鉄道ホビダス

2006年1月アーカイブ

均一周遊券の時代。(下)

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この均一周遊券の楽しみのひとつが、色鮮やかなカラー刷りの表紙でした。周遊地域を象徴する民芸品をあしらった12種類12色の表紙と裏表紙の地図は、まだ見ぬ旅先への想いをかき立ててくれ、来るべき幾日間への期待を育んでくれる何ものにも代えがたいものでした。学割証明書を添えて出札窓口で周遊券を購入すると、A券B券を重ね合わせ、やおら引き出しからこの表紙を取り出してくるんだのち、パチンとホチキスで留めてくれる…あの一瞬こそが、「いよいよだな!」という高揚を感じさせる至福の瞬間でした。

ところが、1970年代中盤頃からこの表紙が省略されることが多くなってしまいました。ことに国鉄窓口では表紙を付けてくれないことが多く、仲間は表紙欲しさに、“マルコー”こと日本交通公社や、“近ツリ”こと近畿日本ツーリストの旅行代理店窓口に買いに走ったものです。しかしながら、旅行代理店窓口で購入すると、絵柄こそ同じものの、表紙下には「日本国有鉄道」の文字ではなく、その取り扱い旅行代理店名が入ってしまい、これが何とも残念でした。それだけに、ここに掲げたような「日本国有鉄道」名の表紙は私たちにとっていつも垂涎の的だったのです。
▲12種類の均一周遊券の残りの南半分。「南近畿周遊券」は同デザインで「南近周遊券」と表記されたものもあった。「四国周遊券」は往路か復路に関西汽船の大阪(神戸)?小豆島?高松航路を利用することも可能。

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ところで、この均一周遊券の周遊エリアと出発地の関係について考えてみたことがあるでしょうか。言い代えれば周遊エリアに最も近い出発地はどこか…という問題です。北海道周遊券を北海道内で購入する、つまり北海道内を出発地とすることはもちろんできませんが、青森では購入することができます。同様に九州周遊券の場合は三原が西限。岩国では購入することはできません。当然といえば当然ですが、このことに気づいた時、ある面白い計画を思いつきました。
▲1972(昭和47)年夏の九州均一周遊券B券。闘いの跡。

その計画とは東京発の周遊券で出発し、その周遊エリアを直近出発地とする別の周遊券を買い足すというプランです。当然、周遊エリアに最も近い出発地での発売価格は一番安いはず。つまり2枚の周遊券を持ってふたつの周遊エリアを回ろうというわけです。ただし、この計画には大きな難点があります。東京発の周遊券の有効期限内に戻ってこなければならないのです。コストパフォーマンスから考えると一体良いのか悪いのか…。

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いろいろと下調べしていた甲斐あって、ついにこの計画を実行できる日がやってきました。時に1980(昭和55)年9月。北陸方面の撮影行の後、広島へ行かねばならぬ用件があり、ならばついでに山陰も回ってしまおうと「北陸均一周遊券」+「山陰均一周遊券」のダブル周遊券作戦を企てたのです。ちなみに北陸周遊券で移動できる範囲内での山陰周遊券発売駅の西限は福井。東京で北陸周遊券を買い、信越本線経由で周遊エリアに入り、ひとわたり撮影した後、福井で山陰周遊券を購入、山陰本線経由で山陰の周遊エリアを回り、今度は往復行路として認められている山陽本線で広島へ。広島で途中下車して撮影した後、米原で福井発山陰周遊券の復路を途中放棄して東京発北陸周遊券の復路に入って東海道を一路東京へ…という寸法です。当然、全行程を東京発の北陸周遊券の有効期限の10日(福井発の山陰周遊券の有効期限は14日)内に終えねばならないものの、学割7120円(北陸)+9760円(山陰)=合計16880円也で、往復の行路を含めると、東海道・山陽の全区間、日本海縦貫の宮内・柏崎以西下関までが行動範囲となるわけですからこれは画期的でした。
▲東京発北陸周遊券B券と福井発山陰周遊券A券。復路では東海道を上り、富士の「富士運送」に寄っているため「ふじ」の下車印がある。

ご多分にもれず、社会人となると「均一周遊券」などという悠長なものを使って旅をすることなど不可能となり、いつしかあれほどお世話になった周遊券のことを思い出すこともなくなってしまいました。JR化後もしぶとく生き残っていた均一周遊券がついに廃止となったのは1998(平成10)年のことだったと聞きます。

均一周遊券の時代。(上)

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1960?1970年代、まさに「国鉄時代」ど真ん中を旅してきた者にとって、撮影行といえばまず「周遊券」でした。10月1日から翌年5月31日まで2割引となる「北海道周遊券」をはじめ、いったいどれほど多くの周遊券のお世話になったことでしょう。
▲手もとにあった「日本国有鉄道」名の均一周遊券12種類の表紙の北半分(未使用)。コロボックルやら赤べこやら、郷土民芸品の表紙がまだ見ぬ土地への旅情をかき立ててくれた。

私たちが「周遊券」と通称してきたこの乗車券、正確には「周遊割引乗車券発売規則第3条」に基づく「一般用均一周遊乗車券」というのだそうで、辻阪昭浩さんの労作『国鉄乗車券類歴史事典』(1980年刊)によれば、戦前「遊覧券」の名称で親しまれていた周遊割引制度を1955(昭和30)年に復活、同年7月1日に「北海道周遊券」(一年後に「北海道均一周遊券」)を発売したのが最初だそうです。以後、1957(昭和32)年10月1日に「九州均一周遊券」、1958(昭和33)年5月1日に「四国均一周遊券」、1959(昭和34)年6月1日から「東北均一周遊券」、1961(昭和36)年2月1日から「山陰均一周遊券」、1970(昭和45)年に「信州均一周遊券」、そして1972(昭和47)年10月に「北近畿均一周遊券」が発売されるにいたって全12種類のラインナップが出揃いました。さらに北海道および九州については往路か復路に航空機を利用できる「立体周遊券」が設定され、1970(昭和45)年10月からは周遊区域をさらに細分した「ミニ周遊券」がデビュー、こちらも翌1971(昭和46)年10月までに均一周遊券にはない東京エリア(「東京ミニ周遊券」)も含めた全32種が出揃ったのです。

その後この均一周遊券は「ワイド周遊券」と愛称されるようになり、最終的にはJR化後の1998(平成10)年に「周遊きっぷ」にその任を譲って廃止となります。「北海道周遊券」の誕生から実に43年、均一周遊券は日本の高度経済成長とともにわが国の旅行熱をささえ続けてきたのです。

ちなみに、1972(昭和47)年10月時点での東京発の主な均一周遊券の料金は、北海道周遊券=7440円(16日間有効・閑散期2割引き適用)、東北周遊券=5700円(10日間有効)、信州周遊券=2800円(7日間有効)、北陸周遊券=3600円(8日間有効)、山陰周遊券=6600円(12日間有効)、四国周遊券=7200円(12日間有効)、九州周遊券=8100円(16日間有効)で、これに学割を適用すればさらに2割引きとなりますから、いまさら思えば夢のような価格です。しかも自由席であれば急行も乗り放題。もちろん全国主要路線には夜行急行が走りまくっていましたから、その使い勝手の良さは計り知れません。まさに周遊券こそが私たちの趣味を育んでくれた陰の功労者といってもあながち過言ではないでしょう。

この1冊。(5)下

岩波写真文庫『汽車』(1951年)
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名取洋之助を編集長、のちに記録映画監督として知られることになる羽仁 進をデスク、長野重一を写真チーフとしてスタートした岩波写真文庫は、現代の感覚ではとても信じられない徹底したこだわりに貫かれています。たかだか64頁とはいえ、どんな絵柄の写真をどうレイアウトするか、いわば“絵コンテ”ともいえるラフスケッチを最初に描き、これに沿って撮影を開始、妥協することなく何度でも再撮影を行ったといいます。『富士山』では3度も再撮影登山を敢行させたとさえ伝えられます。そんな作り込みの64頁を毎月3テーマ発行していたわけですから、尋常ではありません。
▲表紙は開いてみると入換えのB6を跨線橋上から撮ったものだと判る。いかにも日本工房の流れをひくアングルだ。

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さらに、意外と気付かれていませんが、誌面にはもうひとつ驚異的なこだわりがあります。それは“文字組”です。本文は縦書き、キャプションは横組みとなっていますが、この両者ともに一字一句過不足なくピタッと揃っているのです。つまり20字詰×10行であれば最終行は必ず20字、お尻がきっちり合っているわけです。もちろんこの『汽車』も例外ではなく、岩波写真文庫286巻すべてがこのセオリーを守り抜いているのですから驚異です。
▲添乗映像で右カーブ時の前方視認性を機関士側・助士側で端的に検証(左)。右は客車区での車内清掃状況。こういった写真に語らせる手法こそ岩波写真文庫の真骨頂。

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1950(昭和25)年6月20日にスタートをきった岩波写真文庫の第一回配本は、「木綿」「昆虫」「南太平洋の捕鯨」「魚の市場」「アメリカ人」と一見何の関連性も感じられない5テーマでした。グラフ・ジャーナリズムによるエンサイクロペディアを目指そうという理想が、その後も縦横無尽なテーマを選ばせ、結果として8年間にわたって実に286テーマを送り出すことになります。
▲100巻目までは名取洋之助自らがレイアウトを手掛けたとされる。乗客専務車掌ら旅客列車乗務員のかばんの中身を開陳させて1枚の写真で仕事の内容を理解させようとする試みなど、写真は「芸術ではなく考えるための記号・象徴」と主張し続けた洋之助のポリシーが体現されている。

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名取洋之助が直接手を下していた100巻目くらいまでは「心と顔」「力と運動」「波」といった実験的なテーマが多かったことが特筆されます。ただ、その比類ない才能とは裏腹に、洋之助の金銭感覚のなさは戦前から知れ渡っており、金と時間に糸目をつけない完璧主義が『サンニュース』をはじめとした多くの歴史的出版物を自滅に追い込んできました。それだけに岩波写真文庫は当初から岩波書店の大番頭・小林 勇が財政面を掌握する形で運営されており、巻を重ねるごとに実験的テーマは影をひそめ、いわば“売れ筋”に収斂してゆきます。その“売れ筋”とは地方別の紀行もので、第134巻の『山形県』を端緒として県別の「新風土記シリーズ」がスタート、以後の写真文庫はこの地方ものの合間にたまに別テーマが挿入されるといったラインナップとなってしまいます。
▲奥付はなく、夕闇の鉄路を歩く保線夫のカンテラが印象的な一枚で終わる。

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今回ご紹介した第21巻『汽車』のほかに、鉄道をテーマとしたものとしては第113巻『汽車の窓から ?東海道?』がありますが、286巻という圧倒的なテーマ数からすれば鉄道ものは意外と少ない気もします。鉄道以外の乗り物では第94巻『自動車の話』が秀逸で、ことに巻頭の東海自動車戸田営業所のバスと乗務員の一日を追ったドキュメントはまさにグラフ・ジャーナリズムの真骨頂と言えましょう。
▲手元にあった岩波写真文庫の何冊かを並べてみた。サイズが一回り大きいのが復刻ワイド版。『汽車』にも復刻ワイド版がある。

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岩波写真文庫は1958(昭和33)年12月20日をもって休刊しますが、1980年代後半になっていくつかのテーマがA5判の「復刻ワイド版」となって復刊されています。幸いにも『汽車』もこの際に復刻され、もともとのオリジナル版の発行部数が多かったこともあってか、数ある岩波写真文庫の中にあって現在でも古書市場で比較的手に入れやすいテーマです。流通価格も1000円前後とこなれており、この趣味を続けるうえで是非とも手もとに置いておきたい一冊です。
▲最末期第267巻の『佐賀県-新風土記-』より岩波写真文庫のタイトル目録(クリックするとポップアップします)。

この1冊。(5)上

近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、ここでは何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

岩波写真文庫『汽車』(1951年)
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今回ご紹介するのは鉄道趣味書ではありませんが、戦後の啓蒙書として大きな役割を果たし、しかも現代の目から見てもその完成度の高さに驚かされる岩波写真文庫『汽車』です。岩波写真文庫は1950(昭和25)年6月20日に創刊された岩波書店のビジュアル文庫シリーズで、B6判中綴じ64頁のフォーマットで毎月3冊ずつ、1958(昭和33)年12月20日までに全286種が刊行されました。
▲『汽車』は岩波写真文庫の第21巻として創刊10ヶ月目に発行された。表紙デザインは全286巻通して変更されることはなかった。

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12月10?11日付けの本欄「日本工房とマグナム」でも触れたように、この岩波写真文庫は希代の編集者であり写真家でもあった名取洋之助が、戦前の日本工房や戦後の『サンニュース』で培ってきたグラフ・ジャーナリズムを岩波という後ろ盾を得て一気に開花させたもので、定価100円という廉価にも関わらず、その完成度の高さは驚異的でした。実際に撮影にあたったカメラマンも、初期のほとんどすべてを手掛けた長野重一をはじめ、東松照明やあの木村伊兵衛ら錚々たる面々で、バウハウスの流れを汲む透徹した誌面デザインとともに、世界に誇るべきビジュアル文庫だったといえるでしょう。
▲「機関車の修理」と題した見開きではわずか2頁6枚で大宮工場と大井工場の検修の様子を的確に伝えている。C57 44が乗せられたベンチテストマシーンも珍しい。

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『汽車』はその中の第21巻目として1951(昭和26)年4月20日に発行されました。もちろん定価は100円。考えうるありとあらゆるテーマを取り上げることになる岩波写真文庫にあって、はじめて“乗り物”をテーマとした一冊です。冒頭では「この本は日本の動脈を交叉する複雑な列車の流れと、緊密な組織のもとにその動脈を守っている約四八万人の鉄道従業員との物語りである」とうたっており、全編を通してハード面への興味・啓蒙のみならず、鉄道を取り巻く人間像をグラフ・ジャーナリズムとして伝えてゆこうという意図が強く感じられる構成となっています。
▲中綴じ製本だけに中央にはホチキスが出る見開き頁が出てしまう。全編を通して唯一の見開き写真がこのセンター頁。さまざまな貨車が並ぶヤードと、彼方を逆機で回送中のD50を逆光で捉えた印象的な一枚。

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全64頁は「機関車とその乗務員たちの話」「線路と保線の話」「お客と荷物を運ぶ話」「機関車の歴史から」の4章から成り立っており、その中に機関車の構造・種類、線路構造物、信号、列車ダイヤ…等々といった、いわば基礎知識が端的にちりばめられています。ただ、その説明的なひとつひとつの写真にも、考え抜かれたアングルが見て取れます。残念ながら写真クレジットは「岩波映画製作所」としか入っておらず、他の撮影者名が明記されているいくつかの巻と違って、この『汽車』が誰の撮影にかを特定することはできませんが、非凡なカメラマンの手によることだけは確かです。
▲「機関士の交代」の見開き頁。上野発常磐線経由青森行きを例に、水戸、平での乗務交代を紹介。

興浜北線と斜内山道。

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今日では脊梁を残すのみとなってしまった北海道の鉄道網ですが、1970年代までは路線図だけでしっかりと北海道の形を描き出すことが可能でした。さながら櫛の歯が抜けるように消えていった路線の中でも、とりわけオホーツク海に面した宗谷・網走地方の路線網は壊滅状態で、今や宗谷本線以東、石北本線以北には線路がまったくない状態となってしまっています。

1980年代はじめまで、この地方には名寄?遠軽間を結ぶ名寄本線を軸として、湧網線、渚滑線、興浜南線、天北線、興浜北線が一大鉄道網を築いていました。興浜南線の雄武と興浜北線の北見枝幸の間が未成ではあったものの、網走から湧網線、名寄本線、興浜南・北線、天北線をたどれば、鉄道で稚内までオホーツク海岸を走破することが可能だったのです。
▲流氷に覆われたオホーツク海から起立するように神威山が聳え立つ。興浜北線はこの急峻な崖下、波打ち際をぐるりと巡る。圧倒的なスケールの中で単行のキハ22はあまりに小さい。'74.3 斜内?目梨泊

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このオホーツクを巡る路線の中で、なぜか格別気に入って足しげく通ったのが興浜北線でした。興浜北線は天北線の浜頓別から北見枝幸を結ぶ30.4kmの路線で、もともとは改正鉄道敷設法別表に「北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル(後略)」予定線=興浜線として計画されたものでした。1935(昭和10)年に興部?雄武間の南線が、翌1936(昭和11)年に浜頓別?北見枝幸間の北線が開通したものの、戦時休止などを経て、結局、南線と北線を結ぶ雄武?北見枝幸間は開通をみることなく、1985(昭和60)年に廃止となってしまいました。

宗谷岬からサロマ湖に至るオホーツク海岸は、ほとんど起伏がなく、地形図で見ても実に単純な弓なりを描いた海岸線です。そんな単調な海岸にあって、興浜北線斜内?目梨泊間の北見神威岬は唯一のシーニック・ポイントともいえ、少なからずファンを引きつけてきました。興浜南線の沢木?栄丘間にも日ノ出岬とよばれる岬がありましたが、急峻な神威岬とは比べものにならない平板なもので、こちらは結局一度きりの訪問に留まりました。それと比べると、神威岬は襟裳岬から続く日高山脈の延長がオホーツク海に沈む最北端で、神威山が切り立った崖となってオホーツクに没する絶景です。北神威岬灯台をランドマークに掲げたこの岬の桟道は「斜内山道」と通称され、興浜北線はこの岬を巻き込むように灯台直下を走っていました。
▲まさに斜内に到着しようとする926D。稚内機関区所属のキハ22 23単行である。'74.3 斜内?目梨泊

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1970年代前半、両興浜線には名寄区の9600の牽く貨物列車が1往復設定されていましたが、南線の方はほぼ隔日運転の不定期、北線の方も定期ながら運休も少なくない不安定な運転でした。しかも北線の旅客列車は一日たった6往復のキハ22単行のみ。1往復の貨物を斜内山道で狙うにはほぼ丸一日を費やす覚悟が必要でした。それでも渡道のたびに必ず足を向けたのは、それだけ神威岬に引き付けられてしまう何かがあったのでしょう。

第一次特定地方交通線に指定されて廃止が協議される中で、準備工事完了のまま放置されていた北見枝幸?雄武間の未成区間を完成させて、オホーツク縦貫鉄道網を完成させようという機運が地元自治体を中心に巻き起こったと聞きます。うたかたの夢と消えたこの計画がもし実現していたら、今ごろあの斜内山道にはどんな車輌が走っていたのでしょうか。
▲1/25000地形図に見る現在の斜内山道。1999(平成11)に神威山を貫くトンネルが完成し、岬を巡るルートは過去のものになろうとしている。(国土地理院発行地形図より)

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姉妹誌『RM MODELS』をご覧の方は先刻ご承知のように、昨年10月に茨城県日立市に新規オープンした鉄道模型ショップ「電車くん」に、旧日立電鉄のモハ3023(もちろん実物)が搬入されて注目を集めています。しかもRMM編集部が深夜の搬送シーンを密着取材、その動画が当サイト内の“ホビダスTV”でご覧になれます。まずは下記をクリックして迫力溢れる動画をご覧ください。
※ホビダスTV「電車くん」動画
▲旧・久慈浜駅側線でトレーラーに積み込まれて出発を待つ3023号。廃止間際に伝統の日立電鉄色に塗色変更された1輌だ。'05.12.17 P:羽田 洋

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この「電車くん」というお店、いろいろな意味で特筆される鉄道模型店です。まず異例なのがご主人の大内裕司さんの経歴でしょう。なんと約30年にわたり地元の小中学校の先生を務められていた方なのです。もちろん古くからの鉄道模型ファンながら、いわゆる“カウンターの内側”におられたことはただの一度もなく、突然先生を脱サラ(?)して模型店を新規オープンさせようというのですから驚きです。

さらにはその店舗が奮っています。ご自宅敷地内にある明治時代建造という「蔵」そのものなのです。近年使われる機会も少なくなったこの「蔵」を、できる限りその風合いを残したままショップにしてしまおうというのですから、これまた前代未聞です。
▲3023号はもと営団地下鉄銀座線2000形2120号。1962(昭和37)年近畿車輌製で、日立入りに際して京王重機で2119号の運転台を利用して両運転台化や台車の履き替えなどの改造を実施している。'05.12.18 P:羽田 洋

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残念ながら私はまだ伺ったことはありませんが、完成したショップは重厚な瓦葺の蔵の外観そのままに、一階はショップを中心にレンタルレイアウトや工作スペース、特徴的な螺旋階段で上がった中二階には資料コーナーと休息スペースが設けられ、単なる“お店”ではない“趣味空間”として魅力溢れるものとなっています。ことに中二階の休息スペースは畳敷きにちゃぶ台とまさに和みの空間。都心部のショップでは望むべくもない贅沢な造りとなっています。
▲吊り上げ重量100tという巨大なクレーンで「電車くん」に設置される3023号。まさに迫力のハイライトシーンで、是非とも動画でご覧あれ。'05.12.18 P:羽田 洋

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大内さんはこのお店の構想段階から、昨春廃止となった地元・日立電鉄の車輌を静態保存したいと願っていたそうですが、昨年末、ついにその願いがかなう日がやってきました。12月17日未明、久慈浜駅側線からトレーラーに載せられて搬出されたモハ3023号は、漆黒の闇の中を「電車くん」目指して静々と進んでゆきます。“ホビダスTV”ではこの搬出・搬送から、100tクレーンで吊り上げられて「電車くん」に設置されるまでの様子をたっぷりとご覧いただくことができます。

なお、この3023号は昇降階段の設置などの準備のためまだ一般公開されておらず、1月下旬?2月頃から一般公開される予定だそうです。詳しくは「電車くん」ホームページをご覧ください。
■「電車くん」
〒319‐1231 茨城県日立市留町3番地 
営業時間:平日15:00?21:00/土日祝9:00?21:00(定休日:月曜・第1火曜=祝日でも振替えなしで定休)

ニコンD200を使う。

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昨年末に発売されたばかりのニコンD200のデモ機が編集部に到着、今日はさっそく試写をしてきました。ご承知のように、D200は最上位機種D2X、D2Hsに次ぐポジショニングながら、有効画素数10.2メガピクセル、5コマ/秒、54コマの高速連続撮影機能を有し、しかも起動時間約0.15秒という群を抜くクイックレスポンスを誇っています。デモ機はこのD200ボディーに、これまた最新鋭の手ブレ防止機能付き18?200㎜ズーム(正式にはAF-S DX VRズームニッコールED18-200㎜ F3.5-5.6 IFという長い名前)がついた、まさにニコンファン垂涎の1台です。
▲今日の4レ「北斗星4号」は20分ほどの遅れをもって上野駅13番線に到着。最広角の18㎜(35㎜判換算27㎜)で1/5秒のスローシャッターを切る。広角域でのデストーションもほとんど気にならない。'06.1.25(1/5 f5.6 オートWB)

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実はカメラ店の店頭デモ機にさえ触ったことがなかったD200ですが、そのホールディング感はまるでずっと使い続けていたかのごとく違和感がなく、実に自然です。もちろん現代のデジカメですから、金属カメラフリークからすれば多少プラスティッキーな感触はあるものの、フィット感からも本機の完成度の高さが感じられます。

一方、18?200㎜ズームの方は、EDレンズ2枚と非球面レンズ3枚が奢られ、手ブレ防止機能が盛り込まれた最新鋭ハイ・クオリティー・レンズで、35㎜判換算27?300㎜という画角からして、よほどのことがない限りもうこれ一本で充分といった印象です。ズーム時に直進鏡胴(もちろんプラ)が擦れるザラっとした感じがちょっと残念な気もしますが、実写の結果でも驚くほどデストーションが抑えられており、コストパフォーマンスからもお薦めの一本に違いありません。
▲デジタルが意外に苦手なのがこの手の“光モノ”。シャドー部からハイライトまでしっかりと描写されている。'06.1.25(1/2 f5.6 95㎜ オートWB)

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さて、試写は上野駅に出向いて地上ホームでの撮影から始まりました。分厚いマニュアルを持参しながらの撮影ですが、あまりに膨大な情報量のマニュアルゆえ、現場で撮影しながら取扱方法を確認することなど出来ようはずもなく、結局、あれやこれやの失敗で、撮影した半数近くが使いものにならず、カメラ本来の性能を使いこなすには一朝一夕ではいかないことを改めて実感した一日でした。
▲AF-S DX VRズームニッコールED18-200㎜ F3.5-5.6 IFをつけたD200。2.5形の大型液晶モニターは上下左右170°の広視野角で斜めからでも実に見易い。

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このD200の数ある機能のなかで、私が特に興味をひかれたのがGPSデータ記録機能です。これは10ピンターミナルに接続した別売のGPS変換コードを介してGPS機器と通信し、画像データに撮影時の緯度・経度、標高、UTC(協定世界時)を記録できるというもので、鉄道写真にとっては待望の機能といえます。まぁ、本来はきちんとメモを取って記録するのがベストなのでしょうが、昨今の撮影行ではなかなかそうもいかず、なおかつクルマでの撮影行ともなると、帰ってから撮影場所がいったいどこの駅間だったのかさえわからなくなってしまうことがままあります。こんな時にGPSデータが記録されていれば、例えば国土地理院のホームページの地形図検索画面に緯度・経度を入力するなどして瞬時に撮影場所を特定することが可能です。もちろん海外での撮影でも絶大な威力を発揮するはずです(ただし、GPSを持ち込むとそれだけで拘束される国もあります…)。
取扱説明書によれば、現状では特定機種のみ接続可能のようですが、遠くない将来、外部GPSとデータのやり取りをせずとも、カメラ本体にGPS機能が内蔵される時代が到来するのかもしれません。
▲「ふるさとの 訛なつかし…」石川啄木の歌碑を前に。最広角の18㎜(35㎜判換算27㎜)だが、絞り優先である程度絞り込んだためシャッタースピードはちょうど1秒。もちろん手持ち。やはり手ブレ防止機能の恩恵か。'06.1.25(1s f10 オートWB)

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▲会社から徒歩5分ほどの東急東横線を撮る。ファインダー視野率は100%近い。わざわざ一発撮りで右フレームぎりぎりまで引き付けてシャッターをリリースしてみたが、まったくシャッター・ラグも感じられずピタッと収まった。ちなみに右後方に見えるマルタイ置き場が旧・東急碑文谷工場跡地。'06.1.25(1/520 f5.6 105㎜=35㎜判換算157㎜ オートWB)

生まれかわる富山港線。

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富山?岩瀬浜間を結ぶJR西日本の富山港線が来月2月末日をもって廃止となります。といっても、線路自体が消滅してしまうわけではなく、「公設民営方式」によって新会社第3セクター「富山ライトレール株式会社」に運営が引き継がれ、今春からLRVによる路面電車として再スタートをきる運びとなっています。
▲かれこれ31年前、岩瀬浜に到着した4連の155M。先頭は全金属試作トップナンバーのクハ79920。この時点では車体標記は「大アカ」のままであった。この後にはクモハ40076+クハ79220+クモハ73195が続く。所属は富山第一機関区で、機関区配置の電車という奇妙な扱い。'75.9.3

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営業キロわずか8kmの盲腸線ながら、富山港線の歩んできた80余年の歳月は実に波乱に富んだものでした。1924(大正13)年7月23日に富岩鉄道の貨物線として開業した富山口?岩瀬港間は、もともと神通川河口の岩瀬港周辺に発達した工場群の貨物輸送を目論んだものだったといいます。水力発電による電力供給が豊富な富山平野だけに、当初から直流600Vによる電気鉄道としてのスタートでした。4年後の1928(昭和3)年には省線富山駅からの旅客営業を開始、1941(昭和16)年には富山電気鉄道に譲渡され、さらに戦時統合で1943(昭和18)年には富山地方鉄道に合併、その半年後の同年6月には国策により鉄道省に買収されて、以後国鉄線としての歴史を刻むこととなります。
▲この時点で富山港線唯一のクモハ40だったクモハ47076。1980(昭和55)年10月に廃車され、以後富山港線は73系のみとなってしまった。'75.9.3

戦後しばらくは富岩鉄道時代の遺産、12?14m級の木造ボギー車ボ1形と半鋼製ボギー車セミボ20形(セミスチール・ボギーからセミボ)が「私鉄買収国電」として働いていたようですが、1967(昭和42)年に600Vから直流1500Vへ昇圧、以後、七尾線が直流電化されるまでは北陸唯一の直流電化国鉄線として数々の旧型国電が投入され、旧国ファンにとっては気になる路線のひとつとなります。ただ、通勤・通学が主体の地方交通線ゆえ、日中閑散時間帯の合理化の必要性に迫られ、2001(平成13)年からは高山線と共通運用のキハ120形を導入、朝夕は457・471・475系などの電車、日中は気動車という変則的な運転方式で今日に至っています。

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富山市がインフラの整備・改良等を、新会社・富山ライトレール株式会社が運行管理を受け持つ、いわゆる「公設民営方式」で新スタートを切る富山?岩瀬浜間には、新駅を含めて13駅が設けられ、新潟トランシスの2車体連接超低床LRVが15分間隔でフリークェント・サービスを行う予定だそうです。現在の富山駅から富山口?下奥井間の奥田中学校踏切までの約1キロ区間は転換されず、この奥田中学校踏切からインテック本社前を通って富山駅北口までは路面軌道が新設されることになります。つまり富岩鉄道開業時の起点であった富山口駅は来月末をもってその歴史を閉じることとなるわけです。

将来的には北陸本線富山駅の高架化に合わせて、駅南側の富山地方鉄道軌道線とも接続し、富山駅を核とした南北の面の公共交通網を完成させる構想だそうですが、こうなると今やなき射水線(新富山?新湊間19.9㎞・越ノ潟?新湊=六渡寺間は万葉線として現存)や笹津線(南富山?地鉄笹津間12.4㎞)が残っていれば…とかなわぬ夢を見てしまいます。もしこれらが残っていれば、加越能鉄道軌道線(現・万葉線)と合わせて、高岡?新湊?富山?岩瀬浜なり、岩瀬浜?富山?笹津なりの一大路面電車網が出現していたはずです。
▲30年前の富山車掌区発行の富山港線車内補充券。

新生・富山ライトレールは、路面電車としては東急世田谷線などで実用されているICカードシステムを導入するなど、新時代の公共路面交通のあるべき姿を見せてくれるはずです。7色のカラーに塗り分けられたLRVの愛称も“ポートラム”に決まり、雪解けとともに鮮やかなその姿を見せてくれる日も間もなくです。
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▲“ポートラム”のカラーラインナップ。(富山ライトレール株式会社ホームページより)


第十三回:「ゴースト」に見送られてアイルランドを去る。
案内されたミルの裏には見渡す限りのピート・ボグが広がっていますが、これまで見てきたボード・ナ・モナのボグと比べても水分が多そうで、まさに底なし沼状態。これは確かに“WARNING”の理由になりそうです。

現在このミッドランド・アイリッシュ・ピート社の2フィート軌道で働くトラクター、いや機関車は合計7輌。ドイツのデーマ(Diema)製5t機が3輌(No.1、4、5)、イギリスの北陸重機ともいえるアラン・キーフ(Alan Keef)製が2輌(No.3、7)、モーターレール(Motor Rail)製(No.6)とランソン・ラピィア製(No.2)各1輌ですが、この中にあってもっとも価値のあるのがランソン・ラピィア製の2号機でしょう。
▲2号機“GHOST”の御真影。クリックするとポップアップします。まぁ、どなたもおられないでしょうが、パソコンの壁紙にどうぞ。

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エンジンの振り替えなど大幅に改造されてはいるものの、このランソン・ラピィア製2号機は1938年製のガソリン機関車で、製造番号84。元号で言えば昭和13年製ということになり、このテの産業用内燃機関車としては信じられないほどの長寿です。ランズデール(Lansdale)と呼ばれるヤードの入換えに今なお現役で働いていますが、その満身創痍の姿たるや、もうほとんど粗大ゴミ状態。歴史ある機関車だけに、多少はかまってやれば良いのに…と思いつつ正面に回ると何やら小さなプレートが。しかも文字らしきものが書いてあります。近寄ってよくよく見てみると、溶接で書かれた文字は何と“GHOST”(亡霊)! う?ん、それを言っちゃお終いでしょ…。
▲ランソン・ラピィアの2号機のラジエータ・プロテクターに掲げられたプレートは“GHOST”。洒落がきいていると言おうか、何と言おうか…。'02.10.22

どんよりと曇った空からはついに氷雨が落ちてくるようになり、付き合ってくれているスーツ姿の紳士からも「早く終わってくれないか」という思いがひしひしと伝わってきます。ただこちらにはこちらの段取りというものがあります。ひとわたり35ミリの撮影が終わってからは、今度はブローニーの撮影、さらに製番の調査やら主要寸法の計測やらをせねばなりません。やおら三脚を出してセットを始めたあたりで、件の紳士も業を煮やして「終わったら事務所に顔を出してくれ」と言い残して去っていってしまいました。

結局一時間あまり、寒さがこたえるヤードでの撮影・調査を終えて事務所に戻ると、流石にこちらの熱意が伝わったのか、例の紳士をはじめ、最初とはうってかわって優しくもてなしてくれました。こちらも出発前に仕入れておいた日本酒と千代紙のコースター(これは海外お土産小物の定番。“for your wife”というとたいてい途端に笑顔になる)をお礼にプレゼント。事務所の皆さん、そして“GHOST”に見送られながら、ミッドランド・アイリッシュ・ピート社をあとにしたのです。

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すっかり暗くなりはじめた国道N4号線をダブリン空港へ。足掛け3日の慌しいアイルランド訪問でしたが、初めて目にするピート・モス・レールウェーはいろいろな意味で驚きの連続でした。ボード・ナ・モナ、ミッドランド・アイリッシュ・ピート…私の生涯で再び訪れることはないかも知れませんが、決して忘れることのできない日々に違いありません。
ダブリン空港発ロンドン・ヒースロー空港行きエア・リンガス192便の出発は20時20分。空港のパブで、例によってぬるいギネスでひとり祝杯を上げることにしましょうか。  (完)
▲3日間の滞在中、空は常に垂れ込めた雲に覆われていた。ボード・ナ・モナ、そしてミッドランド・アイリッシュ・ピート…希有な体験を思い返しつつ、国道N4号線をダブリン空港目指して走り続ける。さらば、アイルランド。'02.10.22

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第十二回:苦難の交渉ようやく成功。
ラスゥエンの町で探しはじめてからかれこれ2時間近く、ようやくお目当てのミッドランド・アイリッシュ・ピート社にたどり着くことができました。会社といっても、小学校くらいの敷地に体育館程度の大きさのミルと何棟かの平屋の建物があるだけで、ボード・ナ・モナのスケールの大きさとは比べものになりません。

これまた小学校の正門ほどのゲートには例によって「立入禁止」の看板が…。この「立入禁止」、“入らないでください”なのか“立入厳禁”なのか、そのニュアンスの強弱が問題です。ことにアメリカでの撮影の場合は、このニュアンスを勘違いするとそれこそ命取りにもなりかねません。ところがこの門に掲げられているのは“WARNING”(警告)。まさに立入厳禁です。しかもその後に続くのは“UNAUTHORISED ENTRY IS PROHIBITED. IF YOU PASS BEYOND THIS POINT YOU ARE ON A PREMISES TAKE NOTICE THAT?”、つまり「許可なく、もしここから一歩たりとも入ろうものなら以下の処罰を?」と極めて強い調子です。これがアメリカならさすがに躊躇する文言ですが、ここはアイルランドですから、まぁ途端に撃たれることもあるまいと、ダメもとで撮影許可を得にゆくことにしました。
▲ようやく目にすることのできたミッドランド・アイリッシュ・ピートのフィールドは垂れ込めた寒空の下に広がっていた。ランソン・ラピィアの2号機が置き忘れられたように待機している。'02.10.22

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▲目の前に広がるピート・ボグはまさに底なし沼状態。キャタピラの化け物のようなエキスカベーターが黙々と作業を続ける。'02.10.22
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▲軌道によって工場に運び込まれたピートは一旦貯留槽などに集められたのち、ベルトコンベヤーで乾燥室へと送り込まれる。'02.10.22

職員駐車場らしき所にレンタカーを停めてクルマから降りてきたその時でした。正門から入ってきたのは、ついさっき擦れ違い時に怒鳴っていたトラック! 何とあのトラックはこの会社のトラックだったのです。初老の運ちゃんはトラックから降りるやいなや、またしても大仰な身振りで怒鳴り始めました。いや、今度ばかりは逃げようもありません。とにかく何を言っているのかさっぱりわからず(ゲール語=アイルランドの第一公用語だったのかも)、勝手に構内に入ってきてしまった負い目もあって、もうひたすら謝るしかありません。「すいません、すいません」と日本語で謝りたおし、そのうち言葉が通じないもどかしさもあってか、欧米人特有の手のひらを上に向けて両肩をすぼめる諦めのポーズ(?)を残して詰所の方に去っていってしまいました。

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一難去ったものの、今度は撮影許可を得ねばなりません。見回すとプレハブ平屋の事務棟らしきものが…。ドアを開けると5?6卓の事務机とパソコンが並び、おばさんが何やら事務作業の最中です。「機関車を見せてもらいたくて日本から来た」と説明するのですが、どうも話が通じません。そのうち「あぁ、トラクターね」とようやく理解。なんとこの会社のフツーのおばさんにとっては“locomotive”ではなく“tractor”として認識されているようです。
▲とても機関車とは思えない形態の6号機はモーターレール製のいわゆるシンプレックスの一族だが、すでに原形は見る影もない。'02.10.22

ややあって奥から出てきたのはスーツを着た30代中盤くらいの紳士。社長さんなのかどうかはわかりませんが、とにかくこの人は“locomotive”で話は通じたものの、撮影はダメの一点張り。せっかく日本から来たのだからちょっとだけでもと食い下がりますが、どうやらフィールドが危険だから入ってはだめだと言っているようです。それではとフィールドには入らないからミルの周囲だけでもとお願いすると、今度は私の足下を見て“boots”(長靴)がないからダメと言いはじめました。これはしめたものです。実は今回の撮影行、場所が場所だけに日本からゴム長を持ってきており、私がクルマのトランクから長靴を持ってくると流石にこの紳士も目が点。わかったわかった、見せてあげるよ、とばかり、この紳士も長靴に履き替えて自ら案内してくれることになりました。

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第十一回:ミッドランド・アイリッシュ・ピートへの道。
ブラックウォーター、ブーラ、レンズボーラァと、数あるボード・ナ・モナの拠点のうち3箇所を駆け足で巡ってきましたが、アイルランド中部にはもう一箇所、ぜひとも訪れておきたい民間のピート軌道があります。ミッドランド・アイリッシュ・ピート(Midland Irish Peat)で、同社はレンズボーラァ発電所から40キロほどダブリン方に戻ったラスゥエン(Rathowen)という小さな町にあるはずです(8日付け第5回の地図参照)。ボード・ナ・モナの軌道網とは比較にならない小規模な2フィート軌道ですが、ひと昔前までアイルランドやスコットランドに星の数ほどあったプリミティブなピート・モス・レールウェー本来の姿を留める数少ない現役軌道のひとつです。
▲荒涼としたバックヤードでぽつんと待機するアラン・キーフ製7号機。辺りにはひとっこひとりおらず、同じピート・レールウェーとはいえ、ボード・ナ・モナのヤードの賑わいとは別世界。'02.10.22

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とはいうものの、肝心の情報は“Narrow Gauge News”に出ていたわずかな写真とMidland Irish Peatという社名、そしてRathowenという町の名前だけです。それでも日本的感覚で、町の名前と社名がわかるのだからそれほど苦労せずにたどり着けるだろうと考えたのが実は大間違い、ナビも交番もない海外での会社訪問はそれほど甘くはありませんでした。
▲ミッドランド・アイリッシュ・ピートへと続くいかにもアイルランドらしい田舎道。クルマはレンタカーの三菱カリスマ1.6。'02.10.22

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果たして国道N4号線沿いのラスゥエンの町は何の変哲もないただの田舎町でした。これならば話は早いと、さっそくガソリンスタンドでミッドランド・アイリッシュ・ピートへの道を尋ねたのですが、知らないの一点張り。それからが苦難の道のりでした。とにかく街道沿いの商店やら通行人やら、手当たり次第に尋ねるのですが、誰も知りません。かれこれ一時間近くも探しあぐね、これはもしや地名自体が誤植なのではないかと諦めかけた時、畑で作業している農夫が「あぁ、ミッドランドさんね、あそこは遠いよ」と道を教えてくれました。
▲ようやくたどり着いたミッドランド・アイリッシュ・ピートの正門。門扉の右側には例によって“WARNING”の文字が! '02.10.22

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教えられた道を進んでゆくと、舗装路は途中からぬかるんだダートにかわり、そのうちにすれ違いもできないほどの隘路となります。辺りは“moor”と呼ばれる荒れ地がひたすら続き、人家さえありません。国道からはかれこれ10キロ近く走ったでしょうか。これでは町で尋ねても誰も知らないわけです。
▲主力機ディーマ製1号機。1963年製のタイプDS30(製番2639)で自重5t、42ps。'02.10.22

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ようやく道端に目指すミッドランド・アイリッシュ・ピートの小さな道標を発見。やった、とばかりハンドルを切り進むこと暫し、対向から大型トラックがやってきました。擦れ違えるほどの道幅はありませんから、やむなく多少余地があるところまでこちらがバックしてやり過ごすことにしたのですが、擦れ違いざまこのトラックが停まり、運転手がなにやらえらい剣幕で怒鳴っています。一方通行だったのか、はたまたトラック専用道だったのか、あの時何がまずかったのか今もって本当の理由はわかりませんが、とにかく目的地を目の前にして悶着に巻き込まれている暇はありません。まだ怒鳴り続けているトラックをすり抜けるようにクルマを発進させて先を急ぐことにしました。
実はこのトラブルがしばらく後に再燃することとなるのですが、この時はそんなことは想像さえしていませんでした。
▲アラン・キーフの7号機はまるで自由型のようなスタイル。左側面にさながら竹槍のように抱えたマフラーとエキゾースト・パイプがチャームポイント? '02.10.22

5回目を迎えたJRPS写真展。

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第5回目となる日本鉄道写真作家協会(JRPS)展が、今日から東京・銀座の富士フォトサロンで始まりました。ご存知のように、日本鉄道写真作家協会(JRPS)はわが国の鉄道プロカメラマンの協会として1988(昭和63)年にスタートを切り、早くも18年目を迎えます。現在の正会員は22名。ほかに機材メーカー、感材メーカー、出版社などの法人賛助会員11社と会友3名を加え、まさに日本の鉄道写真界をリードする組織に成長してきました。
▲今日から始まったJRPS展会場にて。さすがに会場で見るオリジナルプリントは大迫力。'06.1.20

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今回のテーマは「蒸気機関車・汽車が走る風景」。復活蒸機を被写体として、そこから蒸気機関車現役当時の情景、国鉄の香りを再現しようと努めた作品が並びます。さすがに各界で活躍するプロ集団だけあって、作品のバラエティーは個人の作品展とは比較にならず、最上級のプリントの仕上がりとあいまって、見ごたえのある写真展となっています。
▲東京・数寄屋橋の富士フォトサロンはスペース1?3までの3フロアに分かれており、それぞれのテーマで写真展が開催されている。なかでもJRPS展の開かれているスペース1は一番大きく、ゆったりとした展示が楽しめる。'06.1.20

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それぞれの写真には簡単なコメント・シートが添付されていますが、意外なのは思いのほか銀塩比率が高いことです。普段デジタル撮影を生業としているプロの方々も、作品創りとなると銀塩に戻るということなのか、その辺は何とも興味深いところです。なかには金盛正樹さんのようにあえてネオパン400プレストを使ったモノクロ作品を出品されている方さえおられます。一方、プリントの仕上がりという点では、デジタルの先鋭度にいまさらながら圧倒される思いです。全紙、全倍といった大伸ばしプリントを、銀塩・デジタル同時に目にする機会はなかなか少ないだけに、その意味でも実に勉強になります。
▲今回のテーマは昭和を感じさせる現代の蒸気機関車。22名の会員それぞれの視点が興味深い。'06.1.20

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ところで、この会場、富士フォトサロンはわが国の鉄道写真にとって格別な意味を持つ地です。それというのも、今を去ること実に38年前の1968(昭和43)年4月9日から15日にかけて、日本で最初の本格的鉄道写真展「蒸気機関車たち」が開催された場所そのものだからです。しかも作家はJRPSの初代会長でもある広田尚敬さん。当時はスペース1・2の区分がなく、中央に柱のある巨大な会場だったそうですが、ここで開催された同展が、“SLブーム”の名の下にとかく白眼視されがちだった鉄道写真というジャンルそのものの社会的認知度を上げ、さらには欧米にも日本の鉄道写真の実力を知らしめることになる翌年の写真集『魅惑の鉄道』の発行へとつながってゆくのです。そんな日本の鉄道写真にとっても、もちろんJRPSにとっても“聖地”のようなこの会場で、38年前には生まれてさえいなかった新進気鋭の会員を交え、奇しくも38年前と同じ「蒸気機関車」をテーマとした写真展が行われているわけですから、その面でも実に感慨深いものがあります。
▲初日午前中のレセプション担当は中井精也さん。普段は誌面でしか知らないプロカメラマンに直接会えるのも楽しみ。'06.1.20

この第5回・日本鉄道写真作家協会(JRPS)展「蒸気機関車・汽車が走る風景」は今日から1月26日(木曜日)まで下記の要領で行われています。ぜひおいでになってみてください。
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今月の新刊ができました。

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今月の新刊ができました。RM本誌の特集は、特急「出雲」の廃止と余部橋梁の架け替えで俄然注目を集める“山陰”、RMライブラリーは山形交通三山線をまとめた鈴木 洋さん・若林 宣さん渾身の一冊です。

今回の本誌山陰特集の注目記事は、何といっても椎橋俊之さんと広田尚敬さんのゴールデンコンビによる特急「出雲」で訪ねる余部紀行でしょう。94年にわたって日本の代表的鉄道情景として親しまれてきた余部橋梁は、2010年度完成を目指してコンクリート橋に架け替えられることが決定しており、今年中にもその準備が開始される予定です。一方、既報のとおり、真紅のヘッドマークで人気の特急「出雲」は、この3月18日改正で廃止されることが決定しています。やはり今春で長期休業に入る「東京ステーションホテル」のバーでのどを潤してからこの「出雲」で東京を発ち、“感動の所在地”余部橋梁を目指す…あと二ヶ月しか許されない至高の旅路をおふたりが読者の皆さんに代わって体験します。

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取材はまだ「出雲」の廃止が正式発表される前の11月とあって、東京駅10番線ホームにはファンの姿もなく、それどころか乗客らしき姿さえなく、見渡す限り閑散としていました。かつてプラチナチケットともてはやされたブルトレ全盛期を思うと何とも寂しい限りです。ふと気づけば、廃止・併合が進んだ東海道ブルトレの中にあって、今でも単独愛称列車として存在しているのはこの「出雲」のみ。それだけ時代は大きく変わってしまったわけです。
▲特別企画「特急<出雲>で感動の所在地・余部へ」を取材中の広田さん。'05.11.10

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21時10分発の「出雲」の入線は、小田原行き快速3771Mが20時50分に発車してから。機回し線がなくなってしまった関係で、EF65PFを前後に付けたプシュプルでの入線です。回送牽引機が離れてドア扱いが行われるのはほとんど発車10分前。11時間を走り抜く長距離寝台の出発にしてはあまりに慌しいプロローグです。
▲当たり前のように灯ってきた「寝台特急 21:10 出雲 出雲市」のLEDもあと二ヶ月で消える。'05.11.10

驚いたのは、この発車間際の10分ほどの間の広田さんの動きです。ただでさえ重い機材を持ちながら走る、走る。あらかじめ思い描いていた撮影ポジションを、さながら少年のように駆け巡ります。ご年齢を考えると何というバイタリティーでしょうか! 発車ベルが鳴りはじめてからようやく椎橋さんの待つ車内へ。滑るように走りはじめた「出雲」にホームから手を振りながら、第一線の、しかも第一人者の作品にかける情熱とはこういうものかと、改めて思い知らされた気がしました。
この椎橋俊之さんと広田尚敬さんによる余部紀行、そのしっとりとした内容は、「出雲」への哀惜、余部への想いを強くかきたててくれるはずです。是非ご一読ください。

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第十回:実は見納めだったレンズボーラァ軌道。
デラッハン・ボグ(Derrahan Bog)と呼ばれるメイン・フィールドに続く“本線”は、とてもナローとは思えないほど整備され、市街部では交差する道路もほとんどが立体化されています。16?の容量を持つピート・ワゴンが標準列車で14輌、重量にすると70?100tの積載量の列車が続行で次々とやってくる様はまさに圧巻です。

どこかで見たような状況だと思い返してみると、そう、住友セメント栃木工場の唐沢原石軌道を彷彿させるのです。唐沢軌道も、2’6”ゲージの複線軌道を連接のオアカーを連ねたDLがひっきりなしに往復していました。そう思うと、石灰で真っ白になりながら唐沢軌道を追いかけた日々が、遥かアイルランドの地で、あの「会沢食堂」の煮込み定食の味まで伴って鮮明によみがえってくるのでした。
▲レンズボーラァ発電所のヤードに詰めかけたピートトレインの列。盈車と空車が入り乱れ、よくぞこれで発着ができるものだと関心する。'02.10.22

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ところで、昨日のブラックウォーターワークスと違い、今日のレンズボーラァ発電所は何の事前アポイントも取っていません。跨線橋から撮影している限り、通り過ぎる列車の運転士は皆にこやかに手を上げてフレンドリーそうですが、発電所構内となると果たしてどうでしょうか…。ちょっと不安ではありますが、ここまで来て引き下がるわけにはゆきません。結局、腹を決めたのは「正面突破」。正門の守衛所で身ぶり手ぶりを交えてこちらの意図を伝え、何とか交渉成立。広大な発電所構内のいわばバックヤードに当たる操車場へと車を進めます。それにしてもこのレンズボーラァ火力発電所、とてつもない規模で、ようやく軌道のある裏手にたどり着き、ともかく職員駐車場にレンタカーを停めることにしました。
▲ディスパッチャールームからプラント側をのぞむ。チップラーでの取り卸し待ちの盈車列車が数珠つなぎとなっている。'02.10.22

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機材を背負ってヤードへと向かいますが、とにかくあたり一面“列車の海”状態。それもどの列車が急に動き出すかわからず、不用意に立ち入るのは危険です。そうこうしているうちに、乗務を終えた運転士らしき人が声を掛けてきてくれました。どうやら先ほどの跨線橋から撮影していた時に眼下を通過した列車を運転していたらしく、「列車の写真を撮りたいのか」というようなことを聞いてきたのです。これは渡りに船とばかり構内の撮影をお願いすると、ヤードの中心にある管制塔のような建物に連れていってくれました。どうやらここはディスパッチャールーム兼乗務員詰所のようで、入口には機関車のキーがずらりと並び、日本風に言えば「点呼」のようなことが行われています。ディスパッチャー(運行管理者)の周囲では運行中の機関車からの無線が飛び交い、この建物を見ているだけでも、いかにこのレンズボーラァ軌道網が大規模かが伺い知れます。
▲チップラー(回転式取り卸し装置)はこの16?ワゴンを1輌まるごと360度回転させてピートをコンベア層へと落とす。'02.10.22

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さすがにここまで写真を撮りにくる物好きはそれほどいないらしく、なおかつ日本からわざわざ来たと知ると大歓待。控え室の乗務員たちもがやがやと出てきて一斉にいろいろと説明を始めるのですが、もともとが難解なアイルランド英語にくわえて脈略なくしゃべられるのでこちらはまったくお手上げ。早々にその場を辞して再びヤードへと向かいました。
▲レンズボーラァのフューエル・トレインを担当するLM247。1965年のワゴンマスター12t機で、ラジエータシェルとキャブにはハンスレー、ボンネットサイドにはワゴンマスターのエンブレムが付く。'02.10.22

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結局、この日一日ではこのレンズボーラァ軌道の全貌はおろか、アウトラインさえ把握することはできず、ただただとんでもない規模の3フィート軌道網だということを体感できるにとどまってしまいました。これは機会を見て是非とも再訪したいものと思いつつ発電所を後にしたのですが、実はその夢は永遠にかなわないこととなってしまったのです。

帰国後一年半余りが経った2004年春、英国の高名なインダストリアル・ナローゲージ・エンスージャストであるスティーブ・トマソンさんのレポートに目が点になってしまいました。あのレンズボーラァ軌道が廃線になったというのです。添付された写真は、前回掲載した発電所の煙突をバックにカーブを切る列車を後追いで撮影したのとまったく同じ場所。すっかり錆びついてしまった軌道からは、とてもあの日の活況を想像することはできません。なんでも新発電所完成に伴ってレンズボーラァ旧発電所は2004年3月31日をもって廃止され、ピートトレインもその日の14時30分にデラッハン・ボグから到着した便をもって終了したとのこと。さらに驚くべきことには、このレンズボーラァと同じような状況(similar fashion)で、新発電所完成によって同年2月にシャノンブリッジ発電所も閉鎖、ブラックウォーター地区の軌道網も激減したと報告されています。何とこの2日間をかけて私が見てきた欧州最大のナローゲージ網は、わずか2年後には音を立てて崩れ去っていってしまったわけです。
▲キャブ内にはボード・ナ・モナの内規らしきエッチングのインストラクション・プレートが貼ってある。「BORD NA MONA Instructions to Locomotive Drivers」とあるが、読んでみると中身は「飛び乗り禁止」やら始業点検の際はエンジンオイルのレベルチェックとラジエータ水のチェックを忘れずにだとか、さらにはクラッチ操作は乱暴にしない…等々、たわいのない内容ばかり。'02.10.22

旧万世橋駅特別公開。

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今日は仕事の打ち合わせで交通博物館の菅館長を訪ねたのですが、博物館のエントランスがなにやらただならぬ熱気に包まれています。冬の平日とあれば、来館者もぱらぱらといった状況だったと記憶していますが、とにかく入館券の受け渡しが追いつかないほどの盛況ぶりです。

いったい何が起こったのかと思って伺うと、先週から始まった「旧万世橋駅遺構特別公開」が大人気なのだそうです。しかも先週末には、この5月に交通博物館が閉館する旨とこの特別公開が全国紙3紙に写真入りで大きく報道され、見学者が急増。職員の皆さんは連日対応に大わらわの様子です。
▲温室状に囲まれて旧ホーム上に張り出した展望スペースから中央線をのぞむ。特別公開に合わせて万世橋ホーム跡にはレトロな駅名標も設置されている。きちんと裏面もレタリングされているそうで、上り中央線車中からも「まんせいばし」の文字が見えるはず。'06.1.17

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打ち合わせの後、菅館長の直々のご案内で旧万世橋駅遺構の公開内容を拝見しましたが、この特別公開に合わせて整備されたとあって、なかなか見ごたえのあるプログラムとなっています。1組20名ほどの見学者は、まず高架下のレンガアーチ部に設けられたスペースで上映時間6分ほどのビデオを見て予備知識を得ます。旧万世橋駅の時代から交通博物館(鉄道博物館)の誕生、そして現在までの歩みを極めてコンパクトに、しかも印象的にまとめられたこのビデオはなかなかの秀作です。
▲旧ホームへと続く階段。左上に見える明かり部が旧ホームの展望スペースとなっている。'06.1.17

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ビデオ上映の後は説明員の方に誘導されていよいよ旧万世橋駅ホームへと向かいます。建築完成以後94年目を迎えたレンガ造りの壁面を眺めながら階段を上ると、そこにはぽっかりとホームから差し込む明かりが見えます。この部分こそ唯一旧ホーム上に出られる出口です。実はかつても何回か拝見したことがあるのですが、従来は小さな扉から恐る恐るホーム上を覗く感じでした。それが今回の特別公開に合わせて温室ドーム状の展望スペースが設置され、格段に見易くなっています。ひとことで言えば、昨今人気の旭山動物園のシロクマ展望ドームのように周囲を見渡せるわけですが、シロクマならぬ中央線の201系が目の前の「萬世橋」旧ホームを通過してゆく様は大迫力で、これだけでも一見の価値充分です。
▲オランダ積みのレンガが94年の歳月を物語る。琺瑯の駅名標はレプリカ(左)。ホームの展望スペースより階下をのぞむ(右)。'06.1.17

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昨年の12月16日から始まり、閉館となる5月14日(日曜日)まで続く「交通博物館さようならキャンペーン」は、この「旧万世橋駅遺構特別公開」(4月28日まで。事前予約制)のほか、特別記念きっぷ「再現硬券シリーズ」の無料配布や「閉館記念ライトアップ」(ともに最終日5月14日まで)など魅力的な内容が盛りだくさんです。詳しくは交通博物館ホームページでお確かめいただくとして、これから一般メディアへの露出機会も急増することが予想されますので、今のうちにお出でになってみては如何でしょうか。
▲旧万世橋駅構内の高架下レンガアーチ部は特別公開にあわせてライトアップされ、万世橋駅と交通博物館の歴史を綴るビデオが上映されている。'06.1.17

ピントの“芯”。

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広田尚敬さんのご子息で、新進気鋭の写真家として活躍している広田 泉さんから、私の話をご自身のホームページ「鉄道写真.com」で紹介したので…とメールが入りました。いったいどんな話かと思ってさっそくHPを開いてみると、私が語った“ピント”の話を端緒に、もう一度写真のピントに関して再検証してみたという話でした。

実際、毎日膨大な量の鉄道写真に目を通している身からすると、「本当にピントが出ている」写真はそれほど多くないことに気づきます。これは銀塩、デジタルの別に限ったことではなく、例えば特集の写真募集にお寄せいただく作品にしても、極端な話、1?2割は本来のピント精度が出ていないといっても過言ではありません。ご本人はピントが出ていると確信してお送りくださるのでしょうが、残念ながら外れているのです。手ブレ、動体ブレ、レンズ固有の性能、銀塩の場合はさらにフィルムの平面性、等々、その直接の原因はいろいろと考えられますが、何よりも最大の“原因”は「本当にピントが出ている」生の写真をご覧になったことがない、つまりは本当にピントがあっている状態を体感的にご存知ないことにあります。

印刷媒体の誌面では写真はCMYKの4色の網点で再現されますから、誌面で「本当のピント」を伝えることはできません。ですからいくら力説しようとも説得力に欠け、結局は本当にピントの出ている原版を見ていただくしか方法はないのですが、それは物理的に無理というものです。

従来の銀塩、ことにポジ(スライド)の場合、精度の高いピントルーペは必需品です。本当にピントの出ているポジは、銀粒子をかき分けるが如くエッジが立っており、背筋がゾクゾクするほど切れ味が良いものです。ところがえてして多くの方がこのピントルーペを使っておられません。理想的には本当にピントの出ているポジをピントルーペで体感してから、ご自身の作品をルーペでのぞくのが一番なのですが…。
▲ピントルーペの数々。手前の万年筆型のものは製版用の25倍ルーペで、いつも持ち歩いている。上下逆像なので慣れるまではちょっと見にくいが、精度は高い。

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デジタルの場合も、広田 泉さんのHPから引用させていただくと、「本当にシャープな写真というのは100%表示してもピッチリと絹のように繊細な線が出ます。しかしほんの少しでもボケのあるものはシャープをかけても線が太くなるだけで本当のシャープにはなりません」。

では「本当にピントの出ている」写真はどうすれば得られるのか? まず言えることは被写界深度に頼らず、ピントの“芯”を出すことです。絞り込めば絞り込むほど被写界深度は深くなり、疑似的にピントが合う領域は増えます。ただ、本来のピントの“芯”は一点であるはずです。極端な話、絞れば絞るほどピントは良くなるかというと、そのレンズ固有の臨界点以上に絞ると回折現象によってかえってピントは悪くなります。どの絞り値の時にどんな描写をするのか、所有するレンズ本来の性能をあらかじめ知っておくことが不可欠です。
▲折しも広田尚敬さんの新刊『デジタルカメラを生かす鉄道写真』(東京堂出版)が届いた。これまで語られなかった撮影ノウハウも盛り込まれており、撮影ファンには必見。さらに鉄道六誌の顔写真付き編集長インタビューや各誌のインプレッションもあり、その内容は広田さんだからこそ許される辛辣(?)さで、これまた必読。

さらに、これは本当に書きにくいことですが、カメラとレンズの相性、さらには固有の性能にピントが左右されることが少なからずあります。世界に冠たる光学技術を誇る日本の製品だけに、表向きには個体差はないものとされていますが、どっこいこれが大有りなのです。鉄道写真では定番カメラとなっているある機種にしても、数多の作例を見てきた実感からすると「本当のピントが出る」のは3台に1台、残りの2台のうち1台はオーバーホールに入れれば直るものの、最後の1台はどうやっても本来のピントが出ない“ハズレ”です。蒸気機関車全盛期に何回修理に入っても蒸気の上がりの悪い個体を“ボロガマ”と呼んでいましたが、まさにその伝です。

昨今のデジタル一眼でも同じような事例はあり、さるプロの方から伺ったところでは、同一メーカーの専用レンズでさえ、同一機種のA、Bふたつのボディーに付けると明らかにピント精度が違うことがままあると言います。結局、このレンズはAボディー用、このレンズはBボディー用と組み合わせを決め、その組み合わせのままメーカーのプロサービスでピントの“芯出し”のキャリブレーションをしてから実用に供すると聞きます。
普段はなかなかそこまで気にしないピントですが、これを機会に撮りためた作品、そして愛用の機材と、もう一度点検してみては如何でしょうか。

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第九回:列車密度世界一(?)の3フィート軌道。
11日付けのアイルランド紀行第8回を「さすがにあまりのマイナーさゆえか人気がなく、このところページビューが減ってきてしまっていることもあって、一旦中休みとしてレギュラー記事に戻し…」と結んだところ、メール等で「楽しみにしているのに」とご叱責やら励ましやらを多数頂戴しました。そんなわけで気を取り直し今日から再開、何日かに一度のペースで書き進むことにいたしましょう。
▲一面に広がるピート・ボグからワゴンマスター12t機の牽く盈車列車が帰ってきた。レンズボーラァの本線軌道は複線となっており、その列車本数は驚くほど多い。'02.10.22

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さて、話はアイルランド2日目です。今日は昨日訪ねたブラックウォーターワークスから北へ50キロほど離れたレンズボーラァ(Lanesborough)地区のボード・ナ・モナ軌道を目指します。ブラックウォーターから50キロ程度ならいっそのこと最寄のアスローンの町に宿をとればとお思いでしょうが、事前に調べたところではビジネスホテル的な宿泊施設はなく、B&B(ベッド&ブレックファースト)が数軒あるのみです。もちろんB&Bなら料金的にもリーズナブルですが、彼の地のツーリスト向けB&Bは、えてしてかつての日本のユースホステルのように過剰にフレンドリーで、朝食などいらぬから早朝に出発したいなどというオーダーを切り出しにくいケースがままあります。こちらはアイルランド旅行自体を楽しもうと来ているわけではありませんから、ビジネスライクにこちらのペースで行程を組むためには都市部のビジネスホテルが一番。結局、120キロあまりを往復する覚悟で首都・ダブリンのホテルに宿をかまえたのでした。
▲背後に見える発電所に向かい大きくカーブをきるピート列車。3?4列車が続行で運転される。'02.10.22

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ダブリンからはまた昨日と同じルート、高速環状M50号線から高速M4号線へ、さらに国道N4号線へと車を進めます。昨日のような事故渋滞もなく、朝靄のたちこめる中、軽快なドライブです。初めて走るのと大きく違い、一往復しているだけに“先が読める”安心感は、場所が海外だけに絶大です。
▲正門から見たレンズボーラァ火力発電所の威容。'02.10.22

さて、アイルランドにはピートを燃料とする巨大な火力発電所が5箇所あると聞きますが、目指すレンズボーラァ(Lanesborough)発電所もそのひとつです。アイルランド語から来ているこの地名の発音も非常に難しく、ここでは現地で私が聞き取ったままとりあえずレンズボーラァと表記することにしましょう。事前に調査したところでは、軌道はこの発電所の燃料となるピートを搬送するために365日運転されており、しかもその輸送量の多さは各地のボード・ナ・モナの軌道網の中でも屈指とのことでした。

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昨日のブラックウォーターワークスの荒涼とした風景を想像しながらたどり着いたレンズボーラァの町は、想像とはまったく違う近代的な普通の町でした。町中のどこからでも見える巨大な煙突が火力発電所で、その煙突を目指しさえすれば、道は必ずどこかでボード・ナ・モナの3フィート軌道と遭遇します。どうやら何箇所かローディング・ポイントがあるようですが、町外れの東側に広がる広大なピート・ボグがメインのようで、何と複線の軌道が延々と続いています。
▲本線軌道の途中で見かけた保線用駐泊所(左)。12t機が1輌待機していた。右は同所で台車に積み込まれた軌匡。'02.10.22

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住宅街を分け入ってゆくと、大きな墓地へ続く道がお誂えの位置で軌道をオーバーパスしているのが見えました。車一台がやっと通れるほどの橋ですが、眼下の軌道はちょうど緩いカーブを描き、その彼方には黒々としたピート・ボグが地平線まで広がっています。暫く待っていれば列車が来るのでは、などと思う間もなくくぐもったエンジン音を響かせながらワゴンマスターの12t機がやってきました。これはラッキーとシャッターを切ったものの、その100mほど後にも次の列車が…。
3フィート以下の軌道としては、恐らく世界で一番列車密度の高いであろうレンズボーラァ軌道との最初の出会いでした。
▲レンズボーラァの軌道網はその概要さえ把握出来ないほど巨大だった。軌道を辿っても、さながらパズルのように分岐を繰り返しとめどなく続く。'02.10.22

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今からちょうど35年前の今日、1971(昭和46)年1月14日夜、私は大混雑の上野駅ホームで臨時急行「戸狩スキー」の入線を待っていました。翌15日は成人の日で休日、しかも金曜日とあって、まだまだ週休二日制が定着してはいなかったものの、3連休をとって上信越のゲレンデを目指すスキーヤーで駅は溢れかえっていました。その頃の冬の上野駅といえば、帰省シーズン以外は、長いスキー板を抱えたスキーヤーに席捲された感がありました。列車の方も臨時急行「小出スキー」、「戸狩スキー」、「石打スキー」等々、まさに機関銃の連射のごとくスキー臨が設定されており、しかもそのどれもが阿鼻叫喚の地獄絵の如き混雑ぶりでした。
▲295レを牽いて替佐で小休止するC56 131。巨大なツララ切りもさることながら、単式コンプレッサーを左右両面に備える異色機でもあった。'71.1.15

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臨時急行「戸狩スキー」は飯山線桑名川行き。妙高高原行きの「妙高51号」と併結されて、日付の変わる直前23時55分に上野駅を出発します。桑名川行きはわずか3輌、しかもその車内は予想したとおりの大混雑。何とか席だけは確保したものの、スキーヤーとはまったく違う風体だけに周囲から浮いていることおびただしい状況です。ではなにゆえこの列車に乗ろうとしているかというと、それには二つの大きな理由がありました。ひとつは飯山線の8620牽引の早朝の通勤列車に間に合わせるため、そしてもうひとつはこの「戸狩スキー」が長野から蒸機牽引となることです。
▲雪晴れの青空を衝くようにC56のブロワが上がる。'71.1.15

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高崎二区のEF58に牽かれた「妙高51・戸狩スキー」は闇の関東平野をひたすら雪原を目指して走り続けます。少しでも早く仮眠をとりたいこちらの意図とは裏腹に、テンションの上がったスキーヤーたちの笑い声が車内に響き続けます。もちろん当時は禁煙車などというものがあろうはずなく、白熱灯に照らされた車内は紫煙がたちこめむせかえるようです。それでもいつしか眠りに落ち、碓氷を越えたのも記憶にないまま、気付くと列車は漆黒の川中島を通過、再開された車内アナウンスが長野での列車分割による誤乗防止をしつこく伝え始めました。
▲1月15日は注連縄飾りなどを焚きあげる「どんど焼き」の日。替佐の雪原でも近所の人々が集まって伝統の行事が行なわれていた。今年の豪雪から比べると穏やかな里山風景である。'71.1.15

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長野では分割作業の後、「妙高51号」が先発、ややあってホームに残された3輌を迎えにきたのはC12 66でした。上諏訪からスキーシーズンだけ長野に応援にきているカマで、まさに現在真岡鐵道で動態保存されている機関車そのものです。臨時とはいえ、全国を見回しても、当時C12が牽引する「急行」はこの「戸狩スキー」だけでした。

排気室を持たないC55以前の近代機特有の歯切れの良いブラスト音を響かせながら、「戸狩スキー」は豊野を出て飯山線に入り、明けやらぬ千曲川を右手に立ヶ花-上今井間の20‰を越え、やがてまだ明るさのかけらも見えない飯山駅へと滑り込むのでした。
▲飯山の矩形庫は木造2線の模型にしたくなるような姿形の良いものだった。'71.1.15

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こちらは飯山で「戸狩スキー」を捨て、上り始発の122Dで撮影地の蓮-替佐間に戻り、続いて上ってくるハチロク牽引の222列車を迎え打とうという算段です。「戸狩スキー」から降り立った飯山は、雪こそ降っていないものの、午前5時とあってその寒さは筆舌に尽くしがたいものでした。それでも隣のホームには222レを牽く18688が規則的なコンプレッサーの排気を繰り返しながら待機しており、水銀灯に照らし出されるその美しさは冷気を振り払うほど神々しく見えたものです。実際、担当工場のお膝元ということもあってか、長野のカマは他区に比べて格段に整備が良く、その中でも2輌だけ在籍していたハチロク、18688と88623はとりわけ美しく磨きあげられていました。この222列車牽引以外は構内入換えが主な仕業でしたから、フロントデッキには無粋は手摺りが増設されてしまっておりそれだけが残念でしたが、恐らくこの1971年初頭に生き残ったハチロクの中でもっとも美しかったのはこの2輌だったのではないでしょうか。
▲上諏訪から応援に来たC12 66は、本業が上諏訪の入換えだけに、警戒塗装の、お世辞にも美しい機関車ではなかった。ただそれでも今日はまぎれもない「急行用機」である。現在は真岡鐵道で動態保存されている。'71.1.15 飯山

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蓮-替佐間は11キロポスト付近のはざま第二・第三隧道をサミットとして両側が20‰の勾配になっており、勾配を考慮すれば当然蓮方を選択すべきでしょうが、何を思ったか 蓮を通り過ぎて替佐まで行ってしまい、結局は替佐-蓮間でほぼ半日を費やすこととなります。

雪晴れの好天に恵まれた35年前の成人の日、撮り足りない思いはあったものの、美しく整備された長野の機関車たちにそれなりの満足感を得て飯山を後にすることとしました。14時台とちょっと早めですが、帰りももちろんC12 66牽引の急行「戸狩スキー」。上野には20時23分の到着です。
▲飯山を発車する295レ。実は最後尾には逆機のC12 66がぶら下がっている。桑名川まで回送されて上り急行「戸狩スキー」の先頭にたつのだ。'71.1.15

昨年のクリスマス・イブにこのブログでご紹介した東京ステーションホテルのレストラン「ばら」をご覧になった読者の方から、嬉しいお手紙と写真を頂戴しました。東京都の渡辺康正さんからのもので、お会いしたことはありませんが、自分なりのペースでしっかりと趣味を楽しんでおられる様子が伝わってくる、たいへん味わい深いお手紙でした。私信で留めるには実にもったいない内容と思い、メールで転載のお許しをいただき、ここにご紹介することにしました。

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12月24日付けの『編集長敬白』「レストラン『ばら』4番テーブル」を拝見してお手紙いたしました。

レストラン「ばら」には、小生も昨年秋、結婚記念日のランチで家内ともども一度訪問したことがあります。もちろん、東海道本線を眺められるレストランを訪れることも内緒の目的でしたが…(ちなみに、その時には4番テーブルとはいかず、東京中央郵便局側の窓側でした)。

さて、東京ステーションホテルには、私が申し上げるまでもなく、「ばら」の鋼製の窓とともに「国鉄時代」を見守ってきた窓がいくつかあります。そのひとつが、編集長が「ばら」の入口の写真を撮影された場所のすぐ左手にある「カメリア」のステンドグラスでしょう。
▲渡辺康正さん撮影の「バー・カメリア」のステンドグラス越しに見える京浜東北線電車。勤め帰りにこんなバーで静かにドライマティーニを一杯…そんな「鉄道趣味」も素敵だ。’05.3.19

東京ステーションホテルのバーの中で最も古いのが「バー・カメリア」。ステンドグラスの向こうには、京浜東北線、山手線が行き交い、東海道本線の列車も遠望できます。BGMを流さない室内には電車の音が響き、うまく時間が合えば、電機のホイッスルも聞こえてきます。お客さんが電車に乗り遅れないよういつも5分進めてある時計には、中・長距離列車に乗る前に立ち寄る旅人への心遣いも感じられます。かくいう私も関西赴任時代、新幹線を待つ間(正確には、待ち時間ができるように指定券を買って)訪れたのがきっかけで、東京に戻ってからも寄り道先にしています。

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赤レンガ駅舎の中で、列車のウェイティング・バーとも言えそうな「カメリア」のカウンターに座って、窓越しに1/1を眺めながら、ビールやウィスキー、スタンダードなカクテルを頼むもよし、“Tokyo Station”、「シンデレラ・エクスプレス」、“Get off a train”、さらに長野新幹線開業を記念した「あさまマティーニ」といった、いかにも、なオリジナル・カクテルを楽しむもよし、仕事帰りの「鉄」にはたまらないひとときです。

マスターの杉本さんは、阿房列車の内田百?(※ひゃっけん=外字のためMacの場合文字化けしてしまうようです)先生が弟子たちとの宴会にステーションホテルを訪れ、窓の外を茶色い「国電」が走っていた頃からカウンターに立ってきたそうで、カメリアとともに赤レンガの駅舎から国鉄時代、さらにはJR時代を見つめてこられたといっても過言ではないでしょう。

多くの旅行者が訪れたであろう「カメリア」も、駅舎復原のため3月末で閉店する予定だそうです。電車が見えるバーの窓、さまざまな名列車が行き交った国鉄時代の日々が目に浮かぶような窓を印画紙に残してみたくて、お客もまばらな土曜の午後(現在は土曜日は休業)、マナー違反を承知でお願いしたのがお送りする写真です。
▲シェイカーを振るマスターの杉本さん。バックの“STATION HOTEL”の飾り文字が時代を物語る。ちなみに、この写真はキヤノンNewF1+28㎜にネオパン・プレストを詰めて撮影されたそうで、こんなところにも渡辺さんの拘りが感じられる。やはりバーには銀塩モノクロである。

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「呉越同舟」とは孫子の兵法書にある言葉で、反目する呉と越の国の人が乗り合わせた船が嵐に遭った際、互いに協力して水をかき出して難局を乗り切った故事に由来するものとされています。わが国を代表する観光地「日光」を巡る国鉄と東武鉄道の熾烈な競争は、まさに呉と越の関係に例えられるものだったと言えます。

日本鉄道日光線の延伸として現在の宇都宮?日光間が全通したのが1890(明治23)年。それに対して東武方の下今市?東武日光間が開業したのが1929(昭和4)年のことですが、両者のシェア争いが本格化したのは、戦後復興が軌道に乗り始めた1950年代に入ってからのことです。戦前のデハ10系特急「華厳」「鬼怒」の名を踏襲して5700系「けごん」「きぬ」が誕生したのが1951(昭和26)年9月、ついで1956(昭和31)年4月には1700系が登場して浅草?東武日光間の所要2時間の壁が破られます。国鉄はこれに対抗すべく、同年10月には新形式キハ55系を充当した準急「日光」をデビューさせ、両者の日光攻防戦はまさにデッドヒートしてゆくのです。
▲南栗橋車両管理区春日部支所で仲良く並んだ485系と100系“スペーシア”。3月ダイヤ改正からは485系は東武日光・鬼怒川温泉へ、100系は湘南新宿ラインを経由してJR新宿駅に乗り入れる。JR山手貨物線に私鉄特急が定期列車として乗り入れるのはもちろん史上初のこと。'06.1.12 P:RM

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ただ、国鉄側には根本的なウィークポイントが存在しました。線型の悪さ、つまり宇都宮でスイッチバックせねばならない点です。対する東武は1960(昭和35)年春にはDRC =1720系を送り込み、ここに勝敗は決しました。1970年代以降、国鉄日光線は単なるローカル線となってしまいます。ただ、歴史的確執だけに、その後も歩み寄る機会はないと思われていました。それだけに今回の栗橋駅短絡線による相互乗り入れはまさに「呉越同舟」、私たちファンにとっては嬉しい驚きです。
▲485系は「あいづ」用車を再改造したもので、前面は愛称表示器の撤去と運転台部分を一新したことによって外観の印象は大きく変わった。'06.1.12 P:RM

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さて、この3月ダイヤ改正の目玉とも言うべき東武鉄道・JR東日本の相互直通運転用特急車が、今朝、報道陣にお披露目されました。JR東日本の485系は特急「日光」「きぬがわ」として新宿?東武日光・鬼怒川温泉間を1日各1往復、東武鉄道の100系は特急「スペーシアきぬがわ」として新宿?鬼怒川温泉間を1日2往復する予定です。JR東北本線・東武日光線の栗橋駅を介してJR新宿と東武日光・鬼怒川方面を結ぶわけですから、当然、山手貨物線を走る「スペーシア」や、東武日光線の渡良瀬川橋梁を渡る485系の姿を拝むことができるわけです。運転開始は3月18日土曜日の予定。北関東エリアが劇的に面白く変貌しそうです。
▲報道陣の撮影を前にお化粧直し中の485系。こうやって並ぶともともとが同じ会社の車輌のようにさえ見える。'06.1.12 P:RM

第八回:氷雨のブーラワークス。
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シャノンブリッジのパワーステーション(火力発電所)は、街から遠く離れた荒野のような場所に聳え立っていました。列車の走行写真をと思ってしばらく待ったのですが、いつまで経ってもローディング・ポイントに並んだ列車に動きはなく、やむなく断念。スケジュールも押してきたので、次の目的地ブーラワークス(Boora Works)を目指すことにしました。

アスローン地区のボード・ナ・モナ路線網は、ブラックウォーターワークスが管掌する西側のエリア(シャノン火力発電所)と、ブーラワークス管理化の東側エリア(ファーバン火力発電所)とに大別され、双方は延長30kmほどの本線で結ばれています。明日はこのアスローン地区から遠く離れた別の路線網を見にゆく予定ですから、今日中にもうひとつの拠点・ブーラワークスも見ておかねばなりません。
▲ピート・ボグの中を一直線に貫く田舎道をブーラワークス目指してひた走る。ついに氷雨が降りはじめた。'02.10.21

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10月末ともなるとアイルランドの日照時間はただでさえ短く、そこにきて小雨まじりの天気となってきたこともあって、すれ違う車も皆スモールライトを点灯し始めています。手書きの路線図と道路地図を対照しながら田舎道を進むものの、辺りに人家もなく、道の両側にはどす黒いピート・ボグが地平線まで続くばかり。探しあぐねた末、ようやくブーラワークスにたどり着いたものの、呼べど叫べどだれもおらず、そのうちに辺りが暗くなってきてしまってタイムアウト。結局、Cシリーズと呼ばれるレールカーも多数在籍するはずのブーラワークスを見学することはかないませんでした。
残念ながらこの日はこれで打ち止め。再び2時間近くをかけてダブリンのホテルへと戻りました。
▲牧場を挟んでブーラワークスを遠望する。右端にはCシリーズと呼ばれるレールバスの姿も見える。'02.10.21

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なお、このアスローン地区ではボード・ナ・モナ自体が「ウエスト・オファリー鉄道」(West Offaly Railway)のネーミングで観光シーズンだけツアー列車を運行しています。ブラックウォーターワークス内に設けられた「シャノンブリッジ駅」を起点にした9kmほどのボグ・ツアーで、専用塗色のワゴンマスター機がボギー客車を牽き、45分ほどをかけて湿地帯を巡ります。毎年4?9月にかけて運転されているそうで、料金は6ユーロ。残念ながらすでに運転期間は終わってしまっていましたが、再訪の際は是非とも乗車してみたいものです。

さて、正月から始めたアイルランド紀行はまだまだ続きますが、さすがにあまりのマイナーさゆえか人気がなく、このところページビューが減ってきてしまっていることもあって、一旦中休みとしてレギュラー記事に戻し、続きはまた週末にでも再開することにしましょう。
▲ウエスト・オファリー鉄道のボグ・ツアー列車。ガイドも乗り込んだ全行程45分のエクスカーションだそうだ。(ボード・ナ・モナ絵葉書より)

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第七回:ひたすら続くピート・ボグ。
初めて目にするピート・ボグは想像を絶する広さで目の前に広がっていました。“bog”=重いものは沈みこんでしまう湿地・泥沼=とはよく言ったもので、チョコレートムース状のボグは深いところで12mにも達すると聞きます。実際足を踏み入れてみると、はじめはちょっと柔らかい地面程度に感じた足元からじわじわと水分が沸き出てきて、知らぬ間にどんどん足が沈んでいってしまうのがわかります。恐怖映画などでよく「底なし沼」なるものが登場しますが、ピート・ボグこそ現代の底なし沼なのです。
▲シャノンブリッジ付近のピート・ボグ。地平線まで続く底なしの大地だ。それにしても、好きで選んだインダストリアル・ナローの道とはいえ、寒風吹きすさぶこの線路の横に一人で立っていると流石に自己嫌悪に陥る。'02.10.21

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アイルランドは実に国土の17.2%がこのピート・ボグに覆われており、古くから暖房用としてピートが活用されてきました。冬になると家々からは暖炉でピートを焚く煙が上がり、街中はその独特の香りで包まれることになります。ただ、面白いのはこれだけ潤沢にピートが産出されるにも関わらず、アイリッシュ・ウィスキーの香りつけ(麦芽の乾燥)にはピートは用いられず、ピートで香りつけされるのはイギリス本国のスコッチ・ウィスキーの方です。
▲ブラックウォーターワークスからピート・ボグへと一直線に続く本線軌道。機関車にはすべて列車無線が装備されているとはいえ、この底なしの大地に乗り出してゆく運転士の気分はいかばかりか…。'02.10.21

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ピート・ボグはその95%が水分の湿地帯だけに、動植物の生態系も特異なものがあります。それだけに、近年、ラジカルな環境保護団体がピート採掘による“環境破壊”を訴えており、ボード・ナ・モナもその対応に苦慮しつつあるようです。実際、軌道による大規模採掘は縮小傾向にあり、私が訪問した後にも、何箇所かの路線が廃止されたと伝え聞きます。
▲フィールドのあちらこちらに梯子状の「軌匡」が山積みされている。この「軌匡」をパタパタと並べて列車は底なしの大地へと向かう。'02.10.21

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さて、ブラックウォーターワークスを辞して、まずは動いている本線の姿を見学しようとシャノン河沿いのシャノンブリッジを目指しました。シャノンブリッジの町はその景観から一応は観光地のようですが、実際に足を踏み入れてみると拍子抜けするほど小さく、町のインフォメーションでさえご覧のようなささやかさ…。そのまま通過しようと思ったのですが、ここで昼飯を食っていないことに気づきました。考えてみればダブリン空港で朝マックを食べたきり何も口にしていません。それではと町中を見渡したものの、コンビニがあるわけもなく、手軽に食事ができるようなところは見当たりません。こうなると頼みの綱は“パブ”です。
▲シャノンブリッジの町のささやかなインフォメーションセンター。パブの雑貨屋スペースで埃をかぶって売っていた絵葉書より転載。

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どんなに小さな村であろうと、教会とパブは必ずあると言われますが、実際に、えっこんな所にも、と思う場所にさえパブはあります。日本人の感覚からすると、ロンドンなどの都市部にあるウォールナットのカウンターが備わったバーを思い浮かべますが、田舎の町や村にあるパブは実は雑貨屋を兼ねた何でも屋です。公共を意味する“パブリック”を語源とするパブは、本来はこのような雑貨屋を意味していたそうで、その奥で立ち飲みでビール(エール)を供したのが原形とされています。このシャノンブリッジで見つけたパブもまさにそのプリミティブな姿を留めており、狭い入口を入るとパンやら箒やら文具やらを売っている雑貨屋、右側の扉を押しやると小さなテーブルとカウンターがあって一杯呑めるという構造でした。
▲アスローン地区の本線・準本線軌道網。左の赤点がブラックウォーターワークス。右下の尺が10キロを示しているから、この地区だけでどれほどの軌道延長になるか想像できよう。(The Narrow Gauge No.171より)

話は脱線しますが、英国やアイルランドのこういった田舎で昼食をとるのに一番おすすめなのがパブのスープです。もともとが“パブリック”な使命を帯びてもいるため、たとえランチタイム(?)が終わっていようとも、空腹で飛び込んでくる旅人のために必ずスープは用意されています。スープといっても洒落たコンソメスープではなく、ベーコンやら野菜やらがたっぷりと入ったいわばシチューのようなスープで、これが日本で言えばどんぶり一杯近く出てきます。それにパン何きれかとバターが必ずつきますから、日本人の胃袋には充分すぎるほどです。ヨーロッパ大陸のデリケートな味からすると、概してやたらとしょっぱく、「これは旨い」と言える代物ではありませんが、待たされることもなく実に便利な食事です。ちなみに頼む時は“soup of the day”と言えば判ります。このシャノンブリッジのパブで食べた“soup of the day”も結構なボリュームで2.5ユーロ。朝マックより安いのが嬉しい限りです。

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第六回:ブラックウォーターの機関車たち。
ボード・ナ・モナ全体ではいまだに350輌近い機関車を保有していると聞きますが、このブラックウォーターワークスをはじめとする自社工場でも続々と“新車”を送り出しており、リアルタイムな総輌数は掴みようもないのが実情です。ただ、機関車に関してはすべて“LM”の記号の下に通し番号として管理されており、その番号から新旧を類推することが可能です。ちなみに今回目にした最多番号はLM428、つまり開闢以来400輌以上の機関車が存在していたことになります。
▲巨大な修理工場建屋の前に並ぶブラックウォーターワークスの機関車たち。手前はLM254で、ドイッツ製KS28B形3.4t機(製番57835)。'02.10.21

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インダストリアル・レールウェイ・ソサエティーの調査によれば、ボード・ナ・モナの機関車の歴史は、1936年に2輌のドイツ製内燃機と1輌のイタリア製4気筒“モンタニア”機によって幕を開けたとされます。“モンタニア”といえば銚子のヤマサ醤油に保存されているドイッツ製を思い浮かべますが、いったいどんな車輌だったのでしょうか…。

その後、ルールタール(独)やホイットコム(米)、さらにはバークレー製蒸気機関車(LM43?45、ピート焚)などが試用されましたが、結局は英国ラストン製が標準機となり、1946年から1957年にかけて大量増備(LM13?175)されることとなります。しかし、これだけの輌数のしかも単一用途の需要となると、レディーメード品では不経済でもあり、ボード・ナ・モナはこの最終機ラストン製LM175をベースに独自の機関車を開発製造することにします。ラストンを継承したハンスレー・エンジン社との共同開発で1965年に誕生したこの独自開発専用機(LM199?)は“ワゴンマスター”と命名され、以後、今日までボード・ナ・モナの看板機として増殖し続けています。
▲コロッとしたスタイルが何ともかわいらしいLM364(左)とファーガソン・レールトラクターF353(右)。'02.10.21

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▲新旧の主力ワゴンマスター機。最新のLM426(左)とジャックロッド駆動のLM217(右)。'02.10.21
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▲LM364(左)とF353(右)。レールトラクターFシリーズは1987年からブラックウォーターワークスで誕生している。'02.10.21
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▲初期のラストン製LM105(左)とドイッツ製KS28Bの廃車体(右)。一番左はLM261(製番57842)。'02.10.21
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▲レールトラクター最新バージョン。何かの工作車なのだろうか、とにかくてんこ盛りの装備だ。'02.10.21

この機関車=LMシリーズのほかにも、機関車と言ってよいのか、Fシリーズ=“レールトラクター”と称する珍妙な牽引車が多数在籍しています。フォードソンならぬファーガソン(Massey-Ferguson)製トラクターを改造したもので、1987年にここブラックウォーターワークスで1号機が誕生して以来、135台が改造されたと言います。しかもそのうち15台はハイブリッド仕様だそうで、これまた驚きです。ただ、構造的にはトラクターを台車に載せて、台枠外部にたらしたチェーンで駆動するだけですから、臨機応変にゴムタイヤのトラクターに戻されることもあるようで、これまたいったい何輌が“鉄道車輌”状態で在籍しているのかはわかりません。
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▲広大なピートボグでの作業だけに人員輸送用の車輌も各種用意されている。レールバスもかなり在籍しているそうだが、残念ながら見ることはできなかった。写真はラストン製LM143の牽く事業用列車。'02.10.21

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第五回:ブラックウォーターワークス。
2日間とんでしまいましたが、アイルランド紀行の続編をお送りしましょう。

前夜はさんざんな目にあいましたが、今までは前哨戦で今日からが本命、おちおち寝坊しているわけにはゆきません。6時に起きて機材を背負って連絡バスで空港へ。ともかくレンタカーを借りねば何も始まりません。ついでに空港のマクドナルドで万国共通の“朝マック”=ソーセージ・エッグ・マフィンを食します。2.75ユーロ也。そう、アイルランドの貨幣はポンドではなくユーロなのです。
▲国道N6号線を走る。さしたる観光地もないが、点在する小さな村々の中心には必ず教会がある。'02.10.21

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今日最初の目的地はアイルランド中部、レンスター州とコナート州の州境に位置するアスローン近郊のボード・ナ・モナ、ブラックウォーターワークス。冒頭でもご紹介したように、ボード・ナ・モナは半官半民のピート会社で、火力発電所の燃料用を中心とするピートの採掘にとんでもない規模のナローゲージ網を擁しています。その軌道延長は実に1500キロ、保有機関車輌数は250輌、貨車は3500輌に達すると言われています。ブラックウォーターワークスは各地に点在するボード・ナ・モナの路線網のうち、もっとも知られたシャノン河地区の路線網の中核ワークショップです。
▲目的地のアスローン(ATHLONE)はアイルランドのほぼ中央に位置する。

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空港からアスローンへのルートはダブリンの高速環状線M50号線からM4号線に入りひたすら西へ、さらに途中から高速は途切れて国道N6号線で計126キロの道のりです。前日の失敗もあって充分余裕をもって出発したはずが、高速環状線M50号線に入った途端にまたまた大渋滞。いくら月曜朝の出勤時間とはいえ、ビタッと停まったまま動きません。M4号線の分岐は7番ジャンクションですが、結局その手前、国道N3号線分岐の6番ジャンクションでの事故が原因でした。まぁ、事故とあればいたしかたないことですが、アイルランドの道路を走るのは初めてながら、イギリスと比べてインフラがかなり劣るように見受けられました。この後も、高速で国道でと、工事やらなにやら、やたらと渋滞に見舞われるハメとなります。
▲ボード・ナ・モナのブラックウォーターワークスと後日訪問するミッドランド・アイリッシュ・ピート。

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高速が途切れて一般国道に入ると、辺りは荒涼とした丘陵地帯がひたすら広がり、イギリスともフランスとも異なる一種独特の風景が続きます。アイルランドはキリスト教、それもカトリックの聖地で、垂れ込めた雲間から時折射るように差し込む陽光には、宗教にまったく関心のない私のような者をしても、何か敬虔な気持ちにさせられます。そんな丘陵地帯のほぼ10キロおきに小さな町が点在し、その中心には必ず尖塔を持つ教会が位置しています。

時計の針はすでに10時を回っています。実は出国前にブラックウォーターワークスのメールアドレスを調べて来意を伝えており、約束の時間は11時なのです。ようやくアスローンにたどり着いたものの、ここからブラックウォーターワークスまでのルートが難解です。まずは国道N62号線をひたすら南下しますが、この途中でボード・ナ・モナの本線と交差するはずです。今か今かと注意しつつ車を走らせること暫し、ついに国道をアンダーパスする3フィートゲージの線路を発見しました。遥か日本から1万キロ近く、ようやく出会えたアイルランドのピート鉄道です。
▲国道N62号線をアンダーパスするシャノン地区の本線軌道。ひたすら直線で平野を貫く。'02.10.21

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迷いに迷ってやっとブラックウォーターワークスにたどり着いたのは11時半を回ってしまっていました。正門から恐る恐る中に入ると、事務所の前で手招きしている人がいるではないですか。何とメールを受け取って待っていてくれたのです。これには大感激でした。
▲ワークショップで修理中のLM334。1981年ハンスレー製をベースにしたワゴンマスター12t機。'02.10.21

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昼休みになろうというのに、このマネージャーのケニーさんの案内でワークショップ内を見学します。現在ブラックウォーターワークスに所属する機関車は主力のワゴンマスター12t機6輌を筆頭に合計46輌、それ以外にも休車・廃車となった機関車が広大な敷地のそこかしこに並んでいます。ドイッツ、ラストン、ハンスレー、etc…さらには見たこともないような珍妙な機関車たちが次から次へと姿を現します。いや、これはすごい所に来てしまったと、ケニーさんにも呆れられるほどの興奮状態だったようです。
▲フォードソン・トラクター改造の面妖なF348。'02.10.21

テッド来日。

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10月27日付け「テッドからの贈り物」でご紹介した英国人ファン、テッド(Ted)ことエドワード・タルボット(Edward Talbot)さんが来日、日本でのコーディネーター役を買って出ているカメラマンの都築雅人さんのお誘いで、昨晩は親交のある何人かのファンが銀座に集うことになりました。

〆切まっただ中とあって、たどり着いたのはもう宴たけなわの21時近く。テッドと会うのは、私は去年の春、同行の編集部・山下は昨秋のドイツのプランダンプ以来です。聞けばクリスマス休みを使ってのプライベートな来日だそうで、日本型蒸機も大好きなテッドは久しぶりの撮影行を楽しみにしていたそうですが、折からの豪雪で断念。おまけに知人を訪ねて渡道した帰路の車中では“ジャパン・レールパス”を落としてしまう不運にも見舞われ、なんともお気の毒な限りです。
▲日本在住も長く、当然かなりの日本語は知っているはずだが、頑として日本語をしゃべらないテッド。理由を問いただすと「私は英語の教師だから」。

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人のことを“strange man”呼ばわりしながらも、テッドは私に必ずナロー関係の資料や書物をお土産に持ってきてくれますが、今回もご自身も深く関わりのあるウェールズ地方のふたつの保存鉄道、フェスティニョグ鉄道とウェリッシュ・ハイランド鉄道のガイドブックを持ってきてくれました。

英国西部のカーディガン湾の港町・ポースマドックから2方向に伸びる1'11 1/2"(597mm)ゲージの保存鉄道、フェスティニョグ(FFESTINIOG)鉄道ウェリッシュ・ハイランド(WELSH HIGHLAND)鉄道は、星の数ほどある英国の保存鉄道の中でも、今もっとも元気が良く注目を集めている保存鉄道です。両者ともにかつての軌道跡をボランティアの手で復元・復活、どんどん延伸しつつあり、遠からずポースマドックで両者が接続し、一大保存鉄道網を形成するに違いありません。
▲テッドが持ってきてくれたフェスティニョグ鉄道とウェリッシュ・ハイランド鉄道のガイドブック。ことにフェスティニョグの方は路線復活への20年をグラフィックに回顧したなかなか見ごたえのある一冊。

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テッドの話では車輌のレストレーションに関しても両者の技術力は当代一流で、私はまったく気付かなかったのですが、一見オリジナルに復元したとおぼしきフェアリー(飽和式)も実はスーパーヒーターを組み込んで過熱式としたり、ガラットの蒸気パイプを最新テクノロジーのフレキシブル・パイプに変更したり、外見を損なわずに性能と保守を配慮したレストアがなされているそうです。どこまでオリジナルに拘るべきかはわが国の動態復元でも常に議論となるところだけに勉強になります。

さて、これまたテッドに教えられて気付いたのですが、ウェリッシュ・ハイランド鉄道でレストア中だった“タスマニア・ガラット”と通称される最古のガラットがついに復活、昨秋は初めて列車牽引に充当されたそうです。確かに帰宅後にソサエティーのホームページを開いてみると、復活後の試運転時の動画なども公開されています。ウェリッシュ・ハイランドの“タスマニア・ガラット”はかねてより一目見たいと思っていただけに、これは行かずばなりますまい。ぜひ案内させてくれと再三誘ってくれたテッドを頼って、今年はウェールズに足を向けてみましょうか。
▲ポースマドックをめぐるふたつの保存鉄道。ウェリッシュ・ハイランド鉄道はまだ一部区間が未復活。

「31年目」の広田さん。

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今日は広田尚敬さんがお年始にお見えになりました。昨年は一年にわたって本誌上で連載「30年目のカウントダウン」を展開いただき、締めとなる12月発売号では姉妹誌『国鉄時代』でもC62重連「ニセコ」最後の日々をご披露いただいています。

国鉄本線蒸機全廃30年の昨年12月24日に向けて、当時の蒸機ファンにとって忘れることのできない広田さんの名作を連載としてご紹介したい…そう思いついたのは、かれこれ4年ほど前、広田さんのお宅でのことでした。決して作品の整理が良くない方(失礼!)だけに、保育社カラーブックス『蒸気機関車』などで強く印象に残っている国鉄蒸機の名作カラーをひと目拝見したいと申し出たところ、それでは自分で探しなさいということになったのです。

半信半疑で清水デザイナーとご自宅に伺い、段ボールに詰め込まれたポジの山を書斎に運び込むと、これが半端な量ではありません。いくらプロ、しかも第一人者とはいえ、ひとりの人間がこんなに撮ることが出来るのか、というほどの量です。とりあえずはマウントに入っている分だけでもと、丸一日を掛けて清水さんと地区別に分類したものの、残った怒涛のようなスリーブの山を前にギブアップ。ただ、この時に“生”で拝見した歴史的名作の数々が、連載「30年目のカウントダウン」の大きな引き金となりました。

広田さんの国鉄蒸機末期の作品は、山と渓谷社のカラーガイドなどごく一部を除いてカメラデータは紹介されていません。ポジ整理の中で、あの写真はシノゴだったのかとか、この写真は意外にも35ミリかとか、そんなスペック面での興味もどんどん沸いてきて、記憶に残る名作の数々を現代の印刷で再現し、未見の読者の皆さんにご覧いただくとともに、ご記憶の皆さんにも新たな発見をしていただこうと、連載では可能な限り詳細な撮影データを掲載するように努めました。

たいへんなご好評を頂戴した連載「30年目のカウントダウン」が終了して一ヶ月。今、広田さんと「31年目」の新企画を練っている最中です。
▲今月発売号の撮りおろし企画のカラープルーフを前にした広田さん。'06.1.6

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第四回:波乱万丈、ようやくアイルランドへ。
ウイリアム・スペンスの世にも奇妙な親亀子亀蒸機(?)などを見ているうちに早くも時計は16時過ぎとなってしまいました。長年にわたって思い憧れていたブロックハム・コレクションだけに、もっとゆっくりと見学したいところですが、そうもゆきません。何しろ19時10分ヒースロー空港発のダブリン行きに乗らなければならないのです。アンバレーから空港まではざっと見積もって120キロほどでしょうか。まあ2時間もみておけば余裕…と考えたのがとんでもない不幸の始まりでした。
▲こちらはBR(イギリス国鉄)のアンバレー駅。ロンドン・ビクトリア駅から
サウスコーストへ向かうアラン・バレー線の閑駅で、列車でミュージアムを訪れる人はあまりいないようだ。その証拠に、駅前の駐車場はパーク&ライドではなく、クルマでミュージアムにやってきた人のためのフリー・パーキングとなっていた。'02.10.20

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アンバレー・ミュージアムからヒースロー空港へは一般道をしばらく走ったのち高速M23号線に乗ってひたすら北上、ロンドンの高速外環状線M25に合流してからは50キロほどの道のりのはずです。後ろ髪を引かれる思いでアンバレーを後に“ワインディング・ロード”というに相応しいイングランドの田舎道を快適にドライブ。私はもともと英国車好きで、現在個人的に乗っているのが1964(昭和39)年式のオースチンだけに、レンタカーで割り振られたのがフィアットSTILOというのが残念無念。できることならばいつものようにダブルクラッチを踏みながら、タックインを使って小気味よくコーナリングを決めたいところですがそれはかなわぬ夢…。そうこうするうちに高速M23号線に入ってしまいました。
▲アンバレー鉄道終点はいまだにクゥオリーの面影を残している。これからさらに整備されてゆくはずで、この日も何人かもトラスト・メンバーが黙々と作業を続けていた。'02.10.20

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ここまでは実に快調に進んできたのですが、悲劇(?)はロンドンの高速外環状M25に合流した途端に起こりました。えっと思う間もなくいきなり大渋滞! とにかくものすごい車の量で、4?5車線あるにも関わらず牛歩のスピードとなってしまいました。考えてみれば日曜日の夕方、しかも首都ロンドンの環状線です。東京に例えれば、神田橋あたりから首都高速環状線で羽田空港に向かおうというのですから混むのも無理からぬことかも知れません。

いや、こうなると一気に気になってくるのがダブリン行きの飛行機の時間です。イギリスとアイルランドは日本から見れば同じ国のように思えますが全く別の国。つまり距離こそ短いもののあくまで「国際線」ですから、19時10分発ということは、搭乗手続きを考えれば安全をみて一時間前にはチェックインしておきたいところです。しかもレンタカー・リターンの時間もみておかねばなりません。もちろん満タン返しですから給油の時間も…。不安は怒涛のように襲いかかってきます。時計の針はすでに17時30分。相変わらず渋滞の列は歩くより遅い速度でしかありません。航空会社に電話しようにもそれも無理。そのうちにトイレにも行きたくなってくる始末。万事休すか…。
▲ブロックハム駅構内。複雑に敷かれたデュアル・ゲージがわかる。彼方に見える建屋がささやかなインダストリアル・レールウェイ・ミュージアム。'02.10.20

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ようやく渋滞を脱出して空港にたどり着いたのが18時30分過ぎ。とにかくハザードを点けっぱなしでレンタカーを横付けして出発ロビーに飛び込みました。何とかチェックインだけでもして、それからレンタカー・リターンをしようという算段です。ところがブリティッシュ・エアーのBA5977便のはずが、チェックインカウンターにはどこにもそんな便がありません。これはもう締め切られてしまったかと落胆しながら問いただしてみると「エアー・リンガスへ行け」と言うではないですか。エアー・リンガス? 半信半疑のまま“Air Lingus”カウンターへ行ってバウチャーを見せるとあっけなくチェックイン。どうやらBA5977便はコードシェア便で、実際はアイルランドの航空会社エアー・リンガス177便だったのです。しかも機材の関係で出発は一時間ほど遅れるとのこと。カウンターのおばさんからそれを聞いた途端、へなへなとその場に座り込んでしまいそうでした。

実に濃密な一日が終わり、ようやく機内で一息。とりあえず今日はホテルで寝るだけと思いきや、まだ受難は続くのでした。一時間ちょっとのフライトでダブリン空港に到着したのは22時20分過ぎ。入国審査らしきものもなく到着ロビーに出たものの、延着の最終便とあって辺りはすでに閑散としています。ホテルインフォメーションのブースも担当者はすでに帰ってしまったらしくもぬけの殻。係不在の際はこの電話で…と注意書きがしてあるので電話してみると、表の6番と7番バス停の間でまっていろとのこと。ではと表に出るとこれが土砂ぶりの雨。とにかくホテルに早くたどり着きたい一心でずぶ濡れになりながらバス停を探しますが、どこを探しても6番やら7番やらの番号はありません。ほかの番号はあるのですが、なぜか6と7だけないのです。これは聞き間違えに違いないと再び電話に戻り、もう一度聞いてみますがやはり“between 6 and 7”というばかり。向こうは向こうで最終の宿泊客をピックアップに車を差し向けたにも関わらずまだ乗ってないのか、とちょっとイラついている様子。到着ロビーはもう人影すらなくなりつつあります。

ようやく清掃のおじさんを見つけて聞いてみると、何と6番7番のバス停だけロビーをはさんで逆側の出口を出たところにあるではないですか。これはわからないはずです。電話の担当者はその旨を伝えてくれていたらしいのですが、こちらがそんな細かい 英語を聴き取れるわけもありません。こういう時は本当に一人旅の大変さを実感します。ホテルにたどり着くなり、フィルムの整理もうっちゃって深い眠りについたのでした。

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第三回:親亀の背中に子亀をのせて…。
なかなか話が本論のアイルランドにたどり着きませんが、せっかくですので今日はアンバレー・ミュージアム・インダストリアル・レイルウェイ・コレクションの中から、世にも奇妙な蒸気機関車をご紹介することにしましょう。
▲ギネス・ビール23号機の異様なサイドビュー。とても蒸気機関車とは思えないスタイルで、しかもその大きさたるやさながらライブスチーム。'02.10.20

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二十数年前、例の『BROCKHAM MUSEUM』というガイドブックの1頁目に出ていたのがこの機関車でした。1966年にアイルランドの首都ダブリンにあるギネス・ビールの工場内で撮影されたとクレジットのある写真には、“converter bogie"とキャプションがありますが、いったい何がどうなっているのかさっぱり理解できませんでした。この長年の謎がアンバレーの地を訪れて現物を目にすることによってようやく氷解したのです。

この1'10"(559mm)ゲージの超小型蒸気機関車はギネス・ビール構内で使用されていたもので、解説によればサムエル・ジオゲッガン(Samuel Geoghegan=アイリッシュだけに正確な発音は?)なるエンジニアが発案したものだそうです。ダブリンのギネス・ビール工場は丘の傾斜地にあり、ホップなどの原料は主に3つのレベルに貯蓄されていたといいます。この3レベルを結んで原料を効率的に輸送するためにジオゲッガンが考えたのが1'10"(559mm)ゲージの軌道です。実に39ものスパイラル・トンネルを穿った急勾配・急曲線の軌道は類例がなく、ことに狭隘かつ曲線のトンネルに対応する車輌限界は既存の機関車を受け付けるものではありませんでした。そこで彼は専用の機関車の開発に着手し、シリンダーやバルブギア類をボイラー上に載せた舶用蒸気機関のような二層建て蒸気機関車を完成させたのです。これによってホイールベースに対するオーバーハングが極端に短く、かつ全幅も極限まで狭めた専用機が実現しました。
▲フロントビュー。たしかによくよく見れば煙突と煙室扉があり、こちらが前だということがわかる。'02.10.20

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ダブリンのウイリアム・スペンス(William Spence)社コークストリート工場で誕生したこの奇妙な機関車は、ジオゲッガンの目論見通りの成果を収めることになりますが、数奇な運命はこれからが本番です。ギネス・ビール工場には国鉄の側線も入っており、この側線で使用する機関車の必要も生じてきました。ちなみにアイルランドのスタンダードゲージは5'3"(1600mm)ゲージですが、わざわざこの側線用機を新製するのももったいない(?)ということで鬼才・ジオゲッガンが考えたのがコンバーター・ボギー(converter bogie)、つまりは「親亀の上に子亀をのせる」方式です。スペンス・ロコがすっぽりと収まるコンバーター・ボギーなる台車を造り、そこに専用ホイストでのせることによって1'10"ゲージの超小型機を5'3"ゲージの本線機(?)に化けさせようというのです。古今東西鉄道技術者数知れずといえども、これほど珍奇なことを思いつく御仁もおりますまい。かくしてスペンス・ロコはアナログなデュアルゲージ・ロコとして1950年代まで活躍を続けたそうです。
▲こちらはキャブ(?)側。かろうじて焚口戸が見える。右にわずかに見える赤いエンドビームがコンバーター・ボギー。'02.10.20

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現在アンバレーで保存されているのはスペンス・ロコが23号機、コンバーター・ボギーが4号機(号台車?)で、専用ホイストとともにギネス・ビールがブロックハム・ミュージアムに寄贈(アンバレー入りは1982年)したものだそうです。ほかにも何輌かの仲間がイギリスとアイルランドに保存されていると聞きます。残念ながら資料には記載がありませんでしたが、この親亀子亀、いったい何輌が棲息していたのでしょうか?
あれからギネスの黒ビールを呑むたびに、この世にも不思議な蒸気機関車のことを思い出してしまいます。
▲5'3"ゲージ用「コンバーター・ボギー」(左)とスペンス・ロコをコンプリートした姿(右)。ギヤード・ローラー(?)を介して駆動するとあるが詳細は不明。いずれにせよ、とても常識では考えられない発想だ。(『BROCKHAM MUSEUM 』より)

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第二回:二十数年ぶりの念願成就?
蒸気トラックに度肝を抜かれたバーゼルドゥン・ブリックワークス(Bursledon Brickworks)でしたが、オープン・デーとは言うものの、まぁ村祭りといった程度の規模で、来場者もせいぜい百名といったところだったでしょうか。煉瓦工場の見学コースをひとわたり見て回り、早々に次の目的地アンバレー・ワーキング・ミュージアム(Amberley Working Museum)へと向かうことにします。
▲シンプレックスの牽く列車がゆっくりとアンバレー・ミュージアムの園内を巡る。'02.10.20

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アンバレー・ワーキング・ミュージアムは鉄道のみならず、手工業や工芸といったサセックス州の伝統技術を活きた形で伝承し、来場者に体験してもらおうというミュージアムで、わが国で言えば明治村や北海道開拓の村のような施設です。そんなバックグラウンドがあるからか、ここに保存されているのはすべてインダストリアル・ナローゲージの車輌たちで、2フィートゲージの機関車が30輌、それ以外のゲージの機関車が7輌、さらにおびただしい数の客貨車が集められています。

バーゼルドゥンからはポーツマスの海沿いをひたすら東に向かい、ブライトンの手前から内陸部へ一時間ほどの行程ですが、これがまたわかりにくく、またしてもカーナビの普及している日本の有り難さを実感するドライブでした。
▲11月上旬には冬期閉園となってしまうため、すでに乗客も少なく駅も閑散としている。'02.10.20

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入口でチケットを買って入ると、そこは産業革命前後の村といった感じで、石灰工場のキルンやら自動車修理工場やら、とにかくありとあらゆる職業に関連した建物があり、そこで実際に作業が行なわれています。その徹底ぶりはとても遊園地感覚ではなく、決してメジャーとは思えないウエスト・サセックスのこの地に、これほど広大な施設が運営してゆけること自体が、日本的感覚からすると驚異的です。自らの手で産業革命を成し遂げた国と、文明開化の名のもとに模倣した国との差でしょうか…。
▲結構盛大なエキゾーストノートを響かせて機回し中のシンプレックス。'02.10.20

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お目当ての2フィート鉄道は園内の一番奥の方にありました。距離にして1キロもないでしょうか、すでに10月末のシーズン終盤とあって運転本数も少なく、シンプレックスの牽くミキストが一時間に1本程度運転されているに過ぎませんでした。ただ、この列車に乗ってミュージアムのある終点駅に着いた時、飛び上がらんばかりに驚いてしまいました。駅名が「BROCKHAM」とあったからです。実はこのBROCKHAMという名には個人的にきわめて深い思いがあるのです。
▲左が二十数年にわたって大事にしてきた『BROCKHAM MUSEUM』のガイドブック。右は現在のアンバレー・ミュージアムのガイドブック。

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それはまだ十代の頃のことです。当時としては極めて珍しいヨーロッパ製のナロー製品を輸入している模型店(といっても自宅アパートの一室でしたが)があり、ある日そこで20頁ほどの興味深いインダストリアル・ナローのガイドブックを見かけました。コピーのような印刷の、まさに機関誌といった感じのそれは『BROCKHAM MUSEUM』とだけタイトルがあり、あとはひたすら写真とリストが連ねられていました。ご店主に伺っても、ほかの輸入品と一緒に紛れ込んできたらしくまったく要領を得ません。よほど欲しそうにしていたのか、「あげますよ」の一声に小躍りしてもらって帰ってきたのを昨日のことのように覚えています。

バグナル、ラストン、シンプレックス、リスター…ぼけぼけのモノクロ写真にどれほど見入っていたことでしょうか。あれ以来、実に四半世紀以上に渡ってBROCKHAMの名は脳裏から消え去ることはありませんでした。その後知己を得た英国ファンにBROCKHAM MUSEUMの所在を尋ねたりいろいろと探してはみたものの、ついにその場所はわからず終いでした。それだけに私にとってこの日の出会いはまさに時空を超えた衝撃であるとともに、二十数年ぶりの念願成就だったのです。

のちにわかったのは、1966年に設立されたBROCKHAM MUSEUM協会は1982年にこのアンバレー・ワーキング・ミュージアムに安住の地を得てその蒐集車輌をすべて移設していたのです。終点駅のブロックハムの名は、母体であるBROCKHAM MUSEUMを顕賞して付けられたものなのでした。
▲ようやく巡り合えたブロックハムの名を冠した駅。いや、思えば長い道のりだった…。'02.10.20

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第一回:まずはロンドン近郊を巡る。
Bord na Mona=ボード・ナ・モナ、ケルト語の社名を持つ半官半民のピート会社がアイルランド中部に網の目のように敷きめぐらしたナローゲージ網は実に延長1500キロにも及び、ヨーロッパ最大のインダストリアル・ナローゲージですが、日本はもとより隣国イギリスでさえその存在はほとんど知られていません。インターネットを経由して断片的に蒐集してきた情報は想像をかき立て、3年ほど前の秋、意を決して単身アイルランドへと向かいました。この正月はその際の見聞録をお届けすることにしましょう。
▲この旅の目的地のひとつ、アイルランド中部・レンズボウラァ発電所のヤードに並んだボード・ナ・モナの機関車たち。'02.10.22

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ピート(peat)とは単純に日本語に約せば“泥炭”のことですが、日本の石炭層に見られるものとは質的にも量的にも大きく異なり、コケ(moss)が堆積・炭化したピート・フィールドは、チョコレート・ムース状の底なしの泥濘として見渡す限りに広がっています。かく言う私も目の当たりにするまでは実感として掴めなかったのですが、その規模たるや想像を絶するまさに“泥濘の海”です。
▲『英国のピート・モス鉄道』と題したコピー本はモスレー・レイルウェイ・トラストの発行。英国内に存在したピート鉄道の全路線と機関車をリストにした80頁ほどの資料集。

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このピートは暖房用や火力発電所の燃料用として用いられるほか、ウイスキー、ことにスコッチ・ウイスキーには欠くことのできない薫り付けの材料となっています。それだけにイギリス国内にも数えきれないほど多くのピート工場があり、これまた数えきれないほど多くのインダストリアル・ナローが活躍してきました。残念ながら現在では稼働しているのは数箇所となってしまったようですが、それでも今もって軌道が用いられているのは、ピート・フィールドの地盤があまりに軟弱で、トラックが直接乗り入れられないことによるものと思われます。
▲ロンドンの高速外環状線M25号線を運転する。都市部だけにジャンクションが多く、ちょっと間違えるととんでもない方向へ行ってしまう。'02.10.20

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さて、成田から空路ヒースロー空港に到着したのは10月19日の夕刻。そのままトランジットしてアイルランドへ向かう手もありますが、なにせ大嫌いな飛行機に12時間以上も閉じ込められていたとあってはとてもそんな気にはなりません。あらかじめ空港近くのホテルを予約していたので、レンタカーを借りてまずはホテルへ。ホテル内のパブでお約束のぬるいビールを飲みつつ、翌日の行程を算段することにします。
▲バーゼルドゥン・ブリックワークス(Bursledon Brickworks)でのハンプシャー・ナローゲージ・ソサエティーによる公開運転。何のことはないこのシンプレックス製GLが300mほどの区間を行ったり来たりするだけで、はるばる来た身にしてみればちょっとがっかり。'02.10.20

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翌20日は19時10分ヒースロー発ダブリン行きの飛行機を押さえてありますから、それまでには空港に戻ってレンタカーを返却せねばなりません。ということはあまり遠出はできず、ロンドン近郊の保存鉄道を訪ねるのが関の山です。そこでかねてより一度行ってみたいと思っていたウエスト・サセックス州にあるアンバレー・ワーキング・ミュージアム(Amberley Working Museum)を訪ねてみることにしました。ヒースローからは距離にして100マイル程度、無難な距離です。
▲ブラスト音を響かせて走る「蒸気トラック」(左)。これ以外にも何台かが“有火”状態だった。右は煉瓦工場の参加型イベント。ちなみにBursledonの発音は実に難しく、案内窓口のおばさんに何度も発音してもらったが正確なところはよく判らない。バーゼルドゥンに近いか…。

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8時過ぎにホテルを出発、行きがけの駄賃と言っては失礼ですが、ハンプシャー・ナローゲージ・ソサエティーが公開運転をしているのを思い出し、まずはそちらに向かうことにしました。ロンドンを大きく取り巻く高速外環状線M25号線から南西方向サザンプトンへと伸びる高速M3号線へ。サウザンプトンから今度は海沿いを東へと向かう高速M27号線で“ポーツマス方面へと向かいます。公開運転場はバーゼルドゥン・ブリックワークス(Bursledon Brickworks)という煉瓦工場らしいのですが、これが判らない。とにかく高速を降りたものの、一般道はまさにイギリスの田舎道で、観光名所ならともかく、煉瓦工場を探そうというのですから一筋縄ではゆきません。

探しあぐねること30分あまり、ようやく見つけたのは変哲のない分岐路に立てられた小さな手書き看板「OPEN DAY→」でした。やれやれと指し示す方向に車を向けると、彼方から何やら巨大なトラックが、しかも煙を吐きながらやってくるではありませんか。「えっ」と思う間もなくすれ違ったのは「蒸気トラック」! ハンプシャー・ナローゲージ・ソサエティーの公開イベントだとばかり思っていたこのイベント、実は蒸気自動車や蒸気トラクターの保存団体との共催イベントだったのです。それにしても蒸気トラックがナンバーを付けて公道を走れてしまう英国の懐の深さ、さすがです。
▲「蒸気トラック」の製造銘板を見てびっくり。センチネル(Sentinel)はバーチカル・ボイラー+チェーン駆動の蒸気機関車メーカーとして知られている。このトラックも機関車と同じ工場で作られたに違いない。

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新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくご贔屓のほどをお願い申し上げます。
さて年頭にあたり、今年の私の年賀状をお目にかけましょう。たいへん多くの皆さんにお送りしておりますので、お手元に現物が届いた方もおられると思いますが、どうかその点はご容赦ください。仕事を離れた極めて個人的な賀状ですので、毎年その前年に印象的だった鉄道情景をポストカードにしているのですが、やはり趣味嗜好が如実にあらわれてしまい、十数年にわたってすべてがナローものがテーマとなってしまっています。今年の絵柄は9月にこのブログでもご紹介したライン河上流工事事務所のハイブリッド電気機関車「ハイジ」です。
さて、今夜は毎年恒例の高校時代の鉄研仲間十数人との元日新年会です。今年も昨年同様このブログにお付き合いいただければ幸いです。

レイル・マガジン

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