国土地理院が試験公開している地図閲覧サービス「ウォッちず」でどなたでもネット上での閲覧が可能です。

再び脚光を浴びるC51 5。

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オープンまで一年を切ったさいたま市の「鉄道博物館」ですが、展示車輌のラインナップにハニフ1が増えるなど、さらにパワーアップしてきています。そしてもうひとつ注目なのが、当初のリストにはなかった「C51」の文字が見られる点です。運営する東日本鉄道文化財団からまだ正式な発表はありませんが、現在残されているC51は全国でわずか4輌。5号機(青梅鉄道公園)、44号機(秋田総合車両センター)、85号機(鹿児島総合車両所)、それに梅小路蒸気機関車館の239号機の4輌で、状況から鑑みて青梅鉄道公園の5号機に白羽の矢が立てられたのは間違いないでしょう。
▲D51 452のキャブからC51 5をのぞむ。このC51 5が40年以上を過ごしてきた青梅の地を去る日も近いはずだ。'06.10.8

ohme2.jpgC51 5は1920(大正9)年1月浜松工場製。18900形として新製された第一ロットにあたり、形式改定前の形式番号は18904。ながらく西日本で活躍し、1962(昭和37)年2月28日付け亀山機関区で廃車されています。『国鉄時代』第5号では宮内明朗さんが1962(昭和37)年1月に撮影された伊勢市支区時代の貴重なカラー写真をご紹介下さっていますが、残念ながらこの時点ではすでに一休となって火を落としていたようです。
▲磨き出されたテンダーのナンバープレート。「C」の左側に直線部があるのは鷹取工場施工プレートの特徴(RMライブラリー『国鉄蒸機の装備とその表情』参照)。「17立方米」の小さなプレートは炭水車形式を示すもの。'06.10.8

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大正の名機C51が保存展示車輌のラインナップに加わったことで、鉄道博物館の実車展示もますます“厚み”を増してきたといえるでしょう。こうなると昭和を代表する大型蒸機がほしいところですが、なぜかC59もC62も東日本管内には1輌も保存機がなく、残念ながらこれはかなわぬ夢です。
▲デッキ部裾が直線に欠き取られ、前部にヒンジが付けられた「大鉄式」のデフレクターを持つC51 5。289輌の多きを数えたC51だが、全国を見渡しても、現在残っているのはわずか4輌しかない。'06.10.8

oumec51n.jpg余談ですが、このC51 5で思い出すのが今から24年前、1982(昭和57)年秋に起こった転落事故です。9月12日、折からの台風12号に伴う集中豪雨で青梅鉄道公園脇の崖が崩れ、手前に展示されていたC51 5が崖下に転落してしまったのです。幸い人的被害はなかったものの、鉄道公園の展示車輌が転落するという前代未聞の事態、そしてそれがこともあろうにわずか4輌しか残されていないC51とあって、大きなショックを受けたのを覚えています。写真は転落から3ヶ月を経てビニールシートに覆われたまま復旧を待つC51 5の悲惨な姿ですが、関係者のご努力もあって翌年3月には引き上げられたうえ、現地で復旧整備されて今日に至っています。もしあの時、復旧を断念されてしまっていたら…真新しい鉄道博物館の「歴史ゾーン」で御料車の先頭に立つC51の姿を見ることはできなかったに違いありません。
▲台風12号による土砂崩落で崖下に転落してしまった際のC51 5。バックには転落を免れたED16とマイテ39の姿も見える。'82.12.12

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日本でJMRAによる第27回鉄道模型ショウが行われていた先々週の土曜日、イギリスはロンドン近郊のスワンレーでは、これまた恒例の“エキスポ・ナローゲージ”が開催されました。アメリカの“ナローゲージ・コンベンション”、フランスの“エキスポ・メトリック”と並んで、私は勝手に世界3大ナローゲージモデルエキジビションと呼んでいます。今年は同期でヨーロッパに単身赴任中の岡山英明君が現地入りして写真を送ってくれました。
▲文字通り十年一日のごとくかわらない会場の“ホワイトオーク・レジャーセンター”。背後のバスケットボールのゴールでもわかるように、普段は市民のスポーツイベントなどが開かれるただの体育館。'06.10.28 P:岡山英明

en3.jpg私が初めてこのエキスポ・ナローゲージに参加したのは今から11年前のことです。世界3大…とは言うものの、そのあまりのローカルイベントぶりに面食らってしまった記憶があります。とにかくその会場が拍子抜けです。ロンドンのヴィクトリア駅から近郊電車で30分ほどに位置するケント州スワンレー駅が会場最寄駅ですが、まずこの駅が各停しか停まらないマイナー駅。しかも駅にはイベントを告知する案内ポスター一枚なく、尋ね歩いてたどり着いたのはどう見ても市民体育館としか見えない会場…わざわざロンドンまで来ながらこれは大失敗と落胆しつつ中に入ったのを鮮明に覚えています。ところが、会場に入ってみるとその濃密さたるや尋常ではなく、数時間後にはすっかりこのイベントに魅了されてしまったのでした。
▲出店業者はいずれもバックヤードビルダーといった風情。派手なディスプレーはないものの、カウンターの内側と外側の距離感が心地よい。'06.10.28 P:岡山英明

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岡山君も画像を送ってきたメールの冒頭に「開催わずか一日だけのマイナーな催事と思いきや、私の到着した開場30分後にはすでにご覧のような人だかり(中略)昼の12時半に受付で訊いたところ、入場者は約700人!とのことで、大きな体育館が本当に狭く感じられました」と書いていますが、このエキスポ・ナローゲージの熱気は、アメリカのコンベンションともまったく異なるものです。
アメリカのコンベンションと違って展示されるレイアウトも小規模で、その面では日本人にもシンパシーを感じやすい。小スペースながらスケールは7㎜(1:43.5)や3/8in(1:32)が幅をきかせているのもかの地ならでは。▲'06.10.28 P:岡山英明

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▲微細なディテールまでエッチング+半田付けで組ませようというキットが少なくない。左はワースレィ・ワークス製のデッカー・ペトロールエレクトリック機。右はエッチングとホワイトメタルを組み合わせたラストン・ホーンスビーDLキット。'06.10.28 P:岡山英明
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▲2㎜スケール、つまりはNスケールのナロー“Nn”も若干見られる。写真左は“2㎜ Scale Association Narrow Gauge Group"の展示。右はレジン製の各種DLキット類。“Tenshodo Power Bogies”を使う、とある。'06.10.28 P:岡山英明

「出店ブースもレイアウト関係はもとより、レジンモデルや真鍮キット、エッチング板など、ひと手間もふた手間もかける製品が多く、Ready to Run志向のアメリカとは一味違うと思った次第です」と岡山君。たしかに今年のナローゲージ・コンベンションでも、On30の台頭に象徴されるように、アメリカのナローゲージ・モデルシーンは眉間に皺を寄せて“作る”より、DCCを組み込むなどして手軽に楽しむ方向にシフトしつつあるようです。シーナリィなどのテクニックも、最近では新たな手法を生み出し発表するのは欧州勢が主流となってきており、グローバルワイドでの状況は緩やかに変化しつつあるのかもしれません。

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ところで、先のデュランゴのナローゲージ・コンベンションの際、エアポート・セキュリティーで出店できなかったとお伝えしたスモーキーボトムランバーの店主・リチャードさんも会場におられ、事情をうかがうことができたそうです。なんでも英国からコロラドへ送った荷物がデュランゴの会場に届いたのがコンベンション最終日の終了2時間前。しかも品物の一部は破損してしまっており、さんざんだったとのこと。ご本人はずっとPBLのブースにおられたのだそうですが、面識のある岡山君も昨年まで髪がふさふさしていたのにスキンヘッドになっていたので気がつかなかったのだそうです。
▲英国のナローゲージャーは“Quarry”が大好き。直訳すると石切り場だが、スレート鉱山などをさす場合が多い。ウェールズに数多く残るナローの保存鉄道も、多くはこの“Quarry”用インダストリアル・ナローが原点。'06.10.28 P:岡山英明

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会場の“ホワイトオーク・レジャーセンター”外観と最寄のスワンレー駅。いかにもこの時期の英国らしいどんよりした天気だ。▲'06.10.28 P:岡山英明

このエキスポ・ナローゲージが終わると、ロンドンは一気に冬の装いとなるはずです。来年の開催日は10月27日(土曜日)。ひさしぶりにあの“ホワイトオーク・レジャーセンター”に足を向けてみたいものです。

富士急行を訪ねる。

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今日は趣味の大先輩・宮澤孝一さんとお仲間に誘われて富士急行を訪ねてきました。あいにく午前中は小雨まじりの天候で、肝心の富士山を拝むことはできませんでしたが、午後からは薄日も差し、ゆっくりと各所を見てまわることができました。
▲MGB(旧BVZ)との姉妹提携15周年を記念して特別塗色となった1205+1305「マッターホルン号」が河口湖を目指す。'06.11.11 三つ峠-寿

IMGP9942n.jpgこのブログでもご紹介したように、つい二ヶ月ほど前、仕事でリニア実験センターを訪れた際に、綺麗になって河口湖駅前に保存展示されたモ1を見に行っていますから、久しぶりという気はしないものの、私にとって富士急そのものを撮影するのは何十年ぶりかとなります。もっとも座長役の宮澤さんにいたっては、最初に撮影したのが富士山麓電気鉄道時代だそうですから、恐れ入って言葉もありません。
▲これが「マッターホルン号」。塗色は本家MGBの意匠を踏襲している。'06.11.11 河口湖

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さて、JRのパノラマ・エクスプレス・アルプスを改造した「フジサン特急」や「トーマスランド号」など奇抜なアイデアで注目を浴びる富士急ですが、この9月19日から今度は「マッターホルン号」を名乗る1000系(旧京王5000系)が走り始めています。鮮やかな赤と白に塗り分けられた1205+1305の2連は、富士急がスイスのマッターホルン・ゴッタード鉄道(MGB・旧BVZ)と姉妹鉄道の提携を結んで15周年となるのを記念して塗装変更されたもので、MGBの塗装デザインを極力忠実に再現したものとなっています。噂には聞いていたものの、果たして現車はどんなものだろうかと興味津々だったのですが、これがどうしてなかなか堂にいったもので、沿線風景にも結構マッチしています。同行のお歴々の評判も上々で、この「マッターホルン号」、富士急の新しい顔としてちょっと注目です。
▲こちらは5000系による「トーマスランド号」。富士急ハイランドに「トーマスランド」ができたのが1998年、それ以来走り続けているが、デザインは一度変更されている。'06.11.11 三つ峠-寿

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▲国鉄が生んだ最後のジョイフル電車「パノラマ・エクスプレス・アルプス」を分割して3連2編成とした「フジサン特急」2000系(左)と、「ホリデー快速河口湖号」としてJRから乗り入れてくる183・189系(右)。旧あさま色と国鉄特急色が仲良く並んだが、「快速」の方向幕はどうも締まらない。'06.11.11 三つ峠-寿/河口湖

残念ながら今回出会うことはできませんでしたが、中央線から直通で乗り入れてくる201系も注目株です。もちろん間もなくE233系に置き換えられて見ることができなくなるからです。ただし、時刻表をご覧になるとお分かりのように、201系の直通列車は夜21時過ぎに河口湖に到着し、翌早朝「東京行」として折り返してゆく2往復のみ。富士急線内で撮影するのは結構な覚悟が必要です。

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▲下吉田の保線区には倉庫代用として2輌のワフが遺されている。踏切横の側線はなかなか模型的雰囲気。'06.11.11 下吉田
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▲木造車を鋼体化したワフ1とワフ2。今となっては全国的にも貴重な社車の緩急車だ。側面には「運転士・車掌」の名札入れもしっかりと残っている(右)。'06.11.11 下吉田

間もなくE233系の乗り入れに対応するためのハンドル訓練も開始されると思われ、富士急線内ではますますバラエティー豊かな電車たちが見られるはずです。

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留辺蘂から温根湯へ、そしてその先の塩別、常呂方面へと、軌道跡はとにかく呆れるほどまっすぐに伸びています。北海道では農地部の軌道跡はあっという間に道路化されるか、路盤を崩されて跡形もなくなってしまいますが、これは大規模農業が中心の北海道ならではで、巨大な農業機械の取り回しの必要性によるもの…と聞いたことがあります。実際、この日も“内地”では目にすることのない巨大な収穫用機械が、軌道跡の回りの畑でしきりにうごめいていました。
▲ケショマップ沢へ分け入ってゆく支線は橋も架け替えられてすっかり立派な道路となっていた(下掲地形図▲地点)。写真は無加川に架かる支線の厚林橋。画面手前が厚和地区。'06.11.4

onneyuphgakkou.jpgさて、この温根湯森林鉄道、1920年(大正9)年着工と道内では最も古い森林鉄道で、軌道の延伸とともに主流・無加川の各支流にも多くの支線を伸ばしてゆきました。今回は時間の関係もあって厚和地区からケショマップ沢へ分け入る軌道跡だけを覗いてみましたが、残念ながら、橋台を含めて痕跡らしい痕跡を発見することはかないませんでした。
▲厚和の小学校跡から無加川沿いの本線軌道跡を見る。画面前方が温根湯・留辺蘂方面。'06.11.4

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▲5万分の1地形図に見る温根湯森林鉄道。▲印の地点がトップ写真の撮影場所。(国土地理院1:50000地形図「北見富士」昭和33年4月発行より転載)
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ところで、営林局境をまたいで軌道を延伸することは通常考えられませんが、この北見営林局温根湯森林鉄道に限っては、石北峠を越えて隣接する旭川営林局管内の層雲峡にまで本線が延長されています。これは1954(昭和29)年の台風15号による風倒木処理に対応するための緊急処置とされており、この延伸がわが国の森林鉄道では最大のディーゼル機関車を誕生させることになります。

onneyuphkawa.jpgその辺の事情を、小熊米雄さんは著作『北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について』のなかで「特に温根湯森林鉄道は、昭和29(1954)年秋の15號颱風による風倒木処理のため石北国境越への延長線があり、留辺蘂貯木場・層雲峡山元土場間、52.0kmで、そのうち層雲峡山元土場・大町中継土場間、16.1kmの逆勾配を含む区間では、運材列車用として、主にB?B15ton」が使用されるようになったと記述しておられます。通常山奥から搬出される木材は、勾配を下って国鉄駅に隣接する貯木場に集められます。つまり盈車(積車)が勾配を登ることは想定されていないのです。ところが温根湯森林鉄道は石北峠(西 裕之さんによれば、営林署では局境であることから旭北峠と呼んでいたようです)を越えてしまっていますから、当然、層雲峡側から峠の頂上までは木材を満載した運材列車が勾配を登らねばなりません。そこで緊急避難的に考案されたのが、わが国初の自重15tの森林鉄道用B?Bボギー式ディーゼル機関車だったのです。
▲無加川の清流は北海道ならではの清清しさを感じさせてくれる。温根湯森林鉄道はこの清流を石北峠へと遡っていった。'06.11.4

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▲盈車を牽引して石北峠の逆勾配を登る協三工業製15tボギー式機関車。写真は28号で、1955(昭和30)年製の第2ロット車。(日本産業車輌協会『Industrial Rolling-stock & Trucks in Japan 1957』より。

rubeshibedlhyou2n.jpgかつて私が路線の特異さとともに温根湯森林鉄道を記憶した理由のひとつに、このB?Bボギー式ディーゼル機関車の存在がありました。時あたかも老舗・酒井工作所が森林鉄道用超小型ボギー式ディーゼル機関車の試作を開始した頃でしたが、温根湯森林鉄道では福島の協三工業が製造した自重15tという従来の森林鉄道用機関車の概念を越える大型機を導入しました。協三としても初のボギー式ディーゼル機関車です。搭載ディーゼル機関は日野ジーゼル工業製6気筒13741ccのDL‐10形。この森林鉄道用としては“巨大”な機関を箱型車体の中央にレイアウトし、ホイールベース900㎜の両ボギーを駆動するという、実に意欲的な機関車です。

kyousan15tn.jpgただ、手元の協三工業機関車納入台帳によれば、最初の1輌の納入が1953(昭和28)年で、先述の「昭和29(1954)年秋の15號颱風による風倒木処理のため」という記述とは辻褄があいません。続く4輌が納入されたのが1955(昭和30)年。ひょっとすると、最初の1輌は風倒木処理とは関係なく試験的に導入されたものなのかもしれません。いずれにせよ、合計5輌となったこの15tボギー機は、1960(昭和35)年に温根湯森林鉄道本線が廃止されるまで石北峠越えに活躍したそうです。
結局、その後どの森林鉄道でも15t級のボギー機が増備されることはありませんでした。森林鉄道離れしたスタイリッシュなその形態は、当時流行の“湘南塗り分け”とともに、大雪山中に生涯を終えさせるにはもったいなかった…温根湯森林鉄道の名を聞くたびに、そう思えてなりません。
▲協三工業カタログに見る北見営林局納入15tボギー式ディーゼル機関車。模型的なディメンションだ。
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石北本線を訪ねたついでといっては何ですが、かねてから一度訪問してみたいと思っていた温根湯森林鉄道跡を“垣間見て”きましたので、今日明日の二日間にわたってご紹介してみましょう。“垣間見て”というのは、探訪どころか“歩く”と表現するのもおこがましいほど短時間しかいられなかったからで、長大なこの森林鉄道のほんの一部区間を一瞥したに過ぎません。
▲偶然見つけた「臨時交付金事業 留辺蘂林鉄線改良事業」「留辺蘂林鉄線舗装工事」の標識。「林鉄」はこんなところに生き残っていた。'06.11.4

onneyuphmigi.jpg温根湯森林鉄道にことさら興味を抱いたのは、四半世紀ほど前、古書市で旧版地形図をあさっていた頃です。ネットで地図履歴を検索して比較的容易に旧版の地形図のコピーを手に入れられる現在と違い、その頃は古書店や古書市にたまに出品される旧版地形図を集めるのが消えた鉄軌道を調べる第一歩でした。そんな蒐集地形図の中に、昭和30年代の「3色版」(すぐに4色版に移行したため3色版そのものが少ない)5万分の1地形図の「留辺蘂」や「北見富士」がありました。目が点になったのはそこに記載されている温根湯森林鉄道の表記で、図幅の左右を対角線状に、まるで定規でもあてたかのごとく直線で横切っているではないですか。森林鉄道=急曲線の連続といった既成概念を根本から覆すその姿に、いつかは現地を辿ってみたいとの思いが募りました。
▲標識のあった付近を見る。画面前方が留辺蘂方面。駅土場から軌道はまっすぐに温根湯方面を目指す。'06.11.4

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▲これが軌道跡…と言われてもにわかに実感がわかない。とにかくひたすら広大な畑を一直線に軌道跡の道が伸びている。途中から一部未舗装区間も見られた(右)。'06.11.4

温根湯森林鉄道は大雪山系無加川沿いの木材を留辺蘂へと搬出する目的で大正年間に建設された「一級線」で、最終的には石北峠を越えて層雲峡にまで至る道内屈指の大森林鉄道網を築きました。総延長80キロ以上と言いますから、中規模私鉄にも匹敵する規模です。

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▲地理調査所発行1:200000地勢図「北見」(昭和24年7月30日発行)に見る温根湯森林鉄道と置戸森林鉄道。両森林鉄道とも発達途上で、これからさらに路線を延長し、温根湯森林鉄道にいたっては石北峠を越えて層雲峡にまで達した。ちなみに置戸森林鉄道は、さきごろ“よみがえった”沼田のボールドウィンが活躍していた地。
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留辺蘂から温根湯へと続く軌道跡は、石北峠に向かう国道39号線の南側に寄り添うようにぴったりと並行した道路となっています。軌道跡といっても広大な畑の中を貫く快適な舗装路で、旧版の地形図と照らし合わせなければ、とてもこれがかつての森林鉄道の軌道敷だとは信じられません。

onneyu18.jpg時間もないことですし、これは何の痕跡も見出せないか…と思っていたところで、嬉しい標識を発見しました。どうやらこの軌道跡を舗装した際の工事実績標のようで、そこには「留辺蘂林鉄線舗装工事 工事完成平成十年八月十日」の文字が! なんと廃止から45年の歳月が流れているにも関わらず、今もってこの道は「林鉄線」と呼ばれているのです。
それにしてもここ温根湯付近の軌道跡は、あきれるほどにまっすぐで、さして勾配もありそうには見えません。温根湯森林鉄道では有名な木曽と同形のボールドウィン製B1リアタンク機が昭和30年代まで使われていたそうですが、狭隘な木曽谷と違って、ひたすら直線を走るボールドウィンはどんなものだったのでしょう…。
▲温根湯森林鉄道をゆく、わが国の森林鉄道用ディーゼル機関車としては最大の協三工業製15t機。(日本産業車輌協会『Industrial Rolling-stock & Trucks in Japan 1957』より)

arukuhyoushi.jpg3年前の1月に刊行し、その後長らく品切れとなっていたムック『模「景」を歩く』(2400円)を少量ですが重版いたしました。“模「景」を歩く”は『RM MODELS』の月刊化とともに1995年10月号より同誌誌上で開始した連載で、急速に失われつつある模型にしたい「景」(=シーン)を実際に歩き、観察し、なおかつ50mメジャーを持って実測しつくそうという、今さら思えばちょっと破天荒な企画でした。

車輌の取材ならまだしも、駅本屋や車庫、はたまた構内の線路配置といった一般的には趣味対象とは受け止められないものが対象だけに、取材にはかなり苦労した記憶が今もって鮮明です。相手の鉄道会社に企画趣旨を書面で伝え、写真撮影のみならず、時には古い図面まで探して提供していただこうというのですから、おいそれとOKが出るわけもありません。しかもこちらの対象は新築建物ではなく、へたをすると今にも崩れそうな旧い建物です。「来年建て替えますので、是非その際にご取材を…」と断られたところも数知れません。でもなかには当方の主旨をよくご理解いただき、いい機会だからと古い図面類を総出で探してくださるところもありました。

aru%EF%BD%8Bu7023n.jpg幸い当時の『RM MODELS』のコンセプトのひとつとしても読者の皆さんに好評をもって受け入れられ、1997年9月号までの20回を同誌で、続いて第二部ともいうべき9回分を本誌RM誌上(1999年1月号から同年12月号まで)で、足掛け4年半にわたって掲載が続きました。この間に誌面に採り上げた鉄軌道は東北地方から南は屋久島にまでおよび、B滝さんともども、いまさら振り返ってもよく歩いたなと思います。
〔掲載路線〕
西濃鉄道/加越能鉄道高岡軌道線/JR東日本品川運転所/JR東日本鶴見線(大川支線)/三井三池鉄道/茨城交通湊線/JR東日本久留里線/名鉄揖斐・谷汲線/名鉄美濃町線/立山砂防軌道/福島臨海鉄道/鹿島鉄道/蒲原鉄道/新潟交通/小湊鐵道/秩父鉄道/安房森林鉄道(屋久島)
▲扉写真は実写と撮影用に私が作った模型道床との合成写真。たかが3年前なれど、当時はフォトショップでこんな程度の合成をするのも大騒ぎだった。

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▲建設省(現・国土交通省)の立山砂防軌道は私たち専用のモーターカーまで出して取材に協力してくれた。この立山砂防軌道や福島臨海鉄道(右)のように、旅客営業していない路線にも精力的に取材をお願いした。

連載開始から11年。見直してみると、取材した鉄軌道にとっては激変の年月だったことを改めて思い知ります。加越能鉄道高岡軌道線は「万葉線」となり、鶴見線からはクモハ12の姿が消え、久留里線では腕木式信号機が見られなくなりました。そしてそれどころか、掲載線区のうち三井三池鉄道、名鉄揖斐・谷汲線、名鉄美濃町線、蒲原鉄道、新潟交通が廃止されて過去のものとなってしまいました。それ以外でも、鹿島鉄道のように現在存廃に揺れている線区もいくつか見受けられ、この“模「景」を歩く”の連載が、期せずして近年十年間の鉄道、とりわけ模型にしたくなるようなローカルシーンを携えた鉄道の墓標となってしまった感さえあります。

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▲実測ばかりでなく、構内平面図や建物の組立図をご提供いただき、これをトレースして多数掲載している。左は鹿島鉄道石岡構内平面図、右は小湊鐵道養老渓谷停車場本屋設計図。
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▲今となってはふたたび見ることかなわぬ「景」(シーン)も少なくない。左は新潟交通東関屋車庫とその平面図、右は三井三池鉄道宮浦駅ホッパー。
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ともあれ、本書には連載分以外にも線路の基本寸法や各種信号・標識の標準寸法図面などもふんだんに盛り込んでおり、レイアウトを志向されるモデラーの皆さんはもとよりのこと、座右の資料としてもおおいにご活用いただけるものと思います。

“ライカM8”の衝撃。

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普段は携帯電話でのやりとりが中心で、めったに直接自宅には電話をかけてこられない広田尚敬さんから自宅に電話をいただいたのは9月下旬のことでした。すわ、なにごと…と思って受話器をとると、いつになく興奮した様子の広田さん、開口一番「ついにM8が出たよ! デジタルだよ」と矢継ぎ早におっしゃられます。そう言われて気づいたのは、9月26日からドイツはケルンのメッセ会場で世界最大のカメラショー「フォトキナ」が始まっていたのです。2年に一度のこの大イベントを目指して全世界のカメラメーカーは次世代機を発表するのですが、あのライカからは伝統のMシリーズのデジタル機がリリースされたというのです。
▲見慣れた“M”のボディーに“M8”のロゴが輝く。M3誕生から52年、ついに伝統のライカも本格的デジタル時代へ突入した。

それから一ヶ月ほど経って、今度は会社に電話をくれた広田さん、「いま渋谷だけど、実はあの“M8”の試写をしているんだ。都立大(弊社最寄り駅)まで行ってあげるからちょっと見に出てこない」。まさかこんなに早く実物を拝めるとは…いちもにもなくはせ参じたのは言うまでもありません。

m8n2.jpg果たして広田さんから手渡されたのは、まだ日本国内には数台のデモ機しかないという超レアなライカM8。外観は頑ななまでに従来のMシリーズを踏襲しているものの、巻き上げレバーや巻き戻しクランクがないのがちょっと異様です。裏に回ってみるとそこには2.5型23万画素の液晶モニターが…。この瞬間、いやぁ、ついにデジタルか、との思いがこみ上げてきました。実際に手に取ってみた感覚は「あれっ、大きい!」。M3やM2に慣れた手には違和感のある大きさですが、後になって調べてみると前モデルのM7とはほぼ同寸とのこと。数値で比較してもオリジナルのM3の138×77×33.5ミリ(595g)に対して139×80×37ミリ(545g)と全高で3ミリ、全幅で3.5ミリほどしか違いません。人間の感覚とは実に微妙なものだと改めて思い知った次第です。
▲一見従来の銀塩Mシリーズと変わらないように見えるが、軍艦部はかなり嵩高な印象。メインボディーはマグネシウム合金ながらトップカバーと底蓋は伝統的な真鍮製。

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▲当然ながら背面には液晶モニターが埋め込まれているが、なぜか底蓋はヒンジで開ける超アナログ方式なのが面白い。SDカードもこの底蓋を開けて取り出す。

ファインダー倍率は0.68倍。伝説のM3のファインダーがほぼ等倍(0.93倍)だったことを思うとかなりの差ですが、これは広角の視野枠、さらには私のような眼鏡使用者の便を考慮するとやむをえないのかもしれません。それよりもちょっと残念だったのはファインダーの明快さが期待したほどではなかった点。以前このブログでもお話したように、ファインダーの明るさは写真を撮るモチベーションを大きく左右するだけに、かつてのあの吸い付くようなクリアな視界は是非とも再現していただきたいものです。ちなみにレンジファインダーの有効基線長は47.1ミリ。M3の62.3ミリとはこちらもかなり差があります。

m8n5.jpg注目の画面サイズは18×27ミリのAPSサイズ。24×36ミリという35ミリ判(ライカ判)の生みの親であるライカが,フルサイズCCD、つまりは“ライカ判”を採用しなかったのはちょっと驚きです。これは、さすがにM型のボディーサイズに破綻なくフルサイズCCDを組み込むのが無理だったからだそうです。搭載されている撮像素子は、コダック社がライカM用に開発した有効1030万画素(最大3936×2630)で、基本感度がISO100でなくISO160というのも特筆されます。
もうひとつ驚きなのがシャッター機構です。なんとバルナック型以来の布幕ヨコ走り式をやめ、電子制御の金属幕タテ走り式を採用しています。1/8000という今日的スペックを実現させるため…とはいえ、かつて金属幕タテ走り式は宿敵コンタックスの十八番。シャカァーン…という金属的なシャッター音を聞くと、正直言って違和感は隠しきれませんでした。
ちなみにこのライカM8、今月下旬の発売予定で、価格はボディーのみで57万7500円とアナウンスされています。
▲新シリーズが出るたびにひとくさり垂れたくなるのがライカファン。とはいうものの、まだ国内には数台と言われる“M8”に思わず顔がほころぶ。P:広田尚敬

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引き続いて石北本線の話題を動画付きでご紹介しましょう。本誌でもたびたび取り上げていますが、北見地方のタマネギやジャガイモの収穫期に運転される3往復の臨時貨物列車は、鷲別区のDD51プッシュプルが担当するとあって根強い人気があります。本誌今月号で巻頭ギャラリーを飾った古田彰吾さんのように、この3往復に魅せられて石北本線に通いつめる方も少なくなく、この連休中も最後の紅葉シーンを求めて多くの皆さんが沿線に詰め掛けておられました。
▲“常紋越え”を終え更新工事B施工機1076号機を先頭に軽やかな足取りで留辺蘂市街へと入ってくる8071レ。秋の朝日が2輌のDD51を照らし出す。(本誌277号ガイド=88頁のF地点/この画像は下記リンクより動画でご覧になれます)。'06.11.4 金華-西留辺蘂

IMGP9688n.jpg8月7日の8071レ/8072レの運転で始まった今シーズンは、8月末に8073レ/8074レ、9月に入って8075レ/8076レが加わり、今まさにハイシーズンを迎えています。沿線の広大な畑では、タマネギやジャガイモ、それに甜菜の採り入れがたけなわ。2年前の取材時にJR貨物の北見営業所長さんから伺ったところでは、北見からのシーズン中のタマネギの総出荷量は36~38万トン。全道の出荷量が年間約60万トンといいますから、この3本の列車によって送り出される量がいかに多いかが知れます。出荷調整用の低温倉庫で保管されるタマネギは、翌年5月まで順次搬出され、石北本線の臨時貨物列車もこの出荷に合わせて運転期間が決まるというわけです。
▲後部補機は1154号機。終点・北見まではあと40分ほどの道のりだ。'06.11.4 金華-西留辺蘂

IMGP9731nn.jpgところで、近年ではいわゆる「車票」が廃止されて「RFIDタグ」(IDタグ)化されたため、コンテナの外回りを見ても積載物がわからなくなってしまいました。それだけに北見へ向かう下り貨物列車は「返空」と誤解されがちですが、この石北本線の下り貨物列車も“空コン”ではないのをご存知でしょうか。実は北見に送り込まれるコンテナには、使用済みの乾電池や蛍光灯といった産業廃棄物が載せられているのです。これは近隣の野村興産イトムカ鉱業所でリサイクル処理されるもので、戦前からわが国有数の水銀鉱山として操業してきた同鉱業所は、環境問題もあって1973(昭和48)年に採鉱を中止、以後、残された精錬部門が国内唯一の含水銀廃棄物処理施設として脚光を浴びているのです。
今日食べたカレーのタマネギやジャガイモがあの列車で届けられ、そして使い終わった乾電池があの列車で北見へと送られると思うと、遙か離れた東京の地から、プッシュプルで頑張るDD51の姿に改めて声援を送りたくなってもきます。
▲カラマツの紅葉はまさに真っ盛り。あと一週間も経てば辺りは一気に冬の装いとなるはずだ。

動画:石北本線8072レ・8071レ
※上をクリックすると自動的に再生が始まります(一部Macでは再生できない場合があります)。音声付きですので、クリックする前に周囲の状況(オフィス?)をご確認ください。

石北本線に来ています。

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今日はプライベートで石北本線にきています。ちょっとゆっくりめの羽田出発で、女満別空港に着いたのが昼過ぎ。人気の石北本線臨時貨物列車は、撮影時間帯にかろうじて間に合うのが8072レと8075レの2本のみと、いたって撮影効率は良くありません。
▲14時55分、後補機を従えて猛然と金華駅を通過してゆく8072レ。短い晩秋の西日はすでに山の端に沈む寸前である。'06.11.3

IMGP9640n.jpg搭乗した女満別便は機材繰りの関係から約40分のディレイ。レンタカーを蹴ってもいわゆる定番撮影地にはとても間に合いそうもなく、結局、金華駅で8072レを迎え撃つことにしました。3年ほど前に本誌取材でDD51に添乗して金華を通過したことはありますが、駅に降り立つのは9600の補機が健在だったとき以来ですから、かれこれ30数年ぶりということになります。
▲続いて金華構内にかかる後補機。いよいよこれから“常紋越え”がはじまる。'06.11.3

IMGP9629n.jpg大雪山系はつい先日初雪が降ったそうですが、全般的にはいつになく暖かい11月で、秋晴れに恵まれた今日も留辺蘂で16℃ほど。カラマツの紅葉はまさに真っ盛りで、金華付近の山々もまさに黄金色に染まっています。
今日の8072レの先頭にたつのは人気の原色DD51 1167。定刻14時55分、周囲を圧するエキゾースト音とともに金華駅構内に姿を現した8072レは、強い西日を浴びて常紋へと駆け上がってゆきました。石北本線に設定された3往復の臨時貨物列車は、下り3本が昼過ぎにかけて一斉に下り、上り3本はこの8072レを先頭として、夕方から夜にかけて一斉に上るといった設定です。続行の8074レ、8076レの常紋通過はとっぷりと日が暮れてから。取材で添乗した際の機関士の方が、雪の夜の常紋を一人乗務で越える恐怖とご苦労をとつとつと語っておられたのが、今もって鮮明に脳裏に残っています。
▲かつて“大雪くずれ”1527レを狙った緋牛内駅。秋空の下、当時の面影はなく、ひとの気配もなかった。'06.11.3

IMGP9642n.jpgところで、「金華停車場線」のロードサインに従って国道242を右折すると、そこに広がっていたのは金華の“駅前通り”の廃墟でした。9600の補機時代は、金華には模型にしたくなるような給水塔があり、常紋越えに挑む前に水を飲む機関車たちで賑わっていました。もちろん小さいながらも駅前にもそれなりの活気があった記憶があります。ここ金華に限らず、蒸機時代の“古戦場”には、無煙化とともに町そのものが廃れてしまった所が少なくありません。機関支区、駐泊所、給水設備…等々、蒸機のために働く人々が去るとともに、町も衰退していったに違いありません。金華駅前の廃墟を見ながら、30年の時の流れに思いを馳せずにはいられませんでした。
▲金華駅前の現状。集落ごと移転してしまったのか、駅前通りの左右には廃屋が続く。'06.11.3

※連休中、出先がネット環境になく、本ブログが更新できない可能性があります。あらかじめご了承ください。

明日からキハ20がお披露目。

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このところ保存車輌の話題が続いていますが、今日は明日からの3連休で一般公開される天竜二俣のキハ20をご紹介しましょう。このキハ20 443は廃車後、天竜二俣駅で雨ざらしになっていたものを「ふるさと鉄道保存協会」のワーキンググループの皆さんが地道な修復作業を続けてきたものです。
▲見違えるようにきれいになったキハ20 443。「56-3 名古屋工」などの検査標記も往時の書体そのままに記入されている。P:ふるさと鉄道保存協会

kiha20n1.jpgお送りいただいた3年ほど前の写真と比べると、まるで別の車輌のように美しく甦った姿は、まさに全検出場直後といった感じです。山崎義和さんを中心とするこの「天竜二俣キハ20修復ワーキンググループ」の皆さんは、旧塗装の剥離から錆落とし、下地処理、そして再塗装と月1?2回のペースで修復作業を進めてこられたのだそうで、その地道な努力にはほんとうに頭が下がる思いです。先日ご紹介した沼田のボールドウィンといい、このキハ20といい、ボランティアの力が各地で着実に実を結んでゆくのは何とも嬉しい限りです。
▲修復にかかる前の姿。かなり劣化が進んでいた。'03.5 P:ふるさと鉄道保存協会

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この3連休は折りしも天竜浜名湖鉄道の20周年行事「天浜フェスタ」も行なわれ、会場の天竜二俣駅構内では、普段は立ち入ることのできない登録有形文化財の扇形庫の一般公開や、転車台体験乗車などさまざまなオフィシャルイベントも繰り広げられる予定だそうです。幸い天気にも恵まれそうで、高校生から国鉄OBまで修復作業に携わったボランティアの皆さんが多くのファンの来場をお待ちしているとのことです。
▲床下機器にいたるまで美しく塗り直された姿。次なる修復対象は隣に保存されているナハネ20 347で、現在ボランティアを募集中とのこと。P:ふるさと鉄道保存協会

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▲天竜浜名湖鉄道の営業列車と顔を合わせるキハ20 443。まるで現役時代を思わせるシーンだ。P:ふるさと鉄道保存協会
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※明日よりの連休中、出先がネット環境になく、本ブログが更新できない可能性があります。あらかじめご了承ください。

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本誌の読者の皆さんなら西武鉄道安比奈線をご存知ない方はおられないでしょう。連載トワイライトゾ?ンの“原点”とも呼べる安比奈線は、西武新宿線南大塚駅から分岐して入間川河岸の安比奈にいたる延長3.2kmの電化貨物線です。現在でも全線にわたって線路設備や架線柱が残されており、まさにトワイライトゾ?ンの様相を呈しています。
▲ルビがふってあるように線名の安比奈は「あひな」と読むが、川越市の行政区分「安比奈新田」の登記上の読みは「あいな」だそうだ。

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この安比奈線、よく“廃線跡”のように言われますが、実はまだ「廃止」にはなっておらず「休止」中なのです。最新の『鉄道要覧』(国土交通省鉄道局)の西武鉄道欄にも「南大塚?安比奈間 3.2km 大正11年2月1日免許、大正14年2月15日運輸開始実施 摘要:貨物運輸」とあたかも現役であるかのように記載されています。このあたりの経緯については初期のトワイライトゾ?ンに詳しい(『トワイライトゾ?ン・メモリーズ1』所収)のでここでは割愛しますが、いずれにせよ東京近郊で手軽にトワイライトな世界に浸れる稀有なスポットではあります。
▲安比奈の軌間600ミリの砂利採線では鉄道聯隊からきた機関車や軽貨車が多数使われていた。このコッペルの「E」は1970年代まで廃車体として残って比較的広く知られていたが、安比奈での現役時代を撮影されている方というと数名しかおられない。記念乗車券の台紙にもなっているこの写真は園田正雄さんが1956(昭和31)年に撮影されたものだが、残念ながらすでにこの時点で休車状態である。

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▲“幻の貨物線「西武安比奈線」を歩く”のフライヤー。事前申し込みなしで11月5日(日曜日)の9時30分から11時までの間に南大塚駅へ行けば参加できる。もちろん参加費は無料のうえ、参加記念品ももらえるとのこと。
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とはいえ現在では線路敷の大半は立入禁止で、実際に軌道を歩くことはかないません。そんな状況の中で、西武鉄道が実に粋なイベントを企画してくれました。題して“幻の貨物線「西武安比奈線」を歩く”。西武鉄道新宿線の前身である川越鉄道が久米川から川越まで延伸開業したのが1895(明治28)年3月1日。今年がちょうど111年目にあたることから、小江戸川越観光推進協議会が今日(11月1日)から11月11日にかけて「小江戸川越 鉄道開設111周年記念フェア」と銘打ったさまざまなイベントを繰り広げ、“幻の貨物線「西武安比奈線」を歩く”もその一環として開催されるものです。開催日は今度の日曜日11月5日。上に掲げたフライヤーにあるように、ほぼ全線にわたって軌道敷を歩けるまたとないイベントです。

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▲30数年前に訪れた際の安比奈線。田圃の中を一直線に入間川の河原を目指す草生した線路は、ある種神秘的でさえあった。'74.7.14

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このほかにも「小江戸川越 鉄道開設111周年記念フェア」では川越市役所本庁舎一階を会場にした写真展、さらには本川越?国分寺間を快速急行で直通運転するヘッドマーク付き特別記念電車「小江戸川越111号」の運転(11月11日)など数々のイベントが企画されています。また、今日から発売となった「小江戸川越鉄道開設111周年記念乗車券」は立派な台紙付きの1日フリーきっぷで1000円とリーズナブル。こちらも注目です。
▲現役時代の安比奈線線路図。葛川橋梁や池部用水橋梁などは今でもそのまま残されており、今回のウォークでも見所となる。(本誌トワイライトゾ?ンより)
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▲今日から発売となった「小江戸川越鉄道開設111周年記念乗車券」。来年3月末までの一日限り西武線内乗り放題のフリーきっぷ。
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ところでこの安比奈線、今もって一枚も列車写真が発見されていない極めて珍しい線でもあります。本家の西武鉄道さんはもとより、私もことあるたびに探してはいるのですが、現在のところ発見できていません。安比奈線にいったいいつまで列車が走ったのかも特定できてはいませんが、1963(昭和38)年時点での機関車運用表ではすでに16時台に1往復の設定があるのみで、恐らく1965(昭和40)年頃には実際の列車は入らなくなってしまったのではないかと思われます。ただ、安比奈河岸に敷設された600ミリ軌間の採砂軌道上に取り残された旧鉄道聯隊のコッペル製Eタンク機を求めて、それまでにも多くの先輩ファンが安比奈を訪れており、“本線上”を走る列車の写真がまったくないのは逆に不思議でなりません。「行きは歩いていったが、帰りは電気機関車に添乗させてもらって南大塚に戻った」などという話は何人もの方から伺いましたが、では安比奈線上のその電気機関車の写真は…というと異口同音に「撮ってない」とのこと。安比奈線の“幻の列車写真”探しは、これからもまだまだ続きそうです。
(※万一このブログをご覧の方でお撮りになられている方がおられましたら、ぜひ編集部宛にご一報ください)

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