鉄道ホビダス

2013年7月11日アーカイブ

湊線 あの頃。(中)

130711n202.jpg
▲金上-中根間の直線を行くステンレス車体のケハ601。画面右上の屋敷森は今では湊線屈指の撮影ポイントとなっている。'80.4.3 金上-中根
クリックするとポップアップします。

撮影記録をひも解いてみると、この1980(昭和55)年4月の湊線訪問は珍しく一泊して全線を撮影しています。というのもこの日、阿字ケ浦の「白亜紀荘」で関東学生鉄道研究会連盟(学鉄連)のリーダーズキャンプが開催されたからで、各大学2名としても、かなりの人数が阿字ケ浦の地に集ったことになります(編集長敬白アーカイブ「"学鉄連"の時代」参照→こちら)。
ただ、翌日はそそくさと玉山鉄道へ。玉山鉄道とは四ッ倉駅から出ていた住友セメント四倉工場玉山鉄道部の専用鉄道のことです(『トワイライトゾ~ン・マニュアル10』所収「さらば玉山鉄道」参照)。当時その存在さえほとんど知られていなかった延長5キロほどのこの玉山鉄道がいたくお気に入りで、折あるごとに訪れており、どうやらこの時点でのプライオリティーは玉山の方にあったようです。

130710n001.jpg
▲組成を終えて発車を待つケキ103牽引の上り混合122列車。思えばこの混合列車、一度も乗車せず仕舞いだった。'80.4.3 那珂湊
クリックするとポップアップします。

いずれにせよ、リーダーズキャンプ前には充分時間があったため、ペンタックス6×7を抱えて中根駅から金上駅まで歩き通すなど、それなりに真剣に撮影に臨んでいたようです。

130710n006.jpgお目当てのケキが牽く混合列車は一日2往復。といっても当時4列車すべてが混合編成となることは稀で、この日も狙っていた勝田発の117列車は貨車が入らずがっかり。続く122列車は那珂湊構内で発車前の姿を撮影しただけに終わってしまいました。ご多分に漏れず1980年代に入ると湊線の貨物輸送量も漸減し、肝心の混合列車に貨車が連結されないことも多くなってきました。同じ新潟鐵工所製のロッド式ディーゼル機関車が混合列車を牽いていた津軽鉄道(編集長敬白アーカイブ「今週末は津軽鉄道80年」参照→こちら)でも同様で、この頃を境に"混合列車"という存在自体が歴史の彼方へと消えつつあったのです。
▲機関庫で顔を揃えたケキ102(左)とケキ103(右)。ケキ102は茨城線(1971年廃止)に配置されていた機関車で、晩年は湊線に転じていた。'80.4.3 那珂湊
クリックするとポップアップします。

130710n007.jpg
▲見渡す限りの茫洋たる風景の中をゆくキハ22形。湊線のハイライトともいえるこの区間は今でもほとんど変わっていない。'80.4.3 金上-中根
クリックするとポップアップします。

130711n204.jpg130711n203.jpg
▲貨物営業を行っていたこの当時は自社線内用の貨車も在籍していた。もっともこの古典貨車ト1形(左)はすでに車籍はなく、バラス運搬などの事業用として残っていた。右は今では那珂湊名物(?)のひとつともなっている97式軽貨車(編集長敬白アーカイブ「那珂湊の97式軽貨車を見る」参照→こちら)を利用した薬剤散布車。'80.4.3
クリックするとポップアップします。

当時の湊線のもうひとつの魅力は、気動車のバラエティーの豊かさにありました。留萌鉄道や羽幌炭礦鉄道から移籍してきた"道産子"気動車たちが、オリジナルの塗色のまま走り続ける姿は、1970年代に足しげく渡道した世代にとってはなおさら強くシンパシーを感じる光景でした。

130711n201.jpg
▲故郷の羽幌炭礦鉄道を思い起こさせるような情景の中を行くキハ22。キハ22は旋回窓も残されており、塗色もこの時点では羽幌色のままだった。'80.4.3 金上-中根
クリックするとポップアップします。

130621nRML167bn.jpg

kokutetsu34_bln.jpg

130604n201bn.jpg

レイル・マガジン

2013年7月   

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
「編集長敬白」が携帯電話でもご覧になれます。下記アドレスもしくはQRコードを読み取ってアクセスしてください。
http://rail.hobidas.com/blog/
natori/m/

ホビダス・マーケット新着MORE

  • 俺がイル
ネコ・パブリッシングCopyright © 2005-2016 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.