鉄道ホビダス

2005年8月アーカイブ

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はやいもので、本誌上で「トワイライトゾ?ン」の連載が始まって、この7月で15年の歳月が流れました。急速に姿を消しつつある全国津々浦々の謎めいた専用線や車輌たち…かといって従来の誌面では取り上げようもないこれらの情報を、読者の皆さんとのやりとりの中で詳らかにしてゆければとスタートした連載ですが、私もB滝も、正直言ってこれほどの“長寿番組”になろうとは予想だにしていませんでした。

15年といえば単純に考えて、連載開始時に高校1年生だった方が今年三十路を迎えるわけですから、当然ながら初期の連載内容は今や遠い過去のものとして忘れ去られようとしています。もちろんバックナンバーも容易くは手に入らず、初期の連載内容をもう一度見てみたいというご要望は、かねてから少なからずいただいておりました。

そこで今回、『トワイライトゾ?ン・メモリーズ』と題して、連載第1回から第50回までを再録蒐集したムックを制作いたしました。300頁をゆうに越える大冊で、1990年9月号から1994年10月号に至る4年間のアーカイブがこの一冊に凝縮されています。

昨日出来上がってきた見本を手にして、何を隠そう、B滝ともどもその面白さに仕事を忘れて見入ってしまいました。深谷の煉瓦工場専用線、91式鉄道牽引車、現役金山の軌道…それにアント、ウニモグetc。東武鉄道啓志線のように、この連載の成果が、のちに“正史”とも言える『東武鉄道百年史』に反映された例さえあります。

この週末には全国の書店でご覧いただけるはずですが、もし見つからないようであれば弊社クイックサービスをご利用ください。定価は2800円です。

危うし! 公園機関車。

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昨29日18時26分付けで共同通信が「国鉄貸与SLに石綿含有か 公園などに500両展示」と題したニュースを配信し、今日の朝刊数紙がこれを受けて「展示SL石綿使用か」などのタイトルで一斉にこのニュースを報道しました。

昨今のアスベスト問題を見聞きするにつけ、いつかは矛先が向けられるのではと恐れていただけに、やはりきたか…というのが正直な感想です。

共同通信によると、「JR7社は29日、国鉄時代に全国の自治体に貸与され、現在公園などに展示されている蒸気機関車(SL)計約500両にアスベスト(石綿)が使用されているとして実態調査を開始した。火室(ボイラー)や気筒(シリンダー)、蒸気管の断熱材として使われた可能性があるが、固形で機器に覆われており、飛散の心配はないという。」としながらも、「車両数は一部電気機関車や客車も含め、JR北海道が105、東日本約160、東海40、西日本約90、四国12、九州81、貨物14。管理する自治体総数は判明しているだけで、全国で280を超える。」と、その想定される“範囲”の大きさに言及しています。

ボイラ・ケーシングをはじめ、蒸気機関の断熱材として、天然素材である石綿はその最初期から利用されてきました。現在の動態保存蒸機では別の素材が使われていますが、たしかに共同通信の指摘のとおり、現役時代の蒸気機関車には石綿が多用されていました。

もちろん記事中にもあるように、ケーシングで覆われているものですから、ただちに飛散して健康被害を及ぼすはずもありませんが、今、私たちにとって怖いのは、これが“公園機関車”を撤去するきっかけになりかねないことです。6月15日のこのブログでも言及しましたが、旧国鉄が自治体等に“貸与”した蒸気機関車も、すでに静態保存開始から30年以上を経過しています。保守もままならないで、汚いから、危険だからと撤去・解体される例が後を絶ちません。今回のアスベスト騒動が、崖っぷちにきている“公園機関車”の最後の一押しにならないことを祈るばかりです。

▲宮崎市福祉総合センター交通公園に保存されているC11 191。1974(昭和49)年行橋区で廃車、この地に保存されて30年になる。(本文内容とは直接関係ありません)

「銀塩」は負けたのか?

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8年目を迎えた広田尚敬さんのイヤーブック『鉄道写真』2005年版が完成しました。今年の巻頭は広田さん撮りおろしの「ふるさと銀河線・名残の夏」。来春の廃止が予定されている北海道ちほく高原鉄道を、蒸機時代の池北線への追想とオーバーラップさせてダイナミックに展開されています。

また、5回目を迎えた連載「昭和三十四年二月北海道」は、茂尻、上芦別、辺渓と石狩炭田の炭礦を巡ったのち、十勝平野の製糖工場に生き残っていた謎の小型機「ランケンハイマー」を訪ね、続いて根室拓殖鉄道の異形のガソリンカー「銀竜」と出会います。どれもこれもが強烈な個性を放つ面々ですが、広田さんのカメラアイはそれにも増して独創的で、ドキュメンタリーとは違った意味での感動を覚えずにはいられません。

さて、この『鉄道写真2005』ではRM本誌での登場回数の多い、いわばハイ・アマチュアの皆さんに、ちょっと挑戦的なアンケートをお願いしました。題して「銀塩は負けたのか?」。勝った負けたという単純な問題ではないことは百も承知のうえで、あえて皆さんに「デジタルvs銀塩」に関するさまざまな質問を投げかけました。結果は…誌上でご覧いただくこととして、これからますますデジタルか銀塩かの議論はかまびすしくなってくるに違いありません。

ちなみに、下の「つくばエクスプレス」の写真は、コンパクトデジカメでパチ撮りした2枚を画像処理ソフトで合成したものです。ちょうどバッティングするかと思ったのですが、下り(画面右側)の方がわずか10秒ほど遅く、実際にはこんな光景は見られなかったわけです。私のような専門的スキルのない者でも、この程度の画像処理ならあっという間にできてしまいます。これをどう考えるべきなのでしょうか? あなたはどう思われますか? 「直せる便利さ」は裏返せば「直るつまらなさ」でもある…と私は思っています。
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ヨーロッパに単身赴任中の仲間が夏休みで帰国したのに合わせて、大学鉄研の同期生が集うことになり、どうせならと、開業したばかりの「つくばエクスプレス」に試乗してみることになりました。

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交通博物館前の「万世」で昼間から一杯やって、いい機嫌で秋葉原駅に向かったのですが、いや、驚いたことに地下1階コンコースの券売機は長蛇の列です。とにかく人、人、人…、ひさしぶりの大規模新線開業をマスコミが大々的に取り上げたことに加え、開業後最初の土日、しかも夏休み最後の休日とあって家族連れの姿が目立ちます。

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本誌今月号でもご紹介しているように、つくばエクスプレスは東京・秋葉原?つくば間58.3km、20駅を結ぶ高速新線で、最高速度130km/h運転による速達性が売り物です。最短45分はJR常磐線や高速バスを凌ぎ、従来比較的“平穏”だった東京東部近郊域でも、今後は熾烈なシェア争いが繰り広げられるに違いありません。

時間の関係で一部区間しか乗車することはできませんでしたが、TX-2000系(交直流車)にはクロスシート車も用意されており、開業フィーバーが一段落した頃にでも、また訪ねてみようと思います。
▲24日の開業後最初の土日とあって、一時は入場制限を行うほどの混雑となった「つくばエクスプレス」の秋葉原駅。トップ写真は北千住駅に到着する上り快速のTX-2002F。

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種車の木造車を鋼体化改造したオハフ61の乗り心地はお世辞にも良いものではありませんでした。しかも日中線は線路等級が最も低い「簡易線」ですから、TR11台車のリジッドな振動は、モケットさえ貼っていない板製の背ずりにもろに伝わってくるのでした。

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日中線は全線一閉塞の盲腸線ですから、当然、閉塞方式は「通票式」(通票閉塞式=タブレット閉塞式ではなく、現在のスタフ閉塞式)です。しかも、会津鉱業与内畑鉱業所のホッパービンがあった途中駅の会津加納以外はすべて無人駅で、終点の熱塩も駅員無配置でした。つまり終点・熱塩での機回しは車掌の誘導によって行うしかないわけですが、ここで「通票」が思わぬ使い方をされていました。何と、通票のいわゆる“タマ”がポイント転轍器の鍵となっていたのです。

熱塩に到着すると、車掌は機関士からタブレットキャリアを受け取り、中から通票を取り出して、転轍器の一部にこれを挿入します。するとロックが解除され、ポイントの反位への変換が可能になるというわけです。機回し後、反位から正位に戻さなければ通票は抜けず、逆に通票を抜くことによって再び分岐器がロックされるという仕組みです。単純ながら実に良く考えられたシステムでした。

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さて、混624列車で17時32分に喜多方に戻ったものの、どうせならと、一時間後の18時32分発混625レ→混626レでもう一往復し、再び喜多方に戻ったのは19時43分でした。ここで夕食でも…と思うのがあたりまえなのでしょうが、何も食べた記録はなく、結局この後22時56分に郡山駅に着いてからホームのそば屋で「玉子そば」160円也を食したのが唯一の“夕食”でした。

喜多方からは、新潟?郡山間の“通し”の客車列車234列車で会津若松へと向かいました。スハ32 2242(仙コリ)に席をとり、喜多方20時47分発、会津若松21時00分着と13分ほどの乗車です。さらに旅はこののち郡山へ、駅で一夜を明かして磐越東線の一番列車で平へ、さらに常磐線の客車列車を乗り継いで上野へとラウンドトリップしてゆくのですが、今回はひとまずここ会津若松まで。機会があればいつの日かまたその後の顛末もご紹介してみたいと思います。

8回に渡った“連載”の締めくくりとして、この時に録音した磐越西線234列車の車内音をお聞かせしましょう。

※ ご注意
下記は音声ファイルです。クリックすると自動的に音声再生ソフトが立ち上がります。クリックする前に周囲の状況(オフィス?)をご確認ください。

234列車車内放送
234レの会津若松到着は21時ちょうど。堂島付近で到着案内の車内放送が始まる。それにしてもかなりのスピードだ。25m定尺レールの遊間音がほぼ1秒きざみなのからすると、90km/h近く出ているだろうか。スハ32 2242(仙コリ)車内よりの録音。
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会津若松駅3番線に到着。独特の抑揚のアナウンスが急行「ばんだい6号」や会津田島行き「いなわしろ2号」への乗り換え案内を告げる。(1976年7月28日録音)

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「日中走らぬ日中線」と揶揄されたように、日中線のダイヤは朝の1往復と夕方の2往復がすべてでした。朝の1往復は客車の回送を兼ねた会津若松からの直通熱塩行き混621列車で、これは上野からの夜行急行「ばんだい11号」に5分の時間差で接続しています。この混621レが熱塩で折り返して喜多方に着くのが7時02分、次の下り混623レの発車が16時04分ですから、実に9時間も開くことになります。

この間、機関車はというと、じっと喜多方で待機しているわけではなく、7時53分喜多方発会津若松行きの244レを牽いて一旦運転区へと引き上げます。そして14時48分会津若松発の単623レで再び喜多方へ舞い戻ってくるという寸法です。
▲暮れなずむ熱塩構内で折り返しを待つ。一日に3回やってくる「列車」は子どもたちにとっても特別の存在だ。

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蒸機時代、乗務員の方から日中線の運転は怖いという話を聞いたことがあります。たいした勾配もなく、はた目にはのんびりしたものに見えますが、実は意外と踏切障害が多いのだそうです。「みんな日中線は列車が来ないものと思ってるから…」一旦停止もなしで踏切を渡ろうとするクルマが後を絶たないのだそうです。なにせ、ほとんどの踏切が遮断機も警報機もない第4種踏切なので、この日もDE10はひっきりなしに汽笛を吹きながら熱塩へと向かいます。

すでにこの1976(昭和51)年の時点でも「混合列車」は全国的に珍しい存在でした。日中線の3往復はすべて種別上は「混合」で、この日の623列車も途中の会津加納から屋根車(ワム)2輌を加えた編成となりました。どうせ折り返してくるのだから帰りに拾えばよいものをと思いますが、加納の線路配置の関係もあって下り列車でピックアップするようでした。

喜多方を出る時に、下り方の側線に珍しい家畜車カ3232が留置されているのを見かけました。どうせなら無味乾燥なパワムではなくカ3000を連結すればよかったのに、などと勝手な思いを抱いたのを昨日のことのように覚えています。ちなみに、私が家畜車を見たのはこの時が最後となりました。

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JR九州初代社長の石井幸孝さんが、このたび『キハ82物語』(JTBパブリッシング)を上梓され、元国鉄副総裁の馬渡一眞さんや副技師長の星 晃さん、JR東日本会長の松田昌士さんらが発起人となって「祝う会」が行われました。ちょうど台風11号が接近中であいにくの天気でしたが、会場の帝国ホテル「光の間」には、元財務大臣の塩川正十郎さんはじめ、政財界から趣味界まで、石井さんの人脈と人徳を物語る多くの来賓がつめかけました。

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石井さんの今回の著書『キハ82物語』は、前作の『キハ58物語』『DD51物語』に続くディーゼル車3部作の“トリ”とも言える大作です。しかも趣味の側の人間が聞き書きしたものと異なり、国鉄臨時車輌設計事務所でもっぱらディーゼル車輌の開発に携わった、いわば当事者の石井さんにしか書けないエッセンスが随所にちりばめられているのが特長です。
▲キハ81・82をはじめとした歴史に残る国鉄ディーゼル車輌の生みの親のおひとりでもある石井幸孝さん(左)と、かたや「こだま」や581(583)系など名電車生みの親のおひとり星 晃さん(右)のツーショット。ご協力ありがとうございました。

ところで、版元のJTBパブリッシングさんと弊社ネコ・パブリッシングの間には妙なご縁があります。弊社社長・笹本が新卒で入社したのがほかならぬ日本交通公社(現・ジェイティービー)出版事業局で、当時のお仲間は現在では要職に就いて活躍されているそうです。さらに、今回の石井さんの『キハ82物語』の編集業務を担当したのが、創刊時からRMの副編集長を務めてくれた長谷川 章さんです。

そんなご縁もあって、この夏休みはJTBパブリッシングさんと弊社、それに小学館、世界文化社、技術評論社、草思社の各社さんを加えた6社で初の合同鉄道図書フェアを展開しています。全国の書店160店あまりで開催中ですので、ぜひ足を運んでみてください。

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430Dの会津若松到着は14時30分、会津檜原で一度下車しただけなのに、小出から実に9時間も掛かってしまったことになります。会津若松からは日中線へ向かうべく磐越西線に乗り換えますが、接続は最悪で、4分前の14時26分に新津行き231Dが発車してしまったばかり…次の磐西下りは15時42分始発の233列車まで一時間あまり待たなければなりません。

蒸機時代に幾度となくお世話になった駅正面の喫茶店「サニー」で遅い昼食でもと思って向かったものの、店名も「サルビア」に変わって様変わり、結局、一番館ビル内の「幸楽苑」で味噌ラーメン(250円)と餃子(100円)を食べることにしました。それにしても、上野からここまで、上野駅で買ったペプシ(70円)と、先述の会津川口のパンとコーラだけで過ごしてきたのですから我ながら呆れます。

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さて、会津若松始発新津行きの233レは、当然ながらDD51の牽引する旧型客車です。この当時、磐越西線会津若松?新津間の普通列車は2往復ほどの気動車列車を除いてすべて旧型客車による客車列車で、なおかつ郡山?新潟を6時間近くかけて走り抜く“通し”の各停も2往復設定されていました。

233レの喜多方到着は16時ちょうど。会津若松からわずか18分ほどの乗車ですが、とりあえずガラガラのオハフ33 2070(仙コリ)にボックスを確保することにします。

会津若松を出た列車は架線下をかなりのスピードでとばしてゆきます。若松?喜多方間には5つの中間駅がありますが、真ん中の塩川以外の4駅、つまり堂島、笈川、姥堂、会津豊川は通過となります。この4駅は実に奇妙な駅で、停車する列車は下り2本、上り3本のみと信じられない少なさです。会津線には本州には珍しく「舟子臨時乗降場」がありましたが、この4駅は「乗降場」ではなく歴とした駅で、かえすがえすも不思議な存在です。

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喜多方では日中線623列車に4分接続です。昭和電工の専用線に気をとられながらも、跨線橋を慌てて渡り0番線の日中線ホームへ。待っていたのはDE10 47〔郡〕の牽くオハ61+オハフ61の2輌編成でした。牽引機こそC11からDE10に変わってしまったものの、この客車2輌は無煙化前から変わらぬ顔触れで、旧知の仲といった親しみを感じずにはいられません。

初めて日中線を訪れたのは1971(昭和46)年春のことでした。C11の牽く混合列車が3往復のみという究極のローカル線をこの目で確かめたく、撮影効率の良い会津線や磐越西線を投げ打っての訪問でした。それ以来、なぜかこの線が気に入ってしまい、四季を通して何回訪れたことでしょうか。とにかく、今回のラウンドトリップの目的のひとつが、この日中線の再訪であったことだけは確かです。

息を切らせて列車にたどり着いたものの、案の定乗客は皆無に等しく、乗務員室ドアを開け放ったままのDE10の機関士が「乗りますか?」とわざわざ声を掛けてくました。私がオハフ61 2751(仙ワカ)に乗り込むや「ピー」と出発汽笛が響き、623レは本線とは明らかに違う、何かだるそうな足取りでホームを後にしするのでした。

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会津檜原を後にした430Dは途中、会津柳津で下り429Dと交換します。もちろん当時の只見線は通票閉塞式ですから、閉塞区間ごとにタブレットキャリアの受け渡しシーンが見られました。429Dの先頭に立つのはまたしてもキハ23です。当時の郡山には寒地用500番代のキハ23が9輌配置されていましたが、どうやらキハ55やキハ58などは磐越東線系統に投入され、会津・只見線系統にはこのキハ23やキハ51が充当されていたようです。
▲“バス窓”が懐かしいキハ51から対向の429Dを見る。さりげなくのぞくキハユニ26の〒マークも時代を物語る。

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柳津から七折坂に向かってひたすら北進した線路は、塔寺を過ぎると一転180度踵を返して真南へと方向を変えます。そして車窓にこれまでとうってかわって田園風景が広がると、会津坂下の町です。地図で見ると、会津坂下は会津若松よりむしろ喜多方に近く、実際にクルマで走ると目と鼻の先であることがわかります。
▼「ごうど」というとC12重連が苦闘した足尾線の「神土」が思い浮かぶが、柳津からこの郷戸にかけても25‰の急坂が続く。上は430Dと交換、13時31分、柳津を後にその急坂を郷戸へと去ってゆく429D。

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ところで、只見線というと今もって決して脳裏から離れない“エピソード”があります。まだ蒸機牽引の旅客列車が残っていた時代のことです。ある橋梁を見下ろす斜面で紅葉の直中をゆくC11の客レを狙うことにしたのですが、見ると、ちょうどお誂えむきの土盛りがあるではないですか。周りは下草だらけで、これはちょうど良い“お立ち台”だとばかり、この上に三脚を立てることにしました。ところがなぜか真ん中には邪魔な笹の枝がささっています。近所の子供の悪戯だろうと、何の躊躇もなくこの笹を引き抜いて三脚を立ててシャッターをリリース…東京生まれの東京育ちの少年が、それが“土饅頭”だったと知るのは帰京してからだいぶたってからのことです。ちなみにその時の写真はまだ引き伸ばしてはいません。

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現在では、会津檜原?会津西方間42.5キロポスト地点の第1只見川橋梁は、クルマでもアプローチできる撮影ポイントとして賑わっているようですが、この当時は林道から斜面を這い降りるような状況でした。蒸機時代にさんざん通ってわかっているだけに、DE10ごとき(失礼!)にそれほどの労力を裂くまでもあるまいと、1491レは滝谷側、原谷隧道出口の持奇橋梁で待ち受けることにしました。

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この当時、只見線にはまだ蒸機末期と同じ本数の貨物列車が残されていました。すなわち、会津若松?只見間、会津若松?会津坂下間それぞれ1往復の定期貨物と、会津若松?会津川口間の季節貨物1往復です。いずれも郡山機関区所属のDE10が受け持っており、慣れ親しんだ「会」の区名札ではなく「郡」の札が入っているのにも違和感を覚えずにはいられませんでした。

檜原への軽い上り勾配をエキゾーストをなびかせてやってきたのは、その「郡」の区名札を掲げたDE10 41です。この当時の郡山機関区には7輌のDE10が配置されており、日中線での混合列車仕業を受け持っていることもあって、全機がSGを搭載した初期車でした。

何もないこの会津檜原で4時間以上、自販機さえないはずなのに、いったい昼食はどうしていたのだろうと手帳をめくってみると、会津川口でパン100円也とコーラ70円を買っただけで、会津若松到着まで飲まず食わずだったことが知れます。まぁ、毎度のパターンではありますが、今さら思えば、よくぞこんなストイックな旅をしていたものだと、我ながらあきれ果てます。

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13時11分、川口始発の430Dは、3輌のキハ51の間にキハ23を挟み込んだ4輌編成でやってきました。キハ51 14(仙コリ)に席を取り、周囲の窓を全開にしてしばしの微睡み…、塔寺の25‰を一気に駆け下りれば、いよいよ列車は夏の匂いの広がる会津盆地へと入ってゆきます。

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8時15分、会津川口を出た426Dは、只見川沿いを会津中川へと向かいます。六十里越のサミットを越えてから下る一方だった線路は、この中川に向けて一旦軽い上り勾配に転じ、中川を過ぎると次の会津水沼に向かって今度は一気に下り込んでゆきます。水沼の手前で第4只見川橋梁を渡ると只見川は車窓の右に移り、線路は25‰の急坂にかかります。蒸機時代、この水沼?早戸間は好きな撮影地のひとつで、滔々と流れる只見川にへばりつくように走るC11を何度となく狙ったものです。

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比較的規模の大きな会津宮下を過ぎ、最初の下車駅に選んだのは会津檜原でした。宮下を8時42分に出た426Dは、会津西方を挟んで第2、第1只見川橋梁を渡って檜原(ひばら)隧道を潜り、山間の無人駅・会津檜原に到着します。8時51分着。明けやらぬ小出を発ってから3時間あまりが過ぎていました。

会津檜原に下車してみようと思ったのにはわけがありました。実はこの駅、私が只見線、いや当時は会津線只見方でしたが、最初に降り立った駅なのです。会津若松から来ると、線路が最初に只見川を渡るのがこの檜原の第1只見川橋梁で、しかも実に絵になるアーチ橋です。当時はまだ旅客列車もC11の牽引でしたから、まずはここで会津線のファーストショットを狙おうと考えたわけです。
▲会津檜原駅の駅前には自動販売機さえなかった。木立の中の小道をしばらく進んでゆくと居平の集落が見えてくる。

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結局その後幾度となくこの会津檜原駅に降り立つこととなります。例の第1只見川橋梁が気に入ったというだけではなく、しいて言うと、だんだんこの会津檜原という駅そのものが好きになってきたというのが本当でしょうか。会津線(只見線)は、会津盆地の醸し出す独特の風情と、坂下から先の山間部の趣きに大きく二分されます。前者でのお気に入りが根岸、新鶴あたりだとすると、後者は間違いなくここ檜原と会津宮下でした。

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蝉時雨の中、ぽつんと置かれた無人の待合室は、それでも昨今の荒れ果てた無人駅とは違って、きれいに掃き清められ、地域の人たちが大事に護っている様子がひしひしと感じ取れる空間でした。

次の上り列車は13時11分の会津川口始発430Dまで4時間以上ありません。その間に下りの貨物1491レが通過するはずですから、行きがけの駄賃と言ってはDE10に失礼ですが、駅周辺を散策しながらこの貨物を待つことにしました。

いったん列車が去ってしまうと、自動車の音はおろか、いっさいの人工音が聞こえないこんな空間でしばしの時を過ごす…クルマでの撮影行では決して体験できない貴重なひとときです。
▲いったいどれほどの歳月この駅を乗り降りする人々を見守ってきたのだろうか…会津檜原駅の磨き込まれた待合室の木製ベンチ。

大にぎわいの“JAM”。

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2日目を迎えたJAM、「第6回国際鉄道模型コンベンション」は、昨日テレビニュースや新聞で報道されたこともあってか、これまでにないほどの入場者で大にぎわいでした。例年にも増して家族連れの姿が目立ったのも、マスコミのアナウンス効果のたまものでしょうか。いずれにせよ、「さながら退役軍人の会」と例えられるアメリカのナローゲージ・コンベンションなどと比べると、入場者の年齢構成ははるかに“健全”で、その方向性はともかく、この国の鉄道模型の将来は磐石といえましょう。
▲さながらマジシャンのごとく毎年楽しいギミックを見せてくれるNGJの諸星昭弘さんの“出し物”は9㎜ナローの「ゼンマイトロッコ」。手のひらサイズのエンドレスを走る機関車の横ではゼンマイの竜頭がびゅんびゅん回っている。

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さて、今回のコンベンション、私たちネコ・パブリッシングは初めての試みとして、グリーンマックスさんとのコラボレーション・ブースを構え、RMモデルズ独立創刊10周年記念とグリーンマックス40周年をアピールしました。ちょうど発売日と重なったRMモデルズ最新号(営団400・500形Nゲージ車体キット付)はおかげさまで大好評で、販売ブースでは営業部員がてんてこまい…昼過ぎには売り切れてしまう有り様でした。

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この「第6回国際鉄道模型コンベンション」、明日も10時から17時まで東京ビッグサイト西4ホールと屋上展示場で開催されています。ビッグサイトに会場を移してから5回目となりますが、当初の会場が広すぎないかとの懸念もどこへやら、むしろこのビッグサイトをして“狭すぎる”盛況ぶりです。来年の第7回コンベンションは初めて会場を大阪に移して開催されます。今まで参加しにくかった西日本のクラブやモデラーの皆さんにとっては絶好の機会で、どんなコンベンションになるのか今から楽しみです。

▲ついに“模型”ではなく実物の機関車も登場。屋上展示場では、数多くのライブスチーム・クラブとともに、千葉県の成田ゆめ牧場で動態保存に取り組む「羅須地人鉄道協会」が初参加。縦型ボイラーを持つ2ftの“マッフポッター”号を持ち込んで、ついに“実物”の汽笛がビッグサイトに響き渡った。運転しているのは、「感動の所在地」や連載「SL甲組の肖像」に数々のドラマチックな写真を提供してくれている福井康文さん。

“JAM”の仲間たち。

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今日から東京・有明の東京国際展示場(東京ビッグサイト)で国際鉄道模型コンベンション、通称“JAMコンベンション”が始まりました。はやいもので今年で6回目を迎えるこのコンベンション、年々規模が拡大してきており、今年は何と初日の今日だけで1万3千人近くの入場者を数えるまでに成長しました。しかもご覧のように、朝日新聞の夕刊には写真入りでこのコンベンション開幕が報じられるなど、いわゆる世間一般での認知度も飛躍的に高まってきています。

本来なら一も二もなく駆け付けたいところですが、ちょうど月末発行の増刊・ムック類の校了と重なってしまい、初日の今日は会場に伺うことはかないませんでした。それでも、閉場後なんとか駆け付けたのが、初代会長・水沼さんが音頭をとった懇親会です。

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事務局長で関水金属の社長でもある加藤さんや、マイクロエース(有井)さん、モデルズ井門の井門さんらメーカー勢と、ANA、JMLC、それに日本Gゲージクラブの面々など、まさに多様な顔ぶれでの懇親会は、JAM本来の理念をもう一度思い起こさせる貴重な時間でもありました。

2000年春、メーカーとユーザー、それに媒体が垣根を取り払って集えるコンベンションを…と、当時としては荒唐無稽な理想を掲げて水沼さんが奔走してくれたおかげで、今の盛況があると言っても決して過言ではありません。何を隠そう、当時は私でさえ懐疑的で、理想はわかるが現実的では…などと臆していたのが真相です。そんな状況にも関わらず、当時はこの業界ではまったく無名だった水沼さんは、周囲の冷ややかな視線をものともせず、まさに「突破者」として第1回コンベンションを成功へと導いてゆきました。

その後、有名病院の医局長という要職もあって、オブザーバー的立場でJAMに接してこられていますが、今日の懇親会のような場では、その熱き思いがいささかも衰えておらないことがうかがわれ、こちらも何かそこはかとないパワーをもらった気がします。

結局最後は、水沼さん、それに井門さんと3人(なんと同年です)で気勢を上げ、帰りついたのは午前2時をとっくに回っていました。

さぁ、明日はいよいよコンベンション会場です !

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今日はRMとRMMの月刊2誌のほかに、この夏の大きな成果である『JR全車輌ハンドブック2005』が出来あがってきました。すでにお知らせしたように、今度の「ハンドブック」最大の特長は、検索エンジン付きデータベースDVDを付録したことです。とにかく684頁、掲載形式・番代2100種以上に及ぶ大冊です。そのデータ量たるや尋常ではなく、データベース化、さらには検索エンジンの構築・検証と気の遠くなるような作業の連続で、中心になった新井副編集長は、ここ半年この新しいプロジェクトに忙殺される日々を送っていました。

とにかくこのDVDの便利さと面白さは言葉で説明してもなかなか伝わりません。形式・番代別はもちろんのことながら、車号別、配置区所別、所属会社別、さらにはキーワード入力による検索表示など“紙媒体”では到底不可能な機能をふんだんに盛り込んでいます。

それにしても、これだけのデータが厚さわずか1ミリちょっとの“お皿”に入ってしまうわけですから、作る側としては時代の変化をひしひしと感じずにはいられません。定価は6980円(税込)と従来よりもお高くなってしまいましたが、それ以上の価値は必ずあるはずです。ぜひお求めいただき、新時代の「ハンドブック」を“体験”いただければと思います。

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そして今日はもうひとつ、『RM MODELS』の付録も絶対に見逃せません。RMM独立創刊10周年を記念して、一昨年の100号記念の際にご好評をいただいたような付録Nゲージキットをもう一度…という声は部内でも強く、昨年末からすでに方向性を模索し始めていました。そんな折り、ちょうどグリーンマックスさんが30周年をお迎えになるとのことで、とんとん拍子にコラボレーションが実現したというわけです。

ところが、車種選定が難航しました。一時は今度は機関車を…という声もありましたが、毎月の誌面でお伝えしたような紆余曲折を経て、最終的には営団地下鉄丸ノ内線の400・500(300)形に決まりました。

今月号にはこのボディキットが1輌分付録しており、誌面の組立マニュアルに従って組み立てると、あの真っ赤な車体にステンレスの飾り帯を配した懐かしい丸ノ内線が蘇ります。誌面ではRMM編集部の奇才“地面師”根本君渾身のジオラマが、このキットのポテンシャルの高さを側面から立証してくれています。

Nゲージャーはもちろんのことながら、スケールを問わず多くのモデラーの皆さんに自信をもってお薦めしたい付録です。定価は付録込みで1500円(税込)、明日から東京ビッグサイトで開催される「第6回国際鉄道模型コンベンション」(JAMコンベンション)では、このキットの各種完成作例、それに誌面を飾ったジオラマも展示いたします。是非ご来場いただき、実際にご覧いただければと思います。

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大白川で421Dと交換した426Dは、いよいよ5年ほど前に開通したばかりの新線区間、通称“六十里越え”にかかります。第1から第16まで連続する末沢川橋梁を渡り、延長6359mの六十里越隧道を抜け、右手には田子倉ダムが…と書きたいところですが、さすがに急行「佐渡」での不眠が祟ったのか、このあたりの記憶がすっかり抜け落ちてしまっています。

ジリジリーン、キンコン、キンコン…という例のATS警報音に我にかえると、すでに列車は只見川の人造湖沿いを会津川口構内へと進んでいるところでした。ノッチオフ時の10系気動車・DT19台車特有のリジッドな縦揺れとともに、キハ51 15は蒸機時代に見慣れた会津川口に到着しました。7時51分定刻着、発車が8時15分ですから24分停車、線路を渡って本屋まで足を伸ばし、しばしの休息です。それにしてもC11を追ってこの駅をたびたび訪れたのが昨日のことのようです。
▲426Dはここ会津川口で会津若松からの始発423Dと交換。先頭のキハユニ26からは何と“ひよこ”の箱が次々と降ろされる。駅留で養鶏業者が引き取りにくるのだろうか?

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それにつけても、荷物輸送はもとより、まだまだこの当時は小口の貨物輸送もその命脈を保っており、只見線といえども各所で貨車の姿を見ることができました。全国のヤードが一気に統廃合されて、扱い量の少ない貨物取り扱い駅が全滅するのはこれから8年後の1984(昭和59)年のことです。

そんなわけで、426Dの車窓からも数々の貨物設備を目にすることができました。その一例がこの会津横田駅構内の巨大な木造ホッパーで、当時としては各地に類例が見られただけに、眠い目を擦りながらパチ撮りして終わってしいまたが、もし今でも現存しているとしたら、モデラーの端くれとしては、早速メジャー片手に一泊二日の計測旅行に出掛けるところです。

E系(自重8t)貨車移動機がホキ800を従えて待機するこの専用側線、「専用線一覧」によると横田鉱山㈱の専用線のようです。この原稿を書くにあたって、改めて手許にあった1968(昭和43)年度版『本邦鉱業の趨勢』(通商産業大臣官房調査統計部編)で調べてみると、横田鉱山㈱は東京都中央区日本橋に本社を構え、福島県大沼郡金山町の横田鉱山で銅、鉛、亜鉛鉱を産出しているとあります。様子からするとホキは砕石輸送用のようですが、今となってはかえすがえすもこの一枚で“流して”しまったことが悔やまれてなりません。

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会津川口駅には駐泊設備があり、蒸機時代はこの奥の給炭台で一息入れるC11の姿をよく目にしたものです。しかし、末期には会津若松?只見間のC11牽引の貨物は1往復のみとなってしまい、ここ川口の駐泊所も閑散としていた記憶があります。いずれにせよ、当然蒸機の姿はなく、そっくりそのまま設備の残された駐泊所には、いわゆる“排モ”君が居座っていました。

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停車時間の間に、さらに貨物ホームで待機する会津川口駅常備の国鉄貨車移動機をキャッチ。自重5tのC系移動機で、おそらくC7形かC8形でしょう。後ろに続くのはまだまだ勢力を誇っていたワム90000。

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国鉄線上から完全に蒸機の煙が消えて数ヶ月、1976(昭和51)年の夏に「福島・会津磐梯ミニ周遊券」を使ったささやかなラウンドトリップを計画しました。今となっては主目的が何だったのかは思い出せませんが、蒸機時代のお気に入りで幾度となく訪れた会津、しかも日中線にもう一度行ってみたいというのがひとつのきっかけだったかもしれません。
▲キハ51 15の先頭部は荷物室代用としてシートで仕切られていた。合造車を運用するほどの荷扱い量もない区間では、各地でこのような代用荷物室が見られた。

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旅は上野を23時20分に出る707M・新潟行き急行「佐渡7号」で始まりました。東京からの「福島・会津磐梯ミニ周遊券」は周遊区間への往復経路が3種類あり、一般的な東北本線経由の他に、高崎・上越・只見線経由と常磐線・磐越東線経由が選択できました。今回はその経路を最大限に活用してラウンドトリップを試みようというわけです。

12輌編成の急行「佐渡」は2輌のロザ、3輌のハザを組み込みながらも大半の7輌が自由席という周遊券利用者にとってはありがたい夜行でした。夏休みとあってかなりの込みようでしたが、何とか席を確保することができました。クモハ165?23の14番A席、これが仮眠としかいえないひと夜の宿です。

なにしろ707Mの小出着は3時38分。とても寝入ってなどおられません。列車はあっという間に上越国境を越えて真っ暗な小出駅へ到着。名にしおう豪雪地帯とはいえ、真夏の構内は夏草に被われています。なにはともあれ、まずは待合室で只見線の始発5:36発426Dを待つことにします。

426Dはキハ51 15(仙コリ)を先頭にキハ23を2輌つなげた3輌編成で、あのDMH17独特のゴロン、ゴロンというアイドリング音が明けやらぬホームに響き渡っていました。当然、先頭のキハ51に席を構えることにします。
▲払暁の小出駅で発車を待つ426D。右下に見えるのは編成後部キハ23の屋根。

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つい数年前まで大白川?只見間は未開通で、小出?大白川間を只見線、西若松?只見間を会津線只見方と称していましたが、全通とともに只見線の名称に統一されました。大白川から先は、私にとって初めて乗車する区間です。

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6時31分大白川着。つい5年ほど前までは全列車がC11の混合で、しかも牽かれる客車の中には珍しく「ブドウ色1号」(2号ではない)のものが残っていたと聞きますが、いまやすべてが夢、幻…、夏草の中に残された転車台だけが蒸機時代を忍ぶよすがでした。

「露払い」の二つ目。

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夏の函館本線山線で思い出すのは、なぜか202キロポスト、「ワイス踏切」と通称していた上平踏切です。とりたてて何があったというわけではないのですが、北海道ならではの巨大なアブと格闘しながら、じっと「ニセコ」を待った記憶はいつまでも鮮明に脳裏に刻まれています。

そして続いて思い出すのが、104レ「ニセコ」の前にやってきた二つ目キューロクのことです。当時、倶知安区の二つ目の9600は、本業の胆振線仕業のほかに、2往復の岩内線貨物の仕業があり、そのうちの最初のひとヤマは、早朝4:12に倶知安を出て5:34に岩内着、岩内港の漁獲を積み込んで9:15に岩内を出、倶知安に10:44に戻るA13仕業でした。この戻りの貨物、972レがちょうど上り「ニセコ」の露払いを務める形となり、私のみならず倶知安峠で「ニセコ」を待ち受ける面々にとっては、構図確認の“練習台”として便利な存在でした。

記憶とはあやふやなもので、この972レは104レの“直前”に通過していたような気がしていたのですが、改めて確かめてみると、104レの倶知安着は12:01ですから、実に一時間以上も前だったことになります。

1971(昭和46)年夏、いよいよ「ニセコ」の無煙化も秒読みとなり、7月と8月に一回ずつ104レ上り「ニセコ」が三重連で運転されることになりました。もちろん、「ワイス踏切」は朝から大賑わいです。しかも驚いたことに、先行の急行「らいでん1号」はこの踏切で臨時停車、三脚に銀箱の出で立ちの同業者がドカドカと道床に飛び降りてくるではないですか。何とも国鉄も粋なはからいをしてくれたものです。

そんないわばハレの日も、972レはいつもと変わることなく黙々とやってきました。居並ぶ仲間たちからは例によって気の無いシャッター音が…、煙の流れる方向を確認する者、三脚の雲台の角度を調節する者、ただ露出だけ計る失敬な輩さえいます。「露払い」…千両役者の登場を前に、二つ目のキューロクはちょっと寂しそうにサミットへと消えてゆくのでした。

▲「ワイス踏切」を越えて倶知安峠を登る“前座”の79615〔倶〕。右側に写り込んだ保線小屋の軒先は、冬場の猛吹雪の時には身を隠す役目を果たしてくれた。'71.8.21

戦後60年。消えゆく遺構。

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かれこれ13年前になります。「トワイライトゾ?ン」で取り上げたのがきっかけで、保谷市と田無市(現・西東京市)が旧中島飛行機専用鉄道の現地調査を行うことになり、私もオブザーバーとして参加することになりました。

あの「零式艦上戦闘機」をはじめとして、わが国の軍需産業の中枢でもあった中島飛行機は、現在の武蔵野市緑町付近に巨大なエンジン工場「武蔵製作所」を擁していましたが、本土空襲時にその機能を分散させる必要から、鋳鍛工場を田無市谷戸町付近に建設、こちらを中島航空金属と命名しました。武蔵製作所には中央線武蔵境から、航空金属には西武池袋線東久留米からそれぞれ専用線を引き込んでいましたが、実はこの両者をつなぐ専用鉄道が存在したのを初めて詳らかにしたのが「トワイライトゾ?ン」でした。

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地元の保谷市と田無市、とりわけ保谷市はこの専用鉄道の発掘に積極的で、地区公民館での聞き取り等、行政にしかできない調査を繰り広げてくれました。これによって路線ルートの確定や、当時の運転状況などが浮かび上がってきたのですが、残念ながら写真やレールなどの遺物は発見されませんでした。

そんな中間報告をいただいた時、ある可能性が思い浮かびました。実は中島航空金属跡地付近の一角に、高さ3?4mはあろうかという塀に囲まれた広大な空間があり、聞けば廃材置き場らしいのですが、付近の住民さえ中を見たことがないそうです。もしかするとこの中に“何か”があるのではないか…、個人ではとても中を見せてもらうことはかないそうもない雰囲気ですが、行政が、しかも廃棄物処理うんぬんではなく、郷土史研究の一貫として立ち入りを要請すれば入れるのではないか、そう考えたわけです。
▲数ある廃車体の中でもまだ原形を留めていた方のボンネットバス。詳細は判らないが、窓の構造などからみると戦後製のもののようだ。

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果たして、塀の中には信じられないような光景が広がっていました。朽ち果てて土に還ろうとしているおびただしい数のボンネットバスやトラック、そして得体の知れない重機らしきものの数々。夏草に被われたそれらは、恐らく何十年もの間、誰の目にもふれることなく歳月を刻んできたに違いありません。まさにそこは「戦後」そのものにほかなりませんでした。

この隔絶された空間でおそらく中島のものと思われる軽レールも発見されました。まるで追い立てられるように調査を終えて私たちが外に出ると、見上げるほどの鋼鉄製の扉は、再び大きな音とともに閉められてしましました。

その後、二度と再びあの塀の中を見ることはできませんでしたが、いつの間にかこの空間も夢、幻のごとくきれいに整地されてしまい、現在では洒落た分譲マンションとなってしまっています。
▲発見された軽レールは保谷市(当時)の職員によって回収され、保存されることになった。(いずれも'92.9.1撮影)

香港トラムを借り切る。

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鉄道に興味のあるなしに関わらず、多くの方が香港というと思い浮かべるのが二階建のトラムではないでしょうか。ところがこのトラム、その知名度のわりには、意外とその実体は知られていません。

5年ほど前になりますが、学生時代の仲間と2泊3日の香港旅行をすることになりました。といっても別に鉄道とは関係なく、奥方同伴やら、いまだ独身の女性やらのメンバーですから、まぁどこにでもある観光旅行といったところでしょうか。ただ、普通の観光旅行と違うのは、パック旅行ではなくフリープランである点。せっかくだから何か他にはないものを…ということで、私の提案で香港島のトラムを借り切って特別運行をしてもらうことにしました。

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なぜかどのガイドブックにも記載されていないのですが、この香港島のトラム、実は極めて簡単にチャーターすることができるのです。しかもその料金たるや恐ろしくリーズナブルで、改めて今日現在の料金をホームページで再確認したところ、1800HK$、つまり現在の為替レートに換算すると25,000円ほどです。これで最大定員29人のトラムを約2時間チャーター運転できるのですから安いものです。極端な話、25人のグループであればお一人様わずか1000円程度で済むことになります。
▲HONGKONG TRAMWAYS LIMITED社の石塘咀車庫で顔を揃えた28号(右)と128号(左)。28号の屋根高さは実に4580㎜もある。

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このチャーター運転に使用される車輌ですが、28号と128号の2輌の“アンティークトラム”と呼ばれる電車で、28号の方は2階部分の前後、128号の方は前方がオープンデッキになっており、ここから展望を楽しめるというわけです。また、車内もその名のとおりアンティーク調の磨き込まれたインテリアとなっています。
▲128号の2階より車庫全景を見渡す。ここのほかにも東端の西湾河にもうひとつ車庫がある。

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28号は1906(明治39)年製で1952年に大掛かりな更新改造を施されています。また、128号は1954(昭和29)年“Taikoo Dockyard
& Engineering Co,”の製造とされていますが、両車ともに現在の“アンティークトラム”に改造されたのは比較的近年のようです。ちなみに、通常運行用の現役最古参は120号で、この車はニス塗りの窓枠、籐製のイス、白熱電球…となかなかの趣きです。

さてこのチャーター運行ですが、展望のみならず、もうひとつの楽しみは持ち込みはもとよりケータリングなども可能なこと。1階にはミニバー風のラウンジもあり、走る宴会も楽しめるというわけです。
▲車庫内で洗車風景をキャッチ。なにしろこれだけ背が高いと手洗いもかなりたいへんそうだ。

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運行区間はオーダー次第のようで、通常はどこかの“電停”から乗り込むらしいのですが、そこは発案者の鶴の一声、石塘咀(Shek Tong Tsui)の車庫から乗り込ませてもらうことにしました。何しろ通常この車庫は入れませんから、チャーターを出汁に車庫内を見学してしまおうという腹です。さらに行く先は北角(ペイカク=North Point)を指定、香港トラムきっての“混沌”北角市場の中を分け入ってゆく通称“北角ループ”に突っ込んでもらうことにしました。
▲磨き込まれた、というよりも過剰にテカっている128号のコントローラー。デッカーの文字が眩しい。

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とにかくこのトラムのチャーター企画は大成功、鉄道に興味のない皆さんからも絶賛をいただき、面目躍如といったところでした。何度目かの香港でしたが、実は香港にはまだまだ面白いポイント、もちろん鉄道がらみのポイントがいくつもあります。九広鉄道はもとより、観光客はまず行かない、ニュー・テリトリーと呼ばれる九龍半島西部を走る「輕鐵」(Light Rail)、これまた閑古鳥が鳴いている鉄道博物館(ここにはバグナルのフォーニーが保存されている)等々…その辺のお話はまた別の機会にアップしたいと思います。
▲バザールが両脇を埋めつくした北角ループを2階の展望台(?)から見下ろす。夜のチャーターであれば、眼前にはまた別の幻想的な世界が広がるはずだ。(いずれも'00.6.4撮影)

タイトル画像の正体は…?

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昨日からこのブログのタイトル画像が変わりました。昨日ご覧いただいた方は、現在の画像とちょっと違うとお気づきかも知れませんが、実はデザインをしてくれたホビダス編集部のウェッブデザイナーさんにいろいろと注文をつけすぎ、二転三転、結局現在ご覧のものに落着したというわけです。

ところでこの芝生の中をゆく怪しい線路、せっかくですから今日はこの線路の正体についてお話してみましょう。
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場所はオーストリア、ドイツ国境にほど近いオーバーエスタライヒ州のリート(Ried)という田舎町です。この町にオーストリアでも数えるほどしか残っていないフェルトバーン(Feldbahn=産業用軌道・野戦軌道)が現役でいるらしいことは、インターネット経由の情報で知れました。ただ、田舎町とはいえ、日本的感覚では語れない広大な面積を有しているだけに、いったいどこにあるのか、それはいくら調べても判然としませんでした。

結局手がかりといえば、かれこれ十年以上も前に出版された『ディ・フェルトバーン』(Die Feldbahn)という本の第2巻オーストリア編だけ。手許にあったこの洋書には、きわめていい加減な路線略図が掲載されているものの、海外の鉄道書によくあるパターンで、ジェネラル・ビュー、つまり全体図が見当たりません。

ええい、ままよ。ウィーンからひとりレンタカーをとばすこと3時間あまり、リートの町に入り、路線略図にあったオーストリア国鉄と国道らしき主要道との交差状態、さらにはわずかな写真から見取れる交通標識などを目印に探し回ることさらに一時間あまり…ようやくお目当てのこの軌道にたどりつくことができました。

Ried4.jpgここはツィーゲルヴェルク・ダンライテル社(Ziegelwerk Danreiter & Co,)という煉瓦工場で、この600㎜の軌道は粘土採掘場から工場まで数百メートルに渡って敷設されているものでした。

さて、さっそく撮影許可をもらおうと事務所に顔を出したのですが、どうも人の気配がありません。やむなく工場の方を覗いてみると、作業中のおっちゃんがひとり…。今までの経験則からして、ドイツ語圏の現場のおっちゃんにつたない英語で話し掛けるとよけい面倒なことになりかねませんから、例によって日本語でにこやかに話し掛けることにします。「すみません、ヤパーナー(ここだけドイツ語)ですが機関車の写真を撮らせてもらいたいんですが…」。

しまいには事務所長まで現れてえらい歓待ぶりでしたが、なんのことはない、工場を一歩出ると、軌道は今回のタイトル画像に使った芝生の丘陵へと進み、立ち入り禁止どころか、近所の子供たちや犬の散歩の人などが行き交うオープンスペースとなっているのでした。

残念ながらお目当てのイエンバッハ製機関車はすでに博物館に寄贈されてしまっており、無味乾燥なディーマ(Diema)製DLが黙々と往復しているだけでしたが、工場裏手から躍り出たこの芝生の丘の軌道は、苦労して辿り着いただけの悦びを与えてくれました。('03.9.23撮影)

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本誌誌上でたいへんご好評をいただいている寺田裕一さんの連載「消えた轍」ですが、昨年末に発行した北海道編に続いて、この27日には連載に新編を加えた東北・関東編が発売となります。

「消えた轍」は昭和20年代以降、1977(昭和52)年以前に廃止された地方鉄道法による鉄道と、実体がそれに近い軌道を対象に、廃線跡探訪を交えてその鉄道の実像を浮かび上がらせようという企画で、営業成績や運輸成績の推移も網羅した労作です。

第2巻となる「東北・関東編」では本誌連載に掲載した南部鉄道・松尾鉱業・花巻電鉄・秋田中央交通・羽後交通・宮城バス仙北鉄道・仙台鉄道・秋保電気鉄道・庄内交通・山形交通・日本硫黄沼尻鉄道の11社に加え、新たに小名浜臨港鉄道(江名鉄道)・茨城交通茨城線・東野鉄道・九十九里鉄道・上武鉄道の5社6路線を書き下ろしていただいております。

多少なりともご存知の方には、この「東北・関東編」に顔を列ねる”面々”がどれほど個性派揃いかがお分かりいただけるかと思いますが、1960年代までよくぞこれだけバラエティーに富んだローカル私鉄が生き延びていたものだと改めて感心させられます。

詳細は完成した本でご覧いただくとして、今日はこの『消えた轍』第2巻「東北・関東編」掲載路線の中から、屈指の個性派=花巻電鉄の画像をお目にかけましょう。撮影者はもうこのウェッブではお馴染みの弊社社長・笹本です。それにしても今となっては信じられないような光景ではありませんか…。
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▲ぬかるんだ豊沢街道上の併用軌道を行く花巻電鉄モハ28。弊社社長・笹本の作品で、西鉛温泉への軌道線が廃止になる一ヶ月前の姿。この日車製モハ28は残された鉄道線に転じることなく、軌道線と運命を共にした。 ’69.7.31 P:笹本健次

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個人所有のものは別として、恐らく日本で一番状態の良い静態保存蒸機が、北海道の沼田町の指定文化財となっている「クラウス15号」でしょう。

「クラウス15号」は、九州鉄道が開業時にドイツのクラウスから輸入した25t機で、製造は1889(明治22)年11月、つまり今年で116歳とたいへん古く、まさに古典機中の古典機です。九州鉄道の国有化とともに10形15号となり、1925(大正14)年に除籍、東横電鉄の建設工事などに使用されたのち、僚機17号とともに1931(昭和6)年に留萠鉄道入りしています。留萠鉄道では終点の昭和にあった明治鉱業昭和鉱業所の入換機として活躍し、1969(昭和44)年に昭和炭礦が閉山するまで、このクラウス兄弟の姿を拝むために、はるばる昭和の地を訪れたファンも少なくありませんでした。

昭和炭礦閉山後のクラウス兄弟は波乱万丈な日々を送ります。弟分の17号は東京池袋の西武百貨店でオークションにかけられ、当時の金額で105万円で個人の方に引き取られました。その後、1969(昭和44)年10月に鶴見のキリンビール専用線で公開運転、続いて大阪万博で展示、万博が終わると蒸気機関車の動態保存を模索していた大井川鉄道で構内展示運転に供されます。15号の方は閉山とともに地元・沼田町に寄贈されましたが、鉄道100年を機会にこの15号を主人公とした映画が作られることになり、札幌の泰和車輌で動態復元、九州への里帰りも実現しました。しかしこの映画製作が頓挫してしまい、こちらも一時大井川に貸し出され、17号と奇跡の再会を果たすことになります。大井川鉄道での役目を終えたのちは、15号は沼田町に戻りましたが、17号はさらに流転をかさね、1983(昭和58)年に所有者から岩手県遠野市に寄贈されています。遠野市では「クラウス17号を走らせる会」が結成され、5回ほど展示運転が行なわれましたが、その後の市の保存状況が好ましくなく、所有者の方が返還を要請、市内の「万世の里」に移されて今日に至っています。

15kura.jpg沼田町に戻った「クラウス15号」は、1989(昭和59)年にオープンした同町の「ふるさと資料館」横に設けられた専用車庫に保存されることになりました。しかしここからが特筆されるところで、この車庫外にも25mくらい線路を延長してあり、車庫から外に出せる仕掛けとなっているのです。どうやって出すかというと、車庫奥に専用の貨車移動機“アント”が用意されており、このアントを使って屋外に出すわけです。

言うなれば、日本工業大学で動態保存されているB6(2109)が無火状態にあるようなもので、「静態」保存とはいいながら、これほど理想的な静態保存はほかにありますまい。

しかもその手入れの良さたるやお見事で、お話によれば係の方が日々ウエスで磨き上げているのだとか。シリンダーもきっちりと圧縮が残っているようで、アントで押すと排水弁からシュー、シューとかすかに息をする音まで聞こえます。

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ant.jpgこの沼田町「ふるさと資料館」、JR石狩沼田駅から徒歩10分ほどの位置にあり、「クラウス15号」は雪のない4月?11月の天気の良い日は車庫外に出されて展示されます。

これだけ手をかけられ大事にされている保存機は本当に珍しく、ただ、その割りにはあまり知られていないのが残念でもあります。留萌線に行く機会があれば、皆さんも是非とも立ち寄ってみてください。

▲キャブ・インテリアも欠品のひとつもなく磨き込まれている。右側運転台で、芸術的曲線を描くレギュレータ・ハンドルが鶴首のように伸びている。右上はいったんハネられたら冷えるまで作動しそうもない小型の砲金製インゼクタ。一世紀以上前の蒸機の運転がどれほど熟達を要したかが伺い知れる。右は移動用に用意されているアント工業製の貨車移動機「ANT15」。

「馬鉄」は小岩井農場。

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「馬鉄」??遠い過去のものと思われがちな1馬力の鉄道が、国内にはまだ2箇所残っているのをご存知でしょうか。岩手県の「小岩井農場」と札幌の「北海道開拓の村」の2箇所です。もちろんいずれも実用鉄道ではありませんが、後者が1981(昭和56)年に観光用に再現されたものなのに対し、小岩井農場の方は、昭和30年代まで国鉄駅との連絡に使われていた馬車鉄道の機材を再利用している点が特筆されます。

ご承知の方も多いかと思いますが、小岩井農場は明治時代の政財界の巨頭3人によって創設された近代農場で、牛乳をはじめとした酪農品を普及させる原動力になったことで知られています。「小岩井」の名は、この3人、つまり日本鉄道副社長の小野義真、三菱財閥の岩崎弥之助、鉄道庁長官の井上 勝の苗字の頭文字を一文字ずつ取って名付けられたものです。

1891(明治24)年に創業されたこの農場に、輸送手段として初めて馬車鉄道が敷設されたのは1904(明治37)年、最盛期には橋場線(現在の田沢湖線)小岩井駅から、農場本部を経て育牛部まで6キロ以上の路線が存在していたようです。積荷はもちろん牛乳缶が主で、『トワイライトゾ?ン・マニュアル 5』の広田尚敬さんのグラフ「一馬力の殖民軌道 簡易軌道風蓮線の一日」に見られるような光景が日々展開していたのでしょう。

▲まきば園内でも最も美しい「長者館」(ちょうじゃだて)と呼ばれる草地の中を「馬鉄」がゆく。パカ、パカッとのどかな“走行音”が楽しめるのもここならでは…。’93.8.28
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現在、「トロ馬車」と呼ばれているこの馬鉄は、「羊館」や「牛の乳しぼり」など農場内の動物とのふれあいをテーマにした「まきば園」に400mほどのエンドレスとして敷設されています。往時の馬鉄の終点であった育牛部の東側に位置するので、そのままではないにしても、由緒ある場所ではあります。

わが国最初の私鉄は、1882(明治15)年開業の東京馬車鉄道でした。その後、森林鉄道等も含めると、膨大な数の馬車鉄道が全国に誕生しましたが、最後は恐らく山梨県林務事務所の森林軌道で、何と昭和40年代初頭まで現役でした。つまり、馬車鉄道は実に80年近くも実用動力として日本に存在していたことになります。ちなみに、山の中ならともかく、都市部で馬車鉄道を運行するのはなにかと不都合があったようで、東京馬車鉄道(のちの都電)が早々に電化されたのは、その“糞害”が理由のひとつだったという説さえあります。

最後に、この小岩井農場まきば園の馬車鉄道、4月下旬から11月下旬までの運行で、まきば園入園料のほかに、乗車料金大人400円、子供300円が必要です。残された夏休みの一日、ご家族で訪ねてみては如何でしょうか。

▲この日の牽引機…ではなく牽引馬は「山吹号」。運行途中に突然停車し、ジョージョーとおしっこを始めたのにはびっくり。’93.8.28

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本誌234号(2003年3月号)から連載を始めた「SL甲組の肖像」も、はやいもので発売中の264号で23回目を数えます。2002年夏まで連載して大好評を頂戴した「感動の所在地」に続くドキュメンタリー企画として「SL甲組」が浮上したのは、かれこれ4年以上も前のことでした。

担当していただいている椎橋俊之さんが、「感動の所在地」の取材でお会いする乗務員の方のお話が非常に興味深く、是非とも本格的に聞き取りをして後世に遺したい、次はこれを企画としてまとめられないものだろうか…と提案されたのが発端でした。

「感動の所在地」が機材を背負って線路端を歩いてきた私たちファンの視点だとすれば、次なる連載は、逆に「感動の所在地」を走り抜けたキャブからの視点にしようというわけです。連載タイトルは諸説紛紛、にわかには決まりませんでしたが、ある時ふっと私の頭に浮かんだ「SL甲組の肖像」に落ち付きました。「SL」という用語は本誌では特別な理由がない限り使っていませんが、当時の国鉄部内用語ということで、ここではあえてタイトルに据えています。

第1回の盛岡機関区取材の際から、時として“家族以上の絆”と例えられる蒸気機関車乗務員の皆さんの熱い魂に支えられてきたこの連載ですが、その一方で皆さんご高齢となられ、取材はある意味、時間との闘いでもあります。何と言っても、国鉄本線上から蒸気機関車の姿が消えてこの年末で30年。蒸機末期には若い乗務員の近代車輌への転換教育が急速に進められており、例え30年前に45歳で機関士を務めておられた方でさえ、すでに75歳になっておられる計算となります。

そんな中で、今回の鷲別機関区OBの皆さんとは、実に数奇な巡り合わせで取材が実現しました。というのも、弊社社長の笹本が、ある外車ディーラーの広報室ディレクターの女性の方と話をしている際に、お父様が国鉄の機関士をしていたことを伺い、そこからとんとん拍子に取材が実現したからです。今回の記事はご覧のように『北海道新聞』でも採り上げられ、地元でも大きな反響を呼んだようです。

▲「機関士の誇り 誌面飾る」の見出しで『北海道新聞』(8月1日版)で紹介された連載「SL甲組の肖像」。

連載「SL甲組の肖像」、次号8月発売号は「維新の古戦場はC59特急最後の桧舞台」と題して、田原坂に挑み続けた熊本機関区をご紹介します。ご期待ください。

さて、今日は最後にもうひとつ。『RM MODELS』でご注目いただいている鉄道模型の新製品・在庫情報「STOP PRESS」が今日からこのウェッブ上でもご覧いただけるようになりました。現時点ではまだ数店舗ですが、日々更新、パワーアップされてゆきますので、どうかこちらもお目通しのほどを!

夏の夕暮れは富山地鉄。

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長いことこの趣味をやっていると、それぞれの季節ごとに思い出す鉄道情景があるものです。それは春夏秋冬に限らず、ちょっとした気温の変化や空の表情といったものから想起されるきわめて個人的なものです。

今日は立秋。35℃を超えた都心はまだまだ盛夏の装いですが、夜ともなればかすかに虫の音が聞こえるようになってきました。「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」と古今集に詠んだのは藤原敏行で、時代を超えてその正鵠を射た表現力に脱帽します。

そんなこの季節、なぜかまっさきに思い出すのが富山地方鉄道です。しかも、夕暮れの立山線五百石あたりを全速でとばす旧型車の車内とシチュエーションも決まっています。

1970年代中盤から後半にかけて、立山砂防軌道や小口川の発電所軌道などを幾度となく訪問し、その行き帰りの「足」として使っていたのが富山地方鉄道立山線でした。当時は“命の保証はしない”ことを前提に便乗を認めていた立山砂防軌道の最終便で千寿ヶ原(立山)に戻ってくると16時過ぎ、電鉄立山から上り電車のクロスシートに身を沈めるわけですが、なぜか岩峅寺までのいわゆる山線区間の記憶はあまりありません。おそらく機材の整理をしたり、ノートをつけたりしていたのでしょう。ようやくひと心地ついた頃、電車は富山平野の田園地帯を快走しているというわけです。

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今では元西武や元京阪などの車輌でオリジナリティーの乏しくなってしまった富山地鉄ですが、1970年代はまだまだ生え抜きの吊り掛け車の天下でした。しかもその車内は鎧戸の日除けもさることながら、なぜか写真のように窓柱の各所に造花が飾ってあり、独特の雰囲気を醸し出していました。当時は愛煙家だった私にとって、全車が喫煙可だったのも嬉しい限りでした。

全開の窓からの風を受けて、常願寺川の扇状地の彼方に沈んでゆく夕日を眺めていると、いつの間にか汗も引き、夏の終わりをほのかに感じるのでした。

▲'75.8 特急・電鉄富山行きモハ14753車内にて。

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今日は昼から経堂駅前のレストランで『小田急電車回顧』第1巻の出版記念会があり、発起人の宮崎繁幹さんのお誘いで、私もお邪魔させていただきました。

『小田急電車回顧』は宮崎さんと深谷則雄さん、八木邦英さんが編者となって発行した書籍で、「HB」車と通称される戦前に製造された手動加速制御車から、戦後の高性能近代車輌の先駆けとなった2200系列までを、未発表の写真の数々で紹介しようという意欲作で、全3巻が予定されています。

今回上梓された第1巻目は、1100形から1450形にいたるHB車群に加え、終戦直後に国鉄から63形を割り当てられた1800形を紹介しており、「なるべく大きな写真で後世に残したい」という編者の皆さんの意図通り、B5版横開きの1頁に1枚が割り付けられています。これだけ写真が大きいと、情景が写り込んだ絵柄はもとより、車輌単体の写真からも、見落としていた様々な情報が読み取れます。
▲右手前から編者の宮崎繁幹さん、深谷則雄さん、八木邦英さん、写真提供者の戸井眞雄さん、左手前から河村かずふささん、山下節夫さん、箕川公文さん。

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実はこの書籍、宮崎さんご本人が自費出版されたもので、弊社がその趣旨に賛同して「発売元」をお引き受けしたという経緯があります。ですから、「発行:多摩湖鉄道出版部/発売:㈱ネコ・パブリッシング」となっているわけです。ちなみにこの「多摩湖鉄道出版部」とは、実在した多摩湖鉄道とはなんら関係なく、宮崎さんの模型鉄道の名前だそうです。

最近ではいわゆる“自分史”を筆頭に自費出版が花盛りですが、流通の問題はもとより、せっかく作った本が「本」としてのアイデンティティーを得られるかどうかが大きな分岐点となります。出版社が発売する書籍には、裏表紙(表4)にその本のアイデンティティーたる「国際標準図書番号」(ISBNコード)がふられ、世界どこからでも検索し、また未来永劫その本の存在が認知されることになります。もちろん国会図書館にも収蔵され、永久に保管されます。

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春先に宮崎さんからご相談をいただき、それならばと、私どもが発売元となってこの「国際標準図書番号」を付けて、流通のお手伝いをすることにしたというわけです。実は鉄道系書籍では、これまでにもモデルワーゲンさんの『簡易軌道写真帳』など少なからず前例があり、今後はますますこのような方式が増えてゆくのではないかと思っています。

さて、この『小田急電車回顧』第1巻、たいへん売れ行きも良く、すでにお預かりしている残部がほとんどない状況です。販売実績がはかばかしくないと、お預かりしている私どもとしても心苦しいのですが、今回の出版記念会でも明るい報告ができて、まずはひと安心といったところでしょうか。

第2巻は戦時中から戦後にかけて製造された自動加速制御車、いわゆる「ABF」車に徹底的にこだわってまとめられるそうで、年末に発売を予定しております。普段ですと“作る側”ですが、この本に関しては“売る側”ですので、今からどんな本になるのか楽しみです。
▲昭和ひと桁から20年代生まれの生っ粋の小田急ファンならではのディープな話題が続く。箕川公文さん製作のHB車モデルも登場して出版記念会はクライマックスへ…。

単独ファインダーの魔力。

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8月1日付けの『交通新聞』第4面のトップは「デジカメ ファインダーなしが主流」という記事でした。カメラ誌ならともかく、心の準備のないまま、しかも“交通”新聞を開いた途端に「ファインダーなしが主流」という見出しが目に入ってきたのですから、動揺を隠しきれませんでした。

記事では、去る6月にオリンパスが発売した新機種からファインダーがなくなったことを端緒に論を展開し、カメラ付き携帯電話の普及もあって、液晶の大きさを気にこそすれ、ファインダーの有無にはほとんどの人が拘っていないと分析しています。

たしかに、いわゆるコンパクト・デジカメはもとより、コンシューマー向けのデジタル一眼レフでもそのファインダーはお粗末の極みで、ないと恰好がつかないのでとりあえず付けときました…的なものが大半です。私が愛用しているペンタックス・オプティオS4も、視野率でいえば70%以下ではないかと疑りたくなるほどのファインダーで、まず使うことはありません。

ファインダー視野率にとことん拘りを見せるのは、ほかならぬ広田尚敬さんです。とにかく視野率100%に徹底的に固執され、しかもそのぎりぎりまでを作画に利用されます。誌面デザインの関係でほんのわずかトリミングしても、すぐにお気づきになって、「右側の絵柄が3ミリほど切れてしまっているね」などと指摘されます。それだけシビアに作画されているわけで、ファインダーの精度は広田さんにとっては必須条件なのでしょう。ただ現在、ファインダー視野率100%のデジカメは各社のフラッグシップ機くらいしかなく、それなりの投資をしない限り手には入らないことになります。

実は私もファインダーにはそれなりの拘りを持っているひとりです。昨今の一眼レフ(銀塩機を含む)のファインダーは、高級機も含めて決して誉められたものではなく、“見やすさ”という第一義からすると、60?70年代の機種にさえ負けているものも少なくありません。

ともかくファインダーは見やすいのが一番、しかも写真を“撮る気にさせる力”を持っているファインダーがベストです。そんなわけで、いつの頃からか「単独ファインダー」の魔力にとり憑かれてしまいました。

「単独ファインダー」とは、元来、レンジ・ファインダー機の内蔵画角以外を補う目的で作られたものですが、その見やすさゆえ今でも多くの愛用者がおり、しかも、最近ではコシナをはじめ、何社かが新製品をリリースしています。

一眼レフのファインダーは、撮影レンズを通過してきた像を、その名のとおり反射板(レフレックス板)とペンタプリズムを介してファインダーに導いていますから、当然暗くなりがちですし、装着レンズの明るさによってもファインダーの明るさが左右されます。これに対して単独ファインダーは、基本的に透視ファインダーですから極めて明るく、装着レンズに左右されることもなければ、シャッターのリリース時にブラックアウトすることもありません。

トップの写真は、そんなこんなでいつの間にか集まってしまった単独ファインダーの数々です。手前左右のフォクトレンダーのロゴがあるのがコシナの現行品で、ブライトフレームが少々太めなのを除けば、非常に明るく見やすく、一度覗いてみるとファインダーに対する価値観が変わること請け合いです。実勢価格は1万7千円程度でしょうか。

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もちろん“ハズレ”も少なからずありました。その最たるものがこの2つでしょう。左側がフォクトレンダー(もちろん本家)の6×9用「コンツール・ファインダー」と呼ばれるもの。ギミック好きのフォクトレンダーだけあって、実に妙な方式です。つまり片目でこのファインダーを覗きつつ、もう片方の目で被写体を見つめると、ブライトフレームが擬似枠として実体視している方に浮かび上がるという仕掛けです。これは「立体視」にも似て、見えると感動モノなのですが、そう簡単には見えやしません。慣れの問題かも知れませんが、結局お蔵入りしてしまいました。1960年頃のものらしく、アメリカ西海岸のカメラ店から通販で買い込んだものです。

右側はツァイス・イコン社のコードナンバー436/8という6×6用「ブリリアント・ファインダー」で、6×6判フォールディング・カメラの軍艦部に取り付けてウェストレベル視するもの。“very hard to find”といううたい文句に踊らされてシカゴから仕入れたものの、実用にはほど遠く、これまた単なるコレクションと化してしまっています。

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そんな中で、というより古今東西、世に出たあらゆる単独ファインダーの中で、最高傑作と呼んで間違いないのが、このライツ社のコードナンバーSBLOOと呼ばれる画角35㎜用ファインダーでしょう。とにかく「えっ!」と驚くほど明るいのです。その明るさたるや感動もので、裸眼で見るよりはるかに明るい…にわかに信じられないかもしれませんが、決して誇張ではありません。美品だと実勢価格が10万円近くするのが難点といえば難点ですが、今もってそれだけ評価が高いということ自体が、1950?1960年代のドイツの光学技術が最高域に達した証左でもあります。

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このファインダーを通してみると、とりたてて変わり映えのしない周りの光景がどれほど輝いて見えることでしょう。これこそが写真を“撮る気にさせる力”にほかなりません。見にくく暗いファインダーに、これでもかとてんこもりになったさながらネオン街のごときインジケーターの数々…そんな現代のファインダー事情を鑑みると、この単独ファインダーが時空を超えた輝きを放っているように思えてならないのです。

81歳、デキ矍鑠たり。

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本誌259号(本年4月号)の特集のために、デキ牽引の撮影用貨物列車を運転していただいた上信電鉄の木内運輸課長にひさしぶりに電話、その後のデキの様子をうかがいました。本誌で紹介して以降、御年81歳を迎える2輌のデキはますます人気が高まり、イベント等で走行する機会にはたいへんな賑わいとなっているとのことでした。

実は誌面では言及していないのですが、上信電鉄さんは撮影目的のチャーター運転に比較的気軽に応じてくれる数少ない鉄道のひとつです。自社のホームページにも案内がありますが、映画の撮影や本誌のような雑誌の取材ではなく、まったくプライベートなチャーターにも応じてくれるのが異色です。木内課長のお話では、今年もすでに何回ものデキのプライベート・チャーター運転が行なわれているそうです。

もちろん定期列車の合間を縫っての運行ですから、何もかもが希望通りとはいかず、むしろ多くの制約がありますが、デキ+ホキ+テムといった“基本編成”のほかにも、デキ+ホキ、デキ+テム、はたまたデキ+電車などのバリエーションが希望できます。ただし、保安上の問題もあって老齢のデキを単機でチャーターすることはできず、必ず重連での登板となるそうです。

気になるお値段ですが、もちろん編成や運行区間、折り返し運行回数、さらには曜日などによって左右されるものの、ざっくり言って、30人も集まれば、ひとり当りの負担額は居酒屋で一杯やるくらい…とでも表現しましょうか。いずれにせよ、気心の知れた仲間同士や、鉄研などであれば極めて実現可能な線ではあります。あらかじめの打ち合わせで、撮影地点での減速等にも臨機応変に対応してくれるのもありがたい限りです。ご興味をお持ちの方は問い合わせてみられては如何でしょうか。ただし、あくまで通常の運輸事業の合間をみて対応してくれていることを忘れずに、無理難題は慎まれるようにお願いします。それと、こういったチャーター運転には“関係者”以外の撮影者とのトラブルがつきもののようですが、その点も寛容な大人の対応をお願いしたいと思います。

▲白山隧道を出ると終点・下仁田は間近だ。2輌目のキャブから、ペンタックス・オプティオをISO感度50に設定して流してみた。'04.12.1 赤津信号所?下仁田

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本誌259号では、上信さんの全面的な協力のもとに実現した添乗映像を含む付録DVDが大好評をいただきましたが、この時の取材では、30年以上にわたってデキを護り続けてきた笠原運輸部長の情熱にたいへん感銘を受けました。代えのない部品は手作業で直し、可能な限り原形を護ろうという努力は時代を超えて受け継がれており、それがあってからこそ81年目を迎えたデキが矍鑠と走り続けていられるのです。

「何と言ってもデキは当社の宝物ですから…」と仰っておられた笠原部長は、この4月1日付けで代表取締役社長に就任されました。あれだけの愛情をデキに注がれた方がトップとなり、私たちはもとより、何よりもデキにとってこれ以上幸運なことはないでしょう。

▲いったいどれほど多くの人達がこのマスコン・ハンドルを握ってきたのだろう。このシンプルなキャブだけでも無数の物語が語りかけてくるようだ。

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いよいよ湯口 徹さんのライフワークとも言える『内燃動車発達史』の下巻「戦前メーカー編」が完成しました。すでに見本は出来あがっており、今週末か、遅くとも来週中には小社特約店の店頭に並ぶはずです。

「上巻/戦前私鉄編」では、各私鉄ごとの内燃動車導入の経緯から、許認可の紆余曲折、改造・譲渡の顛末までが、圧倒的な量の一次資料を駆使して解き明かされ、各方面から絶賛をいただきました。しかし、この上巻を凌いで「下巻」はさらに恐ろしいほどの“濃さ”に仕上がっています。何といっても白眉は、これまでまったくと言って良いほど触れられることのなかった「特許」「実用新案」が徹底的に掘り起こされたことでしょう。これによって、今まで表面には出てこなかったメーカー間の葛藤が浮かび上がり、戦前の日本の気動車の全貌がようやくくっきりと見えてきたといっても過言ではありません。

その最たるものがボギー動車での逆転機保持方式です。1930(昭和5)年に出願された日車方式は、湯口さんの言を借りれば「一種の“コロンブスの卵”だが文字通り基本的発案」で、どう転んでもこれ以上ない最適かつ確実な方式を、日車に実用新案として押さえられてしまった他社は、すでにその時点で苦戦を強いられることになります。そんな事情もあって、結局、戦前の私鉄気動車は日車の圧勝で幕を閉じるわけですが、これに対する鉄道省の対応も実に興味深いものがあります。

キハ36900→キハ41000以降の国鉄機械式気動車は、実はこの日車式の逆転機保持方式を採用しているにも関わらず、『鉄道技術発達史』をはじめとして、国鉄の公式資料にはどこにも日車のパテントに関しての記述はありません。従前の資料はほぼすべてが“官”の側から書かれており、この一例をとっても、“民”の視点が根本的に欠落していたのは自明です。本省工作局としては、国内メーカーの技術は“わが方”の技術と考えたのかどうか…、いずれにしてもそんな“裏事情”も湯口さんの半生を賭けた研究があってからこそ、今回はじめて明らかにされるわけです。

初公開の図面類や初出の写真をふんだんに盛り込んだこの『内燃動車発達史』下巻「戦前メーカー編」は、今後、気動車研究には絶対に欠くことのできない書となることはもとより、過去の鉄道車輌を調べる上での方法論としても、これまでにない新たな地平を築いたことは間違いありません。小部数のためお求めにくい場合は、弊社クイックサービスをご利用のうえ、是非とも書架にお揃えください。

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昨日の夜は、赤坂プリンスホテル「五色の間」で行なわれた「シュートボクシング創設20周年記念パーティー」に行ってきました。

これだけで、私をご存知の方は「えっ!」と驚かれるに違いありませんが、もっと面食らっているのはほかならぬ私本人です。実はこれには深いわけがあります。

弊社の一般書籍編集部は大きく二つの編集部に分かれていますが、そのひとつはこれまでにも多くの格闘技系の書籍を出版してきました。今回は、この「シュートボクシング」の創設者であるシーザー武志さんの自伝『絆』を出版することになり、創設20周年記念パーティーが出版記念会も兼ねて行われることとなったのです。

当然“版元”としては挨拶が不可欠で、シーザーさん側からもご丁寧な招待状とともに舞台挨拶の要請をいただきました。ところが、あいにく社長の笹本は先約があり出席できません。そこでお鉢が回ってきたのが、書籍編集部を管掌する編集担当役員でもある私というわけです。

いや、これには正直言って参りました。シュートボクシングはおろか、とにかくそっち方面にはまったく疎いうえに、スポーツ自体がからきしダメときていますから、いったい何を話してよいものやら…とにかく通勤途上にゲラ(校正)を読み込み、マーカーで塗ったり付箋を貼ったり…。テーマが鉄道であれば、突然指名されて一時間しゃべってくれと言われても平気ですが、これにはホトホト困りました。

さすがにアナザーワールドだけあって、会場は「鉄道の日」のレセプションなどとはまったく別世界、ところ狭しと受付ホールを埋め尽くした政財界・芸能人の花の数々、行き交う人々も、まぁ「この村」には居そうもない方々ばかりで、こちらは目が点です。

それにしても、これほどまわり中誰も知らないパーティーも初めてでした。普段ならば、やれお久しぶりだの、はじめましてだの、箸を持つ間もないくらいなのですが、今回は誰ひとり寄ってきません。そして、有名演歌歌手の歌やらお笑い芸人のショー、それにどこかで見たような有名人の祝辞が延々と続きます。

先日の「K?1 ワールドマックス」で優勝したというアンディー・サワー選手が登場すると会場内の興奮も最高潮に達しました。そんな中、私は「K1といえば、わが国初のクリエン・リンドネル遊動輪装置付きの鉄道聯隊“K1”形の写真がついこの前、ドイツの鉄聯サイトにアップされて大騒ぎになったっけ…絶対ないと思っていた川崎のK1の写真が今頃、しかもドイツから出てくるなんて…」と、ひとり自分の世界に入っていたのでした。

というわけで、写真は壇上で祝辞を申し上げる私です。左側がシーザー武志さんです。袖触れ合うも他生の縁、まったく違う世界で大活躍をされているシーザーさんに、まったく違う世界からささやかなエールを送りたいと思います。

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はやいもので今日は8月1日。6月1日に弊社が趣味のポータルサイトとしてこの「ホビダス」を立ち上げてから2ヶ月が経過したことになります。そしてご覧いただいている私のブログ「編集長敬白」も今日で62回目、丸2ヶ月お付き合いいただいたことになります。

当初はどれほどの皆さんにご覧いただけるか半信半疑でしたが、7月に入ってから予想以上に多くのアクセスを頂戴するようになり、意外なところで意外な方から「ブログ見てますよ!」と激励をいただくことも一再ではありません。なかには毎日プリントアウトして揃えて下さっている熱心な“読者”の方もおられ、見よう見真似でブログを始めたアナログ世代としては万感迫る思いがします。

さてなにはともあれ、8月のスタートです。まずはこのブログにお付き合いいただいている皆さんに…
暑中お見舞申し上げます。

一時は冷夏も懸念された東京ですが、このところ連日30℃を超える猛暑が続いています。そこで多少なりとも涼をとっていただこうとお見せするのが、標高4300m(14110ft)パイクス・ピーク山頂のスイスロコ製DCです。

場所はヨーロッパ・アルプスではなく、アメリカはロッキー山脈、コロラド州コロラドスプリングス近郊です。ロッキーの中でも、急峻な山頂が文字通り槍のように突き出しているパイクス・ピーク山頂までコグ・レイルウェイ(歯車式鉄道)が建設されたのは、1891年、つまり明治24年と言いますから驚きです。当初はボールドウィン製のB1タンク機が客車1輌を押し上げていましたが、現在ではご覧のようなスイスロコ製のディーゼル動車が、250‰勾配を攀じ登り、森林限界を超えてピークを目指しています。

標高4300mというと、富士山より1000m近くも高く、当然日本国内では体験できない高さです。山頂駅に降りたってみると、その気温の低さや風の強さにも増して、「あれっ」と思うほどの空気(酸素)の薄さを実感できます。ちょっと動いただけでもぜーぜーと息が切れる感覚は逆に新鮮でもあります。

このパイクス・ピーク、正確にはManitou & Pikes Peak Railway(マニトゥ&パイクス・ピーク鉄道)
には2回ほど訪れたことがあります。いずれもロッキーのアスペン・ツリーが黄金色に色づいた気持ちの良い秋でしたが、最初に訪問した時はある事情を知らずにえらい目にあいました。

その事情とは…トイレです。起点のマニトゥ・スプリングス駅で撮影に夢中になり、発車間際の列車に乗り込んだのですが、これが間違いでした。まぁ、考えてみれば予想できそうなことですが、このコグ・レイルウェイの車輌にはトイレの装備がないのです。しかも暖房設備もなく、標高が上がるにつれて室内の温度は下がる一方。山頂までは1時間半ほどですが、途中の列車交換はあってもいわゆる運転停車のみ。やれ右側にエルクがいただの、こんどは左側にマーモット(巨大ネズミのようなヤツ)だのと車内の観光客は大喜びで窓という窓は全開状態です。森林限界を超えたあたりから、こちらは景色を見るどころではなく、一刻もはやく山頂駅に着いてくれるのを祈るばかり…。

もし今後この鉄道に行かれる機会があれば、ぜひともその点をご留意なさいますよう、暑中見舞に添えて、老婆心ながらお伝えしておきます。('98.9撮影)

レイル・マガジン

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