鉄道ホビダス

2005年9月アーカイブ

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6月1日のオープン以来、毎日お付き合いをいただいてきたこのブログですが、遅ればせながら“夏休み”をいただくため(現地がネット環境になさそうですので…)しばらくお休みを頂戴します。さらにパワーアップして10月3日付け分から再開いたしますので、どうか変わらぬご愛読のほどをお願い申し上げます。

▲もうとっくに夏は終わってしまったけれど、夏の美唄鉄道東明駅跡にて。

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1号、2号と予想以上のご好評を頂戴した季刊『国鉄時代』の第3号が完成しました。まさに今日21日が発売日で、RM本誌とともに書店店頭に並んでいるはずです。今回の巻頭特集はEF58! 1970年代から1980年代にかけて“ゴハチ”が最も熱かった時代を、ともに青春を送った皆さんの思い入れたっぷりのエピソードと渾身の写真で振り返ります。巻頭のダブルトーン・グラフは、東京機関区で実際に“ゴハチ”のマスコンを握っておられ、なおかつ同区の写真部(!)としても活躍をしておられた滝口忠雄さんの圧倒的な作品の数々です。なにはともあれ、編集担当の山下修司から、この第3号の充実ぶりを語ってもらいましょう。

特集EF58は「SLブーム」以降の最大のスター機関車だけに、ファンの思いいれも並々ならぬものがあります。「わが青春はゴハチとともにあり!」と公言してはばからない40代も多く、現在でも生き残っている61号機や150号機の2CC2のジョイント音を聞いただけで、若き日の思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、目頭が熱くなるなんてこともあるようです。寄稿していただいた皆さんはそんなゴハチ・フリークの間でもちょいと知られた方々、ゴハチのことを話し出したら止まりません。43、53、66…機番とその特徴が立て板に水で出てきます。その記憶力をもっと社会のために役立てたらなどと突っ込みたくもなってしまいますが、それはそれは大変なデータが脳みそに入っているのでしょう。なかには「ロクイチ賛歌」の松広清さんのように61号機の733回にわたる撮影を克明に記録している猛者もいて、空恐ろしいほどの奥深さを感じさせます。Vol.3はそんな「ゴハチ」ファン納得の一冊。さらに、DVDは、開けてびっくり! 各地の蒸気機関車の映像と並んで、「さくら」、「はやぶさ」などのブルートレインはじめ、急行「月光」「霧島」などが、茶塗り・ブルトレ塗色で走りまくります。

というわけで、『国鉄時代』はますまパワーアップして“あの頃”を現代に蘇らせます。ご期待ください。

LSLのOMZ122。(下)

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さながらインゴット状となったロストワックスの塊がこれほど始末におえないものとは思いませんでした。まず直面したのが、前部端梁とキャブ屋根裏に残った“湯口”のバリです。端梁の方はわけもなく取り除けますが、問題はキャブ屋根の裏からさながら鍾乳石のごとく生えたバリです。しかも直径5?6mm、長さ20㎜はあろうかという立派な(?)鍾乳石です。これがバラキットであれば何の苦労もないのですが、なまじ一体ロストだけに、糸鋸はもとより、どうやっても工具が入りようがありません。ルーターで削り落とそうにも気の遠くなる作業になりそうです。いっそ「食切」で切断してしまおうかとも思いましたが、やはりこれも入りません。

考えあぐねた挙句、ふと思いついたのが歯医者さんです。そうだ、コンシューマ向けのものでは無理だが、歯医者さんのルータであれば取り除けるかもしれない。さっそく『木曽谷の森林鉄道』の著者で、森林鉄道研究の第一人者である西 裕之さんに電話、コトの次第を話してみることにしました。西さんの本業は歯医者さんで、目黒区内で歯科医院を開業されておられるのです。「いいよ、持ってくれば」のひと声に、さっそく件のインゴットを持参、親知らずならぬバリを取ってもらうことにしました。
▲昨日に続いて新作セクション上のOMZ122。こうやって見ると、エッチングを組んだものに比べて、そこはかとなく“量感”が感じられるのが不思議だ。

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かくしてバリはあっけなく取り除けたのですが、続いて思いもつかぬ事態が起こりました。半田付けがきかないのです。ロストなら当然半田が流れるはず…と思うのは大間違。これだけ巨大な塊となると、100Wの鏝を当てた程度では半田が流れやしないのです。ガイド穴があいているパーツはともかく、芋付けパーツもかなりあり、これを半田付けするのが至難の業。瞬間接着剤で付ければ良いのに、と思われるやもしれませんが、そこは「趣味」。ブラスものは意地でも半田付け、しかもスポット付けではなく綺麗に半田を流してからこそ、という妙な拘りがありますから、これから地獄を見ることになります。
▲ようやく組み上がったLSLのOMZ122。苦難の道のりだったが、こうやって格好になると感慨も一入。

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まず用意したのは小型バーナーです。これで部分的に余熱してから半田付けしようという寸法ですが、やってみるとこれも全くダメ。局所的に熱したところで、他の部分がラジエータの役をしてしまい半田が流れるまでいきません。そこで今度はガスレンジで色が変わるまで熱し、プライヤーでつまんで半田鏝を当ててみることにしました。これは成功…かと思いきや、この方法だと次の部品を付ける際に前に付けた部品が取れてしまいます。試行錯誤の末、結局落ち着いたのはレンジで炙った後、該当部分だけあらかじめ薄く半田メッキし、それから小型バーナーで付けてゆく方法でした。
▲バックビュー。チャームポイントでもあるキャブ側面幕板部の銘板も、瞬間接着剤で貼ればよいものを意固地になって半田付け。いやぁー、これを半田付けするのは想像を絶する大変さでした。

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かくしてLSLのOMZ122(14mm)は完成を見たのですが、喉元過ぎれば何とやら…の諺もあるように、あれだけ苦労させられたロストワックス一体構造も、気兼ねなく鷲掴みにできる堅牢さと、ロストならではの量感を考えると充分に魅力的に思えてくるから不思議です。結局、その後もドコービルのキャブレスDL“TMB15”形や、戦後のドイツ鉄聯の“HF50B”形等々、LSL社が新作を出すたびにインゴット状のロストの塊を輸入し続けることとなります。もちろん、もう二度とバーナーを使ってまで半田で組もうとは思わないでしょうが…。
▲最後に実物のOMZ122形。スイスのSchinznacher Baumfchulbahn(シンツナッハー苗木園鉄道)で動態保存されている愛称「AZALEA」で、1940年製の製番3820。エンジンは1955年にメルセデス・ベンツ製に換装されている。'93.10

LSLのOMZ122。(上)

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“LSL”、正確には“LOCO SET LOISIR”というフランスの模型メーカーです。創業は1987年といいますから、ヨーロッパの模型メーカーとしてはまだまだ新鋭の部類でしょう。最近ではHOスケールの本線系ブラスキットで盛業中のようですが、十年ほど前までは超マニアックな7mmスケール(1:43.5)のフェルトバーン・モデルを何種類かリリースしていました。

私がこのLSLからドイッツ製のOMZ122形ディーゼル機関車が新発売されたのを知ったのは、フランスのこれまたかなり“偏った”模型誌『Loco Revue』1994年1月号でした。読めないフランス語(一応大学の第2外国語はフランス語でしたが…)を解読すると、どうやらブラス、しかもロストワックス製(?)で、ゲージは14mm(7mmスケールの2ft)と16.5mmが選択できるとのこと。お値段は1600フラン、当時の為替レートに換算して3万円程度です。これは何としても手に入れねばなるまいと、パリ在住の友人に頼んで送ってもらうことにしました。
▲先日完成したこの秋の新作セクション(?)の上に載せて撮ってみた。走行性も悪くなく、手間は掛かったが結構お気に入りの1台ではある。

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OMZ122形というのは、ドイツの名門ディーゼル機関車メーカーであるHUMBOLDT DEUTZ AG(フンボルト・ドイッツ社)が製造した8.5t機で、戦前かなりの数が生産されて、ヨーロッパ各地の森林鉄道や野戦鉄道に供給されました。ドイッツといえば日本では現在銚子のヤマサ醤油に保存されているものが知られていますが、同じメーカーのずっと後期の製品ということになります。
▲キット内容のすべて。これまでの経験からしてフランスのエッチングは精度が高いのだが、ここのは例外。かなりの修正を要する。モーターはフライホイール付きのファールハーバーが奢られている。

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一つ目小僧の異名をとるこのOMZ122と、一回り小さいOMZ117形は、いつかは模型として揃えたいと思っていただけに、LSLからの新製品発表は私にとって大きな朗報でした。ところが、いざキットが届いてみると唖然! そのキット構成たるや、日本の常識をはるかに超えた実に珍奇なものでした。
▲“I love  Brass”とお腹に描かれた奇妙なクマ(?)のキャラクターは現在でも使われている。説明書は当然すべてフランス語で、イラストも極めて難解。写真のドライバーのような工具は動輪をかしめるためだけに付いている専用工具。ブラス無垢の結構な代物で、ただ4ヶ所をかしめるためだけにこれを付けてしまうのもいかにもフランス流か?

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とにかく驚いたのが、確かにロストワックス製とはアナウンスされていたものの、車体が丸ごとロストワックスだったことです。ボンネットからキャブから台枠から端梁からすべて、実測で80×35×55mm、つまりは手のひらひと握りほどの“物体”が丸ごとロストワックス一体で出来ているのです。いやはや、これには呆れました。同じフランスのメーカーで同じくらいの大きさのものがこれまた一体レジンという例はありましたが、まさかロストでやるとは…。日本人の性として、反射的に歩留まりの悪さ=生産性の悪さに考えが及んでしまいますが、フランスではどうもそんなセコイ考えは通用しないようです。そういえばメーカー名の“Loisir”は「暇」という意味でしたっけ…。
▲これが一体ロストだから恐れいる。しかも端梁に付いている写真の湯口のほかに、もうひとつの湯口がキャブ屋根の裏にあり、ここから“生えて”いるさながら鍾乳石の如きバリが取れずにえらい目にあうことになる。

「フォトラン」とは?

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8月4日付けのこのブログでご紹介した上信電鉄さんのデキのように、近年では撮影用のチャーター運転に応じてくれる鉄道も少なからずみられるようになり、それに伴って「フォトラン」という言葉を耳にする機会も増えました。

「フォトラン」、正しくは“photo runby”=フォトランバイで、アメリカのファンが作り出した造語です。読んで字のごとし、写真(photo)を撮るために走り(run)過ぎる(by)ことで、欧米ではファン・トリップとして一般的に行われている撮影スタイルです。
▲オフィシャルから指示されたフォトラインから出ないように並んでランバイを撮影する。ニューメキシコ州のクンブレス峠で。

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海外での「フォトラン」参加経験者が国内に持ち込んで、いつの間にか国内でも耳にするようになりましたが、実は日本国内では本来的意味での“photo runby”はありえません。どういうことかというと、本来の「フォトラン」とは、単にチャーターした撮影列車をクルマで追っかけるなどして撮影することではなく、撮影者自身が乗っている列車を繰り返し撮影するスタイルのことを指しているのです。わかりやすくそのプロセスを箇条書きすると…、
1:撮影者が乗った列車が撮影ポイントで停車、全員がそのポイントで下車する。
2:列車はその姿が完全に見えなくなるまで「後進」。
3:全員のスタンバイを確認後、オフィシャルが無線で発車を合図。
4:被写体の列車はフルスロットルで撮影地点を通過(つまりrunby)。
5:ビデオ派のために完全に見えなくなるまで進み、今度は撮影地点まで「後進」してきて、再び全員が乗車、次の撮影ポイントへ移動。
これを繰り返すのが“photo runby”です。
▲チャーター列車を2日に渡って撮り尽くす過酷なランバイもある。食料の補給はもとより、天候などの状況に応じて臨機応変に撮影ポイントを決めるのもオフィシャルの手腕。

jim5a.jpg←撮影ポイントに全員を降ろして後進するチャーター列車。Cumbres&Toltec Scenic鉄道にて。
jim6a.jpg←一旦完全に画面から消えた列車は、無線連絡を受けて発車、猛然と撮影ポイントを通過する。
jim7a.jpg←本務に続いて中間補機もフルスロットルで通過。この後、列車は再び後進してこの地点に戻り、我々を乗せて次の撮影ポイントへと向かう。

日本ではありえないと書いたのは、わが国では保安装置の関係から「線閉」(線路閉鎖)せずに列車が「後進」することは原則として許されないからです。

なお、“photo runby”は口語としては「フォトラン」ではなく「ランバイ」と略されるのが一般的で、「フォトラン」は和製略語です。さらにイギリス(のファンの間)では“runpass”(ランパス)と呼ばれるので注意が必要です。

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自民党の圧勝で終わった先週の総選挙以後、世間の耳目を一身に集めてきた民主党代表選ですが、菅 直人前代表を破って、何と前原誠司さんが新代表に決まりました。

鉄道趣味の話題に終始していたこのブログで何で急に政治の話が、といぶかしく思われるでしょうが、実はこれは政治の話ではなく、鉄道趣味にとって一大事でもあるのです。というのも、前原さんはとんでもなくコアな蒸気機関車ファンだからです。

この5月、創刊したばかりの『国鉄時代』の話で盛り上がろうと、編集担当の山下ととともに居酒屋でお会いする機会がありましたが、いや、前原さんの趣味の深さには正直いって二人とも脱帽でした。世の中、鉄道が好き…とおっしゃる“有名人”の方は少なくありません。しかし、実際にお会いしてみると専門誌を読むほどではなく、まぁ心情的に鉄道が好きというケースがほとんどです。それに比して前原さんは、一言で言えば“形式でなく番号で語る”レベル、つまり、デゴイチではなくヨンキュッパで語る側なのです。ことに1970年代の関西・中国地方の蒸機に関しては、こちらがたじたじしてしまうほど番号と個体の特徴、配置を諳んじておられます。実際の撮影回数も半端ではなく、この日もワイス踏切で狙った「C62ニセコ」の話でひと盛り上がりでした。もちろん熱心な読者でもあり、RMライブラリーまでご愛読いただいているそうです。

トップの写真は17日付けの『朝日新聞』朝刊1面です。前原さんの紹介に趣味「SLの写真撮影」とあるのが、非常に誇らしく、嬉しさがこみ上げてきます。いまだにとかく偏見の目で見られることの少なくないこの趣味だけに、政党代表の趣味が堂々と「鉄道」であれば、社会的認知度は一気に向上すること間違いありません。ましてや将来、政権交替が起これば、日本国総理大臣の趣味が「SLの写真撮影」ということにもなりかねないわけです。

前原さん、このブログを見ておられたら、まずは代表決定おめでとうございます。激務とは思いますが、これからも折に触れて趣味は鉄道ですとアピールし続けてください。また蒸機の話を肴に一献傾けられる機会を楽しみにしております。

■その後の関連記事
前原さんと「門デフ」C57を撮りにゆく。(上)
前原さんと「門デフ」C57を撮りにゆく。(下)
前原さんと磐越西線へゆく。(上)
前原さんと磐越西線へゆく。(下)
『わが国鉄時代 1』が完成。

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秋風が吹く頃になると、そろそろ屋久島行きの飛行機を予約しなければ…などと言い出す仲間がいます。そう、今年も奇跡的に残された唯一の現役森林鉄道が動き出す季節がやってくるのです。

九州最南端の佐多岬から約60キロ、南海の洋上に浮かぶ屋久島は1993年に「世界遺産」に登録され、今や国際的な認知度となっていますが、この島の東岸・安房(あんぼう)から宮之浦岳(1935m)の山腹まで17.7kmを結んでいるのが「安房森林鉄道」です。現在では起点の安房から途中の荒川まで10.7kmが屋久島電工の管理区間、荒川から石塚線と呼ばれる作業線終点までの7.0kmが屋久島森林管理署の管理区間となっています。前者は安房川流域の発電所管理に供用されており、毎日のように巡察車が走っていますが基本的に非公開です。それに対して、後者は荒川からの軌道敷そのものが樹齢7200年と言われる屋久島随一の自然遺産「縄文杉」への見学登山ルートとなっているため、誰でもその軌道上を歩くことが可能です。しかし、基本的に列車は運行されておらず、無闇に現地を訪れても“現役の森林鉄道”を体感することはできません。(詳しくは『トワイライトゾ?ン・マニュアル13』参照)
▲荒川の土場で荷役作業をする安房森林鉄道の運材列車。機関車は熊本営林局時代から生え抜きの酒井工作所製4.8t機。

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実は森林鉄道を使った伐採材の運搬は1969(昭和44)年頃にはすでに終了してしまっているのです。1960 年代の全盛期は運材のほかにも住民のための「旅客列車」も運行されており、その時代の生き生きとした様子は『鉄道写真2001』の「屋久島あのころ」でご覧いただくことができます。

ではいったい現在の森林鉄道が何を運んでいるのかというと、「土埋木」と呼ばれる木の根っこです。世界遺産の屋久島では当然森林の伐採はご法度で、新たに伐採木を搬出することはできません。「土埋木」はかつて伐採された樹木の根の部分で、これを掘り出して搬出しているのです。“根っこ”と言っても縄文杉を育んだ天然林の巨木の根っこですから、その大きさたるや想像を絶するほどです。森林鉄道によって搬出された土埋木は、安房の町で屋久島名産の木工品となって観光客のもとへと売られてゆくわけです。
▲伝統的な「乗り下げ」で軌道を下る“列車”。深い森の彼方からキィー、キィーとフランジの鳴く音が聞こえはじめ、やがて巨木を積んだ“列車”が姿を現す。ここ安房森林鉄道でしか味わえない感動の瞬間だ。

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この土埋木の搬出シーズンが晩秋から冬にかけてなのです。早朝、旧い酒井製のディーゼル機関車に牽かれて荒川を出た列車は搬出地点を目指し、ヘリコプターや架線によって集められた材を台車に載せて戻ってくるわけですが、この盈車(積車)がスゴイ! 伝統的な「乗り下げ」と呼ばれる方法で、何と下り坂を自然滑降する台車の上に乗った“運転手”がロープ1本でブレーキを操るという曲芸さながらの運転なのです。この「乗り下げ」、かつては屋久島のみならず全国の森林鉄道で日常的に見られた一般的(!)な手法なのですが、当然のことながら、今なおこの運転方法が見られるのはここ安房森林鉄道をおいてほかにありません。
▲ブレーキにかけられたワイヤー1本で軌道を下る。「乗り下げ」は熟練を要するまさに匠の技なのだ。

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実はこの安房森林鉄道とRM本誌とは何かと浅からぬ関係があります。というのも、世界遺産に指定されるはるか前、もうかれこれ15年近くも前になるでしょうか、上京された屋久町の助役さんが、当時は世田谷にあった編集部を突然訪ねてこられたのです。聞けば、せっかく残っているこの安房森林鉄道を何とか観光資源として活用できないだろうかとリサーチをされているとのこと。その後何回か音信を重ねる中で、私が「日本鉄道保存協会」への加盟を勧め、数年後には同保存協会の正式会員となっていただいた経緯があります。それからも屋久町は日高町長以下、熱心に軌道の保存活用を研究、リサーチ会社に詳細な現地調査を依頼するなど将来的可能性を模索され、ついに1999年の保存協会年次総会は屋久島を会場に行われるにいたりました。
▲素掘りのトンネルに、整備され762㎜軌間の軌道。生きた現役の森林鉄道がここにある。

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その後、安房森林鉄道活用計画は保安設備や予算の問題等もあって足踏みしてしまっていますが、この世界遺産の島に残る「世界遺産的森林鉄道」が、今後どのように次世代に引き継がれてゆくのか、温かく見守ってゆきたいと思います。
▲屋久島名物の猿は人を恐れることなくどこにでも出没する。「絶対に食べ物をやらないでください」と“猿害”に悩む町の助役さん。

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ほとんど気にかけられることもありませんが、今年は「自動連結器」への一斉取り替えが行われてから80年目となります。それまでバッファーを伴ったネジ式だったすべての鉄道省車輌の連結器を、1925(大正14)年7月1日をもって一気にアメリカ式の自動連結器に取り替えようというのですから、想像を絶する大事業だったはずです。この一夜にしての連結器交換は、当時の日本の鉄道の技術力を示すだけでなく、日本の国力そのものを世界に知らしめるものでした。
▲小湊のワム1形に残る“MALCO”の自連。ナックルの顎がやたらと長いのが特徴。'05.9.4

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一斉取り替えに用いられたのは、米国のシャロンやアライアンス製の自動連結器でしたが、すぐにこれを模した国産改良型が登場します。鉄道省技師・坂田栄吉がシャロン式をベースに開発した通称「坂田式」と、アライアンスを改良した柴田兵衛による「柴田式」です。いくばくもなく構造的にも強度的にも優れているとされた「柴田式」が省標準連結器となり、以後、「柴田式」は“並型自連”と通称されるごとく、自動連結器の代名詞的存在となります。もちろん、直通貨車の関係から、私鉄もこれを標準とするようになり、以後、「柴田式」は現在にいたるまでわが国を代表する自動連結器として活躍を続けています。
▲鹿島鉄道常陸小川駅構内の据え付け連結器として残るシャロン。後方はここで静態保存されている「鹿島のカバさん」ことDD901。'97.5

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ところで最近ではとんと見かけなくなってしまいましたが、十年ほど前までは、この「柴田式」以前の輸入連結器が少なからず残っていました。特にヨンサントウの貨車高速化で直通不能となった社車、いわゆる“封じ込め車”に珍品が多かったような気がします。解結を繰り返し、連結器牽引力を一身に背負う機関車の連結器と違い、長大編成に組み込まれる機会も少なく、なおかつ走行距離も少ないために、自動連結器の疲弊も最小限に押さえられていたのでしょう。とにかく地方鉄道の車庫を覗いては、古そうな貨車の連結器の陽刻を確かめるのもひとつの楽しみでした。ところが最近ではメジャー筋のシャロンやアライアンスに出くわす機会さえめっきり減ってしまい、寂しい思いも一入です。
▲常陸小川のシャロンはパテントナンバーまでも陽刻で鋳込まれている。

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そんな状況にあって、いまだにこれら輸入自連に出会える場所があります。鹿島鉄道常陸小川駅の貨物ホーム端に据付連結器として取り付けられているシャロンと、小湊鐵道五井車庫のワム1に付いている“MALCO”です。鹿島のシャロンは1915(大正4)年製。ナックル部にパテントの陽刻も残っており、胴受を含めてほぼ完全な形で残っています。線路内に立ち入ることなく間近で観察できるのも嬉しい限りです。後者の小湊のマルコ(?)はやたらと長いナックルの顎が特徴ですが、残念ながら寡聞にしてその正体を知りません。1924(大正13)年東洋車輌の銘板が付いていますから、まさに自動連結器一斉取り替えの時分の新製で、恐らく由緒あるものなのでしょう。どれも同じに見える自連ですが、よくよく探せば、まだまだ“レアもの”が発見できるかもしれません。
▲“MALCO”の文字が残る小湊ワム1の自連ナックル部。今後の解明が待たれる。

必見! SRC添乗ルポ。

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今年の鉄道友の会の「ブルーリボン賞」を受賞することになったJR貨物の「スーパーレールカーゴ」M250系ですが、来週発売の本誌では実にタイムリーかつビッグな巻頭企画を用意しています。昨年の石北本線DD51重連、一昨年の上越線EF64重連とたいへんなご好評をいただいた、広田尚敬さんと椎橋俊之さんの名コンビによる「スーパーレールカーゴ」(SRC)添乗ルポです。
▲東京まであとわずか。ようやく白みはじめた東の空に向かって根府川を渡る。P:広田尚敬

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実はこの企画、かれこれ半年がかりでようやくお目に掛けられる運びとなったものです。と言うのも、単にM250に添乗するだけではなく、私たちにとって今や最も身近な“宅配荷物”がどのようなプロセスを経て届くのかを実証してみようという企画なのです。プロットは「ホンモノのスーパーレールカーゴに載って読者プレゼントのNゲージ・スーパーレールカーゴが届く」。株式会社カトーさんのご協力で、大阪のホビーセンターカトーからRM編集部宛に発送されたNゲージモデルの「スーパーレールカーゴ」が、どうやって集荷され、スーパーレールカーゴに積み込まれ、そしてどうやって配送されるのかを事細かに追跡してみようというわけです。当然ながらJR貨物さんはもとより、佐川急便さんの全面的なご協力を得て、大掛かりな取材となりました。
▲深夜の東海道を安全に、速く走るために乗務員の不断の努力が積み重ねられてゆく。P:広田尚敬

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第50列車、上り「スーパーレールカーゴ」の安治川口駅発車は23時09分、深夜の東海道本線を最高時速130km/hで走り抜け、東京貨物ターミナルに到着するのは早朝5時20分です。途中2度の乗務交代で停車するのみの6時間あまりですが、レポートされる椎橋さんも、もちろん撮影担当の広田さんも、いわゆる“完徹”、一睡もできない過酷な取材でした。それだけに完成したルポは実に臨場感溢れるものとなり、ぜひご一読をお勧めしたい仕上がりとなっています。

今月号はこの巻頭特別企画に続いて、最新情報満載の特集「新幹線2005」をお送りします。ことにほとんど知られていない“新幹線回送線”をすべて現地取材したレポートは必見です。このほかにもまもなく姿を消す名車・小田急9000形の生涯など盛り沢山な内容でお届けする次号をどうかご期待ください。もちろん、片野正巳さんの付録リフィール「細密イラストで綴る日本の蒸気機関車史・1号機関車からC63まで」第4回もついています。

撮影場所がわからない。

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この趣味をやってゆく上で常につきまとうのは写真の整理です。撮影したものの、ついつい未整理のまま年月が経ってしまい、結局いつ撮ったものなのか、いったいどこで撮影したものなのか、本人でもわからなくなってしまうといった経験はどなたでもあるのではないでしょうか。

実は今日のトップの写真、これがまさにそうです。自分で言うのも何ですが、どちらかというと撮影年月日と撮影地点はきっちりと控えているつもりなのですが、それでも“正体不明”の写真はかなりの数あり、もちろん記憶もすっぽりと抜け落ちています。

この写真は1972(昭和47)年8月の九州旅行の際に撮影した指宿枕崎線のC12であることまでは分かるのですが、いったいどういう経路で指宿枕崎線に足を踏み入れたのか、さらにはどの駅で降りてこの写真を撮ったのか、今となってはさっぱり記憶にありません。さらに悪いことにこの時はモノクロやブローニーは併用しておらず、あるのはこの紙マウントに入ったエクタクロームのみ。なにはともあれ、特徴ある海岸線を地形図から探しだしてみることにしました。
▲鹿児島区のC12は西鹿児島?山川間の2往復の貨物列車のほか、指宿でのマルヨを挟んだ西鹿児島?山川間の1往復の通勤列車を担当していた。写真は792レと思われ、牽引している C12 241はこの後熊本区に転じて現在でも高森駅前に静態保存されている。

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実はIT時代の恩恵はこんなところにまで及んでおり、つい先日まで国土地理院の地形図といえば指定販売書店まで行って購入しなければなりませんでしたが、今では国土地理院のホームページからすべての1:25000地形図を閲覧することができます。さっそく西鹿児島から指宿枕崎線を辿って地形図上を南下していってみることにしました。写真は左手に鹿児島湾が広がり、さらにその先には小山のある半島が突き出しているのがわかります。しかも線路と海岸線の間に道路はありません。ずっと線路の海側に国道を伴っている指宿枕崎線が国道をオーバーパスして海側に転じるのは、宮ヶ浜駅の上り方のわずかな区間だけです。ちょうどこの辺りだと湾を挟んで後方に指宿市の田良岬・魚見岳が遠望でき、恐らくここが撮影地点に間違いないでしょう。それにしても、宮ヶ浜駅に降りた記憶などまったくなく、なおかつこのポイントを事前に誰かに伝え聞いていたのか否かも不明です。

それほど遠くないうちにGPS機能付きのデジタルカメラが発売されると風の噂に聞きます。最新のGPSは大まかな緯度経度どころか、「○○神社の鳥居の右側の柱」といったピンポイントでの表示が可能なまでに進化しています。ひょっとすると、これからは撮影地点もカメラが記憶してくれる時代になるのかも知れません。
▲試験公開されている国土地理院の地形図閲覧サービス「ウォッちず」は非常に便利。撮影行の際の事前リサーチにも絶大な力となる。

“鐘撞き”の踏切。

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小湊鐵道の五井で懐かしいものを見つけました。“鐘撞き”式の踏切警報機です。最近ではまず目にする、いや耳にすることがなくなってしまいましたが、電子音式の警報機が席捲する前は、各地でこの“鐘撞き”式の警報機の音を聞くことができました。“クゥォーン、クゥォーン”という電子音に慣れてしまった耳には、“カン、カン”というアナログな音がかえって新鮮でもありますが、私たちの世代にとってはあの“カン、カン”こそが踏切の音色でした。
▲五井踏切の“鐘撞き”式警報機。頭頂部にお椀状の“ベル”が縦に付いているタイプ。ちなみに“ベル”の大きさは直径220mmほど。'05.9.4

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この小湊鐵道五井踏切は、五井駅構内外れでJR内房線と分かれる位置にあり、JR線の踏切と小湊線の踏切がクルマ数台が入る程度の微妙な間隔で隣り合わせになっています。双方の踏切はそれぞれの列車に対してのみ鳴動するようになっており、いまだに“鐘撞き”式が残っているのは、音色を区別する必要があるからなのかもしれせん。

懇意にしていただいている小湊鐵道さんの工務課さんに電話してみると、この五井踏切のほかにも、まだ数箇所が電子音化されずに残っていますよ…とのことです。秋の一日、DMH17形ディーゼルエンジンの懐かしい響きとともに、この“鐘撞き”式警報機の音色を聞きに出かけてみるのも悪くないかもしれません。
▲本当はこれが「正統派」の“鐘撞き”式。お寺の梵鐘のような文字通りの“鐘”が頭頂部に付いており、電磁式でカン、カンと鳴る。写真は名鉄揖斐線の黒野駅付近にあったものだが、これも同線の末期には電子音式に代えられてしまった。

細倉の“ABC”。

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舌の根の乾かないうちに、という言葉がありますが、昨日のビッグボーイからうって変わって、またしても話は小さい機関車です。しかも並の小ささではなく、恐らくわが国に現存する中では最小の部類に属すると思われる小ささです。

現在はくりはら田園鉄道の終点・細倉マインパーク前駅にほど近い、鴬沢町鉱山資料館の屋外展示場に保存されているこの機関車の存在を知ったのは、今から23年ほど前のことでした。栗原電鉄の撮影と合わせてまだ盛業中だった細倉鉱山を訪ねたのですが、おめあての専用軌道の方はガードが堅くてなかなか近づけそうもありませんでした。これは空振りかと諦めかけた時に目に入ったのが、駐車場のエントランスにちょこんと置かれたこの小さな機関車でした。

近寄って子細に見てみると、その小ささはもとより、ガソリンエンジンと変速機・逆転機をこれ以上考えられないほどコンパクトに収納したメカニズムに脱帽。しかも搭載しているエンジンはストリップシリンダーの「フォードA」タイプです。
▲23 年前の“ABC”。とにかく驚くほど小さい。Aフォードのエンジンがわかるようにサイドカバーを外させてもらい、日中シンクロでストロボの補助光を入れて撮影。'82.3.21

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細倉鉱山の坑内軌道で使用されていたと説明書きがありますが、防爆装置を持たないこのガソリン機関車が、いったいいつ頃まで実用されていたのかは不明です。さらに、どこで製造されたものなのかも定かではありません。現在では塗り重ねられてしまって判読できませんが、23年前はラジエータシェルにかすかに残る「ASANO BUSAN CO. TOKYO JAPAN」の文字を透視法で読み取ることができました。浅野物産(ABC)は浅野セメント系の商社で、戦前はホイットコムなどの内燃機関車を数多く輸入しており、この機関車も輸入品なのかもしれません。

なお、実測による主要寸法は全長1950×全幅850×全高1230mm、ホイールベース609mm、車輪径304mm、軌間は1ft8in(508mm)でした。ひと口に“機関車”といっても、ビッグボーイからこの“ABC”まで、その意味するところはとてつもなく広く、深いのです。
▲鴬沢町鉱山資料館の屋外展示場での現状。狭くてなかなか撮影しづらい位置にあり、この写真は本格的な建築用の脚立を立ててその上から撮影。'05.5.15

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どうも個人的嗜好から小さい車輌へ話が進んでしまいがちですので、たまには大きな車輌の話もということで、今日はどびきり大きい蒸気機関車、ご存知Big Boyのお話です。

ユニオン・パシフィック鉄道のこの巨大機関車「ビッグボーイ」はよく「世界で一番大きな機関車」であるとされ、日本でも昔から乗り物絵本の常連でしたが、実は単純に“世界で一番”とは言い切れません。試作的なものも含めれば、全長も運整重量もさらに上回る蒸気機関車は存在したからです。ただ、実際に量産され、後世に語り継がれる活躍をしたという面を含めれば、やはり世界一であることは揺るがないでしょう。
▲コロラド州デンバーの"Forney Transportation Museum"に保存されている4005号。一時、オイルバーニング化された経歴を持つ。どうもこの博物館周辺はあまり治安が良くなく、展示車輌も結構荒廃している。'94.9.4

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私がこのビッグボーイの実物を見たのは十数年前のコロラド州デンバーの博物館が最初でした。いや、噂には聞いていたものの、とにかくでかい。全長40.7mとC57の2倍、総重量は540t、エンジン部だけでも318tとC62の3.6倍もあります。直径68インチ(1727mm)の動輪さえも“短足”に見えてしまいます。そして何より驚いたのがそのキャブです。蒸気機関車のキャブといえば狭くて窮屈があたりまえですが、ビッグボーイのキャブは乗務員席が4脚もあり、ちょっとした居間ほどもあります。
▲恥ずかしながら記念写真。まさに小山のような巨躯である。

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ビッグボーイ、正確にはユニオン・パシフィック鉄道4000形は、ソルトレークのほとりのユタ州オグデンからワイオミング州グリーンリバーまでのロッキー山脈越えを補機なしで通し運転することを前提に開発されました。日本のように25‰?33‰といった急勾配ではありませんが、11.4‰の勾配が何と283kmも延々と続きます。東海道本線に例えれば、東京から豊橋の手前あたりまでひたすら登ってゆくわけです。しかも設計時のオーダーは牽引重量5000t、かつ最高運転速度は80マイル(129km/h)というとんでもないものでした。1941(昭和16)年9月、先行機種である「チャレンジャー」(軸配置4?6?6?4)の動軸を2軸増やした4?8?8?4軸配置でビッグボーイ試作機が誕生します。昭和16年9月といえば、わが国では「重要産業団体令」が施行されて、民需向け鉄道車輌も統制下に置かれる状況になった時分です。そんな同じ時に、対戦国は民間鉄道会社がこの巨大機関車を開発していたのですから恐れいります。

この試作機4000号の成功を受け、続いて1次型19輌が、さらに1944年に2次型5輌が増備され、合計25輌となった仲間は、時に現車100輌10000tのワンマイルトレインを牽いて有名なシャーマンヒルに挑みました。最終運用は1959(昭和34)年9月、アメリカのメインライン・ファンにとっては生涯忘れられない日となったはずです。

現在、25輌のうち8輌が各地で静態保存されており、幾度となく復活話が出ては消えています。若干小型の「チャレンジャー」は3985号機が一応動態にあり、数年前にはこれと対面させるためにも動態復活をと、かなり具体的なレベルまで計画が進んだようですが、結局これも頓挫、なおかつ同時多発テロ以降は噂すら出なくなってしまいました。
▲こちらはミズーリ州セントルイスの"Museum of Transportation"に保存されている4006号。UPのクレストも残っている。'00.8.31

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ところで、このビッグボーイ、よく「マレー式の…」と紹介されますが、正確にはマレー式ではありません。マレー式とは、アーティキュレーテッド(関節)式機関車の中にあって、複式膨張(コンパウンド・エキスパンション)シリンダーを持つものをさします。つまり、火室側に固定された高圧シリンダーで一度使った蒸気を、レシーバーパイプを介して前方の台車に付けられた低圧シリンダーに送り込んで再利用する方式で、スイス人のアナトール・マレーによって考案され、パテントとなっています。これに対してビッグボーイは4つのシリンダーすべてが高圧シリンダーであり、一気に全シリンダーに給気する単式膨張(シンプル・エキスパンション)となっています。まぁ、そこまで厳密に区別せずともとも思いますが…。
▲蔵書の中から伝説的な不朽の名著Lionel Wiener著"ARTICULATED LOCOMOTIVES"(1970年)。マレーをはじめとした様々な関節式機関車のバイブルである。

「档案」のこと。

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「档案」と書いて“だんあん”(Dang-An)と発音します。中国語ですが、日本人には漢字そのものも、熟語としても、そしてその意味するところも馴染みのない言葉です。

私が初めてこの「档案」という言葉を初めて知ったのは、かれこれ十年ほど前の大連市電民主車庫でのことでした。その頃の中国東北部には、鉄路局はもとより、各地で戦前の満州時代の「日本製」車輌が活躍を続けており、機関区(機務段)を訪ねるたびにその来歴を調べようと努めてきました。ところが、中国人通訳を介した説明では、いつもこちらの意図が伝わらず、歯痒い思いを重ねざるをえませんでした。

そんな中で、この時はメンバーに中国語に極めて堪能な女性がおり、車庫事務所でこちらの意図するところを逐一翻訳して伝えてもらうことができました。つまり、車輌がどこで製造され、いつどのような改造を施され、どこからどこへ転属し、どれだけの走行距離をこなしているのか…日本で言うところの「履歴簿」を見せてもらいたいわけです。

これまでの経験では、筆談で「履歴」と書いても意味が通じないらしくアウト。しかも「履歴」を中国語で意訳すると、就職活動の時に使う履歴書の類になってしまうらしく、やはりにわかには理解してもらえませんでした。それでもしつこく食い下がっていると、相手の主任氏はハタと気づいたらしく、「なんだ“档案”か!」と事務所の奥のガラス棚から古びた書類束を持ってきてくれました。万年筆で書かれたと思しき日本語は「昭和XX年日本車輌製造」で始まっています。それは、戦前から絶えることなく書き続けられてきた、まさしく「履歴簿」そのものでした。
▲味のある表情が好ましかった大連市電1000形。無理を言って光線状態の良い、影を引かないところに移動してもらって形式写真を撮らせてもらった。なお、この1000形は戦後の中国製である。'93.3.19   民主車庫

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ところで「なんだ“档案”か!」という主任氏の発言を聞いて仰け反ったのが件の中国通の女性です。「えっ、だんあん!?」。事情を知らない私たちには彼女の驚きの理由がさっぱりわかりませんでしたが、後になってこの言葉の意味するところを知って愕然としました。

「档案」とは、中国人民全員に一冊ずつ存在するいわば人間の「履歴簿」で、『中日辞典』(小学館)によれば、中学校卒業時点から記入し始められるそうです。いわゆる戸籍謄本のような内容はもとより、先祖が日本軍や国民党に関わっていなかったかどうかの“本人成分”、中国共産党の党歴、さらには言動、旅行歴、付き合いのある外国人等々までが逐一書き込まれてゆくのだそうです。もちろん非公開で、各地方の党人事部が厳重に管理しており、本人も何が書かれているのかは生涯知ることはできません。この「档案」如何によっては、本人の努力とは関係なく人生が決まってしまうことさえあるそうです。。

何とも考えさせられる話ですが、それにしても「履歴簿」が「档案」とは言いえて妙ではあります。ちなみに見せてくれるかどうかはともかく、その後どの機務段へ行っても「档案」と言えばすぐに話が通じるようにはなりました。
▲民主車庫前で顔を合わせた日車製3000形と4000形。アカシアの街路樹に囲まれた日本時代の街並みを走る姿が素敵だった。現在では連接車体のLRTがスラブ軌道上を走り回っている。'91.3.21  民主車庫前

飯田町駅を語り継ぐもの。

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今日はJR貨物の本社で打ち合わせがあり、35℃近くあるのではないかという気温の中、飯田橋駅から再開発地区「アイガーデンエア」を目指しました。

名前も洒落たものなら、ホテルエドモントから一昨年に開業したガーデンエアタワーに至るデザインされつくした都市景観もお見事ですが、ここがついひと昔前まで「飯田町駅」と呼ばれる一大貨物駅であったことを記憶している人はどれだけいるでしょうか。恐らく、高層オフィスで働く人の大半はそんな“土地の記憶”とは無縁でしょうし、知る術もないだろうと思って歩いていると、嬉しくなるものを見つけました。瀟洒に整えられた歩道にレールが埋め込まれているのです。

横浜の「汽車道」はよく知られていますが、鉄道の記憶を後世に残そうという同様のモニュメントがこんな身近にあろうとは、今日の今日まで気づきませんでした。表示によると、建築基準法に基づいた「公開空地」という空間なのだそうで、線路は200m近くにわたって“敷設”されています。
▲足下を注意して見なければそれとわからない埋め込まれたレール。画面左上にちらりと見えるビルが JR貨物本社ビル。

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私の世代の知っている飯田町駅はとっくに無煙化されていましたが、それでも品川区のDD13が昼夜兼行で入換えに励む一大貨物駅でした。「相模鉄道ホッパー」と大書された砂利ホッパービンには無害車がずらりと並び、併設されていた飯田町客車区には、新宿発の中央線夜行に充当される旧型客車が長々と留置されていました。

ご存知のように、飯田町駅は新宿?八王子間で開業した甲武鉄道が市街線を延長する際に1895(明治28)年に開業した駅で、以後、中央線の始発駅となり、1904(明治37)年には初の“国電”運転開始の栄誉に浴しています。しかしその後中央線が御茶ノ水へと延長されると、1933(昭和8)年には貨物専用駅となり、旅客駅は飯田橋駅と分離されることになります。その後は都心の貨物拠点駅として活躍し、ことに1971(昭和46)年に国鉄と製紙業界の共同出資で㈱飯田町紙流通センターが設立されると、日本全国の製紙工場から送られてくる印刷用紙の受け口としてきわめて重要な位置を占めるようになります。1993(平成5)年3月現在でも、一日に実に195輌のワム車が到着したと記録されていますから大変な賑わいだったわけです。

そんな飯田町駅の車扱貨物は1997(平成9)年3月改正でコンテナ化され、荷役も新座(タ)駅などに移管されてその役目を終えました。国電発祥の地として、そして都心の貨物拠点として、「アイガーデンエア」の2条のレールが「飯田町駅」の記憶を後世に語り継いでくれるのは嬉しい限りです。蛇足ながら、飯田橋駅の電略は「イイ」ですが、飯田町駅のそれは「イヒ」でした。

山下商店の「深川」。

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久留米の山下商店といえば、1960年代後半に超小型Bタンクを店の看板にしているのが“発見”されて以来、たびたび各誌に取り上げられてきましたが、ここ暫くほとんど情報がありませんでした。件のBタンクは40年近く前からすでにボロボロの状態でしたから、さすがに廃棄されてしまったか…と思いきや、実はまだしっかり(状態は“しっかり”ではありませんが…)残っているのです。

久留米市本町に店を構えていた鉄材・鉄骨商の山下商店は、1980(昭和55)年に同市梅満町に移転しましたが、律儀にもこの廃車体も連れて引越してくれました。ただ今度は看板扱いではなく、工場横のまさにバックヤードにポイと置かれた状態で、さらにその時点から四半世紀、今や“アート”としか表現できないオブジェ状態となっています。

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この機関車、臼井茂信さんは1923(大正12)年深川造船所製の5t機で、元・九州製紙(十条製紙)八代工場のものと推察されていますが、いったいどんな流転の末にここ山下商店に辿り着いたのかはわかりません。お店のお話では、久留米近郊の河川改修工事で使用されていたものを転売目的で購入したものの、結局引き取り手もなくそのままになってしまったとのことです。一説では、もう1輌同系のものがいて、こちらは大分県の森林鉄道に転売されたと言われていますが、これも定かではありません。

当然、売ってくれとか、きれいにして保存したらとかという話は幾度となく舞い込むそうですが、応対してくれた年配の女性が「でも、もう土に還してあげるの」と仰っておられたのが印象的でした。
▲ついに落ちてしまった鋳鉄の煙突を持ち上げようと試したが無理だった。'04.9.

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たいへんご好評をいただいている片野正巳さんの付録リフィール「細密イラストで綴る日本の蒸気機関車史/1号機関車からC63まで」が、今月発売号でついに4回目となります。

官設鉄道開業以来103年にわたって国鉄線上を駆け抜けた蒸気機関車は、実に300形式以上にのぼります。なかには今もって写真さえ発見されていない形式もあり、よほどのベテランファンでも、すべての形式とスタイルを思い浮かべることができる人はほとんどいないはずです。それだけに、是非ともビジュアルに楽しく、誰でもが概観できる蒸気機関車歴代記をと、車輌イラストのパイオニアとして知られる片野正巳さんにお願いしたわけですが、古典機を知りつくされた片野さんならではの工芸品のように美しいイラストと、的確かつ軽妙な解説は、まさに保存版と呼ぶにふさわしい仕上がりとなっています。

実は片野さんとの間でこの企画が持ち上がったのは2年以上前のことで、当初は本誌連載を想定していました。しかし、細かく区切った連載ではせっかくの企画が埋没してしまいかねず、かといってその頃はやっていた“ブックインブック”ではのちのちの使い勝手が悪そうです。そこで思いついたのが、出版業界で“パートワーク”と呼ばれる分冊百科方式でした。「A4サイズ30穴」のリフィールとすることによって、自分で一冊を完成させるキット的な楽しみも味わえ、かつ最終的には168頁の立派なファイルが完成するという寸法です。実は定期雑誌でパートワーク方式の付録をつけるのは本邦初の試みで、その意味でも特筆される企画なのです。

さて今月の第4回では、ついに9600、8620、C51、D50、そしてC53といった近代機が登場します。形式や各バージョンのイラスト解説のみならず、今回は片野氏ならではの豊富な知識を駆使しての列車編成イラストや、空制化後の変貌ぶりなども盛り込まれており、見逃せない内容となっております。隔月5回のこのリフィール「1号機関車からC63まで」は、いよいよ11月発売号で完結します。あなたのファイルが完成するのももうすぐです。

夷隅軌道の転車台。

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今は亡き蒸気機関車研究の泰斗・臼井茂信さんの押し掛け門下生として集った趣味人は今もって深い交流を続けており、年に2回ほど関東・関西合同で懇親会を兼ねた一泊旅行を企画しています。この週末はまさにその“夏の陣”で、折しも湯口 徹さんの『内燃動車発達史』が完結したことを受け、その内輪の出版記念も兼ねて、外房の御宿で会合が行われました。

集った東西の仲間は18名。見回してみれば、半数近くがRMライブラリーの著者さんですから、その“濃さ”は推して知るべしです。そもそも一見関係のなさそうな御宿を拠点としたのも、内燃動車発達史を語るうえには欠くことのできない「いすみ鉄道」が卑近だからという理由からです。
▲夷隅軌道大多喜駅に隣接していたと思われる井戸。手押しポンプの上に掛かっている滑車は当時のものだろうか。'05.9.4

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LE-Carの走る「いすみ鉄道」が何で…と思われるかもしれませんが、同線は国鉄時代は木原線、さらに国有化前は夷隅軌道という軌間2フィートの内燃軌道でした。もともとは千葉県営人車軌道大多喜線として1912(大正元)年に開業したこの路線が内燃動力化されたのは1923(大正12)年で、わが国最初の内燃動車による営業路線である好間軌道から遅れることわずか2年、まさに内燃動車にとっては発祥の地のひとつなのです。

現在のいすみ鉄道大原?大多喜間はほぼこの夷隅軌道のルートをトレースしており、人車時代には“補機”役の車夫が待機していたという七曲の峠など、16.5‰の急勾配と連続するR300の急曲線に軌道時代の面影を垣間見ることができます。白土貞夫さんの『ちばの鉄道一世紀』(崙書房)には、人車時代のあまりの遅さに「歩いてゆけば間に合ったのに、鉄道に乗ったばかりに遅れた…」という当時のエピソードが紹介されています。
▲奇跡的に姿を留める転車台ピット。奥の建物は手前が増築されてしまっているものの夷隅軌道時代の車庫である。'05.9.4

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さて、その白土貞夫さんが『トワイライトゾ?ン・マニュアル8』の中で紹介してくれた夷隅軌道の遺構が今回の“目玉”のひとつでした。森林鉄道研究家として知られる西 裕之さんが案内役をかって出てくれて訪れたのが、何と廃止から80年近くもその姿を留めている転車台のピットです。現在はガソリンスタンドになっている夷隅軌道大多喜駅の裏手に、当時の車庫とこの転車台ピットが残されています。実際に目にするとその小さいこと小さいこと。直径は1700mmほどで、こんな金魚の池のようなものに、仮にも“気動車”が載ったとはにわかに信じられませんが、実は夷隅軌道が使用していた日本鉄道事業製の気動車は定員9名の極小のもので、ホイールベースも4フィート(1219mm)しかありませんから、この“金魚の池”でも充分に用をなしたわけです。
▲両手を広げれば届いてしまうほど小さなこのピットが転車台だとは恐れいる。ちなみに後ろの人物は誰あろう『内燃動車発達史』の湯口 徹さん。

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手元の『内務省土木局第28回統計年報』(1928年12月)によれば、「大正13年末開業軌道営業状況」として、乗車賃金23,113円、貨物賃金1,593円等営業収入合計25,310円に対して、動力費2,518円、運輸費10,897円等支出合計17,987円で、差し引き営業純益7,323円を計上しています。ただ、鉄道省木原線の建設が決まると、夷隅軌道はその並行路線として補償金をもらってさっさと廃業してしまいました。時に1927(昭和2)年8月31日、80年近くも前のことです。

本当に奇跡的に残されたこれらの遺構が今後どうなるのかはわかりません。ただ、町おこしとして旧街道の家並の保存に積極的に取り組んでいる大多喜の町だけに、何らかの形で後世に引き継いでもらいたいものです。
▲『内燃動車発達史』上巻より夷隅軌道の項。この頁に出ている写真(白土貞夫さん所蔵)の場所こそ転車台の横に相当する。

助勤証明書(下)

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実際に「助勤」をはじめてみると、毎日が新鮮な驚きの連続でした。お客さんのスタンスではまったく知りえない、いわば“カウンターの内側”は、知識欲旺盛な少年にとって、またとない「学校」でもあったのです。
▲「国鉄」からもらった給与明細の数々。

東京駅の改札をしばらく続けるうちに、異例の都立高校生はその働きを認められ、次から次へと「助勤」要請が来るようになります。なかでも誇らしかったのは初めて横浜駅へ派遣された時でした。

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当時、東京南局管内の改札で最も難易度が高いとされていたのが横浜駅西口で、職員の間でも「横浜西口で一人立ちできればたいしたものだ」と言われていた難関です。国鉄線はもとより、東急、相鉄といった「社線」の切符も入り乱れてこの西口に集中する構造になっていただけに、今からは想像もできない混雑ぶりでした。そこで一人立ち、つまり両面切りをこなすには、時には“つばめ返し”と呼ばれた荒技をこなせるくらいのパンチさばきが必要です。それだけに、横浜に助勤に出されるということは、そのスキルが認められたことでもあったのです。
▲恥ずかしながら横浜駅西口でラッチに立つ高校時代の私です。

数々の助勤の中で忘れることのできない大失敗があります。それは、ひとわたり何でもこなせるようになった(と思っていた)ある夏の夜のことです。平塚のホームで「遅番」の立ち番をしていたのですが、回送で下り中線に入ってきた80系の運転士が、停止するやいなや血相を変えて飛び出してきて「バカヤロー、何やってるんだ!」と怒鳴りつけてくるではありませんか。何を怒られているのかさっぱり分からなかったのですが、実はとんでもない大失敗をやらかしていました。こちらは「客扱」要員で「運転」とは全く関係がないのですが、気の緩みから、手に下げたカンテラをぶらぶら揺らしていたのです。しかも立っている位置は正規の停止位置より20mほど前方。白灯を横に振るのは停止位置への誘導を示しますから、件の運転士は誘導指示と間違えて危うくオーバーランするところだったのです。

いわば押し掛けアルバイトで始まったこの「助勤」ですが、南局人事にはずいぶんと信頼されたようで、半年もすると、来週はどこそこへ行ってくれと自宅に頻繁に電話が掛かってくるようになり、結局、高校時代を通してこの「助勤」は大きな収入源となりました。東京駅の改札でスタートした業務内容も、そのうちに集札(精算金も扱うため通常はアルバイトにはやらせない)も任されるようになり、ホームでの「客扱」、案内放送係と次第にステップアップしてゆきました。最終的には品川駅の内勤補助にまで“出世”し、書類のコピーをとったり、その書類を本社に届けたりと、もっぱら事務要員として働くようになりました。それにしても、あれほど国鉄にお世話になっていながら、当時から、将来的に鉄道会社に勤めようとは微塵も思っていなかったのが不思議です。

助勤証明書(上)

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高校に入学して最初の夏休み、まず考えたのはアルバイトでした。撮影旅行の費用を稼ぐにも、自分でなにがしかの金額を稼がねばなりません。ただ、どうせなら「趣味と実益を兼ねて」鉄道に関わるアルバイトをしたいと考えていました。蛇足ながら、「趣味と実益」は決して兼ねられないどころか、相反していることを思い知るのはまだまだ先のことです。

とにかく、そこで思いついたのが駅でのアルバイトです。見渡せば鉄道高校の生徒はあちこちの国鉄駅でアルバイトをしています。では、自分もその仲間に入れてもらおうというわけです。ところが、いったいどうすれば使ってもらえるのかがさっぱりわかりません。そこで“若気の至り”と言いましょうか、怖いもの知らずと言いましょうか、思いついたのが何と「国鉄本社」です。本社に言って使ってくれるよう直接頼んでみよう…かくして15歳の少年は丸の内の“本丸”へと向かったのでした。

いったいどういう経緯だったかは思い出せないのですが、恐らく守衛がお膝元の局を紹介したのでしょう。とにかく東京南鉄道管理局の人事部に通されました。アルバイトをしたいのですがと切り出す私に、人事担当氏は「鉄道高校の生徒さんは、将来的な研修の意味も含めてアルバイトをしてもらっており、都立の普通科の子は前例がないから」とにべもありません。それからどうやって食い下がって“籠絡”したのか忘れましたが、結局OKになり、「ではちょっと体験していってもらおうか」とそのまま東京駅の改札ラッチに立つこととなりました。今から思えばずいぶんと過激な話ですが、当時の国鉄にはそんなフレキシビリティーもあったのです。

しかし、ひとつ困ったことがありました。私たちの都立高校には制服というものがありませんでしたから、鉄道高校の生徒さんのように制服・制帽で勤務するわけにいきません。やむをえないか、と人事部が開襟シャツやら制帽やらを“貸与”してくれ、「助勤」と呼ばれるアルバイト生活が始まったのです。

トップの写真がその頃の「助勤証明書」の数々です。この証明書が通勤定期の代わりとなり、改札で「お願いしまーす」と見せると「ご苦労様」と通してくれる寸法です。東京駅の改札に始まり、有楽町、品川、横浜、平塚…とどんどん範囲は広がり、結局、国鉄で稼いだ金で国鉄の周遊券を買う“連鎖”が延々と続くこととなります。

長浜鉄道スクエア。

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「長浜鉄道スクエア」をご存知でしょうか。第1回の鉄道記念物でもある旧長浜駅舎と長浜鉄道文化館に隣接して「北陸線電化記念館」が新たにオープンしたのを機に、2003年7月にこの3施設を総称して「長浜鉄道スクエア」と命名されたものです。

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旧・長浜駅は1882(明治15)年に建造された、わが国に現存する駅舎としては最古のもので、その瀟洒なたたずまいは、現代の感覚ではエクスペンシブなレストランといった風情です。室内も鹿鳴館調の木製階段や上下スライド式の窓など、随所に文明開化の気概が溢れており、鉄道創業期の空気を感じることができる貴重な空間となっています。

2年前にオープンした「北陸線電化記念館」も見逃せません。実用交流電化発祥の地でもあるここ長浜に、レストアのうえ運び込まれたのがED70 1で、以前から保存してあったD51 793と並んで新造された建屋に収まっています。正面貫通戸が溶接されたまま…とか瑣末な点を指摘する声は少なくないようですが、なにはともあれ、日本ナショナルトラストをはじめとしたボランティアの力が、JRを動かして保存への道筋をつけたことは大変意義深いことだと言えましょう。

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日本ナショナルトラストでは、この「北陸線電化記念館」と既設の長浜鉄道文化館を、歴史環境を守り、活かし、学ぶ拠点として「ヘリテージセンター」に登録、バックアップに努めているそうですが、いかんせん現状では見学に訪れる方は決して多くありません。たしかに途中下車せねばならないロケーションもあるでしょうが、こういったヘリテージセンターが機能し、賑わってからこそ、初めて日本の鉄道保存運動が本来的な意味で動き始めるのではないでしょうか。

「真谷地」の残像。

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8100や9200といったオールド・アメリカンに憧れながらも、数年の差で見ることのかなわなかった、いわば「遅れてきた青年」である私にとって、北炭真谷地の専用鉄道は、そのわずかな残り香を嗅ぐことのできる数少ない場所のひとつでした。すでに旅客輸送(便乗)は終わってしまっていましたが、先達の写真を穴の空くほど眺めたロケーションは変わることなく、無煙化されるまで幾度となく通いつめたものです。

一昨年、夕張の「石炭の歴史村」で行われたシンポジウム「北の運炭動脈・夕張鉄道を語る」に参加するにあたって、30年ぶりにあの真谷地を再訪してみようと思いたち、シンポジウムのコーディネーター役の奥山道紀さんに相談してみると、予期せぬ返答が返ってきました。「あまり知られていませんが、実は真谷地の客車が残ってまして、沼ノ沢からそう遠くないですから寄ってみてはいかがですか」。

ファックスで送ってもらった手書きの地図を頼りに現地を訪ねてみました。北海道の広大な農地のイメージとは違い、むしろ内地、北関東辺りといった感じの畑の横に“その物体”はうち捨てられていました。いや、ビニールシートの補修の跡などから察するに、捨てられているのではなく、倉庫か何かとしてまだ利用されているようでしたが、いずれにせよ、なかなか凄まじい姿ではあります。

客車の正体はコハフ1形のショーティー、ホハ1らしいのですが、いかんせんこの状態ですから推察の域を出ません。いったいいつからこの農地に置かれているのか、どうやって運搬してきたのか、謎は謎を呼びますが、残念ながらシンポジウムの時間が迫ってきてしまい、慌ただしくその場を去らねばなりませんでした。あれから2年あまり、真谷地の残像は風雪に耐えて、まだ残されているでしょうか?

レイル・マガジン

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