鉄道ホビダス

2005年7月アーカイブ

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「明鉱平山」こと明治鉱業平山鉱業所の凸電を訪ねることはかないませんでしたが、その反動というか、釧路の太平洋炭礦の凸電は幾度となく通いつめました。写真は1977(昭和52)年に『蒸気機関車』誌に発表した時のものです。

釧路臨港鉄道春採駅の丘の上に、まるでスライスしたような凸電がいる…そんな噂を耳にして、春採駅からぬかるんだインクラインをよじ登っていったのが確か1973(昭和48)年3月のことでした。ようやく登った丘の上には、会えなかった「明鉱平山」風の凸電がずらりと並んで蠢いていました。

▲春採の選炭ポケット付近にあった事務所前にずらりと並んだ太平洋炭礦の凸電たち。軌間は2フィート(609㎜)。No.1~10までの9輌(4は忌み番で欠番)が四六時中走り回っていた。’75.4.2


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明鉱平山とほぼ同形機が直方市石炭記念館に保存されています。こちらは三菱鉱業鯰田鉱業所で使用されていた5t機(40ps)ですが、納入台帳によればやはり軌間は平山と同じ540㎜ゲージ。1936(昭和11)年を端緒に同形機が大量に鯰田に送り込まれており、1949(昭和24)年現在20輌以上の坑外軌道用電機が在籍していたとの報告もあります。

この直方市石炭記念館は直方駅の南西、多賀公園の線路沿いに位置し、C11 131や貝島炭礦のコッペル32号などの蒸気機関車のほかにも、この凸電や極めて珍しい圧縮空気機関車(エアーロコ)などの屋外展示があります。決して規模は大きくないものの、一度訪ねてみて損はありません。

▲『三菱電機型録(電鉄編)』によると、全長3550×全幅980×全高(屋根高)2930㎜、ホイールベース980㎜、動輪直径710㎜、直流500V直接制御で、オリジナルは「MT-15-A形」と称するトロリーポールであった。それにしても、1/87で模型化するとなると車体幅はわずか11㎜ ! 何とも小さい。'03.11.3

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筑豊地方ではもう一例、田川市石炭資料館に同様の凸電が保存されています。これは嘉穂郡にあった三井鉱山山野鉱業所で使用されていた6.6t機(50ps)で、メーカーは定かではありませんが、当然三菱製ではありません。えらく不釣合いなLP42を重そうに掲げており、こいつも一度走るところを目にしてみたかった機関車のひとつです。

田川市石炭資料館は、炭坑節発祥の地でもある旧三井田川鉱業所伊田坑跡に建設された、国内唯一の「石炭資料館」を名乗る歴史民俗資料館で、大煙突や竪坑櫓など当時の遺構を保存活用するとともに、膨大な数の展示物を擁しており、その規模はまさに圧倒的です。

▲田川市石炭記念館の屋外展示場には、この凸電のほかにもエアーロコや、さらに珍しいリールロコなども保存されている。ただ、なぜかすべての展示車輌が写真のようなピンク(?)色に塗られており、その点はちょっと残念。'03.11.3

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同じ凸電つながりで最後にご紹介するのが、北海道の三笠鉄道村で保存中の太平洋炭礦No.2とNo.10です。前者は1948(昭和23)年、後者は1960(昭和35)年東芝製の8t機で、1985(昭和60)年まで坑口と釧路臨港鉄道春採駅を結ぶ坑外軌道で使用されていたものです。直方や田川に保存されているものと比べるとひと回り大きく、盈車を牽いて起動する時に、さながら尻もちをつくかのごとくガクンとのけぞる様が昨日のことのように思い浮かびます。

←それにしても、なぜ車体幅の狭い電機があちこちに棲息していたのだろうか? “エンドレス捲き”と呼ばれた複線曳索軌道を電化するに際して、軌道中心間距離が接近しすぎていたため…との説もあるが真相は不明。なお、鉱山保安法(金属鉱山等保安規則)によれば、架空線高はレール踏面上1800㎜以上と定められているから、その点でもこれほどノッポにする理由が判らない。'97.8.28

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「明鉱平山」…正確には明治鉱業平山鉱業所のウエハスのような電気機関車に強く惹かれたのは、思い返せばかれこれ30年ほど前のことでした。

1971年7月、『鉄道ファン』誌上で始まった不定期連載「こっそり・ひっそり・めだたずに」の第1回がこの明治鉱業平山鉱業所でした。筑豊炭田の片隅で生きるひょろ長い面構えの電気機関車や、“珍犬ハックル”と表現されたファニーな表情の蓄電池機関車などは、HOn2のレイアウトを模索していた身には強烈なインスパイアとなって記憶に残りました。

しばらくして、この凸電のスペックが掲載されている古い『三菱電機型録(電鉄編)』を入手、1/87の模型化図面をひいて、いそいそと製作にかかったのでした。

それまでの経験(といっても十代ですが…)からして、強度的にも工作精度的にも真鍮では苦しいと判断、車体は洋白のt0.2を基本に、窓枠部はt0.1の燐青銅を予め半田付けし、当時一番細かったヘラクレスの#000000で抜き落とすことにしました。リベットはφ0.2の洋白線の埋め込みです。

車体の組み立てが途中まできた時、設計ミスから予定していた動力機構が組み込めないことが発覚、さてどうしたものかと考えあぐねているうちに熱が冷めてしまったようで、結局ご覧のような状態でジャンク箱の中に放置される運命となってしまいました。

改めて手にとってみると、自分で言うのも何ですが、結構な精度が出ており、十代の情熱が生み出す“突破力”を思い知る気がします。もちろん、ひどい老眼となってしまった今では、再びこの工作を続行して「明鉱平山」を完成させることなど、できようはずもありません。

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行きたい行きたいと思っていながら、なぜか明鉱平山には行かずじまいとなってしまいました。そんなわけで、上の写真は弊社社長・笹本が1970(昭和45)年に撮影したものを拝借してお目にかけます。

上山田線の臼井から鉱業所までは八幡製鐵からやってきたBタンクが活躍しており、この凸電は山元から選炭場までの間の鉱車運搬に活躍していたものです。No.601~603までの3輌が在籍、いずれも三菱電機製(1949年、603のみ1953年)の6t機ですが、なぜか軌間が546㎜ときわめて中途半端です。筑豊炭田では、珍しい四国機械製の蒸気機関車を使っていた金丸炭礦が584㎜という特異なゲージで知られていますが、584㎜は23インチに相当し、英国などではさほど珍しくもありません。それにひき比べても、インチにも換算できない546㎜の根拠は何だったのでしょうか? ちなみに先述の『三菱電機型録(電鉄編)』の諸元では「540㎜」と記載されており、納入台帳の546㎜とは異なっています。

この明治鉱業平山鉱業所が閉山したのは、まだまだ筑豊地区の国鉄蒸機が中心勢力を保っていた1972(昭和47)年のことでした。閉山以後、3輌の凸電の行方は知れませんが、同系機が今でも2箇所で保存されています。模型に端を発した凸電噺、次回はこの保存機たちをご紹介してみましょう。

"くりでん”孤軍奮闘!

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“くりでん”を訪れたのは4回目、といっても前3回は「栗原電鉄」だった時代ですから、「くりはら田園鉄道」と名を変えてからは始めての訪問となります。

1987(昭和62)年3月の三菱金属細倉鉱山閉山に伴って、それまで頼みの綱にしてきた貨物輸送の廃止を余儀なくされ、1993(平成5)年12月をもって第3セクター経営に以降、さらに1995(平成7)年春からは、変電所維持費やメンテナンス費用の削減のために、せっかくの電化路線を気動車化するなど、ドラスティックな挑戦を続けてきました。

しかし、時代の趨勢を止めることは難しく、欠損補助金も途絶えた今となっては、万策尽きたというのが実情かもしれません。事実、日中の乗客は目を疑うほど少なく、すでにアナウンスされている来年度末での廃止が覆ることはなさそうです。

↑写真は尾松駅を発車する下り11レのKD952。電気鉄道時代の名残りを留める架線柱は全線に渡って残されている。'05.5.15


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近代化が遅れて時代に取り残された…と言ってしまえばそれまでですが、“くりでん”には、私たちの世代に語りかけるいろいろな小道具が揃っています。わずか延長25.7kmですが、JRとの接続駅・石越駅の独特の雰囲気といい、若柳車庫の佇まいといい、栗駒駅に残る腕木式信号機といい、標準レンズを付けたレンジファインダー・カメラ1台を下げて撮り込みたい、そんな思いを抱かせる鉄道です。

鉄道側もサポーターズ・クラブを立ち上げるなど、多角的に経営努力を重ねているようですが、根本的な利用客の少なさ、そしてそれにともなう賃率の高さといった連鎖は断ち切りがたく、趣味的には味わい深いストラクチャ?やシーナリィーとは裏腹に、ほとんど回送状態で鶯沢の勾配に挑む気動車を見ていると、その現実の厳しさに目を被いたくなる思いです。

残された時間はわずかですが、孤軍奮闘を続ける“くりでん”がなんらかの形で活路を見い出してくれるのを願うばかりです。

↑石越駅はJR石越駅を出た右手にある。頭端式ホームを持つ小洒落た駅舎は今では無人となってしまったが、JRと“くりでん”ふたつの駅を中心とした駅前の空間は、かつて東北各地に見られた地方私鉄の起点の匂いを色濃く残している。例え701系であろうと、是非ともJRの列車から降り立ち、乗り換える妙味を体験してみたい。"05.5.15

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わが国を代表する鉄道風景のひとつとも言える山陰本線の余部橋梁が架け替えられることになり、来年には新橋梁の工事が始まろうとしています。

余部橋梁が完成して香住~浜坂間が営業を開始するまで、大阪と山陰地方を結ぶ最短ルートは舞鶴港?境港間を結ぶ航路でした。大阪?舞鶴間は官設鉄道に直通する形で阪鶴鉄道(現在の福知山線)が境航路との連帯運輸ルートを形成していたものの、米子・鳥取方面への旅は尋常ではありませんでした。

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鉄道敷設法による山陰線は和田山から西に向かって工事を進めましたが、リアス式海岸の余部凹地だけは築堤もままならず、やむなく香住以東を山陰東線、以西を山陰西線として分割施工することとなります。海岸部の風害を考慮して、一時は鉄筋コンクリート橋案もあったと聞きますが、結局、アメリカから主要資材を輸入して鉄橋を構築する案に決し、1909(明治42)年12月16日に着工、延べ25万人の作業員と、当時としては破格の33万円余りの巨費を投じて完成したのは、2年余りのちの1912(明治45)年1月13日(開業は3月1日)でした。

米国アメリカン・ブリッジ社による11基の橋脚は一度九州に陸揚げされたのち、再び船で余部沖に運ばれたといいます。橋梁長309.42m、橋梁高さ41.45mは東洋一と称えられ、現在でもトレッスル式橋梁としては日本一の規模を誇っています。

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ただ、ご承知のように国鉄末期の1986(昭和61)年12月28日13:30頃、回送中の大鉄局客車「みやび」が強風で橋梁上から転落、民家と水産加工場を直撃して死者6名を出す大事故が発生してしまい、一気にこの橋梁の問題点がクローズアップされるようになります。戦時中のメンテナンスの不備による劣化も否定できないようですが、いかんせん完成以後93年を経た鉄製橋梁ですから、当然架け替えは避けられない時期にきていると言えるでしょう。

↑上はすっかり観光名所と化している「お立ち台」。家族連れはもとより、最近では観光バスのシーニック・ポイントにもなっているという。

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JR西日本からまだ正式なリリースは出ていませんが、来年には新しいコンクリート橋の工事が始まるようです。すでに今年の2月にはJR西日本豊岡鉄道部が「余部鉄橋の架け替えを前に…」、「今の鉄橋は数年で見納め…」として記念オレンジカードを発売しており、古くから“原風景”のように目に焼き付いてきた余部橋梁を見られるのも今のうちのようです。

→駅ホーム端には例のお立ち台への「鉄道写真撮影ポイント」の案内ポストも !

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そんなこともあり、本誌次号では、長年にわたってこの橋梁を撮影し続けてきた服部敏明さんのGalleryを中心に、ヒストリーや撮影ガイドもお送りする予定です。服部さんのお話では、この夏休みは足場を組んだ塗装作業が行なわれていて、撮影しにくくなってしまっているそうです。しかし、すでに夏至をすぎた今、撮影可能時間帯は短くなるばかり…。果たして新橋着工までに、もういちど朝7時過ぎに通過する「出雲」を綺麗な姿で捉えることはできるのでしょうか…。

↑橋梁下り方に隣接する餘部駅は片面ホームの無人駅ながら、いかにも山陰らしい佇まいが感じられる。ちなみに、橋梁付近には長らく駅がなく、この餘部駅が開設されたのは1959(昭和3?)年4月16日のこと。橋梁は「余部」だが、駅は集落の大字から「餘部」と表記されている。(写真はすべて'04.8.7撮影)

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今日(27日)は夏休み恒例のNゲージショウ「第27回鉄道模型ショウ2005」の初日で、会場の松屋銀座8階大催場は朝からたいへんな熱気に包まれました。今年はNゲージ生誕40周年とあって、会場内にも特設ブースが設けられ、40年の歴史を彩った懐かしい製品の数々が展示されています。

そして、この記念すべき年を飾る目玉のイベントのひとつが、KATOブランドでお馴染みの㈱関水金属会長で、日本Nゲージ鉄道模型工業会会長でもある加藤祐治さんの講演会でした。この「Nゲージ開発物語…新たなる挑戦から誕生前夜まで」と題した講演会(日本Nゲージ鉄道模型工業会主催)、何と私が聞き手としての出演を仰せつかることとなり、この一週間ほどその下調べと準備でおおわらわでした。

台風一過の快晴の下、松屋から少し離れた会場の紙パルプ会館レセプション・ルームには、開場の13時半を待たずして多くの方々が、めったに聞けない加藤会長のお話に耳を傾けようと詰め掛けていました。ファンの方はもとより、模型メーカーの社長さんや問屋さん、さらには業界新聞の記者さんまでが会場を埋めつくし、14時定刻に講演会が始まりました。


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わが国初のNゲージ・スケールモデルが1965(昭和40)年に発売された関水金属のC50形蒸気機関車であることは広く知られていますが、その発売に至るまでの加藤さんの足跡は意外と知られていません。

1927(昭和2)年にお生まれになった加藤さんは、根っからの鉄道好きとして少年時代を過ごしますが、時ちょうど戦争のさなか、鉄道模型への思いはなかなか形にできなかったといいます。戦後、お父さんの金型製作会社・加藤金属彫刻社を手伝う傍ら、自分の趣味を何とか家業に活かせないかと考えたのがドロップフォージングによる台車の製造でした。1950(昭和25)年にわが国初の“ピボット”軸受け台車を発売、その後さまざまな新機軸を打ち出して、ドロップ台車の加藤の名を不動のものにしてゆきます。

今回、今だからもう話しても…と仰って、現在で言うところのOEMのお話も語っていただきました。天賞堂はもとより、カツミ、カワイ、つぼみ…当時名を馳せたメーカーのドロップ台車は、実はほとんどが加藤金属がOEMで送り出したものだそうです。さらにはあのカツミ“シュパーブライン”の煙室扉やらロッドやら台車やらも実は加藤さんの製造だったそうで、そう聞くと、古くからの16番ゲージャーの方もおちおち足を向けて眠れません。

ソニー・マイクロトレーンの金型処分に立ち会った話、文京区関口水道町に新会社を築き地名の頭文字を取って「関水金属」としたこと、ニュールンベルクのトリックス本社でカプラーの世界統一を成し遂げた話、時計の文字盤の印字技術にヒントを得て車体標記のレタリング手法を開発した話…等々、予定の一時間半を超えての白熱したお話が続きました。

近年、産業考古学的見地からの近代化遺産の発掘や聞き取り調査が盛んに行なわれるようになってきています。図らずも、今回はこれまでほとんど語られることのなかった、製品史ではない鉄道模型史にスポットを当てられた稀有の機会で、微力ながらそのお手伝いをできたことは編集者冥利に尽きる思いです。なお、詳細は9月発売の『RM MODELS』誌上でご紹介できる予定ですのでご期待ください。

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26日22時現在、台風7号は犬吠埼付近を北北東へ時速45キロで進んでいます。勢力は980hPa、最大風速は25km/hとアナウンスされていますが、“東京直撃”と懸念された事態は免れ、とても台風の夜とは思えない静かな時間が流れています。

台風は鉄道事業者にとってもっとも警戒せねばならない自然災害のひとつです。そんな中、非常に不謹慎ではありますが、出勤時から“アレ”が出るかどうかが気になってしかたありませんでした。

“アレ”とは気象告知板、ただしくは「鉄道気象告知板」です。かつて通信手段が限られていた時代、地方気象台からの通報をもとに、各鉄道管理局が「鉄道電報」で各運転現場に伝えたのが気象告知で、現場はただちにこれに従った「気象告知板」を掲出しました。

列車無線が一般化した今日ではすっかり目にする機会もなくなってしまいましたが、ある時、東急の中目黒駅下りホーム端にこの「気象告知板」が掲出されるのを発見しました。同ホームは日比谷線の回送引き上げ合図が“ジリリリーン”という「電鈴」だったり(…最近電子音に変わってしまいましたが)、なかなかディープな装いがあります。

そんなこともあって、出勤時に途中下車してみたのですが、残念ながら告知板は掲出されておらず、それどころか、今週から始まった、下り方先頭車の終日女性専用車化(各停以外)をアピールするために、プラカードを持って立っている警備員に不審視されてしまう始末でした。

もしかするともう使われなくなってしまったのではないだろうか…そんな思いを抱きながら、今度は帰宅時に風雨の強まる渋谷駅頭端をのぞいてみることにしました。すると、ありましたありました!  昔ながらの「警戒」のたすきがけに「大雨・洪水・強風・雷」とてんこもりの告知が。

国鉄の場合、本来、円板の地色は警戒内容によって4種類に分けられており、風に関するものは「赤」、雨に関するものは「青」、雪に関するものは「緑」、そしてその他は「橙色」となっていました。悪天候の中での通過列車の乗務員でも、最低色だけで警戒内容を把握できるようにと定められたものです。今日の円板は橙色(というか黄色に見えますが…)。雨、風、雷と警戒内容があまりに多く、ワープロで急造したと思しき紙が貼ってあるのも泣かせます。

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写真左は国鉄の伝統的な「気象告知板」で、一昨年の『トワイライトゾ?ン・マニュアル 12』のグラフ「八森、ハタハタ…屋台電機 ?日本海金属発盛(はっせい)製錬所専用線?」でご紹介したものです。撮影は1979(昭和54)年2月12日、場所は五能線東能代駅。2月の五能線はもとより、東北、北陸、そして北海道、どれほどあちこちでこの「強風雪」(電略テケハ)に行く手を阻まれ、計画変更を余儀無くされたことでしょう。

そうこうしているうちに、台風7号は足早に去っていったのでしょうか、外は再び無風の熱帯夜と化しつつあります。きっと今頃は電略「テケン」(気象警戒解除)が発令され、あの円板も密かにしまわれていったに違いありません。

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ご好評をいただいている清水 武さんの「東濃鉄道」に続いて、RM LIBRARY次号はやはり地方鉄道ネタ「上田丸子電鉄」です。執筆下さっているのは元・東急電鉄車両部長で、RMLバックナンバーでも「草軽 のどかな日々」などいくつかをご担当いただいた宮田道一さん、メインの写真は上田丸子電鉄にひとかたならぬ思い入れをお持ちの諸河 久さんです。

今でこそ上田?別所温泉間11.6kmのみのミニ鉄道となってしまった上田交通ですが、かつて上田丸子電鉄を名乗っていた頃には、この別所線以外にも丸子線、西丸子線、それに真田・傍陽線を擁して一大ネットワークを築いていました。

今回のライブラリーはこの全盛期の上田丸子電鉄時代にスポットを当て、丸子線の上巻、真田・傍陽線、別所線、西丸子線の下巻と2冊に分けてお送りします。

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今日は表紙の校正が上がったとあって、宮田さん直々にお出ましいただき打ち合わせです。校正が一段落すると、宮田さんが手提げ袋からやおら妙な物体を取り出しました。「これ知ってる? 上田をやるからにはこれを取り上げないとね…」と差し出されたこけしのようなもの、何と護符なのだそうです。聞けば、信濃国分寺(通称・八日堂)で毎年1月7日の夕刻から翌日にかけて行なわれる縁日で売られるものだそうで、「蘇民・将来・子孫・人也・大福・長者」の文字が朱と墨で記された木片です。

なんでも、この文字にもある蘇民将来という人物が、薬師如来の化身である旅人を歓待したことにより災厄を免れたという伝説に由来するものだそうで、長野県内はもとより、北関東に広く信心されてきたようです。上田丸子電鉄丸子線にはその名も「八日堂」という駅があり、同線廃止後の現在では、上田?大屋間にしなの鉄道の信濃国分寺という駅が造られています。かつては電鉄建設の大きなファクターのひとつが「参宮」だと言われていましたが、上田丸子電鉄にも「参宮」の側面があったとは知りませんでした。

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上田は個人的にも足しげく通った地であり、諸河さんから送られてきた写真にも思わず見入ってしまいました。ことに晩秋の塩田平の風情は今でも忘れられません。昇圧後は何かのついでに3回ほど行っただけで、残念ながらかつてのようなシンパシーを感じることは出来なくなってしまいました。

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さて、本州最後の大規模炭礦であったここ常磐炭礦西部鉱業所には、他の炭礦にはない特殊な事情があり、それもあって昭和50年代まで延命してきたと言ってもよいでしょう。その事情とは、「常磐ハワイアンセンター」(現・スパリゾートハワイアンズ)、つまりは温泉です。

ご多分にもれず、1960には坑口整理を含めた大幅な合理化を推しすすめたものの、結局採算があわず、この湯本地区での採炭は1971(昭和46)年を最後に一旦は終了してしまいます。しかし、その名も湯本町の地下に滞留する湯脈を有効活用して1966(昭和41)年にオープンした関連施設「常磐ハワイアンセンター」は絶好調で、ここに潤沢な湯を供給するには常磐炭礦の坑道の維持が不可欠だったのです。

すでにこの時、常磐炭礦株式会社は、常磐ハワイアンセンターを経営する常磐湯本温泉観光株式会社を中心とした常磐興産株式会社の関連会社となってしまっていました。結局、坑道維持を兼ねて採炭を再開、西部鉱業所は石炭と温泉という、一見関係なさそうなふたつの産出物を預かることとなったのです。

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西部鉱業所の炭車は2?自重980kgの鋼製で、5000番代と6000番代のもの976輌が在籍していました。このほかに坑木運搬等に使用される台車が92輌、その他29輌と、まだまだゆうに千輌を超える車輌がいたことになります。

写真の炭車は脱線していますが、係員は特に気にするわけでもなく、そのままズルズルと牽引されているうちに復線してしまいました。

ちなみに、チップラーと呼ばれる回転式取り卸し装置に対応したこの手の炭車は、英語では“ore car”(鉱車)の中でも“tub”と呼ばれて区別されます。バスタブのタブ(桶)です。

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網の目のように敷き巡らされた軌道配線をノートに書き写していると、あまりの非効率さを不憫に思ったのか、水平坑責任者の方が新聞4面分はあろうかという構内図の青焼をくれました。

訪問から一ヶ月あまり、この年の9月1日付で西部鉱業所は閉山してしまいました。まさに最後の最後の姿を見届けたことになります。なお、この常磐炭礦西部鉱業所訪問の詳細は、グラフを含めてこの9月に発売を予定している『トワイライトゾ?ン・マニュアル 14』誌上でご紹介するつもりです。(写真はすべてユ76.7.29撮影)

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今年は国鉄本線上から蒸気機関車が消えて30年目に当たりますが、蒸気機関車の動力源である石炭産業もちょうどその頃、大きな転換点を迎えていました。政府の石炭鉱業構造調整対策は1973(昭和48)年のいわゆるオイルショックを経て第5次政策に突入し、大きなボーダーであった国内炭2000万トン体制は一気に崩壊してゆくのです。

昭和50年代に入ると、本州の大規模産炭地、宇部・山口炭田と常磐炭田からは壊滅的に炭礦は姿を消してしまいました。そんな状況の中で、大規模礦としては最後の採炭を続けていたのが、常磐線湯本駅近くの常磐炭礦西部鉱業所湯本(泉田)坑でした。

各地の専用線を訪ね歩いた日々の中で、この本州最後の炭礦=常磐炭礦西部鉱業所を訪ねたのは閉山を目前にした1976(昭和51)年夏のことでした。湯本駅と炭礦は「向田線」と通称された専用線で結ばれており、国道6号線を越えた先に広大な坑木置き場が、さらにその彼方には巨大な選炭場が聳え立っていました。

今風に言えばアポなしで突然訪問しただけに、撮影を断られるのではないかと危惧していたのですが、実際は断られるどころか大歓待され、斜坑内部まで案内してもらうことができました。ただ、期待していた軌道設備は、規模こそ大きいものの、とりたてて変哲のないもので(もちろん今となっては貴重ですが…)、その面ではちょっと肩すかしを食った感じでした。

水平坑兼用として構内入換えに使用されているのはトップの写真の6t電機No.39のみ。炭車こそそれこそ掃いて捨てるほど並んでいましたが、車輌面でも遅すぎた訪問を実感させられました。そんな中で多少なりとも興味を引かれたのが、写真下の自走式5tクレーンでした。坑木置き場と炭車修理場で使われていたもので、しつこくディテール写真を撮っていると、運転手の人が記念写真を撮ってくれと言います。気軽にOKしたものの、やおらどこかに消えていったその運転手さんが戻ってくると、ぞろぞろとえらい人数が集まってくるではありませんか。まぁ、考えてみれば職場で働いている姿を写真に撮る機会などまずないでしょうし、閉山を目前にして記念に残しておきたい思いもわかります。帰京後、蒸し風呂のような自室の簡易暗室で、このクレーンに取り付いた人数分のプリントを焼き、常磐炭礦へと送ったのでした。

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京津線は今…。

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321系の試運転にふられても気落ちしている暇はありません。向日町駅のホームでレイルロードの高間恒雄さんと、京都の高橋 修さんと落ち合う段取りになっています。

向日町駅ホームに着くなり、下り方ホーム端で両手で大きくバッテンをしている二人の姿が目に入りました。いわずもがな、321系にふられたのです。ただ、驚くことにホームで途方に暮れているのはこの二人だけではありませんでした。結構何人ものファンが、待てどくらせどやってこない線路の彼方を見つめているのでした。

ともかくきっぱりと321系はあきらめ、多少時間が空いたこともあって、手軽にどこか面白そうな所は…という私のリクエストに、地元の高橋 修さんが推薦してくれたのが京阪京津線です。京津線ならば東海道線で京都の次、山科ですぐに遭遇することができます。

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JR山科駅の正面に向かい合う形の京阪山科駅に来るのは2年ぶりでしょうか。この時は著者さんを訪ねてですから、当然写真など撮る機会はなく、思い返してみると京津線にカメラを向けたのは遥か8年前、1997年9月のことです。一ヵ月後に迫った地下鉄開業を前に、京津線名物だった蹴上の66.7‰を、80形がウンウン言いながら登っていた残暑厳しい日でした。左の写真がその時に捉えた昇圧前の京津線です。’97.9.28 蹴上

さて、現在の京津線は800形4輌編成の天下です。600V車のような風情は味わえないものの、追分から逢坂山を越えて浜大津までのロケーションは驚くほど変わっておらず、最急勾配61.0‰、最小半径40mというさながら庭園鉄道のような線形も昔のままです。上栄町を出ると、終点・浜大津まで路上を走りますが、逢坂山をバックに33.0‰近い路面の急坂をゆく4輌編成はなかなか見物です。トップの写真はこの上栄町を出て路面に踊り出た800形4連で、周囲に残るいかにも歴史を感じさせる旧家も独特の雰囲気を醸し出しています。’05.7.21 上栄町?浜大津

かつて琵琶湖連絡航路の港駅として栄えた浜大津駅は、今やご覧のような近代的な駅ビルとなり、石山坂本線との接続駅として賑わっています。この石山坂本線の方は写真の700形と600形2連が主力で、この浜大津から隣の三井寺までがなかなか味わい深い路面区間となっています。三井寺の琵琶湖疎水を渡る橋梁あたりも風情で、腰を据えて作品を撮りためれば、充分にRM GALLERYのテーマになりそうです。どなたか一度挑戦してみては如何でしょうか。

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321系にふられる。

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昨晩、安治川口(貨)駅で「スーパーレールカーゴ」第50列車を見送ってから大阪で一泊、今日は京都での打ち合わせです。ただ、ちょうど竣功したばかりの321系の試運転があるということで、行き掛けの駄賃といっては失礼ですが、途中でこの試運転列車を撮影することにしました。

といっても今回の出張は撮影目的ではないため、手持ちのカメラは胸ポケットに入れっぱなしになっている例のペンタックスOptioのみ。この手のコンパクト・デジカメ最大のウィークポイントは動態撮影に対応しきれないところで、シャッター優先などという設定はしようもありません。ではどうするか…。メニュー画面から感度設定をマニュアルに変え、感度設定を変えることによってシャッタースピードを変更するしかありません。しかもその確認はいちいち撮影モードに戻してシャッターを半押し、合焦時のみモニター上に一瞬出るシャッタースピードを確認するという面倒な手順を踏まねばなりません。それでもこのフローを瞬時にこなせるようになれば、高速シャッターやかなりのスローシャッターも可能で、コンパクトとはいえ結構侮れない活躍を期待できます。もちろんシャッターラグも一眼タイプの比ではなく、えっと思うほどのラグがありますが、これとても慣れれば結構どんぴしゃの位置で止められるものです。

さて問題は321系試運転です。ホーム端から安全に撮影できる場所はないかと思い、結局、摂津富田駅の4番線下り方ホーム端に決めました。ここはちょうど喫煙コーナーにもなっていて、気兼ねなくカメラ(といってもオプティオですが…)を構えることができます。

321系の試9212Mの茨城発車は11時ちょうど。茹だるような暑さの中、液晶モニターを見つめていると、彼方に見えた電車はどこかで見たような…。なんのことはない「試運転」の方向幕を掲げてやってきたのは221系ではないですか。いやはや、まさかこんなところでスカを食らうとは思いませんでした。というわけで、写真は変哲のない221系です。

第50列車、23:09定時発車!

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今日は「スーパーレールカーゴ」の取材で安治川口(貨)駅に来ています。昨年に比べて涼しい日が続いていた東京と違い、大阪はうだるような暑さで、今日もめまいがするような陽気です。おまけに大阪湾に面したここ安治川口駅構内は、汐っぽいねっとりと粘り着くような空気が支配しています。

安治川口と東京貨物ターミナルを結ぶ特急貨物「スーパーレールカーゴ」は、昨年春の誕生以来一年半、いまやすっかり新しい物流の顔として定着し、M
250系車輌は先日、鉄道友の会の“ブルーリボン賞”を受賞しています。

今回、安治川口駅での荷役作業を拝見していると、M250系車輌のみならず、システムとしての「スーパーレールカーゴ」を支える様々なハード・ソフトに気付かされました。

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そのひとつがこの24tトップリフターによる荷役作業です。搭載する佐川急便のコンテナは28個。1個ずつトラックに積載されてばらばらに到着するコンテナを、着駅での取り卸し順序を踏まえて積載してゆくのですが、これが実に巧みです。架線下荷役用の専用トップリフターというハードはもちろんのことながら、締結装置にぴたっと合わせてあっという間に積載してゆくオペレーターの神業的技量にも恐れ入りました。

第50列車、東京貨物ターミナル行き「スーパーレールカーゴ」の安治川口駅発車は23:09。すぐ目の前のユニバーサルスタジオでは、家族連れが夏休み初日の夜を迎えている中、50レは構内灯に照らされた無人の安治川口駅着発4番線を、定刻、滑るように発車してゆきました。最高時速130km/hで深夜の東海道を東京まで6時間あまり、明朝5:20には東京貨物ターミナルに到着するはずです。なお、この「スーパーレールカーゴ」関連記事は9月発売号誌上でご紹介できる予定です。

騰波ノ江にて。

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騰波ノ江(とばのえ)は関東鉄道常総線の駅で、難読駅としても知られていますが、1926(大正15)年8月15日の開業以来、ほとんどその姿を変えていないことから、「関東の駅百選」にも選ばれて認知度が一気に高まりました。

この春、何年かぶりでこの騰波ノ江駅を再訪する機会がありました。1999(平成11)年に無人化されてしまったとのことで、有人駅だった頃と比べると、一気に荒れてしまった印象は拭えませんが、それでも絵に描いたような地方私鉄の交換駅の風情が色濃く残っていて、まさに木造駅舎中の木造駅舎、しばし時を忘れて佇んでしまう魅力があります。

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難読の騰波ノ江の由来は、万葉集にも詠われた「鳥羽の淡海(おうみ)」と呼ばれる沼地が辺り一面に広がっていたことに因むらしく、確かに辺り一面には変哲のない平地がひたすら続いています。

改めてこの駅に来てみて、そのストラクチャーのディテールを微細に観てみると、80年近く前の遥か昔に、どれほどこの駅が地域の期待と誉れを担って建造されたのかがひしひしと体感できます。

関東地方には、同じく百選に選出されている小湊鐵道の上総鶴舞駅など、わざわざ足を向けてみるだけの価値がある駅建造物も少なくなく、車輌ばかりでなく、こういったストラクチャーを行脚するのも一興かもしれません。'05.4撮影

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昨日エコーモデルさんで買ってきたのが、マイクロエンジニアリング製のコード40と55のウェザード(ウェザリング済)の引き抜きレールです。模型をやっておられない方に解説すると、実物のレールが1m当たりのキログラム数(欧米の場合は1ヤード当たりのポンド数)で大きさを示すのに対して、模型のレールでは斤量ではなく、単純にレール断面の最大高さでその大きさを示します。これがコード(番数)で、最大高さが千分の何インチかで表記します。単純にコード100(100番)であれば高さ100/1000インチ、つまり2.54㎜ということです。

現在一般に流通している(といっても国内で扱っておられるお店はほとんどありませんが…)模型用レールで一番小さいものが、このマイクロエンジニアリング(レールクラフト)のコード40(40番)で、計算理論上は高さ1.016㎜と恐ろしいほどの細さです。

5年ほど前、セントルイス郊外にあるこのマイクロエンジニアリングの工場を見学に行ったことがあります。各種レールはもとより、フレキシブルレール(同社の商標ではフレックス・トラック)、ポイントからガーダーブリッジ、ストラクチャー類、果てはわが国でも“ホイールワークス”の名で知られているミニチュアカーに至るまで手広く製品を送り出している同社だけに、さぞや巨大な工場かと思いきや、実際に行ってみると拍子抜けするほど小ぢんまりとした所でした。

手入れの行き届いた芝生に囲まれた工場は中規模の幼稚園くらいの感じでしょうか。室内ではパートと思しきおばちゃんたちが袋詰作業をしているなど、何か日本と変わらぬ光景に思わず笑みがこぼれてしまいました。通常、小売はしていないそうですが、特別にマイクロスパイクという名の恐ろしく微細なスパイクと、当時新発売されたばかりのコード40用スリップ・ジョイナー(上写真)を分けてもらって帰りました。“直販”とはいうものの、さすがにレールは持ち運びが面倒で、なおかつ帰りの飛行機のことを考えると断念せざるをえませんでした。

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左の写真が専用のスリップ・ジョイナーを付けたコード40のウェザード・レールとマイクロスパイクです。実際に作業してみると、このコード40をマイクロスパイクでハンドスパイクするのはほとんど精神鍛錬にも似たものがあり、引き抜き1本打ち付けた時には人生観そのものが変わってしまっているやも知れません。

ところで、このコードと実物レール斤量との相関関係を換算した表をマイクロエンジニアリング社でもらいました。これは便利だと、さっそく日本式に換算してみたのが下の表です。もちろん単純に最大高さだけを換算し、ラウンドナンバーからもっとも近いJIS規格レールを示したものですから、決して正確なものではなく、あくまで目安でしかありません。それでもなかなか興味深い結果となりました。

付け加えれば、80分の1の16.5㎜ゲージで3’6”を表現する場合、もともとスケールよりゲージが広いだけに、単純に視覚的に線路だけを見れば、コード70で37kg/m、コード82で40kgN/m、コード100で50kgN/mと60kg/mの中間あたりとなり、まぁ実態にあった妥当なところでしょうか。150分の1の9㎜ゲージで3’6”を表現する場合はちょっと辛く、視覚換算でもコード40で37kg/m、コード55ですでに50kgN/mと60kg/mの中間あたりという値となります。

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ひさしぶりのエコーさん。

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都営地下鉄三田線本蓮沼駅A口を出て中仙道を志村方向へ、石材屋さんの角を曲がって次の路地を左へ…。開口一番、「電車での来かた忘れちゃったんじゃないの」と店主の阿部敏幸さんに突っ込まれながら、ひさしぶりにエコーモデルさんの扉を開きました。たしかに近年はクルマでお邪魔する機会が多かったのですが、かといって30年以上染み付いた本蓮沼からの路を忘れようはずもありません。

しばらく前にマイクロエンジニアリングの引き抜きレールを注文し、近々、一杯やる際にでもと軽口を叩きながら結局数箇月。ようやく時間を見つけて引き取りに伺ったというわけです。

多くの方がご存知のように、エコーモデルさんは昨今の模型界にあってはいろいろな意味で稀有な存在です。まず、Nゲージを扱っていない。この一点だけでも充分に特筆されるだけのことがあります。誤解を招かないために申し添えると、阿部さんは決してNを排斥しているわけではなく、限られたスペースで、それこそ究極の品揃えを目指すからには、ご自身が最もシンパシーを感じている16番に特化するのがベストだという思いによるものです。一度お出でになった方ならおわかりのように、とにかくその品揃えたるや尋常ではありません。それも完成品はもとより、パーツや素材のストック量が膨大で、阿部さん自らおっしゃるように、まさに16番モデラーの駆け込み寺的存在です。

そして何よりも、阿部さんを筆頭にした、スタッフの方の商品知識や技術知識の豊富さこそが、このお店の最大の美点でしょう。私たちの世代にとって、鉄道模型に限らず専門店というからには、“カウンターの内側”の人は外側、つまりは私たちお客さんより数段知識があり、疑問質問に応え、時には叱責してくれる存在という頭があります。最近の家電量販店などでは、きわめて初歩的な質問をしても「はぁ?」という対応をされることが少なくなく、カウンターの外側と内側の良い意味での旧来的なキャッチボールを楽しめるという点でも、エコーさんは稀有な存在と言えましょう。

以前、アメリカ最大の鉄道模型店「カブース・ホビース」を取材した時、ジェネラル・マネージャーから面白い話を聞きました。とにかく信じられないほど巨大な模型店ですから、当然ながら在庫管理はコンピュータによっているものと思いきや、何とあえてコンピュータ管理をしていないというのです。なぜならば、各担当がコンピュータ任せにせずに自らの頭で管理することによって、どこにも負けない商品知識が身につくからだというのです。カブース・ホビースのスタッフは、全員がジョンだのマイクだのといったニックネームのプレートを付けており、初めての買い物客には必ず「担当」がついてくれる形になります。聞けばこの担当との関係は何十年も続いている例さえあるそうで、テクニックの指導から果てはホームレイアウト製作の手伝いまで、とことんサポートしてくれるのだそうです。

写真は「RMの記事見てぼくもペンタックスOptio買っちゃったよ」とおっしゃる阿部さんと、互いのオプティオで撮りっこした際のツーショットです。新しいお店とばかり思っていたエコーモデルさんも今年で開店32周年。年末には阿部さんも還暦を迎えられるそうですが、これからの時代、いよいよエコーさんの存在がきらめいてくるに違いありません。

トレーラーバス その後。

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形式:T13B/T26
メーカー:日野ヂーゼル工業(現・日野自動車)
      車体製作=日國工業
製造初年:1949(昭和24年)
機関:DA55形水冷6気筒ディーゼルエンジン
排気量:10852cc
機関最高出力:115PS/1800r.p.m.
主要寸法:全長13830×全幅2400×全高3030㎜
定員:96名(座席41名、立席51名、その他4名)
用途廃止:1957(昭和32)年3月末
譲渡等処分:トラクターヘッド部のT13Bのみ宮川興業に譲渡払い下げ。

唐突に何の話かとお思いでしょう。トレーラーバスの話です。実は8年ほど前の1997年春、姉妹誌『Model Cars』編集部がトレーラーバスの小特集を組み、この特集に合わせて、1/43スケールのレジン製プロポーション・モデルを限定200個作りました。1/32スケールが主のこの手のミニカーの世界にあって、あえて1/43を選んだのはプロトタイプがあまりに巨大なためなのでしょうが、7㎜スケール(1/43.5)を採っている私にとって、少なからず興味を引かれる企画でした。しかし客室部を含めたバスとしては当方のレイアウトでは活用しようもなく、トレーラーヘッドだけ何とか手に入らぬものかと虎視眈々と狙っていたのでした。

当時の『Model Cars』は季刊から隔月刊(現在は月刊)になったばかりで、しかも名目上は『RM MODELS』の増刊扱いでしたから、編集長(当時)の私の熱い視線に耐え切れなくなったのか、ある日、長尾編集長が「欠品の半端モノですけど…」とトレーラーヘッドを“献納”してくれました。

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願ってもないプレゼントにホクホクと持って帰ったものの、改めて見てみるとえらく大きいではないですか。これは1/43というのは「公称」であって、実はオーバースケールなのではないかとノギスを出して計ってみると、縮尺どおりに違いありません。それもそのはず、市街地での取り回しを考慮して前モデルより250㎜短縮されたとはいえ、トラクターヘッドのホイールベースだけで3450㎜もあります。つまり1/43で80㎜。何のことはない、実物があまりに巨大なのでした。

こうなると、トラクターヘッドだけ牽引車としてレイアウトの中に組み込もうという算段は脆くも崩れます。とにかく他の車輌と比べて異常に大きすぎるのです。それともうひとつ。鉄道模型の世界では当時あまり馴染みのなかった、レジンというマテリアルそのものの扱いにくさに突き当たってしまいました。ブラスモデルに慣れた目からは窓桟などの肉厚さはとても耐え切れず、ルーターで内側から肉そぎを試みたものの、あのレジン特有の“ぬちゃ”とした感覚も不快で、結局、形にならぬまま放置することになってしまったのです。

何年もの間、このトラクターヘッドの存在すら忘れていたのですが、何のきっかけだったか、ある日急にレイアウトの“ストラクチャー”のひとつとして活用してみようと思い立ちました。観る方向が決まっているレイアウトの場合、手前にオーバースケール目、最奥にアンダースケール目のストラクチャーを配した方が遠近感が演出できるのは常套手段ですが、その手法に従って、手前側に配する廃車体として活用してみようというわけです。

こうなると話は早く、テスターズのダルコートを全面に吹いて「ラッテンストーン」に漬けること一ヶ月、とりあえずは“らしい”廃車体の一丁上がりです。ラッテンストーンは『RM MODELS』1995年12月号の私のコラム「彼岸のモデラー」でも紹介しましたが、あのガゼット誌上で数々の伝説的メーキャップ手法を紹介しているレイン・スチュワートさんご推薦のエージング法で、特に廃鉄の表現方法としては秀逸なものです。

後部の連結ピン部分には、アメリカのコンベンションで仕入れてきたプラ製のジブクレーン・キットを取り付け、ストーリーとしては、某バス会社で不要となったものの、軍用車輌を祖先に持つ低速トルク型エンジンを買われて、とある砂利屋に再就職、スクレーパーの牽引や、用のなくなった連結ピン部にクレーンを付けて何かと重宝されていたものの、昭和40年代に入って結局廃車、そのまま河川敷に放置されている…そんなところでしょうか。というわけで、冒頭のスペックのうち「用途廃止」以降はこのプロットのためのフィクションです。

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6月21日の本欄でお伝えした上野駅Breakステーションギャラリーでの写真展「??定点観測に見る山手線29駅の32年?? 山手線・1973年夏」がいよいよ明日から始まります。今日(15日)は午後から搬入作業とディスプレーが行われ、夕方にはオープンできる状況となりました。またJR東日本のBreakホームページにも案内がアップされましたので、どうかご覧になってみください。


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左は13日付東京支社広報発表の“プレスリリース”です。上野駅正面玄関口の改札前二階とはいうものの、なかなかわかりにくい場所で、果たしてどれだけの皆さんにご覧いただけるものかちょっと心配ではあります。

29駅の定点観測(76点)をスライドショーとしてお見せする、東京都写真美術館が制作してくれたDVD画像はなかなか面白く、会場のPDPモニターで流しっぱなしになっていますのでご高覧ください。

今回、この現況編を撮影してくれたのはRM編集部でアルバイトをしている大学生の松本浩司君です。時間を避けない私に代わって数日で29駅を回ってくれ、東京都写真美術館の関次学芸員をして、画角の正確さを絶賛される撮影をしてくれました。32年ぶりの定点撮影を私本人がこなすことはかないませんでしたが、期せずして、次世代へバトンタッチする「定点撮影」の意義に気付かされもしました。

ひとりが自己完結として「定点撮影」をできるのは果たして何十年でしょうか。もとより百年の定点撮影をひとりがこなすことは不可能ですが、意思を持って撮影し、本人がその“上書き”をできるのは、せいぜい15歳→65歳、つまりは50年のスパンといったところではないでしょうか。今回のスパンは32年。次の32年後には私は存在していませんが、今回現況撮影をしてくれた松本君なり、データ化をしてくれた東京都写真美術館なりがバトンを受け継ぎ、2037年、どこかで再び「山手線29駅の32年、そして64年」を開催してくれれば嬉しい限りです。

「吹越」のこと。

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「吹越」と書いて「ふっこし」と読みます。大湊線の無人駅で、その名のとおり陸奥湾からの強風が容赦なく吹きつける海岸沿いの小駅です。

判然と理由はわからないものの、なぜか引きつけられて再訪してしまう駅がありますが、私にとってこの吹越駅はまさにそんな駅です。最初の訪問は確か1972(昭和47)年の3月。南部縦貫鉄道を訪ねるため野辺地で急行「八甲田」を降りたものの、予定していた青函連絡船までは12時間近くも時間があり、それでは手近なところで大湊線のC11でも撮ろうかと足を向けたのでした。

当時、大湊線のC11は大湊線管理所に167、215、224、225の4輌(うち1輌は一休)が在籍、大湊?野辺地間の貨物仕業が一日2往復設定されていました。ただ、そのうち2本は早朝と夜の運転で、撮影可能なのは日中の1往復だけという状況です。当時はC11の貨物がこの程度の運転頻度とあってはあえて目を向けられるはずもなく、実際のところ私も“行きがけの駄賃”程度にしか考えていませんでした。

撮影ガイドはおろか、写真すら見たことのない路線ですから、いったいどこで降りたものやら…。野辺地を出たキハ22は大きく北へ進路を変え、北野辺地を過ぎたあたりから荒れ狂う陸奥湾沿いを走ります。いや、これは五能線ばりの凄まじさだな、などと思いながら車窓を見ていると、次の有戸の先で今まで海側を走っていた国道が内陸側に移り、線路は波しぶきを被らんばかりの海岸線に踊り出るではありませんか。見ると次の駅はその名も“ふっこし”。よし、ここで降りてみようと決めました。

この時の吹越は名にしおう荒れ方でした。何しろマミヤフレックスを載せた三脚が、手を離した途端に数メートル先の潅木の中に吹き飛ばされたほどですから、撮影どころではありません。陸奥湾を埋め尽くす波頭と海鳴りは、当然のことながらこの日の青函航路の欠航を暗示していたのですが、撮影中はそこまで気が回りませんでした。

いつかは再訪を…と思わせる何かがこの駅にあったのかもしれません。1973(昭和48)年の夏に再び吹越のホームに立ちました。今度は陸奥湾もおとなしく、荒涼とした浜で潮風にあたりながら待つことしばし、C11は想像以上に長い貨物を牽いて姿を現しました。写真はその時の793レの姿です。’73.8.9 有戸?吹越


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枕木で土留めしたホームに木造の小さな待合室。吹越駅は典型的な国鉄ローカル線の無人駅です。『停車場一覧』(国鉄)によると、開業は1943(昭和18)年3月20日。戦争の最中に開業したのには何かそれなりの理由があるのでしょう。東へ向かう駅前の小路はあの六ヶ所村へと続いています。ちなみに「吹越」の名は駅南東側にある吹越烏帽子岳(標高507.8m)から名付けられたそうです。’73.8.9撮影

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今日(13日)は午後から東京地下鉄13号線の新宿御苑工区の視察会に参加しました。地下鉄13号線は池袋から明治通りの地下を南下し、雑司ヶ谷、西早稲田、新宿七丁目、新宿三丁目、新千駄ヶ谷、明治神宮前(いずれも仮称)を経て渋谷に至る8.9kmの路線で、営団時代から延々と続いてきた東京の地下鉄建設の最終区間となります。

すでに東武東上線志木~和光市間(線増部分)および有楽町線和光市~小竹向原?新線池袋間は先行開業しており、この池袋(新線池袋)?渋谷間の本工事が完成(平成19年度)すると、2008(平成20)年春には東武東上線、西武池袋線との相互乗り入れ運転が始まることになります。さらに、2012(平成24)年度に予定されている東急東横線渋谷駅の地下化完成とともに、東急東横線への相互乗り入れも開始される予定で、最終的には飯能発元町・中華街行や、元町・中華街発森林公園行などという列車が走りだすのでしょう。

写真は直径約10mの巨大なシールドマシンで掘削中の“切羽”です(どうも最近は切羽などという言葉自体が死語のようですが…)。場所はちょうど新宿駅の高島屋タイムズスクエア直下で、普段は気づきませんが、高島屋や東急ハンズの足下でこのシールドマシンが24時間掘進しているのです。

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ちょっと見にくいですが、6月20日現在の工事進捗状況だそうです。すでに西早稲田や新千駄ヶ谷駅などはほぼ完成状態にあり、全体の進捗率は53.9%とアナウンスされています。

一見それほど大深度でもなさそうで、比較的楽な工事に思えますが、さにあらず。自社の地下鉄路線はもとより、都営地下鉄・JR線、首都高速、さらには地下街やらライフラインの埋設物やらが複雑怪奇に入り乱れた東京の中心だけに、はっきり言って掘りようがない状況だったそうです。そこであらゆる最新の技術を投入し、既設構造物を“保持しつつ掘進する”という大難関工事となっているのだそうです。

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その一例がこの写真です。丸ノ内線新宿三丁目駅付近の13号線シールド部ですが、実は丸ノ内線のトンネル直下ぎりぎりを掘進しているのです。写真上側の表示板が貼ってあるのが丸ノ内線のトンネル構体で、この部分だけで5000トンある丸ノ内線を、おびただしい数の支柱で支えているというのだから驚きです。

シールドマシンそのものも、このような困難な条件を踏まえて研究開発が進められ、明治神宮前?渋谷駅間の工区では楕円形に掘削できるマシンまで投入されているそうです。ちなみに、円形のカッター部がどうして楕円形に掘進できるかというと、カッター部がコンピュータ制御で楕円形に伸縮しながら回転するのだそうです。

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ところで、地下鉄工事といえば付き物なのがズリ出し用の坑内軌道です。ちょっとばかり楽しみにしていたのですが、さすがに21世紀の現代ともなればズリ出しはすべてベルコンとなっており、シールドマシンの延伸用にわずかな軌道が敷設されているのみでした。

実測によるとゲージは3フィート(914㎜)。シールドマシンの説明を聞かずにレールにメジャーを当てている"不審者"に、現場の方から「あ、これは地下鉄の走る線路じゃありませんよ」と温かい解説が…。失礼しました。余談ながら、わが国初の地下鉄=東京地下鉄道(現・銀座線)の建設には2フィートゲージの米国ホイットコム製ガソリン機関車が使われました。防爆装置さえないガソリン機関車が平気で地下工事に使われていたのですから、今から思えば信じられないことです。

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夏になると決まって思い出すのが、夜行列車を待って並んだ熱帯夜のホームです。ロザ・ロネでもなければ冷房などなかった時代、蒸し風呂のようなホームはまだまだ地獄の前哨線で、これから朝まで延々寝苦しい夜が続くことになります。

学割周遊券を片手にひたすら全国を行脚していた身にとって、それでも夜行列車は何にも代えがたい味方でした。宿泊費が浮くという金銭的なメリットはもとより、早朝に目的地に着ける利点は絶大で、いったいどれほど多くの夜行列車を利用したことでしょうか。夜行の連泊記録を自慢する方も少なくありませんが、私が1972年夏の九州で“達成”した、連続15泊16日はちょっとした記録ではないかと自負しています。

そういえば、あの頃は上下の夜行を乗り継ぐ「ターン」もお得意でした。ご同類も多く一番“流行って”いたのが、石北本線の急行「大雪」を使ったいわゆる「上川ターン」でした。札幌を22:15に出た517レ下り急行「大雪6号」の上川着が2:06、網走を20:30に出た518レ上り「大雪6号」の上川着が2:07、発車が2:12ですから、定時であればぎりぎり乗り継げるわけです。睡魔を堪えてこのターンを成功させれば、再び翌朝6:13には札幌に舞い戻ってこられるわけで、まさに周遊券を最大限に利用した宿泊術でした。

ただ、517レと518レは上川駅の対向式ホームに入線する形となり、定時で6分の余裕時分の間に跨線橋を越えねばなりません。ある冬の夜、この上川ターンを試みてえらい目にあったことがあります。カレチに518レの定時を確認して上川ターンにかかったものの、降りようとした客車のドアが凍結して開かないのです。ようやく蹴り開けて外に飛び出したものの、何と車輌がホームから外れており、積雪1m以上あろうかという雪の中に垂直に突き刺さってしまいました。すでに対向ホームには518レが入線しており、おたおたしているうちに、2分ほど早く発車する517レの発車ブザーが鳴り始めてしまいました。万事休す! 厳冬の上川で夜明かしか…と思ったとき、さきほどの517レのカレチが、もがいている私に気付いてくれました。おかげで518レは私が乗り移るのを待ってくれ、再びスチームの利いた車中の人となることができました。

思えばあの頃は1218レ「すずらん6号」から1217レ「すずらん6号」への「東室蘭ターン」など、夜行列車を骨の髄まで吸い尽くす日々でしたし、逆にそれだけ夜行列車の本数が多く利用しやすかったともいえます。

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前振りが長くなりましたが、今月、7月21日発売のRMは「夜行列車」を特集します。無理をお願いして三宅俊彦さんに作成いただいた戦後の夜行列車の消長グラフは、ここ30年ほどでいかに夜行列車が激減したかをビジュアルに証明するものともなり必見です。また、これからご注目いただきたい「彗星」のヒストリーや、最盛期の東海道夜行列車回顧などもお薦めです。

特集以外でも、今何かと注目の名古屋・岐阜エリアを体感レポートする「Let’s enjoy 名古屋編」、知られざる身近な路線にこだわったRM GALLERY「小名木川貨物線」など多彩な内容でお送りします。また、復活した連載「SL甲組の肖像」は鷲別機関区編、ご好評をいただいている片野正巳さんの付録リフィール「1号機関車からC63まで」は第3回がついています。

さて、トップの写真はちょうど32年前、真夏の東京駅13番線で発車を待つ101レ急行「銀河1号・紀伊」です。この当時の東京駅は、特急タイムが終わった20時以降、今度は夜行急行タイムが始まり、臨時を含めると15~30分ヘッドで5本の「銀河」が下ってゆく、今となっては信じられない状況でした。この日の牽引機は浜松区のEF58 161。マシ号車を含めた長大編成の先頭に立ったゴハチは、ノッチをパラ最終段まで進段させて、漆黒の東海道を下ってゆくのです。'73.7.30 東京駅

続・“N電”健在。

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一昨日、梅小路公園の“N電”のことを書きましたが、ご存知のように“N電”は国内ではもう一箇所、博物館明治村でも動態保存されています。というよりも、こちらは1967(昭和42)年から動態保存されており、間もなく保存開始から40年になろうという大先輩です。

博物館明治村は元名古屋鉄道会長・土川元夫氏らが、高度成長下で次々と取り壊されてゆく明治期の建造物を惜しみ、その屋外保存を目指して1965(昭和40)年に開村した施設で、1874(明治7)年シャープ・スチュワート製の12号や、1912(明治45)年ボールドウィン製の9号蒸気機関車も動態保存されており、一度は訪れてみたいミュージアムです。

ほぼ原形に復された"N電"は、園内の市電名古屋駅?市電京都七條駅?市電品川燈台駅間を1時間に3往復(所要10分程度)ほどし、先頭部に乗ると直接式のコントローラーや、ガラガラと盛大な音を立てて巻き取るブレーキハンドルなど、いわば電車の原点を体感することができます。

保存されているのは旧番8号と15号(現在は1・2)の2輌で、保存にあたって前後2本のポールを1本に復元しているため、終点では例のポール回しも見られます。

100万平方メートルと広大な園内には歴史的施設が67も点在しており、緑豊かな自然とあいまって、夏休みにはお薦めスポットです。
ところで、メインゲートを入ったすぐのところには、神戸で明治20年頃から「牛鍋」を出していたという大井牛肉店の洋館があり、この二階では実際に炭火の牛鍋を賞味することができます。少々お値段ははりますが、これからの季節、開け放した窓からの風だけをたよりに食べる牛鍋は格別なものがあります。'03.8.31撮影

“みどり池”の季節。

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“みどり池”とは、北八ヶ岳山麓の標高2090mにある小さな池のことです。登山にはまったく興味がありませんが、この十年間で3回も、この“みどり池”目指して登山の真似事をしてしまいました。なぜなら、ここ“みどり池”への登山道には、かつての長野営林局渋森林軌道の廃線が、奇跡的にしっかりと遺されているからです。

小海線の松原湖から西へ、稲子湯(渋湯)から白駒林道を1キロほど入った地点から“みどり池”への登山道が始まります。といっても、ここから線路があるわけではなく、最初の遺構に出くわすまではかなり歩かねばなりません。シラビソの森を縫うように、信じられないヘアピンカーブを描いた軌道が姿を現すのは一時間ほど歩いた“こまどり沢”あたりからです。

写真はその“こまどり沢”にいくつも見られるΩ状ヘアピンの一例です。『トワイライトゾ~ン・マニュアル8』での竹内 昭さんの調査によると、この渋森林軌道は戦後に建設され、昭和37年に廃止されたそうで、動力は最後まで馬力でした。実際に歩いてみると、人間でさえ登るのに苦労する急坂を、空台車を牽引した馬がよく登れたものだと関心してしまいます。そして、それにも増して考えられないのは、盈車(えいしゃ=積車)を乗り下げる作業員の度胸です。台車の木材の上に跨り、ワイヤーロープひとつでブレーキを扱ってこのカーブ続きの急坂を下るのですから、言葉を失います。伝え聞くところでは、他所から来た乗り下げ経験者でさえ、この渋軌道の坂を見て怖じ気づいて帰ってしまったということです。

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終点の“みどり池”には「しらびそ小屋」という宿泊施設も兼ねた山荘があり、門外漢ながらちょっとした登山者気分を味わえます。現役当時の写真でも残っていれば…と思ったのですが、残念ながらこの山小屋は軌道が廃止になってから建てられたものだそうで、収穫はありませんでした。

写真は今から3年ほど前、広田尚敬さんを案内して訪ねた時のこの「しらびそ小屋」近くの軌道です。今まで3回とも訪問は初夏。この季節になると、林鉄の残影を求めて、ひさしぶりにまた“みどり池”を目指してみたくなってきます。'02.6.7撮影

“N電”健在。

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梅小路というと昨年90周年を迎えた梅小路運転区+梅小路蒸気機関車館を思い浮かべますが、実はもうひとつ、梅小路には京都市電北野線の、いわゆる“N電”も立派に動態保存されています。

といっても、こちらは(財)京都市都市緑化協会が運営する「梅小路公園」の中の施設で、広大な梅小路公園の西端、ちょうど梅小路蒸気機関車館のラウンドハウスの裏手を3分の1周するような形で、300mほど線路が敷設されています。

聞くところによれば、1994(平成6)年の平安建都1200年記念事業として復活が決まり、同年9月の「第11回全国都市緑化きょうとフェア」を機に運転が開始されたそうです。車輌はNo.27。京都市交通局で保管されていたものを、往年の姿に復元したとのこと。今では国内ではほとんど目にすることのできないポール回しも健在で、充分に一見の価値があります。

“N電”とはわが国初の営業電気鉄道・京都電気鉄道の末裔である北野線とその車輌を指します。標準軌で路線網を築いた京都市営電気軌道が、3ft6in軌間の同社を吸収したことにより、ゲージの狭い、つまりナローな北野線の車輌記号に“N”を冠して区別したことに由来し、この辺の事情はRMライブラリー『N電 ?京都市電北野線?』に詳述されています。

ただちょっと残念なのは、せっかく同じ“鉄道車輌の動態保存”に取り組んでいるにも関わらず、フェンス1枚隔てた蒸気機関車館と公園が今ひとつ連携がとれていない点です。蒸気機関車館側にはN電側には通り抜けられない旨の表示看板がありますが、どう行けばよいのか、さらに理想を言えば、運転日や運転時間といったインフォメーションはありません。

その点、欧米の保存鉄道や博物館は横の連携が素晴らしく、相乗作用で保存活動そのものを盛り上げてゆこうと、様々な取り組みをしています。数年前に日本鉄道保存協会の総会で、せめて相互にパンフレットを常備しては…という私の提言から、一部では専用のラック等が設けられ、さらに加盟団体の横断的な紹介パンフレットが作られましたが、この手の取り組みはわが国ではまだまだ始まったばかりといえます。

最後に、この梅小路公園のN電の運転ですが、年末年始を除く土曜・日曜・祝日の10:00~16:00(乗車料金300円)で、それ以外は車庫に入ってしまっていて見学はできませんので注意が必要です。'04.2.15撮影

321系まもなく登場!

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昨日“プレスリリース”の話を書いたばかりですが、今日(8日)のプレスリリースで私たちにとっては大きなニュースが飛び込んできました。JR西日本の次期通勤型標準車輌321系の新製投入についてのリリースです。

リリースには「JR京都線及び神戸線の輸送及び旅客サービスの向上や業務支援機能の充実を図るため、今後の通勤電車の標準となる321系通勤形直流電車を新製投入しますので、その概要についてお知らせします」とあり、ご覧のようなカラーのレンダリングも添付されています。今年2月に先行発表されたレンダリングと比較すると、オレンジ色の帯が追加されるなど、エクステリア・デザインも修正されているようです。

7輌固定編成で、平成17年度に16本112輌、翌18年度に20本140輌、合計252輌の大量投入となるそうです。ロングシート部の一人幅を470㎜の6人掛け設定とするなど、全体にゆとりある使いやすい仕様と紹介されています。

主な走行線区は「神戸線・京都線・宝塚線」で、本年秋以降順次営業運転に投入されるそうです。あの尼崎事故の教訓を十二分にいかした、人びとを幸せにする交通手段としての活躍を願ってやみません。

"プレスリリース"の話。

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あまり知られていませんが、JR各社には国鉄時代から延々と続く記者クラブ組織があり、定例記者会見をはじめとして、毎日さまざまな“プレスリリース”がこの記者クラブ宛に配信されます。新聞各社などは広報部内に各社専用のポストが用意されており、業界用語で言うと、ここにリリースが「投げ込まれる」わけですが、鉄道誌の場合は当番制で各社に配信する形をとっています。

このリリース、ダイヤ改正時や各社の決算発表、事業計画の発表などの際は膨大な枚数になり、ひととおり目を通すだけでも結構大変です。さらに時には、やはり業界用語で言うところの「しばり」のかかっているものもあります。「しばり」とは、公表できるタイミングを制限することで、例えば「新聞=〇日夕刊以降、テレビ=〇日18時ニュース以降」のような条件が付されるケースです。「報道」の本旨からすればちょっと奇異に感じられるかもしれませんが、無用の混乱を避けるためには避けて通れない面もあります。

写真は昨日(6日)付けのJR各社のプレスリリースで、参考までにどんなものがあるか列挙してみましょう。
●「Suicaペンギングッズの発売開始について」=JR東日本本社広報部報道グループ
●「エキナカ商業施設第2弾『ecute(エキュート)品川』10月1日グランドオープン」=JR東日本本社広報部
●「臨時列車『特急コンサドーレ号』運転と応援ツアー発売のお知らせ」=JR北海道本社広報
●「流山温泉に『ふれあい牧場』オープン!」=JR北海道本社広報
●「石北本線無人駅探訪と丸瀬布温泉・SL森林鉄道・ローカル線の旅 参加者募集開始」=JR北海道旭川支社広報
●「超電導リニア試乗会参加者募集」=JR東海本社広報
●「さよなら『SLあそBOY』企画・第1弾記念オレンジカード発売決定」=JR九州本社広報
といった具合です。

実はこの日のように比較的“平和”な話題ばかりとは限らず、鉄道“趣味”誌編集者としてやりきれない残念な思いを抱くことも再々です。できることならば、日々前向きなプレスリリースにお目にかかりたいものです。

そうこうしているうちに今日(7日)付けのプレスリリースが流れてきました。「東京ミレナリオ開催決定・12月24日から…」、もうクリスマスシーズンの話です。同リリースには、続いて「東京ミレナリオ2006年以降の休止について」との見出しもあります。東京駅丸の内本屋が1914(大正3)年創建当時の3階建てに復元されるにともない、その工事期間中(本年度末?2011年竣工予定)は開催できなくなる…というものです。そう、戦後生まれの私たちには見慣れたあの丸の内本屋も、間もなく見納めとなってしまうのです。

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毎年7月に発売している『JR全車輌ハンドブック』ですが、ことしは一ヶ月遅れの8月20日発売となります。というのも、実はこの2005年版には大きな"仕掛け"があるからです。

膨大なデータと画像(ちなみに2005年版は総頁なんと684頁!です)を毎年追加・更新してきていますが、手作業で進めていた十年前ならいざ知らず、最近は印刷会社の協力のもと、画像を含めてすべてをデータ管理して作業を進めています。こうなると当然、せっかくあるデータを、紙のみならず電子データとしてもご活用いただきたく、今年度版からデータベースDVDを付録することにしました。

発売が例年より一ヶ月遅くなるのは、検索エンジンをはじめとしたシステムの検証が必要なためで、すでに紙の校正を9割方終了した担当の新井副編集長が、現在懸命にこの検証作業にかかっています。

容量の関係もあって当面は縦横無尽な検索エンジン…というわけにはゆきませんが、必要最低限プラスアルファの検索機能は盛り込んでおり、デモDVDを見ていると、アナログ世代にはちょっと感動モノの便利さです。

写真はEH500のデモ画面ですが、「EH」や「500」といったキーワード検索はもとより、そこに所属区所などの絞り込みを追加したり、並べ順をソートしたり、正直言ってかなり“使える”データベースに仕上っています。さらに誌面ではモノクロの画像も、大半がカラーでご覧いただけるようになります。なにはともあれ、ご期待ください。

KTXに乗る。

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ちょうど一年前になりますが、JR九州さんからのお招きで、開業間もない韓国高速鉄道“KTX”に試乗する機会を得ました。博多を起点に、JR九州の高速艇“ビートル”を利用しての1泊2日の視察会です。すでに何回目かの開催で、今回は九州の記者クラブがメイン、東京の鉄道六誌連絡会からは私と『鉄道ピクトリアル』の今津編集長が参加しました。

写真はソウル駅ホームでずらりと並んで発車を待つ“KTX”です。“KTX”とはKorea Train eXpressの略で、ソウル~釜山回廊の激増する交通需要に対応するため、1989年から十数年がかりで結実したKHSR(Korea High Speed Rail)プロジェクトの成果です。さまざまな紆余曲折を経て、1994年にはフランスのTGV方式が採用されることが決まり、結果として写真のようにTGVと瓜二つの外観をもつペンデルツーク18輌(前後の動力車を含めると20輌)編成が誕生しました。

近未来新幹線試験車E954などから比べると、今や一時代前の先頭部形状ですが、逆に今となっては鉄道車輌らしい“表情”とも思え、サイボーグ的ながら、何となく親しみの持てるスタイルでもあります。

余談ですが、E954はもとより、一般報道では「空力を考慮した先頭部形状」が喧伝されますが、実際に高速車輌開発に携わっておられる技術者の方に伺うと、むしろ「後部形状」こそがキモだと言います。つまり、飛行機のように走行方向が一定ならば先頭部形状をメインテーマにすることもできるでしょうが、鉄道車輌の場合、折り返し運転が前提ですから、先頭部は数時間後には後部となるわけです。先頭になった時には空力に適い、後部になった時には無用な浮力やバタつきを起こさない形状こそが不可欠なのだそうです。

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すっかりおしゃれになり、さながらヨーロッパのターミナルのような新ソウル駅コンコースです。韓国鉄道庁の路線延長は3129km、電化率21%(2001年現在)。ナローの水仁線なき今、すべてスタンダード・ゲージとなっています。

“KTX”は第一段階開業としてソウル~東大邸(トンテグ)間409kmを開業、東大邸~釜山間は在来線を走る形となります。ソウル(龍山)~東大邸間の高速区間は300km/h運転が可能で、開業2ヶ月後とあって路盤状態も良いのか、揺れも少なく非常に快適な乗り心地でした。釜山まで2時間40分の所要時間ですから、おおむね「のぞみ」の東京~大阪間といった感じでしょうが、隧道(最長で約10km)や視界を遮る防音壁等が少ないこともあってか、視覚的ストレスも少なく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

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1等車の室内です。1+2の座席はシートピッチ1120ミリとゆったりとしており、快適な空間です。その一方、2等車(普通車)の座席は2+2で、しかも簡易リクライニングではあるものの、いわゆる“集団見合い型”レイアウトとなっており、開業直後に行ったアンケートでも、走行方向と逆を向くシート配置への不満が上位を占めたそうです。

ちなみに、画面前方の人々は、韓国鉄道庁公報部長の車内インタビューに群がるテレビ・新聞各社の面々です。

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ところで、韓国鉄道庁のお歴々がとうとうと説明する車内でちょっと?なものを発見してしまいました。なんと窓ガラスにクラックが入って、そこをテープのパッチで塞いであるのです。いや、正直言ってこれにはびっくり。しかもよりによって日本からそれなりのメンバーを招待して貸切の1等車です。本家フランスのTGVも乗ってみるといろいろとアバウトなところはありましたが、さすがに300km/h走行する窓にパッチを当てているのは見たことがありません。

開業('04.4)一ヶ月後の利用客は予想需要の47%と発表されており、逆に大邸をはじめとした地方空港の需要激減、さらにはKTX建設費による鉄道庁の累積負債が、地方交通線の整理という形で転嫁され始めるなど、その前途は決して順風ではなさそうです。あれから一年、今、KTXはどうなっているか気になるところです。(写真はすべて'04.6.25撮影)

空き地のマッファイ発見!

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1960年代ででもあれば、未知の蒸気機関車が空き地に放置されていた…などということもあったでしょうが、21世紀の今日、そんな話があるハズがありません。ところが、昨年秋、信じられない荒唐無稽な話を自ら体験してしまいました。

場所は九州・宮崎。都城市立美術館で開催されていた写真展・永遠の蒸気機関車「くろがねの勇者たち」の記念シンポジウムの司会を仰せつかり、前夜はパネラーの奈良崎博保さんや大塚 孝さんらと打ち合わせを兼ねた夕食をとりました。

その席上でのことです。市内に保存されている宮崎交通のコッペル1号機などの話をしていると、お世話下さっている美術館学芸員の原田正俊さんから意外な発言がありました。「そういえば、近くに小さな蒸気機関車が放置されているところがありますが…」。

ちょっと待って! 「小さな蒸気機関車」がそんじょそこらに落ちているわけがありません。「それは遊園地の遊具とか、100円入れて跨るヤツでしょう?」とハナから話半分で水を向けると、「いや、ちゃんと石炭を焚くヤツですよ」と言うではないですか! すわ一大事。シンポジウムの打ち合わせが翌日昼からなのをこれ幸いと、翌早朝から現地に向かってみることにしました。

レンタカーの助手席には講演会の講師でもある斎藤 晃さん。斎藤さんも「本当かねぇ」と半信半疑の様子です。最近はカー・ナビという便利なツールがありますので、原田さんから教えてもらった詳細緯度・経度を入力していざ出発です。

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都城から走ること1時間ほど、果たして目の前には見知らぬ蒸機が、それも2輌も放置されているではないですか。手前の草むらにいるのは明らかにナローのプランテーション・ロコとおぼしきDタンク、奥には後付けと思われるテンダーを従えたBサドルが初秋の日差しを浴びて佇んでいます。

Dタンクの方はボイラにかろうじて銘板が残されており、それによると1924年、ドイツはミュンヘンのマッファイ製(製番4135)で、ゲージは恐らくメトリックの600㎜。オイルバーニングに改造されているようです。もう片方はポーター風ではあるものの定かではなく、エンドビームのバッファーが目を引きます。ゲージは1000㎜または3’6”。いずれも野ざらしの割りには状態は悪くありません。

とにかくシンポジウムの打ち合わせまでには戻らねばなりませんので、ひととおり調べたところで時間切れ。それでも、斎藤さんと思わぬ拾いモノに大満足の朝のひとときでした。

いったいどういう経緯でこの2輌が放置?されているのか、原田さんに調査をお願いして帰京したのですが、現在のところまだ状況は判っていません。一説によるとフィリピンなどから輸入され、一時は四国に置いてあったとの話もあります。いずれにせよ、現代の御伽噺を実体験させてくれたこの2輌に、感謝感謝です。'04.10.24

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数年前から比べれば格段に治安は良くなったとはいうものの、独立派による散発的なゲリラはまだまだ続いているようで、時折、機関銃を携えた軍がキャブに“添乗”して監視を行っています。写真は逆機でローディング・ポイントへ向かうNo.789のキャブに仁王立ちの兵士たちです。

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ライツ・ビジネスの先駆であり、その厳格なコンテンツ管理で知られるディズニーも、さすがにここまでは目が届かぬらしく、炭礦事務所脇には安全第一を呼びかける怪しげな“ミッキー”の看板が…。

ところで、炭礦長を表敬訪問してお話を伺っていると、このミッキーの看板の奥の山を越えたところに、日本人の墓があるというではないですか。しかも、何年か前には日本人が墓参にやってきたと言います。にわかに状況が飲み込めなかったのですが、頭の中でアジアの地図を思い返してみてハタと気が付きました。山を越えた彼方には、あのインパールがあるのです。

1943(昭和18)年8月、当時のビルマとインドの中間地点にあったイギリス軍の拠点を巡って、旧日本軍の「インパール作戦」が展開されました。インド人によるインド国民軍も組織して激烈な戦闘が繰り広げられ、一時はインド・アッサム州のコヒマを占領するに至りました。しかし、その後の敗残の悲惨さは、南洋諸島をはじめとした各地と同様で、多くの日本兵が再び祖国の土を踏むことなく、ジャングルへと消えていったのです。

戦後60年、偽ミッキーの看板の前に立ち、かつて日本はこんな所にまで戦線を拡大していたのかと思うと、机上の歴史とは違った重さに言葉を失いました。

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さて写真はティポング炭礦随一のシーニック・ポイント、新坑への橋梁を渡るデイビッドです。Bクラス譲りの"ダージリン・ブルー"に塗られた姿は、初めて出会った時はちょっと派手かな…と思えたのですが、焼き付くような太陽の下で見慣れてくると、これが実にお似合いに思えてくるから不思議なものです。

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雨季直前とあって心配していたのですが、幸いこれ以上ないほど天気にも恵まれ、まさに至福の時間を過ごしてきましたが、いかんせん中1日のタイトなスケジュールです。ティポング・ハウス2泊目の朝は後ろ髪を引かれる思いで帰路につかねばなりません。

デイビッドはこの日も朝から元気に入換えをこなしていましたが、新坑へ単機回送中、ポイントで派手な脱線をやらかしてしまいました。その一部始終を対岸から目にしていたのですが、こちらは時間切れ、ディブルガー空港へと向かわねばなりません。すぐに現場作業員たちが丸太を持って集まり、人力での脱線復旧が始まりましたが、車体は線路に対して30度近く斜めになってしまっており、エンドビームやステップがひん曲がったり、結構なダメージを受けてしまっているようでした。

最後に「元気でいろよ!」と一声かけて立ち去るつもりが、まさかこんな別れ方になろうとは思ってもみませんでした。

あれから一年、その後デイビッドがどうなったのか気になっていたのですが、今年のゴールデンウィークに都築雅人さんが現地を訪れ、デイビッドが変わりなく活躍していたとの報告をくれました。きっと今日も、アッサムの片隅で、車齢80歳を迎えたデイビッドは元気に走り回っているに違いありません。

最後に、7回にわたった連載(?)の締めくくりとして、デイビッド君の果敢な走行シーンを動画でご覧いただきましょう。容量の関係で15秒ほどですがご勘弁ください。

■ご注意
1:音声付でいっちょまえのブラスト音がしますので、再生前に周囲の状況(オフィスのPC?)を確かめてください。
2:ウィンドウズの方は“ウインドウズ・メディアプレーヤー”で、マックの方は“クイックタイム”で再生してください。(マックOS9の場合、“ウインドウズ・メディアプレーヤー”がインストールされていても音声しか再生されないようです)

デイビッド動画(ウインドウズ・メディアプレーヤー/248KB)

Download file(クイックタイム/890KB)

『国鉄時代』好評です。

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発売中の『国鉄時代』第2号がたいへんご好評をいただいています。3月に発売した創刊号が予想以上の反響を呼び、一部で手に入りにくい状況となってしまったことを踏まえ、今回は販売面での見直しも行いましたが、第2号はさらに好調で、またまた一部で品薄状態となりご迷惑をお掛けしています。

第2号は、多少荒削りだった創刊号の反省も踏まえ、担当の山下君がそれこそ寝食を忘れて仕上げたものだけに、私が言うのも変ですが、かなりの完成度に達していると思います。そして、今回そこに大きな花を添えてくださったのが、宮内明朗さん編集による付録DVD「C62 その栄光の軌跡」です。

私たちの世代にとって、C62というと函館本線山線で勾配に喘ぐ姿がまっさきに浮かびますが、その出生からしてもそれは決してC62本来の姿ではありません。軸重軽減化改造を施されたC62を、C62’(シロクニ ダッシュ)と区別される御仁もおられるほど、C62の本分は東海道・山陽筋での特急仕業にこそあったといえます。今回の宮内さんの映像は、そのC62本来の姿をカラー、同時録音で甦らせてくれるもので、この映像を付録という形で後世に遺せるのは、編集者としてもたいへんな悦びです。

誕生して間もない20系客車の先頭に立ち、「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」といった伝統のヘッドマークを誇らしげに掲げて疾走する“ダッシュ”でないC62たちの姿は、再生速度が間違っているのではないかと疑いたくなるほどのスピードとあいまって、私たちをしばし夢の世界へと誘ってくれます。ぜひともご覧ください。

さて、2日の「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京系)でも紹介されたこの『国鉄時代』ですが、今月末から皆さんからの投稿で綴るブログ・「わが国鉄時代」を立ち上げるべく現在準備中です。本誌RMでも「今日の一枚」と題した公募ブログを準備しております。すでにテンプレートの作成は終わっており、本誌次号誌上で詳細な応募規定をお知らせする予定です。こちらもご期待ください。

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イヤーブック『鉄道写真』で広田尚敬さんが「昭和34年2月 北海道」の連載を始められたのは、はやいもので4年前『鉄道写真2001』の誌上です。

19時25分上野発の東北本線経由青森行115列車に乗って、広田さんが北海道へと旅立ったのは昭和34(1959)年2月2日のことでした。RMライブラリー「昭和29年夏 北海道私鉄めぐり」でご存知のように、青木栄一さんをはじめとして、それまでにも北海道の私鉄探訪を志した先達は少なからずおられましたが、冬、しかも真冬の2月に北海道の鉄道撮影に赴いたのは広田さんが初めてでした。

「冬行ったら凍え死にます」とまで忠告され、旅立ちの上野駅にはまるで永久の別れのごとく多くの友人・知人が見送りに来たそうです。今では考えられないことですが、厳冬の北海道はさながら南極ででもあるかの如く怖れられていたのです。

2001年版で寿都鉄道、2002年版で胆振線のキマロキ、2003年版で大夕張・真谷地・角田・夕鉄、2004年版で美流渡・美唄・茶志内・奈井江と続いた作品群は、レンジファインダー・カメラで撮影されたとは思えない迫力で、すでに広田さんならではの境地が展開されています。

さて、今日は印刷所から上がってきたDDCP(ダイレクト・デジタル・カラー・プルーフ)を広げて2005年版の誌面構成です。写真は清水デザイナーを交え、会議室のテーブル一杯に広げられたDDCPを前に構成を検討中の広田さんです。それにしても今回もスゴイのひとことです。ランケンハイマーの走り、根室拓殖の「銀竜」の車内…はたしてどこまで盛り込めるかは数時間後に決まりますが、まずは乞うご期待です。

レイル・マガジン

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