鉄道ホビダス

2005年11月アーカイブ

この1冊。(3)

近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、ここでは何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

小熊米雄『日本における森林鉄道用蒸気機関車について』(1961年)
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今回はあまり一般的ではないものの、歴史に残る鉄道書を語るうえで欠くことのできない一冊をご紹介しましょう。この『日本における森林鉄道用蒸気機関車について』は一見趣味書のようですが、発行は北海道大学、発行形態としては“北海道大学農学部演習林業務資料別刷”という何ともいかめしいものです。

本書が発行された1961(昭和36)年当時といえば、それこそ第1回でご紹介した『国鉄蒸気機関車小史』が上梓されてまだ間もなく、国鉄の蒸気機関車の全容さえ解明半ばの時代でした。そんな中で、戦前のいわゆる外地も含む日本に存在した森林鉄道用蒸気機関車の全貌を、写真・図面・諸元で網羅しようというのですから、その無謀とも思える企画スケールの大きさには圧倒されます。

著者の小熊米雄さんは希代の鉄道趣味人であるとともに旧帝大出身のエリートで、戦前は帝室林野局の技官として森林鉄道車輌の管理に携わっておられた方です。今のような情報社会ならいざ知らず、日本各地の森林鉄道の資料など一個人が蒐集できようはずもなく、本書は小熊さんの経歴なくしては決して形にならなかったに違いありません。

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戦後、小熊さんは帝室林野局を辞して家業の小熊木材(株)を継ぎ、続いてその豊富な知識と経験を買われて母校でもある北海道大学農学部の講師を務められます。その中で纏められたのが本書で、私たち趣味の側の人間からしてみれば垂涎の内容ながら、その趣旨はあくまで付属演習林の“業務資料”なのです。

かつて聞いたところでは、この当時、小熊さんは農学部の講師としてその名も「日本における森林鉄道用蒸気機関車について」という講義を構えており、本書はその授業のテキストにも使われたといいます。なおかつ嘘か本当か、この講義を受講したいがために北大を受験する猛者もいたとか…。想像するに、単位ほしさにこの「日本における森林鉄道用蒸気機関車について」を受講した女子学生など、単位さえ取ってしまえば当然この本に用はなく、本書の多くは他のテキストとともにヒモで括られてアパートのゴミ置き場に積み上げられてしまったに違いありません。それが原因かどうかはともかく、名前は聞いたことがあるが本書の現物を見たという方もほとんどおられません。ましてや古書店に並んだのを目にしたことはこれまでただの一度もなく、今風に言えば“激レア”な一冊です。

ついでにさらに蛇足を加えるなら、実は本書にはその続編(?)があるのです。『北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について』と題されたそれは、北海道大学農学部演習林研究報告第20巻第1号に掲載されたものの抜刷で、森林鉄道はもとより簡易軌道の内燃機関車にまで言及した小熊さんならではの内容です。

小熊さんはなぜか早朝、自宅に電話を掛けてくるのが常でした。仕事柄朝は遅いのですが、きまって7時半頃に電話をいただきました。最後にお目に掛かったのは新宿駅南口の喫茶店…もっといろいろとお聞きしておけばよかったと悔やまれてなりません。
▲現在も丸瀬布いこいの森で保存されているムリイ森林鉄道21号の頁。時代からしても印刷は決して満足できるものではないが、掲載されている写真は超の付く貴重なものばかり。英文のサマリーも充実しており、趣味が学術研究のボーダーを越えた記念碑的存在でもある。
B5版上製本176頁  定価なし。

残された最後の「川造型」。

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今年のはじめにED403が派手なクライアント・カラーに塗り替えられて話題となった岳南鉄道ですが、幸い(?)にもこの塗色変更は他機には及んでおらず、古豪ED501は麗しいチョコレート色のまま今日も活躍を続けています。
▲「川造型」のプロフィール。一時は前面が警戒塗装(ゼブラ模様)であったが、現在はその警戒色もとれてまさに威風堂々。'04.7.14 比奈

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このED501(形式はED50形)、1928(昭和3)年に川崎造船所で誕生した「川造型」と通称される古武士のような無骨な電気機関車で、ほぼ同設計のものが小田急電鉄(ED1011、1012 ※形式はデキ1010形)と西武鉄道(E21、22)にもおり、関東のファンには馴染み深い電機、いや「電関」でした。ただ、1968(昭和43)年に小田急のED1011が廃車されたのを皮切りに、1973(昭和48)年に西武E21、1978(昭和53)年に西武E22、そして1985(昭和60)年に小田急ED1012が廃車されるに至って、ついに5兄弟の中で生き残ったのは岳南ED501だけとなってしまいました。

それからでもすでに20年。向ヶ丘遊園と海老名に保存されていた小田急ED1011と1012もつい先ごろ解体されてしまい、動態、静態を問わず本機がいよいよ最後の個体となってしまったわけです。
▲ED501のメンテナンスを担当する岳南富士岡の庫を裏の道路から見る。鉄道工場というよりも町工場の雰囲気が漂う。

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ところで他の4輌の兄弟が比較的平穏無事に生涯をまっとうしたのに対して、このED501の半生は実に波乱万丈でした。川造へのもともとの発注者は上田温泉電軌で、同社が北東線の開業に伴いまさに“大盤振る舞い”で購入したものでした。ただ、自前の貨車が5輌しかないローカル電鉄に40t/450kW出力の電機は宝の持ち腐れで、導入数年後に暴走転覆の汚点も残していくばくもなく三河鉄道(のちの名鉄三河線)に売却、1970(昭和45)年になって岳南に転じるという流転の日々を送っています。この辺のエピソードについてはRM LIBRARY 74『上田丸子電鉄』(下)で宮田道一さんが細かく触れておられます。

かくして今年で喜寿を迎えた古老は、今日もED40にまじって活躍を続けています。主な仕事は比奈駅に隣接する大昭和製紙吉永工場への貨車入換えで、ある意味、定年後には相応しい日なた仕事かも知れません。長大なトムとトフの列を従えて電動機の唸りも高々と小田急や西武の本線を行く姿はもう見ることがかないませんが、せめてここ比奈の構内でいつまでも余生を過ごしてほしいものです。
▲比奈で入換えに励む。定期の貨物運用を持つ電化私鉄はここ岳南と秩父、それに三岐のみで、こんなさりげない光景も実は大変貴重なものとなりつつある。'04.7.14

三瀦に保存されたコッペル。

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全国各地に歴史的な路線変遷が極めて難解な地域がいくつかありますが、筑後平野の地方鉄道・軌道網も間違いなくそのひとつでしょう。九州鉄道を基軸に、この地方特有の3フィート(914㎜)ゲージの零細軌道網をも巻き込んで縦横無尽に発達した全盛期の鉄道網は、よほどの研究者でもない限り諳んじて描ける方はまずいないでしょう。

離合集散を重ねた挙句、多くの路線は歴史の彼方へと消えてしまい、現在ではJRと西鉄、それに甘木鉄道が残るのみ。しかも、その痕跡もほとんど見ることができなくなってしまいました。そんな中で今から十年ほど前に旧大川鉄道の2号機が縁の地に理想的な形で保存展示されたのが特筆されます。
▲地元小学校がメンテナンスに協力しているとのことで、状態はそれほど悪くはない。バッファー・リンク式のカプラーだが、西鉄の支線では戦後もこのプリミティブな連結装置が使われていた。

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三潴(みずま)町の三潴小学校脇の遊歩道に懇切丁寧な解説板を伴って展示されたのは、それまで北九州市の到津遊園に保存されていたコッペル製8tBタンク機(1911年製)です。上久留米?若津間を結んで大川鉄道が開業したのは1912(大正元)年の年末。この開業に際して用意された5輌の同形機のうちの1輌が本機です。大川鉄道は1937(昭和12)年に九州鉄道(現在の西日本鉄道)に吸収され、同社の大川支線として戦後まで蒸気動力のまま残りましたが、結局1951(昭和26)年9月以来、長期の休止を経て1966(昭和41)年に正式に廃止となりました。

この大川鉄道→西鉄大川支線の変遷も難解で、当初の上久留米?若津間を上久留米?榎津に延伸、さらに1937(昭和12)年には途中の津幡?大善寺間3.8kmが本線電車線区間に組み込まれ、上久留米線(2.4km)と大川線(13.6km)に泣き別れてしまうなど一筋縄ではゆきません。
▲ホイールベース1400mm30HPのレンジに属するコッペルで、ウェル(ボトム)タンク式である。

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この三瀦小学校脇で保存展示されている機関車、車体には大きく「5」の文字がありますが、どうもこの番号の由来は疑問符です。もともと1995(平成7)年4月14日にそれまでの展示場所である到津遊園から当地に移設させるまでは「4」を名乗っていました。西鉄の「4」は1952(昭和27)年2月20日付けで廃車になっており、到津遊園に保存されたのは間違いなく、となるとここ三潴に移った際になにゆえ「5」となってしまったのでしょうか。線路の変遷も複雑怪奇なら、保存機関車もなにやらややこしい流転を経ているようです。
▲陶板に焼き込まれたなかなか細かい説明板が横にある。戦前の一時期、久留米の足袋工場の従業員を7割引きという破格の「工員定期券」で輸送した…などの興味深いエピソードも刻まれている。

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▲ささやかながら上屋が設けられ、遊歩道には線路を模したタイルが埋め込まれている。郷土を走った鉄道を語り継ごうという静かな意志が感じられて小気味よい。

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思い返せば、35ミリ判で中判、いや4×5in判にも負けない画質をと、かなり無茶な実験もやりました。そのひとつがまだ乾式コピー機がそれほど普及していなかった当時、文献コピー用として市販されていたミニコピー・フィルムの超軟調現像です。通常現像ではほとんど2階調化してしまうこのコピー用フィルムを、ASA(ISO)8相当で撮影し、超軟調処方によって処理するのですが、いかんせん感度が低すぎて汎用にはいたりませんでした。

その後、1980年代になるとコダックからテクニカルパン(TP)が発売され、一時はこのフィルムに傾倒したこともあります。テクニカルパンは基本的には前述のミニコピーと同様に複写用途のモノクロフィルムですが、一般撮影用に専用のリキッド(液体)現像液テクニドールが発売され、ASA(ISO)25相当で撮影したものをこの専用現像液で処理すると、とても35ミリ判とは思えない高解像度・超微粒子のネガが得られました。そのクォリテリーの高さは決してお世辞ではなく凄まじく、8×10in(六切)程度に伸ばしても粒子がまったく見えないほどでした。

ただこちらもミニコピーのASA(ISO)8よりはまだましとはいうものの、かつてのコダクロームと同じASA(ISO)25とあっては常用するわけにはゆかず、結局公称感度400のトライXの使い勝手の良さに回帰する羽目となりました。

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それからしばらく後、1990年代になってイルフォードからこれまでの常識を覆す奇妙なフィルムがリリースされました。XP2と名乗るそのフィルムは、従来の銀塩モノクロフィルムの臭化銀粒子ではなく、カラーネガフィルムと同様の色素によって画像を構築するもので、現像もカラーネガの一般処方であるプロセスC?41で処理します。しかも従来のフィルムでは考えられないようなラチチュードの広さを合わせ持っており、実にそのバンドはEI(エキスポージャー・インデックス)25から1600。つまりはピーカンの雪原から夜景までどんなシチュエーションにも対応できるというわけです。

実際にこのXP2を使ってみて驚いたのはその粒状性(正しくは粒子ではなく色素ですが…)です。ことにハーフトーンのグラデーションは見事で、自家現像の苦労もなくこの高画質が得られるとは何と良い時代になったものよ、と歓喜したものです。ところが、ひとつ落とし穴がありました。引き伸ばしです。基本的にオレンジベースのネガカラーフィルムと同様のものですから、通常のモノクロ印画紙に焼きつけるのは非常に時間がかかり効率的ではありません。かといってラボに頼むのも不経済です。

そんな十年ほどまえの悩みを一気に解決してくれたのがパソコンです。極めて高解像度のこの色素画像モノクロフィルムをスキャニングし、画像ソフトで微調整を加えてグレースケールで出力すると、恐ろしいほどクォリティーの高いモノクロプリントが完成します。最近ではすっかりこの色素画像モノクロがお気に入りで、ここに掲げたような手持ちの夜景などを気軽に楽しんでいます。

最後に老婆心ながらこの色素画像モノクロに関するヒントをいくつか。現在市販されているこの方式のモノクロフィルムはイルフォードのXP2スーパーとコダックのBW400CN(従来のT400CNを改良したもの)の2種類で、性能的にもほとんど互角です。どちらもEIバンドは25?1600程度で、標準EIは400とされています。ただし露光量はアンダー目よりオーバー目の方がシャドー部の再現性も良好です。現像は町のミニラボでも可能ですが、店によっては経験がないため敬遠するところもあるかもしれません。いずれにせよ、スクラッチ等のリスクを考えると、プロセスC?41といえどもプロラボに頼んだ方が安心できるでしょう。
▲ISO1600相当で夜のウィーン市電を撮る。もちろん手持ちである。ウェブ上では判らないが、A4に出力してみると恐ろしいほどの再現力だ。ただし、銀粒子ではないこの色素のヌメッとした感触が生理的に厭という方もおられるかもしれない。'03.9 (T400CN Leica M2 35mm F2 1/15 f8)

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発売中の『鉄道写真2005』では「銀塩は負けたのか?」と題してハイ・アマチュアの皆さんにさまざまなアンケートをお願いしましたが、その中の1項目に「最後にモノクロフィルムを使ったのはいつですか?」という質問がありました。数名の方を除いてここ十年以上モノクロフィルムを使っていないという結果で、想像通りといえば想像通りですが、長年鉄道趣味を支えてきたモノクロが過去のものとなりつつある現実にちょっと残念な思いも抱きました。

この趣味の扉を叩いたのが1970年代以前の方にとって、よほど特別なハレの舞台でもない限り、フィルムといえばモノクロが当たり前でした。ことに被写体の主流が蒸気機関車とあっては、積極的にカラーを使う理由もなかったわけです。よく卵の値段とフィルムの値段は変わらないと言われますが、確かに1960?1970年代はモノクロフィルムとはいえ結構な値段でした。手元の1976(昭和51)年6月現在のヨドバシカメラ価格表によれば、35ミリ判のトライX36枚撮りが430円(定価590円)ですから、いかに高かったかが知れます。セブンスター1箱が150円、ラーメン1杯が200円位の時代です。ちなみにトライX36枚撮りの現状価格は、3本パックで1202円、つまり1本あたり約400円です。
▲当時を知る方には何とも懐かしいA1判のヨドバシカメラ価格表。カラーポジ、エクタクロームの36枚撮り(EX135)は“特価”とはいえ990円する。

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そんな状況の中で、多少なりとも経費を切り詰めるためにさまざまな努力がなされました。“長巻き”と通称された100フィート缶から空パトローネへの詰め替えもそのひとつで、速成暗室の中で詰め替えた経験をお持ちの方も少なくないでしょう。私の身長だと、腕を左右に軽く広げた長さがほぼ36枚分でした。そしてもうひとつが自家現像です。当初はコスト削減が目的だった自家現像も、次第に粒状性の向上などクォリティー追及へと向かい、モノクロフィルムの現像に関しては誰もが一家言持ちあわせていた時代でした。
▲トライXの100フィート缶(右)と通称5本巻きと呼ばれていた27 1/2フィート巻き缶(左)。

粒状性、解像度、階調…等々、自分なりに研究を重ねて到達する自家現像のいわば“レシピ”はささやかな誇りでもあり、モノクロ写真の、ひいては趣味の醍醐味のひとつでもありました。蛇足ながら私の“レシピ”は、トライXをASA(ISO)320で撮影し、マイクロドールXの1:3希釈現像液(20℃)で12分、最初の30秒は連続撹拌、以後1分毎に5秒の撹拌で、停止液に浸ける前に同温の純水を潜らすというものでした。D76現像液から始まり、ひたすら粒状性とトーンを求めた結果のひとつの到達点でした。

今、わが家の現像液原液の入ったポリタンクのラベルは2000年2月19日で途切れたまま。気付いてみると私自身すでに5年以上も現像をしていないわけです。ただ、ではモノクロはやめてしまったのか、というとさにあらず。最近では別のプロセスでのお気に入りのモノクロフィルムがあるのです。

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毎号たいへんなご好評をいただいている季刊『国鉄時代』第4号は年末12月21日発売です。本誌とコラボレーションして国鉄本線蒸機廃止30年のメモリアルともなる次号の特集は“ハドソン”。いわずもがなのC60、C61、C62の3兄弟が怒濤の迫力で誌面に蘇ります。

さらに巻末付録のDVDは、国鉄本線蒸機全廃のまさにその日、1975(昭和50)年12月24日までの3日間を追った秘蔵の密着映像を中心に、“あの時代”を同時体験した方には涙なくしては見られない感動のシーンをお届けします。そしてもうひとつ、今回はちょっとびっくりするようなスペシャルゲストの寄稿(これは発売までのお楽しみ…)もあり、年末年始をかけてたっぷり堪能いただけること請け合いです。

ところで、かのC62 2が尾久区の22号機に変装(?)して映画に出演しているのをご存知でしょうか。東宝系で現在公開中の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の中のワンシーンがそれです。西岸良平さんの人気コミック『三丁目の夕日』を原作としたこの映画、舞台は東京タワーがまさに建設たけなわの1958(昭和33)年の東京下町。集団就職で上野駅に降り立つヒロインの列車を牽引してくるのがC62 22に化けたC62 2なのです。

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実はこの映画の制作が本格始動した昨年秋にエグゼクティブ・プロデューサーの阿部さんが小誌編集部を訪ねてこられ、「昭和33年当時の上野駅とそこに入ってくるC62を再現したいのだが…」と協力を依頼されました。聞けばVFX(Visual Effects)技術の第一人者といわれる山崎 貴監督も大変なレイルファンだそうで、今回の映画には何としても上野駅のC62を再現したいと意欲を漲らしているとのこと。結局、当時の尾久区の状況などをお話し、まずはずばり当時の上野駅とC62の到着シーンが出てくる岩波映画の名作『ある機関助士』をご覧になることをお薦めしました。

結局、この上野駅到着のシーンはJR西日本の協力のもと、梅小路運転区を使って実写で撮影されることになりました。C62 2号機はナンバープレートから製造銘板までC62 22のレプリカに取り替えられ、デフのツバメマークもマスキングされてすっかり22号機になりすましています(ただランボードの白線は当時の尾久区所属機にはなくちょっと画竜点睛を欠く)。もちろん札差には〔尾〕の区名札が入れられています。聞くところでは、大掛かりな上野駅ホームのセットが転車台横に設置されての撮影だったとのこと。もちろん東海道本線や新幹線車中からは見えないように大きな遮蔽板が設けられていたそうです。この『ALWAYS 三丁目の夕日』、たいへんな好評を博しているようで、一度ご覧になってみては如何でしょうか。
▲1948(昭和23)年の誕生以来、およそこの機関車ほどシャッターを切られる機会の多かった機関車もないだろう。しかし、まさか22号機となってムービーに登場しようとは…。'04.7 梅小路運転区

三井三池鉄道は今…。

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三井鉱山(株)の全面的な協力のもと、本誌連載の「模“景”を歩く」で三井三池鉄道をこと細かに取材させていただいたのは、今から9年前の1996(平成8)年1月のことでした。実はこの時点で三池鉱業所は存亡の岐路に立たされており、同年秋には閉山が決定、翌1997(平成9)年3月30日をもって日本最大の炭礦として名を馳せた「三池炭礦」は過去帳の中へと消えていってしまいました。そういっては何ですが、まさに絶好のタイミング、あの機会を逃せば同鉄道の施設をあれだけ詳細に調べあげることは出来なかったはずで、その意味でも印象深い取材でした。
▲蓄電池車「デ」を従えて宮浦で待機する11号。1917(大正6)年生まれだから、今年で88歳を迎えるオールドタイマーである。'96.1.18

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取材時にはまだ三池港から四山、万田、宮浦を経て三池浜に至る本線が健在で、三池港の大ヤードには三川鉱で採掘された石炭を満載した石炭車・セナが長蛇の列をなしていました。機関車もまだGE製のL型電機が2輌、シーメンスをコピーしたB凸電が10輌ほど、東芝製の戦時型45tBB電機が6輌、合計20輌近くの個性溢れる面々が在籍しており、日がな見ていても飽きることのない状況でした。
▲11号機のキャブ内。右側運転台で横向きに座る。コントローラーの木製ノブがこの凸電の歩んできた歳月を物語っている。'96.1.18

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あれから十年近く、かつての“本線”の線路はほとんど撤去されてしまい、三池浜には「石炭産業化学館」だけがさびしげに建っています。ではあの三井三池鉄道は跡形もなく消えてしまったのかというと、そうではありません。どっこい生きている区間があります。大牟田駅東方のかつて宮浦坑があった宮浦停車場から、JR線との接続点である大牟田駅北方の仮屋川ヤードまでの約1.8kmで、かつて旭町支線と呼ばれていた区間です。
▲昨年の熊本出張の際に一瞬垣間見た宮浦停車場の様子。背後に聳える大煙突が旧宮浦鉱で、現在は宮浦石炭記念公園になっており、この公園からは宮浦駅構内の全景が見渡せる。'04.9

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三池鉱業所閉山後、この旭町支線は宮浦にある三井東圧化学のJR連絡専用線の役割を担って三井東圧専用鉄道となり、さらに1997(平成9)年10月三井化学専用鉄道と名を変えて現在まで生き延びているのです。化学薬品のタンク車の出し入れが主な仕事のため、防爆の必要性もあって蓄電池を積載した電源車「デ」を従えたB凸電が工場と仮屋川の間を往復しています。工場内はもちろんのこと、残念ながら宮浦駅構内や仮屋川ヤードも立ち入り禁止で、車輌たちを間近で見ることはかないませんが、宮浦停車場の西側、宮浦鉱の跡地に出来た「宮浦石炭記念館」からは同停車場で待機する機関車たちや、入換作業の様子を手にとるように見ることができます。

そしてもうひとつ、とっておきのビューイング・ポイントがあります。大牟田駅北方に位置する旭町支線の国道208号線踏切がそれで、仮屋川へと出入りするかわいいB凸電の姿を直近で目にすることができます。午前中のみ2往復が運転されているようで、7:44大牟田着の南延岡始発専用貨物第4175列車に接続して8時過ぎに仮屋川に到着する列車が1往復、さらにこの専貨の折り返し第4172列車の発車12:05までにもう1往復が設定されているようです。機会があればもう一度彼らの元気な姿に接してみたいものです。
▲東芝製の45tBB電機も健在。かつては全国各地で見られた戦時設計の規格型機だが、近年では伊豆箱根や名鉄に同系機が残るのみ。'04.9

この1冊。(2)

近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、ここでは何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

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廣田尚敬『魅惑の鉄道』(1969年)
「鉄道写真」というジャンルを広く世間に知らしめ、かつその後の鉄道写真を志す者への比類ない教科書となった点で、この『魅惑の鉄道』はまさにわが国の鉄道趣味史に残る一冊と言えるでしょう。

残念ながら再版はされておらず、初版の発行は1969(昭和44)年11月15日。「ジャパンタイムズ」という鉄道とはおよそ関係のなさそうな版元から出版されていますが、広田さんから伺ったところではこれにはわけがあります。広田さんは前年の1968(昭和43)年4月9日から15日にかけて、東京・銀座の富士フォトサロンで本邦初と言える本格的鉄道写真展「蒸気機関車たち」を開催されていますが、この展示を見たジャパンタイムズ社から出版のオファーがきたのだそうです。広田さんにとっては初めての写真集でもあり、願ってもない話でしたが、時はいわゆる“SLブーム”にさしかかりつつあり、ご本人としてはいかにもブームにのった出版のようで、近代車輌も入れた現代の日本の鉄道を広くテーマに据えたものにしたい…と逆提案されたのだそうです。ジャパンタイムズとしても、日本の鉄道を広く海外にも知らしめたいという意図があったようで、結局この逆提案は受け入れられ、広田さんはこの初めての写真集出版のために、半年にわたって日本全国を行脚することになります。

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その辺の意図は巻頭の“まえがき”にも如実に表現されています。ちょっと長いが引用してみましょう。
「日本には、2つの顔がある。1つは、深い静寂に包まれた歴史的な寺院や神社、なだらかに起伏した山並み、ゆたかな田園風景…。もう1つのそれは、石油コンビナートで燃える赤い炎やジェット機の金属音。つぎつぎに空にそびえ立つ近代建築…。世界最古の木造建築「法隆寺」を持つ日本は、同時に世界一の鉄道「東海道新幹線」をもあわせ持っているのだ。
わが国の鉄道にも2つの顔がある。新しい鉄道の代表、新幹線に対して、古い蒸気機関車や、軽便鉄道が日本の各地でまだまだ働いている。私はそこにかぎりない夢が存在していると思う。古い鉄道には、ファンを古きよき時代の夢に誘う魅力がある。新しい鉄道には、技術者たちが理想として描いている夢の追及がある。そして、この『魅惑の鉄道』は、この夢を出発点にしている」
▲当時は極めて高価だったカラーページは巻頭の16頁に使われている。最初の扉は氷結したDD14の前照灯。

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この『魅惑の鉄道』が画期的だったのは、その出版形態にもありました。当初の意図通り、日本語版と英語版が同時に出版されたのです。実は独語版も計画されていたのだそうですが、こちらは採算がとれそうもなく断念されたと聞いています。版元の販売ルートもあってか、最終的には日本語版より英語版の方が部数が出たようで、かえってそれが“日本の広田”を世界に知らしめたわけです。
▲当時の2400円といえば書籍としては信じられないほど高価。段ボール製のケースに入っているが、束の背には出し入れがしやすいようにエア抜きの穴が…。細かい気配りに担当編集者と版元の良心が垣間見える。

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この写真集を見ていると、現代の私たちが四苦八苦してトライしている撮影技法のほとんどすべてがすでに試されてしまっていることに気付きます。流し撮りや夜間撮影は言うまでもなく、列車の前後を切ってしまいながら「切り取った空間を超越した世界を描」こう(『鉄道ファン』1970年5月号No.108「わたしのアルバムから」)とする当時としては“冒険”もすでに網羅されています。それどころか、アナログでの画像処理まですでに盛り込まれており、その先進性には衝撃を禁じえません。
▲「美しき女王たち」の章より。余談ながら、「白い矢が飛ぶ」の章の富士山をバックにした0系新幹線(写真番号32)にはいわくがあるそう。何と富士山頂に小さく写っていた測候所をゴミと間違えて印刷所がレタッチで消してしまったそうな。改めて見てみたが確かにない。

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全体は12章にわかれており、写真総枚数は104枚。巻末にその1枚1枚についてかなり詳しい解説がなされていて、これはいまさら読み返してみても味わい深いものです。なお、本書で使用されたフィルムの多くはその後行方不明になっており、親しくさせていただいている編集者としてはそれが残念でなりません。本書に収録されている「黒い勇姿」(写真展「蒸気機関車たち」より)や「草笛のながれる丘に」(屋久島・安房森林鉄道・簡易軌道風連線)などはイヤーブック『鉄道写真』や『トワイライトゾ?ン・マニュアル』などで再録を試みてはいますが、『魅惑の鉄道』に使用しているカットだけは欠落しており、その前後コマや類似カットをご紹介しています。いつの日か、この『魅惑の鉄道』が復刻されることを願ってやみません。
▲「雪原のかなたへ」の章より根北線のキハ03。なお、本書の著者名は正字の「廣田」だが、その後、年少のファンにもわかりやすいようにと「広田」を使っている由。
A4版上製本176頁(うちカラー16頁、前付け・解説32頁)2400円。

知られざるアプト式鉄道。

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那須高原を走るアプト式鉄道をご存知でしょうか。もちろん鉄道事業法に則った正規の「鉄道」ではなく、いわゆる遊園地鉄道に属するものですが、写真のようにこれがなかなかどうして良い雰囲気を醸し出しています。

東北自動車道那須ICから10分ほどのところにある「りんどう湖ファミリー牧場」を走るその名も“スイス鉄道”がそれで、ゲージは2’6”(762㎜)、軌道延長は600mほど。定員30名の小さな電車2輌が長閑に走り回っています。園内最初の区間の開通が1986(昭和61)年夏といいますから、来年で開通20周年を迎えるわけですが、その割にはあまり趣味誌上にも登場しません。
▲R10の急曲線を半周し「ホルンの森」駅を出る1号。晩秋の木立の中、赤い車体が落ち葉を踏みしめるようにゆっくりと「牧場」駅を目指す。なにか北海道の簡易軌道を見ているような錯覚に陥る。'92.11.29

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路線は、パーク名ともなっている「りんどう湖」(正式名称は「江戸川用水土地改良区農業用温水溜池」といういかめしいもの)の「湖畔」駅を出て、途中駅の「ホルンの森」からラック・レール区間に入って終点の「牧場駅」に至るU字型をしており、ラック区間は延長120mほどとなっています。アプト式というとすぐに碓氷峠旧線の66.7‰が思い浮かびますが、ここ“スイス鉄道”の最急勾配は38‰と控えめです。通常の粘着式でもクリアできる勾配ですが、雰囲気作りも兼ねてあえてアプト式を採用したところにひとかたならぬ拘りが感じられます。
▲「牧場」駅側からラック区間を見る。走行レールの右側に敷設されているのが通電用第3軌条。

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ところでこの車輌、北海道の簡易軌道の気動車のような外観ですが、もちろん気動車ではなく歴とした電車です。では集電はどうしているのかというと、これが面白い。いわゆるサード・レール式、第3軌条式なのですが、通電レールは走行軌条の横にむき出しで敷設されています。途中には踏切もあるのにむき出しの通電レールではあまりに危険…と思われるでしょうが、さにあらず。実はこの電車は低電圧モーターを使用しており、そのスペックは48V8kW。つまり軌道電圧も50ボルト程度で、感電の危険はないのです。
▲全長7.5mのこの電車は“単端式”。運転台は1エンドにしかないため路線の両端で転向しなければならない。始発の「湖畔」駅にはループ線が設けられているが、終端の「牧場」駅の転向方法がふるっている。何と駅そのものがターンテーブルになっているのだ。プランターの花で埋め尽くされた転車台が乗降ホームごとくるりと一回転する。

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さて問題のラック・レールですが、碓氷峠の3枚歯などと違い、極めてシンプルな1枚歯方式です。一見アプト式ではなくシュトループ式のようにも見えますが、歯そのものは板状で、軌条のように底面のある断面のシュトループ式とは異なります。勾配もさほどではなく、車輌重量も控えめ(自重5.3t)なため、1枚歯で充分なのでしょうが、それでもバネ式のエントランスを越えてラック区間に入ると、アプト式特有のカタカタという走行音を体感することができます。
▲「湖畔」駅からしばらくは湖に沿った遊歩道脇を走る。何箇所かある踏切は通常軌道側に柵が閉じられている。
▼バネ式のエントランスからラック区間に入って「牧場」駅を目指す1号車。走行速度は歩いて追いつくほど遅い。
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監物台の「土佐造船」。

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「監物台(けんもつだい)」とは熊本城内にある九州森林管理局の広大な樹木園の名前です。何とも珍奇な名称ですが、熊本城主細川家の家老であった長岡監物に由来するものだそうです。ただこのネーミングにはさらに“あや”がついています。長岡監物が守備を担当していたのはこの樹木園の場所ではなく、この敷地は長岡図書のものだったそうです。いつ誰が間違えたのか、本来は「図書台」とすべきところを「監物台」と名付けてしまい、現在ではそれが定着してしまったというわけです。

この監物台樹木園の中に、これまた“あや”付きの珍しいディーゼル機関車が保存されています。元熊本営林局内大臣森林鉄道で使用されていた「土佐造船鉄工所車輌部」製の4.8t機です。内大臣森林鉄道は熊延鉄道の甲佐から東南の内大臣国有林へ伸びていた総延長40kmあまりの九州屈指の大森林鉄道で、蒸気機関車も使用されていましたが、1960年代に入ってから増備されたのがこの「土佐造船」です。
▲監物台樹木園を入ってすぐ左手に保存されている機関車と台車。屋根付きで保存されているのと、入園料が必要な環境が幸いして状態はさほど悪くはない。

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「土佐造船」を名乗りながらも、米国ミルウォーキーを範としたその造作は明らかに「野村組工作所」です。しかも日本全国の森林鉄道に多くの内燃機関車を供給した「野村」は1956(昭和31)年に解散してしまっており、そこに大きな謎が生まれます。
▲トラックの運転台と見間違いそうなキャブ内。ステアリング・ホイール状の物体は手ブレーキである。

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現車の台枠に取り付けられたエッチング製の製造銘板によれば、「特許第199231号 野村式ディーゼル機関車 株式会社土佐造船鉄工所車輌部 高知 1961年6月 No.51」とあり、額面から類推するに、土佐造船が野村のパテントを使って製造したと読み取ることができます。ところが、実際はこの土佐造船という会社、野村組の第2工場が会社解散後別の造船メーカーを買収して設立した会社だったのだそうで、どうも話が一筋縄ではゆきません。この辺の経緯は舛本成行さんのRMライブラリー『魚梁瀬森林鉄道』に詳しいのですが、本来の図書さんが間違われて監物さんになり、そこに保存してある機関車が土佐を名乗る事実上の野村…と、何とも判じ物の様相を呈しています。
▲台枠に取り付けられた銘板。「土佐造船」製の機関車としては現存唯一。

そろそろ出番です。

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中華鍋洗い、易者の易棒、はたまた肩叩き…何だかよくわからないこの物体、実は「ささら電車」の“ささら”です。山口県萩市産の孟宗竹だそうで、手元の実物を実測したところではひと束の直径はφ35、長さは285㎜。札幌では9日に初雪を観測し、いよいよこの“ささら”の出番も間近です。
▲ささら竹の先は3mm角に裂かれ、一束で約150本。それが50束まとめてひとつの木台に取り付けられ、さらにその木台8本が一組として回転軸に放射状に取り付けられる。つまり片側で400束、それが前後に取り付けられるわけだから、1輌=800束、12万本のブラシが路面の雪を掻くことになる。

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この「ささら電車」、札幌市交通局の前身・札幌電気軌道の技師長が大正時代に台所で使っていた竹箒(ささら=米びつなどを洗うのに使う)にヒントを得て発案したものとされ、それ以来延々とこのプリミティブな装置が使われ続けてきました。素人考えではもっと画期的な除雪方法がありそうにも思えますが、舗装路面を傷付けずに効果的に除雪するのはこの孟宗竹製ささらに勝るものはないそうで、現在でも札幌と函館の市電でこの「ささら電車」が活躍を続けています。
▲30年前の札幌市交「雪」。旋回窓のサイズが違うなど細かい点以外は現在の姿とほとんど変わらない。右後方には現在では交通資料館に保存されているプラウ式排雪車「雪11」の姿も見える。'75.3

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正式にはブルーム(Broom=箒)式排雪車と称されるこの「ささら電車」は、現在札幌市交に4輌、函館市交に2輌が現存していますが、これからの季節、毎日初電前に必ず出動する札幌と異なり、函館の方は自動車除雪への転換が進み、出動回数は少ないようです。同市交通局のホームページによれば、先週17日に駒場車庫から五稜郭公園折り返しで今シーズン初の試運転が行われたようです。
▲いつ見ても奇妙な札幌市交ブルーム式排雪車正面。ちなみに、よく見ると旋回窓の支持枠は水平方向で、JR等の縦方向と90度逆。旋回窓自体、船舶用のものを流用したのが最初と伝えられ、鉄道車輌の場合は視認性から船舶と90度逆の縦方向の支持枠になったと伝えられているだけに、なぜ札幌市交は船舶と同様なのか不思議。

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▲「雪1」と5年ほど前に登場した最新鋭の雪10形「雪11」(写真下)。雪10形は従来チェーン駆動(25馬力)だったブルームの駆動を低騒音型の油圧とした新鋭で、フランジウェイの氷結を取り除くアイスカッターも装備している。

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札幌市交通局のホームページによると、ささら電車4輌の年間走行距離は7000kmにも達するそうです。車輪と逆方向に毎分255回転するブラシは走行距離700?800kmで交換せねばならず、ひと冬で2?3回交換するため、実に1シーズンで7000?8000束のささらを消費することになります。
▲函館市交では排雪車「排3」と「排4」が健在。どちらも戦前、しかも昭和ひと桁生まれの東京市電が出自で、車体構造など札幌のものより数段古めかしい。残念ながら近年では事業用自動車による排雪が定着し、なかなか本番の出番はないようだ。写真は30年以上前の姿で、モニタールーフが古めかしい。'73.3 駒場車庫

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ブルーム式除雪電車というと札幌と函館だけのように思われがちですが、実は旭川電気軌道にもまったく同じシステムを使った排雪車が存在しました。1931(昭和6)年汽車会社製のこの車、元は旭川市街軌道のもので、旭川電気軌道では同線の廃線まで「無番」の除雪車として使用していました。
▲'72.5 旭川追分 P:笹本健次

この一冊。(1)

『日本鉄道紀要』(小川一眞/1898年)を嚆矢として今日まで、鉄道を趣味の視点で捉えようとした出版物はおびただしい数にのぼります。とりわけ近年は鉄道書の出版ブームとも呼べる状況で、自戒を込めつつその出来も玉石混交の様相を呈しています。一方で時代を画した“名著”が忘れられつつもあり、今回から何回かに分けて、極めて恣意的な選択ながら私の選んだ「この一冊」をご紹介してみたいと思います。当然ながらすでに絶版になったものが多く、かつご同業他社の出版物を勝手に批評する非礼はあらかじめご容赦ください。

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臼井茂信『国鉄蒸気機関車小史』(1956年)
さて、第1回は師と仰ぐ臼井茂信さんの名著『国鉄蒸気機関車小史』(鉄道図書刊行会)です。初版発行は1956(昭和31)年6月15日。『鉄道ピクトリアル』誌の創刊や「鉄道友の会」の発足など、すでに時代は戦後の鉄道趣味の隆盛期を迎えつつありましたが、未だに国鉄の蒸気機関車全形式を総覧できるエンサイクロペディアは存在していませんでした。そんな時代に登場し、まさにバイブルとして長年多くの趣味人に愛されたのがこの『国鉄蒸気機関車小史』です。

“まえがき”で臼井さんは「いまゝでの刊行物で取扱われてきた解説は、主要なもの、あるいは特定のものに限られ、全形式にまでおよんでいませんから、なにか落丁した事典でもたよりにしらべをする感が深いようです」と書かれておられ、形式1からD62(D61はまだない)までを簡潔ながら網羅したこの本の意義を説いておられます。

活版印刷の誌面は今日的レベルではお世辞にも良いとはいえず、ことにところどころに挿入されている名刺2分の1ほどの写真は、紙質もあってかなり見にくいものです。しかし、どれほど多くの“次世代”がこの本によって胸ときめかせ、新たな発見を求めて全国へ散っていったことでしょう。車輌史の研究のみならず、この通称「小史」が1960年代の鉄道趣味に与えた影響は計り知れないものがありました。ちなみに初版上梓時の臼井さんは36歳。その年齢と業績を並べると、いたずらに馬齢を重ねるわが身に暗澹たる気持ちとなります。

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昭和40年代に入ってからも「小史」の人気は高く、とりわけその後の成果を加味した改訂版を待ち望む声は多かったのですが、すでに次なる切り口である「機関車の系譜図」執筆に没頭されていた臼井さんにとって、「小史」の改稿は棚上げ課題となり、ご承知のように結局実現することはありませんでした。ただ、実は晩年の臼井さんはこの「小史」改訂版に着手しておられたのです。主のいなくなった書斎机の正面の棚には「改稿 国鉄蒸気機関車小史(草稿)」と書かれたバインダーに、ワープロでびっしりと執筆された新原稿が115形まで遺されていました。
B5版上製本182頁470円(初版)。(写真は1961年の第3版)

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ここ数日のこのブログで採り上げた機関車に関して、あいついで興味深いレスポンスをいただきましたのでご紹介してみましょう。

まずは9日付けの「もうひとつのディーゼル・エレクトリック」に関してです。DF200登場まで国内唯一の電気式DLとして孤塁を護ってきた釧路臨港鉄道(太平洋石炭販売輸送)のDE601が、輸出を視野に入れた試作であったとのくだりに、大阪の高間恒雄さんから面白い写真が送られてきました。「宅ふぁいる便」(※注1)で電送されてきた画像は高間さん所蔵の絵葉書だそうで、南米ボリビアで活躍するDE601の“そっくりさん”です。
▲ボリビアの“そっくりさん”。エンジンはキャタピラーのD398で、最高速度は62mph(99.2km)と紹介されている。所蔵提供:高間恒雄

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絵葉書の解説ではボリビア国鉄(ENFE)の東部セクションのサンタ・クルーズで写された同国鉄(メーターゲージ)のDE975号機で、やはりキャタピラー製ディーゼルエンジンを搭載した1000HP機だとあります。ただしメーカーは米国のGENERAL ELECTRIC(GE)で1977(昭和52)年製。改めてGEのサイトを米国ヤフーで検索して調べてみると、このタイプは同社の「U10B」と呼ばれる量産型スイッチャーで、1964(昭和39)年の製造開始以来、かなりの輌数が延々と製造され続けてきたロングセラー機であることがわかりました。ということは、1970(昭和45)年製の釧路臨港鉄道DE601は日車がGEと提携して“開発”したものではなく、GEのスタンダードモデルをライセンス生産したものだったことになります。

調べれば調べるほど同形機が世界各地におり、DE601は思わぬ“国際派”だったわけです。
▲高間さんが一緒に送ってきてくれたほぼ同角度の釧路臨港D601と製造銘板。銘板には確かに“model U10B”、“manufactured under assistance agreement with GE”の文字が…。'85.5.13 春採 P:高間恒雄

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さて、もうひとつは昨日の「3連接の凸電」に関してです。京都の高橋 修さんから送られてきたのは鞍山製鉄所で働く同形の1519号機の写真です。高橋さんは17年も前から自動車競技の「ラリー」をやっており、現在では近畿地区のオフィシャルも務めておられ、「シュコダ」はラリー界では有名なチェコの自動車メーカーなのだそうです。現在ではVWグループの一員で、国際ラリーの最高峰WRCの常連で、先日北海道で行われたラリージャパンにも参戦していたそうです。

さっそく東欧の自動車事情に詳しい『Model Cars』誌の長尾編集長に聞いてみると、自動車のみならず、軍用車輌のメーカーとしても広く知られているそうです。電動トロリーバス製造でも世界のリーダー的存在とのこと。いやはや、ここ数日のブログで逆にいろいろと勉強させていただきました。
▲鞍山製鉄所で働くシュコダの1519号機。こちらはサイドコンタクト用の集電装置は持っていない。'02.11.24 P:高橋 修

▲※注1:「宅ふぁいる便」とは大阪ガスグループの㈱エルネットが運用管理している無料の大容量ファイル受け渡しサービスで、最大50MBまでのデータが送れる。画像の送信などにこれは便利!

3連接の凸電。

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EH10以来絶えて久しかった連接車体の電気機関車も、近年ではEH200やEH500の台頭ですっかりポピュラーとなってきました。しかし世界に目を向けると、さながら百足のごとき奇妙な連接電機がいるもので、今回はそんな1輌をご紹介してみましょう。

場所は中国東北部の撫順炭礦。遼寧省の省都・瀋陽の北東に位置するこの炭礦は、日本時代の1914年に開発された巨大な露天掘り炭礦で、「西露天掘坑」と通称されるそのすり鉢状の炭礦の規模は、長さ6.6km×幅2.2km、深さ300mあまりと想像を絶する大きさです。この地の底の切羽から石炭を搬出するために活躍しているのが無数のスイッチバックを持つスタンダード・ゲージの軌道です。
▲さながら百足のごとき面妖なアーティキュレーテッド(関節)式の巨大凸電は停まっているだけでも圧倒的な存在感。'91.3.23

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細かい作業線では上游形などの蒸気機関車も使われていましたが、本線に相当する部分はこの百足電機の担当です。西露天掘坑の軌道が電化されたのは1926(昭和元)年とたいへん旧く、当時はDC1200Vでの電化であったと聞きます。1937(昭和12)年にははやくも1500Vに昇圧、以後、東芝、三菱、日立といった国内メーカーのおびただしい数の電気機関車が、国策としてこの満州国の炭礦に送りこまれてきました。

残念ながら今やその姿はほとんど目にすることはできませんが、代わりに主役を務めているのがこの東欧製巨大電機たちです。写真の1511号機はチェコスロバキアの大手電機メーカー“Skoda”(シュコダ)1959年製(製番3911)で、メーカー形式37E1と呼ばれるもの。この同形機は鞍山製鉄所などでも活躍しており、中国全土に69輌もが送り込まれたとされています。
▲その関節部。牽引重量が並み大抵ではないだけに、この関節部のドローバー引張力も想像を絶するはず。

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西露天掘坑は坑外は通常の架空線式ですが、坑内、つまりはすり鉢の中はサイドに架線を張ったサイドコンタクト式となっています。このためこの機関車もサイドから集電するためのポールを備えており、ただでさえものものしい風体がさらにおどろおどろしくなっています。
▲シュコダの銘板。ロシア文字が並び詳細の解読はできない。

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ところで、この手の機関車の情報・データですが、英国のINDUSTRIAL RAILWAY SOCIETY(IRS)のリサーチが卓越しています。しばらく前になりますが、写真の“INDUSTRIAL LOCOMOTIVES OF THE PEOPLE’S REPUBLIC OF CHINA”(中華人民共和国の産業用機関車たち)というデータブックもこのIRSから発行されています。中国全土の工場、炭礦、製鉄所等々の産業用機関車を省別にまとめたデータブックで、口絵以外は無味乾燥なデータの羅列ですが、最終目撃年も明記されており、さすが英国流と唸らせるものがあります。

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中国東北部も急速に無煙化が進み、近年では足を向ける日本人ファンの数もすっかり少なくなってしまいましたが、蒸気機関車ばかりでなく、こういった電気機関車などにも目を向けると、まだまだ興味は尽きないはずです。
▲Liaoning(遼寧省)Fushun West Pit(撫順炭礦西露天掘坑)のページで1511号機の項目を見る。メーカー形式、ユーザー番号、軸配置、メーカー、製造番号、製造年、最終現認年…この本は全編にわたってこういったリストで埋め尽くされている。

強運のキハ07 41。

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キハ07(42000)というと、キハ04(41000)系列とともに国鉄機械式気動車の代表格として語られますが、その現役時代を目にされた方はそれほど多くはないはずです。RMライブラリー『キハ07ものがたり』によれば、最後に残された機械式(0番代)は豊後森区の41・42・43号で1969(昭和44)年3月の廃車、液体式の200番代も木次と米子に残された3輌が1970(昭和45)年3月末に廃車されていますから、実質1960年代には姿を消したといっても過言ではないでしょう。
▲美しくレストアされたキハ07 41。残念ながら形式番号の標記書体がちょっと変? ついでにLP43形前照灯も頭でっかちで不似合いな感じがする。個人的にはやはりLP42が似合うと思うのだが…。'04.9

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かく言う私も国鉄線上のキハ07は見られなかったくちで、鹿島参宮などで払い下げ車を、夕鉄で自社発注の同形車を目に出来たにすぎません。それだけに九州鉄道鉄道記念館で美しくレストレーションされたキハ07 41に出会えた時は感慨も一入でした。
▲客室内の見学は靴を脱いで上がる。ニスの匂いさえ漂ってきそうな車内は、1937(昭和12)年の新製時の鉄道省工作局の気概を今に伝える。

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この車は豊後森機関区に最後に残された3輌のうちの1輌ですが、1967(昭和42)年末から休車となっており、物置き代わりに使われていたのが幸いして解体を免れていた強運の持ち主です。その後、大分運転所に移されて保管され、九州鉄道記念館の開館に合わせて小倉工場で修復されたのはご存じのとおりです。

ふと気付いてみると、民鉄も含めて営業運転している機械式気動車は皆無となってしまいました。しかも機関車と異なり、とかく用途廃止=解体の憂き目をみがちな気動車だけに、このキハ07 41と、先頃JR東日本に引き取られ大宮に建設される鉄道博物館に保存予定のキハ04 8(筑波鉄道キハ461)の“強運”はとりわけ異彩を放っています。
▲前頭部が独特の曲線だけに運転席スペースは恐ろしいほど狭い。しかも機械式ならではのクラッチやらシフトレバーやらが所狭しと埋め尽くしている。

北野白梅町にて。

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先日、同志社大学に伺った際に、ちょっと足を伸ばして京福北野線の北野白梅町駅をのぞいてきました。同志社大学とは指呼の間で、土地勘のない人間にとっては、こんなに近いところに歴史ある路面電車が息づいているのが不思議でさえあります。
▲北野白梅町駅に到着するモボ501形。北野線はほとんど全線が専用軌道で、北野白梅町付近も今出川通の中央を仕切った形の専用軌道となっている。'05.11.6

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聞けば京都市電に路面を譲り渡す1958(昭和33)年までは、この北野白梅町(当時の白梅町)から、今出川通をさらに400mほど先の「北野」まで伸びていたそうで、まさに同志社大学の目と鼻の先で京福の電車を目にすることができたわけです。

今回はほとんど時間がなく、垣間見ただけとなってしまいましたが、北野白梅町の駅の風情が時空を超えて記憶の中のイメージとぴったり同じなのに驚かされました。車輌こそ更新改造が進み、トロリーポール時代から比べると“味わい”という面ではやや減衰してしまった感はありますが、冷房化をはじめ、利用者にとってはおおいに歓迎すべき変化でしょう。
▲平面的な前面意匠が多くなった中で、昔ながらの3枚窓を堅持するモボ301に出会うとちょっとほっとする。

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時間に追われて1往復の発着を見送っただけとなってしまいましたが、ここでも恒例(?)の定点観測をしてみました。といっても行き当たりばったりで「元写真」を持っていったわけではありませんから、何ともアバウトな定点観測となってしまいました。
▲画面左側にはマンションなどの建物が増えたが、驚くほど変わっていない北野白梅町駅ホームからの眺め。右の「石田外科」も看板こそ変わったものの健在。'05.11.6/'73.10.31

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帰ってからさっそく当時のモノクロフィルムを探し出してみました。2枚の写真の間に流れる時空は32年。にもかかわらず独特のホーム屋根をはじめ何もが驚くほど変わっていません。ホーム端にあるトイレの建屋はまるでそのままですし、出発信号機や架線柱の形状もほとんど変わっていません。

今回はせっかく絶好のシーズンにも関わらず、日帰り、しかも往復の新幹線の車中ではパソコンとにらめっこという味もそっけもない京都行きでしたが、次回は是非とも一日ゆっくり北野線と「嵐電」を味わってみたいものです。
▲発車を待つ帷子ノ辻行きモボ130。トロリーポールがZパンタ化されて姿を消したのは、室蘭本線でC57 135牽引の国鉄最後の蒸機牽引旅客列車が走った1975(昭和50)年12月14日のこと。'73.10.31

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本誌5月号(No.260)から隔月5回にわたって付録としてお送りした片野正巳さんの「1号機関車からC63まで」が、ついに来週発売の1月号(No.268)で完結となります。定期誌に付録するバインダー式リフィールという発想そのものが本邦初で、自分で言うのも何ですが、その意味でも画期的な企画でした。

官設鉄道の開業から133年。その歴史の3分の2は正しく蒸気機関車の時代でした。そしてその歴史の中を走り抜けていったのは、実に370形式、9000輌近くにも達する多種多様な機関車たちです。なかには今もって写真さえ発見されていない形式さえあり、よほどの研究者でもない限り、その形式と形態・特徴を諳んじている方はまずいないでしょう。翻って今まで出版された数多の国鉄蒸機史は形式順の記述が主で、時代順に、なおかつ編入私鉄等も並列に“趣味的”に語ったものは例がなく、その点を踏まえて車輌イラストのパイオニアである片野さんに見て楽しいビジュアル歴代記をお願いしました。
▲リフィールはついに最終形式C63にまで到達! 写真は最終校正中のDDCP(ダイレクト・デジタル・カラー・プルーフ)。

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今月発売の最終回でついに幻のC63にまで到達、その総ページ数は実に168ページにもおよび、漏らさずお買い求めいただいた方の手元には、間もなくオールカラーのさながら大河絵巻の如き大冊が完成するはずです。

余談ながら、国鉄最終形式として知られながらも結局実現しなかったC63はC58の改良型で、ボイラ圧力は過去最大の18kg/?が予定されていました。実はすでにC58そのものが18kg/?への昇圧を前提に設計されていたとも言われ、実際に小牛田区の14号機をはじめ何輌かで昇圧試験が行われたようです。こうなると気になるのは「汽笛の音色」です。C63も設計図面で見る限りは一般的な5室の汽笛(正しくは“笛”)が装備される予定だったようで、あの汽笛を18kg/?で吹鳴するといったいどんな音がするのか興味津々です。残念ながら現在の動態保存蒸機でその形式本来の「定圧」まで圧力を上げられるものはほとんどありません。つまり現代の私たちは、形式本来の音色を耳にしていないわけで、完成した片野さんのリフィールを眺めながら、それぞれの形式固有の汽笛の音色を耳にしてみたかった…そんな思いにとらわれてなりません。

錦繍の只見川渓谷。

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毎年11月のこの時期になると思い出すのが、只見川渓谷の燃えるような紅葉の中を行くC11のことです。1970年代前半、11月の声を聞くと急行「ばんだい」で深夜の東北本線を会津若松へと向かうのが恒例行事でした。
▲会津若松?会津宮下間には1往復の区間貨物列車も設定されていた。よく知られたコンクリートアーチ橋を渡り宮下に到着しようとする463レ。'71.11.8

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1971(昭和46)年の秋は、錦繍と呼ぶに相応しいそれは見事な紅葉でした。この年の8月29日に只見?大白川間が開通して、それまで会津線只見方と通称されてきた会津若松?只見間は小出までを通して只見線と改称されましたが、幸いなことに10月の時刻改正でも3往復ほどの蒸機牽引旅客列車は残され、すでに旅客列車はすべてDC化されてしまっていた会津滝ノ原方に比べて大きな魅力となっていました。
▲1971年時点で会津若松区には12輌のC11と3輌のD51、それに構内入換え用のC58が2輌在籍していた。会津・只見線の秋にはC11がよく似合う。423レ。'71.11.8

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3往復の客車列車のうち1往復は途中の会津宮下止めで、会津若松から21時06分着の433レでやってきた客車は宮下構内で留置され、翌5時10分始発の422レとなって若松へと上ってゆきます。当然433レを牽いてきた機関車が422レの先頭にたつと思いがちですがさにあらず、前夜会津川口まで431レを牽いていった機関車が単機で夜のうちに宮下まで戻ってきて、この機関車が422レを担当します。では433レの牽引機はというと、宮下で駐泊後、422レの2分後5時12分に宮下を発車して川口へと向かい、431レで川口留め置きとなっている客車を牽いて424レとして若松へ向かうという複雑な運用となっていました。これはどうやら会津川口に駐泊できないための処置のようで、宮下のような山間の小駅に、毎日21時以降、2輌のC11が泊まっていたわけです。
▲深まる秋、オハユニ61のリジッドな乗り心地が忘れられない。

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本誌11月号(No.266)の連載「30年目のカウントダウン」で広田尚敬さんが目の覚めるような会津・只見線の紅葉を紹介されており、その中でも触れておられますが、どうも昨今の紅葉は会津に限らず全国的にかつての艶やかさが見られなくなってしまったような気がしてなりません。温暖化の影響もあって、そのピーク時期も次第に遅くなりつつあり、30年前(つまりは蒸機時代)から比べると2週間ほど後になっているとも聞きます。今年の只見川渓谷の紅葉はどうだったでしょう。
▲眩いばかりに色づいた第2只見川橋梁を行く。'71.11.8 会津西方-会津宮下 (右)会津の秋といえば柿。各駅で出荷された屋根車はC11に牽かれて会津若松を目指す。'73.11.3 根岸-会津高田

蒸気ロコクレーンのこと。

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1987(昭和62)年に形式消滅したソ30形は、国産初の事故救援用操重車として知られ、現在でも小樽交通記念館に1輌(ソ34)が保存されていますが、この操重車、1970年からディーゼル機関に換装されるまでは縦型ボイラーを搭載した、いわば蒸気ロコクレーンでした。
▲興寧駅の新線建設現場で全国から集められた建設形蒸機にまじって働く蒸気ロコクレーン。'95.3.19

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ほとんど気にかけられることもありませんでしたが、国鉄の「無煙化」は機関車のみならずこのような蒸気ロコクレーンにも例外なく及び、「車輌」としての操重車はもとより、「施設」としての蒸気ロコクレーンも1970年代前半までに姿を消してしまいました。
▲詳しいスペックは判らないが、蒸気ロコクレーンとしては中型程度の大きさと思われる。各地の機務段(機関区)に類型機が見られた。

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そんな蒸気ロコクレーンが今なお現役で活躍しているのが中国鉄路局です。もちろんひと昔前から比べればその数は激減していますが、新線建設ラッシュも手伝って、旧式な蒸気ロコクレーンのニーズはまだまだなくなることはなさそうです。

写真は十年ほど前に広東省興寧の新線建設現場で働いていた蒸気ロコクレーンです。当時の広東省東北部・福建省側は幹線鉄道のインフラがほとんどなく、1994年12月28日の本線開業までは省都・広州からでさえチャーター便の中国南方航空機でアクセスするしかないような場所でした。それだけに各地で新線建設が旧ピッチで進められており、全国から余剰の蒸機や蒸気ロコクレーンが集められていました。
▲アームの先に取り付けられているのはバケットだが、見ているとこれを上手く使って何でも吊り上げてしまう。

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『鉄道技術発達史』(国鉄)によれば、日本の蒸気ロコクレーンのルーツは1930(昭和5)年に輸入された「アメリカのインダストリアル会社製の2軸ボギー台車をもつ巻上荷重5tのもの」が嚆矢だそうです。始動に時間を要することや、給水設備等が不可欠なこと、さらに乗務員の作業量の多さなどから、はやくも3年後にディーゼル駆動のものが試作されましたが、「速度の細かい調整がきかないこと、振動の大きいこと、厳寒時の始動の困難なこと」などから量産は断念され、再びディーゼル式ロコクレーンが製造されるのは戦後の1952(昭和27)年になってからです。
▲縦型ボイラーとバルブギア類、さらには炭庫・水槽スペースまで入った「室内」は信じられないくらい狭い。すべてのアクションが蒸気動力のため、先頭部片隅の運転席には各種のリンケージ類が集中している。

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国鉄が無煙化されてから数年後だったでしょうか、武豊線の車中から知多半島の工業地帯を凝視していると、東成岩に隣接する川崎製鉄の構内に蒸気ロコクレーンの姿が垣間見られました。屋根に突き出た煙突からは確かに煙が上が…。もとより見学など出来ようはずもなく、帰路の車中からはもうその姿を確認することはできませんでした。国内で蒸気ロコクレーンを目にしたのは、この時が最後となりました。
▲一度見てみたかった蒸気ロコクレーンというよりもクレーン付き蒸気ロコといった方が良さそうなベアー・ピーコック製Cタンク機。『ENGINEERING』(1908年2月21日号)より。
▼国鉄工作局機械課が戦前の設計を改良して作成した3t蒸気ロコクレーン形式図。もちろん自走も可能。
(クリックするとポップアップします)

自家用(!)鋼索鉄道。

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ひと口に「鉄道」といってもその種類は多種多様で、通常の鉄の軌条(レール)の上を鉄の車輪で走る、いわゆる粘着式“普通鉄道”“軌道”のほかにも、モノレールやケーブルカー、トロリーバス、さらには最近ではリニアモーターカー(磁気誘導式鉄道)やガイドウェイバスなども鉄道の仲間に加わりつつあります。

そんな中でよく物議をかもすのがケーブルカーです。なにゆえの「物議」かというと、ケーブルカーという乗り物、基本的に傾斜路の搬器を曳索で上下させるわけですが、その傾斜の度合いが問題となるわけです。たとえばもしその角度が垂直であれば、これは「エレベータ」になってしまうわけで、当然「鉄道」ではありません。ところが省庁合併前の建設省が「斜行エレベータ」なるジャンルを作ってしまったことから話が一気にややこしくなります。斜めに、ということは当然ガイドとなるレールに沿って上下するのですから見た目はケーブルカーそのもので、それでは「垂直ケーブルカー」もありか…と突っ込みたくもなってしまいます。
▲堂ヶ島温泉峡の見事な紅葉の中を行く「A」車輌。6人乗りの車輌(搬器)はAとBの2輌のみ。

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現在、国土交通省鉄道局管轄のケーブルカー=鋼索鉄道は、全国で23社・延長24.0kmと意外なほど少数派です。ただ、国交省所管の正規の「鉄道」ではなくても、実体はケーブルカーといった乗り物は少なからず存在します。ダムサイトや工事現場などで見られるインクラインもケーブルカーの仲間に当たりますが、今日はもっとケーブルカー然とした、というか外見はケーブルカーそのものの知られざる乗り物をご紹介しましょう。
▲「対星館 花かじか」のホームページで見てみると、現在の車輌はもっと角ばった車体に代わっているようで、塗色も赤ベースとなっている。

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箱根の堂ヶ島温泉「対星館 花かじか」という老舗温泉旅館の自家用(!)ケーブルカーです。箱根登山鉄道宮ノ下前にあるこの旅館、国道から300mも下の早川渓谷に建物があり、クルマで入ることはできません。そこで国道から旅館建物へのアクセスとして考えられたのがケーブルカーというわけです。運行開始は1930(昭和5)年とたいへん古く、国道沿いの“乗り場”から旅館入り口までの300mほどを6人乗りのかわいらしい搬器がゆっくりと往復しています。

ご覧のように実態は立派な鋼索鉄道ですが、敷地内を運行する「一般の用に供せざる」施設ということで法令上は「鉄道」ではありません。ちなみにこのケーブルカー、当然ながら宿泊客専用ですので、「対星館 花かじか」に宿泊しない限り乗ることも撮影することもできませんので念のため。
▲「対星館」にはかれこれ17年も前に一度だけ泊まったことがある。一連の写真はその際に撮ったもの。'88年撮影

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今日は11時から、2007年秋に開館予定の「鉄道博物館」の起工式が執り行われました。会場は埼玉新都市交通(ニューシャトル)で大宮からひとつ目の大成駅前。上越新幹線の高架と高崎線にはさまれた敷地は、今はまだ、ただ広大な“空き地”でしかありませんが、今日をスタートとして2年後には、日本の鉄道文化の中心基地としてたいへんな賑わいを見せるはずです。

建設主体である財団法人東日本鉄道文化財団のほか、JR東日本、JR貨物、さいたま市、さらに設計・建設に関わる共同企業体の幹部の皆さんら60名ほどの参列者により、起工式は神式によりとどこおりなく終了し、敷地面積41,600㎡、建物延床面積28,200㎡、展示スペース9,600㎡におよぶ巨大博物館の建設が始まりました。
▲起工式で挨拶に立つJR東日本の大塚陸毅社長。次代を担う子供たちにも鉄道技術に対する関心を持ってもらえるような博物館を目指したいと熱く語られた。

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すでにおおまかな展示内容は発表されていますが、今日はさらに詳細なプランが明らかになりました。詳しくは下の「鉄道博物館展示概要」や「平面図」をご覧いただくとして、その特徴をピックアップすると、「歴史ゾーン」(仮称)の“プロジェクトAtoZ”展示と、続く“情景再現展示”が特筆されます。前者は日本の鉄道技術のエポックとなった車輌を、その創造の「ドラマ」と合わせて紹介するもので、たとえば「東海道本線の全線電化完成」といったプロジェクトにはEF58 89号機が展示されるといった具合です。後者の“情景再現展示”は時代区分ごとにその時代を象徴するシーンを実物車輌を絡めて再現しようとする試みで、たとえば「昭和30年代(大量輸送と電化時代)」のコーナーではクハ181系を用いて特急「とき」が出発を待つ新潟駅プラットフォームが再現されるそうです。現在の交通博物館にも一部はこのような試みが見られますが、欧米の鉄道博物館ではよく見られるこの情景再現を全面的に取り入れる博物館は国内でも稀有で、その意味では既存の博物館に与えるインパクトも大きいと言えましょう。

このほかにも、日本で初めてという「SLシミュレータ(D51形式)」の導入や、面積200㎡・軌道延長1,200mというこれまた日本最大の鉄道模型ジオラマなど見所は限りなく、なんとも今から完成が楽しみでなりません。
▲写真上は大成駅から見た鉄道博物館第一期工事予定地周辺。画面右奥が大宮駅・大宮工場方面、左側に地上に上がってくる埼京線とその奥に高崎線が見える。写真下は起工式会場から見た北側予定地。左端に見えるのが埼玉新都市交通の大成駅。折りしも右の高崎線をEH200の牽く3093レが通過してゆく。
▼鉄道博物館完成予想パースと平面図および概要。
(いずれもクリックするとポップアップします)


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JR貨物の誇る最新ディーゼル電気機関車(DEL)DF200形に、主変換装置を従来のGTOサイリスタからIGBTに変更するなどした100番代2輌(101、102)が誕生しました。これで既存の0番代26輌と合わせて合計28輌の勢力となり、北の大地はいよいよ液体式ディーゼル機関車の時代からDELの時代へと転換を遂げつつあります。

その北海道でかれこれ30年以上も人知れず働き続けているDELがいます。道東・釧路に残された国内最後の海底炭礦「釧路コールマイン」の輸送を担当する太平洋石炭販売輸送のDE601です。今日の目をもってしても日本離れしたこの機関車、1970(昭和45)年9月に日本車輌がゼネラル・エレクトリック(GE)社と技術提携して試作したもので、キャットことキャタピラー社製1050PSディーゼルエンジンによって発電し、各軸に釣り掛けた280kWモーター4基を駆動するディーゼル電気式を採用しています。一説によると、需要が沸騰するであろう東南アジア方面を視野に入れた輸出用試作とされており、太平洋石炭販売輸送の前身・釧路臨港鉄道にはモニター的意味合いで入線したとも聞きます。
▲エンドキャブというよりもキャブフォワードといった方がしっくりくるほどバタくさいスタイルのDE601。プシュプル編成の知人側に連結される。

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ディーゼル電気機関車というと、さぞや新しい技術のように思えますが、じつはさにあらず、第一次世界大戦の賠償として1929(昭和4)年にドイツ(エスリンゲン)から輸入した鉄道省初のディーゼル機関車DC11がすでに電気式ディーゼル機関車でした。その後、戦後に進駐軍が持ち込んだ8500形(のちのDD12)も電気式でしたし、戦後の国鉄新製ディーゼル機関車の第一号となったDD50も電気式です。そして、今でも根強いファンの多いDF50がDELのひとつの完成形として一時代を築くことになります。

しかし、その後のDD13の成功もあってディーゼル機関車の主流は液体式に移り、ましてやどうしても車輌重量が嵩みがちなDELは国鉄以外には馴染みませんでした。それだけに、釧路のDE601はなおさら特異な存在で、DF50が現役を退いてからDF200が登場するまでの間は、わが国唯一のDELとして孤塁を護ってきたのです。
▲5年ほど前に慣れ親しんだオレンジ色からブルーに白のラインに塗色変更したDE601。冬場には目と口が描かれたユーモラスなスノープラウが装備されるそうだ。

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このDE601はかねてより気になる存在で、一度はきちんと写真を撮っておきたいと思いつつ、なかなか実現する機会がありませんでした。釧路臨港鉄道を初めて訪れたのは1972(昭和47)年。それ以来幾度となく現地を訪れているにも関わらず、なぜかこの機関車にだけは振られっぱなしでした。検査入場していたり、タッチの差で見逃してしまったり…。ようやくじっくりと対面できたのは数年前のことでした。

海外研修生への採炭技術の教習の場として出炭を続けている釧路コールマインは、3年前の太平洋炭礦閉山時の3分の1以下の出炭量しかありません。いきおい太平洋石炭販売輸送の列車本数も激減してしまい、DE601の稼働率も決して良いとはいえない状態となってしまいました。道東に残された貨物専業私鉄としても、また最後のコールトレインとしても目の話せない状況ではあります。なお、この太平洋石炭販売輸送の現状は本誌次号でもご紹介する予定です。
▲もうひとつの釧路名物、連接構造の石炭車セキ6000形との連結部。セキのホッパー扉もDE601の車上から行われるため、こちら側の連結器は空気管を持つ密着連結器に電気連結器とものものしい。

今日のプレスリリースから。


今日はJR東日本から興味深いプレスリリースが発表されたのでさっそくお知らせしましょう。ひとつは、かねてより環境負荷低減を主なコンセプトとして試験を重ねてきた“NEトレイン”キヤE991形をベースとした世界初のハイブリッド鉄道車輌の実用化のニュースです。

注目の投入線区は小海線。「キハE200形」と名づけられたハイブリッド車は来年度(2006年度)末に3輌が落成、2007年夏から小淵沢?小諸間で営業に入る予定だそうです。すでに現行のキハ110系より燃料消費を10%低減、騒音も30dB低減できる見込みがたっているそうで、約2年間の営業運転実績を踏まえたうえで量産に移るとしています。
▲ハイブリッド車輌キハE200形の概要(クリックするとポップアップします)。(JR東日本提供)

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そのコンセプトと従来システムとの比較はトップの概要をご覧いただくとして、いよいよ鉄道車輌もハイブリッドの時代に突入するわけです。自動車の世界ではプリウスの大成功に象徴されるように、今やハイブリッド車こそが次世代を担うものとして称揚されています。JR北海道のDMV(デュアル・モード・ビークル)といい、このキハE200形といい、鉄道車輌の21世紀はいよいよ本格的に始動を始めたようです。


▲ハイブリッドのロゴが側面に入ったエクステリア・デザイン(外観イメージ)と車内のイメージ。下はその形式図。(JR東日本提供)

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そしてもうひとつは東武鉄道との連名で発表された新宿?東武日光・鬼怒川温泉駅間の特急列車直通運転に関する続報です。JR新宿?東武日光間の特急愛称にはキハ55→157系以来伝統の「日光」が485系で復活を遂げます。JR新宿?鬼怒川温泉間は485系によるものが「きぬがわ」、東武100系によるものが「スペーシアきぬがわ」と名付けられることに決まりました。

停車駅はJR線内が新宿・池袋・大宮、東武線内が栃木・新鹿沼・下今市・東武日光・鬼怒川温泉、運転本数はJR新宿?東武日光間が一日1往復、JR新宿?鬼怒川温泉間が一日3往復、運転開始は来年3月18日(土曜日)とアナウンスされています。
▲直通特急の運転概要(JR東日本提供)

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京都市山科区の京都市山科図書館で佐竹保雄さんらの写真展「やましなものがたり」が開催されていると聞き、昨日、同志社大学に伺う前に立ち寄らせていただきました。

山科の駅を降りるのは、RMライブラリー『昭和30年代の国鉄列車愛称板』(上・下巻)編集の際に佐竹さんのお宅を訪れて以来ですから、2年ぶりということになります。山科駅から三条通りを越えて外環状線沿いに暫く進んだところに山科図書館はあります。決して大きな図書館ではありませんが、出迎えてくれた古川昇太郎館長が言われるとおり、地域に密着した居心地の良さそうな図書館です。

写真展はこの図書館のエントランスで開催されており、当初は10月一杯だった会期も、好評に支えられて11月27日(日)までに延長されたそうです。「やましなものがたり」は佐竹さんと弟の佐竹 晁さん、そして西村勇夫さんによって『鉄道ファン』誌に現在連載中のもので、東海道旧線時代から電化後までの山科駅とその周辺の移り変わりを貴重な写真の数々と資料で纏めた大作です。今回の展示ではあまりに有名な山科の大カーブを行くC62の特急「つばめ」から、新幹線試運転列車まで歴代のハイライトシーンが並んでいるほか、山科疎水の横で弁当を持って特急「はと」を見に来た親子や、牛が寝そべる牧場脇を行くEH10など、まさに硬軟使い分けた佐竹さんならではの世界が展開されています。
▲ご自身の写真を前に記念撮影。佐竹さんの膨大な写真類は整理が良いのにも驚かされる。

baisyuukokudenn.JPGちなみに佐竹さんは御歳73歳。やはり同志社大学OBで、子供の頃は熱心な模型ファンだったそうです。しかもその熱心さが尋常ではなく、通販で部品を取り寄せているのが高じて中学生の時に夜行列車で“買い付け”に上京、ついには東京の問屋と契約を結んで定期的に仕入れに京都?東京間を往復し、十代でTMS誌にレギュラー広告を出すまでになります。ただ、ご自身も語られるごとく、ある到達点を成就するとまったく別の次の目標に転換されるようで、あれほど熱を注いでいた模型もある日を境にぷっつりと中断、今度は写真にのめり込みはじめます。弊社刊『私鉄買収国電』で結実した全国の買収国電撮影も、とにかくやると決めたら1輌残さず網羅せねばきが済まないのだそうで、その徹底ぶりは本当に頭が下がります。ちなみに、国鉄蒸機全廃後は今度はガラッと変わってワインにのめり込まれ、ご本人曰く、尋常でない位のお金をつぎ込まれたそうです。それでもいかにもなのは、手に入れたワインはまずすべて3面の写真を撮り、飲んだ(すべて飲んでしまったそうです)後にラベルをはがして写真とともに分類整理されている点で、まさに鉄道趣味の片鱗を垣間見る気がします。その後もボランティア列車「トレランス号」を主宰され、現在では新疆ウイグルとの国際親善に並々ならぬ情熱を傾けて両国間を往復しておられると聞きます。

なお、この写真展「やましなものがたり」は11月27日(日)まで開催されています(10?19時30分/火曜および第2・4水曜休館/土休日は17時まで)。

今度は同志社大学で講演。

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同志社大学鉄道同好会(DRFC)のOB会であるクローバー会副会長の福田さんから、湯口さんの『内燃動車発達史』の出版祝賀会を兼ねて集まりを催すのでお出でいただけないだろうかと打診を受けたのは、確か夏前のことだったと思います。

ほかならぬ湯口さんの出版記念をやっていただけるとあっては、版元としては何をおいても馳せ参じねばならずとお受けしたのですが、先週になって実は40分ほどの講演をしてほしい旨のメールをいただきました。いや、正直いって軽い挨拶程度で済むものと思っていただけに、これは予想外の展開です。場所は同志社大学今出川キャンパス至誠館21番教室。何でも当日は同志社大学のホームカミングデーで、これに合わせてOB会が開催されるとのことです。
▲先の阪南大学で行われた鉄道史学会に続いてまたまた大学の演台で講演するハメになってしまった。現役の皆さんにも多少なりとも興味のある話をと努めたつもりだが、何しろ一夜漬けならぬ新幹線片道漬け。如何だっただろうか…。

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40分の講演とあっては、それなりの準備をせねばならないのですが、例によって後手にまわり、結局A4判2ページのプロットは行きの新幹線の車中でパソコンを叩くハメとなりました。

午後から始まった講演会のトップを務めるのはもちろん湯口さんの「気動車調査あれこれ」。教室を埋めたOB・現役会員を前に、日本の気動車研究がどれだけ基本的検証を怠ってきたかが、独特のユーモアを交えて分かりやすく語られました。とりわけ日車の実用新案であった逆転機保持方式を当時の鉄道省が我がものにしてしまうくだりは、『内燃動車発達史』で校正段階から幾度となく読んでいるにも関わらず、ご自身の口から語られるとまた格別な説得力があります。
▲講演する湯口さん。すらすらと気動車の構造の核心に触れる図が黒板に描かれてゆく。押しも押されぬ気動車研究の第一人者だけあって、その解説は一言一句ツボを押さえている。流石!

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この湯口大兄の後を受けての二番手が私です。「テーマは何でも結構です」という福田さんの言葉にあれこれ考えたあげく、結局、餅は餅屋、昨今のIT化に伴う情報の価値、そしてその延長線上にある紙媒体の現状をお話することにしました。クローズドな会合だけに、多少はオフレコ的裏話を交えつつの40分でしたが、果たしてお楽しみいただけたかどうか…。

この後、小林純爾さんの立山砂防軌道のビデオ上映、沖中忠順会長のインドネシア・ジャカルタのJABOTABEK鉄道網についてのスライド上映等が行われました。とかくこの手のOB会記念行事というとただ再会を祝して気勢をあげるだけに終始してしまいがちですが、私の講演はともかくとして、何とも実り多い会合に映り、他校だけに羨ましい思いも募る一日でした。
▲今日の同志社大学はホームカミングデーとあって、学内は久しぶりの母校に感無量のOB・OGたちで溢れかえっていた。ちなみに、講演会の後、現役の皆さんに学生会館のボックスを見せていただいたが、私の世代が抱く「学館」のイメージとのあまりの違いに唖然。昨今の大学はどこも整然として奇麗だ。なにはともあれ、同志社大学鉄道同好会の皆さん、今後も頑張ってください!

常紋の季節。

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RM次号の特集は「冬こそ北海道!」、いよいよ始まる風雪の大地への誘いです。そしてこの季節になると思い出すのが、昨年3月の石北本線9061・9062列車添乗取材です。

石北本線に3往復設定されている季節・臨時貨物列車は、DD51重連の牽引とあってかねてより大きな人気を呼んでいましたが、厳冬の常紋を一人乗務で超える過酷さは想像に余りあり、「SL甲組の肖像」を連載いただいている椎橋俊之さんに是非ルポをお願いしたいと考えていました。幸いにもJR貨物の全面的なご協力をいただき、この季節の運転が終了する直前の3月9日に、遠軽?北見間往復(9061レ・9062レ)の添乗取材が実現することになりました。
▲ DD51 1059号機の運転台より先頭本務機DD51 1166号機を見る。キャブ内は快適な温度に暖房が効いているが、やはり号機によって暖房の効きの悪いものもあるという。'04.3.9

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写真は今や椎橋さんとのゴールデン・コンビともいえる広田尚敬さんにお願いし、責任者として私も同乗することになりました。

当日の北見地方は鉛色の空から小雪が舞うあいにくの天候でしたが、これが吹雪くほどになってしまうと撮影どころではなくなってしまいますから、かえってこの季節の石北本線の厳しさをお伝えするにも絶好の条件だったといえます。
▲蒸機時代に足繁く通った遠軽駅本屋はそっくりそのまま残っていた(左)。右は本屋改札付近から見た遠軽の象徴・瞰望岩(がんぼういわ)。かつて9600たちがたむろしていた扇形庫は跡形もない。

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仕事でDD51重連に添乗するのは実はこれが2回目でした。最初はまだ国鉄時代の八高線八王子?高麗川間ですが、武蔵野の面影が残る長閑な丘陵地帯と、雪に閉ざされた北海道の大自然…運転台の窓から見える光景によって同じDD51がまるで別の機関車のように思えるから不思議です。
▲遠軽を後に、いざ常紋めざして歩みを進める9061列車。安国付近まではDD51重連にとってはとるに足らない軽い勾配で高速運転が続くが、中間台車を持つDDの乗り心地はすこぶる良い。'04.3.8

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北見から遠軽への折り返しは20時10分発、とっぷりと暮れた雪道は北見から遠ざかるにしたがって街の灯も見えなくなり、DML61Zのエンジン音だけがキャブを覆ってゆきます。この日は私たち取材組3名と、説明役の指導さん合わせて5名の乗車ですが、当然通常は運転士1名だけの乗務です。人家さえない雪に閉ざされた闇夜の原生林に分け入ってゆくその孤独と厳しさは、実際に添乗してみると改めてひしひしと実感されるのでした。
▲次位補機のキャブから本務を見る。時折、踏切の照明がボワッと一瞬本務機を照らし出し、踏切警報器の電子音がドップラー効果とともに後ろに流れてゆく。

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本誌2004年8月号(No.251)でこの添乗ルポをお伝えしたすぐ後に、遠軽駅での入換え作業の合理化のために補助機関車が後部補機に変更となってしまい、常紋を越えるDD51重連の姿は見ることができなくなってしまいました。しかし、考えようによっては、蒸機時代から常紋の補助機関車は後補機が定位置、それほど落胆することもありません。紅葉シーズンから雪景色へ。この冬も常紋は多くの名シーンを生んでくれるに違いありません。
▲真っ暗闇の149キロポスト付近を常紋めざして攀じ登る。乗務員にとって前照灯に幻惑されて飛び出してくるエゾシカが一番怖いという。

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11月に入ったばかりだというのに、早くもクリスマス・トレインが走り始めました。と言っても実物のことではありません。東京ディズニーリゾートのオフィシャルホテルとして知られる「ヒルトン東京ベイ」の正面玄関前ロビーエリアに設けられたGスケールの大レイアウトでのことです。

今年で6回目を迎えるこの「ヒルトン・クリスマス・トレイン」は、日本のみならず世界のヒルトンホテルで繰り広げられている一大イベントだそうで、100社を超える協賛企業から寄せられた協賛金の一部は福祉団体に寄付されます。
▲ストラクチャーそのものはさほど凝ったものではないが、それぞれのシーンごとに上手くフィギュアとからませて物語を創っている。P:ヒルトン東京ベイ

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さて、そのレイアウトですが、昨年より面積が15%拡大されて60平方メートルとなり、ヨーロッパの山間の雪化粧をまとったクリスマスの街並みを再現したそうですが、これがなかなかどうして結構な出来栄えです。こういったシチュエーションの“出し物”としては、トナカイやら何やらお定まりの小物がバラ撒かれるのがオチですが、そういった安易意なウケ狙いはほとんどなく、製材所や貨物側線の荷役シーンなどどちらかと言うと地味な部分がしっかりと作り込まれています。
▲JR舞浜駅助役の出発合図で今年のクリスマス・トレインが走りはじめた。出発セレモニーにはもちろんお約束のサンタクロースも登場。右は唯一プロトタイプ・モデルではないサンタクロースのハンドカー。子供たちにはこれが一番人気だ。

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それにしてもL・G・B(Lehman Gross Bahn)の走行性能の良さには相変わらず感心させられます。もともとが屋外での運転を前提としているだけあって、このレイアウトの60輌あまりの車輌も、何の不安も感じさせずに走り回っています。会期はクリスマスを挟んで来年の1月16日までだそうですので、機会があれば一度のぞいてみては如何でしょうか。
▲なかなか渋いマイニング・シーンの一角。ただ、聳えたっているコールタワーはあれっ、チャマ(アメリカ・ニューメキシコ州)のコールタワーでは…。まぁ、あまり細かい突っ込みはなし。

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▲テレビドラマでも良く登場するヒルトン東京ベイのきらびやかな外観。個人的にはどうもこの手の場所は苦手で、「立入禁止」とか「発破注意」とかの看板がないと居場所がない気がして仕方がない。P:ヒルトン東京ベイ

影森、魔境の残り香。(下)

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影森駅から延長1キロほどの「三輪構外側線」は、専用道の横に寄り添うように鉱業所へと進みます。終点には4線のホッパービンが聳えたっており、空車を牽引してきた秩父鉄道の電気機関車はこの構内で貨車を解放、今度はすでに積み込みを終えている積車の先頭にたってすぐに影森駅へと折り返します。

鉱業所構内には専用の入換用ディーゼル機関車がおり、電気機関車が去った後はこのDLがホッパービンへの押し込みを担当しています。電気機関車の牽く鉱石ホッパー車→専用側線→ホッパービン→入換用DL、ひと昔前までは各地で見られた当たり前のフローですが、気がついてみると今やここ影森でしか目にすることのできないものとなってしまいました。
▲秩父セメント時代の三輪鉱山。当時ホッパービンの入換えに働いていたのは1969年汽車会社製のロッド式40tBB機D305。なお、鉱業所手前にはゲートがあり、通常はこのホッパーに近づくことはできない。'79.3.31

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影森駅のホームは上下本線1番と同2番に挟まれる形の島式ホームで、上り方端には運転事務室があります。上下本線2番と駅本屋の間には側線1番もあり、入換え時の安全を考慮してか、この規模の中小私鉄の駅には珍しく、ホームと本屋の間は地下道で結ばれています。ホームにせよ、本屋建屋にせよ、子細に観察するとなかなか味わい深く、全線をとおして無粋な広告看板やポスターが少ないのもその魅力を引き立てています。
▲昭和電工ホーム横の側線7番で待機するヲキフ117。緩急機能付きのホッパー車というのも珍しいが、何と言ってもその形式名が魅力的。ちなみに“ヲ”はOre(鉱石=オア→ヲア)からきている。右は側線2番の上り方引き上げ線付近にある木造の転轍小屋。

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この影森駅のストラクチャーのなかでとりわけ魅力的に映ったのが、構内両端にある木造の転轍小屋です。すでに使われなくなってかなりの歳月が経っていると思われますが、全盛期には構内入換作業の要としてさぞや重要な役割を担ってきたに違いありません。いつかは模型化しようとメジャーを持ってかなり細かく採寸しましたが、模型化はいまだ果たせていません。

かつての賑わいは失せたとはいえ、広い構内に出入りする“ヲキ”の列、三輪構外側線、謎を秘めた昭和電工軌道の痕跡、そして転轍小屋にいたるまで魅力的なストラクチャーの数々…影森は“魔境”の残り香を感じさせる最後の場所なのです。
▲▼1480mm四方とえらく小振りな木造の転轍小屋。これは下り方のもので、模型化しようと羽目板の幅まで詳細に採寸したものの、何を勘違いしたか肝心な屋根長さを測り忘れてしまった。この手のストラクチャーはまたいつか…と思っていると無くなってしまうのが常だけに、結局この屋根寸法を測るがために数週間後に再訪するハメとなってしまった。
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影森、魔境の残り香。(上)

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一昨年秋に東武鉄道の貨物輸送が全廃となり、現在3’6”軌間の電化私鉄で恒常的に貨物輸送を行っているのは秩父鉄道、岳南鉄道、三岐鉄道の3社だけとなってしまいました。もちろん3社3様、それぞれ魅力的ではありますが、東京在住の者からすると、行きやすいのは秩父鉄道が一番でしょう。かく言う私も秩父鉄道は好きな路線のひとつで、1969(昭和44)年の初訪問以来、ことに旧型電機が現役だった頃は足繁く通ったものです。

秩父鉄道の大きな魅力は、その雄大な自然に育まれたシーナリィーはもとより、ストラクチャーにあると言ってもあながち間違いではないでしょう。かつて本誌の連載「模“景”を歩く」でも細かくご紹介したことがありますが、波久礼、野上、長瀞、上長瀞と続く味わい深い駅の佇まいは、C58の力走にもまして一見の価値があります。
▲影森のお立ち台を通過する5002レ「パレオエクスプレス」。フツーはこういう撮り方はしない。手前の線路が三輪構外側線。パレオの通過後10分も経たずに三輪鉱業所を発車した7206レがこの構外側線を通るのだが、残念ながらそれを見届けようという人は一人もいなかった。'05.3.19

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その中でもとりわけ魅力的に映るのが影森駅です。近年、卒業式ソングとして圧倒的な人気となっている「旅立ちの日に」が誕生した影森中学校の駅として全国的に有名になりましたが、趣味的には何といっても貨物列車の終着駅、しかもその先には今時めったに見られない貨物引込線が現役の駅として特筆されます。秩父鉄道の貨物列車は、この影森にある太平洋セメント三輪鉱業所から出荷される石灰石を三ヶ尻にある同社熊谷工場に輸送するのを主に運行されており、同駅には1?9番までの側線が見事に並んでいます。残念ながら最盛期から比べれば貨物列車の本数もずいぶんと減ってしまい、かつての“魔境”の面影は薄くなってしまいましたが、それでもこれだけの貨物側線が敷きつめられた構内は近年ではなかなかお目にかかれません。
▲国土地理院発行1:50000地形図「秩父」(昭和34年部分修正測量/昭和36年8月30日発行)より。三輪線、武甲線のほかに昭和電工に向かう特殊軌道の標記が判る。

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秩父方からやってきた空車列車は、一旦側線6番に入り、「三輪構外側線」と呼ばれる引込線の急勾配をよじ登るように三輪鉱山へと向かうのですが、この様子は一度見ておいて損はありません。かつてはお隣の側線5番から本線と三輪構外側線の間をさらに奥まで進む構外側線・通称“武甲線”もあったのですが、こちらはすでに使われてはいません。

さらにほとんど知られていませんが、側線9番に隣接する昭和電工ホームにはかつてナローの蒸気軌道が入っていました。駅の東側山腹に位置する昭和電工秩父事業所からの製品輸送用軌道で、かなり昔に廃止撤去されたものと思われますが、軌道跡はホームから工場入口までしっかりと痕跡を留めています。
▲昭和電工ホームから奇麗な弓形を描いて工場に向かう小路がかつての軌道跡。側溝のフタには軽レールを溶接したものが用いられている。

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ここで使用されていたとされるBサドルタンク機が謎の多い曲者で、蒸気機関車研究の泰斗・臼井茂信さんも生前「いつかは本腰を入れて調べてみたい」と仰っていたのを思い出します。
▲ホーム本屋方から見た影森駅下り方構内全景。左に見えるのが昭和電工ホーム。

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▲昭和電工秩父事業所の前身、関東水電秩父工場専用軌道の車輌認可書類。軌間2'6"、どこから見てもH.K.ポーターだが、この組立図の裏にはペン書きで「1296(雨宮)」の書き込みがあり、ポーターを雨宮で焼き直したものとも思える。臼井さんの遺志を継いで、いつかは謎解きを果たしたいものだ。

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AF=オートフォーカスという言葉さえ死語と化しつつある今日、レンジファインダーなどという言葉はそれこそシーラカンス以前でしょう。もちろんレンジファインダー・カメラ、つまり距離計連動式カメラという意味ではライカを筆頭に根強い人気を保っていますが、本来のレンジファインダーとは距離計そのもののことを指します。

言うなれば単独距離計で、かつて距離計連動、もしくは距離計内蔵でないカメラにはこの単独距離計が必需品でした。それだけにカメラメーカーの純正品はもとより、数多のアクセサリー・メーカーからも競って単独距離計が発売されていたのです。ところが、昨今のクラシックカメラ・ブームの中にあっても、距離計だけは一向にリプロダクト品も発売されず、どうしても必要とあれば中古市場を丹念に探すしか手がありません。
▲“元箱”付きのフォクトレンダー距離計93/184。なにかとシンメトリーに拘るフォクトレンダーらしいデザインの逸品。

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ここ数年、プライベートでの主力機は1950(昭和25)年に生産開始されたフォクトレンダー(独)製“ベッサI形”です。軽量小型が最大の美点の6×9判フォールディング・カメラですが、このカメラには距離計がありません。そこで不可欠なのが単独距離計です。これまでは浅草のカメラ店で見つけたロシア製のものを使っていたのですが、プラスティック製の筐体に反射プリズムをゴム系ボンドで付けてあるような代物で、どうも精度に信頼をおけませんでした。それでも多少ぞんざいな扱いをしても惜しげのない点がかえって気楽で、かれこれ3年ほど使い続けていました。ところが、最近になって内部の反射鏡が外れてしまい、いよいよ万事休す。単独距離計を新規購入せざるをえなくなってしまいました。
▲無味乾燥なデザインながら良く働いてくれたロシア製単独距離計と。フォクトレンダーの単独距離計は同じ品番93/184でもメトリック表示のものとフィート・インチ表示のものがあるので注意が必要。

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どうせ買うなら純正品をと、フォクトレンダー社の製品コード93/184という距離計を探していたのですが、先日、銀座の中古カメラ屋さんに委託品として出ているのを発見、早速購入しました。お値段1万円也。これまで使っていたロシア製のものより格段に視野がクリアで、二重像合致式の虚像も驚くほど奇麗に見えます。その反面、作りが華奢で扱いに神経を遣いそうなのが玉に瑕ですが、これでまた趣味の撮影の“趣味性”はさらに磨きが掛かることになります。
▲ここ数年ことある度に持ち歩いている愛機“ベッサI形”。蛇腹式の古くさいカメラと侮るなかれ。実は改造に改造を重ねてチューンナップしており、様々な制約はあるものの、その写りはそんじょそこらのブローニー・カメラの比ではない。改造チューンナップの話はまたいずれ…。

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