鉄道ホビダス

2016年12月 8日アーカイブ

20161208171038-52355437f36e406eb3f89387e4cd022cdb8665f6.jpg
▲かつて新阪堺電車が走った鶴見跨線橋下を行く南海2200系2連の汐見橋行き。'16.7.17 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

2008(平成20)年7月11日アップの「消えた阪神甲子園パークの保存車」以来、たびたび小ブログに記事をお寄せいただいてきたのが、RMライブラリー『全盛期の大阪市電』などの著者でもある宮武浩二さんです。実は宮武さん、『編集長敬白』に掲載されたご自身の記事をエクセルで一覧表にされておられ、その数はなんと93回にも及んでいます。さらに、エントリーされながらまだご紹介できていない記事がそれこそ山ほどあり、ご自身は100回達成を心待ちにされていたそうです。そんななか、小ブログを閉じるのはなんとも忍びないのですが、せめて宮武アーカイブの94回目、95回目として知られざる新阪堺電車こと阪堺電鉄のお話をご紹介いたしましょう。

20161208171102-e1ea246a95e2207b9bbe1506c25aab1f4889056f.jpg
▲大阪市交通局の市バスは鶴見跨線橋は走ることができず側道を通過する。'16.7.17 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171127-e2c8b2411e2c307fb2e4cc27efe390388f9d6f0f.jpg今ではほとんど聞くことが無くなった「新阪堺電車」。そのルーツは1927(昭和2)年10月1日に芦原橋から三宝車庫前間を走ったのが最初でした。当時すでに営業していた天王寺駅から浜寺公園を走る阪堺電気軌道と区別するため、正式な社名こそ阪堺電鉄であるものの、会社もPRする際には「新阪堺電車」の名称を使用していました。

▲新阪堺の社章。大阪のOと堺のSを組み合わせたもの。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171200-5935e72cd95972eb42707ab5a15210ccbfd1a821.jpg
▲新阪堺の路線図。この先の浜寺までの延伸が計画されていた。住之江公園付近は新阪堺が住宅地を開発していたところであったが、1934(昭和9)年の室戸台風のため跡形もなく破壊されてしまった。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171225-8f1105d3b642ea6b64ccd82bc727dff2fa4be359.jpg
▲1930(昭和5)年に開園した際、新阪堺電車が製作した住之江公園の絵葉書と沿線案内。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171248-adef9da4d368ab8623a02a2831e6d5d16f92fd3b.jpg
▲絵葉書に見る住之江公園の全景。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171314-80cdd4038d9c614aaf3ec717c31256e0d7743a9e.jpg1927(昭和2)年10月1日に第一期開業区間である芦原橋から三宝車庫前間が開業しました。1930(昭和5)年10月には沿線の住之江に府営住之江公園が完成しました。この公園は欧米諸国の運動施設公園と築山泉池を持つ日本庭園を併せ持った新しい都市公園として整備され、当時の金で25万園の費用が掛かりましたが、うち費用負担として南海鉄道が15万円、沿線の新阪堺電車から6万円の寄付金で賄われたと伝えられます。公園には野球場、陸上競技場、テニスコートのほか府民の憩いの場所として大花壇が作られて休日はたいへんな盛況ぶりだったと聞きます。当時新阪堺電車が発行した住之江公園絵葉書には日本庭園の池(ひょうたん池)とそこにかかる太鼓橋が写されていますが、幾多の災害を克服して現在もその姿を留めているのは嬉しい限りです。

▲住之江公園の陸上用トラック。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171345-9dcd96a4cfeb0c86cf8ed27a1a15dca8acfaaa24.jpg
▲開園当時の花壇。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171432-18bd1a850eb0f37fd7552263f29893d60ebdfb2e.jpg
▲そして現在の花壇。'16.8.13 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171456-11db45ae7fc0d058ac220510b397b3cba7e8b667.jpg日中戦争が始まり、新阪堺電車沿線の造船所(藤永田造船、浪速船渠、佐野安造船)が増産体制となると、この付近唯一の鉄道路線である新阪堺電車の輸送量は急速に増えてゆき、新阪堺電車の輸送量だけでは追いつかなくなりました。1943(昭和18)年1月19日、現状を見かねた大阪府警察部長から新阪堺電車に対して業務改善の通牒が出されました。

←藤永田造船所跡に立つ石碑。'16.7.30 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171539-e13462ae32cc1abd1c7f498676d7e30c15efbfec.jpg
▲室戸台風、ジェーン台風で痛めつけられた太鼓橋は近年老朽化が目立ち、状況を調査中とのこと。'16.8.13 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208171603-7799e4aa1ca45ca910d24fa6c5b86c738fc7f0bb.jpg
▲大阪府と公園管理事務所による太鼓橋の現状についての説明。P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

20161208172528-2882d6ccffdb6be1eed91f0c692501faa610c825.jpg
▲新阪堺電車による「住ノ江公園節」歌詞カード。所蔵:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

内容は阪堺電鉄輸送力増強に関する件とし、会社側に改善を勧告したものの、一向にはかどらずついには新阪堺電車を大阪市電に買収させて一元化した運営が望ましいとの流れから、運輸通信省から新阪堺電車に対して会社の持つすべての資産を大阪市に譲渡すべしと強制に近い勧奨があり、1944(昭和19)年3月27日、当時の金633万円で大阪市が買収することとなりました。

20161208172548-a26a264c26828fefc20c12fc5a62798f63fc4277.jpg
▲開園から86年を経たひょうたん池と太鼓橋。'16.8.13 P:宮武浩二
クリックするとポップアップします。

その後は大阪市電三宝線として経営されましたが、昭和30年代後半になって堺泉北臨海工業地帯の開発が始まると、三宝線の軌道敷をアスファルト塗装にするなどした結果、ここを通る大型車輌が増えてかえって危険な状態となってしまいました。高度成長時代に増え続けた自動車は市電の軌道敷をも占領、ついには道路交通の邪魔もの扱いされた市電は廃止へと進み、新阪堺線の開業から41年、1968(昭和43)年10月1日(最終電車は前日の9月30日)をもって廃止されてしまいました。この時、三宝運輸事務所も同時に閉鎖されて、新阪堺電車の系譜は途絶えたのです。

20161205151446-cb79558b1c23e1d51e9cec4ac7f41c7fbe4725de.jpg

20161118151734-e92374b7b94301285e7197c891a4e6a4e1099c4e.jpg

20161003173949-e66382346b4ae97347911b23ab3a3df011bfae16.jpg

20160920191349-9b442949398417f29c117f4d0274bec7a1249d39.jpg

20160926172819-3289ab368e97cf7e56ebec205d5330fa2a468771.png

20160812144117-9c3f4f2f5dd65023d13e3f387fb62bb899160425.jpg

20160729165824-b2d81f3a1132d221b4dc8b5c9e6a8c51da8dcb0d.jpg

20160411195235-4d1d42b37f1bb46cf57b6a5f3d9d5a243b6ce5fc.jpg

レイル・マガジン

2016年12月   

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
「編集長敬白」が携帯電話でもご覧になれます。下記アドレスもしくはQRコードを読み取ってアクセスしてください。
http://rail.hobidas.com/blog/
natori/m/

ホビダス・マーケット新着MORE

  • 俺がイル
ネコ・パブリッシングCopyright © 2005-2016 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.