鉄道ホビダス

2006年5月アーカイブ

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2002(平成14)年11月から東京都写真美術館で開催され、その後、田川市美術館(2003年)、都城市立美術館(2004年)と巡回してきた「写真展・永遠の蒸気機関車 くろがねの勇者たち」が、この7月15日から真岡鐵道の起点・下館(筑西市)にある「しもだて美術館」で開催されることが決まりました。これまでの開催地との最大の違いは“生きた蒸気機関車”が美術館の横を走っていること! 真岡鐵道の特別協力による重連運転(7月23日)や「SL教室」などの連携行事も盛りだくさんに企画されています。2002年の東京都写真美術館の展示を見逃した方はもちろんのこと、ご覧になった方も4年ぶりにあの迫力溢れる原画に会いにお出でになってみては如何でしょうか。
まずは、以下のしもだて美術館のプレスリリースをご覧ください。
▲ 広田尚敬《凍てつく C5550 宗谷本線 名寄》1973年12月(東京都写真美術館蔵)

kuroganebook.jpgしもだて美術館では、東京都写真美術館の協力により、蒸気機関車をテーマとした写真展を開催します。
1975(昭和50)年に旧国鉄本線から輸送機関としての蒸気機関車が姿を消してから30年が経ちました。茨城県内でも1885(明治18)年7月に開通した現在のJR宇都宮線に古河駅が設置されたことを契機として、その4年後の1月に、水戸から下館を経由して小山を結ぶ現在のJR水戸線が、そして更に、9年後には、常磐線が順次開通し、その後、約80年間にわたって蒸気機関車が活躍を続けました。現在では、国内各地でその保存が謳われ、蒸気機関車は今や後世に伝えるべきひとつの歴史文化としてその地位を確立しています。筑西市においてもまた、下館駅と茂木駅とを結ぶ真岡鐵道と、沿線地域とが協力し合って蒸気機関車を動態保存しています。この保存事業についても、昨年、10年目を迎えることができました。汽笛が高らかに響いてくると、誰しもふと時が止まったように感ぜられるのではないでしょうか。
▲図録『永遠の蒸気機関車 くろがねの勇者たち』は日本図書館協会選定図書にも選ばれている。

写真術と鉄道とは、ほぼ同時期に日本にもたらされました。近代化を推進していた日本では、1872(明治5)年に新橋?横浜間で鉄道が開通すると、新しい交通機関としての鉄道の役割がいかに大きなものであるかを認識します。やがて、蒸気機関車は人々の心を魅了し始め、写真家たちによって、その姿が重要なモチーフとして記録されるようになります。その姿は、海外では、近代化される都市の景観を象徴するものとして捉えられていたのに比して、日本人にとっては、どこかしら望郷の念や遠い未知の世界への憧憬といったものが含まれて写し出されています。本展覧会では、19世紀中葉から現代までの著名な写真家たちが撮影した国内の蒸気機関車を中心とする、約120点の作品をご紹介いたします。

あわせて、郷土資料コーナーとして、1965(昭和40)年頃の電化を直前に控えた下館駅を中心とする鉄道記録写真も展示し、当時の姿を振り返りたいと思います。また、真岡鐵道との連携による各種関連行事も開催いたしますので、展覧会とあわせて、その魅力に直に触れていただき、世代を超えて蒸気機関車について語り合っていただければと思います。

nishiosan1039.jpg■出品作品について
(1) 出品作品数 約120点(郷土資料コーナー展示を除く)
(2) 出品作品
・写真資料
第1部 写真家たちのとらえた蒸気機関車 20点(予定)
第3部 昭和の蒸気機関車        107点(予定)
映像資料 第2部 珠玉の明治期蒸気機関車(岩崎・渡辺鉄道コレクションより)
映像展示室にて
・郷土資料コーナー展示
(1)電化直前の下館駅周辺の写真資料 10点(予定)
(2)真岡鐵道「SLもおか」復元資料         
▲西尾克三郎《形式D51, No.D5123, 高崎機関区》1936年8月14日(東京都写真美術館蔵)

kuroiwasan1036.jpg・会 期 平成18年7月15日(土)から9月10日(日)まで、58日間
(月曜休館、但し7月17日は開館し翌18日休館)
・時 間 10:00?18:00(入館は17:30まで)
・開催場所 しもだて美術館
・料 金  一般 500円/高校生以下無料
※団体 400円(10名様以上)、会期中は常設展ならびに板谷波山記念館もご覧いただけます。
・主 催 しもだて美術館/筑西市教育委員会/筑西市/読売新聞東京本社/美術館連絡協議会
・企画協力 東京都写真美術館
・特別協力 真岡鐵道株式会社/芳賀地区広域行政事務組合/真岡線SL運行協議会/もおかSL倶楽部
・後 援 鉄道友の会/JR東日本水戸支社/関東鉄道/下野新聞社/茨城新聞社/NHK水戸放送局
・協 賛 花王/協同組合 日専連しもだて
・協 力 交通博物館/ネコ・パブリッシング
・お問合わせ しもだて美術館 電話:0296-23-1601
▲黒岩保美《D50200, 糸魚川》1960年6月5日(東京都写真美術館蔵)

shimodatemap038n.jpgさらに、関連行事としてトークショー(8月5日)や「親子SL教室」(7月22日)なども予定されています。詳しくは6月発売のRM誌上でもお知らせしますが、8月5日(土曜日)に行われるトークショーは、真岡鐵道の蒸気機関車を護り続けてきた湯浅陽三さんと私の対談です。
■SLトーク「過去と今を生きる蒸気機関車」
湯浅陽三氏(真岡鐵道SL担当・元水戸機関区機関士)
名取紀之(『Rail Magazine』編集長)
▲日時=8月5日(土)14:00?
▲場所=アルテリオ集会室
▲定員=180名(先着順)
▲無料
湯浅さんは連載「SL甲組の肖像」水戸機関区編でもご登場いただいたC62時代からの大ベテランで、当日は真岡でのご苦労はもちろんのことながら、水戸機関区時代の秘話をいろいろとお聞きする予定です。ぜひお立ち寄りください。

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この9月、東京メトロ有楽町線に07系以来14年ぶりとなる新車10000系が登場します。従来の東武東上線、西武有楽町線・池袋線との直通運転はもとより、平成19年度開業予定の13号線乗り入れにも対応した、東京メトロ発足後はじめての新形式です。
▲発表された10000系のレンダリング。正面デザインはこれまでにない斬新なものになる。(東京地下㈱提供・以下同)

10000n5.jpg東京地下鉄㈱のリリースによると、この10000系は快適性や使いやすさの向上、リサイクル性の向上、火災対策の強化、車体強度の向上、コストダウン・省メンテナンスをコンセプトとし、東京メトロの標準車輌として開発された車輌だそうで、今年度と来年度の新製輌数は200輌(10輌編成20本)と、13号線開業を踏まえた近年にない大量投入となります。
▲乗降扉上部に設けられる液晶画面表示器。

10000fig.jpg諸元の比較に見られるように、在来の07系と比べると天井高さが185ミリも高くなり、連結面間に大型ガラスを採用することによって、これまでにないルーミーな客室内が実現しています。座席幅もこれまでの一人あたり450ミリから460ミリへと拡大、さらにスタンションポールの設置や、床面の高さを10ミリ低くしてホームとの段差を縮小するなど、細やかな快適性追及がなされているのも特徴です。冷房能力も格段に向上しており、車内乗降扉上に設置される液晶画面表示器も、乗り換え案内、駅設備案内、所要時間等をより細かく表示可能になるなど、あらゆる面で次世代の地下鉄車輌となっています。

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▲大型ガラスの貫通路扉を採用して広々とした印象の室内。天井高さも高くなっている。
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▲乗り換え案内・駅施設案内画面(左)と所要時間案内画面(右)。

構造面ではアルミニウム合金製車体を継承しつつ、05系13次車で実績のあるオールダブルスキン構体の採用や、車体四隅の隅柱強化などで車体強度を向上させ、各部材の火災・有毒ガス対策も強化されているそうです。興味深いのは、省メンテナンス化を図るため新設計の“ボルスタ台車”が採用される点で、ボルスタレス一辺倒の昨今の情勢からすると特筆されます。

龍ヶ崎、あのころ。(下)

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竜ヶ崎線唯一の途中駅が「入地」です。佐貫起点2.2km、つまり全線4.5kmの竜ヶ崎線のちょうど中間地点に位置します。字面からすれば「いれぢ」と表記されるべきなのでしょうが、駅名標にも時刻表にも「いれじ」と“し濁点”で表記されています。のっけから話が脱線しますが、同様の例は東北本線の野辺地にも見られ、国鉄・JRの表記は「のへじ」、南部縦貫鉄道側の駅名標だけが「のへぢ」となっていました。
▲入地駅点描。くぐもった制動音とともに気動車が停まると、女学生がひとり降りてきた。何もない周囲にDMH17のけだるいアイドリング音だけが響く。'76.3.9

ireji5n.jpgさてこの入地駅、1970年代まではまさに野中にポツンと立つ小駅でした。ホーム片面、当然無人駅です。小さな待合室の傍らには枝ぶりの良い桜の古木が立ち、ホームとも土留めともとれないような土盛りが吸い込まれるように農道へと続いていました。とても首都圏とは思えないこの入地の風情が実に好ましく、龍ヶ崎を訪れるたびに吸い寄せられるように足を向けていました。
▲そして最近の入地駅。辺りはすっかり住宅地と化してしまったが、あの待合室だけはそのままの姿で残っていた。'03.3.22

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▲いかにも関東平野といった茫洋とした風景の中をキハ521+522の2連が入地へと向かう。'76.3.9 竜ヶ崎?入地

ireji3nn.jpg近年ではこの入地駅周辺も住宅街と化してしまっており、“野中の”イメージはすっかり失せてしまいました。あの桜の古木もとうになく、コンクリート製の小さな待合室だけが70年代から変わらずにその姿を留めています。行き交う車輌も新鋭のキハ2001形となり、長閑だったあのころの龍ヶ崎はフィルムの中に残るだけとなってしまったのです。ただ、この非電化単線のミニ路線が今も元気に活躍している背景には、沿線開発に伴う通勤路線化が不可欠だったはずで、趣と引き換えに路線が生き残ったと考えるべきなのでしょう。
▲上の写真とほぼ同地点の現状。やってきたキハ2001は竜ヶ崎線専用車で、3駅すべてのホーム位置が下り進行方向右側のため、乗降扉は片側にしかない。'03.3.22

ryuun3n.jpgところで一昨日の本欄について、『国鉄時代』でも印象的な作品を発表くださっている寺田牧夫(田駄雄作)さんから、「龍ヶ崎の5号機は1969年4月にも運転されています。この時が最後かどうか定かでは無いのですが、友人に誘われて撮影に出かけました。当時はまだ小型蒸機にあまり興味が無く、しっかり撮影できなかったのが今考えると非常に残念です。」というお便りを頂戴しました。同年4月29日に運転された5号機の様子が素晴らしいホームページ(轍楽之路)となって公開されています。私にとってはかなわぬ夢だった龍ヶ崎の蒸機たち…寺田さんのホームページを見ながら、改めて龍ヶ崎、あのころに思いを馳せています。
▲龍ヶ崎市歴史民族資料館できちんと保管展示されている4号機。この資料館は館内展示も充実しており必見。'03.3.22

龍ヶ崎、あのころ。(中)

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▲とても首都圏とは思えない風景の中をゆく元江若鉄道のキハ531。1931(昭和6)年川崎車輌製の本車は、この写真の翌年に大栄車輌で車体を新製されて江若時代の面影はなくなってしまった。'76.3.9 入地?竜ヶ崎

irejitate.jpg今ではすっかり東京のベッドタウンと化した感のある龍ヶ崎界隈ですが、1970年代までは、あたり一面何もない茫洋とした風景が広がっていました。そのただ中をほとんど起伏のない直線で貫く竜ヶ崎線は、関東鉄道のほかの3線から比べても、とりたてて面白みのある線には見えなかったと思います。

→都心に行商に行った帰りだろうか、担ぎ屋のおばさんたちが談笑しながら線路を歩いてゆく。'76.3.9 入地?竜ヶ崎

ryuu2.jpgただ、そのとりとめのない“緩さ”が、かえって他の線にはない魅力に感じられてなりませんでした。国鉄佐貫駅の傍らにある関鉄ホームを出た気動車は、構内外れで左にカーブをきり、あとはひたすら直線で龍ヶ崎を目指します。ちょうど中間地点に入地駅があるものの、車窓に変化はなく、TR29台車の飛び跳ねるような揺れに慣れた頃には早くも終点・竜ヶ崎です。所要わずか8分、あまりにあっけない乗車時間です。
▲佐貫駅の竜ヶ崎線分岐地点。この当時はまだ佐貫駅でも貨物扱いが行なわれていた。'76.3.9

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車輌面では1971(昭和46)年3月末いっぱいで貨物営業をやめてからというもの、4輌ほどの気動車が配置されるだけとなってしまいましたが、それでも非総括制御のキハ41302や江若鉄道からやってきたキハ531などそれなりの個性派もおり、今日はどの車が運用に就いているかなと想像を巡らせながら佐貫の駅を降りるのも楽しみでした。ただ、1980年代に入ると車体載せ替えや旧型車の淘汰が進み、車輌面での面白みは急速に失せていってしまいました。
▲緩くカーブを描く非電化単線の線路と、微妙な角度で交叉する農道。そして第4種踏切の「ふみきりちゅうい」の標識…列車の姿はなくても、この光景だけで「龍ヶ崎」は心に突き刺さる。'76.3.9 入地?竜ヶ崎

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▲最近の竜ヶ崎機関区。蒸機時代からずっとその姿を留めている給水塔や、検修庫横のテワの車体はあのころのまま残っている。'03.3.22

龍ヶ崎、あのころ。(上)

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関東鉄道…と言うよりも、心情的には今もって鹿島参宮鉄道の龍ケ崎(竜ヶ崎)線は、わずか4.5キロのミニ路線ながら、なぜかいつも意識の片隅にその存在がある不思議な路線です。
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鹿島参宮鉄道が常総筑波鉄道と合併して関東鉄道が発足したのは1965(昭和40)年6月。もちろん鹿島参宮時代は実体験していないのですが、龍ケ崎に通い始めた頃はまだそこかしこに“鹿島参宮”時代の面影が残っており、失礼ながら無味乾燥な“関東”鉄道という名称より、なにかしっくりくる気がしてなりませんでした。
▲ウマをかませて手作業でTR26台車の整備を行う。わずか4.5キロの路線にも関わらず、機関区や検修設備などすべてが“自己完結”しているのも趣味的には大きな魅力。写真のキハ41302はわが国初のワンマン車である。'76.3.9

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ryuu10.jpg昭和40年代の龍ケ崎にはもうひとつ“夢”がありました。龍ケ崎の庫に残されていた4号と5号の2輌の蒸気機関車です。予備機として残されていた両機は、ごく稀にDLの代替として火が入ることがあり、ひょっとすると何かの機会にまた動くのではないかという期待が残されていたのです。けむりプロが『蒸気機関車』誌に発表した「龍ヶ崎」も、そんな5号機の復活を捉えたもので、ひとりの若い読者であった私にとっては、実に鮮烈な印象を植え付けられたものです。
▲庫内の4号機(1925年川崎製)。5号機(1921年日車製)とともに予備機として残され、同線の蒸気動力廃止後も車籍は継続され、最終的廃車は1971(昭和46)年10月であった。'76.3.9

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▲機関区内に残る蒸気時代の給水塔(左)と、模型にしたくなるような駅前の小さな郵便局(右)。70年代の龍ヶ崎界隈はモデラーにとっても桃源郷だった。'76.3.9

今さら思えば龍ケ崎線の蒸気動力使用認可は1968(昭和43)年10月末で廃止されており、稼働状態にあるといっても両機が運転されることなどありえなかったのですが、当時はそんな情報さえなく、“夢”が夢のままで残されていた時代でした。

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▲4号機は地元の民俗資料館に、5号機はおもちゃの町に引き取られたものの、蒸機時代=鹿島参宮の面影を色濃く残していた90年代の龍ヶ崎機関区の構内。検修庫脇には倉庫代わりのテワ1の車体も見える。'93.8.13

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早いもので、このブログ「編集長敬白」をスタートしてから間もなく一年が経とうとしています。5月27日にアップしたオープンのご挨拶を別とすれば、実質的に第一回となったのは、ホビダスの正式スタートと合わせた6月1日アップの「所沢工場は今…」でした。遊休地となりながらも工場時代の施設をそのまま残している西武所沢工場跡地を会場に、一年に一回開かれる「ところざわ旬の市」の機会を捉えて工場内の現況をお伝えした記事です。
▲昨年の「旬の市」開催時に撮影した工場内。トラバーサーが撤去された以外ほとんどそのまま残されているのがわかる。'05.5.28 旧所沢車輌工場

tokorozawakou2.jpg当時は小ブログも現在のような多くのページビューは頂戴していませんでしたが、それでも何人かの方から事前に知っていれば見に行きたかったのに…という声をいただきました。ほとんど車輌メーカーなみの生産実績を持つにも関わらず、工場稼働時には一般公開されたことはなく、多くのファンにとっては外周の壁の隙間から様子を垣間見ることしか出来なかった場所です。一見してみたいと思うのも無理からぬことでしょう。そこで今年は昨年の轍を踏まぬように、この週末に行われる第7回「ところざわ旬の市」の事前情報をお伝えいたしましょう。
▲工場建屋群を使って物産展やらなにやらが開かれているが、よくよく見るとそれぞれの建屋にはまだ車輌工場時代の職場標識が掲げられている。'05.5.28

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▲所沢駅(画面前方)から工場に入ってくる専用線(右)もそっくりそのまま残されている。右は出入庫線内で、まるで昨日まで使われていたかのよう。'05.5.28

会期は5月27日(土曜日)と28日(日曜日)、つまり明日あさってです。開催時間は10?17時、場所はもちろん西武鉄道所沢駅西口駅前の「所沢車輌工場跡地」。イベントの内容自体はフリマや物産市、さらにはコンサートなどとおよそ鉄道とは関係のないものばかりですが、なんと言っても「車体塗装場」やら「台車検修場」やらの看板がそのまま残る工場内を見学できる一年に一回のチャンスです。しかもトラバーサーが撤去された程度で、構内の線路もほとんどそのまま残されているとあって、西武ファンのみならず私鉄車輌に興味をお持ちの方にとっては、ひと目見ておきたい光景に違いありません。

あいにく天気予報によると土日とも雨模様のようですが、この工場跡地が来年のこの時期もそのままかどうかは判らず、傘を片手においでになってみては如何でしょう。もちろん入場無料です。

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▲復興社以来の西武所沢車輌工場の全貌をまとめたRMライブラリー『所沢工場ものがたり』(上・下巻)。所沢工場を語るには絶対に欠かせない。

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国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所が管理・運行している「立山砂防工事専用軌道」が、5月19日付けで国の「登録記念物」に指定されました。「登録記念物」とはちょっと聞き慣れない言葉ですが、昨年4月に施行された文化財保護法の一部改正に伴って新設されたジャンルで、文化財としての価値はあるが、評価が定まっていない産業遺産等の保護を目的としたものだそうです。
▲起点の千寿ヶ原で出発準備中の列車。右手が富山地方鉄道の立山駅で、駅からは目と鼻の先。ちなみに、このポジションからは見学することができる。'96.10.7

SABOUn2.jpg文化審議会(阿刀田高会長)は、史跡・名勝・天然記念物18件とともに、重要文化的景観(一関本寺の農村景観)1件と「登録記念物」2件(立山砂防工事専用軌道と福知山市の雲原砂防関連施設群)の指定を文部科学大臣に答申したそうですが、昨春の法改正以降「登録記念物」が指定されるのははじめてで、砂防軌道はその栄えある初陣を担うことになったわけです。
▲最大の目玉は樺平の18段連続スイッチバック。千寿ヶ原と水谷の標高差は640mあまりあり、列車はこの18段をよじ登るだけで30分かかる。斜面にスジ状に見えるのがすべて軌道。'96.10.7

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建設省時代に小誌「模“景”を歩く」でも詳細な紹介を行っていますので、もちろん皆さんご存知とは思いますが、立山砂防軌道(通称)は立山の大カルデラから常願寺川に流出する土砂が富山平野に大水害を及ぼすのを防ぐための砂防工事用の軌道で、起点の千寿ヶ原から工事の前線基地である水谷まで18キロあまりを合計42段のスイッチバックで結んでいます。今回の答申では、富山県が県営で立山砂防事業に着手して今年でちょうど百年目となること、また水谷までがインクラインを介して全通してから75年にあたることを踏まえ、この世界的にもまれな多段スイッチバックの軌道を第一回指定対象に選んだのだそうです。
▲10km地点のグス谷に架かる橋梁は13.4m。スイッチバックを上がると最急曲線半径7mのΩループで滝を越える。'96.10.7

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私はこの立山砂防軌道とは浅からぬ縁があり、5年ほど前には富山県と北陸地方建設局が共催した「国際トロッコサミット」の実行委員の大役を仰せつかって、僭越ながらいろいろとサジェスチョンをさせていただきました。実はこの時に42段というスイッチバック数を「ギネスブック」に登録できないだろうかと、北陸地建が関係機関に打診をしたことがあります。ところが結果はNO。スイッチバックの数からいえば中国の撫順炭礦の西露天掘専用鉄道の方が多いから…というのが理由だったそうですが、一本の路線としては…とか、ナローゲージとしては…とか、なにか枕詞を付けておけば良かったのにと悔やまれてなりません。
▲人員と物資を水谷へと運ぶ混合列車の編成(左)と、現在の人車車内(右)。車体長2.3m、車体幅1.4mの9人乗り。'96.10.7

私が最初に通いはじめた30年ほど前は、千寿ヶ原の車庫前に「便乗を許すが生命の保障はしない」旨の“乗車心得”が掲げてあり、主に裏立山を縦走しようという登山者が人車、時には無蓋貨車にまで乗っていました。私も酒井製DLの牽く列車で幾度となく水谷へと撮影に上がったものです。現在では、もちろん乗車は出来ませんが、千寿ヶ原の常願川河川敷に延長2キロほどの訓練軌道が敷設され、この軌道を使っての体験学習会などが催されています。この「登録記念物」指定を契機に、立山砂防軌道がより開かれた存在になってくれるのを期待したいと思います。
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立山砂防軌道は立山カルデラの脊梁を走る。最深部にあるのが「鳶崩れ」と呼ばれる安政の大崩壊の鳶山。(立山砂防事務所パンフレットより)
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奇妙なセミクロスシート。

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6月発売の『国鉄時代』第6号の準備作業で、久しぶりに1970年代の飯田線のネガを引っ張り出して見ていると、奇妙なセミクロスシートの車内に目が止まりました。ロザ格下げのサハ75の100番代車です。そういえば、豊橋発の飯田線の初電にこの車が組み込まれていて、窮屈な大垣夜行から乗り換えると、えらく得をした気分になったのを鮮明に覚えています。
▲中央に増設された幅1000㎜(既設の両端扉は700㎜)の引戸を囲むように発生品を流用したロングシートが並ぶ。何とも奇妙な車内空間で、ロングシートに向き合ってしまうクロスシート部は居心地が悪そう。木製の日除けや灰皿が時代を物語る。'78.11.2 豊橋

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▲サハ75 106〔静トヨ〕の車内。壁面の扇風機スイッチも懐かしい。'78.11.2 牛久保
t75015n.jpgこのサハ75形100番代、浅原信彦さんの『ガイドブック最盛期の国鉄車輌』(第2巻)によれば、横須賀線モハ70系用優等車サロ75を格下げし、さらに1970(昭和45)年に3扉化改造を施されて100番代となった車だそうで、その室内は“旧国”の概念とは一線を画すルーミーなものでした。サロ75(当初はサロ46)は1951(昭和26)年から合計18輌誕生しスカ線の花形として活躍してきましたが、111系の登場によって1965(昭和40)年から用途変更が開始されました。18輌のうち5輌は先頭車化改造されてクハ75形に、残る13輌はそのまま格下げ使用されることになりサハ75を名乗ることになりました。そしてさらにその13輌中、長岡運転所所属の4輌を除く9輌が3扉化改造されたのだそうです。
▲「流電」編成に組み込まれたサハ75 106〔静トヨ〕。サロ75013(サロ46014)が種車。この写真の翌年1979(昭和54)年8月に廃車された。'78.11.2 牛久保

t75a017n.jpg3扉化にあたっては、新設される中央扉付近のシート配置を変更せねばならず、そこにもともとのラグジュアリー(?)なモケット地のシートをレイアウトしたために、ご覧のような奇妙な室内空間が出来上がってしまったというわけです。同様の3扉化改造は80系のサロ85格下げ先頭車化改造車クハ77でも見られ、こちらはロングシート部の片方の座席下にドアエンジンを設置したため、新設ドアの左右の座面高さが異なるというさらに奇妙な体裁となってしまっています。

←後位側便洗室付近から車内を見通す。左側の洗面所の円形の明り取り窓も優等車だった歴史を物語る。'78.11.2 牛久保

この当時の飯田線豊橋機関区には4輌のサハ75形100番代(101、102、103、106)が在籍しており、一部は「流電」編成にも組み込まれて活躍していました。やたらとぶわぶわしたモケットシートとTR48台車のゆらゆらとした揺れが、貧乏旅行にちょっとリッチな彩りを添えてくれるありがたい車輌でした。

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水曜夜の開館はメンバーくらいしか集まらないものと思っていましたが、19時近くになると、どこから現れたのか、ぱらぱらと見学者が集まり始めました。20人ほどの子供を連れた先生らしき人の姿もあります。近隣の学校の校外学習か何かでしょうか。メンバーの方はというと、最初にやってきた青年を含めて3人ほど。青年は軽妙な話術(といってもドイツ語なのでさっぱり内容はわかりませんが…)でトラムが動く仕組みを解説しているようで、時折子供たちのおおきな笑い声が庫内に響き渡っていました。
▲トラムミュージアムの矩形庫前に並んだ動態保存車たち。左から1909(明治42)年製の Ce2/2 176、1897(明治30)年製の旧番「1」、1900(明治33)年製のCe2/2 102。P:トラムミュージアム絵葉書より

聞けば4?10月の第一土曜と最終日曜の開館日の午後にはこれらの保存車輌を使った公開運転が行われているのだそうです。公開運転といっても日本的感覚で想像するミュージアム周辺をちょろちょろと走る類ではなく、1900年製などという超古典車が、13系統の営業路線にそのまま投入されて中央駅まで行ってしまうのです。しかもタイムスケジュールを見るとほとんど30分ヘッドの運行、つまりはこの両日の午後の13系統はほとんどが古典車での運行となるわけです。さらにふるっているのは乗務する運転士や車掌が全員往年の制服を着用していること。もちろん車掌が売る乗車券も当時のものそのまま。それはまさに走る博物館です。

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▲素晴らしいコンディションに保たれている1897(明治30)年製の旧番「1」。1960年代後半から長年かけてレストアされたのだという。'05.9.28
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▲Ce2/2 2の車内。床にこそ保護シートが貼ってあるものの、各所に徹底したレストアが施されている。'05.9.28
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▲旧番号「1」(左)とCe2/2 176(右)の運転台。手巻のハンドブレーキ以外保安機器さえないこの車輌たちが、月に2回の運転日には「営業運転」に就く。'05.9.28
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▲Ce2/2 2のサイドビュー。まさにミュージアム・コンディション。'05.9.28

それにしてもこのささやかなミュージアムはなんと生き生きとしていることでしょうか。工具を駆使してメンバー自らが車輌の保守整備を行い、歴史的資料を収集保存、展示し、公開を通して啓蒙を図ってゆく…決して規模こそ大きくはないものの、逆にそれが等身大の血の通ったミュージアムを形作っているとも言えるでしょう。ただ彼らの夢はこの小さな博物館では終わらず、将来の大規模な博物館建設に向けて地道なドーネーション集めが続いています(トラムミュージアム・チューリッヒHP)。

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▲車庫に整列した一世代前の主力1300系と1500系たち(1987年当時)。急曲線でのオーバーハングを考慮した楔形の前面デザインは最新鋭車にも引き継がれている。P:トラムミュージアム絵葉書
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▲トラムミュージアム・チューリッヒの案内リーフレット。
クリックするとポップアップします。

行きがけの駄賃…的な不遜な動機で訪ねたこのトラムミュージアム。Wartauの電停を降りて明かりの消えている小さな車庫を目にした時は、期待はずれに落胆したものですが、その実態を知るにつけ、このささやかなミュージアムが持つ奥行き(それはきっと趣味の奥行きなのでしょう)に、言いしれぬ感動を覚えずにはいられませんでした。スタッフの皆さんに見送られて13系統に乗り込んだ後も、中央駅を目指すガラガラの車内で、この邂逅を幾度となく反芻していたのでした。

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チューリッヒ中央駅駅前の市電案内所でトラムミュージアムへの行き方を尋ねたのですが、窓口のおばさんは早口のドイツ語でなにやら忠告をしようとしているようです。どうも「今日はやってないよ」というようなことを言っているらしいのですが、とりあえず何でもいいからとチケットを購入、一緒にもらった路線図を片手に13系統に乗り込みました。
▲Wartau付近をゆく13系統。ここまで来ると周囲はすっかり住宅街となる。'05.9.28

トラムミュージアムがあるWartau(ワルタゥ)はバーンホフから14停留所目。はじめはいかにもヨーロッパらしい賑わいの黄昏の目抜き通りを走っていた13系統も、電停を重ねるうちに次第にひと気のない住宅街へと入ってゆきます。乗客も次々と降りていってしまい、結局Wartauに着く頃には車内は3人ほどになってしまっていました。それもそのはず、路線網最北西部に位置する13系統の終点Frankentalは次の次なのです。

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さて、Wartauの電停に降りるとミュージアムはまさに目の前でした。時刻は17時をちょっとまわったところ。19時からオープンとはいうものの、いくらなんでも誰かいるだろう…あわよくば露出のあるうちに写真を撮らせてもらえればと虫のいい考えを抱いていたのですが、驚いたことにミュージアムは電気も消えたままで、辺りを見回しても人っ子一人いません。こうなればこの住宅街の路上で関係者がやってくるのをひたすら待つしかありません。
▲トラムミュージアムの内部はまさに趣味の理想郷。実物の2軸単車がガラガラと出入りする庫内には、テーブルを利用したささやかなミュージアムショップ'もある。05.9.28

ctram5.jpg18時近くになってようやく1台のクルマがやってきました。降りてきた青年はなにやら鼻歌交じりにゲートのチェーンの鍵を外し、3線の矩形庫の一番左側の扉をあけると庫内の電気を点け、続いてぎっしりと押し込められていた電車のトロリーポールを上げるや、流れるような身のこなしで次々と庫外へと出してゆきます。「す、すいません、写真撮らせてください」と声を掛けると、大仰な仕草でどうぞどうぞと招き入れてくれました。

▲無蓋車の上に積まれた物体はよくよく見るとレーマンの模型線路。う?ん、羨ましい。'05.9.28

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3線の矩形庫は奥行き20メートルほどでしょうか、決して広くはないものの、中はまるで検修庫と博物館と趣味部屋が一緒になったようなワンダーランド! マシン油の染みた検修スペースの壁にはヒストリーを語る写真の数々が掲げられ、奥の一角にはささやかなミュージアムショップが…。よくよく見ると、留置してある無蓋車に積まれているのはLGBのレールではないですか。どうやら奥の小部屋が集会室らしく、ここで定例の会合が行われるのでしょう。いやぁ、趣味人にとってはこれ以上ないほどの理想的な空間に、しばし見とれてしまいました。
▲模型の工房なのか実物の検修設備なのか、そのボーダーがなくなった夢の空間がここにある。'05.9.28

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スイス最大の都市チューリッヒは市電の町です。13系統109キロにも及ぶ路線網は、縦横無尽に市街をネットしていますが、中央駅からのメインストリート・バーンホフ通りは自動車進入禁止となっており、まさに市電天国。買い物客で賑わう並木通りを、青と白のデュオトーンの市電が信じられないほど頻繁に行き交っています。バスと共通の簡便なゾーン運賃制の導入、電車優先の道路交通施策、そしてうらやましいほどのフリークェンシーの高さが、路面電車をこれだけ生き生きとさせているのでしょう。
▲レンガ造りの旧車庫を利用したミュージアムは、狭いスペースが巧みに活用されてなかなかの雰囲気。宵闇の中、保存車がゆっくりと展示線へと出てゆく。'05.9.28

ctram2.jpgそのチューリッヒに一風変わった路面電車博物館があります。現在はVBZ(Verkehrsbetriebe der Stadt Zurich)が運営する路面電車網は、1882(明治15)年創業と日本最古の京都市電よりさらに十年以上古く、当然ながらそれなりの立派な博物館があるものだと思っていました。ところが実際はVBZ自らが運営する博物館はなく、唯一あるのはボランティアのファンが運営するささやかなミュージアムなのです。
▲もとの車庫だそうだが、閑静な住宅街の中にぽつんと立つ建物は言われなければ博物館だとは気付かないだろう。画面右端がWartauの電停。'05.9.28

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▲トラムミュージアムのWartau駅の表示(左)。保存車の公開運転の際の乗車目標でもある。右は1910年頃に使われていた郵便車。この小さなトレーラーを路面電車が牽引して走っていたという。'05.9.28

ctram11.jpg中央駅から13系統の電車で30分ほど、トラムミュージアム・チューリッヒは観光とは縁のなさそうな住宅街の中にポツンと立っていました。なんでもかつての車庫を利用したミュージアムとのことですが、レンガ造りの庫は3線、しかも奥行きも20メートル程度と想像していた「博物館」とはえらい違いです。しかもこのミュージアム、“開館時間”が何とも奇妙です。4月から10月の間の第一土曜日と最終日曜日の午後と、毎週水曜日の夜19時から21時30分。わざわざ目がけて行かない限り、チューリッヒ市内でちょっと時間が空いたから…などと容易く見られるものではありません。
▲Wartau駅前の路地に設けられた急カーブのループ線。このループ線で方転を行う。'05.9.28

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このとても人に見せようという積極性(?)が感じられない開館時間にはわけがあります。このトラムミュージアム、ゆくゆくは大きな建物の立派なミュージアムにしようと、募金活動をはじめとして現在は準備活動中で、いわばプレ・オープンといった状態にあるのです。しかも関わっているのは全員がボランティア。雪のない季節の月2回程度の開館が精一杯なのかも知れません。そう、毎週水曜日の夜というのはお客さん向けのオープンではなく、メンバーの定例会合のための開館なのです。運良く水曜の夜にチューリッヒ市内にいた私は、13系統の路面電車に乗って、このめったに見られない奇妙な路面電車ミュージアムへと向かうことにしました。
▲開館時間には少々早めながら次々と屋外へと出てくる保存車たち。左端に見えるのは現在の営業列車。'05.9.28

羽鶴の1080のこと。

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1976(昭和51)年3月2日に追分機関区の9600が火を落とし、国鉄線上からは完全に蒸気機関車の姿が消えましたが、その後もいくつかの専用線には“現役”蒸機が残されていました。鐵原コークスやラサ工業、貝島炭礦などです。しかも、予備機ながら関東地方にも現役蒸機が1輌おり、その動向が注目を集めていました。それが「羽鶴の1080」です。
▲トキを連ねて逆機で常磐駅構内に入ってゆく1080。'79.6.10

日鉄鉱業の羽鶴専用線は東武鉄道葛生(上白石)から分岐する6.3kmの専用鉄道で、普段は三菱製のDL(DD401)が羽鶴鉱業所からのドロマイト製品の輸送を担っていました。ただ、このDLの全検時などの予備として、何と1900(明治33)年生まれの超古典機・形式1070形1080号が残されていたのです。

haneduru1nn.jpgもちろん1969(昭和44)年にはDLも増備(DD451)され、1970年代に入ってからは1080の予備機としての意味もほとんどなくなっていたのですが、長年に渡って1080を守り抜いてきた日鉄関係者の皆さんの思いもあって、ボイラ検査を継続して“現役”を守り抜いていました。そんな1080ですから、たまに火が入るとなると、どこから聞きつけたのか、それは多くのファンが葛生へと向かうこととなります。もちろん、かく言う私もそのひとりでした。
▲専用鉄道廃止を目前にして、鉄道友の会有志の呼び掛けで1080を磨く会が開催された。舐めるように磨き上げられたその姿はとても車齢90年を超えているとは思えないほど矍鑠としていた。'91.11.16

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元気に走る1080の姿を最後に目にしたのは、1979(昭和54)年の蒸し暑い梅雨の日のこと。途中の常磐駅付近の茫洋とした風景の中を行く姿が強く印象に残っています。
▲結構勇壮なブラスト音を響かせて羽鶴へと登ってゆく1080。'79.6.10

さて、この1080ですが、1991(平成3)年11月26日に専用鉄道そのものが廃止されてしまい、羽鶴の庫の中に取り残されてしまうこととなりました。実はそれまでにも東北地方のある自治体が観光用に走らせたい等々、いくつかのオファーがあったようですが、地元の葛生町(現在は佐野市に合併)の思惑などもあって、結局実現しませんでした。羽鶴への道路は極めて狭隘で、専用鉄道の廃止にともなって羽鶴から機関車を降ろすことさえ困難になってしまうことから、せめて線路を撤去する前に、上白石まで降ろせないものだろうか…と日本鉄道保存協会でも話題にのぼりましたが、結局それもかないませんでした。一時は葛生町の文化財に指定しようという動きもあったようですが、こちらもたち消えになってしまいました。せっかく日鉄の皆さんの努力によって奇跡的状態を保ってきた1080だけに、何とか活路を見いだせなかったものかと、いまさらながら悔やまれてなりません。
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▲昭和27年版国鉄車輌形式図に見る1070形。6200形(ネルソン製)とそのダブス版6270形をタンク機関車化改造したのが1070形。合計49輌が誕生した。なお、日鉄羽鶴専用鉄道は1951(昭和26)年の開通時点では旧省3073号を使用しており、1080は僚機973(960形=ピーコック製5300形の2B1タンク改造機)とともに1957(昭和32)年に日鉄鉱業赤谷鉱業所より羽鶴に転籍してきたもの。
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昨年のクリスマスイブに届いたスモーキー・ボトム・ランバー・カンパニーのレジン製の3/8インチスケールGLキットは、しばしの“漬けおき期間”が終わり、再び作業にとりかかりはじめました。
▲下地塗装に錆止め色を吹いてから車体色のグリーンを重ねる。最終的に“ピーリング”(peeling)という手法で塗装が剥離した部分を表現しようという算段。

IMGP6536n.jpgここで言う“漬けおき期間”とは、ラッテンストーン(トリポリ石)という超微粒の粉末に、ダルコートを吹いたパーツを漬物よろしく漬け込むことをさします。ウェザリング、というよりもメーキャップの魔術師、レーン・スチュワートさんが考案した前代未聞の下地処理方法で、深めのタッパウェアに満たしたラッテンストーンのパウダーの中に部品を深く埋め込み、さながらぬか漬けのごとく一ヶ月ほど漬け込みます。2月12日付けの「レジンキットその後」で途中経過をご紹介したあと、実は本体はこの“漬けおき期間”に突入していたのです。
▲ラッテンストーンの中から “発掘”した状態の車体。これからエアガンで余分なラッテンストーンを吹き飛ばす。

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その間に漬けおく必要のないエンジンのディテールアップやらウェザリングやらを進めていた(3月19日付け「進化する“ウェザリング”」参照)のですが、先般、本体の方も晴れてちょっと長めの“漬けおき期間”が終了、いよいよ本組に入ることとなりました。とにかくレジンというマテリアルの質感を消すことが最重要課題でしたが、これはラッテンストーンの魔力もあって見事クリア、本格的なメーキャップ入りを前にして、どう見てもレジンには見えない質感となりました。
▲第一段階が無事終了、組みあがった状態。ただし、ここにきてラジエータのアッパーホースがクーリングファンに干渉してしまうことが判明。

IMGP7106n.jpgいくつかのアセンブリーに分けた車体は、多少の合いの悪さも残っているものの、漬け込む前に可能な限り調整を図っていただけあって、何とか素直に合体でき、別進行だったエンジンもマウントに収まっていよいよ雰囲気が出てきました。『model cars』長尾編集長のサジェスチョンで、タミヤの1/35 GMCトラックのプラモデルをいそいそと購入、キットに入っているシフトレバーやらライトやらを使いまわそうという企てです。
▲別進行していたエンジンをマウントに接着。いよいよ雰囲気が出てきた。

IMGP7098n.jpgある程度形になってくると、一番美味しいところに早く手を付けたくなるのがモデラーの常。私の場合はエキゾーストパイプです。すでにエンジンをフィニッシュした際に、エキゾーストマニホールドから立ち上がる部分までを自作していたのですが、改めて見るとどうも気に入りません。そこで再び新規に作り直すことにしました。肝はパイプの肉厚の薄さとマフラーのヤレ具合をどう表現するか…。エキゾーストパイプの肉厚は実際はt1.5㎜ほどで、3/8インチスケールに換算すれば僅かt0.05㎜弱。φ2、肉厚t0.3の真鍮パイプの内径を目いっぱい削り込み、それらしい開口部に思わずニンマリ。一方、マフラー部は真鍮ムク材を削って背圧で凹んだ様を表現してみました。その後、帯板から作ったブラケットを半田付けしたのですが、あの塩化亜鉛のチュワッという音に、やっぱり半田付けだなぁと、妙な感慨が湧くのでした。塗膜の厚さを嫌って軽く茶染め液でウェザリング…もうここまで来ると、エキパイだけで悦にいってしまう日々が続いています。
▲仕上がったエキゾーストパイプ。結局、キットパーツではなく自作のこのエキパイが一番気に入っていたりする。

今月の新刊から。

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今月の新刊が出来上がりました。本誌の特集はこの時期すっかり恒例となった「貨物列車」。二十数年前の分割民営化論議の中では終始お荷物扱いされ、ひどい時には安楽死論まで飛び出す始末だった鉄道貨物輸送は、モーダルシフトの追い風も受けて、いまやすっかり復権を遂げました。この3月のダイヤ改正ではコンテナ列車の輸送力規模は史上最大となったそうで、景気回復も手伝って、日本の鉄道貨物輸送は良い意味での転換点を迎えはじめているようです。
▲DD51の3色揃いが表紙の本誌(左)と別冊付録(右)。

そんな状況の中で、今年もJR貨物の全面的なご協力を得て貨物特集が実現しました。これまたすっかりお馴染みとなった別冊付録『FREIGHT TRAIN SPOTTER’S GUIDE』も4年目を迎え、JR貨物機関車全運用表をはじめ、高速貨物・専用貨物運転時刻表、最新配置表などをB5判一冊に収めた、より完成度の高い内容となっています。

私鉄関係では、いよいよ置き換えが迫った高松琴平電鉄の旧型車をグラフとガイドでフィーチャーするほか、先ごろ廃止届出がなされた鹿島鉄道の現状を寺田裕一さんに緊急レポートしていただいております。毎回ご好評をいただいている連載「SL甲組の肖像」は先月号に引き続いて小樽築港機関区の2回目。御しがたいC62をもって函本山線を制することが“築港”の矜持だったと語る乗務員の皆さんのお話が胸を打ちます。浅原信彦さんの「ガイドブック最盛期の国鉄車輌」は佳境・直流特急型の白眉181系。こちらも見逃せません。

IMGP7092n.jpgさて一方、RM LIBRARYの新刊ですが、今月は「山形交通高畠線・尾花沢線」をお届けします。4巻前にお送りした三山線に続く鈴木 洋さん、若林 宣さんのお二人による労作で、これで戦時統合で山形交通に集結した三山電気鉄道、高畠鉄道、尾花沢鉄道の全社がライブラリーに揃ったことになります。久保田久雄さん撮影の表紙写真にあるような、模型にしたくなるローカル電車風景の高畠線、そして途中駅すらないわずか2.6キロ非電化の尾花沢線、地方私鉄ファンにとってはこたえられない2線の開業から廃線までを、本書でたっぷりとお楽しみください。
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▲山形交通尾花沢線のDB151は西武所沢車輌工場の構内入換機として同工場終焉まで働いていた。工場閉鎖後は関東地方のさる愛好家の元に引き取られ、今は幸せな余生を送っているはず。'91.12.18 所沢車輌工場

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14日の日曜日から始まった風間克美さんの写真展「懐かしき軽便鉄道 ?1960年代の情景?」は拝見するのを楽しみにしていたのですが、交通博物館の閉館セレモニーやら何やらで、会期半ばの今日になってようやくうかがうことができました。
▲木枠のフレームに入れられた銀塩モノクロプリントが「軽便」によくマッチしている。'06.5.17

IMGP7089n.jpgこの写真展、表題に掲げられているように、1960年代の全国の軽便鉄道の情景を“銀塩”のモノクロプリントで紹介するもので、写真展といえどもデジタルプリントが中心の昨今、会場は何かほっとする温もりに満ちています。風間さんは1962(昭和37)年頃から全国の地方鉄道を丹念に回られていますが、とりわけ当時の軽便鉄道に強いシンパシーを感じて撮り込んでおられました。タッチの差で間に合わなかった九十九里鉄道(1961年廃止)、草軽電鉄(1962年廃止)、小坂鉄道(1962年改軌)を除けば、1962年時点で残っていた「軽便」で足を向けられなかったのは日鉱佐賀関だけといいますから、たいへんな熱のいれようです。
▲場所は表参道・神宮前。ちょっと奥まった隠れ家的ギャラリーだが、ぜひ訪ねてみたいもの。'06.5.17

IMGP7082n.jpg瀟洒なカフェを思わせるギャラリーに展示されているのは、頸城、尾小屋(各5枚)、沼尻、井笠(各4枚)をはじめ12社30枚。これまで発表はおろかプリントしたこともなかったという作品ばかりだけに、どれも新鮮な驚きに満ちています。珍しさという点では特に目を引いたのが日本硫黄沼尻鉄道のガソ101の走行シーン。しかも風間さんが“どろ軌道”と表現される未舗装の併用区間を行く貴重な記録です。このガソ101、軽便ファン、とりわけ模型ファンの間では今もって高い人気を誇っていますが、晩年はほとんど動く機会がなく、走行シーンはそうそう見られるものではありませんでした。うかがえば、やはりDC121牽引の定期列車がスタックしてしまい、その救援に向かうところだとか…。オーバークールを防ぐためにフロントのラジエータ・コアに無造作に掛けられた乗務員の“上着”がいかにも軽便を感じさせます。
▲パネルでの壁面展示のほか、キャビネサイズのアルバムなども用意されていてアットホームな雰囲気が嬉しい。'06.5.17

IMGP7086n.jpg展示作品の中には何点かカラーもありますが、モノクロを含めた全展示作品のなかで一番人気なのが頸城鉄道のカラーだそうです。小さなホームの上に広げられた天日干しの筵、その周りで遊ぶ子供たち、畑にはヤギの姿があり、その彼方をホジがやってくる…。ご本人はメインの被写体が遠すぎるので、ホジがホームまでやってきている続きコマとどちらを展示しようかと悩まれたそうですが、この選択が大正解だったようです。全般に風間さんの作品は乗客をはじめ、周囲の情景を広く切り取っておられ、それが大きな魅力となっています。翻ってわが身を省みると、今もってやれ自動販売機が入ってしまうの、コンビニがうるさいのと、車輌中心にどんどんフレーミングを狭めていってしまう癖が抜けません。鉄道写真のもっとも重要な要素である“時代”を切り取る大切さを再認識させてくれる写真展でもあります。
▲頸城鉄道のコーナー。車内や駅周辺の情景などが素晴らしい。'06.5.17

写真展「懐かしき軽便鉄道 ?1960年代の情景?」は今週土曜日(20日)まで。お見逃しなく。

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▲案内はがきから1964(昭和39)年8月撮影の花巻電鉄西公園付近。東海道新幹線開業の二ヵ月ほど前の情景である。

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続・続“流改”のC55。

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5月9日付け「続“流改”のC55」に関して、ご覧になった方からいくつかの貴重な情報を頂戴しましたのでご紹介してみたいと思います。
▲吉松区で出区を待つ“流改”のC55 33。キャブ裾の“ヒレ”が見てとれる。'69.1.9 P:笹本健次

C55ryuukaia 013n.jpgまず最初は“ヒレ”の存在が未確認だった23号機について。西尾恵介さんの調査で合計21輌の元流線形機のキャブ裾の“ヒレ”の有無・形状が明らかになりましたが、唯一未確認だったのが1965(昭和40)年12月17日付けで豊岡機関区で廃車となった23号機でした。同機は1951(昭和26)年2月17日鷹取工場復元改造。福知山→豊岡→和田山→豊岡と、戦後は福知山局管内で生涯を終えたカマです。同機の写真をお撮りになっておられたのは高橋正雄さん。やはり26号機や30号機と同様の“ヒレ”付きであることが確認できました。時期的な誤差は別として、これで一応全機判明したことになりますので、ここでもう一度整理してみましょう。
・“ヒレ”付き:20.21.22.23.26.28.29.30.33.34号機(合計10輌)
・一般型(ヒレなし):25.27.31.32号機(合計4輌)
・小ヒレ付き(ドア下はストレート):24.35.36.37.38.39.40号機(合計7輌)

▲流線形時代の面影を残す深い屋根とキャブ裾の“ヒレ”は、僚機が群れる機関区の中でもひときわ異彩を放っていた。写真は34号機。'69.3.31 吉松 P:笹本健次

さらにこの“ヒレ”の正体について、バッファーの当て面に関してもご教示をいただいた機械学会の山本茂三さんからお手紙を頂戴しました。目から鱗の内容ですので、以下にご紹介してみましょう。

C55ryuukaia 012n.jpgC55流線形復元改造車のキャブ裾の三角形の“バリ”のようなものは補強のリブと思われます。流復車(?)はC58やC59のようなドア付きキャブで、シートの載っている部分とドア部分の床高さが異なっており、段になっています。流線形当時のこのキャブ側面部分は外板(覆いのカバーではありません)が強度を負担する一種のモノコック構造でした。復元改造時、床のレベルで外板をカットしたわけです。もちろん床下の面外周にはアングル材の枠が追加されましたが。ドア前、段差部の柱となる部分が弱くなったため、補強の三角リブ(強度部材)としたものと思います。外板をリブとして残しておいた方が改造しやすかったのではないでしょうか。三角リブのなかった27号機の写真を見ますと、この柱の部分にはしっかりとした縁取り(おそらくアングル材の枠取り)が見えます。

5月6日付けの改造図面に示されている類似形状のものは、どうも少し奥に付けられた“床支え”と呼ばれる支え板のようにも見えます。この部分の改造指示図を見なければ断言はできませんが、現時点での資料の範囲で見れば27号機のタイプがこの図面に合っているといえます。ちなみに、類似の床支え部材はC58やC59にもあり、後年北海道で改造されたドア付きキャブはまさにこの形式で作られています。
▲33号機のキャブ裾部が良くわかる。本機は34号機とともに1971(昭和46)年10月に廃車されている。'69.3.31 吉松 P:笹本健次

なんと、流線形のキャブは一種のモノコック構造となっていたわけです。こうなると、是非ともこの目で構造を確かめてみたいところですが、残念ながら現在保存されているC55はわずか4輌、しかもその中に“流改”は存在しておらず、もはや現物を確認することはかなわぬ夢です。いずれにせよ、またしても山本さんのご教示に感謝です。

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昨日の閉館フィーバーから丸一日、今日は午後から関係者を招いての「交通博物館・感謝とお別れの集い」が開かれました。模型鉄道パノラマの随時運転、映画ホールでの秀作映画の随時上映、非公開だった重要文化財・鉄道古文書や明治鉄道錦絵コレクションの特別展示、さらには万世橋駅遺構への案内など、至れり尽くせりのプログラムですが、いかんせん昨日の14000人の熱気の余韻が残る身には、200人ほどの招待客が“点在”する館内は寂しすぎ、本当の終焉を感じずにはいられませんでした。
▲機関車ホール正面ではJR東日本交響楽団による奏楽が披露され、館内はこれまでにない幽玄な雰囲気に包まれた。'06.5.15

IMGP6972n.jpg18時30分からの小宴では、機関車ホールのC57や9850の周囲にビュッフェが設けられ、さらにJR東日本交響楽団の生演奏が館内を包みました。当然これまで飲食禁止だった機関車ホールですが、最後の最後にこのようなパーティーが実現した背景には、菅 建彦館長の果たせぬ思いがあったと言います。海外、ことに欧州の鉄道博物館事情に通じておられる菅館長によれば、これはまさにヨーク方式、つまり英国の国立ヨーク鉄道博物館での国際会議の際のパーティースタイルなのだそうです。歴史あるまさに博物館車輌を囲んで、参加者が一献傾けながら博物館を、そして鉄道を語る…いつかは神田須田町の地で鉄道保存の国際会議をと描いていた菅さんの夢の片鱗が、このパーティーでもあったのです。
▲あの閉館フィーバーから一昼夜。長蛇の列だった券売機には惜別の看板が掲げられていた。'06.5.15

IMGP7038n.jpg20時過ぎ、ついにこのセレモニーも最後の時を迎えました。当初は菅館長の閉館の辞でフィナーレというプログラムになっていたようですが、僭越ながら私の具申で、閉館挨拶のあとに館長自らの手でC57 135の汽笛を吹鳴することとなりました。学芸員の方が用意されたコンプレッサーから8キロの圧縮空気が込められ用意万端。国鉄時代、長年運転に携わってこられた荒木副館長の提案で、閉館に相応しく“絶気合図”汽笛に決定。

20時30分、機関車ホールに「ボォー、ボッ・ボッ」とC57の5室の汽笛が響き渡り、神田須田町の地で70年にわたってファンとともに“力行”を続けてきた「交通博物館」は、ついにその幕を閉じたのでした。
▲1号機関車の前で挨拶に立つJR東日本の清野 智社長。「来年
10月、今度はさいたま市でお会いしましょう」。'06.5.15

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▲そして本当のフィナーレ。1940(昭和15)年の同い年生まれというC57 135の前で閉館の辞を告げる菅 建彦館長。この後、C57の汽笛が高らかに吹鳴された。'06.5.15

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17:24▲長蛇の列だった最後の入館者が玄関をくぐって館内へと吸い込まれてゆく。時計の針はとっくに閉館時刻を過ぎている。'06.5.14

5月14日。ついにその日がやってきました。交通博物館最後の日。朝日新聞朝刊の「天声人語」で紹介されたことも手伝ってか、朝の開館前に並んだ人波は徹夜組も含めて千人以上に達していたそうです。館内もどこもかしこもとにかく人、人、人…。普段はひと気のない4階屋上にまで入館者が溢れています。

kohaku142.jpg閉館時間が近づくにつれ、正面玄関を取り巻く人の波もさらに大きくなり、整理の警備員の人たちも大わらわです。入館は16時30分までとなっているものの、16時過ぎの時点で券売機の列はまだまだ延々と続いています。学芸員の方のお話では列の後尾に並んでも、券売機に辿りつくには40分以上かかるとのことで、急遽16時30分までに列に並んだ人には入館券を発売する特例処置が取られることに…。結局最後の入館者が玄関を入ったのは17時20分をまわり、閉館は18時に延長されることとなりました。
15:08▲1階の機関車ホールはもとより、2階、3階の回廊もびっしりと人で埋まった。'06.5.14

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14:44▲3階回廊から機関車ホールを見下ろす。混雑はこれからいよいよ激しさを増してゆく。(左)'06.5.14
15:24▲屋外展示場の7100形の周囲も見学者が溢れる。ちなみに柵の外側は入館券を買おうという人たちの長蛇の列。(右)'06.5.14
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15:03▲ごったがえす機関車ホール。シミュレータの順番待ちの列も気の遠くなるほどにのびている。(左)'06.5.14
14:56▲博物館模型の特別展示コーナーも満員状態。それでも食い入るように模型を見つめる年配者の姿がそこここに…。(右)'06.5.14
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16:36▲本来入館は16時30分までだが、入館券売機の列があまりにのびたため、16時30分までに並んだ人は順次館内に入れることに。(左)'06.5.14
16:38▲入館券購入待ちの列の最後尾が入口にさしかかる。ここぞとばかりに一般マスコミがインタビューを開始。本日の入館者数1万3800人。(右)'06.5.14
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16:44▲ついに最後の入館者が券を購入、券売機のシャッターは再び開くことなく閉じられた。(左)'06.5.14
16:55▲最後の入館券を手にした人たちもあまりの混雑に一時入館足止め。閉館を18時にのばすアナウンスが流れる。手前は子どもづれ入館者のバギーの列。(右)'06.5.14

正面玄関前の人ごみの中で腕組みをしながらエントランスを見つめていた菅 建彦館長は、私に神田須田町の地での70年にわたる歴史に無事幕を降ろすことができた安堵の思いを語っておられましたが、胸中万感迫るものがあったに違いありません。交通博物館を取り巻く人波は、入館者すべてが退館した後もしばらく消えることなく万世橋へと続いていました。

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19:31▲すべての入館者が退館した後も、立ち去り難いのか、正面玄関前には人垣が…。(左)'06.5.14
19:33▲神田川擁壁に照らし出される最後のライトアップ。多くの人が無言でレンズを向けていた。(右)'06.5.14

鉱石山の季節。

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このところ関東地方は梅雨のはしりを思わせる鬱陶しい空模様が続いていますが、天気さえよければハイキングやトレッキングには絶好の季節です。残念ながら生来の運動嫌いとあって、山歩きの趣味はまったくないのですが、それでも山深くに残された森林鉄道の跡などを訪ねるには、好むと好まざるとに関わらず山歩きをせねばなりません。
▲ハイキングコースを登ること一時間あまり、新緑の中に軌道が見えてきた。'02.5.5

群馬県川場村の山奥の、その名も「鉱石山」と呼ばれる山に1960年代前半まで使われていた鉱山軌道の跡が残っていると知ったのは、『トワイライトゾ?ン・マニュアル』に毎年森林鉄道跡探訪の記事を寄稿していただいている竹内 昭さんの情報からでした。詳しくは『トワイライトゾ?ン・マニュアル 11』所収の竹内さんのレポートを見ていただくことにして、驚いたのはとても鉱山があったとは思えない山の中に、さながら森林鉄道のように今もって軌道が残っていることでした。

kosekiyama3n.jpg関越自動車道沼田インターから川場村中心部を越えて、川場スキー場の手前“ふじやまの湯”付近から林道に入ります。実はこの一帯は世田谷区民健康村「ふじやまビレッジ」が管理する保養地で、お目当ての鉱石山へもハイキングコースが設定され、各所に道標等が整備されています。これは楽だ…と思ったのが大間違い。日々机に張り付いている身にとっては試練の登りが延々と続くのでした。
▲残された軌道は200mほどだろうか、右へ左へと杣道のようにカーブを繰り返す。'02.5.5

kosekiyamafig.jpg国土地理院の地形図には「鉱石山」の表記はありませんが、現地の道標にはしっかりと鉱石山の文字があり、ハイキングコース名も鉱石山ハイキングコース。山の名前そのものが鉱石を名乗っているだけに、さぞやレアメタルでも産出したのかと思いきや、なんと主に採掘していたのはザクロ石で、主用途はサンドペーパーの材料だったそうです。
鉱石山位置図(『トワイライトゾ?ン・マニュアル 11』より)。
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kosekiyama2n.jpgようやくたどり着いた軌道は、まるで新緑の中に埋もれるようにのびていました。有名な山梨県・西沢渓谷のように、レールがハイキングコースの土留めの役割をしているために撤去を免れている例はいくつかありますが、この鉱石山もハイキングコースになったために、逆に取り払われずに今日まで残っているのかも知れません。いずれにせよ、廃止から40年以上もこの状態で残されてきたことは驚きです。
▲軌道終点は突然途切れるように終わる。'02.5.5

昨年7月10日のこのブログでご紹介した八ケ岳の森林鉄道跡をはじめ、秩父・入川渓谷など、東京近郊には比較的手軽に行ける森林軌道跡が少なくありません。今の季節、天気さえよければ、これらの軌道跡を訪ねてみるのも一興です。

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釧路新聞社の星 匠さんから「念願のDVDできました…」とお手紙を添えて一枚のディスクが届きました。「走れ! 釧路の運炭列車」と題したこのDVD、国内最後の運炭鉄道として知られる太平洋石炭販売輸送(旧釧路臨港鉄道)を、地元ならではの視点から丹念に撮り込んだたいへんな労作です。
▲完成した「走れ! 釧路の運炭列車」のパッケージとレーベル。

星さんが会長を務める「釧路臨港鉄道の会」は2003年7月に地元釧路在住のファンを中心に発足、この太平洋石炭販売輸送のサポーター役をはじめ、JR東海の須田元会長を招いた産業観光を考える講演会、さらにはSL冬の湿原号の乗客向けアイスキャンドル点灯など、地域に密着した幅広い活動を行っておられます。今回のDVDはその活動の一環として「産業としての石炭が釧路市でまだ元気であることを運炭列車という切り口でアピールしたいと考えて」制作されたものとのことです。

harutori1005n.jpgそういった趣旨だけに、映像プロットは単なる列車走行シーンに留まらず、海底炭礦の先端切羽→春採の選炭機→鉄道輸送→知人の貯炭場→船積み…と、釧路における石炭の流れを追って組み立てられており、通常は目にすることのできない貴重なシーンの連続となっています。
▲釧路臨港といえば電気式DLのDE601を連想するが、それ以外のDLも結構な個性派揃いだった。写真は日車1962(昭和37)年製のD201(1986年廃車)。'66年 春採 P:笹本健次

さらに、本誌増刊『国鉄時代』のDVDでもお馴染みの宮内明朗さんによる、蒸機時代の釧路臨港鉄道の極めて珍しいカラー動画も収められています。登場するのは日車製1C2タンク機5号機をはじめ、旅客営業を行っていた当時の“びわこ”スタイルの日車製流線型気動車キハ1001の発車シーンなどもあり、地方鉄道ファンにとっては必見です。

全体の構成もさることながら、撮影そのものがまさに“素人離れ”しています。撮影・編集はながらく根室管内で教鞭をとり、ビデオと本『釧網本線』を上梓(1999年)されたこともある正古(しょうぶる)信夫さん。「釧路と石炭を取り巻く沿革」、「車輌紹介」、「運炭列車(往路)」、「輸送船への船積み」、「運炭列車(復路)」とチャプター分けされた本編44分間は、見どころの添乗映像を中心に縦横無尽の展開です。ことに知人貯炭場の取り卸しを桟橋下から狙ったカットや、輸送船の船倉への積み込みシーンなどは実に巧みで、春採湖や千代ノ浦海岸といった風光明媚なロケーション紹介とあいまって、見るものを飽きさせません。

星さんら釧路臨港鉄道の会の皆さんは、この残された太平洋石炭販売輸送の最後の運炭列車を見守り、サポートしてゆくとともに、なんとか一般のお客さんが乗車できるような仕組みを考え、産業観光の一助になればと夢を描いておられます。
私が初めて太平洋炭礦を訪れてから34年。それから幾度となく釧路を訪ねたものの、気付いてみるとこのところ2年近くご無沙汰してしまっています。DVDを見終わって、今年はぜひ幣舞橋を渡って春採の地を再訪してみたいものと強く思わずにはいられませんでした。

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▲素晴らしいDVDを送って下さった釧路臨港鉄道の会の皆さんに、返礼と言っては差し出がましいが、手もとにあった昭和40年代初頭の臨港線線路一覧略図をお贈りしよう。1966(昭和41)年1月25日の臨港?入舟町間廃止後のもの。
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※DVD「走れ!釧路の運炭列車」は本編44分に釧路臨港鉄道80周年記念運転の映像特典16分がついて税込み3360円。発売はビコム(株)。釧路市内では春採駅近くのコーチャンフォー釧路店で販売しているほか、石炭グッズなどを販売している「くしろ石炭.COM」での申し込みも可。

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今朝方、いよいよ閉館まであと3日となった交通博物館をのぞいてきました。いやはや、小雨模様の中、入口の入館券券売機には長蛇の列。館内も半年前までの森閑としていた雰囲気はどこへやら、とにかく各階が人、人、人…人で溢れかえっています。
▲2階ピロティーから見下ろした機関車ホール。ゴールデンウィークはこの位置から床面が見えなくなるほどの混雑だったとのこと。'06.5.11

IMGP6807n.jpg学芸員の方のお話では、これでも今日はまだすいているほうだそうで、ゴールデンウィーク中は連日入館者が1万人を超える大混雑だったと言います。ひと口に1万人と言いますが、これはあの決して大きくはない博物館にとってはたいへんな数です。入館時間は9時30分から16時30分までの7時間ですから、1万人とすると、単純計算で1時間あたり1428人、1分あたり約24人があの狭い正面玄関をくぐる計算となります。9時半の開館前には券売機に並ぶ列が万世橋を越えて秋葉原方の石丸電気付近にまで達する日もあるそうで、閉館フィーバーはいよいよピークとなりつつあります。
▲名物のパノラマ運転場もご覧のような大盛況。さながら騎馬戦のように子どもたちの肩車が並ぶ。'06.5.11

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▲さようなら交通博物館のヘッドマークを掲げたTc167(左)と1階機関車ホールの賑わい(右)。'06.5.11
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▲正面入口を入るとすでにこの有様で売店も黒山の人だかり(左)。玄関の券売機にも長蛇の列ができている(右)。'06.5.11

平日のせいもあってか、館内を見回してみると、思いのほか高齢の方の姿が目につきます。お孫さん連れといった風情の方も多く、その姿が、今やアナログを超えてレトロの域に達してしまった感のある展示物と妙にマッチしています。そんな様を見ていると、ふと、いまさらながら「博物館」本来の姿を垣間見たような気にさせられました。シミュレータに象徴されるデジタルな“体験展示”は、確かにその場での高揚感には勝りますが、将来それが「記憶」となり、果ては何かの糧となってゆくかというと、いかにも不安です。親が子に語り継ぐ近・現代史としての博物館、将来に記憶として残る博物館を、生まれ変わる「鉄道博物館」にはぜひとも期待したいと思います。

最終日は5月14日(日曜日)。「交通博物館」の扉が閉まるのは、あと3日後です。

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このところ姉妹ブログ「RMMスタッフ徒然ブログ」の視聴率(PV)が急上昇しています。『RMモデルズ』の編集スタッフが、ちょっと気になる模型情報をはじめとして、プライベートで訪ねた実車の話題などを縦横無尽に展開している新しいブログです。サイトオープンから二ヶ月あまりを経て当初のたどたどしさも感じられなくなり、いよいよ脂がのってきた感じです。
▲初狩駅ホームから上り方を見る。画面中央前方に下ってゆくのが本線、その右を登ってゆくのが甲州砕石の側線(正確にはJR側線で、先端部分300mのみが甲州砕石線)。'06.4.29 P:瀧口宜慎

その昨日分が瀧口宜慎君による「構内配線観察“初狩駅”」で、いまだにスイッチバックの配線が残る中央東線初狩駅を「模“景”を歩く」的視点で観察した記録です。ドローイング・ソフトを使った自作の構内配線図も楽しく、初狩駅にはひとかたならぬ思い入れがある私にとっても、実に興味深いものでした。

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▲甲州砕石線側から逆に初狩駅構内を見る(左)。右は初狩駅本屋で、1951(昭和26)年築造の木造駅舎。'06.4.29 P:瀧口宜慎

複線化完成以前の中央東線は軒並みスイッチバック駅が並ぶ山岳路線でした。初狩、笹子、勝沼、韮崎、新府、穴山、長坂、そして東塩尻と、列車は幾たびもスイッチバックを繰り返し、それが表定速度を極端に落とす要因ともなっていたのです。実際、ヨン・サン・トウ以前の時刻表をひもといてみると、登山客で賑わった新宿23時45分発の長野行夜行は、小淵沢5時04分、辰野6時33分、塩尻7時20分、そして終点長野10時14分着と、実に10時間以上を要しています。姨捨をはじめとして篠ノ井線もスイッチバック街道ですから、この列車、新宿から長野にたどり着くまでにいったい何回のスイッチバックを繰り返したことになるのでしょうか。

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そんな中央東線もE257系が最高速度130km/hで駆け抜ける現在、唯一奇跡的に残されているスイッチバックが初狩です。ただ、ヨン・サン・トウ時の複線化に伴って旅客ホームは勾配のある本線上に移設され、今日では旅客列車がスイッチバックすることはありません。現在のスイッチバックは、隣接する甲州砕石のプラントからの砕石輸送列車(工臨)用にのみ機能しているのです。
▲一般道から甲州砕石構内を見下ろす。甲州砕石の専用線は背中側の斜面にあるが、当然立ち入り禁止。'06.4.29 P:瀧口宜慎

hatukari1011n.jpg『トワイライトゾ?ン・マニュアル10』で渡辺一策さんが、この初狩からの砕石輸送の最盛期を紹介してくださっていますが、この砕石は中央本線→横浜線→相模線経由で搬出されて東海道新幹線建設にもたいへん重要な役割を担ったそうです。現在では水郡線の西金とともにJR東日本のバラスト供給拠点として稼動していますが、この初狩発の砕石列車、貨物列車ではなく工臨扱いのため、なかなかその姿は捕らえにくいようです。
▲甲州砕石専用線の最深部。すでに主力機は奥多摩工業から来た新潟製25t機(画面右)に代わってしまっていたが、奥には旧南部のDB251の姿が…。'83.2 P:名取紀之

さて、なにゆえ私がこの初狩にひとかたならぬ思い入れがあるかというと、この甲州砕石で使われていたディーゼル機関車をわざわざ事前許可まで取って見に行ったことがあるからです。この甲州砕石で入換用に使用されていたのは、黎明期の私鉄向けDLのうちの1輌である1952(昭和27)年日本車輌製の25tB型機。センタージャックロッドを持つこの無骨な機関車は、なんと1969(昭和44)年に廃止となった南部鉄道の生き残りで、地方鉄道から専用線に第二の職場を見つけた稀有な例でした。

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▲これが南部鉄道の生き残りDB251。戦前製の鹿島参宮(→上武)D1001との共通点も多い日車初期のDLとして貴重な存在であった。'83.2 P:名取紀之

「もう使ってないんですよ」とすまなそうに案内されて、残雪のスイッチバックを上がってゆくと、側線の一番奥にすっかりうらぶれたDB251の姿がありました。ほとんど車幅いっぱいに並んだラジエータコア、無骨なエンドビーム、そしてジャック軸…。念願かなってようやく目にすることのできたDB251でしたが、ペンタックス67の105㎜レンズではどうにも写しにくく、広角の35ミリ判を持ってくればよかったと悔やむことしきりでした。「もう一度来ます」というようなことを言って甲州砕石を去りましたが、当然ながら再訪する機会はありませんでした。そんなわけで、今も「あずさ」で初狩を通過するたびに、ついつい山肌があらわになったあの専用線の斜面を見上げてしまうのです。

続“流改”のC55。

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5月6日付け「“流改”のC55」に関して、先日大井川鐵道にご一緒させていただいた西尾恵介さんから、さらに詳しい情報を頂戴しましたので、ご紹介してみることにしたいと思います。
▲ランボード縁に白線が入っているためにキャブ裾の“ヒレ”の形状が一層よくわかる吉松区のC55 26。'70.1.9 吉松 P:笹本健次

西尾さんはC55 20?40の21輌中、23号機を除く20輌について、キャブ下の切り欠き(西尾さんは“ヒレ”と表現されています)を現車や写真で確認されたそうです。C55 30と同様の“ヒレ”を持つのは、20・21・26・28・29・30・33・34号機の合計9輌で、いずれも鷹取工場と小倉工場の改造。また鷹取工場改造の22号機は同タイプながらヒレが小ぶりなのが特徴とのこと。逆に一般型と同じキャブ裾を持つのは25・27・31・32の4輌で、25が浜松工場、27が小倉工場、31・32が鷹取工場改造と、3工場すべてで施工されています。

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残る24・35?40の7輌はドア下はストレートながら簡単なヒレ(それも一様ではない)が付いており、このことから浜松工場施工機には30号機と同様の大型のヒレは存在しなかったのではないか…と西尾さんは推理されています。唯一未確認の23号機(1965年に豊岡区で廃車)は鷹取工場施工機ですが、果たしてどのタイプだったのでしょうか。
▲一般型と同じキャブ裾を持つ小倉工場施工の27号機(左/'69.4.4 粟野)と同じ小倉施工ながらヒレ付きの26号機(右/'70.1.9 吉松)。 P:笹本健次

1950(昭和25)年改造時点ではヒレ付きだったものが、その後の全検などで普通型に再改造されてしまった可能性も否定はできません。だいいち、肝心のヒレ自体がいったい何の名残なのか、まだまだ興味は尽きません。

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▲昭和11年版形式図に見るC55流線形(上)と、昭和25年の“復元改造”後の形式図(下)。流線形時には煙突がかなりの角度をもって斜めになっている。改造後のスペックでは、カバーが除去されて空車重量が変わり、軸重が軽減されたことがわかる。
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博山水泥のこと。(下)

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▲博山線を跨ぎ、併用軌道から街区へと入ってくる空車列車。架線柱こそ近代的なものの、シンプルトロリーの架線が魅力的。'99.1.23

この博山水泥専用軌道、実は最初の訪問から2年後にまた訪ねています。1997年の最初の訪問時には「国営建設水泥」だった工場は、改革開放政策の一環でしょうか、二度目の訪問時には「博山水泥公司」と民間会社となっていました。しかし軌道そのものは何ひとつ変わっておらず、相変わらず薄汚れた凸電がガーガーと盛大な吊り掛け音とともに走り回っていました。

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▲博山線の全体路線図(左)。残念ながら西河礦のメーターゲージは道路化されて現在では姿を消している。右は鉱山側のサイロに鉱車を押し込むZL14形。パンタグラフは今風に言えばシングルアーム式。'97.3.21

hakuzansuidei2.jpgところで、博山水泥公司の前身である国営建設水泥博山工場が出来たのは1952年。専用軌道そのものが工場落成とともに敷設されたとすれば、現在稼動しているZL14形の製造年が1973年ですから、それまでいったいどんな機関車が走っていたのか気になるところです。果たしてはじめから電化されていたのか、はたまた空白の20年間は年代ものの蒸機でもいたのか、興味は尽きません。
▲博山線を跨ぐ大橋梁を行く盈車列車。手前の架線柱はどう見ても建築限界を越えて建植されているように見えるが…。'97.3.21

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軌道は路線のちょうど中ほどでアパートの密集する街区を掘割のような形で抜けてゆきますが、ここが何とも凄まじく、スモーキーマウンテンもかくやと思われるゴミ捨て場と化しています。どうやら沿線の住民にとって窓下の掘割状の道床は格好のダストシュートのようで、跨線橋から撮影していても、無造作にゴミを投げ込んでゆく姿を目にします。訪れた1月や3月でさえ、軌道を歩いているといたたまれない悪臭が鼻をつくのですから、これが夏場だったらと思うとぞっとします。
▲掘割状の専用軌道を行く空車列車。結構な勾配がついているらしく、小さな凸電は盛大なモーター音を残して通り過ぎてゆく。'97.3.21

hakuzan3.jpgところで、インダストリアル・レールウェイ・ソサエティーをはじめとした英国勢がかなりの情報網を張り巡らせているとはいえ、今もって中国国内の“蒸機以外”のインダストリアル・ナローゲージの情報はきわめて少ないのが実情です。それだけに、この博山水泥のような現役ナローは私たちが知らないだけで、まだまだ各地に健在と思われます。芭石や樺南といった残された蒸機ナローを訪ねるのもおおいに魅力的ですが、加速度的な経済成長下にある現代中国だけに、今のうちにこういったインダストリアル・ナローゲージを探訪しておくのもあながち無駄ではないはずです。
▲掘割の中はこのとおりゴミだめと化している。'99.1.23
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▲併用軌道好きにとってはこたえられない光景が広がる。北京オリンピックを前に、この博山水泥の専用軌道もフル稼働しているに違いない。'97.3.21

博山水泥のこと。(上)

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青島(チンタオ)から280キロあまり、中国・山東省のほぼ中央、緇(し=実際はさんずい)博を起点にした博山線(延長49km)は、ちょっと不思議な雰囲気の漂う支線でした。というのも、沿線各所に見られるロシア建築と、日本のプラクティスが垣間見られる博山線、それにひとたび町に繰り出せばドイツ風の黒ビールに本格的なソーセージと、それはまさにかつて教科書で学んだ“山東問題”の縮図を見るようだったからです。
▲砂塵を巻き上げて工場へと向かうB凸牽引の鉱石列車。'97.3.21

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▲博山は山東省のほぼ中央部に当たる。現在では青島から済南まで高速道路があり車でも比較的容易くアプローチできる。

この博山線を訪れるきっかけとなったのは、途中の大昆崙駅から炭礦までのびていた西河礦の専用軌道でした。本誌の“World Steam Report”でも紹介したことがありますが、当時、この専用軌道にはメーターゲージのコッペル製Eテンダー機が健在でした。C2やC4といった規格型の2'6"機ばかりになってしまった中国にあって、メーターゲージのしかもコッペルが生きているとあっては、はせ参じぬわけにはゆきません。

hakuzan2.jpg ただ、今回のテーマはこの西河礦のコッペルではなく、一駅先の博山駅に入ってくる「博山水泥」の専用軌道です。水泥とはよく言ったものでセメントのこと。博山地区は古くから陶器の産地として知られており、現在ではセメントをはじめ、周辺には耐火材料工場が集中し、その多くが博山駅へと出荷しています。日本で言えば葛生のような駅とでも言いましょうか、「何かありそう」という予感が的中したのがこの博山水泥の軌道でした。
▲博山線を跨ぐ専用軌道の大コンクリート橋の上から見下ろした博山駅構内。'97.3.21

hakuzaneki.jpg大冊『中国鉄道駅名詞典』によれば、博山駅の開業は1903年とたいへん古く、済南鉄路局青島分局に属する三等駅ながら、貨物取扱量はかなりの多さです。博山水泥の軌道は駅北東の原石鉱山のサイロから、駅に隣接するセメント工場のオアビンまでの2キロほどを結ぶ900ミリゲージの電化線。それだけなら他所にもありそうに思えますが、この2キロほどのロケーションが実にバラエティーに富んでおり、インダストリアルナローに興味を持つ、しかもモデラーの端くれとしては強いシンパシーを感ぜずにはいられませんでした。
▲開業当時の佇まいを残す博山駅駅舎。中国離れした造り。'97.3.21

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▲「ZL14?TH形」と呼ばれる14t凸電。架線電圧は550V、ゲージは珍しいメトリックの900mm。'97.3.21
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▲同形の予備機とその銘板。こちらは1973年9月「常州内燃機車廠」製造とある。'97.3.21
hakuzanc.jpg 所属する機関車は2輌。いずれもZL14形と呼ばれる各地で見かける規格型電気機関車で、さして珍しいものではありませんが、その運転頻度たるや結構なものです。原石鉱山のサイロで鉱車に積み込みが完了するとすぐに発車。博山線を目もくらむような高いコンクリート橋で越え、未舗装の併用軌道から今度はアパートや商店の立ち並ぶ街区へ。さらに踏切番のいる踏切を越えて再び併用軌道へと進み、工場のホッパービンに原石をダンプすると、休む間もなく今度は推進で戻る…そんな運転を24時間行っていると言いますから驚きです。
▲鉱車は万国共通原理のダンプカーながら、足回りはコロ軸にバネとなかなか凝っている。'97.3.21

“流改”のC55。

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手もとに「C55流線形復元改造組立」と題した一枚の図面があります。国鉄車輌局動力車設計課・昭和25年9月22日の日付のあるこの組立図は、流線形で竣工したC55の2次型20?40号機を、普通型と同様の形態に戻すための基本図です。
▲名寄で発車を待つ旭川機関区のC55 30。キャブ裾に特徴的な切り欠きが見える。'72.3

C53 43とともにわが国の数少ない流線形蒸気機関車として知られるC55の2次型ですが、“雲形定規”と形容されるその特異なシルエットの割には、残された写真はきわめて少なく、21輌にどんな個体差があったのかどうかを含めて、今もって謎の部分は少なくありません。というのも、この“流改”のC55に素朴な疑問を抱いたのは、旭川区のC55 30でした。何度も目にしているお馴染みのカマで、流線形改造機であることは先刻承知でしたが、ある時ふと奇妙なことに気付きました。キャブ裾の斜めの切り欠き(?)です。それまでずっと流線形のカバーリングを外すとこのような形が残る…とばかり思い込んでいたのですが、流線形時代の写真や組立図を見ても、どう考えてもカバーはこんな形を残して外れそうもありません。

ではこの三角形の“バリ”のようなものは何なのでしょう。C55の2次型は20号機が汽車、21?33号機が川崎、34?40号機が日立とメーカーが分れており、「汽車会社の1輌とその他の20輌とは完全に同じではなく…」(金田茂裕『形式別国鉄の蒸気機関車』)との記述もあることから、ひょっとしたら製造会社による違いかとも考えました。ところがこの切り欠きが確認されているのは、30号機をはじめとして20号機(汽車)、26号機、28号機(川崎)、さらには39号機(日立)等々と全メーカーに及んでいます。

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▲国鉄本社車輌局によるC55流線形復元改造組立図。斜めになっていた煙突などは普通型に改造しつつも、前照灯、汽笛、安全弁座などは流用する旨の指示がある。よく見るとキャブ裾には問題の切り欠きも描かれている。なお、余談ながら臼井茂信さんは著著『機関車の系譜図』のなかで“復元改造とは表現が適切ではない”と書かれているが、確かに“復元”ではなく普通型化改造とする方が的確かもしれない。
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それでは改造工場による相違なのかといえば、復元改造を施工したのは20?23と29?32が鷹取、24・25と36?40が浜松、26?28と33?35が小倉で、現認できたものを当てはめても全工場に及んでおり、工場による違いでもなさそうです。

今回掲げた改造組立図の別注でもいっさい触れられてはおらず、結局この切り欠きの正体は何で、どういう経緯で残ったのかは今もってわかりません。ちなみに、空力ばかりが語られがちなこのC55の流線形ですが、国鉄工作局動力車課編纂の『日本における蒸気機関車の発達』(1956年/未刊)によれば、専ら「煙突から吐き出す煙が列車にからみ着くのを防ぐ実際的な利益」が狙いだったとのことです。

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文字通りの五月晴れとなった今日は、久しぶりに鹿島鉄道へと足を向けてみました。ところが見慣れた石岡駅のホームまでやってきてびっくり。DD902+キハ432の珍妙な編成が停まって、えらい人だかりができているではありませんか。いや、うかつにも今日は5月5日、年に一度の「こいのぼり号」の運転日だったのです。しかもそんな人ごみのなかで森林鉄道研究の第一人者・西 裕之さんとばったり…彼もこの特別列車運転はまったく予期していなかったとあって、お互い苦笑いしつつも、今日一日行動をともにすることにしました。
▲沿線はまさに新緑まっさかり。朱色同士の2輌のミニ編成が実によく映える。'06.5.5  八木蒔?浜

koinobori2.jpg 昨年の5月5日「こどもの日」に運転して好評を博したというこの「こいのぼり号」は、玉造町の大宮神社祭礼に合わせて石岡?玉造町間に臨時列車として運行されるものだそうで、石岡10時06分発→玉造町10時48分着、折り返しは玉造町14時07分発→石岡14時48分というダイヤです。設定臨ではなく、いわゆる完全な“もりスジ”ですが、一般の普通列車として各駅に停車してゆきます。お祭りにゆく沿線の子ども連れなどで車内は結構な賑わいで、開け放たれたキハ432の窓が実に楽しそうです。
▲玉造町で機回しするDD902。樽見鉄道の客車列車も過去のものとなってしまった今となっては、旅客列車牽引はもとより、地方鉄道のDLそのものが貴重品。'06.5.5

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それにつけても四箇村の築堤や霞ヶ浦バックの“お立ち台”などは結構な混雑で、放列と言うにふさわしいほど三脚が林立しています。ところで、フロントデッキの左右に小さなこいのぼりを取り付けたDD901は、去年のこのイベント時にはまだ茶色の塗色だったはずで、朱色に塗られてからは初めての「こいのぼり号」牽引となります。鹿島参宮鉄道時代からの茶色に白線という塗色に慣れてきた目にはちょっと違和感を覚えた新塗装ですが、こうやってツートンカラーのキハ432とペアを組むと、ことのほかお似合いで、まばゆいばかりの新緑をバックに、まさに“被写体映え”する編成といえましょう。
▲沿線に掲示された「こいのぼり号」運転の案内(左/巴川駅)と、玉造町
でグリーン塗装のキハ431の鉾田行と顔を合わせたDD902。フロントデッキには小さなこいのぼりがはためく。'06.5.5

koinobori5.jpg 折り返しの玉造町も結構な賑わいでした。駅舎内ではボランティアの皆さんによる16番モデルの運転会が開かれ、駅頭では古切符やダイヤ、それに各種のオリジナルグッズを販売する鹿島鉄道ブースに人だかりができていました。「こいのぼり号」の到着に合わせるかのようにお神輿が露店で賑わう駅前通りに繰り出し、ホームはホームで機回し作業を撮影しようという人たちでごったがえしています。そんな折り、例によって手間の掛かるクラカメで撮影している私にレンズを向けている輩が…。見ればRM編集部のアルバイトOBが、それも3人も。期せずして懐かしい再会となりました。
▲賑わう玉造町駅頭の鹿島鉄道グッズ販売ブース。ちなみに現行ダイヤ500円也を購入。'06.5.5

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この玉造町もそうですが、機関区構内を撮影させていただいた石岡にしても、鹿島鉄道の皆さんの、私たちファンに対するフレンドリーな接し方には本当に頭が下がります。ご承知のように去る3月末に廃止届出を済ませ、来年4月1日をもって廃止される公算が高くなってしまった状況の中だけに、より一層心を打たれずにはいられません。車輌やロケーションの魅力ばかりでなく、鹿島鉄道はそんなソフト面も含めて、残り少なくなってしまった本当に気持ちの良い地方鉄道だと言えます。来年の「こどもの日」に、この鉄路が“線路跡”とならず、再び「こいのぼり号」に出会えることを願って、黄昏の石岡をあとにしたのでした。
▲霞ヶ浦をバックに石岡へと戻ってゆく「こいのぼり号」。薫風のなかをDD902のホイッスルが心地よく響き渡る。'06.5.5 桃浦?小川高校下

C11 190の「換気窓」。

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連休まっただ中の昨日は、ひさしぶりに大井川鐵道を訪ねました。前回訪問したのが一昨年の秋でしたから、一年以上もご無沙汰してしまったことになります。
▲1001レの先頭にたって新金谷で発車を待つC11 190。ちなみにこの190号機のみLP403形前照灯のレンズのカットが縦波である。'06.5.3 新金谷

ooigawa3.jpgさて、今回の訪問の趣旨はちょっと変わっています。RMライブラリーの『国鉄蒸機の装備とその表情』で極めて詳細に改造実態を解明された西尾恵介さんに誘われて、C11 190号機の炭庫に設けられた「換気窓」を見に行こうというのです。この「換気窓」、ある時期の九州地区のC11とC12を対象に、小倉工場と鹿児島工場で施工された改造工事ですが、現状では図面はもとより当時の指示書なども発見されておらず、その詳細はよく判っておりません。実は「換気窓」という名称も便宜的に付けたもので、正式な名称さえ定かではないのです。
▲これが今回の旅のテーマ「換気窓」。四角い漏斗状の囲いは多少なりとも風を集めようという涙ぐましい努力か…。'06.5.3 新金谷

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連休とあって増発の1003レ・1004レを含んで3往復の蒸機列車が設定されていますが、C11 190は最初の1001レに充当される予定です。9時過ぎには出区してしまうとのことでしたので、朝いちで新金谷車両区を訪問しました。鉄道保存協会でいつもご一緒させていただいている本社運輸担当の石川さんと鈴木区長のご案内でさっそく出区準備に忙しいC11 190のキャブへ…。
▲キャブ側から見た換気窓。簡易な蓋付きだが、この蓋、よく見ると洗栓の蓋を流用したものらしい。'06.5.3 新金谷

ooigawa6.jpg実態が判らなかっただけに、何か“仕掛け”があるのでは…との期待もあったのですが、鈴木区長の「なぁに、炭庫の中にただのパイプが通っているだけですよ」の言葉どおり、正体はただのパイプ。キャブ側には洗栓の蓋を流用したと思しき蓋が付けられていますが、それ以外は何のギミックもありません。あえて言えば、雨水の流入を防ぐためか、運転室側が高くなるようにごくわずかの傾斜がつけられているくらいでしょうか。早起きしてやってきたものの、これはちょっと拍子抜けでした。それにしてもこの「換気窓」、果たして効果があるものなのでしょうか。ご自身も一級ボイラー技士の石川さんのお話では、穴の前に立っていれば多少は空気の流れを感じる程度…だそうです。
▲「換気窓」とはいうものの、実態はただのパイプだった。それでもこうやって実際に現車を見てみないと立証はできない。'06.5.3 新金谷

モデルの世界ではきわめて微細なパーツまでもが製品化されている国鉄制式蒸機ですが、実はまだまだ判らないことだらけです。ことに支社や工場施工の改造工事に関してはその実態が解明されていない例が多く、西尾さんは『国鉄蒸機の装備とその表情』上梓後も、保存機の調査や図面・写真の検証など地道な研究を続けておられます。遠からずその後の成果をご発表いただけるものと思いますのでご期待ください。

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国鉄勝田駅と日立製作所水戸工場を結ぶこの路線、『民鉄要覧』によると1942(昭和17)年8月6日免許、同9月5日運輸開始と記載される歴とした“専用鉄道”です。国鉄が管轄する“専用線”ではなく専用鉄道規定に則った専用鉄道ですから、運転保安は所有者、つまりは日立製作所が独自に行い、貨物以外にも「特定人」(従業員等)の輸送を行うことが可能なわけです。
▲朝陽を浴びて専用ホームで発車を待つ7時25分発の従業員輸送列車。勝田駅跨線橋から見た情景で、画面右が国鉄構内。7時25分発は上野からの初電451Mと水戸始発の435M、上りは平始発の430Mに接続している。'79.2.16

粁程は『民鉄要覧』の免許は4.4kmながら、国鉄側の「専用線一覧」(昭和45年版=『トワイライトゾ?ン・マニュアル12』所収)によると、総延長キロ12.0kmとかなりの長さです。従業員輸送用の“旅客列車”は1キロほどで工場の門の中に吸い込まれていってしまい、工場側の乗降場は確認することができませんでしたが、外周道路から観察するに、工場構内には延々と線路が張りめぐらされており、「専用線一覧」記載の総延長12.0kmという数字が実感に近かったように思います。

さて、当初は関連会社・日立電興からやってきたナスミス・ウィルソン製1Bタンク機(旧省100)を使っていたこの専用鉄道ですが、戦後すぐに自社製の15t蓄電池機関車2輌を導入します。この水戸工場では主力産品である電気機関車のほかに戦時中は爆弾の製造も行っていたそうで、“防爆”の必要性からのバッテリー機関車導入かとも勘ぐりましたが、どうやらそうではなく、単純に戦後の逼迫した燃料事情にともなう蓄電池機関車ブーム(?)にのってお家芸である電気機関車を新製したに過ぎないようです。

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常磐線沿線では荒川沖の陸上自衛隊線(霞ヶ浦通運)にもバッテリー機関車が見られましたが、客車列車を牽引するとなると、宮崎交通鉄道線なきあとは西武山口線くらいしか例がなく、極めて珍しい例でした。ただ、その従業員輸送がいつ頃から始まったのかは実のところよくわかりません。白土貞夫さんの『日立電鉄の75年』(RM LIBRARY 64)によると、日立電鉄の単車ハフ5(ハフ1も?)が戦後、水戸工場専用鉄道の従業員輸送用に転じたとあり、これが嚆矢なのかもしれません。
▲1948(昭和23)年製とこの時点でも結構な老体だったバッテリー機関車にも番号はなく、2輌の客車を挟んでプッシュプルの固定編成となっていた。ただ、プッシュプルとは名ばかりで、機回しの手間を省くだけの編成である。なお機関車は晩年はいわゆる日立カラーに塗られていた。'79.2.16

中川浩一さんの『茨城の民営鉄道史』(1981年/筑波書林)によると、続いて常総筑波鉄道から単車2輌を購入、日立のハフ5に続いてハフ6・7とし、これらの客車で編成する通勤列車に「むつみ号」とトレイン・マークまで付けたと記述されています。しかしさすがに単車を連ねた「むつみ号」では時代にそぐわなくなり、1968(昭和43)年に廃車となった東急電鉄デハ3209・3210を購入して置き換えを実施しました。それにしても、少なくともこの時点までは木造単車を連ねた「むつみ号」が走っていたわけで、それはそれで驚きです。

hitachimito2137n.jpg東急から来たデハ3209・3210はしばらくそのままの姿で使われていたそうですが、車体が老朽化したのか、自社工場で車体を新製して載せ変えを行った“結果”が今回ご覧に入れている奇妙な客車です。前出の中川さんの『茨城の民営鉄道史』には「警察の機動隊輸送車もかくやと思われる不細工な改造」とまで書かれてしまっています。
▲かろうじて種車デハ3200の面影を留める台車が見えるが、上回りだけだとプレハブ小屋にしか見えない奇妙な「客車」。しかも無番! '79.2.16

この2輌の“機動隊輸送車”、ついに車輌番号さえ付けてもらえず、1988(昭和63)年に同じ東急から来たデハ6003・6104に任を譲って解体されたと聞きます。残念ながらデハ6003・6104に変わってからのこの従業員輸送列車は撮影する機会がなく、結局1993(平成5)年9月20日を最後に、従業員輸送列車そのものが廃止されてしまいました。

結局この専用鉄道を撮影に出かけたのは3回(うち1回は運悪く工場休業日で運休)だけ。行きにくい早朝時間帯、しかも形式写真など撮りようもない環境ではありましたが、今さら思えばあの“機動隊輸送車”の車内などなぜ撮っておかなかったのかと悔やまれてなりません。

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かつて、常磐線を臨時の「十和田」で上ってくると、勝田駅の山側に誂えられたホームに奇妙なプッシュプルの“旅客列車”が停まっているのを見かけることがありました。2輌のB凸に挟まれた客車らしきものは、まるでプレハブのような造作で、窓枠のアルミサッシが折からの朝日に反射してまばゆい光を放っていたのを鮮明に覚えています。
▲バテロコだけにプッシュプル列車はほとんど無音で近づいてくる。並行する道路はマイカー通勤の車がひっきりなしに工場へと向かい、列車はそのあとを追うように朝日の中を進む。'79.2.16

この奇妙な列車が日立製作所水戸工場専用鉄道の従業員輸送列車だと知ったのは、それからしばらく経ってからのことでした。一度訪ねてみたいものと思いつつ、何しろ平日朝の通勤時間帯に勝田にたどり着くのは上野5時09分発の常磐線初電451Mに乗らねばならず、物理的に困難です。そんな時、たまたま北海道からの帰路に「十和田」を利用することになり、思い切って早朝の勝田に下車してみることにしました。
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▲現在の国土地理院1:25000地形図に見る日立製作所水戸工場。まだ勝田駅から北西方向にのびる専用鉄道の表記が残っているのが判る。画面右下には茨城交通湊線が分岐している。

勝田駅ホームに降りると、長い跨線橋が本屋口と山側出口を結んでいるのが見えます。山側へは勝田電車区へと続く何本もの電留線を跨いでいるため、結構な長さがありました。ただ、ホームから見る限りは一面の松林が広がるばかりで、とても人家や商店があるようには見えません。それもそのはず、この西口はほとんど日立製作所の専用ともいえる出口なのです。そしてその正面にあるのが片面ホームの専用鉄道乗り場でした。

ホーム上に無造作に立てられた時刻表によれば、この勝田ホーム発は7時25分、7時45分の朝2本と夜19時20分発、工場発は17時22分と18時55分、それに19時28分の合計3往復となっています。いずれも日曜日は運休と注意書きがありますが、ホーム上で見ていてもとりたててセキュリティー・チェックがあるわけでなく、OL風の通勤者も三々五々集まって来てはプレハブ小屋のような客車へと吸い込まれてゆくのでした。

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最初にお話ししたように、DTP化・CTP化によって旧来の編集作業のフローは根本から変わってしまいました。よくドラマで見るような、ゲラ=校正刷りに校正記号を赤ペンで書き込んでゆく、いかにも“編集部”といった風景も過去のものとなり、全員がPCのモニターに向かって作業をする光景が日常となっています。
▲校正紙も今ではDDCP(ダイレクト・デジタル・カラー・プルーフ)と呼ばれる出力紙になっている。DDCP校正(左)と出来上がった誌面(右)。

ただ、作業フローこそ変われども、鉄道誌にとってとりわけ重要なのは今もって校正作業です。6回にわたってお届けした「『レイル・マガジン』の作り方」の締めくくりとして、この校正作業に関わるあれやこれやをお話してみましょう。

IMGP6539.jpgいわゆる“てにをは”や用字・用語の間違いは、どんなジャンルであれ、出版物の校正作業の基本中の基本ですが、鉄道誌の場合、他ジャンルと比べて圧倒的に多いのが記号や数字です。形式番号、サフィックス、時刻、年号…等々、毎号の誌面に出てくる記号・数字は並大抵の数ではありません。それだけにそのすべてを一人がチェックしたのでは危険極まりなく、校正作業は校正紙(プルーフ)を回覧する形で複数の編集部員が確認する二重三重のチェック体制をとっています。
▲すべてのページの進行状態は「台割」と呼ばれるこの表で管理されている。これも現在では「エディプランナー」と呼ばれる専用ソフトによって製作される。

ただ専門誌ゆえ、この校正も表面を撫でるがごとき作業では済まないことがままあります。現状の疑問点の確認であれば、編集部に直通している「鉄道電話」で直接担当部署に確認することもできますが、歴史的な事象の裏づけとなるとそう容易くはありません。各種の資料をひっくり返して、それこそ引っかかった箇所の確認作業だけで何時間も費やしてしまうことさえあります。本来であれば一次資料に遡って検証できればベストなのでしょうが、それも出来ぬ相談です。複数の二次資料をひも解いて裏づけをとるわけですが、それでも結果としては往々にして齟齬をきたす事例が発生します。

遠からず顛末を誌面でご紹介できると思いますが、最後に興味深い例をひとつご紹介してみましょう。ご好評いただいている浅原信彦さんの連載「ガイドブック 最盛期の国鉄車輌」の73系解説の中で「桜木町事故」に触れた箇所があり、「先頭車モハ63756全焼、2輌目サハ78144半焼…」と記述されています。これに対して本誌の「Let’s Enjoy」でもお馴染みの梅原 淳さんから「2輌目はサハ78188では?」というご指摘を頂戴しました。梅原さんによると一次資料にあたる「事故報告書」にサハ78188の記述があるとのこと。さっそく浅原さんに連絡を取り、多くの皆さんの協力を得て検証し、ようやく結論(それも意外な!)に達しつつありますが、これなどは校正作業の範疇を超えて、専門誌編集の難しさを痛感する出来事でした。

駆け足で『レイル・マガジン』編集作業のバックヤードをお話してきましたが、いかがだったでしょうか。出来上がった誌面からは見えてこない部分が、多少なりともご理解いただけたとすれば幸いです。

レイル・マガジン

2006年5月   

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