鉄道ホビダス

2013年7月アーカイブ

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▲40周年記念に展示された大阪市電30号とサンフランシスコ・ケーブルカーのツーショット。'97年 P:宮武浩二
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交通科学博物館閉館のニュース(編集長敬白アーカイブ「消える交通科学博物館」参照→こちら)をご覧になった大阪の宮武浩二さんから、同館に保存展示されているサンフランシスコのケーブルカーについてのお便りを頂戴しました。

130731n012.jpgこのサンフランシスコのケーブルカーは、サンフランシスコ市との姉妹都市提携のシンボルとして1959(昭和34)年に大阪市に寄贈されたもので、3年後の1962(昭和37)年に交通科学博物館に展示され、それから現在まで多くの来館者に親しまれてきました。ちなみに、サンフランシスコのケーブルカー保存車としてはアメリカ本土を除いて唯一のものです。
※サンフランシスコのケーブルカーについては編集長敬白アーカイブ「"エンドレス"続報」(→こちら)、および「"エンドレス"続々報」(→こちら)を参照。

▲40周年記念で展示されていたパネル 大阪市に贈られる61号での両市長の記念撮影はとても貴重。'97年 P:宮武浩二
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▲屋外展示されていたころのサンフランシスコ・ケーブルカー。P:宮武浩二
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宮武さんによると、ケーブルカーは当初屋外に展示されていましたが、姉妹都市40周年を機会に屋内展示されることになり、現在に至っています。1997(平成9)年には大阪市電の30号を市電保存館から引き出して並べて記念展示されたそうです。

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▲その正面。上部に小さく「61」の標記が見える。P:宮武浩二
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▲ブレーキレバーとグリップレバー。座席の手すりも意匠が凝っている(左)。ケーブルカーの本来の照明装置(右)。P:宮武浩二
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▲現在交通科学博物館館内に展示されているサンフランシスコ・ケーブルカー。P:宮武浩二
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▲屋根上にはゴングが設置されているのが特徴。星条旗は40周年の時のものがそのまま残る(左)。車内照明が点灯されていて明かり窓から漏れるにぶい光がなんともレトロな雰囲気(右/ただし照明はオリジナルではない)。P:宮武浩二
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このケーブルカー、大阪市が寄託しているかたちとなっているようです。また、交通科学館にはほかにも関西の私鉄からの寄贈品も多く収蔵されています。宮武さんによれば、たとえば阪急からはミンデン台車の実物1台、大阪市交通局からは第三軌条と集電靴、ビューゲール、ポール等々が寄贈されており、これらの品々が梅小路への移転に伴ってどうなるのか、今から気になります。

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士幌線...私の同体験。

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▲終点・十勝三股駅の転車台で方転する59611〔帯〕。機関車のエアーを用いたいわゆる"尺取虫"の転車台が懐かしい。'75.3.20 十勝三股 P:服部重敬
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「先日の編集長ブログを拝見して、『国鉄時代』誌の齋藤様の記事や、今回の古村様の写真と同日に士幌線を訪問しており、懐かしさのあまり...」と服部重敬さんからメールを頂戴しました。

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▲十勝三股駅の駅舎を横目に入換え作業中の59611。'75.3.20 十勝三股 P:服部重敬
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お便りによれば、服部さんも齋藤さんの記事にある客車運転予定日だった3月23日に、その列車を撮影するために帯広に滞在していたのだそうです。さらに、古村さんが士幌線の貨物を撮影された3月20日には、やはりこの列車を撮影しており、十勝三股まで追っかけをされたとのこと。以下、服部さんの体験をご覧ください。

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▲電力所前を登る下り貨物列車。この日のこの列車、このアーチ橋はアングル違いで古村さんも撮影されており、お二方はこの付近で出会っているのかもしれない。'75.3.20 黒石平-糠平P:服部重敬
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今でこそ、蒸気機関車を撮影する機会はあまりありませんが、当時は蒸気機関車が最後の時を迎え、かつ大学生で時間もたっぷりあったことから、その撮影を目的に、冬期を中心に北海道を訪れています。昭和50年の3月には、すでに蒸機が活躍する舞台は道東のローカル線が中心となっており、そのため、石北線の大雪くずれ1527レとあわせ、名寄本線、相生線、渚滑線、広尾線などのキューロクを巡っています。士幌線を訪れたのは、おそらく貨物と臨時の客車列車を運転するという情報をどこからか聞いたからではないか、と思います。

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▲糠平湖越しに見た大雪山系の遠望。これだけクリアに晴れ上がる日は珍しい。'75.3.20 糠平-幌加 P:服部重敬
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その折の行程を見てみますと、3月19日に石北本線で撮影した後、20日に士幌線の貨物、21日に広尾線と池北線と撮影し、帯広に泊まって23日の客車運転に備えたようです。しかし、21日から天候が悪化して雪となり、22日は豪雪ですべての列車がストップ、動きが取れなくなって、当然ながら23日の客車も運転中止となりました。23日になると、なんとか列車も動いたようで、帯広を脱出して、24日に石北本線を訪れています。なぜ、この時に帯広に行ったのか、これまで思い出せなかったのですが、『国鉄時代』誌の齋藤様の記事を見て、長年の疑問が氷解しました。

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▲豪雪に見舞われた帯広機関区構内。ラッセル車キ100もフル稼働であった。'75.3.23 帯広機関区 P:服部重敬
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この時は旅館ではなく、同行していた国鉄勤務の友人の紹介で宿泊所に泊めてもらった記憶があります。帯広は地形の関係であまり雪は積もらないはずですが、この時はまれに見る豪雪だったようです。あまりの雪に22日は何とも動きが取れず、また、写真もほとんど撮れない状態で、一日、宿泊所で過ごしたようです。

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▲給水塔下で待機する9600たち。降り続く雪の影響で帯広周辺の国鉄線は麻痺状態に陥っていた。'75.3.22 帯広機関区 P:服部重敬
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それはひとつの良い思い出ではありますが、『国鉄時代』誌の齋藤様が撮影された士幌線客車の写真を見るにつけ、豪雪とならず、客車が運転されていたら、さぞ良い写真が撮れただろうに、と今更ながら思わざるを得ません。なんとも残念です。

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▲士幌線客車列車の運転が予定されていた前日、転車台のピットでも懸命の除雪作業が続く。'75.3.22 帯広機関区 P:服部重敬
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客車運転が予定された23日の3日前、20日には士幌線の貨物を撮影しています。この日はこの時期には珍しい晴天で、大雪山系が実に見事に望めました。おそらく友人と相乗りをしてタクシーで十勝三股まで追いかけており、沿線で数回、撮影しています。かなり遠景ではありますが、糠平湖越しに大雪山系をバックに糠平から十勝三股に向かう列車や、路線が切り替えられた糠平手前のアーチ橋など、この線ならではの記録になったと自負しています。

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▲ホーム脇の雪に嵌って身動きのとれなくなったDD51 637。隣接線のキハ22も足止め状態。'75.3.23 帯広駅 P:服部重敬
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また、大雪山系のパノラマの広がる終点の十勝三股の風景も、大変雄大な眺めで、今も記憶に残っています。ただ、残念なことに、走行中ではないためか、カラーで撮影していないのです。カラーで撮影していれば、廃線となった現在では良き記録になったはずですので、今でも悔やまれてなりません。

服部さん、ありがとうございました。『国鉄時代』の齋藤さんの記事に端を発した士幌線の"連鎖"は、図らずもあの時代の熱気と情熱を思い起こさせてくれました。あらためてお三方にお礼申し上げます。

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▲勝田駅の専用ホームで従業員の乗車を待つ日立製作所水戸工場専用鉄道の列車。15tバッテリー機関車2輌によるプシュプル運転である。後方に国鉄勝田駅と接続する跨線橋が見える。'79.2.16
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先日ひたちなか海浜鉄道を訪れた際、勝田駅での乗換えを一本遅らせて日立製作所水戸工場専用鉄道の跡地をのぞいてきました。

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▲かつて乗降ホームがあった付近の現状を勝田駅構内下り方の踏切道から見る。右手奥にあのホームがあったはず。'13.7.13
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130727n201.jpg日立製作所水戸工場の専用鉄道についてはかつて小ブログでもご紹介しておりますが(編集長敬白アーカイブ「日立水戸の奇妙な列車」参照→こちら)、勝田駅の西側に広がる広大な日立製作所水戸工場(現・水戸事業所)への路線は、『専用線一覧表』(昭和45年版/『トワイライトゾ~ン・マニュアル12』所収)によれば実に総延長12.0㎞、国鉄所管の専用線ではなく独自の専用鉄道としての認可を受けていました。
▲勝田駅の電留線には役目を終えた651系の姿も見られた。'13.7.13
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▲勝田駅との連絡跨線橋上から専用鉄道乗降ホームを見る。ホーム上に見える看板は発車時刻を掲出した簡単なもの。'79.2.16
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▲かつてのホーム跡周辺。列車はしばらく常磐線下り本線と並行したのち、大きく左へカーブをきって水戸工場の通用門へと吸い込まれていった。'13.7.13
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とはいえ路線の大半は工場内に巡らされていて、全盛期にはその全容どころか片鱗さえ垣間見ることはできませんでした。ただ勝田駅から工場通用門までの1キロほどの区間は一般公道と並行しており、朝夕に運転される従業員用通勤列車が"外界"との唯一の接点でした。

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▲下り方の踏切から勝田駅構内全景を見渡す。右端が専用鉄道跡地。'13.7.13
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使用されている"客車"はもと東急のデハ3209とデハ3210。とはいえかろうじて面影を留めるのは下回りのみで、車体は鉄道車輌とは思えないプレハブのような造りです。自社製の15tバッテリー機関車がプシュプルでこの2輌をエスコートしていました。

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▲ホームをあとにする専用鉄道列車。前後に同形のバッテリー機関車が連結されているため、どちらも先頭に見える。'79.2.16
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▲踏切道から下り方を見る。水戸工場専用鉄道の線路が一部そのまま残されているのがわかる。'13.7.13
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あれから34年...すっかり近代的になった勝田駅西口を出ると、かつての乗降ホーム付近にはビジネスホテルが建ち、当時の痕跡はほとんどなくなっていました。それでも背後に広がる木立は雰囲気を色濃く残しており、しばしあの奇妙な列車との邂逅に思いを馳せたのでした。

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消える交通科学博物館。

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▲交通科学博物館第2展示場に仲良く並んだDD13 638とDF50 18。'06.8.13
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昨日、JR西日本より交通科学博物館の営業を来年4月6日(日曜日)をもって終了する旨の発表がありました。これは3年後の2016(平成28)年春に京都・梅小路エリアにオープンを予定している新たな鉄道博物館(編集長敬白アーカイブ「梅小路に新たな鉄道博物館」参照→こちら)にその使命を託すためで、大阪・弁天町の博物館として52年間にわたって親しまれた交通科学博物館は、来春の桜とともに見納めとなります。

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▲屋外展示場のC62 26とD51 2。新しく生まれる梅小路の鉄道博物館ではこの26号機をはじめ3輌ものC62を見られることになる。

運営しているJR西日本と公益財団法人交通文化振興財団によれば、交通科学博物館の収蔵資料などは京都・梅小路エリアに新設される鉄道博物館に移設展示される予定だそうですが、その詳細については今後検討を進め、決まり次第、発表予定とされています。

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▲交通科学博物館ではDD54の姿も見ることができる。'06.8.13
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130725n202.jpg交通科学博物館は1962 (昭和37)年に国鉄の大阪環状線開通記念事業の一環として開設されました。当初は「交通科学館」という名称で、1990 (平成2)年に現在の 「交通科学博物館」に名称変更、2000 (平成12)年には英国国立鉄道博物館と姉妹提携を締結し、2002 (平成14)年には屋外展示場「プラットホーム・プラザ」を新設するなど拡充を図ってきました。昨年2012 (平成24)年には開館50周年を迎えています。
この9月21日(土曜日)からは常設展示されていない収蔵資料を多数展示する企画展が開催されるほか、各種の閉館記念企画が計画されており、順次発表されるそうです。
▲館内に保存展示されているEF52は鉄道記念物にも指定されている。'06.8.13
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※明日は不在のため小ブログは休載させていただきます。

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▲交通博物館の「閉館記念ライトアップ」に彩られた旧万世橋駅の高架橋部。もう7年も前のことになる。'06.2.2

ちょうど一年前にJR東日本から整備活用計画が発表された旧万世橋駅の高架橋部(編集長敬白アーカイブ「あの旧万世橋駅遺構を整備活用へ」参照→こちら)が、来たる9月14日(土曜日)にその名も「mAAch ecute 神田万世橋」としてオープンします。

IMGP5718nn.jpgJR東日本ステーションリテイリングが、東日本鉄道文化財団とともに開発を進めている「mAAch ecute 神田万世橋」は、1943(昭和18)年に万世橋が駅としての機能を休止して以来、70年ぶりに公開される通路や階段、各ショップの壁、旧万世橋駅プラットフォームを活用した展望テラスなど、さまざまな箇所で旧万世橋駅や交通博物館時代の歴史の痕跡(編集長敬白アーカイブ「旧万世橋駅特別公開」参照→こちら)を見ることができる施設空間のなかに、飲食・物販・カフェなど合計11ショップが設けられます。また、周辺エリアとつながるオープンエリアや、万世橋にかかる神田川を活かした親水デッキを設けることで、周辺地域の景観に新しい価値を創出するものとなります。
▲薄暮の万世橋の情景。右に交通博物館、中央線にはまだ201系が走っていた。'06.2.2

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▲「mAAch ecute 神田万世橋」の完成イメージ。提供:JR東日本ステーションリテイリング

またこのオープンにともなって貴重な万世橋駅の遺構の数々も公開されます。
●1912階段
1912(明治45)年4月、万世橋駅開業の時に作られた階段。1936(昭和11)年4月の鉄道博物館(後の交通博物館)時代には、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として使用されていた。1943(昭和18)年に駅が休止してからは公にされることはなく、この度70年ぶりに公開される。
●1935階段
鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が、ここ万世橋駅に建設されることになり、新たに1935(昭和10)年に設置された。1943(昭和18)年10月の駅休止までの間、ここが駅の階段として使用された。2006(平成18)年の交通博物館閉館前は、期間限定でこの階段が公開されたが、一般に公開されるのは1912階段同様、70年ぶりとなる。
●遺構サークル
初代万世橋駅駅舎、2代目駅舎、鉄道博物館(後の交通博物館)の3つの建物を交通博物館が2006(平成18)年に閉館するまでの94年間、支え続けてきた初代駅舎の基礎。その一部を保存し、遺構サークルとして公開する。

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▲万世橋駅ホームへの「1935階段」。壁面には戦時中のポスターも残されていた。'06.5.15

ほんとうに早いもので、交通博物館が消えてから7年余り(編集長敬白アーカイブ「ドキュメント 交通博物館最後の日」参照→こちら)、初夏の神田川の川風に吹かれながら感傷に浸った万世橋にもとんとご無沙汰してしまっていますが、この秋はまた足を向ける機会が増えそうです。

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追憶の士幌線貨物。

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▲ダム建設に伴う付け替え区間の新線をゆく。この付近は連続25‰で新線といえども9600にとっては難所であった。画面下に見えるコンクリートアーチ橋が旧線。'74.12.22 黒石平-糠平 P:古村 誠
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現在発売中の『国鉄時代』vol.34では巻頭カラーで齋藤 晃さんによる「士幌線に9600の客レが走った日」をご紹介しています。士幌線は帯広から音更川に沿って十勝平野を北上し、終点の十勝三股までの78.3㎞。比較的早く客貨分離を遂げて1970年代には9600の牽く貨物列車がわずかに運転されているにすぎませんでした(編集長敬白アーカイブ「十勝三股あの頃」参照→こちら)。

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▲小休止する59683〔帯〕。人気のない構内踏切にはあの頃の仲間の姿が...。'74.12.22 P:古村 誠
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齋藤さんの「士幌線に9600の客レが走った日」は当時赴任しておられた帯広で、ロータリークラブの奉仕活動の一環として、間もなく無煙化される士幌線に蒸気機関車の牽く旅客列車を走らせて市内の小学生を招待する話を発端に、その旅客列車の顛末をビジュアルに綴られたものです。

130723n008.jpgこれをご覧になった古村 誠さんから「士幌線は北海道でも一番好きな路線でした」と当時の思い出をお送りいただきました。時は無煙化直前の1974(昭和49)年から1975(昭和50)年にかけて。帯広~上士幌間には一日2往復の貨物列車の設定があるものの、上士幌~十勝三股間は臨時列車の設定で、走るのは月に3日程度。何とも「撮り難い路線」(古村さん)路線でした。
▲キャブを降りる乗務員。この頃は鉄道職員とファンの距離も近かった。'74.12.22 P:古村 誠
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▲終点の十勝三股への最後の勾配に挑む。士幌線は随所に見られるコンクリートアーチ橋が独特の景観を作り出していた。'74.12.22  幌加-十勝三股P:古村 誠
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古村さんがそんな士幌線を訪れたのは1974(昭和49)年12月22日。天気に恵まれ、上士幌から幌加まで仲間同士で割り勘でタクシーをチャーターして追いかけたそうです。当時は高校生だった古村さん、往復は急行「十和田」か「八甲田」の自由席、道内でも毎晩夜行列車の普通席、食事もインスタントラーメンという超緊縮旅行が常で、こんな贅沢をしたのは後にも先にもこの時だけだったとのこと。

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▲清水谷の先のコンクリート橋を渡る下り貨物列車。下り列車に対してはひたすら上り勾配が続く。'74.12.22 清水谷-黒石平 P:古村 誠
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この日この列車の写真を撮ったのは古村さんたち仲間の6名と、帯広在住の方(幌付きのトラックで来ていらっしゃいました)だけだったそうです。無煙化直前にも関わらず、それほどまでに士幌線の貨物列車は影の薄い存在だったことになります。

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▲1975(昭和50)年当時、広尾線の「幸福駅」が大ブームとなり、同じ帯広を起点とする9600路線ながら士幌線を訪れたファンは決して多くない。'74.12.22 P:古村 誠
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次に士幌線を訪れたのは無煙化2ヶ月前の1975(昭和50)年3月20日。「この日は一発勝負で黒石平-糠平間の山に登りました。たしか下の道路から3時間くらいかけて上ったと思います」と古村さん。齋藤さんが記事に書かれた客車列車の話を渡道前に聞いていたという古村さんは、もしかして出会えるかも...と淡い期待を抱かれていたそうですが、残念ながら渡道中に士幌線に客車列車が走ることはなかったそうです。

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▲そしてこれが士幌線最後の訪問時のカット。この5月に重連の9600に牽かれたおわかれ列車が走り、士幌線から蒸気機関車の姿は消えた。'75.3.20 黒石平-糠平 P:古村 誠
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古村さんありがとうございました。士幌線は国鉄分割民営化直前の1987(昭和62)年3月23日に廃止されましたが、タウシュベツ橋梁をはじめとした遺構が北海道遺産に指定されるなど、歴史遺産としての見直しが進んでいます。また、糠平駅跡では「ひがし大雪高原鉄道」と名付けられた足こぎトロッコが人気を集めるなど、新たな取り組みも始まっています(編集長敬白アーカイブ「日本鉄道保存協会総会より」参照→こちら)。この夏休み、ひさしぶりに"古戦場"を訪ねてみるのも良いのではないでしょうか。

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▲編集佳境の頃の状況。この小会議室をおびただしい数の資料と写真が約半年にわたって占拠し続けていた。
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先週末に発売した『写真で見る西武鉄道100年』はおかげさまでたいへん好評をいただいております。あらためて振り返ってみれば、本書の企画に関して西武鉄道さんと最初のMTGを行ったのが昨年の6月27日のことでしたから、完成まで一年余を要したことになります。

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▲昭和40年前後に撮影された西武鉄道各駅のコンタクトアルバム。保存状態も良好で、今回の「各駅のあの頃」のベースとなった。
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実は当初案では160ページ前後のムックの予定でしたが、昨年秋に西武鉄道自らが撮影した駅写真が大量に"発見"され、これを反映すべく急遽台割を変更、80ページ近くの駅写真ページを追加することにしました。昭和40年前後に集中して撮影された各駅の写真は驚くべきもので、駅本屋やホームの外観のみならず、駅務室内から果てはトイレに至るまでが見事に記録されています。そしてさらに驚かされたのは分割されて撮影されたコマの数々でした。初めコンタクトシートを通観した際には気づかなかったのですが、もしやつながるのでは...と画像処理ソフト上で合成してみると、見事にパノラマ写真になるではないですか。まるで半世紀後の本書の編集を予期していたかのようなネガの出現にはただただ驚くばかりでした。

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▲西武鉄道通勤車全車に掲出中(22日まで)の車内吊り広告。駅売店TOMONYでも販売中。
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とはいうものの、撮影場所や被写体の特定などは困難を極め、この各駅の写真を検証するために小会議室1室をつぶして専用部屋とし、約半年間にわたって整理とデータ化を進めました。なお、場所の同定や施設の用途確認などでは往時をご存知の方に見ていただくなど、写真解説ひとつにもできる限りの配慮を払いました。おかげでただの大きな待合室にしか見えなかった部屋が実はかつてのRTO(連合軍輸送司令部事務所)であった(稲荷山公園駅の例)など、多くの貴重な事実も加筆することができました。

130722n201.jpgまた、本書では車輌写真のクオリティーにも拘りました。形式写真として鑑賞に堪えるもの、つまり光線状態、集電装置の状態などはもちろんのこと、戦後の電車についてはいわゆる"前サボ"がきちんと入っていることも掲載条件としました。どうしてもクリアできなかった形式もありますが、最終的にほぼ同一条件で揃えることができました。ちなみに、車輌に取り付けられている方向幕と異なり、"前サボ"は基本的に駅管理で、「回送」などを除けば車庫では"前サボ"が入っていないことが少なくありません。それだけに、あらためてご覧になると本書所収写真がいかに突出しているかがご理解いただけるのではないかと思います。
▲「車輌の変遷」(戦前編)より。'39.4.16 P:宮松金次郎 (『写真で見る西武鉄道100年』より)
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▲本書では宮松金次郎さんが戦前に撮影された貴重な形式写真を数多く収録することができた。ちなみにこれまで長らく謎だった旧西武の電車に見られたアルファベットの表示板の意味も本書編集中に判明した。'39.4.16 P:宮松金次郎 (『写真で見る西武鉄道100年』より)

これらの形式写真に関しては、戦前から昭和30年代にかけての宮松金次郎さんの見事な形式写真によるところが大でした。『鉄道趣味』(編集長敬白アーカイブ「『鉄道』と『鉄道趣味』」参照→こちら)を主宰されておられた宮松さんは、軌道線を含めて西武各線を精力的に撮影されており、今回はその遺作となった乾板をご子息の宮松慶夫さんが一枚一枚スキャニングして下さいました。戦前から情熱をもって西武の車輌たちに暗箱を向けられた宮松金次郎さんの思いなくしては本書もありえなかったと、あらためて感謝申し上げたいと思います。

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▲22日まで西武鉄道の全旅客車に中吊り広告を掲出中。駅売店TOMONYでも販売中。
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約一年にわたって編集を進めてきた『写真で見る西武鉄道100年』がついに完成、本日19日に発売となりました。ご承知のように大手民鉄の中で西武鉄道だけは社史を発行しておらず、本書はそれを補完する通史として西武鉄道の全面協力のもと制作したアニバーサリーブックです。

SEIBU100th_h1n.jpgまず巻頭では「写真で振り返る100年」と題して、歴年順6章建てで創世期からの歩みをわかりやすく解説しております。もちろん本書の趣旨通り初出の写真・資料をふんだんに収録しており、ビジュアルを辿ってゆくだけでもその歴史のアウトラインを掌握できる構成となっています。
第1章 創世期から終戦まで
第2章 新生・西武鉄道の発展 1945~1955年
第3章 急増する輸送需要にこたえて 1956~1968年
第4章 西武秩父線の開業、さらなる質と量の発展 1969~1980年
第5章 相互直通運転の開始と、車輌近代化 1981~1999年
第6章 そして新時代へ 「でかける人を、ほほえむ人へ。」 2000年~現在

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▲第1章「創世記から終戦まで」より(左)。非電化時代の池袋駅と開業当時の路線図。右は現在保谷に保存されている5号機(当時は3号機)の牽く戦前の多摩川線列車。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)
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続いて80ページを費やして詳細に展開するのが「各駅のあの頃」。西武鉄道自らが昭和40年前後に撮影しながらこれまで公開されることのなかった膨大な駅写真を編集部で分類、鑑定、上り屋敷、長江といった今はなき駅も含めてふんだんな写真で「あの頃」を甦らせます。

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▲第2章「新生・西武鉄道の発展」より(左)。1961(昭和36)年以前は旧西武鉄道を踏襲した黄色と茶色の塗り分けが標準であった。右は第5章「相互直通運転の開始と、車輌近代化」より。上の写真は西武有楽町線練馬-新桜台間開業を前に営団地下鉄07系と非常連結試験を行う6000系。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)
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そしてさらにご注目いただきたいのが主要駅の「パノラマ写真」です。今でこそデジカメやスマートフォンのパノラマ撮影機能で簡単にパノラマ写真が撮影できますが、昭和40年当時は仕上がりをイメージしながら分割で撮影し、プリントを繋ぐしかありませんでした。機会があれば今回の苦労話もご紹介してみたいと思いますが、当時の西武鉄道はまるで半世紀後のこの機会を見通していたかのごとく、各駅の分割撮影を行っていたのです。最新のコンピュータ技術で合成されたパノラマ写真からは、高度経済成長期の西武鉄道、いや当時の生活までもが手に取るように伝わってきて、まさに必見です。

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▲「各駅のあの頃」では昭和40年当時のパノラマ写真を収録。これは池袋、椎名町、江古田の各駅。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)

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▲富士見台、石神井公園、大泉学園の各駅のパノラマ写真。高度成長期の沿線の表情がリアルに感じ取れる。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)

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▲「懐かしの行先表示板」では1978(昭和53)年を最後に姿を消した"前サボ"の各種バリエーションをご紹介。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)

また巻末8ページに及ぶ年表も見どころのひとつです。前述のように西武鉄道にはオフィシャルの通史がなく、いきおいまとまった年表も存在しません。本書の編集に当たっては、公文書を含めて現時点で可能な限りの情報を蒐集・検証し、駅設備の変更にいたるまでこれまでにない詳細な年表を作成いたしました。こちらもぜひご覧いただければ幸いです。

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▲巻末には8ページにわたって「年表」を収録。駅設備の変更にいたるまで、これまでにない詳細な年表を目指した。 (『写真で見る西武鉄道100年』より)
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『写真で見る西武鉄道100年』
A4変形判/240ページ
定価:2,800円

主な内容
写真で振り返る100年
各駅のあの頃
パノラマ写真で見る昭和40年代の各駅
車輌の変遷(戦前編)
 川越鉄道(旧 西武鉄道)/多摩湖鉄道/多摩鉄道/川越電気鉄道/西武軌道
車輌の変遷(戦後編)
 電車/蒸気機関車/電気機関車/ディーゼル機関車/移動変電車/貨車/山口線
 レッドアロー物語
 消えた塗色
 イラストで振り返る消えた塗色
 記憶に残る...電気機関車の活躍
現在の車輌
 現有車輌/保存車輌/他社で活躍する西武車輌
懐かしの行先表示板
年表

※お詫びと訂正
本書191ページ所収の特急「ちちぶ」ヘッドマーク画像に、印刷工程上で実画像に変換前であることを示す「アタリ」の文字が残ってしまいました。あらためて正規の画像を「鉄道ホビダス」上にアップ(→こちら)し、お詫び申し上げます。

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▲昭和36年秋の竜ケ崎駅構内。左からハフ15、5号機、キハ40402。'61.11 P:大庭幸雄
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今月のRMライブラリーは、白土貞夫さんの新作『関東鉄道竜ケ崎線-龍崎鉄道・鹿島参宮鉄道竜ケ崎線』の上巻をお届けします。

130718RML168.jpg全長わずか4.5㎞の関東鉄道竜ケ崎線ですが、開業したのは今から110年以上前の1900(明治33)年のこと。同時に常磐線の接続駅である佐貫駅も開業しています。当初、竜ケ崎線は龍崎鉄道という独立した会社で、軌間も2フィート6インチ(762㎜)でした。その後、1915(大正4)年に現在の3フィート6インチ(1067㎜)軌間に改軌、1927(昭和2)年には早くもガソリンカーを導入しています。これは茨城県下では3番目。後の関東鉄道4路線の中では最初のことでした。

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▲龍崎鉄道として開業した竜ケ崎線は大正4年に3フィート6インチ(1067㎜)軌間に改軌した。
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1943(昭和18)年には戦時下の政府方針に従って後の鉾田線(→鹿島鉄道)を運営していた鹿島参宮鉄道に統合され、さらに1965(昭和40)年に鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道を合併したことにより、関東鉄道が発足。その後、筑波線、鉾田線の2線は関東鉄道から分離、廃止への道をたどりましたが、竜ケ崎線は関東鉄道に留まり、現在も龍ケ崎市民の足として欠かせない存在となっているのはご存知の通りです。

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▲中盤では施設を解説。今は待合室のみが設置されている入地駅にもかつては駅舎があった。
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著者の白土貞夫さんは、本シリーズでもこれまでに第37巻『九十九里鉄道―潮騒の浜に行くキドー―』、第64巻『日立電鉄の75年』、第106巻『鹿島鉄道―鹿島参宮鉄道・関東鉄道鉾田線―』(中川浩一さんと共著)、第142・143巻『銚子電気鉄道』(上・下)を著された、千葉県・茨城県の私鉄研究における第一人としてお馴染みの方。今回も上巻では数多くの一次資料から110年以上に渡る竜ケ崎線の歴史を紐解かれるとともに、謎めいた部分の多い軽便時代の車輌群について解説されています。

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▲軽便時代の龍崎鉄道1号機(左上)とその兄弟。1号機は改軌により赤穂鉄道へ移籍した。
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ちなみに「竜ケ崎」の表記は、例えば市役所は「龍ケ崎市役所」、県立高校は「竜ヶ崎第一高校」、現在の駅本屋入口の表記は「竜ヶ﨑」、駅前にいるタクシーは「竜ケ崎合同タクシー」というように、現地でも「竜と龍」「ケとヶ」「崎と﨑」が入り乱れているのが実情です。本書では原則として戦前は「龍崎鉄道」「鹿島参宮鉄道龍ケ崎線」に「龍ケ崎駅」、戦後は「鹿島参宮鉄道竜ケ崎線」「関東鉄道竜ケ崎線」に「竜ケ崎駅」、行政地名は「龍ケ崎」で統一しております。
なお、続く下巻では1067㎜に改軌後、現在までの車輌群を解説する予定です。どうぞお楽しみに...。

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湊線 そして今。(下)

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▲茨城交通時代から変わらぬ木造矩形庫の周囲で休むバラエティー豊かな気動車たち。右からキハ205、キハ2005、ミキ300-103、そして庫内はキハ3710形。'13.7.14 那珂湊
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ひたちなか海浜鉄道の現在の車輌陣容は自社発注のキハ3710形2輌、キハ37100形1輌(アニマルトレイン)、三木鉄道から来たミキ300-103、もと留萌鉄道のキハ2000形2004、2005、もと羽幌炭礦鉄道のキハ222、もと水島臨海鉄道のキハ205の計8輌。やはり趣味的には旧型車の方が人気があるものの、夏場は冷房装置の関係などから運用に就く確率は決して高くはないようです。

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▲機関庫奥に鎮座するステンレス製のケハ601の車体(左)は「おらが湊鐵道応援団」がギャラリーとして有効活用している。右は今や那珂湊名物(?)ともなった97式軽貨車(編集長敬白アーカイブ「那珂湊の97式軽貨車を見る」参照→こちら)。作業台車として使われているものなど、計9輌が残存している。'13.7.14 那珂湊
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この日は、かつての地方鉄道の機関区の雰囲気を色濃く残した那珂湊機関区を吉田千秋社長自らのご案内で拝見することができました。「那珂湊機關區」と縦書きに墨書された木製の看板は30年前のままですが、検修庫は建て替えられ、最近では構内の軌道の路盤強化と敷き直しも進んでいるとのことです。

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▲三木鉄道の塗色のまま現役として働くミキ300-103。スノープラウもそのままで、今はなき三木鉄道の面影を求めてはるばる来訪する方もおられるという。'13.7.14 那珂湊
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構内奥に鎮座しているのはステンレスカーの嚆矢でもあったケハ601の車体。このケハ601の車内と、隣に留置されているキハ203の車内が「おらが湊鐵道応援団」の皆さんによるギャラリーとなっており、湊線に関するさまざまな資料や写真を見ることができます。できれば台車をもう一度履かせてやりたい...とケハ601を懸命に護ってこられた応援団の皆さん。まったくのボランティアで地元の湊線をサポートし続ける応援団の皆さんには本当に頭の下がる思いです。

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▲那珂湊駅を発車した勝田行き列車の車内から見た那珂湊駅構内。左側には"国鉄準急色"に塗られたキハ2004の姿も見える。'13.7.14 那珂湊
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そうそう、那珂湊駅といえば忘れてならないのが駅猫として全国的に有名な「おさむ」とその子分(?)の「ミニさむ」。この日は残念ながらミニさむ君には会えませんでしたが、おさむ君は風の通る涼しい場所で休息中。最近ではおさむ君たちに会いに遠路はるばる湊線を訪れる方もいるとのことで、車内で乗り合わせた親子も東京からおさむ君に会いに来たと話していました。

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▲このお姿こそ那珂湊駅のアイドル、駅猫の「おさむ君」。ちょっと夏バテぎみのご様子...。'13.7.13 那珂湊
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さて、吉田社長が呼びかけて8月24日(土)に、ひたちなか市那珂湊総合福祉センターふれあい交流館しあわせプラザを会場に、「第1回ローカル鉄道サミット&2013年度サマースクール」が開催されます。サミットでは全国のローカル鉄道経営者、学識者、サポーターが集い、それぞれの立場からローカル鉄道と地域づくりの今後の可能性について話し合われる予定で、2013年度サマースクールと合わせて現在参加者を募集中だそうです。

【第1回ローカル鉄道サミット開催概要】
■開催日程
 8月24日(土)13:30~15:30
■講演テーマ
・全国のローカル鉄道が直面する現状
・ひたちなか海浜鉄道、由利高原鉄道、銚子電鉄などローカル鉄道経営の具体例紹介
・地域づくりにおける鉄道の果たす役割
・これからのローカル鉄道の可能性と課題
■登壇者
・吉田千秋 ひたちなか海浜鉄道 代表取締役
・春田啓郎 由利高原鉄道 代表取締役
・向後功作 銚子市観光プロデューサー・関東運輸局 地域公共交通マイスター
・中川 大 京都大学大学院工学研究科教授 低炭素都市圏政策ユニット長
・清瀬一浩 茨城県商工労働部 観光物産課 課長
・向谷 実 株式会社音楽館 代表取締役社長
■対象
・鉄道好きで普段から鉄道や鉄道旅行、ローカル鉄道に親しんでいる方
・鉄道が地域づくりに与える影響を理解し、それについて学びたい方
・全国のローカル鉄道関係者
■費用
 2,800円 ※ひたちなか海浜鉄道1日フリー記念乗車券付
■定員
 450名
■場所
 ひたちなか市那珂湊総合福祉センター ふれあい交流館 しあわせプラザ
 茨城県ひたちなか市南神敷台17-6 那珂湊駅より徒歩15分程度

【2013年度サマースクール開催概要】
■開催日程
 第1回 8月24日(土)~25日(日)
 第2回 8月31日(土)~9月1日(日)
■内容
・ローカル線に、新しい駅を作る!新駅設置を学ぶ
・普段出来ない体験ができる!鉄道業務を実体験
・実際の車輌で教わる!鉄道車輌の構造・整備を学ぶ
・購入秘話が聞ける!鉄道経営学
・ひたちなか海浜鉄道にもの申す!議論白熱のワークショップ
■対象
・鉄道好きで普段は経験できないことを学びたいと思っている方
・将来、鉄道の経営に関わりたいと思っている方
・ローカル鉄道のある地域行政関係者など
■費用
 29,000円
 ※ひたちなか海浜鉄道1日フリー記念乗車券付、宿泊費、懇親会費、朝食・昼食費込
■定員
 各回30名
■場所
 ひたちなか海浜鉄道那珂湊駅など
■申込み・問合せ
 →こちら

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湊線 そして今。(上)

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▲一面の緑が鮮やかな水田の中をキハ2005が行く。この区間は昔と変わらない湊線の原風景が広がる。'13.7.14 金上―中根
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先週は3回にわたって33年前の湊線の様子をご紹介いたしましたが、週末にその湊線、いや、ひたちなか海浜鉄道湊線を訪ねてきましたので、今度は最新の姿をお見せしましょう。

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▲阿字ヶ浦で折り返しを待つキハ2005の120列車。阿字ヶ浦駅はかつて国鉄からの直通海水浴列車が乗り入れていただけあって有効長が極めて長い。左手には蒸機時代の給水塔が残る。'13.7.14 阿字ケ浦
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東日本大震災で一部の路盤が崩れるなど大きな被害を受けた同線(編集長敬白アーカイブ「ひたちなか海浜鉄道は今」参照→こちら)も、いまではすっかり復旧を遂げて14.3㎞の路線をバラエティー豊かな気動車たちが元気に走っています。

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▲もちろん側面にはサボも健在(左)。独特の書体は駅名標にも用いられているMMM(みなとメディアミュージアム)で慶應義塾大学有澤誠研究室が創作した「湊線フォント」。右はキハ2005の車内で、大きく窓の開く列車がどれほど心地よいかが改めて体験できる。'13.7.14
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駅施設をはじめとした地上設備も順次リニューアルが図られつつあります。一時は交換設備が撤去されていた金上駅に交換設備が復活するとともに駅そのものも全面的にリニューアルされています。終点の阿字ヶ浦駅もホームの嵩上げやバリアフリー化が進められています。

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▲磯崎駅の今昔。大正末から昭和初期にかけての4年ほどはここ磯崎駅が終点だったことがあり、駅前には当時のホームの煉瓦積み跡が残る。33年を経ての定点観測でも側線が撤去された以外、周囲の雰囲気はさほど変わらない。'13.7.14/'80.4.3 磯崎
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その阿字ヶ浦駅は訪問当日はいつものように静まり返った構内でしたが、聞くところでは一週間ほど前まではキハ202とキハ204の解体作業がここで行われていたとのこと。キハ200形は鹿島臨海鉄道から譲受した4輌の元国鉄キハ20形で、201はすでに解体されていますから、残ったのは那珂湊駅構内で保存展示車輌となっている203だけとなってしまったことになります。

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▲先週ご紹介したケハ402とハフ46のケハ時代の画像を古村 誠さんがお送り下さいました。茨城線時代の写真で、ともにかつての茨城交通色を纏っているのがわかります。'70年頃 P:古村 誠
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湊線 あの頃。(下)

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▲派手なエキゾーストを残して阿字ヶ浦を発車してゆくキハ22形+キハ1002の2連。左手にはケハ402の姿が見える。'80.4.3 阿字ヶ浦
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この当時の湊線は留萌鉄道と羽幌炭礦鉄道から転入してきた"道産子"気動車が幅を利かせており、生え抜き組はケハ601が昼間の単行に充当されるのが目立つ程度で、どちらかというと影の薄い存在でした。

130710n002.jpg当時(1975年3月改正)の運用行路はA~Cの3行路。A行路はキハ2004、2005および1000代、B行路はキハ221、222、223、およびケハ601、C行路はキハ1001、1002、1103、およびハフ46が組みとなっており、C行路の朝の通勤・通学時間帯の阿字ヶ浦発上り108列車が「キハ3+ハフ1」という4輌の長大(?)編成となっていました。この併結のため、その前の下り105列車に那珂湊からハフ46が増結され、108列車の折り返し111列車の那珂湊で解放されるという行路です。つまり、キハ41000の末裔のハフ46はこの平日の1列車のためだけに在籍していたことになります。
▲阿字ヶ浦のホームで休むケハ402。湊線生え抜きの湘南スタイルの気動車だったが、この写真を撮影した半年後に廃車されてしまった。'80.4.3 阿字ヶ浦
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▲那珂湊機関区のハフ46(左)とキハ22形(右)。ハフ46は東野鉄道から転じてきたキハ41000形をトレーラー化したもの。'80.4.3 那珂湊
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▲ハフ46のプロフィール。エンジンが下ろされて前照灯が外されている以外はほとんどキハ41000形そのもの。'80.4.3 那珂湊
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塗色もエンジに白帯の羽幌炭礦鉄道色が標準となって、ステンレスのケハ601以外の旅客車はすべてこの塗色に統一されていました。クリームに青帯の茨城交通色が登場するのはもうしばらく後のことです。

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▲おへそライトがチャームポイントだったキハ1001。タイフォンカバーやずらりと並んだ"バス窓"の二重窓が生まれ故郷を物語る。'80.4.3 那珂湊
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那珂湊の構内にはいわゆる首都圏色のキハ11形が3輌(19・25・26)留置されていました。この時は「国鉄からキハ11が来たんだな」程度の認識しかありませんでしたが、これが数か月後にはキハ111~113として就役し、さらに15年ほど後には小誌編集部がお手伝いをして国鉄旧気動車色に塗り替えられ、そしてさらに現在は1輌(25)が鉄道博物館に、1輌(26)がリニア・鉄道館に保存展示されようとは夢にも思いませんでした。

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▲33年前の那珂湊構内全景。左には真岡機関区から回着したばかりのキハ11形3輌が見える。手前のキハ11 25(茨交キハ112)はこの後24年にわたって湊線で働き、現在は鉄道博物館で保存展示されている。'80.4.3 那珂湊
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■これまでに紹介した湊線関連のアーカイブ
・今度は茨城交通も存亡の危機1? →こちら
・生まれ変わる「湊線」 →こちら
・新社名は「ひたちなか海浜鉄道」 →こちら
・ひたちなか海浜鉄道を訪ねる →こちら
・那珂湊の97式軽貨車を見る →こちら
・ひたちなか海浜鉄道は今 →こちら
・ひたちなか海浜鉄道応援ツアー →こちら
・湊線が全線復旧 →こちら
・「チャリティー写真展in那珂湊」開催 →こちら

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湊線 あの頃。(中)

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▲金上-中根間の直線を行くステンレス車体のケハ601。画面右上の屋敷森は今では湊線屈指の撮影ポイントとなっている。'80.4.3 金上-中根
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撮影記録をひも解いてみると、この1980(昭和55)年4月の湊線訪問は珍しく一泊して全線を撮影しています。というのもこの日、阿字ケ浦の「白亜紀荘」で関東学生鉄道研究会連盟(学鉄連)のリーダーズキャンプが開催されたからで、各大学2名としても、かなりの人数が阿字ケ浦の地に集ったことになります(編集長敬白アーカイブ「"学鉄連"の時代」参照→こちら)。
ただ、翌日はそそくさと玉山鉄道へ。玉山鉄道とは四ッ倉駅から出ていた住友セメント四倉工場玉山鉄道部の専用鉄道のことです(『トワイライトゾ~ン・マニュアル10』所収「さらば玉山鉄道」参照)。当時その存在さえほとんど知られていなかった延長5キロほどのこの玉山鉄道がいたくお気に入りで、折あるごとに訪れており、どうやらこの時点でのプライオリティーは玉山の方にあったようです。

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▲組成を終えて発車を待つケキ103牽引の上り混合122列車。思えばこの混合列車、一度も乗車せず仕舞いだった。'80.4.3 那珂湊
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いずれにせよ、リーダーズキャンプ前には充分時間があったため、ペンタックス6×7を抱えて中根駅から金上駅まで歩き通すなど、それなりに真剣に撮影に臨んでいたようです。

130710n006.jpgお目当てのケキが牽く混合列車は一日2往復。といっても当時4列車すべてが混合編成となることは稀で、この日も狙っていた勝田発の117列車は貨車が入らずがっかり。続く122列車は那珂湊構内で発車前の姿を撮影しただけに終わってしまいました。ご多分に漏れず1980年代に入ると湊線の貨物輸送量も漸減し、肝心の混合列車に貨車が連結されないことも多くなってきました。同じ新潟鐵工所製のロッド式ディーゼル機関車が混合列車を牽いていた津軽鉄道(編集長敬白アーカイブ「今週末は津軽鉄道80年」参照→こちら)でも同様で、この頃を境に"混合列車"という存在自体が歴史の彼方へと消えつつあったのです。
▲機関庫で顔を揃えたケキ102(左)とケキ103(右)。ケキ102は茨城線(1971年廃止)に配置されていた機関車で、晩年は湊線に転じていた。'80.4.3 那珂湊
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▲見渡す限りの茫洋たる風景の中をゆくキハ22形。湊線のハイライトともいえるこの区間は今でもほとんど変わっていない。'80.4.3 金上-中根
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▲貨物営業を行っていたこの当時は自社線内用の貨車も在籍していた。もっともこの古典貨車ト1形(左)はすでに車籍はなく、バラス運搬などの事業用として残っていた。右は今では那珂湊名物(?)のひとつともなっている97式軽貨車(編集長敬白アーカイブ「那珂湊の97式軽貨車を見る」参照→こちら)を利用した薬剤散布車。'80.4.3
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当時の湊線のもうひとつの魅力は、気動車のバラエティーの豊かさにありました。留萌鉄道や羽幌炭礦鉄道から移籍してきた"道産子"気動車たちが、オリジナルの塗色のまま走り続ける姿は、1970年代に足しげく渡道した世代にとってはなおさら強くシンパシーを感じる光景でした。

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▲故郷の羽幌炭礦鉄道を思い起こさせるような情景の中を行くキハ22。キハ22は旋回窓も残されており、塗色もこの時点では羽幌色のままだった。'80.4.3 金上-中根
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湊線 あの頃。(上)

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▲朝の湊線ホーム寸描。混合114列車で到着したケキ103が転線中。'80.4.4 勝田
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ひたちなか海浜鉄道湊線の今昔についてはこれまでにも何回かご紹介してきましたが、今回は私にとっては比較的後年、1980年代の様子をご覧に入れましょう。カメラはそれまでの35ミリ判からペンタックスの6×7にバージョンアップ(?)したものの、なぜかいつも北海道や東北遠征の道すがらの訪問で、考えてみれば湊線自体をメインに常磐線を往復するようになったのは1990年代以降になってからのことでした。

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▲これはトップの写真の一年前、1979年に撮影した勝田駅湊線ホームの全景。側線にはまだまだ貨車の姿が多い。'79.2.16 勝田
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勝田駅にはかつて湊線と逆側に日立製作所の専用鉄道がのびており、そこにはバッテリー機関車がプシュプルで牽引する奇妙な通勤列車が走っていました(編集長敬白アーカイブ「日立水戸の奇妙な列車」参照→こちら)。ところがこの通勤列車の勝田駅発が7時25分と7時45分と東京からではどうにも間に合いません。そこで思いついた"奇策"が遠征の帰路に上り「十和田」を水戸で途中下車することでした。例えば204列車「十和田4号」の水戸着が5時31分、6時02発の下り433Mで折り返せば勝田には6時08分に到着するという寸法です。

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▲わが国初のステンレス車体の気動車ケハ601が雑木林の横を駆け抜ける。ケハ601は総括制御ができないため、もっぱら昼間の単行列車に充当されていた。'80.4.3 金上-中根
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これでお目当てのバテロコ牽引通勤列車を首尾よく撮影することができるわけですが、撮影終了が8時前...まさに朝飯前です。そこで手近な次の訪問地として浮かび上がってくるのが茨城交通湊線でした。当時の湊線はもちろん貨物営業を行っており(1984年廃止)、関東地方では最後となってしまったディーゼル機関車牽引による混合列車が運転されていました。

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▲この日の下り混合117列車は貨車の連結がなかった。ロッド式DLがせわしなく足を回して気動車1輌を牽く姿はなんともユーモラス。'80.4.3 金上-中根
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その混合列車の設定が朝の通勤時間帯が終わった10時台で、行きがけの駄賃とばかりに金上付近(混合117レは金上で116レと交換、10時38分金上発)でこの混合列車を撮影してから帰京するのが常でした。いずれにせよ長旅のラストとなるわけで、体力的にも懐具合からしても早々に撮影を切り上げて上野行きのシートに身を沈めることになります。そんなわけですから、この当時、夕方までじっくりと湊線を撮りこむことはありませんでした。

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▲往年の初代"あおぞら号"の塗装となった15200系"あおぞらⅡ"。先頭部には初代"あおぞら号"と同じブルーのヘッドマークが付く。'13.7.6 明星車庫 P:RM(髙橋一嘉)
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近畿日本鉄道では12200系改造の団体専用電車"あおぞらⅡ"(15200系)を2輌補充するのに伴い、従来の青色塗装に替え、オール2階建て電車として有名な20100系初代"あおぞら号"の復刻塗装を施しました。

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▲大阪方から見た15204-15104。'13.7.6 明星車庫 P:RM(髙橋一嘉)
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20100系"あおぞら号"は1962(昭和37)年に登場した修学旅行用電車です。近鉄では1958(昭和33)年に登場した10000系以来、2階建て電車"ビスタカー"が同社の大看板となっていましたが、この20100系では初めてオール2階建て構造とし、「ビスタカーでの修学旅行」を実現、子供たちの憧れの的となりました。しかし、老朽化や非冷房だったこともあり、18200系改造の"あおぞらⅡ"にその役目を譲り1994(平成6)年までに全廃されました。

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▲宇治山田方の15104。旧12331で白い便所窓が残っている。'13.7.6 明星車庫 P:RM(髙橋一嘉)
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さて、今回"あおぞらⅡ"に改造された車輌は大阪方から15204-15104(旧12231-12331)の2輌。クリーム色と赤色の塗り分け線は20100系初代"あおぞら号"のものをベースとした従来の"あおぞらⅡ"のものを踏襲しています。なお、従来の15200系"あおぞらⅡ"は正面・側面とも行先表示窓を撤去し、愛称は車体に標記されていましたが、今回の編成は復刻塗装であることを考慮して、従来の行先表示窓に愛称表示のパネル(固定)が取り付けられています。また、車内は特急時代と変更はありません。

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▲15204の車内。特急時代と変更はなく、荷棚には今や貴重な「網棚」が残る。また、席番表記は「しまかぜ」導入に伴う変更前の、アルファベットの付かない数字のみの表記のままとなっている。'13.7.6 明星車庫 P:RM(髙橋一嘉)
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連日満席が伝えられる観光特急"しまかぜ"が話題の近鉄ですが、この初代"あおぞら号"復刻塗装車、さらに10月デビューが発表されている観光列車"つどい"など、しばらく注目の的になりそうです。

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伊予鉄松前駅を見る。

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▲木造+漆喰の堂々たる駅舎正面。待合室入口には昭和の商店を思わせるガラス窓の引き戸が備わる。'13.5.25
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先般、むかいだ小児科の謎のポーターを訪ねた際(編集長敬白アーカイブ「むかいだ小児科の"ポーター"」参照→こちら)、ついでと言ってはなんですが、以前から気になっていた最寄駅の伊予鉄道郡中線松前駅も観察してきました。

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▲ゆったりとした待合室。窓もサッシ化されていない。もちろん有人駅。'13.5.25
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▲改札口からホームを見る。ホームが一段高くなっており、3段の階段で上がる。かつては木製のラッチがあったであろう改札口には伊予鉄の非接触式ICカード「ICい~カード」の簡易改札機が備わる。'13.5.25
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「松前」と書いて「まさき」と読むこの駅、1896(明治29)年に南予鉄道の駅として開業した歴史ある駅で、近代化が進む伊予鉄道各駅のなかで、古い木造駅舎がしっかりと残されていることで注目されます。駅からはほんの200mほどで伊予灘の港。かつてはこの駅から松山市内へと向かう魚介の行商で賑わったと伝えられるだけあって、本屋は広い待合室を備えています。

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▲下り方からみた駅舎全景。かなり長さがあり、かつては駅本屋のほかにも多くの機能を有していたようだ。'13.5.25
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▲本屋正面軒下(左)と、本屋の上り方にある倉庫(?)の漆喰部分(右)。'13.5.25
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郡中線は1937(昭和12)年に2フィート6インチ(762㎜)軌間から3フィート6インチ(1067㎜)軌間に改軌されており、この本屋建物もその当時に建て替えられたものかもしれません。軒下に残る漆喰壁や、サッシ化されることなく丹念に手入れがされた木製の窓枠など、まさに模型のストラクチャーのプロトタイプのような風情が残されています。

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▲1番線ホーム(松山市行き)から下り方(郡中港方)を見る。対向の2番線とは下り方の構内踏切で連絡している。'13.5.25
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ホームは2面3線ですが、3番線は非電化で現在は使用されていません。上下列車の交換駅となっていますが、平日の7時台には松山市駅からの2往復の区間列車も設定されています。
味わいある木造駅舎が全国的に次々とその姿を消してゆく中、またひとつ記憶に留めておきたい駅に出会うことができました。

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▲下り方から見た構内全景。左から1・2・3番線で、3番線には架線がないのがわかる。2番線に停車しているのは郡中港行き3000系。'13.5.25
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▲ビジュアル百年のセンテンスより、鉄道廃止時の賑わい。 (『頸城自動車の100年』より)

去る4月6日に創立100周年を迎えた頸城自動車株式会社が立派な社史を刊行しています。頸城自動車といえば、私たち鉄道の世界では"マルケー"の愛称で親しまれた軽便=頸城鉄道が思い浮かびます。現在はバスを中心に盛業中の頸城自動車ですが、100年のアニバーサリーとなる本書もその内容の多くは鉄道線の記述に割かれています。

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▲表紙カバーは金の箔押しの立派なもの。頒価は2,000円(税込)とのこと。 (『頸城自動車の100年』より)

AB判(257㎜×210㎜)横開き128ページの本書は、写真を中心としたビジュアル百年、記述を中心とした暦年百年、資料編、略年表などから構成されており、ビジュアル百年ではRMライブラリー『頸城鉄道』の著者である梅村正明さんらの協力によって、現役時代の鉄道線の生き生きとした姿が多くの写真で甦ります。

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▲大正時代の新黒井から浦川原までの情景が328フィートのフィルムに収録された映画「頸城の秋」のスクリーンショットも紹介されている。 (『頸城自動車の100年』より)
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▲コッペルの引退(左)、そして近年のホジ3、DC92の動態復活(右)なども収録されている。 (『頸城自動車の100年』より)
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また、大正時代末期に製作された沿線PR映画「頸城の秋」(オリジナルは35ミリフィルム)のスクリーンショットや、1965(昭和40)年に新潟放送で放映された「出発進行!! ホジ3号 わがはいは軽便列車」の名場面なども収録されており、思わず見入ってしまいます。

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▲廃止時まで残った主要車輌の竣功図表も収録されている。 (『頸城自動車の100年』より)

鉄道線廃止後の西武山口線での2号機復活、そして「くびきのレールパーク」での自走復帰したホジ3と公開イベント(→こちら、→こちら)の賑わいなど、本書を見ていると"みそ汁軽便"頸城鉄道が時空を超えてどれほど愛され続けているかがひしひしと伝わってきます。

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▲お馴染みの"マルケー"の社章(下)。上の片仮名の「ケ」は戦時中に使用されたものだという。 (『頸城自動車の100年』より)

頸城自動車ではこの100周年記念誌のほかにも100周年記念切手、記念乗車券、特製ピンバッジなども製作しており、いずれも代引きでの宅配便発送で注文を受け付けているそうです(→こちら)。
ちなみにこの100周年社史『kubiki 百年』は価格2,000円(税込)。地方私鉄ファンのみならず、頸城鉄道の世界にシンパシーを感じられているモデラーの皆さんも、モデル棚の横にぜひ揃えておきたい一冊ではないでしょうか。

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江差線最後の夏...。

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▲西日を浴びて江差をあとに南浜の海岸を走る木古内行き。バックには相泊岬や鴎島が見える。'13. 6. 1 江差-上ノ国(4177D) P:辻 晴穂
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去る4月26日にJR北海道が国土交通省に廃止届を提出し、来年2014年5月12日付けで廃止されることが確定した江差線木古内~江差間42.1㎞には、夏休みを前にお名残乗車や撮影に訪れる方が日増しに増え続けているそうです。

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▲江差線木古内~江差間とは思えない堂々たるキハ183系3連の「臨時特急えさし号」。'13. 4.28 湯ノ岱-宮越(第一天ノ川橋梁/9014D) P:辻 晴穂
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本誌でもご活躍いただいている地元・江差在住の辻 晴穂さんからお便りと最近の画像を頂戴しましたのでご紹介いたしましょう。辻さんによれば、廃止決定後はJR自らの「ありがとう江差線」企画によって数々の臨時列車が入線しており、夏休み中にもさまざまなプランが予定されているそうです。

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▲キロ182形を組み込んだ「臨時特急えさし号」。乗車券はグリーン車から先に完売したという。'13. 4.28 吉堀-神明(第二木古内川橋梁/9014D)  P:辻 晴穂
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廃止届提出2日後の4月28日には「臨時特急えさし号」が運行されました。編成は江差方よりキハ183-218+キロ182-504+キハ183-208の3輌。キロ180形は江差線初入線となり、グリーン車の入線自体、1996(平成8)年11月9・10日の「江差線60周年記念号」のキロ29形以来、実に二度目の入線となります。それもあってか乗車券はグリーン車から先に完売となる人気ぶり。もちろん普通車も含めてすべて満席となったそうです。ちなみに、9014Dでの第一天ノ川橋梁の撮影ポイントでは120名を超えるカメラの放列となったとのことです。

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▲キハ183系3輌による「お座敷えさし号」。同列車は夏休み期間中の7月25日~31日、8月6日・7日・9日~18日にも運転される予定。'13. 5.12 上ノ国-江差(9012D) P:辻 晴穂
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続く5月11・12日の両日にはキハ183系3輌によるお座敷列車が運転され、こちらも乗車券はすべて完売、全国各地から駆けつけた参加者の皆さんがお座敷列車での江差線を堪能されました。なお、江差-湯ノ岱間はスタフ閉塞のため、充当車輌の江差駅での留置ができず、湯ノ岱に留置するため、江差~湯ノ岱間の回送が一往復運転されています。

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▲江差駅を発車した「お座敷えさし号」を俯瞰する。 「お座敷えさし号」は函館→江差、江差→木古内、木古内→江差、江差→函館の経路で運転される。'13. 5.11 江差-上ノ国(9015D) P:辻 晴穂
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そして5月25日には「準急えさし号」が運転されました。編成はキハ40 1807(機関更新車)の単行。この列車も湯ノ岱への回送が一往復運転されました。

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▲新緑の第二天ノ川橋梁を行くキハ40 1807の「準急えさし号」。6月22日にも同列車が運転された。'13. 5.25 湯ノ岱-宮越(第二天ノ川橋梁/9124D) P:辻 晴穂
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辻さんのお話では最近は昼間の単行運転列車も2輌編成となり、それにも関わらず大賑わいだそうで、夏休み突入とともに江差線始まって以来の熱い夏...そして最後の夏が始まるに違いありません。

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▲江差町のウロコイ辻薬局ギャラリースペース(江差町字姥神町77)では辻 晴穂さんの写真展を開催中(9月30日まで。9:00~19:00/日曜休業)。夏休みに江差を訪れた際はぜひお立ち寄りを...。P:辻 晴穂
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▲来年度から南武線に投入予定のE233系車輌のイメージ。 (JR東日本プレスリリースより)

JR東日本は、通勤型車輌の新造計画を発表し、南武線用にE233系、新潟地区にE129系、仙台地区の仙石線・東北本線接続線用にHB-E210系ディーゼルハイブリッド車を投入することを明らかにしました。

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▲E233系とこれまでの205系車輌との比較。 (JR東日本プレスリリースより)

南武線用のE233系は6輌編成を計35編成(210輌)新製、2014年度から川崎―立川間で順次運転を開始する予定です。従来の205系と比較して約1割定員が増加し、混雑を緩和できるほか、車内照明をオールLED化し、従来の蛍光灯の約6割の消費電力量に低減を図り、しかも在来の205系と比較して約7割の消費電力量で走行可能となっています。

■E233系関係のアーカイブリンク ※タイトルをクリックすると当該アーカイブにとびます。
・E233系がデビュー!
・E233系試運転に乗る
・常磐緩行線にもE233系
・京浜東北・根岸線用E233系1000番代登場
・E233系1000番代が正式にお披露目
・E233系「ローレル賞」受賞式典
・東海道本線用E233系3000番代登場
・常磐緩行線用E233系登場
・E233系2000番代報道公開
・京葉線にもE233系
・E233系5000番代誕生
・E233系中間車に新番代登場
・E6系量産と埼京線・横浜線用E233系を発表
・埼京・川越線用E233系7000番代営業運転開始へ

E129.jpg一方、新潟地区に投入予定のE129系は2輌編成を計30編成(60輌)、4輌編成を計25編成(100輌)の合計160輌で、上越線(水上―宮内)、信越本線(直江津―新潟)、羽越本線(新津―村上)、白新線(新潟―新発田)、越後線(柏崎―新潟)、弥彦線(東三条―弥彦)の各線で2014年度から順次運転を開始する予定です。
こちらも従来の115系車輌と比較して定員が約1.5割増加するほか、車内照明をオールLED化して従来の蛍光灯の約6割の消費電力量とし、115系車輌と比較して約5割の消費電力量で走行可能なものとなっています。
▲新潟地区に投入されるE129系のイメージ。 (JR東日本プレスリリースより)

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▲E129系と従来の115系との比較。 (JR東日本プレスリリースより)

仙石線・東北本線接続線用ディーゼルハイブリッド車輌として新製されるHB-E210系は2輌編成が計8編成(16輌)。2015年の仙石線・東北本線接続線の開業時より仙石線(高城町―石巻)、東北本線(仙台―塩釜)、仙石線・東北本線接続線(塩釜―高城町)で営業運転を開始する予定です。このHB-E210系は2輌1編成の構成とし、片側3扉で通勤・通学客の乗降をスムーズに行うことが可能です。また、こちらも車内照明をオールLED化して従来の蛍光灯の約6割の消費電力量とするほか、排気ガス中の有害物質である窒素酸化物(NOx)と粒子状物質(PM)の排出量も約6割低減した環境にやさしい車輌となります。

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▲川崎市高津区で保存されている川崎市営トロリーバス104号。屋根付きで保存されているため大きな腐食などは見られない。P:宮武浩二
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トロリーバスの遺構も訪ね歩いておられる宮武浩二さんから、川崎市交通局のトロリーバスについてのレポートを頂戴しました。実はかなり以前にいただいたレポートなのですが、なかなかご紹介する機会がなく、ようやく本日公開できる運びとなったものです。

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▲車体は二代目、前扉の横にはブロック文字で104の数字が出自を示しているのは貴重。P:宮武浩二
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▲川崎市のトロリーバスはディーゼルバスの車体を基本としているのでポールが無いと通常のバスと変わらないスタイルである。P:宮武浩二
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130702n005.jpg今回は川崎市高津区に保存されている川崎市交通局の104号をご紹介します。
川崎市のトロリーバスは東京都営のトロリーバス開業より1年前となる1951(昭和26)年3月1日に開業しました。戦後の高度成長期における大都市の中量交通機関としては最初のものといえます。その後、市電とともに工業地帯への通勤客の足として大活躍しましたが、性能が格段に向上したディーゼルバスの機動性と比較されるようになると、架線に制約されるトロリーバスは不利となり、市電とトロリーバスはバスに転換する方針のもと、トロリーバスは市電に先駆けること2年前となる1967(昭和42)年4月30日をもって廃止されました。
▲高津区が設置しているトロリーバスの説明板。P:宮武浩二
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▲車内はラッシュ時に威力を発揮する通称三方シート(左)。このあたりが都市部のトロリーバスの証といえる。右はそのリアビューで、ポール、レトリバーなどトロリーバスの一部の部品は失われている。矢印型の方向指示器も懐かしい。P:宮武浩二
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廃止されたトロリーバスは700形が横浜市交通局に移籍しただけで、他の車輌は解体されましたが、幸いにも104号だけが高津区の町内会会議所に譲渡されて現在でも見ることができます。

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▲広瀬車輌が試作したHB-9000-C型の貴重な写真。外観はアメリカンスタイル、車内は木製品であったそうで、のちに川崎市に納入され304号となった。所蔵:宮武浩二
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▲広瀬車輌が試作したHB9000C型の仕様書。所蔵:宮武浩二
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この104号は他の100が他とは違うルーツがあって、1950(昭和25)年に富士産業、東芝、日野自動車が新しい大都市用のトロリーバスとして試作し、名古屋市交通局で試験運行された車輌で、試験運行終了後に車体を一部改造の上、川崎市交通局に1954(昭和29)年に納入されました。当時は他にも日立製作所、広瀬車輌でもトロリーバスの試作車が製造され、納入先を狙っていたわけです。ちなみに広瀬車輌の試作車は川崎市に納入されて304号として運行されていたので2輌の試作車が走っていたことになります。

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▲日立製作所が試作したトロリーバス。所蔵:宮武浩二
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▲日立製作所が試作したトロリーバスのパンフレット(左)と仕様書(右)。所蔵:宮武浩二
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104号は1963(昭和38)年に現在のバス型車体に更新されましたので、僅か4年あまりでお役御免になったわけです。
トロリーバスの保存車としての保存ならポールなども外さなかったと思いますが、ここまで生きながらえただけでも幸運なことだと思います。貴重な大都市のトロリーバスとして大阪市交通局に保存されている255号(編集長敬白アーカイブ「大阪市営トロリーバスの遺構」参照→こちら)と共に日本の交通史における歴史の生き証人として大切に保存していただきたいと思います。

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▲リニューアル工事を終えて任地の新潟へと向かうE653系「いなほ」編成。'13.6.29 高崎線岡部-本庄 P:長島信幸 (「今日の一枚」より)

すでに鉄道ホビダスの最新鉄道情報でもお伝えしておりますが、白新線・羽越本線を運転している特急「いなほ」(新潟―酒田・秋田間)が、現在使用している485系車輌から常磐線で使用していたE653系車輌に順次置替えられることとなり、すっかりイメージを一新したE653系が早くもその姿を現しました。

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▲編成イメージ。1号車がグリーン車となり、7輌編成428席(グリーン席18席、普通席410席)と、従来の485系(6輌編成、グリーン席16席、普通席366席)よりキャパシティーも拡大する。 (JR東日本新潟支社プレスリリースより)

生まれ変わったE653系の最大の特徴はラウンジスペースを備えたグリーン車が設定されたことで、車体色も羽越本線を走行する特急「いなほ」に相応しい、「夕日・稲穂・海」をキーワードとした新たなデザインとなっています。

1号車となるグリーン車は、新潟と酒田・秋田間を結ぶ長距離をゆったりとくつろげるよう、窓枠に合わせた広いシートピッチの確保やラウンジスペースの設置など、「いなほ」独自の魅力ある空間が広がっています。その特徴は...
○海側2席+山側1席の余裕のある大型リクライニングシートを採用(18席)、シートリクライニング時のプライベートスペースを確保するため、各席前後にパーテーションを設置。
○景色を楽しみながら談話ができるラウンジスペースを設置。(海側は窓向き、山側は対面)
○インテリアイメージは、実る稲穂をイメージした色調を採用。

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▲グリーン車(左)とラウンジスペース(右)のイメージ。グリーン車は「扇」をモチーフとしたシンプルなデザインのパーテーションと実る稲穂をイメージした色調の上品かつ落ち着きある室内となる。 (JR東日本新潟支社プレスリリースより)

現在、郡山総合車両センターでリニューアル工事が進められており、営業運転には今秋から投入、最終的には56輌(7輌×8編成)が置き換えられる計画です。
なお、この「いなほ」用E653系については本誌次号で詳しくご紹介できる予定です。

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