鉄道ホビダス

2006年4月アーカイブ

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写真の“方向性”。
ピントや被写界深度、それに季節感など、これまでの話はどれもご納得いただけるかと思いますが、実はこれから先があまり語りたくない雑誌編集ならではの紆余曲折です。
まず、『レイル・マガジン』をはじめ多くの鉄道誌は左綴じである点を思い起こしてください。ちょっと考えれば当たり前のことですが、横書きの本文の場合、当然本は左綴じ、縦書きの本文の場合は右綴じとなります。形式番号などの記号や数字が多い鉄道誌の場合は横書きの方が編集しやすいために横書き=左綴じが主流となっていますが、紀行文的な散文の場合は縦書き=右綴じの方が読みやすく、かつ誌面デザインの自由度も高くなります。増刊『国鉄時代』が鉄道誌で唯一縦書き=右綴じなのはそんな理由からです。
▲前号272号巻頭の広田尚敬さんの交通博物館特撮の際の色調見本。デジタル化して以降、広田さんは必ずキーになる写真のA4判カラー出力を添付してくれる。

さて、左綴じ・右綴じと写真の選択に何の関係があるのかと訝しく思われるかもしれませんが、これはベクトル、つまり絵柄の方向性の問題に関わってくるのです。単純に言えば本誌のような横書き=左綴じの本の場合、表紙の写真は小口(開く方)側に動きがある、つまりは右頭の写真の方がしっくりきますし、逆に『国鉄時代』のように縦書き=右綴じの場合は左頭の方が馴染みます(『国鉄時代』の場合は矩形のロゴが左上にあるために、現在までの5巻中右頭の表紙が4、左頭のものが1となっていますが…)。編集者は常にこの誌面のベクトルを気にしながら写真を選択しがちなのです。“流し撮り”の場合もそうです。ページのめくり順に逆らう左頭よりは動きに合った右頭の方が“使い勝手”が良いのです。たまには、ライトテーブルの上でわざわざポジを逆版に置いて「こっち向きだったら良かったのになぁ?」などとぼやくことさえあります。

IMGP6504n.jpg余談ながら、皆さんはご自分が撮った写真に“右頭”が多いか“左頭”が多いか気にしてみたことはあるでしょうか。もちろん、車輌のメーカー公式写真をはじめとしたいわゆる「形式写真」が“左頭”ですから、車輌そのものを撮影する場合は意図的に“左頭”が多くなるかも知れませんが、走行写真となるとどうでしょう。一見、光線状態などの撮影条件次第で左右均等のように思いがちですが、実際は右利き・左利きのように結構“癖”があるものです。
▲同じく272号巻頭のラフスケッチ。写真の方向性、寄り・引き、動き…等々、全体の“流れ”をこのラフ上で検討しつつ、文章やロゴの位置などデザイナーへの細かい指示を書き込んでゆく。

話を本題に戻しましょう。限られたページ数の中で企画を展開してゆくうえでは、この写真の“方向性”をはじめとして、全体のいわばリズムが欠かせません。編集の実作業では、あら選びした写真の山を前に“ラフ”と通称している誌面展開のラフスケッチを描き、誌面の流れを決めてゆきます。このなかでは形式や撮影場所に偏りがないかどうかはもとより、“寄り”に対して“引き”、“動”に対して“静”…と誌面全体としての高揚感をなによりも大事にします。つまり「単写真」としていかに優れていても、誌面全体の流れのなかで残念ながら採用に至らないケースも多いのです。端的な例を挙げるといわゆる俯瞰写真がそのひとつで、絵柄が絵柄だけに掲載面積を大きくとらねば効果が薄く、逆にそれが複数枚数続くと相殺してインパクトがなくなってしまいかねません。それだけに俯瞰写真は“狭き門”の代表格といえましょう。

写真の選考過程の最後に、もう一度トップの写真をご覧ください。前号272号の交通博物館惜別特集の際に広田尚敬さんに特写していただいた写真の数々です。完全にデジタル化している広田さんが“納品”してくださるのは本来、画像データが入ったCD?Rのみで済むはずです。ところが、毎回頭が下がることに、中一日ほどで「実画像のCD?R」、「デザイナー用の軽いデータのCD?R」、「全画像のサムネールプリント」、そしてご自身が推薦する20?30枚の「A4判カラープリント(色調見本)」をまとめて渡してくださいます。そう、あの広田さんにして、撮った写真=自分の“作品”を見せる=プレゼンテーションするうえで、考えられる最大限の努力をされているのです。ひるがえって、お送りいただく読者の皆さんの作品の中には、まだまだ「えっ!」と驚くような送り方をされる方もおられます。絵柄のよしあしの前に、なによりも自分の写真=作品を大事にしてほしいと願わずにはいられません。

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写真の季節感。
さて、ピント、露出、被写界深度とくれば次はいよいよ絵柄、私たち編集者がまず注意するのは、撮影ポイントに問題がないかどうかです。入ってはいけない鉄道用地ではないか、私有地ではないか、はたまた安全な場所か…等々。もちろん現地の様子がわからず判断できない場合もありますが、最終的にどうしても不安な場合は、撮影者ご本人に連絡をとって状況をお聞きすることもあります。
▲次号5月発売号は表記上は7月号(これは法定発行日の40日前までなら遡って発売できる通称「40日規定」によるもので、7月号の法定発行日は7月1日なので逆算して5月21日に発売できる。ただし今年の5月は21日が日曜日のため例外的に前日の20日が発売日)なので、すでに誌面では「盛夏」の写真が望まれる。'05.9.3 いすみ鉄道車内より

DH000199n.jpg実は季節感も重要なファクターです。ファッション誌などの場合はちょっと信じがたいくらい季節を先取りしますが、鉄道誌といえどもやはり季節感に無関心ではいられません。なるべくなら発売月のちょっと先の季節感のある写真を紹介したいところで、最終的に同じ撮影ポイントでの同じような画角の写真が伯仲した場合は、やはり季節感に合う方が優先されることとなります。たとえば新緑がまばゆいこの季節、表紙が雪景色ではなんともちぐはぐですし、逆にクリスマスシーズンに夏空の広がる絵柄はしっくりときません。もちろんインパクト重視で逆の効果を狙う場合(次号の特集扉ページも雪景色です)もありますが、写真選考の過程で季節感はやはり欠かせない要素です。ちなみに、雪景色や紅葉といった四季を代表するシーンの中で、一番扱いにくいのが実は「桜」です。日本人にとって桜ほど凝縮した季節を象徴するものはなく、逆に時期を逃すとボケてしまうものもありません。それだけに桜を主体にした絵柄はまことに扱いにくく、正直なところ誌面に反映できる機会も限られてしまうのです。
▲昨日のことのようだが、今や「桜」は過去のもの。5月発売号以降の誌面ではなかなか展開しづらい。'06.3.30

これらを踏まえたうえで、いよいよ絵柄の新規性を検討します。アングルとして陳腐化していないか、画面の切り取り方は、光線状態は…等々、ここで初めて絵柄そのものに立ち入った検討が始まるのです。特に「こんなアングル初めて見た」というインパクトのある絵柄は、誌面作りのうえで渇望するものであるのと同時に、インパクトが強いだけに容易にリピートはできず、たとえどれほど完成度が高くても、数年は使いづらくなってしまいます。むしろ逆に定番の絵柄の方がリピートの可能性は高いと言えましょう。

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写真選びの基本。
『レイル・マガジン』次号の特集は毎年恒例となっている「貨物列車」です。毎号、特集募集には多くの作品をご投稿いただきますが、この貨物列車特集はなかでも群を抜いて投稿数が多く、掲載作品の選定は嬉しい悲鳴となります。今回は新井副編集長が中心となって選考を進めましたが、では、どんなプロセスで作品選びをしているのか…恐らくは皆さんが一番お知りになりたい部分を3回に分けてご紹介してみることにしたいと思います。
▲現在編集中の広田尚敬さんの作品集の作業風景。ライトテーブルに並べられた伝説の作品の数々はルーペでのぞくたびに新たな発見をもたらしてくれる。

まず、これは今までにも機会あるごとに書いてきたことですが、作品の第一選考の段階では作者名はまったく見ておりません。たまに「いつも同じ人ばかり採用されている」という声を聞きますが、それはあくまで結果であって、恣意的に“常連”を優先することはまったくありません。ということは逆に、よくお名前を見る方はそれだけ第一次選考通過率が高いということになります。いったいそれはどういう理由によるのでしょうか…。

IMGP6505n.jpg1月16日付けの本欄「ピントの“芯”」でもピントの精度についてお伝えしましたが、残念ながら第一次選考時点でピントの精度が出ていないために脱落する作品が少なからずあります。ここで言うピントの精度とは、ピント位置がずれてしまっているものはもとより、カメラぶれ、動体ぶれも含んでのことです。その点、いわゆる常連の皆さんの作品はピント精度が常に安定しており、さらには露出や被写界深度も心得ておられます。絵柄うんぬんの前に、まずこの基本ができていることがなによりも大切なのです。
▲最近のデジタルデータの場合はサムネールプリントであら選びした後、実際にモニター上で画像を詳細に検証してゆく。写真は先月号の交通博物館取材時の広田さんのサムネールプリント。

ついでに被写界深度について補足すれば、ブローニー・フィルムの場合はとくに要注意です。広い画面面積に比例して、35ミリ判と同じ画角でもレンズの焦点距離は相対的に長くなり、それとともに同じ絞り値の被写界深度も浅くならざるを得ません。“走り”の場合は高速シャッターが不可欠となり、いきおい絞り込めないためにいよいよ被写界深度が浅くなってしまいます。結果、たとえピントの“芯”はあっても、被写界深度の“薄い”作品となってしまいがちです。選考中ピントルーペを当てながら「35ミリ判で撮っていれば採用できたのに…」と残念に思うケースも稀ではありません。私自身もブローニー・フィルム愛好者ですから、かっちりとした写真を残したいという思いがブローニーを選ばせるのはよくわかりますが、特に“走り”を撮るのは35ミリ判の何倍も難しいと覚悟した方がよいでしょう。

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今日は何週間かぶりに交通博物館に伺いました。といっても取材ではなく、菅館長をはじめとした日本鉄道保存協会の皆さんとの会合があって閉館後の夕方おじゃましたのですが、暮れなずむ博物館周辺は、博物館外観や神田川擁壁のライトアップを撮影しようという人たちで結構な賑わいをみせていました。そうです、5月14日の閉館まであと2週間あまり、いよいよ70年にわたる神田の交通博物館の歴史に幕が降ろされる時が迫っているのです。
▲正面玄関のD51と0系をはじめ、館内のC57や1号機関車にもお別れのマークが掲げられている。'06.4.27

IMGP6528n.jpg 聞けば名残を惜しむ入館者数は増加の一途をたどっており、ことに旧万世橋駅の特別公開はたいへんな人気を博しているそうです。あまりの人気に、当初明日4月28日までと予定されていたこの公開も5月14日の最終日まで延長されたとのこと(完全事前予約制)。明後日、4月29日(土)から5月8日(月)までは隣接する高架上にDD51+オハネ25+オハネフ25の「出雲」ミニ編成も展示される予定で、これからゴールデンウィークにかけて、交通博物館はさらなる賑わいを見せることとなりそうです。
▲黄昏の神田川にライトアップの擁壁が投影する万世橋の風情は必見。'06.4.27

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CTPって?
“CTP”という言葉をご存知でしょうか。「DTPなら聞いたことがある」とおっしゃる方はおられると思いますが、出版や印刷に携わっていない限りまずご存知ない言葉です。CTPとは“Computer To Plate”の略で、従来の製版工程を飛び越えて、デジタル編集データを直接印刷用の「はんこ」である刷版(Plate)に焼き付ける方式のことを言います。“DTP”(Desk Top Publishing)はコンピュータを用いて机上で行う誌面デザインをさしますが、CTPはこれをさらに進化させて印刷に直接結びつけた革命的な印刷方式です。
▲撮影用銀塩フィルムと同じく次第に過去のものとなりつつある製版フィルム。4色に分解されたこの画像をそれぞれの刷版に焼き付けるのが従来の方式。

なんだ印刷の話か…と思うなかれ。実はこのCTP化が『レイル・マガジン』の作業フローを劇的に変え、ひいては銀塩フィルムを歴史の向こうに押しやってしまうこととなるのですが、その話はのちほど。

IMGP6491n.jpgご存知のようにグーテンベルクに端を発する印刷の基本は「はんこ」です。今ではすっかり“伝統工芸”の範疇になってしまった感がありますが、つい30年ほど前まではまだまだ「活版」が主流でした。活版印刷は鉛を主にした合金でできた活字の頭にインクをつけて紙に押し当てて印刷する方式で、写真や図版は銅版や亜鉛凸版に絵柄をエッチングしたものを使います。次に登場したのがオフセット印刷と呼ばれる平版印刷で、水と油の反発性を利用して「刷版」のインクを用紙に移してゆく方式です。刷版が活版印刷で言うところの活字に相当するわけで、高速輪転機での印刷が可能なことから、現在では世界中の多くの印刷物がこのオフセット印刷に頼っています。ところがこの刷版を焼くためには、従来は製版フィルムと呼ばれるフィルムを作ることが不可欠でした。つまり製版→刷版→印刷→製本という工程となるわけです。カラー印刷の場合は4色(CMYK)に分色した4版の製版フィルムを作ることになりますが、その前工程としては写植で文字を印字し、銀塩フィルムは1億円もする巨大な製版スキャナーで色分解し、それぞれを誌面レイアウトどおりに並べて“集版”する作業が欠かせません。実は印刷物はこの“集版”までが一番大変で手間が掛かったのです。
▲これが今や“絶版モノ”の活字。昔はこれを1本1本植字(ちょくじ)して印刷用のはんこを作っていた。

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その製版工程を見事に解消してしまったのですから、CTPがいかに革命的だったかお分かりいただけると思います。作業フローとしてはこのブログのようなウェッブ製作と大差なく、デジタルデータ化した画像を専用のデザインソフトに落とし込み、文字はテキストデータを流し込めば出来上がりです。もちろん実際にはこまごました大変なデザイン作業があるのですが、基本的にはコンピュータ上で完成させたデジタルデータを、そのままプレートセッタと呼ばれる機械で刷版に焼き付けれるだけです。
▲製版フィルムを用いた従来の作業フローチャートとDTPによるデータ化のフローの違い。(凸版印刷提供)

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弊社では3年ほど前に一大プロジェクトを組んで一気に全社CTP化を達成しました。産みの苦しみと言いましょうか、それは大変な作業フローの変更でした。ただその結果、〆切をのばして最新の情報を誌面に反映させたり、在来工程でたまに発生していた版ズレがなくなったり、過去の誌面データをアーカイブ管理しやすくなったりするなど多くのメリットが生じました。
ところがここからが問題です。完全デジタルデータを作るのに一番楽なのは画像データもデジタルデータであることです。つまり川の上流から下流までが一貫してデジタルデータなのが理想で、となるとその最上流に位置する「カメラ」は当然デジタルカメラが必須です。実際に全社的CTP化を契機に、一部の例外(大判カメラでの撮影など)を除いて自社取材はすべてデジタルカメラ化したのですが、問題は、撮りおろしではなく皆さんの投稿写真や旧い銀塩写真の扱いが圧倒的に多い本誌『レイル・マガジン』です。結局、いったん色分解してCMYK化した画像をCTPデータに落とし込むという先祖がえり的フローとなっているのが実情です。姉妹誌『RM MODELS』は被写体が模型なのでほとんどが撮りおろしですから、結局RM本誌だけがちょっと取り残されてしまった感じになってしまいました。
▲誌面デザイン用のマッキントッシュがずらりと並んだ弊社デザイン室の一部(左)。右はモニター上で行われる誌面デザインの実例。

印刷の世界にもフィルムレスの波は怒涛のごとく押し寄せてきており、世の中全体のCTP化の進捗とともに、先ほどお話した製版フィルムそのものの需要も激減してきています。さらに衝撃的なのは、この製版フィルムを訂正する際の必需品であった“ストリップフィルム”が、先ごろ生産中止になってしまったことです。デジタル化によって急速に需要がなくなったとはいえ、この訂正用ストリップフィルムなしには過去の書籍を再版することも容易ではありません。印刷工程のデジタル化は、実は確実に本作りそのものを変えつつあるのです。

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昨年6月にスタートしたこのブログもはやくも11ヶ月目。ありがたいことに今ではページビュー(PV)値も恐ろしいほどの数字となってきました。それだけに今さら表題のテーマを掲げるのは気が重いのですが、本ブログの趣旨からしてもいつかは採り上げねばならないテーマだけに、一周年を目前にしたこの機会に意を決して連載(不定期)を始めたいと思います。
▲弊社新刊の数々。毎月30タイトルほどが発行されている。

まずは「本」の基礎知識
毎年4月の入社式後の新人研修で、本とは、出版とは…と講義を行っているのですが、まずは一般の方はあまりご存知ない「本」に関する基礎知識からお話することにしましょう。ひと口に「本」と言っても実にさまざまな種類がありますが、同人誌などの一般流通を前提としていないものは別として、私たち出版側から見ると、「本」はほとんど2種類に分類されます。それは「書籍」か「雑誌」かです。より正確に言うならば、その中間に位置づけられる「ムック」(MagazineとBookの合成語)やさらには「マルチメディア」などというジャンルもありますが、基本は「書籍」か「雑誌」の2種類です。ではこの両者はどう違うのでしょうか。毎年研修初日に新入社員に思いつくこの違いを発表させるのですが、たいてい出てくる回答は以下のようなものです。
・表紙がしっかりしているのが書籍。
・著者名が表紙に書いてあるのが書籍。
・通巻号数が入っているのが雑誌。
・背がない“中綴じ”のものは雑誌。
等々、まぁ一般的感覚からすればあながち的外れではありませんが、実はこれらはどれも不正解なのです。「書籍」か「雑誌」かは外見上の差ではほとんど区別されておらず、たとえば“中綴じ”の通巻番号入りの本を「書籍」として出版することも理屈から言えば不可能ではありません。では両者の差は何かというとこのようになります。
・自社以外の広告が入れられるのが雑誌。
・再版(増刷)できるのが書籍。
・雑誌の場合はノンブル(ページ数の表記)を表紙から起算する。(RMも表紙が1ページとなっています)
などです。もちろんこれ以外に私たち出版を生業とする者にとっては返品サイト、入金サイト(基本的に書籍の入金サイトは長い)の違いが極めて重要です。このようなそれぞれのメリット、デメリットを勘案してどちらにするかを選ぶのは出版社の裁量で、実は本の見てくれとはほとんど関係ないことなのです。

IMGP6488n.jpgところでお手元の「本」をひっくり返して裏表紙(専門的には“表4”と言います)をご覧になってみてください。「法文」と呼ばれる発行所等の法定文字とともにお馴染みのバーコード、さらには文字コードが入っているはずです。ここでも「書籍」か「雑誌」かを容易く見分けることができます。「雑誌」は定価の周囲に「雑誌コード」の表記があるのですぐにわかります。『レイル・マガジン』の雑誌コードは「19645」で、このコードはもちろん固有のアイデンティティーとなっています。ちなみに、頭の「1」は月刊誌(「0」も)を示し、「2」「3」は週刊誌、「4」「5」はコミック、「6」はムックを示しています。
▲『レイル・マガジン』本誌最新号のバーコード部。定期雑誌はその本誌(奇数コード)に対して1冊増刊(偶数コード)を発行することができる。

IMGP6487n.jpgついでにバーコードの脇についている13桁+5桁の数字の意味ですが、現在発売中のRMを例にとると以下のようになっています。
4910196450663 01048
最初の3文字「491」は日本の定期刊行物を示すフラグ、次の「0」は予備桁で、その次の「19645」が『レイル・マガジン』本誌(増刊の場合は偶数の19646)のアイデンティティー、次の「06」が6月号、その次の「6」は2006年発行、13桁目が「チェックデジット」(検算数字)となっています。末尾につく5桁は予備桁「0」+本体価格(10円)です。これを総合すると、「日本で発行された定期刊行物(491)で月刊(1)『レイル・マガジン』本誌(9645)で6月号(06)、発行年は2006年(6)で本体価格は1048円」という意味だとわかります。
ついでに13桁目のチェックデジットの計算方法ですが、これはもう「へぇ?」的雑学でしかありませんが、以下のような計算方式なのです。
「偶数桁の総和の3倍に奇数桁の総和を足して得られる数の下一桁を0にする負数」…文系の人間には頭が破裂してしまいそうですが、やはり今月号を例にとると以下のような計算となります。
偶数桁は9・0・9・4・0・6でこの総和は28、まずこれを3倍して84という数字を得ます。次に奇数桁4・1・1・6・5・6の総和23をこれに足すと合計は107となります。この下一桁「7」を「0」にする負数、つまり「3」が今回のチェックデジットとなるわけです。
しょっぱなからかなり脱線してしまいましたが、次回からは本題、『レイル・マガジン』の作り方に入ることにしましょう。
▲増刊号の『国鉄時代』の表記はコードが偶数となっている(上)。一方、「書籍」扱いの『RM LIBRARY』はISBNコードで、定価も税別表記となっている(下)。ちなみに「定価」と表記できるのは「再販売価格維持」制度のもとの新聞・書籍・雑誌等だけで、それ以外は「価格」や「メーカー小売価格」としなければならない。

「エンドレス」続々報。

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4月19日付けでご紹介した「エンドレス続報」にさらに興味深いお便りを頂戴しました。お送りくださったのは『国鉄時代』第4号の付録DVDで「蒸機急客1211レ・宮崎?都城「日南3号」の記録」をご発表くださった根本幸男さんで、30年も前に現地で買い求めて大事になさっている本もお送りいただきました。まずはお手紙をご紹介してみましょう。
▲写真に残された寺岡さんが紹介された銅版画と逆の編成。右側がグリップ機構を持つ車輌でダミー(“Dummy”)と称されている。(“THE CABLE CARS of SAN FRANCISCO”より。以下同様)

SF5050n.jpgSF4049nnn.jpgいつも「編集長敬白」楽しみに欠かさず拝読させていただいております。さて、「エンドレス」は三峰石灰から始まってサンフランシスコのケーブルに至るまで、これも面白く読ませていただきました。ことに寺岡氏出自のシスコの図版は貴重で、有意義なものがあったかと思います。
▲グリップ部のアップ(左)と“THE CABLE CARS of SAN FRANCISCO”表紙。

SFn2014n.jpgたまたま手元に、私が1975(昭和50)年2月、サンフランシスコを訪問してケーブルを乗り歩いたときに買い求めた一冊の本があります。今回の記事と関連する写真もあり、何かお役に立てればと送らせていただきました。
▲直径14フィートのワイヤーホイールが回転を続けるパワーハウス内部。背後には見学コースが備わっていると解説にあり、確かに見学者らしき姿が見える。

SF3048n.jpgこんなお手紙とともにお送りいただいたのはその名も“THE CABLE CARS of SAN FRANCISCO”(Phil and Mike Palmer著)と題する中綴じ64ページの本です。先般寺岡さんが送ってくださった“A TREATISE UPON CABLE OR ROPE TRACTION AS APPIED TO THE WORKING OF STREET AND OTHER RAILWAYS”が学術書ゆえ、まったく写真がなかったのに対し、こちらは写真で見るピクトリアルとなっています。もちろんメカニズムに関する貴重な写真も多く、この本でさらにはっきりと「エンドレス」の全容が見えてきました。
▲分岐部のアップ。この下がどうなっているのかが気になる。

SF4049nnnn.jpgSF4049n.jpgこの本の冒頭ではサンフランシスコのケーブルカー誕生にいたるちょっとした逸話が紹介されています。それによれば、そもそもの発端は1869年のある冬の夜、過積載の馬車が急勾配で滑落する事故が起こり、そこに当時33歳だったイングランド出身のAndrew Hallidieさんが居合わせたことに遡ります。幸い人的被害はなかったものの、4頭だての馬は全滅してしまう惨事でした。この事故を目の当たりにしたHallidieさんは偶然にも吊り橋用のワイヤーロープ会社のご子息で、このような惨事を繰り返すまいと考案したのがサンフランシスコ・ケーブルカーのシステムなのだそうです。
▲グリップマンと呼ばれる“運転士”の操作風景。操作しているのは緊急ブレーキで、単体写真(右)の左側が緊急ブレーキハンドル、右側が通常のトラックブレーキハンドル。

SFn1013n.jpg1871(明治4)年には試作モデルを完成したとありますから、実にわが国の官設鉄道開業の前年にはこのキャッチ&リリース式のエンドレスはシステムとして出来上がっていたことになります。ちなみにわが国のケーブルカーの大半は「交走式」と呼ばれる“つるべ式”、つまり一方の車輌を引き上げるともう一方の車輌が降りてくる方式で、サンフランシスコのような「循環式」、つまりはエンドレスは現在の鉄道事業免許路線の中にはありません。
三峰石灰に端を発したエンドレスのお話は、読者の皆さんのサポートもあって19世紀のサンフランシスコにまで行き着くことができました。根本さんには改めて御礼申し上げたいと思います。
▲これは面白いひとコマ。一見非貫通のように見える正面には“special door”が仕込まれており、グリップ機構のメンテナンスの際にはこうやって正面からアセンブリーごと取り出す。
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▲初期のサンフランシスコ・ケーブルカーでポーズをとる文豪マーク・トゥエィンら。グリップ車はオープンエアである。

4110との再会。

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いつの時代でも多かれ少なかれ同じかも知れませんが、昭和40年代はことに時代の転換が目まぐるしく、生まれ年の一年の差が、その車輌なり路線なりを実際に目にすることができるかどうかの決定的な差となっていました。かく言う私の場合もそうで、国鉄蒸機で言えばC51、C54は夢の夢、D62には間に合わず、かろうじてC62に間に合った最後の世代でした。そんななかでまさに“滑り込みセーフ”でファインダーの中に捉えることの出来たのがEタンク4110形です。
▲東明駅跡に保存されている2号機は屋根がないにも関わらず極めて保存状態が良い。ちなみに同機は三菱造船の製造番号1番の記念すべき処女作でもある。'04.6.18 東明

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▲2号機のキャブ内。インゼクタが機関士側にも装備されているのがわかる。右はこれまた奇麗に保存されている東明駅駅舎。2号機はこの写真の右奥に保存されている。'04.6.18

toumei1n.jpg函館本線の美唄を起点に常盤台まで10キロあまりの運炭鉄道・三菱鉱業美唄鉄道が廃止となったのは1972(昭和47)年6月1日(運行は5月31日限り)。私がこの美唄鉄道を訪れたのは4月のことですから、廃止まで二ヶ月を切った本当の廃止間際でした。すでに残り少なくなっていた本線仕業は国鉄9600払い下げの6号機が主で、お目当ての4110は予備に回っている…との風評も聞いていたものの、ダメ元と早朝の美唄駅に降り立ってみると、ありがたいことに4号機が高々と煙を上げているではないですか。
bibaiticketn.jpg結局、機関区の話では、のべ7輌いた4110形とその同系自社発注機のうち、生き残っているのは2号と4号の2輌のみ。どちらも自社発注機で、国鉄4110形払い下げ機の中で最後まで残った4122と4142は前年1971(昭和46)年に廃車されたとのこと。ただ、4142は解体されたものの4122はそのまま保管されており、機関庫でその姿を拝むことができました。
▲廃線間近の頃の東明駅駅舎内の列車時刻表。なんと混合が1往復しかない。右は三菱鉱業発行の車内補充券。'72.4.3

結局この日の本線運用に就いていたのは4号機で、恐れていた9600の6号機は美唄の構内入換えに終日走り回っていました。それにしても初めて目にするEタンクは実に異様で、ことにオリジナルの4122のさながら袴のようなシリンダーケーシングには圧倒される思いでした。

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▲東美唄信号場付近の15.2‰勾配を東明に向けて力行する4号機。右に見えるのは美唄起点2.831kmに位置する東美唄構外側線。この付近は本線でも37kg/m、構外側線は30kg/mレールで、Eタンクの巨体と比較するとその脆弱さが際立つ。'72.4.3

美唄に最後まで残った4110の1輌、2号機が東明駅の跡に保存されていると聞いて訪ねてみたのは2年ほど前の初夏のことでした。東明駅は1972(昭和47)年のあの日、最初に4110の“走り”を撮った懐かしい駅でもあります。静態保存機の常で、ある程度の荒廃は覚悟していたのですが、信じられないほど状態良く保存されていました。美唄市の文化財にも指定されており、聞けば元機関士の皆さんらが保存会を結成して保守をされているそうです。冬季間はシートで覆い、春の訪れとともに再びメンテナンスを始める、そんな弛まぬ努力があってこそのこの状態なのでしょう。今はサイクリングロードとなっている美唄鉄道跡を見ながら、辛うじて目にすることのできた4110現役時代にしばし思いを馳せたのでした。
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▲国鉄からは戦後4輌の4110形が美唄に払い下げられた。1948(昭和23)年と1951(昭和26)年にそれぞれ2輌ずつで、この竣功図によると後者は代価61万4千円であったことがわかる。
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消えた都営鉄道。

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現在JR貨物が編纂中の『貨物鉄道130年史』(仮題)のお手伝いで、久しぶりに東京都港湾局臨港線の写真をスキャニングしました。東京臨海部の鉄道貨物輸送の記録として後世に残したいという趣旨ですが、これまでほとんど顧みられる機会のなかった都営臨港線だけに、実に意義あることといえるでしょう。
▲都港湾局晴海機関区前に並ぶD60-4(1961年日立製)とD60-7(1962年汽車製)。晴海線は専用鉄道としては異例の重量級DLを揃えていた。'79.5.9 晴海

KO_0005n.jpg“ゆりかもめ”が延伸し、いよいよ基盤整備が整ってきた東京臨海部ですが、つい20年ほど前までは“ウォーターフロント”などという小洒落たものではなく、“港湾地帯”としか表現しようのない無味乾燥な風景が広がっていました。そしてその臨海部の貨物輸送の要として活躍していたのが東京都営の臨港線でした。
▲日の出桟橋付近の倉庫群。都芝浦臨港線は浜松町から竹芝桟橋、日の出桟橋、そして芝浦桟橋を巡る。'79.5.9

KO_0006n.jpg 東京都港湾局は国鉄の越中島貨物駅から豊洲・晴海地区への深川・晴海線(20.3km)と芝浦?日の出桟橋間の日の出線(5.8km)を擁し、それぞれ独自の機関車を配置して貨物輸送を行っていました。ことに晴海地区には60t級の大型ディーゼル機関車を揃え、一日に20本近い列車を運行していたのです。今となっては想像さえできませんが、銀座から2キロと離れていない所に、全国的にも屈指の規模の臨港鉄道があったのです。
▲芝浦線にあった「古川可動橋」。規模こそ大きくはないものの、都心で見られた唯一の鉄道可動橋であった。'79.5.9

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▲国土地理院1:50000地形図に見る1981(昭和56)年頃の豊洲・晴海・芝浦周辺。東京都港湾局の臨港線網がよくわかる。ゆりかもめや東京臨海高速鉄道線が出来て激変したこの臨海部だけに、現状の地図と比較してみると興味は尽きない。
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この都営臨港線、ところがそれほど容易くは撮影できませんでした。ダイヤが判らないこともありますが、とにかく当時の臨海部は無用の者が立ち入れる雰囲気ではなく、実際のところ至る所が立入禁止でした。ことに保税倉庫周辺や豊洲の石炭埠頭は公道(?)にも関わらず厳しく規制されており、とてもカメラを持ってふらふらと近づける状況にはなかったのです。
▲東洋埠頭(東京石炭埠頭)豊洲支店所属のD35-9。豊洲地区での入換え作業は豊洲鉄道運輸などに委託されていた。'79.5.9

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結局、晴海地区、芝浦地区ともに数回訪問しただけで、満足ゆく撮影はできず仕舞いに終わってしまいましたが、いまさら思うとあれほど身近にあった臨港線だけに、なぜもっと足繁く通わなかったのか惜しまれてなりません。最後の都営臨港線が消えたのは1989(平成元)年2月9日、埠頭を渡る風が身を切る寒さの冬の日のことでした。
▲春海橋梁を渡る港湾局晴海線の最後の単機回送。この日を最後に東京都営の臨港線は消滅した。'89.2.9

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今日からこのウェッブ上に新たなコンテンツ「お立ち台通信」が加わりました。“お立ち台”とはご存知のごとく有名撮影ポイントのこと。古くは1970年頃の布原信号場あたりが発祥でしょうか、誰でも安全に容易く撮れてそれなりの成果を得られる撮影ポイントを誰言うでなく“お立ち台”と呼ぶようになりました。
▲有名撮影ポイントでも、行ったことのない人にとっては土地勘が掴めないのは当たり前。「鳥沢の鉄橋」のこのポイントも、実は道路から容易く撮れる。'02.10.27 中央本線鳥沢?猿橋

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「お立ち台通信」は「消えた車輌写真館」や「わが国鉄時代」と同様に、ブログ形式で皆さんからの投稿によって全国の“お立ち台”を紹介し、ゆくゆくは一大データベース化しようという遠大な計画です。どなたでも経験はおありと思いますが、雑誌上ではよく目にする撮影ポイントでも、いざ自分で行くとなるとわからないことだらけだったりします。駅からどのくらい歩くのか、光線状態は、望遠レンズがないと撮れないのか、果ては近くに飲食店はあるのか…等々、そんな不安を一気に解消してくれるのがこの「お立ち台通信」です。Aさんは知っているけどBさんは知らない、また逆にBさんは地元だけどAさんはまだ行ったことがない、そんな相互の撮影地情報交換の場になればと考えています。

ここ数日、担当の山下修司君がパソコンにかじりついてオープニング画面を調整、事前にRM執筆者の皆さんを中心にお願いして集めたデータをもとに、今日現在ですでに50箇所もの撮影ポイントがアップされていますので、この週末はぜひともゆっくりと全国の撮影地めぐりをお楽しみください。今後はご投稿いただいたポイントを随時アップしてゆく予定ですので、フォーマットをご参照のうえ、ご投稿の方もよろしくお願いいたします。なお、当然のことながら、鉄道用地内はもとより、宅地・農地などの私有地内、危険な場所での撮影は論外で、どなたでも安全に撮影できるポイントをご紹介してゆく予定です。

決して止まらない鉄道?

never1033n.jpg昨日の「エンドレス」の続きではないですが、世の中には不思議な鉄道があるものだという驚きの事例をひとつご紹介してみましょう。私も会員になっている英国のナローゲージ・レイルウェー・ソサエティーの会報、その名も“THE NARROW GAUGE”の193号にKelvin Parkesさんが紹介されている“Never‐Stop Railway”(決して止まらない鉄道)です。
▲Wembleyで行なわれた大英博覧会会場の“Never‐Stop Railway”。コンクリート製の“軌道”は2'10 1/2"ゲージだそう。背後に見えるのはLNERの博覧会駅。(“THE NARROW GAUGE”193号より)

なんとこの鉄道、エンドレスのようなロープどころか奇妙なスクリューによって動くシステムで、見れば見るほど破天荒な、言うなれば存在そのものがトワイライトゾ?ンな鉄道です。残念ながら昨日の“ENGINEERING”のようなテクニカルな図は残されていないようで、1923(大正12)年頃のドイツの少年向け科学誌“Das Neue Universum”(『新世界』)に掲載されていたイラスト(下記参照)が紹介されています。ところがこのイラストが実に良く描けており、解説とともに一枚でこの“Never‐Stop Railway”の概要を把握することができます。では、いったいどのようなシステムなのか、原本のドイツ語解説をParkesさんが英文に翻訳したものをさらに日本語に要約してご紹介してみましょう。

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まず基本的構造ですが、新交通システムのようなコンクリート製の軌道の下にスクリュー状の回転軸を設置し、この回転に従って車輌下部に取り付けられた案内輪が進むという仕掛けです。コンクリート軌道に載った車輪は鉄製ながら当然フランジレスです。スクリュー状の回転軸は末端でモーターに接続されており、軸全体は常時ぐりぐりと回転を続けています。つまりエンドレス軌道と同様に車輌にはなんの動力設備も不要なわけで、ここまで表面的に見てくると何だか説得力を持つシステムのように思えますが、問題はこの先です。実は掲載誌“Das Neue Universum”にも2つの大きな問題を抱えていると紹介されています。ひとつはカーブをどう通過するのか、もうひとつは速度の加減速、とりわけ停車場での乗降時にどう停めるのかです。

窮すれば通ず…この問題解決方法が実にユニークです。まずカーブですが、これはイラスト上段にあるように、シャフトにベベルギアを噛まして角度を変えています。ただ冷静に考えれば気がつきますが、これでは車輌はカーブを曲がりきれません。つまり曲線部にはいっさいスクリューがないからで、スクリューから外れた時点で車輌は自然停止してしまうことになります。ところが、ここからがスゴイ! ではどうするかというと、解説によれば「次々にやってくる続行車が押し出して」カーブを曲がるのだそうです。呆れ果ててものが言えない…と言ったら真面目に考えた発案者には失礼でしょうが、コロンブスの卵的発想ではあります。

では次なる難題、停車場ではどうするのか。イラスト最上部の絵にあるようにスクリューのピッチを変えてゆくのだそうです。高速(?)運転箇所では左端のようにスクリューのピッチを広く、駅に近づくにつれてピッチを狭め、駅構内では右端のように極端にピッチを細かくするわけです。でも停まらないではないか…確かにそのとおりですが、解説によれば駅では3km/hまでスピードが落ちるので、その際に乗り降りをするとあります。う?ん…。

Never‐Stop Railway=決して止まらない鉄道、とはいえ夜間など営業時間外はいったいどうしたのでしょう? 当然シャフトの回転を止めた時点で、例のカーブの部分をはじめ各所に車輌は取り残されてしまうわけで、他人事ながら心配です。
ちなみにこの“Never‐Stop Railway”、最終的には‘Never Stop’Railway Limitedなる会社まで設立され、1924(大正13)年から始まった大英博覧会の会場内輸送などに実用されたとありますが、当然ながらその後の“普及”はありませんでした。

「エンドレス」続報。

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4月9日付けの本欄「三峰石灰、桜咲く。」でご紹介した「エンドレス」軌道に関して、興味深いお便りを頂戴しましたのでご紹介してみたいと思います。お便りを下さったのは科学技術振興機構の寺岡総一郎さんです。
▲極めて初期のサンフランシスコ・ケーブル(Geary Street線)の銅版画。先頭車(?)がケーブルグリップ機構を持ち、操作する運転士(?)が乗っている。(“A TREATISE UPON CABLE OR ROPE TRACTION
AS APPIED TO THE WORKING OF STREET AND OTHER RAILWAYS”より=以下同様)

cover_1nn.jpg「編集長敬白」毎日楽しみに拝見しています。ケーブルカーといえば“つるべ”式のものしか念頭になく、低速とはいえエンドレスケーブルが常時回転してそれを掴んで走る方式があるとは恥ずかしながら最近まで知りませんでした。考えてみれば、併用軌道で“つるべ”方式ではいろいろと具合が悪いことは明らかなのですが…。
さて、1月にサンフランシスコに出張した折りに有名なケーブルカーを見てきました。舗装併用軌道の地中に索を埋め込む大胆な方式は強く印象に残り、エンジンハウス兼博物館の売店で“A TREATISE UPON CABLE OR ROPE TRACTION
AS APPIED TO THE WORKING OF STREET AND OTHER RAILWAYS”と題する書物(Owlswick Press刊)を買い求めました。この本は有名な“ENGINEERING”から鋼索鉄道を抜粋して加筆修正した専門書で、タイトルにあるように“TREATISE”つまり学術論文だけに、記述はもっぱら技術的(採算も含めて…)な内容となっています。残念ながら写真はいっさいなく、特許図面風の図版と銅版画によって解説されています。まぁ、「欲しい」と思う方は愛好者でもごく少数だと思われますが、古い時代らしく凝った図版が楽しく、機構好きにはなかなか面白い一冊です。
▲アンチークな雰囲気の“A TREATISE UPON CABLE OR ROPE TRACTION
AS APPIED TO THE WORKING OF STREET AND OTHER RAILWAYS”表紙。

clay_cable_1nn.jpg第Ⅱ章の“STREET CABLE TRAMWAYS IN CAL.USA”では観光資源としてすっかり有名なサンフランシスコのケーブルカーが詳しく解説されています。実は現在でも軌道の一部が“陥没”している箇所があり、なぜ修復しないのだろうと不思議に思っていたのですが、この章を読んで疑問が氷解しました。平面交差やエンジンルームへの引き込みでは必然的にケーブルをリリースせねばならず、それを再びキャッチするために設けられているのだそうです。なるほどと思いました。
▲Clay Street線(現在はトロリーバス)のエンドレス模式図。テンショナーは錘で、終点にあるのがわかる。

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▲Clay Street線の編成。左側がグリップ機構を持つ先頭車で、右は付随車。

clay_cable_1n.jpg私はこの第Ⅱ章しか読んでいないのですが、ご参考までにほかの章の題目だけあげてみると…
Ⅰ:Mining and Railway Rope-Haulage.
Ⅲ:The Chicago, Philadelphia, New York, &c. Cable Lines
Ⅳ:New Zealand Cable Tramway
Ⅴ:Cable Traction in Europe and Australia
Ⅵ:The Cost of Construction and Working the System
Ⅶ:Considerations in Tramway Working
Ⅷ:The Manufacture of Wire and Wire Ropes, and their Applications
Appendix:The City of London and Southwark Cable Traction Subway;
the Glasgow Underground Rope Railway
となっています。ほとんどが地中のスロットに通したケーブルをグリップする方式のようでが、なかには撚線機(?)など非常に凝った図も添えられており、興味は尽きません。
▲常設軌道の透視図。路面に埋め込まれたスロットの中にケーブルが通っているのが良くわかる。

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▲グリップ車断面(左)とケーブルグリップ機構(右)。ネジを用いたのは極めて初期のようで、その後はレバーとラチェット式に変わってゆく。ちなみにClay Street線は3'6"ゲージ。
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▲Clay Street線の動力室断面。動力には蒸気エンジンが用いられていた。

寺岡さん、ありがとうございました。“ENGINEERING”は19世紀から続く由緒ある技術誌で、写真製版技術が未発達だった時代には、ここに見られるような銅版画による図版が多用されていました。デジカメで撮った画像を瞬時にHTML化してウェッブ上にアップする今日ではとても信じられないことですが、この図版一枚描く、いや彫るのにいったいどれほどの時間が掛かったのでしょう…。

それにしても、知っているようで知らなかったエンドレスの仕組みが今回たいへんよくわかりました。常時回転する曳索をキャッチ&リリースすることによって運転・停止を可能にしているわけですが、インダストリアル・ユースならともかく、街中の併用軌道ともなるとそのスロットの保守は尋常でなく大変そうです。サンフランシスコに行く機会があれば、この仕組みを踏まえたうえでじっくりと観察してみたいものです。

kashima019n.jpg去る2月21日付けの本欄で、鹿島鉄道が地元石岡市長らとの会合の席で、来春にも鉄道事業を廃止する意向を伝えたと報じましたが、去る3月30日に正式に国土交通省に廃止申請がなされてしまいました。2000(平成12)年の鉄道事業法改正以降は、鉄道事業の廃止手続きが変更され、鉄道事業からの退出が許可制から事前届出制に変更されており、廃止届出から一年後には鉄道事業の廃止が可能となります。つまり、鹿島鉄道は来年の4月1日付けで廃止される可能性が極めて強くなったわけです。
▲夕張鉄道からやってきたキハ714も健在。特徴的だったビニール張りの転換クロスシートこそロングシート化されてしまったものの、その愛らしい姿は変わらない。'97.5.28 浜

kashima3026n.jpg地元・茨城県と沿線自治体で構成される鹿島鉄道対策協議会(会長=石岡市長)は、まだ廃止を容認したわけではないとして、さまざまなアピールを行うとともに、今後も存続を視野にいれた協議を続けてゆくとしていますが、現在の鉄道事業法では、今後一年間に鹿島鉄道自らが廃止届出を“撤回”しない限り廃止は免れず、存続の道はかなり厳しいものと思われます。
▲現在キハ602には「かしてつを救え。」のヘッドマークもつけられているが…。'06.4.6 桃浦 P:榊原伸一

聞くところによれば、この廃止届出のニュースを知ってか、4月に入ってから鹿島鉄道を訪れるファンの数は日ごとに増えてきているようです。石岡?鉾田間27.2kmには随所に非電化私鉄の“原風景”が広がり、そこを行き交う個性豊かな気動車も実に魅力的です。先日は『RM MODELS』の羽山副編集長が姉妹ブログ「RMMスタッフ通信」で鹿島鉄道ワンデイ・トリップを書いていましたが、DMH17形エンジンとTR29台車の乗り心地を体験できるのも今やここ鹿島鉄道だけ。しかしそれも来年の今ごろは思い出となってしまうのかもしれません。

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▲跨線橋から見た石岡機関区の全景。さながら模型のレイアウトのような光景が眼下に広がる。'06.4.6 P:榊原伸一

kashima3028.jpg大きな収入源だった陸上自衛隊百里基地の燃料輸送がなくなり、加えて親会社である関東鉄道が、つくばエクスプレス開業による鉄道事業収入減少の余波で資金援助できなくなったのが直接の原因とされていますが、旅客輸送人員も1980年度1,921千人から1990年度1,283千人、1999年度には1,036千人(『データブック日本の私鉄』による)と加速度的に減少してきてしまっており、自力再生の道はなさそうです。せめて近年宅地化が急速に進んでいる石岡周辺の通勤・通学輸送に特化し、路線短縮してでも延命する手立てはないものなのでしょうか。

今週はあと二日で「北海道池北高原鉄道ふるさと銀河線」が廃止となります。あいつぐローカル私鉄の悲報が残念でなりません。
▲彼方には筑波山。満開の桜をバックにもと加越能鉄道のキハ432がゆく。桜と“湘南顔”との組み合わせもこれが最後となるのか…? '06.4.9 石岡南台?東田中 P:榊原伸一

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かれこれ十年ほど前、本誌の連載企画「模“景”を歩く」の取材で品川運転所(現在の田町車両センター)にうかがった際、客車検修庫の中で奇妙な機関車(?)を発見しました。円筒形のボンネットとその上部につけられた巨大な円形ハンドルはそう、あの築地市場などで見かける「ターレット」そのものではないですか。それにしても何でこんなところにターレット、しかも機関車と化したターレットがいるのでしょう。
▲検修庫の中に“ひそむ”ターレット機関車。こちらは2輌あるうちの“きれいな方”。'95.9.13 品川運転所(現・田町車両センター)

sinagawaBL163.jpg客車検修庫の入場線に並行するかたちで軌間762㎜の軌道が敷設されており、聞けば、かつては客車床下の蓄電池を引き出してこの軌道で充電室まで運んでいたのだそうです。蓄電池交換の用途が少なくなってしまってからは、検修用工具等を積載したいわば工具車を牽引して検修庫の中を走り回っているというわけです。
▲よく見ると運転所のそこここに762㎜ゲージの軌道跡が見られる。後ろは東海道新幹線の高架。'95.9.13

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この訪問時点では2輌のターレット改造機関車がいました。1輌には「昭和46年3月 品川機械区」との標記がありますから、おそらく隣接する機械区が品川客車区用に手作りで誂えたものなのでしょう。両者ともにいわゆる「重要機械番号」のプレートがつけられており、きれいな(?)方が「06‐27‐03?600S」、もう1輌の汚れている方が「06‐27‐03‐601S」とあります。
▲種車のターレットに座席はないが、こちらはきちんとシートが備わっている。右はもう一台の“きたない方”。'95.9.13

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この“ターレット”(TURRET TRUCK=ターレット・トラック)とは実は朝霞製作所というメーカーの商標名だそうで、エンジン、ミッション等の駆動系からステアリング、そして駆動輪である前輪がすべて円筒形の前頭部にユニット化されているのが特徴の運搬車です。このため実に小回りが利き、前輪のステアリングはほとんど90度横を向くほど。まさに旋回自在のこのターレット(市場では“ターレ”と通称されているようです)は、水産市場や青果市場などの迷路のような通路では、今でもなくてはならない輸送手段のひとつです。
▲ターレット機関車が牽引する工具列車。台車にはパーツケースやらなにやらが所狭しと載せられている。'95.9.13

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ただ、このターレット機関車は、“種車”の最大無二の長所であった“旋回(ターレット)性能”をいっさい封印し、当然ながらステアリングはロックされたまま。円形のハンドルとともにただの手すりと化してしまっているのが面白いところです。かつては汐留や隅田川といった貨物駅はもとより、上野などの主要駅でもホーム上での手小荷物の運搬にこのターレットが多用されていましたから、品川運転所の2台も、もとをただせばどこかの駅で使われていたものなのかも知れません。
▲検修庫内にはポイントもある。ターレット機関車が導入される前はいったいどんな機関車がいたのだろうか。右は使われなくなった蓄電池倉庫から出てくる超狭軌の線路。1ft(304㎜)ゲージくらいだろうか。品川運転所はなかなかどうして結構なトワイライトゾ?ンだった。'95.9.13

ご承知のように「出雲」の廃止など、田町車両センターに出入りする客車もめっきり少なくなってしまいました。果たしてこの珍妙なターレット機関車が今でも元気にしているかどうかは定かではありません。

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横浜地区が本牧を残すのみとなってしまった今、神奈川臨海鉄道の中心は何と言っても川崎貨物駅です。1990(平成2)年に塩浜操駅から名称変更した川崎貨物駅は、周辺の臨海工業地帯で生産される石油製品をはじめとする各種化学薬品の発送と、その生産に要する原料の到着、さらには川崎港を中心とする輸出入貨物輸送の拠点でもあります。
▲塩浜機関区に集う神奈川臨海鉄道のディーゼル機関車たち。左のDD601は昨年日本車輌で新製されたばかりの最新鋭機。'06.4.15

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川崎貨物駅の構内面積は381.739平米。南北方向約2.7キロにおよび、東京ドームの約8.2倍という広大な貨物駅です。JR貨物と神奈川臨海鉄道の共同使用駅ということになってはいますが、伺ったところ、現在では駅業務のすべてを神奈川臨海鉄道が請け負っており、駅長以下すべての人員が神奈川臨海の社員だそうです。
▲輸送本部屋上から上り方をのぞむ。折しもEF210の牽く上り本線貨物が通過してゆく。右に見える建屋は新鶴見機関区の川崎派出。'06.4.15

kawakakichikun.jpg広大な駅構内は188基ものポイントが複雑にヤードを形成しており、さらにその周辺にJR貨物の川崎車両所や新鶴見機関区の川崎派出、神奈川臨海鉄道の塩浜機関区などがあります。見せていただいた構内配線図によると、北側にある駅本屋側から上り1?12番線、本線をはさんで下り1?2番線、引上1?2番線、下り出発8?10番線、留置1?15番線(以上がJR貨物)、留置16?27番線(神奈川臨海)…等々、とにかく線路の海状態です。さらに複雑なのは本線とそれに紐付く到着1?5番線などがJR東日本の線路であることです。つまり旅会社の本線を取り囲むように貨物会社のヤードが広がり、そのさらに周囲に神奈川臨海の線路網が敷設されているという図式となります。
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本年3月18日改正後の川崎貨物駅列車本数。(神奈川臨海鉄道提供)

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現在この川崎貨物駅を起点に神奈川臨海鉄道の自社路線3線がのびています。東側から末広町駅を経由して浮島町駅へ至る浮島線(3.9km)、千鳥町駅へ至る千鳥線(4.2km)、水江町駅へ至る水江線(2.6km)で、さらに浮島線からは東芝浜川崎工場専用側線、東燃ゼネラル100号地専用側線、同200号地専用側線、日本石油輸送専用側線、日本触媒工業専用側線が分岐、千鳥線からは旭化成専用側線、日本触媒工業専用線、全農川崎専用鉄道、それに千鳥東線と呼ばれる昭和電工専用側線が分岐しています。
▲川崎市一般廃棄物コンテナの荷役も行なわれる末広町駅(左)と千鳥線の全農川崎倉庫(右)。'06.4.15

IMGP6441n.jpgこの3線のうち最も列車密度が高いのが石油製品を扱う浮島線で、ことにこの冬は例年にない寒さだっただけに、たいへんな輸送量だったそうです。また同線の末広町駅では川崎市から委託された一般廃棄物コンテナの荷役も行なわれています。一方、千鳥線は主に日本触媒工業からの出荷と、ごくたまに千鳥町駅発着の甲種輸送に稼働しているそうです。残る水江線ですが、残念ながら現在では基本的に休止状態で、それでも線路保守のために1日1往復の単機列車が設定されているとのことでした。
▲千鳥線の終点はまさに岸壁。なお、保税地域でもありこの千鳥町駅周辺には通常立ち入ることはできない。'06.4.15

IMGP6444n.jpgかつてはここ川崎貨物駅から隣接する京浜急行大師線にデュアルゲージで乗り入れる“味の素線”があり、「トワイライトゾ?ン」でも何回か取り上げたことがあります。その味の素線もなくなってしまい、ここ数年は川崎貨物駅に目を向ける機会も少なくなってしまっていただけに、今回の訪問は実に有意義なものでした。なによりも、とかく元気がなくなってしまったとばかり思われがちな鉄道貨物輸送の活気溢れる姿を目の当たりにできたことが最大の収穫と言えましょう。
▲外国船舶からの港湾荷役がひっきりなしに行なわれている千鳥町駅付近の線路。一度ここに入ってくる列車を目にしてみたいもの。'06.4.15

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▲最後にお見せするのは27年前の塩浜機関区の光景。トップの写真とほぼ同じ位置からの定点撮影で、機関区建屋がまったく変わっていないのがわかる。'79.4.21

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今日はJR貨物の岩沙特別顧問のお誘いで、ひさしぶりに神奈川臨海鉄道を訪ねることができました。改めてご紹介するまでもなく、神奈川臨海鉄道は京浜工業地帯の貨物輸送を目的に1963(昭和38)年に第3セクター方式で設立された貨物専業の民鉄で、面白いことに川崎貨物駅を中心とした川崎地区と、本牧埠頭を擁する横浜地区の2エリアにわかれて鉄道貨物輸送を行っています。前者、川崎地区には水江線(2.6km)、千鳥線(4.2km)、浮島線(3.9km)の3線が、後者、横浜地区には本牧線(5.6km)が第一種鉄道事業線としてありますが、当然ながら両者は自社線路では結ばれておらず、それぞれが独自の輸送形態となっています。
▲塩浜機関区で待機する神奈川臨海鉄道のディーゼル機関車たち。隣接する川崎貨物駅をハブとした3線(水江線・千鳥線・浮島線)と川崎貨物駅構内用として7輌が配置されている。'06.4.15

IMGP6411n.jpg 残念ながら今日は土曜日とあって、本牧地区の海上コンテナ列車は到着のみ。浮島線も石油列車の運転はなく、イソブチレンタンクコンテナの出荷列車がわずかに運転される程度とのことでしたが、服部運輸部長自らのご案内で両地区を実に効率的に見学することができました。
▲片側3車線の広い道路を停めて、本牧埠頭駅を発車するDD5517牽引の151レ返空列車。本牧埠頭駅には一日2往復の列車設定がある。'06.4.15

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▲本牧埠頭駅の最深部(左)は本牧埠頭C突堤に突き当たる形で終点となる。右は風前の灯の「車票」。最近ではコンテナのICタグ(車票差の左下に見える黒い物体)化が進んでおり、遠からずすべての車票が消える。ちなみに、ICタグ化によって、外からは積荷も積空の別も目視はできなくなる。'06.4.15

yokohamachikun.jpg JR根岸線の根岸駅南東から分岐した本牧線は、三渓園を巻き込むように高速湾岸線の下を進み、4キロほどで横浜本牧駅構内に入ります。この横浜本牧駅が海上コンテナの輸送拠点となっており、トップリフターによる荷役作業が忙しく行なわれています。一方、さらにこの先、本牧埠頭C突堤まで線路がのびており、根岸起点5.570kmの終点に位置するのが本牧埠頭駅です。石巻方面から出荷された印刷用紙などがここで荷役されており、一日2往復(休日ウヤ)の列車が設定されているそうです。この本牧埠頭駅に入る手前には片側3車線の交通量の多い港湾道路があり、援護信号機という珍しい信号機の現示を受けて、列車はそろそろとこの広い踏切を渡ります。今や全国的にも珍しい光景と言えるでしょう。ちなみに、この本牧埠頭駅到着は午前便が11時41分、午後便が15時06分だそうです。

IMGP6425n.jpg横浜本牧駅からスイッチバックするようなかたちで国際埠頭まで3キロ弱の路線もありますが、現在では休止となっているそうで、踏切警報器などにも黒いカバーが掛けられたままとなってしまっています。思えば、入江、新興、東高島、高島、東横浜、そして山下埠頭と横浜港をとりまく臨港線はことごとく姿を消してしまい、この国際埠頭線の復活がないとなると、残されたのは本当に本牧埠頭線のみとなってしまうわけです。
▲本牧地区には2輌のディーゼル機関車が配置されている。写真のDD5517は 富士重工業1981年10月製の56t機。'06.4.15 横浜本牧駅

広田さんのお宅にて。

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今日は午後から広田尚敬さんのお宅に古いポジフィルムの整理に伺いました。以前にもちょっとふれたことがありますが、広田さんのアーカイブは実はほとんど未整理のままで、たいへん失礼ながら、どこに何があるかまったくわからない状態です。3年ほど前、私と清水デザイナーが丸一日を掛けて、マウントされているブローニーの国鉄蒸機だけは地方別に分類したのですが、その量たるや半端ではありませんでした。もちろん、その時の成果(?)をベースに、RM本誌で昨年一年間続いた「30年目のカウントダウン」が日の目を見たわけですから、それなり、いやそれなり以上の成果はあったわけです。
▲写真整理の合間、ハーブガーデンでアフタヌーンティーをいただく。手にしているのはわが国のハーブ研究の第一人者である奥様の最新刊『フレグラント ガーデン ?いつも香りの植物に包まれて暮らしたい?』(文化出版局3月26日刊)。まさにこのテーブル周辺が表紙写真になっている。

今回は35ミリ判のマウントを整理しようと出かけたのですが、これはちょっと考えが甘かったようです。ブローニーでさえあれほどあったのですから当たり前ですが、35ミリはとにかく尋常の枚数ではありません。暗くなるまでかかって曲がりなりにも整理できたのは結局九州地区のみ。書斎一杯に広がったポジケースにただただ呆然とするしかありませんでした。せめてマウントに入っているものだけでも、と始めたこの整理ですが、その何倍、いや何十倍もの未整理のスリーブがあることを思うと、一気に気が遠くなります。

IMGP6353n.jpg「鉄道写真」というジャンルを様々な逆風の中で自ら切り拓いてこられた広田さんは、今もって常に前へ、前へと向かっておられます。デジタル転換期に寝食を忘れて(実際、煎餅だけで2晩徹夜したとか…)画像処理に打ち込み、腱鞘炎になってしまった話に象徴されるように、ご本人にとっては過去のアーカイブよりも、これから創る作品の方がはるかにプライオリティーが高いようで、それが結果として旧作の冷遇(?)につながっているのかもしれません。それだけに、周囲の人間が多少なりとも整理のお手伝いをする必要があるようです。
▲庭の片隅には4月9日の本欄でもちょっとふれた三峰石灰のトロが…。しばらく見ないうちにすっかりトワイライトゾ?ン化(?)していた。'06.4.14

個人的感情を押し殺して、ドライに、事務的に仕分けせねばならないとわかっていても、ライトテーブルの上に広げられたポジを前に歓声をあげてしまうことも一再ではありません。末期の国鉄蒸機のポジにまじって利根川改修工事用の蒸機のカラーなどがポロッと出てくるのですから流石と言おうか何と言おうか…。
そしてもうひとつ。きょうの35ミリ判整理で改めて痛感したのが、コダクローム系の保存状態の良さです。ことに伝説の「KII」に至っては、信じられないほどの鮮鋭度と発色で、ピントルーペをのぞきながら、広田さんも「もし今も手に入れば絶対使いたいね」と繰り返しておられました。突如として生産中止になったこの外式ポジフィルム、いろいろな憶測がされていますが、本当にもう一度使ってみたいフィルムの筆頭です。

さて、今日を含めた一連のポジ整理の成果は、夏前に一冊の本となって再び実を結ぶ予定です。ご期待ください。

キハ08とその一族。

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今月のRMライブラリーはひさしぶりに国鉄車輌をテーマとした「キハ08とその一族」をお届けします。ハイブリッド気動車が実用化されようという今日から見れば隔世の感がありますが、昭和30年代初頭の国鉄は、無煙化の切り札であるディーゼル動車不足に悩まされており、窮余の策として浮上したのが客車の気動車化改造でした。本書では斯界の第一人者である岡田誠一さんが、縦横無尽に資料を駆使して、この客車改造ディーゼル動車誕生までの経緯を詳らかにされています。ことに、蒸気機関車を単純にディーゼル機関車に置き換えた場合、スハ42を制御気動車化して新製したキハ26に牽引させる場合…等々の事前経済比較は、これまでほとんど触れられることのなかった面でもあり、一見荒唐無稽とも思えるこのプロジェクトが、北海道支社の逼迫した事情を背景に、実はきわめて綿密な計算のもとに行われたことが知れます。
▲釧路駅で発車を待つキハ45 4〔釧〕。種車は鋼体化改造客車のオハフ62 3だが、そのルーツは中型木製客車のナハフ14627だという。'65年 釧路 P:笹本健次

kiha08.jpgかくして誕生した客車改造ディーゼル動車はキハ40(のちのキハ08)形3輌、キハ45(同キハ09)形5輌、キクハ45形3輌、キサハ45形3輌の4形式14輌。とてもディーゼルカーとは思えない鈍重なスタイルは国鉄気動車の中でも異色中の異色で、ことにオハ62を気動車塗り分けにしただけのようにさえ見えるキサハ45形は、10系気動車に挟まれると異様でさえありました。
▲表紙は豊永泰太郎さん撮影のキクハ45 1〔山〕。14輌の仲間の中で唯一本州で生涯を終えた車輌で、長井線で使用されていた。正面貫通扉が淡緑色に塗られていたのが特徴。

RMライブラリーとしてはこれまでにも「キハ41000とその一族」(キハ04、05、06)、「国鉄レールバス その生涯」(キハ01、02、03)、「キハ07ものがたり」を刊行しており、この「キハ08とその一族」の完成で、キハ01からキハ09までがすべて揃ったことになります。来週末には書店の店頭にこの表紙が並ぶはずです。異端の国鉄気動車の生涯を、是非お手に取ってご覧ください。

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この4月から、NHKラジオ第1放送のワイド情報番組「ラジオほっとタイム」(13?18時)内に「ビュッフェ131」というワイドコーナーができました。NHK放送センター・ラジオスタジオ131を食堂車“ビュッフェ”に見立て、旅と食を切り口にトークで“旬”を味わう…をコンセプトにした1時間半枠(15:30?17:00)です。忙しい今の時代だからこそ、逆説的にタイトルは、日本ではほとんど姿を消してしまった“ビュッフェ”としたのだそうです。
▲今日のNHK放送センター。131スタジオはこの13階にある。

ここまではネーミングが鉄道に因んでいるだけで取り立ててどうということはないのですが、今日の本題はこれから先です。NHKとしては番組タイトルが“ビュッフェ”なだけに、せっかくだから鉄道に関するコーナーをということになり、毎週水曜日に鉄道趣味に関するミニコーナーを設けることとなったのだそうです。3月に入ってからこの企画に関する打診があり、微力ながらお手伝いするはこびとなりました。

hottime.jpg編集部にはテレビ・ラジオといった電波媒体からの協力依頼がひっきりなしに掛かってきます。しかし、以前にもこのブログでも触れたことがあるように、専門誌の立場からすると、うかつに協力するのは極めて危険です。なぜならば、その大半はいわゆるバラエティーの類で、世間的に見て「奇人・変人」を求めているに過ぎないからです。せっかく企画に協力しながら、結果的に私たちが何より大事にしている“鉄道趣味”が揶揄嘲笑の対象となってしまうのは不愉快ですし、紹介した方にもたいへん失礼な結末となってしまいます。それだけに、事前に企画内容をお送りいただいて疑問点を質すなど、神経質すぎるほどの対応をしているのが実情です。
▲今日の「ビュッフェ131」進行予定表。雑誌で言えば「台割表」のようなものだが、もちろん秒刻み。

今回の「ビュッフェ131」に関しては、担当ディレクターさんからもお話をうかがい、逆に鉄道趣味の楽しさ、奥深さを多くの方に知っていただく良い機会になるとあえてお手伝いすることにした次第です。番組中、「マニア」はもちろんのこと、最近では電波メディアでもよく登場する「鉄ちゃん」も使わない等々、こちらから提案した部分も了解いただき、4月5日からのスタートとなりました。16時20分過ぎからのわずか4分ほどですが、1年をトータルすれば結構な時間となります。このミニコーナーがうまく鉄道趣味の認知度アップにつながってくれれば…と願っています。

と、他人事のように書いたものの、さっそく今日は「出演」するハメとなってしまいました。初日、4月5日は森公美子さんをゲストに岩成政和さんが鉄道趣味の幅広さを軽妙に語ってくださり、今日はマラソンの増田明美さんをゲストに、私が交通博物館惜別の話題を取り上げました。来週19日は書籍『定刻発車』で知られる作家の三戸祐子さんが、日本の鉄道の正確さを独自の視点で語ってくれるはずです。5・7・9・11月には大相撲中継で放送されない日もありますが、毎週水曜日の16時20分過ぎからのこのミニコーナー、是非ご注目、いやご注聴(?)ください。なお、仙台放送局管内と関西の一部では別のローカル番組となっているそうですが、それ以外はさずがNHKラジオ第1、日本の津々浦々まで届いているそうです。

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JR東日本は今日、世界初の燃料電池ハイブリッド車輌の開発を本格的に開始すると発表しました。「燃料電池」は水の電気分解と逆に水素と酸素による電気化学反応によって電力を作り出すシステムで、環境負荷の低減や、石油をはじめとした化石燃料の枯渇に対応する新世代のエネルギーとして、いま世界的に注目を集めています。すでに自動車の世界ではこの燃料電池が実用化されつつあり、トヨタとホンダの間では熾烈な開発競争が行われています。
▲床下に燃料電池を搭載した燃料電池電車完成予想図。(JR東日本提供)
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発表によると、今回JR東日本が試験に供するのは、3年ほど前から日光線・烏山線等で試験を行ってきた“NE(New Energy Train)トレイン”キヤE991をベースに、エンジン・発電機を燃料電池に交換したもの。つまりは電車です。制御システムは燃料電池と蓄電池のエネルギーを組み合わせてモーターを駆動するハイブリッドシステムとなります。試用される燃料電池は固体高分子形燃料電池と呼ばれる室温動作が可能で小型軽量化できる種類のもので、出力65kWのもの2台が搭載されます。

■燃料電池ハイブリッド車輌の概要と諸元。(JR東日本提供)
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キヤE991を改造して誕生するこの世界初の燃料電池ハイブリッド車輌、この7月には試作車が完成、来春からは実際の走行試験が開始されるそうで、試験の中で燃料電池の性能、環境負荷低減効果、水素供給方式等の各種試験を実施し、将来的にはその成果をもとに、架線設備の撤去など地上設備のスリム化や景観向上といったメリットにもつなげてゆきたいと、大きな期待がもたれています。既報のとおり、キヤE991をベースにした小海線用ハイブリッド車輌キハE200形も今年度中に誕生する予定で、ハイブリッド、さらには燃料電池ハイブリッドと、鉄道車輌はいま大きなエネルギー転換期に差し掛かりつつあるといえます。

この1冊。(6)

近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、ここでは何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

『Far Wheels』(1959年)
6177n.jpg 今回ご紹介するのは“洋書”ですが、日本の鉄道趣味に少なからぬ影響を与え、またそれ以上に欧米のファンに日本の鉄道を趣味的な視点で知らしめた伝説の一冊です。著者のチャールズ.S.スモール(Charles S.Small)さんはコロンビア大学を卒業し、その後、米国有数の石油会社の要職に就いておられた関係で、仕事で世界各地を訪問され、その余暇を利用して現地の鉄道に接してこられました。しかも、ただ単に乗車する撮影するという通り一遍のものではなく、その鉄道の来歴から車輌の詳細にいたるまで、実にこと細かに記録され、それをもとに数々の出版物を世に送り出されてきました。
▲線路をあしらった表紙は今となっては時代を感じさせるデザイン。

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▲木曽森林鉄道のボールドウィンB1リアタンクが口絵となった総扉(左)と日本の鉄道を紹介したセンテンスのトップページ(右)。
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▲全編を通してただ一箇所の和文がセンテンス始めのこの文字(左)。右は神戸港からのエクスカーションの経路図。

この“Far Wheels”はそのスモールさんの処女作となった記念すべき本で、1959(昭和34)年の初版。“A RAILROAD SAFARI”と副題の付けられた本書は、スモールさんが訪れたエリトリア、エチオピア、ジャマイカといったこれまで国際的に紹介される機会のなかった国々の鉄道、しかもメインライン以外の鉄道を紹介しており、その中に“More Tunnels than Ties”(枕木よりトンネルが多い)と銘打たれた日本の鉄道が24ページにわたって紹介されています。総頁が168ページほどの本ですから、全体から見ればかなりのボリュームが日本に割かれていると称せましょう。

IMGP6184n.jpgこの時スモールさんが巡ったのは、神戸を起点に中央西線、木曽森林鉄道、磐越西線、沼尻鉄道、鹿島参宮鉄道、東武鉄道、西武鉄道是政線、小坂鉄道、寿都鉄道といった線区です。仕事で来日しながら、暑い真夏の休日を“a third class coach”でこれらの線区を駆け巡るスモールさんの目には、“monpei a sort of overall”を履いたご婦人などが、なんともエキゾチックに映るのですが、何よりも強烈な印象をもたらしたのは、実に多彩な日本のナローゲージ鉄道網でした。ここで言うナローゲージとはもちろん3フィート6インチ、つまりは国鉄も含んでのことです。汽車会社の高田隆雄さんとは1950(昭和25)年以来の親交と聞きますから、これらのエクスカーションも高田さんのサジェスチョンあってのものなのかも知れませんが、当時なかなか日本人ファンでも足を向けないような線区までこまめに訪問されているのには頭が下がります。
▲小坂鉄道や寿都鉄道といった地方私鉄は、まだ日本人ファンでも訪れたことのあるのは一握りだった。そんな時代に的確な解説で海外に紹介されたのだから驚き。

IMGP6174n.jpg恐らく趣味のスタンスから日本の鉄道が広く世界に紹介されたのは本書が初めてで、その意味でも画期的だったといえましょう。日本出身の奥様とハワイに暮らされていたスモールさんは大の日本贔屓でもあり、本書に次いで英国で“Private narrow gauge railroads of Japan”の副題のある“Rails To The Rising Sun”を、さらに機芸出版社から英文+別冊和文翻訳冊子という前例のない発行形態の“Rails To The Setting Sun”(夕陽に映える鉄道)を刊行されるに至ります。筆致も初期の“Far Wheels”の紀行的なものから、次第に徹底した調査に裏付けられた内容となり、台湾の人車軌道を執拗にリサーチした“Rails To The Mine”や、第一次大戦時のフランス鉄聯を追った“Rails To The Front”でその手法は不動のものとなりました。もともとスモールさんご本人がモデラーでもあっただけに、随所に挿入されるストラクチャーを含めた構内平面図は、その後多くの日本人モデラーにも強く影響を及ぼすことになります。もちろん「模“景”を歩く」もご多分に漏れません。
▲“Far Wheels II”の表紙は原本総扉に使われていた木曽ボールドウィンの写真。

その後1986年になって“Far Wheels”の日本の鉄道を中心にした改訂版“Far Wheels II”が発行されました。判型もA4変形中綴じと30年近くの歳月を経て大きく様変わりしましたが、小熊米雄さんから木曽森林鉄道のレクチャーを受けたことなど、スモールさんの親交の広さを今さらながら再認識する記述もあり、こちらも実に興味深い内容です。
140×234mm版上製本168頁

三峰石灰、桜咲く。

busyuunakagawa1142.jpg東京の桜ははやくも満開を過ぎ葉桜となりつつありますが、この季節になると思い出すのが、秩父鉄道の武州中川にあった三峰石灰のエンドレス軌道です。武州中川駅と工場の間1キロほどを結ぶこの軌道、機関車がいるわけでもなく、四半世紀前の感覚からすれば、とりたててどうこう言うほどのものではありませんでしたが、他の撮影の合間や、果ては忘年会の行き帰りなどに何回となく訪れていました。そのなかでも1979(昭和54)年3月に訪れた時は、期せずして桜が満開で、今もって強く印象に残っています。
▲満開の桜の下、三峰石灰のエンドレスが貨物ホームからのびてくる。背後に見えるのはデキ105。現在では貨物列車は影森以遠には来ない。'79.3.31

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不思議なことに、桜の木は花の季節以外はまったく意識されないもので、この武州中川の見事な桜も、それまでの何回かの訪問の際はまったく気付きませんでした。それだけに見慣れた貨物ホームの先に、まるで軌道に覆いかぶさるように咲き誇る桜を発見した時は思わず歓声を上げたほどです。
▲満開の桜の下を抜け、駅から桑畑の中を延々と続くエンドレス軌道は地元の人たちの生活路でもあった。'79.3.31

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▲武州中川駅構内南側の側線が三峰石灰の貨物ホーム。木造の上屋に目をこらしてみると軌道らしきものが…。'79.3.31
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▲軌道は貨物ホーム直前でほぼ直角に曲がって上屋の中に入ってゆく(左)。写真右はホーム荷捌き場内の様子。'79.3.31'79.3.31
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▲貨物ホーム端に設けられたエンドレスの緊張装置。ここまで来たトロはクリップを外されて手押しで上屋の中の荷捌き場へ押し込まれる。'79.3.31

この三峰石灰工業(株)の軌道は、「エンドレス」と呼ばれる曳索鉄道で、同じ曳索鉄道でも「インクライン」(ケーブルカーなど)がその名のとおり傾斜地に設けられるのに対して、平地に敷設されているのが特徴です。基本的には輪(エンドレス)になったロープをぐるぐる回転させ、そのロープに付けた「クリップ」と呼ばれる締結金具に台車を連結して運搬する方法で、駆動用巻機以外はほとんど設備費が掛からないのが大きなメリットといえます。その反面、基本的に直線区間でないと使えない、必ず複線にしなければならないなどの制約も多く、全国的にもそれほど多く見られた方式ではありませんでした。関東地方では近年まで残っていた奥多摩工業曳索鉄道氷川線(氷川?倉沢間4850m/軌間762mm)が知られていましたが、手もとの資料(『鉱山読本(採鉱編・鉱山の運搬)』1964年)によれば、全国のエンドレスは1961(昭和36)年度時点でも20台(うち7台は坑内)しかありません。やはりかなりレアな軌道だったのです。

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三峰石灰の軌道は「下綱式」と呼ばれる方式で、軌道中央部に曳索(ロープ)を通す方式です。工場内に設置された電動エンドレス巻機によってこのロープをぐるぐる回すわけですが、上り線と下り線の荷重の掛かり具合によってロープの弛みが出るのを防ぐために、駅側に緊張装置と呼ばれるテンショナーが設けられていました。恐ろしい(?)のは途中に何箇所かあった踏切で、スリット状に溝が切ってあるとはいえ、運転中は踏切の中をロープがかなりのスピードで動いるわけです。
それにしてもたいした距離でもないのに、なにゆえわざわざエンドレス軌道を使う必要があったのかは首を傾げざるをえません。
▲「踏切注意」の大看板を掲げた第4種(?)踏切。溝が切ってあるとはいえ、運転中は始終ロープが動いているのだから結構怖い。'79.3.31

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来年の桜の季節も…と思っていながら、結局、時期を逸してしまい、そのうちに軌道そのものが撤去されてしまいました。あの桜の下で行き交うエンドレスを見ながらゆっくりと一日を過ごせたら…いまやかなわぬ夢と知りながら、この季節になるとつい思い出してしまうのです。
▲桑畑の中を1キロほど進むと三峰石灰の中川工場(右)に到着する。右端に見える小屋の中に電動機によるエンドレス巻機が入っている。'79.3.31

なお、この三峰石灰大達原鉱山のトロのうちの1輌は、広田尚敬さんに引き取られ、広大なお庭で、ハーブ研究家として国際的に高名な奥様のハーブに囲まれて今も健在です。

8500fig.jpg2月14日付けの本欄でご紹介し、RM本誌誌上でも再録している「グーとパー、バッファーの話」に関して、学生時代から懇意にしていただいている機械学会の山本茂三さんからお便りを頂戴したのでご紹介してみたいと思います。私はこの原稿中で「本来は左右で形態が違って…(中略)…右がお椀型、つまりは“グー”、左は平板、つまりは“パー”となっていたようです」と書いてしまったのですが、山本さんのご指摘でこのバッファーの“グー”と“パー”の関係が氷解しました。それでは山本さんからのお手紙を改めてご紹介してみましょう。
▲山本茂三さんご提供による国産初のヴォークレイン複式機8500形組立図。山陽鉄道兵庫工場1905年製で、図面は当時の鉄道車輌図面の流儀に従って第一角法で作図されており、下の平面図は上から見た図。バッファーが独自の右=平面、左=曲面となっている点に注目。側面図はフックの表現から右のものを描いているため当て面が平面となっており、下の平面図とも一致する。
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「編集長敬白」でバッファーの当て面の説明がありますが、基本的な設計のプラクティスは、イギリスが左右曲面、ドイツが右=曲面、左=平面、と認識しています。現在もほぼ踏襲されているように思います。アメリカ製は、本国では主流ではないので、日本に輸入された機関車を見ますとイギリス流に倣っているようです。Brooksのような、割とツルリとしたタイプのものもあります。日本製も機関車を例にとりますと、官鉄(国鉄)では860、230を始めとし18900、9900までイギリス流の左右とも曲面型を採用して設計されました。ドイツから輸入した4100形は右=曲面、左=平面でしたが、後継機の国産機4110形は左右とも曲面でした。

一方、山陽鉄道は、1896(明治29)年製の国有後の850形から1907?1909(明治40?42)年製の3700形まで機関車の設計・製作をしていますが、850、5480、6100の前期型まではイギリス流の左右曲面でした。資料的には6100の後期型(炭水車の図)と、ここにお送りした8500形が、右が平面、左が曲面の図面が残されています。1907(明治40)年から製作の3700形の図面ではドイツ流の右が曲面、左が平面となっています。残された写真で、アメリカ製の機関車も(交換を含め)このようになっていたことがわかりますので、ドイツ流が採用されたことが確認できます。国有直前に設計された3700形の図面が、右が曲面、左が平面となっていることから、山陽鉄道は最終的にドイツ流に落ち着いたと見てよいでしょう。

残されている写真では日本鉄道でもドイツ流の採用が見られますが未調査です。さらに付け加えますと、先述した9900形の場合、部品表上は省の基準型バッファーを使うことになっており、左右とも曲面でよいのですが、川崎造船の竣功写真を見るとかなり平面に見えるものがあります。バッファーはストック品を付けて写真を撮ったか、単に平面風に見えるだけなのかは未調査です。

以上のご指摘から、機関車に関しては、省の基準としては左右曲面、つまり“グーとグー”で、輸入機や国有化私鉄からの編入機に“グーとパー”もしくは“パーとグー”のものが存在するというのが正確な表現のようです。山本茂三さんありがとうございました。

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今日はこの週末お薦めの展覧会をふたつご紹介してみましょう。最初は、予告でご紹介したことのある「東京ステーションギャラリー」の企画展・東京駅所蔵の品々と写真で辿る「東京駅の歴史展」です。従来は有料だったこの「東京ステーションギャラリー」最後の企画展示とあって、なんと入場無料。4室に分かれた展示室には、鉄道院総裁だった後藤新平直筆の額や、戦災を憂いた横山大観が東京駅長に贈った「富士に雲」など、これまで非公開だった東京駅秘蔵の美術品が数多く展示されており、ちょっとした美術館のようです。
▲丸の内中央口の東京ステーションギャラリーのエントランスと「東京駅ルネッサンス」のパンフレット。'06.4.7

tokyostna.jpgまた、中央停車場としての計画時から、辰野金吾による設計、開業、震災、戦災、復興といった90年あまりにわたる歩みを振り返る展示では、貴重な写真や図面の数々が、時代を追って実に見やすく展示されています。さらに、中央展示ケースにずらっと並べられた時代を物語る絵葉書も圧巻です。本誌でもお馴染みの関田克孝さんが提供されたもので、関田さんご自身がお書きになった懇切丁寧な解説と合わせて拝見していると、たちまち時間が経ってしまうほどです。
残念ながらギャラリー内は全面撮影禁止ですので、展示の様子をここでお伝えすることはできませんが、2011年の復原完成・再オープンまでクローズされるこのギャラリーに足を踏み入れられる最後のチャンスでもあります。ぜひともこの土日にお出でになることをお薦めします。
4月9日(日曜日)まで。10:00?20:00 入場無料
▲2011年復原完成時の丸の内駅舎完成予想図。(JR東日本提供)

oer1.jpgそしてもうひとつ、こちらも大注目の展覧会が新宿で行われています。オーナーご自身も高名なファンである「ギャルリー トラン・デュ・モンド」で行われているのは、小田急電鉄OBの皆さんを中心にした写真展「昭和30年代の小田急線写真展」です。赤石定次さん、生方良雄さん、川島常雄さん、隅野成一さん、滝川精一さん、山岸庸次郎さん、山崎和栄さん、山下和幸さん、吉原 実さん、渡邊淳一さんに特別出展の荻原二郎さんを加えた11名のベテランファンによるこの写真展は、高度成長下でめまぐるしい変貌を遂げる昭和30年代の小田急電鉄の姿を、新宿から片瀬江ノ島まで駅順を追って紹介するもので、小田急ファンならずとも共感を呼ぶことうけ合いの素晴らしい写真展です。
▲ご自身の作品を前にした川島常雄さん(右)と隅野成一さん(左)。'06.4.7

oer2.jpgとかく車輌中心になりがちな作品の選定も、あえて周囲の“時代”が写り込んだものを優先するなど、全体を通して昭和30年代の小田急の姿が浮き彫りになる構成は秀逸です。さらに、メンバーの多くが車輌部門をはじめとした要職に就いておられただけに、いちファンには伺いしれないエピソードがキャプションとして数多く添えられているのも目を引きます。
▲生方良雄さん(右)と山岸庸次郎さん(左)。バックの絵画は画才もあったSE車の生みの親の故山本利三郎さんが描いた戦前の成城学園駅。'06.4.7

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大秦野、現在の秦野駅場内信号のちょっと先あたりの小山にある天神様からは、夜な夜な白い布を被ったようなおばけが降りてきて線路を横切るので運転士たちから恐れられていた(川島常雄さんのお話)とか、狐が電車に化ける話、沿線の農夫があまりに乗客が少ないので心配してやってきた話…等々、高架化が進み、VSEが行き交う現在の小田急からは想像さえできないような牧歌的エピソードの数々も披露されています。
▲左から1910形就役当時のロマンスカー・ポスター、生方良雄さん撮影の帝都電鉄(井の頭線)からきた1500形2扉時代、江ノ島海水浴列車「かもめ」の写真・資料。

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この写真展、みどころは写真ばかりではありません。ポスターや歴代形式の公式パンフレットの実物など、なかなか目にすることのできない貴重な資料も多数展示されています。さらには、さりげなくケースに収められた模型もタダモノではありません。Oスケールの2100形は1956(昭和31)年に京王帝都電鉄(当時)の合葉博治さんが車体を作って小田急の山岸庸次郎さんに贈ったもので、電装と足回りは滝川精一さんの手によるものだそうです。このモデル、すごいのはDC2線式とAC3線式の2電源に対応する機能を備えている点で、しかもトレーラー車にはジャンパ連結器を使って補助電源を供給していることです。さらに、山岸さん曰く「今では1色塗りにしてしまいましたが、良く見ると車体に塗り分け線の跡が見えるでしょう」。確かに腰板部にうっすらとかつての塗り分け跡が…。なんとこれは実車の塗り分け案を検討する際にお使いになっていた名残なのだそうです。
▲「O.E.R. 2100型 昭和31年」と合葉さん手書きの文字がある箱も逸品。DC2線式とAC3線式は床下のスイッチで切り替える(左)。トレーラー車にはジャンパ線で補助電源を供給する実車さながらの機構(右)。'06.4.7
「昭和30年代の小田急線写真展」
4月12日(水曜日)まで。10:00?17:00 入場無料
「ギャルリー トラン・デュ・モンド」:新宿区歌舞伎町2?46?5 KM新宿ビル9F 西武新宿駅北口正面 ℡ 03?5273?4557

15日間にわたってお届けした「32年前の“今日”へ ?1974年北海道の旅?」はたいへんなご好評をいただきました。キーボードの打ちすぎで腱鞘炎になった甲斐(?)もあったというものです。月刊誌ではこのような疑似体験タイムスリップものはどうしても臨場感に欠けがちです。冬から春へとめまぐるしく季節がうつろうこの時期にこそ、その変化を肌で感じ取りつつ、同じ月、同じ日へのバーチャル・トリップを展開してみたい…それはウェッブだからこそ実現できる企画で、このブログを始めた時から抱いていた夢でもありました。日々の雑事まで書き綴ったメモ帳と埃まみれの時刻表と格闘しながらの半月でしたが、ご好評に意を強くし、機会をみてまた別の地域の第二弾をお送りできればと考えております。

というわけで、今日からは通常編成に戻っての再開です。

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一般マスコミでは “ネコ耳”の愛称ですっかり人気者となっているJR東日本の次世代新幹線“FASTECH”に、新在(新幹線と在来線)直通バージョンの試験車E955形(FASTECH360Z)が登場、仙台市の新幹線総合車両センターで報道公開が行われました。すでに本誌でご紹介したとおり、次世代新幹線“FASTECH”は、新幹線区間での最高運転速度360km/hを技術目標に開発が続けられている高速試験電車で、今回新たに誕生したのは、在来線区間乗り入れを前提とした6輌編成1本です。
▲E955-1の運転台。先行試作の新幹線専用E954-8に準じた構造で、運転席はほぼ中央部に配置、それを囲むように3個のモニター装置が並ぶ。'06.4.5 P:RM(取材協力:JR東日本)

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外観は例の“ネコ耳”も含めて昨年6月に登場したE954形をおおむね踏襲しているものの、在来線車輌限界に合わせるため、パンタグラフ遮音板を上下可動式にしたり、狭くなった車体幅(2,940mm)と新幹線ホームとのクリアランスを埋めるための可動式ステップが設けられている点などが特筆されます。
▲東京方11号車E955-6を先頭とした編成外観。“ネコ耳”の正体は非常停止距離を短縮する可動式空気抵抗増加装置で、通常は格納されていて目にすることはできない。'06.4.5 P:RM(取材協力:JR東日本)

E955a.jpgArrow-line(アローライン)と呼ばれる特徴的な先頭形状は、先頭長とトンネル微気圧波の関係を確認するために、E955‐1の先頭長さが16,000mm、逆端のE955?6が13,000mm(全長はともに24,100mm)とそれぞれ異なっているのも注目されます。
※詳しくはRM本誌次号をご覧ください。
▲盛岡・秋田方の先頭車E955-1は先頭長が実に16m、客室部分は全長の3分の1程度しかない。'06.4.5 P:RM(取材協力:JR東日本)

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▲12号車のシングルアーム・パンタグラフ。遮音板は車輌限界の関係で可動式となり、在来線走行時には格納される。'06.4.5 P:RM(取材協力:JR東日本)
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▲在来線車輌定規に則った車体断面のため、新幹線ホームでは400系やE3系と同様に各出入口下部からステップが出てくる。'06.4.5 P:RM(取材協力:JR東日本)

高速鉄道車輌を開発する上での最大の障壁は“両端を先頭”にせねばならないことだ、と技術者の方からうかがったことがあります。飛行機のように一方向にしか進まなければどれほど開発しやすいことか、とおっしゃるその真意は、高速になればなるほど、先頭形状ではなく“後部形状”こそが問題になるということだそうです。“先頭”は折り返し駅では今度は“後部”、両方向に走ることが宿命の鉄道車輌ゆえの悩みといえましょう。
誕生したばかりのE955形=FASTECH360Zは今日、4月6日深夜から仙台?北上間で試験走行を開始します。新世代の新幹線が本格的に産声を上げるのももうすぐです。

4月6日
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函館0時15分出航の青函連絡船12便は、これまで乗ったことのない「松前丸」でした。「ニセコ2号」で23時05分に函館に着いたら何か食べようと思っていたのですが、青函待合室はすでに乗船待ちの列。やむなく40円の「よつば3.4牛乳」を飲んだだけで我慢します。ちなみにこの「よつば3.4牛乳」、内地では売っておらず、青函連絡船に乗って初めて入手できる道産子牛乳でした。その名のとおり乳脂肪分3.4という驚異のスペック(もちろん当時としては)で、初めて飲んだ時はなんて濃くて美味しい牛乳なんだろう、さすが酪農王国・北海道といたって感激したものです。

お決まりの普通船室椅子席を確保したものの、さすがに腹が減って仕方がありません。深夜便ゆえ船内グリルは営業しておらず、やむなく鮭寿司(300円)と味噌汁(60円)それにみかん(75円)を買って我慢することにしました。思えば、半月にわたる今回の旅のなかで、宿に泊まったのは結局夕張の一泊のみ。あとはひたすら夜行連泊の毎日で、食事もほとんどまともなものを口にしなかったことになります。

青森には未明の4時05分入港。1時間ほどの連絡で5時09分発8202レ急行「十和田51」号に接続です。乗車するオハ12 206の、半月ぶりに目にする「北オク」の所属標記に、なぜかちょっと一安心。ED75 1006〔青〕の発車のホイッスルを耳にするや、深い眠りに落ちたのでした。

あの日、私たちの目の前にあったのは、決して美しい蒸気機関車の姿ではありませんでした。LP405補助灯を掲げ、デフは切り詰められ、それどころか時として「団結」の文字を大書された様は、時代の狭間でもがく断末魔の蒸気機関車の姿そのものだったとさえ思えます。しかし今さら振り返れば、たとえどんな姿であろうと、それこそが、1974年北海道を旅した私たちにとってのかけがえのない蒸気機関車、いや「鉄道」だったのです。

この15日間に出会ったのは蒸機ばかりではありません。ともに三脚を立て、一緒に食事をし、同じ夜行に乗り、そして「じゃ、またどこかで…」と別れていった名も知らぬ彼らは、間違いなく同じ時間、それも今から思えば考えられないほど濃密な時間を共有した仲間でした。
その後、大沢先輩はプロの風景写真家となり、春日井のU君は念願かなって教職に就いたと聞きます。一方、そのU君と偶然出会って、4月1日の劇的再会をもたらしてくれた同期の土屋 隆君は、一昨年2004年夏、不治の病でこの世を去りました。
初日の阿仁合線で出会った秋田のファン、いく日も一緒に歩いた立教の人、FTbブラックの彼…あれから32年、みんなどんな人生を歩んでいるのでしょうか。

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気がつくと「十和田51号」は昼下がりの常磐海岸を左に見ながら、陸前浜街道をひたすら南へと走り続けていました。窓の外にはあの吹雪の上川ターンが嘘のようなうららかな春の景色が流れています。上野まであと4時間。足掛け15日におよぶ旅が、まもなく終わろうとしています。

4月5日
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今回の旅で旭川駅待合室は“2泊目”、上下の「大雪5号」には4夜もお世話になった計算です。この日も前夜23時02分に「礼文」で旭川着、勝手知ったる待合室で仮眠をとって、3時10分発の上り「利尻」か3時45分発の「大雪5号」で札幌に向かうつもりでした。ところが、やってしまったのです。さすがに疲れが出たのか、ふっと気がつくと寝静まった待合室の大時計は4時を回っているではないですか。「しまった!」と思っても取り返しはつきません。518レ「大雪5号」を逃してしまうと札幌方面の列車は6時16分発の122レまでなく、しかも122レは各停ですから、札幌に最も早く着くのは7時18分発の802M急行「かむい1号」ということになります。
▲室蘭港から吹き寄せる風にひときわ速く雲が流れる。入換えにいそしむS304は一丁前に野太い5室の汽笛を響かせていた。'74.4.5 御崎

実は今日は室蘭にある「鐵原コークス」に行く予定でした。専用線の蒸気機関車がすっかり影をひそめてしまったなかにあって、「鐵原コークス」では2輌のタンク機関車が活躍しているはずです。これまで何回かの渡道では訪ねそびれていただけに、今回はなんとしても見ておきたいところです。ただ、所詮は構内入換えですから、「鐵原コークス」で丸一日を費やすほどのことはなく、早朝札幌に着いた後は千歳線の始発に乗り継いで、午前中は沼ノ端あたりで行き交うC57やD51を撮りまくろうと考えていたのです。ところが、寝過ごすという凡ミスでそれも水の泡。「かむい1号」から千歳線に乗り継いだとしても「鐵原コークス」のある御崎に着くのは昼過ぎになってしまいます。

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そこまでして鐵原に拘らなくても…とも思いましたが、いまさら室蘭本線を撮っても、と邪念を捨てて御崎へと直行することにしました。旭川駅の構内スタンドが開くのを待って、大カレー(190円)とトースト(100円)というミスマッチな朝食をとり、「かむい1号」のモハ711 57〔札サウ〕で札幌へ。札幌では「とこまん」なる10個入り150円の饅頭を買って、千歳線経由室蘭行(東室蘭?室蘭間は普通列車)急行「ちとせ3号」のキハ27 35に揺られること2時間あまり、見渡す限りの重工業地帯のど真ん中・御崎駅に降り立ちました。
▲見慣れた北海道型D51も、200ミリレンズでこの角度から見ると印象が変わるから面白い。8283レを組成中の岩見沢一区 D51 104。'74.4.5 御崎

206D「ちとせ3号」→586Dの御崎到着は12時14分。この手の専用線を訪問するには最悪の昼休み時です。新日鉄室蘭製鉄所に囲まれるように立つ「鐵原コークス」は駅の北西側に位置していました。「新日鉄室蘭 鉄原KKコークス工場」の表札、彼方のプラントには「てつげんコークス」の大看板が見えます。駅の出口は専用線とは逆の東側で、工場の門がある踏切までは室蘭本線の東側を並行する国道を500mほど歩かねばなりません。

misaki1.jpg巨大な煙突やらプラントやらの様子を見るに、どうもこれは容易く中に入れそうもない雰囲気です。よろよろと専用線門の守衛所まで行って来意を告げるとやはりダメ。いやここまで来て撮れずか…と思ったものの、守衛さんが工場から出てくるダイヤを教えてくれました。それによれば駅と工場の間は午前中に2往復、午後は13時07分に工場を出て御崎駅に13時13分着と、その折り返し御崎駅14時21分発、工場14時27分着の1往復のみということです。なにはともあれ動いている姿をカメラに収めることだけはできそうです。「国鉄の方で撮るぶんにはウチらは知らないから…」という守衛さんに頭を下げて昼休みが終わるのを待ちます。
▲S304は日本製鉄輪西向けに日本車輌が製造したいわゆる“製鉄所系”とよばれるタンク機で、八幡製鉄や石原産業にも同系機がいた。ご承知のように本機は現在「三笠鉄道村」で動態保存されている。'74.4.4 御崎

13時07分発といってもダイヤなどあってなきに等しく、定刻をかなり回ってからCタンクのS304号がバック運転の単機で工場の奥から姿を現しました。S304は1939(昭和14)年日車製の35tCタンク、ほかにS205という1938(昭和13)年日立製のBタンクもいるはずですが、外からでは庫がどこにあるのかも伺い知れません。駅構内で入換え中のD51 104〔岩一〕との間でコークス原料の石炭を満載した無蓋車の受け渡しが行われ、盈車を牽いたS304は定刻よりかなり早くそそくさと工場へと引き上げていってしまいました。

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時計の針は14時をちょっと回ったところ。周遊期限はあと2日ありますが、明日中には東京に帰らねばならないので、少なくとも今夜の青函連絡船には乗らねばなりません。これ以上室蘭にいても格別な収穫はなさそうですし、札幌から函館行の急行「ニセコ2号」に乗ることにしました。東室蘭から長万部へ抜ける方が早そうですが、この区間の優等列車は「すずらん」以外はすべて特急で、普通列車で移動しても長万部からは結局「ニセコ2号」に乗るはめとなってしまうのです。
▲鷲別岳(911m)をバックに工場を出るS304。新日鉄室蘭製鉄所用のコークスを製造するここ鐵原(株)は、国鉄蒸機全廃後もしばらくこの機関車を使い続けていた。'74.4.4 御崎

御崎14時46分発の591D→211D「ちとせ7号」(キハ27 38)で一路札幌へ。札幌16時53分着。18時ちょうど発の404D急行「ニセコ2号」へ乗り継ぐ1時間ほどを利用して最後のみそラーメン(250円)を食し、車内用に日糧パン(80円)としゅうまい(150円)、それにささやかなお土産・氷下魚(こまい=200円)を買い込んでキハ27 125で函館へと向かいました。

4月4日
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前夜もまたまた「大雪5号」です。北見を6分延発した518レの8号車スハフ44 15で仮眠をとること約6時間、4時12分到着の深川下車、待合室で深名線の始発を待つことにします。

興浜南線やら深名線やら撮影効率の悪い超ローカル線ばかり回っているように思われるでしょうが、本線筋はひとわたり撮ったこともあってか、実は今回の渡道では、なかなか行く機会のない支線を重点的に回ろうとひそかに決めていたのです。

▲文字とおり白樺に囲まれた原野を行く8993レ。数年前まで冬季間はDCに代わって9600牽引の客車列車が活躍していた。'74.4.4 白樺?蕗ノ台

shirakaba1.jpg6時37分、留萌本線始発の一時間近くあとに深名線始発の921D朱鞠内行が発車します。車輌はキハ11の北海道バージョンであるキハ12 2。深名線は全線121.8kmとローカル線としては長大で、しかも豪雪・極寒地帯として知られる厳しい環境ゆえに、冬期の全面運休を極力抑える必要から、全列車が朱鞠内での乗り継ぎとなっていました。
shirakaba2.jpgこの921Dも8時50分に朱鞠内着、9時25分発の943Dに接続するダイヤです。朱鞠内の乗り継ぎ時間に朝食を調達しようと試みましたが、朝早いこともあってか、結局食パン(120円)しか入手できず、やむなくただの食パンをかじりながら943Dのキハ22 31で今日の目的地・白樺へと向かいます。
▲59691〔深〕の牽く8990レが淡々と第二雨竜隧道への勾配を目指す。'74.4.4 白樺?蕗ノ台

白樺駅9時49分着。深川起点93.550kmのこの白樺は、区分上は一応“駅”ですが、実態はほとんど乗降場に等しく、ただ小さなホームと駅名標があるだけです。しかも面白いことに、厳冬期は通過扱いとなってしまう奇妙な駅でした。もちろん周囲には人家らしきものは見当たらず、周囲には朱鞠内湖の凍てつく湖面が広がるばかりです。

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深名線にも深川区の9600が牽く不定期貨物が1往復設定されており、4月の運転日は2、4、6日?の偶数日。奇数日運転の増毛への貨物とちょうど交互の設定となっています。上り貨物8990レの通過までまだ2時間以上。先の宗谷本線糠南乗降場ではないですが、この手の待合室さえない駅は居場所もなく、気象条件によっては“遭難”さえしかねません。幸い風もなく、ひたすら冷えているものの雪も落ちてきませんから、贅沢は言わずにひたすら8990レを待つことにします。
▲雪に埋もれた白樺駅ホーム。掘り出された駅名標でようやくここが駅だとわかる。ただ、通路はなく、線路を歩かないとどこにも行けない。'74.4.4

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隣の蕗ノ台近くの第二雨竜隧道に向かって22‰の勾配があるものの、8990レは期待はずれの無煙状態で目前を通過、さらに2時間半あまりもじっと耐えて待ち続けた戻りの8993レもスカスカ状態で何の見場もなく、これにて深名線の撮影は終了。今朝乗ったのと同じキハ22 31の947Dで名寄へと抜けることにします。
▲士別で停車中の323レのC55 50〔旭〕。ここで対向の346Dと交換、さらには305D急行「宗谷」の退避と20分近く停車する。C55はこのまま名寄でマルヨ、翌早朝の322レで戻ってくる行路だ。'74.4.4 士別

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何とも達成感のない日で、ちょっと疲れぎみです。名寄駅待合室で香ばしい匂いをたてて売られていたとうきび(90円)を買って気分転換を図ります。このまま一日を終わるのも悔しいので、次の312D急行「なよろ2号」で士別まで行き、C55の牽く323レを狙うことにします。狙う…といっても323レの士別着は19時過ぎ。交換待ちで20分ほど停車するのを夜間撮影しようというのです。
▲夜の闇を震わせてC55 50の牽く323レが発車してゆく。再び静寂が戻った頃、多寄方から遠い汽笛が響いてきた。'74.4.4 士別

やってきたC55は、当然ながら唯一稼働状態にある50号機でした。バルブで発車までの何枚かを撮影し、駅前でまたしてもラーメン(180円)とライス(80円)を食べて、21時50分発314D急行「礼文」で旭川へ。例のごとく旭川駅待合室で仮眠をとって上り「利尻」か「大雪5号」で札幌へ向かう予定です。明日は泣いても笑っても道内にいられる最後の一日です。

4月3日
omu1.jpg上りの「大雪5号」から下りの「大雪5号」へと乗り継ぐいわゆる“上川ターン”は、翌日も道東で撮影するには実に便利な方法です。ほかにも上下の「すずらん4号」同士を乗り継ぐ“東室蘭ターン”や、3月30日夜のように上り「礼文」から下り「利尻」に乗り継ぐ“旭川ターン”などがありますが、その難易度の高さでは“上川ターン”が突出していました。東室蘭の場合は1時間半あまり、旭川の場合も1時間以上の余裕時間がありますが、上川の場合は上下の「大雪5号」がここで交換するとあって、かなり危険な賭けとなります。もちろん両列車がマル(定時)で運行されていることが絶対条件です。
▲興浜南線一番列車8891レの苦闘が偲ばれる39631〔名〕正面。'74.4.3 雄武

omu2.jpg事前にカレチに上川で下り「大雪5号」に乗り継ぐ旨を伝え、下りの運行状況も確かめておきます。2時07分上川到着。下りの517レ「大雪5号」はすでに対向ホームに入っています。外はこともあろうに猛吹雪。大慌てで跨線橋を渡って何とか無事下り「大雪5号」に滑り込み、まずは一安心。ただ、北見や網走までゆくのならともかく、今日の下車駅は遠軽。乗車時間は2時間もなく、本当の仮眠しかできません。
▲上川と同様、明け方にかけては猛吹雪だったに違いない。エキセントリックロッドまで凍りついた39631〔名〕。'74.4.3 雄武

事前に確かめたところでは、4月の興浜両線の貨物は北線が毎日、南線が奇数日運転とのことで、興浜南線はスケジュールの関係から今日撮っておかないと機会を逸してしまいます。眠い目をこすりながら遠軽4時03分着。すでに名寄本線のホームには4時21分発の622D(キハ22 120)
がアイドリング音を響かせて停まっていました。構内灯に照らし出された遠軽機関区扇形庫からは、明けやらぬ空に煙がたなびき、蒸機の息遣いが聞こえてきます。それを見下ろすように背後に黒々と聳える遠軽の象徴・瞰望岩(がんぼういわ)の威容が圧巻です。

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中湧別から紋別へ、早朝のオホーツク海岸を走り続けた622Dは興部に5時56分到着、すぐに興浜南線下り始発821Dに乗り継ぎます。下り始発とあえて記したのは、興浜北線の旅客列車の始発は雄武を5時24分に出る上り822Dだからです。1往復のみの貨物もえらく早朝にシフトしており、下り8891レの興部発はなんと4時30分、この時点ではとっくに雄武に到着してしまっています。オホーツク海に面した雄武だけに、客貨ともに漁業と密接に関係しているゆえのダイヤ設定なのでしょう。
▲雄武に到着した821Dキハ22 9。乗客は4人のみで、なおかつひとりは興部発車直後にホームを走ってきた地元の漁師らしき人。821Dはこの人を乗せるために興部のホームを出たところで臨時停車(?)した。'74.4.3

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興浜南線19.9kmはほとんどオホーツク海岸にへばりつくように走っています。単行のキハ22 9は6時42分に雄武着。構内には8891レの苦闘を偲ばせる雪まみれの39631の姿が…。3日前に興浜北線で撮ったのと同じカマです。
▲雄武駅構内北側をのぞむ。ささやかな木造の1線庫が見える。ゆくゆくはこの先、興浜北線の北見枝幸まで線路が延び、興部と浜頓別を結ぶ「興浜線」が開通するはずであった。'74.4.3

雄武の構内は意外に広く、木材を満載したトラ70000などの姿も見えます。そういえばここ雄武を起点にした殖民軌道雄武線が内陸部の上幌内を目指して敷設されていたこともあったと聞きます。

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折り返しの824Dで元沢木という乗降場で下車、日の出岬と呼ばれるささやかな岬から北見山地をバックにオホーツク海岸を行く8892レを撮影、次の興部行列車は14時55分までありませんので、バスで興部へ戻ることにしました。
▲あいかわらず猛烈な寒さ。日の出岬を目指す8892レの煙がオホーツクから吹きつける風に流される。'74.4.3 沢木?元沢木(乗)

okoppe.jpgまずは駅前でラーメン(150円)とライス(100円)をとって腹ごしらえ。11時43分着の1691レと、興浜南線8892レを継承した12時ちょうど発の名寄本線下川行8680レの発車を撮り、12時35分発の625D(キハ22 118)で遠軽へと戻ります。遠軽16時02分発の1529レに乗ろうというのです。というのは、当時1529レはD51牽引で常紋を越える唯一の混合列車で、撮るばかりでなく、たまには乗ってみようというわけです。北見まで1529レのオハ62 86に乗車、ところがガラガラの車内で常紋越えを堪能するどころかすっかり爆睡してしまい、17時57分北見着。
▲興部でさらに現車数を増して8680レとなった名寄本線貨物を牽いて猛然と興部を出る39631。今朝方の雪まみれの姿から比べると、だいぶフロントデッキの雪も融けている。この先、上興部?一ノ橋間では後部補機(9600)が付くはずだ。'74.4.3 興部?北興

北見では行きつけ(?)のレストランモリヤでちょっと早い夕食をとることにしました。余談ですが、このモリヤでは忘れられない思い出があります。2年ほど前に最初にこの店に入った時、壁に貼られたお品書きにえらく廉価な「さけかす定食」を発見、なぜか瞬間的に“さけ”=“鮭”ととんでもない勘違いをしてしまい、「さすが北海道、切り身にした鮭の残り“かす”を使った料理に違いない」とさっそく注文。出てきたじゃがいもやたまねぎを“酒粕”で煮たみそ汁様のものにえらくショックを受けたのでした。今回は無難に豚汁定食180円也を注文、22時27分発の上り「大雪5号」まで待合室で休むことにします。

4月2日
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目覚めると、反対側の車窓には釧路港の彼方の水平線から昇ってくる太陽が大きく見えていました。こちら側、進行左側の車窓にはひたすら原野が広がっています。それにしてもこの辺りの根室本線はえらく乗り心地が良く感じられます。乗っているのはスハフ44 3。TR47台車を履いたスハフ42の北海道仕様で、ほかの客車夜行と同じ汎用形式です。土地柄路盤も軟弱でしょうし、とすれば保線状態が良いということなのでしょうか…。
▲別寒辺牛川の周囲に広がる湿原をバックに釧路を目指す470レ。'74.4.2

6時15分、終点釧路着。10分の接続で根室行急行411D「ノサップ1号」に乗り換えて厚岸へと向かいます。同行している大沢先輩とヒグマはいないかと本気で車窓に目をこらしますが、クマどころかパンダでも出てきそうな熊笹に覆われた丘陵地帯がひたすら広がるばかり。それにしても茫洋としていて、とても撮影ポイントがありそうには見えません。

kushiro2.jpg別保?上尾幌間の10‰のささやかな峠を越え、私たちを乗せたキハ27 129は7時13分に厚岸に到着。厚岸駅に降り立つのは今日が初めてで、想像以上に町が大きいのにちょっとびっくり。駅前でフランスパン(150円)と牛乳(45円)、それにちょっとばかり奮発してサイダー(60円)を買い込み、糸魚沢目指して歩きはじめました。目指すは地形図で目星をつけた362kmポスト。厚岸がキロポスト357.54kmですから、4.5kmほど歩かねばなりません。
▲厚岸(右手)から糸魚沢にかけては想像を絶する大湿原が広がっている
。写真は495レ。'74.4.2

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まず最初のターゲットは「ノサップ1号」のあとを追ってくる根室行混合列車441レですが、厚岸8時01分発ですから、とても362kmポストまでたどり着きそうもありません。やむなく厚岸港を見下ろす高台に攀じ登りC58 413〔釧〕の牽く混441レを捉えました。混合とはいうものの貨車の姿はなく、客車2輌に荷物車3輌という編成です。
▲厚岸港に沿って大きくS字を描いて糸魚沢へ向かうC58 413〔釧〕牽引の混441レ。釧路区には戦後型C58の配置が多かった。'74.4.2

kushiro4.jpgこの後362kmポストまで歩き、495レと糸魚沢で交換してくる470レを別寒辺牛川の湿原をバックに撮影、10時50分発の233Dに乗るべく厚岸駅に戻ることにしました。さすがにまた同じ路を歩いて戻るのも一苦労なので、しばらく国道でヒッチハイクを試みますが、これがことごとくダメ。逆にそんなことをしていたために、今一歩というところで233Dに間に合いませんでした。233Dではふたつ先の茶内まで行き、2年前に廃止となったものの、車輌ともどもそのまま残されていると聞く浜中町営軌道を見にゆくつもりだったのですが、それも夢と消えました。やむなく駅前でラーメン(200円)を食べ、急遽予定変更、標津線へと向かうことにします。それにしても、こんな道東の小さな町にまで結構な数のファンが来ているようで、駅前でお土産用にタブレットキャリアを3000円也で売っていたのには恐れ入りました。
▲お世話になった636レのC58 390〔釧〕。次位は当時釧路に2輌しか配置のなかった木造車鋼体化改造車オハフ60 44 。ダルマストーブの装備も残されていた。'74.4.2

結局、今朝方乗ってきた「ノサップ1号」が根室まで行って戻ってきた412D「ノサップ1号」で釧路へ。14時ちょうど発の釧網本線636レで標茶へと向かいます。C58 390〔釧〕の牽く網走行636レは混合列車で、しかもオハフ+オハ+オハニ+マニ+トラ9輌+ワムといった結構な長大編成です。釧路駅で発車前に機関士と運転操作についていろいろと話をしていると、「じゃぁ、遠矢まで行ったら乗っけてやるよ」ということになりました。昨今の状況から考えると、何とものどかな時代です。

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遠矢に停車するのももどかしく、機関車に駆け寄ります。揺れるからそっちに座っていなさい、と言われるままに助士席に。それにしても従台車を持たないプレーリーC58の揺れることといったらありません。動輪がレールを叩くショックがもろに伝わってきて、前方窓から見ていると、デフとボイラケーシング、ランボード等々がそれぞれバラバラに踊りまくっています。インゼクタの給水音が左耳をつんざくように響き、釧路湿原を見渡す余裕など微塵もありませんでした。おまけに左足を踏ん張ろうと外火室にキャラバンシューズをあてていたため、靴底が見事に溶けてしまいました。
▲すっかり暗くなり始めた湿原を、結構な力行ぶりでやってきたのは1392レを牽くC11 227〔標〕。まさかこの機関車が2年後に大井川鐵道で走りはじめようとは、当然この時点では思いもしなかった。'74.4.2

標茶15時19分着。泉川寄りにしばらく行った湿原の中で中標津からの貨物1392レを撮影、18時05分標茶発の614D急行「しれとこ3号」のキハ22 139で網走へと向かいます。3月25日の夜に夕張旅館に泊まって以来、今日で丸一週間夜行連泊ですが、明日は興浜南線を目指すため、今夜は急行「大雪5号」の上りから下りへ、いわゆる“上川ターン”をせねばなりません。

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