鉄道ホビダス

2006年2月アーカイブ

最後の木造国電。(上)

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「北モセ」と聞いても今やピンとくる方は少なくなったと思いますが、かつて東十条駅の赤羽方に「下十条電車区」と呼ばれる電車区があり、浦和電車区、蒲田電車区とともに京浜東北線の電車を受け持っていました。下十条なのになぜ電略が「モセ」なのかはまさに判じ物で、東京の電車区電略としては「南チタ」(田町電車区)の上をゆく難解さでした。ちなみに「チタ」の方は「タマチ」のタとチを逆にしたもの。東京の鉄道管理局がまだ3局に分かれる前の東京鉄道局時代、立川(タチ)との誤謬を避けるための策だったと言われています。一方の「モセ」の方はさらに凝って(?)いて、下十条の旧仮名“シモジウゼウ”のモとゼを抜いて、さらに濁音のゼを清音に戻したものだという説が一般的です。しかし真偽のほどは定かではありません。だいいち、調べてみると「条(條)」の旧仮名は「デウ」が正しく、本来は「シモジフデウ」となるはずです。
▲鋼板製の筋交い(?)がものものしいクエ9112のお面。こんなサボが入ることはなかったはずだが、せめて雰囲気だけでも本線上を走らせてやりたかった。'75.11.24 下十条電車区

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前置きが長くなってしまいましたが、この下十条電車区に最後の木造国電クエ9112を見に行ったのは1975年秋のことでした。鉄道研究会の見学会と称して撮影許可を申し込むとすんなりOKとなり、東北本線でEF57やらキハ181やらを撮ってから下十条電車区へと向かったのです。いまさら思えば東十条駅からいったいどうやって行ったのか、まったく記憶がありません。まぁ、鉄研の仲間たちとわいわい埒もない話で盛り上がりながら歩いていったのでしょう。
▲大正生まれの標準型電動車デハ23500形をルーツとする古色蒼然としたその姿。もともとは片運転台だったという。'75.11.24

時ならぬ訪問客にも関わらず、当直助役はとても親切に対応してくれました。もともと下十条電車区には救援車としてクエ9110が配置されていましたが、同車が1972(昭和47)年に廃車となり、その代替として、それまでお隣の池袋電車区に配置されていた9112号が転配されてきたわけです。車籍の残る最後の「木造国電」であるにも関わらず、見学に訪れる人はほとんどいないとのことで、助役さんは私たちの来訪にちょっぴり嬉しそうだったのを覚えています。

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果たして、案内してもらったクエ9112は、矩形庫横の、用品倉庫が立ち並ぶまさに“車庫裏”に押し込められるように突っ込まれていました。噂には聞いていたものの、台枠の歪みを矯正するターンバックルばかりか、車体正面の歪みを防止するために筋交いのような鋼板まであてられ、とても現役車輌とは思えない有様です。「救援車」とは名ばかりで、いざという時にこんな車が出動した日には、足手まといどころか真っ先に“救援”されるハメになりそうです。
▲「救援車」の前サボを入れた正規の姿。LP403形前照灯に密着連結器と一応の時代に合わせた装備は持ちあわせている。'75.11.24

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救援車というからには車内にはお決まりのクレーンが備えられているかと思いきや、そんな大層な設備は何もなく、細々とした資材が載せられているだけでした。どちらかというと倉庫代わり…が実態のようでしたが、正面のサボ受けには律儀に「救援車」の前サボが入れられていました。横にあった防火用水の蓋に、使わなくなった「浦和」やら「蒲田」やらといった京浜東北線の前サボが使われているのを見つけてこれを入れようとしたものの、角が折れてしまっていて入れられません。そんな様子を見ていた助役さんが、じゃぁこれを、と「東十条」と書かれた前サボをもってきてくれ、それを差し込んで記念撮影。いやはや、なんとものどかな時代でした。
▲モニタールーフの明かり取り窓も一部がしっかりと残っていた。半ガーランド式のベンチレータとキャンバス屋根も今だったら博物館行きだ。'75.11.24

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JR東日本水戸支社は、現在キハ110系で運行している水郡線に、新型気動車「キハE130系」を大量投入して置き換える計画を発表しました。キハE130系は環境対策として排気中の窒素酸化物(NOx)、黒鉛などの粒子状物質(PM)を低減する新型エンジンを搭載、車体も両開き3扉と、JR東日本としてはキハ38形以来の3扉気動車となります。窓にはE531系で実績のある紫外線カット・熱線吸収タイプのIRカットガラスを採用、セミクロスシートのロングシート部は、ひとりあたりの占有幅460㎜と、従来車より20㎜拡大して快適性も向上するようです。
▲公開されたキハE130系のレンダリング。外装デザインについては今春複数のデザインを提示、地元利用者による人気投票を行って最終決定するという。カラーリングが利用者の人気投票で決まるのはJR東日本としては初めてのこと。(JR東日本水戸支社提供)


新製されるのは両運転台車13輌、片運転台車2輌編成が13編成26輌、合計で実に39輌の大量投入となります。2006年度内、おそらく2007年初めから投入が開始され、2007年度内にはすべての置き換えが完了する予定で、1991(平成3)?1992(平成4)年に新世代気動車として颯爽と登場した水郡線のキハ110系は早くも次の世代交代の波に飲み込まれてゆくことになります。
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▲現行のキハ110系と投入されるキハE130系との比較。(JR東日本水戸支社プレスリリースより)

ところで気になるのは、このキハE130系の投入によって押し出されるキハ110系41輌の行方です。車齢15年程度と、当然他区所への転配が予想されますが、となると“玉突き”の対象となるのは…そうです、当然車齢の高いキハ58・28、さらにはキハ52あたりでしょう。現在JR東日本に在籍しているこの3形式(一般用)は秋田・盛岡・小牛田・新津に合計60輌。41対60。何とも微妙な数字ではあります。

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私は決してコアなペンタックス・ユーザーではありませんが、考えてみると、なんだかんだこの30年近く、常にペンタックスのカメラが手もとにありました。学生時代にまるで手足のごとく“使い倒した”デカペンことペンタックス67はもちろんのこと、現在いつも持ち歩いているオプティオS4は、今日現在で累計撮影枚数が5800枚を超えています。一昨日ご紹介した「スペーシアついに新宿に!」の画像もすべてペンタックス・オプティオによるものです。
▲残照に映える名残の東京駅駅舎。DA50-200mmF4-5.6EDの35mm判換算200mm相当+プログラムオートで狙った。もちろん手持ち。季節感を盛り込むために手前に冬枯れの街路樹を入れ込んだが、強化されたAFセンサーは惑わされることなく瞬時に駅舎にピントを合わせてくれた。'06.2.11

そんなペンタックスから最新鋭のデジタル一眼「ペンタックス*ist DL2」が発売になると聞き、さっそくデモ機をお借りして試写をしてみました。同時にお借りしたレンズは望遠ズームのDA50-200mmF4-5.6EDと超広角ズームDA12-24mmF4ED AL [IF]、それに単焦点のパンケーキ・レンズDA40mmF2.8 Limitedの3本です。いずれも形式名に冠された「DA」が示すとおり、CCDサイズに合わせた設計によって小型軽量かを実現したデジタル一眼専用レンズで、レンズ側に絞りリングがない構造となっています。

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ペンタックス*ist DL2は先行機種ペンタックス*ist DLでは3点だったAFセンサーを5点に増加したのが大きな特徴です。センサーは中央、上下、左右に配置され、シチュエーションに合わせて自動的に最適なセンサーが選択されるAUTOモードと、任意で中央のみを使うSPOTモードを備えています。今回、“走り”から夜景までいろいろなシーンを試してみましたが、AUTOモードであらゆるシチュエーションに実にストレスなく合焦し、クロスセンサー化した強みを改めて実感しました。
▲今回お借りしたのは望遠ズームのDA50-200mmF4-5.6ED(左)と最新鋭の超広角ズームDA12-24mmF4ED AL [IF](右)、それに単焦点のパンケーキ・レンズDA40mmF2.8 Limited。この3本があればほとんどの撮影にストレスなく対応できる。

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基本的スペックは、APS-Cサイズ相当の有効610万画素CCD、記録解像度は3008×2000/2400×1600/1538×1024ピクセル、RAWモードのみ3008×2008ピクセル、設定可能感度はISO 200/400/800/1600/3200。コマ速は2.8コマ/秒、最大6コマまでの連写が可能となっています。重量は実に470g! この軽さは何ものにも代えがたく、厚さわずか15mmのいわゆるパンケーキ・レンズDA40mmF2.8 Limitedを装着すれば、通勤バッグの中に入れても苦にならない質量です。
▲丸の内北口のエントランス・ドームを仰ぎ見る。このドームが見られるのもあとわずか…。ちなみに、こういったシチュエーションでは超広角ズームDA12-24mmF4ED AL [IF]が絶大な力を発揮する。12mm=35mm判換算18.5mmで撮影。'06.2.11

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そしてもうひとつ、特筆すべきは2.5型低温ポリシリコン液晶(21万画素)が見易いことと、このクラスのデジタル一眼としては驚くほどファインダーが明るいことです。かねてからファインダーの見易さが写欲を左右すると主張して憚らない私だけに、これは大きな得点です。もちろん一眼レフの宿命で、装着レンズのF値にファインダーの明るさが左右されてしまうのは致し方ないところですが、単焦点のDA40mmF2.8 Limitedを装着していると、その見易さはレンジファインダー並みと言っても過言ではないでしょう。
▲さまざまな撮影シーンに合わせたシーンモードが1ダイヤルに収められているのも便利。もちろんマニュアルモードも設定できる。

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結局十日ほど試用させてもらいましたが、実に使い勝手の良いデジタル一眼で、正直言って、返却するのが惜しくなってしまう思いでした。もちろん有効610万画素、2.8コマ/秒あたりは、ハイエンドの作品創りを狙う鉄道写真家には多少の不満があるかもしれませんが、その軽量・コンパクトさはそれを凌ぐ大きな美点に違いありません。私の実感としては、このペンタックス*ist DL2に今回お借りしたレンズ3本があれば、世の中の鉄道写真の9割くらいは撮影可能なはずです。
ちなみに気になるお値段ですが、オープンプライスとアナウンスされているものの、量販店のネットなどによれば、店頭価格は6万円(ボディのみ)程度のようです。
▲間もなく休業となる東京ステーションホテルのエントランス階段。ストロボオフモードに切り換え、あえて感度設定を上げずに超低速シャッター(1/2秒)で雰囲気を写し取った。(12mm=35mm判換算18.5mm・手持ち)'06.2.11

「鋏痕」とは…。

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「鋏痕」と書いて「きょうこん」と読みます。もちろん広辞苑にも出ていない国鉄部内用語で、「改鋏」(かいきょう)、つまり改札用の鋏(パンチ)の痕跡のことです。すっかり自動改札化されてしまった今では、あの“パチン・パチン”という改札ラッチのパンチの音も懐かしい思い出となってしまいましたが、当時はあの改鋏=パンチが不正乗車防止の大きな役割を担っていたのです。
▲30年以上前、一日乗車券「国電フリー乗車券」を携えて山手線の鋏痕を集めて回ったことがある。鋏のキレが悪くて判別しにくいものもあるが、一応、上辺左上から時計周りに大崎・有楽町・神田・新橋・新宿・御徒町・高田馬場・品川・上野・鴬谷・恵比寿・西日暮里・秋葉原・駒込・田町・五反田・品川・上野・渋谷・原宿・池袋・巣鴨・田端・日暮里・目白・目黒・渋谷・浜松町・新大久保・東京・代々木の順。

これまたすっかり死語となってしまいましたが、「煙管(きせる)」と俗称される不正乗車が頻発していた時代です。煙管乗車とは煙草の煙管からきた言葉で、煙管が雁首と吸口だけ金属(つまりは金)で、その中間が竹などで出来ていることから、“中抜き”乗車を表す隠語として一般化したものです。このような不正乗車を防止・摘発する策のひとつが「鋏痕」でした。

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鋏痕は駅によってその形状を定められており、当然ながらその法則と形状は絶対的な部外秘でした。今や公開しても何ら不正の引き金とはならないでしょうから、今回、とりあえず東京3局の鋏痕を歴史的な資料としてお見せすることにしましょう。南・北・西の東京3鉄道管理局管内で使用されていた「本鋏」は実に35種類、そのほかに主要ターミナルのみで使用されていた「特殊鋏」9種と、不正乗車常習者を撹乱するための「予備鋏」2種が改鋏の全貌です。
▲乗降客数の多いターミナルでは「特殊鋏」と呼ばれるパンチが使われていた。予備鋏(予備鉄とあるのは誤植)は時間限定で使用されるケースが多かった。

規定によると、改鋏は縦横とも0.5センチ(必要に応じて変更することもありえる)の範囲内に様々な形がデザインされていました。「鋏こんの側面に日付を表示できるものを使用することがある」と規定されていますが、少なくとも私は現物を目にしたことはありません。さらに予備鋏に関しては、「予備鋏は局において設備し、臨時に旅客多数又はその事由により常備改札鋏に不足をきたした場合に旅客課の指示を受けて使用する」、また「駅員無配置駅用として、予備鋏2号を使用することがある」と記載されています。実態としては「予備鋏1号」は中央線緩行区間各駅の午前中限定で使用されていたのが知られていますし、多客時の不正防止として、電報手配でスクランブル的に使用されていました。

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ついでに東京3局の車内改札用の鋏痕もご紹介してみましょう。いわゆるエンボス=浮き出しのカレチ(旅客専務車掌)用改鋏です。こちらは規定によれば、「直径または一辺の長さ0.75センチの浮き出し文字の下部に円型のせん孔式のもの」を使用し、やはり「鋏こんの上部に日付を表示できるものを混用することがある」とされています。
▲こちらは東京3局管内の車内改札鋏痕。いろは順になっているが、「へ」は飛ばしてある。

すべてがデジタル化されてしまった現代から見れば、何かほっとする余裕を感じさせる超アナログなシステムでした。あの無味乾燥なピンポーンという自動改札が閉まる音を聞くたびに、賑やかだった改札ラッチのパンチの音色と、そこにあった人と人とのふれあいを思い返さずにはいられません。

▼東京南・北・西局管内の標準鋏痕一覧。もちろん当時は部外秘の乱数表のようなものである。首都圏在住の皆さん、あなたの最寄駅の鋏痕は何号でしたか?クリックするとポップアップします
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今日昼過ぎ、ついに東武鉄道100系“スペーシア”が新宿に姿を現しました。15日付けの本ブログでは白岡までの試運転(回送)の様子をお伝えしましたが、今日はついに栗橋?新宿間、つまりJR線乗り入れの全区間の試運転となりました。
▲池袋をあとに未踏の線路を新宿に向かって快走する試9622M。並走する山手線ウチマ1302G車内より。'06.2.24 目白?高田馬場

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もちろん“スペーシア”が新宿に姿を見せるのは今日が最初。東上線の接続駅である池袋から、田園都市線乗り入れで東武車輌が見られる渋谷までの区間は、いうなれば東武車輌の空白地帯です。東京西部のその空白地帯に、東武鉄道のフラッグシップたる100系“スペーシア”がはじめて足跡を印したのですから、今日という日はわが国の鉄道運転史に特筆されるべき一日に違いありません。
▲池袋に到着した試9622M。池袋は東上鉄道部の拠点。山手線ホームをはさんで東上線車輌と「スペーシア」が初めて顔を合わせた。'06.2.24

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国鉄←→私鉄の相互乗り入れ運転の歴史は意外に古く、鉄道創業からわずか13年後の1885(明治18)年には官設鉄道←→日本鉄道間の乗り入れ運転が始まったといいます。品川?(池袋)?赤羽間を開業した日本鉄道が、品川から官設鉄道の起点駅・新橋まで乗り入れたものです。

戦後は昭和30年代のレジャーブーム到来とともに全国の私鉄で国鉄乗り入れが行われるようになりました。三宅俊彦さんによると、その数実に55社。うち、現在でも26社がJR線との車輌乗り入れを行っており、3月18日から東武鉄道が27社目として加わることになります。過去に遡ってみると、留萌鉄道、定山渓鉄道、松尾鉱山鉄道、山鹿温泉鉄道、熊延鉄道…等々、今では歴史の彼方に消えてしまった私鉄も多く、いったいどんな乗り入れ風景だったのか、興味は尽きません。

ちなみに3月18日改正初日の「スペーシアきぬがわ」の指定券は即刻完売したと聞きます。多少落ち着いた頃にでも、新宿から“スペーシア”に乗って、早春の日光・鬼怒川にでも出かけてみようと思います。
▲新宿駅3番線を発車してゆく試9623M。営業開始まであと3週間あまり、いよいよこの光景が日常のものとなる。'06.2.24

再び甦る「下工弁慶号」。

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三岐鉄道北勢線の市民による活性化を目指して積極的な活動を繰り広げている「北勢線とまち育(はぐく)みを考える会」(ASITA)が、再び動態で甦らそうと修理していた通称「下工弁慶号」が三重労働局によるボイラ水圧検査に合格、去る2月19日午前中に火入れ安全確認を済ませ、晴れて試運転が行なわれました。来る3月5日(日曜日)には一般公開のお披露目式が予定されているそうで、嬉しいことに日本の動態保存蒸機が1輌増えることになります。
▲下津井電鉄で復活運転されていた当時の「下工弁慶号」。全長4mあまり、動輪直径600mmとライブスチームかと思うような小ささ。まもなくこのようなシーンが阿下喜で見られることになる。'88.1.25 下津井

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「下工弁慶号」は1907(明治40)年(別説もあり)に東京石川島播磨重工業の前身である石川島造船所が製造した自重5.5tのBサドルタンクで、米国ボールドウイン製を模した形態をしています。徳山の海軍練炭製造所(のちの海軍徳山燃料廠)で原料輸送に使用されていたと伝えられますが、現役当時の状況は定かではありません。1934(昭和9)年に原動機実習の教材として旧制下松工業学校(のちの山口県立下松工業高校)に払い下げられ、「下工弁慶号」の愛称で学生や教職員に親しまれてきました。もちろん動態ではなく、さながら銅像のように台座に載せられて校庭に展示されていましたが、1981(昭和56)年に同校創立60周年記念事業として、先生と生徒の手によって動態復元されたものです。校庭に仮設された150mほどの線路を元気に往復したものの、その後は再び静態展示となってしまっていました。数年後、せっかく動態復元したものを動かさないのはもったいないと、下津井電鉄が名乗りをあげ、折りしも瀬戸大橋フィーバーに沸く下津井駅構内に新設されたエンドレス軌道上で元気に復活を遂げたのです。
▲2年前、阿下喜に到着したばかりの「下工弁慶号」。下松市の保管状態が良かったこともあって、車齢100歳近いご老体とは思えぬほど矍鑠としている。'04.4.3

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しかし事態は思わぬ展開となります。下津井への貸し出しは1988(昭和63)年より3年間とされていましたが、何とその前に下津井電鉄そのものが廃止となってしまったのです。再び下松に戻った「下工弁慶号」は、その後も1994(平成6)年に行われた下松市制55周年イベントや、1996(平成8)年の日立製作所創立75周年記念感謝祭でスポット的に走行シーンを披露したことはありましたが、1997(平成9)年にボイラの不具合が発見され、以後、火を入れられることはありませんでした。
▲キャブはエンドオープン・タイプ。阿下喜の会場内には延長80mほどの特設線路が敷設されているそうである。'04.4.3

その後、「下工弁慶号」は同高校同窓会の下松工業会から下松市に寄贈され、市役所隣に設けられたガラス張りの展示室で静態保存されていました。そんな中、一昨年「北勢線とまち育(はぐく)みを考える会」(ASITA)が、この「下工弁慶号」を北勢線再生のシンボルにと、同機の貸し出しを下松市に打診、同市はASITAの手によって動態復活すれば下松のPRにもなるとこの申し出を受け入れ、2004(平成16)年春、「下工弁慶号」は阿下喜へとやってきたのです。

ASITAは昨年5月から動態復元に着手、ほぼすべてを一旦分解し、小部品は自前で製作するなど筆舌に尽くしがたい努力の末、今回の試運転にこぎ着けたと言います。ASITA会長の安藤たみよさんからのメールには、この「下工弁慶号」の動態復元が「阿下喜まで来てくれる人を増やし、まちを元気にするため」に役立てばと書かれていました。注目の復活お披露目式は3月5日の11時半から、「下工弁慶号」の走行開始は12時からと予定されているそうです。是非とも“北勢線に乗って”再び甦った「下工弁慶号」に会いに行ってください。

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十日ほど前から、ペンタックスさんが今月末に発売を予定している最新デジタル一眼「ペンタックス*ist DL2」のデモ機をお預かりして試写を繰り返していますが、今日がその最終日とあって、早朝から目星をつけておいた都内の撮影ポイントに繰り出しました。「ペンタックス*ist DL2」自体のインプレッションは近いうちに改めてお知らせする予定ですが、わずか十日ほどとはいえ、手に馴染んできたカメラを返却するのは妙に寂しいものです。
▲東京23区内でこれだけの入換機が並ぶ場所はほかにないだろう。右から今日の本務として活躍していた北陸重機、予備の日本車輌、左は休車の日車とその奥に協三のC型ロッド式。'06.2.22 北王子(貨)

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さて、午後にはペンタックスさんにお返しせねばならないこの「ペンタックス*ist DL2」最後の被写体に選んだのが、都内に残る専用線として知られる通称・北王子貨物線です。田端(操)を出た紙輸送列車は、王子駅の先でこの貨物線に入り、北王子貨物駅を目指します。ちょうど本誌最新号で桜の名所として簡単なガイドを掲載しており、それに触発されたこともあって、桜には早すぎるものの、足を向けてみる気になったのです。
▲10:10頃、北王子貨物駅を後に田端(操)へと帰投する返空の入14。歩道橋の遮蔽板の隙間から辛うじて撮れた一枚。'06.2.22

現地を歩きながら思い返してみると、この前(?)ここを訪れたのは1980年1月22日のこと。何と26年と一ヶ月前の同じ22日のことです。何度目かの訪問のこの日以来、北王子貨物駅を訪ねる機会はなく、ついこの前のことのように思っていたのが四半世紀を超えてしまっていたのには愕然とせずにはいられませんでした。思えば、あの日手にしていたのは当時愛用のペンタックス6×7。期せずして26年の歳月を経て再びペンタックスを手にここを訪れることになろうとは思いませんでした。

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この北王子貨物線、今でこそ非電化ですが、かつてはEB10の活躍する電化貨物線「須賀貨物線」として広く知られていました。須賀貨物線は最近土壌汚染問題でニュースを賑わしている豊島5丁目団地付近にあった日産化学への貨物輸送を担っていた路線で、現在の北王子貨物駅は延長2.5kmのその須賀貨物線のとば口に位置しています。さらにその前歴を紐解いてみると、大日本人造肥料が敷設した専用鉄道でした。昭和3年度『鉄道統計資料』第三編監督・専用鉄道現在表によれば、免許取得は1926(大正15)年7月22日、翌年に雨宮製作所+新潟鐵工所が試作した国産初のディーゼル機関車の任地でもあります。(須賀貨物線の詳細については『トワイライトゾ?ン・マニュアル5』参照)
▲今日の装備のすべて。ビリンガムのバッグに*ist DL2とDA50?200mm、DA12?24mmの2本のズームレンズ、さらには準標準のDA40mm Limitedを入れ、さらに愛用のファイロファックスのシステム手帳やら携帯電話やらを入れてもこのコンパクトさ。何と便利な時代になったことよ!

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さて、いざ現地に着いてみると、全線がフェンスで覆われてしまっているのにビックリ。前回(というより26年前?)の訪問の際はデカペンを肩に線路上をぶらぶらと歩いて十条製紙敷地内まで行き、入換えのDD13の周りをちょろちょろとアングルを探しながら歩き回った記憶がありますが、今はとてもそれどころではありません。しかも王子寄りにあるお誂え向きの歩道橋は高さ2メートルほどのフェンスで覆われてしまっていてまったく周囲が見えません。プライバシー保護?のためなのでしょうか、とにかくこんなささやかな線でさえ、えらく撮影しづらくなってしまったものです。
▲しばらく(と言っても26年以上か…)来ないうちにこんな専用線でも写真が撮れるポジションは激減してしまった。王子寄りに見つけた陸橋の歩道橋もこの有り様。結局写真左の遮蔽板の隙間からDA50?200mmのレンズだけ出して撮影したのがさきほどのカット。写真右はその反対側だが、実はこの道こそかつての陸軍造兵廠軌道、通称「だるま電車」が走っていたルートにほかならない。'06.2.22

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平日には3往復設定されている(時刻は本誌をご参照ください)貨物列車は、数少ないワム80000で組成された列車としても注目を集めていましたが、昨年末からついにコンテナに転換されてしまい、現在ではコキ車を連ねた今風の編成になってしまっています。それでも北王子貨物駅構内には今どき貴重な入換え用ディーゼル・シャンターが休車を含めて4輌もおり、入換え作業の様子を踏切から眺めているだけでも楽しめます。ただし、運転時間には4箇所ある踏切にはそれぞれ無線を携えた警備員が立っていますので、邪魔にならないように撮影する旨をあらかじめ伝えてからカメラを出した方が無難です。いやはや、カメラは格段に進歩したものの、どうにもこうにもやりにくい世の中になってしまったものです。
▲四半世紀前のトップ写真とほぼ同位置からの写真。入換えに励むのは田端機関区のDD13 26。当時、田端には20輌以上のDD13が配置されていたが、本機はこの写真の一年後に廃車処分となっている。背景のマンションが現況と変わらない点に注目。'80.1.22

鹿島鉄道が廃止を表明。

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またしてもローカル私鉄受難のニュースが飛び込んできました。今日付けの読売新聞茨城版によると、鹿島鉄道が3月末にも国土交通省に廃止を申請するというのです。2000(平成12)年の鉄道事業法改正以降、鉄道事業の廃止手続が変更され、事業者の鉄道事業からの退出については、許可制から事前届け出制となりました。これによって廃止を申請した時点から一年後、つまり来年3月末には廃止が可能なわけで、ひょっとすると、あの霞ヶ浦沿いをゆく気動車の姿はあと一年ほどで見られなくなってしまうかもしれないのです。
▲はるか筑波山をのぞんで霞ヶ浦湖畔をゆくキハ432。鹿島鉄道最大の魅力はその牧歌的な沿線風景にある。'01.7.7 浜-玉造町

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報道によれば、廃止は昨日(20日)開かれた鹿島鉄道対策協議会(会長=石岡市長)の席上で同社が明らかにしたもので、今年度末で親会社である関東鉄道からの資金援助が打ち切られることが最大の理由のようです。鹿島鉄道社長は、施設も老朽化しており廃止せざるをえないと語ったそうで、これまで支援してきた沿線自治体やサポーターからは廃止撤回をのぞむ声が強まっているといいます。
▲榎本の側線から百里基地へはパイプラインが通っており、貨車で運ばれてきたジェット燃料はこのパイプラインを通して基地のフューエルタンクへと運ばれた。

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ご承知のように、石岡?鉾田間27.2kmを結ぶ鹿島鉄道は、沿線の陸上自衛隊百里基地へのジェット燃料輸送を大きな収入源としてきました。そのためにDL牽引の貨物列車が残り、私たちファンにとってはそれが大きな興味の源泉にもなっていました。ところがこの燃料輸送が2001(平成13)年度限りで道路輸送に転換されてしまったため、ただでさえ脆弱だった収支は一気に悪化、これをうけて茨城県と沿線自治体は対策協議会を結成、2002年度から2006年度までの5年間に約2億円の資金援助を行なってきました。しかし収支は改善せず、加えてつくばエクスプレスの開業によって鉄道事業収入が減少してしまった親会社・関東鉄道の支援撤退もあって、万策尽きてしまったというのが実情のようです。
▲長年にわたって鹿島鉄道のアイドル的存在だったDD901は常陸小川駅構内に保存されている。'01.7.7 常陸小川

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貨物列車こそなくなってしまったものの、鹿島鉄道ではまだまだ魅力的な車輌たちが“今なお現役”で活躍を続けています。何よりも特筆されるのは元国鉄キハ07形の生き残りキハ601・602が日常的に運用に就いていることでしょう。07系特有の6枚窓の流線型前面こそ平面に改造されているものの、キハ601は今年でちょうど車齢70歳を迎える1936(昭和11)年製の元キハ07 29、キハ602も翌1937(昭和12)年製の元キハ07 32で、今となってはTR29形台車の乗り心地を体感できる唯一の車輌です。赤とクリームのいわゆる金太郎塗り分けのキハ432とキハ714、さらには緑とクリームのキハ431と、雄大なロケーションにお似合いの車輌たちも現役で、関東地方在住のファンにとっては日帰りで楽しめる貴重な非電化路線であるだけに、これからのなりゆきが注目されます。
▲キハ602。古稀を迎えようという現役最古の気動車で、現在でも主力車輌として毎日活躍している。'01.7.7 石岡

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ゴッタルド峠を越えてレベンティーナ渓谷沿いをひたすら南下すると、街の様子は明らかにスイスと異なり、イタリア文化圏に入ったことを感じさせます。レーティッシェ・バーンのメインネットワークを構成するベルニナ線も、終点のティラノ(Tirano)でイタリア領内に入りますが、「ベルニナ急行」に乗ったことのある方なら、国境を越えた途端に街の風景が変わるのを体感されていると思います。ここで言う街の風景とは、建築様式とかではなく、言うなれば生活臭です。枯れた花を窓辺に出しているだけで条例違反となるほど国策として美観を重視するスイスに対して、かたやラテンの国イタリアです。路上にはゴミが散らかり、手入れのされていない鉢植えが放置され…ある面ではむしろほっとする光景が広がります。人為的に決められたボーダー(国境)を境に、かくも鮮やかなコントラストが見られるのです。同じスイス国内にも関わらず、たどり着いたベリンツォーナもティラノと同様に雑然とした人間臭さを感じる街でした。
▲唯一目にすることのできたベリンツォーナ・メソッコ線のレーティッシェ・バーン車輌。除雪車Xk8618(手前)と薬剤散布車Xk8609。'93.10.12 Grono

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▲スイス政府発行1:25000地形図に見るレーティッシェ・バーン・ベリンツォーナ・メソッコ線。クリックするとポップアップします

ティチーノ地方の州都でもあるベリンツォーナは紀元前ジュリアスシーザーの時代からの軍事的要衝で、カステルグランデ(大城という意味)を筆頭に15世紀頃に建てられたという古城が世界遺産にも登録されています。13年前の訪問時にはまだ世界遺産登録(登録は2001年)前で、ほとんど観光客も訪れないような田舎町でした。ベリンツォーナ・メソッコ線はこのベリンツォーナの街はずれのスイス国鉄アルベド駅から出ているはずですが、実際に訪れてみると、駅裏の貨物ヤードからメーターゲージの線路がヨロヨロと出てきて国道を渡り、小さな渓谷沿いに消えてゆくといったほとんど専用線状態。とてもかのレーティッシェ・バーンの線路とは思えない草むした軌道がこの路線の不遇を物語っているようでした。

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所属車輌も合造電動車Bde4/4 491が1輌だけで、ランドクォートのレーティッシェ・バーン本社で分けてもらった全線のダイヤグラムにも記載がないため、運行状況はまったくわかりません。貨物荷役場にいた職員らしき人に聞こうにも完璧にイタリア語でお手上げ。彼方の荷扱い線にBde4/4 491の姿が見えたものの、間の悪いことにちょうど出発していってしまいました。たかだか12キロほどの路線ですから追いかければ当然どこかで再会できるものと甘く考えていたものの、結局二度と再び会うことは適わず、この邂逅がBde4/4 491との最初で最後の出会いとなってしまいました。

それにしても垣間見たBde4/4 491の汚れようはとてもレーティッシェ・バーンの車輌とは思えず、真紅の車体もさながらハンブロールの62番をスプレーしたごとく白茶けていました。車側の「RhB」のロゴが唯一のアイデンティティーで、もしあのロゴなくして写真を見せられたら、一体どこの車輌かにわかに判断できないほどの状態でした。
▲終点カーマとひとつ手前のレッジア(Leggia)の間で軌道は路側に乗り入れる。この付近の勾配は50‰。'93.10.12

アルベドから線路沿いにカーマへと向かう道路は、まるでイタリアの古城の中をドライブしているようなルートです。場所によってはトラック1台がやっと抜けられるような城壁の出口あり、石畳の小道あり、それはそれは魅力的なものでした。しかしその道のりの素晴らしさとは裏腹に、どこに消えてしまったものかBde4/4 491の姿を発見することは出来ず、結局、撮影できた車輌らしき車輌は途中駅グロノ(Grono)に留置されていた数輌の貨車だけでした。

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▲ベリンツォーナ・メソッコ線唯一の動力車Bde4/4 491形式図。直流1500V出力676kWで、メソッコ付近の60‰に対応するための発電制動用抵抗器を屋根上に備える。なかなか好ましい形態の合造電車(定員20名・荷重5t)である。("Die Streckentriebfahrzeuge und Schneeschleudern der Rhatischen Bahn"より)

走行する列車の写真はおろか、電動車さえ撮影できませんでしたが、スケジュールの関係もあり、涙をのんでベリンツォーナ・メソッコ線を後にしました。恐らくはもう二度と来ることはないでしょう。帰りしな、昼食をとっていなかったことに気づき、アルベド駅付近で食事をすることにしました。ところが駅といっても貨物駅のようなもので食堂などなく、やむなく国道沿いにあった長距離トラックのための街道食堂のようなところに飛び込みました。メニューを見ても完璧にイタリア語。何がなんだかまったくわからず、やむなく唯一読めたプロシュート(生ハム)ピザを注文。出てきたクリスピー地のピザは直径40センチはあろうかという巨大なものでした。トラッカーの食事処とあって質より量なのだろうと高を括って口にしてみると絶句! 今もってあんなに美味いピザを食べたことはありません。

ちなみに、細々と貨物営業だけを続けていたこのベリンツォーナ・メソッコ線ですが、訪問から2年後の1995年からファンの手によるトリップトレインが運転されるようになったそうです。ただその後、レーティッシェ・バーンによる運行は2003年12月31日をもって廃止となったとも聞き、果たしてこの“知られざるもうひとつのレーティッシェ・バーン”が現状どうなっているのかはわかりません。

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「氷河急行」の起点、スイス屈指のリゾート地サンモリッツを擁し、アルプスを超える看板列車「ベルニナ急行」でも広く知られるレーティッシェ・バーン(RhB)はわが国のファン、ことに模型ファンにも根強い人気があります。車輌的にも“ミニ・クロコダイル”と通称される連接電機Ge6/6をはじめ魅力的な役者が揃っており、そのまるで絵葉書のような比類ないロケーションとあいまって、リピーターが多いのも頷けます。
▲1978年以来ベリンツォーナ線の終点となってしまったカーマ駅。撮影時はまだ貨物輸送だけが細々と行なわれていた。'93.10.12

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そんなレーティッシェ・バーンにまるで忘れ去られた路線があるのをご存知でしょうか。「ベリンツォーナ・メソッコ線」と呼ばれるこの路線は、グラウビュンデン州の州都・クールを中心にしたレーティッシェ・バーンの路線網とはまったく関係なく、離れ小島のように遥か南、イタリア国境にある世界遺産の町・ベリンツォーナ(Bellinzona)を起点に田舎町メソッコ(Mesocco)までを結ぶわずか31.3kmの路線です。

レーティッシェ・バーンを紹介した本はわが国でも数多く見られますが、なぜかこのベリンツォーナ・メソッコ線に関してはまったく触れられていません。まぁ、それもそのはず、この線は1972年に旅客輸送を廃止してしまっており、貨物専業となってしまったからです。日本で言えば西武鉄道安比奈線のようなもので、総論として西武鉄道を語るのにあえて安比奈線に触れる必要がないのと同じ道理です。
▲レーティッシェバーンの路線網。クールを中心とした路線網とまったく接続することなくベリンツォーナ・メソッコ線が描かれている。クリックするとポップアップします

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さてこのベリンツォーナ・メソッコ線、もともとはベリンツォーナ・メソッコ鉄道として1907年に開業したもので、1942年にレーティッシェ・バーンに統合された経緯があります。なにしろ場所はアルプスを超えた南側のティチーノ地方。もうほとんどイタリアで、実際に言語もイタリア語、生活習慣もまったくイタリアそのものです。いったいどういう経緯でレーティッシェ・バーンがこの路線を運営することになったのかは知りませんが、実に奇妙な状況です。
▲カーマから先、メソッコまでの15.1kmは水害で不通になってそのまま廃止されてしまった。もうひとつのレーティッシェバーンの終点は草に埋もれた軌道と途切れた架線で終わっていた。'93.10.12

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引き継いだ当初はBce4/4 1-5と名付けられたベリンツォーナ・メソッコ鉄道からの引き継ぎ車などで運行されていたようですが、1958年からは自社の合造電動車Bde4/4 491を投入、この1輌が貨車牽引の任も背負って孤軍奮闘してきました。しかし先述のように1972年5月27日付けで旅客営業を廃止、合わせてベリンツォーナ市内から国鉄との接続駅カスティオーネ・アルベド(Castione-Arbedo)間3.5kmを廃線とし、ただでさえ短い路線延長は27.8kmとなってしまいました。しかし、本当の受難はそれからでした。1978年8月の風水害で致命的ダメージをくらい、結局ほぼ中間に位置するカーマ(Cama)から終点メソッコまで15.1kmが1979年12月9日付けで正式廃止、ついに路線は12.7kmとなってしまったのです。

スイス人ファンからも「行ったことない。あんな所へわざわざ行くのか?」と呆れられながら、一路ベリンツォーナへと向かったのはかれこれ13年前の秋のことでした。
▲スイス国鉄(SBB)との接続駅カスティオーネ・アルベドで入換えに活躍するSBBのTeⅡ240。'93.10.12

いまだ残る“茂原人車”。

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人力で旅客車輌を運行する「人車鉄道」というシステムは、どうやらアジア、しかも日本とその支配下にあった台湾で独自に発展したもののようで、ひょっとするとその発想の原点は江戸時代の駕篭あたりにあるのかも知れません。

松山人車軌道の車輌が交通博物館に保存されているのはよく知られていますが、千葉県の茂原を起点とした千葉県営人車軌道庁南線の車輌が茂原市郷土資料館に保存されていると聞いて訪ねたのは、安保彰夫さんの南総鉄道の軌道跡調査にお供した時のことでした。茂原と庁南町台向の間約9キロを結んでいた千葉県営人車軌道庁南線は1909(明治42)年に開業しましたが、公設軌道にも関わらずなぜか軌道敷設に不可欠な「軌道条例」による特許を取得しておらず、いわば闇運行を続けていた摩訶不思議な鉄道です。この辺の経緯は白土貞夫さんの『ちばの鉄道一世紀』(1996年)や佐藤信之さんの『人が汽車を押した頃 ?千葉県における人車鉄道の話?』(1986年/ともに崙書房刊)に詳しく、特に後者では関係者からの聞き取りを含めて、この軌道の運行状況が生々しく記録されています。

さて、郷土資料館に保存されている車輌ですが、全長2m弱のほとんど物置然としたもので、残念ながら輪軸は失われてしまっており、いわゆるだるま状態です。聞くところによれば、昭和30年代に市内の民家の庭で子供の勉強部屋となっていたのを発見されて“救出”されたのだとか。軌道の撤去が1926(大正15)年だと言いますから、木造のこの車体がよくぞ残っていたものです。それにしても現状のだるま状態では、載せられた台木とあいまって“神輿”の一種(?)にしか見えず、願わくば失われた輪軸を復元し、きちんとした車輌状態で末長く保存してもらいたいものです。
▲茂原市立美術館・郷土資料館に保存されている庁南線の人車車体。8人乗りとされているが、どう考えても6人乗るのが精一杯か…。'99.11.1

時ならぬ賑わいの東京駅。

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このところモニターカメラのテストやらなにやらで、東京駅に足を向ける機会がたびたびあります。ダイヤ改正まであと一ヶ月に迫っているとあって、土日ともなるとホーム上にはカメラを手にしたファンの姿が目につくようになってきました。もちろんお目当てはダイヤ改正で姿を消す“湘南色”の113系と特急「出雲」です。
▲ダイ改まであと一ヶ月、東京口に姿を見せる湘南色の113系はめっきり少なくなっている。約2時間ぶりに姿を現した待望の“湘南電車”にちびっこファンの歓声が上がる。彼方にはこれまた見納めの東京駅舎が…。'06.2.11

時刻の決まっている「出雲」と異なり、113系の方は日々充当運用が変わり、しかもどんどん運用数が減っているとあって、待ち受ける方もひと苦労です。ちなみに先週のある日の状況としては、稼働は4編成4運用(基本編成ベース)、東京駅に顔を出すのは一日10回程度と、信じられない激減ぶりです。それだけに、はるか有楽町方にあの塗り分けのお面が見えた途端に歓声が上がるのも無理からぬことかもしれません。

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一方の「出雲」の方もかなりの賑わいとなってきました。何と言っても東海道に残った最後の単独ネーミングのブルートレインですから、その廃止が波紋を呼ばぬはずはありません。ただ私たちファンのフィーバーぶりとは裏腹に相変わらず利用客はパラパラで、ホームには乗客案内のアナウンス以上に撮影者への注意喚起が流れているような状態です。実際、乗車する人より撮影している人の方が明らかに多く、この状態を目の当たりにすると廃止やむなしの思いも湧いてきます。
▲「出雲」フィーバーはいよいよ過熱ぎみ。機回し線がなくなってしまった関係で「出雲」はプッシュプルで入線する。牽引してきたEF65PFが離れて「出雲」のテールサインが現れると一斉にシャッターが切られる。'06.2.14

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さて、この春の東京駅の惜別対象として忘れてはならないのがほかならぬ東京駅舎です。すでにこのブログでもご紹介したように、間もなく復原工事が開始され、戦前のドーム屋根を持つ本屋に復原されるまでの5年余り、あのレンガ造りの東京駅舎は見られなくなってしまいます。確かに辰野金吾の手による原設計の優美な姿に戻すのは意義あることでしょうが、いかんせん、私たちの世代にとっての「東京駅」はあくまで今の角屋根で、その意味ではちょっと残念な気もします。実際、丸の内口に降りたってみると、点々とカメラを向けている方の姿が目に入ります。なかには「見納めね」と話ながら携帯をかざす女性の姿もあり、こちらも時ならぬ賑わいを見せはじめています。
▲そしてもうひとつの見納めは東京駅舎そのもの。空襲で失われる前の3階建てドーム屋根に復原する工事が始まり、5年余りの間レンガ造りの駅舎は見られなくなる。'06.2.14

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ひさしぶりに長崎快宏さんからメールを頂戴しました。最近は『RM LIBRARY』をご愛読いただいているそうで、ライブラリーから続々とお得意のペーパーモデルが誕生、今はちょうど庄内交通と山形交通三山線の電車たちをシリーズ化しているところ、とのお話です。どちらかというとビスタカーやパノラマカーのような大手私鉄の電車というイメージの強かった長崎さんですが、RMライブラリーに登場するような地方私鉄に目を向けはじめた理由が、「もう作りたい車輌がなくなった(作り終えた)」から…というのですから恐れ入ります。
▲ずらり並んだ長崎さんの新作たち。RMライブラリーにインスパイアされて誕生したモデルも多いという。

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長崎快宏さんといえば、旧くは『模型と工作』誌のペーパーモデル製作記で一世を風靡し、最近は『RM MODELS』でもたびたびその独自のペーパーモデル工作術をご披露いただいていますが、とにかくその多作ぶりは想像を絶しています。RMM誌'97年4月号では「年産100輌」とご紹介していますが、先日いただいたメールにも、「タイムシートを顧みると、2輌で20時間プラスマイナス2時間がボクの製作時間です」とあります。しかも「最近は側板と屋根板の下地仕上を別々にやっているので、もっと速くなっています」とのこと。そのパワーはますますバージョンアップしているようです。

しかもご本人は一年のうち3分の1は海外出張という超多忙な身。いったいどうやってそんな時間を捻出しているのかと思いますが、ご本人は「1日3時間工作するとして1週間で2輌といったペースです」と、いたって当たり前のことのようにおっしゃいます。もっとも長崎さんは『情報整理プロの離れ業』、『奇跡のノート術』、『パソコン書斎術』など自己啓発・情報整理関連のご著書も多い、いわば時間管理のエキスパートでもあります。常日頃「時間がない」のを自分自身への言い訳にしている自らの体たらくを思うと、その天と地ほどの差にまさに赤面の至りです。
▲塗装は筆塗りと昔懐かしい島田塗料のハンドスプレーを使い分けているとのこと。2000輌あまりが均一な仕上がりになっているのも特筆される。作例は新潟交通。

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半世紀あまりで完成させたペーパーモデル車輌は実に2000輌を超えているそうです。お気に入りのNSE、ビスタカー(Ⅱ)、パノラマカーは各3編成、京急1000形や近鉄2200系などの名車はそれぞれ40輌以上作り上げ、最近では車齢40年以上になるモデルの更新やクラッシュに着手しはじめているとのこと。昨年は部品取りのため200輌捨てた(!)そうですから、作るも捨てる(?)も半端な数ではありません。
▲旭川電気軌道モハ1000形(左)と小田急(越後交通)1400形(右)。

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旅行作家、商業デザイナー等々、多彩な活躍をされている長崎さんですが、ペーパーモデルの方も、最近では趣味の壁を超えて“タルゴ工房”のネーミングで車輌の受注生産も行なっているそうです。詳しくはご本人のホームページをご覧いただくとして、ペーパーモデルという日本独自(欧米の鉄道模型にはまずありません)の文化のリーダー役としても、長崎さんの役割は、今後ますます大きなものとなってゆくに違いありません。
▲東急世田谷線のデハ150形(手前2輌)やデハ70形(奥)も手早く量産されている。

乗り入れの春近し。

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すでにご承知のように、JR東日本と東武鉄道は、3月18日のダイヤ改正から新宿?東武日光・鬼怒川温泉間に相互乗り入れの直通特急を新設します。郡山総合車両センターで改造工事を施工した485系乗り入れ対応車(Tc1017+M1058+M’1058+M1055+M’1055+Tc334)はすでに昨年末から東武線内の試運転をはじめていますが、いよいよ東武鉄道100系“スペーシア”のJR線内での試験が開始され、今朝その様子を見てきました。
▲はじめて東北本線上に姿を現した東武鉄道100系“スペーシア”108Fの回9630M。手前のE231系は小金井行き553M。'06.2.15 白岡

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ダイヤ改正に伴って誕生する直通特急は4往復。JRの485系リニューアル車を使用した特急「日光」と「きぬがわ」がそれぞれ1往復ずつ、東武鉄道の100系“スペーシア”を使用した特急「スペーシアきぬがわ」が2往復です。「日光」には鬼怒川温泉発着の普通列車が、「きぬがわ」と「スペーシアきぬがわ」には東武日光発の普通列車が接続して利便性を高める工夫がなされています。
▲ラッシュ時間帯の過ぎた上りホームは閑散としている。折りしも構外を通りかかった幼稚園の子供たちから歓声があがった。「あっ、スペーシアだ!」 '06.2.15 白岡

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1月12日付けの「呉越同舟 間もなく実現」でも触れましたが、日光を巡る東武と旧国鉄の攻防は今もって語り草となっています。それだけに東北本線を走ってくる100系“スペーシア”と、違和感なくすれ違ってゆくE231系の姿には改めて新鮮な驚きを感じました。まだ新宿までの試運転は行なわれていませんが、遠からず新宿副都心をゆく「東武鉄道」の姿が見られるはずです。
▲小山車両センターに向けて去ってゆく回9631Mの横をE231系の574Mがすれ違ってゆく。3月18日以降はこれが日常の風景となるわけだ。'06.2.15 白岡

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▲JRの485系乗り入れ対応車の入線試験は一足先に始まっている。栗橋の連絡線を東武線内へと渡ってゆく485系。'06.1.26 栗橋 P:RM(青柳 明)

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▲首都圏には3月改正のパンフレットが大量に配られているが、最大の目玉はもちろん東武との相互乗り入れだ。クリックするとポップアップします

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1925(大正14)年7月に全国一斉に行なわれた自動連結器化は、例を見ない大規模かつ短時間での交換工事で、日本の鉄道技術のレベルを世界に示すとともに、ひいては日本の国力そのものを広く知らしめるものでした。ご承知のように、この自動連結器取り替え前は“リンク式”と通称される螺旋(捻子)式連結器が標準連結器でした。そしてこの螺旋連結器にとって不可欠なのが“バッファー”と呼ばれる緩衝器です。
▲ヨーロッパでは、車輌はもとより地上緩衝器としてもバッファーはいたるところに見られる。チューリッヒ駅にて。

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自動連結器と違って螺旋式の連結方法は結構面倒です。バッファーが接触した状況で連結する両者の螺旋を合わせ、そこからグルグルと連結捻子を締め上げてゆきます。つまり必ず作業する人間が床下に潜り込まなければならないわけで、作業者が車輌限界外にいてすべての連結作業を終えられる自動連結器と比較すると、その安全性、作業性は比べるべくもありません。
▲『最新機関車名称事典』(1920(大正9)年発行)に見る緩衝器基本図名称。実際に当たる部分は「緩衝頭」と名付けられている。

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ただ、そんな螺旋式連結器にはメリットもあります。ヨーロッパではこの螺旋式がまだ使われていますが、その最大無二の美点はバッファーによって走行中の車輌の挙動を抑制でき、格段に乗り心地が改善できる点にあります。螺旋は単に結合するだけではなく、まさに“巻き上げる”ごとくぎりぎりと緊締します。これによってバッファーも単なる接触状態から緩衝バネにある程度テンションが掛かった状態となり、連結間に“遊間”がなくなります。いうなれば編成全体がフレキシブルな一本の帯と化すわけで、これがあのガクンというショックをなくしているのです。自動連結器の場合はどうしてもナックルの遊間ができてしまいますから、抜本的にショックを抑えることは困難です。かの20系客車がこのショックを緩和するために、油圧緩衝器付きの密着自動連結器を採用していたのは良く知られています。その後、経費削減の煽りを食らって寝台客車の連結器緩衝材はゴム緩衝器に替わってしまい、乗り心地が少なからず劣化してしまったのは残念でなりません。
▲交通博物館の9850形9856のテンダ連結面を見る。この4位側バッファーは“グー”だ。

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ところでこのバッファーですが、本来は左右で形状が違っていたのをご存知でしょうか。車輌側から見て右がお椀型、つまりは“グー”、左が平板、つまりは“パー”となっていたようです。人間でいえば右手を握り、左手を開いた体勢ということになります。いつの頃からか左右ともにお椀型となってしまったようで、現在残されているバッファー付きの保存車輌もほとんどがお椀型に統一されてしまっています。バッファー付きの保存車輌をご覧になる機会があれば、“グー”か“パー”かを気にしてみるのも面白いかも知れません。
▲そしてこちらは同じ9856の3位側バッファー。確かに“パー”になっている。ちなみにこれ以外は「1号機関車」を含めてすべて左右“グー”となっている。

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▲アルプスを貫くスイス・イタリア国境のシンプロン・トンネル(19803m)は1905(明治38)年に開通した。この電気機関車Fb3/5(のちのAe3/5)はシンプロン・トンネルの開業に際してブラウン・ボベリで新製されたもの。バッファーが明らかに左パー、右グーと書き分けられていることが判ろう。(“ENGINEERING”1906年11月23日号より転載)クリックするとポップアップします

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わが国では数少ないデュアルゲージ線区として知られる箱根登山鉄道の小田原?箱根湯本間から、本家・箱根登山の電車が姿を消すことになりました。来る3月18日に箱根登山鉄道がダイヤ改正を予定しており、これにともなって登山電車の小田原乗り入れ(小田原?箱根湯本間は箱根登山の第一種鉄道事業なので、乗り入れているのは小田急の方ですが…)がなくなるのです。
▲小田原をあとに3線区間の33.3‰をゆく箱根登山モハ108。この光景もあと一ヶ月あまりで見られなくなる。'00.11.12 箱根板橋-風祭

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先週発表された改正内容によれば、小田原?箱根湯本間の通勤・通学時間帯の輸送力増強と今後のバリアフリー化に備えての処置だそうで、ことに小田急車輌と箱根登山車輌のドア位置の違いからホームとの高低差を解消できず、バリアフリー化の妨げになっていることも大きな理由のようです。今回のダイヤ改正によって小田原?強羅間を直通する列車運転はいっさいなくなり、小田原から塔ノ沢以遠に行くには箱根湯本での乗り換えが必須となります。それにしても、箱根登山鉄道は小田急電鉄の完全子会社化されているとはいえ、第一種鉄道事業者の自らの路線に自社車輌が走らない(つまりは第三種鉄道事業者?)という世にも奇妙な状況となるわけです。
▲箱根湯本行き小田急車と交換離合する2003F。'00.11.12 箱根板橋-風祭

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小田原?箱根湯本間は3線軌条区間であるとともに、架線電圧は小田急車輌の乗り入れのために直流1500ボルトとなっています。箱根湯本?強羅間は750ボルトですから、登山電車はこの1500ボルト区間を走行するための複電圧構造を持っています。粘着式普通鉄道としては日本最急である80‰勾配対策として備えられたレール圧着ブレーキや、半径30mもある急曲線対策の散水装置など箱根登山の車輌には特徴的な装備が多く見られますが、この複電圧構造もそのひとつです。では今回の改正でこの複電圧構造が必要なくなるのかというと、実はそうはゆきません。車庫と検修設備が湯本のひとつ小田原寄りの入生田(いりうだ)にあるからです。
▲風祭駅を通過する小田急EXE。渋いストラクチャーとはちょっとミスマッチか…。'00.11.12

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小田原?箱根湯本間6.1kmはほとんどが国道1号線と並行しており、もともと撮影しやすい区間ではありません。しかも小田原まで下りてくる登山電車は平日の8時55分以前と18時33分以降、土休日の9時25分以前と18時46分以降と撮影時間帯にほとんどなく、残された一ヶ月あまりの間に記録を残すことは決して容易くはないでしょう。それでも1935(昭和10)年以来70年余りに渡って日常の風景として小田原に顔を出していた“登山電車”が見られなくなるとあれば、これは一度足を向けてみる価値はありそうです。
▲1965(昭和40)年頃の箱根登山鉄道小田原?箱根湯本間線路平面図。改正後は入生田車庫への入出庫が残るのみとなる。クリックするとポップアップします

レジンキットその後。

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12月25日付け「リチャードさんからのクリスマスプレゼント?」でご紹介した、フランスのキットメーカー、スモーキー・ランバー・カンパニーの3/8インチスケール・レジンキットのその後をご報告しましょう。パリの“エキスポ・メトリック”で、直接オーナーのリチャードさんに交渉してくれた岡山君が年明けに一時帰国、「頼まれていたヤツだよ」と例の小箱を手渡してくれました。いやはや、オーダーから半年近くを経て、来ない来ないと思っていたキットが期せずして二つになってしまったのです。
▲仮組したラジエータシェルとボンネットリッド。エッチングパーツで入っている細かいラジエータプロテクタだけはちょっと嬉しい。

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もしかすると…と淡い期待を抱いて岡山君が持ってきてくれた小箱を開いてみたのですが、やはり組立説明書はおろか完成図一枚入っていません。実は正月休みにパーツのバリ取りと組立手順の検討を済ませていたのですが、どうにも判らない部分がいくつか残ってしまいます。それだけにせめて完成図くらいはほしいところです。最初に郵送されてきたキットは何かの手違いで説明書を入れ忘れたのでは…と思ったのですが、二つ目にも入っていないとなると、これはもう、そういうキットなんだと割り切るしかありません。
▲組んでゆくと随所に破綻が生じてくる。できることなら使いたくはないが、やむなくパテ盛りして修正。

個人的にはレジンというマテリアル自体どうも好きになれず、ヤスリ掛けしていても、あのヌチャっとした感触に嫌悪感を催してしまうのですが、バリだらけのパーツを面出しし始めてみると、このキットも想像以上に手ごわいことが判りました。一番頭が痛い、というよりも致命的なのは、ベースとなる主台枠床板の板厚に“ムラ”があることです。計測してみると、国鉄式位置称呼で言うところの3位側がt1.15に対して4位側がt1.60、つまり約1.4倍もの板厚の差が生じているわけです。

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レジンを流し込む際の“ムラ”で、たまたま送られてきたキットが“ハズレ”だったのかと思いきや、岡山君が持ってきてくれたもうひとつの個体もまったく同じ。これはどうやら個体差ではなさそうです。それにしても、この主台枠床板の厚みが不均衡ということは、その上に載るキャブも傾いでしまうということです。しかも床板には逆転機ハウジングがモールドされていて、定盤にのせて平面を研ぎ出すこともできません。結局、この0.45ミリの誤差をどこかで誤魔化すしか手はないのでしょう。
▲パーツの全容。どれも盛大にバリが付いたままで、しかもヒケもあり、クーリングファンなどバリ取りしている最中に割れてしまった。

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このキットの白眉、いや唯一ともいえるアピールポイントは、シースルーのボンネット内に収まるAフォードエンジンです。見えなくなってしまうオイルパン形状などかなり“はしょった”部分も見受けられますが、まぁコストパフォーマンスから考えれば充分です。ところがこのエンジンにも思わぬ落とし穴がありました。
▲半分組んだエンジンブロック。載せようとしているのは最初の箱には入っていなかったデストリビューター。

インテークマニホールドやらエアクリーナーやら、パーツはがさがさ入っているものの、なにせ組立説明書がないわけですから、いったいどこにどう付くものやら…。幸いAフォードはブラスでスクラッチしたこともあり、少なくとも私は間違えることなく組めましたが、せめて完成図だけでも入れておいてくれればと改めて思わずにいられません。

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ちなみに、エンジンブロックを組んで補機類を取り付けたものの、デストリビューターが見当たりません。シリンダーヘッドにそれらしき穴だけ開いているのですが、どこを探してもパーツはなし。どうせボンネットカバーで見えなくなってしまうので省略したのだろうと思っていたのですが、岡山君が持ってきた方の箱を開けてみると、何とちゃんと入っているではないですか! いやはや、前途多難を思わせるキットメーキングです。
▲組み上がった主台枠にエンジンブロックとキャブ前妻を載せてみた。エキゾーストパイプは同梱されていたレジン製のものがまったく使い物にならず真鍮パイプで新製。

家一郷森林軌道は今…。

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クリックひとつでリアルタイムな情報が得られる現代とは違い、昭和40年代後半はまだまだ実際に現地に行ってみないと黒白がつけられないことばかりでした。森林鉄道についてもまさにその例に漏れず、“木曽森”以外にもきっとどこかの山中で生き延びている森林鉄道があるはずと信じて全国行脚した面々も少なくありませんでした。実はそのひとりが誰あろう弊社社長・笹本で、託されたネガ・ケースを紐解いてみると、木曽はもとより、秩父やら遠山川やら、よくこの時代にここまで行ったな…と呆れるばかりの貴重な映像がいくつも残されています。
▲とても森林軌道・2級線とは思えない堂々とした第一家一郷橋の全景。'04.10.23

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九州島内に最後に残された森林鉄道=加江田森林鉄道(正確には宮崎営林署家一郷森林軌道)のことを知ったのは、その笹本らが『鉄道ファン』誌上に3回に分けて連載した「残された森林鉄道を求めて」の第2回目(1973年8月号/No.148)でした。まだ“木曽森”がバリバリ現役の時代、それどころか南九州は最後の定期蒸機急行1211レ「日南3号」がまさに誕生しようとする輝ける時代です。そんな中でのほとんど成算のない森林鉄道探しの旅は、逆に新鮮なときめきとなって記憶に刻まれました。言うなれば“トワイライトゾ?ン”の原点のような一編だったのです。
▲上流側から見た第一家一郷橋。橋梁上はきちんと整備された遊歩道となっている。'04.10.23

九州の森林鉄道と聞いても何か実感が湧きませんが、熊延鉄道の甲佐から路線を伸ばしていた内大臣森林鉄道をはじめ、熊本、鹿児島両県には数多くの森林鉄道・森林軌道が路線を巡らせていました。いずれも廃止が昭和30年代と比較的早かったこともあって、今もって趣味的にはあまり顧みられることがないのが実情です。そんな九州島内の森林鉄道で最後まで残ったのが、日南線木花駅から西に10キロほど入った加江田川支流を分け入る家一郷(かいちご)森林軌道でした。

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「残された森林鉄道を求めて」から30年以上、いったい家一郷森林軌道はどうなっているのか、機会があれば一度訪ねてみたいと思っていましたが、おととし秋、都城市美術館で行なわれた写真展「永遠の蒸気機関車・くろがねの勇者たち」の対談に参加する直前に現地を訪問することができました。今や道路の整備が行き届き、加江田は宮崎空港からも都城市からも指呼の間なのです。
▲1969(昭和44)年発行の国土地理院5万分の1地形図「日向青島」に最後に記載されていた特殊軌道を示す線。(位置を示す注記は加筆)クリックするとポップアップします

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果たして、かつて軌道があったという加江田川支流沿いは「加江田渓谷」と名付けられた観光地と化していました。そういえば「残された森林鉄道を求めて」の記事でも、すでに運材は終わっているものの、ハイキングコースを造成するために軌道が運行されている…とありました。自らの軌道敷を遊歩道にするための最後の奉公が、家一郷森林軌道の終焉の姿だったのです。
▲起点の丸野駐車場から30分ほど入った「かに淵」と呼ばれる地点にはかろうじてレールが残されている。'04.10.23

かつての土場(どば=木材集積場)だった起点・丸野は加江田渓谷を散策する人々のための巨大な駐車場と化していました。それでも何か手がかりはと周囲を探したのですが、さすがに跡形もなく、ダメもとで駐車場管理室にいたご老人に伺ってみることにしました。ところがこれがラッキーなことに、この方、宮崎森林管理署(旧宮崎営林署)OBで、軌道が現役だった頃の状況も、現在どこにどんな遺構が残されているかも克明に知っておられたのです。おかげで限られた時間の中で極めて効率的に軌道跡を見て回ることができました。

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もちろん最深部まで分け入ったわけではありませんが、整備されたハイキングコースにはいくつかの軌道の痕跡を見ることができました。その中でも最大の遺構は“第一家一郷橋”と呼ばれるガーダー橋で、それは2級線とは思えないどころか、まるで地方鉄道の橋梁を思わせる立派なものです。果たしてこの橋をどんな列車が渡ったのか、吸い込まれるような渓流を見ながら、しばし思いを巡らしたのでした。
▲伺ったお話によれば、1947(昭和22)頃まで“犬牽き”だったという。戦後も犬で牽かせていたのは全国的にも珍しい。'04.10.23

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一ヶ月あまり後の3月18日ダイヤ改正で、東海道本線東京口から“湘南電車”が姿を消します。もちろん、ここでいう“湘南電車”とは、東海道近郊電車のことではなく、「黄かん色」と「緑2号」に塗り分けられた113系電車のことです。

JR東日本ではかねてより東海道近郊区間へのE231系投入を進めてきましたが、この3月のダイヤ改正で、最後に残った国府津車両センターの113系をすべて置き換え、東京口から鋼製車体に湘南色の塗装を纏った電車はすべて姿を消すこととなりました。しかも東京?静岡間を結ぶ直通普通列車は現行の13本から2本に減り、東京発の東海道近郊電車は大半が熱海での折り返し運用となってしまうのです。ロザ2輌を組み込んだ堂々たる15輌編成の“湘南電車”が、静岡や浜松を目指して下ってゆく…私たちが当たり前と思っていた「東海道本線」の光景は、今や過去のものになろうとしているのです。
▲いまさら思えば、相模湾を巡るなだらかな地形と温暖な気象条件も“湘南色”にベストマッチだった。'00.11.11

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昨日、午前中は神田近辺で仕事の打ち合わせがあり、帰社するのに通常は地下鉄を利用するところを、わざわざ山手線外回りで品川を回ってみることにしました。もちろん車窓から“湘南電車”を見られるかも知れないという邪心があってのことです。ところが事態はそれほど甘くはありませんでした。東京駅の東海道在来ホームに入っているのはすべて211系。有楽町付近と浜松町付近ですれ違った東海道上りはどれも231系…ちょっと悔しくもあり、ちょうどお昼時でもあったので品川で下車してみることにしました。ところが、しばらく見ていたのですが、やってくるのはステンレスの車体ばかり。いや、正直いってこれほどまでに“湘南電車”が激減してしまっていたとは思いませんでした。
▲もちろん3月改正後もJR東海管内の113系“湘南色”は残る。ただ、丹那以西で“湘南”と言われてもちょっと…。'04.11.28 金谷?菊川

思えば“スカ色”こと「青15号」と「クリーム1号」の塗り分けの113系が横須賀線からその姿を消したのは1999(平成11)年12月3日のこと。線名そのものを冠した“スカ色”が見られなくなってからの横須賀線は、途端にそのアイデンティティーまで失ってしまったように見えて仕方ありませんでした。くすんだ色彩ばかりだった戦後復興期に、鮮やかな塗り分けとともに80系が東京?沼津間に颯爽とデビューしたのは1950(昭和25)年3月1日。電車そのものが短距離の輸送手段としてしか認識されていなかった時代だっただけに、国鉄はこれを“湘南電車”(それまでの東京?沼津間の客車列車を部内では“湘南列車”と呼んでいたようです)と名づけてアピール、“湘南電車”は以後今日まで実に半世紀以上にもわたって親しまれてきたことになります。

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ところでこの“湘南電車”の塗色=通称“湘南色”は「沿線のミカンとその葉の色」、“スカ線”の塗色=通称“スカ色”は「沿線の海浜の白砂と青松の色」として決められたとする俗説が流布されていますが、星 晃さんによれば地上からの明視性を最重視して決められたというのが真相だそうです。ちなみに改めて国鉄の「車両塗色及び標記基準規程」(昭和61年3月26日付改正/総裁室文書課達示第7号)を見直してみると、「新形電車・近郊形・直流方式」の項目に“湘南色”の文字はおろか“東海道”の文字さえ見当たらず、「上記以外のもの」は「黄かん色+緑2号」に塗装せよという指示があるのみでした。
▲「車両塗色及び標記基準規程」。別表3(右)には“東海道”の文字すら見当たらない。クリックするとポップアップします

江ノ電の新しい顔。

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昨年9月に惜しまれつつ引退した300形304+354の代替として、江ノ電にこの春「500形」が登場することとなりました。500形と聞いて“えっ”と思われる方も少なくないでしょう。そうです、2003(平成15)年まで在籍していた500形と同じ形式名なのです。
▲この春登場する江ノ電の新しい顔「500形」のレンダリング。どことなく3年前に引退した旧500形の面影を残した温かみのあるデザインだ。(江ノ島電鉄提供)

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ヨーロピアンスタイルと称された丸みを帯びた旧500形は、1956(昭和31)?1957(昭和32)年に東洋工機と東急車輌で製造された2輌固定編成の連接車2編成。それまでボギー単車が主力だった江ノ電が初めて新造した連接車(一部は在来車機器流用)でした。前面に曲面ガラスを使用した丸っこいデザインは、その後ながらく自社発注の江ノ電の顔として、湘南の海をバックに走り続けてきました。腰越の併用軌道、鎌倉高校前の踏切、極楽寺のトンネル…伝統の江ノ電色を纏った500形は、そのヨーロッパ調のデザインとは裏腹に、なぜか古都鎌倉にしっくりと溶け込んでいました。
▲晩年の先代500形502。正面左右の窓は矩形のサッシによる平面ガラス化されていた。'00.3.25 極楽寺

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今回、江ノ電がプレス発表した新「500形」は、同社としては初のVVVFインバータ制御(回生ブレーキ装置付)を採用、正面デザインは先代500形のイメージを受け継ぎ、曲線を生かしたふくよかなものとなる予定だそうです。そして嬉しいことに、その塗色も緑とクリームの伝統的江ノ電カラーとなるとのこと。10形のいわゆるレトロ調はもとよりのこと、1000形、2000形のカラーリングも湘南の海にはちょっと…と思われていた向きも少なくないでしょうから、このオーセンティックな車体塗色は好評をもって受け入れられるに違いありません。
▲いざ併用軌道に躍り出ようとする501。いかにも江ノ電らしいこんなシーンに先代500形は良く似合った。'80.4.20

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立春も過ぎ、季節はいよいよ“江ノ電シーズン”到来。新「500形」がデビューした頃を見はからって、江ノ電散策に出られては如何でしょうか。今回はそんな一助となればと、40年前の秘蔵(?)の路線平面図をご覧に入れましょう。
▲1965(昭和40)年当時の江ノ電路線平面図。こうやって平面図で見てみると、まさに模型のレイアウト・プランのようなシチュエーションがぎっしり。クリックするとポップアップします

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オールド・アメリカンを代表する8100形や9200形に手の届かなかった世代の私にとって、唯一まみえることのできた現役ボールドウインといえば、“アメB”2500形の断末魔の姿でしかありませんでした。南美唄から雪解けでぬかるんだ築堤を這い上がってたどり着いたのは三井美唄鉱業所。満艦飾の空制装備に身を固めたもと2649は、プライミングをおこしているのか、煙突からタール状のシンダを雨のように撒き散らしながら、ガサガサと構内を走り回っていました。夢にまで見たボールドウイン…というにはあまりに無理があり、残念ながらその姿はどう見てもB6そのものでした。
▲“BALDWIN LOCOMOTIVES”の1926年7月号(右)と10月号(左)。A4版変形中綴じ64頁の体裁。

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今日ご覧に入れるのは80年前の1926年に発行されたボールドウインの広報誌“BALDWIN LOCOMOTIVES”です。かれこれ十年ほど前にアメリカのコンベンション会場に山のように出品されていたものの一部で、多少なりとも日本に縁のありそうな内容の号を見繕って買ってきたものです。寡聞にしてこの“BALDWIN LOCOMOTIVES”という本(?)がどういう位置づけのものなのかは存じませんが、表紙を開くと世界各地の支社やエージェント一覧などが掲載されており、タイトル下にある“Devoted to the Interests of Railway Transportation and Motive Power”というキャッチフレーズから察するに、恐らくボールドウインがエージェントを通してクライアントの鉄道事業者や技術者に頒布していた広報誌と思われます。
▲内容は技術解説あり、現地見聞録ありと多彩。しかもかなりグラフィックな構成となっている。

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はたしてどのようなサイクルで発行されていたものかは定かでありませんが、ここに掲載した2冊はともに1926年の7月と10月号ですから、ひょっとすると月刊ペースで発行されていたのかも知れません。だとすると驚くべき広報戦略で、さすが世界一の機関車メーカー、しかも累計生産台数が6万輌に届こうという、もっとも脂ののった時期だからこそなし得た、いかにもアメリカ的物量作戦です。
▲中国雲南省の昆明に納入された2フィートゲージのEテンダー機も現地のレポートとともに紹介されている。1926年製の本機は1990年代まで現役を通し、日本人ファンにとっても知られた存在であった。

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1832(天保3)年に最初の機関車を完成させてからのボールドウインは、西部開拓史とシンクロするがごとく、破竹の快進撃でアメリカ中を席捲し、続いて世界の機関車市場を手中に収めてゆきます。明治元年、つまり1868年にはすでに累計生産台数2000輌を突破、ほどなく年間生産能力500輌以上となり、アメリカ国内の機関車シェアの30?40%を占めるまでになります。ひとことで言えば米国の機関車は「ボールドウインかそれ以外か」に二分される状況だったのです。
▲裏表紙の“BLW"(BALDWIN LOCOMOTIVE WORKS)のロゴ。

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これに抗するためにスケネクタディが中心となって興したのがアルコ(ALCO)の通称で知られるアメリカン・ロコモティブ・カンパニーです。今風に言えばM&Aを繰り返し、ブルックス、ピッツバーグ、ディックソン、クック…といった中堅どころを次々と取り込み、アルコは次第にボールドウインの強力な対抗馬となってゆきます。まさに王者・フォードに対抗してGMの旗の下に数多の自動車メーカーが結集したのと同様の図式です。
▲世界の支社・代理店一覧には当然ながら日本のエージェントも…。

ただ、時代を先読みする力は後発のアルコの方が数段上だったようで、アルコは、この広報誌“BALDWIN LOCOMOTIVES”が発行されたわずか2年後の1928(昭和3)年には蒸気機関車の製造をスケネクタディ工場一箇所に集約し、内燃機関車へと転換します。一方の王者・ボールドウインは、1931(昭和6)年と翌1932(昭和7)年にホイットコムとミルウォーキーという中堅内燃機関車メーカーを傘下に収めるものの、基本的には蒸気機関車路線に固執し、結局、本格的業態転換を遂げられずに凋落してゆきます。1946(昭和21)年にはウエスチングハウス傘下に入り、さらに1950(昭和25)年にはシェイ式ギャードロコで知られるリマ(LIMA)と合併。リマはすでにこの3年前に立ちゆかなくなってディーゼル・エンジン製造のハミルトン社に併合されていたため、ボールドウインもこの時点でボールドウイン・リマ・ハミルトン・コーポレーションと名称を変えてハミルトングループとなってしまいます。

手もとの“AMERICAN LOCOMOTIVE BUILDERS in the STEAM ERA”(蒸機時代の米国機関車メーカー/1982年刊)によれば、累計70,500あまりを送り出したボールドウインの最後の機関車は、1956(昭和31)年にラインアウトした小さな産業用ディーゼル・スイッチャーだったといいます。

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▲世界各地のプランテーション・ロコを紹介する項にはあの“木曽森”B1リアタンク機の姉妹機の姿も。写真上は日本人ファンにも馴染み深かったフィリピンはネグロス島ハワイアン製糖工場のCタンク機たち。中段はオーストラリアのB1リアタンク機、下段はハワイの製糖工場で働く1896年製ボークレイン複式機。クリックするとポップアップします。

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かねてから存廃が取り沙汰されてきた第三セクターの三木鉄道がついに廃止されることになりそうです。株式の51.6%を持つ三木市の藪本市長が廃止・バス転換の方針を表明したもので、大口出資者の兵庫県(14.3%)や加古川市(5%)、さらには市民の意見を聞いたうえで今年度中にも廃止を決定するとのことです。

三木鉄道は旧国鉄三木線で、加古川線から分岐する3つの支線(ほかに北条線・鍛冶屋線)のひとつでした。さらにそのルーツを遡れば、播州鉄道が1916(大正5)年から1917(大正6)年にかけて開業した線区で、厄神?別所間はこの秋で開業90周年を迎える由緒ある路線です。国鉄時代末期の1985(昭和60)年4月1日にお隣の北条鉄道とともに第三セクターとして再スタートを切っています(鍛冶屋線は1990年3月に廃線)。しかし三木鉄道は厄神?三木間6.6kmと極端に路線が短く、三木市から神戸市内への旅客のほとんどが神戸電鉄粟生線へと流れてしまうため、開業当初から苦しい経営を強いられていました。

ここにきて廃止方針が急に固まった背景には、先月の市長選で「三木鉄道廃止」を公約のひとつに掲げた藪本市長が当選したことが大きいようです。加古前市長は、まさに昨日付けの本欄でご紹介したDMVを導入して三木鉄道三木駅と神戸電鉄三木駅を結ぶ構想を検討していたと伝えられ、三木鉄道を巡る環境は選挙によって一変してしまったことになります。
▲DMV化の望みも潰いえ、ついに廃止となる三木鉄道。(『データブック 日本の私鉄』より)

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そんなニュースを打ち込んでいる最中に、またひとつ残念なニュースが飛び込んできました。今年で開館10年目を迎えるはずだった「小樽交通記念館」が休館するというのです。昨年秋に小樽で行なわれた日本鉄道保存協会総会で伺い、このブログでもご紹介したばかりなだけに、まさに寝耳に水、残念な限りです。本日付けの『北海道新聞』によれば、開館以来赤字が続いており、昨年の有料入館者数は過去最少の4万9千人。51%を小樽市が出資する運営会社は、今月末に臨時株主総会を開いて3月末には会社を解散する方針だそうです。ただ、小樽市としてはこのまま記念館自体を廃止してしまうのではなく、市博物館、市青少年科学技術館と統合する構想を描いているようで、2007年春のリニューアルオープンを目指していると伝えられます。
それにしても、ようやく公開が始まったばかりのマニ30をはじめ、数多の歴史的保存車輌の行く末が案じられてなりません。
▲小樽交通記念館の展示用屋内転車台に乗った7106「しずか」。例年今の時期は冬期休館だが、春が訪れても今年は開館することはない。'05.10.8

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3年ほど前からJR北海道が開発してきたデュアル・モード・ビークル(DMV)が、いよいよ今年度から営業運転に入る…と毎日新聞が報じています。本誌1月号(No.268)でJR北海道の全面的な協力のもと、椎橋俊之さんと広田尚敬さんによる試乗ルポ「新時代を拓くか…北海道が生んだDMVのポテンシャル」を掲載しておりますので、すでに充分ご存知のことと思いますが、DMVは従来のレールバスとはまったく逆の発想で開発された、いわば“軌陸車”です。
▲緋牛内に到着したDMV911+DMV912。駆動軸に対して前輪ゴムタイヤがかなり浮いているのがわかる。'05.10.14 P:広田尚敬(RM268号より)

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市販のバスをベースにすることでコストを抑え、バス部品を利用した鉄道車輌ではなく、バスそのものが軌道上も走るという発想はまさにコロンブスの卵。第一試作車のDMV901で好感触を得たJR北海道は、次いで第二試作車U?DMV(DMV911+DMV912)を開発、北見?(鉄道)?西女満別?(道路)?女満別空港のルートで走行試験を繰り返してきました。積雪期の安定走行などの課題もクリアし、充分実用レベルに達したと判断しての営業運転投入なのでしょう。

しかし、営業運転に漕ぎつけるまでには大きな障壁が立ちはだかっていました。それは法整備の問題です。DMVは自動車なのか鉄道車輌なのか…。もし鉄道車輌であるとすれば、不燃化対策など現行の「普通鉄道構造規則」に則る必要に迫られ、当然のことながら抜本的な構造・仕様変更を迫られます。ただ、それでは新規の鉄道車輌を開発するのと変わらぬこととなり、メリットが相殺されてしまいます。今回、自動車と鉄道車輌の中間に位置する新たな法整備に国土交通省が乗り出した背景には、JR北海道の情熱に賛同して名乗りを挙げた多くの自治体・鉄道事業者の応援があったからにほかなりません。
▲レールに載せる際にはこのリレーラーを使う。'05.10.14  北見 P:広田尚敬(RM268号より)

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JR北海道ではまず日高本線での営業運転を検討していますが、ラベンダーで有名な富良野地区などでもそのポテンシャルが大いに発揮できると期待されています。何輌(何台?)かが連結状態で軌道上を走行し、到着駅で1輌(1台?)ずつに分割、それぞれが別の目的地に向かうという画期的な運用が出来るのもこのDMVならではです。すでに各地の第三セクター鉄道などからも引き合いがきており、静岡県富士市は東海道新幹線新富士駅と東海道本線富士駅を路上で結び、岳南鉄道を加えて環状線化する構想を描いているそうで、すでに市長も試乗済みとのこと。このほかにも千葉県が小湊鐵道といすみ鉄道を結ぶシステムとして、岐阜市は昨年廃止となった名鉄岐阜市内線等の線路を利用してDMVを導入できないかと検討していると報じられています。
▲道路上を快走するDMV911。遠からずこの姿が“営業列車”として見られるようになるはず。'05.10.14 P:広田尚敬

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ところで、脚光を浴びるDMVのニュースを聞くと反射的に思い出すのが、はるか44年も前に国鉄が開発しながら、うたかたの夢と消えた「043形」アンヒビアン・バスのことです。アンヒビアン(amphibian)とは英語で両生類のこと。国鉄自動車局は当時西ドイツで実用化されていたアンヒビアン・バスを地方閑散線の切り札として投入することを計画、三菱ふそう製R?480形シャーシを用いて試作車「043形」を完成させたのです。計画にあたっては、バス本体に軌道走行用の台車を内蔵させる方式と、別途用意された台車にバス本体を載せる方式とが検討されましたが、前者の方式では改造内容が複雑になるうえに製作コストもかさみ、かつ道路上を走行する際には車重の半分にも相当する死重を背負わねばならないデメリットもあって、結局、アッセンブリで用意された台車を着脱させる方式が採用されることになったといいます。DMVのようにゴムタイヤのアドヒージョンで走行させようという発想にまで至らなかったのが、なんとも不運でした。結局この「043形」は軌道に載るために専用ジャッキを必要とし、しかも補助変速機からのプロペラシャフトやらブレーキラインやらをいちいち接続せねばならないはめとなってしまいました。アンヒビアン=両生類とは名ばかり、類を変えるに“外科手術”を必要とする「043形」は、いつしか歴史の狭間へと消えていってしまったのです。
▲はるか44年前にうたかたの夢の如く消えた国鉄のアンヒビアン・バス「043形」。写真は1962(昭和37)年6月に晴海で行われた鉄道90年展に出品された様子を故・豊永泰太郎さんが記録していたもの。(本誌1989年6月号=No.67より)

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「ジャパンレールパス」をご存知ですか? 知っているとおっしゃる方も、現物をご覧になったことはほとんどないはずです。

“Japan Rail Pass”はJRグループが観光目的で来日する外国人向けに発売している特別企画乗車券で、残念ながら私たち日本に在住する日本人が購入することはできません。ヨーロッパを鉄道旅行された方なら、“Eurail Pass”(ユーレイルパス)を買って乗り降り自由な旅を楽しまれたことがあるかも知れませんが、「ジャパンレールパス」はその日本版とも言うべきもので、JR6社全線が自由に乗り降りできるものです。

値段も極めてリーズナブルで、グリーン車用が7日間で37,800円、14日間で61,200円、21日間で79,600円、普通車用が7日間で28,300円、14日間で45,100円、21日間で57,700円となっています。この料金でJR全線、JRバス各社、JRハイウェイバス各線、JRフェリーが乗り放題なのですから羨ましい限りです。ただし、なぜか東海道・山陽新幹線の「のぞみ」は指定はもとより自由席も利用できないとされています。まだ「ひかり」が主で「のぞみ」の本数が少なかった時代からのレギュレーションがそのままになっているのでしょうが、現在の東海道・山陽新幹線の列車設定を考えるとこれではあまりに使い勝手が悪く、せっかく京都見物を楽しみに来日された観光客などの出足を挫くことにもなりかねません。

ところでこの「ジャパンレールパス」の利用資格ですが、“外国から「短期滞在」の入国資格により観光目的で日本を訪れる外国人旅行者”もしくは“日本国籍をもって外国に居住している人で、その国の永住権を持っている場合、または、日本国外に居住する外国人と結婚している場合”に限られています。数年前まで“その国に10年以上居住している場合”も利用資格ありとされていましたが、現在では10年以上居住しているだけでは利用資格は得られません。

出入国管理が厳格なわが国だけに、実際の販売方法も単純ではありません。事前に航空会社、旅行代理店もしくは郵送申込で「引換証」を購入し、これを携えて来日、成田空港の外国人旅行センターなどの指定交換所で「ジャパンレールパス」に引き換えるわけですが、この際、入国審査官によりパスポートに「短期滞在」のスタンプが捺されていることが絶対条件となります。日本の入国管理法における「短期滞在」の概念は、一般的な意味での短期間の滞在とは厳密に異なり、「研修」「興行」「再入国」等の資格で入国した場合は、たとえ引換証を持参していようとも「ジャパンレールパス」を受け取ることはできないのです。

もちろん利用期間中もパスポートは必携で、その面でも私たち日本人には縁のない“外国旅行”のための切符なわけです。
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▲これが“Japan Rail Pass”。大きさはB7判の二つ折り。葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」をあしらった表紙はホログラム処理されている。(一部画像処理しています)

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いよいよ架け替え計画が本格始動する「余部橋梁」の記念事業が、昨日、JR西日本福知山支社と地元・香美町から公式発表となりました。「さようなら!ありがとう!そして後世へ…」とテーマを掲げた記念事業は、記念列車「あまるべロマン号」の運転と「余部橋梁写真コンテスト」の2本立て。架け替えについてはここしばらく公式発表が途絶えていただけに、今回の地元自治体との共同名での発表は、まだまだ先と思っていた架け替えが現実のものとなる実感として迫ってきます。

記念列車「あまるべロマン号」は、ゴールデンウィークの5月3日(祝)から7日(日)の各日、豊岡?浜坂、香住?浜坂間をそれぞれ1往復します。使用車輌はキハ65系4連の“エーデル鳥取”。地元・余部小学校の子供たち手作りのヘッドマークを掲げての運行となるそうです。また、「余部橋梁写真コンテスト」の方は5月末日までの応募期間で、撮影年代を問わず応募できるそうですから、思わぬお宝写真の発見も期待されます。詳しくは昨日付けの下記プレスリリース(ダウンロード・ファイル)をクリックしてご覧ください。
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▲実際に目の当たりにするとその巨大さに言葉を失う。94年前に船で運ばれてきて人力で構築されたというのだから感動的だ。'04.8.7

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新橋梁そのものについてのリリースはまだ出ていませんが、現在の橋梁より山側にコンクリート製の新橋梁を構築する計画のようです。年内にも工事が始まり、完成は2010年。あと4年余りで、現在の高さ41mのトレッスル式鋼脚高架橋はお役ご免となってしまうわけです。現橋梁の完成が1912(明治45)年ですから、100年にわずかに届かずの勇退です。
▲餘部駅は1959(昭和34)年に地元の悲願として開設された。建設にあたっては地元の小学生も石を運びあげる手伝いをしたと伝えられている。'04.8.7

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気になるのは新橋梁完成後の現橋梁の処遇です。近代化遺産としても貴重ではありますが、いかんせん余りに巨大で、かつ老朽化も懸念されています。香住町・村岡町・美方町が合併して昨春誕生した香美町役場に伺ったところでは、やはり解体やむなしとのお話でした。
▲今、余部橋梁というとペアで連想されるのが3月18日ダイヤ改正で廃止されてしまう特急「出雲」。「出雲」の廃止によって、開通以来94年間絶えることのなかった“機関車牽引列車”は余部橋梁を渡らなくなる。'04.8.7 岩美

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鉄道模型のエキジビションといえば夏から秋が定番でしたが、冬こそインドアの鉄道模型の良さをと昨年から始まったのが「ヨコハマ鉄道模型フェスタ」です。その名のとおり開催地は横浜、しかもあのランドマークタワー! 昨年の第一回では、果たしてどれほどのお客さんが足を運んでくれるものか、主催者の皆さんにも多少の不安があったそうですが、オープンしてみると入場制限がかかるほどの賑わいで大成功。もちろん今年も初日の今日午前中から会場内はただならぬ熱気に包まれていました。

場所柄かファミリーでの入場者が多いのも特筆され、エントランスには子供用バギー置き場まで設置されています。まさに新しい時代の鉄道模型エキジビションと称せましょう。
▲トミックスのパノラマレイアウトではご自慢の「TCS車載カメラシステム」が迫力の画像を運転台モニターに映し出す。右は「汽車道」から望むランドマークタワー。手前のトラスに付けられた銘板にご注目。'06.2.3

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この「ヨコハマ鉄道模型フェスタ」、面白いのは、模型メーカーのみならず電鉄系の出展ブースが非常に多いことでしょう。今年も地元の横浜高速鉄道をはじめ、相模鉄道、小田急電鉄、江ノ島電鉄、京急ステーションコマースなどが出店、車輌メーカーもお馴染みの日車夢工房や東急車輌・電車市場などがブースを構え、各社オリジナルの模型やグッズに熱い視線が注がれていました。

中央ホールでは模型メーカー各社によるパノラマレイアウトの運転が行われていますが、そこは時代の最先端をゆくランドマーク、ご自慢の大スクリーンを利用した迫力あるビジュアル映像が入場者の目を釘付けにしています。入場無料も奏功しているのかも知れませんが、こういった形で趣味のジャンルとしての鉄道模型の認知度が上がってゆくのは、私たちインナーグループにとっても願ってもないことです。
▲場所柄ファミリーでの来場が多いのも特徴。カトーのパノラマレイアウトも大人気。

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天気予報によると明日、明後日の横浜地方は、気温こそ低いもののまたとない好天が予想され、会場のランドマークプラザ5階のランドマークホールはまたまた熱気に包まれそうです。折しも目と鼻の先の横浜中華街は春節(旧正月)明け。中華街散策を兼ねてご家族で繰り出してみては如何でしょうか。詳しくは下記ホームページでご確認ください。
ヨコハマ鉄道模型フェスタ2006ホームページ
▲天賞堂は間もなく発売となるプラ製16番のEF15、EF16をお披露目。EF15が3タイプ、EF16が2タイプ順次発売となる。

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▲親子連れが不思議そうにのぞきこんでいたカツミのハンダ付け実演。右は10000形Bトレインが飛ぶような売れ行きの小田急電鉄ブース。

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蛇足ながらついでにご紹介するのが、ランドマークタワーと目と鼻の先にある「汽車道」と名づけられた遊歩道です。桜木町駅前の日本丸メモリアルパーク横から新港地区のワールドポーターズを結ぶこのプロムナードは、かつて東横浜貨物駅(ランドマークタワー付近)から横浜港貨物駅、さらにその先の山下埠頭貨物駅を結んでいた貨物線(正確には東海道本線の貨物支線)の軌道跡で、現在でも3箇所の鉄道橋が綺麗に整備されて遊歩道としての使命を担っています。しかも嬉しいことに、擬似的ではあるものの線路も敷設されており、往時の臨港貨物線を偲ぶことができます。

この「汽車道」に残された橋梁、桜木町側から「港第1橋梁」「港第2橋梁」「港第3橋梁」の順となっており、第1、第2が1907(明治40)年アメリカン・ブリッジ社製の100フィート・トラス橋、第3はもとの夕張川橋梁を生糸検査場専用線の大岡川橋梁として移設したポニーワーレントラス橋です。
▲遊歩道とはいえ、「汽車道」にはちゃんとレールも敷設されている。写真は「港第1橋梁」。'06.2.3

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アメリカン・ブリッジ社といえば昨今話題のあの「余部橋梁」と同じメーカーで、そう思って改めて見直すと、なお一層感慨深いものがあります。ちなみに、C57 180が走る磐越西線阿賀野川釜ノ脇橋梁(荻野?尾登間・1911年製)や東武鉄道佐野線の渡良瀬川橋梁(田島?渡良瀬間・1914年製)なども同じアメリカン・ブリッジ製です。

その中でも横浜の2連は年代的に最も古く、近代化遺産として第一級のものといえます。「ヨコハマ鉄道模型フェスタ」に足を運んだ際は、会場から徒歩5分の距離にあるこの歴史的橋梁群、是非とも見ておいて損はない逸品です。
▲「港第2橋梁」のアメリカン・ブリッジ社製造銘板。1907(明治40)年製。かの余部橋梁よりも2年ほど先輩である。'06.2.3

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さる1月17日の本欄で、「交通博物館さようならキャンペーン」のひとつとして行なわれている旧万世橋駅遺構特別公開についてお伝えしましたが、同キャンペーンの中で一度見ておきたいと思いつつも目にする機会のなかった「閉館記念ライトアップ」をようやく見学することができました。
▲「さようなら、長い間、ありがとうございました。」の文字に万世橋上を行く人々の足が止まる。このライトアップが灯るのもあと3ヶ月余り。'06.2.2

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“交通博物館から最後の贈りもの”と題されたこのライトアップは、博物館の神田川沿いのレンガ擁壁をライトアップするもので、昨年12月16日から行なわれています。万世橋の歩道上から眺めると、レンガが造り出した幾何学模様が温もりあるライトに照らし出され、それが神田川の水面に映って実に幻想的な光景となっています。橋梁上を行く総武緩行線、彼方に見える御茶ノ水・昌平橋、そして当たり前のように存在してきた交通博物館…神田川を渡ってくる身を切る冷たさの川風が春本番を感じさせる頃、この光景は永遠に見られなくなってしまいます。
▲万世橋にも雰囲気溢れる明かりが灯る。右は博物館。'06.2.2

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かつて東京駅北側高架下にあった鉄道博物館が万世橋駅に併設される形でこの地に移ってきたのが1936(昭和11)年4月。ちょうどこの春で70年目を迎えることになります。初代万世橋駅は関東大震災で焼失してしまいましたが、二代目万世橋駅に併設された鉄道博物館は戦災を免れ、今日でも随所に開設当時の面影を残しています。ちなみにC57135と並んで展示されているマレー機・9850形9856の4位側エンドビームには、第二次大戦中に焼夷弾の直撃を受けた大きな凹みがあります。幸いにもこの焼夷弾が不発だったため、今日私たちが目にする多くの展示品や資料が生き残ったのです。
▲木彫の正面玄関看板(左)と、ル・コルビュジェに影響を受けたとされる螺旋階段室(右)。'06.2.2

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「交通博物館さようならキャンペーン」の閉館記念ライトアップは最終日の5月14日(日曜日)まで毎日17時頃から21時頃まで行なわれています。博物館の開館時間は17時まで。ということは、最後の5月14日は、このライトアップの灯が消えるその瞬間こそ、交通博物館が本当に最後の時を迎えるわけです。
▲「肉の万世」7階から見た交通博物館全景。中央快速線線間に旧万世橋駅ホームが見える。眼下を通過するのは5004M「かいじ104号」。'06.2.2(撮影協力:株式会社万世)

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しばらく鳴りをひそめていた“金属カメラ病”が再発したのは、昨年の12月はじめのある日のことでした。深夜、寝る前にちょっとチェックだけと思ってヨーロッパのある中古カメラ通販サイトを開いてみると、なにやら異様に安い「ローライフレックスT」が出品されているのに気づきました。しかもグレーボディーの初期型。露出計こそ付いていないものの、ウェッブ上の画像で見る限り程度はそれほど悪くなく、レンズは極めて綺麗だと注記もあります。さっそくリアルタイムなユーロの為替レートをチェック、ごそごそと電卓を出してきて即決! 買い物カゴをクリックしたのでした。
▲「ベビーローライ」ことベスト判のローライフレックス4×4(右)と並んだわが“最新鋭”機ローライフレックスT。手前に並べたのはずいぶん前にアメリカから個人輸入した1960年代のオークシィリアリー・レンズたち。奥のグレーのものがサン光学製4×4用、手前が6×6(バヨネット1)用のそれぞれ広角・望遠用。

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実はこの同じウェッブ・ショップで痛い“買い逃し”をしてしまった経験があります。かねてより探していた機種の、しかも考えうるありとあらゆる付属品がコンプリートされたミント品が、これまた何かの間違いでは?と思うリーズナブルなプライスで出品されていたのです。これは是非とも明日にでもオーダーを掛けようとパソコンを閉じてしまったのが運の尽き、翌朝には見事に売約済み。それだけに今回はこの轍を踏むまいと即決作戦に出たわけです。

ところが、オーダーはしたものの、肝心のブツがなかなか到着しません。メールで問い合わせてみるとクリスマスシーズンで郵便がえらく込み合っているとのこと。幸い先方の発送日時がわかったのでまずはひと安心。結局エアーにも関わらず2週間近くもかかって品物が到着したのは12月中旬のことでした。果たして梱包の中から出てきたのは、想像していたよりはるかに綺麗な「ローライフレックスT」。試写結果が出るのが待ち遠しいコンディションでした。
▲ローライTLR(Twin Lens Reflex =二眼レフ)用ツアイスレンズのレンズ構成。4枚玉のテッサーはシュナイダーだとクセナーとなる。最下段、トリプレット(3群3枚)タイプのトリオターも逆光と周辺光量にウィークポイントはあるものの、侮れないクリアな描写をする。(“Rollei TLR User's Manual”より)

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いまさら語るまでもなく、“ローライフレックス”は二眼レフの頂点に君臨するフランケ&ハイデッケ社の上位機種シリーズ名です。これに対して普及版は“ローライコード”を名乗っています。今回の「ローライフレックスT」はフレックスを名乗りながらもオートマット機能などを簡略化した、言うなればフレックスとコードの中間に位置する汎用機で、それゆえに撮影レンズも高価なプラナーやクセノタールなどではなく、基本中の基本であるテッサーを用いています。ただここがミソで、人物撮影や風景撮影ならいざ知らず、鉄道撮影に関してはプラナーよりもテッサー、というのが私の持論です。ハッセルの標準に代表されるプラナーは非常に豊潤な描写をするものの、ルーペで仔細に見比べてみると、どうも鉄道車輌のような機械モノにはテッサーの冷徹な描写が相応しい気がしてなりません。
▲ローライ二眼レフのバイブル“Rollei TLR User's Manual”(HOVE FOTO BOOKS)。

わが手もとにやってきた「ローライフレックスT」は製造番号からするに1959(昭和34)年製。中級機とはいうものの、誕生当時の日本では高嶺の花であったことは確かです。もちろん、時代はドイツ精密機械工業の黄金期。製造後半世紀近くを経ているとはとても思えない操作感は流石です。“ローライ”はその後日本製カメラに市場を押さえられて自立不可能となり、1995年、韓国三星(サムソン)電気の100%出資会社となってしまいます。

昨日の富士写真フイルムの人員削減発表に象徴されるように、ここにきて京セラやブロニカ、コニカミノルタなどがカメラ市場から撤退、さらには老舗ニコンが銀塩カメラ部門の大幅縮小を発表するなど、写真業界では暗い話題が続いています。今後、新しい二眼レフが市場に登場することなどありえるはずもありませんが、とびっきりの拾い物だったローライフレックスTの左右逆像のファインダースクリーンを覗いていると、その虚像こそが“実像”に思え、デジカメの液晶画面がいかにも“虚像”に思えてくるのは、あながち馬齢を重ねたせいだけでもないでしょう。
▲手元に来て初めて撮ったのがこのショット。ブローニー・フィルムを使う“クラカメ”で一番心配なのがフィルムの平面性だが、12コマともに顕著な“浮き”は見られず一安心。72dpiのウェッブ画像では検証できないだろうが、オーセンティックなテッサーは、いささか冷徹な描写ながら実によく写る。'05.12.17 上信電鉄佐野(信)?根小屋クリックするとポップアップします

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