鉄道ホビダス

2012年6月アーカイブ

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▲東京急行電鉄・玉川線 上通 '69.3.4 P:諸河 久 (諸河 久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~より)

来週7月5日(木曜日)から東京・品川の「キヤノンギャラリー S」で諸河 久さんの写真展「電車道」~日本の路面電車今昔(いまむかし)~ が始まります。プロの鉄道カメラマンとして常に鉄道写真の世界をリードしてきた諸河さんですが、今回のテーマはまだアマチュアだった時代、主に1960年代後半に撮影された全国各地の路面電車です。

toden0001n.jpg諸河さんと聞くと、"サンニッパ"に象徴される "大艦巨砲主義"の先鞭をつけられた方とのイメージが先行しがちですが、個人的な趣味の原点は実は路面電車なのです。都電のメッカ・銀座で育たれた諸河さんが、もっとも身近な鉄道である路面電車に魅かれていったのは当然といえば当然だったのかもしれません。高校生になると全国を股にかけた路面電車行脚が始まります。1960年代は次第に勢力を減じつつあったとはいえまだまだ全国に魅力的なトロリーラインが息づいており、諸河さんもその命脈を追うように、北は旭川電気軌道から南は鹿児島市電まで精力的に撮影行を繰り広げられます。
▲東京都交通局 通り三丁目 '71.1.1 P:諸河 久 (諸河 久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~より)

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▲東京急行電鉄・玉川線 三軒茶屋 '69.5.10 P:諸河 久 (諸河 久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~より)

今回の写真展はそんな時代のモノクロ作品を中心に約90点が展示されます。しかもすべての作品が最新のデジタル技術によってリファインされたもので、出力はキヤノンの大判プリンターimagePROGRAF。なかには3m×2mといった巨大な作品も展示されるそうですので、被写体の興味深さのみならずモノクロ写真の今後の可能性といった意味でも興味深いものとなりましょう。

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▲秋田市交通局 県庁前 '65.7.30 P:諸河 久 (諸河 久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~より)

なお、会期中の7月21日(土曜日)には会場3階 キヤノンホール Sで諸河さんの講演会が予定されております。撮影の秘話やモノクロネガのデータ化テクニックなどがふんだんな実例を交えて披露される予定で、私がMC役を務めさせていただきます。
■諸河 久 講演会
日時:2012年7月21日(土) 13 時30分~15時
会場:キヤノン S タワー3階 キヤノンホール S
内容:ネコ・パブリッシング 名取紀之編集局長との対談で、撮影の秘話やモノクロネガのデータ化テクニックなどを講演。
お申し込み:canon.jp/eventより
定員:先着300名

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▲静岡鉄道・清水市内線 新清水駅前 '65.8.7 P:諸河 久 (諸河 久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~より)

最後に諸河さんご本人からメッセージをいただいておりますのでご紹介いたしましょう。

私が鉄道写真を撮り始めたのは小学校高学年の頃でしたが、被写体として一番頻繁に写していたのが自宅付近を走っていた「都電」でした。高校生になると「路面電車ファン」を自認して、カメラを携えて各地の路面電車を探訪しました。魅力があった関西圏への撮影旅行はアルバイトをしてやっと達成しましたが、北海道や九州・四国となると、今日の欧米旅行に匹敵する遠隔感がありました。大学に進学して、東北旅行を皮切りに、中国、中部・北陸、北海道、九州、四国の順で全国を巡り、1968年10月、未踏だった福井鉄道・軌道線を最後に全国路面電車撮影の旅を終えたのです。今回の写真展はアマチュア時代に撮影したモノクロ作品を中心に構成。電車、街、人々の暮らしぶりなど、高度経済成長のただなかにあった各地の情景は貴重な記録となりました。幸いなことに、半世紀近く経過したモノクロネガの保存状態が極めて良好で、近年のデジタルデータ作成技術の進歩が、当時の様子を現代に伝える大きな力となってくれたのです。若い情熱に任せて撮影した路面電車のアフターイメージを、ご来場者の皆様に味わっていただけるものと確信しております。          

諸河 久

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■諸河久写真展「電車道」~日本の路面電車今昔~
●2012年7月5日(木)~8月9日(木)
●キヤノンギャラリー S
●10時~17時30分 (日曜・祝日休館)
入場無料
●JR品川駅港南口より徒歩約8分
京浜急行品川駅より徒歩約10分

※明日は不在のため小ブログは休載させていただきます。

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▲収録されている膨大な再現路線図の一例。一般の地形図ではなく森林管理署(旧営林署)の管内図上に路線を再現したもの(約1/6200縮尺)で、森林鉄道研究にとって図上の情報量は圧倒的。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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東北森林管理局長の矢部三雄さんから、『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(東北編)』(定価2500円+税/秋田魁新報社)をお送りいただきました。昨日、6月26日発行の最新刊で、B5判304ページに盛り込まれた資料はまさに驚異的。ついに"真打"登場の感がいたします。

touhokushinrin010n11.jpg昨年夏に仁別森林博物館で開催された「森林鉄道企画展」の驚くべき内容(編集長敬白アーカイブ「仁別森林博物館を訪ねる」参照→こちら)についてはご記憶にある方も多いかと思いますが、本書はその展示内容をさらに深化させたもので、東北森林管理局(旧青森営林局・秋田営林局)管内に存在したすべての森林鉄道(森林軌道)を局管理資料に基づいて詳らかにした画期的なものです。ここで言う局管理資料とは主に土木台帳、林道台帳で、いわば森林鉄道の戸籍・登記簿のようなもの。登記番号、延長、平均勾配、最急勾配、最小半径、財産区分、経費、修繕経緯などが克明に記録されており、いかなる支線もこれに漏れることはないはずです。

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▲戦前からの膨大な土木台帳、林道台帳から資料作りが始まった(左)。右は333路線、総延長2,135を記録した1950(昭和25)年時点での森林鉄道位置図。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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矢部さんは東北森林管理局長の要職に就かれてこの台帳の発掘に尽力され、昭和11年の土木台帳規定の制定を受けて作成された現存最古と思われるものから暦年順にその記載内容を読み取られ、最終的にはその膨大な資料を路線(本線、支線、分線)、名称、読み方、等級、実行年度ごとの開設延長、平均勾配、最急勾配、最小半径、幅員および廃止年ごとの廃止延長と転換先に分類されてデータ化されました。ちなみに読み方はすべて現地確認をされたとのことです。

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▲下北半島のふたつの大規模森林鉄道、大畑森林鉄道と川内森林鉄道を接続しようとする計画「下北半島森林鉄道重兵衛越」も今回初めて明らかになった。実現はしなかったものの、実測図が現存しているという。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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巻頭には読み物的記事も10編収録されております。「下北半島縦貫森林鉄道構想」や「分水嶺を越えた森林鉄道」、「自署運用ができない小阿仁林道、藤琴林道」など、貴重な一次資料に裏付けされた専門家(いや当事者か...)ならではの記事の数々は、ナローゲージャーのみならず心ときめくに違いありません。

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▲仁別森林博物館(アーカイブ「仁別森林博物館を訪ねる」参照→こちら)のある「国民の森」への保存機搬入の状況なども紹介されている(左)。各署別にきわめて詳しく路線の消長が紹介されている(右)。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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再現路線図についてはすべてカラーで掲載されており、驚くべきはそのベースとなっているのが一般的な国土地理院の地形図ではなく、各森林管理署の業務用として使われている管内図であることです。編集を担当された財団法人日本森林林業振興会秋田支部・青森支部が不明な点は手分けして関係者や地域住民への裏付け調査を行って管内図にプロットしていったとのこと。ちなみに、それでも管内図が現存していなかった旧岩手営林署の松川林道、松尾林道など一部は推定ルートとせざるを得なかったとの注記があり、そのご努力たるや感動ものです。

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▲後半には貴重な写真の数々が30頁にわたって収録されている。青森運輸営林署の大規模な修理工場内部の様子や、浅野物産製代燃機関車の写真など初見のものも多い。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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巻末には資料編としてこれら各署別、各線別のデータを集約した「東北森林管理局管内森林鉄道全路線一覧表」が収録されており、これはインデックスとしても便利なものとなっています。なお、各章の扉には画家の田村まさよしさんが描かれた津軽森林鉄道跡のスケッチ画が用いられており、データ密度の高い本書の中にあって、これは一服の清涼剤ともなっています。

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▲巻末資料編の「東北森林管理局管内森林鉄道全路線一覧表」は各線の正確な読み方や概要のほか、1910(明治43)年から1970(昭和45)年までを13期に区切って各期の延長距離も収録している。 (『国有林森林鉄道全データ(東北編)』より)
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巻頭言を矢部局長は「この東北編の発行を契機として、全森林管理局管内の森林鉄道の記録が世に出されることを大いに期待したい」と結ばれております。従来の営林局史のようなものと異なり、「全国の森林鉄道ファンの方々にも手に取っていただくことを願っている」(同じく矢部局長巻頭言)とされる本書は、いわば本邦初の森林鉄道に関する"オフィシャル本"であり、その意義は限りなく大きいと申せましょう。
なお、さっそく「書泉グランデ」さんに本書の取扱いをお願いいたしましたので、東京在住の方は店頭で現物をご覧になったうえでご購入いただくことが可能です。

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▲左は常紋を越えてきた貨物列車の後補機、右はこれから常紋に向かう9600とD51重連の貨物列車。'70.2.23 P:堀越庸夫 (『国鉄時代』vol.30より)
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2005年3月発売の第1号から数えて30号、節目の号となった『国鉄時代』vol.30は鉄道の最大の見せ場とも言える「鉄道と峠」がテーマです。近号から編集長をバトンタッチいたしました山下修司新編集長より新刊の見どころをご案内いたしましょう。

120626nh1.jpg「峠」とは古語で「たむけ」と言って、道祖神などの神仏に物を供えること「手向け」が変化したものだと言います。峠越えの無事を祈る旅人...、鉄道においても峠越えのふもとの駅には独特の詩的風景があります。堀越庸夫さん「補機の待つ駅」は常紋越えを前にした緊張、峠を制覇して下ってきた列車の解放感、そして鄙びてはいるもの活気に溢れた駅の印象を鮮やかに描き出した作品です。訪れたことにある方はきっとダルマストーブの石炭の匂いまで甦ってくるでしょう。

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▲「白山」が丸山を通過した。裏妙義丁須の頭付近から撮影。超望遠撮影になるためシャープに撮るには気温や湿度を考慮する必要があった。P:井田定男 (『国鉄時代』vol.30より)
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いまはなき信越本線の碓氷峠は独特の緊張感が常に漂う峠でした。鉄道趣味界、模型界のベテラン長谷川興政さんの「アプトを訪ねて」は、若き日、先輩とともに訪れたアプトの印象を懐かしく語っていただきました。裏妙義にこだまするED42の汽笛。軽井沢方1輌、横川方3輌が奏でるそれぞれに音色の違う笛の音に聞き惚れたそうですから、現場を知らぬ我々には羨ましいばかり。
新線に切り替わって撮影地が大きく減ってしまった碓氷峠ですが、地元・高崎の井田定男さんは、そのアングルの少なさを俯瞰撮影で克服すべく、峻嶮な峰にアタックします。まるで航空写真のように覗き込むような角度からの俯瞰は体力との勝負。また、何度もチャレンジする精神力も必要です。重い機材を背負って登山道を歩いた、若き日の成果が鮮やかに甦ります。

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▲「より高く、とり遠く、登れ、登れ、誰より高く」を合言葉に狩勝峠に挑み続けたまさに青春の記録。 (『国鉄時代』vol.30より)
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俯瞰と言えば狩勝峠。新狩勝峠を縦横無尽に歩き十山を制覇、さらには1000m級の山にもアタックし、雄大な十勝平野の風景をまさに我が物にしたグループ「雪下駄」のメンバー4人。昼夜に及ぶその闘いぶりには驚くばかりです。"昼夜"と言いましたが、なにしろ夜間のバルブも俯瞰で行なっているというのですから、そのパワーのほどが伺えようというもの。片隅にごく控えめに写っている鉄道車輌はスケールの大きな風景のパーツと化したようです。その雪下駄のメンバーが果たせぬ夢を追って廃線俯瞰を行なったという狩勝旧線は、ベテラン佐竹保雄さんが雄渾無比の作品をご寄稿くださいました。見開きのカットは日本離れした風景に息を飲みます。最初訪れたのは昭和32年とのこと。C62が大幹線で特急を牽いていた時代によくぞ! とその活動力に衝撃を受けます。

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▲伝説の狩勝旧線が佐竹保雄さんの見事な写真で甦る。それにしても1957(昭和32)年の狩勝峠は樹木も低く何と見晴らしの良いことか。 (『国鉄時代』vol.30より)
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120626nsuidu.jpg相澤靖浩さんの「杉津越えを歩く」は北陸トンネル開通間近の北陸本線旧線の記録。信号場の職員に顔を覚えられるほど通ったという相澤さんの記事からは、大動脈の賑やかな様子が伺えます。DD50、DF50、D51がエンジン音とブラスト音を交錯させ挑んだ難所・杉津越え。峠といえば静かなイメージがありますが、ここは4箇所のスイッチバックもあって頻繁に汽笛も聞こえ、列車の気配の絶えることは少なかったようです。
▲1962(昭和37)年6月の北陸トンネル開通まで、敦賀湾に沿った旧線のいわゆる杉津越えは北陸本線随一の難所であった。相澤靖浩さんはこの杉津越えに魅せられて足しげく通われた。 (『国鉄時代』vol.30より)
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北海道から九州まで大小の峠越えの情景とそれにまつわるエピソードで綴った『国鉄時代』vol.30、ページをめくるたび、あなたの遠い日の思い出もインクの香りとともに甦ってくるでしょう。
特別付録DVDは2本立て。瀧藤岩雄さんの「道北の蒸気機関車」は宗谷本線、名寄本線、留萌本線、羽幌線などで構成、C55・9600・D51・D61が登場します。原野でのC55や9600の並走が圧巻。宮内明朗さんの「東海道五十三次鉄道膝栗毛」(下)では、「飯田線色」の流電、名鉄岡崎市内線から東レ滋賀工場のH.K.ポーター製の103号、京都市電まで昭和30年代の東海道沿いをノンビリとたどります。国鉄蒸機ファンには、名古屋機関区のC57、加太越えのC57牽引「大和」や後補機や草津線で最後の活躍をするC51なども見逃せません。ぜひご覧ください。


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今を走る尾小屋鉄道。

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▲森に分け入るように走るキハ1。尾小屋鉄道ありし日を知る者なら、花坂あたりの情景がデジャブとなって甦ってくる。'09.9.21
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早いもので、最後の非電化軽便鉄道であった尾小屋鉄道(新小松~尾小屋間16.8㎞)が消えてから今年で35年...。今なお尾小屋を原体験のひとつとしてこの趣味を続けておられる方も少なくないのではないでしょうか。

120625n006.jpgそんな尾小屋鉄道は廃止が1977(昭和52)年と比較的後年で、軽便ゆえ車輌そのものが小柄なこともあってか、最終在籍車輌のほとんどが何らかのかたちで保存されるという幸運に恵まれました(RMライブラリー『尾小屋鉄道』参照→こちら)。そのなかで石川県に引き取られたのがDC121、キハ1、ホハフ3、ホハフ8の4輌です。当初は加賀市の山中温泉の奥にある「石川県県民の森」に静態保存されていましたが、傷みが酷くなってきたこともあって1983(昭和58)年7月に県立小松児童館へと移設されました。自治体が保存している車輌の場合、保存場所を移設までして維持管理しようとするのは異例とも言えるでしょう。しかも移設翌年の1984(昭和59)年8月には動態復活が実現し、ボランティア組織「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」も立ち上がって、「なかよし鉄道」の名称で本格的な保存鉄道としてのスタートを切りました。
▲唯一の踏切から「じどうかいかんまえ」を発車したキハ1を見る。小柄ながらも逞しいエキゾースト・ノートが心地よい。'09.9.21
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▲起点の「じどうかいかんまえ」に帰ってきたキハ1。無料で、しかも運転時間が限られていることもあって乗車率は高い。'09.9.21
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▲2線の矩形車庫はホームの先に建つ(左)。途中の踏切は警報機や遮断竿も備わった本格的なもの(右)。'09.9.21
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過去にも何回かお邪魔したことがあり、また日本鉄道保存協会の1995年度年次総会の開催地となったこともある「なかよし鉄道」は、現在は「いしかわ子ども交流センター小松館」の施設となっており、毎年3月中旬から12月中旬までの期間、水曜日1回、土曜・休日2回の定期的な運転が行われています。線路は車庫のある「じどうかんまえ」から終点の「なかよしの森」まで473m。エンド・トゥ・エンドの単純な棒線状の配置ですが、これが侮るなかれ、なかなかのロケーションです。それもそのはず、「なかよし鉄道」は県営粟津公園の森深い外周に沿うように敷設されており、この粟津公園自体がもとは金沢営林署の施設だったと聞けば納得です。

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▲いかにも軽便らしいカーブを描く線路。終点の「なかよしの森」では乗降はできず、キハ1はそのまま同じ線路を折り返してくる。'09.9.21
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現在主力として活躍しているのは1937(昭和12)年日本車輌製のキハ1で、もちろん機械式気動車の生き残りです。乗車は無料で、車内では貴重な機械式気動車の運転操作を間近で目にすることも可能です。なお、毎年8月の最終日曜日には在籍全車輌を動員した特別運行(10:00~15:00の間30分おきの運転)が行われており、今年は8月26日(日曜日)に開催されるとのことです。また前日の8月25日(土曜日)には尾小屋にある「小松市立ポッポ汽車展示館」で「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」の皆さんによる尾小屋鉄道車輌と鉱山電車の夜間運転も計画されているようで、今から夏休みのスケジュールに組み込んでみられてはいかがでしょうか。

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▲南段原駅に停車する543Dのキハ04 106。画面右側の空き地はかつての行違設備の名残。'66.3.26 P:長船友則 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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今月発売のRMライブラリーは長船友則さんの力作『宇品線 92 年の軌跡』をお届けします。宇品線というと、今では広島港(宇品)に向かう広島電鉄の路面電車を思い浮かべる方も多いかと思いますが、本書の題材となっているのは、広島~宇品間5.9kmを結んでいた「国鉄宇品線」です。

120622nh1.jpgこの宇品線のルーツは古く、1894(明治27)年に敷設された軍用鉄道にまで遡ります。山陽鉄道(現在の山陽本線)が広島まで開通したこの年、日清戦争が開戦、広島には臨時の大本営が置かれるなど、「軍都」の様相を色濃くした時代でした。1897(明治30)年にはこの軍用鉄道を山陽鉄道が借用、改修して一般営業を開始、1906(明治39)年には山陽鉄道が国有化されますが、その後宇品線は1919(大正8)年に旅客営業を廃止、貨物専業の路線となりました。

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▲猿候川橋梁を渡るキハ04形。宇品線では昭和41年の一般旅客営業廃止までキハ04形が活躍したが、ここで活躍した3輌のキハ04形の廃車とともに国鉄線上からキハ04形は姿を消した。'66.6.11 大須口-南段原 P:長船友則 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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宇品線の旅客営業が復活したのは1930(昭和5)年、今度は現在の芸備線を運営していた芸備鉄道がまたもや線路を借用する形で、宇品線でのガソリンカー運転を開始しました。鉄道省の路線で旅客営業は民間による、という不思議な状態になりましたが、その後、1937(昭和12)年には芸備鉄道も国有化され、宇品線の旅客列車は再び鉄道省により運行されるようになります。

120622ndma-67.jpg1941(昭和16)年12月8日開戦。戦時下の宇品線は軍事的要衝であることもあって、それまでのガソリンカーでの運転を蒸気列車に変更して運転を続けていました。そしてあの1945(昭和20)年8月6日を迎えます。朝方の警戒警報が7時31分に解除されてから一時間も経たない8時15分、西条上空から西進してきたB29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾は一瞬にして市内を地獄に変えてしまいました。宇品線の線路は比治山の東側を通っていたため、比較的被害は少なかったものの、長船さんはこの歴史的な一日の状況をさまざまな資料をもとに克明に調査されておられます。宇品駅長らの独自の判断で運転された救援列車は、宇品~南段原間を数回往復して、実に3千人の原爆負傷者を運んだそうです。
▲昭和40年代に入ってからの宇品駅駅舎。駅本屋は線路の突き当り、正面を西に向けて建てられていた。'66.10.22 P:長船友則 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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▲軍用鉄道から始まった宇品線の歴史。明治30年には山陽鉄道が借り受け一般営業を開始したが、本来の目的である軍用での使用のために運休することも多かったという。 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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さて、終戦直後は沿線に官公庁などが集まり活況を呈した宇品線ですが、昭和30年代も後半になると、自動車の増加から街を分断するような線形や多くの踏切が問題となり、また官公庁も市街中心部に戻ったことから乗客も通学時間帯の学生に限られるようになってしまい、運営上の赤字も問題となっていきました。そして宇品線は1966(昭和41)年12月19日限りで一般旅客営業を終了、市販の時刻表から姿を消したのです。

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▲通勤時間帯とそれ以外の時間で利用者数に大きな差があった宇品線。通学列車は左上の写真のようにD51やC58が客車最大7輌を牽引し、客車もロングシート化改造車のオハ63が使用されるなど、混雑していたが、それ以外の時間帯は右上の写真のようにキハ04形1輌でも足りるほどの輸送量であった。 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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ところが、宇品線の旅客列車は途中の上大河までながら朝夕のみ運行が続けられていたのです。これは宇品線の旅客の大半を占める上大河までの通学定期客のみを対象としたもので、一般客の乗車は原則不可、途中駅での折り返しのため、客車の前後の機関車を連結した編成でした。この定期旅客専用列車の運行も1972(昭和47)年3月31日限りで運行が終了、今度こそ国鉄としての宇品線は廃止されますが、その後も東広島駅から伸びる通運業者の専用線という扱いで宇品までの全線が存続し、早朝1往復のみながら貨物列車の運行が続けられました。この「宇品四者協定線」の運行が終了したのは国鉄分割民営化の直前、1986(昭和61)年9月のことでした。

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▲昭和41年12月19日限りで一般旅客営業が廃止され、市販の時刻表から姿を消した宇品線だが、それ以降も定期旅客限定での旅客営業が続けられた。これは上大河までの通勤・通学輸送のためのものであったが、実際には20円を支払えば一般旅客も乗車可能であったという。 (RMライブラリー『宇品線 92 年の軌跡』より)
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本書はRMライブラリー第123巻『呉市電の足跡』(→こちら)を執筆された広島在住の長船友則さんによるもので、その誕生から終焉までの複雑な沿革を、多数の写真とともに丹念に解き明かされています。
長船さんから呉市電に続いて宇品線をまとめたいと伺ったのは、かれこれ2年前に広島にうかがった際のこと。ようやくご労作をかたちにすることができ、個人的にも嬉しい限りです。

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▲原さんの鉄道模型を代表する作品がこのFS E626(1/32)。ハンダ付けをいっさい用いずに、洋銀部品をすべてリベットとビスによって組み立てている。部分アップにしてもこの量感は絶句。'12.6.20 
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古くから鉄道模型を嗜まれている方なら、原 信太郎(はら のぶたろう)さんのお名前はご存知に違いありません。80年近く前から1番ゲージの鉄道模型を作り続けられ、また各国の歴史的鉄道模型製品も精力的に収集されて、神戸のご自宅には「シャングリ・ラ鉄道」と名付けられた100畳分もある巨大レイアウト(非公開)をお持ちです。所蔵されている鉄道模型は約6,000輌。そんな原さんのコレクションを中心としたその名も「原鉄道模型博物館」が7月10日(火曜日)にオープン予定で、昨日はその内覧会が行われました。

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▲メインとなる「いちばんテツモパークジオラマ」は実に面積約310㎡。1番ゲージの室内レイアウトとしては世界最大級で、30分に一度は原さんご自身の作品も走行する予定。'12.6.20 
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120620n020.jpg今年の2月に竣工したばかりの横浜三井ビルディングの二階にオープンする「原鉄道模型博物館」は延床面積約1,700㎡、展示面積約1,200㎡、展示車輌約1,000輌という巨大なもので、館長はもちろん原 信太郎さんご本人。原さんが拘り抜かれる「本物の技術」と希少なコレクションを中心に、国際都市・横浜、そして鉄道発祥の地・横浜にふさわしいわが国を代表する鉄道模型の殿堂、文化交流の場をめざして新設されたものです。
▲原鉄道模型博物館は今年2月に竣工した横浜三井ビルディングの二階にあり、横浜駅東口から徒歩5分ほど。年間20万人の入場を想定しているという。'12.6.20 
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▲エントランスには自動券売機と自動改札が備わる。'12.6.20 
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館内はおおまかに3つの展示室と、約450mの路線延長を誇る巨大な1番ゲージレイアウト「いちばんテツモパーク」、そして地元横浜の今昔を再現した「横浜ジオラマ」から構成されています。エントランスを入ると最初は第一展示室「原模型の真髄」。小学生の時に自作し、現在でも走行可能というファーストモデルが完全なかたちで残されているのも驚きなら、素材に拘って室内まで作り込まれたオリエント急行の木造客車などにも圧倒されます。

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▲高級感あふれるサロンのような第二展示室。原さんが製作・収集した数々の鉄道模型を、「高速機関車物語」や「トロリーポール物語」といったテーマごとに展示している。正面はご自宅の「シャングリ・ラ鉄道」の様子。'12.6.20 
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続く第二展示室では「語る模型」と題して膨大なコレクションの片鱗を見易いディスプレーで展示。あわせて「シャングリ・ラ伝説」としてご自宅の「シャングリ・ラ鉄道」を紹介しています。この第二展示室横の壁面を利用した展示プロムナード「原信太郎と鉄道史」は鉄道年表とリンクさせるかたちで原さんの趣味遍歴がビジュアルに綴られていますが、この年表を目にするとあらためてその趣味歴の長さが実感できるでしょう。

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▲ご自宅の工作室を再現した「模型工房」(左)と展示プロムナードの「原信太郎と鉄道史」の展示(右)。'12.6.20 
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第三展示室はその名も「ヴィンテージ・コレクション」。世界的な鉄道模型コレクターとしても知られる原さんご秘蔵の模型の数々をはじめ、東海道新幹線開業日の一番切符など、こちらも拘られた一番切符コレクションの数々も展示されています。

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▲原さんが小学6年生の時に初めて自作したという電気機関車。パンタグラフはドイツの模型をまねて針金で作ったものというが、この時からすでに架線集電が可能というから驚き。'12.6.20 
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▲室内の作り込みも尋常ではない。第一展示室の「原模型の真髄」では素材にまで拘った数々の作品を目にすることができる。'12.6.20 
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▲鉄のレールと鉄製の車輪に拘り、走行面でもより実物に近い惰力走行を可能にするパワートレーンや電気回路など、独自の開発を細かく見ることができる。'12.6.20 
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回廊状になった館内をさらに進むと急に目の前に展開するのが巨大な1番ゲージレイアウト「いちばんテツモパーク」。約30m×約10mの巨大なレイアウトには蒸気用路線1本、電気用路線3本、市電用路線2本が巡らされており、さらには頭上には可動するロープウェーまで配置されています。ストラクチャーもひとつひとつ見ていると切りがないほどで、その量感にはあらためてビッグスケールの魅力を再認識する思いでした。

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▲FS(フェッロヴィーエ・デッロ・スタート =Ferrovie dello Stato S.p.A.) E626クラス(1/32)の全容。開館特別企画「原信太郎の秘宝 FS E626展」としてオープンから9月2日まで多目的ルームで見学することができる。'12.6.20 
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▲FS E626は1928年から製造されたイタリア鉄道の直流3000ボルト、Bo-Bo-Bo軸配置の電気機関車。外部に面した開口部はすべて開閉可能で、運転室内の手ブレーキを巻き上げると各台車のブレーキもかかるという。パンタグラフだけでも部品点数650点、総部品点数9000点というから空前絶後。'12.6.20 
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"回廊"の最後にあたるのが「横浜ジオラマ」。鉄道創業期の横浜駅や馬車道などから現代の桜木町駅まで、こちらは16番のレイアウトで展開していますが、興味深いのは照明と音響の効果です。24時間を再現して朝から夜へと照明が変化するなかで、市街のざわめきから霧笛までそれぞれの時間にリンクして音響も変化し、模型が実に活き活きと語りかけてきます。

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▲作品ばかりでなく、世界的な鉄道模型コレクターとしても知られる原さんだけに展示品には超がつく貴重品が多い。写真はメルクリンが1919(大正8)年に製造したヴッパタールの懸垂電車模型で、現存品は世界唯一とされる。原さんが1980年代に有名な「クリスティーズ」のオークションに電話参加して落札したもの。'12.6.20 
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最後にあらためて原 信太郎さんをご紹介すると、1919(大正8)年のお生まれで御年93歳。コクヨ株式会社で開発 技術担当(のち専務)をお務めになり、在職中は世界初の立体自動倉庫などを開発。在職時には実に300を超える技術特許を得られ、退職後は新時代の科学技術研究者を支援するべく財団法人原総合知的通信システム基金を設立されています。鉄道趣味は模型のみならず切符のコレクションから海外の鉄道撮影にいたるまで多岐にわたり、ことに戦前から撮影されているとお聞きするムービーは、今や個人の趣味を超えて歴史的価値の溢れるものとなっているはずです。

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▲模型ばかりでなく洋の東西を問わず数々の実物部品も展示されている。右はイングリッシュエレクトリックのコントローラー。'12.6.20 
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ご子息お二人が副館長をお務めですが、そのお二人も幼い頃からいわば"英才教育"で育てられたようです。ここで言う英才教育はこと鉄道のことで、館内の展示によれば、ご長男は小学生の時、トーマス・クックの時刻表を読みこなせるようにトレーニングを受けられたとのことです。いわく、ハンブルクからマドリードへ行くルートを1分で調べて答える...海外の鉄道を知りたいがゆえに、バイリンガルどころか独学で英語、独語、仏語、スペイン語、ロシア語等々に通じた、まさに世界を知り尽くした原 信太郎さんならではのエピソードに思えます。

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▲模型ばかりか実は原さんは海外の鉄道撮影でも傑出した方。何と延べ380か国を撮影して回られたという(左)。右は横浜の今昔を再現した「横浜ジオラマ」(1/80)。中華街をはじめとした横浜の光景が24時間の変化を交えて展開する。'12.6.20 
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▲「横浜ジオラマ」の桜木町駅前。ジオラマ全体に配置されたフィギュアの数々が雰囲気を盛り上げる。'12.6.20 
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▲中華街では春節のお祭りも繰り広げられている(左)。横断歩道では青信号の音楽とともに歩行者が列をなして移動するギミックも。'12.6.20 
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内覧会に先立つ概要説明を、副館長でもあるご次男の原 健人さんは、父はいつまでも子ども心を忘れない。人一倍仕事もやり、かつ趣味を忘れない父の姿に、人生の豊かさとは何かを感じていただければ...と結んでおられました。

■原鉄道模型博物館
オープン:7月10日(火曜日)
開館時間:11:00~18:00(最終入館時間17:30)
休  館:毎週火曜日(祝日の場合は翌営業日に振替)
     年末年始(12月31日~1月2日)
     施設保守点検期間(2月上旬の約5日間を予定)
     ※開業初年度の夏休み、ゴールデンウィーク期間は無休予定
入館料金:大人     1000円
     中学・高校生 700円
     小人(4歳以上) 500円
     ※障害者割引 各300円(付添者1名まで同様)
ホームページ:http://www.hara-mrm.com

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▲「まほろばの緑道」として整備された旧高畠駅には、地元名産の高畠石で建造された駅本屋が残されている。特徴ある黄土色の外観はまさに威容。'11.7.24 
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3輌の保存車輌が残されている旧高畠駅でそれ以上に目立っているのが、1934(昭和9)年に建設された石造りの立派な駅舎です。高畠周辺は凝灰岩の一種である高畠石の産地で、駅本屋もこの高畠石で築造されたものだそうです。現在はただのモニュメントとなっていて内部は利活用はされていないようですが、整備された「まほろばの緑道」の絶好のランドマークとなっています。

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▲廃止間際の高畠駅前。駅舎は現状とほぼ同じであることがわかる。画面右に見える丸い郵便ポストは現在は駅本屋入口の横に移設されている。'73.8.17 P:澤田節夫 
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▲ホーム側から見た本屋。ホーム上屋も当時のままだが、展示線以外の線路は埋められて緑道となっている。'11.7.24 
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広々とした駅構内にはほかにも高畠石の建造物がいくつかあり、何とトイレまで立派な石積みなのには驚かされます。RMライブラリー『山形交通 高畠線・尾花沢線』(→こちら)によれば、高畠駅のほかにも西隣の竹ノ森駅駅舎がやはり高畠石で建設されたものだったのが写真とともに紹介されています。

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▲現在の展示線側から見た高畠駅本屋。右側の側線に押し込まれているのは尾花沢線から転入してきたハフ3。'73.8.17 P:澤田節夫 
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駅舎側のホーム横に保存されているのは電化時から高畠線の盛衰を見続けてきたモハ1。日本車輌製の13m車です。もともとは荷物合造のデハニ1で、1959(昭和34)年に西武鉄道所沢工場で更新改造を施した際に荷物室を撤去(RMライブラリー『所沢車輌工場ものがたり』参照→こちら)、その後はモハ1として廃線まで主力として働き続けました。

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▲高畠鉄道電化時からの生え抜きモハ1。残念ながら風雨で外板の傷みも目立つようになってきている。'11.7.24 
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▲モハ1の運転台。室内に入ることはできず、ガラスの反射を抑えながら車外からシャッターを切るしかない。'11.7.24 
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▲同じくモハ1の車内見通しと車体側面の社紋。モハ1は当初は荷物合造車デハニ1で、画面奥側に荷物室があった。'11.7.24 
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120617n006.jpgこの山形交通高畠線の保存車はほかにもED2とモハ2があり、これらはともに上山市の大規模遊園地リナワールド園内に保存されていますが、状態はあまり良くないようです。

▲モハ1の台車。ホイールベース1680㎜の軸ばね式。'11.7.24 
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山形交通高畠線が廃止されたのは1974(昭和49)年11月。廃止から38年を経て、さらには高畠線の起点であった奥羽本線の糠ノ目駅は1991(平成3)年に高畠駅と改名され、今では高畠駅というとJR線の高畠駅を指すことになってしまいます。JR高畠駅からは約3キロ。足の便も悪くなかなか行きづらい山形交通旧高畠駅ですが、これからの季節、「まほろばの緑道」をレンタサイクルで辿りながら訪ねてみるのも良いかもしれません。

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▲蝉しぐれの中、夏の日差しを浴びて佇む3輌の保存車。少々足の便は悪いが、訪れてみたい保存施設のひとつ。'11.7.24 
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▲旧高畠駅構内の「まほろばの緑道」に保存されているED1+ワム201+モハ1。緑道の一部として町が管理しており、経年の割には保存状態は悪くない。'11.7.24
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1970年代初頭まで、奥羽本線沿いには実に魅力的な地方鉄道が数多く存在していました。その中で山形県内には戦時中に高畠鉄道、三山電気鉄道、尾花沢鉄道を統合した山形交通が電化・非電化とり混ぜて個性豊かな3路線を運営しており、今でも往時の様子を懐かしく思い起こされる方もおられることと思います。

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▲1929(昭和4)年川崎車輌製のED1。現在上毛電気鉄道大胡車庫で保存されている旧東急デキ3021(→こちら)とは同形機。'11.7.24 
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3線の中で奥羽本線糠ノ目駅(現・高畠)から東側へと分岐していたのが高畠線です。詳しくはRMライブラリー82巻『山形交通 高畠線・尾花沢線』(→こちら)をご覧いただくとして、今回は線名ともなっている旧高畠駅跡に保存されている車輌たちをお目にかけることにいたしましょう。

120617n005.jpg旧高畠駅周辺の軌道跡は、廃止2年後の1976(昭和51)年度より1986(昭和61)年度にかけて高畠町建設課が都市緑地として整備を行い、「まほろばの緑道」として利活用を図っています。旧高畠駅構内も高畠広場として旧駅舎やホームが残されていますが、そのホームに寄り添うように電気機関車ED1と有蓋貨車ワム201、そして電車モハ1の3輌が保存されています。「まほろばの緑道」は1993(平成5)年からは大規模自転車道「米沢県南公園自転車道線」の一部にも認定されており、保存車輌もそれなりに注目されつつ、廃止から38年の歳月を過ごしてきたようです。
▲機器室側面に取り付けられた川崎車輌の銘板。'11.7.24 
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▲現役時代のED1。キャブ側面には切り抜き文字でED1の形式標記が付いているのがわかる。'73.8.17 P:澤田節夫 
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▲高畠駅で入換え作業に励むED1.高畠駅からは片倉工業両羽製糸所の専用鉄道が分岐しており、貨物の拠点としても賑わっていた。'73.8.17 P:澤田節夫 
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120617n003.jpg高畠駅は糠ノ目~二井宿間(10.6㎞)を結んでいた高畠線のほぼ真ん中に位置しています。高畠の地は明治の昔には東置賜郡の郡役場も置かれた米沢盆地の要衝で、製糸業とともに発展を遂げた地でもあり、かつては高畠線の鉄道貨物輸送の中心地でもありました。石造りの荘厳な駅本屋や広々とした構内はかつての栄華を偲ばせるものです。今回も澤田節夫さんからお借りした現役時代の写真を交えながら、高畠駅の保存車の往年の姿を振り返ってみたいと思います。
▲ED1とモハ1に挟まれるかたちで保存されているワム201。変哲のない有蓋車だが、出自は西武所沢工場製とされる。'11.7.24 
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▲高畠駅で離合する車輌たち。二井宿方から見た状況で、右端にはED1の姿も見える。'73.8.17 P:澤田節夫 
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▲伊勢志摩ライナー外観(赤色)イメージ(左)と伊勢志摩ライナー外観(黄色)イメージ(右)。 
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近畿日本鉄道は、2013(平成25)年の伊勢神宮式年遷宮に向け、リゾート特急23000系"伊勢志摩ライナー"を、1994(平成6)年の導入以来18年ぶりにリニューアルし、8月4日(土)から運行すると発表しました。

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▲リニューアル後の運転室とパノラマデッキの完成予想パース。 

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▲"伊勢志摩ライナー"の新ロゴマーク。

リニューアルでは、外観は「赤色」と「黄色」の2種類のカラーリングとし、伊勢志摩の太陽と日差しを表現。客室内は全ての車輌の内装を木目調に変更し、3列シート配置のデラックスカーでは、シート生地にベージュの織物を採用するほか、壁面に伊勢志摩産の真珠を用いた装飾品を配するなど、より上質で安らげる空間を演出する計画です。

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▲デラックスカー内装イメージ。左がリニューアル後、右が現行。 
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サロンカーでは、ハイバックシートに明るいピンクのシート生地を、座席間のテーブルに天然木を採用し、グループでの旅行をより一層楽しめる空間とし、また、レギュラーカーにおいてもシート生地を「伊勢志摩の海のさざ波」を表現した4種類の青色とし、リゾート感を一層高めるリニューアルが施されます。

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▲サロンカー内装イメージ。左がリニューアル後、右が現行。 
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▲レギュラーカー内装イメージ。左がリニューアル後、右が現行。 
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車内設備では、シートにコンセント(デラックスカー:各席1個、サロンカー:1ボックス2個、レギュラーカー:2席に1個)、全トイレに温水洗浄便座を設置し、2号車に車椅子対応の多目的トイレを新設するほか、6輌全席を禁煙として3号車に喫煙室が設置されます。

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▲リニューアル後の編成平面図。 
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▲4号車車端部のシーサイドカフェのリニューアル後の完成予想パース。 
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▲多目的トイレの完成予想パース。 
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120618n204.jpg23000系"伊勢志摩ライナー"リニューアル車は、8月4日(土)に第1編成(赤色)がデビューし、第2編成(黄色)は今年9月頃、第3編成(黄色)は今年12月頃、第4編成(黄色)は来年2月頃、第5編成(赤色)は来年6月頃、第6編成(赤色)は来年7月頃にそれぞれ運行を開始する予定で、最終的には6輌×6編成=36輌がすべてリニューアルされることになります。なお、工事費は1編成あたり約2億円、総額約12億円を見込んでいるそうです。
▲喫煙室の完成予想パース。 
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資料提供:近畿日本鉄道

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▲丸瀬布川を跨いでいた2号橋橋脚(写真①)。石北本線車内からも見ることができる。'11.9.25 P:真鍋 英(夢里塾) 
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昨年7月と9月に2回開催され好評を博した「武利意森林鉄道廃線跡ツアー」(アーカイブ「武利意森林鉄道廃線跡を歩く会」参照→こちら)が今年も開催されます。主催は遠軽町で地元丸瀬布地区の町おこしに取り組んでいる「夢里塾」で、遠軽町役場丸瀬布総合支所産業課が協力しています。第3回となる今回のツアーは貸切バスを利用してさらに遠い武利意幹線分岐停車場跡付近にまで足をのばす計画だそうで、オーラルヒストリーの聞き取りなど、一見では体験できないプログラムが盛りだくさんです。開催は来週土曜日(6月23日)。それではその概要をご紹介いただきましょう。

120615n012.jpg夢里塾主催 武利意森林鉄道廃線跡ツアーⅢ 概要
今年も夢里塾主催で武利意森林鉄道廃線跡ツアーを行うことになりました。昨年にひきつづき第3弾目となる今回は、昨年好評だった1号橋~いこいの森間の廃線跡に加え、武利意幹線24㎞地点の分岐停車場までをバスで巡る行程になりました。
見どころとしては、丸瀬布川に残る最大サイズの2号橋橋脚(写真①・②)。これは石北本線車中からも見ることが可能ですが、今回も少し残る林鉄線路の路盤上から見下ろす形で見学します。その後は付近の4号橋橋脚跡へ移動し、現役時代から橋のたもとで生活をしている高橋さんに語り部として当時の様子や林鉄で働いていた人たちの話などを語ってもらいます (写真③ ) 。
▲下から見上げた2号橋橋脚(写真②)。'11.9.25 P:真鍋 英(夢里塾) 
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▲現役時代を知る高橋さんのお話に聞き入る皆さん。 (写真③ )。'11.9.25 P:真鍋 英(夢里塾) 
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今回の最大の特徴はこの後の分岐停車場跡の見学です。こちらは、今年より道道1070号線の通行止区間が短縮になったことから実現となりました。分岐には残念ながら当時の遺構等はほとんど残っていませんが、郷土資料館に残る現役時代の写真を元に、現地を歩いてもらいます。山の雰囲気などから、写真が撮影された場所を特定することも行います。

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▲現役時代の分岐停車場(左)とその現状。背後の山の稜線は変わっていない。'11.11.20(右) P:真鍋 英(夢里塾) 
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分岐停車場までを往復した後は、いこいの森に入り雨宮21号に乗車。途中、現役時代の線路跡を使用している地点で途中下車をします。雨宮21号機関士の小山より現役当時の線路跡と遺構の説明を行います。昨年はDL牽引列車で途中下車を実施しましたが、今年は雨宮21号牽引を予定しています(写真④)。

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▲いこいの森の軌道で現役時代の線路跡をそのまま利用している箇所を見学する皆さん(写真④)。右は武利意幹線6㎞地点に残る遺構(写真⑤ )。'11.9.25 P:真鍋 英(夢里塾) 
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昼食の後は武利意幹線6㎞地点に残る築堤跡や遺構を散策して(写真⑤ )解散となります。
今回のツアーでは、出発前の概要説明時に今年新たに発見された林鉄の遺構や廃線跡等をパワーポイントで紹介する( ツアーでは立ち入り制限区域のため行くことができない ) レクチャーも加えています。
一人でも多くの方に、かつての森林鉄道のことやロマンを知っていただく機会になればと企画しています。ぜひともご参加下さい。

参加ご希望の方は、6月21日までに夢里塾事務局の只野さん(090-7516-6702)、もしくは伊藤さん(090-9512-1954)までご連絡くださいとのことです。

丸瀬布森林鉄道廃線跡ツアーⅢ プログラム
開催日 平成24年6月23日(土)
主 催 夢里塾
協 力 遠軽町役場丸瀬布総合支所産業課                          
1 受付&開会式(丸瀬布コミニュティーセンター:紋別郡遠軽町丸瀬布中町;支所隣り)
8:40~ 9:00  受付(住所氏名記入と参加費受領、資料配布)
9:00~ 9:05  歓迎挨拶
9:05~ 9:20  座学「丸瀬布の森林鉄道と北海道遺産雨宮21号の歴史」  パワーポイントの映像と資料使用
9:20~ 9:25  日程、行程、注意事項等の説明
2 森林鉄道武利意幹線(むりいかんせん)廃線跡ツアー(貸切バス利用)
9:30~ 9:45  森林鉄道武利意幹線起点の石碑と橋台を見学【水谷町】
9:50~10:10  丸瀬布川の鉄橋を支えた橋脚を見学【元町】
10:15~10:45  湧別川を支えた鉄橋の橋台と軌道(線路)跡見学&語り部による秘話と昔話【南丸ミナミマル】
11:10~11:50  分岐停車場跡等(水力発電所・給水所・築堤跡)見学【分岐ブンキ】
11:50~12:25   12時発の雨宮21号乗車、特別に途中下車して現在も使われている軌道跡の見学(現役機関士が解説)【森林公園いこいの森内】
12:30~13:10  昼食(やまびこ温泉にて各自注文:700円を超える分は自己負担)
13:20~14:10  昆虫生態館(学芸員解説)と郷土資料館をご案内
14:20~14:45  武利意幹線軌道跡の散策(約250m)【上武利カミムリ】
14:50~15:00  移動:丸瀬布コミュニティーセンターへ戻り到着後解散
3 注意事項、その他 
①危険を伴う場所もありますので主催者の指示に従って行動してください。また、ハチの活動が活発になる時期ですので、むやみにヤブの中に入ったりしないよう注意してください。
②このツアーを楽しくするためにも、興味のあることや分からないことは、主催者にお尋ねください。分かる範囲でお答えします。
◎参加費:大人2,000円、中学生以下の子供1,000円(バス代、昼食代、雨宮21号乗車券、昆虫生態館と郷土資料館入館料、記念品、保険料、資料代、会場費等)

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▲今年の調査で十の沢軌道の遺構がかなり残されていることが判明。'12.5.15 P:真鍋 英(夢里塾) 
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120615n006.jpg最後に、今年発見された十の沢軌道の線路遺構についてご紹介いたしましょう。
十の沢軌道
S.27敷設 ~ S.30撤去
武利意幹線27㌔地点より分岐。
総延長3.4㎞
現在は立ち入り制限区域となっているため、許可を得て2012年5月15日に調査。その結果山中より撤去されずに路肩に寄せられたレールを多数発見。林道に改良されてしまった区間についても、路肩のいたるところにレールが埋まっているという状況でした。林道に改良されていない場所では、まくら木に犬釘等が多数残存。路盤や掘割もはっきり残っており、ここが線路跡であったことが容易にわかる状態でした。また、完全な形で線路が残っている区間も数メートルあり、生い茂ってしまった笹や木々をよけてゲージを測ると、762㍉ピッタリに合うというサプライズもありました。軌道廃止から52年。このような形で線路が出てくるとは想像もつかず、調査メンバーの誰もが興奮しておりました。
▲すっかり変形してしまっているが、継目板も残るレール。'12.5.15 P:真鍋 英(夢里塾) 
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▲大自然の中に同化しつつある十の沢軌道の遺構。'12.5.15 P:真鍋 英(夢里塾) 
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▲ほぼ完全な状態で"発掘"された十の沢軌道の線路。メジャーをあててみると見事に762㎜ゲージをさした。'12.5.15 P:真鍋 英(夢里塾) 
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▲再び澤田節夫さんにご提供いただいた34年前の状況。行き違い設備で離合するのはまだ20000系に準じた"金太郎塗り分け"だった頃のコ11+コ21.'78.5.28 P:澤田節夫 
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現在使用されているコ11形+コ21形は1964(昭和39)年に導入された鋼索線としては3代目となる車輌で、前任の2代目は1953(昭和28)年製のコ1形でした。このコ1形はもちろん単車ですが、当時としては珍しいアルミ合金車体が使用されていました。いずれにせよ、時間軸から振り返ると、初代車輌が23年、2代目車輌が11年の現役期間だったのに対し、現車輌は48年もの長きにわたって現役を続けていることになります。

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▲こちらは現在の様子。いわゆる"つるべ式"(交走式)で、上下列車は必ず中間の行き違い設備で離合する。'12.6.11 
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▲山上の高野山駅に到着しようとする列車から536.3‰の勾配標識を見る。最急勾配は568.2%とされているが、その勾配標は見つけることができなかった。'12.6.11 
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20000系「こうや」の導入にともなって、その定員(約200名)を一気に運ぶべく2輌連結(最大乗車人員261名)となったコ11形+コ21形ですが、導入にともなって当然運転設備の増強が必要となり、巻上装置も当時としては日本最大級の出力400kWのもの2台に交換されています。

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▲34年前のコ21形の車内。ホーム部分の勾配は比較的緩いため、駅に停車中の車内はかなり傾いている。'78.5.28 P:澤田節夫 
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▲高野山駅に到着したコ12+コ22。鋼索線の運転は基本的に鉄道線との接続を前提にダイヤが組まれている。'12.6.11 
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120613n007.jpgこの巻上機は高野山駅の巻上機室に設置されており、1020mある鋼索のうち約300mを3個の索輪に巻きつけて駆動しています。ケーブルを巻き上げる従索輪は何と5mもあるそうです。ちなみに最急勾配の562.8‰(傾斜角29.22度)はこの高野山駅の構内にあります。
▲高野山駅の駅名標。標高は867m、駅番号はNK87。'12.6.11 
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▲高野山駅は1926(昭和3)年の鋼索線開業時からほとんど変わっていない。2005年には登録有形文化財に指定された。'12.6.11 
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▲34年前の高野山駅。洋風木造二階建ての本屋に寺院風の屋根が誂えられている。'78.5.28 P:澤田節夫 
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高野山駅は開業時のままの姿を残し、登録有形文化財にも指定されていますが、2009(平成21)年にはケーブルカーの駅としては西日本で初めてエレベーターを設置し、またICカード対応自動改札機を設置するなど、レトロな外観とは違って時代の要請にマッチした対応がなされているのも記憶に残りました。なお、高野山の中心部はこの高野山駅から3キロ以上離れており、ケーブルカーのダイヤと合わせて南海りんかんバスが接続運転を行っています。2015年は高野山開創1200年。鋼索線もさぞや賑わいを増すに違いありません。

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▲中間の行き違い設備で離合するコ11+コ21(前方)とコ22+コ12。距離にして0.8㎞、乗車時間もわずか5分ほどだが、最急勾配586.2‰は感動もの。'12.6.11 
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先週は宮武浩二さんがお送りくださった摩耶ケーブルのレポートをご紹介いたしましたが、一昨日は「高野山ケーブル」こと南海鋼索線に乗車する機会がありましたのでご報告いたしましょう。極楽橋と高野山間を結ぶこの鋼索線は実質上「高野線」の一部で、一昨年の「高野線全線開通80周年」でも、この鋼索線開通をもって「全線開通」としております。ちなみに起点は先日ご紹介した汐見橋駅(アーカイブ「南海汐見橋支線を歩く」参照→こちら)で、今回ご紹介する極楽橋-高野山間をもって小ブログで「高野線」の両端をご案内できたことになります。

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▲鉄道線極楽橋駅とは不動谷川に架かる連絡通路を隔ててつながっており、中間改札などもなくほぼすべての乗客が鋼索線へと乗り継いでゆく。左手奥の鉄道線ホームに「天空」が見える。なお、1964(昭和39)年に鋼索線にコ11形+コ21形を搬入する際は極楽橋まで貨車輸送し、この連絡通路を人力で移動させたというから驚く。'12.6.11 
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高野山電気鉄道が極楽橋駅まで延伸開業したのが1929(昭和4)年2月。鋼索線はその翌年、1930(昭和5)年6月に同社の手によって開業しています。距離は0.8㎞に過ぎないものの、その標高差は実に329m、最急勾配562.8‰は高尾登山電鉄(608‰)、立山黒部貫光(587‰)に次ぐ急峻な軌道です。『鉄道要覧』によれば免許年月日は1924(大正13)年4月8日。急峻な斜面を這い登るような路線の建設工事は難航を極めたと伝えられています。

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▲鋼索線極楽橋駅ホームの今昔。旧写真は澤田節夫さんからご提供いただいたもので、ホーム構造そのものは34年前とほとんど変わっていないことがわかる。なお、コ22の塗り分けは20000系に準じていたが、30000系登場時に同系に合わせて変更された。'12.6.11/'78.5.28 P:澤田節夫 
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世界遺産にもなっている高野山は金剛峰寺を中心として山上に発展した町で、現在でも人口四千人規模の、大学まであるいわば都市です。しかし、あくまで聖域ゆえ、その結界を越えて線路を敷設することはかなわず、高野山駅は大門まで3キロ近くを隔てた位置にあります。それでも"下界"と町を結ぶ唯一の近代交通手段として、鋼索線は高野山を目指す人々ばかりか住民にとっても欠くことのできない足となっています。

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▲路線は直線かと思いきや意外とカーブ区間も多い(左)。右はコ21形の車外に取り付けられた「昭和39年 日立製作所」の製造銘板や検査標記板。定員は130人で、コ11形と合わせて20000系「こうや」のフル定員を収容できた。'12.6.11 
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興味深いのは極楽橋駅で、鉄道線の終点である極楽橋駅周辺には商店どころか建物さえ見当たらず、その由来ともなった極楽橋を見学する観光客以外はまず下車することはありません。つまり橋本方面から極楽橋駅に降り立った旅客はまず間違いなく鋼索線に乗り換えるわけで、その点が鉄道線と一体化して「高野線」と捉えられている所以でもあります。

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▲極楽橋を発車した列車後部より鋼索線極楽橋駅ホームを見る。'12.6.11 
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現在運行されているのは1964(昭和39)年日立製のコ11形(山上側)+コ21形(山下側)で、鋼索線としては3代目となります。特筆すべきは鋼索線としては珍しく2輌連結となっている点で、これは上記のように極楽橋での下車客がまったく想定できないことから、「こうや」号で到着した乗客すべてを収容できるキャパシティーが求められたことによるものです。

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和田岬線は今...。(下)

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▲日曜日の和田岬駅発の列車は7時27分発と17時26分発の2本のみ。2本目の536Mは乗客もまばらで、夕日の差し込む車内はまるで時間が停まったかのよう。'12.5.27 
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西日に照らされて日曜日最後の下り535Mが和田岬駅に到着したのが17時18分。8分ほどの停車で6連の103系R1編成は17時26分発536Mとなって兵庫へと折り返します。

120609n001n.jpgたった一駅、2.7㎞の折り返し運転ですが、和田岬線はワンマン化されておらず、運転士さんと車掌さんが乗務しています。また、無人の和田岬駅には自動改札機や券売機は設備されておらず、すべて兵庫駅の和田岬線専用ホームに設けられた中間改札が対応するかたちとなっています。つまり、和田岬からは乗車した場合はこの兵庫駅中間改札の自動券売機で和田岬駅からの乗車券を購入する、もしくはICカード対応改札機で乗車記録をメモリーすることになります。ちなみに、発駅が無人駅の乗車券というのもめったにお目にかかれるものではありません。
▲和田岬駅には出改札はなく、無札で兵庫駅まで来て本線への乗り換え改札で乗車券を購入する。額面はちゃんと和田岬となっており、下に無人駅を示すいわゆる"マルム"の表記が見える。余談ながらこの乗車券は下車駅で集札されてしまったが、この画像はその前にコンパクトデジタルカメラで撮影しておいたもの。'12.5.27 (画像の一部を加工しています) 
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▲御崎公園に近い御崎本町踏切は和田岬線で最も大きな踏切で、計8本の遮断竿が備えられている。'12.5.27 
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▲兵庫起点1.6㎞地点には唯一の中間駅である「鐘紡前」駅があった。戦後間もなく休駅となり、1962(昭和37)年3月に正式に廃止されたが、良く見ると踏切横に現在でもホームの痕跡を見ることができる。画面前方が兵庫方。'12.5.27 
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ほとんど回送状態のまま定刻17時26分に和田岬駅を出た列車はほぼ直線の単線線路をゆっくりと進み、兵庫運河に架かる例の和田旋回橋を渡りますが、その手前、兵庫起点1.6㎞付近の進行左側にわずかに広いスペースが認められます。和田岬線のトワイライトゾ~ンのひとつ、戦後直後に休止となった「鐘紡前」駅のホーム跡で、20年ほど前までは判然ホームが認められたものの、現在では土塁は完全に崩されて、コンクリートの基礎の一部が残されているのみとなっています。

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▲536M後部から見た川崎重工業車両カンパニー兵庫工場への分岐部。ポイントが特殊な構造になっているのにも注意。'12.5.27 
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▲同じく536M後部から兵庫駅構内に入るシーサスクロッシングを見る。左前方が和田岬方。右への単線分岐は訓練用の小運転線。'12.5.27 
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兵庫駅手前の車窓左側には川崎重工業車両カンパニー兵庫工場の巨大な工場群が広がっており、専用側線が分岐しています。昭和58年版「専用線一覧表」(『トワイライトゾ~ン・マニュアル6』所収)によれば総延長キロ0.1ながら「専用鉄道」で、国鉄機作業キロは0.6、自社機作業キロは0.1と記載されています。いずれにせよ多くの新型車輌がこの門を通って甲種輸送されるわけで、和田岬線はこの川重からの出荷線としての重責も担っているのです。

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▲兵庫駅の今昔。24年の歳月にはあの阪神淡路大震災もあり、周囲は信じられないほどに変貌してしまった。'12.5.27/'88.3.20 
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神戸市の矢田市長はやはり昨年2月21日の定例記者会見で、和田岬線のこの川重分岐から先の廃止に言及されており、その後の運河を利用した産業観光の一環として「神戸に来られた方々が、例えば産業観光に行きたいというときに、船に乗っていただいて、運河の中を通って、川崎重工業の車両工場に横づけをすれば、そこから上がればすぐに車両工場に行けます。そのような形で新幹線のつくっているところや、他の車両をつくっているところをご覧いただけるという、他の地域では見られない産業観光が成立するのではないかと思います」と語られています。

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▲和田岬線のホームはいわば中二階に位置し、写真前方の中間改札を通って乗り場へ進む。ただし、列車の運転がない時間帯はロープで閉ざされておりホームに入ることはできない。'12.5.27 
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▲バリアフリー化のための和田岬線専用エレベーター(左)と、本線ホーム上の乗り換え表示。「和田岬線」の名称が公に使用されている。'12.5.27 
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▲ホーム上屋がその歴史を感じさせる兵庫駅ホーム。和田岬線ホームは画面左下あたりに位置し、前方左手へと分岐してゆく。'12.5.27 
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ところで和田岬の地は現在放映中のNHK大河ドラマ「平清盛」所縁の地でもあるそうで、市営地下鉄構内には近隣スポットの案内図が掲出されています。運河と埠頭に支えられた工場地帯として栄えてきた和田岬の地が"ウォーターフロント"としてこれからどのように変わってゆくのか、そしてその中で和田岬線は果たしてどうなってゆくのか、遠からずまた訪ねてみたいと思います。

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和田岬線は今...。(中)

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▲以前はコンクリート造の駅舎があった和田岬駅も今ではホームの一部に屋根があるのみ。網干総合車両所所属の唯一の103系6連が往復する。'12.5.27 
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現在、この和田岬線で運用されているのは網干総合車両所明石支所の103系R1編成(Tc247+M389+M'545+M397+M'553+Tc254)。青色22号を纏うこの103系は和田岬線専用で、本編成が検査入場した際などは同所の207系が代走することとなります。

120607n106.jpg前回、と言っても24年前の訪問時に使用されていたのは、座席の大半を撤去して片側の車体側面中央に外吊りの引き戸を設けた和田岬線専用の旧型客車オハ64形とオハフ64形で、デッキ部の間仕切り壁まで撤去された究極のスパルタンな姿に圧倒されたのを鮮明に覚えています。古くからこの和田岬線にはいわば封じ込められた珍車が棲息(?)しており、『国鉄時代』vol.8では「港神戸の小粋な機関車」と題して髙橋 弘さんが和田岬線で最後の活躍をするB50形をご紹介下さっています(→こちら)。明治生まれの6700形を過熱式改造したB50形は鷹取機関区所属で、国鉄機で"B"を名乗るのは梅小路蒸気機関車館でも見られる無煙化直前まで生き残ったB20形のほかは、1950年代に形式消滅してしまったこのB50形とB10形の計3形式のみでした。
▲「兵庫-和田岬」と一駅だけの運行区間を表示した側面の方向幕。'12.5.27 
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▲全盛期の和田岬線。新川ジャンクションより分岐した兵庫臨港線は第一から第三突堤へと櫛の歯のようにのびており、神戸市場貨物駅も見える。また和田岬駅手前には戦後直後に休止となった「鐘紡前」駅の配線も表記されている。 

専用客車オハ64形・オハフ64形に代わって1990(平成2)年10月から和田岬線に投入されたのがキハ35形300番代とキクハ35形300番代でした。ともにホームと逆側の扉を中央の一か所を残して撤去したこれまた珍車で、こちらは2001(平成13)年7月1日の電化時まで十年あまりにわたって活躍を続けました

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▲折り返しを待つ車内から和田岬駅の駅名標を見る。'12.5.27 
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▲クハ103-254の車内。この103系R1編成は和田岬線専用で運用されており、車内には広告類も一切掲出されていない。'12.5.27 
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和田岬線の見どころのひとつに兵庫運河を跨ぐ和田旋回橋があります。山陽鉄道が建設したわが国初の鉄道用旋回橋で、竣工は1899(明治32)年。煉瓦造の橋脚を支点として上路プレートガーダー部が旋回して船舶の航行を可能とするもので、小振りな橋梁ながら模型的にも興味深いものです。

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▲和田岬駅を発車した536M車内より和田岬駅ホームを振り返る。画面左の空き地はかつての機回し線の跡。'12.5.27 
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姉妹ブログ「台車近影」でもこの和田旋回橋が詳しく取り上げられていますが(→こちら)、和田岬線存廃問題にはこの和田旋回橋が兵庫運河を分断していて"ウォーターフロント"開発の妨げになっているとの論点も挙げられています。残念ながら橋梁の近くに接近することはできませんが、和田岬線を訪ねた折にはぜひともこの和田旋回橋も見学されることをおすすめしたいと思います。

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▲兵庫運河に架かる和田旋回橋。残念ながら現在では固定されてしまっている。'12.5.27 
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▲536M車内から和田旋回橋を見る。橋長15.5mと小ぶりで、乗車しているとほとんど気づかない。'12.5.27 
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※11日(月曜日)は出張のため休載させていただきます。

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和田岬線は今...。(上)

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▲和田岬駅の定点観測。機回し線は撤去されたが周囲の状況は意外に変わっておらず、左後方の三菱重工業神戸造船所の工場建屋や、木に隠れているものの画面右の3階建ての建物などは変わっていない。'12.5.27/'88.3.20 
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先日大阪方面に出張した際に、ひさしぶりに「和田岬線」をのぞいてみました。ひさしぶりと言っても、前回訪れたのが24年前の1988(昭和63)年3月のこと。まだDE10が旧型客車を牽引していた頃ですから、さながら浦島太郎といったところでしょうか。

120607n002.jpg山陽本線の兵庫駅と海沿いの和田岬駅を結ぶ全長2.7㎞の「和田岬線」は、正式には山陽本線の一部で、山陽鉄道が建設時に兵庫港に陸揚げされた資材を運搬するために敷設(1888年)したというたいへん古い歴史を持っています。しかし、一時はさながら熊手のように多くの専用線を擁して港湾荷役の要として機能していた和田岬線も、現在では川崎重工への引き込み線を残してほとんど棒線状態で、通勤客以外はまず利用しない盲腸線となってしまっています。時刻表を見ても平日こそ17往復(土曜日は12往復)の列車が設定されているものの、日曜日は何と一日2往復! もちろん貨物列車もありませんから、旅客営業線としてはJR・私鉄を通して最も列車密度が低いことになります。
都会に息づく究極のローカル線をのぞいてみたい...そんな下世話な興味もあって、あえて日曜日の夕方に訪問してみることにしました。
▲和田岬駅の発車時刻表の日曜日の欄には7時27分発と17時26分発の2本の記載しかない。'12.5.27 
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▲三菱重工業神戸造船所前からJR西日本と神戸市営地下鉄のふたつの和田岬駅を見る。かつて和田岬線はそのままのびて三菱重工業への専用線としてこの通りを横断しており、さらに1971(昭和46)年まではその上に跨線橋が架かり神戸市電が走っていた。(RMライブラリー『全盛期の神戸市電』参照) '12.5.27 
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24年前の訪問時と大きく変わったのは、走っている車輌ばかりでなく、和田岬駅を取り巻く交通環境そのものです。なによりも2001(平成13)年7月に開業した神戸市営地下鉄海岸線和田岬駅の影響が絶大で、今や市営地下鉄和田岬駅の利用者の方がJR和田岬駅利用者をはるかに上回っています。三宮(三宮・花時計前)と新長田を結ぶ市営地下鉄海岸線は平日117往復、土休日でも107往復のフリークエンシーを誇り、和田岬駅へは三宮(三宮・花時計前)から9分、新長田からは6分という便利さです。これでは和田岬線が太刀打ちできようはずもなく、当然のように廃止の声が聞こえ始めることになります。

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▲地形図に見る現在の和田岬周辺。三宮から新長田へウォーターフロントを巡るような路線形状で市営地下鉄海岸線が見える。いっぽう、JR和田岬線は兵庫運河の中央部を横断している。(国土地理院「電子国土」より) 
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▲神戸市営地下鉄海岸線の和田岬駅。近代的な地下駅は地上のロケーションをまったく予想させない。ちなみに市営地下鉄構内の案内図にJR和田岬駅の記載はなかった。'12.5.27 
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ところが前代未聞なのがその廃止の声がなんと神戸市自体から上がってきていることです。多くの場合、鉄道事業者が廃止の方針を表明し、地元自治体が反対するというのが見慣れた図式ですが、ここ和田岬線の場合はまったく逆。本数こそ少ないものの安定的な定期券収入もあって収支的には成り立っているJRと、競合する市営地下鉄海岸線を運営する神戸市、ここではその利害が逆転してしまっているというわけです。

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▲一日2往復のうちの1本、536Mが発車を待つ夕暮れの和田岬駅。平日の通勤ラッシュを除けばご覧のような閑散ぶり。'12.5.27 
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もともと市営地下鉄海岸線の事業計画は和田岬線の廃止を前提として組み立てられており、現状でも和田岬線より利用客は格段に多いとはいえ、海岸線の利用客数が予想を大きく下回っている現状では、神戸市としても背水の陣を敷かざるをえないのでしょう。さらに神戸市の矢田市長は昨年の定例記者会見で兵庫運河を核としたウォーターフロント構想を説明されたうえ、運河を横断している和田岬線の撤去は計画の遂行に是非とも必要と力説されています。いずれにせよ、神戸市が廃止を求める要望書をJR西日本に提出している以上、遠からず新たな動きがあるに違いありません。

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▲和田岬駅の定点観測。頭端式ホームの駅舎は跡形もなく、同一地点とは思えないが、背後のビルの屋上形状でかろうじてほぼ同じ立ち位置とわかる。'12.5.27/'88.3.20 
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▲田んぼの水鏡にEF81の文字が光る! '12.5.17 撮影:鈴木敏行 クリックすると再生画面に移行します。

動画提携先を株式会社CMerTV様に変更することで更新を停止していた「今日の一枚 The Movie」ですが、5月31日より更新を再開いたしました。
今回の更新再開にともないアドレスも変更となりましたので、お手数ですがブックマークをされている方はまずは変更をお願いいたします。
新しいアドレスはこちら↓
http://rail.hobidas.com/movie2012/

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▲鉄道ホビダスのトップ画面。従来通り、トップの1点はトップページでも閲覧可能。 
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おかげさまで「鉄道ホビダス」も7周年。スチル版の投稿型ブログ「今日の一枚」の動画版として「今日の一枚 The Movie」がスタートを切ったのが2008年11月ですが、今までに実に2,198点もの動画を掲載してまいりました。新型車輌の運転開始や名列車の廃止といった時代を象徴する走行シーンをはじめ、心温まるワンシーンまで、お仕事の合間に、ご帰宅後の寛ぎのひとときに楽しみにしておられる方も少なくないことでしょう。提携先移行にともなう技術的課題もあって少々休止期間が長くなってしまいましたが、これからは従来以上に視聴環境が改善されるはずです。なお、従来の動画アーカイブも順次提携先へ移行してまいりますので、今しばらくお待ちください。

更新再開後の視聴環境は次の通りとなっています。
【Windows】
OS:Microsoft Windows XP SP2以上
ブラウザ:GoogleChrome 最新版(動作保証:IE7/IE8/FireFox 6以降)
ソフトウェア:Adobe Flash Player 10.0.32以上
設定:JavaScript ・ Cookiesが有効

【Mac(OSX)】
OS:OS X 10.4以上
ブラウザ:GoogleChrome 最新版(動作保証:Safari 5.1以降/FireFox 4以降)
ソフトウェア:Adobe Flash Player 10.0.32以上
設定:JavaScript ・ Cookiesが有効

■ハードウェア推奨環境
【Intel】
・Core2Duo以降

■通信回線推奨環境
・ブロードバンド回線(ADSL以上)

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▲「今日の一枚 The Movie」のトップページ(6月5日時点)。再生画面は以前よりもワイドに。 
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更新再開した「今日の一枚 The Movie」では、引き続き皆さんからの投稿をお待ちしています。お送りいただいた動画は、一度編集部にて確認のうえアップロードいたします。
なお、投稿動画はMotion JPEGの動画圧縮形式には対応しておりませんので、予めご了承願います。また1ファイルの容量は100MB以内にしていただくとともに、BGMの挿入はご遠慮いただけますようお願い申し上げます。

投稿フォームはこちら↓
https://rail.neko.co.jp/upload/


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▲下り列車から途中の交換施設を見る。対向列車は2号車「にじあじさい」。'12.6 P:宮武浩二 
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交換駅の手前に廃駅のようなホームがあります。続いて高尾隧道を越えた交換駅にも使われなくなったホームが両側にあります。さらに「虹の駅」の手前にも荒廃したホームがあります。これらはおそらくは開業当時のものと思われますが、もともとは駅なのか施設なのかは分かりません。

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▲こちらは上り列車の車内から見た交換駅。この付近は250%とまだ勾配は緩い。'12.6 P:宮武浩二 
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▲交換駅手前に見られる謎のホーム(?)。階段状のホームが風雨でかなり浸食されている。戦前の遺構であろうか...。'12.6 P:宮武浩二 
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▲ケーブル駅と交換駅との間に残る謎のホーム跡(左)と、虹の駅手前の謎のホーム跡(右)。'12.6 P:宮武浩二 
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山上駅となる「虹の駅」には巻上機が設置されており、立派な鉄筋コンクリートの駅舎がそびえ立っています。駅構内には、ケーブルのロープとレール、滑車などが展示されており、これらは手で触れることも出来ます。

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▲虹の駅駅舎。ここから「星の駅」まではロープウェーによって結ばれており、現在は両者を合わせて「まやビューライン」と愛称されている。'12.6 P:宮武浩二 
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▲虹の駅で発車を待つ2号車「にじあじさい」(左)。右は虹の駅の案内表示。'12.6 P:宮武浩二 
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以前はこの駅から現在は廃墟になっている「摩耶観光ホテル」への道もあったようですが、今は閉鎖されています。ここから「星の駅」までは徒歩3分ほどでたどりつきます。この「星の駅」には摩耶ケーブルとロープウェーの簡単なルート図、勾配図が設置されているので必見です。

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▲虹の駅に掲げられている線路縦断面図。603m地点からの勾配は何と547‰! '12.6 P:宮武浩二 
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▲虹の駅に展示されているケーブルとレール(左)と滑車(右)。'12.6 P:宮武浩二 
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ケーブルカーを見てみると、比較的小型ながら勾配がきついため車体も他社のケーブルカーより角度が大きいようです。1号車は「ゆめあじさい」という名称で、車内は薄いピンク色に統一されています。2号車は「にじあじさい」という名称で車内はイエローに統一されています。元は片側3扉であったようですが、現在は中扉は埋めこまれています。

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▲虹の駅に到着する2号車「にじあじさい」。標高は451mあまりで、麓の摩耶ケーブル駅とは300m以上の標高差がある。'12.6 P:宮武浩二 
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皆さんもぜひ、都心に近く、つい忘れがちな場所にある「摩耶ケーブル」を訪ねてみられてはいかがでしょうか。これからの季節は沿線に「紫陽花」が咲き誇るそうです。

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▲新緑から次第に夏を感じさせる濃緑へと変わりつつある森を縫うように2号車「にじあじさい」が行く。'12.6 P:宮武浩二 
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ちょうど一年前にも屋島ケーブルと八栗ケーブルの話題(アーカイブ「屋島と八栗 ふたつのケーブル」参照→こちら)をお送りくださった宮武浩二さんから、山陽新幹線新神戸駅にも近い摩耶ケーブルの現況をお寄せいただきました。

120604n022n.jpg先日、神戸市都市整備公社が運営する「まやビューライン」摩耶ケーブルを訪ねました。昨年路線の廃止が取りざたされて以来、存続か廃止か注目が集まっていましたが、現在では神戸市が存続することを表明したので、まずは一安心です。ちなみに「まやビューライン」はケーブルとロープウェーを一体で表現した公式名称です。
▲起点となっている摩耶ケーブル駅(旧高尾駅)。'12.6 P:宮武浩二 
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運行は登山口となる「摩耶ケーブル駅」と「虹の駅」間をケーブルが結び、「虹の駅」から「星の駅」までをロープウェーでリレーして山上に到着します。ケーブルカーの歴史は古く1925(大正14)年に「摩耶鋼索鉄道」として開業、戦時中の休止を経て、1955(昭和30)年に運転再開した際に、ロープウェーも開業しました。現在運行中の車輌もそのときのもので、車体には「昭和30年日立製作所」の製造銘板が付いています。

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▲摩耶ケーブル駅で発車を待つ1号車「ゆめあじさい」。'12.6 P:宮武浩二 
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▲1号車の銘板(左)と2号車の銘板(右)。ともに1955(昭和30)年日立製作所製と結構な年代モノ。'12.6 P:宮武浩二 
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1995(平成7)年1月に発生した阪神大震災で大きな被害が出て、休止を余儀なくされましたが、2001(平成13)年3月から神戸市都市整備公社が施設を譲り受けて現在に至っています。

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▲カエルのような、なんともひょうきんなヘッドライトとテールライト。これは2号車「にじあじさい」のもの。'12.6 P:宮武浩二 
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路線は日本のケーブルカーとしては屈指の勾配で、今回、その勾配を体験したいと思い乗車しました。摩耶ケーブルへの交通手段は市バスで「摩耶ケーブル下」下車が便利です。バスを降りると観光地にありがちな「みやげ物店」も無く、駅周辺は宅地化が進んで、とてもこのあたりから登山鉄道が運行されているとは思えない雰囲気です。なお、現在の運行は朝10時から20分間隔で、片道430円です。

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▲車内を見る。これは1号車「ゆめあじさい」の車内で、ピンク色が基調となっている。'12.6 P:宮武浩二 
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120604n001n.jpg摩耶ケーブル駅を出発すると、すぐに2軸のトロッコが見えます。保守用のトロッコのようですが、使用するときはウインチで吊り上げて線路上に降ろしてケーブルカーに連結するようです。ただ、このトロッコには連結器が見えないので、ケーブルカーの前に置いて押し上げるのでしょうか? いずれにせよ、そんな点でも興味が尽きません。
▲勾配が他のケーブルと比較してもきついため、車内の傾斜もかなりのもの。'12.6 P:宮武浩二 
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▲摩耶ケーブル駅に留置されている2軸の貨車(?)。自重1.1t、荷重2t、1961(昭和36)年4月製の標記が見られる。この留置されている姿からも如何に勾配がきついかが伺い知れる。'12.6 P:宮武浩二 
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大阪馬車鉄道の碑を見る。

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▲東天下茶屋のホーム端にひっそりと建つ「馬車鉄道跡」の碑。'12.5.28 東天下茶屋 
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昨年12月1日に阪堺線(恵美須町~市之町/現・大小路間)開通100年を迎えた阪堺電気鉄道(アーカイブ「阪堺線開通100周年記念行事より」参照→こちら)ですが、去る4月1日には今度は全線(恵美須町~浜寺駅前間)開通100周年を迎え、華やかに記念セレモニーがとり行われました。

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▲石碑の背後には来歴を地図入りで解説した説明看板も建てられている。'12.5.28 東天下茶屋 
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120601n003.jpgこのように阪堺線は1910(明治43)年3月に設立され、1911(明治44)年12月1日に営業を開始した旧阪堺電気軌道株式会社が起源となっていますが、もうひとつの上町線(天王寺駅前~住吉公園間)の方はさらに古く、そのルーツは1897(明治30)年5月に設立された大阪馬車鉄道株式会社にまで遡ります。
▲説明看板のアップ。大阪馬車鉄道の起点・天王寺西門前は現在の天王寺駅前からさらに北進し、谷町筋と国道25号線の交差点付近だったという。'12.5.28 東天下茶屋 
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▲住吉公園方から見た「馬車鉄道跡」の碑。日常風景の中に溶け込いる。'12.5.28 東天下茶屋 
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上町線の東天下茶屋駅構内にこの大阪馬車鉄道を顕彰した碑があると聞き、先日、大阪方面に出張したついでに立ち寄ってみました。お目当ての「馬車鉄道跡」の碑は天王寺駅前方面行きのホーム端に建てられており、一見では気づかないほどひっそりとしたものでした。

120601n005.jpg碑そのものは2000(平成12)年3月に大阪市が建立したもので、背後には地形図を伴った解説看板も設置されています。この解説には...
「馬車鉄道跡
明治三〇年(一八九七)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三三年に天王寺西門前から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。
この馬を操る人をベット(「別当」=ここでは馬の口取りの意)といい、尻取り歌にも「走るはベット、ベットは偉い...」などと歌われた。
その後、沿線一帯の開発とともに、電化の計画が立てられ、同三九年三月に社名を大阪電車鉄道株式会社と改め、さらに同年一〇月、浪速電車軌道株式会社と改称し、同四一年にいたって馬車鉄道は廃止されることになった。同四三年から天王寺西門前から住吉前までの電化による営業が開始された。これが現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。
大阪市教育委員会」

と記されています。 
▲石碑の背面には「平成一二年三月大阪市建立」の文字が見える。'12.5.28 東天下茶屋
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▲古き佳き佇まいを残す阪堺線の起点・恵美須町駅。木造二階建てのかつての信号扱所(アーカイブ「阪堺電軌モ163に出会う」参照→こちら)も健在。'12.5.29 恵美須町 
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明治末には全国に40路線以上が存在した営業用馬車鉄道(軌道)も、その多くが大正から昭和初期に機械動力化され、輸送量の増大した都市部では電化される例が少なくありませんでした。都電の前身も東京馬車鉄道でしたし、札幌市電、函館市電などもそのルーツは馬車鉄道でした。しかし、原点ともいえる馬車鉄道が顧みられることはほとんどなく、その意味でも、近年建立されたこの「馬車鉄道跡」の碑は特筆されるべきものと言えましょう。

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