鉄道ホビダス

2006年7月アーカイブ

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夏休みとあって、このところ写真展をはじめとしたエキジビションの話題が続いていますが、明日8月1日より、今度は旧新橋停車場鉄道歴史展示室で企画展「夜行列車~新橋発2007年鉄道博物館ゆき」が始まります。財団法人東日本鉄道文化財団が運営する旧新橋停車場鉄道歴史展示室での展覧会はこれまでにも折りにふれてはこのブログで取り上げており、去る6月30日付けでも7月17日まで開催されていた写真展「昭和の鉄道写真100景 ?復興から高度成長へ?」をご紹介しています。
▲これまでの写真展とはうってかわってところ狭しと体感型の実物が展示された展示室内。交通博物館なきあと、ワンテーマとはいえ、都心でこれだけの展示が行われるのは驚き。'06.7.31

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今回の企画展「夜行列車~新橋発2007年鉄道博物館ゆき」は来年開館する大宮の鉄道博物館プレ企画展と位置づけられるもので、先日の交通博物館閉館から来年秋の鉄道博物館オープンまでを、“鉄道博物館という朝を目指して夜の帳の中を走り続ける夜行列車”になぞらえて紹介しようというものです。
▲情景再現展示されている寝台車の旅から…。オロネ25のA寝台は「モーレツ銀行マンの出張の旅」(左上)。サントリーオールドのミニボトルとセブンスターが泣かせる(右上)。そのほかにもナハネフ22B寝台「昭和団地族の親子帰省の旅」(左下)やオハネ25B寝台「サッカー学生サポーター上京の旅」(右下)など、当時の週刊誌やスニーカーなどの小物も必見!'06.7.31

IMGP8335.jpg展示車輌第一弾として大宮に搬入されたナハネフ22形に因んだということもあるのでしょうが、この「夜行列車」展示、鉄道博物館の大きな特徴でもある“情景再現展示”のプレビューとしても注目度大です。近年、欧米の鉄道博物館ではただ単に車輌を展示するだけでなく、その時代性をビジュアルに再現する試みが積極的になされています。来年オープンするさいたま市の鉄道博物館もこの“情景再現展示”を全面的に導入する計画だそうで、今回の新橋での展示は規模こそ小さいながらその予行演習といった意味合いも感じられるものとなっています。
▲車内放送が体験できるコーナーも設けられている。例の“客車チャイム”は思わず何回も鳴らしたくなってしまう。'06.7.31

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▲夜行列車にまつわる各地の逸話や寝台車の発達は解説ボードのQRコードに携帯電話をかざして見る。限られたスペースを利用するいかにも現代流の展示方法。'06.7.31

IMGP8358.jpg入口を入ってまず目につくのがナハネフ22やオロネ25といった一世を風靡した寝台車の車内再現です。博物館と異なり期間限定の展示ということもあって壁面こそ車輌構体ではなくパネル張りですが、「団地族の親子 帰省の旅」やら「モーレツ銀行マンの出張の旅」などとセグメント化された“情景再現展示”は、これまでの博物館にはない臨場感と親近感を持って迫ってきます。脱ぎ捨てられた汚れたスニーカーや読みかけの週刊誌、寝酒をあおったであろう空のボトル等々、同時代体験を積んだ者にとってはまさに「感動の所在地」の立体版といったところでしょうか。鉄道博物館での本格的な“情景再現展示”に期待が膨らみます。
▲鉄道博物館展示のためのレストレーション工程も展示されている。写真は付加空気溜の修復前、錆落とし後、錆止め塗装後、そして仕上げ塗装後をわかりやすくひとつのタンクで再現したもの。'06.7.31

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今回の企画展はあわせて鉄道博物館の開館準備作業の進捗状態を紹介する場にもなっています。本誌でも今月号から毎月カウントダウン企画の連載を開始いたしましたが、この企画展では実物の座席や部品などを展示しつつ、その修復作業の実際をわかりやすく伝えてくれています。会期は11月19日まで。土日も開館しておりますので、ぜひ一度ご覧になってみてください。
▲つい先日津軽鉄道から搬入され、現在展示用に化粧直し中のオハ31の座席も修復プロセスを追って展示されている。右はその搬入シーンの展示。'06.7.31

■企画展「夜行列車~新橋発2007年鉄道博物館ゆき」
・会期:8月1日(火曜日)~11月19日(日曜日)
※ 毎週月曜日休館
・開館時間:11:00~18:00(入場は閉館15分前まで)
・会場:旧新橋停車場鉄道歴史展示室
    (JR新橋駅下車徒歩5分)
・主催:財団法人東日本鉄道文化財団
・入場無料

■番外編・キャセイ・ジョーンズのこと
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“ギャロッピンググース”の棲息地には、もう1台忘れてはならないレールバスがいます。キャセイ・ジョーンズ(Casey Jones)と愛称されるこの木造車体の小さなレールバスは、ロッキーナローの世界ではグースに負けず劣らず高い人気を誇っており、これまた数多のモデルのプロトタイプとなっています。
▲奇妙な曲線を描く屋根に派手なカラーリングと実に不思議な古典レールバス。シャーシはキャデラックを流用しているとのこと。’00.8.29 Silverton

jones1.jpgキャセイ・ジョーンズはデンバー&リオ・グランデ・ウエスタン(D&RGW)鉄道シルバートン支線の終点・シルバートンから、さらにアニマス川上流へと路線を伸ばしていたシルバートン・ノーザン(SN)鉄道のレールバスで、もとは救急車としての使命を担っていたといいます。アニマス川上流のユーリカ鉱山からシルバートンの町までは8マイル(12.8km)ほどですが、道路事情はきわめて悪く、鉱山事故や急病人などをシルバートンへ搬送するのはおおごとでした。しかしオンレールでSN鉄道を利用すれば20分ほど…そこで考案されたのがこの奇妙なレールバスというわけです。
▲ラジエータ・コアの真ん中にお皿のようなヘッドライトが付く。出っ歯状のカウキャッチャーを備えるが、本物の牛が当たったらこっちが逆に飛ばされてしまうそう。’00.8.29 Silverton

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ユーリカ鉱山地帯のサニーサイド鉱山の技師クライデ・ジョーンズさんによって作られたというこのキャセイ・ジョーンズ、1915(大正4)年の地元新聞にはすでに紹介されているといいますから、1番グースが誕生する実に16年も前のことになります。最初は11人乗りで作られたと伝えられますが、誕生間もない1918年に大事故を起こして全面的に作り替えられることになり、現在まで続くキャデラックのシャーシ・コンポーネンツを使ったものとなりました。車体はユーリカ木工所のハンス・トランスタッドさんが作ったものだそうで、リビルド車体は定員が1名増えて12名となりました。
▲後ろ姿はなにやら救急車というよりは霊柩車のよう。運転席には巨大なステアリングホイールがあるが、これはハンドブレーキだそうだ。’00.8.29 Silverton

このキャセイ・ジョーンズ君もサンファン・カウンティ・ヒストリカル・ソサエティーの手で動態復元され、現在ではシルバートンの構内で展示保存されています。本来、ギャロッピンググースたちと顔を合わせることはありえませんでしたが、近年のイベントでは5番グースがシルバートンまで足を伸ばし、このキャセイ・ジョーンズ君とのツーショットも実現しています。

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広田尚敬さんとご子息で新進気鋭の写真家として活躍中の広田 泉さん親子による写真展「鉄道写真~二本のレールが語ること~」が27日(木曜日)から始まり、今日29日は記念講演会が行われました。
▲キヤノンSタワー一階のキヤノンギャラリーSは最新鋭の設備を擁するゆったりしたギャラリー。奥のモニターではスライドショーも放映されている。'00.7.29

IMGP8321.jpg東京・品川のキヤノンマーケティングジャパン株式会社の本社ビル1階に設けられた「キヤノンギャラリーS」を会場とするこの写真展、すでに本誌プレビューでご存知のこととは思いますが、デジタルをひとつのキーワードに、鉄道写真の新しい可能性を模索するいかにも広田さんらしい写真展となっています。泉さんの作品は“1秒の流し撮り”という前人未到の新幹線500系など、若々しい意欲的な作品が多いのが目につきます。一方、広田尚敬さんの出品作品には本誌の取材で撮影されたものも少なくなく、誌面掲載写真が「写真展」の作品として展示される=つまりは小誌誌面のクオリティーが証明されたことでもあり、編集者としては実に嬉しい展示でもあります。
▲入口のケースに展示されている“キヤノン7”をはじめとした広田さんの初期のレンジファインダー機たち。下はデジタルへの移行期に画像処理の練習で使い込んだノートパソコン。その使い込まれようは必見! '00.7.29

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さて、会期中最初の週末ともなった今日は、13時から親子向けの記念講演会、そして16時からは一般向けの記念講演会が開催されました。二部構成にしたのは広田さんの意向とのことで、第一部は子供たちに広く鉄道と鉄道写真の世界を知ってもらいたい、そして第二部はすでに鉄道写真の世界の中にいる人たちに聞いてもらいたい…そんな意図があったようです。実は事前告知には何の記載もないのですが、この第二部、急遽私がゲストとして登壇してトークに参加せねばならないハメとなりまして、何のプロットもないままアドリブでの掛け合いを演じることとなりました。キヤノンさんのお話では入場者は三百数十名。遠くは鹿児島から飛行機で駆けつけた方もおられたそうで、果たしてご満足いただけたかどうか気にかかります。
▲中央正面の展示はまさに色彩のパレット。「いや、やられました」とはご子息・泉さんの弁。'00.7.29

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この写真展「鉄道写真~二本のレールが語ること~」は8月29日(火曜日)まで開催(10:00~17:30/日曜祝日休館)されています。会場は品川駅港南口より徒歩8分(公称/どうも実際はもう少しかかるようです)のキヤノンSタワー1階のキヤノンギャラリーSです。夏休みの一日、是非お出でになってみてください。
▲大盛況だった記念講演会第二部。不肖私もゲストとして壇上でトークに参加(右)、3人での掛け合いはいかがだっただろうか…。'00.7.29

“上野展”好評開催中。

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かねてよりご案内しているJR上野駅Breakステーションギャラリーの写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」が好評開催中です。もと鉄道友の会専務理事の宮澤孝一さんのモノクロ写真によるこの写真展、終戦直後の白帯車(駐留軍専用車)から高度経済成長前夜のラッシュ模様まで、まさに鉄道とともにあった上野、東京界隈の戦後が鮮やかに浮かび上がってきます。
▲会場は上野駅中央改札の前、アトレの二階回廊部にあたる。一般のギャラリーと違って初電から終電までいつでも鑑賞できるのも、会社勤めの身にとっては大きな魅力。'00.7.27

uenotenkaisai2.jpg会場内に設置された大型モニターでは、展示されていない30点あまりの作品がスライドショー形式で映し出され、こちらも多くの方が足をとめて食い入るように見ておられます。隅田川貨物駅の入換えに活躍していたスケネクタディ製900形タンク機関車や、資材不足のため助士側の窓にトタンをはめられた東京駅のEF52、そして京浜東北線をゆく“ジュラ電”まで、文字通り走馬灯のようにモニターに映じる写真の数々は見る者を釘付けにします。
▲大きなモニターでは30枚ほどの画像が映し出されるDVDが上映されている。熱心に見入るギャラリーも多い。'00.7.27

uenotenkaisai3.jpgところで、今年の上野駅Breakステーションギャラリー展で特筆すべきは、7月24日から最終日の8月24日までの一ヶ月間、山手線内の情報モニターで告知プレビューが流されていることです。山手線をご利用の方はすでにお気づきと思いますが、こういったいわば鉄道趣味の成果が、パブリックな場で、しかもJRのオフィシャルとしてアナウンスされることは実に画期的なことで、その意味でも特筆されます。だいたい15~20分に1回程度のインターバルで登場しますので、まだご覧になっていない方はぜひご注目ください。
▲山手線のE231系モニターに流れる写真展のインフォメーション。だいたい15~20分インターバルで流れている。'00.7.27

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写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」のフライヤー。会期は8月24日までとまだたっぷりある。
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■続・5番グースのこと
7輌のギャロッピンググース・ファミリーの中でも“フラッグシップ”と称される5番グースは、1933(昭和8)年6月8日にビッグ・グース3兄弟(No.3、4、5)の末っ子としてリッジウェー工場で誕生しました。長兄の3番4番はピアース・アロー1926年式“タイプ33”リムジンをベースとしているのに対して、5番だけは1928年式“タイプ36”を母体としており細部に若干の違いが見られたようです。
▲サンタクロースのような立派なひげがシンボルのモーターマン・ブラウンさんが運転する5番グースがダッシュする。開けっぱなしになった折り戸もラフっぽくてかっこいい! '00.8.28 Rockwood

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3番4番が比較的早い時期に“ヘッドランプ・フェンダー”と呼ばれる特徴的なフェンダーの撤去が行われてしまったのに対して、5番だけは1940年代まで優雅なホイールアーチを描く原形の“ヘッドランプ・フェンダー”を保っており、それもあってフラッグシップと称されているのかもしれません。
▲渓流沿いのカスケード・キャニオンで折り返し時間を待つ5番グース。川風と鳥の声だけが響くこの地点はクルマで進入することは出来ず、このグースのエクスカーションで訪れるしかない。'00.8.29 Cascade Canyon

5goose22n.jpg戦後の1946(昭和21)年、ビッグ・グース3兄弟は揃ってリニューアル改造を受けます。エンジンをGMCトラック用に換装するとともに、従来のピアース・アロー製“リムジンボディ”をウェーン・バスのいわゆる“バスボディ”に載せ替え、乗客定員も10人から12人に増加、私たちが“ギャッロピンググース”というと真っ先に思い浮かべるスタイルとなったのです。全長13mほどの銀色に輝く“バスボディ”のグース3兄弟はその後しばらく郵便・小荷物と区間客輸送に活躍しましたが、USメールが道路輸送に転換したことにともなって失職、1950(昭和25)年にエクスカーション・サービス用として再び改造を受けます。
▲“レールフェスタ”で3輌並んで発車を待つグースたち。先頭から5番、1番(レプリカ)、2番。'00.8.28 Rockwood

5goose25.jpg従来、乗客スペースは前半エンジン部分、ラッゲージ・スペースは後半パネルバン部分と分けられていましたが、この改造で窓さえなかった後ろ半分に横長の連続窓が設けられ、後妻面にも乗降用のドアが設けられました。しかも客室と化したこの荷室部分にはクロスシートが設けられ、キャブ側車端部にはなんとスナックカウンターが設置されたのです。奇跡の復活を果たしたドロゥレスの5番グースにももちろんこのスナックカウンターは再現されており、最近のデュランゴ&シルバートン鉄道での出張運転の際などは、コーラやチョコバーといったスナック類のほか、ギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティ(GGHS)特製のTシャツやらマグカップやらの販売も行っています。
▲グースは子どもたちにも人気者。「なにこれ」「へんなの~」感想はさまざまなれど、親しみを持って接してくれている。'00.8.28 Rockwood

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エクスカーション・サービス用となった1950年代のグースは、6月1日から10月1日の間の毎週土日、1輌は9時にリッジウェーを出てリザード・ヘッドまで、もう1輌はドロゥレス~デュランゴ間(のちにドロゥレス~リザード・ヘッド間)で観光客輸送にあたり、1シーズンで2000人あまりのお客さんを運んだと伝えられています。“ギャロッピンググース”の語源ともなったあの車体側面のガチョウのヘラルドも、この時に描かれたものです。
▲涼風に頬を撫でられながらアニマス渓谷を5番グースで遡る。車内は乗客7人ほど。スナックカウンターで買ったコーラを片手に、とびっきりのヘリテージトリップ。'00.8.28 Cascade Canyon(Rockwood-Tacoma)

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今日から夏休みの恒例イベントとなった松屋銀座の「鉄道模型ショウ」が始まりました。毎年このショウ初日は“梅雨明け十日”の真っ只中で、銀座通りには容赦ない夏の太陽が照りつけているのですが、今年はまだ梅雨明け前…。例年の暑さはないと8階催し物場に上がって仰天しました。会場内は例年にも増して熱気が渦巻いているではないですか。
▲夏休みとあって会場内はちびっこファンでいっぱい。これだけの規模でのNゲージ運転を銀座のど真ん中で見られるのもこのショウの大きな魅力。

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エントランス横の特価品コーナーは入場制限にも関わらず長蛇の列。会場内の体験運転コーナーも午前中にして一時間待ちといった状況で、各メーカーのブースにも新製品情報を求めたモデラーが押すな押すなと詰めかけています。今年で28回目となる日本Nゲージ鉄道模型工業会主催のこの「鉄道模型ショウ」、実は会場である松屋銀座さんにとっても年間を通して屈指のイベントだそうで、一緒にやってきたお母さん方による“経済波及効果”も尋常ではないそうです。
▲初日とあって会場内外は立錐の余地もないほどの混雑ぶり。入口の物販コーナーもひと、ひと、ひと…。

2006matuya4.jpgところで今回のショウではRMモデルズとホビダス編集部がお手伝いしている“実演”イベントが繰り広げられています。グリーンマックスさんとのコラボレーションでホビダス一周年記念としてリリースした103系森ノ宮区大阪環状線8連バージョンを、ホビダス趣味探検隊の「ホビダス・さいとー」こと斉藤綾子さんが組立実演をしようという画期的(?)な企画。師匠役はRMM編集部の瀧口君が務めます。今日は15時から第一回の実演が行われましたが、たいへん多くのギャラリーの皆さんにお集まりいただき、大成功を収めました。残念ながら毎日というわけにはゆかず、会期中あとは29日(土曜日)の15時、17時、19時の3回のみとなりますが、ご来場の際はぜひお立ち寄りください。
▲学校に見立てた「Nゲージ教室」も大盛況。

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▲GMブースで繰り広げられるホビダス一周年記念103系製作実演。実はまだ開場には時間があるが、さいとーにちょっと顔を出してもらってパチリ。

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■5番グースとの出会い
12年前の夏の終わり、5番グースが保存されていると聞いてやってきたユタ州境にほど近いコロラド州ドロゥレス(Dolores)の町は、およそ鉄道とは縁のないただの田舎町でした。ただ、ロッキーナローのヒストリーに多少なりとも興味を持つ者にとって、今もってここドロゥレスは、数々の名シーンを生んだ「聖地」のひとつにかわりありません。
▲ドロゥレスの駅跡地に静態保存されていた頃の5番グース。状態はさほど悪くはないが、とても動態復活できそうには見えなかった。右後方がもとの駅本屋建物。'94.8.31

goosefig2.jpg街中をレンタカーで徘徊するまでもなく、保存されている5番グースはすぐに見つかりました。そっくりそのまま残されて町のヘリテージセンターとなっているデポの少し先に、わずかばかりの線路が残され、5番はその上に所在なげに鎮座していました。“Tin Feathers”(ブリキの羽根)と通称されるシルバーの車体は、かなりやつれてはいるものの、それでもグースのヘラルドはしっかりとリペイントされており、全体的に状態は悪くはありません。どうやらこの5番は、町の人々からそれなりの敬意を払われた歳月を過ごしてきたようです。

5goosen1n.jpgそんなことを思いながら一緒にグース巡りを続けている岡山英明君とデポの中に入ってみると、驚いたことに元の待合室内はグースの写真やら模型やらでいっぱいではないですか。にこやかな笑顔で迎えてくれた多少(?)太めのおばさんが語るには、いま有志でRGS(リオ・グランデ・サザン)鉄道を復活させる活動をしているとのこと。その第一弾として5番グースを動態復活させようと現在ドーネーション(募金)を集めているそうで、カウンターには小さなガラスの募金箱が置かれていました。ずいぶんと悠長な話だなぁ…と思いながらも、その夢に“一口”のったつもりで20ドルをガラス瓶に入れてきました。
▲5番グースとのはじめての出会い。この時は大学鉄研同期でケンタッキー州に赴任中の岡山英明君(左)と保存グースを巡った。'94.8.31

GGRSn.jpgそれから6年、信じられないことに5番グースは本当に動態復活を遂げてしまいます。1998年9月21日、デュランゴ&シルバートン(D&SNG)鉄道の線路を借りてテストランを行った5番グースは、ロッキーの山に西日がさすころ、ようやく終点シルバートンにその姿を現しました。偶然にもその場に居合わせたのは私たちを含めて数人のファンだけ。デポ横に停まったグースから降りてきた何人かの中にはあの時のおばさんの姿もあるではないですか。そうだ、私もドーネーションをしたんだ、ひょっとするとリベットの何本かくらいには役立ったのかもしれない…そう思うと思わず熱いものがこみ上げてくるのでした。
▲先週届いたギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティー(GGHS)の最新会報。トップはこの6月にニュー・メキシコ州の保存鉄道=クンブレス&トルテック・シーニック(C&TS)鉄道で出張運転した時のレポート。

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さらに驚いたことに、あのおばさん(ブラウンさん)は6年前にささやかな募金をした私たちのことを覚えていてくれたのです。たしかにロッキーの山奥の町にギャロッピンググースを訪ねて、ドーネーションを置いてゆく日本人などまずいないでしょうから、それなりの印象には残ったのでしょう。それでもこの一日は、恐らく生涯忘れえぬ最良の一日となったのでした。
▲奇跡の動態復活直後の“ご真影”。この時のテストランではじめてシルバートンの地を踏んだ。'98.9.21 Silverton

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木曽・赤沢自然休養林で保存されている木曽森林鉄道のボールドウィンB1リアタンク機(上松運輸営林署1号)は多くの模型にもなり広く知られていますが、実は同形機があと2輌保存されています。秋田市の仁別森林博物館の温根湯森林鉄道(留辺蘂営林署)2号機と、群馬県沼田市の林野庁森林技術総合研修所林業機械化センターに保存されている置戸森林鉄道(置戸営林署)3号機です。
▲修復作業が始まる直前のボールドウィン。林業機械化センターで永年大事に保存されてきただけに状態は決して悪くない。'06.7.23

置戸森林鉄道は北海道拓殖部林務課の手によって1921(大正10)年に開設された森林鉄道で、3号機はこの運輸開始にあわせて米国・フィラデルフィアのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)から輸入されたもの。1921(大正10)年1月製(製造番号54511)で、同形ながら木曽のボールドウィン(1915年製・製番41997)とは6歳違いの弟ということになります。1957(昭和32)年の置戸森林鉄道廃止後はしばらく同署に保管されていましたが、1969(昭和44)年に沼田へと移設保存されています。交通の便のよくない場所だけになかなか見られるチャンスはありませんでしたが、二十年ほど前に一度、東京の代々木公園に展示されたことがあり、その際にご覧になったという方も少なくないのではないでしょうか。

blw2.jpgその沼田市の林業機械化センターのボールドウィンを、市民ボランティアの力で甦らそうという取り組みがはじまり、夏休み最初の日曜日となった今日、最初の具体的活動となる外部清掃作業が行なわれました。同センターの川添峰夫所長のお話では、沼田で保存を開始してからすでに37もの歳月を経過し、屋根のある展示場で保管してあるとはいえ、傷みが目立ちはじめた同機を何とかしたいと考えていたところ、同じ沼田市内で大型鉄道模型製作会社を経営している丸山龍一さんが中心となってボランティアの実行委員会を結成、地域活性化も兼ねて修復に乗りだしてくれることになったのだそうです。
▲いよいよ修復作業開始。まずは子供たちによるおおまかな錆落とし作業が始まる。'06.7.23

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その名も「よみがえれボールドウィン実行委員会」と名付けられたこの会は、実質的に今日が初活動。懸念された天気も、夏らしい青空ののぞく好天に恵まれ、集まった40名ほどの会員は機械化センターの見学などののち、午後からいよいよ錆落としや傷んだ塗装の剥離などの作業に入りました。
▲金属ヘラやワイヤーブラシによる本格的な作業(左)。キャブ側面には北見営林局のプレートが見える(右)。'06.7.23

blw5.jpgヘルメットに防じんマスクとメガネといった本格的な“出で立ち”のボランティアの皆さんの手によって、全長5.5メートルほどの小さなボールドウィンはみるみる奇麗になってゆきます。煙室左右に取り付けられていた85年前の出生を証す丸い製造銘板が外されると、参加者から軽いどよめきが起こり、作業はいよいよクライマックスへ…。もちろん修復作業は今日端緒についたばかりで、「よみがえれボールドウィン実行委員会」では今後10月までの間に月一回程度のペースで修復作業を進めたいとしています。また、ボールドウィンのみならず、同センターに保存されているホイットコム(WHITCOMB)製内燃機関車や、さらには協三工業製DLの修復作業にも取り組む予定だそうで、ひょっとすると修復なったボールドウィンが、外装ばかりでなく煙を吐いて動き出す日が来るのかもしれません。この「よみがえれボールドウィン実行委員会」への参加を希望される方は同会事務局(TEL0278-20-1818)へお問い合わせください。
▲いったい何十年ぶりだろうか、取り外されたボールドウィンの製造銘板。'06.7.23

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ちなみにこの林業機械化センターは林野庁が所管する国内唯一の林業研修施設で、展示棟には集材機をはじめとする歴代の各種林業機械がきわめて環境良く保存されています。ふだんはあまり目にすることのできないこういった森林鉄道を取り巻くハードウェアの実物を見学できるのも、このセンターならではの美点です。
▲林業機械化センターは沼田市街からクルマで40分ほどの沼田市利根町根利にある。かつての沼田営林署利根森林軌道の中継土場の対岸にあたる。ボールドウィンの手前に保存してあるのはホイットコム製MO形4t機(長野営林局7号)。画面奥には庭先に保存されている上松運輸営林署141号ディーゼル機関車とB形客車(15号)の姿も見える。'06.7.23

sakuragichoufig1.jpg沢柳健一さんが解説しておられるように、鉄道監督局への連絡先は総裁室もしくは広報部であり、いずれも“車輌番号”とは直接関係ない部署です。つまり保安課なり修車課なりから入った連絡をとりまとめて上申したと考えられ、結局、この時点で書き間違え、読み間違えといったきわめて単純なミスが起こってしまったというのが真相のようです。当時は独自の電報略号(電略)に象徴されるように、重要かつ速報性が必要な情報は鉄道電報で伝達されるのが常でしたが、この電報そのものが湿式印字の、時として細部が読み取りにくいもので、ひょっとするとそんな事情も関係しているのかもしれません。誤謬の原因についての最終的な結論は出ませんでしたが、沖田さんがお送りくださった貴重な一次資料から、また一歩「桜木町事故報告書の謎」が解明に近づいたことだけは確かです。
▲「櫻木町驛における電車火災事故について」に添付されていた現場略図。これは謄写ではなくなんと手書きの原図。所蔵提供:沖田祐作
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今回の続報を締めくくるにあたり、沖田さんからお送りいただいたふたつの資料を転載させていただきたいと思います。

櫻木町驛における電車火災事故について
運輸省鐵道監督局 民營鐵道部運轉車輛課
昭和26年4月27日
事  所 国電、桜木町駅構内 横浜起点1粁764米500
発生日時 昭和26年4月24日 13時42分
列車番号 1271B 5輌編成(モハ63756・サハ78188・モハ63795・サハ78169・モハ63399)
電車所属 下十条電車区
消失電車 全焼モハ63756 一部焼損サハ78188
死  傷 死者105名(内米兵3名、重傷後死亡8名を含む) 負傷73名(内入院18名でその内4名は重傷) 死傷者合計178名 (4月25日16時現在)
事故概況
本電車横浜10分延発、桜木町9分延着の予定で約35K/Hの速度で進行中、場内信号機付近で上り線の架空線がたるんでいるのと、電力係員が数名おるのを認めたが、下り線の架線に異常を認めなかったのでそのまま進行し、第11号(イ)転てつ機が35K/Hの制限であるので制動し第11号(ニ)転てつ機上に差かかった。
偶然当日横浜桜木町駅間上り線の架線、碍子の取替作業を行い上記の分岐地点に於て作業を実施中誤ってメッセンジャーワイヤーを地気せしめ、メッセンジャーワイヤーが切断したためトロリー線が弛んだ為亘り線とのトロリー線の高さの差を生じた、そこで電力工手長はこの状態で電車を運転することは危険と感じ直ちに電車を止めるため付近にある桜木町駅信号扱所に赴えて連絡したが間に合わず最前部のパンタグラフが上り線のトロリー線に引かかりトロリー線は断線した そのとき電車の運転士は屋根上から大きな火花の発生するのを認めたので直ちに非常制動をかけ、パンタグラフを降下したが断線したトロリー線の一部分が電車の最前部のパンタグラフにからみついたために当該パンタグラフだけは降下せず破壊した碍子の部分より碍子台に地気しそのためアークが連続発生し付近の屋根木部等の可燃物に引火し運転台の天井から発火した、次に客室をみたところ天井付近一面火の海と化したので客室に入ることができないので運転台海側のドアーから降車して1・2輌目間の連結器上にのり2輌目のドアーを手動で開けた1輌目から2輌目に延焼してきたので折柄便乗中の東神奈川電車区員の協力で2・3輌目の連結器を開放して東京方に3輌を移動した
1輌目の電車は火の廻りが非常に早かったため多数の死傷者を生ずるに至った
原因
電力工手が吊架線の碍子を交換作業中に誤って吊架線を接地断線させこのため架線が弛緩したので電力工手が信号扱所に急報したが間に合わず、折から1271B電車が進入第11号転てつ器付近で前頭車のパンタグラフが架線に引掛り破倒し架線が車体に地気発火したものと認められる
事故の被害を大きくしたと思われる原因については尚疑問の点が多いので厳密な検討を要するが次のことが考えられる
(1)イ
トロリー線のアースと同様に横浜変電区の高速度遮断器は働いたが当時横浜鶴見両変電区から併列給電していたので遠距離の鶴見饋電室の高速度遮断器を操作するまで若干の時分を要し、その間電流が遮断できなかった

高架橋上を運転中で前方から約10米のかなり強い風が吹いたため火勢が強まった

車輌の内部には木造部分が多く不燃性になっていない
(2)
運転士は制動手配をとりパンタグラフを下した後黒煙と火勢が猛烈なため前部から赴いて客室内のドアー開放コックの取扱をすることは困難と認めた為か客室との連絡ドアーを開けず一旦下車し、一輌目の電車の電車の後部から客室内に入らうとしたが内開きのドアーを開けることが出来なかったので二輌目の電車に入りドアーを開けて二輌目の客を救い出した、然し1輌目のドアーはついに開けることができなかった、車掌は事故発生を知って直ちにドアースイッチを扱ったが既にドアーは作用しなかった
(3)
窓が三段式になっていたため乗客は窓を開けて逃げることがきわめて困難であった

日本国有鉄道における今後の対策
イ、
車輌間の往来が自由に出来るようにする、そのため普通の列車のように幌をつけてあぶなくないようにする
ロ、
左右両側の扉は各々単独に開けられるようになっているのでその表示をして乗客の協力を求めるようにしたい、又各電車には床下に一個のコックがあってこれを引くと電車の扉が全部手で開けられるようになっているので今後万一の場合には車の外に居るものが誰でも容易に操作できるように改善する
ハ、
出来るだけ早い機会に天井を鉄板で張ることにする
ニ、
非常の場合進行中でも乗客が運転士及び車掌え危険を知らせるためブザースイッチを設置する
ホ、
架線に電力を供給している饋電室又は変電区の高速遮断器の性能改良に一層力を入れる
ヘ、
列車運転に危険を及ぼすおそれのある工事を行う際は列車防護に万全の措置を講ずる
(漢字は新漢字に変換・句読点等原文ママ)

sakuragichofig2.jpg電車火災の場合処置について
鐵運第十九号
昭和二十六年四月二十五日
運輸省鐵道監督局長
各陸運局長殿・大阪府知事殿・京都府知事殿・兵庫縣知事殿
昭和二十六年四月二十四日國難(ママ)鐵道京濱線櫻木町驛構内で電車火災事故のため多數の死傷者を生じたが、今後かゝる事故の際の非常措置として自動戸閉装置のコックの位置及び取扱を乗客に知らせる等の適切な方法を講じ災害を防止するように至急官下の事業者(地下鐵道を除く)に通達されたい。なお、國有鐵道における措置を参考として添付する。
(原文ママ)
▲「電車火災の場合処置について」に添付された手書きの「非常の場合のドアーのあけ方」。いわゆる非常ドアコック表示の原点である。所蔵提供:沖田祐作
▲クリックするとポップアップします

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沖田祐作さんからのお手紙によれば、この資料はお亡くなりになった市川建三さんから譲り受けたスクラップブックの中に挟まれていたものだそうです。歴史的な絵葉書の蒐集をはじめ、鉄道史研究の世界で多くの功績を残してこられた市川さんは、地道な新聞スクラップも続けておられ、なんと“桜木町事故”関係のスクラップブックだけでも2冊もあったそうです。この運輸省鉄道監督局民営鉄道部運転車輌課名で出された「櫻木町驛における電車火災事故について」をいったいどうして市川さんが入手することになったのか、その経緯は今となっては知る術もありませんが、ともかくこれまでに知られるすべての一次資料の中でもっとも早い時期に作成されたものであることはたしかです。
▲桜木町事故をめぐる3つの文書。和文タイプの謄写の中紙とみられる紙は55年の歳月ですっかり色褪せてしまっている。所蔵提供:沖田祐作

『三代事故録』をまとめるにあたって、各種の資料・文献をあたられた沖田さんは、最も早い時期の一次資料であることを重視し、これに依拠して「サハ78188」としたわけですが、編者注として「運輸省より私鉄向け警告書写?」とあえてクエスチョンマークを付けられています。これは、番号違いを考慮してではなく、この文書が運輸省から各私鉄への警告書の原本と思われるものながら、本来的意味が不明だったからだそうです。

市川さんのスクラップに入っていた文書は、日付順に「國有鐵道京濱線櫻木町驛構内の電車火災に関する総裁談」(昭和26年4月24日=当日17時)、「電車火災の場合処置について」(運輸省鐵道監督局長・4月25日)、そして「櫻木町驛における電車火災事故について」(運輸省鐵道監督局 民營鐵道部運轉車輛課・4月27日)の3種で、このうち問題の車輌番号について言及しているのは3番目の「櫻木町驛における電車火災事故について」だけです。ではいったいどうしてこの発生3日後の文書ですでに誤謬を生じてしまったのでしょうか。

jikoroku.jpg沢柳さんは本誌「桜木町事故報告書の謎」のなかで「鉄道監督局資料作成にあたり、連絡先が国鉄総裁室か広報部であって、本社の保安課・修車課ではなかったと考えられ…(中略)…どちらかの連絡ミスか記載ミス」だった可能性が高いとされていますが、まさにこの時点で取り違えが起こってしまっていたことになります。ここからはただの類推にしかなりませんが、それではいったい何が原因だったのでしょうか。お集まりいただいた沢柳さん、浅原さん、梅原さんからもいろいろな推理が提示されました。
▲1995(平成7)年に沖田祐作さんが私家版として上梓された『三代事故録』。「炭水車に立てかけてあった火掻棒が倒れホーム側に約1m突出したため、ホーム上の客十数人をなぎ倒す」(昭和28年5月13日7時55分常磐線土浦駅/毎日新聞)等々、瑣末なものまであらゆる史料から蒐集された鉄道事故記録が記載された500ページを超える労作。

まず考えられるのが単純なタイプミス。「サハ78188」と「サハ78144」の差は末尾が「88」か「44」かの違いだけです。和文タイプライターの専門職は、今で言うところの“ブラインドタッチ”が常でしたから、「8」を二回たたくところを「4」を二回たたいてしまったのでは…というわけです。皆さんにお集まりいただいた時点では和文タイプライターの文字配列がわからず、たとえば「1234」「5678」というように4文字ずつ上下に並んでいたとすると、「4」をタイプしたつもりで「8」をたたいてしまうことは往々にしてありえます。とすれば「144」は容易く「188」となってしまうわけです。ところがこの推理は根本から無理がありました。あとで調べてみると、和文タイプライターの文字盤は縦一列、手前から1234…という配列だったのです。しかも当該文書には2箇所に「サハ78188」の記載があります。2回も同じミスタッチをするとは考えにくく、どうやら原因はほかにあると考えるのが自然のようです。

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戦後の復興もままならない1951(昭和26)年4月24日13時40分頃、京浜線桜木町駅構内で発生したモハ63形による電車火災事故、いわゆる「桜木町事故」は死者106名、重傷者92名を数える未曾有の大惨事となり、以後、国鉄の通勤電車設計を根本から変えることとなりますが、この事故車輌をめぐって思いもかけなかった疑問が持ち上がり、本誌先月号で浅原信彦さんが「桜木町事故報告書の謎」としてその顛末を発表してくださいました。
▲事故のわずか3日後に運輸省鉄道監督局民営鉄道部運転車輌課名で出された「櫻木町驛における電車火災事故について」原本。「サハ78188」の文字がはっきりと読み取れる。所蔵提供:沖田祐作

お読みになっていない方のために概略をご説明しますと、疑問の発端は本誌誌上での緻密なレポートでおなじみの梅原 淳さんからの一通のお手紙でした。『国鉄形車両事故の謎とゆくえ』(2005年 東京堂出版刊)を上梓されたばかりの梅原さんのもとに読者の方から、桜木町事故の車輌のうちの1輌が「サハ78188」となっているが、浅原さんの『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』(第2巻)には「サハ78144」と記載されており、どちらが正しいのか…と問い合わせあったのだそうです。梅原さんは執筆にあたって一次資料である昭和26年6月18日運輸省鉄道監督局作成「桜木町駅における国鉄電車火災事故調査報告書」(昭和26年5月、山崎運輸大臣による第10回衆参両議院国会における事故の国会報告書でもある)に基づいて「サハ78188」としたのだそうですが、では一方の「サハ78144」説の出所はどこなのでしょうか。梅原さんのお手紙を受け取った浅原さんは、国電研究の泰斗・沢柳健一さんの協力を得て真相究明に乗り出しました。

sakuragityoun21.jpg沢柳さんの検証によれば、「サハ78144」の記述があるのは『運転事故写真解説』(昭和31年2月運転局保安課監修)、『国鉄重大運転事故記録』(運転局保安課)、『国鉄事故分類表』(平成元年)の3点。逆に「サハ78188」としているのは『大井工場80年史』(昭和28年)、『鉄道事故三代事故録』(沖田佑作著/平成7年)等ですが、不思議なことに前者は10年後に編纂された『大井工場90年史』では車号が省かれてしまっています。沢柳さんはさらに事故当日現場へ赴いて視認した長谷川弘和さんからの聞き取りや、事故後、大井工場収容線に留置されていた現車を確認した長谷川 明さんの証言、それに万一車体振り替えが行われた場合の両車の形態差まで検証したうえで、最終的な結論として「サハ78144」が正当であろうと結論づけられています。
▲本誌先月号(No.275)掲載の「桜木町事故報告書の謎」。

ただ、「サハ78144」が正しかったとすると運輸省の一次資料そのものが間違っていたことになります。しかもいったいどうしてふたつの番号が長年にわたって一人歩きをすることとなったのでしょうか? 浅原さんも記事のあとがきで「しかし、運輸省の資料が間違っている理由は私と沢柳氏の想像でしかなく、残念ながら不明のままである。」と結んでおられますが、本誌発売後、「サハ78188」と記載された資料のひとつである『鉄道事故三代事故録』の著者・沖田祐作さんから私宛にとんでもない一次資料、しかも原本が送られてきました。事故のわずか3日後に運輸省鉄道監督局民営鉄道部運転車輌課名で出された「櫻木町驛における電車火災事故について」と題された文書で、和文タイプの謄写の中紙、つまりは校正用の原紙そのものです。ホチキスなどなかった時代ゆえ、止めてある“虫ピン”も55年の歳月ですっかり錆びついてしまっています。せっかくの沖田さんのご厚意ゆえ、今日は沢柳さん、浅原さん、それに梅原さんにお集まりいただき、この貴重な資料の謎解きに挑戦してみることにしました。果たしてそこから見えてきたものは…つづきはまた明日お話することにしたいと思います。

弊社サーバのトラブルで一日遅れての配信となっております。事情ご賢察のうえご容赦ください。

jnrexp1.jpgRMモデルズ誌上で2004年10月号?2006年4月号にかけて隔月連載し、実車ファンの皆さんからもたいへんご好評をいただいた、結解(けっけ)学さんの「JNR EXPRESS ?昭和50年代を駆け抜けた国鉄特急・急行列車たち?」が単行本になりました。結解さんは1970年代に高校・大学時代を送ったまさに“ブルトレブーム”真っ只中の世代。その後プロカメラマンとして数々の著作をこなし、現在では広田尚敬さんのあとを受けて日本鉄道写真作家協会(JRPS)の2代目会長を務めておられます。

jnrexp3.jpg改めて本書を見て驚くのは、随所にちりばめられた“編成記録”です。ご本人はあとがきで「EF57の車号チェックのついでに編成をメモしたのが始まりだった」と述懐しておられますが、十数輌の長大編成の特急・急行列車の車号をよくこれだけ記録したものと、ほとほと感心します。この車号チェック、一度でも試したことのある方なら実感としてお分かりになると思いますが、正直言って結構大変です。停車時間がある程度とってあるターミナルならともかく、入線から発車までほとんど時間のない、しかも10輌以上の編成ともなると、それはもう短距離走の世界です。上野のような頭端式ホームの場合でも、車号のみであれば入線時から定点観測的に記録することも可能ですが、所属標記の確認までとなるとどうしても編成全長を歩かないわけにはゆきません。幾度となく同じ辛酸を舐めた身としては、結解さんのこの記録が一冊の本となって結実したことがなによりも嬉しく思えます。
▲写真もさることながら、本書の見所のひとつは詳細な“編成記録”。単行本化にあたっては、RMM編集部の瀧口君がイラスト化を図り、より一層見やすくなった。

jnrexp2.jpgさて、方面別に7パート、さらに読者の皆さんから寄せられた“編成記録”2パートを加えて合計9章だてとなった本書は、単行本化にあたって編成図をよりビジュアルな編成イラストに変更、見るだけでも楽しい仕上がりとなっております。
思い返せばJNR EXPRESS=国鉄特急・急行列車が本当の意味での最後の輝きを放ったのは、東北新幹線開業の1982(昭和57)年まででした。あれから来年でちょうど四半世紀。現在30?40代の方にはどの頁もが懐かしく、忘れがたい記憶として甦ってくるに違いありません。
A4版変形=297×234㎜、180頁、定価:2800円(税込)

そして夕張は今…。

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6月22日付け本欄で、地方財政再建促進特別法(再建法)に基づく「財政再建団体」申請を表明し、事実上の“倒産”に至ってしまった夕張市についてふれましたが、地元・夕張で積極的な活動を繰り広げている三菱大夕張鉄道保存会会長の奥山道紀さんから、続報としてぜひブログで取り上げてくださいと、DVDとお手紙をお送りいただきました。まずは奥山さんからのお手紙をご覧ください。
▲夕張鉄道展にあわせて制作されたDVD「炭都夕張に響く栄華の汽笛 夕張鉄道」と前作の「大夕張鉄道よ永遠に」。ともに夕張市石炭博物館で頒価1000円で頒布されている。なお、8月27日開催の「汽車フェスタ2006」でも頒布の予定とのこと。

先日は夕張についてブログで紹介いただきましたが、現状は再建団体入りを表明しただけで「石炭の歴史村」などの営業は通常通り行なわれています。しかし、今後予想される市民生活の負担増加や各種事業の見直しなど、市内全体が意気消沈する中、三菱大夕張鉄道保存会では何とか夕張市を元気づけたいと、昨年の「三菱大夕張鉄道展」に引き続き、石炭の歴史村・SL館で「夕張鉄道展」を開催しています。

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国鉄夕張線のバイパスとして、大正15年から昭和50年まで夕張の石炭を運び続けた夕張鉄道の記録を写真、資料、模型、映像などで振り返り、10月末日まで開催予定です。夕張鉄道OBからも「こんな時だから」と資料の提供が行なわれており、当会が制作・上映しているDVDは夕張市石炭博物館売店で頒布されています。
▲石炭の歴史村・SL館では現在「夕張鉄道展」を開催中。夕張鉄道を語り継ぐ貴重な品々が展示されている。P:三菱大夕張鉄道保存会

一方、石炭博物館では「ダムに沈む、もうひとつの夕張・大夕張鉄道展」が同時に開催され、往時の三菱大夕張鉄道の写真や、昨年「三菱大夕張鉄道展」で上映された「三菱大夕張鉄道よ永遠に」も上映されています。こちらも売店で頒布されています。RMライブラリー「三菱鉱業大夕張鉄道」も売店にありますので、同時に購入いただければ三菱大夕張鉄道の全貌が捉えられます。

yuubaruten3n.jpg夕張市の再建団体表明により、ダム周辺整備事業に位置づけられている南大夕張の「列車公園」構想も、なんらかの影響は避けられないものと思います。また、財政再建を進め夕張市自体も変化が求められます。
折しも夕張炭礦専用線の跨線橋を含む石炭の歴史村周辺の炭礦関連施設が「登録文化財」として指定されました。炭礦と鉄道の歴史は変わらないもの、残さなければならないものとして次代に繋げなくてはならないと思います。
▲6月22日の本欄で紹介した夕張炭礦専用鉄道跡に残る高松跨線橋も登録文化財のひとつとして整備された。P:三菱大夕張鉄道保存会

新作のDVD「炭都夕張に響く栄華の汽笛 夕張鉄道」は、歴史、路線と駅、現存車輌の3チャプターからなり、動画と貴重なスチルを巧みに取り混ぜて構成されています。動画は“夕鉄”の象徴でもあった12号機の力走シーンや平和礦を出る後補機をはじめ、キハ251など蒸気機関車以外もふんだんに盛り込まれており、鉄道そのものの歩みを語り継ごうという奥山さんらの意図がひしひしと伝わってきます。錦沢にあった遊園地の賑わい、新二股から出ていた角田炭礦の電車…このDVDを見ていると、夕張鉄道の歴史がそのまま夕張の盛衰であったことが再認識されます。この夏休み、北海道へ行かれる方は、支援の意味も込めてぜひ夕張にお出でになってみてください。

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■4番グースのこと
レプリカとはいえ1番グースが復元されたことで、7輌のグースすべてが揃ったことになりますが、いまもって唯一3番グースだけはこの目で見ることがかないません。3番はロッキーを遠く離れてカリフォルニアの遊園地、ナッツ・ベリー・ファーム内の遊園鉄道に蒸機列車の“予備車”として保存されていますが、動く機会はほとんどないようで、アポなしのいち入園者がその姿に接するのは容易くなさそうです。
▲4番グースはテラライドの街中の路地裏に忘れさられたように置かれていた。説明看板もなく、ささやかな花壇だけがせめてもの餞か…。'94.8.31

rgsmapn.jpgいずれにせよ、No.1が復元(新製)、No.2・6・7がコロラド・レールロード・ミュージアム、No.3がナッツ・ベリー・ファーム、No.5が動態復活とここ十年で大きく環境の変化したグースたちの中にあって、一番不遇をかこっているのが4番グースです。かつてのRGSグースルートのひとつ、サンファン山脈に抱かれたテラライド(Telluride)の町に4番グースは保存されています。有名なバンス・ジャンクションから分岐した支線のほぼ終点に位置するテラライドは、南西コロラド屈指の風光とされるサンファン・スカイウェーの通る町でもありますが、町そのものはとりたてて見るべきものもなさそうな田舎町です。
▲リオ・グランデ・サザン鉄道(RGS)のギャロッピンググース・ルート図。標準的な一日の運用は1輌目のグースがリッジウェーからテラライドまで、2輌目がテラライドからデュランゴまで、3輌目がデュランゴからドロゥレスまで、最後の4輌目がドロゥレスからリッジウェーまでを受け持つ。(“Galloping Geese on the Rio Grande Southern”1971より加筆転載)
クリックするとポップアップします。

4goose4n.jpgこのテラライドは、位置的には保存鉄道のデュランゴ&シルバートン鉄道の終点・シルバートンから一山越えた西側に位置するのですが、“一山”といえど4000m級の標高で、今もってRGS時代と同様にドロゥレス、リコ、さらにループ線で有名だったオフェアを経由してバンス・ジャンクションから大迂回をするしか行く手だてはありません。距離にして120マイル(200キロ)ほど。しかもRGSのグレードを辿る急峻な山道が続くとあって、現地のナローゲージャーでもわざわざこの4番グースを見にテラライドへと足を向けた人は少ないはずです。
▲サンファン山脈に抱かれたテラライドはどこにでもありそうなロッキーの田舎町。'94.8.31

4goose3n.jpg町といってもそれほど大きくはなく、よく西部劇に出てくるようなメインストリートを軸に両側に商店や住宅が広がっているといった感じの変哲のない風景です。果たして本当に保存されているのか心配ではありましたが、単純な構造の町だけに比較的容易く発見することができました。デポ跡らしき空き地に所在なげに置かれた4番グースには、特に説明看板もなく、ほかの仲間の厚遇を思うと少々気の毒に思えてくるのでした。ただ、降雪量の多いこの地方で屋根もなくこの状態を保っているということは、それなりのメンテナンスが施されてもいるのでしょう。側面のギャロッピンググースのヘラルドと、リペイントと思しき少々崩れた書体のレタリングが、この町の人々がそれなりの愛情をこの4番に注いでくれていることの証に思え、ちょっとばかり安心してテラライドの町をあとにしたのでした。
▲4番グースにはもちろんギャロッピンググースのヘラルドが残されている。'94.8.31

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■6番ワークグースのこと
末期まで生き残った6輌(No.2?No.7)の“ギャロッピンググース”の中で異端児と呼べるのがNo.6です。ほかの仲間が基本的にメールサービスを任務として生を受けたのに対し、6番グースは保線や救援用として誕生した全長7.8mほどの小型車(?)です。
▲D&RGW(デンバー&リオ・グランデ・ウエスタン)のC-19形N0.346と交換するワークグース…といってももちろんこれはコロラド・レールロード・ミュージアムでのデモシーン。'94.9.3 CRRM

6goose2n.jpgその用途から“ワークグース”(Work Goose)と愛称されるこの6番は、RGS晩年もほかのグースのようにエクスカーション用に転用されることはなく、事業用として裏方の仕事に徹してきました。最終的には廃線となったRGS路線の撤去用として1952(昭和27)年まで使われていたと言います。その後、デュランゴのヤードで廃車となっているところを、やはりボブ・リチャードソンさんに助け出され、コロラド・レールロード・ミュージアムに保存されています。
▲巨大なカウ・キャッチャーが印象的なフロントビュー。'94.9.3 CRRM

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▲キャブサイドにRGS(リオ・グランデ・サザン)のレタリングと控え目な「6」のナンバリング。6番グースも時代とともにレタリングが二転三転するが、ギャロッピンググースのヘラルドが入れられることはなかった。'92.9.13 CRRM

1934(昭和9)年1月13日にリッジウェーのワークショップで誕生した6番は、1926年ピアース・アロー製の“model 33”と呼ばれる車体にビュイックの6気筒エンジンを合わせたものでした。その後、ボディーは同じくピアース・アローの“model 36”(1928年製)に、エンジンはシボレーの6気筒に換装されて現在のスタイルとなりました。

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▲屋根上にはフューエルタンクとマーカーライトが載る。ボンネット上部は運転席への反射を防ぐために黒く塗られている。'94.9.3 CRRM
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▲エンジンは換装されたシボレー製6気筒。フロントデッキ上の円筒形のものはサンドボックスで、その右は備え付けの工具箱。ファイナルドライブはグース定番の外掛けチェーン。エキゾーストパイプは直管だ。'94.9.3 CRRM

ビッグ・グースと通称されるバスボディーの3・4・5番グースに比べ、どちらかというと地味な存在の6番ワークグースですが、その割りには根強い人気があります。しかもビッグ・グースのようにアイドル的人気ではなく、どちらかというとエンスー系の人気で、模型の世界でもエンスージァスティックなラインナップで知られるグラントライン(Grandt Line)が極めて精密なOn3キットを発売しています。もちろん私もいつかは組み上げようとこのキットをストックしていますが、残念ながらいまだ果たせてはいません。

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10日付けの本欄で概要をお知らせした宮澤孝一さんの写真によるJR上野駅Breakステーションギャラリー写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」がいよいよ始まりました。今日は午後から作品の搬入・飾り付けが行われ、宮澤さんご本人にも立ち会っていただいて、一ヶ月以上にわたる写真展がスタートいたしました。
▲B0(B倍)判のプリントともなると、とにかく大きい。この広い会場ならではの迫力で見る者を圧倒する。'06.7.14

uenoopen5.jpgギャラリーといっても上野駅本屋中央改札二階の回廊とあって、展示作品も通常の大きさでは事足りません。今回もB0(B倍)判(1030×1456mm)という通常では考えられない巨大なプリントを中心とした展示となっていますが、実際に搬入されたパネルの大きさを見て改めてその巨大さを実感しました。美術館展示作品等の引き伸ばしでわが国随一の実績を持つ神田の写真弘社のモノクロプリントだけに、その仕上がりも格別で、ことに京浜東北線の63形をバックにした冬の朝の通勤ラッシュ風景などは、気温や人々の息、さらには街の匂いまで伝わってくるような“空気感”です。果たしてデジタルでこの“空気感”が再現できるのか…改めて銀塩のすごさを実感する展示でもあります。
▲上野駅正面玄関。Breakステーションギャラリーはちょうどこの本屋二階に位置する。'06.7.14

uenoopen4.jpgプリントでの展示以外にも30点の作品が5分ほどのDVDにまとめられて大型モニターで放映されています。宮澤さんの趣味の原点でもある「ジュラ電」をはじめ、田端のスケネクタディー900形から「こだま」まで、戦後の上野・東京界隈を象徴する映像が続きますが、中には上野動物園の初代「お猿の電車」の画像もあって、思わずモニターに引き込まれる思いでした。憂いなく目を輝かせる子供、決して裕福には見えないもののなぜか幸せそうな大人たち…そんな“時代”をも感じとれる映像集です。会場においでになった際は、ぜひともじっくりとご覧になってみてください。
▲タイトル写真ともなっているB0(B倍)判プリント(1958年撮影のC62)の前の宮澤さん。'06.7.14

uenoopen2.jpg■JR上野駅Breakステーションギャラリー
写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」
2006年7月15日(土)→8月24日(木)
主催:東日本旅客鉄道株式会社
写真:宮澤孝一
協力:東京都写真美術館/レイル・マガジン編集部/写真弘社
企画・運営:Breakステーションギャラリー事務局
会場:JR上野駅正面玄関「ガレリア」2階
入場無料・会期中無休

▲ブレーク・ステーション・ギャラリーは中央改札二階の「アトレ」に隣接している。回廊左側がギャラリー。もちろん初電から終電まで観覧可能。'06.7.14

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夏休みから秋にかけて数々のイベントが予定されている余部橋梁の町・香美町(兵庫県)企画課の藤原さんから素晴らしい写真が届きましたので、さっそくご覧にいれましょう。8月5日に予定されている「余部鉄橋夕涼みまつり」の際の橋梁ライトアップのテストの光景です。
▲ライトアップ点灯! 高さ41mの大橋梁が神々しいまでの偉容で浮かび上がる。P:香美町提供

lightup2.jpg今回の一連の企画の先陣をきるかたちのこのライトアップ、実は町にとってもまったく未知の挑戦なだけに、不安材料も少なくなかったようです。照明機器はどうするのか、果たして光量は足りるのか、発電設備は…等々、一度テストをしてみないとわからないことだらけだったそうです。結果はご覧のとおりの大成功! 夏の夜の余部海岸に、幽玄なまでに浮かび上がる大橋梁。来年の夏には再現不可能だけに、いっそう心ひかれる光景です。
▲ライトアップされた余部橋梁を通過する列車。今回のテストはJRの協力で運行に支障がないかどうかの確認も行われた。P:香美町提供

このテスト成功を受けて、香美町では8月25?27日に予定されている記念講演会・写真展の期間にも追加ライトアップを決定したそうで、ライトアップが見られるのは夏休み期間中の8月5日(土)、8月25日(金)、8月26日(土)の3日間となります。しかもこのテスト時は1キロワットの投光機2基による照射でしたが、“本番”では4基を使用するとのことですので、さらに燦然と輝く余部橋梁が見られるにちがいありません。

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▲夏休み、海、ライトアップ…まさに“余部鉄橋の有終を刻む”と銘打たれたイベントにふさわしいシーンだ。P:香美町提供

■「余部鉄橋の雄姿を撮る」
広田尚敬さん講演会 and服部敏明さん写真展
・日時:平成18年8月25日(金)?27日(日)
・会場:香美町香住区香住 香住区中央公民館
・主催:香美町
・ スケジュール
●広田尚敬さん講演会「今や鉄橋わたるぞとー」
8/26(土) 午後1時30分?3時30分 中央公民館 文化ホール
●服部敏明さん写真展
8/25(金)?27(日) 午前10時?午後9時30分 中央公民館 視聴覚室
● 写真コンテスト入賞作品展
8/25(金)?27(日) 午前10時?午後9時30分 中央公民館ロビー
(入賞作品/一般:15点、デジタル:全51点、2次審査作品:140点)
●余部アマチュア写真家 千崎密夫・田中茂さん写真展
8/25(金)?27(日) 午前10時?午後5時 余部地区公民館
○JR西日本豊岡鉄道部事業
・臨時企画列車 「あまるべロマン号」運行(7/22?8/27 ※お盆は除く)

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■2番グースのこと
残された6輌の“ギャロッピンググース”のうち、もっとも早くから動態で保存されたのが2番グースでした。1番の好成績を受けて1931(昭和6)年8月に新製された2番は、ビュイックの4ドア自動車を改造して誕生したもので、全長10m弱とかなり大型のモーターカーです。
▲ロッキーの入道雲を背に2番グースがやってきた。フロントの巨大なスノープラウがチャームポイントでもある。'00.8.29 Cascade Canyon(Rockwood-Tacoma)

2goose7.jpgビュイック製乗用車を車体ごと流用しただけに、キャブ後部にはホイールアーチがそのまま残るお世辞にも出来の良いスタイルではありませんでしたが、後年ピアース・アロー製の車体に載せ代えられて現在のスタイルとなりました。実は3番以降のグースたちは、6番以外全車がこのピアース・アロー車体を載せて誕生しています。“ギャロッピンググース”の定番としてお馴染みのNo.3?No.5のウェーン・バス・ボディはさらに後年載せ代えられたもので、基本的にはこのピアース・アロー車体がオリジナルだったのです。現在でもこのスタイルで残っているのは2番と7番の2輌で、いずれもコロラド・レールロード・ミュージアムに保存されています。
▲フューエルタンクはキャブの屋根上にある。小休止の間にジェリ缶からガソリンが補給される。'00.8.29 Rockwood

2goose1.jpg
▲コロラド・レールロード・ミュージアムで初めて出会った14年前の2番グース。この時点で動態で保存されているのはこのNo.2とワークグースと呼ばれるNo.6だけだった。'92.9.13 CRRM

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▲2番グースに試乗させてもらった。運転席はガーガー、ガタガタとたいへんな振動と騒音だ。'92.9.20 CRRM
2goose8.jpg2番グースは当初リッジウェーとテラライドの間の郵便・荷物、さらには少数の乗客を乗せて運用されていましたが、のちにデンバー&リオグランデ・ウエスタン(D&RGW)鉄道のデュランゴとリオ・グランデ・サザン(RGS)鉄道のドロゥレスを結ぶ連絡便として1942(昭和17)年まで使われていたそうです。戦後の1951(昭和26)年、熱心なRGS研究家でもあるロバート・リチャードソンさんに買い取られてアラモサに移され、その後1958(昭和33)年にコロラド・レールロード・ミュージアムに移設されて静態保存されていました。しかしリチャードソンさんはじめグースの復活を望む多くの人々の努力で、1975(昭和50)年6月4日に動態復活、以後ミュージアム内のデモ運転線で定期的に運転されるようになりました。
▲運転席は異様に狭い。磨き出しのウォールナットだろうか、インパネはブガッティあたりのビンテージカーを思わせる。右は私の足で、この体勢でのけ反りながらようやく写した一枚。'92.9.20 CRRM

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私が最初にこのミュージアムで2番グースに出会ったのは今から14年ほど前のことでした。運よく公開運転中で、短い区間ながら、中学時代から思いこがれてきた“ギャロッピンググース”というものが動く様を初めて目にすることができたのです。しかもありがたいことに、一週間後に再訪した際には運転席に乗せてもらってその“走りっぷり”を堪能する幸運にも恵まれたのです。よく閉まっていないのか、はたまたはじめから建てつけが悪いのか、小刻みに震え続けるボンネットリッドをはじめ、とにかくその振動と騒音は今もって強烈な印象となって記憶に残っています。
▲スロットルを踏み込んでダッシュしてゆくNo.2。背面の「2」の標記がいかにもかっこいい。'00.8.29 Rockwood

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■1番グースのこと
6年前、2000年に行われたデュランゴ&シルバートン鉄道(Durango & Silverton Narrow Gauge Railroad)のレールフェスタは今もって強烈な印象として残っています。2年ほど前に奇跡の復活を遂げた5番グースと、デンバー近郊の博物館で動態保存されている2番グースがこの保存鉄道上で劇的な再会を果たす…そんなプログラムが組まれていたのです。
▲実に68年ぶりに甦った1番グース。磨き上げられたオリーブドラブの車体にビュイックのラジエータシェルが燦然と輝く。'00.8.28 Rockwood

goosefig2.jpgところがこのコロラドの山奥で待っていたのは、2輌ではなく3輌のグースたちでした。5番、2番のあとに続くのは見たことのないオリーブドラブの小さな車体に“US MAIL”のレタリングも鮮やかなひときわ小ぶりな車体。ボンネットリッドには控えめに“RGS No.1”の文字が見えるではないですか。信じられないことに、3輌目に続くのは70年近くも前に解体されてしまったはずの1番グースだったのです。
▲“ギャロッピンググース”の象徴、RGSのヘラルド。

1goose2.jpg最終的に7輌のファミリーをなす“ギャロッピンググース”の長兄No.1グースは、1931(昭和6)年6月にリオ・グランデ・サザン鉄道(RGS)の北端、リッジウェー(Ridgway)の町で誕生しました。それまで機関車牽引列車を仕立てていた郵便・小荷物輸送の効率化を図るべくビュイックの6気筒トラックを改造して製造されたこの奇妙なモーターカーは、テラライド(Telluride)?ドロゥレス(Dolores)間に投入され、852.58ドルという製造コストの割には大成功を収めたのでした。この実績を受けてただちにさらに大型の同系車が企画され、同年末には完成、これがのちの2番グースとなりました。翌年にもさらに増備が続けられることになったものの、いかんせん1番グースは小さすぎ、結局この時点で後継車に部品を供給して廃車されてしまうことになります。時に1932(昭和7)年10月のことでした。ギャロッピンググースの“原点”はわずか1年と4ヶ月の短命に終わったのです。
▲“新車”とはいえエンジンは年代モノ。しばらく力行を続けるとラジエータに給水せねばならない。'00.8.28 Rockwood

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そんなわけですから、1番グースが目の前に現れることなどありえない“はず”でした。ところが目の前にはNo.1が…。驚くべきことに、この車、実はこの日のために「新製」されたレプリカだというではないですか。
派手なエンジン音を響かせてアニマス川の清流を遡るようにNo.1グースの旅は続く。'00.8.29 Cascade Canyon(Rockwood-Tacoma)▲

1goose4.jpg戦前の、しかもわずか1年4ヶ月の命だっただけに、1番グースに関する資料はほとんど残されていません。聞けば現在判明しているのは写真がわずかに7カットと、1枚の“スケッチ”のみ。そんな困難な状況にも関わらず、1番グースの出生地リッジウェーのカール・シェファーさんが中心となって、同年式のビュイックをベースに復元に取り組んだのだそうです(現在はリッジウェー・レイルロード・ミュージアムが管理)。「少なくとも95%は忠実だ」とドライバーシートのシェファーさんは自信を浮かべます。それにしてもなんと言う情熱、いや情念でしょうか。アニマス渓谷のひんやりとした川風を震わすエキゾーストノートを聞いていると、ギャロッピンググースを愛する仲間たちの思いに、はからずも目頭が熱くなってくるのでした。
▲復活をアピールした一日が終わろうとしている。デュランゴ目指して駆け足(galloping)で帰路につく1番グース。'00.8.29 Trimble-Animas City

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JR上野駅2階のBreakステーションギャラリーで、今週土曜日から宮澤孝一さんの写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」が始まります。一昨年同時期の「賑わいの上野口」、昨年の「山手線・1973年夏」に続いて、夏休みシーズンに上野にちなんだ鉄道モノをとJRと東京都写真美術館から依頼を受け、無理を押して宮澤さんご相談申し上げたというわけです。
▲上野駅高架ホームの風景。背景は到着したC62の牽く常磐線列車。1958年3月 P:宮澤孝一

uenoten2.jpg都内にお住まいだった宮澤さんは、戦争の激化とともに1945(昭和20)年に浦和に転居され、以後16年間にわたって浦和にお住まいでした。それだけに上野を発着する列車への愛着はひとしおで、信じられないほど膨大なネガの中から昭和20?30年代の写真を中心にお選びいただきました。さらに、ギャラリーといっても極めてパブリックな空間だけに、できるだけ多くの方に興味をもっていただける絵柄を…とお願いし、最終的に12点が会場展示、30点ほどが常設モニターで映し出されることになりました。吹き抜けの広大な空間ゆえ、展示作品の大きさも通常では考えられないほど巨大で、B全判が中心となります。しかも木村伊兵衛や土門 拳といった日本を代表する写真家のモノクロを専門に扱っているプロラボ=写真弘社の銀塩プリント仕上げだけに、その面でも必見です。
▲常磐線下り平行列車。疲弊した木造客車の姿は痛々しい(上野)。1950年9月 P:宮澤孝一

uenoten3.jpg■JR上野駅Breakステーションギャラリー
写真展「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」
2006年7月15日(土)→8月24日(木)
主催:東日本旅客鉄道株式会社
写真:宮澤孝一
協力:東京都写真美術館/レイル・マガジン編集部/写真弘社
企画・運営:Breakステーションギャラリー事務局
会場:JR上野駅正面玄関「ガレリア」2階
入場無料・会期中無休

http://www.jr-break.com/gallery/ueno/
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▲戦後しばらくはこのような情景が各所で見られた。丸の内GHQ隣にあった米空軍司令本部入口(現・第一生命付近)。1947年9月 P:宮澤孝一

JR上野駅Breakステーションギャラリーでは、レイル・マガジン編集部の協力を得て、「上野、東京…戦後を走った汽車・電車」展を開催します。
1945(昭和20)年夏、多くの犠牲をはらった太平洋戦争は日本の敗戦をもって終結しました。たびかさなる空襲で大都市圏のほとんどが焦土と化し、わが国の産業の荒廃ぶりはみるも無惨なものでした。しかしながら、敗戦の虚脱状態のなかにあっても、焦土に響く汽笛の音は人びとに安心と感動を与え、鉄道は国家再建の基幹産業として経済上はもちろんのこと、政治・社会・文化のあらゆる面にわたり、重要な役割を果たしてゆきます。
上野駅といえば、戦時中は出征の兵士を見送る風景、学童集団疎開、戦後は闇米の買い出しや、戦災で家や両親を失った子どもたちがあふれ、高度成長期には「金の卵」と呼ばれた集団就職の学生たちが降り立つ場でもあり、石川啄木や斎藤茂吉など多くの文人たちも上野駅に想いを寄せてきました。ここは旅立つ人を、帰ってくる人を、そして行き場をもとめてさすらう人のことも、長年見守りつづけてきたまさに「心の駅」だったのです。
本展覧会では、当時浦和在住で、終戦直後から上野?東京界隈の鉄道の変遷を撮影しつづけた元・鉄道友の会専務理事宮澤孝一氏の貴重な映像により、終戦直後から復興期にかけての鉄道風景を振り返ります。
(関次和子/東京都写真美術館)

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▲左/大宮操車場近くの丘の上には廃車となった木造客車が作業場の団地を造っていた。1953年1月 右/大宮駅で折返し桜木町へ向かう京浜東北線電車。先頭は駐留軍専用室に半分が充てられている。整備も良く目立つ外観だった。1948年11月 P:宮澤孝一

最後に、宮澤さんからのメッセージをいただいております。

展覧会に寄せて
宮澤孝一
 「駅はその街の表玄関だ」と古い昔、先輩から聞いて久しい。とすると上野の駅は日本の東半分に住む人を出迎え、見送る東京の大玄関である。私にとっても父の故郷が越後は高田の在であったことからたぶん1933年夏には両親に連れられてこの地平ホームから木造客車に乗り、蒸気機関車に先導されて旅立ったはずである。以来、縁あって昭和20年代から30年代の半ばまで16年にわたり浦和に居住したこともあり、上野駅とは浅からぬ縁を感じている。さまざまな人びとがこの上野駅に集まり散じる様に、本当に多くの列車、車輌もここに姿を見せてくれている。蒸気機関車から電気機関車へ、気動車から電車へ、木造車からステンレス車体車輌まで、この駅にたたずむと日本の鉄道技術の進歩がひと目でわかる。浦和ではこの駅を発着したり、通過する多くの列車を見ることができて幸せだった。いまの私は地平ホームにたたずみ、欧州の主要駅の雰囲気をほのかに味わったり、杜の美術館やコンサートのアクセスとして、またひと休みする格好のアトレをのぞくなど大切な駅である。玄関はかくありたいものである。
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▲いまの南浦和付近を走るEF55形電気機関車の牽く高崎線列車(蕨)。1949年8月 P:宮澤孝一

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それは高校受験を間近に控えた中学3年の冬のことでした。どんな用事だったのか前後関係は忘れましたが、めったに行くことのできない銀座天賞堂の模型売り場で、一枚の絵葉書に目を奪われたのです。
▲6年ほど前のレールフェスタでは奇跡的にNo.1、No.2、No.5と3輌のグースが顔を合わせた。ロックウッドの側線で小休止する5番グース。手前のカウボーイハットがモーターマンを務めるギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティーのウェイン・ブラウンさん。'00.8.28

gooselogon.jpg書店業界でメリーゴーランドと通称される展示台に差された輸入ポストカードは、その大半がビッグボーイなどのいわばメジャー筋でしたが、一枚だけ、何とも形容しようのない銀色のバスのような車輌が木橋を渡っている絵柄のものがありました。しかもよく見ると車体の横には何やらガチョウのような絵が描かれているではないですか。「これください!」。いったい写っている車輌がどこの何なのか、そんなことを考えるまでもなくレジの前に立っていました。
これが“ギャロッピンググース”(Galloping Goose=駆け足ガチョウ)との最初の出会いでした。
▲かつてのRGSのロゴを踏襲したドロゥレスのギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティー(GGHS)のロゴ。

goose1n.jpg今さら思えば、その絵葉書は1951年に撮影されたバンス・ジャンクション付近のビルク橋を渡るNo.4グースだったのですが、当時はそんなことを知る由もありません。ましてやキャビン側面の“RIO GRANDE SOUTHERN”のヘラルドでさえ、いったい何を意味するのか知りもしなかったのですから、いまさらふり返っても実に運命的な出会いだったと思わざるをえません。あれから数十年、ギャロッピンググースを巡る旅も回数を重ね、コロラド州ドロゥレスに本拠を置く“ギャロッピンググース・ヒストリカル・ソサエティー”(GGHS)のメンバーの一人としても、グースたち(英語では複数形はgeese=ギースですが…)とのつきあいは深まるばかりです。これから不定期で何回かに分けてこのグースたちとのお話をご紹介してみようと思います。
▲アニマス渓谷に久しぶりにグースのエンジン音が響く。乗り心地は決して良くはない。'00.8.29

goose7n.jpgアメリカのモデルレールロード・シーンでも不滅の人気を誇り、今もって次から次へと新製品が登場するこの“ギャロッピンググース”という車輌、ロッキー山脈の山中に路線を展開していた3フィートゲージのRIO GRANDE SOUTHERN鉄道(RGS)の郵便・物資輸送用モーターカーです。有名なわりには実態はあまり知られていないようですが、基本的に1931年から1936年に製造された7輌が“ギャロッピンググース”の仲間とされています。ただし、その形態は実にさまざまで、No.1グースのように保線用モーターカーのようなものもまじっており、なおかつ時代によってまったくスタイルも変わってしまうため、実に複雑です。しかも名前の由来ともなった“ギャロッピンググース”のイラストも全車に描かれていたわけではなく、RGS末期に、すでに廃車となっていたNo.1と、ワークグースと通称される小型のNo.6を除いた5輌にペイントされていたものでした。
▲5番グース車内から追走準備中の1番、2番グースを見る。リッジウェーを本拠とするNo.1グースは完成したばかりのレプリカだ。'00.8.28

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現在この合計7輌のグースのうち、No.2、No.6、No.7の3輌がコロラド・レールロード・ミュージアムに、No.3がカリフォルニアのナッツベリーファームに、No.4がRGSの跡地のテララィドに、そしてNo.5が同じくドロゥレスに保存されています。1994年夏、この保存車たちを巡りましたが、その時点ではまさか数年後にNo.5が奇跡の復活を遂げ、さらには誕生後わずか2年で1933年に廃車され、たった7枚の写真しか残されていないというN0.1グースのフル・レプリカが走りだすことになろうとは夢にも思っていませんでした。
▲この年はいつになく秋の訪れが遅かった。真夏のような日差しの中、カスケードキャニオン付近のアニマス川を渡る5番グースと、追走する1番グース。'00.8.29

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RMモデルズの「RMMスタッフ徒然ブログ」で、羽山副編集長が新交通「日暮里・舎人線」の建設で大きく変貌を遂げようとしている日暮里駅を2回にわたってレポートしていますが、それを見ていて思い出したのが、30年以上前、東北・上越新幹線“上野乗り入れ”工事中の日暮里駅のことです。
▲東北・上越新幹線上野乗り入れ工事が始まった頃の日暮里駅。撤去される東北・高崎線ホーム(有効長244m)に工事用軌道と”ナベ”が見える。この時点では新幹線関連工事であることは公表されていない。'74.9.29

nippori74929an.jpgご存知のように1982(昭和57)年に大宮始発で暫定開業した東北・上越新幹線にとって、最大の懸案事項は上野への乗り入れでした。国鉄部内では同新幹線の都心乗り入れはあらかじめ折り込み済みの方針ではありましたが、大宮?上野間の用地取得が非常に難航し、沿線住民との感情的対立もあって、“上野乗り入れ”を公式発表することさえ出来ない状況に陥っていました。1979(昭和54)年12月、在来線荒川橋梁の3km上流に新幹線荒川橋梁を架橋するに至って、初めてこの架橋が新幹線上野乗り入れのためのものであることを発表、抜き打ちで早朝に資材を搬入するなどの混乱の中で“上野乗り入れ”は表面上のスタートをきったのです。
▲破砕されたホーム上にへろへろとのびる作業軌道。'74.9.29

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そんな事情ですから、この写真の1974(昭和49)年時点では新幹線“上野乗り入れ”などとはいっさい公言されないままでの「日暮里駅改良工事」でした。最初に始まったのは、東北・高崎の在来線ホーム2本を撤去して新幹線の路線を構内に確保するための在来線軌道移設切り替え工事ですが、興味をひかれたのは、この工事に“ナベトロ”が用いられたことです。地下鉄や共同溝工事ならともかく、すでに1970年代ともなると地上の土木工事で“ナベトロ”が使われることなどまずなく、ましてや都区内の衆人環視の中ともなると異例中の異例でした。重機を導入できない狭隘な作業スペースと、破砕したホーム土砂の運搬という軟弱地盤からやむなく軌道による作業方式が選択されたのでしょうが、左右を行き交う485系やEF58に挟まれて活躍する“ナベトロ”は何とも異様な光景でした。
▲工事開始から3年あまり、ホームはきれいに消え去ったが、工事はこれからいよいよ本格化する。1合ナベトロの横を通過するのは秋田行特急「つばさ」。'77.10.15

nippori74929cn.jpgこの工事、大手ゼネコンの間(はざま)組が請け負ったもので、軌道資材も同社のものでした。本来ならば無理を言って近寄らせてもらいたかったのですが、当時の同社は海外でも反政府ゲリラの攻撃対象となっており、“ナベトロ”といえども安易に見せてもらえるような状況ではありませんでした。ちなみに、この写真の半年後、1975(昭和50)年2月には同社本社ビルが「東アジア反日武装戦線」により爆破されています。
▲跨線橋上から見下ろした旧ホーム上の作業軌道。軌道から外れた予備のナベトロが見える。'74.9.29

hazamabook.jpg重機を大々的に使えない工事だけに、その進捗は今から考えると実にゆっくりとしたもので、1974(昭和49)年から数年にわたって日暮里駅構内にはナベトロ軌道が敷設されたままとなっていました。手もとにある『間組百年史』(1990年)の「東北・上越新幹線日暮里関連工事」の項目によれば、日暮里駅周辺工事を担当した同社が最初に受注したのは1974(昭和49)年3月の「工事用桟橋架設工事」で、以後、1985(昭和60)年8月まで合計31件の日暮里関連工事を受注しているそうです。もちろん“ナベトロ”に関しては何もふれられてはいませんが、「現場は狭い国鉄用地内で、しかも過密な営業線の運行をつづけたままの工事であったから、たいへん気苦労が多」かった(同書687ページ)と当時の状況が綴られています。ちなみに、この日暮里関連工事の諸工事「営業経歴書」の中には“新幹線”をにおわす言葉はいっさい見当たらないとも記載されています。
▲『間組百年史』(1992年)の日暮里関連工事のページ。上下巻合わせて十数センチの厚さになる大冊。

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「オハ31」大宮に到着!

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▲慎重なクレーン作業で降ろされるオハ31のA車体(?)。輸送の関係で実は2分割にされた片方の車体だ。'06.7.4 P:RM(新井 正)

交通博物館閉館から間もなく2ヶ月、時の流れの速さにとまどうばかりですが、かたや新設される「鉄道博物館」の方は着々と準備が進んでいるようです。今週火曜日にははるばる津軽鉄道から運ばれてきたオハ31 1が大宮に到着、45年ぶりにJR(国鉄)の線路上に降ろされる様子が報道公開されました。

oha316.jpgオハ31形客車は1927(昭和2)年から1929(昭和4)年にかけて512輌(編入含む)の多くが生産された17m級戦前型鋼製客車のスタンダード車種で、ダブルルーフの屋根が時代を感じさせます。このオハ31 1(国鉄時代はオハ31 26)は1961(昭和36)年に津軽鉄道に払い下げられ、以後いわゆる“ストーブ列車”の客車として長らく津軽平野を走ってきました。1970年代初頭、私も津軽鉄道を訪れた際には2度ほどこのオハ31にお世話になっており、実に懐かしく、大宮の地で再会できるのが今から楽しみでもあります。
▲「鉄道博物館」のフロントマスクを付けたトレーラーで運ばれる車体。完全にシートで梱包されている。'06.7.4 P:RM(新井 正)

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さて、去る6月28日に保存してあった芦野公園で津軽鉄道とJR東日本関係者による贈呈式が執り行われ、先週日曜日=2日の夜から世紀の輸送作戦が開始されました。実は長年にわたって公園内で積雪にさらされていたこともあって、車輌の状態は決して良好ではなく、やむなく車体中央からばっさりと2分割されて運搬されることになりました。4日未明に大宮に到着したのはシートで丁寧に梱包された10mにも満たない2つの“包み”。荷卸しのためにシートを解かれると、そこに現れたのはまるで“Bトレ”のようなかわいいオハ31の姿だったそうです。
▲実はこのように2分割にされている。もちろんこれから車体を結合のうえ、フルレストレーションが行われる。'06.7.4 P:RM(新井 正)

oha315.jpgすでに搬入されているナハネフ22に続き、これからいよいよ保存展示車輌が続々と大宮へと集結してくるはずです。また、博物館用地そのものも基礎土木作業が終わり、すでに一部では建物の鉄骨が組み立て始められています。“目玉”のひとつと思しきターンテーブルもピットが出来上がっており、私たちの想像以上に「鉄道博物館」は着々と開館に向けて進んでいるのです。本誌では運営する東日本鉄道文化財団のご協力を得て、今月号から毎月、鉄道博物館開館へ向けてのカウントダウンを連載形式でお伝えいたします。どうかご期待ください。

▲別に運搬されてきたTR11台車と車体が再会。側板にはくっきりと津軽鉄道の社紋が見える。'06.7.4 P:RM(新井 正)

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ちょうど夏休みの今月27日(木曜日)から一ヶ月以上にわたって、東京・品川の「キヤノンギャラリーS」で広田さんの写真展「鉄道写真 二本のレールが語ること」が開催されます。キヤノンギャラリーS はキヤノンマーケティングジャパングループの新本社センターオフィスビルに新設されたわが国屈指の素晴らしいギャラリーで、どんな写真展になるのか今から実に楽しみです。
▲東京駅に入線する500系。ノーズからコックピットまで光が撫でる。ストップウォッチを片手に観察する日々が続く。そして何度かチャレンジしてようやく撮れた写真。このときはまだ1秒の流し撮りが初体験だったから成功率は低かった(広田 泉)。P:広田 泉

hananonaka1.jpgこの写真展、広田さんとご子息である広田 泉さんの親子展でもあります。泉さんは1969(昭和44)年生まれ。広田さんの次男として幼いころから撮影に同行、すでに鉄道写真歴35年(!)を迎えるそうです。2002年よりフリーランスの写真家としてプロスタートをきり、独特の感性と天性の色彩感覚でカメラ誌等でも注目を集めています。今回は広田さんが40年前に撮影したモノクロ作品から、泉さんがファインダーに収めた力強い日没寸前の新幹線まで、約80点の作品が展示されるそうです。初めて撮影した中学時代から変わらない広田さんの情熱と、泉さん独特の色彩感覚。2つの魅力が2本のレールのようにまっすぐ共に突き進む…そんな思いも込めてのタイトルなのでしょう。
▲「花の中」その1。貨物鉄道博物館にて。 P:広田尚敬

Sgallery01.jpg写真展「鉄道写真 二本のレールが語ること」
■期間
2006年7月27日(木)?8月29日(火) 10時?17時30分 [休館:日曜日・祝日]
入場無料
■会場
キヤノンSタワー1階 キヤノンギャラリーS
〒108-8011
東京都港区港南2-16-6 キヤノンSタワー 1F
※JR品川駅 港南口より徒歩約8分、京浜急行品川駅より徒歩約10分
問い合わせ: キヤノンマーケティングジャパン株式会社
03-6719-9021(10時?17時30分、日曜・祭日は休み)

hananonaka2.jpg今回のプレビューにあたって、広田さんからRM読者の皆さんへのメッセージを頂戴しておりますのでお伝えしましょう。

夏休み期間、私たちは初の親子展を開きます。大きな会場に大きなプリントを100点近く掲出します。泉の写真は新撮、尚敬の写真は過去の名作も発表したいと燃えています。選抜作業はおそらく前日までかかると思いますが、モノクロ3点を除き、すべてデジタル作品です。これからはデジタルということが、ずばり分かる写真展です。
▲「花の中」その2。貨物鉄道博物館にて。 P:広田尚敬

展覧会にあわせた出版があります。ネコ・パブリッシングからは『蒸気機関車たち』、講談社からは『電車1338』、『JR特急100』、この3冊です。電車1338は特写が多く、2人で手分けして巡りました。中にはワンカットのための旅もありました。
 尚敬が担当した、三岐鉄道のED301もその一つで、この機関車は一旦工場に入ると半年姿を現わしません。さぞかしセメントまみれで無味乾燥と思いきや、車内には南海時代の標記がそのまま残っていたりして、愛された存在でした。
 作品「花の中」2点は、その帰り道に貨物の博物館で撮影したものです。RMではJR貨物の特写が多く、お世話になっている気持ちもあっての途中下車です。あいにく休館日なので外に展示の貨車を狙いました。古さを強調するか、どう撮るか。ここは周囲の花をあしらって、きれいに撮りました。
 鉄道写真の一つの流れに、花や天然現象(たとえば夕日)を主体にした情緒的写真があります。もちろんそれはそれで結構です(元は蒸機現役時代に流行らせてしまったのですから)。しかし最近の私の場合、これらはかなり傍役です。花や天然現象に頼りすぎると(誰もが狙えるようになったので)個性が失せるし、鉄道のにおいが希薄になるからです。
 主役は鉄道です。同時に、写真を味わってくれる人と撮影者の関係も、間違いなく主役です。そのあたり、主役の一人として会場で堪能してください。
                              広田尚敬

izumisan2.jpgなお、この写真展に合わせて記念講演も計画されているそうです。まだ余席があるそうですので、この機会にぜひ申し込まれてはいかがでしょうか。

■広田尚敬・広田 泉鉄道写真展 記念講演会
[日時]:2006年7月29日(土)
第一部(親子向け) 13:00?14:00 (14:00?14:30サイン会を開催) 
第二部(一般向け) 16:00?17:30 (17:30?18:00サイン会を開催)
[内容]
講演会 第一部 「広田さん親子にきく 親子でたのしむ鉄道写真」
広田尚敬さん、泉さんは、どうやって鉄道写真家になったの? 電車の本はどうやって作るの? 広田さん親子の面白いお話を聞きながら、電車の写真をうまく撮るためのコツやマナーなども学べます。電車と鉄道写真が大好きなお子様と、保護者の方のためのトークイベントです。
▲光よし、空気よし、役者よし。小湊鐵道には素敵なシーンが抱えきれないほど溢れている。こんな光景が撮りたくて引っ越したのは正解だった(広田 泉)。P:広田 泉

講演会 第二部 「広田尚敬・広田 泉トークショー 鉄道写真の過去・未来」
出展作品の撮影秘話をきっかけとして、印象に残る過去の作品、25周年を迎える「のりものアルバム」シリーズの創刊エピソード、鉄道やカメラにまつわる親子の思い出などを語る。広田親子の今までを振り返り、鉄道写真の未来を展望する、レイルファン、鉄道写真ファンのためのトークショー。

※第一部、第二部とも、講演会終了後に、広田尚敬・泉親子による新刊『電車 1338』のサイン会があります。
※タイトル・内容は変更される場合があります。

[会場] キヤノンSタワー 3F 、キヤノンホールS
[申込方法] canon.jp/eventよりお申し込み下さい。6月20日より受付開始予定。
[申込締切] 7月25日(火)
[募集人数] 第一部、第二部 各 300名(先着順)/入場無料
[お問い合わせ先]
・申込方法などについて ギャラリー推進グループ 講演会係 TEL 03-6719-9021
(10時?17時30分、日曜・祭日は休み)

■広田さんとの社長対談好評配信中!
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6月15日付けの本欄で予告いたしました弊社社長・笹本健次と広田尚敬さんの対談が、いよいよ本日このホビダス上にアップされました。その名も「社長対談」と銘うったこの企画、ホビダス一周年を記念して、さまざまな趣味ジャンルのビッグネームをお招きし、ざっくばらんな対談を繰り広げようという異色のプログラムです。第一回目は有名なクルマ好きでもあるミュージシャンの河村隆一さん、そして第二回目が鉄道部門からわれらが広田尚敬さんというわけです。

taidann1.jpg実はこの対談、もっとも楽しみにしていたのはほかならぬ笹本本人だったようです。折りしも写真集『蒸気機関車たち』の編集作業真っ只中とあって、広田さんが来社される機会は頻繁にあるものの、“趣味”のフィールドに立ち戻っての話となるとなかなか機会がないのが実情です。それだけに「鉄道写真」をめぐる時空を超えた対談は、横で聞いていた私もぐいぐいと引き込まれるほど興味深いものでした。「鉄道写真コンクール」で入賞を重ねていた頃の広田さんがどうやって“表舞台”に躍り出ることになったのか、はたまた伝説の写真集『魅惑の鉄道』誕生秘話から、かたや笹本の方は『鉄道ジャーナル』誌で写真撮影のアルバイトをしていた学生時代の思い出、さらには一時は写真家を目指そうと心に決めたものの、はるか前を歩いている広田さんの大きさゆえに写真を諦めた(!)話まで、まさに必見、必読の内容です。担当編集者にとっては少々耳の痛い部分もございますが、鉄道写真を志すすべての皆さんにぜひともご覧いただきたいと思います。

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なお、この対談中にも出てまいりますが、来る27日(木曜日)より東京・品川のキヤノンギャラリーSで広田さんの大規模な写真展「鉄道写真 二本のレールが語ること」が始まります。こちらに関しては明日の本欄でより詳しくご紹介してみたいと思います。

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ご好評をいただいている浅原信彦さんの連載「ガイドブック 最盛期の国鉄車輌」をまとめたムック第3弾「新性能直流電車(上)」が今月21日に発売となります。第1巻(戦前型旧性能電車)第2巻(戦後型旧性能電車)につづく待望の3冊目で、いよいよ101系を嚆矢とする新性能電車編に突入いたします。一時品切れとなってご迷惑をお掛けしていた第1巻も再版が流通しておりますので、ぜひこの機会に書架にお揃えいただければと思います。

saiseiki3b.jpgさて、この新性能直流電車編、連載そのものが“よん・さん・とう”という時間軸で区切っているだけに、それほど形式数も多くはなく、一冊でまとまるのではないかと浅原さんともども考えていました。ところが実際に編集をはじめてみると、現存車輌もある身近な形式だけにより詳しくご紹介したいと、同じ形式写真も1・3位側と2・4位側の両面を掲載することとなり、いきおい旧性能電車編に比してかなりのボリューム増となってしまいました。そんな事情もあって新性能直流電車だけで2分冊(上巻は101系?159系)となりますが、これ以上ない決定版となること間違いありませんので、ご期待のほどを…。
▲第3巻の表紙は153系原型車。トップは続々と出校してきているカラー頁の色校正。

ところで本誌での連載の方は現在、国鉄電車の白眉・181系に突入しております。こののち、まだ開発間もなかった交流、交直流電車編へと進み、2002年夏からスタートした「電車編」が大団円を迎えます。そして入れ代わりで始まるのが「機関車編」です。かつての名著『国鉄電車ガイドブック』のイメージが強いがゆえに電車ファンと思われがちな浅原さんですが、実はご本人はたいへんな機関車ファンでもあります。この電車編の“深さ”を踏襲した「機関車編」、編集する側からしても今から楽しみです。

武蔵野のデキカ。

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イングリッシュ・エレクトリックのE41形、ブラウンボベリーのE51形、ゼネラルエレクトリックのE61形と錚々たる面々が活躍してきた西武鉄道の電気機関車は、私にとっても幾度となく撮影に出かけた忘れられない思い出です。しかもその懐かしいほとんどの形式が、今でも横瀬にある車庫で保管されているのですから、こんなに嬉しいことはありません。現在、横瀬で保管されている電気機関車はE43、E52、E61、E71、そしてE854の5輌。「鉄道の日」のイベントなどで公開されるチャンスもあり、そんな時は旧友に再会したような感動さえ覚えます。
▲西日に照らし出される“デキカ”12とハフ。車体標記も武蔵野鉄道時代を模したものとなっている。'75.12.1

そんな横瀬の仲間たちと別に、公開される機会もなくひっそりと保管されているのがE12です。西武鉄道の前身の武蔵野鉄道が電化に際して米国ウェスチングハウスから輸入したデキカ10形3輌のうちの1輌で、戦後13号は弘南鉄道に、11号は越後交通へと転じ、このE12だけが西武鉄道を離れることなく働いてきました。ただ、後継のE21形等と比較して出力が小さいことなどもあって、1970年代に入るとほとんど使用されることもなくなり、結局1973(昭和48)年に廃車されてしまいました。

houyadekika3.jpg廃車処分にはなったものの、西武鉄道電化の立役者でもあり、当時の保谷車両管理所内で静態保存されることとなりました。保存にあたっては腐食が激しかった正面窓のHゴム化などが行われるとともに、塗色も武蔵野時代の茶色に戻され、社紋も武蔵野鉄道のものが描き込まれるなど、なかなか手のこんだ整備がなされています。ただ、保存場所は車両管理所内の乗務員養成施設とあって、一般人が容易く立ち入ることはかないませんでした。
▲同じ所内に保存されていた5号蒸機。英国ナスミスウィルソン製で1965(昭和40)年に廃車となっている。'75.12.1

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それでも1970年代中盤の保谷車両管理所は実におおらかで、電車を見学に来るファン用に見学ノートが備え付けられており、事務所で断ってノートに記入しさえすれば構内に立ち入ることが可能でした。私もとある冬の夕方、別の撮影の帰り道に保存されているはずのE12を撮影させてもらいに立ち寄ったことがあります。お目当てはE12と、一緒に保存されていると聞いたナスミスウィルソン製の5号蒸機だったのですが、現場にたどり着いてみるとなんと2軸の木造客車も連結されているではないですか。あとからわかったことですが、山形交通高畠線から引き取られてきた同社のハフ1とハフ2でした。といってもハフ2の方はすでに足回りだけとなってしまっていましたが、情報が溢れる現代と違って、これは思わぬ見っけモノと大喜びしたのを鮮明に覚えています。
▲モニタールーフにトルペードベンチレーターが魅力的なもと山形交通ハフ1。右はハフ2の足回りで、松葉スポークの車輪が見える。'75.12.1

しばらく経ってから、改めてこのハフだけ撮影に再訪しましたが、聞くところではその後ハフ1は現地であっけなく解体、ハフ2は大井川鉄道新金谷構内側線に移ったものの、結局解体されてしまったそうです。ちなみにE12と5号蒸機は現在も保谷(すでに車両管理所でも養成所でもなく、ただの電留線扱い)の地に保管されていますが、もちろん非公開(塗色はローズピンクに戻っている)で、周囲の建屋に阻まれてどこからもその姿を拝むことはできません。

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▲盛大な吊掛音を響かせてデハ81の牽く「貨物列車」がやってきた。右の側線には古典貨車ト22が留置され、駅前にはボンネットバス…。'76.5.16

粕川は全線25.4kmの上毛電気鉄道のほぼ真ん中、中央前橋起点13.3kmに位置する小さな交換駅です。お目当てのボンネットバスはこの粕川駅前から真北に位置する室沢集落を結ぶ路線で運用されていましたが、この粕川?室沢間というのが2キロちょっとしかない短距離で、わざわざ1系統を設定しているのには首を傾げざるをえませんでした。

kasukawafig.jpg室沢行きは粕川駅真正面から発車しますが、駅前横手には3車が格納できるバス車庫と給油所があり、どうやら粕川?室沢線のバスもここに駐泊して日々の運用をこなしているようでした。この駐泊設備のある駅前を出た室沢行きは一旦南へと向かい、古風な郵便局の角で県道にぶつかるとそこを左折、数十メートル県道を走って再び左折し、上毛電鉄本線の踏切を渡り、今度は真北を目指してひたすら田舎道を走ります。郵便局の角、さらには終点・室沢の折り返しなどに多少タイトなコーナーはあるものの、さりとてボンネット車でなければならない理由は見当たらず、いったいどうしてこの路線にボンネット車が残っていたのかは結局わからずじまいでした。
▲小さな貨物ホームとバス車庫がある粕川駅はモデラーにとっても充分魅力的だった。当時のフィールドノートにはそんな思いも込められている。
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▲ささやかな貨物側線には松葉スポークを持つト22と21が留置されていた。奥には3台が格納できるバス車庫が(左)。右は粕川駅本屋。'76.5.16

それにしても当時の粕川は地方電車の典型的小駅で、まさに模型にしたくなる要素がぎっしりと詰まっていました。木造上屋の島式ホームの端から構内踏切を渡って駅本屋に入ると、こんな小さな駅でもささやかな待合室と売店があり、正面入口にはボンネットバスが待っている…そして松葉スポークの古典無蓋車が停められた小さな貨物ホームの向こうにはバスの駐泊所が…。訪問時に描きなぐったフィールドノートを見ても、当時この駅を「模“景”を歩く」的シンパシーをもって見ていたことが伺い知れます。

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▲粕川?室沢線は粕川駅を出ると180度転回して本線の踏切を渡る。折しもデハニ52の列車がボンネットの鼻先を通過してゆく。'76.5.16

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▲何往復かすると車庫側にある給油所に入って運転手自らが給油をはじめた。奥にはお約束の「計量器」があるが、さすがに地下槽からの給油だ。'76.5.16

さて、この粕川?室沢線で運用されていたのは上毛電気鉄道(車体標記は上毛電鉄)No.113の日野自動車1966(昭和41)年製BH15型です。車体は帝国ボディー製で、誰が言ったか“バカボンおまわり”と通称された曲面ガラスを用いた正面連続窓が特徴でした。詳しいことは知りませんが、日野自動車としてもほとんど最終生産に近いボンネットバスだったはずです。

kasukawacolor1n.jpg今さら思えば、1966年製ということは訪問時でちょうど“10年落ち”ですから、ボンネットバスといえどもとんでもなく古いわけではなかったことになります。ちなみに、前橋市内の路線で運用されていた同系の僚車は、同じ1966年製のBX15型ながらボンネットバスには珍しい2扉ワンマン対応車で、こちらはその後メーカーの日野自動車に引き取られ、フルレストレーションのうえ現在でも保存されていると聞きます。
▲カラーで見るとなかなか凝った塗り分けであることがわかる。'76.5.16

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▲狭い駅前を出てゆくNo.113(右)。趣のある郵便局の角を曲がって県道に出る(左)。'76.5.16

たった一度の邂逅で、しかも通り一遍の興味であっただけに、その後この上毛電鉄No.113がどうなったのかは知りません。ただ、上毛電気鉄道自体、1995(平成7)年春でバス事業から完全撤退してしまいましたから、このささやかな粕川?室沢線ともども遠い過去へと消えてしまったことだけは確かです。

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▲終点・室沢付近をのんびりと走るNo.113。これが上毛のボンネットバスの見納めとなった。'76.5.16

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RMモデルズ編集部の根本君が中心となって編集を進めていた『バスホビーガイド Vol2』が完成、今ごろは各地の書店店頭に並んでいるはずです。改めて申し上げるまでもなく、ここ数年のバス関連モデルの充実ぶりは目を見張るものがありますが、ひと昔前まではバスの模型といえば子供向けのトイ的なものが主流でした。それどころか、30年以上前ともなると“バスが好き”ということ自体がまったく周囲から理解されないほど「バス趣味」は市民権を得ていなかったのです。
▲室沢から粕川駅へと戻る上毛電鉄No.113。ボンネットタイプならではの寝そべったコラム角と、キックバックを和らげるワイヤースポークのステアリング・ホイールが泣かせる。左上には日野と帝国ボディーの銘板が見える。'76.5.16

かく言う私も特にバスに入れ込んでいたわけではありませんが、誘われるままに何度かバスの撮影に行ったことがあります。今日はそんな中からちょうど30年前に訪ねた上毛電気鉄道最後の現役ボンネットバスをご紹介してみることにしましょう。といっても、バスに関して並み以上の知識があるわけではありませんから、まぁ、ひとつの体験談としてご覧ください。

kasukawa1n.76.5.jpg記憶では「バス趣味」が顕在化してきたのは1970年代の前半だったと思います。当時熱心に活動しておられた皆さんは、実は鉄道趣味の方々で、伝え聞いたところでは都営バスの車輌番号に興味を持ったのが発端だったとか…。確かに意味不明のアルファベットと数字の組み合わせに過敏に反応するのは私たちの世界の常ですから、この逸話も思わず納得です。その後、急速に減りつつあったボンネットバスがマスコミにもたびたび登場するようになり、バスというよりはボンネットバスファンといった人たちが出現するようになります。この時点でもかなり鉄道趣味と“かぶって”いる人が多く、この上毛行きもそんな先輩に誘われた日帰り旅行でした。
▲電鉄直営バスだけに、室沢行きは駅本屋正面で乗客を待つ。'76.5.16

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▲関東平野の北の端、変哲のない田舎の風景の中を行く上毛電鉄No.113。すでに全線を通して未舗装路面はなかった。'76.5.16

この頃になると23区内に最後に残されていた小田急バスからもボンネット車が消え、現役の“路線”として運行されているボンネットバスは三重交通や九州産交といった地方の、しかも山間部路線ばかりとなってしまっていました。これは狭隘な山道、ことにガードレールが未整備な路線などでは、車輌の“見切り”の関係から運転席より前輪が前に出ているボンネット型が重宝がられたからで、その逆にメリットのない平地での淘汰は急速に進んでいました。そんな中、上毛電気鉄道にはまだ何輌かのボンネット車が残されているとのことで、電鉄の撮影と兼ねて出かけてみることにしたのでした。

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▲ワンマン仕様ではない中央一枚扉型のため、こんな閑散路線でも車掌が乗務している。ただ、ほとんど仕事はない(左)。ビニール張りのロングシートが怪しい光沢を放つ室内(右)。'76.5.16

情報では中央駅?県庁前間でもボンネット車を運用しているとのことでしたが、こちらはワンマン仕様らしいのと、どうせなら多少なりとも絵になる路線の方がと選んだのが、粕川駅と室沢を結ぶ路線でした。

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