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レイル・マガジン編集長自らが作る編集日記。

2005年12月29日

遥かなり千葉鉄聯。(上)

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鉄道聯隊=鉄聯は実に400輌余りの機関車を擁しながらも、その特殊性ゆえに今もって解明されていない部分が少なくありません。直接の殺傷兵器ではなかったとはいえ、敗戦とともにその車輌の大半は葬り去られ、残された遺構の数々も、とりたてて顧みられることなく消え去ってしまいました。
▲暮れなずむ第一聯隊兵器廠機関車組立工場跡。トラバーサこそ姿を消したものの、今にも聯隊兵が出てきそうな雰囲気だった。この付近は現在、千葉経済短期大学の敷地となっており、周囲の状況は一変したが、幸いこの煉瓦庫は千葉県有形文化財として保存されている。'85.1

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そんな中で今もって辛うじてその痕跡を残しているのが、現在では千葉経済短期大学となっている第一聯隊跡地です。20年ほど前までは国鉄が「千葉レールセンター」としてこの用地を使用しており、東千葉駅(元来の千葉駅)からの2.3kmほどの専用線を使って、首都圏の交換用レールの供給拠点となっていました。ただ、鉄聯時代の路線を引き継ぐこの専用線も1984(昭和59)年のレールセンター閉鎖とともに姿を消してしまい、今となっては大学構内に千葉県有形文化財として残されているかつての機関車組立工場の煉瓦庫だけが「鉄聯」を偲ぶよすがとなっています。

鉄道聯隊は日清戦争時に発足した臨時鉄道大隊をルーツとする日本陸軍の鉄道部隊です。基本的にドイツのプラクティスを導入したため、作戦用軌道の軌間もメトリックの600mmを採用、機関車や貨車も一部の試験的なものを除いてドイツ鉄聯に範を取っています。1907(明治40)年に大隊から聯隊に拡張、1918(大正7)年のシベリア出兵に伴って、千葉を本拠とする第一聯隊と津田沼を本拠とする第二聯隊の2拠点体制となって拡充を続けます。さらに1934(昭和9)年には中国・ハルビンを拠点とする第三聯隊が設立され、これに伴って日本国内にあった車輌の多くは第三聯隊に移籍したと伝えられています。
▲機関車組立工場内部。入口までは3'6"と600mmのデュアルゲージが引き込まれているが、庫内のこの部分は600mmだけだ。ここで双合やE、K2などが整備されていたに違いない。'85.1

千葉の第一聯隊と津田沼の第二聯隊を接続する「演習線」が千葉駅(現・東千葉駅)と津田沼材料廠間に(習志野線16.7km)、途中の作草部から分岐して四街道に至る支線(下志津線7km)を伴って敷設されました。のちに花見川を大迂回する通称"ループ線"や、津田沼?松戸間にも演習線が設けられますが、これはいずれも戦術的な演習に必要な距離を確保し、かつ曲線・勾配・橋梁等あらゆる条件下を想定するがためのルート選択だったと言われています。後者、津田沼?松戸間を引き継いだ新京成電鉄の線形に「演習線」の面影を見ることができます。
▼大日本帝国陸地測量部昭和7年発行1万分の1地形図「千葉」より。
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