鉄道ホビダス

2006年3月アーカイブ

4月1日
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3時39分、何とか深川で「利尻」を下車。今日は再び増毛へと向かうつもりです。稚内から一緒になった大沢先輩とその連れの中3と3人、待合室で留萌本線の始発を待ちます。例のFTbブラックの彼はそのまま「利尻」で札幌へと去ってゆきました。
▲増毛の転車台で転向する19609。ここ増毛のターンテーブルは機関車のエアーを利用して回転するタイプで、そのぎくしゃくした動きから“尺取り虫”と通称されていた。'74.4.1

深川駅待合室でうとうとしていると、やがて上り「大雪5号」が到着。4時13分、「大雪5号」から降りて待合室に入ってきたのは例の立教の彼ではないですか。とにかくこの時期、渡道している多くのファンが、「利尻」、「大雪」、「すずらん」、「狩勝」といった夜行急行を“寝床”として巡回していますから、こんな風に二度三度と出会うことは決して珍しいことではありませんでした。

mashike2.jpg4人となった私たちグループは、深川5時42分発の留萌本線始発羽幌線直通羽幌行1821Dで留萌へと向かいます。ただ、前回とはうって変わって、朝靄の彼方から太陽どころか、外は暴風雨になってきてしまいました。この分では雄冬連山も拝めそうもないな…と一同なかば諦め顔です。立教の彼は今日の「おおぞら3号」→「みちのく」の指定をとってあるのだそうで、この留萌本線が最後の撮影になります。
▲3日前の3月29日の絶景から考えると見る影もない増毛発7774レの姿。この写真ではわからないが、とにかくえらい風雨である。'74.4.1

mashike3.jpg7時03分留萌着。7時31分発761Dで増毛へと向かいますが、一応念のため今日の運行を駅案内所で確認しておきます。またしても助役が親切に鉄電で問い合わせてくれ、その面ではひと安心。ところが風雨は強くなるばかりで、増毛に到着してみると傘さえさしていられないほどの暴風となってしまいました。留萌港は“3大波浪港”として知られているそうですが、この日の増毛も結構な荒れようでした。
▲しかもやってきたのはしっかり「団結」の文字が浮き上がる19609。'74.4.1 増毛?箸別

ずぶ濡れになりながら待つことしばし、9時41分定刻にやってきたのは、こともあろうに今朝方深川で目にした「団結号」19609ではないですか! すっかりやる気をなくして駅前の雑貨屋に食料を求めて入ったものの、手にとった40円なりのサバの缶詰は2年ほど前に製造された埃をかぶったもの。どうもとことんついていません。仕方なくカップヌードルを買って、11時ちょうど発の762Dでひとつ手前の箸別へと向かいます。この期におよんでもまだ雄冬連山に未練があったのです。

rumoi1.jpg結局、第二箸別のバス停小屋で風雨を避けながら7774レをなんとか撮影、バスで留萌駅前まで戻り、13時53分発736Dで峠下へと向かいました。留萌でD61が充当されることを確認した1792レを峠下を出た10‰で狙います。この頃にはようやく天候も回復基調で、半逆光ながら、峠下隧道に登りつめてゆくD61 4の姿をしっかりと捉えることができました。
▲峠下を通過するD51プシュプルの6783レ。結構なスピードで本務機がタブレットキャリアを投げ込んでゆく。'74.4.1

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峠下16時15分発の826Dのキハ22 121で深川へ、9分ほど延着した604D急行「大雪3号」のキハ56 40で札幌へと向かいます。いつもなら日のあるうちに撮影を切り上げて札幌へ向かうなどありえないことですが、今日4月1日夜は渡道している鉄研仲間が札幌に集合する約束になっているのです。
▲運炭線区だけあって最急勾配は10‰程度に押さえられているものの、ふたつの隧道を擁する恵比島?峠下間は留萌本線最大の難所である。盛大なブラスト音を響かせて峠下を出る1792レのD61 4。'74.4.1

「おおぞら3号」に乗る立教の彼とコインロッカーの前で別れ、私と大沢先輩は集合場所の緑の窓口へと向かいます。すると、驚いたことにメンバー以外の懐かしい顔があるではないですか。去年の渡道の際、浜頓別で知り合い、我々鉄研の仲間とも行動をともにしてきた愛知県春日井市のU君です。一昨日、撮影地で同期の土屋君と出会い、行動をともにしていたものの、土屋君とは昨年会ってはおらず、まさか我々の仲間とは思ってもいなかったとのこと。それが翌日、去年一緒だったやはり同期の中山君と再会し、土屋→中山→名取のラインがはじめて結びついてびっくり。ならば是非…と今日の集合に飛び入り参加してくれたのだそうです。残念ながらちょうど今日帰路につくそうで、一緒に撮影することはかないませんが、皆で「どさんこ」でラーメンを食べ、駅地下街の喫茶店「みかど」でこころゆくまで語り合いました。教員になる夢を熱く語っていた春日井のU君や鉄研の仲間たちに見送られ、5番線から「狩勝4号」の1号車スハフ44 3に乗車、明日は今回初の道東へと足を伸ばします。

3月31日
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年度末のしかも土曜日の夜とあって「利尻」は増結となっており、そのマシ号車スハ45 18で南稚内へ。前夜とまったく同じパターンです。しかもこれまた同じく交換の6時21分発338Dで手前の抜海へと戻りますが、ほかの皆さんも今日の324レがC55だとわかっているらしく、338D車内はえらい人出です。この分では抜海の撮影ポイントの“騒乱”は想像に難くなく、おとといの恵比島のような思いをするのも嫌なので、あえて次の勇知まで行くことにしました。
▲低圧側安全弁を吹きながら、滑るように勇知の雪原を駆けるC55 50。かすかにスポーク動輪が透けた。'74.3.31 勇知?兜沼

syanai2.jpg324レの勇知到着は8時37分。抜海方に戻った辺りで牧場のサイロをバックに朝日の中のC55をシルエットで狙おうというのです。チャームポイントである水かきスポークがうまく抜けてくれることを祈りながらシュート。それなりの手ごたえを得たものの、この324レと次の兜沼で交換する333Dで南稚内へ取って返し、天北線に乗り換えねばなりません。333Dの勇知発車は8時57分、気が付くともう10分ほどしかないではありませんか。
▲北見枝幸で入換え中の39631。名寄区のカマで、興浜北線は同区受け持ちの北限であった。'74.3.31

またまた朝飯も食べていないのに駅まで全力疾走。ほうほうの体で333Dのキハ22 21に滑り込み南稚内へ。9時23分到着。乗り継ぐ天北線724Dの発車は9時37分ですから、これまたあわただしく、朝食をとっているほどの接続時間はありません。駅前の国鉄物資部南稚内センターの自動販売機で60円の廉価で売っていた大コーラ缶(これは内地では売っていなかった)と“パンブロン”というネーミングがついた巨大なパン、それに6つ入りのコッペパンとマーガリン、しめて360円ほどを買い込んで朝食兼昼食のストックとします。

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天北線音威子府行724Dはキハ22 306の単行でした。それでも車内はそれほど混んでおらず、晴れ渡った彼方に利尻富士が遠望される実に気分の良い小旅行です。ちょうど一年前にも同じようにこの列車でパンをかじりながら浜頓別を目指しており、どうもデジャブのような錯覚に陥ります。去年と同じように鬼志別で29613の牽く1791レと交換。ホームに降りて撮影していると、隣で撮影している人のカメラに目がとまりました。キヤノンのFTbのブラックボディー、しかもレンズは24㎜がついているではないですか。ちょっと興味を持って話しかけてみると、その人も興浜北線へゆくとのことです。
▲今日は3月31日。北辺の小さな町でも、旅立ちと別れのセレモニーが繰り広げられていた。この日、926Dで旅立った女の子は、その後どんな人生を歩んでいるのだろうか…。'74.3.31 北見枝幸

syanai5.jpg結局724Dに乗っていたファンの大半は小石で降りてしまい、浜頓別で降りたのは例のFTbブラックの彼を含めて5人ほどでした。11時45分発925Dのキハ22 23でまずは先行した1991レが到着しているはずの終点・北見枝幸へ。牽引機の9600が「団結号」かどうかを確かめようというのです。果たして39631〔名〕はキャブにこそ石灰の跡が残るものの、まずは大丈夫、折り返しの926Dで定番撮影地の斜内へと向かいます。
▲すっかり春を思わせる陽気の下、斜内山道をバックに海岸で戯れる地元の子供たち。'74.3.31

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926Dが発車する前、ホームにラジカセの「蛍の光」が流れ始めました。進学なのでしょうか就職なのでしょうか、キハ22の二重窓を開けて今にも泣き出しそうな女の子。どうやらこの列車で北見枝幸の町を離れるようです。狭いホームを埋めた多くの人たちに見送られて926Dは終着駅をあとにしました。
▲今年の斜内には流氷の影はなかった。山道を1992レが回り込んでくるのに合わせるかのごとく、ちょうど上空に雲が広がってしまった。いずれにせよ、この位置からだといわゆる“鉛筆転がし”にしか見えない。'74.3.31 目梨泊?斜内

syanai4.jpg今年の斜内山道にはすでに流氷はなく、おまけに天気が良いこともあって、この時期のオホーツクとは思えないほどのどかな風景が広がっていました。斜内の海岸から打ち寄せる波を入れて北神威岬灯台をゆく1992レを狙いましたが、ちょうど列車に合わせて線路が翳ってしまい、ちょっと残念。一緒に撮影したFTbの彼と一緒にバスで浜頓別まで戻ることにしました。
▲上の写真を撮ってから斜内の駅まで全力疾走。大きく回り込んで斜内駅に進入してくる同じ1992レを200㎜レンズで捉える。'74.3.31

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浜頓別ではさきほど興浜北線1992レを牽いてきた39631が天北線1790レとして発車してゆくシーンを撮影、そのほかにもう1本山軽方で19616〔稚〕の牽く1792レを撮影して727D(キハ22 22)で稚内へと戻ることにします。
▲浜頓別で一時間ばかりの入換えののち、興浜北線から出荷された貨車は今度は天北線1790レとして組成しなおされ、同じ39631によって音威子府へと向ってゆく。'74.3.31 浜頓別?常磐

定刻19時30分稚内着の727Dは30分近くも遅れて稚内に到着しました。今日は20時55分稚内発の318レ上り急行「利尻」に乗る予定なので、なにはともあれ夕食をとっておかねばないません。鬼志別以来ずっと一緒に行動しているFTbの彼と駅前のラーメン屋に入ったものの、ちょっと高めなので隣の定食屋に移動したところ、鉄研の先輩の大沢さんとばったり。いや、なんという偶然でしょう。大沢さんの方も今日知りあったという中3のファンと一緒です。都合4人になって「利尻」に乗り込みますが、今日は日曜日の夜とあってガラガラで、7号車のスハフ44 103の11?14ボックスをひとり1ボックスずつ占領して深い眠りについたのでした。

3月30日
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結局、前夜は「利尻」に乗り、今日は宗谷本線の撮影に一日費やすことにしました。ところが、幌延で降りるつもりがすっかり寝過ごしてしまい、気がついたら列車は抜海を過ぎて南稚内目前となっているではないですか。南稚内6時20分着。交換の6時21分発338Dに飛び乗って幌延へと戻ります。
▲10時58分定刻、天塩川の対岸にやってきたのはC55ではなくC57の牽く324レだった。余談ながら、このC57 87はこの翌年廃車され、よりによって沖縄で保存されたが、荒廃が進んで2005年に解体されたという。'74.3.30

幌延は半年前の前年夏にも訪れていますが、夏場ならともかく、この季節とあっては起伏のないただの雪原で、特に絵になるポジションはないかもしれません。338Dのキハ24 5の車中で5万分の1地形図をチェックしているうちに気が変わり、急遽目的地を佐久に変更。天塩川沿いをゆくC55を狙うことにしました。

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佐久には9時21分着。天気は今にも雪が落ちてきそうな曇天です。佐久に降りたのは私と地元の人の3名のみ。撮影に出る前に明後日、4月1日札幌発の急行「狩勝4号」の指定席をとってもらえるように佐久駅に依頼します。札幌を基点にすると、どの方面にも夜行急行が設定されていて便利なのですが、なぜか釧路方面への夜行「狩勝4号」だけは全車が指定席で、自由席の設定がありません。「12時13分の幌延行に乗りますから、その時に受け取ります」と言い残して駅を出ました。
▲道内には全国時刻表には載らないこのような「乗降場」が数多くあった。'74.3.30 糠南乗降場

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40分ほど国道を歩いて、ようやく地形図で目星を付けたポジションにたどり着いたものの、目の前の手塩川を見てがっかり。すっかり凍結してしまっており、どう見ても川ではなく雪原にしか見えません。これでは意味がないと再び駅方向に戻り、何とか水面が出ているポイントでC55の牽く324レを待ちます。ところが…やってきたのはC55ではなく最近になって転入してきたC57 87ではないですか。あとでわかったことですが、3輌いた旭川区のC55のうち、47号機は昨年11月に廃車、30号機はボイラの不調で休車中で、残るは50号機のみ。その50号機は3月一杯は奇数日、4月からは偶数日に324レに充当されるとのことでした。
▲糠南?上雄信内間は北見山地が天塩川に落ち込む険しい地形で、宗谷本線はその断崖にへばりつくように走る。これまでにも多くの災害に見舞われた難所である。錦川橋梁を想像以上の高速で走り抜けるのは9600の牽く1396レ。'74.3.30

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佐久駅に戻ると「狩勝4号」の指定券がとれていました。当然マルスなどの設備はありませんから、鉄電で音威子府かどこかに連絡をしてから発券したものでしょう、手書きの指定券でした。なぜか発行日が一日ずれて31日になっているのですが、恐らくこの駅で指定券を発券することなどめったにないのでしょう。

12時13分発339Dで次に向かう先は全国時刻表には記載されていない糠南(ぬかなん)という乗降場。本当に乗降台しかなく、見渡せど周囲に家らしきものも見当たりません。最初にやってくるのは9600の貨物1396レのはずですが、通過までにはまだ2時間以上あります。待合室もないとあって、上雄信内方179キロポスト付近にあった保線小屋で休みながら時間が経つのを待ちました。天塩川沿いの斜面に橋梁がへばりつく、ちょっと保津峡を思わせるポジションで1396レとC55 50の牽く321レを撮影、17時45分糠南発348Dで天塩中川に向かうことにしました。それにしても、C55 50は僚機と比べて正面のナンバープレートがやたらと上がちで、贔屓だった47号機と比べるとどうも好きになれないカマでした。

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▲16時30分をまわって暗くなりはじめた天塩川沿いの杣道をやってきたのは唯一稼働状態にあるC55 50〔旭〕。南稚内で駐泊したのち明日の324レで戻ってくるはずだ。'74.3.30

天塩中川に向かったのは、急行停車駅だからで、ここから旭川行の314D急行「礼文」に乗り継ごうというわけです。天塩中川着18時07分。思えば今朝方「利尻」を乗り過ごしたのが運のツキで、今まで何も食べていなかったことを思い出し、よろよろと駅前食堂に入って鍋焼きうどん220円也を注文、ようやく人心地ついて19時56分発の「礼文」に転がり込みました。幸いそれほど混んではおらず、キハ56 47の14番ボックスを占領して、23時02分着の旭川まで深い眠りに落ちたのでした。

ちなみに、「礼文」で旭川へ行っても接続する夜行列車はもうありません。実は今夜も旭川0時20分発の下り「利尻」で折り返し、再び宗谷本線北部、さらには隔日運転の興浜北線へと向かうつもりです。

3月29日
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3時20分に旭川で降りて富良野線へ行くと言っていた立教の彼は、結局乗り過ごしてしまったらしく、深川到着前に私が目覚めた時には、呆然と車窓を見つめていました。仕方ないので今日は幌内線にでも行って、それから夕方の室蘭本線三重連を狙いますよ…という彼を車内に残して、こちらは深川で下車。4時12分定刻です。
▲恵比島からの勾配は9.1‰ながら、隧道まで2キロあまり続くとあって、現車16輌を持った9600単機にとっては決して楽ではない道のりだ。'74.3.29 恵比島?峠下(1791レ)

一年ぶりの留萌本線ですが、今年の狙いは留萌?増毛間の海沿いのシーン。ただ同区間の貨物はほぼ隔日運転の不定期とあって、それが心配です。早朝だけに申し訳ないなと思いながら、深川の駅案内所で「増毛への貨物は今日運転するんでしょうか」と尋ねてみると、なんと親切にも鉄電で留萌機関支区に問い合わせてくれました。「今日は運転しますよ」との声に眠気も覚め、さっそく5時42分発の羽幌行1821Dに乗り込みました。

まずは恵比島まで行き、この1821Dの後を追ってやってくる9600牽引の1791レを狙うことにします。それにしてもこの留萌本線下り始発から見る朝日は格別なものがあります。去年も強く印象に残っているのですが、今回も雪原から上がる靄がミルクを流したように辺りを覆い、その彼方から太陽が昇ってくる様は感動的でさえあります。キハ22 19の車窓に見とれながら6時15分恵比島着。

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恵比島では50人近くのファンが下車したでしょうか。とにかくえらい賑わいです。恵比須隧道手前のカーブで1791レを待ちうけますが、さすがにこれだけのファンの多さとなると飛び交う怒号にうんざり。2時間ほどで恵比島を去りました。
▲D51 147を先頭に後部補機にD51 4を従えて幌糠を通過してゆく7770レ。幌糠駅側線にはなぜかD51 86がナンバープレートを外された哀れな姿で放置されていた。86号機はもちろんD51の量産型第1号機(浜松工場製)である。'74.3.29

恵比島から増毛へは731Dのキハ22 137で向かいます。この731Dは留萌で53分も停車してそのまま763Dとなって増毛へ向かう不思議な列車で、所要時間は掛かるものの、とりあえずは乗り換えなしで増毛までゆくことはできます。
途中幌糠でD51プッシュプルによる7770レと交換、9時01分に留萌到着。再び案内所で貨物の運行状況を聞くと、増毛への貨物列車は3月中は27・29日、4月は1・3・5日の運転で、深名線と交互の運転日とのことです。ついでにこの時間から開いている食堂を紹介してもらいます。荷物はキハ22 137の車内に置いたまま、「なかの食堂」という駅前食堂で朝食がわりに180円也のラーメンを食べ、再び763Dへと戻りましたが、いまさら思えば、たいしたものは入っていないとはいえ、よく荷物を置きっぱなしで平気だったものです。

29N115.jpg車窓からロケハンをしながら増毛まで行き、折り返しの762Dでひとつ手前の箸別という乗降場に降り立ちました。暑寒連嶺と呼ばれる暑寒別岳を中心とした雄冬の山々が、大きく弓形を描く増毛湾のバックに聳え立ち、定期の蒸機牽引列車があれば結構な有名撮影地になったとのではと思われるほどの絶景ポイントです。国道のオーバークロス上から見渡すと、海にはウニを採る小船が浮かび、その上空を“ゴメ”と呼ばれるカゴメが盛んに飛び交っています。▲増毛駅で折り返しを待つキハ22 137。画面右手がすぐに海岸、左の本屋を出るとニシン御殿も散見される増毛の町である。'74.3.29

29N114n.jpg「第二箸別」と書かれたバス停の小屋で寒さを凌いでいると、バスを待つ地元のおばあさんが連れの小さな女の子に、ニシンで賑わった昔の増毛の様子を語り始めました。増毛に港が出来ていなかった頃はシケるとこの箸別辺りに船が座礁して、満載したニシンが海岸に散らばることがよくあり、自分たちもよくそのニシンを拾いにいったものだ…と語るおばあさんの話に、女の子はつまらなそうに耳を傾けていました。「ゴメたちもああやって昔を忘れられずに集まってくるんだよ」と上空のカゴメを指して語るおばあさんの姿が強く印象に残っています。
▲下り貨物7773レは9時41分には増毛に到着しており、ゆっくりと入換え作業を済ませたのち、12時32分に7774レとして折り返してゆく。'74.3.29 増毛

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49673〔深〕の牽く7774レは珍しく次位に軌道検測車マヤ34 2501〔札サウ〕が付いて遠目には混合列車風で、なおかつ天気も最高とあって手応え充分と…思いきや、なんとプリセットでしか使えないFLレンズをオート絞りで使ってしまったことに気づいて愕然! この増毛のカットを救済するためには帰京してから減感現像をするしか手はありません。
▲雄冬連山をバックに増毛を発車してゆく7774レ。この第二箸別のポイントは何回か通ったが、この時ほどクリアに視界が開けたことはなかった。'74.3.29

29N116n.jpg第二箸別から留萌へはバスで戻り、昼食がわりにゆで卵(100円)を買い込んで、13時53分発736D(キハ22 86)で深川へと向かいます。例の室蘭本線三重連5290レをリテイクしようというのです。途中、峠下でD51 4を先頭にした後部補機付き6783レと交換、深川からは15時33分発の816D急行「なよろ1号」のキハ56 203で岩見沢へ。わずか4分の接続で16時31分発230レに乗り込みます。車内では今朝方「大雪5号」で別れた立教の彼と再会。次の志文で一緒に下車しましたが、すでに5290レの三重連運転の情報はあちこちに流れたらしく、志文で下車したファンは20人以上に達していました。
▲軌道検測車マヤ34を従えて増毛構内で休む49673〔深〕。'74.3.29

岩見沢方で撮るという立教の彼と別れてこちらは栗沢方へ。駅を出てすぐのところに架かる幌向川橋梁には中村由信氏率いる団体までいます。一昨日の栗山より20分ほど早いだけあって、西日が落ちる前に5290レは姿を現しました。ところがショック! なんと揃いも揃って“団結号”ではないですか。夕日にギラリと輝いたのは、ナンバープレートではなく石灰の殴り書き文字だったのです。

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がっかりしながら駅に戻り、相対的に値段が高めのロバパンを避けて隣のスーパーで日糧パン(60円)とラスク(40円)を買い込んで18時13分発229レに。湧網にいった昨日を除いて、まるで通勤のごとく毎日乗っている229レですが、今日の牽引機はC57 38〔岩一〕。スハ32 860〔札ムロ〕のリジッドな座席でパンに食らいつき、再び立教の彼と合流して岩見沢からは304D急行「天北」のキハ56 143で札幌へ。札幌19時09分着。ふたりでステーションデパート内の食堂で大盛りポークカレー(230円)を食べ、今日のお互いの成果を語り合いました。彼は幌内の駅で不要になった記念券や改札パンチ、さらにはタブレットまでもらってきており、ちょっとうらやましい思いもこみ上げてきます。
▲ようやく捉えた三重連と思いきや…この有り様。通常は栗山まで重連の5290レだが、この時期だけ運用変更で三重連の姿が見られた。この日はセキ39輌+ワフ1輌という編成で、編成全長は実に370mにも達する。'74.3.29

知人の家に泊めてもらうという立教の彼と地下鉄入口で別れて、再びひとり札幌駅へと戻りました。明日はお気に入りの興浜北線に向かおうと思っていたのですが、昼に留萌から浜頓別に電話を入れて確認したところ、明日の運転はないとのこと。深名線や興浜北線のように隔日運転の線区は、夜行移動を原則としている者にとっては、一度サイクルが合わないと結局撮れずじまいになりかねません。一週間目を迎えて、この旅も本格的にスケジュールの練り直しをしなければならなそうです。

3月28日
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疲れがたまっていたのか、すっかり熟睡してしまい、気がつくと517レ「大雪5号」はC58 391の牽くいわゆる“大雪くずれ”1527レとなって網走目指して走り続けているところでした。すでに車窓には朝日が…前夜一緒だった神戸の高校生たちは予定通り遠軽で下車したのでしょう、ボックス席は私ひとりになっていました。
▲期待した流氷はすでにほとんど沖合に去ってしまっていた。小さなトラスの架かる常呂川橋梁(156m)を行く1990レ。'74.3.28 能取-常呂

1527レの網走到着は7時56分。今日はこれまでの渡道でも足を踏み入れたことのない湧網線のたった1往復の9600の貨物を狙うつもりですが、何よりも気になるのは運行状況です。ボッと短笛を残して引き上げてゆくC58 391を見送るのももどかしく、網走駅の運転事務室へと向かいます。湧網線の今日の貨物運行を確かめようというわけですが、事務室へ入るとすでに同じ用件の先客が…。今年立教大学に受かったばかりという彼も湧網線の9600狙いだそうで、それではと一緒に8時15分発924Dに乗り込むことにします。彼は浜床丹-計呂地間の峠越えを佐呂間湖バックに撮るつもりとのこと。
話していると昨日の三重連5290レの話題になりました。彼は志文で撮ったそうで、岩見沢方から延々と煙がついてきて、通り過ぎる瞬間ナンバープレートが西日に紅く染まり、「奥中山の三重連よりよかった」と興奮ぎみに語っていました。年齢的に「奥中山」に間に合っているとは思えないのですが、この当時、「奥中山」の3文字は何事をも黙らせてしまう魔力に満ちていたのです。

105n.jpg924Dのキハ22 12から眺めていると、能取湖や網走湖は完全に氷結しているものの、オホーツク海には期待したほど流氷はなく、流氷バックに常呂川橋梁で狙おうというプランが次第に不安に思えてきました。それでも初志貫徹、計呂地へ行きませんかという立教の彼の誘いを断って、9時23分常呂駅に降り立ちました。マイナーな湧網線とはいえ、この日の924Dには10人近くのファンが乗り合わせていたでしょうか。常紋の補機DL化など、誰もが被写体をローカル線に見いださねばならない時代になっていたのです。
▲常呂駅構内を出てゆく1990レを200㎜で遠望する。オホーツクの海沿いに広がった常呂の町の一番海よりに駅がある。'74.3.28

常呂とはアイヌ語のトーコロからきた地名で、湖のある場所という意味だそうです。国定公園サロマ湖に隣接し、オホーツク海岸にへばりつくように続く家並は、ほとんどが漁業関係で生計をたてているようで、ことにホタテの名産地として知られるだけに、町のそこここに漁網やら漁具やらが見受けられます。
さて、今日の貨物は常呂駅11時27分の1990レと15時16分の1991レの1往復のみ。網走駅で買ったカステラと常呂駅で仕入れた“ミスター・ピブ”という怪しげな清涼飲料を朝食にして、能取側に少し戻った常呂川橋梁を見下ろす丘の上の海難慰霊碑付近にポジションを構えます。定刻、ワサフ1輌を従えてやってきたのは常紋の補機時代からお馴染の69644〔遠〕。下り込みだけに流氷バックとはいうものの、たいした絵にはならず、ちょっとがっかり。おまけに一緒に撮影していた人から、DLの不調で18?20日にかけて常紋に9600補機が復活したという話を聞き、やはり神戸の彼らと一緒に常紋に行けばよかったかと、軽い後悔の念に取りつかれるのでした。

1991レまでは4時間近くありますから、ともかく駅に戻って昼食をとることにします。駅前の十字路角にある「常呂駅前食堂」で肉丼なる丼物250円也を食します。70円のみそ汁も50円におまけしてもらって、久しぶりにゆっくりと食事らしい食事です。味こそ多少濃いめながら、この肉丼、なかなか美味しく、まずは大満足。気をとりなおして、ふたたび常呂川橋梁にとってかえすことにしました。

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1991レはさきほどの海難慰霊碑よりさらに海よりのポジションで狙うことにします。湧網線は佐呂間?計呂地間の25‰以外はほとんど勾配がありませんが、ここ常呂川橋梁の先は能取に向けて18‰の勾配があり、半逆光ながら一応力行する姿を捉えることができました。
▲半逆光に白煙が輝く。能取に向って常呂川橋梁上を力行する1991レ。'74.3.28

常呂から網走に戻るDCは17時50分までありません。キオスクのおばさんと世間話などをしながら時間をつぶします。名産のホタテの養殖は、現在の稚貝の殼に穴を空けてハリスを通して海中に吊るす手法が確立するまでは、大変な試行錯誤の連続だったそうです。胃が悪いというこのおばさんに、山仕事をしている知り合いが胃病に効くというサルノコシカケを差し入れにきたところで閉塞機の音が鳴り、帰りの927Dが接近。丸一日を過ごした常呂をあとにしました。

tokoro.jpg927Dに乗ると、計呂地へ行った立教の彼が乗っていました。それなりに収穫があったようで、網走で一緒に夕食をとることにします。駅前の食堂で「学生ラーメン」という奇妙な名前のラーメン(180円)とライス(60円)を食べ、20時33分発の「大雪5号」(北見までは普通1528レ)を待ちます。立教の彼は手持ちのトライXが残り4本になってしまったので、写真屋さんを探してフィルムを手に入れたいと落ち着かぬ様子です。もしよければお分けしましょうか…と申し出るものの、こちらのトライXは長巻を自分で巻き直したもの。「ハコに入っていないと…」と彼。まぁ、もっともな話です。逆の立場でも、旅先で出会っただけのファンが自分で巻いたフィルムを使う勇気はないでしょう。

この日も「大雪5号」は結構な乗車率でした。例によって遠軽までは先頭となる8号車(スハフ44 15)に乗車、明日は深川で降りて留萌本線へと向うつもりです。立教の彼は旭川(3時20分着)で下車して富良野線に入る予定とのこと。C58 213〔北〕に牽かれた1528レは定刻20時33分に網走をあとにしました。

3月27日
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深夜の長距離列車の発着と富良野線への連絡などを抱える旭川駅待合室は、乗り継ぎ客への対応もあって、365日24時間開いていました。いつの頃からか、待合室のイスは仮眠にもってこいの長イスから、いわゆるバケットタイプに代わってしまいましたが、それでも私たち貧乏旅行者にとっては実にありがたい施設でした。
▲岩見沢で発車を待つ222レのC57 104〔岩一〕。追分着は6時49分。明けやらぬ朝の冷気をついてC57は室蘭本線を駆ける。'74.3.27

例によって酔っ払いのおじさん連中にからまれながらも、何とか3時10分発の318レ急行「利尻」に乗り込むことができました。当初は30分ほどあとの「大雪5号」と思ったのですが、昨日のダイヤの乱れ方からすると、先に来たものに乗るのが何よりの正解でしょう。とにかくこの「利尻」(スハフ44 5)で岩見沢4時56分着。一時間弱の接続で5時50分発室蘭行222レで、再び昨日の夕方あとにした追分へと向かいます。C57 104〔岩一〕の牽く222レのスハフ32 262〔札ムロ〕では当然、爆睡。あやうく乗り過ごしそうになりながらもかろうじて追分で下車、723D(キハ22 232)で沼ノ沢へ…。昨日のリベンジを果たすべく北炭真谷地専用線に向かおうというのです。

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8100時代から知られるいわゆる沼ノ沢の大カーブで構えるものの、またしても待てど暮せど列車はきません。業を煮やして沼ノ沢駅の運転事務室に駆け込むと、午前中の列車はもうヤマに戻っていってしまい、あとは午後13時頃と15時頃に降りてくるだけというではないですか。きょうもまた空振りです。
▲苦労してよじ登ったにも関わらず、このポジションから撮影できたのは上下ともに単機のみ。何ということよ。写真は単5783レ。清水沢-鹿ノ谷 '74.3.27

どうもパターンが昨日とそっくりで、このままだとまた駅前の「かど蛯食堂」で朝食、というか食堂の家族の残り飯を食うことになりかねません。そこで5万分の1地形図で目星をつけた清水沢まで行って、1200tを降ろしてくる夕張線の長大石炭列車1792レを狙うことにしました。清水沢駅前ではその名も「弘済会駅前食堂」が営業中で、180円也の大盛りカレーライスを注文。大盛りの名に違わぬボリュームとなかなかの味に満足して、鹿ノ谷方の山の斜面をよじ登り始めました。夕張川に沿って雄大なS字カーブを描くロケーションはなかなかで、清水沢の町も眼下に手にとるように見渡すことができます。これはいい所を発見したと待つことしばし、ところが、やってきた1792レは1200tどころか単機ではないですか! ダイヤを見ると清水沢で交換の下りもありますが、こちらはハナから単機の設定です。苦労して登ったのに…と言い知れぬ悔し涙を流しながら清水沢駅へととってかえしたのでした。

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12時01分発の728Dで沼ノ沢へ、と簡単に言いたいところですが、これが大変な騒ぎでした。どうしたわけかやってきたのは朝方追分から乗ったキハ22 232の何と単行。前の726Dとは2時間以上も開いているとあって、清水沢到着時点で車内なすでに超満員です。清水沢からの客が乗ろうにも、山手線でもここまでひどくはなかろうという大混雑で、まずは車掌室に、それでもまったく収まりきらず、結局運転室にまでぎゅう詰め状態となってようやく発車。それにしてもあの状態でよく運転できたものです。
▲夕張新砿先のS字カーブを激しいブラスト音を響かせて登る北炭真谷地22号機(左)と、現車33輌を持って沼ノ沢を発車する5790レのD51 767(右)。'74.3.27

この混雑による遅延もあって、沼ノ沢に着くと真谷地の22号機はすでに盈車を牽いて降りてきてしまっていました。慌てて夕張新砿の先の変電所のあたりでヤマに戻る22号機を狙います。現車13輌の空セキを牽いた老96は空転寸前の大迫力で目の前を通過してゆきました。これまでにもさんざん撮ったとはいえ、今回の渡道ではようやく目にすることのできた真谷地の生きた姿でした。

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このポイントで一緒になった人たちが、午前中に真谷地の庫で今日の詳しい出炭状況を聞いてきており、ありがたいことにこれで今日の行動がかなり確率の高いものになりました。この人たちの薦めもあって、真谷地に上がる前に14時17分発の5790レの発車を沼ノ沢駅上り方構内外れで狙うことにします。これがなかなか感動的な迫力で、現車33輌を持ったD51 767は渾身の力を振り絞って沼ノ沢を発車してゆきました。
▲真谷地炭礦の選炭ポケットに空セキを押し込む22号機。まだまだ日常の生活の中に蒸気機関車は生きていた。'74.3.27

余分な荷物は沼ノ沢駅の一時預けに置き(40円也)、真谷地支所行きのバスで炭礦に上がることにします。真谷地炭礦のひとつ先、「真谷地炭礦病院」バス停まで行き、2フィートゲージの運炭軌道の状況をチェック、専用鉄道運転事務室に歩いて下り、構内の撮影許可を申し出ます。やはり春闘まっただ中とあって、「本当はまずいんだけど、汽車以外のものを撮らないなら…」という条件で撮影を開始、庫内の24号や逆機で発車してゆく22号機などをひとわたり写して再びバスで沼ノ沢へ。今日最後の空車列車は16時ちょうど発の予定です。

3091n.jpg夕張新砿近くのポジションを目指して歩き始めると、後ろからついてくるファンの姿が。真谷地は初めてとのことで、それならばと定番のポイントに案内して一緒に撮ることにしました。夕日を浴びながらヤマへと帰ってゆく22号機を見送り、神戸の高校一年生だという彼とすっかり意気投合、運用の関係からこのところ三重連になっているという室蘭本線の5290レを一緒に撮りにゆくことにしました。彼の「日南3号」や「高千穂51号」の撮影武勇伝を聞きながら目指したのは栗山。砂川から室蘭へ石炭を落とす5290レは栗山の到着が18時ちょうど。この季節としては晴天でもほとんど露出があるかどうかというところです。
▲逆機で真谷地炭礦を出る22号機。一部に逆勾配があるものの、この牽き出しさえ終えてしまえば、あとは沼ノ沢まで下る一方だ。'74.3.27

099n.jpg昨日と同じ追分17時24分発の229レは、今日は44号機ではなく、ちょうどプラス100した番号のC57 144〔岩一〕が先頭に立ちました。客車はオハフ33 1032。栗山の到着は17時54分ですから5290レとほとんど交換です。229レが停車するのももどかしくデッキから飛び降りると、対向ホームの助役さんが「三重連が来るから早く撮りなさい」と叫んでいます。見ればもう彼方に前照灯が…。露出は開放(f2.8)でも1/125がやっと。しかもほとんど絶気状態で迫力もへったくれもありませんが、満載したセキ45輌を連ねたさまは室蘭本線を象徴する姿にほかなりません。
▲栗山駅構内に進入してくる5290レ。三重連といってもこれではほとんどなんだかわからない。'74.3.27

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今夜は札幌から急行「大雪5号」に乗車するつもりです。さきほどの神戸の彼も明日は常紋へ行くので同じ「大雪5号」だとのことで、それならばと栗山から夕張鉄道で野幌に出ることにしました。夕張鉄道栗山?野幌間(150円)の旅客営業はあと4日、つまり3月31日が最終となることが決まっており、乗り納めの思いもあります。最終14列車は19時ちょうどの発。車輌は道内初の液体式気動車として知られる1953(昭和28)年新潟鐵工所製のキハ251。ビニール張りの転換クロスシートが、かつての産炭地・夕張の栄華を物語っているかのようです。
▲夕鉄14列車のキハ251車内。路盤の緩い泥炭地帯で、そのうえ保線が充分でないためもあってか、とにかく揺れる。しかも闇の原野をこれでもかという高速で突っ走る。'74.3.27

097n.jpg野幌までの所要時間は36分。しかしこの列車の揺れることといったらありません。とにかく今にも脱線するのではないかと思われるほどで、座席に座っていてもしがみついていないとならないありさまです。ことにスロットル・オフした時のTR29台車の飛び跳ねようは筆舌に尽くしがたいものがありました。それでも車内補充券を買ったのをきっかけに手持ちぶさたそうな車掌さんとすっかり意気投合、遊園地まであった錦沢のかつての賑わいの様子などを聞き、「もういらないから」と携帯品のダイヤまでもらってしまい、実に気分よく野幌に到着したのでした。
▲親切にしてもらった車掌さん。この一年後に夕張鉄道そのものが廃止となってしまうとは、もちろん知ろうはずもない。'74.3.27

106n.jpg夕鉄車内で出会った、今度は高校三年生というやはり神戸のファンと3人で札幌へ向かい、定番の「宝龍」で味噌ラーメン250円也を食し、札幌22時15分発の517レ急行「大雪5号」のスハ45 6の20番ボックスを占領して深い眠りに落ちたのでした。
▲野幌に到着した14列車のキハ251。この車はその後鹿島鉄道に譲渡され、キハ714として今日でも健在。ただしシートは1977年にロングシート化されてしまっている。'74.3.27

3月26日
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この日は朝からすべてが散々でした。素泊まりで…とは言ったものの、朝起きてもお茶一杯ありません。しかもニュースを見ていると夕張鉄道は12時間ストに突入というではないですか。万事休す。国鉄がだめそうなので窮余の策で私鉄・専用線と思ったのに、今日一日いったいどうすればよいのでしょうか…。
▲平和で入換え中の27号機。夕張線と夕張川を挟んで、若菜の28号機と平和の27号機の汽笛が、谷の両側で互いを呼び合うように響き渡る。'74.3.26

当初の計画では夕鉄バスで錦沢のスイッチバックに行くつもりでしたが、それもかなわぬ夢です。オガライトストーブを点けながら宿のおじさんの言うには、8時40分の追分行(本来は札幌行)だけは動くのでそれに乗らないと移動できないとのこと。やむなく8時10分に宿を出て駅へと向かいます。追い討ちをかけるように、出掛けに小脇に抱えた新聞を「それ、ウチのだから置いてってください」と宿のおじさん。とことんついていません。それでもまた道がわからないといけないと、おじさんが途中までぬかるんだ雪道を案内してくれました。

3.26b.jpgストの関係で追分止めとなった3540Dは、その先の接続もわからないためか乗客もまばらでした。キハ22 221〔札サウ〕に揺られてとりあえずはストと関係なさそうな北炭真谷地専用線のある沼ノ沢へと向かうとこにします。ところがこれがアサハカの極みで、国鉄貨物が止まっているのに専用線が出炭するはずもありません。案の定、沼ノ沢から1キロほどの地点にポジションを構えたものの、待てど暮らせど列車はやって来ず、ついに断念。“素泊まり”ゆえ朝食もとっていないので、とにかく駅に戻って朝飯を食べることにしました。
▲化成の入換えに励む28号機。“門デフ”のような切り欠きデフは夕鉄鹿ノ谷機関区のお手製だそうだ。'74.3.26

3.26c.jpg沼ノ沢駅前には「かど蛯食堂」という駅前食堂があるだけ。選択の余地はなく、暖簾の出ていない引き戸をガラガラと開けて覗き込むと「今日はまだなんですよ」との声。まだと言われても、コンビニがあるわけでもなく「何かできませんかねぇ」と問い返してみると、ウチの食事でよければ…ということになりました。隣のテーブルでは店の子でしょう、高校生くらいの男の子が深刻な表情でベストセラー『ノストラダムスの大予言』を読みふけっています(もちろんこの時点で彼はこの大予言が“大ハズシ”になることは知るよしもありません)。ややあって出てきたのはしいたけやちくわなどが入った炊き込みご飯のようなもの。どうやら昨日の夕食の残りのようですが、贅沢は言っていられません。足の周りをゴロゴロと歩き回るネコを気にしつつ、まずは完食。お礼とともに200円也を払って「かど蛯食堂」を出ました。
▲遥かロッキーナローを思わせる鹿ノ谷のコールタワー。右に給水スポート、手前に砂乾燥室が見える。'74.3.26

動いている夕鉄バスで清水沢まで行き、清水沢でバスを乗り継いで若菜へと向かうことにします。別に確固たる勝算があったわけではありませんが、若菜の化成工業所や隣の平和炭礦では入換えくらいは見れるだろうという読みです。
清水沢は大夕張鉄道無煙化後は訪れる人も少なく閑散としていました。懐かしい待合室に入ってみると、路線短縮にともなって行き先の「大夕張」の頭に「南」の文字が紙片で貼り付けられているのが印象的でした。

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バスで若菜までやってくると、予想は良い方に当たりました。化成専用線で28号機がさかんに入換えをしています。若菜構内にいた27号機も平和に向けて発車してゆきます。どうやら本線列車以外の入換えなどは通常通り行われているようです。
▲ストの影響もあって閑散とした鹿ノ谷の庫。見慣れた12号機は右の庫で中間検査の真っ最中であった。'74.3.26

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若菜から鹿ノ谷までゆき、庫内の12号機などを撮ってからバスで追分へと戻ることにしました。ところがバス停まで息せき切って走ったものの、中央バスと夕鉄バスのバス停が2mほどずれており、タッチの差で乗り遅れてしまいました。いやはや、とことんついていない日です。ふてくされながら鹿ノ谷駅へ戻ると、今度はラッキーなことにストが解除になって次の追分行734Dが運転されるとの朗報! 災い転じて何とやらで、さっそく3輌編成の先頭車に陣取ります。定刻16時30分を少し回った頃、一般客1名と学生1名、それに「動力車」の腕章をしたナッパ服姿の職員ひとりと私、合計4名だけを乗せた734Dは、刺すような夕日の中を夕張の谷をあとにしたのでした。
▲17時29分、追分を出る229レ。暮れなずむ構内に響くC57のブラスト音が次第にピッチを速めてゆく。'74.3.26

追分からはC57 44〔岩一〕の牽く229レ(オハ62 105)で栗丘へ。昨日忘れた手袋を引き取り、駅から少しいった雑貨屋の前のバス停から18時29分発の中央バスで岩見沢へと向かいました。岩見沢駅前の「大衆食堂」とでかでかと看板のある「まりも食堂」で300円也のカツ丼を奮発。ところがこれがボリュームはあるものの、何かの間違いではないかと思うほど味がなく、やむなく醤油をぶっかけて散々な一日が終わったのでした。

ただ、実はまだ更なる試練が待っているのです。ストの影響で夜行列車が大幅に乱れており、安全パイとして明日も夕張地区へ舞い戻るため、旭川の待合室で仮眠をとって深夜3時45分旭川発の上り518レ「大雪5号」で岩見沢に戻ろうというのです。果たして、かなりむちゃな“旭川ターン”は成功するのか…、久しぶりに乗った旭川行の「電車」、モハ711-3の中でも不安はつのるばかりです。

3月25日
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目覚めると5時過ぎ。しまった! 4時45分着の苫小牧で下車するつもりだったのに寝過ごした…と思いきや、目をこらしてみると車窓にはまだ漆黒の海岸線が続いています。そう、この「すずらん4号」は函館を42分も延発しているのでした。ただ、定刻だと苫小牧から接続するはずの4721Dはすでに発車してしまったあと。やむなく次発の221レで今日の撮影地・栗丘に向かうことにします。
▲栗山隧道を飛び出してきたのは「団結」の文字も鮮やか(?)なC57 135〔岩一〕。まさかこのカマが最後の旅客牽引機となり、交通博物館に収まろうとは、もちろんこの時点では思ってもみなかった。'74.3.25 栗山?栗丘

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221レの牽引機は緑ナンバーのD51 260〔岩一〕。どこかで見たような…と思いきや、テンダー上の1500?重油タンクで記憶が蘇りました。そう、新津にいたカマです。たしか会津若松の庫で撮影したことがあるはずです。久しぶりの再会にひとコマだけシャッターを切るものの、あとはオハ35 714のボックスに足を伸ばして続きの睡眠を貪ることにします。
▲苫小牧で発車を待つ221レのD51 260〔岩一〕。この時点ではまだデフは切り詰められていない。'74.3.25 

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栗丘には7時36分着。道内の無煙化も急速に進んできており、本数を稼げるという面ではここ栗丘が人気のポイントとなってきていました。221レからも60人ほどが狭いホームに降り立ちました。栗丘?栗山間は大した勾配もありませんが、上下線が大きく開いていることもあって撮影アングルにはことかきません。ただ、やはり順法闘争の影響でダイヤはあってなきがごとく。築堤斜面に陣取った面々は汽笛に合わせて終日右往左往することとなります。
▲栗丘“お立ち台”の賑わい。上り線は4‰に抑えられているとはいえ、新栗山隧道に向かう石炭列車はそれなりの迫力だ。'74.3.25 

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▲ギースルの排気音を残して“お立ち台”脇を通過してゆくD51 328。'74.3.25 

IMGP6207n.jpg結局夕方まで栗丘で過ごしたもののたいした収穫はなく、それよりも明日予定されているというストライキの方が気になりだしました。このまま“本線筋”にいてもまともに撮影できる確率はきわめて少なく、ならばと急遽予定変更、明日は夕張鉄道か北炭真谷地専用線を狙うことにします。栗丘駅でファンノートに記入し、230レのオハ62 106で追分へ。今日は夕張に泊まろうという腹積もりです。

IMGP6203n.jpgところが230レの車内で栗丘駅に手袋を忘れてきたのに気づきました。とりたててどうということはない手袋ですが、今後の行程を考えるとあるに越したことはありません。ちょうど追分駅で乗り継ぐ夕張線737Dが遅れている室蘭本線下り229レの接続待ちをしている間に駅事務室から栗丘駅に鉄電を掛けてもらい、一両日中に通りかかった際に引き取りに行くことにしました。
▲『道内時刻表』の室蘭本線のページ。「D以外は蒸機」の注意書きに注目!

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夕張に泊まるといっても別に宿の予約をしてあるわけではなく、結局、夕張駅で紹介してもらうことにしました。駅から電話してもらったのはその名も「夕張旅館」。駅員はすぐわかりますよ、と送り出してくれたものの、これがまったくわかりません。薄暗い炭住の間を通ってようやく行き着いたところが何と「夕張炭礦病院」の廃墟。さきほどホームから見たD51重連の白煙が駅方向にたなびいているのを目印に、ほうほうの体で逃げるようにその場をあとにしました。
▲時刻表では客レはすべて蒸機とはいうものの、無煙化は着々と進行しており、DD51の姿もちらほら見かけるようになっていた。'74.3.25 

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やっとの思いでたどり着いた夕張旅館は想像とまったく違う小さな商人宿で、おまけに2食付き2500円というではないですか。それならばと素泊まり1500円でお願いし、何はともあれ3日ぶりに畳の上で寝ることにします。赤々と燃えるオガライトストーブの上では鉄瓶が鳴り、駅の駐泊所から聞こえてくるD51の汽笛を耳に眠りにつこうとしますが、考えてみると、今日は追分で夕張行き737Dに乗る時に食べたパンとコーラ、それに夕張駅で仕入れてきたカステラ50円也しか口にしていません。床の間に掛けられた古びた掛け軸がいよいよ気分を暗くさせ、ケチらないで2食付きにしておけばよかったと、後悔の念が湧き上がってくるのでした。
▲給水温め器排気をまつわりつかせながら上り線をかなりの高速で駆け抜けるC57 38〔岩一〕。'74.3.25 

aniai1.jpg3月24日
車掌室向かいの二人掛けシートに弘前へ行くおばさんと二人きり、しかもひじ掛けさえもないとあって、普段は“連結ホロの中でも寝られる”のにどうも居心地が悪く、しかも間近で響くDD51のホイッスルに浅い眠りから目覚めると、列車はまだ大曲を出たところでした。

3年ほど前であれば、矢立峠のC61や五能線のハチロクと被写体には事欠かなかった奥羽本線北部ですが、すっかり無煙化が進み、この時点で残されていた蒸機は阿仁合線のC11くらいでした。しかもこの阿仁合のC11も前年秋に一旦はDE10化されたものの、除雪用DLが不足した関係から、急場凌ぎに冬季限定で復活したという曰くつきです。行きがけの駄賃と言っては申し訳ありませんが、とにかく今回はウォーミングアップのつもりでまずは阿仁合線のC11を狙う算段です。
▲米内沢を発車する262レのC11359〔弘〕。2灯のLP405がどうもいただけない。一旦は無煙化されて生え抜きのカマがすべて廃車されてしまった弘前区に、米沢から転じてきたいわば外人部隊の1輌。ちなみにこの359号機はさらに遙か南九州に転じて志布志区で翌年2月に廃車となる。'74.3.24

ED75 720〔秋〕に牽かれた401レ急行「津軽1号」は定刻7時22分に阿仁合線の接続駅鷹ノ巣に到着、30分ほどの連絡で7時55分発比立内行き225Dに乗り込みます。車輌はキハ22 339〔秋ヒロ〕。隣のホームにはラッセルヘッドを付けたDD15が停まっており、嘘か誠か駅係員はC11は今日限りと言います。いずれにせよ、まったく不案内な線区だけに行き当たりばったり、80円区間の米内沢に狙いを定めることにしました。

米内沢で降りると秋田から来たという学生と一緒になりました。これは地元ファンだけにくっついて行くのが懸命と他力本願に考えたのが大間違い。桂瀬方面に進むものの、しばらくたってから彼もまったくロケーションがわかっていないことが判明。時すでに遅しで、262レはどうしようもない築堤で撮影するハメとなってしまいました。しかも、撮影を終えると薄日の差していた天候が一転、猛吹雪となって駅へ戻る道を阻みます。畑の中の一直線の道がどれほど遠く思えたことでしょう。ただ、米内沢駅に戻ると262レはまだ停車しており、発車シーンを狙えたのだけはラッキーでした。

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当初は一日ここ阿仁合線で過ごすつもりでしたが、鷹ノ巣駅運転事務室で朝聞いたところでは、今日は午後の臨貨はウヤとのこと。それでは長居は無用と、米内沢11時06分発226Dで小ケ田へ戻り、昼過ぎの1291レを押さえたら阿仁合線を去ることにしました。ただ、226Dまではまだ一時間以上あります。考えてみると上野で60円也のコーラを飲んだきり何も口にしていないことに気付き、米内沢駅前の食堂で何か食べておくことにしました。何かといっても結局は180円のラーメン。無愛想なおばさんが出してきたラーメンはやたらと麺の量が多く、なぜかトッピングされているお麩が紙のように薄かったのが印象的でした。
▲彼方に大館の街をのぞみ、小ケ田から大野台に向けての25‰を力行するC11 240〔弘〕。ブラスト音だけは盛大だが、逆機でこの角度ではどうもサマにならない。'74.3.24

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226Dのキハ10 51〔秋ヒロ〕で鷹ノ巣のひとつ手前の小ケ田へ。別に目算があったわけではなく、朝の下りで車窓ロケハンして目星を付けただけでしたが、とにかく小さな橋梁を渡り、大野台方に少し行った所の鷹ノ巣市街が遠望できる丘で1291レを待つことにしました。

12時過ぎ、C11 240〔弘〕に牽かれた1291レは折りよく雪の止んだ小ケ田橋梁先の築堤上を、盛大なブラスト音とともにやってきました。ところが逆機、バック運転ではないですか。考えてみえば当たり前のことですが、なぜかこの時はチムニー・ファーストでやってくるものとばかり思って構えていたため、その落胆はかなりのものでした。

鷹ノ巣へ戻る列車は小ケ田13時26分発の230D。1時間以上も空きがあります。駅近くの雑貨屋にファンタ・グレープ(40円)を買いに行き、フレンドリーな犬2匹と戯れて時間をつぶしていたものの、結局前夜の不眠がたたったのか、急激に睡魔が襲い、小ケ田駅の待合室でしばらく寝ることにしました。
▲雪雲の間からのぞいた陽光はほのかに春の温もりを感じさせる。1291レ。小ケ田?大野台 '74.3.24

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当初の計画では鷹ノ巣で444レの後部補機につくC11を狙う算段でしたが、午後の貨物がウヤとあってはそれもかないません。鷹ノ巣14時23分発の711D「千秋1号」でとっとと青森に向かうことにしました。
▲米内沢を出てゆく262レ。記録によればこの翌日、3月25日に阿仁合線は二度目の無煙化がなり、以後再びC11が舞い戻ることはなかった。'74.3.24

IMGP6206n.jpg申し遅れましたが、この1974(昭和49)年春は空前規模の「春闘」が行われた年で、4月11日には81単産600万人という史上最大のゼネストが敢行されています。この旅はこの一連のストの影響でたびたび予定を変更せねばならなくなるのですが、まずその第一弾がこの「千秋1号」でした。もともとは15時18分鷹ノ巣発の501レ急行「きたぐに」で青森に向かうつもりだったのですが、「千秋1号」が25分遅れているとのアナウンスから、これは大阪発の「きたぐに」はどれほどの遅れを持ってくるかわからないと踏んで、あえて先発の「千秋1号」を選んだのでした。11号車のキハ28 455に揺られること1時間半ほど、青森では予定より一便早い17時00分発青函連絡船25便に乗船することができました。予定通りの「きたぐに」を待っていては、果たしてどのような結末になったものやら…。

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5分ほどの延発で青森を出た「津軽丸」は、恐れていたほど荒れていない黄昏の津軽海峡を進んでゆきます。例によって350円也のイカ刺定食を食し、あとはひたすら仮眠。20時50分ほぼ定刻に函館港に入港したものの、乗車予定の1217レ「すずらん4号」まではまだかなり時間があります。軽く市電の夜間撮影などをして、とにかく座席を確保するために乗車待ちです。ふと気づくと、阿仁合で会った秋田のファンも同じ「すずらん4号」待ちの列にいるではないですか。
▲函館にほとんど雪はなかった。「すずらん4号」の発車は23時40分。しばし函館市電を撮って時間をつぶす。函館駅前 '74.3.24

DD51 657〔五〕+ DD51 699〔築〕の重連を先頭にした「すずらん4号」の最先頭10号車スハフ44 22〔函ハコ〕の2番A席を確保。予想通りえらい込みようで、「きたぐに」→青函連絡27便ではとても座れなかったに違いありません。定刻23時40分発の「すずらん4号」は実に42分も遅れて日付の変わった函館駅を発車しました。

東京では桜の開花宣言も出されて、季節は一気に春到来。この時期、学生時代は蒸気機関車の姿を求めて渡道するのが常でした。学割で買った均一周遊券を片手に、100フィート缶から自分で巻き直したトライXを山と携え、わずかばかりの現金を懐に津軽海峡を渡ったあの日々…ちょうど32年前の今日、1974(昭和49)年3月23日に急行「津軽1号」で出発したあの旅の、4月6日帰京までの半月を、日を追ってもう一度振り返ってみたいと思います。同時代体験された方には懐かしい記録として、また若い世代の方には国鉄蒸機が最後の活躍を続けていた時代のいちファンの姿としてご覧いただければと思います。ではまず第一日目、32年前の“今日”、3月23日(土)に戻ってみることにしましょう。

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3月23日
数日前から風邪ぎみだったものの、前夜熱い風呂に入ってすぐ寝たのが良かったのか、何とか体調も回復、いよいよ待ちに待った半年ぶりの渡道です。カメラ機材以外はほとんど荷物もないのに、なんだかんだで仕度が遅れ、家を出たのはもう日が傾きかけた17時過ぎ。上野19時27分発の急行「津軽1号」にはもう2時間ほどしかありません。もちろん指定券など買っていようはずもなく、なんとか4輌の自由席に潜り込まねばならないのです。

ところが3月号の時刻表で17番線発と確認したつもりだったのに、上野駅地上ホームまでやって来ると、「津軽1号」は13番線発ではないですか。春休み時期の土曜日とあってどのホームも信じられないほどごったがえしています。17番線まで来てしまったのが大失敗で、13番線先頭の自由席はすでに長蛇の列。推進で進入してきた列車が停止するのも待たず、われ先にとデッキの扉を開けて殺到する東北人のパワーに押され、気付いてみればすでに座席はすべて埋まっていました。

乗車したのは最先頭の12号車オハフ33 2355〔北オク〕。とにかく通路まで人が溢れている状況で、最前部の車掌室前でぼう然。これは初日から一晩立ちっぱなしか…と諦めかけていると、落胆ぶりが伝わったのか、ちょうど車掌室向かいの2人用座席(これは客用座席ではないのかも知れませんが…)のサラリーマン風の中年男性が「私は宇都宮までだから…」と言ってくれました。宇都宮までは約1時間半、何とかその後の寝床は確保することができそうです。EF57 11〔宇〕に牽かれた401レ急行「津軽1号」は、制限95km/hいっぱいで帰宅客で溢れる赤羽、浦和と通過してゆきます。

21時07分、待ちに待ったの宇都宮着。6分停車です。席を空けてくれた中年男性にお礼を言い、ようやく座席にありつきます。隣は弘前まで行くというおばさんで、帰るとリンゴ畑の仕事が待っているとのこと。黒磯からはED75 1006〔青〕に引き継がれ「津軽1号」はひたすら北を目指しますが、春さきとはいえここまで来ると外気はぐっと冷えてきます。先頭車に乗ったのが失敗で、デッキ部から入ってくる冷気が堪えます。これではとても寝ていられないと、通路のドアに新聞紙を挟み込んで紐で固定、まだまだうすら寒いものの、ダイレクトに入ってくる風だけは防げるようになりました。

福島では板谷峠の厳しさを暗示させるごとく全身雪まみれのEF71 10〔福〕+EF78 8〔福〕の重連にバトンタッチ、さらに山形からはDD51 680〔山〕、秋田からは最終第5ランナーED75 720〔秋〕に引き継がれて、401レ急行「津軽1号」は奥羽本線を北上してゆくのでした。
▲16日間有効の北海道均一周遊券は冬季割引+学割で6000円弱。当時手足のように馴染んでいたキヤノンフレックスと、この旅を共にした『道内時刻表』1974年4月号。

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貨物営業の廃止や、保線作業の別会社化・外注化の余波を受けて、最近ではすっかり見かけなくなってしまったのが「電動貨車」です。20年ほど前までは大手電鉄はもとより、電化ローカル私鉄にも強烈な個性の電動貨車がさながら“主”のごとく棲みついており、そんな彼らとの出会いも大きな楽しみでした。
▲ポールからパンタグラフへ換装されているものの、極めてよくオリジナルを留めるデワ1。オープンデッキとバッファー・リンク式の連結装置はまさに現代のシーラカンス。'93.11.27 長沼工場

現在では京浜急行クト1形のような新世代の“現役”車を別とすれば、残された電動貨車はいずれもイベント用の動態保存的意味合いが強く、実際に仕業に就く機会はまずありません。そんな仲間の中でもとりわけ異彩を放っているのが静岡鉄道のデワ1です。残念ながらすでに車籍は抹消されており、本線に出ることは叶いませんが、長沼工場できちんとメンテナンスされて、美しい姿を留めています。

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1926(大正15)年日車製のこのデワ1、何と言ってもいまだにバッファー・リンク式の連結装置を装備しているのが驚きです。やはり片側の連結器がバッファー・リンク式のままの無蓋貨車ト1形とペアで石炭輸送等に活躍していたそうで、ト1形もしっかりと保存されており、イベント等で往年の姿を偲ぶことができます。
▲全長7722mmとコンパクトながらその存在感は現代の車輌とは比較にならない。なお、これまでに秋葉線用車の転用とする記事もあるが、本車はデワ10として竣功した清水線用車で、秋葉線のデワ1(もとデ5)とは同系ながら別物である。'93.11.27 長沼工場

IMGP6186n.jpg一昨年(2004年)の10月23日から12月19日にかけて「葛飾区郷土と天文の博物館」で開催された「帝釈人車鉄道 ?人車のゆくえを追って?」をご記憶の方もおられると思います。大正初年、京成電気軌道の開業によって廃止となった帝釈人車軌道の“人車”が、茨城県の笠間人車軌道に転じて再使用されていたという言い伝えを検証する試みを軸として開催されたこの企画展は、宮城県松山人車、千葉県長南茂原人車、静岡県湯河原の豆相人車、さらには交通博物館の松山人車や千葉大学鉄道研究会が作った現代版人車と、実に5輌の「実物」が顔を合わせるこれまでにないユニークなものでした。
▲『帝釈人車鉄道 ?全国人車データマップ?』(かつしかブックレット15)の表紙。A5判とコンパクトなサイズ。

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今回上梓されたのは、この企画展の成果をもとにしたA5判100ページほどの本『帝釈人車鉄道 ?全国人車データマップ?』(かつしかブックレット15)です。本編は「人車鉄道の時代」「帝釈人車鉄道」「人車のゆくえを追って」の3編から構成され、そのあとに資料編として「明治35年備忘録」「全国人車データマップ」、さらに展示抄録がつく、まさに人車鉄道に関するこれまでにないエンサイクロペディアとなっています。しかも前半24ページは貴重な絵葉書や古地図がカラーで掲載されており、いち自治体の郷土博物館が刊行した本としては異例の完成度の高さと言えるでしょう。
▲豆相人車鉄道のカラーグラフ頁。機械動力による軌道と違って小規模なものが多かっただけに、残された写真類はどれもが極めて珍しい。この写真はもちろん当時の“人着”(人工着色)によるカラー。

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▲主題である帝釈人車鉄道の路線図や公文書館所蔵の平面図などもカラーで紹介されている。
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同じく帝釈人車鉄道の項。事業報告書など経営に関わる資料もきちんと記録掲載されている。▲

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人が動力となって車輌を押す“人車鉄道”は、1891(明治24)年の「藤枝焼津間人車鉄道」をはじめとして、1959(昭和34)年に廃止された島田軌道まで29路線が存在しました。もちろんこれらは軌道条例(のちの軌道法)による開業軌道で、森林や鉱山などで数多く使われていた産業用のものは含まれていません。この本では主題である帝釈人車軌道の顛末に加えて、これらすべての開業軌道について旧版地形図を掲載してそのルートを特定しようと努めるとともに、可能な限り写真を紹介しています。これまでにも2月18日付け本欄でもご紹介した佐藤信之さんの『人が汽車を押した頃 ?千葉県における人車鉄道の話?』や伊佐九三四郎さんの『幻の人車鉄道 ?豆相人車の跡を行く?』など、いくつかの人車鉄道関連図書が出版されていますが、この『帝釈人車鉄道 ?全国人車データマップ?』はビジュアル面でも非常に良く出来ており、文句なくお薦めの一冊です。
▲梨畑の監視小屋に使われていた松山人車の車輌を発掘する様子もリアルに紹介されている。

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3月15日に発行されたばかりのこの本、残念ながら一般書店には流通せず、「葛飾区郷土と天文の博物館」宛に直接申し込む形となります。価格はなんと600円。まさに自治体発行でなければ実現不可能なリーズナブルさです。詳しい申し込み方法は下記をご参照ください。
●代金600円+送料210円=810円分(1冊の場合)の郵便小為替を下記宛に送付。
〒125‐0063 東京都葛飾区白鳥3?25?1 葛飾区郷土と天文の博物館
℡03(3838)1101 FAX03(5680)0849。

▲裏表紙には全国の開業人車軌道の一覧マップが付いている。

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“ウェザリング”という言葉が一般化したのは、恐らく1970年代になってからだったと思います。言うまでもなく“ウェザリング”は模型の仕上げテクニックで、単に塗装するだけでなく、如何に実感的に(かつセンス良く)フィニッシュするか重要で、ひいてはどれほど実物に対する観察眼があるかの力量も問われます。
▲このブログでも何回か途中経過をご紹介している「スモーキー・ボトム・ランバー」製のレジン製GLキットのエンジン部。どうやってあのレジンの質感を消すかが大きなポイントで、ヘビーデューティーな使われ方をしつつも、辛うじて動いている状況を表現しようとしたつもり。クーリング・ファンの肉厚さなどはレジンの宿命で如何ともしがたい。

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“ウェザリング”という概念が芽生えはじめた頃、数あるジャンルの中で我らが鉄道模型がそのテクをリードしていました。エコーモデルから「ウェザリング・ブラック」や「ウェザリング・ベンガラ」といった専用マテリアルも市販されるようになり、一方でパステルを用いたメーキャップ法などが誌上を賑わすようになります。プラモデルに代表される他ジャンルは、一部の先鋭的な例外を除いて、この時点ではそれほど“ウェザリング”が一般化してはいませんでした。
▲愛用しているのは米国ブラグドン・エンタープライゼス社製の「ウェザー・システム」というパウダー。他に例がないほど微粒で極めて食いつきが良い。

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それがここ20年ほどで劇的に状況が変わります。グンゼ産業がその名も「ウェザリングカラーセット」を発売したのを皮切りに、現在ではタミヤの「ウェザリングマスター」や「ウェザリングスティック」などの専用製品がめじろ押しで、彼ら、つまり鉄道模型以外のジャンルのモデラーのテクは目を見張るような進化発展を遂げてきました。

国外に目を転じると、“ガゼット調”という言葉を生んだ米国の『ガゼット』誌がたびたび新技法を紹介し、最大メジャーのMR誌がベーシックな技法解説を繰り返し紹介するなど、これまでアメリカが常にリードしてきた感がありましたが、ここにきて欧州勢の巻き返しが顕著です。従来さほど“ウェザリング”に重きを置いていなかったヨーロッパのモデラーたちが、持ち前のセンスを発揮して“開眼”したということでしょうか…。
▲12色が小さなプラケースに入っており、それがさらに大きなプラケースに収まる。ダルコートと併用して使うのが良いと説明書にはある。日本円で2800円ほど。

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エア・ブラシをはじめとして“ウェザリング”にはいろいろなテクニックやマテリアルが存在します。米国製の「ラストール」に代表されるリキッド状のものや、パステルのようなパウダー状のもの、さらには十年ほど前のRMモデルズ誌でご紹介したラッテンストーンのように漬け置いて固着させるもの等々、今や選択の幅は“ウェザリング”の概念が普及し始めた1970年代には考えられないほどに広がっています。他ジャンルや海外の動向を思うと、我らが日本の鉄道模型も“ウェザリング”にもう一度正面から向き合う時期にきているのではないでしょうか。
▲こちらも米国製の「FXウェザリング・マテリアル」。オイル汚れなどのリキッド状のものもあるが、パウダーに関しては上に掲げた「ウェザー・システム」の方が断然使いやすい。

RM272.jpg『Rail Magazine』本誌5月号(272号)が出来上がりました。今月号巻頭は車輌でも列車でもなく、あと50日あまりで閉館する交通博物館をフィーチャーするこれまでにない特別企画です。実はかなり以前からこの3月発売号では是非とも交通博物館への哀惜を形にしたいと、同館の菅館長にもご相談申し上げ、広田尚敬さんに特写をお願いして準備を進めてきました。各展示室はもとより、閉架書庫、資料収蔵庫、工作室といった一般には目にすることのできないスペースまで可能な限り撮影し、誌上に交通博物館最後の姿を記録したいという企画意図をご理解いただき、数日に及ぶ撮影・取材を実現することができました。

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そしてこの特別企画のもうひとつの見どころは、関田克孝さんによる「回想の交通博物館 ?交通博物館が最も輝いていた時代?」です。東京駅に隣接して開設された「鉄道博物館」時代から、関東大震災での罹災、万世橋への移転、戦災、戦後の復興と、時代に翻弄されながらも、交通博物館は常に子どもたちの“鉄道の夢”へのエントランスでした。著名なコレクターでもある関田さんは、今回の記事で秘蔵の資料を交えつつ、その歴史を克明に振り返ってくれています。昭和30年代初頭に博物館売店で売られていた「交通社会科のしおり」6種類を復刻折込付録とできたのも、関田さんのご尽力なくしてはかないませんでした。
▲折込付録の「交通社会科のしおり」の一部。全12種類が発行されたというこの「しおり」は、時代を超えて輝き続ける逸品だ。
※本号は交通博物館売店でもお求めになれます。

ちなみに、この誌上でも速報として掲載しておりますが、来る3月25日(土)より、交通博物館横の中央線高架上(現在保線車輌が留置されている線)で、閉館記念特別車輌展示が行なわれることが決定いたしました。3月25日(土)から4月3日(月曜日)まではEF55が、4月29日(土曜日)から5月8日(月曜日)までは昨日でお役ご免となった「寝台特急出雲号」の客車(有効長の関係で実際の編成とは異なる)が展示されるそうです。3月21日(火曜日)からは館内スタンプラリーも始まり(4月28日まで)、ますます注目度がアップすること間違いありません。

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東京駅に最後の特急「出雲」を見送りに行ってきました。会議やら何やらで会社を出たのが20時過ぎ、地下鉄を乗り継いで東京駅中央コンコースまでやってくると、すでに「出雲」の発番線の10番線下はただならぬ雰囲気に包まれていました。「21:10 特急 出雲 出雲市」のLED表示の下は、デジカメ機能のついた携帯電話をかざす帰宅途中の人たちでごったがえしています。それを見た通行人が「えっ、なになに、今日でなくなるの」とまたまた携帯電話を取り出して輪の中に加わるという、数年前までは想像できなかった状況が現出していました。いみじくも、道行く人ほとんど全員が“携帯電話という名のカメラ”を持っていることを実感する瞬間でした。
▲回送牽引機に牽かれて東京駅10番線に入線してくる最後の「出雲」。ホームを埋め尽くしたカメラのシャッターが一斉に切られる。'06.3.17

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人波の階段をようやく上がってホームに出てみると、いや、想像を絶する大混雑です。折しも品川方から回送で「出雲」が入線する時刻。ホーム・アナウンスは「出雲号入線です。黄色い線から出ないで下さい」ととめどなく繰り返しています。ややあってPFに牽かれた「出雲」が静々とホームに入ってきました。一斉に切られるシャッター音。でもちょっとほっとしたのは、事前のアナウンスも功を奏したのか、はたまた皆さん心得ているのか、無闇にストロボをたく人が余りいなかったことです。もちろんそこここで発光が見られましたが、よくよく注視して見ると、そのほとんどが“騒ぎ”を聞きつけて見に来た普通の人。「出雲」への哀惜の情をもって集まったファンの皆さんは、混乱の中にも比較的整然と最後の「出雲」を取り囲んでいました。
▲前日の新聞報道などもあってか、“一般”の人がカメラを構えるシーンもそこここで見られた。'06.3.17

IMGP6109n.jpg 定刻21時10分、「最後の出雲号発車です」のアナウンスとともにホームを滑り出す24系25形のブルーの車体。どこからともなく沸き上がる拍手に見送られて、あの深紅のテールサインは東京駅を去ってゆきました。幾度となく体験した名列車との惜別シーンですが、やはり万感迫る思いです。

そしてちょっと嬉しかったのが、「出雲」が去ってからのホームでした。「出雲号のお見送りありがとうございました」とのアナウンスが流れ、私が利用した階段を整理する駅員さんも、「お見送りありがとうございました。お気をつけてお帰りください」と人波に向かって何度も丁寧に頭を下げてくれました。私のように入場券だけで帰ってしまうような者が大半だとすれば、その警備の手間を考えれば、鉄道事業者としては決して面白からぬ“騒ぎ”でしょう。しかし、そんな状況にも関わらず、あの場に集った人たちを、いわば鉄道に対する“サポーター”として遇してくれた今回のJRの対応は特筆されると思います。
▲いよいよ発車。怒濤のような人波の向こうを、あの深紅のテールサインが静かに去ってゆく。※一連の写真撮影には脚立、三脚はいっさい使用しておりません。念のため…。

今日17日で「出雲」が去り、東京口の113系が去り、常磐に最後まで生き残った103が去り…時代のページがまた一枚めくられたわけです。

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C60103b.jpgご覧いただいている「編集長敬白」も“ホビダス”に百種類以上もある「オフィシャル・ブログ」のひとつですが、2月からは読者の皆さんにも気軽にブログを開設していただこうと、会員登録さえすればブログ・オーナーとなれるシステム、その名も「趣味ログ」をオープンいたしました。すでに今日現在で107項目がアップされており、是非ご覧いただければと思います。

なかにはウェッブ上だけで完結してしまうのはあまりにもったいない力作も見受けられます。ここにご紹介させていただく“メジロのめ次郎”さんの「蒸機模型日記」もそのひとつで、その卓越した工作力と塗装(メジロのめ次郎さんは塗装はいっさいせず、すべて“黒染め液”によるものだそうですが…)テクはタダモノではありません。ご本人のお許しを得てここに昨年完成したというC60 103をご紹介しますが、80分の1スケールとは思えないこの量感・質感はどうでしょう!
▲“メジロのめ次郎”さんのC60 103。その完成度の高さは尋常ではない。

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ちなみにこのC60 103、30年前に購入した天賞堂のC59にニワ製の従台車を組み合わせて大改造したものだそうで、製作期間は約一年。ご本人曰く、「レイアウト走行モデルとしてガンガン走ってもらう」のだそうです。いや、これだけの逸品を惜しげもなくガンガン走らせるとは…その面でもちょっとした驚きです。ブログは「16番でもそこそこいけるじゃん!」と結んでおられますが、そこそこどころではありません。
なお、このC60 103については2月13日付けで関連記事がアップされています。 
▲これが「趣味ログ」の鉄道コンテンツ画面。日々刻々といろいろなオーナーの方が鉄道趣味情報を発信し続けている。

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「趣味ログ」の中からもうひとつご紹介してみましょう。“ひまわり”さんが運営するのは「ちょっと楽しい鉄道と“鉄道おもちゃ”」。ご本人が「別に構わないですよ」とおっしゃってくれましたので改めてご紹介すると、“ひまわり”さんの本名は高橋 修さん。RM LIBRARY「関西大手私鉄の譲渡車たち」の著者でもあり、お父上は「N電 ?京都市電北野線?」ほか、数々の写真集で有名な高橋 弘さんです。ニコンの高性能デジタル一眼レフを手に、精力的に全国の鉄道を巡る様子が高い更新頻度でアップされています。各地で見つけた“鉄おも”情報も楽しく、こちらも是非ご覧になってみてください。
▲「ちょっと楽しい鉄道と“鉄道おもちゃ”」から、明日一杯で小田原に来なくなってしまう箱根登山の画像をご紹介。

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▲1979年8月の箱根登山鉄道入生田。“ひまわり”さんがお父さんに連れられて最初に箱根を訪れた時のショット。NSEの姿が懐かしいが、こんな埋もれた一枚が気軽に見られるのもブログの醍醐味。

一方、「オフィシャル・ブログ」でも、3月から姉妹誌『RM MODELS』の「RMMスタッフ徒然ブログ」がスタートいたしました。RMモデルズ編集部のスタッフが持ちまわりで、気になる新製品情報から取材の周辺情報まで縦横無尽にご紹介しようという新ブログです。オープンから2週間、まだまだ不慣れな点もあるようですが、今後の注目ブログであることは間違いありません。

“Web”+“Log”=Blog(ブログ)という言葉が一般化してから、まだ2年も経っていません。それがもの凄い勢いで増殖し、今では信じられないほど多くのコンテンツが日々刻々と更新されています。なかには、50年後に平成時代を検証するための第一級の民俗史資料をせっせと皆で作っている…といううがった見方さえあるようですが、なにはともあれブログは今まさに“旬”です。手軽に始められるホビダスの「趣味ログ」にあなたもトライされてみては如何でしょうか。もちろんほかのポータルサイトからの乗り換えも大歓迎です。

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昨年3月の創刊以来、多くの皆さんの力強いご支持をいただき、一周年を迎えることができた『国鉄時代』ですが、今朝方、最新号・第5号が校了し、来週22日には皆さんのお手元にお届けできることになります。

今回の特集は「20系客車とその時代」。1958(昭和33)年に誕生したこの歴史的名車は、かたや幹線電化の延伸の一歩前を歩むがごとく、全国に特急網を築いてゆきます。時あたかもC62誕生から十年後。ほんのわずかな期間ではありましたが、電化の槌音に追われながらも、大型蒸機が20系特急の先頭に立つというこれ以上ない“夢”が現実となりました。
今号の表紙は中村弘之さん撮影の「みずほ」の先頭にたつ熊本区のC59 1。ちなみに「国鉄時代」のロゴの赤は、生っぽい現代のいわゆる“金赤”ではなく、わざと昭和30年代のグラフ誌にあった褪せたような赤にしてあるのにお気づきだろうか。

山陽本線や鹿児島本線でのこの夢の競演はもとより、巻頭では横黒線、陸羽東線、肥薩線といった正規特急ルート以外への迂回列車にもスポットを当てております。代替輸送手段が整った現代では考えられないことですが、1970年代までは、災害時にも優等列車の運転を如何に確保するかが国鉄に課せられた大きな使命でした。迂回線の線路容量は、有効長は、橋梁負担荷重は、代替機関車の牽引定数は、乗務員のB運用は…等々、瞬時に計画を立案し、実行せねばならない運転局の苦労はいかばかりか…。今回は迂回の現場に遭遇した先達の皆さんの体験談を交え、たっぷりと貴重な記録をお見せします。

■特集:20系客車とその時代
●《巻頭グラフ》20系の記録
奥羽本線矢立峠のC61迂回「はくつる」/横黒線仙人峠D60迂回「はくつる」/陸羽東線C58迂回「あけぼの」陸前古川発車/肥薩線大畑重装備D51牽引迂回「はやぶさ」/山科を駆けるEF60P大幅遅延「さくら」「みずほ」/EF57牽引急行「新星」
●20系客車夜話 ? 「走るホテル」と呼ばれた黄金時代の逸話
●C62追想  ?山陽本線ブルトレ撮影記
●特急「みずほ」とC59 1  ?田原坂を駆けた熊本C59の精鋭たち
●旧世界を髣髴させた関西ブルトレと急行「銀河」
●20系「あさかぜ」最後の日
●西の函嶺の青列車 ?下り「はやぶさ」10時間遅延
●20系覚書き ?華と優美さに包まれたEF65Pと20系客車
●日豊本線楠ヶ丘・門石界隈  ?DF50「富士」「彗星」
●西の果てC11特急「さくら」8.9㎞の物語
●EF80の終焉と「エキスポライナー」


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これまでにない大ボリュームの巻頭特集となりましたが、一般記事も見所いっぱいです。主なラインナップは下記をご覧いただくとして、私たち編集者にとって一番嬉しかったのは、これまで誌面でお名前を拝見することのなかった多くの皆さんにご登場願えたことです。投稿はもとより、中にはブログ「わが国鉄時代」にエントリーいただいたのをきっかけに、メールでやり取りさせていただいて記事となったものもあり、いろいろな形で確実に「国鉄時代」の輪が広がってきていることを実感しています。

■下町の凸型電関の走る道 須賀貨物線とEB10
■横浜線を走った蒸機たち 小さな峠に挑んだC58・D51
■秋田駅にて DD51「日本海」「あけぼの」
■《カラーグラフ》スポーク動輪その華麗なる残照
C51、C53、C54、C55 近畿・中国地方のライトパシフィックの黄昏
■昭和30年代の京都 山陰本線の美しき蒸機たちを想う
■蒸機王国筑豊 複々線の思い出 蒸機列車密度日本随一 筑豊本線折尾?中間
■銘酒「九州菊」と9600の里 田川線崎山の風景
■前略、帯広に引っ越しました③ 早春の道東に最後の蒸機を追う
■落書きになったC58 33
■総天然色写真館 ひかりは西へ 新幹線岡山開業
■神話になった出雲 異国の地から来たDD54「出雲」/若番非重連型DD51最後の光芒
■名山と蒸気機関車 由布岳のふもとのD60の里
■《フォトギャラリー》阿仁合線 春を待つ季節

IMGP6084nn.jpg.jpgそしてもうひとつ。毎回お楽しみいただいている付録DVDも驚きの連続の内容です。今回ご登場いただいたのはお三方。登場順に簡単にご紹介してみましょう。

特別付録 秘蔵8㎜映像DVD
①華麗なる残照 C51、C54、C55 近畿・中国スポーク動輪パシフィックの黄昏
まず最初は、宮内明朗さん撮影による1961(昭和36)年12月から1965(昭和40)年8月までのC51、C54、C55の記録。C51は梅小路、亀山、奈良の所属機が登場し、特に、原型をとどめているC51 100とC51 225の美しい姿が動画で甦ります。また、後半のC54 8浜田発車は、スチールでも珍しいC54のカラーが動画でご覧になれます。

②狩勝峠の冬 根室本線 狩勝旧線のD51
続いて三品勝暉さんの作品。1962(昭和37)年から1966(昭和41)年にかけて、冬の根室本線旧狩勝峠におけるD51の壮絶な闘いを捉えた映像。計8日の撮影のうち吹雪かなかった5日間のシーンをまとめたものだそうですが、卓越したカメラアイとともに、日本鉄道三景にうたわれた旧狩勝のドキュメントは必見です。

③昭和30年代初頭の神戸 C62 4の幻の映像と山陽本線の蒸気機関車
そして最後は片岡千佳雄さんの手による1957(昭和32)年から1958(昭和33)年の神戸・須磨界隈を映し出した貴重な記録。C62、C59に牽引された列車が行き交う神戸の高架線を、街の風景とともに捉えています。1958(昭和33)年に事故廃車となったC62 4の現役時代の動画は本邦初公開で、これまた必見です。

東京駅ルネッサンス。

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既報のとおり、東京駅丸の内の煉瓦造りの本屋は、戦災以前の丸屋根に戻す復原工事が開始されるため、今月末からステーションホテルをはじめとした各施設が、一斉に休止モードに入ります。再オープンは2011(平成23)年。八重洲口に建設中の2つの高層ビル、さらには日本橋口の再開発と合わせて、「Tokyo Station City/東京ステーションシティ」と命名された新しい首都・東京の顔が誕生するのです。
▲まもなく復原工事に入り、2011年の再オープンまでしばしその姿を見られなくなってしまう東京駅丸の内本屋。夜間はライトアップされて幽玄な雰囲気を醸し出す。'06.2.11

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この復原工事着工を控え、来る17日(金曜日)より「東京駅ルネッサンス ?次の100年へ?」が開催されます。JR東日本から発表されたリリースによると、イベントの主な内容は以下のようなものです。
1、「東京駅百年物語」
  開催場所:丸の内南口ドーム
  開催期日:3月17日(金)?3月31日(金)
  概  要:丸の内南口ドームの天井をスクリーンに仕立て、創建当時から東京駅の歴史を映像で紹介。
2、バーチャルトリップ「未来の東京駅」
  開催場所:丸の内南口ドーム
  開催期日:3月17日(金)?3月31日(金)
  概  要:2007年秋開業予定の東京駅八重洲口ツインタワーの模型展示をはじめ、CGスクリーン映像で完成後の東京駅をバーチャル体験。
3、懐かしのあの頃へ。「ノスタルジック東京キャンペーン」
  開催場所:東京駅エキナカ、丸の内北口「味の散歩道」の各店舗
  開催期日:3月17日(金)?3月31日(金)
  概  要:期間限定のキャンペーン対象商品購入者に、東京駅限定オリジナル絵葉書をプレゼント。
4、東京駅所蔵の品々と写真で辿る「東京駅の歴史展」
  開催場所:ステーションギャラリー
  開催期日:3月22日(水)?4月9日(日)
  概  要:東京駅所蔵品や歴史を振り返る貴重な写真などを展示する特別展。
5、「東京駅アートロードパノラマ展示」
  開催場所:東京駅アートロード(丸の内南口地下と京葉線改札口を結ぶ地下通路)
  開催期日:3月17日(金)?3月31日(金)
  概  要:東京駅の歴史と未来像をアートロードの長いストリートを生かしてパノラマ的に紹介。

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▲2011年のリ・オープン時の「東京ステーションシティ」完成予想図。復原なった東京駅舎を見下ろすように、八重洲口の「グラントウキョウ ノースタワー」と「グラントウキョウ サウスタワー」が聳え立つ。(JR東日本プレスリリースより)

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この中でとりわけ注目なのは“東京駅所蔵の品々と写真で辿る「東京駅の歴史展」”でしょう。東京駅がどのようにしてできてきたか、どのようにして発展してきたかを、数々のエピソードとともに写真や実物展示で紹介するというこのイベント、これまで有料だった“ステーションギャラリー”が無料で開放されることとあいまって、会期中に一度は足を向けておきたい価値ある展示です。開催時間は10:00?20:00とアナウンスされています。
この「東京駅の歴史展」を見てから、3月一杯で休業する東京ステーションホテルのバーで一杯…というのも乙なものではないでしょうか。
▲「グラントウキョウ ノースタワー」(1)と「グラントウキョウ サウスタワー」(2)の間は「グランルーフ」と名付けられた全長240mの大屋根(3)で結ばれる予定。(JR東日本プレスリリースより)

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▲「東京駅ルネッサンス」の記念グッズ、オフィシャルグッズの数々。いずれも17日(金曜日)より発売となる。(JR東日本プレスリリースより)

最初で最後の“Sn”。

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不惑…齢四十にして惑わず、と言いますが、四十などとっくに過ぎてしまったのに、いまだに惑っているのが模型のスケールです。個人的に志向しているのがナロー、しかも2フーターですから、HOスケールでは量感としていまひとつもの足りず、1/4インチスケール(1/48)に“逃げた”のが20代中盤のこと。ところがその後7ミリスケール(1/43.5)の魔力にとりつかれ、30代はすっかり7ミリスケールにぞっこん。これで生涯迷うことはあるまいと思いきや、昨今の欧米での3/8インチスケール(1/32)ナローの充実ぶりにまたしてもフラフラ…いまだに“自分のスケール”というものを決められずにいます。
▲地方ローカル私鉄や専用線でよく見られた“鉄仮面ラッセル”をやってみたかった。付着させた“雪”は70年代に売られていた「スノーホワイト」という製品で、その質感と微妙な輝きは絶妙。もっとも経年変化で往年の輝きはないが…。

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そんな私ですが、実は10代最後の頃、一度だけ“S”に手を出したことがありました。“S”スケールとは3/8インチスケール(1/32)=“Ⅰ”の1/2、つまり3/16インチスケールで、縮尺は1/64。米国ではPBLというメーカーを中心にいちジャンルを築いていますが、当時はほとんど知られていないマイナー・スケールでした。急にSスケールを手がけようと思い立ったのは、3’6”(1067㎜)ゲージを1/64に縮尺する(つまりSn3 1/2)と16.5㎜になることに気づいたからです。いまさら思えば、すでにいくつかの作例がTMS誌上に発表されていたはずですが、当時はそんなことを知るわけもなく、これは大発見とばかり小躍りしたのでした。
▲30年ぶりに分解してみた。モーターといい、ウォームギアといい、今となっては時代を感じさせる。そして極めつきは伝導に用いている“スプリングベルト”。今でも手に入るのだろうか…。

わが国では安達製作所が大井川鐵道のDD20を製品化したのを嚆矢とし、近年では天賞堂がC62をはじめとしたいくつかのスーパーディテール・モデルをリリースして、ちょっとばかり市民権を得た感のある“S”ですが、16番よりはるかに作り込め、しかもファインならではの狭軌感は得がたい魅力です。ただ、ストラクチャーやフィギュアなど周辺展開を考えると制約が多いのも事実。あえて“自分のスケール”にするにはかなりの勇気が必要です。

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そんな事情は意に介さず、まさに若気の至り、さっそく作り始めたのは日立製を模したB凸電でした。ジャンク箱の中に転がっていた宮沢製C58のテンダー台車を足回りに流用し、あとはt0.5の真鍮板でスクラッチしようという目論見です。設定としては、当時結構お気に入りだった日本セメント上磯工場専用鉄道あたり(もっともこちらは汽車製B凸ですが…)。櫓の上に巨大なパンタグラフを振りかざし、起動とともにガクンと後部を下げて走り出す…そんな姿を思い浮かべながら糸鋸を挽いたのです。
▲サイドビュー。櫓の上に載ったパンタグラフは洋白線からの自作。関節の造作が稚拙で、折り畳んだ時になかなかフックに掛からない。

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車体はともかく、難儀したのがシンボルでもあるパンタグラフでした。とにかく“S”のパンタグラフなど市中にあろうはずもなく、結局これもスクラッチするしかありません。ところが、一度でもパンタグラフを作ったことのある方ならお分かりのように、これが結構難しい。関節の部分がキーで、なかなかスムースに上下してくれません。それでも何とか形になり、櫓の上に載せて、まずはにんまり、独り悦に入っていたのをよく覚えています。
▲スノープラウの巨大さが強調されるフロントビュー。プラウ上のライトは実際にはありえそうもないお遊び(左)。右はこんな降雪時にはまったく役にたたなそうだが、是非やってみたかったサイドミラー。t0.2の洋白板から切り出し、鏡面を磨いてある。まぁ、雰囲気…か。

駆動方式はプリミティブなウォーム1段。しかも伝導は時代を感じさせるスプリングベルトですが、当時は実に調子よく走り回ってくれました。連結器は当時の運転会の定番だったベーカー式に連結できるようにと、怪しげな簡易連結器を付けています。

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しばらくの間は手軽に16.5㎜ゲージ上を運転できる模型として活躍してくれていたのですが、ある日急に思い立ち、“冬姿”に化けさせようと改造に着手。一度やってみたかった巨大なスノープラウをこれまた自作し、“スノーホワイト”でメーキャップ、「線路確保に奮闘して庫に戻ってきたB凸」を演出してみました。
▲スノープラウはエア・シリンダーによって上下する設定。そんなプロットもあって、通常の元ダメでは容量が足りずにエア・タンクを屋根上に載せている…つもり。

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まぁ、これはこれで楽しめたのですが、ファインに拘りながらも半ばフリーランスの車輌という自己矛盾にいつしか嫌気がさし、ティッシュペーパーに包んでトライXの100フィート缶に押し込み、以後30年近く日の目を見ることはありませんでした。

HOよりひとまわり大きく、Oほど巨大ではないSは、既存の16.5㎜がジャパニーズ・スタンダードたるサブロクのファインとなる換算からしても、もっと早く登場してさえいれば、ひとつのジャンルを築くことができたのかもしれません。ことにナローを視野に入れた場合、2'6"(762㎜)ナローのSn2 1/2が12㎜、2'(609㎜)ナローのSn2が9㎜(正確には9.5㎜)とインフラのより所があり、そのポテンシャルは決して低くはなかったはずです。久しぶりに取り出してみたこのB凸電を眺めながら、恐らく生涯再び踏み込むことはないであろう“S”に暫し想いを馳せたのでした。
▲アメリカのコンベンション会場で売っていたバッジ。何やら誤解を招きかねないジョークだ。

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学生時代、アルバイトをしていた国鉄駅で、先輩から一本のミュージックテープを託されました。「国鉄本社が制作した“国鉄の歌”だが、事情があって公開されることなく封印された」と説明されたと記憶しています。もちろんオリジナルテープではなく、ダビングを繰り返したような決して音質のよくないものでしたが、試聴してみてビックリ! 収められた全12曲はどれもが本格的に作曲・演奏され、さらには、おそらく有名なコーラスグループや歌手によって吹き込まれた立派なものばかりでした。

ポップス調あり、演歌調あり、ブルースあり、はたまたヒーローもの(?)ありとバラエティーに富んだ12曲は、いずれもが国鉄部内の職種をテーマとしたものばかりです。カレチ(乗客専務車掌)から始まり、改札、検修、保線、さらには国鉄バスにいたるまで、それはそれは聞き応えのある40分ほどです。

いったいそれぞれがどういうタイトルなのか、さらには本来の曲順がどうだったのかはわかりませんが、12曲の内容は概ね以下のようなものです。
1:「3番B席娘がひとり。何かわけある旅だろか」で始まるカレチ(乗客専務車掌)の歌。
2:「パンチさばきに命を賭けて?」とコブシの効いたど演歌調の改札掛の歌。
3:「闇をつんざきはやてのように…」「正義の味方“鉄腕レールマン”」とほとんどヒーロー番組の主題歌のような曲。
4:「拝啓・高木君」で始まる独身寮(歌詞では“チョンガーホテル”と称している)入居者の歌。
5:「赤いフライ旗小粋に振れば」で始まる運転主任の歌。
6:「ひとつとせ、ひとつ叩いて見つけます」と10まである検修掛の数え歌(?)。
7:「まぶたを閉じれば煙を吐いて…」と、これは走り続けた蒸気機関車追悼(?)の一曲。
8:「見えない線路を俺たち走る…国鉄魂で走り抜けば…発車オーライ、バス野郎」と、これは国鉄バスの歌。
9:「見上げりゃひんやり明けの星…おやじ見ていろ、桐の葉動輪いつの日か…」と、ちょっと問題ありそうな保線区の歌。
10:「めっきり酒も弱くなりました…おつかれさん、おやじさん」、これはしんみりと退職者への一曲。
11:「おやじはベテラン、スジヤさん…オレは未来の汽車作り…親子三代国鉄男…」。どうやら父親が運転局、息子が工作局らしい歌。
12:「肩組み合って同じ道、オレもオマエも国鉄一家!」と歌い上げるラストは“国鉄一家”の歌(?)。

と、ざっと以上のような12曲です。いや、本当に良くできた曲ばかりでお聞かせできないのが残念です。それにしてもどうしてこの曲が“封印”されてしまったのでしょうか。だいたい、いつ作られた曲なのでしょうか?

そのヒントは4曲目の「拝啓・高木君」から類推することができます。地方の独身寮に住んで現場で働く曲の主人公が、同期入社で東京にいる「高木君」に結婚の報告をするまでの何通かの手紙が歌詞なのですが、ここで言う「高木君」は高木文男国鉄総裁をもじったものに違いありません。ということは制作年代は高木総裁の在任期間中の1976(昭和51)年から1983(昭和58)年の間ということになりますが、私がこのテープを託されたのはたしか1978(昭和53)年。ということは、1976?1978年の間に作られたと考えるのが妥当でしょう。

当時の国鉄は膨大な累積債務を抱え、なおかつ大幅な運賃値上げや人員削減など危機的状況に陥っていました。その中で労使の対立も先鋭化し、職場には殺伐とした空気が充満していました。ひょっとすると“当局”はこの一連の曲を作ることで多少なりとも人心をつなぎ止められれば…と考えたのかも知れませんが、それはとんでもない考え違い、現場の気持ちを逆なでする逆効果となってしまったに違いありません。2曲中に出てくる「命を賭けて」のフレーズや、「国鉄魂」、「国鉄一家」といった言い回しも、当時の情勢からして“発禁”やむなし、となったのではないでしょうか。

30年近くを経て改めて聴き返してみると、“時代”を物語る曲としてそれなりに価値あるものに思えてきます。寡聞にして私は、この一連の曲の制作経緯や正式タイトル、さらには封印されてしまった本当の理由など何ひとつ正確なことは知りません。もしご存知の方がおられましたら、編集部までご一報いただければ幸いです。

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東北本線を快調に走った試乗列車9623Mは、定刻15時50分に今回の最大の見どころである栗橋駅に到着しました。昭和30年代まで5700vsキハ55、1700vs157等々、熾烈な日光争奪戦を繰り広げてきた国鉄(JR)と東武鉄道が、過去の確執を超えて文字通り手を結んだのがこの栗橋の連絡線なのです。
▲15時50分、栗橋に到着した9623Mは新設された連絡線上で東武線内への入線を待つ。折りしも上り本線を1126列車「きぬ126号」が通過してゆく。'06.3.10

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下り本線から東武側への分岐を渡った9623Mは、JR下り本線に隣接する連絡線で停車、乗務交代を行います。100系、485系ともに6輌編成での運用のため、6輌分の前後乗務員扉付近に乗降台が設けられており、列車進入時にはすでに東武側の乗務員がこの乗降台上で待機していました。それにしてもこの乗降台、屋根も囲いも何もなく、風雨の際は結構たいへんそうです。
▲直通特急が連絡線上で運転停車して、JRの乗務員から東武鉄道の乗務員へと乗務交代が行なわれる。乗務員用乗降台で待機する東武乗務員(左)と、交代を終えて引き上げてゆくJR乗務員(右)。'06.3.10

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昨日お伝えしたように、今回は乗務員訓練も兼ねているため停車時間は14分ほどあり、16時04分、9623M改め東武鉄道5065列車となった試乗列車はいよいよ東武線内へと動きはじめました。すぐにノッチオフして連絡線上のセクション切り換え区間を通過します。いわゆるデッドセクションですが、直流1500V同士の無電区間というのは極めて珍しものです。電源の混触防止のために設けられているこのセクションは、ほんの数十メートルほど。万一の場合に備えて断路器を介して東武側のき電線に接続されており、東武側から加圧することも可能だそうです。蛇行でセクション通過後、MGが再起動し切り換え完了。再びノッチ投入された列車はあっけなく東武線内へと進んでゆきました。
▲連絡線上では保安機器等の切り換えセクションが設けられている。'06.3.10

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▲下今市に到着。対向ホームには僚友の姿が。通常は新宿からの「スペーシア」はここから鬼怒川線へと向かう(左)。いよいよ東武日光に到着する。眼下にはJR日光駅が。手前の広大な空き地は旧古河鉱業の貨物ヤード跡(右)。'06.3.10
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▲試乗列車5056レは定刻17時05分に東武日光に到着(左)。営業開始を一週間後に控え、構内はすでに歓迎の準備が整っている(右)。'06.3.10

東武線内に入ってしまうと、ただの(失礼!)「スペーシア」ですから、とりたてて珍しいものではありません。車内の一般マスコミ報道陣も途端に気の抜けたようにくつろいでいます。こちらもノートPCを広げて書き残していた原稿を編集部に送信。そうこうしているうちに17時05分、東武日光駅着。広報担当者のご案内で、構内に新設されたビジターセンター等を見学、続いてJR側も是非JR日光駅もご覧下さいということで、歩いて5分ほどのJR日光駅へと向かいました。

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JR日光駅は1890(明治23)年8月1日の開業で、関東の駅百選にも選定されている由緒ある木造駅舎です。今回のダイヤ改正でJR日光線は大きな変化はないはずですが、そこは“呉越同舟”、JR日光駅も直通運転開始を祝おうと、ダイヤ改正に合わせて東武日光駅からの歩道をイルミネーションで飾る計画だそうです。
▲JR日光駅もライトアップされて祝賀ムードを盛り上げる。'06.3.10

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案内していただいたのは増渕JR日光駅長。正面玄関の「鳴竜」を実演して下さいましたが、これはちょっと聞き取れず…。東照宮の本家・鳴竜ほどではないものの、耳を澄ますと共鳴音が聞こえるのだそうです。続いて案内していただいたのが、2階の“ホワイトルーム”と通称される旧一等待合室。高い天井と豪華なシャンデリアがかつての一等旅客のエグゼクティブさを物語っています。こちらは一般にも見学可能だそうで、日光にお出でになった際は立ち寄られるとよいかもしれません。
▲日光東照宮名物の「鳴竜」はミニ版がJR日光駅の正面玄関にもいる。拍子木を叩いて実演してくれているのは増渕JR日光駅長。'06.3.10

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そして今回は特別に一階にある「貴賓室」の中に入れていただくことができました。この「貴賓室」、大正天皇が日光を訪れるに際して誂えられたものだそうで、決して広くはないものの、随所にただ事ではない造作が施されています。
▲これがJR日光駅の貴賓室。左奥が大正天皇以来の「玉座」。正面の鏡は絶妙な角度で下に向いており、照明を反射させる役目も担っている。'06.3.10

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見事に組み合わせられ、磨きだされた柱類、壁に貼られた本絹の刺繍、窓のガラスはすべてが手作りの文様入りで2枚と同じものはないそうです。暖炉のほかにも古色蒼然とした鋳鉄製の「電気ストーブ」が備えられているのも驚きです。そして一番感心したのは正面にある鏡台(?)です。増渕駅長の解説によると、この鏡は姿形を映しだすものではなく、反射を利用して玉座のテーブルを明るくするものだそうです。言われてみるとほんのわずか下向きに角度を付けて取り付けられており、昔、中学校で習った「入射角=反射角」の理論で天井の照明を反射させています。
▲そしてその鏡台上部に彫り込まれた動輪のマーク。鉄道省の威信と誇りを賭けた装飾だ。'06.3.10

見学を終えると辺りはすっかり暗くなっていました。あとは温泉にでもつかって…と言いたいところですが、そうはゆきません。次回こそは仕事抜きでゆっくり来たいものと思いつつ日光をあとにしたのでした。

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今日、3月10日は東西で2つの試乗会が開催されました。東京ではJR東日本と東武鉄道による「JR新宿駅と東武日光駅間の直通特急列車報道公開・試乗会」、そして関西では近鉄と奈良生駒高速鉄道による「けいはんな線報道関係者向け試乗会」です。
▲14時49分、プレス関係者の待つ新宿駅に到着する9623M。一度品川に入ってからの折り返しである。'06.3.10

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お誘いをいただき、私は新宿から東武日光への試乗列車に乗車させていただくことにしました。使用車輌は東武鉄道の“スペーシア”100系。会社を出る間際まで気がつかなかったのですが、新井副編集長に「超レアな列車ですよ」と声を掛けられてハタと気付きました。そうです、営業開始後の列車設定は、JR側の485系を使用した新宿?東武日光間の「日光」と新宿?鬼怒川温泉間の「きぬがわ」が各1往復、そして東武側の100系“スペーシア”を用いた新宿?鬼怒川温泉間の「スペーシアきぬがわ」が2往復の合計4往復で、新宿発の“スペーシア”が日光へ直通することはありえないのです。
▲試乗会列車の新宿停車時間はわずか4分。JR東日本と東武鉄道の広報関係者が手際よく試乗者を車内へと誘導してゆく。'06.3.10

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▲14時53分、新宿を発車。中央線快速の201系とのツーショットに一斉にシャッター音が…(左)。池袋ではN'EXと並んだ。(右)'06.3.10
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▲「次は大宮」。わかってはいても、乗っているのが「スペーシア」となると、どうも奇妙(左)。座席番号はマルス対応の必要性からJR用のものがステッカーで追加されている(右)。'06.3.10

試乗列車9623M(東武線内は5065レ)は14時53分に多数のJR・東武関係者の見送りを受けて新宿駅を発車しました。報道関係者向けの肉声アナウンスは別として、いったいどのような音声案内が流れるものかと興味津々だったのですが、意外にもその文言は「スペーシア日光、東武日光行きです」。えっ、と耳を疑りたくなりましたが、どうやらJR側の485系に何らかの事情が生じた場合、100系“スペーシア”がその代走役を務めるようで、あらかじめ幻の「スペーシア日光」もテープに収められているのだそうです。

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この日の列車設定は新宿14時53分発→大宮15時21分着・同23分発→栗橋15時50分着・16時04分発→東武日光17時05分着といったダイヤです。営業列車の「日光」が所要1時間56分で設定されているのに対して、2時間12分と16分も多く掛かっていますが、これは栗橋駅での乗務員交代等の所要時分を14分ほど取っていることによるもののようで、試乗会とはいえ乗務員訓練も兼ねての列車ですからやむを得ないと言えましょう。

さて、池袋では253系N'EXと出会い、王子付近では209系と並走シーンを見せてくれた試乗列車は、好奇なまなざしを一身に浴びて大宮駅へと滑り込みました。今回の直通運転開始のキーとなる栗橋の連絡線通過はもうすぐです。
▲同じ号車だった『鉄道ダイヤ情報』の助川編集長。他誌より一週間ほど発売日が早いためちょうど校了明けとあって余裕の表情。このブログも毎日ご愛読いただいているそうで恐縮の極み。(ちなみに、掲載ご本人許諾済)

春は小湊。

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このところ急に春めいてきて、昨日の東京都心の最高気温はついに19度。いよいよ春本番近しを思わせます。そしてこの季節になると気になりだすのが小湊鐵道です。首都圏でもとりわけ春の訪れが早い房総半島。温暖な丘陵地帯をめぐる伝統的なツートンカラーの気動車たちは、これからの季節の日帰り撮影行にはもってこいの被写体です。
▲五井から32.3km、終点・上総中野から二つ目の上総大久保は、まるで模型のセクションのような小駅。ささやかな待合室を出ると一本の桜が今を盛りと咲き誇る。'99.4.3 上総大久保

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RM本誌今月号の「春爛漫! 桜ガイド」でもご紹介していますが、小湊鐵道沿線には有名な桜ポイントが少なくありません。高滝、里見、飯給(いたぶ)、月崎、そして上総大久保、いずれも“原風景”と呼びたくなるような、まさに日本の鉄道情景にめぐり合えます。そんな中で、私のお気に入りは何といっても飯給(いたぶ)でした。五井起点27.64km、田園にぽつんと設けられた小さな停留場はホーム片面。そのホームを取り囲むように3本の桜の古木が植えられています。ご老体だけに、残念ながらここ数年花のつきが極端に悪くなってしまいましたが、田圃を挟んで向かい側にある鎮守さまの階段に腰掛けて桜の下をやってくる気動車を見ていると、思わずシャッターを切るのを忘れてしまうほど魅力的です。
▲難読駅名の飯給(いたぶ)も桜の名所だったが、古木ゆえ最近ではめっきり花の付きが悪くなってしまった。'99.4.3 飯給

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この季節、沿線の至る所に咲き乱れる菜の花の群生を見ることができます。最初は自生しているものとばかり思っていたのですが、小湊鐵道本社でお話を伺っているうちに、実は社員の皆さんが種を蒔いていることを知りました。保線作業の傍ら、場合によっては走行中の列車から車掌さんが、あの築堤、この構内と菜種を蒔いてゆくのだそうです。

お隣のいすみ鉄道でも同様の試みがなされていますが、苦しい経営環境の中でも、少しでも利用者や沿線住民のためになればと地道な菜の花運動(?)を繰り広げられているのには頭が下がる思いです。
▲春の小湊鐵道は、沿線至る所に菜の花が咲き乱れる。実は保線課をはじめとした社員の皆さんの丹精があってこその光景だ。'99.4.3

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開業当初、海士有木?里見間の駅本屋はほぼ3種類の標準設計に委ねられていました。現存するものに準えれば、上総鶴舞型と、月崎型、それに養老渓谷型です。その中でもほぼ原設計を留めているのが上総鶴舞駅で、それゆえに関東の駅百選にも選定されています。駅舎はもちろんのことながら、あまりに平凡な、だからこそ逆に魅力的な駅周辺も恰好の被写体です。しかも緩く弓なりに曲線を描いた構内は、まさに模型のレイアウトをそのまま実物にしたかのような趣で、小湊訪問の際は是非とも足を向けられることをお奨めします。

耳学問によれば、寒い冬ほど梅の開花は遅く、逆に桜の開花は早いとか…。あと2週間も経てば、小湊から今年の桜便りが聞こえてくるはずです。
▲小湊鐵道訪問の際は是非とも訪れておきたいのが関東の駅百選にも選定されている上総鶴舞駅。最近ではテレビドラマやCMでもひっぱりだこだが、その時間が停まったかのような情景はやはり必見。'99.4.3

“海明け”のオホーツク。

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“海明け”という言葉があります。北海道沿岸のオホーツク海を覆った流氷が沖に去り、視界の流氷量が半分以下となって、船舶が航行できるようになった最初の日を指します。毎年3月下旬のこの海明けが今年は例年になく早く、網走で2月15日、紋別で2月17日だったそうです。新聞報道では、観光の目玉である流氷観光砕氷船のキャンセルがあい次ぎ、地域経済に少なからず打撃となっていると報じられています。
▲遙か沖合にようやく海面が姿を現した。オホーツクを埋め尽くした流氷が去る“海明け”も近い。'72.3.31 北浜-藻琴(混632レ)

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オホーツク海の流氷と聞くと、即座に思い出すのが釧網本線の北浜駅です。ホームのすぐ横まで流氷がやってくる駅として今では全国的に知られていますが、1970年代初頭は、流氷とC58の組み合わせをカメラに収めようという酔狂なファンが下車するだけで、観光客などほとんど訪れることのない小駅でした。私も1972(昭和47)年以来、何度か流氷の季節のこの駅に降り立ちましたが、吹き付ける強風と信じられない寒さにさいなまれて、なかなか満足のゆく写真を撮ることができませんでした。

そんな何回目かの訪問の1973(昭和48)年3月、北浜ユースで一泊を過ごした翌朝はこの季節にはめったにない好天でした。相変わらず風は強く、気温こそ身を切る冷たさでしたが、またとないチャンス到来です。遙か知床半島の羅臼岳までしっかりと遠望でき、これは理想のカットがものにできそうだと勇躍海岸へと向かったのです。
▲冬の北浜の名物は流氷とともに濤沸湖に飛来するオオハクチョウだ。ただ、湖と線路との間は国道が隔てており、C58とオオハクチョウを同じ画面に捉えるのは至難の技だった。これは200mmレンズで無理やり両者を収めた苦しい一枚。'72.3.31 北浜-浜小清水

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今ではとても考えられないことですが、この当時は平気で流氷の上を歩く地元の人がいて、それではこちらもと、流氷バックではなく、逆に流氷の沖合から見た釧網本線を狙うことにしました。いまさら思えば危険極まりなく、よくぞ無事だったと反省の極みですが、その時は通りかかった地元の人も“危ないから気をつけてね”という程度で、それほど大それた行動との認識はありませんでした。とにかく、ギィ?、ギシッと軋み音をあげる氷の上をピョンピョンと飛び歩いて、手前に流氷、彼方に羅臼岳を捉えられる撮影ポイントを探しました。
▲流氷上で撮影中の私。それにしても、加齢とともに前立腺肥大で極端にトイレの近くなってしまった今となっては、こんなところで半日過ごすなど想像しただけでも身震いする。'73.3.28

当時の釧網本線北浜は、4往復の客車列車と2往復の貨物列車が釧路区のC58によって牽引されていました。もともとあまり人気のなかったプレーリーC58のうえに、切り詰めデフやらツララ切りやらクルクルパーやら装備もてんこ盛りで、しかも往々にして薄汚れているとあって、被写体としては決して写欲のわく対象ではなかったような気がします。ただ、入換え作業の関係から旅客列車はすべて混合列車としての設定で、車内に設けられたダルマストーブとともに、それだけはちょっとした魅力でした。

結局この日はほぼ半日を流氷の上で過ごすこととなります。オホーツクの流氷と列車の組み合わせは、ほかにも湧網線の常呂や興浜北・南線などでカメラに収めることができましたが、いずれも“陸”からのもので、この時の北浜のように“沖合”からの絵は撮りようもありませんでした。それだけにあの日の北浜は、文字通りの若気の至りとともにしっかりと記憶されているのです。

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オホーツク海の流氷は、アムール河から流れ込んだシベリア大陸の雪解け水が結氷して流れ着くのだそうです。3月の声を聞くと、“海明け”前に北浜の地を訪れることができるか、ひやひやしながら渡道の日を待ったあの頃が懐かしく思い出されます。
▲流氷の彼方を浜小清水へと去ってゆく混633レ。左手遠方には知床半島の羅臼岳が遠望できる。'73.3.28

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いよいよダイヤ改正が来週に迫ってきましたが、今日からJR東日本横浜支社の“ありがとう113系湘南電車”キャンペーンが始まりました。目玉は何といってもヘッドマークの掲出でしょう。ちょうど神田方面に所要があり、例によって帰社する経路を品川経由に変更して、東京駅の様子をのぞいてきました。
▲堂々15輌の長躯がヘッドマークを掲げて東海道を下る。ペンタックス・オプティオS4で“流し”てみた。'06.3.7 田町(3757M)

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早朝から沿線でウォチングしていた方の情報によると、この日の113系運用は4仕業で、すべての編成にヘッドマークがつけられているそうです。ただ、この4仕業全部でも東京駅に姿を見せるのは15回のみ。しかも撮影可能時間帯は10回程度しかないとあって、その激減ぶりに改めて“ファイナル”を実感せざるを得ません。こちらも仕事の合間(まぁ、これも仕事と言えば仕事ですが…)を使っての見学で、昼食をとって13時までには会社に戻らねばならず、キャッチできるのは11時19分着の798Mとその返しの11時33分発3757Mのみ。まさにワンチャンスです。
▲東京駅9番線で発車を待つ3757M。'06.3.7(小田原行789M車内より)

113-7e.jpgそこで東京駅に向かう丸ノ内線の中で一計を案じてみました。798M到着の4分後の11時23分に隣の7番線から小田原行の789Mが発車します。ということは、7‐8番線ホームで対向の9番線に入ってくる798Mを迎えうち、すぐに789Mに乗れば品川方面で折り返しの3757Mを捉えることができるはずです。さらに最後部に乗れば、E231系の広い正面窓を通して9番線に停車中の113系を撮影できるかもしれません。

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というわけで、さっそく実行してみたのがこの一連の写真です。何のことはない、実はここに掲げたのはすべて同じ列車の写真なのです。
▲国府津車両センターお手製のヘッドマークを掲げて東京に到着した798M。マークは図のような4種類(予定)が用意されているという。'06.3.7

chiisanatabi.jpgさて、この“ありがとう113系湘南電車キャンペーン”には、ヘッドマーク掲出のほかにもいろいろと魅力的な“仕掛け”(?)があります。そのひとつがここに掲げた『小さな旅』小冊子「湘南電車物語 ?ありがとう113系?」の発行です。B5縦半裁判32頁オールカラーのこの冊子、全般の12ページをさいてかなりマニアックな“湘南電車”解説を試みています。歴史年表や80系電車の紹介、さらには真鶴トンネル旧ルートの“トワイライトゾ?ン”探訪や、果ては豆相人車鉄道の紹介にいたるまで、とてもタダでもらえるものとは思えない充実した内容です。しかも掲載されているお店を利用した際にこの小冊子を提示すると「湘南電車物語 ?ありがとう113系?」記念シールがもらえる特典まであります。
横浜支社のプレスリリースによると、この素敵な小冊子、東海道本線を中心とした首都圏の駅に28万部が頒布されているそうですので、早めに入手されておくことをおすすめします。
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▲品川に向けて快調に飛ばす熱海行「快速アクティー」3757M。'06.3.7 田町

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春到来を感じさせるうららかな陽気となった昨日、相模鉄道相模大塚駅構内で「相鉄・鉄道フェア」が開催されました。新検測車の完成で去就が注目されるモニ2000形をはじめ、最近はすっかり出番のなくなってしまったED10形が間近に見られるとあって、会場は一日中大賑わいだったようです。しかも同社のHP上で、車輌基地のあるかしわ台出入庫の回送運用を事前に公表する粋な計らいもあり、遠来のファンにとっても楽しい一日だったに違いありません。
▲相模大塚での展示を終え、車輌基地のあるかしわ台に自走回送するモニ2000形3連。わずか2.5kmの短い区間ながら、久しぶりに吊り掛けサウンドが響いた。'06.3.5 相模大塚?さがみ野 P:高橋一嘉

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残念ながら私は参加することができませんでしたが、今朝方、編集部の高橋君がさっそく会場の様子を報告してくれました。嬉しかったのは、その報告の中に、本誌で「絵画館」を連載してくれている沼田博美さんの姿があったことです。高橋君によると、車輌から離れたところに時ならぬ人だかりがあり、何だろうと近づいてみると、そこにはモニ2000形を描く沼田さんの姿が! 実は「絵画館」の編集担当はほかならぬ高橋君ですから、まさに絶妙の出会いと言えましょう。
▲モニを前に筆を進める沼田さんはすっかり有名人。皆さんのかっこうの“被写体”となっていた。'06.3.5 相模大塚 P:高橋一嘉

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本誌269号でも書かれているとおり、沼田さんは相鉄沿線にお住まいで、相鉄のモニとEDには気になる題材とのこと。当日は朝8時過ぎの回送時から夕方16時過ぎの回送まで、まだ描かれていなかったモニの貫通側を中心に何枚か仕上げられたようです。完成したモニ有終の姿は、遠からず誌上でお目に掛けられるはずです。
▲1998(平成10)年9月末日の貨物営業休止以来すっかり出番のなくなってしまったED10形だが、4輌揃って元気な姿を見せてくれた。'06.3.5 相模大塚 P:高橋一嘉

射水線追想。(下)

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射水線の大きな魅力に、新港東口での県営渡船への連絡がありました。1966(昭和41)年4月5日までは線路はこのまま越ノ潟へ、そして高岡へと続いていたのですが、富山新港の築港によって分断され、それ以降、新港東口?越ノ潟間は船による連絡という奇妙な…しかし趣味的には実に面白い輸送形態となったのです。
▲終点・新港東口駅はポイントひとつない行き止まりで終わる。かつては2番線まであった島式ホームも片面しか使われていない。画面左の建物が本屋。'78.8.27

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新港東口駅本屋を出ると、右手が富山新港の連絡渡船発着場となっていました。この発着場の名前は「堀岡発着場」。堀岡はひとつ手前の駅名ですが、これは1966年の路線分断時に堀岡?越ノ潟間が廃止されたことによるものと思われます。つまり、分断時の終点は堀岡だったのです。堀岡?新港東口間が改めて新設されたのは同年の暮れのことだったそうです。

さて、渡船といっても、素人目には小さな漁船程度にしか見えないものですが、射水線の到着に合わせて運行されているのは実に便利で、しかも県営ゆえか料金は無料でした。この渡船に乗れば、10分ほどで加越能鉄道(現・万葉線)の待つ越ノ潟へ渡ることができます。私も何度か利用させてもらいましたが、考えてみるといつも雪のない季節ばかり。厳冬の12月?2月頃は、この渡船連絡にもさぞや厳しい試練があったに違いありません(渡船そのものは現存しています)。
▲新港東口駅本屋に向かいあう形で県営渡船乗り場がある。射水線の到着に合わせて対岸の越ノ潟行き渡船が出港する。写真は連絡渡船「射水丸」。'78.8.27

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いまさら思えば撮っておきたかったシーン、調べておきたかったことは山のようですが、何度かの訪問の後、1980(昭和55)年3月31日限りで、射水線はあっけなく廃止されてしまいました。富山地方鉄道としては笹津線(南富山?地鉄笹津間12.4km/1975年3月31日限り)の廃止以来ちょうど十年目の春のことでした。
▲新富山の連絡線を渡って市内線から射水線に入って来ようとする新港東口行き。市内線直通列車用には、射水線ホームのある駅本屋(画面左側)からかなり離れた位置に専用ホームが設けられていた。'78.8.29

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いまさら思えば贅沢な不満かもしれませんが、射水線と向き合っているなかで少し残念だったのは、車輌的面白みに欠けていた点です。ふだんはまったく動くことのない富岩の生き残りのボ2を別とすれば、ほかはデ5010形と呼ばれる12m車ばかりで、車輌のバラエティーはのぞむべくもありませんでした。もちろん朝のラッシュ時には最大4輌編成の堂々たる姿も見ることができましたが、所詮は同じ形態の車だけ。趣味的には少々物足りない思いがつきまとっていました。
▲デ5010形5021・5022竣功図。デ5010形は日車、汽車、日立、それに富士産業製の寄りあい所帯で、これは日立製の2輌。欄外に「総括制御改造后の図 入口改造の別図あり」の書き込みがみえる。
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このデ5010形、笹津線や分断された新湊方(加越能方)でも主力を務める量産車です。1950(昭和25)年に日車と汽車で2輌ずつ製造された直接制御のデ5000形の間接制御量産バージョンとも呼べる車輌で、外観的には乗降扉の幅がデ5000形の690mmに対して900mmに拡大した程度で大差ありません。日車、汽車、日立、富士産業と4社に分けて製造されていますが、メーカーによる差異もそれほど目立ったものはなく、それも今ひとつ興味が薄れてしまう要因だったのかもしれません。

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1年ちょっと前、導入したばかりのMLRV1000形を拝見しに伺った万葉線米島口車庫で、除雪用に残っているデ5022号と久しぶりの再会を果たしました。富山新港築港による路線分断で新湊方に取り残されたデ5010形6輌のうちの1輌です。いまでは車籍もなく、保線機械扱いで車体標記もなくなってしまっていましたが、確かにあの射水線で見慣れたデ5010形に違いありません。改めて見直してみるとなかなか魅力的ではないか…といまさら後の祭りの思いを抱きながらカメラを向けたのでした。
▲デ5010形の仲間の中で唯一今でも可動状態で生き残っているのが万葉線のデ5022。'04.12.4

射水線追想。(中)

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わずか14.4kmのミニ路線でしたが、射水線はそのささやかな距離の中で意外なほど多様な表情を見せてくれました。市内線との接続駅である新富山からして、神通川の堤防横にかなり強引な線路配置で作られた駅でしたし、そこを出た列車はしばらく堤防下を進みます。神通川と別れて北陸本線をオーバーパスすると、今度は鬱蒼とした森の中を走り、さらに広々とした田園地帯へ。車庫のある四方で西に90度向きを変えると、今度は潮の香漂う富山湾沿いの漁港を縫うように、連絡渡船の待つ終点・新港東口へと向かうのです。
▲蝉時雨の中、八ヶ山駅に到着する市内線直通富山駅前行きのデ5038。この5038号はデ5010形の中でも富士産業製(1951年)のグループの1輌。'78.8.27

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▲八ヶ山駅構内図。こうやって平面図にしてしまうとわかりにくいが、駅本屋は10mほど高い切り通し上にあり、ホームとは上屋のついた階段で結ばれている
。この図もやはりTMS誌に発表したものの元図。

imizu13n.jpg 越中電気軌道開業時、いかにこの路線が地域の期待を担ってスタートをきったかを物語るように、射水線の駅はどれもが個性豊かなものでした。なかでも一番目をひいたのは八ヶ山駅です。こんもりとした森の切り通しが急に開けたかと思うと、列車は対向式ホームの八ヶ山へと到着します。面白いのはこの駅の本屋が切り通し上にあることです。ホームから本屋へは屋根のついた階段が結んでいます。ちなみに、駅名に同じ“八”がつく五能線の八森駅は、逆にホームが高い位置にあり、築堤下の本屋との間がやはり屋根つきの階段で結ばれているのが対称的です。

この八ヶ山駅、本屋建物そのものも周囲には場違い(失礼…)なほど瀟洒な洋館風で、開業時の意気込みが伝わってくる逸品でした。
▲布目駅の情景。平坦な田園地帯にぽつんと立つホーム1面の小駅だったが、好ましいささやかな本屋も備えていた。'78.8.29

imizu14n.jpg 射水線は難読の駅名が少なくありませんでした。新富山から富山北口くらいは平穏ですが、次が八ヶ山(はっかやま)で、続いて八町(はっちょう)、布目(ぬのめ)、鯰鉱泉前(なまずこうせんまえ)、そして車庫のある四方(よかた)と続きます。さらに打出(うちで)、本江(もとえ)、そしてまた難読の練合(ねりや)、海老江(えびえ)、射北中学校前(しゃほくちゅうがっこうまえ)、堀岡(ほりおか)、そして新港東口で終点です。四方や練合などは初めて訪れる者にとっては結構な難読度でした。
▲四方車庫で修理中のデ5019。3線の矩形庫は昼間は留置車輌でいっぱいだった。'78.8.29

射水線追想。(上)

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今週火曜日、つまり2月末日で富山港線が廃止となりました。もちろん本誌でもお伝えしているように、廃線となってしまうわけではなく、富山ライトレール(株)に運営が引き継がれ、本格的な春の訪れとともにLRTの新路線として再スタートをきる予定です。
▲四方車庫で休むデ5019。神通川沿いを走った射水線はここ四方で90度向きを変えて富山湾沿いを新港へと向かう。'78.8.27

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この富山を中心とした北陸方面は、個性豊かな私鉄や専用線が数多く残っていたこともあって、1970年代には足繁く通った地域です。軽便の尾小屋鉄道や現役ナロー蒸機のいた東洋活性白土専用線などは別格としても、サブロク電化路線にも心魅かれる線区が多くありました。そして、その中でもお気に入りのひとつが富山地方鉄道射水線でした。
▲TMS誌用に描いた四方駅構内図。当時はイラストレーション・ソフトなど当然あろうはずもなく、ロットリングを使って描いたもの。

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この射水線が強く印象に残っている理由のひとつに『鉄道模型趣味』(TMS)誌があります。大学の鉄道研究会の夏季調査と称して、射水線全駅のストラクチャーを克明に調べあげ、それを基にクラブ名で「ローカル私鉄のストラクチャーを訪ねて」と題した記事を同誌に発表したのです。河田耕一さんの『シーナリィ・ガイド』の向こうを張った手書きの平面図が功を奏したのか、幸いにも相応のページを割いて2ヶ月の連載として採用していただくことができました。しかもちょうど同誌の創刊35周年にあたる通巻399号と400号というお目出度い誌面を飾ることができたのは望外の喜びでした。
▲1924(大正13)年大阪鉄工所製というボ2も除雪用として四方に残されていた。富山港線の前身・富岩鉄道生え抜きの古豪であった。'78.8.27

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射水線は富山地方鉄道市内線の新富山から分岐して新港東口までの14.4kmの600V電化線で、もともとは1924(大正13)年に部分開業した越中電気軌道がルーツです。戦後の1951(昭和26)年からは高岡軌道線(当時は富山地方鉄道)との乗り入れを開始し、地鉄高岡から射水線経由で富山市内線を結ぶ壮大なリンクが完成しました。残念ながら、その後富山新港の建設工事にともなって再び路線の分断を余儀なくされ、1966(昭和41)年以降は新港東口?越ノ潟間は渡船連絡となってしまいました。しかし、趣味的にはそれが逆に他にはない興味をひくこととなります。港を挟んだふたつの路線、しかもそのどちらもが路面電車がそのまま鉄道線を走るような路線を、無料の県営渡船が結ぶ…それはいかにも模型的、かつ魅力的なシチュエーションだったのです。
▲1:50000地形図に見る射水線。すでに新港で路線は分断されているが、市内線?射水線?(渡船連絡)?加越能軌道線のサーキュレーションがよく判る。右端には今週廃止された富山港線も見える。(国土地理院発行1:50000地形図「富山」1979年発行より)クリックするとポップアップします

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昨年でちょうど廃止30年となった木曽森林鉄道。そのメインライン=王滝森林鉄道の拠点でもあった王滝村の有志が中心となって、森林鉄道を再現しようという計画が、この春本格始動します。計画を進めているのは、昨年5月に「2005森林鉄道フェスティバル」を開催した森林鉄道フェスティバル実行委員会の面々。王滝村教育長の藤沢 滋さんを事務局に、地元・王滝村の皆さんや林鉄OB、そして旧田島停車場構内で動態保存活動を行っている「りんてつ倶楽部」の皆さんの手によって、松原スポーツ公園内に延長2キロほどの軌道を敷設しようというのです。
▲旧田島停車場に設けられていた車庫から松原スポーツ公園に向けて搬出される酒井7tのNo.84。'05.12.24 P:りんてつ倶楽部提供

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「松原」は王滝森林鉄道で言えば「田島」の次の駅にあたり、王滝村中心部より2キロほど王滝川上流に位置します。「りんてつ倶楽部」の活動は、実は、この松原運動公園に静態保存してあった132号機をレストアすることから始まりました。時に1991(平成3)年のことです。休日のたびに首都圏から手弁当でやってきて、一日中修理に格闘する高橋 滋さんを中心とするメンバーの熱意に打たれ、次第に村の人々も加わって修復作業は大きなムーブメントとなってゆきました。
▲松原新機関庫に搬入中のモーターカーNo.4。昨年のフェスティバルでは体験乗車に行列ができたほどの人気者だ。'05.12.24 P:りんてつ倶楽部提供

しかしそんな折、思わぬ事態が訪れます。活動の本拠地であった松原地区が、牧尾ダム堆積工事のために閉鎖されてしまうことになったのです。2000(平成12)年、代替地として旧田島駅構内に移転したものの、線路延長用地にも限界があり、一日も早い“原点”松原への復帰が待ち望まれていました。

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牧尾ダムからの堆積土砂の積み上げが完了し、復元工事が進む松原の地に立派な車庫が新築されたのは昨年暮れのことでした。さっそく田島の車庫から4輌の動態保存車輌をはじめとした保存車輌が移され、40mほどの線路も完成、雪解けとともに松原での新しい保存活動がスタートすることとなります。ただ、ご多分にもれず王滝村も過疎問題を抱えて大きな財政難に陥っています。この森林鉄道再現計画に資金を援助する余力はなく、資材費だけで1mの敷設に1万円はかかると言われる線路敷設費を捻出するために、このたび森林鉄道フェスティバル実行委員会では全国の皆さんからの募金活動を始めることになったそうです。詳しくはこちらをご覧ください。
▲大盛況だった昨年の「2005森林鉄道フェスティバル」で体験乗車に活躍するモーターカーNo.4。'05.5.4

延長2キロは気の長い話ですが、藤沢教育長は年内には100mほどを、来年2007年のフェスティバルでは一部でも走らせられる状態に…と夢を語っておられます。当面の敷設完了目標は2010年。このゴールデンウィークには、新緑の瀬戸川線廃線跡探訪と、松原での軌道敷設体験を兼ねたイベントも予定されているそうです。
昨年のフェスティバルで公開談話会の司会の大役を仰せつかってからはや一年、今年は私もいちギャラリーとして新緑の王滝村を訪ねてみたいものです。

最後の木造国電。(下)

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さて、現車を目の前にしたものの、この車輌の来歴についてほとんど知識を持ち合わせていないことに気づきました。改めて何か手がかりになるようなものはないかと見回してみると、台枠に「大正十一年 日車東京」の立派な銘板がついています。大正十一年ということは西暦で言えば1922年。すでにこの時点で53年も前に生まれた車輌なのです。
▲クエ9112の3-4位側(後位側)正面。貫通扉と渡り板が装備されており、M車はこちらに連結することを前提としていたようだ。'75.11.24 下十条電車区

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浅原信彦さんの『最盛期の国鉄車輌』によれば、このクエ9112は大正時代の標準型電動車のひとつであるデハ23500形が出自だそうです。デハ23500形は1500Vへの昇圧に伴って電装解除されてクハ23500形となり、さらに1928(昭和3)年にクハ15形に称号変更されています(クエ9112の種車はクハ15048)。この時点ではまだM車時代のパンタグラフを載せていました。戦後、1949(昭和24)年に生き残っていた3輌が両運転台化改造のうえ救援車となった…というのが大まかなヒストリーで、僚車クエ9110は先代下十条区の救援車、9111は遠く離れて大阪は宮原区の救援車でした。前者は1972(昭和47)年、後者はえらく古く1963(昭和38)年に廃車となり、昭和50年代まで生き延びたのはこの9112ただ1輌でした。
▲1-2位(前位側)運転室。外から見ると狭い貫通扉があるように見えるが、中に入ってみると圧力計配管などで扉は開けられないようになってしまっていることがわかる。マスコンは日立製、速度計はなく、計器類は双針圧力計がひとつのみ。椅子はアーム式の丸椅子で、運転士は中央に座ることになる。天井からは非常弁が垂れている。'75.11.24

これほど古い電車はめったに見られるものではありませんので、運転台の中も見せていただくことにしました。古風な乗務員扉を開けて中に入るとビックリ、えっこれで動くの…と聞きたくなってしまうほどシンプルです。なにしろ運転機器といえば主幹制御器とブレーキ弁、それに双針圧力計くらいで、驚いたことに速度計さえありません。確か当時の法令では鉄道車輌の速度計設置は必須用件ではないと聞いたことがありますが、ローカル私鉄ならともかく、天下の国鉄車輌に速度計が付いていないとは思いもしませんでした。

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貫通路をつぶしたど真ん中に双針圧力計があり、運転士はこれと正対して車体中央で運転する格好となります。しかも運転席の椅子たるや、荷室との間仕切り壁を支点とするアームで支えられた丸椅子。いかにも不安定な、貫通路の窓に向かってのめりこむような姿勢での運転を強いられるわけです。そういえば、かつて電車の構造に詳しい宮田道一さんから、昔の電車は居眠り防止のためもあって乗務員椅子はわざわざ不安定にしてあると伺ったことがありますが、この椅子もそんな原始的デッドマン装置なのかもしれません。▲魚腹台枠にトラス棒と、この時点でさえとても現役車輌とは思えないサイドビュー。'75.11.24

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足周りでは魚腹台枠ももちろんですが、とりわけ興味を引かれたのがトラス棒(トラスロッド)です。この時点でも地方私鉄の客車にかろうじて残っていた程度で、国鉄電車に付いている例など見たことがありませんでした。このトラス棒は台枠の歪みを矯正するための極めてプリミティブな仕掛けで、車体中央が下垂(スゥェイバック)してくると、このトラス棒に付いているターンバックルを締め上げて矯正する仕掛けです。ちなみにこれを締め上げ過ぎて車体中央が盛り上がってしまう状態を、英語ではキャメルバックと称しています。
▲禿げかかった側面羽目板には「北モセ」の所属標記が…。'75.11.24

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一期一会となってしまったクエ9112との出会いですが、この撮影から2年も経たない1977(昭和52)年7月5日に廃車になったと聞きます。さらにその十年後、1986(昭和61)年3月3日に下十条電車区は浦和電車区に統合され、乗務員区の下十条運転区となって車輌配置はなくなり、判じ物の「北モセ」の車体標記も永遠に過去のものとなってしまいました。
▲台枠には「大正十一年 日本車輌製造株式会社東京支店製造」の銘板がしっかりと残っていた。'75.11.24
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▲1961(昭和36)年東京鉄道管理局線路一覧略図に見る下十条電車区の線路配置。ちなみに左横には先日のこのブログでもちょっと紹介した北王子貨物駅と須賀貨物線が描かれている。クリックするとポップアップします

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