鉄道ホビダス

2005年12月アーカイブ

それでは皆さん良いお年を!

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ご愛読いただきました小ブログ「編集長敬白」もいよいよ本年の締めとなりました。6月のオープン以来、予想を遥かに超える多くの皆さんにご愛読賜り、大晦日を迎えることができました。来年はRM本誌をはじめとする雑誌・書籍もさらにパワーアップしてお届けする所存ですので、どうか変わらぬご贔屓のほどをお願い申し上げます。
では、皆さん良いお年をお迎えください。 
Rail Magazine編集長:名取紀之 拝

遥かなり千葉鉄聯。(下)

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千葉の第一聯隊跡を訪れたのは20年ほど前の冬のことでした。総武線車中から見えた津田沼の第二聯隊の煉瓦庫はすでに撤去されてしまっており、鉄道聯隊を語る建造物群は千葉に残されるのみとなってしまっていました。
▲第一聯隊機関車組立工場のトラバーサ側。8線のデュアルゲージが引き込まれている'85.1

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東千葉から分岐するレールセンター線(旧鉄聯演習線)はひたすら一直線で材料廠を目指します。当時の地形図(昨日掲載分参照)で見ると演習線起点にも「ちば」駅の表記がありますが、演習線でも人員輸送等の必要から定期列車が運転されており、時には沿線住民の便乗も許されていたと伝えられます。
▲東千葉駅(旧千葉駅)構内南端からのレールセンター線分岐の状況(左)。ひたすら直線で北を目指す(右)。鉄聯時代は600mmゲージも併設されていたはず。'85.1

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国鉄のレールセンターは旧第一聯隊都賀倉庫にあたる材料廠南側の一部を使用しているだけで、材料廠中心部はさながらゴーストタウンのように数々の建造物が残されたままになっていました。なかでも白眉は煉瓦造りの機関車組立工場と巨大な給水塔で、どちらもまるで昨日まで使われていたかの如き有り様でした。のちに臼井茂信さんからあの給水塔が解体されてしまったことを聞き、なぜもっと仔細に写真を撮っておかなかったのかと悔やまれてなりませんでした。
▲旧材料廠跡に残されていた第一聯隊給水塔。独特の形状をした貴重な遺構であったが、1985(昭和60)年春に解体されてしまった。

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臼井さんといえば、生前面白い逸話を伺ったことがあります。終戦時にこの第一聯隊材料廠の隣町にお住まいだった臼井さんは、軍事機密の名の下に謎だらけだった鉄道聯隊の軽便機関車を目の当たりにしようと兵器廠内の撮影を決行します。時に1945(昭和20)年10月。敗戦のわずか二ヶ月後のことです。敷地内にはコッペルギャードのEやクリエンリンドネル遊動輪装置のK2、さらには双合の片割れなどがとり残されており、この成果が後年、鉄聯の機関車を解明する大きな力となるのですが、実はこの時“お土産”を持って帰ろうとしたのだそうです。“お土産”とは、何と作業場にうち捨てられていたコッペルギャード、つまりルッターメール式遊動輪装置の歯車です。持ち上げるには余りに重く、荒縄で括ってずりずりと自転車で引きずって自宅へ持って帰ろうとしたものの、さすがに途中で精根尽き果てて路上に捨ててきたとか。
ひょっとするとどこかの路地に、今でも臼井さんが引きずってきた「鉄聯」の歯車が埋まっているのかも知れません。
▲旧機関車組立工場全景。手前のトラバーサ側の延長部分は大型機を格納するために増築されたものらしい。'85.1
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▲西日を浴びる旧材料廠建屋。これが遥かに「鉄聯」を感じられた最後の瞬間だった。'85.1
昨日の1万分の1地形図「千葉」はMacでポップアップすると解像度不足となるようです。恐縮ですがWindowsでご覧ください。

遥かなり千葉鉄聯。(上)

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鉄道聯隊=鉄聯は実に400輌余りの機関車を擁しながらも、その特殊性ゆえに今もって解明されていない部分が少なくありません。直接の殺傷兵器ではなかったとはいえ、敗戦とともにその車輌の大半は葬り去られ、残された遺構の数々も、とりたてて顧みられることなく消え去ってしまいました。
▲暮れなずむ第一聯隊兵器廠機関車組立工場跡。トラバーサこそ姿を消したものの、今にも聯隊兵が出てきそうな雰囲気だった。この付近は現在、千葉経済短期大学の敷地となっており、周囲の状況は一変したが、幸いこの煉瓦庫は千葉県有形文化財として保存されている。'85.1

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そんな中で今もって辛うじてその痕跡を残しているのが、現在では千葉経済短期大学となっている第一聯隊跡地です。20年ほど前までは国鉄が「千葉レールセンター」としてこの用地を使用しており、東千葉駅(元来の千葉駅)からの2.3kmほどの専用線を使って、首都圏の交換用レールの供給拠点となっていました。ただ、鉄聯時代の路線を引き継ぐこの専用線も1984(昭和59)年のレールセンター閉鎖とともに姿を消してしまい、今となっては大学構内に千葉県有形文化財として残されているかつての機関車組立工場の煉瓦庫だけが「鉄聯」を偲ぶよすがとなっています。

鉄道聯隊は日清戦争時に発足した臨時鉄道大隊をルーツとする日本陸軍の鉄道部隊です。基本的にドイツのプラクティスを導入したため、作戦用軌道の軌間もメトリックの600mmを採用、機関車や貨車も一部の試験的なものを除いてドイツ鉄聯に範を取っています。1907(明治40)年に大隊から聯隊に拡張、1918(大正7)年のシベリア出兵に伴って、千葉を本拠とする第一聯隊と津田沼を本拠とする第二聯隊の2拠点体制となって拡充を続けます。さらに1934(昭和9)年には中国・ハルビンを拠点とする第三聯隊が設立され、これに伴って日本国内にあった車輌の多くは第三聯隊に移籍したと伝えられています。
▲機関車組立工場内部。入口までは3'6"と600mmのデュアルゲージが引き込まれているが、庫内のこの部分は600mmだけだ。ここで双合やE、K2などが整備されていたに違いない。'85.1

千葉の第一聯隊と津田沼の第二聯隊を接続する「演習線」が千葉駅(現・東千葉駅)と津田沼材料廠間に(習志野線16.7km)、途中の作草部から分岐して四街道に至る支線(下志津線7km)を伴って敷設されました。のちに花見川を大迂回する通称"ループ線"や、津田沼?松戸間にも演習線が設けられますが、これはいずれも戦術的な演習に必要な距離を確保し、かつ曲線・勾配・橋梁等あらゆる条件下を想定するがためのルート選択だったと言われています。後者、津田沼?松戸間を引き継いだ新京成電鉄の線形に「演習線」の面影を見ることができます。
▼大日本帝国陸地測量部昭和7年発行1万分の1地形図「千葉」より。
クリックすると拡大できます。

「碓氷峠」再訪。

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いささか旧聞になりますが、先日、新生・上田電鉄を訪ねた帰路、「碓氷峠鉄道文化むら」に足を伸ばしてみました。短い冬の陽はすでに急峻な山々の陰に入りつつあり、雪の残る園内は容赦なく吹き付ける寒風で震え上がらんばかりでした。
▲閉園時間が迫ってきたせいもあるのか、“ポッポタウン”の遊具(?)があのロクサンの前に並ぶ。う?ん、心中複雑…。'05.12.18

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気がついてみると碓氷峠=信越本線横川?軽井沢間が廃止になったのは1997(平成9)年9月30日のことですから、早くも丸8年の歳月が流れたことになります。高校生はもとより、大学生位の読者の方でも、すでに「碓氷峠」のロクサンを自分の目で見ることができたかどうかが、趣味体験の大きな尺度となってきているとも聞きます。
▲園内を周遊する2フィートゲージの“あぷとくん”は英国製蒸機と北陸重機製EC40風DLが主役。このロッド式の北重製DLはなかなか良く出来ており、機会があればキチンと形式写真を撮ってみたいもの。背後に迫るのは碓氷峠末期に俯瞰撮影のために皆がこぞって登った“ざんげ岩”。

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そんな碓氷峠を訪ねるのは4年ぶりとなるでしょうか。残念ながらすでに運転時間は終了してしまっていましたが、“シェルパくん”と命名されたトロッコ列車がお目見えしてからは初めての訪問です。この“シェルパくん”、入口ゲート付近に設けられた「ぶんかむら駅」とあの丸山変電所跡を越えて「とうげのゆ駅」まで2.6kmを結ぶ2輌編成の機関車牽引列車で、聞くところではたいへんな人気だそうです。丸山変電所はもとより、霧積川橋梁や旧線の“めがね橋”など、碓氷峠を語り継ぐ近代化遺産を巡るエクスカーションが一般のお客さんに受け入れられたことは、昨今の鉄道保存の厳しい状況から鑑みるに何よりも嬉しい展開といえるのではないでしょうか。
▲“シェルパくん”はすでに運転時間が終わってしまっていた。土日・祝日には一日4往復の運転が設定されているという。

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すでに閉園時間寸前とあって駆け足で見学するに留まりましたが、鉄道資料館として残されている旧横川機関区庁舎や展示館として活用されている旧検修庫、さらには園内から見上げるあの“ざんげ岩”など、往時を知る者にとっては万感迫るものがあります。そんな思いを同行の湯口 徹さんに告げると、湯口さん曰く「横川に来るのはずいぶん久しぶりで、この前来たのはまだ草軽があった頃ですよ」とおっしゃるではないですか。草軽=草軽電気鉄道が廃止になったのは1962(昭和37)年、当然碓氷峠は旧線のアプト時代で機関車はED42。ということは別の意味でロクサンの現役時代をご存知ないということになります。いや、恐れ入りました。
▲園内を周遊する“あぷとくん”車内から見た旧検修庫周辺。24時間ひっきりなしにロクサンの汽笛が響いていた様を思うと何とも寂しいが、春になったらもう一度ゆっくりと訪ねてみようと思う。

この1冊。(4)

近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、ここでは何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

西尾克三郎『記録写真 蒸気機関車』(1970年)
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「西尾写真」という“固有名詞”をご存知でしょうか。そうです、形式写真の大家であり、多くのファンから今もって慕われ続けている西尾克三郎さんの撮影された写真のことです。西尾さんは1914(大正3)年のお生まれ。毎日新聞写真部を経て、のちに交通科学館(現・交通科学博物館)展示課に勤務され、生涯を通して組立暗箱を駆使した比類なく鮮鋭な車輌写真を遺されました。

戦前に自ら興した機関誌『古典ロコ』をはじめ、戦前戦後を通して多くの雑誌・書籍でその作品が紹介されてきましたが、網羅的、系統的にその業績をまとめたものはそれまでなく、黒岩保美さんが編者となって「西尾写真の真価を伝える写真集を」(「あとがき」より)と企画されたのがこの『記録写真 蒸気機関車』(交友社)です。
▲現代の感覚でもまったく旧さを感じさせない卓越したデザインの表紙(左)と化粧函(右)。厚さ4センチ近い大冊で、重さも3キロ近くある。

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編集にあたっては、あらかじめ「列車写真アルバム」と「形式写真」の2部に分けた上で資料的な要素の多い中にも楽しく見られる内容を目指したとあり、具体的には、巻頭に当時の列車写真を配し、各グループで代表的と思われる写真は2頁大とするなどの配慮がなされています。もちろん写真は西尾さんの作品以外は掲載されておらず、個人の車輌写真集としては前例のない豪華美麗な仕上がりとなっています。

表紙には西尾さんの名前とともに編者である黒岩さんの名前も同じ大きさで入っており、この本の企画制作に黒岩さんの役割がいかに大きかったかが伺い知れます。改めてご紹介するまでもなく、黒岩さんは国鉄嘱託のデザイナーとして車体標記の字体(例のクハだのモハだのの書体)やグリーン車のシンボルマーク、さらには特急「ゆうづる」のヘッドマークなど数々の歴史に残るデザインを送り出されており、エディトリアル・デザインにもその非凡な才能を発揮されています。そんな黒岩さんが渾身の思いを込め、一年を費やして作り上げた一冊だけに、誌面レイアウトの素晴らしさは言うまでもなく、造本の素晴らしさも特筆されるものとなっています。ことに黒の箔押しでC53のサイドビューを表現した表紙と、派手なエンジながらケバケバしさを微塵も感じさせない化粧函(ケース)は、数多の鉄道図書の中で屈指のデザインと称せましょう。
▲各章の扉は黒岩さんが二階調化したイラストが絶妙の空間取りでレイアウトされている。

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黒岩さんとは生前、臼井茂信さんを偲ぶ会の発起人会などでたびたびご一緒させていただきましたが、温和なお人柄の中にも、秘められた熱い意思を感じさせる方でした。その黒岩さんに編集を一任されたからこそ、これだけ不朽の一冊が誕生したわけで、昨今のプロジェクト方式のモノ作りでは、なかなかこういった個性溢れる“名著”は誕生しにくいのが実情です。
▲C62時代より「義経とC62」。判型が大きいだけに見開き写真の説得力は比類なきものがある。

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ところで、この本の「はしがき」によると、西尾さんと鉄道写真との出会いはC10 1の四切判密着の公式写真だったそうです。川崎車輌からいただいたその公式写真のあまりの鮮明さに感激し、「自分もこれに負けない位の立派な写真を写そうと決心したのです」と書かれています。キャビネ判組立暗箱にダゴール180㎜という当時としても時代がかった重量機材で写し集めた形式数はこの本が上梓された時点で実に144形式。時には1輌の機関車を撮るために3日間も待ったことがある、とやはりこの「はしがき」に書かれています。
▲「形式写真」よりC53と8800の見開き。「西尾写真」は肉眼以上に鮮鋭に機関車を写し出している。

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西尾克三郎さんが亡くなられたのは1984(昭和59)年1月、もう22年もの歳月が流れようとしています。10年後の1994(平成6)年11月には、東京と大阪に離れながらも近しく交流し、蒸気機関車を通して数々の共同成果を上げられた臼井茂信さんが亡くなられ、「西尾写真」にとってもひとつの時代が幕を閉じました。ちなみに、斯界では西尾さんのガラス乾板を臼井さんが秘伝の“二度焼き”で手ずからプリントされたものが“究極”とされています。いずれにせよ、本書を含め、遺された多くの「西尾写真」は、かの渡辺・岩崎コレクションと並んで、わが国の鉄道趣味界の宝物として語り継がれてゆくに違いありません。
▲巻末には撮影メモと形式別索引が用意されている。右の黄色いカバーは発送時の化粧函汚損防止用だそうで、「ご入手の上は、とり外してお捨て下さい」と書かれている。
A4ワイド(297×260)版上製本304頁(うち解説16頁)3800円。

悲しい一日。

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私たち鉄道を愛し趣味とする者にとって、いたたまれない事故がまた起きてしまいました。昨25日夜、羽越本線砂越-北余目間の第2最上川橋梁付近で発生した特急「いなほ14号」の脱線転覆事故です。

まだ推測の域を出ませんが、原因は橋梁付近の突風による可能性が強いとか…。だとすると、国鉄分割民営化直前の1986(昭和61)年12月28日にあの余部橋梁で起きた「みやび」転落事故の悪夢が再来してしまったことになります。

今年は、忘れもしない4月25日の福知山線の大惨事があっただけに、まさかこの年の瀬にふたたびこれほど大きな事故が起きようとは。犠牲になられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

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昨日24日は、午前11時に始まった会議がようやく終わったのが22時過ぎ、実に11時間にわたってエクセルで作られた表組と格闘していたことになります。会社を出ると、すっかり冷え込んだ街はいつになく人通りも少なく森閑としています。それもそのはず、連休中日の、しかもクリスマスイブの夜です。

30年前の夕張線6788レにゆっくり思いを馳せる間もなく過ぎた一日が終わろうとする頃、ようやく帰宅。いまさらクリスマスプレゼントという歳でもないのに、居間のテーブルの上になにやら小箱が…。見ればフランスからのエアメールではないですか。

手にとってみて腰を抜かさんばかりに驚きました。差出人はスモーキー・ボトム・ランバー・カンパニーのリチャードさん。フランスの3/8インチスケールモデルのガレージキットメーカーのオーナーです。なぜそんなに驚いたかというと、もうとっくに諦めていたオーダー品だったからです。

『ガゼット』誌の小さな広告で同社のレジン製キットを知り、是非ともほしいと手紙を添えて送金したのが8月中旬のことでした。ところが一ヶ月たっても品物は届きません。そういえばちょうどサマーバカンスの季節だし、フランスでは平気で一ヶ月くらい休むそうだから休み明けにでも発送するのだろう…と都合よく解釈しながらさらに待つこと一ヶ月、10月下旬になってもやはり何の音沙汰もありません。

思えば広告の住所もなにやら不完全ぽく、本当にこれで良いのだろうかと気にしながら送金した記憶も甦ります。これは国際郵便そのものが不着なのか、はたまた新手の国際ナローゲージモデル振り込め詐欺(?)かと半ば諦めかけていた時、先日ご紹介したエキスポ・メトリックに件のスモーキー・ボトム・ランバー・カンパニーが出店することを掴みました。これは千載一遇のチャンス。会場入りする岡山君に出店ブースに行って私のオーダーを再確認してもらうことにしたのです。

果たして、ブースにいたリチャードさんに岡山君が聞いてくれたところでは「日本のNATORIのオーダー? 知らない」とのこと。やはり郵便事故なのでしょう。事前に頼んでいたとおり、岡山君はそれならばと改めて買い求め、新年に帰国する際に持参してくれることになりました。それなのに、“知らない”はずの最初のオーダーが4ヶ月も経って、よりによってクリスマスイブの夜に届くとは!

添えられた紙片にはリチャードさんの手書きで“Sorry about long delay,Have a nice Christmas”の文字が。“long delay”にもほどがあろうというもの。さすがフランス、日本的感覚ではとても付きあいきれそうもありません。
▲細々としたレジンパーツが詰まっているにも関わらず、組立説明書はおろか何と完成図ひとつ入っていない。年末年始はこのレジンの“パズル”と格闘することになるのか…。

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レストラン「ばら」をご存知でしょうか。東京駅丸の内の赤煉瓦駅舎内にある東京ステーションホテルのフランス料理レストランです。あの丸の内の赤煉瓦駅舎内にステーションホテルがあることさえご存知ない方が少なくない中で、あまっさえその2階のレストランの知名度は決して高くはありません。
▲東京ステーションホテルの入口。「ばら」はこの正面玄関からだと二階の回廊を巡ってかなり歩くことになる。

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かれこれ20年前、そんなレストラン「ばら」を最初にご紹介下さったのは、当時の国鉄車両部長さんでした。丸の内中央口のわずかに南口寄りにあるステーションホテルのロビーから二階にあがり、迷路のような回廊を南へと進んで行くと、その突き当たりにあるのが「ばら」でした。それまではあのドームの二階の回廊に自由に入れることさえ知らず、二階から見下ろす改札階の喧騒と回廊の静寂のコントラストに言い知れぬ感動を覚えたものです。
▲正面エントランスを入ったホテルロビー。復原工事にともなう休業を前に、フロントでは90年の歴史を振り返る写真集も販売されている。

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東京ステーションホテル内には数々のレストランやバーが入っていますが、その中でも「ばら」はフラッグシップ的存在であるとともに、特筆すべき特徴を有しています。それは、東京駅を発着する列車を目の当たりにしながら食事を楽しむことができることです。聞けば東京ステーションホテルは1915(大正4)年の創業。戦前は鉄道省直営の「テツドウ ホテル」として内外の要人たちを迎えてきました。「ばら」もその筆頭ダイニングとしての重責を担ってきたわけです。

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かつて丸の内に“本丸”と通称された国鉄本社があった頃、この「ばら」は運転局や工作局、さらには総裁室の御用達レストランでした。各局の幹部や、本社詣でにやってきた地方の鉄道管理局長クラスがこの「ばら」に集い、本社会議室では語り尽くせなかった談義を繰り広げていたと聞きます。ひょっとすると、東海道新幹線構想も、ヨンサントウ白紙ダイヤ改正も、はたまた動力近代化=無煙化も、この「ばら」がそのバックグラウンドとして一役かっていたのかもしれません。
▲二階の回廊から南口ドームの改札前を見下ろす(左)。ここに自由に入れる回廊があることは意外に知らない人が多い。右はその回廊の突き当たりに位置するフランス料理「ばら」の入口。

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そんなレストラン「ばら」が、というより東京ステーションホテル自体が、来年3月31日をもっていったん休業することとなりました。ご存知のように来年から開始される東京駅赤煉瓦駅舎の復原工事のためで、工期は実に5年間。2011年に再オープンするまで長いお別れとなります。現在の「ばら」は鋼製の枠にガラスを嵌め込んだ窓、床に置かれたスチーム暖房器、高い天井に古風なシャンデリアと、“やらせ”ではない燻し銀の輝きを放っていますが、改築後もこの味わいが残るものなのかどうかは判りません。
▲21時10分定刻、この「ばら」より一足先に消えてしまう特急「出雲」が10番線を発車してゆく。この写真は“5番テーブル”から。

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12月から休業の3月末まで、日曜・祝日・月曜に限ってすべてのディナー料理が半額になる謝恩キャンペーンが行なわれています。もともとが決してお安いレストランではないだけに、それなりの出費は必要ですが、残された時間はあと3ヶ月あまり。一度は足を運んでみては如何でしょうか。ちなみに、東京駅を出入りする列車が一番良く見えるのは“4番テーブル”ですが、残念ながら半額キャンペーンの日はすでに3月末日まで全部予約が入ってしまっているそうです。
▲赤煉瓦の南端に位置する「ばら」は半円形の室内となっており、線路側のテーブルはそれほど多くない。写真正面奥が“4番テーブル”。

さまよえる「101建設隊」。

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茨城県は霞ヶ浦の方にBタンクが“捨てられている”という話を聞いたのは、かれこれ十年ほど前のことでした。お化けと同じでこのような未確認情報はことあるたびに出ては消えするのが常ですが、この時ばかりは目撃地点も特定されており、さっそく確認に出かけてみることにしました。

ところが、目撃されたとされる地点に辿り着いたものの、空地が広がるだけで機関車の姿など影も形もありません。これはタッチの差で解体されてしまったかと落胆しつつ、念のためと周囲を聞きまわってみると、なにやらトラックに積まれて「百里基地」の方に消えて行ったとか…。

このまま退散するのも癪ですから、とりあえず唯一の手がかり百里基地、つまり自衛隊百里基地周辺を探し回ってみることにしました。雲を掴むような話だけに半分諦めていたのですが、意外なほど早く件のBタンクを発見することができました。県道沿いのそれほど大きくない空地は何やら得体の知れない廃トレーラーのようなもので埋め尽くされ、その端にぞんざいにポンと置かれたBタンクは半ば傾いて放置されていました。

ひと目で協三工業製の標準型Bタンクだと判りましたが、それ以上にこの機関車、どこかで見た記憶があります。周囲を見て回るうちにハタと思い出しました。そう、陸上自衛隊朝霞駐屯地内の輸送学校に保存されていた「101建設隊」のBタンクではないですか! どうりで回りを埋め尽くす廃材はすべて自衛隊関連らしきものばかり。事情はよく判りませんが、どうやらここは自衛隊の廃材を扱う業者さんのバックヤードのようです。
▲トレーラーやらキャタピラーのついた得体の知れない廃車体やらの片隅でじっとひそんでいるBタンク。この時点では状態はそれほど悪くはなかったが、果たして今は…。'97.5.28

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「陸上自衛隊101建設隊」は戦後になって存在した唯一の“鉄道聯隊”で、1960(昭和35)年2月17日に立川駐屯地で結成されました。当初の隊員は200名。ほどなくかつての鉄道聯隊の本拠地のひとつ千葉県習志野に移転、津田沼に残っていた旧鉄道第二聯隊の機関庫を起点に、津田沼?高津間3.5kmの実習線を設けて演習を行っていました。1959(昭和34)年に大宮機関区で廃車となった9677がこの101建設隊に譲渡されて活躍していたのはよく知られており、キャブ側面に陸上自衛隊の紋章である桜マークを入れた同機が津田沼の煉瓦庫に佇む写真も、何人かの先達の手により残されています。

この101建設隊は結成3年後の1963年、いわゆる“サンパチ豪雪”の際に新潟地区の鉄道復旧に出動したのをはじめ、翌年には新潟地震の鉄道復旧に動員されるなどの活躍をしました。しかし次第に鉄道が戦略兵器や兵站の要として重要視される時代ではなくなり、1966(昭和41)年4月1日付けで鉄道部隊としての使命は終了し、部隊自体も1900(明治33)年以来の伝統の地・津田沼を去っていきました。

一方、この協三工業製Bタンク(15t/製番15010)は東日本重工業(三菱重工業)古河工場専用線(2.2km)用に仕向けられたもので、1956(昭和31)年6月付けで自衛隊に転じています。101建設隊解散後、100式鉄道牽引車や97式軽貨車などとともに朝霞駐屯地内に設けられた「輸送学校」に保存されていたのですが、駐屯地内の整理に伴って放出されてしまったもののようです。

あれから何度か、近くを通りかかるたびに様子を見ていましたが、ここ5?6年消息を確認していません。さまよえる101建設隊の生き証人は、果たして今もあの廃材置き場で何度目かの冬を迎えているのでしょうか…ちょっと気に掛かります。
▲1989年に朝霞駐屯地を取材した際には綺麗に保存されていただけに何とも残念。丸窓の後姿には哀愁が漂う。

衝撃! 特急「出雲」廃止。

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特急「出雲」廃止! 本日午後、JR各社から発表された来年3月18日のダイヤ改正の内容は私たちファンにとってあまりに衝撃的なものでした。かねてよりその乗車効率(37%)の悪さや、鳥取以遠への速達性のなさが指摘されてはいたものの、「みずほ」「さくら」に続いてまさか伝統の「出雲」の名が消えようとは…。

1951(昭和26)年11月に福知山線経由で東京?大社を結ぶ急行として誕生した「いずも」(当初は平仮名表記)は、当初は大阪まで「せと」と併結されていましたが、1956(昭和31)年11月改正から単独運転になるとともに列車名も漢字表記の「出雲」となり、1961(昭和36)年からは山陰本線経由に変更、1972(昭和47)年3月改正で特急に格上げされ、ご存知の深紅のヘッドマークとともに親しまれてきました。

山陰地方のメディアによると、JRの廃止内示に鳥取県議会をはじめ地元は猛反発、余部橋梁の架け替え工事費の負担にまで波及して、一悶着も二悶着もあったようですが、結局、鳥取方面の利用者が「サンライズ出雲」(伯備・山陽本線経由)に乗車できるように鳥取?山陽本線間の特別列車を設定する救済策(共同通信による)を検討することで、今日の廃止正式発表になった模様です。

編成の短縮化もあって最近では重連こそ見られなくなってしまったものの、原色DD51がヘッドマークを掲げて非電化区間を行く唯一のブルトレだけに、哀惜の情も一入です。ましてや、まるで時期を合わせたかのように余部橋梁の架け替え工事も始まろうとしています。残された時間は3ヶ月弱、心安らかでない日々が続くことになりそうです。
▲写真はつい先日東京駅で見た「出雲」。残念ながらこの日もホームは閑散としていた。'05.11.10

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2005年の掉尾を飾る本誌269号が今日発売となりました。特集はずばり「国鉄本線蒸機廃止30年」。30年前の3日後、つまり1975(昭和50)年12月24日、クリスマスイブの夜に、鉄道開闢以来103年間にわたって続いてきた蒸気機関車による列車牽引の歴史に幕が降ろされました。ラストランナーを務めたのは追分区のギースル式誘導通風装置付きのD51 241。何の装飾も施されることなく、いつものように定期の石炭列車を淡々と炭礦から降ろすその姿は、かえって私たちに強烈な印象となって残っています。

この日を目指して一年間にわたって連載を続けてきた広田尚敬さんの「30年目のカウントダウン」も今回でついに最終章。創刊以来初めて巻頭をモノクロ32ページとし、広田さんの“あの日”を存分に展開しています。同時代体験していない読者の皆さんには、国鉄線上から蒸気機関車が消えるということがどれほど大きなインパクトをもって迫ってきたかご理解いただけないかも知れませんが、巻頭の「30年目のカウントダウン」に続く、著名なファンの皆さんの「あの日、私は…」に綴られた様々な思いをご覧になるにつけ、多少なりとも共感いただけるのではないかと思います。月刊誌にとって、コンテンポラリーな情報でも資料でもないこういったエモーショナルな巻頭特集は大きな冒険でもありますが、この時期だからこそあえてお送りする次第です。

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さて、この国鉄本線蒸機廃止30年は、同時に発売となった『国鉄時代』第4号ともコラボレートした企画となっています。毎号ご好評をいただいている『国鉄時代』は先にこのブログでもプレビューしたとおり、「ハドソン」特集です。しかし高野陽一さんによる夕張線蒸機最終列車6788レの情感たっぷりなルポをはじめ、国鉄本線蒸機廃止30年にちなんださまざまな企画を盛り込んでいます。なかでも付録DVDは蒸機末期を同時代体験した方には珠玉の3作品を編集、ことにわずか4分あまりの小品ながら、岩崎宏美の歌にのせてさながらフラッシュバックのようにあの日の情景が浮かび上がる井門義博さんの「あざやかな場面」は、目頭が熱くなること請け合いです。

ちなみに、初めての九州撮影行とそれにまつわるお父様との心温まるエピソード「親父と罐(カマ)へのレクイエム」をお寄せくださった前原誠司さんはあの民主党代表の前原さんです。超がつくご多忙の中を本誌の「あの日、私は…」にもご寄稿いただきましたが、お読みいただくとテレビで見る政治家としての姿と違って、同じ趣味人として急に身近に感じられてくるから不思議です。こちらもぜひご一読ください。

元祖「丸窓電車」は今…。

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昨日お伝えしたラッピング電車“まるまどりーむ号”ではなく、ホンモノの「丸窓電車」モハ5250形は現在3輌が保存されています。2輌(5251・5252)が別所温泉駅構内、もう1輌(5253)が中塩田駅構内だったのですが、今年になって中塩田の5253号が綺麗にレストレーションされて別の場所に保存されたと聞き、案内されるままに行ってみることにしました。

場所はかつての西丸子線(下之郷?西丸子)の御岳堂駅の近く、「長野計器」という会社の丸子電子機械工場の入口です。下之郷からは県道で一ツ木峠を越えた辺りとなります。
▲幾度となくファインダーにおさめた5253号とうれしい再会。この角度で見るとまるで「現役」のようにさえ見える。'05.12.18

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予備知識のないまま、どうせ中塩田から移設して軽く化粧直しした程度だろうと高をくくっていたものですから、新車と見まごうばかりの5253号を前にして目が点です。いやはや車体はもとより足回りまで舐めたようにピカピカではないですか。しかもこの手の保存展示ではあまり例のない架線まで張られています。それも雰囲気のある木製架線柱や信号まで用意されているのですから恐れ入ります。
▲工場入口に鎮座する5253号。置かれている場所は傾斜地だが、しっかりと足場が組まれて線路が敷設されている。画面には写っていないが、何と右側には見学者用のトイレまで設置されている。

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さらにびっくりしたのは室内です。空調完備の客室内は「丸窓電車資料館」となっており、木製の床やシンボルの丸窓、それに日除けや座席のモケットなどもオリジナルのまま修復再現されています。座席の片側は展示スペースになっており、乗車券やサボなどの各種資料のほか、最初に廃止になった路面区間・青木線を含めた昭和10年頃の鳥瞰図など、ふたつとない貴重な資料も展示されています。しかも説明員さんが懇切丁寧な対応をしてくださり、帰りには丸窓電車をテーマにした長野計器さんのカレンダーまでいただいてしまいました。
▲決して原形を崩すことなく見事に修復された客室内。天井の大型モニターでは丸子線のさよなら列車の貴重な映像や、5253号がトレーラーで搬送される際の映像などが流されている。

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聞けば今年の2月に長野計器さんが東京証券取引所に上場を果たしたのを記念して、企業メセナの一環としてこの保存が決まり、3月に中塩田からこちらに移設されたのだそうです。長野計器さんは1986(明治29)年創業の圧力計をはじめとした各種計測機器の大手メーカーで、「のぞみ」や「あさま」などの新幹線をはじめとした車輌用双針圧力計、さらには最近では台湾新幹線にも同社の製品が使用されており、その技術力は内外で高い評価を得ています。
▲長野計器製の双針圧力計を備えた5253号の運転台も綺麗にレストアされている。

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5250形にも長年にわたって同社の圧力計が使用されており、さらにはこの丸子電子工場の前をかつての西丸子線が走っていた縁もあって、地域発展につくした歴史と文化を語り継ごうと今回の保存プロジェクトを立ち上げたとのこと。中塩田からの搬送は大型トレーラーですが、レストレーションは社員の方々が手作業で行ったそうですからこれまた驚きです。

“保存”とひと口に言っても、その大半は見るに耐えない悲惨な有様となってしまっている中で、この長野計器さんの保存展示は、国内はもとより国外にも胸を張って誇れるレベルと言えましょう。なお、車内の見学は基本的に4月から10月までの土日の9?16時となっているようです。詳しくは同社の「長野計器丸窓電車資料館」をご覧ください。
▲室内に備えられた中塩田からの移設・修復の記録写真アルバムの横にはRMライブラリー『上田丸子電鉄』も備えられている。

「上田電鉄」を訪ねる。

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この冬一番の寒気が流れ込み各地で大雪となっている中を、信州・上田へと行ってきました。前泊した軽井沢は夜中に降雪があったようで、朝起きると新雪が10センチほど積もり、気温は零下7℃。インターネットのピンポイント天気予報を見ると、上田方面も雪の可能性があるようで、浅間から菅平方面はすっかり雪雲に覆われています。
▲ラッピングとはいえなかなか雰囲気は出ている“まるまどりーむ号”の丸窓。車号の7553が長年慣れ親しんだ本家丸窓=5253とちょっと似ているような気もする。'05.12.18 下之郷

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上田と別所温泉を結ぶ上田交通別所線が「上田電鉄」に生まれ変わったのは10月3日のことですから、ほんの2ヶ月ほど前のことです。上田交通時代、それも昇圧前は幾度となく塩田平を訪れ、その独特の雰囲気に酔いしれていたものですが、昇圧後は次第に足が遠のき、もちろん「上田電鉄」となってからははじめての訪問です。
▲東急グループの上田交通のロゴが入っていた車体横のエッチング・エンブレムは一旦塗りつぶされて上田電鉄の新ロゴに代えられている。漢字をモディファイした社紋はかつての上田電鉄時代の社紋を模したもののようだ。

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昼前に訪れた下之郷の車庫は、幸い雲間から陽もさすまずまずの天気でしたが、周囲の山々から吹き降ろす風は猛烈に冷たく、その風にのって道床の乾ききった粉雪が舞い踊っていました。横山鉄道部長のご案内でまずは構内の見学。ここ下之郷はかつての西丸子線の分岐点でもあり、構内下り方には小さな西丸子線用ホームも残されています。そのホーム跡の横に設けられた電留線には、昇圧前の“丸窓電車”こと5250形のイメージを現代に伝えようと今年になってから改装されたラッピング電車“まるまどりーむ号”7253Fが休んでいます。
▲“まるまどりーむ号”の正面。東急7200系もこうやってツートンカラーとなるとぐっとイメージが変わる。'05.12.18

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横山部長のお話によると、現在このラッピング電車“まるまどりーむ号”は2編成。上田電鉄発足とともにラッピングを施した7255Fは運用に入っており、ちょうど東急時代復元車の7254Fとこの下之郷で交換するとのこと。寒さに凍えながらも、この両者をカメラにおさめることができました。
▲倉庫代わりに使われている5200系の車体を横目に走る“まるまどりーむ号”7255F。塩田平上空もすっかり雪雲に覆われていた。'05.12.18 下之郷

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「上田電鉄」という名前は実はこれが最初ではありません。開業時の上田温泉電軌が丸子電鉄と合併して上田丸子電鉄となるまでの1939(昭和14)年から1943(昭和18)年までのわずか4年間、「上田電鉄」を名乗っていたことがあります。この辺の事情はRM LIBRARY『上田丸子電鉄』に詳しいのでご参照ください。

ご多聞に漏れず、新生・上田電鉄の前途も決して平坦なものではなさそうです。ただ、フリークェンシーの向上はもとより、さまざまな形での集客に努力されるとのこと。今回の“まるまどりーむ号”や東急時代復元車など、遠来のファンを含めた話題作りや集客も積極的で、最も新しい地方鉄道=上田電鉄の今後に期待したいと思います。
▲車体帯を外して「東急時代復元車」として運行されている7254F。綺麗に整備されたステンレス車体が美しい。'05.12.18 下之郷

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あらかじめ購入しておいたスイス政府発行の25000分の1地形図によると、ライネックから終点のワルツェンハウゼンへの道路もあることはあります。ただこれがえらく遠回りで、なおかつ日光いろは坂のようなタイトコーナーが続きます。試しにレンタカーで“登頂”を試みましたが、電車だとわずか6分の所要時間のところを実に30分以上掛かってしまいました。

終点のワルツェンハウゼンはスイスならどこにでもありそうな田舎町で、ただ眺望が良い分、言うなれば高級住宅街の範疇に入るようで、立派なお屋敷やらレストランやらが並んでいます。どうやらこの鉄道は山頂の高級住宅街と“下界”とを結ぶ交通手段のようです。

この鉄道に関しての和文資料はほとんどありませんが、長 真弓さんの『スイス鉄道』によれば、もともとは1896年開通の水重力式のケーブルカーだったのだそうです。ケーブルカーの麓駅と国鉄ライネック駅(といってもわずか4?500mほどですが…)の間は路面電車が連絡しており、乗り換えの不便を解消するために、1958年にこの両者を直通できるラック式鉄道に改築したのだといいます。

▲RhWの電車はライネック駅に降りてくると、5分ほど停車するだけですぐにエンド切り替えをしてワルツェンハウゼンへと戻っていってしまう。折りしもSBBの近郊電車が到着、RhWの方は前照灯を点灯させてわずか6分の運転が始まる。'05.9.27

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ホテルから例のライン河上流工事事務所に通う道すがら、毎日このRhWのアドヒージョン(粘着)区間を横切るので、そのたびに注意して見ていたのですが、いつも乗客は数人。時にはまったく誰も乗っていないことさえあり、よく営業を続けていられるものだと首を傾げてしまいます。ちなみに“職員”は運転士ただひとりで、運転・整備から出改札、さらにはこまめに掃除までこなしていました。ローカル私鉄の受難が続くわが国の状況を鑑みると、こんなミニ鉄道がしっかりと命脈を保っていられる鉄道王国・スイスの底力を痛感した出会いでもありました。
▲ワルツェンハウゼン駅は国道を潜る小さなトンネルを出た所にある。といってもトンネルを出た所が駅の駅建物の中という奇妙な構造。時刻表によると24往復ほどが設定されている。

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国策として鉄道輸送にプライオリティーをおいているスイスでは、地域を問わずさまざまな種類の鉄道が活躍をしています。ことにアルプス山岳地帯に数多存在する登山鉄道は良く知られるところで、アプトやリッゲンバッハ、シュトルプなどのいわゆるラック式もメッカの様相を呈しています。

そんなスイスの片田舎で実にささやかな登山鉄道(?)を見かけたのでご紹介してみましょう。場所はチューリッヒの北東、対岸はドイツとなるボーデン湖のほとりのライネックという街です。ラインの曲がり角という名のこの街、9月に「12年ぶりのライン河上流工事事務所」でご紹介したあの工事事務所への道すがらにあたります。
▲彼方にボーデン湖をのぞむワルツェンハウゼン村をトコトコと登るたった1輌だけの電車。'05.9.27

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有名なRhB(レーテッシェ・バーン)と紛らわしくRhW(ベルクバーン・ライネック・ワルツェンハウゼン)という略号を持つこの鉄道、何と延長1.9km、保有車輌1輌! という超ミニ鉄道です。現在の日本で一番営業距離が短いのが普通鉄道では芝山鉄道の2.2kmですから、このRhWはさらにそれより300mも短いことになります。周囲にはとりたてて観光地もなく、ではいったい何のための鉄道なのかと、いぶかしく思いながら起点のライネックの駅を訪ねてみました。
▲山頂(?)のワルツェンハウゼン駅は村の郵便局と同じ建物。駅を示す小さな案内看板はあるものの、よぼど注意しないとまったく判らない。写真の入口を入ると途端に電車が待っているのにはちょっとびっくり。

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SBB(スイス国鉄)のライネック駅はとりたてて代わり映えのしない小駅で、ホームは対向式2面。複線の本線は結構な列車容量ですが、この駅に停まるのは近郊電車だけ。お目当てのRhWはというと、駅舎側のホーム上のコンクリート上に埋め込まれた軌道が…。1200㎜ゲージのRhWの電車はSBBの列車に合わせてこのホームから出ているのでした。

待つこと暫し、カタカタとピニオンの空転音を響かせてやってきたのは、派手な塗装を纏った2軸の小型電車でした。見ていると、ライネック駅のホームに到着した電車はわずか数人の乗客が乗り込むとすぐに折り返し、300mほど国道脇を走ったのち、急に向きを変えてラックのエントランスに入り、今度は250‰のリッゲンバッハ区間をよじ登って消えてゆきました。
▲SBBのライネック駅で発車を待つRhW。実に可愛らしい単車だが、日本人の感覚からすると塗色がちょっと…。'05.9.27

風車鉄道?

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鉄道の起源は18世紀後半、馬車用に路上に敷設されたフランジ付きのプレートレール(トラムウェイ)とされ、「標準軌」とされる4フィート8 1/2インチ(1435㎜)も2頭立ての馬がスムースに走れる幅(4フィート8インチ)にスラックの1/2インチを加えたものと伝えられています。つまり最初の“動力”は馬だったわけで、以後、さまざまな動力が応用されてきました。

当然ながら一番手っ取り早い人間を動力とするのが「人車鉄道」で、日本、特に大正期の東日本地域には数多くの“開業”人車軌道が存在したことが知られています。ついで鉄道事業者(?)が目をつけたのは身近な動物です。『トワイライトゾ?ン・マニュアル 5』の特集「どうぶつ鉄道」でもご紹介したように、馬、牛はもとより、犬、つまり「犬車鉄道」や、突拍子もないものとなると富士紡績駿河小山工場のように、飼育している豚を使った「豚車軌道」まで出現する始末。現代であれば動物愛護団体から強烈な指弾を受けかねない破天荒ぶりです。

それでもまさか世の中に存在したとは思わなかったのが“風”を動力とした鉄道、つまり「人車」や「馬車」に倣う言い方をするならば「風車鉄道」です。十年ほど前にルツェルンの鉄道博物館で、イベントとしてウインド・サーフィンを模した「風車鉄道」を目撃したことはありますが、これは単なるお遊び、まさか実用した例はあるわけなかろうと思っていました。
▲ルツェルンの鉄道博物館で体験乗車(?)が大人気だったウインド・レール・サーフィン。'95.10

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ところがところが、風を動力としようと本気で考え、実用化した人がいたのです。しかも日本に! それは、日通の物流博物館で戦前から戦後の揺籃期にかけての貨車移動機の実態を調べていた時のことです。物流専門誌に連載されていた荷役研究所長の回顧録の中に、帆掛け舟よろしく風の力を利用して貨車の構内入換えを行った話が出てくるのです。

要約すると、山陰・松江地方の名家であり、天保年間から飛脚問屋を営んでいた原文運送店の5代目当主・原 文助さんが、1940(昭和15)年頃、請け負っていた松江駅の構内貨車入換えに発案したものだそうで、極めて不鮮明ながら一応写真も掲載されています。地元通運業者に委託されていた駅構内の貨車入換えは、従来人力が頼りで、えらく非効率なものでした。そこで原さんは西風の強い松江の土地柄を逆手にとって、帆掛け舟の原理で貨車を移動しようと考えたのです。貨車に簡易な三角形の帆を掛けて、追い風であれば帆を開き、向かい風であれば帆をたたんで“波切り”の形にして貨車を移動しようというのです。記事によれば「駅と農林省米穀倉庫との間700米の側線」でこの「風車鉄道」方式が実用されていたそうです。

いったいいつ頃までこの世にも奇妙な「風車鉄道」方式が使われていたのかは判りませんが、戦後の「専用線一覧表」によれば、松江駅の「農林省島根食糧事務所倉庫」専用線800mの“作業方法”は「国鉄動車・手押し」とされており、当然ながら“風”の文字は見当たりません。
▲帆掛け舟よろしく風力で貨車を移動する様子。700mの側線とあるが、突風でも吹いたらどうするのだろうか。『荷役と機械』'81年5月号所収「荷役一筋の道」より。

「スピグラ」余話。

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先日の「大判の落日」で、かつての報道写真の定番=スピード・グラフィックについて、万歳三唱している間に2枚切れるのが当時の新聞社写真部員の条件と書きましたが、ご覧になった方からもっと凄い話を聞きました。曰く、大相撲取材の際、砂被りでスピグラを構えているカメラマンは、たとえ力士が自分の方に倒れてきても瞬間的にピントを合わせられる鍛錬を積んでいる。いやこれには驚きました。4×5inのフィールドカメラを扱った経験のある方なら、ビューカメラほどではないにせよ、そのピント合わせがどれほど面倒かはお分かりのはずです。どう考えても倒れ掛かってくる被写体に瞬時にピンを合わせることなど不可能にしか思えません。

何かあると歩行者がこぞって携帯を掲げて写真を撮る現在と違い、かつては写真を撮るという行為そのものが限られた専門職の、つまりはプロの仕事でした。ライカ使いとして知られる著名な写真家は、とっさに正確にカメラを構える鍛錬と筋肉の強化のために、片手でレンガを持ち上げて構える練習を繰り返したと聞きます。もうこうなると“修行”の一種にさえ思えてきます。

余談ながら、ライカのLマウント・Mマウントのレンズの一部はフォーカシング・リングに指かかり(インフィニティストッパー・レバー)が付いており、真下にきた時に焦点距離3mとなっています。慣れると指先の感覚で瞬時にピンを合わせることが可能で、下手なAFレンズよりよほどスピーディーにスナップ撮影をすることができます。
▲ここ数年“惰眠”を貪っているわがスピグラ。果たして本線復帰を果たす日はくるのだろうか?

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ランケンハイマーと聞いても何のことやらお分かりにならない方が大半でしょうが、日本甜菜製糖の清水工場で使用されていた正体不明のBタンクの“メーカー名”です。メーカー名といっても車体に付けられた製造銘板に「ランケンハイマー製 米国」と書かれていたのを信じればの話で、米国生まれだとすればオリジナルの銘板が片仮名書きであろうはずもなく、その胡散臭さは天下一品、古くから蒸気機関車研究家の頭を悩ましてきた謎の機関車です。

この機関車、これまでに発表された写真も極めて少なかったのですが、昨年夏に青木栄一さんがRM LIBRARY 58巻『昭和29年夏 北海道私鉄めぐり』(上)で磯分内工場時代の克明な写真を紹介されたのに続き、この夏には広田尚敬さんが『鉄道写真2005』で清水工場に転属してからの感動的な写真の数々を発表され、一気に知名度(?)が上がりました。先日にはついにワールド工芸さんから1/80のモデルまで発売されています。
▲机の上に広げた広田さんのランケンハイマーの写真の上に日本甜菜製糖から送られてきたお砂糖、そしてワールド工芸さんの1/80のモデルをのせてみた。

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ところで、1959(昭和34)年2月に厳冬の北海道を巡った広田さんは、出立前からこのランケンハイマーに会いたくて、日本甜菜製糖にあらかじめ手紙を出して見せてくれるように頼んでいたと言います。その甲斐あって、清水工場を訪問すると、冬季休車になっていたランケンハイマーをわざわざ引き出して撮影させてくれたそうで、『鉄道写真2005』ではすっぽりと布に包まれて保管されている様から、“冬眠”から目覚めてコッペルの推進で雪原を駆けるまでがドキュメントとして再現されています。

この広田さんのランケンハイマーについては、かれこれ30年以上も胸につかえていたことがあります。『鉄道ファン』誌1970(昭和45)年5月号(No.108)にこの機関車の流し撮りがあり、広田さんのコメントとして「実は、この写真は若干少々トリックがあるのだが、その話はまた後日にゆずることにしよう」と記されていたのです。トリック? いったいどんなトリックがあるのだろうと思いつつ、あっという間に時が流れてしまいましたが、今回のドキュメントでそのトリックがようやく判りました。何のことはないランケンハイマーには火が入っておらず、後ろからコッペルが推していたのです。広田さんはその連結部分から前だけを巧みに写し込み、「その話はまた後日」と結んでいたのです。
▲茂尻のコッペル103にもランケンハイマーと同様の片仮名書きの銘板が付いていた。「オツトライメルス製造」とあるが、言うまでもなく、オットライメルスはコッペルの取扱代理店名でメーカー名ではない。『鉄道写真2005』より。

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『鉄道写真2005』発売後、46年前にお世話になったお礼にと、広田さんは日本甜菜製糖に掲載誌を送られたそうです。しばらく経って広田さんのご自宅に大きな段ボール箱が届きました。差出人は日本甜菜製糖! すでに当時を知る人はいませんが、古い機関車と従業員のことを覚えてくれていてありがとうございます、という旨の手紙とともに、あの工場で作られたお砂糖が一杯に詰められていたそうです。おすそ分けいただいたポケットシュガーには、「スズラン印のお砂糖は北海道の大自然が育てた甜菜(ビート)からつくられています」と印刷されています。遥か遠い日のランケンハイマーを偲びながらコーヒーでもいただくことにしましょう。
▲アンバランスなプロポーションがかえってチャームポイントとなっているランケンハイマーのサイドビュー。現在ではポーターの成れの果て説が有力だが、いまだに素性は知れず。'59.2.26 『鉄道写真2005』より。

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RM LIBRARYの次号第77巻は、ほぼ2年ぶりとなる軽便がテーマです。それもいわゆる“味噌汁軽便”の王道中の王道、『頸城鉄道』です。すでに全廃から35年が経とうとしている頸城ですが、昨年は六甲山中で保管されていたホジ3やDC92が奇跡の里帰りを果たすなど、今なお多くの人々に愛され慕われ続けています。

そんな頸城鉄道を何とかライブラリーのラインナップに加えたいと、「私鉄車両めぐり」でも同社線を執筆なさっている小林宇一郎さんに相談したのが、かれこれ3年ほど前のことです。ところが残念なことに小林さんご本人が体調を崩されたこともあって、暫く企画が宙に浮いてしまっていました。

一方で、かねてより親しくさせていただいている“けむりプロ”のメンバーである梅村正明さんから、今年になって30年近く行方不明になっていた頸城のネガが大量に出てきたという話を伺いました。梅村さんの頸城といえば知る人ぞ知る名作揃いです。学生時代から入れ込んで頸城通いを繰り返し、ついには社員同様に扱われるまでになった話はたびたび耳にしており、これは是が非でも梅村さんの写真でライブラリーを構成したいところではあります。
▲梅村さんの名作中の名作が表紙を飾る。この写真を見て「ああいいな せいせいするな 桜は咲いて日に光り…」と『鉄道讃歌』のフレーズを即座に思い浮かべる向きには、この『頸城鉄道』はバイブルになることうけ合い。

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そんな折り、小林さんから連絡が入りました。どうも体調が思わしくなく、頼まれている「頸城鉄道」を纏め上げることはできそうもない、ついては別の適任者を紹介するからそちらを当たってもらえないか…という内容でした。瞬間的に梅村さんの写真のことが脳裏に浮かびましたが、それを申し上げるわけにはゆきません。恐る恐るどなたでしょうかとお尋ねすると、「今は大阪にお住まいの梅村さんという方です」とおっしゃるではないですか! これには腰を抜かさんばかりに驚きました。
▲来週発売となる『頸城鉄道』より。頸城野に生きたわずか15kmの鉄道の姿が昨日のことのように鮮やかに甦る。

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30年ぶりに奇跡の里帰りを果たした車輌たち、やはり30年ぶりに発見された山のような頸城のネガ、そして小林さんと梅村さん…。運命論的な話は好きではありませんが、『頸城鉄道』が本になるまでの今回の一連の出来事は、何か形而上の力を感じずにはいられません。

その梅村さんの RM LIBRARY『頸城鉄道』は来週発売になります。社紋から“マルケー”と愛称される頸城鉄道を知りつくした梅村さんならではの記事と、それにも増して、一味もふた味も違う“けむりプロ”のカメラアイは圧巻です。“味噌汁軽便”ファンのみならず、鉄道写真を志す皆さんにも是非ともご覧いただきたい一冊です。
▲機関庫事務室の間取り図など、模型心を持った梅村さんならではの視点も見逃せない。

50歳を迎えるDD502。

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貨物輸送からの撤退の余波を受けて、私鉄の機関車は急速にその数を減らしていますが、オールドタイマーが多い電気機関車に比して、ディーゼル機関車の方は意外に話題にのぼることが少ないようです。耐用年数もあってか、DD13やDE10の傍系ばかりとなってしまった状況も興味を殺ぐ理由になってしまっているのかもしれません。
▲DD502のプロフィール。全長10メートルほどのセミセンター・キャブのプロポーションは、丸味を帯びたデザインとあいまってなかなか味わい深い。ちなみに、ロッド式、しかもBBのロッドを下げて形式写真を撮るのは至難の業。

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そんな中で異彩を放っているのが関東鉄道のDD502です。1956(昭和31)年10月製ですから、私鉄用ディーゼル機関車としては黎明期にあたる古参中の古参です。関東鉄道の前身である常総筑波鉄道は、当時まだ開発途上にあった試作的ディーゼル機関車を積極的に導入し、地方鉄道の無煙化に先鞭をつけました。1953(昭和28)年の東急車輌製(東急製DLは極めて珍しい)DB11を皮切りに、翌々1954(昭和29)年には2基エンジン+液体変速機搭載の三菱製BB機DD501、さらに翌年にこのDD502、その2年後の1958(昭和33)年には後に鉾田に移籍して「カバさん」の愛称で親しまれたDD901と、次々と意欲的な新鋭ディーゼル機関車を増備しています。
▲2エンド側の正面は何か愛嬌のある表情をしている。

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DD502はDMF31SB形ディーゼル機関(500ps)1基を持つセミセンター・キャブの34.5t機で、最終駆動はロッド式。同じ日車製のDD901(新製直後は国鉄に貸し出されDD42を名乗った)の小型版といった感じで、丸みを帯びたキャブと垂れ目の窓が印象的です。

1971(昭和46)年の常総線貨物営業廃止以降、DD502は工臨や甲種輸送など事業用に使われるのみとなってしまいましたが、筑波線に移ったDD501、鉾田線に転じたDD901、龍ケ崎線のDB11とともに、関東鉄道各線はどこに行っても個性的なロッド式DLに出会えるのが嬉しく、幾度も足を向けたものです。最近はなかなか出番もなく、新製車輌の甲種引き込みや、イベント列車の牽引などに時折登板するだけのようですが、僚機DD501とDD901が現役を離れてしまった今も、このDD502だけは現役を貫いているのは嬉しい限りです。南水海道の車輌基地で実に綺麗に整備されて待機している、恐らく現役としては最古の古典ディーゼル機関車は、来年でちょうど50歳を迎えます。
▲磨き込まれたロッドとカウンターウエイト。ロッド式DLには蒸気機関車に一脈通じる魅力がある。

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さて、今度はマグナムの写真集『JOURS DE FRET』です。B5(フランスですからB判系列のわけはないのですが…)程度の横開きで、表紙はこちらもあえて写真ではなく、カバードホッパーの車体色のエンジをベースに、貨車の車体標記をモチーフとしたタイトルデザインとなかなか凝っています。しかもよくよく見ると、右の小口から左のノドにかけてうっすらとグラデーションのような“ウェザリング”が施されており、造本の妙も流石です。

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撮影はジャン・ゴーミー(JEAN GAUMY)、ハリー・グリエール(HARRY GRUYAERT)の2名によって行なわれています。寡聞にしてこのお二人の業績は詳しくは存じ上げませんが、現在50名を超えるマグナムのメンバー・リストを見ると、正会員、特派員、準会員、寄稿家、候補生と区分があり、このお二人は正会員と紹介されていますから、その力量は推して知るべしでしょう。マグナム東京支社のホームページによれば、ジャン・ゴーミーは1948年生まれのフランス人、フランスの医療制度や刑務所を独自の視点で取材して数々の写真集を上梓しているほか、映画の制作・監督もしており、現在はノルマンディーの漁港に住んで伝統漁法の取材を続けているそうです。一方のハリー・グリエールは1941年生まれのベルギー人。モロッコをはじめアフリカの大地をモチーフとしたカラー撮影を得意とし、同ホームページにはこの写真集『JOURS DE FRET』も代表作として掲載されています。
▲見返しは意表をつく赤一色。日本的感覚では思いもつかないデザインだ。

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全編を通してモノクロとカラーが絶妙なバランスで織り交ぜられていますが、最初の見開きは地吹雪の線路をほとんどモノトーンのカラー、しかも粗粒子ぎみのローキーなカラーで捉えたカットです。あえてこの、どちらかというとネガティブなイメージを植え付けかねない写真を巻頭に据えたところに、単なる企業PR写真集ではない気迫を感じるとともに、恐らくはマグナムを信頼し、全面的に任せたSNCF(フランス国鉄)の度量の広さを思わずにはいられません。
▲トップの見開きと中面の見開きのいくつか。本文は写真のように少し小振りな別丁の色上質紙に刷られて綴じ込まれている。下段は貨車の検修掛の動きをシークエンスで追ったもの。

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ところで、時代の違いもあるでしょうが、このふたつの写真家集団、マグナムと日本工房には決定的な違いがあります。自ら写真家でありながら、写真への意味付け、つまり“編集”に拘るあまり、時として写真家の撮影意図をないがしろにして作品を大胆にトリミングしてしまう名取洋之助率いる日本工房は、その歴史的評価の大きさに比して、多くの写真家との対立を生みました。門下であった土門 拳がついに名取の葬儀にさえ参列することを拒んだのは有名な話です。かたやマグナムは、写真家の意向を無視してむやみに作品をトリミングしたり、意味付けの異なるキャプションをつけられたりすることを防ぎ、写真家の権利と自由を護るために設立された自主運営集団です。つまり両者は同じ理想を追いながらも、180度違う方法論を選択したわけです。そんな背景を考えつつ、改めて日本工房の『JNR 1954』とマグナムの『JOURS DE FRET』、このふたつの鉄道写真集を見返してみると、また別の何かが見えてくるような気がします。
▲ぎょっとする構図はバッファーにグリースを塗布している様子を捉えたもの。流石マグナム!
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▲全編を通して働く人々の姿がドキュメンタリー・チックに描かれている。ただ、どうも戦場の臭いを感じる気がするのはマグナムゆえの先入観か…。

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かれこれ2年ほど前になりましょうか、JR貨物の岩沙専務(当時)から「SNCF(フランス国鉄)が何とあのマグナムを使って鉄道貨物輸送の写真集を作ったのをご存知ですか」と、一冊の写真集を手渡されました。マグナム、つまりマグナム・フォト(Magnum Photos)は改めて言うまでもなく、あのロバート・キャパの提唱でアンリ・カルティエ・ブレッソンらが創設した世界最高峰のフォト・ジャーナリスト集団です。
▲実に48年の時空を超えて並んだ「日本工房」と「マグナム」。国に違いこそあれ、ともに国鉄が依頼製作した写真集だ。

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『JOURS DE FRET』(意訳すれば「今日の貨物輸送」か…)と題された写真集は270×180ミリの並製横開きで、マグナム所属の2名の正会員によって撮影された160枚あまりの写真が収録されています。マグナムはもともと写真家の権利と自由を護り、主張することを目的として設立された会員自らが出資運営する組織で、本書を見ていてもその強烈な主張が各所にほとばしっています。
▲『JNR 1954』より。大胆なアングルの写真とグラフィックデザインの感覚をいち早く取り入れた誌面レイアウトは日本工房の真骨頂。

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国鉄が対外的アピールのために名だたる写真家集団に撮影を依頼して写真集を作る??この写真集を見ていて思い出したのが「日本工房」のことです。日本工房とは、日本における「報道写真」という概念の生みの親でもあり、希代の写真家・編集者であった名取洋之助が1933(昭和8)年に設立した歴史的写真家集団で、設立メンバーは木村伊兵衛、原 弘、伊奈信男、岡田桑三といった錚々たる面々でした。その後さまざまな紆余曲折を経て、この日本工房の潮流は長野重一、薗部 澄、田沼武能、東松照明、そして土門 拳といったわが国を代表する写真家を生み、そればかりか三木 淳や、果ては漫画家の岡部冬彦らまで輩出しています。

この日本工房、より正確に言うと戦後の第三次日本工房が国鉄の依頼で写真集を製作したのを知ったのは、名取洋之助(ちなみに私とは何の血縁もありません)の評伝を読みあさっていた時のことでした。戦後、実質的に『岩波写真文庫』の編集長を務めていた名取は、日本工房を株式会社組織に改組するとともに、『岩波写真文庫』以外にもさまざまなPR誌等を手掛けるようになります。そんな中、1954(昭和29)年に「国鉄のPR写真集を受注し、細井三平と薗部 澄が国鉄全線を撮影した写真集を完成した…」(三神真彦著『わがままいっぱい名取洋之助』)との記述に出会いました。あの日本工房が製作した国鉄の写真集、これは是が非でも見てみたい、そう思いながら何年かの歳月が流れましたが、ある日この写真集に偶然出会うことになります。

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それはある古書展の会場でした。ほかの本に埋もれるように置かれたそれは、写真集とは思えない表紙に『JNR 1954』の文字がデザインされており、英文A4版2分冊(各32頁)で2万円。見た瞬間にこれが日本工房の仕事、あの写真集だと瞬間的に分かりました。表紙のデザインが名取の愛弟子でわが国のグラフィックデザインの祖、河野鷹思のものに違いないからです。ちなみに河野はその後、東京オリンピックの公式ポスターをはじめ、大阪万博日本館や札幌冬期オリンピックのデザインなどを手掛けています。

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この写真集、戦後復興を成し遂げた国鉄が、国際社会への本格的復帰の礎にすべく英文で製作したものと思われ、恐らく和文版は存在しないと思われます。誌面はここにご覧に入れる一部でもお分かりのように、今日の目で見ても大胆かつ計算されつくしており、戦前の『NIPPON』、戦後の『サンニュース』、『岩波写真文庫』と続く日本工房の香りがふんぷんとたちこめています。

名取洋之助を核とした日本工房は、よく知られる土門 拳との強烈な確執など集合離散を繰り返し、やがて消滅してゆくわけですが、かのマグナムより遥か前に、極東の島国でこれだけの才能が集い、そしてさまざまな分野で次代を築いてきた事実は、多少ならず国際的にも鼻が高いと言えるのではないでしょうか。
▲奥付には四の五の文字はなく、日本国有鉄道製作の英文と名刺サイズの写真が絶妙の配置で置かれている。全編を通して日本工房の文字も写真撮影者のクレジットも入っていないが、裏表紙の片隅に河野鷹思のサインが小さく入っている。

青井岳は今…。

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蒸機末期、冷水峠や大畑ループと並んで名撮影地として名を馳せたのが日豊本線の青井岳でした。宮崎?西鹿児島間は「本線」とはいうものの、日向灘沿いの文字通りの本線とは打って変わって九州山地に分け入ってゆく峠道で、ことに清武から日向沓掛、田野、門石信号場を経て青井岳へ至る区間は、連続する16.7‰勾配と300Rの連続急曲線が行く手を阻む難所中の難所でした。

それだけに当然見所も豊富で、多くの仲間が秀作をモノにしようとこの区間に足を伸ばしました。そしてそれが最高潮に達したのが、1973(昭和48)年の10月改正の蒸機急行「日南3号」1121レの奇跡的誕生です。すでに蒸気機関車牽引の定期急行列車は絶えて久しく、誰もがまさか再び蒸機牽引の急行が復活しようとはゆめゆめ思ってもいませんでした。ちょうどこの改正で南延岡?南宮崎間の自動信号・CTC化が完成し、列車無線装備車と未装備車の運用範囲区分を行った関係から、機関車の需給都合でやむなくC57牽引となってしまったのが真相のようですが、私たちファンにとっては、余命いくばくもない南国のライト・パシフィックに最後の花道が用意されたように思えてなりませんでした。
▲青井岳駅の今昔。宮崎機関区のC57 4次型192号機に牽かれた臨時急行が発車してゆく。'72.8 下は同アングルからの撮影が不可能だったため、やむなく跨線橋上から捉えたほぼ同方向の現状。'04.10

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さて、昨年の都城市立美術館での写真展「永遠の蒸気機関車」開催に合わせた記念シンポジウムの際に、あの青井岳駅に立ち寄ってみました。私は司会を仰せつかり、記念講演をされる齋藤 晃さんと打ち合わせをしている際に、空き時間を利用して“あの”青井岳がどうなっているか見に行ってみようということになったのです。ふたりとも実に三十数年ぶりの再訪です。
▲青井岳の象徴でもある境川橋梁は驚くほど変わっていなかった。ただ、川の東岸、かつての国道側には土砂が積み上げられてご覧のような有様。ちなみに現在の国道は改修されて西岸を通るようになっている。'04.10

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果たして青井岳駅は記憶の中の姿とはまったく違った姿で目の前にありました。山間の小駅にしては堂々としていた木造の本屋は跡形もなく、そこにはバスの待合室に毛の生えたほどの建屋があるのみ。もちろん無人です。駅前から下の道路へと続く急な階段はあの日のままでしたが、階段下にあった商店はすでになく、とにかく辺りに人の気配が感じられないのがショックでした。

わずか20分ほどの訪問でしたが、30年という時の流れの大きさに唖然としつつも、「廃線跡」となってしまっていないだけ、まだ他の名撮影地よりマシかと話しつつ、再び都城へと踵を返したのでした。
▲これが現在の青井岳駅本屋? かつての賑わいからはほど遠いローカル線の閑駅という感じである。'04.10
※この21日発売の『国鉄時代』第4号には、1121レ「日南3号」を追った根本幸男さんのドキュメント映像などが付録DVDとなって添付されます。ご期待ください。

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『今日からはじめる庭園鉄道』などでプロデューサー役としてもその多彩ぶりを発揮してくれている岡本憲之さんから、「実は栃木県に引っ越すことになりまして…」と控え目な電話をいただいたのは、確か夏の気配が残る頃でした。にわかに事情が呑み込めず反問すると、かねてより夢描いていた保存鉄道が実現に近づいており、これに本腰を入れたいからとのことでした。

季節は巡り、雪の便りも聞こえる中、件の岡本さんから、ようやく夢の保存鉄道の概要が紹介できるようになった旨のメールをいただきました。それによると、岡本さんが代表を務める「けいてつ協会」を運営主体とする保存鉄道の名は“風の高原鉄道”。栃木県塩谷郡塩谷町にある農業庭園の一角に敷設されるもので、軌間2フィート(609mm)の“たかはら線”とライブスチーム(127mm、191mm)路線の“みはらし線”から成り、後者はすでに部分開通済みとのことです。“たかはら線”の方もこれにあわせて「むさしの村」で使用されていた協三工業製蒸気機関車を譲受するなど準備が着々と進んでいるようです。
▲「むさしの村」からの協三6t蒸機も加わって本格始動を待つ「けいてつ協会」の車輌たち。手前の凸電は元向ヶ丘遊園の東芝製4t蓄電池機関車。P:けいてつ協会

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この一帯は“風の高原”と通称される「心のゆとり」を提供することを目的にした施設だそうで、キーワードは「スローテーマパーク」。子供を中心としたファミリー、とりわけ健常者と障害者の区別なく自然を体験し、その中で産業遺産としてのナローゲージに触れてもらいたいというのが趣旨だと聞きます。「けいてつ協会」も来年度にはNPO法人としての登録を目指すそうで、岡本さんの夢はいよいよ本格的に始動することになります。

ところで、岡本さんとの縁は実に不思議なきっかけでした。もう20年以上前になりますが、ある日突然、私の自宅に高校生だった岡本さん、いや岡本君から電話が掛かってきたのです。ナローゲージに強い興味があり、かねてからいろいろと聞きたかったので会ってもらえないか、という内容でした。電話番号をどこで知ったのかと聞けば、私が学生時代に調査に行った鬼怒川の砂利屋で名刺を見せてもらったとのこと。何とも破天荒ながら、そのがむしゃらな情熱に打たれ、お付き合いは今日まできています。思えば今日、バーチャル空間での“交流”は盛んながら、あの時の岡本さんのような、パーソン・トゥ・パーソンのいわば体当たりは絶えて久しいのではないでしょうか。
▲こちらは間もなく開業するライブスチーム線の「みはらし線」。127mmと191mmのデュアルゲージとなっている。P:けいてつ協会

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この“風の高原”施設内の茶房・十割そばとカフェテラスは今月中にオープン予定だそうで、このオープンに合わせてライブスチーム路線も走り始めます。2フィート軌道の方は車輌の修理や路線の敷設を含めて来春より本格的に始動するとのこと。岡本さんの夢がいったいどんな鉄道になるのか、今からオープンが楽しみです。
▲「玉生」=たまにゅう、とは何とも懐かしい地名。そうここは元東武矢板線の沿線にあたる。

「大判」の落日。

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昨今の急激なデジタル化の波は、私たち鉄道誌の取材や撮影にも大きなフローの変換を迫っています。国鉄本線蒸機が消滅する30年ほど前は、雑誌の誌面に耐えられるカラー原稿は中判以上のポジと相場は決まっていて、壁面に投影して個人的に楽しむのならいざ知らず、印刷を前提としたプロは間違いなく中判カメラ以上の機材を使っていました。

それが乳剤の劇的な進化とカラー製版(分解)技術のこれまた革命的な進歩によって、20年ほど前には35ミリ判でもそれなりに見られる印刷が可能となりました。こうなるとまず割を喰うのは機動性に著しく劣る大判カメラです。4×5インチ判以上の大判カメラは、たとえフィールドカメラと通称されるタイプであってもその取り回しは極めて悪く、35ミリ判と比例してフィルム性能を飛躍的に向上させた6×6や6×7といった中判カメラに取って代わられ、アウトドアの取材ではほとんど見かけることがなくなってしまいました。

そんな大判が最後にその優位性を護った“職場”がスタジオでした。フィールドのような機動性を要求されず、ライティングなど撮影条件の設定が可能なスタジオでは、しっかりした“ブツ撮り”に大判のビューカメラはなくてはならない存在でした。判の大きさもさることながら、ビューカメラならではの各種のアオリ機能によって、変形や被写界深度の変更などが可能で、模型の撮影などには絶大な威力を発揮します。本番前にポラ(ポラロイド)で仕上がりの予想が出来るのも有り難い点でした。
▲次号『RM MODELS』の巻頭ページを撮影中の青柳カメラマン。ひと昔前まではひっぱりだこだったトヨビュー(左)もすっかり体を持て余しぎみ。

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ところがここにきてこの大判の出番がガックリと減ってきています。まずデジカメでは当たり前の再生画面によってポラの必要性がなくなり、アオリ機能による垂直出しなども画像処理ソフトによる後処理によって容易くできるようになってしまったからです。となると残る美点は被写界深度ですが、もともと、フィルム面積が大きくなることによって同じ画角のレンズの焦点距離が長くなる=被写界深度が浅くなるという自己矛盾(?)をアオリによって矯正していた部分もあり、CCDカメラのように極端に小さい投影面積であればそれだけでパンフォーカスが実現できてしまう道理となります。下馬評では来年にも35ミリデジタル一眼は2000万画素時代に突入するとか…。コンパクトの性能もまだまだ向上するはずで、これまでにも増して、いよいよ大判カメラは追いつめられることになりそうです。

ちなみに、気付いてみると私ももう8年も大判カメラを使っていません。RGGの荒川好夫さんから頂戴したエクター127mm(5in)付きのスピードグラフィック(スピグラ)で、一時は愛用していたのですが、体力的にも音をあげてしまい、今や部屋の片隅でオブジェと化してしまっています。ただ、仕事としてはともかく、個人的には大判で写真を撮るという行為そのものがモチベーションを高めてくれる気がしてなりません。
▲最後に大判=スピードグラフィックを使った時の悪戦苦闘の様子を岩沙克次さんが撮ってくれた。'97.10.25 銚子電鉄笠上黒生

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最後に余談をひとつ。かつてプレスカメラの代表であったスピグラは、それをどれだけ自在に操れるかが報道カメラマンの力量であったといいます。新聞社写真部員に課せられたのは万歳三唱の間に2枚撮るというものだったそうです。現在のモードラから考えれば何をばかな…と思われるでしょうが、これは私などには信じられない神業です。そのフローを再現すると、まず最初の万歳で手が上がった瞬間に1枚目のシャッターを切り、すぐさまフラッシュ(ストロボではない!)のバルブを手の甲で叩き落とし、口にくわえていた代えのバルブをはめる…恐らくここらで2回目の万歳…撮影済み面のフィルムホルダーの引き蓋を閉じ、ホルダーをひっくり返して引き蓋を抜く、シャッターをチャージする…ここで3回目の万歳の手が上がりシャッターを切るといった具合です。何か蒸気機関車と「SL甲組」の関係にも似て、引き込まれる世界ではあります。
▲弊社地下のスタジオ全景。中間にパーテーションがあり、1スタと2スタに仕切れるようになっている。この日は奥では『クアント』が撮影中だが、もちろん大判など使わず35ミリのデジカメ。

“だるま”ストーブ?

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新人アナウンサーが浅草寺を“あさくさじ”と読んでしまう失態はまだしも、高名なニュースキャスターなどが「えっ!」と思わず声をあげてしまう誤読をしていることがたまにあります。ルーキーならともかく、ある程度名をなした方ともなると周りの誰もが間違いを指摘しづらく、結果として本人もその思い込みのまま時を過ごしてしまうのはあり得ない話ではありません。
▲オハ31時代の津軽鉄道のストーブ。メーカーのホームページなどによると、どうやらこれが“だるま”ストーブらしい。ちなみに現在でも市販されており、一番小さい15?25坪用の「6号」で3万5千円程度。'75.3.24

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かく言う私も、小学生の時に見た写真のキャプションの「三重連発車」という文言を「三重連発・車」だと思い込み、中学に入って仲間から笑われるまではすっかり信じきってしまっていました。拳銃でもあるまいし、ちょっと考えてみれば「連発」なわけはないのですが、このテは一旦思い込んでしまったらタチが悪く、機関車が3輌で牽引する列車は「三重連発・車」なのだと信じて疑いませんでした。それがとんでもない間違いだとわかった瞬間「ええぃ、ご免!」とばかり一気に屋上まで駆け上がり…とはならず、今日までのうのうと生きてきているわけです。

よた話が長くなりましたが、問題は“だるま”ストーブです。実はつい最近まで“だるま”ストーブとは国鉄で使用されていた球形のストーブを指すものとばかり思い込んできました。実際、『感動の所在地』中の写真キャプションでもここに掲げた石北本線の例のようなものこそ“だるま”ストーブである旨の記述をしてしまっています。
▲釧網本線や石北本線など構内配線や入換え手順などから、機関車の次位に貨車、その後に客車という混合組成の場合、途中に挟まる貨車に蒸気暖房管の引き通しがないため、やむを得ず石炭ストーブが用いられていた。調子にのって石炭をくべ過ぎ、ボックスの周囲にいられないほど熱くしてしまったことも今や思い出。写真は石北本線のスハニ62 27。

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ただある日、津軽鉄道のストーブ列車運転開始を告げる一般紙上に“だるま”ストーブの文字があり、「一般紙も困ったものだ。あれは“だるま”ではないのに…」と苦々しく思いつつ、ではあの形状のものはいったい何と呼ぶのだろうとネットで検索してみることにしました。その結果は…ガーン! メーカーのホームページからしてあの“津軽型”のストーブが“だるま”と称されているではないですか。つまりこれまで私が“だるま”と信じて疑わなかった球形のものは“だるま”ではなかったわけです。

さらに調べてみると、国鉄標準の球形のものは“タコ”ストーブやら“地球型”ストーブやらと呼ばれているらしいことも発見しました。いやはや、「三重連発・車」に続いて今度は40年近くも思い込んでしまっていたようです。ただ、一部にはこの球形のものを“だるま”としている記述もあり、ことの真相はいまだ不明ではあります。
▲現在JR北海道で「冬の釧路湿原号」などに使用されているもの。現役当時の木型を使って鋳造したものだそうだ。

旭川電気軌道モハ1001。

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近くまで行ったのに立ち寄らなかった路線というのは、あとになって「行っておけばよかった」と悔しい思いが募ります。ましてや目の前で見ていながら、時間がないやらで結局撮影さえしなかった路線ともなれば悔しさ百倍です。
▲「東旭川農業環境改善センター」に保存されている旭川電気軌道モハ1001。積雪地帯にも関わらず上屋もない割にはすこぶる状態が良い。

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私にとって旭川電気軌道はそんな路線のひとつです。最終運転日は1972(昭和47)年12月31日。旭川はそれまでも宗谷本線のC55を求めて足を向けており、旭川四条駅前で客待ちをしている緑色の電車を何度か目撃していました。しかし、旭川駅ならともかく、ひとつ先の四条駅とあっては、わざわざそのためにひと駅乗るか歩くかせねばならず、時間が空いたら…と思っているうちに廃止となってしまいました。

旭川電気軌道は旭川四条から東川までの東川線13.8kmと、途中の旭川追分から旭山公園に至る東旭川線6.7kmからなる直流600Vの電気軌道で、地元有志の努力が実って部分開業したのが1927(昭和2)年のことでした。追って旭川市街軌道も開業、道央の主要都市・旭川は二つの路面電車の活躍する街としても知られることとなります。青木栄一さんのRM LIBRARY『昭和29年夏 北海道私鉄めぐり』では、路面電車の街・旭川の活気溢れる様子が読み取れますが、旭川市街軌道は1956(昭和31)年にははやくも全廃されてしまい、以後は旭川電気軌道だけが最北の路面電車として孤塁を護ってきました。
▲保存スペースには東旭川線の「役場前」電停を模したホームと来歴案内掲示板が備えられている。ちなみに、この「役場前」という電停の前後はなんのひねりもない「一丁目」「二丁目」「四丁目」「五丁目」という電停名が続いていた。

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旭川電気軌道というと即座に思い出すのが、諸河 久さんの旭川追分付近の道路脇を行く1001号の姿です。確か『毎日グラフ』の私鉄特集の表紙にもなったこの写真は、深まりゆく秋の空気感とともにダークグリーンの車体が実に印象的で、後年、『総天然色のタイムマシーン』(諸河 久・吉川文夫著/品切れ)をまとめる際にも表紙に使わせていただきました。
▲ノーシル・ノーヘッダー、張り上げ屋根のツルッとした表情が印象的なモハ1001。1955(昭和30)年日車製の18m車で、扉幅1100mmの2扉。僚車が富山地方鉄道にもいた。

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そんな1001号が保存されていると聞いて訪ねてみたのは何年か前のことです。「東旭川農業環境改善センター」という名前だけでは地元の方も判らず、消防署で聞いてようやく辿り着いたのは、小学校に隣接した巨大な体育館のような農業センターでした。その建物の横に模擬ホームを設えて展示されているのは、まぎれもない30数年前に垣間見たあのダークグリーンの電車でした。懸念された保存状態もすこぶる良好で、旭川?旭川四条間の貨物連絡線からゴロゴロとワムを牽き出す姿が髣髴され、かえってそれが、何であの時2?3時間でも足を止めなかったのかと、かえって後悔の念を深めるのでした。
▲車体腰板に残る旭川電気軌道の社紋(左)と台車。台車は日車支店のNA-5形で、定山渓の1200も同形の台車を履いていた。

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ちょうど十年前にロンドンの「エキスポ・ナローゲージ」に参加した際は、事務局長からこのイベントに参加した日本人はあなた方が初めてだと言われましたが、私の知る限り、この「エキスポ・メトリック」に参加した日本人もこれまでに一人いるだけです。それだけに“二人目”の岡山君からもたらされた情報は実にリアルで、少しはこのエキスポの生の姿が見えてきました。
▲いかにもヨーロッパ的なフェルトバーンのワンシーン。ペガサスの給油機の横で待機するのはドイッツのOMZ117形。なお、このセクションはシーナリーの造作が粗いが、ホームページで見ると、植栽の巧みさに舌を巻くレイアウトも少なくない。P:岡山英明

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出店メーカー105社の内訳は、地元フランスが73社で圧倒的、ついで隣国のベルギーとイタリアが各7社、イギリスが6社、ドイツが4社、オランダ、スウェーデン、スイスが各2社、ルクセンブルクが1社といった配分です。米国の有力メーカーがまったく出店していないのも象徴的です。
▲ナローゲージのみならず各種のスケール、ゲージの出店がある。P:岡山英明

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▲近年、日本でもちらほら見られるようになってきた英国のライトラインズの7ミリスケール・ナローたち。さながらカブトガニのような機関車は英国鉄聯のシンプレックス・プロテクト(装甲)バージョンでホワイトメタル製。これは組んだことがあるが、各部の合いも良く、エンジンからキャブインテリアまでかなり良くできている。P:岡山英明

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出店メーカーの中で自社のホームページを開設しているのが38社、つまり全体の36%にしかならないことからも類推できるように、多くはヨーロッパではすっかり市民権を得ているいわゆるガレージキット・メーカーです。ただ、フルグレックスやレマコ(ともにスイス)やマイクロメタキット(ドイツ)といった日本でも知られた“メジャー”も軒を連ねています。
▲直径からスポーク本数まで実に多種多様な動輪(Roue moteur)が売られている。それにしてもカウンターウェイトは別売なのだろうか? P:岡山英明

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展示内容も岡山君からのメールによるとナローのみならずスタンダードやトラムの展示も結構あって、それがこれだけ多くの人出につながっているのかもしれません。また興味深いのは、8割が「白人の中高年」で、子供の姿が少なかったとの点。アメリカのナローゲージ・コンベンションが「まるで退役軍人の戦友会のよう」と形容されるのとも一脈通じており、考えさせられるものがあります。
▲ハンドスパイクによる道床製作の工程展示(左)と工具屋さんのブース(右)。P:岡山英明

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最近はわが国のいろいろな模型ショウでもストラクチャーやシーナリー用品の出店が見られるようになりましたが、海外のコンベンションではレイアウト関連用品が充実しているのも特徴で、このエキスポ・メトリックでも各種のデモンストレーションが見られたそうです。さらに工具専門店も数件出店しており、なかには旋盤専門店もあったとか。岡山君もアルミ用半田の実演にほだされて、ついついアルミ半田を買ってしまったとか…。

ずっと行ってみたいと思いながらいまだに実現できずにいるこの「エキスポ・メトリック」、来年こそは自分の目で確かめてみたいものです。
▲ ETOILE VERTE(緑の星)と銘打ったシーナリー用品をディスプレイするのはイタリアはミラノから来たSAMSAさんのブース。彼の地ではよく見られるプラスター製のストラクチャーはちょっと日本的感覚では受け入れられそうもないかも。P:岡山英明

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ナローゲージ・モデラーにとって世界的に知られるコンベンションにアメリカの「ナローゲージ・コンベンション」(正式にはNational Narrow Gauge Convention)があります。毎年開催地を変えて行われるこのコンベンションはその規模やプログラムの多彩さからしても間違いなく世界一と呼べるでしょうが、実はこういった大規模なナローゲージのコンベンションはヨーロッパにもあります。
▲住宅事情もあってか、アメリカのコンベンションと比較して小さなスペースでいかにギミックに溢れたレイアウトを作るかに重点が置かれる。これは英国のエキスポ・メトリックも同様で、日本人モデラーにとっても強いシンパシーを感じる。'05.11.26 P:岡山英明

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イギリスの「エキスポ・ナローゲージ」(Expo Narrow Gauge)とフランスの「エキスポ・メトリック」(Expo Metrique)です。この3つが世界のナローゲージ・モデルシーンをリードする“大会”と言って過言ではありません。幸いにも「ナローゲージ・コンベンション」には過去5回、決まって10月にロンドン近郊のスワァンリー(Swanley)の体育館で行なわれる「エキスポ・ナローゲージ」にも一度参加したことがありますが、残念ながら“3大大会”(?)のうちのエキスポ・メトリックには行ったことがなく、いまだに憧れのままとなっています。
▲会場のグランドドーム。普段はスポーツ・イベントなどに使われているらしい。(公式HPより)

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毎年、エキスポ・メトリック公式ホームページでそのディープさに感激し、今年こそは…と思うのですが、いかんせん開催時期がきまって11月末で、時期的になかなか実現しません。そんな折り、大学鉄研の同期生である岡山英明君がベルギーのブリュッセルに単身赴任することになり、ならばと偵察兼買い出しをお願いしました。岡山君は学生時代から熱心なブラス・モデラーでもあり、米国に赴任中は彼を頼って一緒にコロラドスプリングスやセントルイスのナローゲージ・コンベンションに参加したこともあります。

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今年のエキスポ・メトリックは先週の週末、11月の25?27日に開催されました。ちょうどヨーロッパ大陸は今年一番の寒気に覆われ、大雪の週末となったようです。ブリュッセルからパリ行きのタリス特急に乗った岡山君も、10センチほどの積雪をかき分けて列車に乗ったものの、発車は20分の延発、さらにフランス国内に入ってから機関車故障で雪原の中に2時間近く立ち往生…と散々な目に会い、会場にたどり着いたのは午後になってしまったとのこと。今回ご紹介するのは、彼に頼んで撮ってもらった先週のエキスポ・メトリック情報です。
(ちなみにタリスは2時間以上遅れたため、全額払い戻し=ただし旅行券=になったそうです)
▲たいへんな賑わいの会場。でもブースの設営方法からしてもどこかで見たような…パリも蒲田もこの世界は洋の東西を問わず。P:岡山英明

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会場はパリ北駅から近郊電車で30分ほど南へ行った畑の広がる郊外で、何と最寄駅からは大型バスが会場との間をシャトル運転していたそうです。たいした規模ではなかろうとタカを括っていただけに、これには岡山君もびっくり。しかも会場の「グランドドーム」はすごい人出でごったがえしていたとのこと。今年のプログラムによれば、出店メーカー数が105、出版社等が12ブースとありますから、これは予想以上のまさにエキスポのようです。
▲塀や建造物などでブラインドを作り、そこにターンテーブルやセクター(sector=扇)と通称される編成選択装置を組み込んで、小スペースで多種の列車を運転する手法がよくとられる。日本ではほとんど見ないが、特にセクターは非常にポテンシャルの高いギミックでこれからの活用が期待される。P:岡山英明

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▲マニュファクチャラーズ・ブースから。最近、一部日本にも入ってくるようになったバックウッズミニチュアさんはOn3/On30のAフォードレールトラック(左)やバックマンをベースにした各種ドレスアップ・キット(右)を展示。レールトラックはギアリングのコアレス・モーターにより1:54の超低速減速を得る。P:岡山英明

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たいへんなご好評をいただいて重版をした『軽便追想』(現在品切れ)や、RM LIBRARYシリーズ『東野鉄道』『日本ニッケル鉄道』などで数々の貴重な写真を発表いただいている高井薫平さんが来社、たいへんショックな話を伺いました。初期のモノクロ・ネガ・フィルムがここ数年の間に酷い状態になってしまったというのです。

ご持参いただいたネガを見て絶句! 直径5ミリくらいにクルクルに巻きついてしまい、どうにもこうにも開けなくなってしまっているのです。しかもそのネガは『軽便追想』に使わせてもらったものそのもの。編集に際して9年前にお借りした時には多少のカビはあったものの、とりたてて状態が悪い原版とは思えませんでした。それがこんな状態になってしまうとは…。

問題なのはこの症状、高井さんのネガに限ったことではなく、ほかの何人かの方からも同様の相談を受けていることです。しかもいずれもここ十年ほどの事象で、もしかすると“花粉症”のように何らかの自然条件が複合的に絡み合って発症(化学変化?)するのかもしれません。そうだとするとこれは私たちの趣味にとって前代未聞の一大事です。
▲高井さん著『軽便追想』から沼尻鉄道のコッペルの走行シーン。1957(昭和32)年1月に撮影されたこの写真のネガも今やご覧のとおり…。

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共通の“症状”は次のようなものです。
・ 非常に強いカーリングが起こり、最終的には直径5ミリくらいに巻きついてしまう。
・ 従来それほど感じなかった酢酸臭が極度に強くなる。
・ フィルムベースの色がオレンジベースのネガカラーフィルムのようにオレンジ色に変色し始める。
このほかにも乳剤面と逆側にうっすらと汗をかくような湿度を帯びる初期症状もあるようです。複数の皆さんの“症例”を拝見するに、「1960(昭和35)年頃以前に撮影された特定メーカーのフィルム」が共通項で、件の高井さんのネガも1961(昭和36)年以降のものはまったく発症していません。ただこれは、今後も発症しないものなのか、撮影後40~50年を境に症状が出てくるものなのかは不明です。

編集者としてはもちろん、“明日はわが身”でもあり、高井さんからお借りしたサンプルを『永遠の蒸気機関車 くろがねの勇者たち』でお世話になった東京都写真美術館に持ち込み、分析をお願いしました。とにかくまずはカーリングを直さない限りスキャナに取り込むことさえできませんから、原因の究明とともにその対処方法を伺おうというわけです。カーリングの修正に関しては明治時代の鶏卵紙のカーリングを直す方法などがあるそうですが、保存科学研究室で調査のうえ何らかのサジェスチョンをいただけるそうで、その際はまたこのブログでご報告したいと思います。

米国のNASAは歴史的な月面着陸のカラー画像をCMYKに4色分解のうえ、モノクロフィルムに転換して残しているという話を聞いたことがあります。真偽のほどはともかく、デジタル全盛の現代にあっても、保存性という意味では銀塩モノクロに優るものはなく、そこからこんな話も流布されるようになったのでしょうが、今回の件ではそれも磐石ではないことを思い知らされます。皆さんのフィルムは大丈夫ですか!?
▲丸まってしまったネガをお持ちになって困惑顔の高井さん。なんとしても一刻も早く対処方法を見出したいもの。

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姉妹ブログの「台車近影」が静かな人気を呼んでいます。新車取材の際に撮影した台車の画像を中心に、現代を生きる台車たちの姿をなるべく同アングルでご紹介しようという企画です。簡単そうに見えて、実はこの“同アングル”がなかなか曲者で、そう簡単に撮り揃えられるものではありません。理想的なアングルは目線の高さが台車中心より若干高めくらいですが、そうなるとどうしても車輌基地などで撮影する必要が生じます。
▲RM次号紹介の車輌から、18200系置き換えのため12200系から改造された近鉄の団体専用車15200系。愛称は18200系の“あおぞらⅡ”を受け継ぐ。本形式の台車も近々アップの予定。

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新車取材時や担当の高橋君がプライベートで撮影した画像をこつこつとアップしているわけですが、スタートから3ヶ月近くを経てその内容もどんどん進化を遂げており、アーカイブとしての蓄積の力も加わってじわじわとページビュー(PV)を上げてきています。ちなみに部内ではリアルタイムにPVをカウントしており、この「台車近影」の11月期のPVは対前月比145.48%の成長率をカウントしています。

担当の高橋君は…「誌面での紹介ではどうしても小さくなってしまう台車の写真をクローズアップするページです。これまでの取材でRMのポジファイルに蓄積された数々の台車はもちろん、取材したばかりの新車のものもいち早く紹介します。また、各地で活躍する歴史的な台車たちの姿も順次公開する予定です。近日中には音声ファイルも…などと、ファイルの大きさと関係なく担当者の勝手な思いは膨らむばかりです」と語っており、ことに走行音の音声ファイル添付は数日後にも実現するかもしれません。

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ところで、ここに掲げた「私鉄の台車」と題する本をご存知でしょうか。実はこれ、弊社の「私鉄の車両」シリーズ全24巻の発売時に、全冊セットをお買い上げいただいた方への特典として製作した非売品の一冊です。同シリーズの各巻に収録された1980年代の私鉄台車を網羅したもので、実にその収録数は395種類、メーカーも20社以上に及んでいます。現在ブログ「台車近影」でご紹介した台車は37形式。まだまだこの一冊には遠く及びませんが、1年後にはウェブ上にこれを凌駕する21世紀の台車プロフィールが構築されるはずです。

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