鉄道ホビダス

2006年6月アーカイブ

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「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」で開催されている写真展「昭和の鉄道写真100景 ?復興から高度成長へ?」をご存知でしょうか。東京駅赤煉瓦駅舎復原工事にともなって5年間の休館となった「東京ステーションギャラリー」が企画した展覧会で、同ギャラリーの運営母体である東日本鉄道文化財団が管理するこの鉄道歴史展示室で開催されている、いわば東京ステーションギャラリーの出張展覧会です。
▲旧新橋停車場二階の展示室は規模こそさほど大きくはないものの、じっくりと作品を鑑賞するには理想的な空間だ。ケースの中には東京オリンピックまでの「昭和」を象徴する品々が展示されている。'06.6.29

shinbashitenn4.jpg今回展示されているのは1951(昭和26)年から1972(昭和47)年にかけて計17回行われた交通博物館主催の「鉄道写真コンクール」の入賞作品約2000点の中から、東海道新幹線開業の1964(昭和39)年までの“時代を映した”鉄道写真100点。駅、旅、列車と3カテゴリーに分けられた100枚は、いわゆる斜め7:3の列車写真とは一線を画す、ドキュメンタリー調の写真ばかりで、実に的確なキャプションとともに見る者を半世紀前の世界へと誘ってくれます。
▲高層ビルに囲まれて少々窮屈そうな「旧新橋停車場」全景。画面右の棟の二階が展示室となっている。'06.6.29

shinbashitenn5.jpg古枕木を並べただけの柵から通り過ぎる機関車に力一杯手を振る子どもたち、荷馬車から冷蔵車に積み込まれる砕氷、裸電球に木製ラッチの改札口、修学旅行列車の楽しげな笑顔…モノクロの画面から伝わってくるのは、鉄道写真を超えた、まさに時代の匂いにほかなりません。監修と解説文の執筆を担当された交通博物館専任学芸員の佐藤美知男さんが、図録の巻頭言で「この時代の画像や映像を見て、いつも思うのだが、大人も子供も現代とは違う顔をしている。大人はどこか真面目でひたむきで、戦争の時代を生きてきた顔である。一方、子供たちは屈託がない。履物には下駄が目立ち、みんな貧しく質素だったが、人と人とのつながりの濃さが伝わってくる。」と書かれていますが、まさにそのとおり。信じられないような凄惨な少年犯罪が続発し、かたや“虚業”がまかりとおる現代から見ると、文字どおり隔世の感があります。新橋駅の喧騒のなかを歩いてこの会場に入ると、その静けさとあいまって、これらの作品が語りかけるものと“うつせみ”とのギャップが、より一層身に染みてなりません。
▲モノクロ32ページ+カラー4ページの「図録」も秀逸。エディトリアルデザインも素晴らしく、これで700円也はありがたい。

嬉しいことに今回の展示会にも立派な図録が用意されています。A4判40ページほどの図録は、編集者の目から見ても実に丁寧なつくりで、しかも頒価は700円。これはぜひとも手に入れておきたい一冊でしょう。もちろん過去の展覧会の図録(昨年の「蒸気機関車 ?動輪が刻んだ時代(とき)?」や「鉄道技術と暮らし、その身近な関係」等々)も入手可能で、会場を訪れた際には忘れずにチェックされると良いでしょう。

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この写真展「昭和の鉄道写真100景 ?復興から高度成長へ?」は7月17日(祝)まで開催(11:00?18:00・月曜日休館)されています。もちろん入館料は無料。来週の7月8日(土)には先述の佐藤美知男さんを講師に迎えた「交通博物館学芸員が語る 昭和の鉄道物語」も開催されます(15:00?16:00・要事前予約)。ぜひお運びになってみてください。
▲今回の企画展のリーフレットより。「旧新橋停車場」へは新橋駅下車徒歩5分ほど。
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話があらぬ方向に脱線してしまいましたので、埠頭に残されていた2輌のプレニに話題を戻しましょう。実はこの2輌、PL2-32とPL2-37の元気な姿を見ることができたのは、この1991年春の訪問が最後でした。ちょうど2年後に再び大連埠頭を訪ねる機会に恵まれましたが、プレニどころか、一緒に活躍していた4輌の「躍進形」(YJ形)もろとも、全機が新製DL「東方紅5形」に置き換えられてしまっていたのです。「火車」はどこへ行ったのか…と尋ねると、石炭埠頭の一番奥の側線に案内されましたが、そこには前年に火を落としたという2輌のプレニが赤錆びた姿で横たわっていました。第二埠頭でかいがいしく働いていた2年前の姿が、半世紀以上にわたって激動の歴史を生き抜いてきたプレニ最後の姿だったのです。32号機のクロスヘッドの錆を落とすと、そこには振り替えられた「ミカロ15」の刻印がうっすらと残されていました。
▲洋の東西を問わず、臨港線には蒸気機関車の姿がよく似合う。右は正調プレニPL2-37、左はプレニを模した中国産「躍進形」YJ137。'91.3.22 第二埠頭

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結局、私が正調(?)プレニを見ることができたのはこの時が最後となってしまいました。戦後、中国国内ではプレニを改良した「躍進形」(YJ形)が200輌以上製造され、各地の運炭鉄道や製鉄所に送り込まれましたが、この残党はその後もまだまだ各地で目にすることができました。遠目にはほとんど判別できない形態だけに、すわプレニか、と色めきだつのですが、結局“プレニもどき”の躍進ばかりでした。
▲戦前のプレニと戦後PL2となってからの姿を満鉄機に造詣の深いデザイナーの岡田徹也さんが描き分けてくれた。フロントデッキやキャブ回りの形状の違いもさることながら、岡田さんによればドーム前に付けられいた“鐘”がなくなってしまったのが一番残念だという。横浜、神戸を例にあげるまでもなく、臨港線の機関車にはいつの時代も鐘が付き物であった。(本誌'93年6月号/No.117より)
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ibarakipl2n2.jpgその躍進ですらほとんど絶滅してしまった1997年、予想だにしなかったニュースが飛び込んできました。なんと「プレニ」が日本に里帰りしてくるというのです。場所は茨城県の伊奈町。詳しい経緯はわかりませんが、何でも町内外の有志が“帰還”になみなみならぬ努力をされたとか…。残念ながら大連埠頭で活躍していたものではなく、鞍山鉄鋼公司(満州時代の昭和製鋼所)で1995年まで使われていたものだそうで、番号は「PL2‐248」。特徴的なスローピングバック・テンダーも振り替えられることなくきちんと残されています。もちろん日本国内に存在する「プレニ」としては唯一のものです。
▲伊奈町「きらくやまふれあいの丘公園」に保存されているプレニ(PL2-248)。鞍山のPL2はNo.226を筆頭にこのNo.248まで13輌が現認されているが、どの個体が現地(大連機械製作所)製なのかはわからない。ちなみに伊奈町の説明看板によると本機は「1935年日車製」とされている。'03.3.22

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前任の「プレイ」が大連埠頭線専用ではなく、各地の炭礦や製鉄所に広く用いられて総輌数34輌を数えたのに対し、プレニは大連埠頭線専用として1935(昭和10)年に6輌(220?225)が新製されました。いずれも内地の日本車輌製(製番328?333)ですが、実際にはその後、地元の大連機械製作所で相当数が追加生産されたようで、最終的な総輌数は20輌以上にのぼったと思われます。
▲第二埠頭で入換えに活躍していたプレニ(PL2-32)最後の姿。60年以上にわたってこの埠頭で働き続けてきたことになる。'91.3.22

dairenp5.jpgところで慣れない者にはなかなか判りにくいのが満鉄や鮮鉄で使われていた機関車の形式称号です。プレニと同様に、有名な“あじあ号”の「パシナ」など、どれも片仮名で名づけられています。ご存知の方には今更ですが、この形式称号の付け方をあらためて簡単にご紹介してみましょう。片仮名の最初の2文字が車軸配置のアメリカ式種別名称、「パシフィック」とか「ミカド」とかを示します。つまり軸配置2C1(ホワイト式だと4-6-2)のパシフィックの場合だと頭2文字をとって「パシ」形、1D1(2-8-2)のミカドだと「ミカ」形となるわけです。さらにここからがややこしいのですが、同じ軸配置の新タイプが開発されると、最初のものが一番目、つまり「イチ」の頭文字「イ」を軸配置称号の末尾3文字目にぶら下げることとなります。同様に二番目は「ニ」、三番目は「サ」といった順です。わかり易いといえばわかり易いと言えなくもないでしょうが、セオリーを知らない人や日本語ができない方にはどうにも理解できない形式称号です。すでにおわかりのように、「パシナ」はパシフィック軸配置の七番目の形式、そして「プレニ」はプレーリー(1C1)の二番目の形式ということになります。
▲日本時代の倉庫をバックにしたプレニ(PL2-32)。一見小さそうに見えるが、標準軌だけに炭水車を含めた自重はD51(87.42t)より少々重い90.5tある。'91.3.22 第二埠頭

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▲「プレ」時代の「プレイ」形式図。この時点で総輌数34輌、番号200?233とされているが、「プレニ」が220番から付番されていることを考えると、プレニ誕生の時点で番号が整理されたのだろうか…。『全国機関車要覧』(1929年/車輌工学会)より。
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▲昭和初期の満鉄機関車形式称号規定。左下に、細別を要するものは「イ、ニ、サ、シ、コ、ロ」(イチ、ニ、サン、シ、コ、ロクの意)の文字を記号の末尾に付する…との注記が見える。『全国機関車要覧』(1929年/車輌工学会)より。
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上に掲げた1929(昭和4)年『全国機関車要覧』でもおわかりのように、プレニが誕生する前は、同じ軸配置で競合するものがなかったため、のちの「プレイ」はながらく「プレ」を名乗っていました。同様に満鉄の形式図でも形式称号はただの「プレ」となっているのがわかります。二番機が開発されるにともなって「プレ」は一番目を示す「プレイ」に改称されたというわけです。

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▲「プレロ1529」。1891?1896年のノース・ブリティッシュ製。天津局管内に配置されていたと記載されている。『机車博覧』(1992年/北京鉄路局)より。

脱線ついでに、それでは満鉄とその傍系で「プレ?」を名乗った機関車はどれくらいいたのでしょうか。残念ながら体系的な資料は持ち合わせておりませんが、手もとにあった北京鉄路局『机車博覧』には管内の「草原式」(プレーリー=草原)として「プレコ」や「プレロ」、「プレナ」、「プレク」の写真・諸元が掲載されており、「プレニ」以降もかなりの形式が誕生(編入)されたことが伺い知れます。

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▲1mゲージに改軌されたC12も、軸配置から「プレ」を名乗ることになった。ただし形式は片仮名3文字ではなくアルファベットを付した「プレA」。太原局に55輌が配置されていたとある。『机車博覧』(1992年/北京鉄路局)より。

興味深いことに、同書には1938(昭和13)年にメーターゲージに改軌されて大陸に渡ったC12 121も「プレA」として掲載されています。C56の戦時供出はよく知られていますが、C12も1938(昭和13)年から翌年にかけて60輌(C12 101?C12 160)が1m軌間に改軌されて正太線(石家庄?太原間)に送り込まれているのです。同線はほどなく華北交通となり、戦後は「PL51形」として中国に引き継がれたものの、標準軌への改軌にともなって不要となり、一部はベトナムに渡って同国の「131形」として一部が近年まで健在だったことが知られています。ちなみにこの「A」というアルファベットは、どうやら窄軌(狭軌)用の形式順を示すようで、同時期にやはりメーターゲージ化されて正太線に投入されたボールドウィン製の2920形は「プレB」を名乗っていました。

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早いものでもう15年も前のことになりますが、当時の中国東北部には旧南満州鉄道の生き残りと思しき車輌がかなりの数見られました。蒸気機関車にしてもしかりで、すでにパシロ形(中国形式SL形)などは消えてしまっていたものの、ミカイ形(同JF1形)やプレニ形(同PL2形)などを目にすることができました。その中でもとりわけ印象深かったのは大連埠頭で働いていた2輌のプレニでした。
▲第一埠頭突堤で入換えに励む大連機務段のPL2?32。特徴的なスローピングバック・テンダーは標準的なものに変えられているが、コールバンカー部には何やら米国でいう“ドッグハウス”のようなものが載っている。ひょっとすると冬季の後進時などに誘導掛が乗り込む小屋なのだろうか…。'91.3.22

dairenp6.jpg大連港は1920(大正9)年に3万tクラスの船舶が接岸できる第3埠頭が完成し、旧満州の玄関口として、また南満州鉄道(満鉄)の本拠として大きな発展を遂げてきました。この大連港の建設と運営も満鉄が行っており、当時、埠頭線の入換機として生を受けたのが満鉄プレーリー(1C1)機の二番手「プレニ」でした。1933(昭和8)年設計、1935(昭和10)年製造ですから、同じプレーリー・C58誕生の3年前ということになります。
▲大連埠頭線ではプレニをベースに戦後中国で生産された「躍進」(YJ)も働いていた。プレニゆずりの“前傾姿勢”もこの角度から見るとなかなかスタイリッシュだ。'91.3.22 第二埠頭

それまでリッチモンド(アルコ)製のプレイ形を使ってきた大連埠頭線ですが、最小曲線半径75mと大型機を導入できる線路条件になく、やむなく1D1のミカサ形(のちミカロに改称)から1軸抜いて全長を詰めたようなプレニが計画されたといいます。これによって全長はC58(18275㎜)とほぼ同じ(18226㎜)ながら、動輪固定軸距が極めて短い(C58の3470㎜に対して2940㎜)、たとえて言うならば特異な前傾姿勢のプレーリーが誕生することとなったのです。

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▲第二埠頭旅客ターミナルの今昔。まさに大陸の玄関として機能してきた旅客待合室は、建て替えられこそすれ、いまだに健在だ。(上='91.3.22/下=『日本地理大系』(満州及び南洋篇)

曲線通過性能の要請から動輪固定軸距を詰めたことにより、火床面積はのちの国鉄大型機なみ(3.69㎡)となり、罐圧は13㎏/c㎡ながら9600(13925㎏)より強い14250㎏のシリンダー引張力を得ることとなります。全体のスタイルもプレイのアメリカンスタイルをどことなく引きずりながらも、砂箱と蒸気溜を一体化したドーム状カバーなど日本的デザインが採用されています。ちなみにこの一体型ドーム状カバーは、鉄道省においてはまさに同じ製造初年のC55で初めて採用されたスタイルです。


プレニのもうひとつの形態的特徴はテンダーサイドを欠き取ったスローピングバック・テンダーにありました。大連埠頭の入換えを第一に考え出された形態なのでしょうが、奇しくもC56とまったく同じ時期にこのスタイルが採用されたことになります。私が訪れた1991(平成3)年当時、PL2‐32と37の2輌のプレニが生き残っていましたが、32号機の方はサイドが欠き取られていない一般的な形態のものに変えられており、原型のテンダーを持つのは37号機だけとなっていました。

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▲『日本地理大系』満州及び南洋篇(1930年12月20日/改造社)に見るプレニ誕生の頃の大連埠頭。
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すでに観光スポットとなっていた第二埠頭旅客待合室付近ですが、さすがに保税区域である埠頭内の立ち入りは厳しく制限されており、ようやく下された許可を携えてプレニたちの待つ突堤へと向かったのです。

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すでに今月発売の本誌誌上ではお知らせしておりますが、弊社の創立30周年記念企画の鉄道部門第一弾として、広田尚敬さんの写真集『蒸気機関車たち』を発行いたします。本書は昨年一年間にわたって本誌誌上に連載した「30年目のカウントダウン」を骨格に、伝説の名作の数々を惜しげなく盛り込んだ広田写真の決定版写真集です。
▲文字どおり日本の鉄道写真を方向づけてきた名作の数々…。どれほど多くの人たちがこれらの作品に刺激を受けて線路端に立ったことだろうか。

zyoukikikannsyatati2.jpg書名は1968(昭和43)年春に銀座・富士フォトサロンで開催されたわが国最初の本格的鉄道写真展「蒸気機関車たち」を踏まえて、その名も『蒸気機関車たち』といたしました。現在まさに編集作業佳境で、デザインを担当している清水幹夫さんも土日返上で頑張ってくれています。前付ページを含めると総ページ320ページにおよぶ大冊となる予定で、もちろん永久保存版にふさわしく豪華上製本(ケース入り)としてお届けいたします。価格は1万円を予定しておりますが、それだけの価値は十二分にある歴史的一冊です。
▲会議室に並べられたプルーフプリントを使ってグラフの構成を検討する。奥で悩んでいるのは清水デザイナー。

zyoukikikannsyatati3.jpg今回の編集にあたり、現在、広田さんの名作の大半が編集部に集結しています。保育社カラーブックスや山渓カラーガイド、さらには交通公社『永遠の蒸気機関車』等々で目に焼き付いているあの作品この写真が、原版として目の前にあるのですから、仕事は別としてファン冥利に尽きるとはこのことでしょう。ライトテーブルに照らし出された伝説の原版に、いつかは肩を並べられる作品を…と無茶な夢を描いて全国の山野を駆け巡った若き日々が思い起こされます。
この広田尚敬写真集『蒸気機関車たち』は7月末日の発売を予定しております。お求め方法等の詳細は次号本誌誌上でご案内申し上げますので、どうかご期待ください。
▲仮綴じしたカラープルーフ。実際は本誌と同サイズの大判を用いた写真集となる。

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出石鉄道跡を駆け足で見て回ってから、与謝峠を越えて加悦へと向かいました。久しぶりの加悦SL広場ですが、土曜日とあってそこそこの人出で、とりわけ駐車場脇に設置されているサハ3104を改造した“カフェトレイン”は、ランチを食べようという人たちで結構な賑わいでした。
▲機関車本体とともに重要文化財(歴史資料)に指定された機関車履歴簿。明治41年から廃車までの検修履歴が手書きでこと細かに記録されている。上が鉄道局時代からのもの、下が簸上鉄道以降のもの。'06.6.17

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▲重文指定とともに屋根が付けられた2号機。わが国に輸入されたロバート・スチーブンソン製の機関車はこの120形4輌だけ。リベットの頭を隠す「沈頭鋲」の使用など老舗ならではの“小技”が光る。'06.6.17

長年このSL広場を護り育て、現在は観光協会の事務局長をお務めの篠崎 隆さんのご案内でまずは2号機関車のもとへ。この加悦鉄道2号機関車は、昨年2005(平成17)年6月9日付け『官報』号外第126号で国の重要文化財として告示され、鉄道車輌としては交通博物館の1号機関車(1958年指定)、1号御料車(2004年指定)についで3番目の重要文化財となりました。前2者がいずれも東京・交通博物館の所蔵品であることを考えると、東京以外では唯一の重要文化財指定鉄道車輌ということになります。この指定を受けて、加悦SL広場を運営するカヤ興産ではさっそく2号機展示場に上屋を設置、将来を見据えた保存環境整備を始めています。

kaya7.jpgさて、今回の重要文化財指定でもうひとつ特筆されるのが、指定内容が車輌そのものだけでなく、機関車履歴簿にまで及んでいる点です。1873(明治6)年6月に英国のロバート・スチーブンソン社で製造(製番2104)された本機は、鉄道作業局16号(A4形)として西部(大阪?神戸間)に配置され、のち1875(明治8)年の改番(東部用機を奇数、西部用機を偶数に分ける)により12号、1912(明治45)年の形式称号改定で120形123号となっています。1915(大正4)年に廃車、簸上(ひのかみ)鉄道(宍道?木次間)に払い下げられ、加悦鉄道には1926(大正15)年10月6日付けで転入してきています。この長い歴史のうち、1908(明治41)年以降のすべての履歴が奇跡的に残されており、この機関車履歴簿も合わせて重要文化財として指定されたわけです。
▲履歴簿の最初のページは明治41年4月の鷹取工場工事記録から始まっている。製本そのものはかなり傷んでしまっているが、各ページはとても100年近く前に書かれたものとは思えないほど鮮明に残っている。'06.6.17
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普段は非公開で厳重に金庫で保管されているこの機関車履歴簿を見せていただくことができました。2冊に分れた履歴簿の最初の方は百科事典ほどの厚さの鉄道局指定様式のもの。もう1冊は簸上鉄道に転じてから加悦で火を落とすまでのものです。

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▲「Takatori Works」のサインのあるボイラ組立図(左)とボイラ諸元(右)。いずれも生々しい2号機の足跡だ。'06.6.17

あらゆる検修履歴がそれぞれの年代の担当者によってこと細かに書き込まれており、作業内容はもちろんのことながら、それぞれの筆跡を見るだけでもこの機関車が歩んできた計り知れない歳月を知り、感動を覚えずにはいられませんでした。また、明治期の検修記述には達筆な英文も多く見られ、当時の工場関係者、ことに履歴簿を記載する要職にある者のスキルの高さを伺い知ることもできます。

kaya3n.jpgところで篠崎さんは「明治41年以前の履歴がないのが残念です」と仰っておられましたが、原簿を丹念に見ておられた青木栄一先生が貼付されている明治41年5月13日付けの達示(写真)を発見。この達示の冒頭には「各機関車につき甲乙二種の機関車履歴簿を制定し、これが記入ならびに保管を左のとおりあい定む」とあり、機関車履歴簿の整備そのものがこの時点から明文化されたことがわかりました。
カヤ興産では機関車本体のみならず、この履歴簿の修復も検討しているそうで、その暁には一般公開されるチャンスもあるかも知れません。

▲1908(明治41)年に出された鉄道局の機関車履歴簿整備についての達示。2号機履歴簿の最初のページに備忘録のように添付されていた。'06.6.17
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出石鉄道跡を探る。

izushi2.jpg先週の余部橋梁訪問の翌日は、青木栄一先生と加悦町観光協会の篠崎事務局長に会いに「加悦SL広場」へと向かいました。篠崎さんとは日本鉄道保存協会で長年にわたってご一緒させていただいており、香美町までお出でになったのなら是非…とお招きくださったのです。加悦では昨年2号機関車(123号)が国の重要文化財に指定され、この1月には同じ日本鉄道保存協会の小池 滋先生をはじめとした皆さんによるシンポジウムが開かれています。重文指定後は初めての訪問となるだけに、こちらも楽しみです。
▲終点・出石のひとつ手前、鳥居駅跡付近に残る水路を越える橋梁の橋台。軌道はカーブを描いて画面右奥(江原方)へ続いていたはず。橋台の傍らに立つのは青木栄一先生。'06.6.17

ebarastn.jpgさてその前に、道すがらと言っては何ですが、加悦へは山陰本線の江原から出石(いずし)に抜けるルートをとって、「出石鉄道」の線路跡を探ってみることにしました。出石鉄道は1929(昭和4)年に開業した江原?出石間11.2kmを結ぶ小さな蒸気鉄道で、ゲージは3フィート6インチ、動力車は機関車2輌に2輌のガソリンカー(のち1輌増備)という陣容の、実にささやかな地方鉄道でした。1944(昭和19)年に不要不急路線として営業休止に追い込まれ、結局そのまま復活することはなかったと言いますから、実質的に運転されていたのはわずか15年間ということになります。
▲橋上駅化されて往年の面影はまったく感じ取ることのできないJR山陰本線江原駅。出石鉄道は画面右側へと出ていたはず。'06.6.17

この出石鉄道については、関西・中国地方の小私鉄を丹念に聞き取り調査されている安保彰夫さんが『鉄道ファン』誌に「鶴のくる里を走った出石鉄道」('84.2?4月号)を発表されており、現地入りするに際してはこのレポートが絶大な力となりました。

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▲時刻表上に見る出石鉄道。東亜旅行社(のちのJTB)発行の昭和18年1月号で、同年末には営業休止命令が下されている。

ただ、安保さんのレポートから20年以上の歳月が流れており、いったいどれほどの痕跡を見いだせるかわかりません。果たして、起点であった山陰本線江原駅にたどり着いてまず愕然。安保さんの記事中では平屋の木造駅舎が当時を偲ばせていたものが、今ではすっかり橋上駅となってしまっているではないですか。駅周辺も大きく変わってしまっているようで、早々に引き上げて円山川に架かっていた鶴岡橋梁付近へと向かいます。

maruyamab.jpgこの円山川の左岸には奇跡的にコンクリート・ピアが残っています。もっとも安保さんのレポート時には川の中にも橋脚の基礎部が歴然と残っている写真が掲載されていますが、こちらはその後流されてしまったのか見ることはできませんでした。ともあれ廃止から60年以上、よくぞ残っていたものです。地形図を片時も放さない青木先生によると、出石鉄道は建設資金が潤沢ではない地方鉄道にありがちな“地形に逆らわない”路線選択をしているものの、江原駅を出てすぐのこの円山川は渡らざるをえず、この鶴岡橋梁建設が大きなネックとなったはず…とのことでした。ちなみに終点の出石では、市街に入るには出石川を渡らねばならず、この架橋を断念して市街地対岸に出石駅を設けています。
▲現在も残る出石鉄道最大の遺構が円山川橋梁のコンクリート製橋台。極力地形に逆らわずに敷設ルートを選んだ出石鉄道だったが、この円山川だけは大規模な橋梁で越えざるをえなかった。'06.6.17

izushi1.jpg江原から山裾をひたすら東進してきた線路は出石川に突き当たるあたりでほぼ90度向きを変えて南へと向かいます。このカーブ上にあったのが「鳥居」という駅で、何とホームの擁壁だったというコンクリートが残されていました。付近で家庭菜園の作業をしていた女性に声をかけると、さらにこの先には何やらコンクリートの構造物があるとのこと。さっそく行ってみると、農業水路を渡る小さな橋梁の橋台が一対、かなり完全な状態で残されていました(トップ写真)。これは嬉しい発見です。
▲いまだに残る鳥居駅のホーム擁壁(画面左)。軌道跡はいかにもな曲線を描いて道路化されている。'06.6.17

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逆に終点・出石は完璧なまでに痕跡が消えてしまっていました。安保さんの記事にあった当時のままの農業倉庫というのも昨年撤去されたそうで、本社や車庫のあった出石にこそ期待していただけに肩透かしをくったような感じです。それでも元の本社跡にある喫茶店の古老に、米麦のほか付近の山から産出する陶石の搬出で結構な貨物量があったことなど、出石鉄道現役時代の生き生きとしたお話を伺うことができました。「小学生たちが校外学習で訪ねてきたが、もはや何の痕跡もないので話をしても実感してもらえない」と嘆かれる姿が印象に残りました。
▲ここが終点・出石駅があった場所。残念ながらほとんど痕跡は残されていない。右は旧本屋跡地、左は出石駅跡から上り方を見たところ。'06.6.17

わずか数時間の見聞でしたが、消えた鉄道の遺構もまた刻々とその姿を消しつつあること、さらには往時を実体験されている方からの聞き取りも時間との勝負だと実感した訪問でした。

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“TDL”ならともかく、“UDL”と聞いただけで日本車輌のベストセラー防爆型ディーゼル機関車を思い浮かべる方は極めて少ないと思います。語源の“Underground Diesel Locomotive”が示すとおり、地下坑道での使用を前提とした機関車で、さりとてマイニング・ユースではなく、高度経済成長下の建設需要を下支えしてきた陰の功労者でした。
▲見渡す限りの“UDL”の海。フェンスがあるだけで隣は住宅地というシチュエーションもいまさら考えれば隔世の感がある。'78.1.18

nitiyuu4a.jpg南武線の南多摩駅のすぐ近くに、この“UDL”が山となっている(?)と聞いたのは1970年代も後半になってからのことでした。南多摩といえば多摩川右岸の、ちょうど西武多摩川線是政駅の対岸。是政側はつい十数年前までは西武建設や田村石材の砂利採取軌道が縦横無尽に敷きめぐらされ、何輌もの小型ディーゼル機関車が目撃されてきた地域でもあります。UDLばかりでなく、ひょっとするととんでもない“お宝”もいるのではないか…場所柄はそんな過大な期待を抱かせるに充分でした。
▲修理に戻ってきたと思しき蓄電池機関車が積み上げられている。写真は大成建設へのリース車らしい。'78.1.18

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最初の下見でわかったのは、件の場所は「日熊工機」という会社の東京工場敷地であるということ。今にして思えばさほど厳重でもない鉄条網で囲われただけのようなストックヤードでしたが、もちろん黙って立ち入るわけにはゆきません。そこで見学させてもらえるものかどうか電話で聞いてみることにしました。はじめは訝しく思われたようですが、結局さほど他意はないことを理解していただいたのでしょうか、見せていただけることになりました。
▲「日熊工機東京工場」の建屋をバックにずらりと並んだ各種UDLたち。画面左手の柵の向こうを南武線が走っている。'78.1.18

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▲1965(昭和40)年製の超小型「UDL6N」(左)。台枠まわりの造作が古さを感じさせる。連結器はウィリソン簡易自連が付いている。右は1964(昭和39)年製と当日いた中では最古参のUDL12(製番2063)。なんとロッド式である。'78.1.18

この「日熊(にちゆう)工機」という会社、日本車輌とゼネコンの熊谷組が共同出資して1959(昭和34)年6月に設立した会社で、定款によれば建設用・鉱山用機械の設計製作ならびに販売、産業用資材の販売または納入の代行などを目的としています。社長は日本車輌社長が兼任する形で、いわば日本車輌の建設機械部(同年1月発足)の販社的性格を持った会社でした。“UDL”はその一連のなかで開発された防爆機能を持つ汎用型小型ディーゼル機関車でした。製造初年は1960(昭和35)年(1958年に試作機が完成との説もあり)。以後、1960?1970年代を通して、D51の1115輌にはわずかに及ばない1052輌が生産された、わが国屈指の「量産機」なのです。

nitiyuufign.jpg訪問時の日熊工機東京工場には実に32輌もの“UDL”が所狭しと並んでいました。残念ながら会社が会社ですから“加藤くん”あたりがいようはずもなく、その面ではがっかりでしたが、ロッド式の初期タイプから4年落ちの最新型まで実にバラエティーに富んだ“UDL”を目にすることができました。狭いキャブに潜り込んで真鍮製のワイヤーブラシで銘板をこすって刻印を読み取ってゆく作業を繰り返す姿に、立ちあってくれた掛の人が呆れ顔だったのを覚えています。今さら思えば、この“UDL”のレンタル料金を聞いておかなかったのが悔やまれます。果たして一ヶ月借りていくらぐらいだったのでしょうか…ちょっと気になります。
▲車輌番号がないため、便宜的に位置関係に基づいた整理番号をふって調査した当時のノート。1輌1輌銘板を調べて形式・製造年・製造番号を記録した。
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一般鉄道車輌の豊川蕨工場に対して鳴海工場で生産されたこの“UDL”は、1980(昭和55)年を境に生産を打ち切られます。軌道を使った隧道工事が減少し、地下鉄や共同溝建設工事の主力は高性能化の一途をたどる蓄電池=バッテリー機関車になりつつあったのです。その後、あの南多摩の日熊工機東京工場がどうなったのかは確認していませんが、日本車輌のホームページによれば、日熊工機(株)は1999(平成11)年1月に日本車輌に吸収合併されて、今では会社そのものが存在しないようです。

夕張に思いを馳せる。

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国鉄蒸機終焉の地であり、夕張鉄道や大夕張鉄道をはじめとした魅力的な運炭鉄道活躍の地としても鮮烈な印象が残る北海道夕張市が大揺れに揺れています。というのも、今週火曜日、定例市議会で市長が地方財政再建促進特別法(再建法)に基づいて「財政再建団体」の申請を表明したからです。財政再建団体申請はひらたく言えば自治体の“倒産”で、もし指定されれば1992(平成4)年の福岡県赤池町(現福智町)以来、しかも市としては1977(昭和52)年の三重県上野市以来29年ぶりの“倒産”となります。
▲夕張本町付近に残る夕張鉄道の線路跡。廃止から30年あまり、市内に残された遺構も数えるほどになってしまった。'04.6.19

yuubari5.jpgyuubari4.jpg夕張に限らず、旧産炭地の地方自治体は、基幹産業の消滅に伴う地滑り的過疎化と、さらにはそれと表裏一体となった高齢化に苛まれていますが、そんな中では「夕張メロン」の成功や映画祭の認知度上昇など、夕張市は“優等生”なのだとばかり思っていました。ところが今回の発表です。
▲夕張鉄道と国鉄の接続駅で、多くのファンの瞼に焼き付いているはずの鹿ノ谷駅構内の現況。左は無人と化した本屋、右は草生した旧構内外れにぽつんと残された夕鉄の機関庫。'04.6.19

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報道によれば、3月末時点での借入金は約292億円。さらに地方債残高約130億円と第三セクター等への債務保証等が約120億円、合計550億円近くにのぼり、市の財政規模=約45億円の十倍以上の“借金”があることになります。今後は国の管理の下、徹底したコスト削減と公共料金の値上げ、さらには現在行っている事業の中止等が指示されることになります。
▲夕張石炭の文化村の中にある巨大な「SL館」。この建物の中に夕鉄の14号や大夕張の4号が入っている。'04.6.19

yubari3.jpgそうなると反射的に思い浮かぶのが「夕張石炭の歴史村」です。「炭鉱から観光へ」を合言葉に市制施行40周年を記念して1983(昭和58)年にグランドオープンした道内初の屋外型本格的アミューズメント施設で、園内には「SL館」と名づけられた蒸気機関車型の巨大な鉄道保存館があります。自社発注のコンソリとして今もって模型ファンに人気の夕張鉄道14号機をはじめ、大夕張鉄道の4号機、さらにはナハニフ151などが展示されており、車輌のみならず、ギースル・イジェクタの実物など貴重な展示品が多いのも特筆されます。
▲「SL館」館内の14号。ボランティアの皆さんの弛まぬ努力もあって状態はきわめて良いが、路盤が緩んで全体が傾いてきてしまっているという。'04.6.19

グランドオープンから20年あまり、「郷愁の丘ミュージアム」をはじめとする新施設建設やリニューアルを積極的に行ってきているこの歴史村ですが、今回の財政再建団体“転落”で大きな岐路に立たされるのは間違いありません。私たちファンにとっては特別な意味を持つ「夕張」の地だけに、その行く末がことのほか気になります。

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▲新木場方先頭車CT1(10100形)を先頭にした10000系第1編成。'06.6.21 綾瀬工場 P:RM(高橋一嘉)

metoro100001.jpg5月30日付けの本欄でレンダリングをご紹介した東京地下鉄(東京メトロ)の10000系が今日お披露目となりました。すでにご存知のように、この10000系は東京メトロ発足後初の新形式車で、なおかつ平成19年開業予定の13号線乗り入れに対応したこれまでとまったく違うコンセプトの車輌です。設計にあたっては“ゼロに立ち返る”という観点から、前身である営団地下鉄発足後最初の新車であり、日本の高性能電車実用化の嚆矢となった丸の内線300形を意識されたとのことです。全体のデザインは半世紀以上の時代の流れで大きく変わりましたが、言われてみれば前灯のデザインはそのDNAを感じさせます。当面の投入線区は有楽町線。同線にとっては07系以来14年ぶりの新車となります。今年度と来年度の新製輌数は10輌編成20本、総計200輌と発表されており、遠からず有楽町線の新しい顔として定着してゆくに違いありません。
▲東京メトロ製作のプレスリリース(表紙)もなかなかの力の入りよう。

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▲近未来的なセンスの良さが感じられる客室内。間接照明風の天井照明にも注目。'06.6.21 綾瀬工場 P:RM(高橋一嘉)
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▲全面ガラス張りとなった貫通路(左)と運転台(右)。運転台には車内放送用のマイクが用意されている。'06.6.21 綾瀬工場 P:RM(高橋一嘉)

今日は14時から綾瀬工場内で第1編成のお披露目があり、テレビ在京各社をはじめ、通勤車の新車公開としては異例の報道陣が詰め掛けていたそうです。取材に行った編集部の高橋一嘉君によると、近年にない“凝りに凝った通勤車”というのが第一印象だったとのこと。たとえば、全面ガラス張りの実に見通しのよい貫通路や、一直線にレイアウトされた間接照明風の天井照明、さらにリサイクルを意識したアルミ製袖仕切など、まさに一昔前で言えば優等車並みの凝りようと言っても過言ではないでしょう。また、警笛にはタイフォンとともに、なんと、かつての銀座線と同じ“ポッ”という独特の温かい音色を発する空気笛(トロンボン笛)が備わっています。こんなところにも、東京メトロのこの電車へのひとかたならぬこだわりが感じられます。

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▲オールダブルスキン鋼体を採用し、リサイクルにも留意が払われた車体。(東京メトロのリリースより)

詳しくは本誌次号でご紹介いたしますが、今日は速報として東京メトロのプレスリリースから先頭車(CT1)の竣功図と主要諸元表をご覧にいれましょう。この9月からは有楽町線で営業運転に入るという10000系、通勤ラッシュもこの車に当たればちょっと得をした気分になること間違いありません。

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▲編成形態図。中間のTc1+Mc1の2輌が抜けるようになっているのは、将来的に東急東横線に直通した際に8輌でも運用可能なように考慮されているため。(東京メトロのリリースより)
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■CT1(10100形)竣功図 (東京メトロのリリースより)
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■主要諸元表 (東京メトロのリリースより)
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今月の新刊から…。

RM275.jpg今月の新刊ができました。RMライブラリー(「車を運ぶ貨車」)についてはすでに13日付けの本欄でご紹介していますので、今日はRM本誌と6冊目となった『国鉄時代』についてご紹介してみましょう。

まずは『Rail Magazine』8月号(No.275)です。今月号のトップを飾る「RM GALLERY」は、小林弘雄さんと和田 浩さんのお二人による“ISARIBI NIGHT ?海原に浮かぶ宝石たち”。今がちょうどシーズンたけなわの山陰地方の漁火漁と夜の山陰本線を絡めた意欲作で、見ればみるほどお二人の情熱と努力が感じられる作品群です。

特集は683系の増備によって、いよいよ「雷鳥」からの引退がささやかれはじめた485系をフィーチャー。現在JR西日本に残された485系は90輌。佐藤利生さんの徹底した現車調査による編成紹介と、眼目(さっか)佳秀さんの撮影ガイドでお楽しみください。もちろん、あわせてボンネット車で注目の金沢総合車両所の489系も取り上げております。

さて、今月注目いただきたい連載は「“SL甲組”の肖像」です。小樽築港機関区の第3回目となる今回は、これまでの蒸気機関車全盛期の乗務体験談から離れて、初めて話の舞台は“現代”となります。そう、あの国鉄最後の日の劇的なC62 3復活の舞台裏がテーマなのです。その後の函館本線山線での活躍をカメラに収めに通ったという皆さんには、ぜひともお読みいただきたい感動秘話です。

同じく好評をいただいている浅原信彦さんの「ガイドブック最盛期の国鉄車輌」は国鉄電車の白眉・181系の4回目、寺田裕一さんの「ローカル私鉄の誕生と終焉」は来年3月限りで廃止となる、くるはら田園鉄道を取り上げます。このほかにも『昭和の記憶』で貴重なカラー画像を発表いただいている三谷烈弌(あきひと)さんの「昭和30年代のアルバムから」、さらには桜木町事故報告書に記載された車輌番号の謎を追う「サハ78144と188はどちらが事故車だったのか」など見所、読み所が満載です。

kokutetujidai6.jpgさて、ありがたいことに年4回の刊行を楽しみにされている方も多い『国鉄時代』ですが、本誌と同時に第6号が発売となりました。今回の見所については、担当の山下修司に紹介させることにしましょう。

『国鉄時代』vol.6が6月21日に発売となります。特集は「飯田線」。これほどそれぞれのファンの思い入れの強い線区は他にないでしょう。ただし、それぞれの思い入れの対象が大幅に異なるのも特徴で、車輌では旧型ED電機、旧型国電、EF10、風景でも中央アルプスの間近に迫る伊那谷、天竜川の渓谷、南の田園風景などなど、それこそ千差万別、194kmの沿線にさまざまな色合いの思い出が散らばっています。そんなファンにとっての桃源郷・飯田線で、いろんな形の思い出のかけらを拾い集めたのがこの特集です。のどかな谷に響くモーター音を思い浮かべながらご覧ください。
 巻頭では蒸気機関車撮影の名手、庄野鉄司さん、谷口孝志さんによる「麗しの谷を行くED19」、白井良和さんの「夢の流電6輌貫通編成」、犬山徹夫さんのED17・ED26の思い出、三上泰彦さんの2輌のクモハ53の晩年の面影、また地元在住の小林哲さんの郷土讃歌「伊那谷恋歌」など、見応え読み応えのある内容です。さらにベテラン高橋 弘さんの阪和線時代の「流電」一族の懐かしのシーンが花を添えます。

 特集以外でも厳寒の峠での闘い「狩勝戦記」、“ナメクジ”の生い立ちと出会いを綴った「D51一次型との邂逅」、大型蒸機華やかなりし頃の瀬野八越えの記録「西の函嶺」などベテランの作品・撮影記は血沸き肉踊る往年の情景を後世に伝える力作が誌面狭しと展開。また今回より連載の始まった「私鉄めぐりの旅すがら」、「私のアルバム散歩」はほのぼのとした筆致で昭和30年代が鮮やかに蘇ります。
 今回の特別付録DVDは瀬野八越えのD52、石北本線のC58、磐越西線のC51・C57・D50、静鉄快速色時代のクモハ52などで、ベテラン・ファンが撮影したこれらの貴重な映像は、鉄道趣味界だけでなく広く後世に伝えるべき文化財的な輝きを放っています。

RM本誌と『国鉄時代』、さらにはRMライブラリーを加えると実車関連だけで今月の新刊は実に合計380ページ。必ずや琴線にふれる記事に出会えるはずです。

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▲香住方面から国道178号線を走ると、橋梁が見えてきたあたりで香美町が立てた「さようなら余部鉄橋 ありがとう余部鉄橋」の巨大な看板が目に飛び込んでくる。'06.6.17

余部橋梁は鋼トレッスル橋とはいえ日本海に面して厳しい季節風にさらされていることから、その傷みも通常以上で、竣工3年後からすでに補修工事が行われてきたそうです。塗装の塗り替えはもとより、腐食したリベットの打ち変えなども逐次行われてきました。余談ながらそのリベットですが、かつては地上で真っ赤に熱したリベットを空中めがけて放り上げ、それを橋脚に取りついた技工がフライパンのようなものでキャッチするという信じ難い“荒技”が繰り広げられていたといいます。

amarube32.jpgさて、いよいよ本格始動する架け替え工事ですが、新橋梁は「エクストラドーズドPCラーメン橋」という形式で、完成時の橋長は307m、橋高は現橋とほぼ同じ41.5mとなる計画です。このエクストラドーズドPCラーメン橋なる形式は、従来は桁の中に配置されていたPCケーブルを桁の外に出すことによって桁高を低く抑え、さらに自重や建設コストを縮減できる新しい工法だそうです。完成予想図を見ると、橋脚は現橋の11本に対してわずか4本、最長橋脚間はなんと82.5mにもなります。
▲気温30℃。照りつける太陽と潮風…余部はもうすっかり“夏”。'06.6.17

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▲高速道路…と思うことなかれ! これが新橋梁の完成予想図。94年の歴史を秘めたトレッスル橋とは比較すべくもないシンプルな造形。(香美町提供)

JRによると平成18年度内に実施設計を完了、河川の仮桟橋工を手始めに「着工」に移される予定といいます。つまり来年3月末日までに何らかの具体的な工事が始まるわけで、まったく障害物もない現橋梁の凛とした立ち姿を拝めるのはあと数ヶ月ということになります。

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▲新橋梁の敷設位置図。鎧方の東下谷隧道(画面左側)はそのまま活用し、現橋の山側に寄り添うように架橋する計画。(香美町提供)
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新橋梁の一般図を見ると、鎧(豊岡)方の東下谷隧道はそのまま活用し、隧道出口からR300の曲線で新橋梁を現橋梁の山側に振り、そのまま現橋に寄り添うように架橋されることがわかります。久谷(鳥取)方の取り付け部はちょうど現在の「鉄橋撮影ポイント」のあたりでしょうか。

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▲香美町とJR豊岡鉄道部によって整備・管理されている「鉄橋撮影ポイント」、いわゆるお立ち台。古枕木を用いた足場や階段状の土留めなどはJR社員のボランティアによって作られたという。
amarube35.jpg香美町では現在この日本最大のトレッスル橋、現・余部橋梁をなんとか利活用できないかと、今月から検討会を開いてさまざまなリサーチをはじめています。土木学会の近代土木遺産の評価基準で最も評価の高い「Aランク」に指定されていることもあり、国の重要文化財となっている筑後川昇開橋のように保存・利活用の道を模索しようというのです。今回ご一緒させていただいた青木栄一先生も「全国鉄橋サミット」(10月21日)の基調講演でその可能性について言及してくれるに違いありません。
▲「鉄橋撮影ポイント」には親切にも時刻表も掲出されている。しかも駅の時刻表とちがって下りは到着、上りは発車時刻が記載されているので撮影にはたいへん便利。もちろん「はまかぜ」の通過時刻も入っている。

amarube33.jpg架け替え工事着工が目前となった最近では、休日ともなると町が用意した駐車場にとめられないほどの観光客が押しよせ、橋梁一帯は時ならぬ賑わいとなってきています。ハザードランプを点けた観光バスが国道に連なる様を見ていると、前回訪れた2年ほど前の静けさが嘘のようです。もちろんこの夏休みはいままでにも倍する人出となるにちがいありません。ビューポイントやトイレの設置、さらにはJRと協力しての撮影ポイントや案内板の整備と、香美町の取り組みにはファンのひとりとして頭の下がる思いです。架け替え工事が始まる日まで、本誌もこの歴史的遺産・余部橋梁にさらに注目してゆきたいと思います。
▲国道178号線が橋梁をくぐるあたりには町が立派な駐車場とビューポイントを設けている。公衆トイレも整備されており、休日ともなると観光客が引きもきらない状況だ。

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余部橋梁のその神々しいまでの偉容からつい忘れられがちですが、余部橋梁とペアをなしている、いやむしろ主従関係で言えば主に当たるのが桃観(とうかん)隧道です。山陰本線最後の未開通区間であったこの桃観峠は、当初内陸ルートでの敷設も検討されたといいます。しかし、内陸ルートには長大トンネルの掘削が不可避であり、技術的・経費的問題から、桃観峠沿岸部に極力短いトンネルを穿ち、勾配を緩和するために高度の高い橋梁を用意する手法に決したのが実情のようです。つまり余部橋梁は桃観隧道へのアプローチ役としての任務が大きかったわけです。ちなみに現在の桃観隧道は建設後の崩落によって餘部駅側が延長されて1991.91m、山陰本線では最長のトンネルです。
▲余部橋梁を架橋せねばならなかった主因でもある桃観隧道。レンガ積みの久谷側ポータルには後藤新平が揮毫した「萬方惟慶」(万人が開通をよろこぶの意)の石額が掛る。折しも吸い込まれてゆくのは178D。'06.6.16

amarube25.jpg青木先生と香美町の調査に同行してこの桃観隧道久谷方のポータルを子細に拝見しましたが、後藤新平の揮毫によるとされる石額が掲げられたレンガ積みのポータルは、余部橋梁と対になって山陰本線の歴史を語りかけてくるようでした。今回は見ることがかないませんでしたが、トンネル上部にはレンガ積みの排煙塔も残っているそうです。それにしてもこの隧道直前の久谷駅は構内そのものがレベルはなく3.3‰の勾配がついており、蒸機時代の厳しさを垣間見る思いがしました。蒸気機関車の運転にとって、橋梁は風の影響が懸念されるものの、日常の運転にはさほど気になるものではなかったはずです。それに対して浜坂方から一方的な登りの上に、15.2‰の隧道を前にしてレベルでない構内で停車せねばならない時の苦悩はいかばかりか…「SL甲組」の連載で是非とも取り上げたいテーマです。
▲久谷駅全景。浜坂から最大13‰で登ってきたかつての山陰西線はここで桃観峠に突き当たる。'06.6.16

amarube23.jpgところで、余部橋梁の銘板というのはあるのでしょうか。香美町も銘板が存在するのかどうかは掌握していないそうで、ちょっと気になるところです。ほぼ同年代のアメリカンブリッジ製トラス橋、たとえばこのブログでもご紹介したことのある横浜の「汽車道」のトラス橋には鋳鉄製の立派な銘板が取り付けられており、ひょっとすると余部橋梁もどこかにアメリカンブリッジ社の銘板がつけられているのかも知れません。
▲11脚の橋脚のうち、すぐそばまで近づけるのは集落の中にある4脚ほど。第9橋脚の鋼材の銘を指し示す青木教授。'06.6.16

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ただ、余部橋梁の場合、橋脚の主材がアメリカンブリッジ社、それに載っているガーダーは石川島造船所、組立指揮はアメリカのセールフレーザー社と分業となっており、ひょっとするとアメリカンブリッジ製造という銘板はハナから存在しないのかもしれません。11脚のうち、崖の中腹やら川の中やら柵で囲われているやらで、基礎部の間近に寄れるのは5脚ほど。だめもとで青木先生と一脚ずつ目視してみましたが、主部材にアメリカンブリッジ社の工場名「PENCOYD」の陽刻があるのを発見。しかもレールのメーカー名・製造年の陽刻のように一定間隔でこの文字が入れられています。これまで気づかなかっただけにちょっと嬉しい発見でした。
▲よく見ると支柱主部材の随所に工場名を示す「PENCOYD」の陽刻が(左)。基礎部はコンクリート基礎だが。9号と10号橋脚のみ杭打ちコンクリート基礎となっている(右)。'06.6.16

amarube26.jpgところで余部地区はこの橋梁建設までは陸路がまったくない30戸ほどの集落だったそうです。御崎地区には平家の落人伝説も残り、現在でもこの御崎地区の祭(百手の儀式)は壇ノ浦の戦いで敗走した平家の再興を祈念して行われていると言います。町の企画課の皆さんがその御崎地区にある「余部埼灯台」もぜひ見ていってくださいと案内してくださいました。なんでも日本一高い(海抜284m)ところにある灯台だそうで、鉄道に負けず劣らず船舶関係の著作が多い青木先生から期せずして多くのレクチャーをいただきました。
▲橋梁からは見えないが、ほど近い御崎に1951(昭和26)年から稼働している余部埼灯台がある。水面から284mと日本一高いところにある灯台だ。余談ながら青木先生によると、「埼」に土偏を使うのは旧海軍の特徴だそうで、逆に現在の地形図のもととなった陸軍(陸地測量部)系統は山偏の「崎」に固執している…とのこと。'06.6.16

amarube28.jpg久谷の桃観隧道、余部埼灯台と周辺のヘリテージを視察し、最後は鎧駅へと向かいました。ここには鎧漁港と駅を結ぶインクライン跡が残っており、これまたなかなか興味深いものでした。香美町としてもまだ本格的な調査は行っていないそうですが、居合わせた漁師さんら何人かの証言を紡ぎ合わせると、どうやら1953(昭和28)年頃に漁協が建設したものらしく、それまでトロ箱を担いでさながら蟻の行列のように大迂回をして駅へと運んでいた苦労が一気に解消したといいます。インクライン上には国鉄の側線が設けられ、そこで冷蔵車に積み替えられて京阪神方面に出荷されたそうですが、そんなケースばかりではなかったようです。サバが大豊漁だった時など荷造りもせずにどんどんインクラインで駅へと上げ、貨車も足りないのでそのままバラ積みで出荷した…などということさえあったと言います。
▲トワイライトゾ?ンはどこにでもある。鎧駅のホーム海側には鎧漁港とを結んでいたインクラインの痕跡が。'06.6.16

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▲鎧漁港からインクラインの跡を見上げる。1953(昭和28)年頃に漁協が建設したもので、現地での聞き取りによれば複線のいわゆる「つるべ式」であったという。'06.6.16

残念ながらこのインクラインに関しては時間切れでこれ以上探ることはかないませんでしたが、続きは町の調査を期待したいと思います。ところでこの「鎧」という奇妙な駅名、御崎の平家落人伝説もあってこれはひょっとするとそんな関係から来ているのかと思いきや、なんのことはない漁港の先に「鎧袖」と呼ばれる奇岩があり、それが由来とのことです。鎧袖はさながら鎧の肩から袖にかけての防護服のような見事な奇岩だそうですが、残念ながら船で沖にでないと拝むことはできないとのことでした。

amarube4.jpg今日は青木栄一先生とあの山陰本線余部橋梁に来ています。6月12日の本欄「余部鉄橋の有終を刻む」でもご紹介しましたが、現在、地元の兵庫県香美町がこの余部橋梁にちなむさまざまなイベントや行事を企画しており、そのメインイベントとも言える「全国鉄橋サミット」(10月21日開催)の基調講演をされる青木先生の事前視察にお供しての現地入りです。梅雨時ゆえ心配された天候もまたとない好天に恵まれ、予想以上に実り多い視察となりました。
▲高さ41.45m、余部橋梁の神々しいばかりのその偉容にはいつ見ても圧倒される。'06.6.16

amarube6.jpg余部橋梁を訪れるのは一昨年の夏以来ほぼ2年ぶり。アテンドしてくださっている香美町企画課の藤原さんのお話では、架け替えが公表された昨年から橋梁を訪れる人は増加の一途をたどり、現在では観光バスまでが立ち寄る一大観光スポットとなっているそうです。もちろん撮影目的のファンの数も激増。とくに今春の「出雲」廃止フィーバーの際はこれまでにないほど多くの人が橋梁を訪れたそうです。
▲餘部駅と余部橋梁の位置関係がよくわかる。なお餘部駅は同じ兵庫県の姫新線余部(よべ)駅と区別する必要もあってか、JRの駅名のみ旧漢字となっている。'06.6.16

amarube2.jpg改めてご紹介するまでもないでしょうが、山陰縦貫線として福知山方(山陰東線)と鳥取方(山陰西線)から建設が進められた山陰本線の最後の難所が、桃観峠が立ちはだかる久谷?香住間でした。今日のように長大トンネルを穿つこともできず、さりとて海岸沿いは急峻な絶壁が続くとあって、桃観峠を最小限の隧道で切り抜けるには、香住側から徐々に高度を稼いで余部凹地をその高度を保ったままの橋梁で横断するしか術はありませんでした。この久谷?香住間が未開通のままの“縦貫線”は縦貫線としての役目をなさず、大阪方面から山陰への主要ルートは、依然として舞鶴まで鉄道で出てから航路で境港を目指すという旧態依然としたものだったといいます。その閉塞状況を打ち破ったのが余部橋梁と桃観隧道だったのです。
▲餘部駅ホーム脇には町が建てた「撮影ポイント」の案内標識がある。撮影を終えて“お立ち台”から降りてくるのは青木栄一教授。'06.6.16

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1909(明治44)年12月に着工された余部橋梁は、高さ41.45m、長さ309.42mの東洋に類例のないトレッスル橋で、使われた鋼材は実に943t。そのうち橋脚用鋼材642tは、はるか米国のアメリカンブリッジ社ペンコイド工場から航送され、餘部の沖合いで艀に積み替えられて陸揚げされたといいますから、まさに明治時代の“プロジェクトX”です。もちろん重機などなかった時代ゆえ、架設は人力で足場を組んで行われ、建設に携わった作業員は延べ25万人に及んだと伝えられています。
▲轟音とともに余部橋梁を渡る1D「はまかぜ1号」。国鉄特急色は見られなくなってしまったものの、181系気動車と余部橋梁の組み合わせは不滅のマッチングだ。'06.6.16

1912(明治42)年1月13日に完成、3月1日に開通したこの余部橋梁によって大阪・京都から山陰地方への足は航路から鉄道へと一気に転換したのでした。今年は完成から94年。100年を迎えることなく歴史の彼方へと消えてゆこうというこの橋梁を顕彰し、何とか後世に繋いでゆくことができないか…香美町の取り組みはこれからいよいよ本格化します。

※このブログは昨日アップ予定でしたが、想定外にも香美町がモバイル環境になく(PHS/Air-H"圏外)、一日遅れのアップロードとなっております。

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創刊号無料閲覧サービスをはじめ、この6月から“ホビダス”一周年記念として多彩な企画がスタートしていますが、注目の新企画に「社長対談」があります。クルマ、鉄道をはじめ、ありとあらゆる趣味ジャンルのビッグネームをお招きし、弊社社長・笹本健次がホビダス上で対談を行おうというアニバーサリー企画で、まさに今日アップとなった第一弾は河村隆一さん。ミュージシャンとして知られる河村さんは実は並外れたクルマ好きでもあり、笹本との対談も実に熱を帯びたものとなっています。

taidanna1.jpgそしてそれにも増して盛り上がったのが、今日収録が行われた第二段「鉄道編」、広田尚敬さんとの対談です。実は笹本と広田さんのお付き合いはゆうに30年を超え、ことに笹本が交通公社出版事業局(のちのJTBパブリッシング)在職中は、広田さんの伝説の写真集『永遠の蒸気機関車』の制作・販売に関わっていた縁もあって、話は昔話から撮影技法、はたまたデジタル談義へと縦横無尽に広がり、傍目に見ていても鉄道写真ファン必見の内容となりました。
▲いつの時代も惑わされずに自分の写真を撮ることが大事…と広田さん。

taidanna2n.jpg注目の「社長対談」第二段は来週末にアップの予定ですが、詳細が決定いたしましたらまたこのブログ上でお知らせしたいと思います。なお、来週発売のRM本誌誌上でも概要を掲載しておりますが、この7月末に広田さんの国鉄蒸機をテーマとした作品を集大成した写真集『蒸気機関車たち』を発行いたします。昨年一年間本誌上で連載いただいた「30年目のカウントダウン」を骨格に、1968(昭和43)年に行われた写真展その名も「蒸気機関車たち」出品作品から、伝説のオオハンゴンソウの花の彼方を飛ぶC62“つばめ”まで、まさに広田写真の決定版愛蔵本を目指して現在鋭意編集中です。こちらもご期待ください。
▲あの『魅惑の鉄道』のインパクトは今もって忘れられんせん…と社長・笹本。

本州最北端の鉄道。

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本州の北のはずれ下北半島のそのまた突端に位置する尻屋崎に、かつて「日鉄鉱業尻屋鉱業所」の軌道がありました。鉱業所事務所の緯度を地形図から算出すると北緯41度24分46秒。本州最北端の営業鉄道だった下北交通(旧国鉄大畑線)の終点・大畑駅本屋が北緯41度24分20秒ですから、わずかに日鉄鉱業の軌道の方が北に位置することになり、1970?80年代に限っては、本州最北の鉄道だったことになります。蛇足ながら“1970?80年代に限っては”とあえて注釈をつけたのは、1960年代までは青森営林局大畑営林署の大畑森林鉄道をはじめとした森林軌道網が下北半島北西部に張り巡らされており、緯度的にはこちらの方が北に位置していたからです。
▲坑口から尻屋崎港の積出設備(画面左奥)までは2キロほど。誰が呼んだか“尻屋ドラゴン”という名のとおり、防爆排気装置から龍のようにエキゾーストを吐きながら日輸製15t機がゆく。'81.3.20

shiriyazaki1972map.jpgさて、この日鉄鉱業尻屋鉱業所の軌道の存在を知ったのは1970年代中ごろのことでした。日本輸送機製の坑内用DLに混じって、まだ加藤製作所製の機関車(D10-1)が使われていた頃で、見せていただいた津軽海峡をバックに走る加藤くんの写真に衝撃を受けたのをよく覚えています。ただ、この日鉄鉱業尻屋鉱業所、わざわざ訪問するにはあまりに足の弁が悪く、ようやく訪れることができたのは1970年代も押し迫ってからでした。
▲国土地理院発行1:50000地形図「尻屋崎」(1972年発行)より。
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大湊線から大畑線に乗り換えて田名部へ。さらに田名部にある「むつバスセンター」から尻屋崎行きの下北バスに揺られること50分ほど、その名も「日鉄鉱業所前」というバス停で降りると、外は立っていられないほどの強風と寒さでした。なんでも尻屋崎は津軽海峡から吹き込む強風で昔から有名だそうで、この日も例外ではなく、おまけに氷雨まで叩きつけてくる始末。事務所に避難されていただいて天候が回復するのを待ちましたが、結局この最初の訪問時にはたいした撮影もできずふたたび「むつバスセンター」へと引き返すハメとなったのです。
▲国鉄の初代DF91をおもちゃにしたような協三工業製4号機(1973年4月製/製番15853)。形式写真を撮りたくて本線上で停止してもらって撮ったひとコマ。'81.3.20

shiriya3019n.jpg2回目の訪問は数年後の1981(昭和56)年3月のことです。例によって軌道上は海峡からの強風が荒れ狂っていましたが、幸い天候はまずまず。気温こそ低いものの撮影には問題ないコンディションです。今回のお目当てはアメリカンスタイル(?)が目を引く協三工業製の4号機。1973(昭和48)年4月製とまだ“8年落ち”の新鋭機で、日輸製ばかりの中で唯一の協三製でもあります。
ところでこの尻屋鉱業所の軌道、一見複線のように見えますが、実は坑道内と積出港側でドッグボーン型のエンドレス状となっており、列車は機回しや入換えをすることなく走り続けます。つまり坑内ポケットと積み下ろし場以外では一切停車することはないわけで、機関車の形式写真を撮ろうにもどうにも撮りようがありません。そこで無理をお願いして本線上で一時停車してもらい、ようやくお目当ての4号機をペンタックス67に収めることができました。
▲4号機の前位側。こちらから見ると何とも味気ない。'81.3.20

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▲尻屋鉱業所でコピーしてもらった4号機の竣功図(一部詳細は画像処理で消してあります)。なぜかキャブの位置が現車とまったく異なる。
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この訪問の直後、同じ日鉄鉱業津久見鉱業所(大分)から余剰となった日輸製15t機2輌(No.5/No.6)が転入し、在籍機関車輌数7輌とこの手の軌道としては異例の大世帯となりました。結局その後は訪問する機会はありませんでしたが、1994(平成6)年6月にベルトコンベヤー化され、軌道はすっかり撤去されてしまったと聞きます。いまさら思えば、「日鉄鉱業所前」バス停まで2度も行きながら、あとちょっとの尻屋崎には行かずじまいとなってしまいました。「寒立馬(かんだちめ)」で知られる観光名所ですが、日鉄鉱業の軌道が過去のものとなってしまった今となっては、もはや再び足を向けることもないでしょう。

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来週発売のRMライブラリーはひさしぶりに貨車をテーマにした「車を運ぶ貨車」です。「国鉄冷蔵車の歴史」(第27・28巻)でその比類ない研究成果をご発表いただいた渡辺一策さんに、今回もご執筆とディレクションをお願いしました。実は企画が持ち上ったのはかれこれ2年ほど前だったのですが、万全を期される渡辺さんだけに、完成した原稿は水も漏らさぬ決定版となり、“冷蔵車”に続いて上下2巻での刊行となります。
▲『車を運ぶ貨車』の上下巻表紙。下巻は来月7月20日過ぎの発売。

kurumawohakobu4.jpg「車を運ぶ貨車」と聞いても、記憶の中ではク5000形くらいにしか遡れませんが、本書を読むとその歴史が信じられないほど古いことに気づかされます。鉄道貨物輸送が始まったのは官設鉄道開業翌年の1873(明治6)年とされていますが、なんと「車を運ぶ貨車」はその5年後の1878(明治11)年には統計上に姿を現すそうです。もちろん「車」といっても自動車ではなく「馬車」で、鉄道の創業を指導した英国人の風習を取り入れたもの。自分の馬車を「車運車」に載せ、馬は「馬運車」に載せ、旅客列車で同時に運ぶ…まさにカートレインの元祖だったわけです。
▲ブルーバード410型を2段積みにした試作車運車の意欲作ク300形。P:渡辺一策所蔵

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その後は主に皇室用の儀装馬車運搬用の「車を運ぶ貨車」が次々と誕生しますが、このあたりの事情もこれまでほとんど明かされなかった部分で興味津々です。上巻では官設鉄道時代から戦後の試作車運車の数々、そして国鉄の物資別貨物輸送の中で最も成功したとまで謳われ、わずか数年間に932輌もが生産されたク5000形車運車にいたるまでを、さまざまなコラムを交えて縦横無尽に紹介しております。
▲“パブリカ”を積載荷役中のシム1000(のちのクム1000)形。1台1台クレーンで吊って積載してゆく。P:渡辺一策所蔵

ところで、そのク5000誕生以前の2軸車運車は「クム」を名乗っています。あれっ、積載重量の少ない2軸の車運車が荷重の大きい「ム」を名乗っていて、なんで普通自動車であれば10台も積載可能なク5000形が荷重記号なし(荷重13t以下)なのでしょうか…。そのマジックも、もちろん本書で解き明かされています。

余部鉄橋の有終を刻む。

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いよいよコンクリート橋への架け替えが始まる山陰本線余部橋梁のある町・兵庫県香美町が、「さようなら!ありがとう!そして後世へ… ? 余部鉄橋の有終を刻む ?」と題して各種のイベントを行うこととなりました。実は小誌も企画立案に関わっており、誌上でもお馴染みの服部敏明さんの写真展や、広田尚敬さんの講演会、さらには青木栄一先生を招いてのシンポジウムなど、夏から秋にかけて多彩な企画が行われます。まずは香美町のリリースをご覧ください。
▲高度40m、漆黒の天空を衝くトレッスル橋を、光の矢となった列車が駆け抜ける。P:広田尚敬(本誌270号より・以下同様)

h.amarube4.jpg兵庫県香美町では、建設から90余年、平成19年春にはコンクリート橋へと架替工事が始まる町の偉大な産業遺産「余部鉄橋」の価値をあらためて顕彰するとともに、新たに生まれ変わる「平成の架橋」をまちづくりへつなげ、将来を展望するために、さまざまなイベントや事業を行います。
■趣旨
① “安全性と定時性確保”のため架け替えられることになった「余部鉄橋」の価値を広くPRするとともに、その雄姿を町民自身があらためて胸に刻み、後世へ伝える。
② 現橋利活用事業へ継承、まちづくりの新しいシンボルとして生かす。
③ 歴史を踏まえ「平成の架橋」を町民の誇りとする。
■事業内容
(1) 「全国鉄橋サミット」      【10月21日(土)/香住区中央公民館ほか】
① 基調講演
     演題:「日本の鉄道と橋」
     講師:東京学芸大学名誉教授(元鉄道史学会会長)青木栄一氏
② 鉄橋を愛する首長会談
 特徴的な鉄道橋を持つ全国の首長が参加。各地の鉄橋紹介、鉄橋・鉄道を生かしたまちづくりへの思いを語り合う。
    ・ 福島県大沼郡三島町長  第一、第二、第三只見川橋梁〔JR只見線〕
    ・ 東京都青梅市長     軍畑鉄橋(奥沢橋梁)〔JR青梅線〕
    ・ 熊本県阿蘇郡南阿蘇村長 立野橋梁、第一白川橋梁〔南阿蘇鉄道〕
    ・ 兵庫県美方郡香美町長  余部鉄橋〔JR山陰本線〕   以上 4市町村長
③ 「余部鉄橋の一世紀」語り部の集い
④ ミニ余部鉄橋模型(鉄道ジオラマ)展示 ほか

h.amarube1.jpg(2) 鉄橋工学の集い(仮称)        【10月22日(日)/香住区中央公民館】
   橋梁土木技術に着目したやや専門的な研修セミナー。
① セミナー
    《1時間目》 余部鉄橋の建設の歴史
    《2時間目》 土木技術から見た余部鉄橋
    《3時間目》 余部鉄橋の近代土木遺産としての評価
・ 講師・セミナー内容(未定)
② 建設当時の記録写真展、設計図展示、実物模型展示ほか
(3) 「余部鉄橋の一世紀」語り部の集い        【5?9月/各種大会行事等で】
   鉄橋と共に生きてきた地元住民の思い出、エピソード、苦労話などを披露。

h.amarube2.jpg(4)「最後の余部を撮る」 広田尚敬さん講演会and 服部敏明さん特別写真展
【8月25日(金)?27日(日)香住区中央公民館ほか】
   日本の鉄道写真の第一人者・広田尚敬さんが最近の余部鉄橋撮影のエピソード等を講演。余部に通う気鋭の写真家・服部敏明さんの写真展のほかコンテスト応募写真作品を一堂に展示。
(5) 「余部鉄橋」最後の雄姿を…写真コンテスト、応募作品展
・ 冬:ブルートレイン「出雲号」最終ラン、雪景色
・ 春:菜の花畑(春GW)
・ 夏:鉄橋ライトアップ(8月)
・ 秋:コスモス畑(10月)
(6) 関連事業
① 香美町余部鉄橋メモリアル事業〔同実行委員会〕
   ・写真コンテスト、応募作品展         【8月25?27日/香住区中央公民館】
   ・「余部鉄橋」千崎密夫・田中茂写真展      【8月25?27日/香住区中央公民館】
   ・「余部鉄橋」夕涼みまつり、ライトアップ     【8月5日】
   ・余部小学校児童、PTA共同制作による「余部鉄橋」大絵画制作
   ・あまるべロマン号ヘッドマーク制作(余部小児童制作)
② JR西日本 豊岡鉄道部事業
   ・企画臨時列車 あまるべロマン号運行 【夏休み中】
(7) 「余部鉄橋」記録保存事業
・ 記録ビデオ(DVD)制作
・ 記念誌(写真集)発行

香美町では、このイベントを通して「余部鉄橋の町」としてのアピールを全国に発信したいと意気込んでいます。このほかにもまだまだビッグなイベントが計画されており、これからはいよいよ余部橋梁から目が離せなくなりそうです。

忘れ得ぬ「ローライ35」。

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少なからずカメラには拘りを持って接してきたつもりですが、いろいろな意味で忘れられないカメラのひとつが「ローライ35」です。ご存知の方も少なくないと思いますが、ローライ35はカメラ設計の神様とも言えるハインツ・ヴァースケの手によって1966(昭和41)年に誕生した近代コンパクトカメラの最高傑作で、35ミリフルサイズとしては究極の小型化を実現した名機です。
▲わがローライ35SEと「元箱」。値段のわりに渡された箱の小ささに愕然としたのを昨日のことのように思い出す。

35SE2.jpg生来、コンパクトながらメカニカルなものに強く魅かれる性分だけに、昭和40年代からこのローライ35は憧れの的でした。レンズがかのカール・ツァイスから直接供給されるテッサーというのも、実際の性能はともあれ強く訴えかけるものがあり、いつかはわが手にしてみたいものと思っていました。しかし、平屋だった時代のヨドバシカメラでキヤノンFTbブラック・50ミリF1.4付きが48,000円の時代に、ローライ35は5万円を超えており、コストパフォーマンスから考えてもとても手の出せる代物ではありませんでした。
▲「SE」はブラック仕様を選んだが、概してローライ35の黒は表面処理が弱く、経年変化とともに梨地となってしまうのが難点。シンガポール工場製だが、巷間の評価とは無関係に実に完成度が高い。

35SE3.jpgいつも心の片隅にローライ35の影があったのですが、70年代も終わろうという1979年、ゾナー40ミリF2.8を搭載した究極仕様の「ローライ35SE」が発売されると、どこからともなくあれがローライ35のラストバージョンらしいという声が聞こえてきました。すでにこの頃になると国産コンパクトが市場を席捲してきており、一方で主力の二眼レフの不振もあってローライの経営状態はまさに火の車。たしかに「SE」は最後の大輪のようにも見えたのです。
▲こちらは本国製のオリジナル「ローライ35」。レンズはもちろんカール・ツァイスから供給を受けたテッサー。

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ただ、その時点でさえ5万円を超えるローライ35はとても現実的な選択肢ではありませんでした。ところが、バイトでためた虎の子を手に「一眼レフ」を買おうとカメラ屋に向かった私が抱えて帰ってきてしまったのは「ローライ35SE」でした。店頭でさんざん逡巡したあげく、えいやっとばかり買ってしまったのは実用性よりも長年の憧れだったのです。
▲裏蓋全体を取り外してフィルムを装填する(左)。決して操作性は良くないが、究極の小型化には絶対条件だったはず。右はレンズを沈胴させているところ。卓越した機械加工ならではのスムースな動きが心をくすぐる。

かくしてわが手に収まったローライ35SEでしたが、とにかく使ってみて腰を抜かさんばかりに驚いたのはその写りの良さでした。目測による距離調整というウィークポイントはあるものの、ポジフィルムでも入れようものならHFTゾナーの解像力は並の一眼レフを遥かに凌駕し、まさに目の覚めるような描写力でした。以後十数年に渡ってポケットにすっぽりと収まる“高性能機”として四六時中行動を共にすることとなります。その後仲間に加わったオリジナル「ローライ35」(ドイツ製の初期ロット)ともども、最近ではとんと出番がなくなってしまいましたが、今もって5指に入る愛機であることだけは確かです。

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▲その小ささと精密さ、さらにはインダストリアル・デザインとしてのまとまりは、同じドイツのコッペル製小型機を連想させる。ローライ35SEで撮ったジャワ島パキス・バル製糖工場のコッペル製1号機(1900年製)。'91.7.18

那覇市内の“加藤くん”。

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3年ほど前に「ゆいレール」こと沖縄都市モノレールが開業し、再び鉄軌道保有県となった沖縄県ですが、太平洋戦争末期までは沖縄県営鉄道や沖縄電気軌道といった鉄道・軌道がいくつか存在していました。さらに大東諸島と呼ばれる島々にもそれぞれ事業用の専用軌道が敷設されており、実はあなどれない鉄道王国だったのです。
▲繁華街の中に忽然と現れる“加藤くん”。雨ざらしのため状態はあまり良くない。'01.11.24 壺川東公園

okinawa3n.jpgそんな沖縄県ですが、太平洋戦争末期の筆舌に尽くしがたい空襲と地上戦の中で本島の軌道施設は破壊されつくし、1945(昭和20)年3月の沖縄県営鉄道の運行停止を最後に、以後、半世紀近くにわたって沖縄本島は鉄軌道のない地域となってしまいました。ところが、同じように壊滅的ダメージを被ったにも関わらず、戦後いち早く復興を遂げた鉄道もありました。大東製糖(もと大日本製糖)が運営する南大東島のサトウキビ運搬用の軌道です。
▲1913年ヘンシェル製蒸機(大日本製糖1号)の足回りも同じ線路に保存されている。右の説明碑文には沖縄県営鉄道のことばかり書かれており、しかも同じヘンシェル製の県鉄1号機の写真まで添えられている。この足回りが県鉄の1号と誤解されないか心配…。'01.11.24 壺川東公園
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▲“加藤くん”は大東製糖が最後に新製導入した5号機。1967(昭和42)年2月製の10t機(製番67215)で、加藤製作所としても機関車製造をやめる直前の生産機。'01.11.24 壺川東公園
daitoujimafign.jpg実は沖縄地区で最初に軌道が敷設されたのはこの南大東島です。大東諸島開発の祖・玉置半右衛門が軌間1'6"(457mm)の手押し軌道を建設したのが1902(明治35)年と言いますから、「ゆいレール」開業から101年も前のことになります。その後、玉置による軌道は北大東島(燐鉱石)、沖大東島(ラサ島/燐鉱石)にも敷設されています。戦後復興にあたり、砂糖(南大東島)より食料増産のための肥料(北大東島の燐鉱石)が優先されて大量の軌道用品が南大東から北大東へ送り込まれるなど、沖縄本島から鉄軌道が消えてからも、大東諸島の軌道群は活発な動きを見せますが、この辺の事情に関しては岡 雅行さんの力作「知られざる大東諸島 ?伊豆鳥島と大東諸島の軌道群の全貌に迫る?」(『トワイライトゾ?ン・マニュアル10』所収)をご覧ください。
国土地理院発行1:200000地勢図「那覇」(1973年発行)より。円周状の軌道がよくわかる。
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さて、長らく南海のシュガートレインとして多くのナローファンを魅了してきたその南大東島の軌道も、1983(昭和58)年の収穫期(1984年1月?)からはトラック輸送に切り替わり、この時点でついに沖縄県内から営業・非営業を問わず、システムとしての鉄軌道が消滅することとなりました。軌道廃止後も大東製糖の車輌の多くは、南大東村の旧機関庫跡に放置されていましたが、雨宮製の蒸気機関車2号をはじめとする何輌かが同村のふるさと文化センターに引き取られ、さらに加藤製の5号DLとヘンシェル製の1号蒸機の下回りだけが那覇市内の公園に運ばれて保存されています。
▲県鉄のレールとされる軌道(左)と5号機のキャブ内。機器類は残っているが
銘板は見当たらなかった。'01.11.24 壺川東公園

それにしてもなぜ那覇市内に南大東島の“加藤くん”がいるのか、いぶかしく思いながら現地を訪ねてみて概ねの状況が理解できました。保存場所の壺川東公園は旧沖縄県営鉄道那覇駅跡の那覇バスターミナルにほどちかく、地元としては沖縄県営鉄道を顕彰するモニュメントを作りたかったのが真相のようです。しかし県鉄の車輌はすでに影も形もなく、そこで南大東島の“加藤くん”に白羽の矢が立った…ということです。横に添えられた碑文にも、本島の地図と県鉄の解説が刻まれているものの、南大東の記述はほとんどなく、ちょっとかわいそうな“加藤くん”ではあります。

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帰ってきた“アメB”。

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この春の異動で『カー・マガジン』編集部に移ったB滝さんから「こんなのが発見されました…」と、珊瑚模型店の金色の化粧箱を手渡されました。端面に貼ってある珊瑚の「明治・大正・昭和に活躍 型式2120(B6)」というラベルを目にして、一気に記憶が甦りました。そうです、かれこれ十年以上も前に『RM MODELS』誌上で“競作”を繰り広げた16番の「B6」ではないですか!

b65.jpg一応モデラーのはしくれを自認する身ではありますが、どうしたわけかあまり他人には言えない性癖(?)があります。やれリベット埋め込みだ、洋白からの削り出しだと手塩にかけたモデルも、出来上がった瞬間にほとんど興味がなくなってしまうのです。“出来上がった”と思えるのがどの時点かは一定ではないのですが、自分の気持ちとして完結したと思った時点で恐ろしいくらいに興味がフェードアウトしてしまうのです。ですからこれまでに“出来上がった”車輌の多くは、他人やお店(メーカー)にあげてしまったり、手もとにあってもガレージの物置に突っ込まれたりと、完成までに注がれた情熱に反比例する冷遇にあっています。
▲上から見ると空制関係の這い回しに苦労した記憶が甦る。

このB6もご多分にもれず、B滝さんに預けて(いや、ひょっとするとあげてしまったつもりだったのかも…)いたことさえすっかり忘れて幾星霜、十何年ぶりかの再会となったのです。

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▲ホッパービンにセキ車を押し込むのが主な任務のため、セキの全高より高い位置に前照灯を掲げねばならず、結果この鶴首のようなライトステーが誕生した。後部には大きめのスノープラウを取り付けている。

このB6、私が“現役”を見ることのできた唯一のB6である三井美唄炭礦(三美運輸)の1号機がプロトタイプです。“競作”するならこの目で見た機関車をと安易に決めたのが命取り、地獄の改造を強いられるハメとなりました。三美の1号はB6の中でも“アメB”と通称される米国ボールドウィン社製の2500形の1輌です。その後、珊瑚模型店のB6シリーズも2100、2120、2400、2500と各バージョンが製品化されましたが、この時点では基本形である2120があるのみ。煙室エプロン部程度の改造でなんとか“アメB”の雰囲気は出せるのではと考えていたのが安易でした。実際に改造を始めてみると、ここが違うあそこが違うとばかり小改造が大改造へと変わってしまいました。なかでも一番悲惨だったのがサイドタンク、キャブ、コールバンカと続くいわば側板の作り替え。標準より高さの低いサイドタンクに、逆に標準嵩上げより高いキャブ、そして不似合いなほど増炭嵩上げされたコールバンカを再現するためには結局すべてを新製せざるをえず、最後の最後には、始めからスクラッチすればよかったと本末転倒な泣きがはいる始末でした。
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▲クラシック・ミニチュア社の木製オアビン・キットを2連にして組んだホッパービンをバックにサイドビューをパチリ。

それでもメーキャップを終えて出来上がると、あの日の三井美唄礦が瞼に甦ってきてちょっと嬉しかったのをよく覚えています。ただ記憶はそこまで…例によってあとはどうでもよくなってB滝さんに預けたに違いありません。そしてB滝さんはB滝さんで、へろへろと仕事机のどこかに押し込んで忘却の彼方。まぁ、そう考えれば、この再会も何かの縁でしょう。さっそく自宅のセクション(16番ではありませんが…)に載せてデジカメでポーズをとってもらったのが、今日ご紹介する一連の写真です。今度はさすがに邪険にせず、書斎のどこかにでも置いておこうかと考えています。

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▲プロトタイプの三美運輸1号機の姿。お世辞にも奇麗な状態ではなく、なおかつプライミングを起こしているのか、力行時にはタール状のシンダが雨のように降り注いできた。'72.4.3 南美唄


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▲新大阪をあとに岡山へと向かう試7951A。在来の700系ではみられない加速で山陽道へと走りさっていった。'06.6.7
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n700n11.jpg①東海道・山陽新幹線として最速のハイテク車輌、②さらなる車内快適性の向上、③環境への適合を図るとともに、より省エネルギー化を実現…以上の3つを基本コンセプトに開発されたN700系は、車体傾斜システムをはじめとする新機軸の走行技術はもとよりのこと、車内環境の快適性向上のためにも数々の改良が施されています。
▲車輌間には新開発の全周ホロが導入されている。'06.6.7

n700n6.jpg外見上で特徴的なのは各車輌間に全周ホロが設けられた点で、この全周ホロの採用によりデッキ部の騒音レベルを700系の客室レベルにまで低減しています。また、パンタグラフも下枠短縮型シングルアーム・パンタグラフを新開発し、パンタグラフによる空力騒音低減を図っています。これは従来のシングルアーム・パンタグラフの下枠部を短くするとともに風防カバーで覆う方式です。パンタグラフ外周の風防もあって、ホームからはシュー部分以外のパンタグラフはほとんど見えなくなっています。
▲試運転に先立ち東京駅で報道陣のインタビューに応えるJR東海新幹線鉄道事業本部田中車両担当部長ら。'06.6.7

n700b7jpg.jpgさて注目の車内ですが、なんと言ってもグリーン車の充実ぶりが際立っています。「上品、かつやすらぎのある落ち着いた客室空間」を目指し、最新のホテルのロビーを思わせるエントランスから客室内に入ると、実に落ち着いたシートが待ち受けてくれています。今回の大きなポイントのひとつはパソコン周辺環境の充実で、全座席にモバイル用コンセントを設置、さらに高速走行中でもスムーズなインターネット接続が維持できる環境となっています。全席にモバイル用コンセントを設置したのはわが国では初めてのことで、今後の優等車輌のスタンダードとなってゆくことは間違いないでしょう。
▲マルチカラーLEDを使用して文字も一段と大きくなった車内テロップ。'06.6.7

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▲モバイル対応となったグリーン車座席(左)とB席以外のシート幅が10㎜拡大されて440㎜となった普通車座席(右)。'06.6.7
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▲グリーン車座席の肘掛横には新しく導入されたレッグウォーマーの感知センサーが埋め込まれている(左)。着席・離席を確認するセンサーで、レッグウォーマーを作動させていても席を離れると自動的に切れるようになっている。右は肘掛部に読書灯ボタンと並んで設けられているレッグウォーマーのボタン。'06.6.7
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▲従来は荷棚部に設けられていたグリーン車の読書灯はバックレストに埋め込まれている(左)。肘掛の先端にはモバイル用のコンセントが設置されている(右)。'06.6.7

n700an014.jpgさらにグリーン車の座席は「シンクロナイズド・コンフォートシート」と名づけられたもので、人間工学的に最適な座り心地を実現するために、リクライニング操作と連動して座面が傾斜する新機構となっています(右概念図参照)。そのほかにもバックレスト部に埋め込まれた読書灯や、これまでに例のないレッグウォーマーの導入など、特筆されることだらけです。レッグウォーマーは、車内空調で足が冷える女性客等には最も歓迎される設備に違いありません。

もちろん普通車も格段に進化を遂げています。普通車といえども窓側・最前部・最後部の座席、総計553箇所にモバイル用コンセントが設置されており、しかもシート幅も従来の700系より10㎜拡大(B席を除く)してぐっと座りやすくなっています。

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▲走行安定性測定を行っている11号車車内(左)と、車内騒音振動測定中の10号車車内(右)。'06.6.7

このN700系、全座席禁煙(デッキ6箇所に喫煙ルームを設置)となっており、マルスでの指定券発売の関係もあって、必要編成が出揃う来年夏から営業運転に入ります。その後平成21年度までにJR東海・JR西日本あわせて総計54編成を投入し、平成22年には東海道・山陽区間の「のぞみ」すべてをN700系に置き換える計画だそうです。0系以後めまぐるしく世代交代を続けてきた新幹線車輌も、N700系という次世代新幹線の真打登場で、全面的に勢力分布が塗り替えられようとしているわけです。

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▲後部乗務員席から270km/hを体感。やはり速い! '06.6.7

最後に、今回の試験運転で私がハンディカムで撮った動画を一部ご覧に入れましょう。京都?米原間の曲線試験区間を車体傾斜システムによって270km/h走行する運転台の様子と、その傾斜を4号車の傾斜測定モニター上で示したもので、スチール写真ではお判りになりにくかった車体傾斜システムが多少なりとも実感できると思います。(下記をクリックしてご覧ください。音声付ですので、ご覧になる前に周囲の環境をご確認ください。なお、MAC OS9では一部再生できない場合があります。)

ホビダスTV「N700系」動画

どうしても再生できない場合は下記の縮小画像でご覧ください。
Download file「N700系」動画ライトバージョン

■N700系主要諸元表(クリックするとポップアップします)
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(※JR東海・JR西日本提供)

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▲京都をあとに米原に向けて270km/h走行中のN700系試7952A。'06.6.7

今日はJR東海とJR西日本が共同開発を進めている次世代新幹線「N700系」(ニュー、ネクストのN)の試験走行報道公開があり、最大の特徴である「車体傾斜システム」による270km/h走行を体験してきました。

n700n2.jpg試験に供されているのはJR東海が発注した量産先行試作車“Z0”編成で、すでに昨年4月から各種試験走行を行ってきていますが、その様子が公開されるのは今日が初めてとなります。「車体傾斜システム」とは、曲線走行時に車体を1°内軌側に傾斜させることで、外軌側への左右定常加速度を低減し、乗り心地を維持しながら曲線通過速度を向上させようというシステムで、東海道区間ではこれまでの700系が250km/hに減速しなければならなかった半径2500mの曲線を270km/hを維持したまま走行することが可能です。ご存知のように東海道新幹線は曲線が多いことが少なからずウィークポイントとなっており、この新システムの導入で東京?大阪間の所要時間は5分短縮されることになります。
▲車体側面のN700系ロゴ。文字の中にサイドビューが描かれている。'06.6.7

n700n10.jpg車体傾斜の方法は、新開発のATCから高精度の速度・位置情報を制御伝送システムによって各車の車体傾斜制御装置にデジタル伝送するもので、実際の傾斜は空気バネにエアを給排気することによって行います。今回の試運転での傾斜作動区間は上下各8区間。10km手前から案内アナウンスが車内に流れ、今か今かと身構えていたのですが、意外とあっけなく「傾いた」と如実に実感するにはいたりませんでした。これまた新開発の高性能セミアクティブ制振制御装置によるところも大きいのでしょうが、振り子式のように5°とかではなくわずか1°ですから、よほど注意していないと気付かないかも知れません。ただ、後部乗務員室で体験した時は、たしかにカント以上に振られるような感覚にとらわれました。
▲新大阪に到着した試7951A。先頭部長さは在来の700系の9.2mから10.7mに延長されている。'06.6.7

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▲4号車に設けられた車体傾斜監視モニター。4号車のみあえて車体傾斜機能をカットしており、他車との動作差異を監視している。左のモニターが車体傾斜機能の3号車、右が4号車の状態。この時点では傾斜はしていない。'06.6.7

この車体傾斜システムもさることながら、ちょっと驚いたのはこのN700系の加速性能の素晴らしさです。従来の700系の起動加速度が1.6km/h/s(東海道区間)なのに対し、N700系は実に2.6km/h/sとなっており、発車直後からぐいぐいと小気味よい加速を見せてくれます。編成出力が700系の13,200kW(275kW×48台)に対して17,080kW(305kW×56台)と約3割増しなのも功を奏しているのでしょうが、そのスタートダッシュはまさに「次世代」に相応しい痛快なものです。

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▲ずらりと乗り心地測定用の測定機器が並べられた7号車車内。絶え間ない地道なチェックが続く。'06.6.7

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海を渡る“集通QJ”。

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カリフォルニア在住のベテランファン・青木晴夫さんからEメールで興味深いニュースをいただきました。なんと、あの中国最後の大型蒸機の聖地・集通鉄道の「前進形」がアメリカの鉄道投資・経営会社に買われ、テキサスに渡ったというのです。
▲重連の次位でチャブカ東方からチャブカに向かうQJ6988。主として平坦線のチャブカ東方(集通線の東端)で使用されたため、井門さんにとっても出会いが少なかったという。東端無煙化後、大板?チャブカ間でも使用された。'03.2.8 P:井門憲俊

まずは青木さんのメールから要点をご紹介してみましょう。

ピッツバーグの鉄道開発会社(Railroad Development Corp. of Pittsburgh, 以下RDCと略)は、先日、中国から1-E-1, QJ級の機関車2輌を購入し、さらに3輌を追加購入する可能性があると発表しました。この2輌のうちには最後の営業運転に使用された7081号機が含まれています。他の1輌は6988号機です。RDC (www.rrdc.com) は、米国、ラテンアメリカ、アフリカ、ヨーロッパの6カ国に、鉄道財産と経済的利益を有する鉄道経営ならびに投資をおこなう会社で、米国内ではシカゴ、デモイン、オマハを結ぶアイオワ州際鉄道(Iowa Interstate Railroad)の所有者でもあります。

QJ7081a.jpg RDCのチェアマンであるヘンリー・ポズナー3世の話では、前述の2輌は中国で蒸気機関車のコンサルタント、デニス・ドーティーの監督のもと、 Multipower Internationalという米国会社との契約によって、米国連邦政府鉄道規格にあわせた改装整備が行われたとのことです。
 なおこの2輌は、中国の大連港から積み出され、テキサス州のガルベストン港に陸揚げされ、8軸の特別フラットカーで搬送、アイオワ到着後は連邦鉄道機関の規格に適合することを示すため試運転に供させる予定ですが、ポズナー氏はこの2輌は Iowa Interstate での通常の貨物運送に充当して試運転を行うことになろうと述べています。
▲チャブカ駅に到着したQJ7081。'03.2.8 P:井門憲俊

中国大陸から北米大陸へと海を渡るのは、集通鉄道の最終所属機のうちの2輌、前進(QJ)7081号機と6988号機とのこと。集通線の前進形に詳しく、ビデオや写真集、さらには模型製品までリリースされているModels IMONの井門義博さん、憲俊さんご兄弟にお伺いしたところ、7081号は2002年に吉林省大安北機務段より集通鉄路へ転籍(売却)してきた機関車で、大板機務段に所属し、主に大板?チャブカ間に使用されていたそうです。またもう1輌の6988号は1996年の集通鉄路開業直後から見られた同線“生え抜き”の1輌で、主にチャブカ付近で活躍していたそうです。所属は大板機務段、併合前はチャブカ機務段だったと思われるとのこと。さらに遡ると、集通線開業以前は瀋陽鉄路局管内での目撃情報もあるそうで、長らく中国東北部で活躍を続けてきた機関車のようです。なお、集通線の「さよなら列車」を牽引したのは、7038・7119の2輌で、RDC社のリリースにある“最後の営業運転に使用…”はちょっとばかり話に尾ひれが付いてしまっているようです。井門憲俊さんによれば「さよなら列車」は2005年12月9日に大板ー経棚間で客車の特別列車、12月10日に貨物列車で、どちらも7038・7119の2輌が牽引しているそうです。

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▲大板機務段にて全検あがりのQJ7081の姿。'05.1 P:井門憲俊

それにしても、中国からわざわざ大型蒸機を購入しようというのもいかにもアメリカらしい話ですが、その試運転を営業列車牽引でやってしまおうというのも信じ難いスケールの大きさです。“さらに3輌を追加購入する可能性…”との話ですので、ひょっとすると近い将来、アイオワの地で「前進三重連」が実現するかもしれません。
情報をお寄せいただいた青木晴夫さん、そして井門義博さん井門憲俊さんありがとうございました。

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▲撮影地としても有名な荒川(親鼻)橋梁を渡るデキ501牽引の7204レ。この橋梁が完成する前は現在の上長瀞駅から荒川左岸(親鼻駅の対岸)に線路がのびており、そこが当時の「秩父」駅であったという。'06.6.3 親鼻?上長瀞

秩父鉄道といえばC58 363の牽く「パレオエクスプレス」がすぐに思い浮かびますが、今回の訪問の趣旨はあくまで鉱石列車です。「パレオエクスプレス」をしっかり撮影して、さらに鉱石列車も…と欲をかくと、結局は虻蜂取らずに終わることになります。しかも今日(6月3日)の影森発着の貨物8本は7104レ(8:53発)、7204レ(9:39発)、7303レ(10:08着)、7304レ(11:02発)、7403レ(11:52着)、7006レ(12:51発)、7005レ(13:10着)と7本が昼過ぎまでに集中しており、最後の1本7307レは夜の22:29分着ですから、午前中は影森付近で三ノ輪構外側線へ出入りする鉱石列車を狙うことにしました。

titibu2a.jpg午後は逆に武州原谷貨物駅発着の鉱石列車が数多く設定されており、久しぶりに武州原谷に向かってみることにしました。武州原谷は大野原駅から10分ほど上り(黒谷)方に歩いたところにあり、私鉄最大規模の貨物駅です。かれこれ20年ほど前、当時はまだ秩父セメント第2工場だった時代に、工場入換用の汽車会社製DLを撮らせてもらいに来たことがありますが、実にそれ以来の訪問です。
▲武州原谷に到着した7305レ。背後の秩父太平洋セメントのプラント前には休車となったセメント貨車がずらりと並んでいる。'06.6.3

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▲武州原谷の構内入換に活躍するのはD304。1967(昭和42)年日立製の45t機である。'06.6.3

当時は工場内へと続く高架桟橋も現役で、広い構内は運用中の貨車で埋め尽くされていました。ところが今回訪れてみると、構内を埋め尽くしているのは、同じ貨車でも運用離脱したセメント貨車ばかり…。わずかに発着線と鉱石ホッパーへと続く線だけが生きている状況で、往年の賑わいを知る身にとっては一抹の寂寥感を感じずにはいられませんでした。それでも非電化線入換用のD304と本線牽引機のデキの連携プレーによる入換えはなかなか見もので、久しぶりに貨物列車を堪能できた一日でした。

titibu4a.jpg鉱石列車ばかりになってしまったとはいえ、昨今の私鉄貨物輸送の情勢から考えると信じられないほどの密度で貨物列車が走る秩父鉄道。ヲキをはじめとした車輌の独自性も豊かで、その恵まれたロケーションとともに、もう一度じっくりと見直してみたいと思う路線のひとつです。
▲貨物専業駅だけに、規模のわりには駅名標も実にささやかなもの。'06.6.3

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私鉄貨物輸送の雄として知られる秩父鉄道ですが、輸送品目の主力のひとつであったセメント輸送がこの春で終了してしまったのをご存知でしょうか。ちょっと前までは年間貨物輸送量300万トンを超え、旅客列車本数より貨物列車本数の方がはるかに多い貨物列車天国でした。ではセメント輸送終了後の貨物列車の運転状況はどうなっているのか…仲間に誘われて昨日は久しぶりに秩父鉄道を訪ねてみました。
▲秩父のシンボルである武甲山をバックに影森に到着したデキ302牽引の鉱石列車7005レ。'06.6.3

titibu2.jpg「貨物列車」と十把一からげに言ってしまいましたが、秩父鉄道の場合は「貨物列車」と「鉱石列車」を厳密に区別しており、ダイヤ上でも貨物列車、不定期貨物列車、鉱石列車、不定期鉱石列車の4種類が区分表記されています。従来のセメント輸送は「貨物列車」の範疇で、武州原谷にある秩父太平洋セメント(株)秩父工場から武川?熊谷(タ)間の三ヶ尻線を経由して出荷されるセメント製品と、逆ルートで送り込まれる燃料用石炭の輸送が主でした。
▲鉱石列車といえばヲキとヲキフ。平軸受の伝統的なホッパ車である。ちなみに“ヲ”はオアカー(ore car=鉱車)を意味する。武州原谷 '06.6.3

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▲三ノ輪鉱山から盈車を降ろしてくるデキ302。右下に見えるのが本線。'06.6.3 影森構外側線(7006レ)

ひょっとすると貨物列車運転本数は激減してしまったのではないだろうかと危惧していたのですが、実際のところ大半を占める鉱石列車はこれまで通り健在で、その面ではちょっと一安心といったところです。ただ、武州原谷構内にはタキ1900をはじめとしたセメント貨車がところ狭しと留置されており、セメント輸送終了が現実だったのを思い知らされました。ちなみに、ここ秩父鉄道に限らず、この春のJRダイヤ改正で隅田川などの首都圏のセメントターミナルはことごとく閉鎖されてしまい、セメントの鉄道輸送は壊滅的状況となってしまいました。セメントそのものの海外生産への移行等が背景にあるとはいえ、モーダルシフトに逆行するような状況は残念でなりません。

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▲デキ501(左)とデキ301(右)。樋口(7204レ)/秩父(7303レ) '06.6.3

さて、一方の鉱石列車ですが、三ノ輪鉱山への専用線(影森構外側線)から出荷されるものと、武州原谷から出荷されるものがあり、ともに三ヶ尻線を経由して太平洋セメント熊谷工場へと送り込まれます。影森からの鉱石列車は昨日(土曜日)は4往復(うち撮影時間帯3往復)ほどが運転されていました。かたや武州原谷往復の鉱石列車もかなりの本数が“現役”で、まだまだ貨物列車王国と呼ぶに相応しい活況を呈しています。

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“いつまでもあると思うな保存車輌”という言葉があります(?)が、残念ながらまさにそのとおり、昨今では気付かぬうちに“保存車輌”が撤去されてしまう例が少なくありません。それだけに、一度訪ねてみた保存車も時の流れとともに動向が気になりだし、時間を見つけては極力再訪に努めています。今回ご紹介する東京・板橋区の城北交通公園の「東武鉄道1号機関車」もそのひとつで、かれこれ25年ほど前に見に行ったのを最後に、その後の状況を把握できぬまま歳月が流れていました。
▲「東武鉄道1号機関車」の四半世紀。左が'05年6月5日撮影、右が'80年3月15日撮影。余談ながら現況はデジカメ、25年前はトライXの自家現像である。

tkiwakoppel1.jpgようやく再訪がかなった…というより重い腰をあげたのは、今からちょうど一年ほど前のことです。地下鉄三田線蓮根駅から徒歩5分ほどの「城北交通公園」は周囲のロケーションもろともまったく記憶になく、たどりついてみても「えっ…こんな所だっけ」というほど既視感がまったくありませんでした。それでもお目当ての「東武鉄道1号機関車」の保存スペースまで来ると、特徴的な屋根形状などにどことなく記憶が甦り、むしろ状態のあまりの変わりなさに嬉しい驚きを覚えたのでした。
▲幌型の丸い屋根の形状は25年前と大差ないものの、下の写真と比較すると周囲の状況が一辺しているのが判る。'05.6.5 城北交通公園

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▲現在のキャブ内部。立入自由なわりにはそれほど荒廃しておらず一安心。ちなみに本機は右側運転台。'05.6.5 城北交通公園
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▲25年前のディテール。現在は植え込みで覆われて観察しにくいコッペル式弁装置(左)と「東武鉄道寄贈/復元 鉄道用品株式会社」の銘板(右)。'80.3.15

このコッペル製Bタンク、名目上は「東武鉄道1号機関車」ということになってはいますが、実際に東武鉄道で実用に供したことはなく、戦時中の車輌不足の折りに有田鉄道から東武に転入してきたものの、結局用途もなく川越機関区に放置されていたという曰く付きの機関車です。現車はドイツ・コッペル社1912(明治45)年9月製の8t機(製番5885)で、ホイールベース1100ミリのグループ。有田鉄道が開業時に用意した車輌です。1958(昭和33)年7月以降、東上線常盤台駅前に「東武鉄道1号機関車」として展示保存されましたが、たまたま番号が有田時代の「1」であっただけで、事情を知らない一般の方には東武鉄道開業時の最初の機関車との誤認を呼ぶこととなってしまいました。

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その後1973(昭和48)年8月にこの城北交通公園に移設されました。それにしても最初の保存展示が1958(昭和33)年ですから、民間の手による保存展示としては極めて初期にあたり、よくぞ保存してくれたものと思います。
▲公園内での保管位置が25年前と同じかどうかは検証できなかったが、周囲がえらく開けた感じの25年前の展示場の全景。'80.3.15 城北交通公園

toubusetumeiban.jpg1980年以後実に四半世紀ぶりの再訪でしたが、機関車は変わらずとも見る方はそれなりに歳もとり、それなりに見る目もかわってきています。それだけにいろいろと25年前には見えなかった“発見”もあり、しばし有意義な時を過ごすことができました。決して面白からぬ言葉ではありますが、“いつまでもあると思うな保存車輌”を肝に銘じて、これからも保存車輌再訪の旅を続けようと思います。
▲「ベビーロコ号」んと名付けられた当時の説明看板。解説文をよく読むと、本機は東武鉄道とそれほど深い関係がないことが判る。なお、この看板は現存しており、最上部左上の現況写真(正面)の左端にも写り込んでいる。'80.3.15

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「流改のC55」後日談。

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5月6日の「“流改”のC55」以来、5月9日付けの「続“流改”のC55」、5月16日の「続・続“流改”のC55」と、流線形復元改造のC55の話題が思いもかけぬ展開をみせましたが、先日、決定的な写真と図面が手元に揃いましたので、まだまだ不明な点は少なくないものの、一応の最終報告をさせていただきたいと思います。
▲カバーが外されたものの、一般型への改造が施されていないC55流線形。残念ながらネガを仔細に検証したものの番号は特定できなかった。'48.8 尾久機関区 P:宮澤孝一

ryuukai08n.jpgまずはこの衝撃的な写真をご覧ください。宮澤孝一さんが戦後すぐに尾久機関区でお撮りになった写真で、外せるケーシングはすべて外した、見るも哀れな、C55流線形断末魔の姿です。ただ、この写真からカバー付きでは判らなかった様々な情報を読み取ることができます。しかも、キャブも前面窓など流線形時代のままですが、よく見るとキャブ下には例の“ヒレ”がしっかりと写っているのがわかります。さらに拡大して見ると、鋼板製のキャブのステップは一段外側に付いていることが見てとれます。
▲密閉キャブ化改造されたC57のキャブドア下部。左が分配弁で、追加されたキャブ支え板が見える。

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▲雲形デフレクターが特徴的なC55流線形。拡大してみるとキャブ裾周りの構造がよく判る。シリンダーケーシングの裾やテンダーにもご注目。'48.8 尾久機関区 P:宮澤孝一
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▲1936(昭和11)年4月2日汽車会社提出の印があるC55流線形の断面図(LC0303)。
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さらに流線形時代のキャブの断面図が出てきましたので、こちらもご覧ください。この図面をお送りして再び機械学会の山本茂三さんに検証してみていただきました。
「C55流線形の断面図拝見しました。動輪とエアタンクやコンプレッサのブラケットが近いことを改めて認識させていただきました。他事にも興味がわきますが本題に戻します。平側面図LA0031と対になる図面で、流線形の構造を理解するのに大変参考になる図面です。問題の運転席部分ですが。3/3図右に描かれています。側板部分は75㎜(または3インチ)のアングルで床板と結合されています。また運転室前部(速度計の回転伝達用回転棒の前側)には、側板の下方まで内側に補強板が当ててあり、側板はカバー類の取付板も兼ね、強度部材となっていることがわかります。」
やはり“ヒレ”は流線形のカバーを取り付けるためのもので、かつモノコック的構造の強度部材となっている、というのが結論のようです。当たり前と思って見ていたものが、改めて考えてみると“なぜだろう”という疑問に付き当たる…そんな見本のような顛末でした。

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tougou1 のコピー.jpgちょうど一年前の昨年6月1日にスタートした趣味の総合ポータルサイト“ホビダス”もおかげさまで一周年を迎えることができました。はじめは手探り状態だった当サイトも、内容・機能ともに充実の一途をたどり、今ではサイト全体で月間2300万ページビューをカウントするまでになりました。

そこでサイト読者の皆さんへの感謝を込めて、一周年にあたる今日から画期的なサービスを開始いたしました。名づけて「ホビダスライブラリ」。アクションブラウザというページ閲覧ソフトにより、紙媒体の誌面をそのままウェッブ上に展開するもので、まさにページをめくる感覚でご覧いただくことができます。今回公開しているのはネコ・パブリッシングの数多ある定期雑誌のうち22誌の創刊号と弊社最初の出版物であった日本の名車シリーズ『スカイラインGT?R』。もちろん鉄道ジャンルではRM本誌とRMモデルズの創刊号がエントリーしています。閲覧できるのは誌面の一部ではなく、表紙周りを含めた全ページ。あれこれ説明申し上げるよりまずはお試しいただいたほうがずっと早いのですが、簡単に解説すると以下のような手順です。
「ホビダスライブラリ」のトップ画面の一部(見本)。誌名のアイコンをクリックすると各誌の創刊号案内へと飛ぶ。

hobidas.top2n.jpg1:「ホビダスライブラリ」(←これをクリック)からご覧になりたい誌名をクリック。
2:各誌創刊号案内画面の「DHTMLビューワーで本を見る」もしくは「Flashビューワーで本を見る」をクリック。
3:表紙が表示されますから表紙画面をクリックすると次の見開きとなります。
4:めくりたいページをクリックすれば次のページへ、手前のページをクリックすれば前のページに飛びます。
5:拡大して読みたい時は右クリックすると2段階で拡大し、スクロールで移動します。戻す時は左クリックです。(DHTMLビューワーの場合)
▲これがRMの創刊号案内画面(見本)。左のアイコンで閲覧ビューワーを選択すると創刊号誌面に飛ぶ。

とにかく病みつきになってしまうほど面白いページ閲覧機能ですので、ぜひお試しください。もちろん無料です。
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▲創刊号の誌面の一部(見本)。RMの場合は右ページをクリックすると次のページがめくられる。

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